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前回は赤沼信号場跡について記した。前回の探訪の後に、付近を通った際にまた現場を歩いてみた。田んぼの畔にニョキッとコンクリートの四角いものが、2つほど。用地界標だろう。国鉄を示すエの文字がハッキリわかる。(1枚目は松島方から利府方を望む。画像左手が仙台松島道路、奥が仙台方面。2枚目は拡大。)■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・今回 利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.05.26
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松島第五小学校の入口に、どんぐりころころの碑。青木存義(ながよし)を顕彰する碑です。(学校敷地の外から写真を撮っております。)碑には、どんぐりころころ(青木存義作詞、梁田貞作曲)の歌詞。そして後半に青木存義先生略歴があります。以下の通り(一部漢数字をアラビアに)。------------青木存義先生略歴正三位勲四等文学博士青木存義先生は当町の名門青木存頼殿の三男として明治12年松島町幡谷のこの地に生まれる明治39年東京帝国大学国文学部を卒業し東京音楽学校教授文部省図書編集課長を経て新潟高等学校長拝命昭和10年4月没す享年57歳先生は文部省在職中の大正年間に「どんぐりころころ」「菊の花」「さくら」など文部省唱歌を数多く作られた殊にどんぐりころころは先生がふるさとこの地での幼き日を偲び作詞されたもので広く全国の幼児や児童に親しまれ現在も愛唱されているこのたび松島町及び幡谷上竹谷地区どんぐりころころ碑建設委員会を設けて先生のご功績を顕彰しここに記念碑を建立してその遺徳を後世に伝える昭和62年3月3日撰並書 松島町長武山仁治------------松島町公式サイトに説明があります。
2024.05.25
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前回では(利府方から)旧線ルートをたどって、葉山団地南入口の交差点まで来た。更に松島方(北東)に進む。(写真1)奥が松島方。画の左に県道8号(利府街道)、右手は仙台松島道路(三陸道)。旧線路は現在の砂利道になっているが、三陸道の築堤で微妙にずれているようにも思われる。しばらく行くと、旧ルートの砂利道は明らかに幅が広くなって、県道8号(利府街道)の丁字路から高速道をくぐって浜田に向かう町道と直交する。交差点の先もしばらく幅が広い区間となる。赤沼信号場の跡だろう。(写真2)奥が松島方。撮影に立った地点あたりから松島方に100mほどか、現道が広くなっている。(写真3)少し進んでから、振り返って利府方を望む。旧信号場の中央部に立っていると思われる。(写真4)これは信号場施設の名残か。写真3のトラクタの辺りから利府方を望んでいる。旧線の西側に立っている。(写真5)写真4撮影地点に近い現道の中央には、石が露出。信号場の施設の基礎か。画の奥が三陸道(か左が石巻方面)。このような石が幾つかあった。赤沼信号場跡から更に先に(北東)進むと、砂利道は県道8号(利府街道)の丁字路(名取商店)から来る狭い道と交差し、その先(大一木材)で見えなくなる。仙台松島道路(三陸道)松島海岸ICを造ったためだ。(写真6)この画の先(松島方)で旧線ルートは一度わからなくなっている。ICの退出路や周辺の水路付け替えなどで消えたようだ。今回探訪のマップと撮影地点です。黄色矢印の先端が撮影ポイント(矢印と撮影の方角は関係ありません。撮影方向は文中に説明しています)。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・今回 利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.05.18
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前回に続く探訪記です。現在の道路は、仙台松島道路(三陸道)の東側から直角に折れて三陸道をくぐって西側に出て、ふたたび北東(松島方)を向いて進んでいく。クランクのような形になっているが、旧線ルートはこのクランクを挟んだ前後の区間では、道路築堤の下に消えたと思われる。(写真1)仙台松島道路(左側、奥が石巻方面)をくぐる手前。(写真2)西側に出て、数十メートルは高速道側道のように続くが(新設道路だろう)、その先は旧線跡で両側が石積みの擁壁になっている。いい感じのルートだ。(写真3)振り返ってみた。鉄道を土砂から守るために、しっかり石垣を作った昔の人たちの思いが伝わってくるようだ。手前が松島方、奥が利府方。画の奥に仙台松島道路の法面が見える。(写真4)石垣に守られた林間のルートから、開けたところに出る。利府街道が見えてくる。旧線跡は県道8号(利府街道)の葉山団地南入口の交差点(コンビニのあるところ)のすぐ傍に出て、さらに利府街道と並走するように伸びていく。(写真5)交差点東側(コンビニと向い合せ)にある染殿神社。往時はこの神社の下、県道との間を山線の機関車が走ったのだろう。(写真6)染殿神社の下から、松島方を望む。画の左は県道8号(利府街道)で、出っ張っているのはバス停。右手から奥にかけて仙台松島道路(三陸道)がみえる。今回の探訪マップと撮影地点(黄色矢印の先端)です。なお、撮影方角は矢印と関係ありません。文中に記しています。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・今回 利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.05.17
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前回利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)に続き、春日PA脇からさらに松島方に旧線ルートを進む。ルートは直進となり、さらに北に100mも行くと、利府街道から高速道をアンダーバスしてきた小道と交わって先に真っすぐ延びていく。今では、ひっそりとした森の中の交差点だ。(写真1)松島方を望む。少し先で旧ルート活用の現在の道路が左折するようにも見えるが(電柱がある地点)、旧ルートは直進している。かつては、鉄路が電柱の地点で東西方向(画の横方向)の道と交差したと思われる。右手は山林に駆け上がる林道に続くが、辻の傍には水道の弁室がある。(写真2)交差点付近(やや松島方)から左手(ルートの西側)の畑を眺めると、自然養蜂の箱らしきものが見えた。上の山間の辻を過ぎるとルートはきれいに直進(写真3)、その後右にカーブするが(写真4)、左手(西)はすぐ三陸道なので、高速道が旧線ルートを切ったため新たに側道を作っているようにも思われた。現道はしばらく高速道の東を進んでいく。(写真3)松島方を望む。気持ちよくまっすぐ伸びていく。左手にお馴染みになった水道管の標識。(写真4)この先の右カーブの折れ方は鉄道としては唐突に見えるので、旧線は直進したが三陸道で消失し、現在の道路は右に折れて側道として造ったのかも知れない。(写真5)ちょっと進むとまた丁字路に出くわす。探訪者は画の右手奥に側道を進む。(写真6)さらに松島方に向けて、道を進む。左手(西)は仙台松島道路(三陸道)。この現在の道が旧鉄路だったのか、あるいは高速道築堤で消失したか、よくわからないが、写真5の辺りは新造道路だが、この画のあたりは鉄道路盤跡の雰囲気が残っているように感じられる。上記の探訪マップと写真撮影ポイントです。黄色の矢印の先端が撮影ポイントですが、矢印が撮影方向を示すものではありません(撮影方向は文中に説明)。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・今回 利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.05.15
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廃線ルート探訪の続きです。利府中ICのやや北にある隧道から、さらに北に歩を進めます。築堤された路盤のルートはやがて里山に入っていき、竹藪を回るように緩やかに弧を描く。(写真1)しばらく進むと、町道を横切って進む。この町道は、利府街道の春日公民館前交差点(信号)から、山を登って塩竈市の清水沢浄水場や伊保石公園に続く道で、結構車が通るのだが、このクロスポイントにはもちろん信号はない。(写真2)旧線ルートは町道(左が春日、右が塩竈市方面)をクロスして奥に進み右に弧を描く。廃線ルートは緩やかにカーブしながら三陸道(仙台松島道路)の高架下を抜けていく。というより、利府線ルート跡の生活道路の上に高速道が建設された、が正しいだろう。(写真3)旧線は奥(北東)が松島方。高速道は左が石巻方面。仙台松島道路の東側に出ると、旧線ルートは逆に左方向に弧を描き始め、ルート東側に建設された三陸道(上り線)春日PAへ登る取付道路の分岐点を過ぎ、PA施設全体を包み込むように左カーブしながら進む(写真5)。(写真4)春日PAから少し北の地点。このような標識がルート上の随所にあった。県営水道事業が七ケ宿ダムから松島まで運ぶ送水管を、旧利府線ルートを利用して埋設したのだろう。(写真5)北東方向にルートの先を望む。この地点の左手(ルートの西側)はPA施設がある。次は今回記事のマップと撮影ポイントです(赤矢印の先端が撮影した地点。撮影方向は記事本文中に記しています)。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・今回 利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.05.12
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前回に続いて、利府線の跡の探訪記。旧線ルートは森郷児童遊園を抜けて小川の橋梁を渡り、生活道路となっていて北東に伸びていく。両側にはまばらに住宅があり、猫たちが朝の日光浴。しばらく進んでいくと、ルートはそのまま町道をクロスする。(写真1)利府方から松島方(北東方向)を望む町道を横断したその先も明確にルート跡はわかるのだが、進んでいくと、三陸道(仙台松島道路)の利府中ICのために、ルートは消失する。探訪者は、三陸道高架をくぐって、ICを回り込むように歩いていかねばならない。写真2にみえる高架道路の奥(反対側)に利府中ICがある。(写真2)利府方から松島方(北東方向)を望む利府中ICを過ぎて進むと、旧路盤跡の築堤された道が現れてくる。(写真3)仙台松島道路の西側道から北方向を向いて撮影。右手が仙台松島道路で奥は石巻方面。画の中央から左に向かって築堤の道がみえる。カッコウの声を聞きながら気持ちよく道を歩いていくと、左右の田畑がだんだん低くなっていく。鉄道建設の際に高低差を避けるための築堤だったのだろう。たまに車が通ってきた。(写真4)そして、少し進んだところで築堤の下に降りてみると、レンガ造りの隧道があり、集落利用の道が潜り抜ける。写真5の右の方向に、舗装道路は堤の上に駆け上がっていく。(写真5)築堤(旧線路)を降りた西側から撮ったもの(画の右が利府方、左が松島方)。(写真6)築堤の東側から。この隧道は、人や車が通れるが、その下が河道になっている二重構造のようだ。写真7の標柱で、藤田川の上端を示すらしいが、偶然にも同様の標柱が利府線跡ルートの橋脚跡(今回シリーズその2で写真があります)の脇にもあった。あちらの場合は、藤田川が橋の架かる勿来川に合流しており、藤田川の下端を示すものだろう。(写真7)下の画が、今回の探訪のマップと写真撮影ポイントです。なお、撮影ポイントは、赤矢印の先端が撮影した地点であり、撮影の方向を示すものではありません。撮影方角は文中に記しています。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・今回 利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日) 利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.05.11
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今回の散策エリアのマップと、森郷児童遊園内の説明パネルのうち旧線の痕跡として紹介されている箇所を拡大して掲げます。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・今回 利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.05.10
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前回の続きです。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・今回 利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)森郷児童遊園には、前回記事で記した説明版や動輪のモニュメントがこんな(下の画)感じで並んでいる。もう一つの説明パネルは次の画のとおり。ここでは随所に残る痕跡が紹介されている(この6か所は拡大して次回の記事に掲げます)。公園の中程に立って、北(廃線跡の先の方向)を眺めると次の画の通り。SLをモチーフにした新しい遊具がある。この公園の先にルートは伸びている。少し歩くと、ルート跡がそのまま車一台走れる小道になっており、川を渡る橋梁に出くわす。(画は順に、北方向、逆方向(利府駅方向)、橋脚です。)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.05.10
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東北本線利府支線は利府駅から北が廃線になったが、先日、利府駅周辺でその痕跡を訪ねてみた。■今回のシリーズ・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)まずは現在の利府駅の外から、レール終端とホームを眺める。遠方は新利府駅、岩切駅方面だ。こんどは同じ撮影地点から逆方向(旧ルート)を望んでみる。かつての線路跡は町営駐車場に変わっている。その先は線路跡は消えて住宅がいくつか建っているようだ。駐車場わきの道を、その住宅の辺りまで進んでみると、下の画のように、住宅の先に建物が見え、SENKEN(仙建工業)とある。緩やかに曲がった区画の雰囲気は、ルート跡の名残だ。さらに北側に回ってみて建物を撮ったのが次の画で、遠方は利府駅になる。仙建工業(株)仙台新幹線出張所、との看板があった。私有地につき関係者以外の立ち入りは固くお断りします、防犯カメラ作動中、と書かれているので、立ち入らず道路を挟んで(利府自動車学校・森郷児童遊園の側)から撮影。さて、さらに旧線の先を望む(道路の仙建工業寄りから撮影)と、割とわかりやすく、ルートが森郷児童遊園に包まれるように伸びていく。その森郷児童遊園(SL公園)の中に、鉄道についての解説板が、SLの動輪のモニュメントの両脇にある。比較的新しい。実は最近まではSLの機関車が置いてあったのだが、維持管理ができなくなって置き換えたようだ。以前あった機関車は、C58-354で、東北新幹線仙台総合車両基地の建設を記念して、利府町が誘致して昭和50年8月に設置されたが、当該機関車は昭和19年製造、走行距離は125万キロで昭和48年12月まで現役として活躍していた。看板の説明を読もう。------------1890- 本線だった、利府経由の線路 現在の利府町域に現東北本線が姿を現したのは、1890(明治23)年のことです。現在の県道8号線(利府街道)に沿うように現町域を縦貫し、松島町の愛宕駅付近からは現在と同じ経路を走っていました。 開業当初、赤沼に信号場が置かれましたが、利府に駅はなく、1894(明治27)年に利府駅が開業しています。敷地を加瀬村の佐々木佐太郎氏が寄贈するなど、地元の力が実現した駅の開業でした。1944- 並走する「山線」と「海線」 1944(昭和19)年、東北本線の岩切~品井沼間を海沿いで結ぶ、新しい線路が敷かれます。すでに大正年間から、従来のルート上にある急勾配区間が輸送上問題視されており、昭和初期には仙塩地方の工業化も構想されていました。これに戦時中の軍需物資の輸送強化という要請もあって敷設に至ったようです。 以後、東北本線の岩切~品井沼間は、従来の線路「山線」が主に旅客、新しい海側の線路「海線」が主に貨物を取り扱いながら並走し、東北と関東を結びつけたのです。1956- 「海線」の複線化と「山線」の廃止 「海線」登場と同時期、東北本線の複線化も計画されました。戦中の資材事情で遅れていましたが、1953(昭和28)年から工事が再開され、1957(昭和32)年には陸前山王~品井沼間を除いて複線化されます。この間、1956(昭和31)年には「海線」に塩釜駅や新松島駅が設置され、列車の運行割合も「海線」が多くなるなど、「海線」の東北本線「本線」化が進行します。輸送力を強めたい国鉄(当時の日本国有鉄道)は、残る陸前山王~品井沼間の複線化を進め、これが完了した1962(昭和37)年に「山線」は廃止されました。1962- 支線の終点として利府駅は残った 「山線」の廃止後も、「山線」の駅である利府駅が残った背景には、利府住民の強い請願がありました。 利府町教育委員会の資料によれば、「山線」の廃止計画は、1949(昭和24)年に発表されました。すると利府では、翌年から「山線」と利府駅存続の請願活動がはじまっています。 利府駅廃止反対期成同盟を結成して仙台鉄道局や東京へ陳情をし、その年のうちに衆議院で利府駅の維持が決定されました。その後も存続を望む活動は続けられ、列車運行数を減らさないために貨物を取り扱い、村民へ駅の利用を呼び掛けるなど、利用者側の努力で利府駅の重要性を示そうともしています。このように、開業時と同様、住民の強い思いと行動が、いまに利府駅を残したのです。(年表)1984 利府駅開業1944 「海線」開通 従来の路線は「山線」に1945 太平洋戦争終結1949 「山線」廃止計画発表1950 「山線」と利府駅存続の請願活動がはじまる1956 「海線」に塩釜駅や新松島駅が設置1957 一部を除き複線化1962 全面複線化完了と同時に「山線」廃止 利府駅は残り、支線の終着駅となる1964 東京オリンピック開催1975 東北新幹線の建設を記念して SL・ELを本町へ展示1982 東北新幹線が大宮-盛岡間で開通1986 駅舎改築1987 国鉄分割民営化2022 SL・EL老朽化により SLのみ動輪をモニュメント化------------また、この公園にはSLとともに電気機関車ED91-11も屋外展示されていた。1954年に始まった仙山線の交流電化試験に使われた試作機4両のうちの唯一現存した1両だったそうだ。試験は成功し、57年9月国内初の交流電化営業運転が、仙台-作並間で実現。4両は引き続き仙山線で活躍した。鉄道の電化は直流が早く進んだが、交流は変電所の数が少ないなど経済性に優れ、トンネルの多い区間でも導入が可能で東北の幹線の電化が飛躍的に進んだ。また、試験の知見は高速化に貢献し、交流方式の東海道新幹線が東京五輪開幕の9日前に開業できた。(2021年7月24日の河北新報記事から。保存を訴える元技術者のインタビュー記事だ。)■利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)に続きます。■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.05.08
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塩竈市の本町(もとまち)通りを散策。御釜神社には何度か参拝しているが、古代から伝わる御神体の四口の神釜を、初めて見せていただいた(拝観料100円で扉を開錠していただく。撮影は不可)。4つの釜に水が張られ、釜の底の色なのか黄土色に見える。雨や日照りでも、溢れることも干上がることもないのだ。本町通りに面した看板(上の画像)を読む。------------御釜神社(鹽竈神社末社)祭神 鹽土老翁神月次祭 毎月6日特殊神事藻刈 7月4日御水替 7月5日藻塩焼例祭 7月6日藤鞭社祭典 7月7日由緒塩竈市名発祥の地日本製塩起源の地 恭しく顧みるに、神代の昔武甕槌、経津主の二神鹽土老翁神の教導によって東北経営の功を畢へられたが、鹽土老翁神はこの地に留まり給ふて人々に海草を焼き製塩の法を教へ給ふたので其の神恩に感謝して三神を斎き奉り鹽竈神社を創祀するに至ったといふ。 當御釜神社は鹽竈神社の末社に坐し、鹽土老翁神製塩の旧址で境内の牛石、藤鞭社等何れもこれに有縁のものと伝へられ例年7月4日藻刈、5日水替、6日藻塩焼、7日藤鞭社と古式床しい特殊神事を経て製せられた神塩を以て10日本社例祭の神饌を調進する慣例である。 蓋し塩竈の地名は鹽土老翁神製塩の伝説に由来し、元禄2年5月8日芭蕉は御釜神社に詣、「未の尅(おだずま注:ひつじの刻の意か)、塩竈ニ着、(中略)出初ニ塩竈ノかまヲ見ル云々」とあり、神竈を拝し古来製塩の由来に思いを馳せ、鹽土老翁神の偉大さに賛仰のことばを惜しまなかったのである。(曾良旅日記より) 更に此処は市名発祥の聖地で実に本邦製塩の濫をなす記念すべき所である。社務所------------社務所でいただいたしおり(紙)には、こうある(以下)。------------"奥州一宮"鹽竈神社 第一末社 御釜神社(おかまじんじゃ) 現在の御釜神社周辺は、江戸時代末期までは浜辺で、製塩が盛んに行われておりました。 神代の頃に、この場所で御祭神・鹽土老翁神が神釜を以て人々に製塩方法をお教えになったと伝えられ、御聖跡として今の地に御釜神社が鎮座しております。 毎年、7月6日には「藻塩焼神事」(宮城県無形民俗文化財)が斎行され、古式に則って製塩が行われます。------------神社の向かいは、塩竈まちかど博物館(旧ゑびや旅館、下の画像)。交差点から山側に坂道を登るとすぐ、杉村美術館がある。■関連する過去の記事(塩竈市) 杉村惇美術館(塩竈市)(2023年10月14日) 日本の塩神と鹽竈神社(2021年11月3日) 母子石(塩竈市)の伝説(2013年2月13日) 塩竈の「ざっとな」(2011年2月27日) 伊保石公園を散策する(10年6月6日) 塩竈寿司めぐり(10年4月8日) 宮城の小規模特認校(10年1月9日) 浦戸の小規模特認校を考える(10年1月8日) 寒風沢島に行きたい(09年9月29日) 塩竃の花火大会(08年7月21日) 塩竃の花火大会とイーグルス快勝(08年7月20日) 奥州仙台の三大名数シリーズ(寺社仏閣)(07年8月21日) 塩釜エスプのツリーハウス(07年6月4日) 塩釜のエスプは良いですね(05年12月1日) 日本の白菜を育てた宮城県(2011年5月1日) 宮城のかまぼこ業者(08年4月25日) 昭和57年の釜竈論争(2011年10月18日) 塩竃市体育館の命名権を考える(08年2月8日) 仙台ハクサイと沼倉吉兵衛(2015年2月16日) 守屋前次官と宮城県(07年10月30日) 昭和47年仙石線新田踏切事故(続)(2021年10月19日) 昭和47年の仙石線事故(2011年9月8日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日)
2024.05.06
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普段乗ることのない気仙沼線を体験したくて、4月の良く晴れた日、列車とBRTの両方に乗ってみました。小牛田駅から柳津駅までの列車。前谷地で乗り換えなしで気仙沼線に乗り入れます。車窓から見えるのは、田植え前の水田、新緑の里山と立ち並ぶ家並みなどの景色で、大変みごとでした。上品山、箟岳を眺め、豊里は集積のある街だと感じ、また、御岳堂を過ぎて、小さなトンネルを過ぎた後、北上川を真っすぐな青い鉄橋で渡る際は、爽やかな風になった気分でした。(関連する過去の記事 北上川の移流霧(2021年5月22日))柳津駅は町はずれにありますが、終点なので皆が降ります。10数人だったか、地域利用と観光(乗り鉄)が半々くらい。画像のように、駅舎やBRTバスを撮ったりしていました。駅の先(陸前横山や志津川方面)はBRT専用道路ですが、自動運転工事中とかで、バスはこの専用道でななく一般道を走行するとのこと。戻りは柳津駅からBRTに乗ってみました。一般道をまわって駅にやってきた気仙沼始発の車両は、むすび丸のラッピング。先客は2人。たぶん観光の方。柳津から乗るのは自分だけ。前谷地までは停留所もなく、豊里の町は通らないのでした。神取橋をわたり、和渕駅の傍らを走って前谷地駅前へ。ホームに立って石巻方を見ていると、気仙沼線のレールから石巻線に合流してくる列車が見えました。■関連する過去の記事(今回の旅) 香林寺(登米市)(2024年05月02日)
2024.05.05
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初夏のような暖かさ。湿気がなく、風も動かない。田園地帯にある立派なお寺だ。石柱に、宮城県重要文化財香林寺山門、とある。説明版には次のように説明されている。------------香林寺山門(宮城県指定有形文化財) 曹洞宗月輪山香林山は、戦国大名葛西氏の氏族月輪氏の菩提寺として建立、山門は天文9年(1540年)建立の「月輪館大手門」を天正12年(1584年)廃城となった館から移築したもの。二ッ葉柏紋の彫刻が時代を偲ばせる。環境庁・宮城県------------
2024.05.02
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利府町の黄金山神社。桜が満開でした。藤田地区公民館の夫婦桜はこの手前(撮ればよかった..)。訪問日 2024年04月14日
2024.04.15
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(前回記事旭山(石巻市北村)を訪れる(その1 桜と眺望)(2024年04月14日)に続いています。)山頂に、朝日山計仙麻神社がある。旭山神社ともいい、かつては深谷一宮旭山宝竜大権現とも称されていた。延喜式神名帳にも名を残し、古くから河南地区の産土神として信仰を集めている。創祀の年代は不明で、大同年間(806-810)坂上田村麻呂が陸奥侵攻に際し、戦勝を祈願、戦勝後千束の田を寄進したことが社伝にみられる。本殿は昭和11年改築。祭神 倉稲魂命 豊玉姫命例祭 4月下旬(下記の宮城の旅サイトから。)参道をのぼる途中、左右にもみどころがあった。坂道の下の方から取り上げていくが、まず、旭山観音堂だ。説明版を読んでみる。------------旭山観音堂旭山観音堂は亡学童や戦没者の冥福を祈らんため発願し 昭和13年建立したもので 文豪徳富蘇峯(ママ)定礎し御堂は東北大学小倉強教授の設計 平安時代の様式で三間二面単層四注造の本瓦葺回廊をめぐらし 前面は張り出し 背面の子持石とよく調和し 結構荘厳清水観音堂を髣髴せしめる 聖観音像は元帝展審査委員国方林三の作 国宝的傑作である 扁額「観自在」は蘇峯(ママ)の筆旭山御堂の中に拝みぬ 端厳微妙の聖観世音 土井晩翠------------参道から観音堂に分かれ行く箇所には、左に上記の説明版、右には愛知揆一書になる「旭山聖観音」の石碑がある。小径を進んでいくと、しばらくして断崖にせり出すように建立された観音堂が現れる。すぐ上には奇岩が聳え立っている。説明版に言う子持石だろう。堂宇の周りを歩いてみた。次に、聖観音の入口から参道を少しだけ登ったところに、桃太郎神社の入口がある。左に分け入って歩くと、すぐに開けた場に出て、小さな祠と大きな石碑がある。碑には、「日本一桃太郎神社 内閣総理大臣 岸信介 書」とある。お社には、なぜか猫たちが大集合。立派な碑の裏側を読んでみる。次のように刻まれていると思うが、判読しかねる部分もあり、自信がない。------------桃太郎 ここに生まれて ふるさとの なほ新しく 栄ゆる 旭山昭和三十二年四月二十八日 斎藤 荘次郎 謹------------桃太郎神社から参道に戻りさらに登ると、右手に「旭山不動尊」と石柱がある。右側面には、「日本大学総長勲一等医学博士鈴木勝書」とある。左側面には「昭和五十一年四月二十八日 日本大学理□ 医学博士 □野一 建立」と(読み間違い容赦下さい)。さて、石碑の辺りから脇に立ち入ると、下り道の石段があり、降りていく。石は整形に切られており、最近整備された道のようだ。不動明王様は、東日本大震災の後、今は北村の高福寺に移されているのだそうだ(下記サイト)。なお、上の画像でお堂前の高台に至る手前から、下の沢に降りる階段がある。湧き水の場所に降りるためだろうか。・宮城の旅 旭山・石巻市サイト 県立自然公園旭山訪問日 2024年4月14日■今回訪問の記事・旭山(石巻市北村)を訪れる(その1 桜と眺望)(2024年04月14日)・旭山(石巻市北村)を訪れる(その2 神社、観音堂など)(2024年04月14日)
2024.04.14
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夏のような暖かさで、桜もほころびた県立自然公園旭山。のぼってみました。大鳥居のわきの広場になぜかヤギさん。さて、山頂にのぼる急な坂道。下の画像からさらに進んでいくと、地元の方々だろうか清掃活動をしておられた。山頂にあるやや新しめの説明版。読んでみる。------------県立自然公園 朝日山 旭山は標高174m、山頂からの眺望はすばらしく、春は桜の名所として広く親しまれている。 大正の初期、豊富な芝が生えるこの山野を名所にすべく、私財を投じ、整備に傾注したのが斎藤荘次郎氏である。 昭和8年、皇族東久邇宮殿下が登臨なされるなど由緒ある公園である。昭和10年旭山観音堂が建立され、昭和15年12月16日、県立自然公園として旭山が松島に次いで2番目に指定された。 現在は、地元の愛護団体等が清掃活動などを行い、大事に守り続けている。平成27年9月 宮城県 観光課------------桜が青空のもと、見事に咲いている。眺望がまた、すばらしい。最初のは、南郷・木間塚方面か。前谷地・和渕の方向だろうか。以下は石巻市街地を望んでいる。拡大した画像を続けるが、日本製紙工場のさきに浮かぶのは、田代島だろうか。・宮城の旅 旭山・石巻市サイト 県立自然公園旭山訪問日 2024年4月14日■今回訪問の記事・旭山(石巻市北村)を訪れる(その1 桜と眺望)(2024年04月14日)・旭山(石巻市北村)を訪れる(その2 神社、観音堂など)(2024年04月14日)
2024.04.14
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先日も、石ノ森章太郎の出身でないのに石巻市がなぜマンガッタンなのか?的な話を受けた。たしかに、石ノ森章太郎の生家は登米市石森だ。石巻市の北上川河口にある中洲の中瀬には昭和24年から映画館を営業している岡田劇場があり、石ノ森少年は高校時代通っていたという。そんな石巻に思い入れの深い同氏に、1995年に石巻市長が石巻の活性化の協力を依頼し、石ノ森氏が快諾。翌年、市は石巻マンガランド構想を打ち立てる。岡田劇場のあった中瀬には2001年石ノ森萬画館が建てられ、その中瀬には石ノ森氏によってマンガッタン島の愛称が付けられた。じつは、氏は昭和36年に23歳で70日間の世界旅行に出かけたが、アメリカにも3週間滞在しニューヨークのマンハッタン島にも行っている。長さ約20kmのマンハッタン島と、北上川河口の600メートルほどの中瀬とはサイズこそ違うが、細長く伸びた形はよく似ている。■参考 木村浩二監修『意外と知らない宮城県の歴史を読み解く!宮城「地理・地名・地図」の謎』実業之日本社、2014年
2024.04.11
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県道3号塩釜吉岡線の東を並行する小西川の土手沿いの小径に、立派な赤い鳥居がある。地図には天満宮とある。『宮城縣黑川郡誌(完)』(黑川郡敎育會、大正13年)には、村社天神社として、次の記載がある。村社天神社 鶴巢村太田字川原田に在り。祭神 菅原道眞由緒 勧請年月を詳にせず明治5年1月村社に列す境内に神明社あり幕柳八幡社外6社を合祀す其神社及び年月左の如し(1)幕柳字廣畑村社八幡神社 明治43年5月21日指令(祭神、由緒を略。以下、関場神明社以降を除き同様)(2)幕柳字砂子田無格社愛宕神社 明治43年5月31日指令(3)幕柳字石ノ澤無格社熊野神社 明治43年5月13日指令(4)幕柳字宇津野無格社神明社 明治43年5月13日指令(5)小鶴澤字堰塲村社神明社 明治42年11月17日指令祭神 天照皇太神由緒 不詳 明治5年1月 村社に列す(6)小鶴澤字上ノ澤無格社南龜稻荷神社 明治42年11月17日指令祭神 倉稻魂命由緒 不詳(7)山田字土井下村社神明社 明治42年10月2日指令祭神 天照皇太神由緒 不詳 明治5年1月村社に列す(一部新字体にしました。番号はオダズマ振付け)明治初年にこの天神社(天満宮)が村社とされ、明治後期の合祀政策により付近の7つの神社をまとめたという。(5)小鶴沢神明社と(7)山田神明社は、小字名が合致するので、今回の探訪で訪れた(下記記事)神社のことで間違いないだろう。(6)の小鶴沢字上ノ沢の稲荷神社とは、訪問した稲荷神社(下記記事)のことだろうか。現在の小字名で上の沢(かみのさわ)は、神明社の町道をはさんだ南側のあたりで場所が離れているので、違うような気がする。(1)から(4)は旧幕柳村の神社。今回の探訪では行かなかったが、(1)は県道3号沿いで地図に載っている。■関連する過去の記事(明治の神社統合) 神社の多い福島、少ない岩手(2014年2月9日)訪問日2024年4月4日午前■この日の訪問の記事 天満宮(大和町鶴巣太田)(2024年04月09日) 神明社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月08日) 稲荷神社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月07日) 神明社(大和町鶴巣山田)(2024年04月06日) コミュニティセンター山田(大和町鶴巣山田)(2024年04月05日) 黒川神社(大和町鶴巣北目大崎)(2024年04月04日)
2024.04.09
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県道3号塩釜吉岡線を利府しらかし台から北上して、大和町に入り丹勝ゴルフ場の信号で右折して大郷町に進む。この町道は何度も通っているが、路傍の小高い丘に鳥居がみえる。神明社だ。民家の裏庭を崖下に見下ろす位置にあるので、恐縮しながら幅の狭い石段を登り、杉林の中のお社に参詣させていただいた。前回記事の稲荷神社は、この付近からさらに別の町道に入ってすぐの位置にある。『宮城縣黑川郡誌(完)』(黑川郡敎育會、大正13年)には、村社天神社として、次の記載がある。村社天神社 鶴巢村太田字川原田に在り。祭神 菅原道眞由緒 勧請年月を詳にせず明治5年1月村社に列す境内に神明社あり幕柳八幡社外6社を合祀す其神社及び年月左の如し・幕柳字廣畑村社八幡神社 明治43年5月21日指令(祭神、由緒を略。以下、関場神明社以降を除き同様)・幕柳字砂子田無格社愛宕神社 明治43年5月31日指令・幕柳字石ノ澤無格社熊野神社 明治43年5月13日指令・幕柳字宇津野無格社神明社 明治43年5月13日指令・小鶴澤字堰塲村社神明社 明治42年11月17日指令祭神 天照皇太神由緒 不詳 明治5年1月 村社に列す・小鶴澤字上ノ澤無格社南龜稻荷神社 明治42年11月17日指令祭神 倉稻魂命由緒 不詳・山田字土井下村社神明社 明治42年10月2日指令祭神 天照皇太神由緒 不詳 明治5年1月村社に列す(一部新字体にしました)堰塲村社神明社が、今回訪問した社であろう。今の表記だと鶴巣小鶴沢字関場になる。また、最後の山田字土井下神明社は今回訪問した(下記記事参照下さい)県道3号沿いの神社で間違いないだろう。小鶴沢字上ノ沢の稲荷神社とは、訪問した稲荷神社(前回記事)だろうか。現在の小字名だと少しズレているが。訪問日2024年4月4日午前■この日の訪問の記事 天満宮(大和町鶴巣太田)(2024年04月09日) 神明社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月08日) 稲荷神社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月07日) 神明社(大和町鶴巣山田)(2024年04月06日) コミュニティセンター山田(大和町鶴巣山田)(2024年04月05日) 黒川神社(大和町鶴巣北目大崎)(2024年04月04日)
2024.04.08
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通ることのなかった町道に入ってみると、小さな神社の鳥居が。脇には土地改良事業の記念碑があり、子孫に美田を残したことが記されていた。訪問日2024年4月4日午前■この日の訪問の記事 天満宮(大和町鶴巣太田)(2024年04月09日) 神明社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月08日) 稲荷神社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月07日) 神明社(大和町鶴巣山田)(2024年04月06日) コミュニティセンター山田(大和町鶴巣山田)(2024年04月05日) 黒川神社(大和町鶴巣北目大崎)(2024年04月04日)
2024.04.07
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県道3号塩釜吉岡線を利府しらかし台から大和町に入って進んで、二つ目の信号のある交差点。西に分かれると富谷市大亀山方面。階段を登っていくと、高台に3坪ほどの建物。おそらく、お社を取り囲むように作ったようだ。なお、この交差点のちょっとだけ手前にコミュニティセンター山田がある(前回記事)。訪問日2024年4月4日午前■この日の訪問の記事 天満宮(大和町鶴巣太田)(2024年04月09日) 神明社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月08日) 稲荷神社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月07日) 神明社(大和町鶴巣山田)(2024年04月06日) コミュニティセンター山田(大和町鶴巣山田)(2024年04月05日) 黒川神社(大和町鶴巣北目大崎)(2024年04月04日)
2024.04.06
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何度も通っている県道(3号塩釜吉岡線)沿いにあるがさほど気に留めていなかった。はじめて車を停めて眺めてみた。建物の妻にデザインされたcYcは、コミュニティセンター山田の意味か。消防小屋が併置されていた。眼前を黒い小さな一羽がスーッと飛んで行った。よくみると、ツバメの巣があるのだった。ずいぶん久しぶりにツバメを見た気がする。大和町の例規集をネットでみたが、吉岡コミュニティセンター、南部コミュニティセンター(杜の丘)、吉田コミュニティセンターについてはそれぞれ条例等があるが、「コミュニティセンター山田」はないようだ。町立ではなく自治会の施設なのか。選挙の投票所にはなっているようだ。訪問日2024年4月4日午前■この日の訪問の記事 天満宮(大和町鶴巣太田)(2024年04月09日) 神明社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月08日) 稲荷神社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月07日) 神明社(大和町鶴巣山田)(2024年04月06日) コミュニティセンター山田(大和町鶴巣山田)(2024年04月05日) 黒川神社(大和町鶴巣北目大崎)(2024年04月04日)
2024.04.05
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黒川神社を訪れた。「東方乃薬師 黒川神社 参拝のしおり」から------------【黒川神社御由緒】 当社の起源は多賀城の鎮守府将軍大野東人の流れをくむ黒川郡三ヶ内城主報恩寺可則(よしのり)が仁和年間(885-889)智証大使(ちしょうだいし)の作になる薬師の像を霊験あらたかな当所にお祀りしたことに始まると伝えられています。 この薬師像は、永承年間(1046-1053)源義家が東征に際し尊崇して「袖振薬師」と称しました。 安永年間の風土記(1774)によれば、この薬師像は「功徳山八聖寺」と言われ、黒川郡を領していた黒川晴氏が特に「東方の薬師」と称し崇敬されました。 明治元年になりますと、新政府によって神仏分離令が発せられ、同5年薬師堂は村社「黒川神社」となりました。 旧社殿は前出の風土記によれば三間四面の堂宇とあり、現在の社殿は明治11年に起工、同13年竣功されたもので、用材はすべて境内周辺の木材が充てられ、建設当時は本殿・幣殿は木羽葺、拝殿は茅葺屋根でした。 昭和3年、無格社・住吉神社が合祀されました。【御祭神と御神徳】 御祭神は薬師如来と通ずるところから「少彦名命」(すくなひこなのみこと)が祀られています。 命は『古事記』では神産巣日神(かみむすびのかみ)、『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子で、大国主命の国土経営に助力し、貢献されました。また、医療・医薬・温泉・禁厭(まじない)・酒造の道に優れた神でもあります。 薬師如来は衆生のあらゆる病気・災難を取り除く役割を担っていたとされ、氏子崇敬者は今もって「お薬師様」とも呼び、家内安全・病気平癒・無病息災・災難防除・商売繁盛・子育て・交通安全・学業成就等を祈願しています。【仁王尊】 仁王尊は仏法の守護神であり、寺門の左右に寺門神として仁王像が立てられることが多く「金剛力士像」と言われます。 向かって左の那羅延(ならえん)金剛は口を開いた「阿形」、向かって右の密迹(みつしゃく)金剛は口を閉じた「吽形」に表されます。《阿吽の呼吸》 3尺2寸の本尊に対して仁王尊は6尺8寸と大きく、昭和60年解体修理の際に「永享4年(1432)再興勧進」という胎内の記述が判明しました。 桧の寄木造りで、子どもがその股をくぐると「はしか」が早く治るという言い伝えがあり、無病息災を願う人に親しまれています。 現在の仁王堂(鞘堂)は昭和60年に建立されたもので、元は本殿に安置されていて明治15年4月より現在の位置に新築された記録があります。 また、仁王像後方に祀られております十二神将は1尺8寸でやはり智証大師の作と伝えられ、薬師如来の「十二の大願」を護持するための守護神です。------------黒川神社は明治以前は「薬師堂」として1200年もの歴史を持っているが、その間火災にも会わず奥の院に当初からの薬師如来が祀られている。明治になって神社になり、薬師如来と一致する少彦名神が御祭神として祀られることになった。(社報黒川神社第24号から)訪問日2024年4月4日午前■この日の訪問の記事 天満宮(大和町鶴巣太田)(2024年04月09日) 神明社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月08日) 稲荷神社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月07日) 神明社(大和町鶴巣山田)(2024年04月06日) コミュニティセンター山田(大和町鶴巣山田)(2024年04月05日) 黒川神社(大和町鶴巣北目大崎)(2024年04月04日)
2024.04.04
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丸森町の神明社。裏手の高台。みはらし畑で手入れをしておられる方に挨拶して、街を見下ろしてみた(丸森中学校、R113舘矢間バイパス丸森大橋)。ここは宮城県でもっとも早く桜が咲くと聞いた。穏やかな初春でした。(3月28日午前)
2024.03.31
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薬師十二社を訪れた。県道塩釜亘理線の亘理大橋(阿武隈川渡河)の西方、東部道路より少し内陸側になる。初春のやわらかで伸びやかな空気に包まれていました。鳥居をくぐると境内には遊具。堂宇の裏には集会所があり、東側は竹林。説明版があったので読んでみます(原文縦書き)。------------亘理町指定文化財(昭和57年5月1日指定)毘沙門天(びしゃもんてん)木像 毘沙門天木像は、本尊薬師如来、十二神将(じゅうにしんしょう)とともに堂内に納められている。高さ80センチメートルの一本彫りで、作者は不明であるが、鎌倉時代後期(約700年前)の作とみられる。 この像の形と線には、素朴ながら古風な面影が残り、優れた作品である。 毘沙門天は、仏教では四天王の一つで、多聞天といわれ、多くの鬼神等を統率し、仏法を守護し、福徳と子宝を授ける神である。 形像(けいぞう)は忿怒(ふんぬ)の相を表し、甲冑を着け、左手に宝塔(ほうとう)、右手に宝棒(ほうぼう)を持っている。 わが国では七福神の一つである。 平成17年9月1日 亘理町教育委員会------------「亘理町文化財マップ:亘理の歴史巡り」(令和5年3月、亘理町教育委員会発行)には、次のように書いている。------------毘沙門天木像(蕨薬師堂)木像一本造りで高さ約80cm、鎌倉時代後期の作品。本尊薬師如来、十二神将と共に堂内に納められており、12年に1回、寅年に開帳されます。町指定文化財。【住所】亘理町逢隈蕨字福田92------------薬師十二社のすぐ南に、厳島神社という小さな祠がある。次の写真は南側から両社を望んだもの。薬師十二社の大きな鳥居が、椿の樹に隠れています。訪問の契機はひと月ほど前カーナビで不思議な地名が目に留まったから。十二神を祀る社を中心に方角にあわせて地名を付けた(おそらく耕地整理後に)と考察した。■以前の記事 十二支と天地人(亘理町)(2024年03月12日)ちなみに、カーナビでは薬師十二神と表記され、マークが卍ですね。■関連する過去の記事 大崎市の戦中地名(2024年03月20日)=耕地整理で振り付けた地名 合併と広域地名(名取市、柴田町、本吉町、宮城町など)(2024年03月19日) 十二支と天地人(亘理町)(2024年03月12日)=蕨薬師堂周囲は方角地名か 亘理町を知る(地域区分、大字など)(2024年03月10日) 地名(市町村名)の付け方の類型論(2024年03月05日)=方角地名、瑞祥地名など
2024.03.30
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市町村合併と広域地名について何度か書いたが、例えば名取郡における名取町(名取市)の命名を岩沼町はどうみただろうか、などと余計なお世話で考察したりしてみる。ここで、市町村合併と命名の経緯を振り返る。●明治22年町村制施行(現在の岩沼市及び名取市の地域) ・岩沼町 ←(単独)岩沼本郷 ・玉浦村 ←下野郷村、押分村、早股村、寺島村 ・千貫村 ←北長谷村、南長谷村、小川村、志賀村、長岡村、三色吉村 ・増田村 ←増田村、田高村、手倉田村、上余田村、下余田村 ・東多賀村 ←閖上浜、牛野村、大曲村、小塚原村、高柳村 ・下増田村 ←下増田村、杉ケ袋村 ・館腰村 ←植松村、飯野坂村、堀内村、本郷村 ・愛島村(合成地名) ←北目村、塩手村、笠島村、小豆島村 ・高館(舘)村 ←吉田村、川上村、熊野堂村●明治29年 増田町(町制施行)●大正4年 茂ケ崎村が長町に(町制、改称)●昭和3年 東多賀町が閖上町に(町制、改称)。長町が仙台市に編入●昭和22年 亘理郡逢隈村の阿武隈川以北(吹上地区)を編入●昭和30年 3町村合併により岩沼町●昭和46年11月 岩沼市(市制施行)振り返ると、明治22年町村制の際に、名取郡下で町を名乗ったのは岩沼だけ。遅れて増田村が町に昇格したのが明治29年、茂ケ崎村が長町になったのは大正4年だ。 昭和30年に合併で成立した名取町が、市に昇格したのは昭和33年10月で、岩沼より10年以上早い。今や駅名も名取で旧名取郡の中心だったかのようだ。たしかに、藩政時代には名取郡南方の会所が置かれ(北方は長町)、名乗る資格有りと言えそうでもある。 かたや岩沼から見れば、奥州街道と浜街道の分岐する重要な宿場で武隈の郷に竹駒神社もある、岩沼本郷から岩沼町に昇格は増田村より早く、郡制廃止後には県の名取亘理地方事務所が置かれ中心性は十分、自分たちは誇り有る岩沼を名乗り続けるが、郡名(広域地名)を増田や閖上が称するのはいかがなものかと異議もあったのでは(おだずまジャーナル勝手な憶測です)。岩沼町立だった岩沼高等女学校を戦後新制の県立高校にする際に、一時的ではあるが岩沼町が中心となり学校組合を作った。組合には、閖上町、増田町などにとどまらず、逢隈村(亘理郡)、槻木町(柴田郡)も加入している。校名を岩沼とせず名取高等学校としたのは広域地名的な命名だが、岩沼町が地域の子女の教育にかけてきた熱意はまさしく中心性が高いと大いに評価したい。■関連する過去の記事(名取高校の経緯) 組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)■関連する過去の記事(合併と広域地名、名取と岩沼の関係など) 合併と広域地名(名取市、柴田町、本吉町、宮城町など)(2024年03月19日) 地名(市町村名)の付け方の類型論(2024年03月05日) 丹取郡と名取(10年3月17日)
2024.03.22
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岩沼市にある名取高校は、女学校としてスタートし、戦後は学校組合立を経て県立に移管された。同様の動きは県内各地にみられ、その経緯をたどると、子女の教育の充実を図ろうとする地域の熱意と新制高校づくりに向けた県と市町村の連携の足跡が知られる。1 実科高等女学校(『岩沼市史』(昭和59年1月、岩沼市史編纂委員会)から当ジャーナル要約。以下2、3も同じ。) 実科高等女学校の制度は明治43年にできた。女子教育の進歩発展に伴い、各郡市の中心小学校内に実科高等女学校の設置を要望する気運があった。修学のために父母から遠く離れることなく、学校と家庭の連絡を密接にしようとするもの。入学資格は、12歳以上で尋常小学校卒業程度以上の学力。修業年限は4年(尋常小学校卒程度)、3年(高等小学校1学年修了程度)、2年(高等小学校卒業程度)とされ、高等小学校に併置する場合に限って許可された。2 岩沼実科高等女学校の経緯 ・明治32年 岩沼小学校に裁縫専修科を付設 ・明治33年 補習科と改称。 ・明治43年 町立岩沼実業補習学校創立。修業3か年、男49女59 ・大正13年(1924) 町立岩沼実業補習学校女子部が昇格して、岩沼実科高等女学校を岩沼小学校内に設置する。 生徒 岩沼91人、玉浦16人、千貫18人、他に愛島、館腰から19人 ・昭和18年 宮城県岩沼高等女学校と改称3 戦後の高校昇格と県立移管 昭和23年4月新制高校の昇格が認可され、男女共学の町立高校となる。このとき、岩沼外10カ町村による学校組合が組織された。 参加町村は、岩沼町、閖上町、千貫村、玉浦村、館腰村、愛島村、下増田村、逢隈村、槻木町。昭和23年11月に増田町が加入する。(おだずま注:市史の文中には「岩沼外十か町村の組合立」と記載がある。しかし、年表中に記載された参加町村は上記の通りで数えると1つ足りない。岩沼町を含む10か町村、という意味(本文が誤り)なのか、それとも年表の中の列挙に1つ(高館村か)の記載が漏れたのか、いずれかと思われる。) 新制高校として存続の危機に遭遇したものの「名取高等学校(仮称)設置要望の趣旨」に躍如として記されている。「仙南四郡の広きに亘る一般大衆の憧憬と思慕とを集めてきた我が岩沼高等女学校の宮城県立高等学校昇格は、私どもの心から熱望するところである」 昭和24年、学校用地として日東産業岩沼工場の敷地建物を買収。町立、組合立を経て、昭和25年4月県立に移管。男女共学の学区内唯一の普通高校であった。定員は全日制451人、定時制507人〔おだずま注、名取高校HPによると昭和25年県立移管時の定員男女600人〕、3分校を設置(玉浦、増田、館腰)。4 学校組合立と県立移管 佐々久『近代みやぎの歩み』(宝文堂、1979年)には次のように記されている(p157-、一部要約と下線おだずま)。------------ 戦後の物価高や土建関係の多忙、食料欠乏と買い出しなどの混乱が続いた。この時期に、岩沼、岩出山、岩ヶ崎、飯野川に4つの高等学校が町村組合立で静かに開校され、数年ならずして南郷農学校と共に県立に移管された。名取、玉造、桃生の3郡には県立高校がなかった。栗原の西部にも高校がなかった。この地理的情勢に着眼した一視学が、高等小学校に附属していた廃校の運命にある、町立実科女学校を高校に昇格することを考え、各町に出向いて説きまわった。 当時の飯野川の五島町長、佐藤カゴ屋の主人、高良印刷店主、岩沼の森喜吉前市長、当時の石垣町長、岡崎元町長、岩出山の富岡小学校長、髙橋源治医師(現古川市)、坪井亘先生、岩ケ崎の千葉惣小学校長、太宰作右衛門元町長、三浦薫、岩林豊平氏、各関係町村の議員諸氏の当時の努力の様子が思い出される。南郷農学校県立移管に当っては、県会議員諸氏が大勢で視察にでかけた。米所南郷で餅ぶるまいをうけたという話もきいた。県立移管を最も喜んだのは、創立者の長者野田真一翁であった。 このほか、桃生郡鹿又の実科高女が、髙橋軍治小学校長の不抜の見識により町立高校に昇格し、しばらく後に遅れて県立となった。いまの河南高校である。------------ 佐々先生の説明だと、高等女学校を母体に県立高校を実現したのが、岩沼(名取)、岩出山、岩ヶ崎に加えて、飯野川高校(廃校)、河南高校(現石巻北高校)がある。もっとも河南高校は学校組合をつくらなかったようだ。各町に出向いて回った一視学とは佐々先生ご自身のことかも知れない。それはともかく、名取高校と似た事例が宮城県内で他にもあるのだ。県としては、県立にするためには単独町だけでなく周辺の村ともよく協議調整して体制整備と施設整備を求めたのだろうか。 次に、『宮城県教育百年史 第三巻 昭和後期編』(昭和50年3月、企画編集宮城県教育委員会)から、関連する記載を探してみたので、下に掲げる(おだずま要約と下線)。------------【組合立高校や県立移管に関して】 昭和23年3月31日告示第111号によって、4月1日県立高等学校を36校設置することが定められた。36校は、男子主の普通科9、女子主の普通科11、農業科10、水産科2、工業科3、家政科1である。このほか、市町村立、組合立の高校としては、仙台高校(以下「高校」を略)、仙台工業、仙台商業、仙台図南、塩竈、塩竈女子、石巻商業、石巻家政、大河原、名取、志津川、岩出山、岩ヶ崎、飯野川、鹿又女子、村田、津谷農林などであった。これらの高校のうち、昭和24年度中に県立に移管されたのは、志津川、岩出山、名取、飯野川、岩ヶ崎、津谷農林、大河原の各高校である。【定時制分校に関して】 働きながら学べることから入学者が多かったが、問題を抱えていたのは分校。数が多すぎて、不振の分校もあった。そこで、昭和26年2月「高等学校(定時制課程)分校設置基準」が定められた。 第2 分校設置は市町村又は一部事務組合の地域とする 第3 一分校の6粁以内に既設分校ある場合は、之を廃止して組合立の独立本校を設置することができる。又、新たに分校を設置しようとするときは、隣接町村の修業希望に応じて組合立の独立本校を設置することができる 一方で分校振興のため、分校所在の町村と密接に連絡を取り充実に努めた結果、昭和27年4月には、田尻、米谷、前谷地、矢本が独立して町村立の定時制高校に昇格したのである。------------5 各事例について●岩ヶ崎高校(学校HPから) 昭和16年 岩ヶ崎町立宮城県岩ヶ崎実科高等女学校 →昭和18年 岩ヶ崎町立宮城県岩ヶ崎高等女学校 →昭和23年 岩ヶ崎町立宮城県岩ヶ崎高等学校(男女共学、募集定員200) →昭和25年2月 組合立に移管(1町6村=岩ヶ崎、文字、栗駒、尾松、鳥矢崎、鶯沢、津久毛) →昭和26年4月 県立移管●岩出山高校 『岩出山町史 通史編・下巻』(平成23年11月、発行大崎市、編集岩出山町史編さん委員会)から引用する。一部おだずまで要約と下線。------------ 町財政の厳しい中で、新たに中学校の建設も必要となる上に、高等女学校は廃止してはどうかとの声も出てきた。しかし、教育関係の有識者によって岩出山高等女学校を存続させようとする動きも現れた。町立の高等女学校ではあるが、近隣の玉造郡2町6村から生徒が通学していることを踏まえて、廃止の危機を乗り越えるには、県立に移管することで存続させようとの運動が展開された。昭和21年11月、郡内町村会で県立移管の請願が決定された。 しかし、県立に移管させるためには「新制高等学校実施の手引き」に定められた基準を満たすことが条件であり、校舎の増築が必須の課題であった。昭和22年に町議会や建設促進委員会の活動、それに卒業生のバザーによる募金集めなどを経て、岩出山町議会では新校舎建築を決議し、工事費を予算化。昭和23年2月玉造郡内町村会で、新制高校が(小学校中学校より一年遅れの)昭和23年4月より施行されるまでには県立移管が難しい状況を踏まえ、とりあえず玉造郡内町村組合立としてスタートさせ、費用も分担することなどを決定した。------------ 昭和4年 岩出山町立宮城県岩出山実科高等女学校 →昭和18年 岩出山町立宮城県岩出山高等女学校 →昭和23年4月 組合立に移管(玉造郡2町6村) 「玉造郡二町六ヵ村組合立宮城県岩出山高等学校」となる。組合構成町村は、岩出山町、鳴子町、東大崎村、西大崎村、一栗村、真山村、川渡村、鬼首村。必要経費は岩出山町が50%を、郡内他町村が50%を負担することとした。川渡(中学校)、真山(小学校)に分校設置。(上掲町史から) →昭和24年4月 県立移管●飯野川高校 『河北町誌 下巻』(昭和54年8月、著者河北町、編者河北町誌編纂委員会)には各学校の年表が掲げられている。飯野川高校の部分から一部を引用する。おだずま要約と下線。------------ 昭和2年 飯野川高等女学校(本科57名入学) 昭和4年 補習科設置 昭和23年 新制高等学校として認可(組合立)、管理者として飯野川町長五嶋三右衛門引継を施行。4月宮城県飯野川高等学校開校。定時制を設置、大川、中津山、二俣に定時制分校。 昭和25年3月 校舎移転(飯野川旧屋敷元桃生郡役所跡)、4月県立移管公布。 昭和26年 定時制二俣分校廃止、定時制十三浜・桃生分校認可 昭和34年 定時制桃生分校と中津山分校を廃止し桃生町分校設置 昭和40年 大川分校廃校 昭和41年 桃生町分校廃校------------ 飯野川高校の学校組合構成町村はわからなかったが、分校のあった桃生、中津山、二俣、大川、(本吉郡)十三浜などが参画していたのではないか。 なお、平成22年閉校し、校舎は現在、石巻北高校飯野川校である。●河南高校(現石巻北高校) 『河南町史 下巻』(平成17年、編集河南町史編纂委員会、発行宮城県河南町)から、経緯をまとめてみた(おだずま要約、下線)。------------ ・大正13年12月 宮城県鹿又実科高等女学校として認可。 本科2年、補習科1年、専科1年。定員120名。 鹿又村素封家高橋三郎が女子教育の重大さを認め、資産を寄附創設。 ・大正14年4月 鹿又小学校の一部を使用し開校 ・昭和18年 高等女学校令改正により宮城県鹿又高等女学校となる。本科2年、専攻科1年。定員300名。 ・昭和21年4月 学制改革で修業年限3カ年となる ・昭和23年4月 学校教育法制定により宮城県鹿又高等学校となる。定時制併置 ・昭和41年 校名変更により、宮城県河南高等学校 (前谷地高校を廃止。県立農事講習所が閉所)1966年(昭和41)までは、鹿又高等学校、前谷地高等学校、農事講習所の3つの高等教育機関が存在した。これらを統合して県立の高等学校を創立しようとする動きが以前からあり、同年4月1日に「宮城県河南高等学校」としてスタートし、1968年(昭43)4月には県立移管が実現したのである。------------ 女学校時代と戦後の鹿又高校は、鹿又村立だったと思われる(鹿又村など5村合併による河南町の成立は昭和30年)。 次に、『河南町誌 上』(昭和42年3月 編集河南町誌編纂委員会、発行河南町)を見てみた。河南高校の創立と県立移管に関して、以下に要点を記す。------------・昭和34年 町議会で校地の購入を可決・昭和35年 PTA校地獲得実行委員会開催・昭和37年 宮城県・鹿又高等学校校地造成促進委員会発足・同 鹿又駅向かいの耕地24枚(8000坪)買収を町議会で採決・昭和39年 町議会で本校新校舎建築予算議決・昭和40年 校舎落成記念式(旧鹿又高校分)・昭和41年 第二期工事竣工(農事講習所分)・昭和41年から町立河南高等学校発足------------ 昭和41年に3施設統合により(形式は鹿又高校の改名で)宮城県河南高等学校が河南町立としてスタートし、43年に県立に移管した。(上記要点抜き書きでは省略したが)上記の『河南町誌 上』には、町側の県への陳情や要望の経緯と、施設を町が整備することを条件に県立に移管する協議が進められた関係資料が収載されている。 なお、平成22年に石巻北高等学校となる。飯野川高校を併合した形である。●米谷工業高校 米谷工業高校は、学校組合の事例として取り上げる。同校の場合は組合立の期間が長い。上記の『宮城県教育百年史 第三巻 昭和後期編』の記載のように、県の基準に沿って、昭和27年に分校から本校に昇格する際に組合立としたもののようだ。 ここで、『東和町史』(昭和62年3月、監修佐々久、編纂東和町史編纂委員会)から関係する部分を読んでみた。以下に(おだずま要約)。------------ 宮城県登米高等学校定時制米谷分校として昭和23年7月、米谷公民館を教場として発足。まもなく米谷中学校を借りての夜間の学習であったが、土日は昼間通学もできた。次第に米谷地区の近隣の地域からも入学者が増加。昭和26年、米谷中と浅水中が合併して米谷中校舎が全面的に空いたので夜間から民間教授への切り替えができるようになった。そこで、同年4月から、昼間週3日授業になる。 独立の気運はこのころから次第に高まり、隣接の米川、浅水、錦織と4ヵ町村による組合立の議がまとまり、県に設置認可申請をし、昭和27年4月米谷高等学校として独立設立が認可された。 定時制課程の独立校となったが、課題は教育課程の検討。地域の農林業に就くものは30%程度に過ぎず、商工業や家庭科が望まれた。また、独立校舎建設の課題は、昭和29年米谷町議会が独立校舎建設を議決、昭和30年7月落成。教育課程も普通科と家政科とした。独立校舎を契機に全日制課程の併置と県立移管の気運もまた高まってきた。 昭和32年5月東和町が発足し、東和・中田両町の組合立高校となったが、議会、組合議会、組合教育委員会等が一体となり県立移管と工業課程(全日制)併置の陳情請願を行った。昭和33年4月、工業課程(機械科)が認可され、生徒は、週6日(1から3年生)、週1から2日(4年生)となり実質的に全日制に。昭和36年4月1日、宮城県米谷工業高等学校が設立認可(機械科、電気科、自動車科)。翌37年4月1日県立移管がなる。------------以上から整理すると、次の通りだ。 昭和23年 宮城県登米高等学校定時制課程米谷分校(米谷町立であろう) →昭和27年 組合立(米谷町、米川村、浅水村、錦織村の4町村)に移管、組合立宮城県米谷高等学校 →昭和36年 組合立宮城県米谷工業高等学校 →昭和37年 県立移管 (平成27年閉校)■関連する過去の記事(組合立学校) 東北の組合立学校(08年6月19日) 明星中は公募による命名だった(10年6月21日)=明星中学校は組合立だった■関連する過去の記事(岩沼と名取の関係) 合併と広域地名(名取市、柴田町、本吉町、宮城町など)(2024年03月19日) 地名(市町村名)の付け方の類型論(2024年03月05日)
2024.03.21
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亘理町逢隈蕨の十二支地名(方角地名)について書いた(十二支と天地人(亘理町)(2024年03月12日))が、耕地整理の際に命名したのではないかと推察した。じつは、昨年参加させて頂いた地名研究会で、耕地整理で字名変更が行われた大崎市の「戦中地名」についての研究報告があったことを思い出したからだった。以下、大崎市の「戦中地名」について。下記文献から当ジャーナル整理。(■鈴木進、鴇田勝彦「大崎市古川大崎を歩く」 宮城県地名研究会『地名』第58号 所収)1 地域の概要 大崎市古川大崎は、次のような経緯をもつ地域である。・明治8年 大崎村←名生村+伏見村・明治22年 大崎村←大崎村+新田村+清水村+下野目村+南沢村・明治29年 (分村)→東大崎村(大字大崎・新田・清水)、西大崎村(大字下野目・南沢)・昭和25年 古川市大崎・平成18年 大崎市古川大崎(↓画像 「大崎市古川大崎」の区域。なお、隣接して「古川清水」「古川新田(にいだ)」の区域がある。) 名生舘(みょうたて)、名生北舘などの字名が残るが、名生館(名生城)は南北朝時代から戦国時代の城で、江合川西岸の段丘の上に築かれた。大崎5郡を領地とした大崎氏の城で1351年に斯波(大崎)家兼が築城したといわれる。〔当ジャーナル注釈〕合併と広域地名の関係論(下記参照)でいうと、大崎氏が居城し、また陸羽東線を挟んで大崎神社もあり、明治初年に大崎村を名乗ったのは、その資格十分ありということだろうか。(参照 合併と広域地名(名取市、柴田町、本吉町、宮城町など)(2024年03月19日))2 耕地整理と戦中地名 東大崎村では昭和17年の耕地整理で大幅な字変更が行われた。ここで下記のような戦中地名が集中的に生まれた。・(古川大崎)朝日、共和、更生、新興、信念、交合、銃初稔、自力、神力、先制、善勝、総力、東亜、日の丸、奉公、富国、報国、躍進・(古川清水)精農、新成・(古川新田)朝日、共栄、興和、銃後稔、十陸稔、末広、世紀、宝稔朝日と共栄を除くと、多くが全国的にみても東大崎村特有の地名である。 これらはあくまで耕地名であり、宅地の字(囲)名はそのまま残った。例えば、「古川大崎字自立」の小字の中の宅地に「古川大崎字伏見新田」が地図で見ると海に浮かぶ小島のように残存する。明治以来、当地域は「名生○○」「伏見○○」という40ほどの字名だったが、耕地整理で戦中地名を含む新字が付けられ、水田などの地域の大部分はこの新しい小字に変わったが、ただし、宅地部分だけは明治以来の字名が残ったという構図である。3 具体例・「報国」 昭和17年に名生西川原と名生新田に生まれた耕地名・「銃初稔」(じゅうはつねん) 昭和18年の意味で、「銃」を使った戦中地名。名生中川原のうち渋井川と陸羽東線に挟まれた水田。・名生上代(わだい)では、「昭和」、瑞祥地名の「弥栄」なども生まれた。・名生六角は、安永風土記にある「六角辻」が語源とみられるが、渋井川を挟んで西に「六角」、東に「共和」の新字名を付けた。前者は「古川大崎字六角」であり、「古川大崎字共和」に囲まれて残る「古川大崎字名生六角」とは別である。・「富国」は伏見樋下の一部、伏見津花立、伏見八反田の新しい耕地名。「善勝」は伏見樋下の8割方についた新字名。なお、平成期の耕地整理で、「善勝」と「富国」の西3分の1が新たに「新善勝」となり、また、「富国」の東3分の2と周囲(更生、東亜、巴、十陸稔、世紀など)は東大崎最大の水田面積を持つ新しい字「富国」となった。宮城県古川農業試験場、農業大学校もここにある。4 なぜ付けたか 15年戦争、なかんずく太平洋戦争時には国民は総動員体制のもと、農村は食糧増産のための耕地整理が緊急の課題だった。これと戦意高揚が結びついて、特にこの東大崎村で戦中地名が集中的に生まれた。誰がイニシアティブをとったか分らないが、村民の支持をかなり得たと思われる。5 補足(当ジャーナル) この研究報告では、現地調査によって「屋号」が多く確認され、伝承、氾濫などにまつわる由来などが非常に興味深かった。鈴木さん鴇田さんの調査に心から敬意を表します。■関連する過去の記事 十二支と天地人(亘理町)(2024年03月12日) 合併と広域地名(名取市、柴田町、本吉町、宮城町など)(2024年03月19日) 亘理町を知る(地域区分、大字など)(2024年03月10日) 地名(市町村名)の付け方の類型論(2024年03月05日)
2024.03.20
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合併による新市町村名に「広域地名」を付したと考えられる宮城県内の事例を考えてみた。ここで挙げた他に、平成の合併の大崎市、栗原市、登米市も広域地名と言えるが、これらは言わば素直な命名でスケール感の齟齬もないだろう。また、前回記した亘理町の場合は、小堤村が領主居住地なので広域地名を名乗る資格があったと思う。(過去の記事 亘理町を知る(地域区分、大字など)(2024年03月10日)を参照ください)。しかし、むしろ興味を抱くのは、地理的範囲や中心性の一般的認識と齟齬をきたしたり混乱を招いたりするケース、具体的には、その広域地名(郡名や旧国名など)の中心地と言えないような一部地域が新町名に採用するような場合である。そんな観点で、宮城県内のケースを取り上げてみる。■関連する過去の記事 地名(市町村名)の付け方の類型論(2024年03月05日)1 名取市 昭和30年4月1日に2町4村が合併。名取町とされた(昭和33年市制)。 名取郡は、伊達氏所領下では66か村があり、南方(増田に会所)と北方(長町に会所)に二分された。明治11年の郡区町村制により、郡役所を茂ヶ崎村(長町)に置く。大正10年に郡制は廃止されるが、昭和17年、県庁の地方事務所が、名取郡と亘理郡の2郡を範囲として岩沼町に置かれた。以上は、『名取市史』(名取市史編纂委員会、昭和52年3月)による。 余談だが、岩沼市に現在の名取市域をも管轄にする県の保健所や警察署が置かれたのは、名取亘理地方事務所が岩沼に置かれた経緯が関係しているのではないか。なお、県立名取高校は、もと岩沼高等女学校だったが、昭和23年に高等学校組合立宮城県名取高等学校となり、昭和25年県立に移管。(名取高校の経緯、学校組合の構成などは下記記事を参照ください。)■関連する過去の記事 組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)なお名取市増田の名取北高校は昭和54年創立。以下には、『名取市史』(上記)から、合併の経緯を記す。------------ 昭和28年10月の町村合併促進法施行以後、県町村合併推進協議会及び名取亘理地方事務所等の関係町村に対する働きかけの積極化に伴い関係町村の動きも漸く活発化し、増田町・下増田村・高館村・愛島村・館腰村はそれぞれ合併研究会若しくは協議会を設置して、住民の啓発宣伝につとめ、積極的な合併の促進をはかるに至ったが、閖上町は法に規定する標準規模の人口八千以上を理由とし、合併には極めて関心薄くしたがって当局の住民え(ママ)の啓発も消極的であり、むしろ仙台市との合併を強力に要望する傾向が強かった。 このような状勢の中に、同年末及び翌29年2月と相次いで増田町・閖上町・下増田村・愛島村・高館村及び館腰村のうち植松・飯の坂(ママ)を一地区とする県の合併試案が発表された。 この試案によって分割合併が想定されていた館腰村では、岩沼ブロックに編入を予定されていた同村堀内及び本郷地区住民は、岩沼ブロック賛成と増田ブロック賛成の二派に分かれて対立するという事態が起り、村当局の寧日のない奔走によっても収集がつかなかったため、地方事務所のあっせんによって、その帰すうを住民投票で決定することに両派代表者の妥協が成立、住民投票の行われた結果、全村一致で増田ブロックによる合併が決定された。 このような紆余曲折を経て昭和29年8月10日に至り独立か或いは、仙台合併を強力に主張する閖上町を除く1町4カ村による合併協議会の設立を見た。 しかる時たまたま大仙台市構想が発表されたために、愛島、高館両村民の動向は変化し、両村一部住民が仙台合併えの(ママ)研究を始め、閖上町と共に署名運動を展開するなどの動きが起り、このため1町4ケ村による協議は中断された。 しかし、その間にあって残る3ケ町村による協議会は続けられていたが、下増田村がこれ又仙台市との合併方向に傾く様相を見せるに至ったため、ここに県試案による合併は一頓挫をきたした。 かかる情勢を憂慮した県当局及び地方事務所は、越えて30年3月8日9日の両日関係町村代表者を招き、協議を行い、最悪の場合には知事勧告も辞さないという強硬方針を以て関係町村当局及び議会等に協力に勧奨し、続いて宮城県町村合併促進審議会の勧奨もなされた結果、遂に関係町村が県試案に同調するに至り、かくて同月14日2町4ケ村から成る町村合併協議会が開催され、施行年月日を昭和30年4月1日とし、又町名を名取町とし、その他合併諸般の具体的事項を決定し、翌15日関係町村一斉に合併関係議案を議決するに至り、ここに昭和30年4月1日、名取町が誕生したのである。------------ 新町名の採用の事情は『名取市史』には記載がない。新町名としての「相応しさ」には微妙さもあるが、今では駅名にも採用されて(増田駅→名取駅)、他方で郡は既に消滅し、若い人たちは名取市こそ名取郡の中心だったと自然に思うのだろう。 なお、字名の表記については、合併に伴う協定事項で、字名については旧高館村と旧愛島村は新町名(名取町)の後に旧村名をつける、とされた。2 柴田町 『柴田町史 通史編Ⅰ』(柴田町史編さん委員会編、平成元年3月)から記す。舟岡村は、政宗の時代に名を改められた(風土記御用書出)。その前は四保(シノオ)と呼ばれた。シノオは、湿気を示す(シトドニ濡れる、と同義)。白石川、荒川と四保山(船岡館山)が造った自然堤防の後背地の沼沢地をシノオとよんだと解される。四保氏は本姓に復して柴田氏となったと伝えれるが、地名は四保から舟岡となった。四保山の山容が舟のようだからと考えてよいのでないか。 『柴田町史 通史編Ⅱ』(同上編、平成4年5月)から。明治5年の大小区制(明治11年まで変遷あり)は民衆の支持を得られず、明治11年に三新法が公布(郡区町村編成法、府県会規則、地方税規則)される。現柴田町域は14か村であった。 舟岡村、上名生村、中名生村、下名生村、舟迫村、入間野村、入間田村、四日市場村、上川名村、海老穴村、小成田村、成田村、富沢村、葉坂村 明治22年市制町村制では、次の通り。 ・船岡村←船岡、上名生、中名生、下名生 ・槻木村←入間野、入間田、四日市場、上川名、海老穴、小成田、成田、富沢、葉坂、船迫 昭和29年9月22日県の合併計画答申では、柴田郡は3つのブロックとされた。 ・柴田郡一 大河原町、槻木町、船岡町、金ケ瀬村、沼部村 ・柴田郡二 村田町 ・柴田郡三 川崎町、富野村 同日の通知によると、特に第一ブロックについて、答申の際には村田町は地理的及びその他の事情にかんがみ一応保留の意味を持ってブロック外としたが、同町の現在の規模をもってしては将来における行財政の合理的能率的な運営の確保を期待することは困難と思われ、また四囲の合併町村の規模等を勘案し大同合併することが最も適切と考えられるのである、とされた。 昭和28年12月に船岡町議会は合併の方向を伊具郡北郷村、東根村と定めて検討していたが、29年8月に県案は変更しないとされたため、船岡は、早々に自主案(槻木との単独合併)で進むことに。他方、槻木町では、県案、自主案の対立があった。大合併案(5か町村。6町村の意見も)は町長が、小合併案(2町)は議会が与した。 9月22日県の最終案とされる答申案を受けて、船岡町議会は既定方針通り満場一致で二町合併を促進する決議。槻木町は、時期尚早とする大沼金治町長の行政執行に批判的な議会が合併推進に動く。30年3月31日の議会は翌日午前1時まで延長の上で、町長不信任の動議を可決して0時30分閉会。町長による議会解散により4月30日選挙。5月20日初の臨時会で、町長の退職承認の議案が上程されるも、不信任を先議して可決。6月12日町長選挙は接戦だが、神谷重雄が当選し、大沼が負ける。昭和30年中は合併の議論をせず、31年2月の臨時会で、「大」「小」の記載をする投票を行い15対7で船岡との合併が決まる。 なお、新町の名称については、『柴田町史 通史編Ⅱ』は、自然にこれしかないという趣旨の書き方だ。伊達家重臣の柴田氏の存在などに触れられているが、合併の際に町名が論議されたなどの記述はない。3 (旧)宮城町 『宮城町誌(本編)』(昭和44年3月、宮城町誌編纂委員会)による。 昭和30年2月1日、広瀬村と大沢村の二か村合併で、宮城村と称した。なお、大字名は、広瀬と大沢の村名の次の表記を新村名に続けることとした。 同年4月1日には名取郡域の新川地域を編入して、昭和38年11月3日町制に。 新村名採用の事情などは記載がないが、宮城郡のなかではもっとも西にある新村が名乗るのはかなり「大物狙い」だったと言えよう(おだずま感想)。現在、仙台市の宮城総合支所の名称に残っている。また、仙台宮城ICの名は、開通当時の仙台市と宮城町の存在が関係しているが、若い人たちや転入者は違和感を持つかも知れない。4 (旧)本吉町 『本吉町誌Ⅱ』(昭和57年3月、佐々久監修、本吉町誌編纂委員会編集)による。------------ 本吉(モトヨシ)の語源は、夷語のモトウシュで、モトは起元、原始、土着者の意、ウシュは場所の義。さらば元蝦夷の部落なりしを何等かのじこありて転住したる蹟だろう。また、モトは小沼の義にも謂いウシュイは湾の義ともなる。(藤原相之助「日本先住民族史」より抜粋して説明) 志津川町が以前、本吉村と呼ばれ、古くはこの地方が本吉荘・本吉郷といわれた。 昭和30年3月30日、津谷町、大谷村、小泉村が合併し本吉町となったが、この町名は本吉郡の中央部に位置し、中央町村として将来の発展を期待して命名された名である。------------ 新町名の論議の有無や経緯はわからないが、理由付けは郡の中央ということのようだ。5 その他明治8年にできた大崎村(その後、東大崎村と西大崎村)や、旧栗駒町にある栗原の字などは、歴史的には明治の頃に一部地域が大きい地名を取るという構図だったのではないか。別途検討したい。今回取り上げた4つの新町村名、亘理町のほかにも、桃生町(明治の市町村制で桃生村)、牡鹿町(昭和の合併、鮎川町+大原村)は当てはまる(大物狙い?)かもしれない。
2024.03.19
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三陸道を走っているとカーナビに浮かんだ文字が、寅、卯、辰、巳... 左の方に亥も見えます。これは、十二支ですね。亘理町逢隈蕨の付近と示されています。地図ソフトで見ると、この逢隈蕨(大字)には、子、丑、寅... の十二支の小字がすべて揃っています。さらには、天、地、人もあり(地がカーナビ画面に出ています)。甲、乙(カーナビ画面)もあれば、艮(こん)に福という小字もあります。逢隈蕨地区の真ん中あたりに、薬師十二社(カーナビでは薬師十二神)があり、ここの小字は福。神社を取り巻くように十二支の字があるのかもしれません。前の記事に書いたことでしたが、改めて。■前の記事 亘理町を知る(地域区分、大字など)(2024年03月10日)以下は推測で書きます。これらは、薬師十二神にちなんで、方位を表す地名として使われたのではないでしょうか。十二支の方角は、子が北で時計回り(従って南北方向を「子午線」という)なので、カーナビでもそのように見えます。艮(うしとら)は、北東の方角で、丑(時計でいうと1時)と寅(2時)の間。ちなみに、同様に巽(南東=辰と巳の間、たつみ)、坤(南西=未と申の間、ひつじさる)、乾(北西=戌と亥、いぬい)。また、甲乙丙丁...の「十干」は、甲と乙が東(十二支の卯)で、真東の卯を挟む形で北に甲、南に乙が配置され、同様に、丙丁が南、庚辛は西、壬癸は北です(戊己は中央)。薬師は古くからあるようですが、地名は意外と耕地整理された際の最近の命名ではないかと思います。ウイットで命名ではないでしょうか。■関連する過去の記事(地名などについて。下記記事最後に掲載の記事リストご覧ください) 地名(市町村名)の付け方の類型論(2024年03月05日)
2024.03.12
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亘理郡亘理町の名は郡名に由来すると思うが、合併と大字表記の取扱い状況はどうだろうか。また、町内のエリア区分はどうか。地名に着目しながら理解を深めよう。1 歴史と「わたり」の名 郷土資料館でもらった『亘理町文化財マップ:わたりの歴史巡り』(亘理町教育委員会、2023年3月)をもとに。 町内には100か所近い遺跡があり古くから人が住んでいた。わたりの名は、川を渡るが由来と考えられている。奈良時代には朝廷の政治圏に入り海道筋の要衝地とされた。平安時代には郡衙が置かれた。三十三間堂官衙遺跡(国指定史跡、逢隈駅の西側)。 郡衙が役目を終えたころに登場したのが亘理権大夫藤原清経(子が藤原清衡)。文治5年奥州合戦で奥州藤原氏が滅ぼされると、戦いで活躍した千葉常胤の三男武石胤盛が亘理郡を拝領。武石氏はのち亘理氏を名乗る。天正19年(1591)伊達政宗の命により亘理氏は涌谷へ移り、片倉景綱が亘理を治めるが、さらに慶長7年(1602)景綱が白石に移され、伊達成実が亘理領主となる。成実は政宗の右腕として特に戦場で活躍し、政宗、忠宗と二代にわたり藩主を補佐。また、町場の整備や新田開発を行い現在の亘理の基礎を築いた。その後、亘理伊達家の城下町として発展していった。 明治3年亘理領主14代伊達邦成は多くの家臣と北海道に移住、現在の伊達市(姉妹都市)に発展した。2 地域の概要(エリア区分) 上記パンフレットによると、町内は亘理、吉田、荒浜、逢隈の4エリアとして紹介されている。 町の行政組織では、荒浜、逢隈、吉田、亘理に4つの地区交流センター(旧各支所)が置かれていることからも、この4つのエリア区分が定着していると思われる。・亘理エリア 城下町の風情が残る町並み(上記パンフの表現。以下同じ) =(主な施設等)亘理駅、悠里館、伊達成実霊屋、亘理領主伊達氏歴代墓所、称名寺のシイノキ・吉田エリア 山裾に広がる太古のくらし =浜吉田駅、大塚古墳、慶月院(原田甲斐の母)の墓・荒浜エリア 阿武隈川と太平洋を繋ぐ港町 =鳥の海、湊神社、御城米蔵跡、河村瑞賢滞在地跡・逢隈エリア 由緒ある歴史を受け継ぐ里 =三十三間堂官衙遺跡、安福河伯神社、毘沙門天木像(蕨薬師堂)、義民北原金平顕彰碑(中泉八幡神社) 4つの地区交流センターの所管区域は、「亘理町行政連絡区設置並びに区長選任に関する規則」に定められている。概ね次の通りだ。 ・亘理地区 31行政区 =(大字のない)字○○、逢隈鹿島、逢隈神宮寺、逢隈高屋のなかの小字(その一部などの表記も多い) ・吉田地区 16行政区 =吉田、長瀞 ・荒浜地区 6行政区 =荒浜、逢隈高屋のなかの小字 ・逢隈地区 15行政区 =逢隈上郡、逢隈下郡、逢隈小山、逢隈田沢、逢隈中泉、逢隈牛袋、逢隈十文字、逢隈榎袋、逢隈鷺屋、逢隈蕨 なお、逢隈地区交流センター管内には、「逢隈(逢隈○○ではない)字蕨」(蕨行政区)と「逢隈字郡」(下郡行政区、早川行政区)があるようだ。3 大字等の表記(1) 現状 「宮城県亘理郡亘理町」の後に続く地名の表記をまとめてみる。 いわゆる大字と思われるのが、荒浜、長瀞、吉田、逢隈○○(逢隈中泉など13地名)である。ただし、「大字何々」とは表記しない(cf.蔵王町の場合)。また、大字地名がなく、「亘理町」の後に小字名が続く場合は数多いが、おそらく旧亘理町(明治の小堤村)エリアが昭和の合併の際に表記上大字を省略する(字○○のように「字」は表示する)こととしたためだろう。大字を表示しないのは、旧亘理町エリア以外でもあるが(例:字苺里←以前は吉田字某だったろう)、新たに地名をつける際に大字の表記を省略したと思われる。(表記例) 町役場 亘理町字悠里1番地 吉田地区交流センター 亘理町吉田字大塚185番地 逢隈地区交流センター 亘理町逢隈田沢字鈴木堀6番地8 荒浜地区交流センター 亘理町荒浜字中野33番地■関連する過去の記事(大字、小字などの表記方法について) 蔵王町を知る(その1 永野と宮の謎)(2024年01月18日) 市町村合併と住所の表記(07年8月25日)(2)合併の際の経緯 『亘理町史 現代編』(亘理町史編纂委員会編、亘理町発行、平成20年3月)を読んでみた。 昭和30年2月1日に、亘理町(まち)、荒浜町、吉田村、逢隈村の2町2村が合併し、新たな亘理町(ちょう)が発足。県の2度にわたる合併計画試案(昭和28年、29年)はいずれも亘理郡を北4町村、南2村で合併するもので、これに従った。 当時の人口は、亘理町(まち)7,296人 荒浜町5,845人、吉田村6,554人 逢隈村9,094人で合計28,789人だった。 合併建設計画とは別に、17項目の合併条件事項があり、昭和30年1月18日に関係町村長が連署した。そのうち、第13として「字名について」。「旧町村名はつけない。ただし、荒浜地区及び逢隈地区は新町名の次に旧町村名をつける」とされた。また、第17として「支所の名称」は、荒浜支所、吉田支所、逢隈支所の3つ。 念のため、上記資料より古い『亘理町史 下巻』(亘理町史編纂委員会編、亘理町発行、昭和52年3月31日)を確認したが、合併に際する字名の取り扱いについては、合併条件事項を紹介しており同様の内容だ。 上記のように、昭和の合併で、新町名の「亘理町」のあとに、荒浜地区と逢隈地区で旧町村名をつけるとされた。上記(1)の現状に照らしてみると、まず逢隈地区では「亘理町(大字)田沢字鈴木堀...」としなかったのは、逢隈村を構成する13の大字(これらは明治町村制の前の村である。5(1)参照)の地域的一体感を表示で残すべきとの声があったのだろう。他方で、「亘理町逢隈大字田沢字鈴木堀...」も冗長なので、「逢隈」の2語を冠する13の大字名にした、ということだろう。 次に、荒浜地区は現在も「荒浜字○○」が主流だ。逢隈地区と違うのは、大字が単一だったので複雑でない(明治もひとつの村)なので、「亘理町字中野...」とする手もあっただろうが、ここも荒浜(町)の語を残す意識が強かったで、合併条件事項のとおり旧町名(荒浜)を大字として残したのだろう。 吉田地区は、現状でも吉田と長瀞の2つの大字がある。合併条件事項では、吉田地区は旧町村名をつけないとされたことから逆算して考えると、昭和の合併前は「吉田村吉田字○○」「吉田村長瀞字○○」と表記していた(明治の町村制で吉田村と長瀞村が合併。5(1)参照)ではないか。4 小中学校(1)小学校 小学校は6校。通学区域(学区)を確認すると(町規則)、小学校は次の通り。小字の一部が対象や対象外とされている場合を除外して、概要をつかむ。 ・亘理小学校 字○○、逢隈鹿島字○○、逢隈神宮寺字○○ ・荒浜小学校 荒浜字○○ ・吉田小学校 吉田字○○ ・長瀞小学校 長瀞字○○ ・逢隈小学校 逢隈上郡字○○、逢隈下郡字○○、逢隈小山字○○、逢隈田沢字○○、逢隈中泉字○○、逢隈牛袋字○○、逢隈十文字字○○、逢隈榎袋字○○ ・高屋小学校 逢隈高屋字○○、長瀞字○○(各小字の一部とされる)、逢隈鷺屋字○○、逢隈蕨字○○ 以上のとおりで、13ある逢隈を冠する大字(逢隈○○)が3つの小学校区に分かれているようだ。(2)中学校 中学校は、亘理、荒浜、吉田、逢隈の4校だ。 ・亘理中 ←亘理小学区+吉田小学区+逢隈高屋字○○ ・荒浜中 ←荒浜小学区+逢隈高屋字○○ ・吉田中 ←長瀞小学区 ・逢隈中 ←逢隈小学区+逢隈鷺屋字○○、逢隈蕨字○○ つまり、高屋小学校だけが中学校になると学区が分割される。すなわち高屋小の学区のうち、逢隈高屋は、亘理中と荒浜中に分かれて進学し、逢隈鷺屋と逢隈蕨は逢隈中に進学する。5 町村合併の経緯 『亘理小史』(亘理町史編纂委員会編、亘理町発行、平成2年10月1日)から。(1)明治の町村制 明治5年の大小区制で、亘理郡は第19大区となり、さらに、8つの小区に分けられた。現在の亘理町域は、次のようにされた。 ・小1区(9)=上郡、下郡、小山、田沢、中泉、牛袋、十文字、榎袋、鷺屋 ・小2区(3)=蕨、高屋、高須賀 ・小3区(3)=小堤、鹿島、神宮寺 ・小4区(5)=長瀞、吉田(一部は現山元町へ) 明治11年、大小区を廃して郡区町村をおく。 明治21年4月に市町村制が公布され(翌22年4月施行)、現亘理町域は次のようにされた。 ・亘理町(まち)←小堤村 ・吉田村←吉田村、長瀞村 ・逢隈村←牛袋村、榎袋村、鹿島村、高屋村、上郡村、下郡村、小山村、鷺屋村、十文字村、神宮司村、田沢村、中泉村、蕨村 ・荒浜村←高須賀村 鹿島村など13村が「逢隈村」とされたのは、『亘理小史』によると、昔「逢隈の里」と呼ばれた地域であったことによる。 小堤村が単独で広域地名の亘理を名乗ったのは、亘理氏の館や亘理伊達氏城下町の歴史から名乗る資格があったということだろう(おだずま意見)。(2)その後の経緯 荒浜村が荒浜町となる(昭和18年)。昭和の合併で2町2村が合併したのは上記3(2)のとおり。6 余談 先日三陸道を走っているとき、運転している編集長に助手席の特別秘書(娘です)がカーナビ画面をみながら声をあげた。「十二支のような地名があるよ!」と、写真も撮っていた。あとでネットで検索したら、大字「逢隈蕨」の地域の中に、十二支の動物や、天、地、人の地名(小字)がある。非常に面白いと思いました。■別建てで記事にしています 十二支と天地人(亘理町)(2024年03月12日)■関連する過去の記事(地名などについて。下記記事最後に掲載の記事リストご覧ください) 地名(市町村名)の付け方の類型論(2024年03月05日)
2024.03.10
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吉岡を訪ねた。奥州街道の吉岡宿として知られ、また、名画「殿、利息でござる!」(2016年)の舞台だ。下の写真は、映画に出てくる9人の篤志家のうち、末裔が街に唯一残っている(吉岡宿本陣案内所での説明)という穀田屋さん。七ツ森の四季という酒を買ったら、御当主とお母さまでしょうか、短冊をいただいた。感謝の気持ちとともに、歴史をかみしめる。一粒の花の種は 地中に朽ちず 終に千林の梢に登ると 謂うが事も候へ穀田屋十三郎 ー国恩記より次の写真は、宿場の北の端の街道分岐点。奥州街道と出羽街道(仙台領奥州街道絵図(仙台市博物館蔵)では、中新田道と書かれている)が分かれるところだ。奥州街道は、一般に江戸(東京)から弘前藩三厩(青森県)までの総称で、国内最長の道でした。この街道は大道と呼ばれる幹線道路でした。県内での道筋は、ほぼ国道4号線と一致し、白石、岩沼、国分町(仙台市)、吉岡(大和町)、古川、高清水、築館、有壁、など25か所に宿駅が置かれていました。柱となっている石碑(比較的新しい)と案内図には、「出羽海道中山越え」と書かれている。吉岡宿本陣案内所に入ってみたら、くわしく説明をしていただいた。もと本陣のあった場所。向かいが浅野屋の大きな屋敷の跡。■9名の篤志家 穀田屋十三郎、菅原屋篤平治、千坂仲内、穀田屋十兵衛、遠藤幾右衛門、浅野屋甚内(周右衛門)、遠藤寿内、穀田屋善八、早坂屋新四郎■国恩記顕彰碑 9名の篤志家が吉岡宿を救った経緯が、龍泉院の住職を務めた栄洲瑞芝(えいしゅうずいし)により「國恩記」(こくおんき)として記録された。国恩記顕彰碑は九品寺境内にある。■龍泉院 曹洞宗の寺。寛永5年(1628)現在の鶴巣下草から当地に移った。当寺8世の住職を務めた栄洲瑞芝ほか、歴代住職の墓がある。■九品寺(くほんじ) 浄土宗の寺で、元和2年(1616)に、現在の鶴巣下草から移った。吉岡宿本陣案内所の方の説明だと、浅野家の末裔はいない(県外のどこかとか)が墓が九品寺にあるとのこと。■吉岡館跡 寛文2年(1662)、奥山家が吉岡領主となるのに伴い整備した居館の跡。宝暦7年(1757)奥山家に代わり但木家が領主となって当館に移った。■吉岡城跡 政宗公の三男宗清の居城の跡。元和2年(1616)に完成し、現在の鶴巣下草にあった居城から寺院等施設もともに移った。隅櫓が建てられていたとみられる櫓台が2か所残る。北の「ひだまりの丘」(大和町保健福祉総合センター)付近が一の丸、東側が二の丸と伝わる。■関連する過去の記事(大和町) 宮城・大和町の史跡 御所館と八谷館(2011年9月30日) セントラル自動車が奥州街道を復活(09年2月13日) 鶴巣PAのETCカレー(2011年1月23日) 北根と七北田街道(2011年10月24日) 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2011年10月23日) 街道を行く 奥州街道の吉岡-三本木について(05年10月25日) 船形山神社の仏像と多賀城(07年8月30日) 宮床ダム殺人未遂事件を考える(09年8月23日)
2024.02.01
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タイトルだけでも血が騒ぐ。1月29日河北新報「アングル」は、写真をふんだんに使い、牧山の自然と風景、そして由緒を伝える。山名に関して、要旨は以下だ。・中腹に「魔鬼山寺跡」がある。蝦夷征討に派遣された坂上田村麻呂が石巻地域にいた魔鬼一族の首領の妻を倒して平定した。その妻の供養と平和を願い建てた寺があったとされる。・「魔鬼山寺跡」を示す石碑の前では、2本の木が絡みつき不気味な雰囲気(写真掲載)・山頂の零羊崎(ひつじさき)神社の禰宜桜谷靖雄さんによると、山の名の由来は、魔鬼山や、かつて呼ばれていた龍巻(たつまき)山との説があるという。・山頂付近から石巻の海を一望できる。零羊崎神社は、海の神「豊玉彦命(とよたまひこのみこと)」を祭る(写真掲載)(記事要旨以上)石巻観光協会サイト(内容)によると、零羊崎神社(牧山神社)のいわれは、応神天皇2年(271)に神功皇后の御勅願により創建されたと伝えられる。祭神は海の神である豊玉彦命。平安時代の延喜式神名帳では、牡鹿十座の筆頭として名神大社に列せられた。中世から近世にかけては神仏習合の天台宗鷲峰山長禅寺として信仰を集め、江戸期には春秋の祭礼に合わせ湊砂山にて須賀の市といわれる盛大な互市が開催された。明治の神仏分離で長禅寺は廃寺となり神社のみとなったが、現在の拝殿は長禅寺観音堂の遺構で、神社社殿としては県下有数の大きさである。NHK仙台の「知っトク東北」で名前の由来を解説している(内容)。古事記に出る海の神豊玉彦命をまつっているが、宮司の櫻谷鎭雄さんによると、もとの名前は、涸満瓊別神(ひみつにさけのかみ)と言った。涸=干潮、満=満潮、瓊=たま、である。海をつかさどっていた神の名が後に変わって「ひつじさき」の読みになったと伝えられる。今の漢字になったのは、境内にも現れる羚羊(れいよう、カモシカのこと)を関係があるのではと考えている。羚と音が同じ零が当てられたのではないか。石巻市民だった頃の若い私も、牧山にのぼった。地元の方々は「まぎやま」、それも鼻濁音でサラリと言うのだった。■関連する過去の記事(石巻と古代中世史、民俗などに限って) 田道将軍と石巻(2020年2月1日) 奥州三観音、奥州七観音(2017年1月21日)=牧山の梅渓寺 中世宮城の名族たち(その2)(2016年12月26日) 中世宮城の名族たち(その1)(2016年12月23日) 石巻市雄勝の地名「味噌作」を考える(2012年10月27日) 和淵山の歴史(2011年10月5日) 葛西氏と大崎氏(10年9月22日) 中世の留守氏(10年9月21日) 金華山と涌谷を考える(06年12月17日)(おくのほそ道) 田村三代記(田村語り)(2011年8月28日)=零羊崎神社の縁起に関わる
2024.01.29
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羽前街道(笹谷街道)、猿鼻宿について学んだ。●羽前街道 川崎宿(笹谷街道)と宮宿(奥州街道)をつなぐ道。平安時代に開かれ前九年の役や奥州合戦などの軍用路として、また、江戸時代初期には秋田山形13藩が参勤交代に使いにぎわいを見せた。 全長4里20丁(約16km)の山道は徒歩約一日。蔵王町寄りの四方峠(しほうとうげ)に湯殿山の碑があるように、出羽三山詣りにも利用され、毎日200から300人も往来したと伝えられる。明治までの長い間、太平洋側と日本海側の町々を最短距離で結ぶ重要な街道だった。 羽前街道は川崎、今宿、笹谷を経て笹谷峠を越える笹谷街道につながる。(羽前街道も含めて笹谷街道と呼称したようだ。) 江戸期に参勤交代する日本海側の諸藩は、羽州街道(青森市油川が発端)から、米沢藩板谷峠越え、上山藩金山峠越え、笹谷峠越えのいずれかを選択することになる。当初は板谷峠や笹谷峠が一般的だったようだが、金山峠の道が再整備(1656年)されると、金山峠、七ケ宿、小坂峠、桑折の道筋が参勤交代の道になったようだ。しかし、1731年大地震で材木岩(白石市小原)が崩れて通行止めになると笹谷街道(羽前街道)が使われているし、近世中期以降の物流の増加や出羽三山詣での流行で一般の利用も盛んになったようだ。 街道の名称は、笹谷街道、笹谷越え出羽街道、最上山形街道などといわれたが、明治期になって羽前街道と名付けられた。明治15年の関山トンネル開通、明治34年の奥羽本線山形までの開通で、あまり使われなくなった。●旧羽前街道保存地区 現在の蔵王町を縦断する羽前街道だが、平沢花町地区からの道筋には、街道の峠道にそのまま残されており、歴史散策路になっている。頂上の四方峠(しほうとうげ)は遠く太平洋を見渡せる。●猿鼻宿 旧羽前街道保存地区を蔵王町に下りて最初の交差点右側にある集落。現在は「花町」と呼ばれる集落である(住所名は蔵王町大字平沢字町尻)。 街道が宮宿から川崎宿まで4里20丁あり、旅人が追いはぎに苦しめられたことから、永野と猿鼻に小さな宿場町を設けた(1602年高野家記録)。1670年宿場の調査記録では、永野48戸、猿鼻20戸と小さな宿場町で、殿様が宿泊する本陣の機能はなかったとされる。しかし、猿鼻の検断だった家の古文書には、幕末(1826年)に紹介、山形、高畑(ママ)、弘前各藩の大名の通行が記録されており、街道としての機能は十分にあったとうがかわれる。 この街並みは、旧羽前街道(現仙南農道コスモスライン)に対して直角に曲がった道路に家々が立ち並び、街の反対側の端も直角に曲がっている。この道の作り方が宿場の面影を残す。 以下は、『蔵王町史 通史編』(蔵王町史編さん委員会、1994年)から 猿鼻宿は、永野宿を出て北進、31丁余で東に折れると猿鼻宿である。そのまま東に行けば平沢に、北に進むと四方峠を越えて川崎町に通じる。平沢村の「安永風土記」には、村住居76人、町住居18人とある。猿鼻町は18軒で、宿場の長さ2丁とある。成立時期は安永風土記は慶長7年(1602)とする。●猿鼻の名について 猿鼻の地名は、崖地を意味する音を持つ「猿」の端を意味するとの説がある。後世に「去る」に通じる「猿」を嫌い、「鼻」も「花」に変化したのではないか。(関連する過去の記事 猿田という地名を何と読むか...(2013年10月15日))■参考・パンフレット「蔵王の入口だよ!!蔵王山麓平沢・小村崎歴史の郷めぐりマップ」(鎌倉温泉制作発行、蔵王町教育委員会監修)・川崎町観光ポータルサイト かわさきあそび「伝説を訪ねて、羽前街道へ」・同 羽前街道・仙南の農道をゆく~広域営農団地農道仙南線 新・羽前街道~(宮城県大河原振興事務所)■関連する過去の記事(蔵王町など) 蔵王町を知る(その3 宮財産区)(2024年01月20日) 蔵王町を知る(その2 遠刈田温泉)(2024年01月19日) 蔵王町を知る(その1 永野と宮の謎)(2024年01月18日) がんばれ蔵王 負けるな蔵王(2015年5月6日) 蔵王の御釜が沸騰(2014年8月23日) 猿田という地名を何と読むか...(2013年10月15日) 蔵王の御釜の色を考える(2013年2月19日) 蔵王山境界紛争を考える(09年5月17日) 蔵王のお釜は共有財産(08年11月5日) 南蔵王縦走(06年8月20日) 栗駒と蔵王の名前の由来(06年7月28日) 蔵王噴火を鎮めた伊達宗高(2015年3月3日)■関連する過去の記事(笹谷街道について)※他にもありそう、記事リストご覧ください。 東北の道 概説(その4・完 近世)(2010年10月24日) 東北の道 概説(その3 中世)(2010年10月24日) 東北の道 概説(その2 平泉政権と奥大道)(2010年10月24日) 東北の道 概説(その1 古代)(2010年10月23日) 仙台・宮城と山形を結ぶ街道に思う(05年11月29日)
2024.01.27
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川村孫兵衛重吉について。(長谷川ヨシテル『どんマイナー武将伝説』柏書房、2023年 から当ジャーナル要約)1 日和山の銅像川村重吉(通称孫兵衛)の銅像は、石巻市の日和山公園山頂の鹿島御児神社(創建時期不明、平安中期には存在)の東側に、右手の人差し指をさしだした姿で立っている。河川工事の現場の人らしく、羽織と裁着袴(たっつけばかま)のスタイルである。重吉が大工事を行ったのは、銅像の指先が指す北上川(現在の旧北上川)である。重吉の工事によって洪水被害は減少し新田開発が進み、航路も確保されて水運が発展、石巻港が誕生して栄えるなど、現在につながる街づくりを行ったことから、銅像の銘文にも、「港町石巻の基礎を築いた大恩人としての業績を後世に伝えるため」と刻まれている。重吉は石巻に屋敷を構えたようで、新館、中屋敷、浦屋敷などの地名が伝わる。重吉町もある。1915年(大正4)に正五位の位階が贈られたことを記念して、屋敷跡とされる地に重吉神社が創建された。その東に重吉夫妻の墓が、さらに東に普誓寺がある。旧北上川沿いの大島神社に1897年(明治30)、地元の町民が重吉を顕彰した川村孫兵衛紀功碑が残されている。重吉の時代の1611年(慶長16)にも大地震(慶長三陸地震)で津波の被害が出たと言われ、政宗はその復興のために北上川や木曳堀などの大工事を進めたとも考えられる。2 政宗のヘッドハンティング『伊達世臣家譜』(寛政4=1792成立)などによると、重吉はもとは長州の人という。長門のどこかは他の史料にないが、『仙台郷土誌』(1933年)には長門阿武(萩市・阿武町)の人、『防長歴史暦』(1943年山口県出版)には、長州萩の出身と記されている。そのため、石巻市は萩市と友好都市協定を結んでいる。また、『東藩史稿』(1915年、伊達家と家臣の記録)によると、壮時(若い頃)毛利輝元(元就の孫)に事(つか)う、とある。『揚美録』(1871年)には、慶安元年(1648)閏10月27日死す、年74、とあるので逆算すると1575年(天正3)生まれになる。『東藩史稿』には、算数水利に精(くわ)し、土功に精しく、とあり、重吉は治水や土木に関する知識を評価されて政宗にスカウトされたようだ。家臣になった詳しい時期は不明だが、慶長中(1596-1615)に仕え始めたとあり、現存する重吉の最古の書状が慶長弐年正月(1597年)なので、家臣になったのは22歳の1596年(慶長1)と考えられる。『石巻市史』などには、関ケ原の戦いの結果、毛利家が領地を失ったため、重吉は浪人となり近江の蒲生(日野町など)に流寓したが、そこが政宗領地の飛び地だったので、政宗が優秀な重吉を知り、友人の山崎平太左衛門とともに1601年(慶長6)に召し抱えたと記されている。しかし、そのタイミングは最古の書状と合わないので、あくまで伝承となりそうだ。3 体の特徴毛利家時代の重吉は不明だが、菩提寺の普誓寺(石巻市)の『普誓寺縁起』などによると、祖父の常吉(『揚美録』では父)は、沈勇(落ち着いてゆうきがある)、清操(言動に汚れがない)とされる。また「異相あり」だったようで、「左脇に龍の鱗」があったという。重吉にも異相があり、「四乳」だったという。実際、皮膚が鱗のようになる症状があり、先天的に乳房が多い(副乳)という人がいるので、常吉や重吉も本当にそうだったかも知れないが、異相は偉人の伝承の描写でよくあるものだ。4 治水事業に貢献最古の書状は鉱山に関する内容なので、最初はどうやら鉱山開発に携わったようだ。また、『普誓寺縁起』にも「山の形、土の色を視察し、能く金銀を知る。宜しく之が産する地を知る神の如し」とある。その前文には「巨釜を置き鹽を焼かしむ」ともあるので、伊達家が力を入れ始めた製塩事業も担当したようだ。現在、石巻に釜という地区があるが、重吉が大釜で塩を作ったことが由来ともいわれる。特に偉業とされるのは、北上川の付け替え工事。政宗は新田開発のため北上川の河川工事を大々的に実施するが、まず慶長10年(1605)から3年をかけて、重臣白石宗直(通称相模)が上流に堤防(相模土手)を築き、北上川の流れを東側に大幅に変更した。続いて、重吉が、元和9年(1623)から寛永3年(1626)にかけて北上川の西を流れる迫川と江合川を北上川に合流させる大工事を行い、今日の旧北上川の流れを完成させた。その後、明治の治水工事で北上川は途中で東に流れを変えて、今は追波湾に注がれている。重吉は、三川合流の大工事以外にも、貞山運河(貞山堀)の開発も担当したと考えられている。政宗の時代から明治時代にかけて約49kmの大運河が造られたが、政宗ははじめ木曳堀(阿武隈川の河口から名取川河口)を造り始めたようだが(時期は三川合流工事の前か)、その事業の担当者が重吉や養子の川村元吉と考えられている。他にも、重吉は、人口増加で水不足になった仙台に広瀬川から水を引く四ツ谷堰(現在の郷六取水場あたり)の築造に関わったという。四ツ谷用水は生活用水として使用し続けられた。また、それとは別に湧き水を利用した用水路も造ったとされ、孫兵衛堀の名で呼ばれている。現在は埋め立てられたが、水源のあった荒町小学校に石碑と案内板が立っている。■関連する過去の記事 北上川の移流霧(2021年5月22日) 石巻・日和山にのぼりました(2015年3月31日) 川村孫兵衛重吉(2012年6月21日) 芭蕉文学の最高の展開地 石巻(2011年11月26日) 慶長の津波と先人の震災復興(2011年10月30日) 愛宕堰、七郷堀(2010年11月13日) 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 七北田川を考える(07年10月3日)(寛文の流路変更) 舟曳堀(鶴巻-苦竹)を探して(06年3月12日) 石巻の大いなる歴史2題(05年10月24日)
2024.01.22
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蔵王町のお勉強シリーズの3回目は、旧宮村の林業と財産区について。 蔵王町を知る(その3 宮財産区)(2024年01月20日) 蔵王町を知る(その2 遠刈田温泉)(2024年01月19日) 蔵王町を知る(その1 永野と宮の謎)(2024年01月18日)1 宮村の林業『蔵王町史 通史編』(蔵王町史編さん委員会、1994年)から、当ジャーナル要約。 宮村は総面積4,403haで郡内第三位の広大な面積中に刈田岳を主峰とする山岳地帯が占め、大部分が国有林である。山林資源を活用することが立村以来の懸案だった。 宮村村有林は明治22年町村制実施の際に村有となったもので、しばらく粗放なる管理だったが、明治33年より地元民に区域を割り当てて林野を貸付け、さらに部分林を設定したが、造林の成績は芳しくなく天然の雑木山に放任する状況が続いた。 明治37年の村会で、宮村字八山に十町歩の記念林を造林する戦時記念林計画が議決される。明治37-8年は日露戦争と冷害凶作で世界各国から寄せられた義捐金の配当を基に造林を実施した。また、小学校記念林として宮小学校と遠刈田小学校のため毎年植林することとした。しかし、宮村の山林開発は遅々として進まず、村有林野整備として、村直営林の造成と官行造林に提供による造林事業を推進した。 明治41年の宮村財産記録では山林3町歩、原野15町歩と記されている。2 宮財産区同上資料から。(1)財産区について 財産区は市町村と別個の特別地方公共団体として、市町村制当時から制度化されており、地方自治法施行前は、町村の一部、町村内の区、などと表現されていた。 昭和28年の合併促進法でも、関係町村の協議で財産区を設置できるとされ、旧財産区の場合と同様に町村合併を達成するための方策であった。 財産区制度は、所有財産が主として住民の共同生活上必要なものであり、積極的に活用するよりむしろ保存維持する目的で生成してきた過程があり、したがって新たな財産を取得できないなど権利能力は限定されている。また運営面では財産の管理処分は財産区の住民の福祉を増進するとともに町村の一体性を損なわないことが求められており、財産から生ずる収入を町村の経費に充てる場合には財産区の同意が必要とされ、また、不均一課税ができるなど、町村全体の利害と財産区の利害が相反することを避けるための制度となっている。(2)宮財産区 蔵王町は昭和30年の合併に際して旧宮村の所有する山林について財産区を設置した。設置以来30数年を経過し、この間の財産処分収入の大部分が一般会計に繰り入れられ、町の行財政運営とおおきく関連している。 財産区は固有の管理機関を持たないのが原則だが、例外として財産区議会、総会、または財産区管理会を置くことができるとされる(町村合併促進法による財産区規定設置に関連して昭和29地方自治法改正で設けられた)。 蔵王町では宮財産区設置とともに、その機関として宮財産区管理会を置いた。管理会は、同意権、管理執行権、監査権の3つの機能を持ち、7人以内の委員で構成すると法定され、定数、専任、議事手続、同意事項などは条例で定めるとされている。昭和30年8月町議会で、財産区管理会条例が制定され、委員は7人(宮地域4人、遠刈田温泉地域3人)で公選制、同意権は11項目(財産の全部の処分又は廃止、管理行為、予定価格一万円以上の売買契約、予算・決算、など)が対象とされた。3 八山裁判(宮財産区損害賠償請求訴訟)同上資料から。 昭和48年に八山地区の宮財産区所有山林126haを開発し観光資源として活用する計画が打ち出され、入札の結果、東京の丸尾商事株式会社(株式会社ユニバーサル都市研)との間で売買契約(7億5千6百万円)を結び、手付金として宮財産区は1億5120万円(後に変更して9120万円)を受領した。会社の計画は、ゴルフ場やリゾートマンション等であったが、オイルショックによる低成長から会社は資金調達困難となり、手付金を9120万円に減額して1億5120万円との差額6千万円を返還するよう申し出た。6千万円返還してもらえばそれを元手に20億円の資金調達ができるという理由であった。宮財産区は町議会と協議した結果、会社に応じて6千万円を返還したのだった。 しかし、会社は後述のように無理難題を押し付け、さらに契約解除と手付金9120万円の返還を迫ってきた。 宮財産区や議会はこれを拒否し、財産区は会社の契約不履行により契約を解除し手付金を没収すると通告した。 会社は昭和51年6月1日、宮財産区は契約物件の瑕疵を隠して売買契約を行ったとして、手付金を含め総額3億円の損害賠償を財産区に求めて東京地裁に提訴した。会社のいう隠れたる瑕疵とは、(1)ゴルフ場予定地の地下に東北電力遠刈田発電所に通じる隧道がある。(2)狼沢(通称)の沢水は付近の農家が飲用や農業用に使用している。であったが、入札以前に会社も現地調査で承知のはずで、財産区としても説明していたことであった。 昭和57年4月19日東京地裁判決は、宮財産区の全面勝訴。会社側は4月28日東京高裁に控訴。昭和62年3月24日判決は控訴棄却で、上告なく宮財産区の勝訴確定。したがって、財産区は手付金9120万円を没収し契約を解消した。■関連する過去の記事(蔵王町など) がんばれ蔵王 負けるな蔵王(2015年5月6日) 蔵王の御釜が沸騰(2014年8月23日) 猿田という地名を何と読むか...(2013年10月15日) 蔵王の御釜の色を考える(2013年2月19日) 蔵王山境界紛争を考える(09年5月17日) 蔵王のお釜は共有財産(08年11月5日) 南蔵王縦走(06年8月20日) 栗駒と蔵王の名前の由来(06年7月28日) 蔵王噴火を鎮めた伊達宗高(2015年3月3日)
2024.01.20
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蔵王町を知るシリーズの2回目。遠刈田温泉について。■シリーズの記事 蔵王町を知る(その3 宮財産区)(2024年01月20日) 蔵王町を知る(その2 遠刈田温泉)(2024年01月19日) 蔵王町を知る(その1 永野と宮の謎)(2024年01月18日)1 遠刈田温泉について『蔵王町史 通史編』(蔵王町史編さん委員会、1994年)から。●遠刈田温泉 「封内名蹟志」によれば古くは湯刈田と書いたが後に遠刈田になる。温泉の発見については、炭焼藤太の伝説がある。京三条盛実の娘が当地を訪れ、炭焼きをしていた藤太と夫婦になり金鉱と温泉を発見して長者になる。橘次・橘六・橘内の三子を育てたという。 また、『温泉少誌』には、大沼刑部の四世の孫勘十郎がこの地に移り荒地を開拓、慶長6年(1601)岩崎山の麓に温泉2か所湧出を発見、開鑿に尽力し元和4年(1618)浴地(上の湯、下湯)を成し、元文5年また一泉を発見し浴地(東の湯)を作る。遠刈田は人家四五十戸ありて一つの巷街をなし、旅店17戸あり。勘十郎の子孫今なお連綿と旅人店を営業したとある。 高野家記録では、東の湯は享保16年(1731)9月7日の大地震で湧いた湯で、寛保元年(1741)白石城主に願い出て曲竹村の我妻四郎右衛門が普請して、湯壷一間に五尺ばかりを造成して多くの人が入浴するようになった。湯を庄三郎が守ったので庄三郎湯ともいった。2 遠刈田温泉株式会社同じく『蔵王町史 通史編』(蔵王町史編さん委員会、1994年)から 大正初期ごろまでは共同浴場のみだったが、各旅館が源泉を求め内湯を持つようになると、近接するため湯量の減少枯渇が生じた。これらの問題を解決し各旅館に一定量の温泉を供給するため、昭和18年に、遠刈田温泉株式会社が発足し現在に至る。 発足当時の様子を遠刈田温泉あづまや旅館の我妻長吉氏によると、・江戸時代から明治にかけて遠刈田には家屋が24軒あった。源泉は共同で美鈴寿司店の地にあった。・各家に内湯はなく、共同風呂を使用。上の湯、中の湯、滝の湯の三か所があった。・明治29年4月6日大火に見舞われ、市街地復興の際に道幅を広くし碁盤の目状に改修。・この時連帯保証で借金し、借金が返せず担保の源泉も取られた。この時は宮村が年間予算の半分位支払ってやっと買い戻した。・しかし宮村で維持は費用がかかるので、阿部平治村長の時、遠刈田で管理するようにとの話が盛り上がり、議員も自主運営に賛成して、昭和18年、遠刈田温泉株式会社が発足。・資本金5万円、株式は宮村4・旅館4・一般2に配分。事務局は役場に置いた。村長が社長を兼任。・これまで宮村独特の畳税(たたみぜい、畳数に応じて徴収)があったが会社発足時に廃止。・経営は赤字に苦しんできたが、この2-3年前に黒字に転じた。外来利用者の増のためと思う。なお、遠刈田大火とは、奥羽日日新聞の記事によると、明治29年4月6日午前9時半出火、烈風と乾燥でわずか1時間で全焼90戸、類焼を免れたのは小学校分教場、駐在所、民家4戸のみ。白昼で死者が出なかったのが不幸中の幸い。 ■関連する過去の記事(蔵王町など) がんばれ蔵王 負けるな蔵王(2015年5月6日) 蔵王の御釜が沸騰(2014年8月23日) 猿田という地名を何と読むか...(2013年10月15日) 蔵王の御釜の色を考える(2013年2月19日) 蔵王山境界紛争を考える(09年5月17日) 蔵王のお釜は共有財産(08年11月5日) 南蔵王縦走(06年8月20日) 栗駒と蔵王の名前の由来(06年7月28日) 蔵王噴火を鎮めた伊達宗高(2015年3月3日)
2024.01.19
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蔵王町について学んだ。自分が感じていた謎を解くことを軸にしながら、資料で勉強。なお、「謎」とは、次の2つだ。謎1 小学校名にもある「永野」は旧村名にないが、どこを指すのか?謎2 旧宮村は遠刈田温泉も含むが、通じる道路は円田地区なので実質飛び地。どういう経緯か?(3回シリーズです。第2回は遠刈田温泉、第3回は宮財産区について) 蔵王町を知る(その3 宮財産区)(2024年01月20日) 蔵王町を知る(その2 遠刈田温泉)(2024年01月19日) 蔵王町を知る(その1 永野と宮の謎)(2024年01月18日)1 概況まず、読みは「ざおうまち」だ。市町村合併の経緯でいうと、昭和の合併で円田村と宮村が合併して命名された。明治の合併(明治22年町村制)の際は、円田、小村崎、塩沢、平沢、曲竹、矢附の6村が合併して円田村となり、他方の宮村は単独で村制を敷いた。現在、「蔵王町」の次に続く地名としては、これら7つの旧村名と「遠刈田温泉」の合計8つがある。ただし、厳密には、旧円田村の6つの地名は「大字何々」だが(例えば役場は蔵王町大字円田字西浦北10となる)、宮と遠刈田温泉は「大字」ではない。さらに細かいことを言えば、「遠刈田温泉」と同格のものとして「遠刈田温泉本町」「遠刈田温泉仲町」「遠刈田温泉旭町」「遠刈田温泉栄町」「遠刈田温泉寿町」があるので(遠刈田温泉(字)本町、ではない)、結局のところ、「蔵王町」の直下の階層をなす地名としては、大字の6つ、大字以外で7つ(「宮」、「遠刈田温泉」、遠刈田温泉市街地5町)、合計13の地名があることになる。2 江戸時代の概要(村、宿駅、温泉など)『蔵王町史 通史編』(蔵王町史編さん委員会、1994年)から。●宮村 宮村は東西に細長い広大な山林牧野を含む。この広範な地域は江戸時代に、向山村・宮司村・沢内村・宮町に分かれ、それぞれに肝入が置かれていた。宮町は白鳥神社のある宮宿を中心とした限られた地域で、沢内村は宮町に接し七日原・遠刈田温泉を含み、蔵王山頂お釜までの広大な地域である。●円田村 松川沿いに遠刈田温泉・青根温泉に通じ、永野は笹谷街道の宿駅であり、猿鼻(さるはな)宿を経て四方峠(しほうとうげ)を越えて川崎宿に至る。 史料には、円田(天文7年段銭古帳)、苅田荘遠田郷内(伊達正統世次考)、延田(同)などと見える。 円田村の知行主秋保氏の検地帳が残されていて、人頭144人で、寛永検地の竿答え百姓75人から69人の増と言える。人頭144人のうち、村住居95人、町住居49人で、家数を記載してある項目に「当村永野町と申し候宿場家数49軒」とあるから、町住居49人は永野宿の居住である。人数は男447人女347人の計794人で、馬数114匹とある。明治初年の「刈田郡地誌」では戸数149戸、人数1151人(男586女565)とある。 永野町鎮守は愛宕神社で、寺院として真言宗円明院、同慈眼院、曹洞宗龍源寺があったが慈眼院は廃寺となった。 永野の町裏に白崩明神があった。文治の合戦で西城戸太郎国衡の屍を埋めた所と伝え、岩山が崩れ落ちて白くみえるためにこの名があるという。蔵王町文化財(白九頭龍古墳)。古墳の上に白九頭龍神社が祀られている。同じく永野の西裏の田中に古い松の大木があった。文治の合戦の平泉側の大将金剛別当秀賢が伊達大木戸で敗戦、厚樫山も攻め抜かれ、秀賢は出羽に逃げ延びようとして病重くついにここで松の樹下で死んだという。そのため死生松という名を残している。●宿駅について 蔵王町にあった宿駅は、奥州街道沿いに、宮宿ー金瀬宿、笹谷街道沿いに、宮宿ー永野宿ー猿鼻宿、がある。それぞれの宿場には定められた人馬が準備され、荷物の継送の責任者を検断といった。宿場の中央に問屋(とんや)場があり、制札場があった。問屋場は検断や本陣を兼ねる場合があった。宿泊は本陣と旅篭のほか、格安の木賃宿があった。 宮宿は、奥州街道と笹谷街道の分岐にあり、安永風土記には、「宮町と申す宿場4丁21間78軒御坐候」とある。寛文7年書上(白石市史)によると、東側に39軒、西側31軒、御伝馬所(3軒分)、宮荒町分南側11軒、北側蓮蔵寺門前8軒、とある。本陣は幕末に設けられたと思われ、肝入の阿部氏が問屋を兼ねていた。 永野宿は、円田村の「安永風土記」によると、村居住95人、町居住49人とあり、永野町49軒で構成された。宿場は文久年間の「永野屋敷図」によると3丁14間とあり、町の中央に検断清右衛門の屋敷があり、その向かいを村田への道が東進している。また、町の北端において遠刈田への道が分かれている。「梅津政景日記」寛永3年(1626)に「永野町より雪降る」とある。 猿鼻宿は、永野宿を出て北進、31丁余で東に折れると猿鼻宿である。そのまま東に行けば平沢に、北に進むと四方峠を越えて川崎町に通じる。平沢村の「安永風土記」には、村住居76人、町住居18人とある。猿鼻町は18軒で、宿場の長さ2丁とある。成立時期は安永風土記は慶長7年(1602)とする。3 役場と学校刈田郡教育会編『刈田郡誌』昭和3年(復刻版=名著出版、昭和47年、限定500部)から。なお、一部新字体にした。以下本ブログ記事において同様。同資料(第18章)から官署と学校の経緯。●宮尋常高等小学校 明治6年8月創立。初め7大学区第3中学第20番小学と称す。同19年9月尋常小学校と改称。20年4月尋常高等(ママ)併置、23年4月宮尋常小学校と改称。31年高等科(修業年限2年)を増設し宮尋常高等小学校と改称。33年4月高等科4か年とする。41年4月小学校令改正の結果、尋常56年を置き高等科1、2年を置く。●宮村役場 明治11年宮村戸長役場として宮村一村を統轄し、同14年4月宮村曲竹村を管轄し宮村曲竹村戸長役場と改称。17年宮村深谷村曲竹村八ッ宮村4ヵ役場として宮村外三ヵ村戸長役場と改称。明治22年3月31日町村制実施とともに宮村一村の宮村役場となる。おだずま注:深谷村と八ヶ宮村は、明治の合併で福岡村に含まれることになる。●遠刈田尋常高等小学校 明治9年9月以来宮尋常高等小学校の分教場としてその管轄に属したが、大正12年4月分離独立し、遠刈田尋常高等小学校と改称。大正13年4月実業補習学校を附設。●圓田尋常高等小学校 明治6年5月村内龍源寺を仮用して創立。同15年白石高等小学校区内圓田中等学校と称し、25年7月圓田尋常小学校と改称。29年高等科を併置して圓田尋常高等小学校と改称。41年5月小村崎、平澤、永野、曲竹に四分教場を置く。42年12月新築移転。44年補習学校を併置。大正11年1月平澤、小村崎両分教場を合併して平澤尋常小学校と称す。同12年、曲竹、永野両分教場を合併して永野分教場とす。●永野巡査駐在所、郵便局 巡査駐在所としては、永野巡査駐在所が記載されている。他には、宮村巡査駐在所、平澤巡査駐在所が記載されている。 なお、郵便局は、宮郵便局、遠刈田郵便局、圓田郵便局のようだ。●平澤尋常小学校(略)4 明治の町村制『蔵王町史 通史編』(蔵王町史編さん委員会、1994年)から。●明治の地域制度 従来の郡を大区、村を小区としたが、従来の町村とは切り離されたもので、区長や戸長も新しい観点で任用された。明治5年4月の改正では、刈田郡は第17大区で、従来の宮、曲竹、矢附の3ヶ村が第8小区、円田、塩沢、平沢、小村崎の4ヶ村が第9小区となった。 幕政時代、曲竹、宮、矢附は独立した単独の村だったが、これを解体して国家統治を効果的に地方に浸透させるため、本来戸籍事務だけのはずの戸長の職務も「小区の一切の事務に任ず」と村政全般を管掌することになる。 明治7年4月、柴田郡と刈田郡は合併して第9大区となり、郡役所というべき大区詰所は宮駅に置かれた。●学校 第7大学区(東北全体)は、仙台に我が国7番目の大学を設置し角田市に第3の中学校を、その他の各連合村には1小学校の建設計画であった。第3中学区(伊具、刈田、柴田、名取、亘理、宇多の6郡)の一番小学校は角田小学校、伊具郡内一巡の後刈田郡白石小学校が13番目に、柴田郡大河原小学校は24番目に建設された。 明治6年6月10日宮小学校(学校番号20)が三谷寺に、同年7月7日円田小学校(21番)が龍源寺に開校。生徒は宮68人、円田57人。教師は応急措置で村田の教師を派遣。通学区は明治5年の大小の行政区制度が施かれ、第8小区、第9小区がそのまま学区に置き換えられた。 明治6年7月には円田小学校平沢学校(ママ)が保昌寺を仮教室に開校(生徒数男57女5)、また同年9月には遠刈田地区に刈田嶺神社を教場に遠刈田支校が開校された。その後平沢支校は12年に円田小学校から分離し初等科3年制の独立小学校に。 円田小学校は明治8年6月新校舎に移り、平沢、小村崎、矢付(ママ)に14年には支校を設置した。宮小学校も明治9年校舎を新築。5 昭和の合併前の状況刈田郡教育会編『刈田郡誌』昭和3年、から。一部新字体にした。●町村 宮村(役場所在は宮)=大字及字 宮、澤内、向山、宮司、遠刈田 圓田村(役場所在は圓田)=同 曲竹、円田、平澤、塩澤、小村崎おだずま注:大字及び字として、永野もだが、矢附の名も見えない。●宮村について(上掲資料から) 地勢上自ら東部宮と北部遠刈田の2つの中心を有する。松川は源を刈田岳に發し、遠刈田、圓田村、宮村向山区を貫流して白石川に入る。沿岸の地は細長き平地を成せども、其の他は悉く山地...●圓田村について(同上) 東南部及南部は一帯に平地にして松川この間を流れ、西部は丘陵重畳し、土浮山、七日原高原連亘、遙かに蔵王を望むべし。松川は、遠刈田にて澄川を合せ、本村に入りて永野、矢附、曲竹を貫流し、宮村に出でて白石川に合す。上流澄川を合わせざる部分を濁川と称し、多量の硫黄分を含有するを以て魚類の生息することなし。 なお、同上資料の「神社、自院、堂宇、教会」の章(第14章)の「圓田村」の項には、「御渡神社」は「永野にあり。印度より渡来の神を祀るなりと。」と記載されており、地域の呼称としての認識がわかる。6 仙南温泉軌道と永野駅 仙南温泉軌道は、大河原町と遠刈田温泉を結ぶ軽便鉄道で、現蔵王町内には、平沢駅、円田駅、永野駅、疣岩(いぼいわ)駅、遠刈田駅があった。 経緯を少し。日本鉄道の開業で、遠刈田温泉の観光客や青根の鉄鉱石の輸送を目的に、まず1900年柴田鉄道が設立される。これは、大河原から金ケ瀬、宮、永野、遠刈田を経由して青根まで馬車鉄道を敷設する計画だったが、資金難で断念。1904年、日本製鉄が鉱石運搬用の馬車鉄道を申請し、1906年に遠刈田と永野の間が先行開業。永野の先は大河原町堤地区を経て大河原駅に至る計画だったが、1907年に宮地区を経て白石駅に至るルートに変更する誘致運動が起きて工事が一時中断する。1908年に遠刈田と青根の間は貨物用索道で開通。日本製鉄は解散するが、遠刈田ー永野間は地元資本で仙南軌道として継続。永野の先は、仙南軌道が宮地区経由で北白川駅に至るルートを予定したが、大河原や村田の資産家が中心に設立した城南軌道は、平沢、村田町中心部を経由して大河原駅に至るルートを想定した。結局、郡長の調停で永野から先は城南軌道が開業させることで、1915年再申請に漕ぎつける。1918年城南軌道の大河原ー村田間が開業。1920年城南軌道が仙南軌道を吸収合併し、1921年仙南温泉軌道と改称、1922年(大正11)ようやく全線開通に至る。(下の図面は、刈田郡教育会編『刈田郡誌』昭和3年、の付録から)7 昭和の合併『蔵王町史 通史編』(蔵王町史編さん委員会、1994年)から。 宮城県の町村合併促進審議会が昭和28年10月答申した町村合併計画策定答申では、旧刈田郡は白石市、七ケ宿と小原の合併、宮と円田の合併による1市2町案であった。 宮村と円田村では様々な意見がだされた。宮村では各地区代表と村議会議員で構成する町村合併研究委員会が組織され、県案を中心に住民の意見を集約することになった。大方の意向は、宮地区では白石市との合併を望み、遠刈田地区は円田村との合併を希望した。これらは地理的経済的条件が近いところを望む合理的なものだったが、意見がまとまらず、住民投票を行い、結果、白石市との合併1,172票、円田村との合併1,053票となったので、合併研究委員会はこの結果を尊重して村議会に答申した。 村議会では採決の結果、12票対7票で白石市との合併が決まり申入れを行うことになった。しかし、宮村でも遠刈田地区は事情が異なり、道路その他で円田地区とのつながりが強く、村議会では遠刈田地区の円田地区への分村を表決したところ、16票対4票で決定した。 他方、円田村では、宮村宮地区が白石市を向いたため、やむを得ず宮村遠刈田との合併決議が円田村議会で決定された。 この結果を受けて、両村はそれぞれ県に内申。県議会は昭和30年3月の本会議で町村合併を議決する予定だったが、刈田郡が県の試案と合致せず、難色を示す県当局や議員が多かった。というのも、宮村宮地区を白石市に合併すると白石市が突出した広域になり、逆に弱小町村をつくることの懸念で、原案を崩さない県の意向が刈田事務所長を通じて両村長に伝えられた。 これを受けて両村は議論を深めようとしたが、利害や感情が絡んで紛糾。4月1日の町制施行のタイムリミットが3月20日であることから、3月15日から17日にかけて両村議会があいついで協議を重ね、両村の対等合併をまとめ、17日に県に「刈田郡宮村円田村を廃して蔵王町を設置する処分申請書」を提出した。昭和30年4月1日新しい蔵王町が発足した。 この紆余曲折は、両村の歴史的地理的経済的な背景や基盤が異なっていたことも指摘されているが、明治22年の町村制施行時も同様な動きがあったといわれ、大正9年には遠刈田地区が、宮村から分村独立の請願運動を行うなど、宮村の宮と遠刈田がしばしば合併分離などの経過があったことも、今回の町村合併に陰に陽に左右し続けていたとみるべきであろう。 なお、地方の町村にありがちな政治的思惑もあり、県議会議員にも動きがあったとされる。(おだずま注:具体的な記載はない。) 役場は将来の発展を考えて円田におき、宮と遠刈田に支所を置くことで両村は合意をはかった。旧円田村役場が新町役場となり、昭和52年に現在の新庁舎となる。8 現在の小中学校ここで蔵王町の学校通学区域をみてみる。小学校は5校あり、永野小学校の所在地は大字円田(円田小学校も同様)である。・円田小学校 (学区)大字塩沢の一部を除く字全部、大字円田の一部、大字平沢の一部・平沢小学校 (学区)大字小村崎の字全部、大字平沢の一部・永野小学校 (学区)大字曲竹の字全部、大字矢附の字全部、大字円田の一部・宮小学校 (学区)宮の字全部(おだずま注:「大字宮」と言わない。)・遠刈田小学校 (学区)遠刈田温泉の一部を除く全部、大字円田の一部中学校は3校。・円田中学校 (学区)大字小村崎の字全部、大字平沢の字全部、大字矢附の字全部、大字塩沢の字全部、大字平沢の字全部、大字曲竹の字全部(A)、大字円田の一部(C)を除く字全部、遠刈田温泉の一部(八室、大枝山)(B)・宮中学校 (学区)宮の字全部、大字曲竹の字全部(A)・遠刈田中学校 (学区)遠刈田温泉の字全部、大字円田の一部(上記C)(A)と(B)は地域が重複することになるが、通学先中学校を選択できるとされている。(B)は円田地区寄りのエリア。(A)の曲竹だが、宮中学校の学校要覧では学区に曲竹北、曲竹南と記載されているし、円田中学校の学校要覧には、円田、平沢、永野の3小学校から子どもたちが集う、と記されているので実際には曲竹地区の中学生は宮中学校に行くのだろう。大字円田の中でも遠刈田中学区となる(C)は「釜沢と土浮山の一部」とされており、すずらん峠に至る西部丘陵地帯で遠刈田に近い。なお、中学校は、統合の上で令和9年4月開校にむけて事業が進んでいる。以上から、謎を解題するとすれば、永野は宿場名に使われた由緒ある地名。旧村名では円田に含まれ小字名にも残らないが、円田村のうち主要街道を擁する南部一帯を指すものとして定着、官署名にも使われて定着してきたのだろう。遠刈田は温泉場の特殊性からか近代の村制では沢内村→宮村に包含されたが、やはり地方制度改革にあわせて宮地区との関係では離合の動きがあった。■関連する過去の記事(蔵王町など) がんばれ蔵王 負けるな蔵王(2015年5月6日) 蔵王の御釜が沸騰(2014年8月23日) 猿田という地名を何と読むか...(2013年10月15日) 蔵王の御釜の色を考える(2013年2月19日) 蔵王山境界紛争を考える(09年5月17日) 蔵王のお釜は共有財産(08年11月5日) 南蔵王縦走(06年8月20日) 栗駒と蔵王の名前の由来(06年7月28日) 蔵王噴火を鎮めた伊達宗高(2015年3月3日)
2024.01.18
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新聞記事で読んだ。郷土史家の木村紀夫さんが、山元町の歴史講演会(23年12月20日、ふるさとおもだか館にて。町ふるさと歴史学習会主催)で解説をされた。記事によると、要旨は以下。・藩祖伊達政宗が瑞巌寺や大崎八幡宮を造営したように、歴代藩主は統治のため仏教を政治的に大いに利用した・維新の廃仏毀釈で仙台藩士は心のよりどころを失い、他方で函館戦争に加わった藩士がカトリックやハリストス正教会に感化された・仙台・宮城は今もキリスト教徒が他県に比べて多いとされる木村さんのお話を直にお聴きしたかったし、交流センターふるさとおもだか館も訪れてみたかった。宮城県にキリスト教徒が多いとされることについて、統計や書籍に当たってみたいと思うが、時間がないので今後の課題に。それにしても、維新の激動を通じて、藩士や家族の心のよりどころ、また明治期の教育文化に大きな役割を果たした内外の宗教活動家たちの業績など、私たちは歴史をよく知らねばならないと感じる。■関連する過去の記事 神社の多い福島、少ない岩手(2014年02月09日)
2024.01.11
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残念なことに、閉鎖されていました。観光センターから眺めた秋の日の小黒崎美豆の小島から戻る小径からも眺めてみました。■関連する過去の記事(鳴子、岩出山周辺など) 美豆の小島(大崎市)(2023年12月12日) 小僧街道踏切(大崎市岩出山)(2023年12月11日) 川渡小学校上原分校跡(大崎市)(2023年12月10日) 小黒ヶ崎のすばらしさ(2016年6月5日) 歌枕だった小黒崎(2013年3月14日) 大崎市のカンガルー(09年11月26日) 観光客で賑わう鳴子峡(08年11月2日) 花山で釣りをする(07年10月25日) 再び岩出山を探訪する(07年7月22日) 初滑りオニコウベ(06年12月29日) 松山街道 姫松、真坂あたり(06年11月5日) 岩出山を探訪する(06年7月17日) 鳴子の交流人口と東北の地域構造の多様性を考える(05年10月10日) 鳴子峡散策で地域の先人たちを考える(05年10月9日) 御料馬金華山号と支倉常長の野望(08年9月16日) 鬼首の名馬金華山号(07年12月26日) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 松山道・上街道(2011年9月16日)
2023.12.13
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美豆の小島をはじめて訪れた。小黒崎観光センター(閉鎖)から少し国道を西に行くと、小さな案内標識に誘われて小径を降りていくのだ。川原を望む開けた場所に降りると、ちょっとした駐車スペースに奥の細道と書かれた標識が建ち、傍らに説明書きがある。 美豆の小島(みづのこじま)は、水の小島、みづの小島とも書き、10世紀初めにつくられた古今和歌集や13世紀初めの続(しょく)古今和歌集にも出てくる歌枕の名所です。 松尾芭蕉が門人の河合曽良とともにここを通ったのは、1689年7月1日(元禄2年旧暦5月15日)、尿前の関に向かう途中のことでした。それまで多くの歌に詠まれてきた美豆の小島でしたが、その場所をここと特定したのはこの時の曽良の日記がはじめてのものです。 曽良日記によると、川中に岩の島があり、松が三本、そのほか小木が生え、この時は江合川右岸と川原続きになっていたようです。さらに以前は中洲であったとも書かれています。美豆の小島は川の流れによってその形や場所を少しずつ変えていましたが、1890年(明治23年)の洪水で、荒廃してしまいました。現在の鳥居は大正時代に建てられたものです。小黒崎みつの小島にあさりする 田鶴そなくなり浪たつらしも(続古今和歌集・四条天皇)人ならぬいはきもさらにかなしきは みつのこじまの秋の夕ぐれ(続古今和歌集・順徳院)駐車場の向かいの山側にはどっしりとした石の歌碑がある。古今和歌集 巻20 東歌 をぐろ崎みつの小島の人ならば 都のつとにいざといはましを河道に向かって歩いて進むと、鹿が何頭かこっちを振り向いては走って遠ざかって行った。肝心の「小島」の写真を撮り損ねたが、鹿が戯れていた辺りのこんもりした山がそれだったのだろうか。(↓駐車場から歩いて進んでいく)(↓さらに進み、この先を右に折れてすぐ左手に「小島」があった。)(↓駐車場の山側から望んだ画像)■関連する過去の記事(鳴子、岩出山周辺など) 小僧街道踏切(大崎市)(2023年12月11日) 川渡小学校上原分校跡(大崎市)(2023年12月10日) 小黒ヶ崎のすばらしさ(2016年6月5日) 歌枕だった小黒崎(2013年3月14日) 大崎市のカンガルー(09年11月26日) 観光客で賑わう鳴子峡(08年11月2日) 花山で釣りをする(07年10月25日) 再び岩出山を探訪する(07年7月22日) 初滑りオニコウベ(06年12月29日) 松山街道 姫松、真坂あたり(06年11月5日) 岩出山を探訪する(06年7月17日) 鳴子の交流人口と東北の地域構造の多様性を考える(05年10月10日) 鳴子峡散策で地域の先人たちを考える(05年10月9日) 御料馬金華山号と支倉常長の野望(08年9月16日) 鬼首の名馬金華山号(07年12月26日) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 松山道・上街道(2011年9月16日)
2023.12.12
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前回記事で上原地区を探訪した(川渡小学校上原分校跡(大崎市)(2023年12月10日))。このときは、川渡温泉駅あたりで国道47号から県道に入って山あいの上原地区に入り、その後は県道を東に抜けて国道457号に出て右折して、池月交差点で国道47号に合流した。池月交差点に出る100mほど手前にR457が陸羽東線を渡るのだが、そこは「小僧街道踏切32K736M」と表示されている。小僧街道とは初めて聞く気がする。かつて芭蕉が通った松山街道がここではないのか、などと思いを巡らせていたが、帰宅後よく調べると自分の勘違いだ。まず、小僧街道について。池月から栗原市の旧一迫町長崎地区やR398(花山方面)に抜ける現在のR457が、小僧街道と呼ばれる。山を越えてちょうどR398との重複区間が始まる交差点が、中小僧という小字になっている。また、西方の山の中(長崎川上流)には小僧不動の滝がある。この小僧に至る道ということで小僧街道の名がついたようだ。そして、松山街道だが、岩出山でも古川寄りの上野目駅付近の山寄に、天王寺追分があり、ここが出羽街道と上街道(松山街道)の分岐点だった。ここから、真山、真坂、岩ケ崎を通って一関に至るのだ。大崎市サイト(陸奥上街道)■関連する過去の記事(松山街道、上街道) 松山街道 姫松、真坂あたり(06年11月5日) 松山道・上街道(2011年9月16日)■関連する過去の記事(鳴子、岩出山周辺など) 川渡小学校上原分校跡(大崎市)(2023年12月10日) 小黒ヶ崎のすばらしさ(2016年6月5日) 歌枕だった小黒崎(2013年3月14日) 大崎市のカンガルー(09年11月26日) 観光客で賑わう鳴子峡(08年11月2日) 花山で釣りをする(07年10月25日) 再び岩出山を探訪する(07年7月22日) 初滑りオニコウベ(06年12月29日) 松山街道 姫松、真坂あたり(06年11月5日) 岩出山を探訪する(06年7月17日) 鳴子の交流人口と東北の地域構造の多様性を考える(05年10月10日) 鳴子峡散策で地域の先人たちを考える(05年10月9日) 御料馬金華山号と支倉常長の野望(08年9月16日) 鬼首の名馬金華山号(07年12月26日) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 松山道・上街道(2011年9月16日)
2023.12.11
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ちょっと前の晴れた秋の日。大崎市鳴子地区の山奥のおそば屋さん(手打ち蕎麦ふく)に家族でお邪魔した。しばらく順番待ちだったが、心優しい店主の気づかいとおいしい蕎麦を堪能させていただいた。住所は鳴子温泉水沼という地名だが、周囲は入植開拓地という雰囲気。学校の建物と校庭がある。閉校の碑と銘打たれた碑文をみると、平成12年3月に閉校した上原分校である。並んでいる「開校三十周年記念」の碑は1980年と記されているので、1950年(昭和25年)の開校ということになる。以下に碑文を転記する。■開校三十周年記念凍土を掘起し 開拓の鍬を入れてから 三十年わたしたちは この分校を囲んで 部落をつくってきた子どもたちが 希望の光 であった1980年8月 上原分校育英会■閉校の碑この手に鍬を持ち 子どもらと生きることを願い 分校とともに歩んだ日々それは上原を拓く年月でもあった五十年の時が流れた 子どもらを見守る 男達の深いまなざしと 女達のやさしさが 耕す土に浸みた平成12年3月29日 文 伊藤清之 書 多田正隆読んでいると、胸が熱くなる。以下は周辺の風景。まずは、旧分校からは西の方面にひろがる牧場。次の画像は、道端の集会所と思われる施設にあるモニュメントなど。さらに、学校の東側方向にも、牧草地が広がる。■関連する過去の記事(鳴子、岩出山周辺など) 小黒ヶ崎のすばらしさ(2016年6月5日) 歌枕だった小黒崎(2013年3月14日) 大崎市のカンガルー(09年11月26日) 観光客で賑わう鳴子峡(08年11月2日) 花山で釣りをする(07年10月25日) 再び岩出山を探訪する(07年7月22日) 初滑りオニコウベ(06年12月29日) 松山街道 姫松、真坂あたり(06年11月5日) 岩出山を探訪する(06年7月17日) 鳴子の交流人口と東北の地域構造の多様性を考える(05年10月10日) 鳴子峡散策で地域の先人たちを考える(05年10月9日) 御料馬金華山号と支倉常長の野望(08年9月16日) 鬼首の名馬金華山号(07年12月26日) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 松山道・上街道(2011年9月16日)
2023.12.10
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猛暑も過ぎやっと空気に秋を感じる休日の日暮れ前、塩竈市本町、御釜社の角からのぼる坂に佇むのが、杉村惇美術館である。公民館本町(もとまち)分室/旧塩竈市公民館として、平成25年塩竈市指定有形文化財。昭和26年竣工のモダンな建築で、管理棟と大講堂(昭和32年に増築される)からなる。大講堂は逆さカテナリー(懸垂)曲線を木造で実現した初期の建築物。昭和51年に新公民館ができた際に、取り壊しも検討されたが、本町分室として残す。平成26年11月には、建物の一部を使って杉村惇美術館が開館。(以上はシオーモの解説から)展覧会。3つの視座/3.11の記憶と未来(すがわらじゅんいち、髙橋勉、村山耕二の3氏)。時がたっているが、時間とは、過去と未来をつなぐ軸だ。後戻りはできないが、私を含む人間の気持ちは、昔にも未来にも伸びていく。戻りたくない心情もあるが、未来に伝えなければならない思いもある。振り返り、美術館の建物を仰ぎ見た。■関連する過去の記事(塩竈市) 日本の塩神と鹽竈神社(2021年11月3日) 母子石(塩竈市)の伝説(2013年2月13日) 塩竈の「ざっとな」(2011年2月27日) 伊保石公園を散策する(10年6月6日) 塩竈寿司めぐり(10年4月8日) 宮城の小規模特認校(10年1月9日) 浦戸の小規模特認校を考える(10年1月8日) 寒風沢島に行きたい(09年9月29日) 塩竃の花火大会(08年7月21日) 塩竃の花火大会とイーグルス快勝(08年7月20日) 奥州仙台の三大名数シリーズ(寺社仏閣)(07年8月21日) 塩釜エスプのツリーハウス(07年6月4日) 塩釜のエスプは良いですね(05年12月1日) 日本の白菜を育てた宮城県(2011年5月1日) 宮城のかまぼこ業者(08年4月25日) 昭和57年の釜竈論争(2011年10月18日) 塩竃市体育館の命名権を考える(08年2月8日) 仙台ハクサイと沼倉吉兵衛(2015年2月16日) 守屋前次官と宮城県(07年10月30日) 昭和47年仙石線新田踏切事故(続)(2021年10月19日) 昭和47年の仙石線事故(2011年9月8日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日)
2023.10.14
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志津川湾は、歌津、志津川、戸倉を含む南三陸町の海全体。太平洋に直接面して強く影響を受けるとともに、深い湾の奥は穏やかで、世界的に貴重な自然環境が広がっている。志津川湾には、北海道沖を通過して三陸沖で東に向きを変える親潮(寒流)と、房総半島沖で蛇行する黒潮(暖流)の支流が到達する。さらに、対馬海流が日本海から津軽海峡を抜けて南下する津軽暖流も混ざり合い、多様性豊かな貴重な海となっている。昔から漁業はさかんで、「西の明石、東の志津川」と味の良さをうたわれるタコは、イシャリという道具を船から垂らしてとる。箱メガネをのぞいて長い竿の先のカギでとるウニ、アワビ。明治から始まった養殖漁業はノリが皮切りだったが、昭和30年代からワカメ養殖が始まる。マガキも主要な産品で、2017年戸倉地区のカキ養殖がASC認証取得。ホタテ、ホヤ、ワカメ。また、ギンザケは志津川湾が養殖発祥の地だ。ラムサール条約(正式名称は、特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約)は、保全・再生と賢明な利用(ワイズユース)を目的とし、そのための交流・学習(CEPA)を進めることを大切とする。2018年10月18日、志津川湾が登録され、23日にドバイで開催された条約締約国会議で認定証が授与された。現在、日本には登録された湿地が52か所ある。宮城県では、伊豆沼・内沼、蕪栗沼・周辺水田、化女沼が登録されている。藻場(海藻の森や海草の草原のこと)は、多くの生き物の隠れ家や揺りかごとなり、また葉に住む小生物と一緒に海をきれいにし、生態系で大切な役割を果たすが、志津川湾では、200種以上の海藻と5種の海草が確認されている。コンブ場、アラメ場、ガラモ場、アマモ場など多様な藻場があり、マコンブとアラメの双方が見られる大変貴重な海である。環境省は国内の重要な自然環境を1000か所ほど選んで調査している(モニタリング1000)。志津川湾は全国で6か所の藻場サイトに選ばれている。毎年6月、椿島付近で生育状況を調査。南三陸ネイチャーセンター(南三陸町自然環境活用センター)では、2008年から調査に関わり、震災後、地盤沈下の影響で藻場が岸寄りにシフトしたことが明らかになった。志津川湾は、環境省が選定する「日本の重要湿地500」にも選定されている。また、細浦と折立海岸の干潟は、「宮城県の重要な干潟」に選定され、干潟からは多くの希少動物が確認されている。八幡川河口の松原海岸は、潮干狩りなどが楽しめる干潟だったが、50年ほど前、チリ地震津波の後に防潮堤が作られ、松原公園となった。2011年の東日本大震災津波で防潮堤が壊され、ふたたび干潟や磯を含む海岸に戻った。水鳥では、コクガンの重要な越冬地になっているほか、冬にやってくる渡り鳥は、マガモ、ヒドリガモ、オオガガモ、コガモ、シノリガモ、スズガモ、ホオジロガモ、クロガモ、オオバン。猛禽類では、ミサゴ、オオワシ、オジロワシ。■南三陸町発行の冊子「ラムサール条約登録湿地 志津川湾」(2021年3月26日改訂版)から
2023.08.25
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上野の国立科学博物館で現物をみて感動に震えたのは、もう6年前。その隕石の故郷(第二の?)富谷で、残暑厳しい休日の昼、再開を果たすことができました。(このあと、本記事では展示・解説の内容を記させていただきます。)とみぷら移転5周年記念「富谷隕石」特別展示(3階富谷市民俗ギャラリー)。●【パネル】富谷市外にある貴重な文化財(2) 富谷隕石富谷市富ヶ丘3丁目に昭和59年(1984)8月22日午後1時35分。石のようなものが前ぶれもなく落下し、その石は、国立科学博物館による鑑定の結果、隕石と断定されました。富谷隕石は、ケイ酸塩鉱物が主な主成分(ママ)の「石質隕石」で、宇宙にあった時と同じ状態のきれいなまま発見され、落下後20数時間で専門家の手に渡ったことなどから、太陽系誕生の過程を知る資料として貴重な資料と(ママ)なりました。現在は、東京上野にある国立科学博物館で常設展示されています。(↑画像加工で所有者のお名前を伏せました。)●【新聞記事】(河北新報紙面。ちなみに隣の漫画はヒラリ君。Yさん所蔵)ゆく夏のロマン”宇宙の使者”/いん石二個(アメ玉大)落下/一つはパジャマの上に/宮城・富谷仙台近郊の住宅団地に22日午後、アメ玉大のいん石二個が落下した。一戸は民家の物置のトタン屋根に大きな音を立てて落下、もう一個は縁側に置いてあった女児のかわいらしいパジャマの上に音もなく軟着陸した。23日、現地で確認した国立科学博物館の村山定男理化学部長は「いん石が見つかるのは世界で毎年十例前後とまれな上、住宅地にたて続けに二個も落下したのは極めて珍しい」と驚いている。 いん石が落下したのは、宮城県富谷町富ヶ丘三丁目(おだずま注:記事には番地まで記載あるが省略)、会社員Aさん(注:記事には実名と年齢あるも伏せます)の縁側と隣のYさん(注:同前)の物置屋根。発見者の浅野さんの妻Bさん(注:同前)の話だと、22日午後1時35分ごろ、隣のYさん方で「物干しざおが落ちるような」物音がして十数秒たった後、縁側に足の親指ほどの円形の石が落ちてきた。生臭いような異様なにおいがしたので、Bさんはびっくり。夫のAさんが23日朝、仙台市天文台に知らせた。 同市天文台はいん石の専門家である村山部長に連絡。同日午後駆けつけた村山部長が二つの石を鑑定、いん石と断定した。 大きさは、一つは3センチ×2.8センチ×1.7センチ(重さ19.2グラム)。もう一つは2.3センチ×2センチ×1.5センチ(8.3グラム)。いずれも色は黒っぽく、一部灰色の部分が残っていた。黒っぽく見えるのは落下の際、空気との摩擦によって焼けたもので、本来の色はわずかに残っている灰色だという。 村山部長の話によると、落下したいん石が実際に発見されるのは、毎年、世界で十例ほど。国内では昭和十三年の岐阜県、三十三年の埼玉県、今年六月三十日の青森市松森に続き、昭和に入ってからわずか四例目。特に青森市に落ちてから二カ月もたたないうちに、同じ東北地方で発見されたことは「こんなことがあり得るのだろうか」(同部長)と驚くほど珍しい現象。しかも、今回の発見された二個はいずれも「宇宙にあった時と同じ状態のきれいなまま」(同)見つかっている上、落下後二十数時間という短時間の間に専門家の手に渡っていることから、四十六億年前にさかのぼるといわれる太陽系の生成過程を知る貴重な手掛かりになる。 東北ではこれまでに青森の一例のほか、秋田、岩手各一例、山形三例の計六例のいん石が確認されている。 命名は確認された地名をかぶせるのが通常で、今年青森市に落下したものは「青森いん石」と呼ばれていることから、今回の例は「富谷いん石」と命名されそう。 Bさんの話 / 異様な音に生後三カ月になる双子の姉妹が、目を覚まし泣き出してしまいましたので、落下の瞬間ははっきり覚えています。その直後に今後は縁側でしょう。本当にびっくりしました。(中略)落ちた黒っぽい石ころは子どもが外から投げたものと思いました。でも拾ってみると、冷たくて生臭いにおいがしたので普通の石ではないと気づきました。 いん石とは / (略)写真(落下した隕石(上)といん石が落下した縁側の前で、国立科学博物館の村山定男理化学部長に「所有権はあなたのものですよと」と言われ、ニッコリする発見者のBさん(宮城県富谷町で)(おだずま注:写真では、縁側の前でBさんが小さな子を抱いています。)(↑このパジャマが受け止めてくれた。何とも天文学的偶然。しかもど真ん中です。)●【パネル】富谷を騒がせた富谷隕石とは? 1984年(昭和59年)8月22日午後1時35分に富谷市富ヶ丘三丁目に、石のようなものが前ぶれもなく落下した。その石は、国立科学博物館の村山定男理化学部長が鑑定した結果、隕石であると断定された。 そもそも隕石とは、宇宙の惑星間空間に存在する固体物質が地球の表面まで落下してきたものである。そして、隕石は大きく3つに分類することができる。鉄隕石(略)、石鉄隕石(略)、石質隕石(略)富谷隕石はこの石質隕石にあたるものである。 宇宙から飛来する隕石は、通常は発見から分析・鑑定が行われるのに間に(ママ)時間がかかり、いつどのような形で落下したのか具体的に詳細が分かる物は、数少ない。また、落下して地球の大気に触れることで、分析・鑑定を難しくしてしまう。 そんな中、富谷隕石は、宇宙にあったときと同じ状態のきれいなままで発見され、落下後20数時間で専門家の手に渡ったことなどから、太陽系の生成過程を知る資料として、貴重な資料となった。●雑誌記事(おだずま注:出典記録忘れました。村山定男理化学部長の執筆のようです。)富谷隕石 8月22日11時ごろ、今度は(おだずま注:直前が青森の話題)仙台市天文台の小石川正弘さんから電話があり、隕石が落ちたようだというので、午後の新幹線にとびのって仙台へ向かいました。仙台市天文台の机の上には小さな隕石が二つおいてありました。思わず「こんなことあっていいの?」と大きな声を出し、小坂台長に笑われてしまいました。 天文台の小石川さん、千田さん、それに郡山からかけつけた藤井さん、岡田さんらと現地に向かいました。隕石が落ちたのは仙台市天文台から北へ10kmほどの黒川郡富谷町の富ヶ丘ニュータウンにあるAさん(おだずま注:実名を伏せます)のお宅です。大勢の報道陣のなかで奥さんから話を聞きました。8月22日13時35分ごろ、奥さんが庭に面した部屋で4歳のお嬢さんにカゼ薬を飲ませていたところ、バシッと竹ざおが落ちるようなはげしい音がしたので驚いて外を見ると、まもなく今度はぬれ縁の上に干してあった洗濯物の上に、黒い石がサッと落ちてきたのだそうです。拾い上げるとなま臭いにおいがしたそうですが熱くはなく、むしろつめたかったそうです。 外にいた隣の奥さんとなんだろうとあたりを見まわすと、ななめ隣の家の物置のトタン屋根にもう一つ黒い小石がのっていました。小石川さんたちの調査では、もう1軒隣りのプレハブ物置の屋根にキズがあり、これに当たってバウンドして隣りのこの物置の屋根の上にのったらしいことがわかりました。この時の音が初めに聞こえたのでしょう。 物置に当たった方の重さが8.3g、ぬれ縁に落ちたのが19.2gと、今まで日本に落ちたものでは最小ですが、全面に黒い溶融皮膜をかぶっているものの、明らかに大気中でいくつにも割れた破片の特徴をそなえているので、ほかにもかなり落ちていると思われます。しかし落下前の爆音も火球も見えなかったようなので、隕石の規模は小さかったと思われます。当日は台風10号が日本海を北上中で、空は曇って南風が強く吹いていました。 とにかく青森隕石は落下後2昼夜、富谷隕石は1昼夜あまりという新鮮な隕石を入手しました。いずれも泥もつかず水にもぬれていないので、もちろんサビなどはまったくありません。青森の破片などはあまりにもきれいなので、最初手にしたとき、どんな種類の隕石か一瞬とまどうほどでした。青森隕石は鉄の量の少ないグループ(シソ輝石球粒隕石)、富谷隕石は鉄分の多いグループの(古銅輝石球粒隕石)でした。 隕石には宇宙空間で宇宙線に照射されてできた原子核がいろいろ含まれていますが、半減期の短い放射性原子核は、落下後なるべく早くしらべなければなりません。今回の二つは日本での新記録で、目下研究中です。 同じ東北地方に2カ月たらずの間に、相ついで落ちたのは、本当に珍しいことです。写真 / 富谷隕石の落ちたAさん宅(左)、こんなふうに拾ったの・・・・・・と語るA夫人●星の手帖vol.26(1984年秋号)日本一ちっちゃな隕石落下/富谷隕石 去る6月30日午後1時50分ごろ、青森市松森の人家に隕石が落下したばかりというのに、わずか2か月もたたない8月22日に、こんどは宮城県富谷町の住宅団地内に2個の小さな隕石が落下、拾得されるという”事件”が起こった。青森市に落下したのが昭和33年埼玉県に落下したものから26年ぶりだったから、これはもう連続隕石落下事件といっていいほどのもの。「まさか」といいながらも相つぐ隕石落下に隕石関係者は口をあんぐりしたり、ほくそ笑んだり・・・。 写真(文字通り降ってわいたような”大事件”に団地内はウワサでもちきり、おおぜいの住人が事件現場にかけつけ、他にも黒い石がないかとあちこちさがしまわる姿が見うけられた。) 写真(隕石を見つけたBさん(左端)から落下の事情を聞く村山定男先生。拾われたからわずか26時間後。これほど早く専門家の手にわたった隕石の例はない。) 写真(住宅のぬれ縁にビシッというするどい物音をたてて落下した。周囲の事情から隕石は南東の方向から飛来したらしい。) 写真(「赤ちゃんの世話をしていたら、なにかが落ちてきた音がして、こうやってひろいあげました・・・・・・」。隕石の大きい方は縁側になった女児用パジャマの上に見事ソフトランディング。落下時の音のするどさに赤ちゃんもビクリと反応したとか。) 写真(隕石はこうして落ちたが、もし別の場所だったら発見されたかどうかわからない。)(↑民俗ギャラリーでいただきました。)■関連する過去の記事 神岡隕石を持つ人(2013年2月28日) 巨大隕石と東北(2013年2月16日) 気仙隕石(2010年2月15日)
2023.08.20
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南蔵王の高原をわたる県道の傍にある。1945年3月10日未明に米軍B29爆撃機3機が不忘山に墜落し、米兵34人が落命。山頂から300メートルほど下ったところに、1961年に碑が立てれらた(不忘会建立と刻まれている)。その石碑を抱く不忘山を遠望できるこの地に、石碑の刻文を紹介しながら「不忘の碑」として1982年(昭和57)に作られたようだ。この広場の北の方には、開拓の記念碑がある。路傍のバス停の脇の石からは、清水が噴出しているのが、不思議だ。また、碑のある開けた広場の南側には、水分神社がある。そもそもこの広場が神社の境内なのかも知れない。また、この県道を南下した七ケ宿町の長老湖ちかくには、不忘平和記念公園がつくられ、不忘の碑(レプリカ)、世界平和の祈念碑が、2015年8月2日に除幕された。■関連する過去の記事(不忘の碑) 昭和20年不忘山にB29が墜落(2015年8月4日) 船岡と海軍火薬廠の歴史(その1)(2011年10月13日) 宮城県内の戦災はどうだったのか(06年8月2日) 藤井前市長の話(06年7月13日)(空襲の話)■関連する過去の記事(白石、蔵王など) がんばれ蔵王 負けるな蔵王(2015年5月6日) 蔵王の御釜が沸騰(2014年8月23日) 白石・小原と鉱山の歴史(2014年6月16日) 白石の横丁を考える(2013年4月3日) 蔵王の御釜の色を考える(2013年2月19日) 蔵王山境界紛争を考える(09年5月17日) 白石城の来場者が激増(09年3月12日) 蔵王のお釜は共有財産(08年11月5日) 蔵王の紅葉(07年10月15日) 蔵王三階の滝(07年10月14日) 白石の芝桜(07年5月14日) 白石湯沢温泉「やくせん」(07年5月13日) 南蔵王縦走(06年8月20日) 栗駒と蔵王の名前の由来(06年7月28日)
2023.08.11
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『47都道府県・妖怪伝承百科』小松和彦・常光徹 監修、香川雅信・飯倉義之 編、丸善出版、2017年 から(川島秀一執筆部分)■関連する記事 青森県の妖怪伝承(2023年07月11日) 岩手県の妖怪伝承(2023年07月12日) 秋田県の妖怪伝承(2023年07月15日) 山形県の妖怪伝承(2023年07月16日) 福島県の妖怪伝承(2023年07月17日)・糸車を回す婆様(山中の家に居り、何度撃っても笑っている。最後には老体のサルが正体を現し、婆様と思ったのは木の根だあった)・海人魚(唐桑町津本の漁師がカツオ船で目撃したクジラのようなヒレを持ち胴体は人間の女性。同町鮪立では捕まえた人魚を逃がしたら、舐めれば三年長生きするのに、と揶揄われた。)・海坊主(網地島のカツオ船が大漁するたびに船上から熊野神社に投げていた。もったいないからと潜ってそのカツオを拾い上げた船頭が、大坊主に片手をつかまれ、馬屋の馬を海に引っ張り込んだ。)・大鱈(気仙沼市五駄鱈の家の娘に毎夜通ってくる和子様(若者)の袴に麻糸をつけて、翌朝たどっていくと沼の中に大きな鱈が死んでいた。南三陸町戸倉の同様の話は「姫子岩」で鱈の親分に子分が集まる所の話で、鱈網で大漁する漁場だった。)・片目の鮒(大郷町大谷のメッコ沼の鮒は、漁師が大鮒の目を貫いて殺したため、みな片目だというが、その漁師も片目を刺されて死んでいた。)・河童(旧暦6月15日は天王様の祭日で各家で初物のキュウリを供えるが、気仙沼地方では河童様にあげ申すと唱えた。河童に引かれるからと危険な場所で子どもが泳ぐのを注意することもある。色麻町の磯良神社はオカッパ様と呼ばれ、宮司の姓は代々「川童」である。)・ザシキワラシ(気仙沼市大島村上家。旧長磯村斎藤家。気仙沼尋常小学校。南三陸町入谷の菅原家では代かきを手伝ってくれたワラシに魚を御馳走したが、雲南神社の祠に入っていたので、以来菅原家では田仕事に魚を食べない。南方町原の佐々木家。宮戸島の観音寺では、三寸くらいのザシキワラシが多数酒を飲みかわすが、見た者は小人になってしまう。)・大蛇(気仙沼市名木沢の門兵衛が鉄砲で撃った大蛇が、大島の葡萄口まで流されて死んだ。その祟りで門兵衛一族が大島に渡るとさざ波が立ち、一族は代々片目が悪い。大郷町では板谷斎兵衛が大蛇を撃った話。七ヶ浜花渕浜の花淵善兵衛は大蛇の歯に刺さっていた獣骨を抜いてやり、山の蛇除けの言葉を教えられた。)・テンテンコブシ(気仙沼地方で、わら打ちの槌を椿の木でつくると、その晩に化け物が来る。)・人をだます猫(離島に多い話。小野喜惣治『田代管見録』(1888)。また、網地島では、田代島から渡って来たマントに高帽の男が渡した金が木の葉だった。網地島で宿直の先生が毎晩猫を目撃したが、その猫が船賃として2円を出した。今でも臨時に田代島から網地島に船を出してもらうときには2000円を払うという。出島では唄を、野々島では浄瑠璃を歌う猫の話。田代島には猫神様、野々島には猫神社が祀られている。)・ヒヒ(本吉町でヒヒ(老年のサル)にさらわれた娘がを、故郷の者が五葉山で見つけたが、何不自由ないので帰らないと語った。)・船幽霊(菅江真澄が1786年気仙沼大島に渡る船中で聞いた。沖に碇泊していたカツオ船に次々と人が乗り移ってくるので、狭い一室に閉じ込めると翌朝にはみなクラゲになっていた。七ヶ浜にも同様の話がある。南三陸町寺浜では、大阪徳蔵という船頭の船の前に急に山が現れたが、乗り切って助かった。「大阪徳蔵山乗った」という地口が残る。清水浜ではハモドウ(ハモ漁の筌)を挙げているときに多数の手が船べりにすがりついた。)・まさぼう滝(気仙沼市渡戸川の小滝に浮いた大ウナギを取り上げダツ(運搬具)に入れたところ、マサボウ、マサボウ、いつ来るや、と滝の中から声が聞こえ、ダツの中から大ウナギが、マサはいつ来る来ずさ、と声を返したので、男は一目散に逃げ帰った。同様の話のある「昌坊滝」が登米市東和町と藤沢町の境にも伝えられる。)・山小屋の妖怪(気仙沼市塚沢で出会った化け物は人の心を読むので退治に難儀したが、そのうち小屋のオキリ(炭火)が跳んできて退散した。同市西才中に同型の話がある。)■関連する過去の記事 ごんだら村(気仙沼市五駄鱈)(2013年2月8日)ほかにも多数あります。フリーページの記事リストご覧ください。
2023.07.13
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徳仙丈山。5月の晴れた日に、気仙沼川の登山口から登りました。向かう途中に、ちょうどラジオの石丸謙二郎の山カフェでツツジの海という読者の声を取り上げていた。(勉強の成果は、画像の後に。)(以下、気仙沼市のパンフレット2021.3から)標高711mの徳仙丈山の最大の魅力は、ツツジの大群生を散歩気分で満喫できること。ツツジの面積は約50ha、本数約50万本。野鳥の宝庫でもある。気仙沼側にある徳仙奥入瀬では、清流のせせらぎも。■深紅に染まる名山 5月中旬から下旬には50万本のヤマツツジやレンゲツツジが全山を深紅に染めあげる。 登山口は南北に二か所。北の気仙沼登山口からは、つつじが原を見渡す第一展望台。さらに第二展望台から眼下には、ツツジと太平洋の紺碧が織りなす雄大な風景が迫る。その先は、人の背丈を超すほどのつつじ街道を通って山頂へ。 本吉側からは、まず駐車場そばの長命清水でのどを潤し、のんびり作業道コースと尾根道コースから道を選らぶ。 どちらからも山頂には40分ほど。360度の絶景が待っている。視界を遮る高木がないため、東にリアス式海岸が続く太平洋、大島、南に金華山、北東に五葉山、西に栗駒山、北に室根山、大森山を一望。また、自然保護を願い登山者の労をねぎらおうと、樹齢1000年以上のツツジを御神体とする石造りの徳仙丈山神社も建立されている。 昔、屋根葺きや農耕馬用の採草地だったことから、山焼きが行われ、その火防線は現在の登山道の一部。山焼きや伐採など多くの試練を耐え抜いたツツジ。その成長の陰には、本吉側の「徳仙丈山つつじ保存会」、気仙沼側の「徳仙丈の自然とつつじを守る会」とその意思(ママ)を継いだ「徳仙丈のつつじを愛する会」の長年にわたる保護活動の尽力があった。 気仙沼側には、清らかなせせらぎの徳仙奥入瀬があり、大きな岩を抱いた「岩抱きけやき」をはじめ美しい風景が点在する。■ツツジの名所になったワケ 徳仙丈山には大正初期から昭和25年まで銅を採掘した徳仙鉱山があり、火入れや山火事跡は萱や牧草地として利用されていた。現在の登山道の一部は火防線として明治につくられたもの。その後幾度も山火事や植林事業を経て、厳しい自然環境に耐え、山頂一帯が黒野牧(くろのぼく)という土がツツジの成長に適していたことなどから、自生のヤマツツジの大群落となったといわれる。昭和51年に気仙沼側の故佐々木梅吉氏ら、同年に本吉側の故須藤隆氏らにより撫育や保護事業が開始され、以後双方の住民による地道な活動によって、現在の徳仙丈山が日本屈指の名所となった。 日本一のツツジの山と言われる徳仙丈山だが、30数年ほど前はツツジの株も小さく地元でさえもあまり注目されることはなかった。昭和51年、当時の気仙沼市議、故・佐々木梅吉氏は、山に咲くツツジに魅了され仲間とともに下草やツツジに絡まるツタを刈る作業をしながら、撫育管理の必要性を訴えた。この作業により草木の陰となっていたツツジは大きく成長し鮮やかに山を彩るようになり、後に市も草刈りや歩道の整備などを行った。佐々木氏は有志による「徳仙丈の自然とつつじを守る会」を結成し、昭和53年に第1回つつじ祭りを主催。その意思(ママ)は現在「徳仙丈のつつじを愛する会」に引き継がれ、つつじ祭りの開催や自然保護活動が行われている。 昭和51年、当時の本吉町議、故・須藤隆氏は「本町の貴重な財産であるつつじの保護」を議会に求め、ツツジの魅力と山の整備を町に訴えながら、自ら草を刈り、ツツジの生育に適した環境づくりを行った。昭和56年からツツジの保護活動が町の事業として開始され、昭和63年に「本吉町徳仙丈山つつじ保存会」を結成、平成元年に第1回徳仙丈山つつじ祭りを主催、現在までつつじ祭りや下草刈り、ツタ刈りなどの活動を行っている。 二人の先人の熱い想いと、それに共感した地域の人々の地道な活動が市や町を動かしてきた歩みが、徳仙丈山のツツジが全国に名を馳せる礎になっている。
2023.06.01
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田束山にのぼった。海岸のまちを、観音様が見守っている。
2023.05.30
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