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堅い頭を数学の雑学本で癒やそう(?)と思っていたら、「正方形分割」問題と魔法陣のところで、我が国の誇る在野の数学の達人として、漆工芸職人の阿部楽方さんが出ている。■桜井進『超 面白くて眠れなくなる数学』PHPエディターズ・グループ、2011年正方形分割の問題は、正方形を異なる大きさの正方形でピッタリと埋め尽くすことができるか。この歴史が面白い。1902年に提起され、同じ大きさの正方形を含む分割や、長方形の完全正方形分割は成功例が出たが、「完全正方形分割正方形」ができるかどうか未解決の状態が続く。日本の安部道雄が1931年に条件を明らかにし、1938年に55個の異なる正方形に分割された正方形分割正方形が発見される。もっとも、これは分割の中に長方形を発見できてしまう。1939年には長方形も含まれない単純完全正方形分割正方形が発見される。1978年には、21個の正方形で分割されるもの(112×112)が最小であると証明された。世界の数学界を巻き込んで最後に到達した、この21個の最小で単純な完全正方形分割正方形を、こんどは魔法陣と結びつけた人がいる、との話が次に出てくる。阿部楽方さんは、分割された21個の正方形自体が魔法陣で、224×224=20176全体も魔法陣になっているという巨大な魔法陣を作り上げ、世界一大きい魔法陣としてギネスブックにも登録されたという。もはや想像もできないが、すごいモノなのだろう。阿部さんは本職が漆工芸職人。ノートと鉛筆だけでこれまで数万点の魔法陣を作ってきた。この本には、誕生日入りの切手陣(幸せの六角形)が紹介されている。そんな在野の超人。ひょっとしてと思って調べてみたら、東北は湯沢市の方のようだ。昨年末に、県立横手清陵学院高校のサイエンスカフェで講演された様子がネットで出ていた。また、2009年の「広報ゆざわ」では、家業である漆工芸品の製造や販売をする傍ら、約60年にわたって魔法陣の性質や法則について研究。学生時代に出会った「方陣の研究」という本のおかげで、誰も見つけていない方陣の種類を発見したり、その過程で生じる問題を試行錯誤することが面白い。また、誕生日など思い出の数字を使った魔法陣をプレゼントするなど、人に喜んでもらうものとしても使っている、などと紹介されている。広報のページには、誕生日入りの切手陣(幸せの六角形)が写真で紹介されている。また、平成3年に発表された代表作・世界初の完全な「正方形分割方陣」(大きさが異なる魔法陣をすき間なく並べた巨大な正方形が、全体でも魔法陣になっている)が国立科学博物館(東京都)に展示されました、との紹介文も出ている。
2013.11.10
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国道346号は何度も通っているのに、じつは品井沼駅前や元禄潜穴の穴頭などのある幡谷地区の中心部は、今回はじめて訪れた。根廻の旧山線鉄道橋跡(元禄潜穴穴尻)から、ずり出し穴、旧山線の根廻トンネル、大菅踏切を経て、穴頭の位置に品井沼干拓資料館。交番、第五小学校(どんぐりころころの碑)、くぬぎ台団地などをみて回って、集落を抜けて県道大和竹谷線に沿って東北本線を渡り(第二上竹谷踏切)、吉田川沿いに下って二子屋橋で渡河し鹿島台に出たのだった。最初の写真は、根廻児童公園(おまん地蔵)付近の標識。ずり出し穴から町道を北上してすぐの場所。車を寄せて撮ってみた。悲話の伝わるおまん地蔵を、次回はお参りしたい。根廻トンネルや大菅踏切を経て、幡谷の住宅集積地に入る手前に、品井沼開拓資料館。元禄潜穴の穴頭(入口)の直上部の丘にあたる。普段閉まっていて事前に連絡して見学する方式のようだった。■関連する記事 品井沼開拓資料館、元禄潜穴入口、品井沼駅(2024年06月12日) 元禄潜穴第6ずり出し穴(松島町根廻)(2024年06月11日) 明治潜穴公園(松島町幡谷)(2024年06月10日) ふれあい広場(明治潜穴出口、松島町根廻)(2024年06月09日) 元禄潜穴の穴尻、一分間停車の碑(松島町根廻)(2024年06月05日) 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日) 青木存義(松島第五小学校の碑)(2024年05月25日)(品井沼干拓、鳴瀬川吉田川問題などについては、当ジャーナルの一大課題です。近日中に記事にいたします。編集長)■関連する過去の記事(宮城県内の河川改修など。これらの他、貞山堀などの記事もあります) 川村重吉(2024年01月22日) 川村孫兵衛重吉(2012年6月21日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 仙台・宮城人怠け者論を考える(09年11月11日)=皇太子の一分停車について記載あり 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 高城川を考える(06年8月26日) 七北田川を考える(07年10月3日)(寛文の流路変更)
2024.06.12
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再び、各県の名字の話題です。各県のメジャー名字について。◆青森県工藤(1位)は全国では65位。平安後期の武士、工藤祐経(すけつね)が祖で、分流が鎌倉時代に東北の地頭となった。福士(30位)も全国では990位。成田、三上、対馬、古川なども上位。珍名では、哘(さそう)。向こうに行こうか、と口で誘うから。地名にもある。また、治部袋(じんば)は、元は陣場で、石田治部少輔(三成)が陣を構えたため。◆岩手県佐藤(1位)、佐々木(2)、高橋(3)、千葉(4)、菊池(5)など。全国279位の及川(9位)、小野寺、小笠原、八重樫、郷右近など。蟇目(ひきめ)は、鏑矢を使った神事の意味の宮古市の地名から。人首(ひとかべ)は、坂上田村麻呂が取った鬼の首が実は人の首だったことに由来。西風舘(ならいたて)も珍名。◆宮城県宮城県の佐藤(1位)は義経忠臣の佐藤継信・忠信兄弟の影響が大きい。菅原は道真の後継を称している。高橋(2)、鈴木(3)、佐々木(4)など。阿部(5)は奥州の大姓で、平安中期以降、北上川流域の一大勢力に。宮城県と福島県にある珍名で、百足(むかで)は、大百足を退治した人と、伊達藩の百足衆の末裔、との2説がある。◆秋田県1位は佐藤だが、高橋(2)も県民の5.6%を占めている。佐々木(3)、伊藤(4)、鈴木(5)など。特有のものは、三浦、畠山、小松、柴田、鎌田、成田など。珍名で及位(のぞき)。◆山形県佐藤(1)、高橋(2)、鈴木(3)、斎藤(4)、伊藤(5)など。後藤(9)は、藤原北家、利仁の子孫が義経家臣となった際に後藤太と名乗った。五十嵐(10)は、新潟市の五十嵐(いそあらし)浜が起源で、磯の嵐が訛って、いそらし→いからし、となった。新潟では今でも「いからし」という。他に、梅津、渋谷、小関、板垣、安孫子、寒河江、東海林などが多い。左沢(あてらさわ)は、アイヌ語の日陰の意味のアテラから。左の沢が日陰だった。◆福島県佐藤(1)、鈴木(2)、渡辺(3)、斎藤(4)、遠藤(5)と続くが、特徴的なのは、菅野、渡部、橋本、星、五十嵐、根本、佐久間。橋本は地名にも多く(全国最多)、星は会津から新潟にかけて分布。小さい盆地を意味し、平野部に降りると星野になると言われる。円谷は全国5300人のうち2600人が福島県。大越(二本松市周辺)、宗像(田村郡周辺)。参考 KKベストセラーズ『一個人別冊 日本人の名字の大疑問』2017年9月なお、この本にはクイズとして、東京23区と同じ名字の話題。最も多いのは、中野(7万世帯)、次いで渋谷、足立など。新宿や千代田なども希少だが存在。名字として存在しないのは、文京、台東、世田谷の3つだそうだ。■関連する過去の記事(東北と名字。また、姓について) 名字の都道府県別ランキング(2012年9月28日) 都道府県名と同じ名字(2011年12月19日) 各県の名字ベストテンと特色ある名字、珍しい名字(2011年12月18日) 宮城県の由緒ある苗字(06年8月1日) 氏と姓と名字の成り立ち(2012年9月29日) 姓と苗字の違い(06年8月23日) 苗字と名字の違い(06年5月22日)
2019.11.24
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残念なことに、閉鎖されていました。観光センターから眺めた秋の日の小黒崎美豆の小島から戻る小径からも眺めてみました。■関連する過去の記事(鳴子、岩出山周辺など) 美豆の小島(大崎市)(2023年12月12日) 小僧街道踏切(大崎市岩出山)(2023年12月11日) 川渡小学校上原分校跡(大崎市)(2023年12月10日) 小黒ヶ崎のすばらしさ(2016年6月5日) 歌枕だった小黒崎(2013年3月14日) 大崎市のカンガルー(09年11月26日) 観光客で賑わう鳴子峡(08年11月2日) 花山で釣りをする(07年10月25日) 再び岩出山を探訪する(07年7月22日) 初滑りオニコウベ(06年12月29日) 松山街道 姫松、真坂あたり(06年11月5日) 岩出山を探訪する(06年7月17日) 鳴子の交流人口と東北の地域構造の多様性を考える(05年10月10日) 鳴子峡散策で地域の先人たちを考える(05年10月9日) 御料馬金華山号と支倉常長の野望(08年9月16日) 鬼首の名馬金華山号(07年12月26日) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 松山道・上街道(2011年9月16日)
2023.12.13
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報道によると、気仙沼署の亡くなった前署長が市民に拳銃を見せていた問題で、県警察本部は副署長らを訓戒処分にした。最初の報道は先月20日の署長が自殺したとのニュースで、併せて、前日に事情聴取を受けていたことも報じられていた。直観的に感じたのは、署長が個人的なつながりで誰かに渡そうとした、あるいは極めてプライベートな席で誰かに親しく触らせた、などのような場面だった。もちろん、蓋然性をもって予想したのではなく、極端な場合として一応念頭に置いてみたものだ。つまり、本来なら当の署長も非公表の文脈で行動した「私事」だったものが、何らかの事情で外部に漏れ伝わり、本部の事情聴取に至ったのではなかろうか、と悪い方に考えてみたのだった。今回の報道では、宿舎で署員や地元市民との夕食会を開いた。幹部8人と市民5人ほどで酒を伴うもの。会の後に、片づけにやって来た当直の署員に、署長が拳銃を出せと命じる。署員は再三拒んだが、結局署長は銃弾を抜いた銃を、市民2人に見せたという。心配した公私のけじめの点は一応安心したが、こんどは逆にパブリックな場での挙動だったことが、意外である。いったい署長宿舎で地元市民と行う夕食会とは何なのか。市民とは誰なのか。ちなみに経費はどうしたのか。銃弾を抜いたのは安全のためという説明だろうが、酒の席の後の場で現実の危険性はどの程度だったのか。公安委員会規則に反したという形式犯的な解説だけではなくて、市民との関わりと安全確保のための警察の意識それ自体について、もう少し丁寧な説明があっても良いのでないか。もっともマスコミもあまり突っこまないのだろうけれど。
2011.02.11
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前回では(利府方から)旧線ルートをたどって、葉山団地南入口の交差点まで来た。更に松島方(北東)に進む。(写真1)奥が松島方。画の左に県道8号(利府街道)、右手は仙台松島道路(三陸道)。旧線路は現在の砂利道になっているが、三陸道の築堤で微妙にずれているようにも思われる。しばらく行くと、旧ルートの砂利道は明らかに幅が広くなって、県道8号(利府街道)の丁字路から高速道をくぐって浜田に向かう町道と直交する。交差点の先もしばらく幅が広い区間となる。赤沼信号場の跡だろう。(写真2)奥が松島方。撮影に立った地点あたりから松島方に100mほどか、現道が広くなっている。(写真3)少し進んでから、振り返って利府方を望む。旧信号場の中央部に立っていると思われる。(写真4)これは信号場施設の名残か。写真3のトラクタの辺りから利府方を望んでいる。旧線の西側に立っている。(写真5)写真4撮影地点に近い現道の中央には、石が露出。信号場の施設の基礎か。画の奥が三陸道(か左が石巻方面)。このような石が幾つかあった。赤沼信号場跡から更に先に(北東)進むと、砂利道は県道8号(利府街道)の丁字路(名取商店)から来る狭い道と交差し、その先(大一木材)で見えなくなる。仙台松島道路(三陸道)松島海岸ICを造ったためだ。(写真6)この画の先(松島方)で旧線ルートは一度わからなくなっている。ICの退出路や周辺の水路付け替えなどで消えたようだ。今回探訪のマップと撮影地点です。黄色矢印の先端が撮影ポイント(矢印と撮影の方角は関係ありません。撮影方向は文中に説明しています)。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・今回 利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その10)松島町桜渡戸、初原(2024年06月01日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その11)松島町初原、旧松島駅(2024年06月02日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.05.18
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梅雨も明けて東北の短い夏も真っ盛り。仙台も今日(5日)が花火大会で明日から七夕祭り。昨日も駅前には、ガイドブック片手の観光客の方々がたくさん。家族連れ、若者、外国人の人たち。そうそう、仙台に来てくれているのです。こんな時に気になること。以前も報道されたが、酔客から預かったキャッシュカードで数十万円を勝手に引き出していた飲食店の経営者が、この手口で別の客からもボッタクっていたという(06年8月4日河北新報朝刊記事)。歓楽街の安全は、観光・交流都市としての一つの生命線だ。私ら普段仙台にいる者は、安い居酒屋で一杯、となるけれど、外から大都市仙台に来た人なら、この機会に少々楽しんで行こう、となるかも。とすれば、せっかくの仙台で嫌な思いをして欲しくないから、地元の我々としても健全な国分町であって欲しい。そういう店に縁遠い私のような者としても、都市イメージや経済効果という点で、見過ごせない問題だ。店のぼったくり問題もだが、路上犯罪、ピンクチラシ、交通渋滞など、総合的に安全安心な国分町であって欲しい。仙台市では「安全安心街づくり条例」に基づいく重点推進地区として国分町地区クリーンアップ作戦などの環境美化に取り組んでいます。また、宮城県警の繁華街・歓楽街総合対策のHPによると、健全で魅力あふれる繁華街・歓楽街の再生のため、全国12の都道府県が指定を受けて対策に取り組んでいる。摘発の状況も公表されており、本件のD店もちゃんと出ている。ところで、今回の事件、窃盗罪で再逮捕との報道。窃盗なのかな。一瞬アレっと思う。カネを引き出した時点では、カネが経営者(犯人)の占有に入っていたとは言えないから、横領の前提を欠く。そして、誰かを欺罔してはいないから(相手は現金自動預払機)、詐欺も成立しない。結局、他人の財物たるカネを窃取したとみて窃盗ということになるのだろう。そして厳密に言えば、客からカードを預かった時点も問題となる。この時点では財物(カード)を窃取したとは言えず、窃盗は成立しない。(もし窃取していれば、カードとカネと2時点で2つの犯罪が成立し併合罪となるはず。)しかし、後に不正に引き出す意図でカードを預かっているから、この時点でカネの窃盗の実行の着手とみることはできないか。かりに引き出しに至らなかった場合に窃盗未遂で逮捕できるかどうかの問題である。この経営者の場合、こんなケースもありそうだ。すぐに客からカード返還を求められた、とか。多分、理論上主観主義を徹底しない限り実行の着手を認めるのは無理なのだろう。現実にも立証が難しい。単に預かっただけ、と弁明されるから。
2006.08.05
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前回(仙台の「団地名」を考える(前編)(2011年12月11日))に続く...■八木山方面○八木山団地 八木山本町一丁目○八木山第三団地 八木山香澄町○青葉苑団地前(バス停名) 青山二丁目と大塒町の境界のバス通り(81年版地図だと、大塒町の西側部分に「青葉苑団地」と明記)○茂ヶ崎団地 茂ヶ崎三丁目○芦の口(81年版地図では「芦ノ口」)団地 芦の口○緑ヶ丘団地 緑ヶ丘一丁目、二丁目○萩の台団地 八木山東二丁目○八木山南団地(バス停) 八木山南一丁目から六丁目○羽黒団地(91年地図でバス停名「第二羽黒台」) 鈎取三丁目●91年版地図では、現在の桜木町に「越路恵通苑団地」と付されている。また、青山二丁目に「二ツ沢団地」、恵和町に「国鉄共済団地」、砂押町に「郵政団地」、鈎取バス通り西高前バス停附近には「紙漉城南苑」との説明が見える。●81年版地図では、砂押町に「南ヶ丘団地」の名が見える。また、第二羽黒団地バス停は西多賀からのぼるバス路線の終点で、その手前が「国鉄団地」となっている。○鈎取ニュータウン(バス停) 鈎取二丁目○太白団地(81年地図では公社太白団地) 太白一丁目から三丁目○恵通ひより台団地 ひより台○月ヶ丘(バス停名) 上野山二丁目○山田団地(81年地図では県営山田住宅) 山田北前町○羽黒台団地 羽黒台○日本平団地、日本平東南苑団地 日本平(81年地図では、「日本平東南苑分譲地」との記載。)○南(81年地図「仙台南」)ニュータウン(バス停名も) 人来田一丁目から二丁目○茂庭グリーンタウン 人来田三丁目●91年版地図では、現在の佐保山に「軽井沢団地」の記載。●81年版地図では、上野山一丁目に「上野山団地」。山田自由ヶ丘団地の名も明記。■名取市○ライフタウン名取 相互台一丁目から四丁目、相互台東一丁目、二丁目○イトーピア名取 ゆりが丘○グリーンヒルパーク名取みどり台 みどり台●91版地図で、「スカイタウン高館(造成中)」■仙台市南部、東部方面○飯田団地(バス停名も) 東郡山一丁目、二丁目○沖野団地 沖野三丁目から七丁目あたり○中田ニュータウン 東中田一丁目から三丁目○袋原ニュータウン 袋原一丁目から三丁目あたり(なお東陽苑会館という施設があるが、団地通称名か。91年版地図では、団地名と思われる「信三東陽苑」の名が見える。)●91年版地図では、ほかに、大和ネオホーム南仙台(現在の中田一丁目)。また、袋原市営住宅、袋原東市営住宅、東四郎丸市営住宅、西中田市営住宅などの名も。■西部方面●やや古い地図には「茂庭住宅団地(造成中)」とあるのが、現在の茂庭台一丁目から五丁目。------------さて、こうやって地図から拾いまくってみたが、もちろんこれだけでは済まない。南光台や中山などの山を崩した巨大開発は別としても、一般には昭和40年頃からの宅地造成は、丘陵部に中小規模の開発が先行して、やがて道路網が広がるに連れて宅地も連続していくという感じではないだろうか。とすると、山あいの地質や地盤の良いところを選んで、付近の地名や、新鮮な語感の言葉や、あるいはデベロッパーの名を冠して団地名を付けたのだろう。最初は中心部の平坦地から離れてちょっと不便に思ったけれど、静かな団地の中で家族の待つマイホームに帰るお父さんの気持ちは格別だったのでは。そんな余計なことを考えながら、高度成長を担った人と町の歴史を大切にしたいと思う。そんな時代の団地名はおそらく何十とあっただろう。今地図を開くと、まさに平面的に新町名で色塗りされて埋められてしまっていて、よほどの大規模団地でないと、団地名などわからない。しかし、町内会や会館の名前などに残っていることも多いようだ。ミニ開発地に住み込んだ家族達はもう高齢化し、子ども達は独立し、今の時代にはそんな団地名も消えていくのだろうか。藩政時代の町名も大切にしたいが、こんな昭和の足跡も、しっかり記憶に残していきたいと思う。
2011.12.11
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昨日(30日)家族で県北部を周回。途中お昼に、国道4号沿いの赤い看板が目印の西屋ラーメンにお邪魔する。実は市役所近くの著名なそば屋に入ろうと、右折しようとしたら準備中の看板。あわててそのまま北進、なんとか西屋さんの駐車場の3台目スペースに滑り込む。この店、以前から国道4号を通る度に目には入っていたが、一度も訪れたことがない。ケガの功名とは言え、家族4名で入ることができたのも幸い。時刻はちょうど12時過ぎ。店内は満杯状態。お客さん達は近所の家族連れという雰囲気。ラフな格好や、お年寄り連れなので、そうわかる。ご家族だけでやっているのだろうか、客が多いのに調理はご主人とおぼしき1人だけで、あとはホール係など2人でやっている。メニューも豊富で、かなり大変だろう。我が家は、中華大盛り(編集長=父)、みそラーメン(母)、とんこつ(姉)、ワンタン麺(妹)。どれも美味かったが、みそのスープ、豚骨のスープが良かった。5年生のお姉ちゃんはちょっと冒険でとんこつを頼んでみたのだが、大当たりだったようだ。皆でスープをすくいあって楽しんだ。ところでこの西屋さん、入ったことはないのだけど私には思い出がある。たしか上の子が2歳か3歳くらいの頃。車で上の子を後部のベビーシートに乗せて夜の国道4号を仙台方向に走っていた。どういうわけか子どもが泣きやまず、運転しながらなだめていた私もついに爆発して大声でどなってしまった。子どもに怒鳴っても仕方ないのだが。すっかり頭に血が上って、車を止めて降り、後部に回ってドアを開けて、たぶん、そんなにイヤなら降りるかオイ、とか言ったのだろう。短気な性格から直情的に行動する時があるが、ストレス状態を継続するよりも何らかの行動に出ることで同時に頭を冷やす、という無意識の機制なのかも知れない。その降り立った場所が、まさに西屋さんの駐車場。夜で店は閉まっていたと思う。そんなことがあってここを通るたびに、若干の悔悟を含む記憶がよみがえっていたのだ。そこに初めて入店できた。ラーメンが届くまでのやや長い間、上の子は店内を観察してあれこれ話題にする余裕も。豚骨を味わった後は、小上がりの空くのを待っている子ども連れの家族のために席を空けてあげた。西屋さん。成長しました、この子も。ありがとう。
2007.12.31
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なかよし亭が開店しました。年末にわが家の中にできた店舗?です。下の娘がクリスマスにもらった一輪車が入っていた段ボール箱を活用して、姉妹で作ったようです。ちゃんとイメージキャラクターも決まっています。インターホンを押して用件を伝えるようですが、それにしても何の店なのでしょうか。よくわかりません。
2008.01.02
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イーグルスの記録的な大勝、昼過ぎの震度5の地震、そして今日の七夕花火まつりなど、今朝の新聞は盛り沢山だったが、中で気になったのがこの記事だ。岩手県の田野畑村村長選挙。昨日(4日)投票で、村の職員を退職した新人が現職を破って初当選。投票率が87.41%と高いが、もっと驚くのは僅差の結果。当選した新人と破れた現職の票は、それぞれ、1361票と1355票。差はわずかに6票。衆院選の重複立候補みたいに惜敗率で言うなら、99.559%となる。投票に行かなかった又は行けなかった有権者が390人程度いた計算になるが、この中で数名を動員できていれば結果が違ったとも言い得る。岩手日報の解説を引用させていただくと、村民総意の新生を訴えた新人が追い風に乗り、震災復興事業の加速を掲げた現職の地盤を突き崩し逆転劇を演じた、とのことだ。記録は分からないが、首長選挙としてはかなりの僅差の選挙に属するだろう。政治的な面からみると、復興が課題の地域で現職が僅差とはいえ敗れたことは特筆されるだろう。現職への厚い支持が広がらなかった要因、あるいは、復興事業に関連して不満や不安が根強かったのか、同じ被災地を抱える東北人として、気になる所だ。新聞の解説を待ちたい。
2013.08.05
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長町の往年の姿を求めて、是非行きたかった企画展。地底の森ミュージアムを訪れました。■長町に操車場があったころ(第103回企画展。2023.4.21-7.17 協力:東北福祉大学地域創生推進センター『鉄道交流ステーション』資料係)■関連する過去の記事 仙台駅の位置について(その10)新幹線長町駅?(2021年11月14日) 往年の風景が一変の長町(2020年1月1日) 長町の蛸薬師堂(2015年2月11日) 蛸薬師(長町4丁目)とイボのこと(2013年2月10日) ガソリンカーと仙台(2012年11月5日) 東北福祉大の鉄道交流ステーション(2010年12月24日)〔他にも鉄道整備などに関する記事あります。記事リストをご覧ください〕以下は、展示内容から編集長が勉強した内容です。1.はじめに長町には大正から平成まで広大な貨物列車の操車場があった。長町操車場は、貨物列車輸送が盛んだった時期には、東北最大級とも言われた。24時間休まず動き続けた操車場(ヤード)には、大きな機関車庫や転車台もあった。2.長町の〈道〉と〈駅〉古くから長町周辺には、東北を南北に縦断し、東北と他地域を結びつける重要な道が築かれていた。古代には東山道(東北と畿内)、中世には奥大道(奥州と鎌倉)が走り、江戸時代の奥州街道(奥州と江戸)に継承される。現在の国道4号線、東北本線、東北新幹線へとつながっている。また、長町には、JRや市営地下鉄の他にも駅があった。大正から昭和にかけて秋保から石材を運んだり、温泉に向かう人々の足となった秋保石材軌道/秋保電気鉄道の始発駅。また昭和51年まで仙台市電の駅がつくられていた。3.長町駅・長町操車場の歴史(概説)長町に停車場ができたのは、明治27年(1894)で、急造りの臨時駅だった。日本鉄道が東北本線を明治20年(1887)に上野から塩釜まで開通したが、長町には駅がなかった。明治27年日清戦争の勃発で、政府と日本鉄道が契約を結び、兵員や軍馬などの軍用貨物輸送のため、当時の茂ケ崎村長町大道(だいどう)東北(とうほく)に臨時停車場がつくられた。東北各地から第二師団に集められた多くの兵隊が広島に向けて送り出された。その軍用駅跡地に民間用の駅として新設されたのが長町駅で、明治29年(1896)2月に営業を開始。当初は小駅だったが、大戦景気を背景に産業が発展し貨物輸送が増加すると、仙台駅が手狭になり駅を広げることも困難だったため、貨物輸送部門を長町が引き受けることになり、駅が拡張された。駅舎、仕訳線、中継(なかつぎ)貨物線などが整えられ、転車台も新設されて、大正14年(1925)立派な操車場が完成し、翌年に長町機関庫が誕生した。一方、大正3年(1914)には長町駅に連絡する秋保石材軌道(後の秋保電気鉄道)も開業。さらに昭和11年(1936)には仙台市電に長町線が新設され、長町は仙台南部の交通の要所となる。戦後は、北海道の開発が進み貨物輸送量が著しく増加したが、東北本線には中小規模の操車場しかなく非効率だったので、東北本線と常磐線の分岐点にあり、新鶴見・大宮・田端・青森の各操車場に直結する長町に改良の主力を注ぐことになった。この国鉄にとって戦後初の本格的な改良工事は、昭和30年(1955)11月に完成すると、長町は東北本線有数の大操車場となり、東北の物流の中心的役割を果たすようになった。その後、昭和36年(1961)宮城野貨物線及び宮城野駅が開業すると、長町駅で行われていた貨物取扱いは次第に宮城野駅に移り、さらにコンテナ輸送の発展でヤード方式が不要となったため、昭和61年(1986)貨物駅としての役割を終えることになった。操車場等の跡地は、土地区画整理事業により「あすと長町」に生まれ変わり、東北本線高架化にあわせ平成18年には新駅舎を旧駅舎の北側に移設・高架化し、地下鉄長町駅と近接した。かつての長町駅舎があった場所は、東側の「あすと長町」と西側の旧来からある長町市街地とを結ぶ市道となっている。4.蒸気機関車時代の長町駅大正15年(1926)、長町機関庫が貨物専用機関庫として仙台機関庫から職員263名を引き連れて分離、誕生。配置された機関車は27両だった。日本初の本格的な国産機関車のテンダー式蒸気機関車9600形(愛称キューロク)14両を中心に、明治生まれのC1型タンク機関車ながら引き出し性能や制動力に優れた2120形(B6形)7両、鉄道院製造の国産テンダー式蒸気機関車6700形7両という内訳だった。そして、操車場にはそれらを格納する東北一を誇る大きな扇形庫(機関車庫)を備えていた。昭和初年の恐慌を脱し景気が好転すると貨物輸送量が回復したため、鉄道省は新型の貨物用機関車の開発を行い、昭和11年からD51形(愛称デゴイチ)を製造。翌12年には長町にも配置された。D51形は戦時形として大量生産され、その数1,115両で国鉄蒸気機関車の代名詞と言われる。この頃長町には、上記4形式のほかに、3200形、8620形、C12形、D50形など。それとは別にガソリンカー3台が配置され、塩釜港-長町間を旅客運行し、途中には三百人町や行人塚(ぎょうにんづか)の駅があった。さらに救援用の操重車ソ35形も配置されていた。戦後には、東北線の貨物輸送量の増大に対応するため、東北線と常磐線の分岐に位置する長町に大きな操車場を設けることになり、昭和25年から30年にかけて、抱込(だきこみ)式ヤードへの大改良工事が行われた。総敷地10万5千坪、線路延長18マイルに拡張され、取扱能力2,500車/日におよぶ大操車場になった。昭和29年には長町こ線橋が開通。また、東海道・山陽本線で走っていて路線の電化で休車となっていたD62形が、東北本線長町-盛岡間で主に貨物列車の牽引車として昭和41年まで活躍した。(編集長追記)昭和27年の空撮写真が展示されている。SL扇形庫を備えた壮大な操車場全景がみえる。長町駅の向かいに秋保電鉄長町駅や仙台市電の長町電停がある。操車場の周囲は、長町市街地と、線路東側の北日本電線や日本通運倉庫と思われる建物があるが、周囲は大部分が田畑だが、西方には東北特殊鋼(現在のザ・モール仙台長町)、東南方面には東北金属工業が目立つ。5.電気機関車時代の長町駅昭和30年代には、国鉄は仙山線の交流電化試験の成功で、動力近代化を掲げて地方路線に電化・複線化を延ばし、駅設備等の改良を進めた。貨物でも輸送設備やサービスの近代化を図るようになる。速達性の向上、到達日時の明確化などが改善され、長町で最初に導入された台車振替検査方式などの合理化が進み、コンテナによる輸送も具体化されていった。この頃コンピュータも導入されている。昭和36年6月、輸送量過多の東北本線の貨物列車をバイパスルートで分離するため、長町-東仙台間に約7kmの貨物別線を建設し、宮城野駅を開業、仙台駅の貨物取扱業務の一部を移管した。同年10月、仙台-福島間が電化されると福島機関区に交流電気機関車(EL)のED71形が配置され、仙台以南での乗務が始まる。さらに昭和40年10月からは仙台-盛岡間電化完成で、仙台以北でEL運転。続いて昭和42年には常磐線全線電化で各線でEL運転が始まった。昭和42年8月には、ED75形交流電気機関車(ナナゴ)が27両配置された。ED75形は、国鉄が改良を重ねた交流電気機関車の標準機として、常磐線と東北本線向けに開発した車両で、シリコン整流方式を用いた最高傑作と言われる。総数302両作られ、長町機関区に多く配置された(昭和59年時で79両)。岩手国体(昭和45年)や全国植樹祭(昭和49年)のお召列車牽引機としても活躍。昭和43年9月にはEL基地が、予算総額4億9千万円を投じて完成。10月の白紙ダイヤ改正を迎えた。これは国鉄がヨンサントウと呼んだ大改正で、東北の鉄道にとってはやっと近代化に追いついた出来事だった。しかし、それによってSLは一部の入換機を除き全廃された。(編集長追記)昭和53年の空撮写真では、新造の立派な電気機関車(EL)庫がみえる。また、長町駅から南方に、長町材修場が長町レールセンターに改称されたとの説明。新幹線高架工事が進んでおり、秋保電鉄の駅と車庫はバスターミナルになった。なお、この頃には東北特殊鋼の周辺部にだいぶ住宅が建っている。6.現在の長町へ国鉄分割民営化を前に、長町で行われていたヤード方式の貨物輸送は廃止され、コンテナ列車による直行輸送に変わり、東北の物流の拠点は宮城野駅(現・仙台貨物ターミナル駅)に移っていった。仙台市は国鉄清算事業団(現・JRTT鉄道・運輸機構)から長町操車場跡を得ると、区画整理事業に着手した。その後、長町機関区は平成11年8月に閉業。線路が撤去されると、仙台市教育委員会による長町駅東遺跡等の発掘調査が行われた。平成18年9月には線路高架化工事が完成。3代目の長町駅が開業。また、長年親しまれた長町こ線橋は役目を終えて供用終了。翌19年には太子堂駅が開業した。7.長町操車場の歩み(年表風)1887年(明治20)12月15日 日本初の私鉄日本鉄道株式会社により、福島-仙台-塩釜間開通1891年(明治24) 長町の地元住民を中心に長町駅設置運動が活発化する1894年(明治27)10月 日清戦争の影響による政府からの要請を受けて、兵員軍馬等の軍用貨物の輸送を行うため、茂ケ崎村長町大道東北に臨時停車場を新設。駅舎の形態はなく急造りのホームだった。1896年(明治29)2月2日 日本鉄道株式会社により長町駅が創設され、一般運輸営業始まる(初代駅舎)。1914年(大正3) 秋保石材軌道が開業。1918年(大正7) 長町操車場を設置するための用地買収が始まる。1919年(大正8)5月 鉄道院官制改正により仙台鉄道管理局が創設される(翌年鉄道省仙台鉄道局に改称)。1922年(大正11)夏 名取郡長町大道西台畑の沼沢地を埋め立て、長町操車場の第一期工事が始まる。1923年(大正12)9月 岩沼-仙台間が複線化する。岩沼の鵜ヶ崎本丸跡を崩した土を運び込み、長町操車場の構内の沼沢地を埋め立てる。同年12月 長町駅二代目駅舎などが竣工される。1925年(大正14)6月11日 東北随一の操車作業駅として長町操車場が完成。操業開始する。敷地面積約34万m3、貨物列車到着線出発線各4線、仕訳線群(上り10線、下り14線)、取扱車数は発着中継車1,330車/日。1926年(大正15)3月15日 仙台機関庫より職員263名、27両の蒸気機関車をもって長町機関庫が分離し、貨物専用機関庫となる。1936年(昭和11)9月 長町機関庫から長町機関区に名称が変更される。1937年(昭和12) 長町機関区にD51形蒸気機関車が配置される。他にもガソリンカーが若干配置され、塩釜港-長町間を運転。三百人町、行人塚停留所などがあった。1947年(昭和22)6月 長町機関区に救援用操重車ソ35形が配置される。1950年(昭和25)10月 長町操車場抱込式ヤードへの改良工事に着手。1954年(昭和29)12月20日 長町こ線橋が開通する。1955年(昭和30)11月 長町操車場の改良工事が完成する。線路増設12.3km、移設17km、分岐器増設35組、同移転75組、線路切換93回に及び、取扱車数は2,500車/日となる。1956年(昭和31)5月 国鉄が貨物設備近代化委員会を設置し、貨物輸送の近代化に着手。1961年(昭和36)5月 秋保電気鉄道廃止。同年6月1日 宮城野貨物線・仙台市場線開通と同時に、仙台駅の貨物取扱業務の一部を移管し、宮城野駅が開業する。同年10月 仙台以南で電気機関車(ED71形、福島機関区配置)による乗務開始。ディーゼル機関車(DD13形が仙台及び宮城野駅の入換に使われる。1963年(昭和38)3月 長町機関区に仙鉄初の鉄筋コンクリート2階建冷暖房完備の乗務員休養室が新設。1965年(昭和40)10月 仙台-盛岡の電化が完成。電気機関車(EL)基地として長町機関区と仙台運転所が統合。仙台以北でELの運転を開始する。長町構内の一部入換をディーゼル機関車(DL)化する。1966年(昭和41)3月 仙台以南完全電化により白石機関車駐泊所が廃止。SL修繕が郡山工場に移管される。1967年(昭和42)8月 常磐線完全電化。長町機関区にED75形式が27両配置される(10月運転開始)。1968年(昭和43)9月 長町操車場にEL基地が完成する。同年10月 白紙ダイヤ改正(ヨンサントウ)でSLが全廃となる。1970年(昭和45)10月 ELの一人乗務実施。第25回岩手国体のお召列車に長町機関区のED75形式120号が充当される。1971年(昭和46)12月 長町機関区でEL台車振替検査方式を他区に先駆け実施。1972年(昭和47)3月 長町操車場の機関車庫(DL庫、旧SL庫)が老朽化により一部撤去一部改修される。1973年(昭和48)5月 長町機関区のEL検査総合試験装置をコンピュータ化。1974年(昭和49)5月 第25回全国植樹祭(岩手)のお召列車に長町機関区のED75形式120号が充当される。1976年(昭和51)3月 長町機関区開区50周年。この頃の車両配置は、ED75-67両、DE10-7両、DD13両、操重車-1、救援車-1、付随車-1。同年4月1日 仙台市電が廃止される。1984年(昭和59)2月 操車場(ヤード)方式の貨物輸送が廃止される。長町機関区は存続。1987年(昭和62)3月 仙台運転所宮城野派出が長町機関区へ移管される。同年4月 国鉄分割民営化。日本貨物鉄道株式会社(JR貨物)長町機関区となる。1996年(平成8)6月 長町駅開業100周年式典1998年(平成10)3月 一ノ関機関区が長町機関区へ移管される。1999(平成11)年8月 土地区画整理事業により長町機関区が廃止。仙台機関区(宮城野区燕沢)が発足、移転。7月27日に長町機関区主催のお別れ会開催、8月1日に閉業。2000年(平成12)3月 長町での機関車入換が完全に終了。同年4月 仙台機関区が東仙台信号場駅と統合し、仙台総合鉄道部が発足する。同年秋頃 旧長町操車場の設備撤去作業が始まる。2001年(平成13) 仙台市あすと長町土地区画整理事業のため、長町駅東遺跡の発掘調査が始まる。長町駅の高架工事が始まる。2006年(平成18)9月18日 東北本線高架化工事が完成する。長町駅三代目駅舎が移転、開業。同年12月3日 長町こ線橋の供用が終了し、お別れ式が開催される。2007年(平成19)3月18日 太子堂駅が開業する。以上です。東北や日本の近代化の足跡と、今につながる地域の歴史を、ゆっくりと考えることができて大変良かったです。企画展のあと、地底の森ミュージアムの外周の散策路も良かった。リフレッシュになりました。なお、編集長が気にしていた(上記過去記事)、昭和52年にできたとされる「地下自由通路」については企画展での言及はありませんでした。
2023.05.03
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歌枕の小黒ヶ崎(おぐろがさき)は、大崎市の旧鳴子町と旧岩出山町にまたがる小黒ヶ崎山のこと。地図で見ると、大崎市岩出山池月上宮(かみみや)小黒崎(おぐろさき)と、同市鳴子温泉黒崎(くろさき)が、小黒ヶ崎山の南と西のそれぞれ麓に位置する形で国道47号沿いに並んでいる。並んでいると言ったが、厳密にはその間に、鳴子温泉竹原という地名が挟まっているようだ。『フォト・ガイド ふるさとの森と海 宮城の自然100選』(朝日新聞仙台支局、1987年)には、アカマツの景観がすばらしいと、地元鳴子町黒崎の中鉢さんが紹介している。家の真ん前にあるので毎日眺めている。古来紅葉の名所で、急斜面にナラ、ヤマモミジ、カエデ、ツツジ、イチョウなどが露出した岩肌を避けるように生えている。その斜面を引き立てるのがアカマツで、すばらしい景観をつくってくれている。昭和初期には紅葉時にわざわざ汽車を臨時停車させた風流機関士もいた。江戸時代に芭蕉も歩いて通ったが、新緑の初夏だった。紅葉の時期に通ったら小黒ヶ崎を必ず詠んだと思う。残念だった。古今和歌集にも読み人知らずで載っている。自慢だが、息子の嫁が俳句で小黒ヶ崎を詠い朝日新聞の俳壇で最優秀賞(昭和61年)に選ばれた。「立春の雑木林がふとちがふ」このような事を書いておられる。古今和歌集巻二十の「東歌」の「陸奥歌(みちのくうた)」には、阿武隈、塩釜の浦、塩釜のまがきの島、をぐろ崎、宮城野の木の下、最上川、末の松山、のみが載っている。(細川純子『菅江真澄の見た仙台』国宝大崎八幡宮仙台・江戸学叢書58、2013年、から。)■関連する過去の記事 歌枕だった小黒崎(2013年3月14日)
2016.06.05
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「州」は中国古代の行政区画で、国の意味にも使われた。「州」は二川を合わせた合意文字で、水面より高いところ、また、川の流れが二つに分かれてまた合流する象形文字とし、川中に囲まれた小地面を示す。これから転じて、水中の区切られた場所、区画の意となり、国の意味となった。わが国にこの文字と用法が伝わり、古くから用いられた。従って、七州とは、7つの国の意味である。明治元年12月7日、陸奥と出羽の両国が、磐城、岩城、陸前、陸中、陸奥、羽前、羽後の7国に分割された以来の用例である。東北七州自由党(若生精一郎など、明治14年)「国分街・・・東北七州無比の繁盛ナリ」(「仙台繁昌記」第1巻、有竹小三郎、明治16年刊)旧制二高校歌東北の一体感連帯感を昂揚する響きをもって、明治期には盛んに使用された。なお、「州」を国の意とした実例として、「九州」(筑前、筑後、肥前、肥後、薩摩、大隅、日向、豊前、豊後)、「本州」、「関八州」(武蔵、相模、安房、上総、下総、常陸、上野、下野)などがある。■参考 仙台市民図書館編『要説宮城の郷土誌(続)』宝文堂、1996年■旧制二高 校歌(土井晩翠作詞、楠美恩三郎作曲、明治38年制定)天(そら)は東北 山高く 水清き郷 七州(しちしゅう)の光教(おしえ)の 因るところ 庭のあしたの 玲瓏(れいろう)の露に塵なし 踏みわくる われ人生の 朝ぼらけ(以下略)■東北七州自由党 明治14年3月、東北の連携のもとに、河野広中(福島)、鈴木舎定(岩手)、柴田浅五郎(秋田)、本田庸一(青森)、若生精一郎(宮城)らの自由民権活動家が仙台で結成。中央に自由党が立党される7か月前で、「自由党」の名を冠するわが国最初の政党。しかし、6月の秋田事件の影響もあって、さしたる活動をすることなく消滅。以後、東北の自由民権運動家の団結は、明治15年11月結成の東北会に継承される。■若生精一郎 若生文十郎の弟。仙台培根小学校(現在の木町通小学校)の好調となる。明治11年仙台に圏内最初の民権結社鶴鳴社をつくり、自由民権運動を展開。翌年教職を辞し、宮城日報を発刊、社長に。明治13年、村松亀一郎らと本立社を組織。福島の河野、岩手の鈴木らと東北連合会(明治13年)、東北七州自由党(明治14年)を結成し、東北民権運動の団結を図った。後に復職して、古川小学校校長。明治15年3月没。■関連する過去の記事 東北七州とは何か(2015年2月17日)
2015.11.13
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ノンちゃん牧場が栗原市鶯沢にあったという。「ノンちゃん雲に乗る」を書いた石井桃子さんが友人の女性とともに開墾した。■『せんだいノート ミュージアムって何だろう?』(2011年10月、仙台市市民文化事業団)による。1945年8月15日に、狩野ときわさんと石井桃子さんが開墾を始める。1947年に『ノンちゃん雲に乗る』が出版される。いつしか牧場はノンちゃん牧場と呼ばれる。1956年に石井さんは鶯沢小学校5年B組で読書の授業をはじめた。お昼には牧場のノンちゃん牛乳を飲ませた。卒業まで2年間授業は続いた。いま牧場だった土地は、狩野さんという方が守っている。ご主人とともに跡を継いでやってきたのだという。宮城県図書館の資料(ことばのうみ、2000年7月)に、その5年B組で授業を受けた鶯沢町教委の課長さんの話が出ている。担任の先生から、2年間読書の授業と牛乳の試飲があると知らされた。当時はまだ給食がなく、他学級に申し訳ない気持ちだったが、昼時間が待ち遠しかった。石井さんは週1回国語の時間に朗読。読書の習慣がなかったが、だんだん関心が高まり、1週間が待ち遠しくなった。平成10年に、鶯沢小学校に「石井桃子文庫」コーナーを作ることに石井さんの了承を得て、教育長とともに東京に石井さんを訪ね、40年ぶりに会うことができた。小学校の文庫には先生から送られた本も並び、子ども達が楽しく利用している。「ノンちゃん雲に乗る」というと、私には岩手県の小学校の図書室にあった記憶がある。図書室はあまり豊富な蔵書とは言えなかったと思うが、学校が子ども達のために買いそろえたり受け入れたりしてきたのだろう。先生方は読書指導にずいぶんと力を入れていたのだと思う。私も家に本など無かったから、いろんな分野の本をよく借りた。感想文の指定図書のようなものより、科学、地理、歴史やノンフィクションなどを広く読んでいたように思う。借りてきた本を自宅で祖父が読んでいて、続きを借りてこいと言われたこともあった。旧字体の本や、例えば日本がまだ国連に加盟していない段階の記述となっている書物などもあって、その分知識も広がったのかも知れない。自分にとって「ノンちゃん」の印象だが、その内容(記憶にない)よりも、「つづり方兄弟」などあの頃図書室にあった本や児童文学シリーズ的な書物らとともに、なにやらあの頃高まっていたと思う読書や作文の指導教育の代表みたいに子どもながら受け止めていた。また、「ノンちゃん」が本当はどうか解らないが、教育の自由や戦争反対を掲げストライキもあった岩手県教組の活動とも自分の感覚ではつながっている。いずれにしても、ノンちゃん牧場が宮城県にあるとは、今まで知らなかった。さて、鶯沢小学校の石井さんの授業の話だが、昭和31年には石井さんは東京で活動していたのだと思うが、毎週鶯沢まで来ていたということになるだろう。新幹線もなく、来るだけでも一日がかりだ。誰かが車で送迎したのだろうか。石井さんの熱意もあってのことだろうが、支えている人たちもいたのだろう。そもそも、学校で、そのような授業をやることも普通ではないが、5年B組の先生が前向きで、また校長や教委の理解もあったからか。「ノンちゃん牧場のこころみ」という映画が昨年、仙台で上映されたという。そう遠くない、今に繋がっている私たちの地域の歴史。■関連する過去の記事 鶯沢・文字地区の新小学校(2012年2月26日)
2016.06.04
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1週間ほど前に、子供の遊び歌「光るはオヤジのハゲ頭...」について記しましたが、その際に思い出したことです。上の娘が小一の頃ですから2年ほど前、ジャンケンをするときに、急に立ち上がって、勇ましく「戦争っ!軍艦、軍艦、朝鮮。朝鮮、朝鮮、ハワイ。」とやっていました(それぞれグー、チョキ、パーの意味)。同級生の男子A君がやっていたので覚えたらしいですが、これは私は知りません。初めて聞きました。祖父(妻の父。宮城県出身。昭和10年代半ば生まれ。)は懐かしいと言っていました。A君もおじいさんに教わったのでしょう。当時の時勢を反映した全国的なものかも知れません。ところで、ジャンケンの呼び方やかけ声には、地域による多様性があることを、大学時代に各地から来た友人に聞いて知りました。さらに、世界に目を向けてみても、「三すくみ」状態を何で示すかで、各民族の文化の違いが出たりして、面白いようです。我が家では日曜日の7時前に、毎週、5歳の下の娘がテレビのサザエさんとジャンケンをします。そして、どういう訳か、勝つと私(父親)に「お金ちょうだい」というのです。「紙のお金でいいんだヨ」というので、絵に描いてやればいいんならと安心して「いいよ」と言っています。ところがいつか姉(上の娘)が「お札の事じゃないの」と言ったのでギクッとしてしまい、それ以来、お父さんはこの時間は静か~にしています。なお、まだ請求はございません。最後に、全然関係ないですが、ジャンケンでどうしても思い出すことがあります。学生の頃、学院大近くの五橋通りに面した北目町に、その名も「じゃん軒」というラーメン屋さんに行きました。友人に教えられたのですが、食べた後に、店主とジャンケンをして勝つと50円引きになるという店でした。「はい、お客さん、ジャンケン」、という店のお兄さんの低く渋い声が忘れられません。もう20年も前です。思い立ったら確認したくなる単純なわが編集長、手元のハローページ(掲載内容2004年6月現在)で見ますと、確かにある! また、ネットでチョイと見ますと、国分町「味よし」の分店とのコメントも出ています。あっ、そうそう、昔も友達にそう聞いた覚えがあります。だからうまいんだ、と。今でもジャンケン割引あるのかな...また行きますよ。今度は、ジャンケンに強いわが子を連れて、ね。
2005.12.18
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奥羽越列藩同盟の盟主として朝廷に反旗を翻した皇族がいた。戦いに敗れ朝敵の苦汁を喫し苦悩の日々を送りながらも、その戦死は多くの国民が悼んだ。その皇族は、輪王寺宮能久(よしひさ)法親王である。輪王寺宮は、伏見宮の第九子として生まれ、仁孝天皇の猶子(養子)となる。後の明治天皇の叔父にあたる。安政五年に宮は勅命で輪王寺宮の後継者に任ぜられた。輪王寺宮とは、後水尾天皇の皇子が賜った称号で、輪王寺は日光と上野にある天台宗の寺。歴代の山主は、徳川菩提寺の寛永寺(上野)に常住し法親王が務めている。能久法親王がその最後の輪王寺宮となったわけである。さて将軍慶喜は朝廷に恭順の意を示して、寛永寺で謹慎していたが、官軍の進撃はやまず江戸も戦禍の危機にさらされていた。そこで、輪王寺宮は、幕臣の願いをうけて、慶喜への寛大な処置を求めるため朝廷に赴こうとし、駿府まで進攻していた東征大総督の有栖川宮と面談する。有栖川宮といえば、ニセ宮家事件で有名になってしまったが、明治期までの政治に勲功のある由緒ある宮家だ。有栖川宮第九代熾仁(たるひと)親王は、維新の軍人として活躍し、元老院議長も務めた人だ。このとき徳川には強い私怨を抱いていた。後に徳川家に降嫁した和宮との婚約が内定したのに、幕府の強引な要請で破談とされたことに由来している。京に上って天皇に直訴しようという輪王寺宮に対し、有栖川宮は激しい口調でその愚を罵り、江戸に戻るよう迫った。強大な軍力を背景にした有栖川宮の姿勢に、輪王寺宮は江戸に戻る。やがて朝廷内部にも、和宮や輪王寺宮の動きを認め、慶喜の恭順を受け容れる意見も増えていった。そして、江戸城無血開城が実現する。慶喜は寛永寺を去り、水戸に謹慎される。輪王寺宮と側近が抱いた、有栖川宮と官軍の傲慢で非礼な態度に対する憤りはおさまらず、ついに、官軍との戦に至る。慶喜の警護から輪王寺宮の守護の役割に変質した「彰義隊」が、ここで登場するのである。しかし善戦するも、近代装備の官軍に半日で壊滅。輪王寺宮は山を下り、根岸、三河島、尾久、浅草などを逃避行し、奥羽に入る。東北は、幕府に忠誠を尽くし官軍に対抗しようとしていた。宮は会津、米沢、仙台を転々とするが、各藩から盟主就任を強く要請され、宮は「薩長両賊追討の令旨」を発する。はじめは象徴的意味での盟主を受け入れる考えだったが、やがて白石城での列藩会議では、軍事を総括する決意も抱くようになっていた。「朝敵」となる一大決心である。列藩は官軍の猛攻に降伏し、宮のその後の運命も過酷だった。やがて謹慎を解かれるが、皇族で朝敵となった苦悩は消えず、有栖川宮家での生活という屈辱も強いられる。その後、北白川宮を継ぎ北白川宮能久となる。ドイツ留学を許され、帰国後は陸軍中将など軍の要職を務めるが、日清への従軍を嘆願しても許されなかった。大本営参謀総長にあった有栖川宮が認めなかったのだ。有栖川宮の死後は、やっと従軍がゆるされる。そして台湾の戦場で病死するのである。以上は、吉村昭『義彰隊』(朝日新聞社)で描かれた輪王寺宮の過酷な人生である。東北の側からすれば、朝廷に対峙する奥羽政権の主権者(東武皇帝)とも擬せられた宮だ。歴史の大きな流れに巻き込まれた東北の運命と、短い一時期において同調していたわけだが、列藩同盟の位置づけと意義を、東北内在の視点ではなく、また官軍だけの視点でもなく、非常に面白い視点から考えさせられる。(住友生命のスミセイベストブック2006年4月号を参考。なお、このブックレットは「自己変革を応援する住友生命の本の情報誌」なのだという。私、この保険会社に20年近く契約しているけど、初めて見た。他の人が外交員からもらって捨てそうになったのを、面白そうなので読んだ、というわけ。)
2006.04.08
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昨日(7日)夜9時20分頃に、新函館北斗(秋田)行き下りはやぶさ・こまち33号が異音に気づいて、点検のため緊急停止。北上駅から数百メートルの線路上に遺体があり、列車は駅から約5キロ地点に停止した。北上市二子町の高架上で緊急停止したとNHKは報じている。警察の検証のため、仙台と盛岡の間で上下線が5時間にわたって見合わせとなった。午前2時25分頃に運転再開。遺体は大人と見られるが痛みが激しく、性別年代は不詳という。警察は身元確認とともに、線路内に立ち入った経緯などを調べている(NHKニュース)。乗客(約430人)にけが人はないようだが、新幹線の死亡事故は多くないはずで、人がなぜ入ったか検証と対策をすべきだとか、ダイヤの乱れによる影響とか、報道すべき点は多いと思われたが、朝の河北新報は意外なほど小さい扱い。岩手日報の報道では、JR盛岡支社によると岩手県内での東北新幹線の死亡事故(駅構内を除く)は1985年9月に盛岡新花巻間で保線作業員2人が死亡した事故以来とのことである。また、この人身事故では下り1本が運休、上下8本が最大5時間の遅れで、1250人に影響した。岩手放送のニュースでは、警察は北上駅構内またはその付近で通過中の新幹線にはねられたと見ている、と報道している。■関連する過去の記事 昭和58年の東北新幹線小学生死亡事故(2015年1月31日)さて、警察やJR東日本がなぜ人が線路内に入ったのかなどを解明するのを待ちたいが、素人考えで推察するに、投身願望であったとすれば、北上駅のホームから人目を忍んで線路内に立ち入ってやや盛岡方面に歩いて待っていたのだろうか。北上駅に停車する新幹線下りは、21時台は21時20分着で24分発のはやぶさ103号のみだ。ここで4分間と長い時間停車するのは、ちょうどその間に本線を、昨夜の事故に関係したはやぶさ・こまち33号が通過するからだろう。はやぶさ103号の乗降のタイミングに合わせてホーム北端から侵入したとも考えられる。あるいは、はやぶさ103号に乗ってきたのかも知れない。待ち合わせ列車があったことを考えるならば、投身願望もありうるが、転落事故も考えられなくはない。構内で衝突したと見られるとする報道もある。北上駅は開業当時からの駅なので、ホームと離した通過線があるかわりに、新花巻駅のようなホームドアがないのだろう。ところで、人身事故は多くないと書いたが、よく言われる新幹線の安全神話は、列車運転そのものに起因する死亡事故がないことを指しており、つまりは脱線とか衝突とかだろう。線路内に立ち入った人の死亡や、作業員がひかれる事故、あるいは車内での事件などはこれまでにも起きてきた。1995年には三島駅ホームに降りていた乗客が、出発した列車ドアに手を挟まれた状態で転落死亡。これが運行に関係する乗客死亡の最初のケースとされている。東北新幹線では「乗客の死亡事故」としては、昭和58年古川駅での事故(上記の記事)が最初とされている。
2016.05.08
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左右に住宅の立ち並ぶ旧線ルートを進み、健康館デイサービスセンター(前回記事)を過ぎて再び田中川を架橋で渡ると、大字初原から大字高城に入る。(写真1)旧線ルートは画像の先に伸びていく。この先道狭し、車幅1.5m以上の車は通り抜けできません、と立て看板がある。(写真2)もう少し進むと、画像右手の県道(利府街道)が迫ってくる。県道の信号のある丁字路のちょっと先で合流する形だ。さらに少し先に、松島第二小学校のための歩道橋がある。その上から撮影すると(写真3)、コンビニの裏手が旧線ルートの名残だろう。(写真3)画像の手前から奥(愛宕駅下トンネル)に向けて、敷地境界が緩やかに左カーブしていく。おそらく、このコンビニ敷地の塀に沿って立ち並ぶ戸建て住宅の列が、旧線の路盤だったろう。(写真4)住宅の列の北側(コンビニと逆側)の道から愛宕駅下トンネル方向を撮影。右手前の住宅(列の最後)の先が更地(駐車場)で、一軒の平屋があり、その先にトンネル。こんなルートで山線が走ったのだろう。(写真5)トンネルをくぐった先には宅地が集積するが、クランクのようにルートが続いていく。おそらく、道の左側の住宅の列が旧線の路盤でないか。愛宕駅東側の住宅の集積地を抜け出て、仙台松島道路(三陸道)の高架下を過ぎるあたりで、クランクをするが(路盤跡が住宅の列と化した区間から路盤自体が道路になった区間に戻るからだろう)、その後は、現在の東北本線と人工河川高城川に挟まれる形で、旧ルートの道は北進する。品井沼駅まで海線と山線が並行して走っていたという名残で、じっさいに歩いていると感激する。愛宕駅下トンネルから約1kmで、旧ルートは現東北本線と一緒に高城川を越河する(写真6)。この小さな橋は、山線時代の橋脚を使っているようだ(写真7)。近くには、元禄潜穴の穴尻と東宮殿下一分間停車の記念碑がある。(写真6)高城川をわたる小さい橋。画の奥にR346跨線橋が見える。(写真7)橋を渡った後に仙台方をふりかえる。画像の奥は仙台方。旧山線の橋脚が残る。東北本線の下り貨物列車が通過する。橋の下は高城川で、この画像の左方向(下流)すぐ近くに、元禄潜穴の穴尻と一分間停車記念の碑。(写真8)この撮影地点は、おそらく国道346号の旧道が東北本線を踏切で渡る地点だったのだろう。北の方角を望むと、現在の国道346号の跨線橋をくぐって、本線と寄り添うように山線ルートが生活道路として品井沼方面に伸びていく。■関連する記事 品井沼開拓資料館、元禄潜穴入口、品井沼駅(2024年06月12日) 元禄潜穴第6ずり出し穴(松島町根廻)(2024年06月11日) 明治潜穴公園(松島町幡谷)(2024年06月10日) ふれあい広場(明治潜穴出口、松島町根廻)(2024年06月09日) 元禄潜穴の穴尻、一分間停車の碑(松島町根廻)(2024年06月05日) 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日) 青木存義(松島第五小学校の碑)(2024年05月25日)■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その10)松島町桜渡戸、初原(2024年06月01日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その11)松島町初原、旧松島駅(2024年06月02日)・今回 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.06.03
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もう昨年のことになってしまうが年末の頃の河北新報に出ていた。仙台駅西口のバスプールなどと言うが、バス乗り場をバスプールと呼ぶのは仙台など東北に限られているのだそうだ。恥ずかしながらこれは気が付かなかった。私の感覚では、バスターミナル、バス乗り場、バスプールなどそれぞれニュアンスの違いはあっても、あるいは行政やバス会社がどれを公称しているかの問題はあっても、どの都市に行ってもあまり気をせずにいずれも共通に使える用語だと思っていたからである。あえて言えば、「バスターミナル」は一点あるいは一つの建物に集約された感じ。名古屋のような場合や、仙台でも広瀬通の中長距離バス専門の乗り場。「バスプール」は、次の発車時刻までバスが何台も待機している平面的な広がりを想起させる言葉で、仙台駅前で「プール」というならタクシープールがより相応しいと思うのだが、なぜか仙台ではあまり言わないように思う。さて、仙台では以前から駅前のバスターミナル構想が持ち上がっては消えるのを繰り返してきたように思う。市内や郊外団地に伸びる路線の停留所が「仙台駅(前)」と呼べないほどに周囲に分散してしまっていること、また、中長距離路線の発着場が駅前に確保されないこと、更に言えば、ここに物販店など商業要素も盛り込んで一大「ターミナル」を設けようじゃないか、という話が経済界などから持ち上がるのだ。こうした論調からすれば、来るべき(?)ターミナルが実現するまで、プールと呼んでおくのが「自然」だったのかも知れない。これは当ジャーナルの勝手な邪推だが。
2012.01.02
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以前記事にした。福田町二丁目の十一面観音堂だ。■過去の記事 十一面観音堂(シリーズ仙台百景 27)木村孝文『宮城野の散歩手帖』(宝文堂、1999年)を久々に読んでいて、あるページに四野山観音堂とある写真をみて、もう6年前にブログ記事にした際の写真を思い出したのだ。以下は上記文献の説明だ。------------四野山観音堂は、延暦年間坂上田村麻呂の創建、あるいは天平宝字元年の勧請とも伝えられている。木ノ下の国分寺より宮城野原を通り、旧四野ヶ原(現卸町・扇町)から四野山観音堂に至り、雲洞院に北上する道を古街道といい、原町、苦竹を経て福田町に至る道は新道街道といっている。宮城野原から続く地帯は、新田開墾のはじめ頃には、四軒の家すなわち四家(よつや)があったとのことで、同音文字の四野(よつや)によって、四野(よつや)ヶ原といわれたという。(菊地勝之助『みやぎ郷土小辞典』)四野山観音堂の本尊は十一面観音で、もと高さ一寸八分(約5.4cm)の黄金仏だったとのことであるが、一時紛失したが後堂前の柳の樹の空洞で発見したが、再び紛失したという。現在のは木像である。このいわれによって、当観音を柳の観音ともいっている。安永3年の風土記には、観音堂の別当は羽黒派修験四野山不動院で、繁応が慶長3年に開院したこと、またこの観音堂は奥州三十三番札所の七番と書出されている。しかし他の文献では奥州三十三観音の中には入っていない。境内には十五基の石仏が造立されている。弘安9年の板碑は裏面は庚申塔に利用されている。彫りくぼめに一面六臂の青面金剛を浮き彫りにし、邪鬼を踏み、下には三猿、上には日月瑞雲が刻まれている。------------
2013.04.02
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東北七州ということがある。土井晩翠の二高校歌にも出てくる。明治初年のことだから、北海道も含めて観念していたのか。あるいは新潟県を含む7県のことか、などと漠然としたままでいた。明治14年に、河野広中らにより東北七州自由党が結成されたが、旧奥羽の諸国、すなわち、概ね福島県域に磐城、岩代の2国を含む7つの「旧国」を示している。東北6県と同じ地理範囲だ。奥羽や陸羽という古い用語を用いず、また、県の範囲は曲折があるものの6県全体では範囲は固定していたこと、県や国の語ではなく州を用いて一体感や主体性を訴えようとしたこと、などが指摘されているようだ。この経緯からも、旧7国を指すという理解のようだが、異論もあるかもしれない。
2015.02.17
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久しぶりに宮城野区の幸町付近を通った。ガス局交差点から、鶴ヶ谷に向かう道路。JT工場跡も、すっかり街並みに様変わり。その向かいの白いフェンスに何やら書いてある。みやぎの安全・安心を担う真の消防人をつくる...だそうで、鶴ヶ谷の消防学校がちょっと南に移転してくるようだ。それにしても、役所らしい文章。みやぎ どうして地名を平仮名にしたがるのか安全・安心 どうして「・」必要なのか真の どういう修飾?消防人 どんな人?つくる 人が目的語なら、育てる、とか当ジャーナルなら、例えばこう考える。走れ光のごとく まもれ命とくらし 輝け笑顔 燃えよ情熱やっぱり、燃える、はまずいだろうな。■シリーズ仙台百景 以前の記事です。こんな企画で100枚まで続けるのが目標です。 ○宮城刑務所(シリーズ仙台百景 29)(08年10月12日) ○松森焔硝蔵跡(シリーズ仙台百景 28)(08年8月31日) ○十一面観音堂(シリーズ仙台百景 27)(07年10月23日) ○陸奥国分寺薬師堂(シリーズ仙台百景 26)(07年10月17日) ○県民の森 鶴ケ丘口(シリーズ仙台百景 25)(07年8月26日) ○一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) ○風の環(シリーズ仙台百景 23)(07年7月7日) ○冷やし中華の龍亭(シリーズ仙台百景 22)(07年6月29日) ○県民の森(シリーズ仙台百景 21)(07年4月8日) ○数字の練習ボード?(シリーズ仙台百景 20)(07年3月25日) ○半田屋一番町に進出!(シリーズ仙台百景 19)(07年3月1日) ○仙台百景画像散歩(その18 撮影成功!霊気のトンネル)(07年2月6日) ○仙台百景画像散歩(その17 変な漢字の看板)(07年1月28日) ○仙台百景画像散歩(その16 駅前東宝ビル)(07年1月13日) ○仙台百景画像散歩(その15 空から見た仙台)(06年12月29日) ○仙台百景画像散歩(その14 光のページェント)(06年12月13日) ○仙台百景画像散歩(その13 東京スター銀行)(06年11月30日) ○仙台百景画像散歩(その12 建設ラッシュ再来?)(06年11月10日) ○仙台百景画像散歩(その11 E721系電車)(06年7月25日) ○仙台百景画像散歩(その10 ワンコイン端末)(06年7月7日) ○仙台百景画像散歩(その9 ヤギさんの看板)(06年6月19日) ○仙台百景画像散歩(その8 キック治療?)(06年6月18日) ○仙台百景画像散歩(その7 ホテルモントレ)(06年6月4日) ○仙台百景画像散歩(その6 佐々重ビル)(06年5月24日) ○仙台百景画像散歩(その5 車止めポール)(06年4月29日) ○仙台百景画像散歩(その4 オロナミンC)(06年4月4日) ○仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) ○仙台百景画像散歩(その2 はんだや)(06年3月18日) ○仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2010.02.28
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塩竈市役所発行の住民票などの市名表記はすべて「塩竈」である。常用漢字の「なべ、かま」の意の「釜」ではなく、旧漢字の「竈」(かまど)である。市内をみると、国鉄の市内4駅はすべて「釜」、塩釜警察署、塩釜保健所、塩釜郵便局、塩釜電報電話局など。市役所の電話帳表記も、塩釜市役所だ。市は昭和57年異例の市名表記アンケートを行った。分かりやすい「釜」に統一すべきだという論と、由緒ある「竈」を残すべきとする派とが、相半ばし、これまで通りの併用で落ち着くという結果となった。ただし、市民1500人を対象にしたのだが、回答は42%どまりで、必ずしも議論は弾まなかった。変更派は若者や転入組、擁護派は中高年という色分けが辛うじて出来たくらいで、暮らしへの影響は「不便を感じない」とするものが「感じる」を大きく上回った。市は、現状で支障なしとし、従来通り公文書は「塩竈市」、ただし塩釜と表記した文書も受理する併用として、市名変更は行わなかった。ところで、いつから「塩竈」なのか。市の資料では、昭和16年市制施行時に内務省令で正式に採用された。直前の町時代は「鹽釜」で、明治初年の村当時は「鹽竈」だった、とされている。わずか1世紀の間に表記だけがクルクル変わった。実はここに塩釜の歴史的な「いわく」が隠されている。市史は、塩釜の地名発祥は製塩の故事により、その起源は多賀城創建以降のこと、とする。つまり、朝廷が住民の順撫策として殖産事業の製塩をこの地に指導普及させるため、御釜神社を創建したという。御釜神社はいま塩釜神社の末社に加えられるが、創建当時はまったく関係のない独立神社だった。ここを中心に集落全体に製塩業が広まり、各家庭から塩を焼くかまどの煙が立ちこめるようになった。創建当時は国府津と呼ばれた集落も、この風情から塩竈と呼ばれるようになった。ここでいう塩は、結晶塩のことだ。従って正式には、(1)皿に盛った結晶塩(□の中に※の部分)に(2)所有者を明らかにした旗(ケの字のような部分)を立てて(3)兵士(臣)が守る、という成り立ちの「鹽」と、かまどの多い場所を示す「竈」をあわせた「鹽竈」なのである。塩釜神社はこの文字を踏襲し、正式社名としている。市制施行時の市名表記もこの故事にならったとされるが、ただ「鹽」は塩の旧字体だから、「塩竈」となった。また57年の釜竈論争も、結果的にこの伝統を尊重し、常用漢字にはない「竈」を市の象徴として存続することになった。■朝日新聞仙台支局編『宮城風土記3完』宝文堂、1987年から■塩竈市ホームページの解説(この説明によるとアンケートは昭和56年7月とされています。)■関連する過去の記事(塩竈市の市名表記) 宮城・悩みの地名あれこれ(07年6月9日) 塩竃の花火大会(08年7月21日)(市名表記と神社名)
2011.10.18
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畑村洋太郎『「想定外」を想定せよ!失敗学からの提言』(NHK出版、2011年8月)に書いてあったことで印象に残った。安全を守るためにセンサや制御技術を駆使して守ろうとする制御安全の思想を過信すると、本質的な安全がおろそかにされる。六本木回転ドアの事例やJR電車ドアのベビーカー引きずり事故などでも言えるように、本来補助的な思想に過ぎず、本質安全を一層高めたり使いやすさを加える役割に過ぎない「制御安全」に依拠しすぎると、例えばセンサの誤作動や、制御安全の設計自体の過誤に対応できない。物の動かし方をゆるめて危険そのものが起きないようにする「本質安全」に優るものはないことを、忘れてはいけない。こういうことだと思う。これは、まさに安全の本質論で、さまざまな場面に言える。コンピュータシステムと情報管理もそうだ。また、社会システムや組織管理論にも言えると思う。例えば、あいつに任せているから安心だ、定期監査しているから大丈夫だ、という「安全のための仕組み」に安心していると、現場の不正を見逃す。現場に足を運ぶことをせずに、本末転倒の安全感覚に安閑としてはいけないということだ。さて、上掲書著書の畑村氏は、東日本大震災から学ぶことにも言及している。「想定外」とは一定の可能性の設定の外側に人為的に仕切られただけのことで、可能性がある以上起きるものは起こるのだから、想定をせずに済むものではない。また、ほんらい防潮堤は津波をうまく逃がしながら人間が逃げる時間を確保する思想であったと思われるのに、防潮堤の存在に絶対的安全を委ねてしまったのでないか(田老の防潮堤の事例)、などが述べられている。安全はハードだけで制御できるものではない。■関連する過去の記事 明治三陸大津波から110年(06年6月16日)
2011.11.13
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加美町(旧小野田町)、漆沢ダム沿いの林道を昇と左手に見えるのが黒森。森は山の意だ。更に進むと右に見えるのが前森。この山の南東斜面に、前森風穴がある。岩場の間の地表からヒヤッとした風が吹き上げている。標高570mに位置し、ブナはなく、森林限界の植物であるダケカンバが目に付く。それだけ温度が低いということ。ここは標高1400mと同じ気温で、1000mもの植生のズレが生じている。ナナカマド、ハクサンシャクナゲ、岩の間には風穴特有のウサギシダなど、亜高山帯の植物が見られる。風穴を取り囲んで守ってきたブナ森は、その外側から伐採の心配がある。昨年3月(おだずま注、1988年ということだろう)に風穴付近の123haの伐採は中止になったが、いまは前森西側の唐府沢付近のブナが切られる心配。■『フォト・ガイド ふるさとの森と海 宮城の自然100選』(朝日新聞仙台支局、1987年)から (当時古川高校の先生(山岳部顧問)で船形山のブナを守る会会員の方が説明しておられる。)前森風穴。夏でもひんやりとした風を吹き上げるのか。いままで、知らなかった。宮城県公式サイトでは、県立自然公園船形連峰の説明として、鏡ケ池、鈴沼、桑沼、白沼などの湖沼や大倉川の渓谷、色麻の大滝、三光宮の溶岩流、前森の風穴、さらに薬莱山や七ツ森の火山岩頭など、変化に富んだ特色ある風景地があると、解説されている。
2016.06.14
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仙台駅前の丸光デパート増床改築完成記念として設置されたものだ。ミュージックサイレンは、10音階のキーがある。100万円もする上に、1都市に1台と限定された。全国に25台しかなかったが、斬新なアイディアが好きだった丸光の創始者佐々木光男社長が東北で初めて導入。昭和28年10月21日の増床改築完成を記念して設置された。曲目には、仙台に相応しい「荒城の月」が選定された。12月11日の午前9時。吹鳴式に参席した岡崎市長と佐々木社長がスイッチを入れた。演奏は、午前9時、正午、午後5時の3回行われた。その後、午後3時と午後9時が追加されて、一日5回の「荒城の月」の演奏となった。さらに、警察から青少年の健全育成・非行防止に活用して欲しいとの要請を受けて、午後9時のミュージックサイレンは、帰宅を促す「この道」に替えられた。昭和62年7月15日の故障を契機にミュージックサイレンは取り外され、解体された。修理部品がなかったのが理由だそうだ。以上は、せんだいCM特捜隊(スタジオM77)『懐かしのせんだいCM大百科』(2007年)による。CDとセットの冊子だ。CD収録の音源は昭和43年のものだそうで、後半には仙台駅を出発するであろうSLの汽笛の音が入っている。若い日の私は、もちろん市内でも聴いたが、向山に住んでいて、夜9時になると何やら機械の起動音が立ち上がるのが聞こえ、次いで「この道」の吹鳴。曲が終わると、再び起動音が終息する。そんな記憶がある。市の中心部ならば、曲は聞こえても、雑踏に紛れて起動音は聞こえないだろう。駅前のネオンを望みながら、夜9時の空を響いてくる機械音がハッキリ聞こえたものだ。その時期とは、ミュージックサイレンの歴史からすれば、ほんの最後の一コマだった。昭和28年から仙台の街に時を知らせてきたのだから。
2010.09.05
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大崎市岩出山で池月を過ぎて鳴子方面に国道47号を進むと、道の左手に小黒崎観光センターという建物がある。随分以前からあると思うが、鬼首に行く途中などに目にしていた。最近、なぜか「おくのほそ道」を読んでいて、尿前の関の段で、小黒崎の語に出会って思い出した。南部道遙かにみやりて、岩手の里に泊まる。小黒崎、みづの小嶋を過ぎて、なるこの湯より尿前の関にかかりて、出羽の国に越んとす。(以下略)小黒崎とは、小黒ヶ崎山のことで、歌枕。また、みづ(美豆)の小嶋は、小黒崎の南西の江合川中にある岩山のことだという。(鈴木健一ほか編『おくのほそ道』三弥井書店、2007年 から)大崎市の公式サイト(観光案内)にも解説が出ていた。
2013.03.14
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今時の携帯電話の番号は、それこそ番号情報だが、固定電話の市外や市内の局番は、地域性を伴うアナログな情報も含んでいたと思う。例えば、私が学生時代のころの感覚では(当時は2桁市内局番)、市内局番29だと八木山あたり、4で始まると西多賀あたり、8や9で始まると駅から東の方面、2で始まるのは正統派の市中心部、3で始まるのは小松島や北部の方面、などというイメージを抱いていたのだったと思う。また、泉市の市外局番だった02237には、何とも言えないハイセンスを放出するような響きがあった。ほかにも、02238だと宮城町あたり、02236は塩竈や多賀城だったと思うが、それぞれに勝手な主観的イメージを結びつけていたと思う。あの頃は、市外4桁-市内2桁というのが、仙台(0222)の他には、石巻と気仙沼くらいだったのではなかったか。順次、市外4桁化が進んで、たしか志津川町あたりが最後まで市外6桁だったと思う。塩竈や泉市が5桁だったというのは今の若者には信じられないのかも知れない。そして、大都市地域のステータスとも言える市内局番3桁に移行したのは、昭和62年頃だったろうか。仙台圏域が市外局番を統一して022とする報道が河北新報の一面に載ったときは、小躍りするようなうれしさを感じたものだ。今ではどの県でも県庁所在都市近辺などが市内局番3桁のようだが。最近は、市内局番と地域の関係も厳格さがなくなっているのかも知れない。昔は電話帳のどこかのページに、電話局の管轄エリアと市内局番一覧があったものだ。仙台の市内局番に7で始まるのが登場しているし、自分だけがそうなのかも知れないが、地域性を表現していた昔日のアナログ情報の時代からすると、よくわからなくなっていると感じる。オレもアナログ人間だ。
2011.06.24
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文治5年(1189年)7月、鎌倉を出発した頼朝はわずか2か月足らずで、百年の王朝を誇った奥州藤原氏を征伐した。地図の概念すらない時代に周到な進撃を企て、頼朝直卒の主力は中道(白河口)を、千葉常胤・八田知家率いる海道軍は現在の常磐線コースを、比企能員・宇佐美実政率いる北陸道軍は現在の上越・羽越線コースを、それぞれ北上した。平泉四代将軍泰衡も、鎌倉勢主力と頼朝本陣が中央軍にあることを知り、現在の福島県北部の宮城県境に近い地域に防御陣地を設けて決戦に持ち込もうとした。ここは、西は安達太郎(良)山、吾妻山が迫り、東は阿武隈山地がせり出し、その狭い地峡を阿武隈川と東北本線、国道四号、東北自動車道がもつれながら通りすぎる。ここを押さえられると宮城県に入ることはできない。ということは、逆にここを突破されると、仙台平野までは一気の下りで、さらに北上平野への侵入を妨げることは難しくなる。泰衡が結集したのは精鋭の2万騎。対する鎌倉勢は北陸道軍も合して28万4千騎。誇張があって半分、さらにその半分だとしても7万騎。北陸道に2万を置いたとして奥州勢に正面から激突したのは5万騎だろうか。この兵力の差を泰衡は、険阻な地形に頼ろうとしたのだろう。しかし奥州の騎馬隊も防御陣地に貼り付くようになっては兵力格差がいよいよ戦力差になってしまう。8月8日から10日の激戦の主導権はつねに鎌倉勢にあり(吾妻鏡)、西木戸太郎国衡、金剛別当秀綱も討たれ、泰衡は本陣を引き払って北方に逃れる。この阿津賀志山の奥州勢には、有力な予備兵力を置かなかったようだ。そのため、前線の崩壊が全軍の潰滅につながったと思われる。かねて奥州17万騎と恐れられた奥州騎馬軍団はどこに消えたのか。それを考えるに忘れてならないのは、当時の武士はすべて農民であり、鎌倉御家人と雖も戦闘は農閑期に行わねばならなかった。農業経営者集団である鎌倉御家人を秋の農繁期に7万余も動員できたのは、彼らが広大な耕地を有する大家族で構成された同族集団の集合体であったからだろう。人手が豊富であり、農繁期の長征にも耐えるセミプロ武士団を結成し得たのだ。これに対して奥州勢は依然として武装農民の延長にあった。泰衡が動員可能な兵力は4万が限度だったろう。鎌倉勢は数だけでなくこの時期が戦力的にピークでもあった。4年前に壇ノ浦で平家を滅ぼした戦訓が戦力化していた。寡兵の奥州勢としては、機動力にものを言わせたゲリラ戦しかなかった。なぜ泰衡は、戦っては退き、退いては戦いつつ、北を目ざさなかったのだろうか。この年は4月に閏月があったから8月といっても太陽暦では10月。現代の温暖化気候下の東北ではない。10月の終わりにはみぞれから雪になっていよう。頼朝が平泉に入ったのは実にその10月22日に相当する。なぜもうちょっとがんばらなかったのか。地元出身の私などは歯がみする思いなのだ。しかし玉砕した泰衡は、それはそれで納得していたのかも知れない。----------以上は、光瀬龍さんの文章を要約したものだ。(『改訂新版 日本史の謎 闇に隠された歴史の真実を暴く』世界文化社、2005年)(4-418-04172-9)光瀬さんは99年に亡くなられた。この本は05年発行だが、「改訂新版」とあるように、光瀬さんの文章はもっと早くに執筆されたのだろう。文章の最後に「地元出身の私」と光瀬さんが書かれているように、光瀬さんは岩手県(奥州市)のご出身だ。岩手県人だった私(おだずま編集長)も子供の頃に聞かされて、同郷の作家を誇らしく思った記憶がある。当時の記憶としては、NHKでもドラマ化された「夕ばえ作戦」だ。ずうとるびの山田と今村が出ていたはずだ。奥州藤原氏に対する光瀬さんの思いが含まれた、2ページだけの文章に、引きずり込まれるように読み入っている。■関連する過去の記事(奥州藤原氏・平泉 関連) 平泉の優位性を考える(07年11月5日) 発進!平泉を世界へ!(07年9月30日) 骨寺村荘園遺跡(07年2月26日) 都市平泉の予想図(07年1月28日) 平泉への道(06年1月11日) 義経伝説と東北の歴史ロマン(05年12月8日)
2008.04.29
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物覚えが悪いのか、それとも、もともとニュースの本質を理解する能力が足りないからか、言われて初めて、ああそんな事もあったなと、と断片的にかすかな記憶がよみがえる出来事がある。昨日、ある本を読んでいて思い出した。日本人や外国人にまつわる噂を集めたその本に、中国人留学生を集めた女子大学についての品のない流言が収められていた。学生ビザで日本に留学し、水商売などで荒稼ぎする女性が、その大学の中国人留学生のほとんどだ、という話。誇張された噂だとしても、その解説に、酒田短期大学と出ていた。これで、思い出したのだ。2001年、酒田短期大学に在籍した中国人留学生が、授業にも出ずに都心などに移り住んで仕事していたことが発覚。定員100名のところ在校生総数は352人、うち中国人留学生が339人を占めていた。同様に、ビザ取得のために悪用されている大学は複数あると言われている。(石井光太『日本人だけが知らない 日本人のうわさ 笑える・あきれる・腹がたつ』光文社、2010年)思い出したのは、酒田短大のあの事件、そして学長の名前だ。この学校は、もともと学校法人林昌学園が東北短期大学として開設、酒田経済短期大学、酒田短期大学と改称される。設立主体が、学校法人天真学園と合併した学校法人天真林昌学園に移り、その後学校法人瑞穂学園に移る。ここに登場する天真林昌学園は、現在、調理師資格の取れる天真学園高校を運営している学校法人だ。■関連する過去の記事 調理師資格の取れる高校 in 東北(10年6月27日)他にも、酒田南、和順館の各高校を含めて高等学校3校、それに酒田調理師専門学校と幼稚園を設置しているようだ。2001年に留学生問題が発覚、翌年には休校。みずほ学園短期大学と校名を変更し、03年度の学生募集をしようとしたが、結局04年に、文部科学大臣による初の解散命令で学校法人瑞穂学園が解散に至る。01年の問題発覚は、仙台入管が入学定員を超えた中国人留学生の在留資格認定を拒否したことで、入国できなくなった事件だ。東京神田の雑居ビルには、サテライト教室が開設されていたというが、結局は学業と仕事の「両立」という名目で、不法滞在を助長したものと見なされても仕方がない。あわてて学校側は本校に戻るよう留学生に指示したが、相当数の留学生の行方もつかめなかった。少子化という事情はあるとしても、経営の手まずさの後に、再建策として中国人留学生ビジネスに目を付け、学校運営や国際化の理念とはおよそ反するような「経営」に走った学校だ。そして、学長は稲本洋之助氏だった。よしんば法人の経営には直接関与していないとしても、教育の責任者として明確な説明と適切な対応が求められていた。なのに、学校教育と学生をどう守っていくのか、はっきりとした説明はついぞ行われず、後手後手の尻すぼみの対応しか報道されなかったように記憶している。おそらくは、法人関係者に任せっきりで、或いは頼まれてパンダとして職に就いただけで余計な仕事には関わらない、関わりたくない、という姿勢だったのだろうか。だとすれば、東北の人間として残念な思いだ。そもそも本当に教育者として職責を全うする姿勢が問われて然るべきだ。その後の稲本氏の去就は知らない。新聞などでも名前を見ない。間違いがなければ、東大の民法、フランス法の俊英、若い頃から高名なあの学者だろう。私も聴いた。たぶんノートも残っている。それだけに残念で、虚しい気持ちになったものだ。そんなことを夜中に思い出している。
2010.07.21
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渡辺萬次郎『わが町仙台』(宝文堂、1977年)の記述から、昭和30年、40年代の仙台近郊団地造成の概要。■関連する過去の記事 仙台の団地名を考える(再び)(2012年5月20日) 仙台の「団地名」を考える(後編)(2011年12月11日) 仙台の「団地名」を考える(前編)(2011年12月11日)(1)田園の市街化昭和30年代は米産奨励の時代。水田の宅地化は嫌われた。それ故人口が膨張しても、市の東方の水田市街化はおくれ、大戦中に軍需工場の置かれた苦竹、小田原方面と、それらの従業員を含めた案内、中原、燕沢、小鶴等の東仙台方面を除けば、長く水田のままであり、昭和35年以降、市がこの方面の団地建設を初めても、七北田河畔の高砂、広瀬河畔の飯田、袋原、四郎丸等、それらの河川の氾濫による砂礫の多い畑地に限られた。水田地帯に多くの道路を縦横に通じ、鉄工団地、自動車団地、卸町団地、印刷団地等を開いたのは、主として昭和40年代、経済高度成長に伴う産業の地方分散、新産都市の運動以来で、昭和40年には中央卸売市場をもここに移し、その他の地域もそれぞれの地域の土地区画整理委員会によって市街化し、国道45号に沿っては、新興市街が七北田河畔の福田町まで連なった。一方、小田原方面に於いては、東洋製罐、凸版印刷等、軍需工場の跡地に生まれた工場のほか、農事試験場、専売局工場、ガス局等の進出に加え、中江および幸町を中心とする集団住宅街に加え、国鉄、専売局等の集団住宅も加わり、着々高層住宅街と変わりつつあるが、昭和51年なおその一部に水田を残している。芭蕉の「奥の細道」にある玉田横野の跡であろう。大正の末まで、その中央を南北に貫く射撃場を挟んで、その表面を全部畠と水田に被われ、その北側の山裾で煉瓦や瓦を焼いていた台の原も、今は全く住宅で被われ、射撃場両側の土手の外側にあった松並木の一部と瓦山の地名に昔を偲ぶのみとなり、高山樗牛の瞑想の末は薬科大学の敷地内に保たれ、展望台を設置したが、眼下は家屋の波であり、戦後の開拓時代を語る五本松奥のトタン屋根も、森林公園の一部と化した。(2)新町名の制定(抄)昭和40年 小田原一年圃を「旭ヶ丘1から4丁目」昭和42年 八幡国見方面、次いで、八木山方面、桜ヶ丘方面。それは必ずしも団地名と一致せず。例えば春日団地は「桜ヶ丘1丁目」、長町恵通苑は「恵和町」、越路恵通苑は「桜木町」、国鉄根岸は「青山1丁目」と変わった。昭和45年には市の中心部も新町名に変更し、肴町、元鍛冶町等伝統を伝える町名が大部分消えた。(3)郊外進出(略)(4)山地の造成近郊山地の住宅化は、戦後急速に加わった。中にも向山一帯、北山の背側、台の原等には、個人あるいは市営住宅が急増したが、それらの多くは個別あるいは少数戸数の集団に過ぎなかった。これを多くの戸数を含んだ集団住宅すなわち団地として造成を開始したのは、主として昭和35年、県の住宅公団(ママ)による黒松団地の開発以来で、市役所職員組合(ママ)による荒巻の共済団地、東南商事会社の緑ヶ丘等、また時を大体一にして、その前にできた三和商事の小松島住宅また名称を旭ヶ丘としてこれに加わった。少し需要が多かったので、民間企業でこれに加わるもの続出し、関兵精麦の南光台、双葉建設の中山ニュータウン、東北建設機動の桜ヶ丘等、次第に大規模のものが加わり、県は黒松団地に次いで七北田西方に将監団地、名取市の名取ニュータウン、市は小田原の北東方に鶴ヶ谷団地の大造成を敢行し、昭和40年代には南は名取市北は泉市を越えて富谷町、東は塩竈市の東部、西は宮城町に及ぶ近郊の山地は、次々に緑を失って仙台のベッドタウンと化した。以下、方面別に概述。(a)東北地区宮町、原町方面を入り口とする東北地区には、旭ヶ丘、南光台、鶴ヶ谷の3大団地のほかに、東黒松、第1から3自由が丘、若葉ハイツ、東光台等の団地がある。さらに七北田川の低地を越え、利府、多賀城、塩竈の団地群がある。旭ヶ丘団地は、昭和31年の発足にかかる小松島住宅を南端とし、その北方の小田原一年圃から泉市八乙女の真美沢沼に達する大団地で、面積430ha、南から1から4丁目、堤1から2丁目に分かち、南部は初期の造成にかかって起伏激しいが北部は大体平坦。南北の幹線を中軸に規則正しく格子状の道路に貫かれる。南光台は旭ヶ丘の東に接して泉市松森に属するが、交通の上ではかえって仙台に直結し、造成以前は小松島から浦田に通ずる山道を軸に、その西側の天(あま)ヶ沢と東側の前沢の谷に分かれたが、まず西側の谷の上流から市街化し、続いてその東側の浦田山道を東に突破し、はじめはこの部分を牧場としたが今はそれらも市街化し、2万人以上を収容の予定であるが、多くは独立家屋から成り、学校以外に特別に大きな施設は少ない。鶴ヶ谷団地は南光台の東にあり、昭和42年以来仙台市の造成にかかり、鶴ヶ池大堤に注ぐ藤倉沢の本支流に刻まれた海抜80m内外の丘陵を削り、谷を埋め立てて緩傾斜とした住宅地で、その南斜面の県立三高以外には住宅一戸のみ山林緑地であったが、次々に住宅街を造り、これを1から8丁目に分かち、そのうち2丁目、5丁目および6丁目には、最高11階に達する高層集団住宅を列ね、東仙台方面から走る大道を新たに開き、それから入った中心部には市民センター、ショッピングプラザ、銀行支店等を備え、他に1中学校2小学校のほか病院、老人ホームを有し、23千人を収容の予定である。自由ヶ丘はその西北の天ヶ沢団地とともに、鶴ヶ谷と南光台との中間南部にあり、前者に先立って造成せられ、若葉ハイツは小松島からそれらに達する中間東側にある。第2から第3自由ヶ丘は、若葉の東、鶴ヶ谷一丁目の南にあって、安養寺堤群に隔てられる。東光台は鶴ヶ谷団地の東斜面に位し、鶴ヶ谷以前の造成にかかる。鶴ヶ谷団地の北方には七北田川の谷を隔てれば、松森城一名鶴ヶ城の遺跡を北から囲んで、住友商事の鶴ヶ丘団地が、大計画の一部をもって分譲を開始し、その遙か東には、歴史に名高い多賀城趾の南麓に、トーメン多賀城ニュータウンが開かれ、さらに塩竈市の東北隅に、西に松陽台、東に藤倉団地が松島湾を眼下にしてその眺望を誇り、他にも若干の団地がある。(b)北方地区国道4号を入り口とする北部地区では、昭和35年以来県の造成にかかる黒松団地があり、県営第1から第2アパート群、公団住宅アパート群を有し、人口7千を数うるうち、西側は仙台市に東側の大部分は泉市に属する。北仙台から黒松に向かえば、その東側山中に千鳥ヶ丘、その東に森林公園、西側の斜面に鷺ヶ丘、常磐団地、勝山団地、双葉ヶ丘等の諸団地あり、勝山から西に谷を越えれば、第2勝山団地があって、北仙台小学校および中学校を有し、東から、渡辺、幸福(さち)ヶ丘、南から、ひよりヶ丘、平和台、国鉄荒巻等の小団地群に囲まれる。これから北に七北田川を越えれば、西に県営将監団地が、1丁目から13丁目に23千人の人口を予定し、その北部と南部とに多数の高層集団住宅を配するほか、中央に公設市場、銀行支店等を備え、1中学校、2小学校、消防署等を有し、独立の一小都市をなすが、これまた仙台市の遊星に過ぎぬ。今からわずか10年前、大洋漁業の7万羽養鶏所が鋭い三角点峰を負った所も、今はただ紅青の鉄板屋根を列ねる平地となり、将監沼がわずかに当時の趣を留める。これと斜めに要害川の谷を隔てた東側には、名勝洞雲寺通称山の寺の谷を挟んで、南に共栄泉および泉ニュータウン、北に泉向陽台があり、後者は人口1万を予定し、かつて稜線上に並んだ東北電力の高圧送電塔がその基脚のみを残した円塔上に峙っている。これらの間を北に進めば、泉市と富谷町の界を跨ぎ、国道の西に泉ヶ丘ニュータウン、その北西の富谷町南端に、藩主の鷹狩りで名高い亀杉を擁した鷹の杜団地、さらに富谷の市街地の北方東側に、富谷グリーンパーク一名河北平和ランドの遊園地およびゴルフ場、富谷ニュータウンなどがある。(c)西北地区荒巻本沢を門戸とする西北地区では、その入り口の荒巻温泉に近い共済団地、川平団地、泉ヶ丘、春日団地等、昭和30年代後半の諸団地の後ろに、桜ヶ丘、中山ニュータウンの2大団地がある。それぞれ、人口5千人、3万人を予定する。中にも中山ニュータウンは丸田沢の支流平沢と梅田川との水稜線をなし、長く北山根白石間の本道をいただいた稜線の両側を削り、その東南麓から西北に登り、昭和41年早くもその頂上三角点に達し、その翌年にはそのすぐ下に尚絅短大、東北電力総合研究所等を誘致する一方、さらにその西方に造成の歩を進めて、丸田沢の支流を埋め、泉市実沢の南端との境に達し、2カ所の公務員住宅群、三井、藤崎、東芝等の高層住宅群を加える。中山ニュータウンの造成初期、その北側には行楽園団地の造成が行われ、その一角には小遊園地も造られたが、その後放棄の運命にあった。ところが昭和46年、第1、第2勝山団地の造成を終わった勝山企業がこれを接収するとともに、その頂上背後にある中山西部の北斜面をも造成し、第3勝山団地と称し、その東斜面に朴沢高校を迎えるとともに、その北隣には同じ朴沢学園に属し現在柴田町船岡にある仙台大学転入のための用地を建設し終わっている。この東下に位するのが桜ヶ丘で、東と北に範囲を広げる一方東側の山地を削って小学校を建て、さらに東には公苑団地、西北には東急青葉台を加えた。最近ここも新町制を施行し、桜ヶ丘1から9丁目、中山1から9丁目、西勝山、滝道、川平1から2丁目などとした。これらの北には丸田沢を隔て、泉市大谷刈の丘陵があり、東に県営加茂団地、西に大和長命ヶ丘が並んで、最近その造成を終わり更に七北田川の北には、三菱地所の超大団地パークタウンがその第1期の造成を終わり、公園を整え、小学校を建設し一部を住宅街化しているが、これを貫く計画道路北四番町丁大和町線が、未だ市内に達せぬため、市の郊外とするにはやや遠すぎる。さらにそれより西方に位する西田中、住吉台等の造成地についても同様。中山ニュータウンの西方に位する中山ゴルフ場、その西北に造成中の第2中山ニュータウン、ゴルフ場の南に接する中山吉成、その南の伊勢吉成の両団地はいずれも仙台に外接するが、前の両者は泉市実沢、後の両者は宮城町吉成に属し、いずれも仙台市外にあり、国見峠の東麓に位する半子町恵通苑のみ市の辺境に孤立する。(d)西方地区川内を門戸とする西方地区は、主として青葉山で、その大部分は東北大学、宮城教育大学、青葉山ゴルフ場に占有せられ、住宅団地としては東北突端の亀岡、武田南団地と、西方頂上部の青葉台のみである。■昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その2)(2012年5月22日)につづく
2012.05.22
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東北本線の仙台以南は奥羽街道(国道4号)沿いに敷設されたが、明治の建設期における白石・大河原ルートと角田・丸森ルートの関係は一応把握しておかねばなるまい。そして、角田側は昭和期に巻き返しを図ろうとしたことも。角田・丸森側の事情も調べたいが、まず今回は『白石市史』(第1巻、昭和54年)から。------------■明治期の事情昭和15年、上野方面から鉄道が建設開通されると、やがてその延長が宮城県を南から北進することが明らかになり、各地に反対運動が起こった話は周知の通りである。(略)養蚕のさかんな角田、伊具郡では、ことに反対運動が激しかった。白石刈田地方も例外ではなかったが、東京の第一銀行頭取渋沢栄一が、当時横浜に事務所を開いていた白石第一の豪商米竹清右衛門に鉄道の有利性を説得する一幕などもあって、鉄道敷地の提供も約束させ、福島-仙台間の鉄道は白石を通過することに決定を見たのである。■昭和期の事情昭和21年12月4日、白石町綜合計画審議会は、郡山仙台間の東北本線を複線電化すべきであると答申している。(略)25年6月、北海道東北一道七県知事会が開かれ、議題として初めて北海道東北地方の開発用鉄道の建設と重要幹線の複線電化の早期実現を上程し、これこそ東北北海道開発振興の必須条件であることを強調し、議決した。(略)昭和32年5月、突如として予定線である丸森線の着工の見通しが確定したが、白石地区住民にはこのニュースは晴天の霹靂ともいうべきであった。麻生市長は急遽東北本線沿いの市町村に呼びかけ、東北本線幹線絶対確保運動を展開した。(略)そもそも丸森線建設計画は既に明治末期に始まっている。(略)関係当局の大勢はこの路線は運輸技術的、距離的などの観点から白石を通る現在の本線より有利であるとの判定に傾き、その建設やさらに幹線化が地道に策定されていた。だが、丸森線の幹線化は、瀬上、槻木間の東北本線の支線化を意味するもので、白石には死活問題であり重大な関心を持たざるを得なかった。ちなみに、東北本線福島-仙台幹線化の一大ネックは白石-藤田間の勾配1000分の25の箇所であった。そのために、白石駅に転車台、給水塔の設備を特にしてあった。しかし、この幹線化確保は地元民の強い熱意と、愛知揆一代議士、国鉄総裁顧問・白石市顧問木村逸郎その他の関係者の努力で(略)福島-仙台間電化の実現を見た。34年10月下旬、北白川-岩沼の電化工事が始まり、36年2月14日福島-仙台間の電化工事が完成した。(略)7月5日複線の起工祝賀会が開催された。(略)41年7月20日、複線拡張のため城山第二トンネルを掘削した。複線工事は順調に進み、昭和41年10月1日、福島-岩沼間の複線電化は実現し、ここに東北の近代化に力強い歩みを踏み出したのである。------------なお、白石ルート選定に際して大河原町の努力も忘れてはならないだろう。記事:大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) を参照のこと。■関連する過去の記事(東北本線ルート関係) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 仙台駅の予定地(その7)(10年9月6日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 仙台駅の位置について(その6)(09年10月21日) 仙台駅の位置について(再び)(09年3月10日) 仙台駅の位置について(その4)(07年8月16日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 仙台駅の位置について・続々(06年7月15日) 仙台駅のはなし・続(06年7月11日) 仙台駅のはなし(06年7月10日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2011.09.05
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皆さん明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。今日(1日)の河北新報朝刊には、今季Aクラスを目ざす東北楽天の年男(としおとこ)が5人紹介されている。アレッと思ったのが、朝井投手が24歳になっている... そうか朝井は1月1日生まれなのだ。おめでとう~! 今年の意気込みは1年間ローテ守ることと2桁勝利。そうそう、大いに期待しています。イーグルス投手陣のカギは何といっても岩隈と一場の完全復活。この2人が計算できれば、本当にありがたい。当然柱になるだけの力を持っている投手だ。そして、朝井の躍進、田中の成長、それに永井、長谷部、片山など若手がグングン活躍してくれれば、夢がふくらむ。朝井投手は、キャップをはずして頭の汗を拭く、高校球児のようなさわやかさが良い。07年は幅も広がって頼もしさが増した。今年は大いに楽しみだ。ところで、この記事だが、永井、朝井、横川、嶋、沖原の「5人の日本人選手が」年男、という。とすると、外国人選手にもネズミ年生まれがいるのだろうか。早速ポケットガイド2007を開いてみる。1984年、1972年が該当年だ。いました。リック・ショートさん。1972年12月6日生まれ。イーグルスになくてはならない、青い目のサムライ、リックさんです。1億円で更改とのことですが、打って欲しい場面で打ってくれるのがリック。来季は優勝を目ざすと意気込みを話してくれた。いっしょに頂点をめざそう。というわけで、2008年頑張れイーグルス!
2008.01.01
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大倉ダムの先にある定義山西方寺。その更に先に開けている集落が十里平である。美しい山間の桃源郷にもみえるが、開拓は苦難の歴史だった。■加藤榮一『増補 仙台西部 宮城と秋保の歴史物語 仙山交流 関山街道と最上古道』 蕃山房、2021年 から。なお、おだずま要約しています。『十里平』(元仙台市八木山校校長(ママ)佐藤達夫)を参照した十里平開拓の歴史。 戦後、樺太の残留者は昭和23年1月までに帰還した。宮城県は昭和22年樺太引揚24家族を受け入れ、広瀬村の農学寮に一時的に暮らした。十里平と愛子のうち、開墾すれば農業で暮らせるということで、十里平(西方寺奥の原野)に入植した。 十里平には営林署関係の家族4-5軒が住んでいた。昭和23年夏、12家族が荒野に入植。家族人数に合わせて1町5反、2町5反など割り当てられ営林署から借りた。笹小屋に住み、刈り払い、立木伐採から開墾に従事。食糧事情不安で毎日の収入もなく、焼き畑でようやく大豆、小豆、大根を収穫するが、米がなくて、山菜(ミズ)、栗、キノコなど主食にした生活は想像を絶した。 昭和23年笹小屋の大倉小学校十里平分校が設置。開拓者の生活改良のために、庄子長喜さんが村、県、国に陳情請願の苦労をしたもの。24年8月に開拓地の指定を受けて、1反歩に4千円の経費が出て、開拓は重労働であることから加配米を追加。その後、さらに15家族が入植。全部で27軒に1戸あたり3町歩の原野が与えられた。 昭和25年に引き上げ住宅は建坪6坪割り当てられたが、小さくて暮らせないと陳情して8坪と補助金が配布され、笹小屋から寒さをしのぐ住宅で暮らすことができた。昭和27年、県から貸金で赤牛を毎年2-3頭飼育した。堆肥もでき、ジャガイモ、大豆、トウモロコシ、麦など栽培効率が良くなった。道路はなく、森林鉄道(トロンコ線)を歩いて定義まで通った。 昭和35年一部の人が田んぼを耕作したら収穫良かったので、開田しようと、県に請願して1戸当たり3町歩をめどに許可された。36年、県に開田計画を請願して、国からの45%補助の残りは農林公庫から借金した。昭和36年12月には稲田に引く水を谷川からポンプアップするために電気が引かれ文明の灯がともる。 昭和38年に水田耕作は国の補助で行われ、ランプ生活からテレビや冷蔵庫の電気生活に。森林鉄道道路から開拓道路も整備され、自家用車を持つ新たな高原生活の誕生となった。 昭和44年、米の生産調整の減反政策で、転作に5割の補助金。離農者が転出し始めた。昭和46年十里平分校が廃校。 昭和48年には県の指導で休耕田を5割の補助金で牧草地に転換。稲田はデントコーン畑や牧草地に代わり、道路も整備されて本格的な高原酪農集落に。当時の集落民は14家族(おだずま注:お名前が記されている)。 Sさん(94歳女性)の話。樺太で生まれ結婚後、終戦を迎え、2年後に北海道から引き揚げ。宮城農学寮の引揚者住宅に住んでいた。著者(おだずま注:昭和10年生まれの加藤さん)は、実家が米の配給所で、国の決まりに従って精米7部つきを配給したが、ソ連の酸っぱいパンより黒いのでもう一度精米してくださいとSさんから声をかけられたことを覚えている。小学6年生だった著者の加藤さんは、精米の手伝いをしながら、敗戦後樺太での危険な生活や、帰国までの苦労話を真剣に聞いた。まもなく農学寮から十里平の開墾生活に入ったSさんは4人の子宝に恵まれ高原で力強く生きた。Sさんは、入植した70年前は27軒も家があり、大変な開墾を乗り越え、学校で運動会やお祭りもやって活気があった。定義まで道路もなくトロンコ道を歩くので体の弱い人は大変だった。若い頃から農作業が忙しく夫婦げんかの暇もなかった。町に住む娘の家に暮らせと言われても、70歳過ぎると町では暮らせない。自由なここの暮らしが良いんだよ、とSさんのお話。Sさんの孫が牧場主人の仕事に追われる一方、定義夏まつりなどを支えている。■関連する過去の記事(定義について) 定義(如来)をどう読むか(2023年09月23日) 定義は「じょうぎ」か「じょうげ」か(2012年6月17日) 東北の難読地名(2012年6月16日) 定義森林鉄道(2011年9月11日) 定義如来西方寺(08年4月12日)■関連する過去の記事(朴沢、中山道など。朴沢も山あいの純朴な集落。) 国見峠と芋沢街道(2016年6月21日) 七北田川の源流 光明の滝(2015年9月14日) 中山峠の狼(2011年10月6日) 中山道と狼石(2011年1月13日) 中山道を考える(再び)(09年11月23日) 忘れられた宿場町 根白石(09年11月4日) 朴沢の話(09年5月13日) 朴沢をめぐる(続・画像)(09年5月2日) 朴沢をめぐる(09年5月2日) 中山(なかやま)道を考える(09年3月25日) 中山道のむかし(09年3月23日)■関連する過去の記事(宮城県内の戦後の開拓) ノンちゃん牧場のいま(2016年6月4日) 栗駒耕英の開拓史(後編)(2013年12月31日) 栗駒耕英の開拓史(前編)(2013年12月7日)
2023.09.26
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4月18日の新聞記事であった。縄文人と弥生人の二重構造モデルに疑問を投げかける内容で、縄文、関西、東北の3系統に分けられる可能性が高い、とする。■理化学研究所プレスリリース 全ゲノム解析で明らかになる日本人の遺伝的起源と特徴以下に、要点をまとめる。・全国7地域の医療機関に登録された3,256人の日本人の全ゲノム情報を分析。・まず、コモンバリアントに基づいて従来の主成分分析を実施。以前の研究と同様に、沖縄と本土クラスターの二重構造が再現された。・次いで、レアバリアントを使用した次元削減分析で、前例のない遺伝構造が明らかになった。・具体的には、本土の領域間のより明確な分離と、本土クラスターから沖縄クラスターのより明確な区別が観察される。また、東北の人々が細長いエリアにクラスタリングされる。・さらに、ADMIXTURE分析の結果、日本人口は、3つの祖先の混合によって最もよくモデル化できることを示唆する。すなわち、K1(沖縄)成分は、本土サブグループで安定した割合、K2(東北)成分とK3(関西)成分は西から東北に徐々に変化する。・以前の研究により、日本人が縄文人及び東アジア(EA、主に漢民族)の祖先をもつことが示唆されている。最近の古代ゲノム分析から、北東アジア(NEA)の祖先の影響も指摘される。この背景のもと、縄文、EA、NEAの現代及び古代の遺伝データを今回データと共に分析した。・縄文の祖先比率は、沖縄がもっと高く(28.5%)、次いで東北(18.9)、関西は最も低い(13.4)と推定。これは縄文人と沖縄の人々に遺伝的親和性を示す以前の研究と一致。また、関西地方は漢民族と遺伝的親和性が高いことが明らかになった。・また、関西人と黄河又はその上流地域の中新石器時代および後新石器時代古代中国集団との間に顕著に密接な関係が見受けられた。対照的に、東北地方の個体は縄文人との遺伝的親和性が顕著に高く、また、沖縄の宮古島の古代日本人ゲノムや古代韓国人(三国時代)とも高い遺伝的親和性が示された。・最新の確率的手法IBDmixを使用し、現生人類の近縁で絶滅したネアンデルタール人やデニソワ人由来の遺伝子配列が検出された。・本研究は、日本人の起源に関する重要な洞察を提供する。従来の二重構造モデル(縄文時代の狩猟採集民と大陸からの弥生時代の稲作移民の混血)に対して、最近出土した人骨のゲノム研究による三重構造モデル(縄文人の祖先集団、北東アジアに起源を持ち弥生時代に日本に渡った集団、東アジアに起源を持ち古墳時代に日本に渡った集団の3集団の混血)が提唱された。しかし、先行研究では古人骨全ゲノムのサンプル数が制限されていたところ、大規模な現代日本人ゲノム情報に基づいた今回の研究により、三重モデルの裏付けになる可能性がある。・さらに、初めて日本人の遺伝的構造に対する東北地方人の祖先の影響の重要性が強調された。居住していた蝦夷(エミシ)の起源を調べる必要がある。報道は分かりやすさを求めるが(これで決着?)、あくまで数理上の解析であり、三重モデルをよく説明できそうだということだろう。人類学的視点、古い地形や古気象学など様々な観点から研究の深化が求められると考えるが、今回の成果が支持しそうな仮説的な3系統とは、次のようになろう。1.縄文系 沖縄に多い2.関西系 関西に多い。古代中国黄河付近の漢民族と親和3.東北系 東北に多い。縄文人や古代韓国人とも親和。由来が不詳(蝦夷?)■関連する過去の記事・東北の縄文人の特徴(2016年4月7日)・東北縄文人はどこから来たか(08年11月23日)・ミトコンドリアDNAと日本人の起源(07年11月4日)・縄文人と弥生人(07年6月5日)その他、下記のフリーページの記事リストに関連する記事あると思います。・東北とは何か・歴史に見る東北・東北の民俗・言語・文化・出版・思想・科学
2024.04.19
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(前編から続く) 栗駒耕英の開拓史(前編)(2013年12月7日)■朝日新聞仙台支局『宮城風土記1』宝文堂、1984年 から(おだずま註:内容は当時の時点のものです。また、実名で登場する人物はイニシャルにしました。)8 山草の販売栗駒山一帯は高山植物の宝庫。耕英開拓地には特別保護地区の世界谷地第一、第二湿原があり、山草ブームで貴重な植物が心ない盗掘者達に運び去れていく。耕英の人たちにはそれが残念でならない。開拓地の中心部、県道と開拓道路の交差点近くで高山植物の生産販売をする「雲海園」を営むIさん(51歳)は、迫町の出身で農家の三男。炭焼き、ナメコ栽培の傍ら、耕英森林保護組合長を務め、盗掘の臨時監視もした。高山植物が簡単に手に入れば乱獲も減ると考え、細々と高山植物の生産を始める。昭和45年火災で新住宅を建設するのを機に、農業を捨て植物園一本にかけた。実生の苗を丹精込めて育てた。園を開いて1年後にはどうにか販売できるようになった。初めはハイマツ。サラサドウダン、ハクサンシャクナゲ、ナナカマドなど。アツモリソウやクマガイソウなども。Iさんの敷地には150種を越える山草樹木があり、栗駒山の自然を凝縮するかのようだ。1979年には山麓で珍種イシヅチランの群生地を発見し、一部を採取して現在も育てている。子ども達は山を下りてしまったが、自然を愛しながら山で暮らすつもりで居る。9 二世の仕事耕英の主産業はダイコンとイチゴ。イチゴは露地のほか冬場のハウスイチゴがあるため、相当数の家族は冬期間だけ山を下りる。ハウス栽培をしていない人でも冬は里に建てた家や子ども達の家で過ごすため、耕英に残る人はごく僅かだ。雪に埋もれる冬の耕英でも仕事はないものか、と考える耕英二世も現れ始めた。裸一貫で原生林に入植した「耕英一世」にたいして、耕英で生まれ育ち現在の働き手になっている20台後半から30台の中堅層が「耕英二世」で、耕英小中学校で学び、ほとんどが一度耕英を離れて、約10年の後に本格的に農業をやろうと帰ってきた。一度外から耕英を見ている感覚で、一世には思いも寄らない発想がある。昭和22年の入植先遣隊の一員Sさんの長男(33歳)は、耕英中学校を出て川崎市の会社に勤めるが、耕英に戻ったあと、夏は農業、冬は鳴子スキー学校栗駒分校長をしている。もしスキー場ができれば耕英住民の暮らし向きも良くなるはず、と雪との融和を模索する。また、冬の仕事として生け花に使用する花木の販売に取り組む二世集団もある。昨年夏に耕英花木研究会が発足した。OさんSさんKさんOさんYさんの5人は耕英二世だ。代表のYさん(36歳)は、せっかく耕英に戻ってきたのに単に作物を売るだけでは意味がないと考え、栗駒町農協からの呼びかけに乗って、生け花の花木の栽培と出荷に挑戦。先進の名取市を視察したが、名取では採算がとれないとの理由でやっていない自然木の催芽を、耕英ならできると直感して、昨年11月に県補助金も得て開拓道路脇の原野に催芽室を建てた。苗木の枝を切って芽を出させ、冬場に出荷できれば、冬の仕事を確立させられると語る。10 脱サラで民宿観光客の宿泊施設として、古くからある駒の湯のほか、いこいの村栗駒、キャンプセンター、白樺荘、民宿四季美、高原荘、民宿秣森、がある。民宿秣森を経営するKさん(41歳)は脱サラ経営者。戦後の入植を経験もしくはその地を引く人々の中で、昭和56年から山で暮らし始めた耕英新入生だ。東京生まれで、戦後の食糧難時代に茨城県に。小名浜の高校を出て東京に就職したが、休日には登山やスキーばかりしていた。特に水上温泉の上ノ原高原に惹かれて、そこに住もうとさえ考えたが、耕英花木研究会代表のYさんが同じ勤め先にいた縁で耕英を訪れるようになった。48年にYさんの妹と結婚を機に耕英永住を決意。周囲を説得して御沢近くに264平米の民宿を建設。砂金を抱えての船出は苦しいが来客は伸びているという。民宿の名は建築許可申請の際に町の担当者が便宜的に付けたものだが、今では気に入っている。かつての開拓とは違い、平和の中での開拓。自分のように後から耕英に来たい人のためにも、魅力ある耕英づくりの先鞭を付けたい、と話す。
2013.12.31
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東北本線利府支線は利府駅から北が廃線になったが、先日、利府駅周辺でその痕跡を訪ねてみた。■今回のシリーズ・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その10)松島町桜渡戸、初原(2024年06月01日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その11)松島町初原、旧松島駅(2024年06月02日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日)まずは現在の利府駅の外から、レール終端とホームを眺める。遠方は新利府駅、岩切駅方面だ。こんどは同じ撮影地点から逆方向(旧ルート)を望んでみる。かつての線路跡は町営駐車場に変わっている。その先は線路跡は消えて住宅がいくつか建っているようだ。駐車場わきの道を、その住宅の辺りまで進んでみると、下の画のように、住宅の先に建物が見え、SENKEN(仙建工業)とある。緩やかに曲がった区画の雰囲気は、ルート跡の名残だ。さらに北側に回ってみて建物を撮ったのが次の画で、遠方は利府駅になる。仙建工業(株)仙台新幹線出張所、との看板があった。私有地につき関係者以外の立ち入りは固くお断りします、防犯カメラ作動中、と書かれているので、立ち入らず道路を挟んで(利府自動車学校・森郷児童遊園の側)から撮影。さて、さらに旧線の先を望む(道路の仙建工業寄りから撮影)と、割とわかりやすく、ルートが森郷児童遊園に包まれるように伸びていく。その森郷児童遊園(SL公園)の中に、鉄道についての解説板が、SLの動輪のモニュメントの両脇にある。比較的新しい。実は最近まではSLの機関車が置いてあったのだが、維持管理ができなくなって置き換えたようだ。以前あった機関車は、C58-354で、東北新幹線仙台総合車両基地の建設を記念して、利府町が誘致して昭和50年8月に設置されたが、当該機関車は昭和19年製造、走行距離は125万キロで昭和48年12月まで現役として活躍していた。看板の説明を読もう。------------1890- 本線だった、利府経由の線路 現在の利府町域に現東北本線が姿を現したのは、1890(明治23)年のことです。現在の県道8号線(利府街道)に沿うように現町域を縦貫し、松島町の愛宕駅付近からは現在と同じ経路を走っていました。 開業当初、赤沼に信号場が置かれましたが、利府に駅はなく、1894(明治27)年に利府駅が開業しています。敷地を加瀬村の佐々木佐太郎氏が寄贈するなど、地元の力が実現した駅の開業でした。1944- 並走する「山線」と「海線」 1944(昭和19)年、東北本線の岩切~品井沼間を海沿いで結ぶ、新しい線路が敷かれます。すでに大正年間から、従来のルート上にある急勾配区間が輸送上問題視されており、昭和初期には仙塩地方の工業化も構想されていました。これに戦時中の軍需物資の輸送強化という要請もあって敷設に至ったようです。 以後、東北本線の岩切~品井沼間は、従来の線路「山線」が主に旅客、新しい海側の線路「海線」が主に貨物を取り扱いながら並走し、東北と関東を結びつけたのです。1956- 「海線」の複線化と「山線」の廃止 「海線」登場と同時期、東北本線の複線化も計画されました。戦中の資材事情で遅れていましたが、1953(昭和28)年から工事が再開され、1957(昭和32)年には陸前山王~品井沼間を除いて複線化されます。この間、1956(昭和31)年には「海線」に塩釜駅や新松島駅が設置され、列車の運行割合も「海線」が多くなるなど、「海線」の東北本線「本線」化が進行します。輸送力を強めたい国鉄(当時の日本国有鉄道)は、残る陸前山王~品井沼間の複線化を進め、これが完了した1962(昭和37)年に「山線」は廃止されました。1962- 支線の終点として利府駅は残った 「山線」の廃止後も、「山線」の駅である利府駅が残った背景には、利府住民の強い請願がありました。 利府町教育委員会の資料によれば、「山線」の廃止計画は、1949(昭和24)年に発表されました。すると利府では、翌年から「山線」と利府駅存続の請願活動がはじまっています。 利府駅廃止反対期成同盟を結成して仙台鉄道局や東京へ陳情をし、その年のうちに衆議院で利府駅の維持が決定されました。その後も存続を望む活動は続けられ、列車運行数を減らさないために貨物を取り扱い、村民へ駅の利用を呼び掛けるなど、利用者側の努力で利府駅の重要性を示そうともしています。このように、開業時と同様、住民の強い思いと行動が、いまに利府駅を残したのです。(年表)1984 利府駅開業1944 「海線」開通 従来の路線は「山線」に1945 太平洋戦争終結1949 「山線」廃止計画発表1950 「山線」と利府駅存続の請願活動がはじまる1956 「海線」に塩釜駅や新松島駅が設置1957 一部を除き複線化1962 全面複線化完了と同時に「山線」廃止 利府駅は残り、支線の終着駅となる1964 東京オリンピック開催1975 東北新幹線の建設を記念して SL・ELを本町へ展示1982 東北新幹線が大宮-盛岡間で開通1986 駅舎改築1987 国鉄分割民営化2022 SL・EL老朽化により SLのみ動輪をモニュメント化------------また、この公園にはSLとともに電気機関車ED91-11も屋外展示されていた。1954年に始まった仙山線の交流電化試験に使われた試作機4両のうちの唯一現存した1両だったそうだ。試験は成功し、57年9月国内初の交流電化営業運転が、仙台-作並間で実現。4両は引き続き仙山線で活躍した。鉄道の電化は直流が早く進んだが、交流は変電所の数が少ないなど経済性に優れ、トンネルの多い区間でも導入が可能で東北の幹線の電化が飛躍的に進んだ。また、試験の知見は高速化に貢献し、交流方式の東海道新幹線が東京五輪開幕の9日前に開業できた。(2021年7月24日の河北新報記事から。保存を訴える元技術者のインタビュー記事だ。)■利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)に続きます。■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.05.08
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仙台藩の刑場は最初は城下の琵琶首(花壇)に置かれ、その片平丁寄りの根本東側に裁許所、後改めて評定所が設けられた。江戸、鹿児島と共に、日本三評定所である。次いで、この地が罪人を刑罰する場所ともなった。その後評定所内の処刑場は寛文6年(1666年)に、広瀬河原に近い米ヶ袋的場付近に移る。なお牢舎も米ヶ袋鍛冶屋前丁(東北大農学研究所の地)に置かれた。更に24,5年経った元禄2、3年頃に処刑場は七北田に移り、七北田刑場と呼ばれる。現在の七北田橋の南方県道筋の丘の上である。当時、士分の処刑は牢舎前で斬罪または切腹を執行し、士分以下の凡下扶持人や百姓町人は七北田刑場、乞食非人は小泉で処刑されたようだ。士分でも重罪囚は凡下に身を落として七北田刑場で執行したという。凡下でも親や主人を殺害した重罪人は芭蕉の辻で3日間晒した。更に重罪のものは竹鋸と称して、主人を箱に入れて通行人に箱から出ている首を挽かせた。引廻しは、処刑日が決まると牢前に呼び出し、町同心が科書を読み聞かせ、非人が罪状を書いた紙旗と捨札とを持って七北田刑場に送るもの。行列順は、先頭に非人2人が六尺棒を持ち、2番目に非人1人が白衣で捨札を持ち、3番目の者が白衣帯刀で抜身朱鑓2本を持ち、4番目に馬乗の囚人。7番目に南北組与力検使正副2人が騎乗。引廻しの順路は、片平丁、弾正横丁、北目町、染師町、猿牽丁、土樋、姉歯横丁、荒町、南鍛冶町、茶畑、連坊、六道の辻(ガード)、東四番丁、新伝馬町、大町、肴町、立町、本材木町、北材木町、国分町、二日町、北鍛冶町、通町、北八番丁、新坂通、北山町、堤町を経て、刑場に向かう。この町筋は寺院所在の町を主にし、侍丁や商人町を加えたもので、「寺廻り」と称し仙台藩特有のものだったという。堤町から数丁行くと左側に「新助壇」という所があり、囚人は馬から下ろされて望む物を食わせる習慣があった。さらに奥州街道を下ると左側に青笹不動が祀られており、囚人に柄杓で末期の水を飲ませた。七北田刑場の2、3丁手前の「くらすみ橋」で家族のものと最後の対面を許されたという。刑死者の葬儀と墓碑は旧藩時代には許可されなかったが、七北田刑場前に常念仏堂があって供養することは許されていた。5代藩主吉村夫人長松院の遺言によって延享2年(1745年)頃建てられたもので、七北田街道に沿い刑場を中心に南北に建てられた。南に河南堂、北に河北堂、共に単層三間四面の萱葺きの堂。刑の執行の最も多かった日は天保11年10月29日で、獄門17人、打ち首2人。刑死者の塚碑を秘かに刑場付近に建てる者もあり、見逃されたようである。出典 菊地勝之助『仙台事物起原考〔再編復刻版〕』1995年、株式会社ヨークベニマル(原著は昭和39年発行(郵辨社)。復刻はヨークベニマル仙台古内店開設記念の非売品)
2007.09.03
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今回の散策エリアのマップと、森郷児童遊園内の説明パネルのうち旧線の痕跡として紹介されている箇所を拡大して掲げます。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・今回 利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その10)松島町桜渡戸、初原(2024年06月01日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その11)松島町初原、旧松島駅(2024年06月02日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.05.10
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今朝も冷え込んだ。仙台は未明からマイナス4度の寒さ。ちょっと風も出ている。県内では、米山でマイナス11度となり、駒ノ湯を上回る寒気だ。ところで、岩手県では、薮川が4時のアメダスでマイナス19.8となっている。最低気温時点では、もっと下がっているだろう。今朝の岩手県は、ほかにも、花巻でマイナス13.9(3時)、江刺でマイナス13.4(4時)など、宮城の米山が冷え込んだことと関連しているのだろうか、北上川沿いの盆地地帯で軒並みマイナス10度以下の寒さを記録した。ところで、岩手県と言えば盛岡市(旧玉山村)の薮川が冬の最低気温で有名で、ニュースでおなじみだ。盛岡市街地にも遠くなく、奥羽山脈の高地という訳でもないのに、考えてみればどうしてなのだろう。今朝もそうだが、冷え込んだ北上盆地よりさらに低く、例えば盛岡とは実に10度の差がある。ちなみに遠野はマイナス8度程度。岩手の寒さについては、「一に薮川、二に田代(区界)、三四が無くて五に遠野」と言われるそうだが、薮川は北上高地の寒さを代表する場所で、戦前には何とマイナス30度台を記録している。なぜ、薮川は寒いのか。標高が680メートル、そして、北上高地の西斜面にあり、小本街道沿いの峡谷に位置するため、両側から山が迫る。地形は盆地状で(地元では薮川盆地と呼ぶ)、夕刻頃から山頂も盆地も同時に冷却が始まり、冷気は斜面に沿って滑降する。やがて盆地内には冷気が上へ上へと積み重なり、盆地の底はますます放射冷却が強くなる。特に、この地域は風が弱く、冷気で埋まってしまう。加えて、冬季の積雪の密度が非常に小さいので、乾燥した雪面からの放射冷却によって、接する空気の低温を助長する。局地気温の変化の要因は他にもあるわけだが、薮川はそのほとんどを兼ね備えた地点である。そのため、現在のところ、本州ではもっとも低温の所となっているのだ。(金野、七宮、駒井編『岩手県の不思議事典』新人物往来社、2003年から、「岩手で薮川が最も寒い理由」(工藤敏雄さん著作部分)を参考にしました。)
2010.02.07
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仙台市の小学校の忘年会を中止しなければ子供を殺す、との脅迫状が県教委に届けられ、仙台市教委では早速市内小中学校に通知したという(20日朝の河北新報記事)。馬鹿げた脅迫だが、昨年も同様の脅迫状があったそうだ。速やかに公表し、関係者に通知することは、正しい措置だと思う。無視してもいいのだが、教育や学校に関する何らかの情報には、現場に思い当たるフシがあることもあろう。また、特定の個人の身体などに危害を予告しているのではないが(脅迫罪にならない)、警察署にも通報したと明言することで、抑止効果もある程度期待できる。ところで、梅原市長は、昨今話題の仙台市のネットいじめ事件に関連して、教委や先生の気合いが必要、先生方も評論家ではないから現場に入れ、などと発言したという(昨日の記者会見)。ネット掲示板での中傷記事には、IT社会の負の遺産で、子供が携帯やパソコンを自由に使うことには批判的で、もっと大事なことがある、親が軽んじたことに根本原因がある、などと梅原節を披露したようだ。この方が、よっぽど「評論家」にふさわしいと思うのだけど。
2006.12.20
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先日、中山吉成団地内のロータリーを探訪したが、その際に、中山や吉成の団地開発の経緯や中山(なかやま)道のことを考えていた。そこで思わず幹線通り沿いにある「狼石」を探そうと思った。中山を下りて根白石方面に向かうバス通り、東北縦貫道をアンダーパスして北中山小学校付近の反対側に、それはあるはずだ。何度も通る道だが、はっきり意識してここだと感じたことはない。いざ向かってみると、意外にも看板がハッキリ指し示していた。何ともわかりやすい。ただ単に道路を移動空間と思って走っているとわからないものだ。■関連する過去の記事(中山吉成のロータリー交差点) 仙台のロータリー(その12)中山吉成(その2)(2011年1月11日) 仙台のロータリー(その11)中山吉成(その1)(2011年1月10日)■関連する過去の記事(中山道) 中山道を考える(再び)(09年11月23日) 忘れられた宿場町 根白石(09年11月4日)(奥州街道について) 中山(なかやま)道を考える(09年3月25日) 中山道のむかし(09年3月23日)
2011.01.13
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伊坂幸太郎さん原作の映画ゴールデンスランバーを観て来ました。たまたま市の図書館で下水道ロケ地を紹介するパンフレットをもらっていたので、帰宅してからジックリ読んでみました。パンフと同じ内容が市のホームページにも出ているようです。犯人に仕立てられて逃げる青柳が最初に下水に降りるシーンは、このパンフによると、長町南三丁目のロケのようで、その後、長町第一雨水幹線と第二雨水幹線の中を、青柳に扮する堺雅人さんが走ったようです。もっとも、実際のストーリーでは、青柳は病院(ロケ地は厚生年金病院のようです。)から逃げ出して、勾当台公園の近くに出ているという設定のようですから、長町はロケに相応しい場所として、新しい管路が選ばれたのでしょう。パンフには竹内結子さんが奮闘する勾当台公園駐車場脇のマンホールも紹介されています。大きな花火の後に、青柳が再び勾当台公園のステージ前のマンホールに潜り、早朝の広瀬川に抜け出ますが、これは設定通りの実際の下水道放流管でのロケのようです。明治33年(1900年)に完成したレンガ造りの下水道管、今でも現役で使われていますが、西公園北のSL汽車付近のマンホールから降りて、ロケを行ったそうです。オール仙台ロケの映画なので、ロケ地を調べる楽しみ方も、できるわけです。花火大会、仙台駅、そしてなぜか加茂団地、などなど、観ていて子ども達も楽しんだようでした。ところで...映画やドラマで警察が登場する場合、どのように描かれるか気になります。あさま山荘事件の映画などでもそうですが、警察庁と地元との関係なども、気になります。今回は当然宮城県警が登場します。記者会見をしていた警察本部長は、竜雷太さんでした。そして、会見の模様を流すテレビ画面のテロップでは、たしか大杉憲司本部長(記憶は不確か)とかいう名前だったようです。あれあれ、ちょっと、これは、昨年まで実際に本部長をしておられた方を借名したようです。了解は得ているのかも知れませんが、そこまでやるものか。かなり意外でありました。
2010.02.07
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山形県立川町(現庄内町)は、町を挙げての取組により、日本初の系統連系風車による発電を開始し、我が国の先駆的な成功例として風力発電の模範とされる地域である。(町のサイト)立川町は太平洋と日本海を結ぶ風の通り道で、「清川だし」と格闘してきた地域だ。清川だしは岡山県那岐山麓で吹く「広戸風」、四国山地を吹きおろす愛媛県伊予三島付近の「やまじ風」と並び、「日本三大悪風」として有名である。もともと日本は冬にはシベリア高気圧の北西季節風にさらされるが、年間平均で見るとさほど風が強いわけではない。ただ、山岳丘陵地を抱えることから、複雑な地形によって局所的に特別な風が吹く場合がある。この局地風は、日本海側で「だし」、太平洋側の内陸で「おろし」と呼ばれることが多い。(吉野正敏氏の局地風マップによると、東北関係では、「やませ」「生保内だし」「清川だし」が記されている。)旧立川町の場合、日本海の影響と山岳地帯を抱えることから海洋性気候と山岳性気候を示している。4月から10月ごろにかけて吹く東南東の強風「清川だし」は、しばしば農作物被害や大火を与え、人々からは恐ろしいもの、やっかいなものとして敬遠されてきた。清川だしは主に気圧配置が東高西低の時に発生し、新庄盆地にたまった冷気がおろしとなり、最上峡谷で収束、庄内平野に吹き出す。この風は春から秋にかけて吹き、4日に一度は風速10mを超え、春には早苗を押し流し、秋には稲穂をなぎ倒す。また、冬は逆に北西の季節風が強く「地吹雪」も発生する。全国的もまれな強風地帯。気象庁の統計データによると、狩川の平均風速(1979-2000)は3.8m/sである。近年では、2007年3.7m/sで、08年と09年が3.8だ。数字をみても実感が沸かないが、年間の平均風速は、仙台が3.4(1982-2000)、盛岡2.8(1975-2000)、山形市1.6(同)、酒田4.4(1984-2000)、大間3.1(1979-2000)、男鹿2.2(同)、などとなっている。結構格差があるものだ。しかし、人々を泣かせる強風も、エネルギーとして大きな力になる。旧立川町狩川の年間平均風速は、地上高40mで毎秒6.5mである。年による変動も通例3%程度で、風力資源としては安定していると言える。■牛山泉『トコトンやさしい 風力発電の本』日刊工業新聞社、2010年 ほかを参考にしました。
2010.10.02
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仙台開府以来、まちを潤し産業を支えた七郷堀・六郷堀の起点、愛宕堰周辺を散策した。(県政だより11月号の表紙にも出ていたが。)広瀬川の越路側の河岸は、歩道が整備されているが、土樋側は切り立った崖の上に、鬱蒼とした森の雰囲気だ。愛宕橋のたもと、真福寺向かいの墓地脇を人ひとりがやっと通れる通路を進んでいくと、民家やアパートの中の路地につながる。しばらく歩いて、静寂の世界から一旦国道4号に出てしまったが、石垣町の信号のある交差点から再び広瀬川をめざして横丁に入る。すると、ほどなくして左手に変電所施設を見ながら、道は下りながら、広瀬川から別れてきたばかりの七郷堀を渡る小さな橋につながるのだ。橋を渡り、右方向に少しだけ歩くと、広瀬川本流から堀に流れ入る樋門の案内標識がある。ここは、本流と堀にはさまれた地点で、再び静寂の世界から、広瀬川を望んで急に空間が開けた感じだ。堀はここから、分岐しながらの城下を潤す水の旅に出て行くのだ。引き返して今度は七郷堀沿いに歩を進めていくと、急患センター付近で国道4号をクロスし、舟丁、南材木町、南染師町と続いていく。水の流れと歴史の流れを感じながらの散策だった。
2010.11.13
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前回、学校給食の「いただきます」について書きましたが、もう1題。同じく学校給食の「いただきます」に関してなのですが、話の重点が変わります。「合掌」について、です。 平成14年12月15日に秋田市で、「第5回一日中央教育審議会」が開催されました。教育基本法の見直しなどについて意見発表がされているのですが、岩手県で小学校の教頭をされている畠山さんという方が、次のような発言をされています(文部科学省HPからODAZUMA Journal要約)。------------ 宗教に関する教育をより重視する方向で見直すべきである。特定の宗派でない、宗教的な情操の涵養や生命に対する畏敬の念の育成は、人格の形成に欠かせないが、現状の学校教育ではおろそかにされている。教育基本法第9条の第1項(宗教について教える必要性)がおそろかにされ、第2項(特定の宗教のための教育の禁止)が全ての宗教教育を禁じていると過大に受けとめられているのが実態。 例えば、給食前に合掌して「いただきます」と唱和していた富山県の小・中学校では、保護者から「合掌という言葉は宗教的な色彩があり、強制されるのは苦痛」という指摘を受け結局合掌を取りやめ、平成8年以降は、「気をつけ。いただきます」に変えたという。(他に、近畿地方では多くの小学校が伊勢神宮を修学旅行のコースに入れていたのが激減した、ゆとりの時間に家庭で神棚、仏壇、墓地を清掃し、花を献じるよう指導した校長に教育委員会は中止の指導を行った、などの紹介があり、)伝統、文化の尊重の視点からも残念なことだ。(なお、発言の後「宗教教育」の語義について中教審委員とやりとりあり。)------------ 政教分離や「宗教教育」については色々言いたいこともあるのですが、グッと我慢して、ここは「合掌」を宗教教育を理由に廃止したという点に注目したいと思います。 これは、富山市内のK中学校で平成8年に現実に投書がなされたという実例を指すようですが、実はその以前から富山県内では合掌の号令をやめた小中学校があるのだそうです(98年7月28日産経新聞が過剰反応だという視点で記事にしている)。 憲法20条の解釈論で行けば、「目的効果基準」を採用することとなり、合掌の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進または圧迫、干渉になる場合には、違法(違憲)ということになるでしょう。私個人としては、軽く合掌する程度は、現在の感覚として宗教的意義は薄く世俗的な生活の一部なのであって、公立幼稚園のクリスマス会(サンタ登場、キャンドルサービス)の方がよっぽど宗教的だと思います。 ちなみに、我が家の2人の娘たちに給食の時間の「いただきます」の際に、どうしているか(合掌するかどうか)確認してみましたら、小学校3年(公立)の姉も、保育所(公立)の5歳の妹も、いずれも手を合わせるしぐさをしてくれました。 もっとも、「いただきます」を発声するときに軽く両手を合わせる感じのようです。日常生活でも通常こんなものでしょう。 富山の例で言えば、給食前の合掌のさせ方に通常の生活を明らかにはみ出したものがある、例えば一斉号令で黙祷させる、時間が長くある程度の苦行と感じられる、などならば、目的効果基準のテストに照らしても問題にもなりえるでしょう。また、浄土真宗の強い土地柄で、何らかの社会的な要因があるのかも知れません。 いずれにしても、異論が出るようではまともな指導ができないという配慮で、こうなったのでしょう。 教育上の現実的配慮としては、妥当な対応かも知れません。個人的には教育委員会に毅然として欲しいとも思いますし、後味はよくありません。しかし、学校教育の枠内だけに押し込めた議論に終始するのも、また間違いでしょう。 「合掌有害論」は特殊な一例なのかも知れませんが、皆が自然に合意し依拠する揺るぎない考え方や所作(大げさに言えば文化とか伝統)というものが崩れているのだろうか、と思ってしまいます。
2005.11.24
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しばらく前のことだが、妻の母が、自分からは動かず我が家を訪問した母親に湯茶の世話をさせようとした妻をさして、まったくタレカモノだと言っていた。これは仙台弁で、横着者の意味。三原良吉監修(仙台八十八選選定委員会編集)『仙台あのころこのころ八十八年』(宝文堂、1978年)の「仙台弁八十八選」によると、次のように説明されている。仙台人同士よく使うが他県人にはわからない。例えば、一緒に車を押しているとき、そのふりはするが力を入れない横着者。誰だか解らないように手を抜く。見つかれば互いににやりと笑い、このたれかものと言って片づく。軍隊用語のタレカから来ている新しいことば。身を隠して偵察にくる斥候を歩哨が見つけてタレカと誰何するタレカである。ダレガと濁らないところを見ても軍隊用語そのままである。こういう説明だ。なお、「かばねやみ」(骨惜しみ)の項では、かばねは骨のことから体を意味し、「やみ」は病みではなく休みであろう、とある。すると、「たれか」は単なる「かばねやみ」と違って、一見仕事をしたフリをする巧みさと、笑って許す軽さを伴っているもののようだ。(冒頭に記した妻の場合は、「かばねやみ」が相応しいのかも知れない。)たれか(者)の語は、他でも聞いたことはある。仙台出身の先輩が自分の親世代の言い方だとして語っていたような記憶がある。それにしても、上記のような由来とニュアンスがあるとは、興味深い。■関連する過去の記事 仙台弁「うざにはく」の語源(2016年1月17日) 「おしっこがつまる」は仙台弁か(09年11月13日) 仙台・宮城人怠け者論を考える(09年11月11日) 「んざねはぐ」の語源を考える(07年9月5日)
2016.01.18
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津軽の名は東北の最古の地名の一つ。斉明天皇元年(655年)に「津刈蝦夷」で初見。最も遠くにいた蝦夷として扱われる。平安時代には「津軽」と書かれる。鎌倉幕府のもとでいくつかの群に分かれていたようだが、江戸初期に初めて陸奥国の津軽郡とされる。ツガルの語源は諸説。水に「漬かる」所という説。本州の果ての「尽きる」所という説。この2つが有力だが、まだハッキリしていない。十三湖、十三湊は、日本海と湖の間の狭い水路を、と(門)さ(狭い)と表して、十三(とさ)の字をあて、また「じゅうさん」とも読ませたとみられる。(吉田茂樹『図解雑学 日本の地名』ナツメ社、2005年 4-8163-3869-1)■関連する過去の記事 「むつ」の語源(07年8月27日) 津軽の名の意味(07年4月6日) 津軽とジャパン(06年8月28日)
2007.12.12
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黒石市の純金こけしを落札したのは仙台市の健康食品販売会社だった。社長が青森県出身なのでお手伝いしたい気持ちで入札したとのコメントが報道されていた。このときの報道では、入札は仙台市青葉区の健康食品販売会社「ジャパンヘルスサミット」の1件のみで、開札の結果入札の最低価格1億9000万円を上回るなど入札基準を満たしており、この会社の落札が決まった。入札価格は1億9100万円から1億9500万円以下と見られている、との内容だった。また、黒石市では12月議会の議決を経て売却することになっている。金額はいくらなのか、気になっていた。先月の報道で「1億9100万円から1億9500万円以下とみられる」とあったのは、取材に対して「最低価格にいくらか上乗せしたよ。百万円単位だね。片手くらい? まあそこまで行くかねえ」なんてやりとりがあったのだろうか。勝手に想像していた。そしてその議決が昨日(21日)にあった。東奥日報の記事によると、----------黒石市が十一月に行った一般競争入札で売却先が決定した「純金・純銀こけし」の財産処分に関する議案が二十一日の市議会に追加提出され、可決された。これで、財政難を理由に市が手放すことを決めたこけしの売却が正式決定した。落札価格はこれまで明らかにされていなかったが、市によると一億九千百万円(税込み二億五十五万円)で売却される。落札したのは健康食品会社ジャパンヘルスサミット(本社・仙台市、島川隆哉社長)。売却金が入金され次第、早ければ年内にも「純金・純銀こけし」は同社に引き渡される。----------ということで、最低価格プラス100万円だったことが判明。ちなみに、黒石市の「議会の議決に付すべき契約及び財産の取得又は処分に関する条例」の第3条(議会の議決に付すべき財産の取得又は処分)によると、予定価格2千万円以上の不動産又は動産の買入れ又は売払いは、議会の議決になる。さて、あとはこの会社でどう使うのでしょうか。■関連する過去の記事(あまり関連もしないが...) 白石市と黒石市の交流を考える(06年12月6日)白石と黒石の交流として囲碁の対局を続けているという記事だが、このアイデアは本当に素晴らしいと感じた。仙台のこの社長さんも、純金こけしを白石のこけし館に展示するとか、そんな粋な計らいがあれば、東北人としてこの上なく嬉しいのだけれど。
2007.12.22
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