全305件 (305件中 151-200件目)
先日テレビで■日本人のおなまえ■というのがあった。日本人の名前の由来などの番組だが、この回は沖縄編。その中で特に面白かったのが■「童名(ドーナ、ワラビナー)」。■沖縄には名字と下の名前以外に、さらに3つの名前があった!?今回、番組の徹底取材により、かつて琉球王国だったある島では「トゥク」や「マニュ」など、不思議な響きの名前で呼び合う風習があることを発見!南国の島暮らしに息づく“もうひとつの名前”の謎と魅力に迫る。さらに“一家の伝統が刻まれた”お名前や、“一族の結束を強める”お名前も登場。 沖縄の女性の名前には、「ウシ、カマ、ナベ、カマド、ツル、カメ、マツ、ウトといったものが比較的多く見られる」(寿岳1979:132-133) ツル、カメ、マツといった名前は、縁起のいいものとして本土にもその名を持つ人が存在するが、ウシ、カマ、ナベ、カマド、ウトは、いずれも本土ではなじみのない名前である。朝岡(1993)によると、沖縄ではカマドは「火の神」とされている。また、昔、沖縄では、カマとカマド、カマとナベがそれぞれ同じような意味合いを持っていたという。つまり、カマドが火の神であることから、それに類似するカマやナベも火の神と結びつき、宗教的にあがめられる存在になったのではないかと推測することができる。また、ウトに関しては、寿岳(1979)が、「祖先の霊に線香を上げて合掌することを「ウートートー」等ということがあり、そこから出たものとも考えられる」(寿岳)1979:133)と述べている。以上のことから、沖縄特有の女性の名前は、宗教的な意味合いを含むものが多いと考えられる。 ここで私は、あることに気が付いた。それは、「ナヴィの恋」という映画だ。「ナヴィ」というお婆さんの沖縄が舞台の映画を見たのは、もう20年近く前のこと。変わった名前と思っていた。そうか、このナヴィとは、鍋のことで、あのお婆さんのワラビーナ(童名)だったのか!!■日本人のおなまえっ!■は、前編と後編が再放送される!!★8月15日(火) 午前0時10分 人名探究バラエティー 日本人のおなまえっ!【沖縄・前編】★8月22日(火) 午前0時10分 人名探究バラエティー 日本人のおなまえっ!【沖縄・後編】名前で旅する沖縄!■八重山諸島に行った時のblog■■沖縄:は行とパ行■■八重山諸島のトリビア■■与那国の古代文字:カイダ文字■■「月刊やいま:古井戸の記憶■・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.08.11
コメント(6)
■毎月1日・15日は「ハレ」の日■仕出し屋が商家のすべての「ハレの日」を記録。明治時代までは、料理人が「ハレの日」当日に食材を揃えて当の商家へ行き、その家の台所で腕を振るって その家に伝わるハレの日用の食器に盛り付けました。ハレの日は毎月1日・15日とする家が多く、赤飯と魚が食卓にあがりました。特に職人をかかえる親方は小鯛の頭付き塩焼きに赤飯、酒などを職人にふるまうことを習わしとしていました。■15日は満月というので覚えやすい、街灯などがない時代、盆踊りなども月明りがたよりだったのだろう。■江戸時代の商家や職人は、一般に毎月1・15・28日を休日にすることが多かったというのは、1日と15日が「ハレの日」となっているからだろう。いや、休む口実として「ハレの日」を作ったのかもしれない。■1月15日の「小正月」お盆は8月15日前後だし15日の「ハレ」は今も残っている。■船場の「ハレ」と「ケ」■いわゆる「ケ」とは「日常」、「ハレ」とは毎月の節句や行事、慶事や法事の際の「非日常」を指します。明治時代の民俗学者である柳田國男によって見出されました。日頃の食事でも食べたいものを食べられるようになった今と違って、昔は「ハレ」と「ケ」の食事は全く別物で、 そのための器もハレの日用であり、日常的には用いられませんでした。江戸時代のハレの場においては、衣食住や振る舞い、言葉遣いなどを、ケとは画然と区別したそうです。今回は船場の人々の「ハレ」と「ケ」を、食文化を中心にご紹介、また現在の五感・吉野・神宗から「ハレの日」に贈りたいギフトやおもてなしを紹介します。■船場の「ハレ」と「ケ」■■毎月1日・15日は「ハレ」の日■は、■カフェ「五感」■でもらったパンフレット。■Discovery SENBA 船場ものがたり■2017年春号 Vol.3・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.07.01
コメント(0)
先日、水上バスに乗りに■八軒屋浜■に出かけた。江戸時代、水上バスの船着き場は、船宿などが8軒並んでいたことから「八軒家浜」と呼ばれるようになった。 京(伏見)と大坂を結ぶ「三十石船」と呼ばれる船のターミナルとなるなど、淀川舟運の要衝として栄えた。八軒屋浜を出た三十国船が枚方付近を通る時、餅・汁・酒などを商っていた小舟で、“餅くらわんか”“ごんぼ汁くらわんか”などと汚い言葉で食べ物を売りにきた舟があり「くらわんか舟」と呼ばれるようになった。 くらわんか舟で使用されていたのが「くらわんか茶碗」。くらわんか茶碗の高台が高いのは、揺れる船の上で安定感を出そうとした形だそうだ。 へえ~~!!知らなかった・・・!!・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.05.25
コメント(0)
2017年5月14日(日) のテレビのバラエティ番組「フルタチさん」は方言の特集だった。方言で馬鹿のことを「宝物」という地方があると言っていた。調べてみると、■あった。■1「たからもの」について下記資料に記載があります。宝者。無能の者。小ばか者。愚人、無能者を嘲る言葉。宮城のほか、青森県南、岩手九戸郡、山形、秋田鹿角郡などでも同じ方言が使われるとあります。(略)「宝物だが反対を意味し、無能・馬鹿・道楽者・怠け者等を言う」とあります。(略) 私は、これまで「アホバカ」について書いてきた。■おしゃれ手紙:方言・あほう■「宝物」というのは、はじめて!!考えてみたのだが、これは、北海道などで使われていた、言葉★タクランケが変化したものではないだろうか?タクランケは「タクラタ」の変化したもの。タクラタ→タクランケ→タカラモン→タカラモノ→宝物と変化したのではないだろうか。タカラモンのモンは、バカモンなどと同じと考えられる。・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.05.15
コメント(0)
■2月28日(火)■ワンガヌイの町を通ってタズマン海に注ぐファンガヌイ川は、19世紀から20世紀中ごろにかけては≪ニュージーランドのライン川≫と呼ばれ、水上輸送で賑わったのだそうだ。その河のほとりに緑地がある。のんびりと散策していたら、こんなものがあった? あれ?卵?ふーん?でも、なんで卵なんやろ・・・??? 町を出てから気が付いた。「モアの卵だ!!」ワンガヌイにある「ファンガヌイ地方博物館」は、巨鳥モアに関するコレクションでは世界屈指を誇り、5個しか現存しない卵のひとつを展示しているのだそうだ。ああ、ショック、見ていない!!!ショック!!!(3/2・ワイトモにて)■ジャイアントモア(英語: Giant Moa、Dinornis maximus)■は、ニュージーランドに生息していた、飛べない大型の鳥類、モアの一種。和名はオオゼキオオモア(大関大モア)。絶滅種の一つ。「モア」の呼称の由来については、ヨーロッパ人が原住民(モア・ハンターと呼称されるマオリ人以前の原住民)にモアの骨を集めさせた折に「もっと骨をよこせ」(More bones!)と言ったのを、原住民が鳥の名前と勘違いしたのだと言う説を始め、幾つかの巷説が存在する。ちなみにマオリ人はこの鳥の仲間を「タレポ」と呼んでいた。17世紀に大航海時代を迎えヨーロッパ人がニュージーランドを発見すると、先住民であったマオリ族の巨大な鳥についての伝説を知るが、想像の産物だと思われていた。存在自体が「嘘」だと思われていた。マオリ族の伝承だけでこの鳥の存在が伝えられた際は、多くの学者が「どうせ御伽話」と気にもかけなかったが、化石を発見したことで真剣に研究するものが徐々に登場するようになった。「ファンガヌイ地方博物館」に行って、見ておけばよかった、モアの卵・・・。鳥年なのに・・・。_| ̄|○■燕の歌■■鳥の形の籠■・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.04.07
コメント(0)
冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭持て渡るも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりてわろし。 (現代語訳)冬は早朝(が良い)。雪が降った朝は言うまでもなく、(降りた)霜がとても白いときも、またそうでなくてもとても寒いときに、火などを急いでおこして、(部屋の炭びつまで)炭を運んでいくのも、たいそう(冬の朝に)ふさわしい。昼になって、生暖かく(寒さが)だんだんとやわらいでいくと、火桶に入った炭火も白い灰が多くなっているのは(見た目が)よくない。 「枕草子」の冬はつとめての「つとめて」とはなにか?もちろん、早朝というのは、学校で習った。しかし、早朝といわずに、なぜ「つとめて」というのか。■その答え■があったので書いておく。「つとめて」の「つと」の意味が下のとおり。1 ずっと以前から。早くから。「彼は夙にその名を世に知られていた」2 朝早く。「冬はつとめて」の「つとめて」は、「つと」からきたようだ。私は、「冬は遅めに」・・・起きる。_| ̄|○ 今日は、節分。春は名のみの風の寒さよ。 テレビでは、青いジャケットで漫才をする、昭和をまとった漫才師■銀シャリが■青いジャケットならぬ、青いダウンを着て寒そうに街歩きをしていた。 ところで、■「枕草子」の名前の由来■がここにかいてある。 内大臣伊周が妹中宮定子と一条天皇に当時まだ高価だった料紙を献上した時、「帝の方は『史記』を書写されたが、こちらは何を書こうか」という定子の下問を受けた清少納言が、「枕にこそは侍らめ」(三巻本系による、なお能因本欠本は「枕にこそはし侍らめ」、能因本完本は「これ給いて枕にし侍らばや」、堺本と前田本には該当記事なし)と即答したので、「ではおまえに与えよう」とそのまま紙を下賜された…と記されている。「枕草子」の名もそこから来るというのが通説であるが、では肝心の枕とは何を意味するのかについては、古来より研究者の間で論争が続き、いまだに解決を見ない。 枕の意味について8種類の説を紹介したが、そのうちの代表的な説を以下に述べる。1.備忘録説:備忘録として枕元にも置くべき草子という意味(顕昭所引教長卿註で説かれたのをはじめ、近世の契沖・村田春海らに継承され明治まで広く支持された説)2.題詞説:歌枕・名辞を羅列した章段が多いため(「枕」を「枕詞」「歌枕」などの「枕」と同じく見て、内容によって書名を推量した説で、『磐斎抄』『春曙抄』などに見える)3.秘蔵本説:枕の如く人に見すまじき秘蔵の草子(関根正直説)4.寝具説:「しき(史記→敷布団)たへの枕」という詞を踏まえた洒落。・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.02.03
コメント(1)
■奈良県はなくて堺県■があった時代があった。堺と奈良は一本の道で古代から繋がっていたのだ。堺と奈良を結んでいた日本最古の管制道路、「竹ノ内街道」。その竹ノ内街道には、地名を読みこんだ歌があるというのを聞いたのは、もう30年ほど前。しかし、一部しか知らなかった。1世紀前から大正まで歌い継がれてきたが昭和に入り忘れ去られていた、竹之内街道わらべ歌が1世紀ぶりに復活した!!■竹ノ内街道わらべ歌 ■雨が降る降る古市で 傘を借る借る軽里で 馬に乗る乗る野々上で馬が死ぬ死ぬ新田(埴生野)で ゴロっと落ちたら*五軒家*の坂で金は樫山持って郡戸(こうず) 煙草一服飲む野村丹南松原麦どころ 1石まいて八斗取り *せんど*(船堂町)歩いてまだ蔵の前(蔵前町)足にまめづか(大豆塚町)できました。■竹内街道(たけのうちかいどう)は、■大阪府堺市から東へ向かい、二上山の南麓・竹内峠を越えて、奈良県葛城市の長尾神社付近に至る約26 kmの街道である。羽曳野市の白鳥交差点から葛城市の竹内集落付近までの区間は、そのほとんどの区域が国道166号に指定されている。二上山の南麓を通って、大和国と河内国を結んだ古代の幹線道路の一つ。日本最古の官道といわれる。大阪府堺市大小路から竹内峠を通り、奈良県葛城市に所在する長尾神社までの約26 kmの道が現存しているが、両端の難波、飛鳥とも市街地になっていることから、かつて幅30 mあったとされる飛鳥時代の大道の面影は残されていない。竹内街道の名は、奈良県葛城市にある竹内集落を通って竹内峠を越えていくことに由来する。一説には、聖徳太子が小野妹子らが中国大陸への使者として派遣された遣隋使が帰国の際に同行してくる大陸からの使者が通るために、立派な道路が必要だと考えて整備したものだといわれる。現在の竹内街道は、大部分は推古天皇時代の官道と重なっている。東側は奈良盆地南部を東西に横切る官道横大路に繋がっている。 かつては丹比道(たじひみち)と言われた。丹比野を横断するのでその名が付いたと推定されている。飛鳥時代には、遣隋使の使節や留学僧が往来し、難波から上陸した大陸の中国や朝鮮の先進文化は、竹内街道を通って大和へ伝えられ飛鳥文化の発展をもたらしたほか、シルクロードから海路を通って伝来した仏教もまた、竹内街道を通って大和へ伝わり、日本文化のいしづえとなったといわれる。●地名に合わせて歌詞を作っている。●この歌に歌われた地名で*五軒家*という地名だけがどこか分からない。●*せんど*の意味「何度も何度も」という大阪弁の古語。■竹ノ内街道■●江戸時代には、お伊勢参り、大峰詣、當麻詣などが盛んになり「宗教の道」として、街道沿いには道標が建てられ、旅籠や茶店などが軒を連ねました。●明治には、大阪南部が堺県となりやがて堺県が奈良県を併合すると物資を運ぶ「経済の道」として街道の重要性がましていきます。そのため竹内峠では大改修が行われました。●官道として整備されたのは上記の通り7世紀初め頃であるが、二上山の西麓(現在の大阪府太子町)には4世紀から5世紀にかけての陵墓・古墳などの遺跡が数多く残っているため、既にかなりの人々の往来があったと思われる。・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2017.01.10
コメント(0)
先日行った、大阪府羽曳野市にある■吉村家住宅■で倉庫の片隅に明治時代の木で出来た「お知らせ」のようなものが残っていた。 見ると、「堺県」と書いてあった。このあたりは、堺県だったそうだ。明治時代には堺県というのがあったということは知っていたが、この辺りもそうだったのかと思い帰ってから、堺県について調べてみた。■かつて堺県があり、奈良県がなかった時があった!■奈良では今年(平成22年―西暦2010年)を、「平城遷都1300年」と称し、さまざまなイベントを繰り広げる計画があります。 また、奈良はシルクロードの東の終着点としても重要な意味を持ち、人類共通の文化遺産であるシルクロードが世界遺産に登録されるという話もあるそうです。奈良=大和の国は、古い歴史に彩られ、日本最古の政治の中心地であり、私たち日本人の心の故郷であることは、誰しも疑いのないことだと思います。 倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(やまこも)れる 倭しうるはし (日本書紀に第12代景行天皇の望郷歌とされている和歌) まほろばとは、「素晴らしい場所」「住みやすい場所」という意味の日本の古語。この和歌からも察せられるように、古代の人達が奈良を日本の中心地として国づくりをすすめ、やがて京都へと都を移したものの、その後も奈良と京都が日本文化の根源であり続けています。ところが、驚いた事に、この「奈良」が県名から消えた時期があるのです。幕末の動乱期(明治維新)に「廃藩置県(明治4年7月 3府302県が成立)」が行われ、更に その年11月に 3府72県に統合、そしてその後 現在の府県制が定着するまでに、二転三転の大変動(組み替え)がありました。■明治元年5月に、摂津・河内・和泉の三国は大阪府として発足しましたが、■明治元年6月には和泉国を分離して「堺県」(今は無い)が設置されました。■明治4年に堺県は、さらに河内国14郡つまり淀川の南を取り込み大阪府よりも大きな県になりました。■明治9年には奈良県全部を統合してしまう事になります。この時点で名誉ある 誇り高き奈良県という名前がなくなるのです。■明治11年には、全国的に区郡制がしかれ、堺県下には、1区9郡が置かれました。1区は堺区でそこには区役所が置かれ、9郡は湊、岸和田、古市、八尾、枚方、奈良、三輪、御所、五条の各郡で、それぞれ郡役所が置かれたのです。気の毒な事に、奈良市は「堺県 奈良郡」となりました。やはり、これには大分無理があったようで、■明治14年になると堺県は全部廃止(堺は大鳥郡 堺)となり、奈良もろとも大阪府に併合されます。■明治20年11月には、やっと奈良県が大阪府より分立され、奈良市は奈良県 添上郡 奈良町となります。奈良県は再び奈良県にもどったのです。■明治23年にほぼ現在の府県制、群制度が確定します。堺県が存在したのは明治元年から14年まで。奈良県が史上から消えたのは明治9年から明治20年までという事になります。 奈良はシルクロードの東の終着点というが、大陸から、はるばると来た船が最初に着く港が堺だった。そういえば、明治10年、西郷隆盛の西南役(えき)が起きた時、明治天皇は奈良の■今井町■にいた。明治天皇は、この今井町に泊まっていた時、その事を知った。みんな大慌てで、今井町を発ち、馬車で堺まで。堺から船で大阪へ。大阪から川船に乗って京都へ行き、御所に陣を張ったのだそうだ。このように、奈良と堺は近い。今でこそ、古都奈良は観光地として有名だが、江戸時代には、小さな田舎町だったという。一方、堺は、全国的に有名な町だった。堺に近い奈良が堺県に取り込まれるのは頷ける。・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2017.01.08
コメント(2)
奈良の素敵カフェ■くるみの木■主宰者・石村由起子さんの丁寧な暮らしがテレビで紹介されていたので見た。彼女は、食器を洗うと布巾にふせ、それから布巾でふいて「すぐ食器棚になおすんです」と言った。「片付けるんですね」と聞いていた人が確かめた。「そう、方言ね」と石村さん。そうか、関東では、片付けるというのか・・・と改めて思った。西日本では、「なおす」が多いと思って調べてみるたらなんと■資料によれば、■すでに江戸時代後期には江戸の 「しまう」と大阪の「なおす」の対応を指摘していた人がいたというから感心してしまう。そして、方言のサイトに巡り合えた!!■『女子大生でも気づかない方言』■ヾ(*´∀`*)ノ■関西人が標準語だと思っている関西弁■ 関西では、他に「なおす」の外に■片付ける、仕舞う■がある。「直す」は西日本全般で使われますよ。 「片付ける」を「直す」というわけではなく、直す・片付ける・仕舞うを使い分けています。■直す■元の場所・姿・形に戻すこと(本をなおす)もとあった本棚の所定の場所に戻す■片付ける■整理整頓をする事 (本を片付ける)本を並び替えて整理整頓する■仕舞う■物事をやめること(本を仕舞う)読書を止める正月も5日。そろそろ、正月の食器を仕舞おう。*写真は、「くるみの木」。 それにしても、石村さんは、忙しい人なのに、なんであんなに、ゆったりとした暮らしが出来るのだろう?また、道具が大好きで、古いものでも大事にしているのに、あんであんなにキレイに暮らせるのだろう?私など、捨てても捨てても、沢山の物が溢れている部屋で暮らしているのに・・・。 ■くるみの木HP■■住所:〒630-8113 奈良県奈良市法蓮町567-1■アクセス 近鉄奈良駅orJR奈良駅より奈良交通バス「西大寺行」または「航空自衛隊行き」に乗車。 「教育大附属中学校前」下車。 踏切方向に徒歩3分。・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2017.01.05
コメント(2)
12月10日放送のNHK■ええとこ■という番組を途中から見た。今回は、滋賀県の比叡山のふもと。::::::::::::::::~大きな山に守られて ~滋賀・比叡山 ふもとの旅~古来、聖地として崇められてきた比叡山。その麓には様々な伝統が残る。最澄が唐より持ち帰ったという「坂本菊」を育てる菊農家が振る舞うご馳走。比叡山の寺の修復を代々手掛けてきた屋根葺きや瓦作り、琵琶湖伝統の和舟作りの職人技。古くから京都へ納めてきた絶品の吊るし柿は生産の真っ盛り。そこかしこに残る古い景色や仕事を通じて、比叡山に感謝し共に歩んできた人々の暮らしを巡る。:::::::::::その中で、琵琶湖の和船を作る人を紹介していた。その人の使う言葉の中に「あわい」というのがあった。船を作る時、板と板の「あわい」に詰め物をして・・・というように使っていた。「あわい」、「あはひ」!!!「あわい」=「あはひ」は間という意味の古語だ。 この言葉を習ったのは高校生の古典の授業で「平家物語」の「那須与一の扇の的」中に出ていた。私は、当時、必死で暗記したものだが、古典の言葉が、今も残っていることに感激した。和船を作る人は、今は、たったひとりだそうだ。和船を作る技術も、「あわい」という言葉も、やがて消えていくのだろう。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」だ。■平家物語:那須与一■矢ごろ少し遠かりければ、海の中、一段(いつたん)ばかりうち入れたれども、なほ扇のあはひ七段ばかりはあるらんとこそ見えたりけれ。ころは二月十八日の、酉(とり)の刻ばかりのことなるに、をりふし北風激しくて、磯打つ波も高かりけり。舟は揺(ゆ)り上げ揺り据(す)ゑ漂へば、扇も串に定まらずひらめいたり。沖には平家、船を一面に並べて見物す。陸(くが)には源氏、くつばみを並べてこれを見る。いづれもいづれも晴れならずといふことぞなき。・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.12.10
コメント(0)
かつて、北前船で賑わっていた岡山の■下津井港■に行った。•待てば海路の日和あり•井の中の蛙大海を知らず •海千山千(うみせんやません) など、海の諺は多い。「港で船をわる」という諺は、去年辞めた会社で、私より、年長の女性が、使っていたからだ。長年、うまく出来ていたことが、ダメになるという時に使っていた。具体的には、「ここまでやったんやから、港で船をわられへん」と最後までやると言っていた。「長い荒波をくぐって、やっと港が見えた。ここまで来れば安心だという時に、船が壊れたり事故が起きた」という意味のように思えた。 今回、この記事を書くにあったって調べてみたら、「港で船をわる」は「川口(かわぐち)で船を破る」ともいうことが分かった。そして、意味も二つあることが。■川口で船を破る ■1 《長い航海を終え、港付近の川口まで来たところで船を損なう意から》成功する直前で失敗することのたとえ。2 《長い航海に出ようとするときに、港付近の川口で船を損なう意から》さあこれからというときに失敗することのたとえ。2番目の方は、今回ではじめて知ったことだ。★豊洲移転まで、あと数ヶ月で、盛土をしていないわ、地下に水が湧き、その水が汚染していた、豊洲移転問題。これも「港で船をわる」かもしれないが、これまでの、悪事が分かってよかった。・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.11.20
コメント(0)
岡山県倉敷市児島(旧児島市)はジーンズづくりが盛んに行われている。■旧野崎家住宅■あたりでも、車体にジーンズが描かれたバスを見た。残念ながら、写真を撮りそこなった。(ノД‘)■ジーンズバス画像■■ジーンズバス YouTube■♪音が出ます!なぜ、この地方は、ジーンズの産地になったのか??それは■干拓■と大いに関係がある。■1■農地確保のため、干拓をした。■当時岡山一帯を治めていた戦国武将、宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)■による岡山城・城下町普請と同時に、農地確保の目的から大規模干拓が行われました。 今から400年以上も前、1583年のことです。■2■綿を植えた干拓で出来た土地は、田畑には向かない。そこで、江戸時代には、塩分に強い綿花が作られた。■3■綿を使って、繊維産業が発達。その綿花を使って 大正、昭和時代のころ、倉敷市児島では、学生服の生産が盛んになった。全国の学生服のほとんどが、綿花一大生産地の岡山県で作られるようになった。「クラボウ」という名前で有名だったのを覚えている。■4■学生服が下火になる。化繊が現れたり、制服自体が見直されたりして、学生服を中心とした繊維が下火になった。■5■次の作戦に出る。学生服が下火になったので、なんとかしないとと考えた。■6■そうだ、ジーンズ作ろう!!戦後、アメリカの影響でジーンズが流行。児島の綿花を使って、ジーンズを作ることに。その結果、岡山の瀬戸内では、ジーンズの生産が上がり、それを宣伝するために、ジーンズバスが走るようになったそうだ。綿が作られた歴史を教えてくれながら、■玉島■のガイド氏が、記念にと綿の種をくれた。・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・大晩年 [ 永六輔 ]価格:1404円(税込、送料無料)
2016.11.17
コメント(2)
■10月27日(木)~29日(土)、■岡山県・倉敷市のあたりに行った。瀬戸内海に面した、岡山県には、「島」がつく地名が多い。玉島、児島、水島・・・。これらは、今は島ではないが、かつては、島だったそうだ。瀬戸内海に流れ込む川が砂を運び、砂州を作り、そして干拓をして、陸地を広げていったと■玉島■のガイド氏が教えてくれた。■9月■に、紀伊半島に行った時、陸と島が繋がった所に行った。その時、陸と島が繋がることを「陸繫島(りくけいとう)」というと聞いたのを思い出したが、どう違うのだろう?そういえば■広島■も「島」がつく。*天満川*本川*元安川*京橋川* 猿猴川と広島市は太田川水系の川が流れている。広島市は、その川の中に浮かんだ島といえる。・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.11.16
コメント(4)
スコットランド・エディンバラに行くには日本から直行便がないので、★オランダの「アムステルダム・スキポール空港」経由で行く。この飛行場は、海面より-3mにある。■「Schiphol」■の"Schip" は船、"hol" は穴という意味が示す通り、昔一帯は湖だった。なるほど・・・★イギリスには、リバプール・ジョン・レノン空港というのがある。へぇ~~・・・。 まあ、人名の空港は、★JFケネディ空港(アメリカ)があるし、★パリ=シャルル・ド・ゴール空港もある。★マザー・テレサ空港、★ヨハネ・パウロ2世空港、 ★ローマ・レオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港・・・。あまりの■人名のついた空港■にビックリした。これった誰が決めるのだろう???日本にも、(▲坂本龍馬像)★高知龍馬空港(りょうまくうこう)がある。(^▽^)/・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.07.14
コメント(4)
今や、ミシュランは「美味しいお店」の代名詞だが、ほんとは、タイヤの会社だったって知ってますか?■ミシュラン(仏: Michelin)■は、世界で初めてラジアルタイヤを製品化したフランスのタイヤメーカーである。2005年にブリヂストンに抜かれるまでは世界最大手のタイヤメーカーであった。同社の発行する、いわゆる「三つ星」評価付きの旅行ガイドブック『レッドガイドブック』を指す場合も多い。 この人間のようなのは、ビバンダム(Bibendum )という名前だというのは、今回はじめて知った。「くまもん」や「せんとくん」より早く出来た世界一古いマスコットだそうだ。■マスコットのビバンダム(Bibendum )■世界で最も古いトレードマークの一つとして有名で、ミシュランを語る上ではずせない存在の一つでもある。通称「ビブ」。日本語サイトでは「ミシュランマン」とも。お化けのような格好は実は彼自身がタイヤでできているためであり、昔は車のタイヤがパンクした現場で身の一部を供しているという、まるでアンパンマンの一幕のようなイラストが使われた広告もあったようである。彼の体の「タイヤ」の幅も昔に比べ広くなっているのは、時代とともにタイヤの幅が広くなったことに由来するとされる。また昔はモンスターのような恐ろしい外見だったが時代とともに変化し、最近は愛嬌のあるデザインになっている。今回、「スコットランド」に行くので、ミシュランの地図を買った。ちなみに、私はミシュランに載っているお店には行ったことがない。(ノД‘)(ビバンダム(Bibendum )彼の体の色が白いのは、当時はまだ炭素によるゴムの強化が発見されておらず、タイヤの色も白かったためである。知らなかった!!!・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.07.09
コメント(0)
6月7日~8日、御食国(みけつくに)、福井県・若狭と鯖街道に行ってきた。■6月は環境月間■なのに、車を使って・・・。一応、エコカー認定で買った車です。m(_ _"m)■御食国(みけつくに)■とは日本古代から平安時代まで、贄(にえ)の貢進国、すなわち皇室・朝廷に海水産物を中心とした御食料(穀類以外の副食物)を貢いだと推定される国を指す言葉。律令制のもと租・庸・調の税が各国に課せられたが、これとは別に贄の納付が定められていたと考えられる。『万葉集』にある郷土礼讃の歌に散見され、『延喜式』の贄の貢進国の記述、平城京跡から出土した木簡の記述などから、若狭国・志摩国・淡路国などへの該当が推定されている。 福井県・若狭(わかさ)は、鯖街道(さばかいどう)の出発点としても知られている。古くは大陸との交流や、北前船が寄港したり、福井県はおおいに賑わっていた。その賑わいの多くは、漁業だったのか、「福井」の「井」に「、」をつけて、「福丼県」 ふくどんけん・・・。_| ̄|○・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.06.11
コメント(0)
■5月31日奈良県の「ならまち」に友人と行ってきた。角振町、椿井、東城戸、南城戸、京終町・・・。奈良は古い町なので、地名も古いのがある。陰陽町(いんようちょう )という地名時を司り「奈良暦」とか「南都暦」といわれていた暦を作っていた陰陽師(おんみょうじ)が住んでいたとか。 ■ブラタモリ■でもやっていたが、奈良は、坂が多かった。「奈良」の語源は、「平らに“なら”された土地。」奈良盆地というくらいだから、まわりを山に囲まれていたから、坂が多いのだろうか?「ブラタモリ」見たのに、忘れた・・・。_| ̄|○町を歩いていると、大きな町屋があった。土間には、線路がひかれている!!よほど大きな商売をしていたのだろう。あおによし奈良の都は咲く花の匂ふがごとく今盛りなり小野老小野老(おののおゆ)九州大宰府の地から故郷の奈良を想う望郷の歌。大宰府と奈良の距離は今の日本とヨーロッパどころではなかったのだろうから、「ちょっと、行ってきます」という感覚ではなく、さぞ都が恋しかったことだろう。奈良が都になったのは、西暦710年、8世紀前半から。■ひとりブラタモリした大津神社■やそのそばを流れていたという■古市大溝■は、7世紀までにはあったというから奈良時代よりも古いものだ。・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.06.03
コメント(0)
高低差がものすごい、■大津神社■の裏。大津神社の由来は、「津」つまり、水だからきっと川があったに違いないと思っていた。しかし、名前の由来は「津氏」の神社ということが分かった。そして、10年ほど前に、ここに運河が流れていたことを知った。今はなき運河の名は、「古市大溝(ふるいちおおみぞ)」。 古市大溝は地表に残るわずかな痕跡や、発掘調査の成果を手掛かりにすると、富田林市の喜志附近で石川の水を取り入れ、羽曳野市の西浦から軽里、野々上、高鷲を経て、島泉附近で東除川(ひがしよげがわ)に合流していたことが推定される。幅20メートル、深さ5メートル以上の溝の両側には、さらに土手を築いたところもあり、人力だけで堅い大地を掘り開く、困難な大工事であったことが想像できる。説明板『河内ふるさとのみち』より。大津神社は、近鉄「高鷲駅」のすぐ南、この道の右側にうつっている緑の所にある。そして、この写真の道の左側には、池がある。「古市大溝」の名残りではないかという説に賛成!!■古市大溝は■全長4kmにもおよぶ古代の運河だった。しかし、その用途は灌漑説、船運説などがあり、意見の一致をみていない。掘削時期については、古市古墳群の南群の築造と古市大溝は密接に関わっていたとして、古墳時代中期の5世紀ごろに築かれたとする意見が一般的である。だが、この大溝を掘削するのに破壊された古墳があることが明らかになってきており、6世紀中葉以降に掘削されたとの意見もある。 このような運河を作ることは、当時としては、古墳と同じくらいの国家プロジェクト。今回の調査?で古市大溝の地形が残っている所があることを知った。失われた川というのは、私の大好物。灌漑説、船運説があるが、幅数メートル、深さ5メートルというのは、やはり船だろうと素人の私は勝手に思っている。■古市大溝■・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.05.25
コメント(0)
5月14日~15日、和歌山県に行ってきた。退職後、故郷の御坊に帰った夫の古い知り合いに会いに行ったのだが、どうせ行くならと数か所廻ってきた。そのひとつに、黒江という町がある。そこを案内してくれたガイドさんの訛り!!普通に喋っているのに、時々、「ざ」が「だ」に変わり、「ぞ」が「ど」になる。方言大好きな私は、そのことを指摘すると、「黒江ことば大番付」という紙をくれた。 和歌山県人は、動揺の「ぞうさん」が歌えないなんていう笑い話になる。♪どーさん、どーさん、お鼻が長いのね~となるのだ。 もっと、おかしかったのが「探偵ナイトスクープ」という番組の依頼。「私の母は、自分の孫の名前が言えません。祥三(しょうぞう)を*しょうどう*と言います。どうぞ、母に孫の名前を呼べるようにしてやってください。」というような内容の依頼だった(名前は私が勝手につけました)。■ザ行とダ行が入れ替わる。■(例:動物園の象→ぞうぶつえんのどう) 泉州と紀州を走る南海電気鉄道の案内放送では、関西国際空港開港時に改められるまで「でん車輌だ席指定、特急サダン、和歌山港ゆきでごだいます」のような発音が聞かれた。 南海電車の放送、聞いてみたかったな・・・。・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.05.15
コメント(0)
映画■ちはやふる -上の句-■を見てから、百人一首に興味が湧いた。以前から、百人一首は好きだけど、特別に勉強をしたわけでもないし同好の士がいないので、離れていた。一首ずつ読み返し、意味や背景をみてみると、「海人(あま)」という言葉に出会った。*わたの原 八十島(やそしま)かけて 漕ぎ出(い)でぬと人には告げよ 海人(あま)の釣船(つりぶね)参議篁(さんぎたかむら)■意味■*見せばやな 雄島(をじま)の海人(あま)の 袖だにも濡(ぬ)れにぞ濡れし 色は変はらず殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)■意味■*世の中は 常(つね)にもがもな 渚漕(なぎさこ)ぐ海人(あま)の小舟(をぶね)の 綱手(つなで)かなしも鎌倉右大臣(かまくらのうだいじん)■意味■ もちろん、3首ともしっていたが、改めて分かったことがある。「海人(あま)」とは漁師のことだ。 そして大ヒットした朝ドラ「あまちゃん」のことを考えた。海にもぐって漁業する「海女(あま)」。これって、昔の言葉からきているのではないだろうか?調べてみると、■海人(あま)■は、海に潜って貝類や海藻を採集する漁を(専業あるいは兼業で)職業とする人。古くは漁師全般を指していた。男性の海人を「海士」、女性の海人を「海女」と区別して記されることがあるが、いずれも「あま」と呼ばれる。ともあった。■じぇじぇ!!■百人一首から「あまちゃん」へ・・・。と感心している間にもうすぐ、「ちはやふる -下の句-」が始まる。たのしみ♪・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.04.23
コメント(0)
3月4日~5日、滋賀県に行ってきた。「急がば廻れの語源、■瀬田の唐橋■を見た。瀬田川の中之島にある「鳥居川水位観察所」というのを見た。■現在の琵琶湖の水位は■、琵琶湖河川事務所が観測しており、琵琶湖の湖内5箇所で観測したデータを平均したものです。このように5箇所の平均水位を琵琶湖水位とするようになったのは平成4年4月からで、それ以前は瀬田の唐橋付近に設置された「鳥居川(とりいがわ)観測所」の水位を琵琶湖の水位として公表してきました。この鳥居川観測所が設置されたのが、明治7年(1874年)2月4日です。その年、日本国内では郵便貯金が開始され、大阪・神戸間に鉄道が開通したほか、東京では、石油ランプの街燈やガス燈が点火した年となっています。 鳥居川地点での水位観測は、136年以上にわたって1日も休むことなく観測がつづけられ、平成22年(2010年)12月27日に観測開始から5万日を超えました。この水位をもとにして、瀬田川洗堰では放流量を定め、琵琶湖の水位を管理し洪水や渇水から人々の暮らしを守ってきました。近年では、琵琶湖の生態系へ配慮した洗堰の操作などを行っており、琵琶湖の水位はますます重要となってきています。現在、鳥居川水位観測所は瀬田川の洪水予報の基準地点として重要な役割を担っています。明治7年に外国人によって、作られた鳥居川水位観測所。ところが明治29年9月、琵琶湖の水位が上がり過ぎ、大水害が琵琶湖湖岸の村を襲った。死者、行方不明者が34名という大参事となった。琵琶湖からあふれた水は、瀬田川に流れ、橋の高さくらいまで水に浸かった。鳥居川水位観察所の建物の壁に青く線が引かれているが、それが水の到達点だ。■湖北の隠れ里、菅浦(すがうら)■も水害にあったのだろうか?・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.04.13
コメント(0)
台所ということばは、平安時代に貴族の家にもうけられていた「台盤所(だいばんどころ)」がもとになっている。台盤(だいばん)は食器を乗せる台。台盤所(だいばんどころ)はその台をおく所だよ。江戸時代の台所のおおくは、床板をはらずに地面がそのまま出ている土間と土間からあがった板じぎの間にわかれていた。土間には、炭やまきで火をおこすかまどや、洗いものをする流し、板じきの間には、食べ物を焼くいろりがあった。かまどで釜や鍋に火をかけてお米をたいたり、いろりで魚などを焼いたりした。流しは板じきの間のいろりのそばで食べたり、お膳にのせて居間にはこんで食べたりした。明治時代には、台所の近くの「茶の間」という部屋で家族そろって食べることがおおくなったよ。台所の様子がガラリとかわったのは太平洋戦争のあとだった。(略)朝日新聞2016.4.3 日本の家には、古代からの歴史があるといわれる。大昔、竪穴住居で暮らしていた人々は、当然、土の上で生活する。 板張りの部屋では、藁の円座をひいて座った。そして、寝るためのものだった畳を敷いた部屋が出来た。 一番上の写真は、滋賀県■日野■の旧家。土間、板の間、畳の間と日本人がたどってきた長い時代をひとまとめにしたようなものだ。日本の旧家には、古代からの歴史がある!・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.04.06
コメント(0)
■急がば廻れ■武士(もののふ)のやばせの舟は早くとも急がば廻れ瀬田の長橋東から京都へ上るには矢橋(やばせ)の港から大津への航路が最も早いとされていたが、反面、比叡おろしの強風により船出・船着きが遅れることも少なくなかった。 瀬田まで南下すれば風の影響を受けずに唐橋を渡ることができ、日程の乱れることもないとして、これを「急がば廻れ」と詠んだものであるという。(▲中島から見た瀬田川)「急がば廻れ」の語源になった、瀬田の唐橋(せたのからはし)は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる橋。全長260m。滋賀県道2号大津能登川長浜線がこの橋を渡る。 勢多の唐橋とも書き、瀬田の長橋とも言われる。東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡る、もしくは南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要がある。瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。(▲絵で見ると大橋と小橋がわかる)唐橋を現在の位置に移したのは織田信長。中島をはさんだ大橋と小橋の形となったのはこの時からと考えられる。明智光秀が本能寺の変で信長を倒すと、架橋奉行の山岡景隆は光秀が安土を攻めようとしたため、唐橋と瀬田城を焼いてこれを阻止した。光秀が仮橋を架けるのに3日かかっている。■瀬田城■*その遅れのために、光秀は敗北したのかも知れない。(▲中島から小橋を見る)千利休が弟子達の集まっている席で「瀬田の唐橋の擬宝珠の中に見事な形のものが2つあるが、見分けられる人はいないものか?」と訊ねた。 すると一座にいた古田織部は急に席を立ってどこかに行って、夕方になって戻ってきた。利休が何をしていたのか訊ねると「例の擬宝珠を見分けてみようと思いまして早馬で瀬田に参りました。さて、2つの擬宝珠は東と西のこれではありませんか?」と答えた。利休をはじめ一座の者は織部の執心の凄まじさに感心した。橋の特徴である擬宝珠は歴代受け継がれており、「文政」「明治」などの銘が入ったものも現存する。▲中島から見た、小橋の橋げた。7~8世紀に架けられた古代瀬田橋の調査も行われた時、発見された遺跡は、韓国のそれに似ているという。渡来人たちの知識や技術が用いられたと考えられている。(「近江湖(うみ)物語四 琵琶湖を制する者」より)瀬田の唐橋は、「日本の道100選」にも選ばれている。日本三大名橋■瀬田の唐橋■・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.03.18
コメント(3)
「とびだし坊や」というのを時々、道路で見ることがある。車の事故を防ぐため、ドライバーへの注意喚起のための看板のようなものだ。「飛び出し坊や」の名を一躍世間に広めたのはイラストレーターのみうらじゅんだという。■ボタニカル・ライフ■のいとうせいこうの親友で「ボタニカル・ライフ」の中でも、みうらじゅんの名前が出てくる。 映画■色即ぜねれいしょん■の原作者で彼の自伝でもある。「マイブーム」や「ゆるキャラ」という言葉作ったのも彼だ。なんか気になる人だ。とびだし坊やは、作ったのが滋賀県だからか関西に多いらしい。■日野市■の後行った町が、「とびだし坊や発祥の地 東近江市」と、でかでかとかいてあった。■色即ぜねれいしょん■「僕」は仏教系男子校に通う高校一年生・「イヌ」こと乾純。彼女なし、もちろん童貞だ。ボブ・ディランに憧れ作曲に燃えてはいても、平凡で退屈な毎日-。「フリーセックスの島行かへん?」。そのひと言から、僕の夏休みはきらめき始める。友達二人とともに訪れた隠岐島で、僕らを待っていたのは…。少年が成長する姿をコミカルに温かく描く、傑作青春小説。【内容情報】(「BOOK」データベースより)みうらじゅん(ミウラジュン)1958年、京都生まれ。武蔵野美術大学在学中に「ガロ」誌上で漫画家デビュー。以降、漫画やイラストのみならず、エッセイスト、ミュージシャン、映画監督、音楽プロデューサーなど、多岐にわたる分野で活躍を続けている。’97年には「マイブーム」で流行語大賞を受賞。・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・
2016.03.16
コメント(0)
戦国武将といえば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三傑。黒田官兵衛や真田幸村などNHK大河ドラマで有名。先日行った、滋賀県・日野町の■蒲生氏郷(がもう うじさと)■も戦国武将。ドラマで名前は聞くが主役になったことがない。日野町をガイド氏について回った時に、いろいろと聞いたことで、がぜん、蒲生氏郷に興味が湧いた。調べてみると、 近江の土豪から頭角をあらわし、信長・秀吉のもとで才能を発揮。徳川・毛利に次ぐ広大な領地を有する大大名にいたるも急逝した氏郷。キリシタン大名、利休七哲としての交友や、伊達政宗との関係もあった。なんと、凄い人ではないか。以下、すごい人脈や経歴を書いてみた。★織田信長の娘婿「蒲生の息子(氏郷のこと)の瞳は他の者と違う。普通の者ではあるまい。私の婿にしよう)」と言い、娘の冬姫を娶らせる約束をしたという。 ということは、お市の方は、義理の伯母で、茶々、はつ、ごう姫の三姉妹は、妻のいとこ。★岐阜城での元服の際には信長自らが烏帽子親になった。男子が成人に達して元服を行う際に特定の人物に依頼して仮親に為って貰い、当人の頭に烏帽子を被せる役を務めることが通例とされていた。烏帽子親には主君や一門の棟梁、信頼の置ける地域の有力者などに委嘱する例が多かった。★伊達政宗と度々対立。秀吉が、松坂にいた氏郷を奥州に行かせたのは、氏郷を奥州の要である会津を守護するため、伊達政宗を見張り抑えるためだったのだから、対立はあっただろう。伊達政宗は、氏郷の家臣の家にスパイまで送り込んでいたという。この氏郷の奥州への配置換えは伊達政宗を監視するという意味合いと、氏郷を出来るだけ畿内から遠ざけたい、という秀吉の意志とされる。★利休七哲の中でも氏郷は筆頭。千利休の弟子の武将といえば、一番先に思い浮かぶのが、 古田織部(ふるたおりべ)だが、筆頭は、蒲生氏郷。他にも、キリスタン大名だったこと。息子の嫁が、徳川家康の娘だったなど、戦国時代オールスターが集まっている。 こんな蒲生氏郷だったら、NHKの大河ドラマになりそうなものだが、ならないのは、彼が40歳という若さで亡くなったからだという。氏郷をめぐる戦国時代の人間像を是非、大河ドラマでみたいものだ。天才・織田信長をして、その俊敏にして剛胆な器量に舌を巻かせ、ひそかに「我が後継者」とまで思い定めさせた麒麟児・蒲生氏郷。江州日野六万石の小領主の伜から身を興し、信長と秀吉というふたりの天下人に仕え、遂には会津若松城主として92万石の大名に成長しながら、天下への野望は早世によって潰えた。数々の戦功とともに、人心掌握の術にも長けた名将の、波瀾に満ちた40年の生涯を活写する長編歴史小説。日野は、薬を売り出す前は、「日野椀」というお椀がウリで「塗師」の家が残っていた。また、以前の町名に「鉄炮町」という名前の地区があったが、現在は「鍛冶町」に名を変えている。戦国時代は、この辺りは、戦場だっただろうから、「鉄砲」を作っていたというのもうなずける。・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.03.15
コメント(0)
■滋賀県・蒲生郡(がもうぐん)日野町■は、戦国武将、蒲生氏郷(がもううじさと)生誕の地だ。ガイド氏にいろんなことを教えてもらった。★蒲生氏郷(がもううじさと)が最初に住んだのは、日野城。本能寺の変後、明智光秀は、安土城を攻略。次は日野城、というところを、危うく難を逃れた。★次の城は、石高を加増され「松坂城」。初名は賦秀(やすひで)といったが、この頃、秀吉の「秀」を下に置くのはいけないと気を使って氏郷(うじさと)に改名。★三度目は、会津若松「鶴ヶ城」。のちの検地・加増により91万石の大領を与えられた。2番目に治めた松坂と3番目の若松には「松」という字が共通している。これは、蒲生氏郷が、新たにつけた地名だそうだ。これは、■馬見岡綿向神社(うまみおかわたむき)神社■の参道の周辺にあった「若松の森」に由来しているという。「伝若松の森跡」には「・・・古書によれば、江戸時代の中期に多くの松が枯れ、伐り除かれて人家が建ったと書かれている。現在の松樹は名将氏郷が遠く会津の地より故郷を懐かしんだ名残りの松である。」と書かれている。蒲生氏郷(がもううじさと)は、日野の地を離れれも、この松林が恋しかったらしい。会津若松に造られた城は、幕末の白虎隊で有名な鶴ヶ城である。氏郷の幼名、鶴千代にちなみと蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで鶴ヶ城と名付けられたそうだ。▲写真は長崎県の■南島原市■。■蒲生氏郷■・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.03.14
コメント(0)
1月19日(火)■クライストチャーチ■の宿はYMCAだった。YMCAクライストチャーチは市内でも一番の観光地のハグレー公園の真ん前、トラムの停車駅もすぐという便利な所にあった。真新しい建物だけれど、これは2011年2.22の地震の後に出来たものだろう。以前の建物の瓦礫を集めた台のようなものが庭に置かれていた。泊まっていない人も使えるカフェが隣接していて便利。 「YMCA」の意味は、Young Men's Christian Associationの頭文字をとったもの。私世代には、西城秀樹の歌「ヤングマン」で歌われる「♪ワーイエムシーエー」が頭に浮かぶ。この歌は1978年アメリカの「ヴィレッジ・ピープル」というグループの曲。「ヴィレッジ・ピープル」は、もともとゲイをコンセプトに、メンバーが集められた。YMCAには、ユースホステルのようなドミトリー(相部屋)の部屋もあるため「ゲイの巣窟」とされ、「Y.M.C.A.」はゲイを指すスラングなのだそうだ。へ~~!!知らなかった!!!■YMCAクライストチャーチ■は市内中心部に位置し、植物園、カンタベリー博物館、ハグレイ公園すぐそばにある自炊式アパートメント、個室、ドミトリールームを提供しています。敷地内の無料駐車場、24時間対応のフロント、敷地内のレストラン、バー、カフェを利用できます。YMCA Christchurchからクライストチャーチ駅まで車で13分です。トラベルデスクでチケットの予約を手配し、ツアー情報も提供しています。追加料金にて、Wi-Fi、会議室、ランドリー施設、ヘルス&フィットネスセンター(スカッシュコートあり)を利用できます。新しく改装されたキッチンで自炊も可能です。・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.02.15
コメント(0)
1月7日に関空から出発し、ニュージーランドに行き、1月22日に日本に帰った。クライストチャーチ、オアマル、ダニーデンとニュージーランド南島の太平洋側を南下して、中央部のクイーンズタウンに行き、ワナカからレイク・テカポ(テカポ)に行き、クライストチャーチへ帰る。その間、何回、カフェに入っただろう。疲れた時の一休みやトイレを借るために、何度もカフェを利用し、その度に、夫はコーヒーを私は紅茶を頼んだ。コーヒーには、どの店もみんな、このような模様、ラテアートがある。ニュージーランドには、沢山の鳥がいて、お札にも鳥が・・・。コーヒーの砂糖にも鳥の絵。コーヒーの模様って、鳥の羽?地元の人に聞いてみたら、これはシダだそうだ。 ニュージーランドはシダ植物の宝庫であるが、とりわけ樹木ほどに成長するシダ植物が自生しているのが特徴である。銀白色の葉は神秘的でマオリ人の信仰の対象とされた。「ニュージーランド」のアイデンティティの象徴であり、1956年から国章に使われている。シルバー・ファーンの葉を、黒地に白にスタイライズした、シルバー・ファーン・フラッグ(Silver fern flag)は、オールブラックスをはじめとするニュージーランド・ナショナルチームのロゴに使われており、1998年にはマリー・ハスラー文化大臣により新国旗として提案された。ニュージーランド航空が機体にも、シダが描かれている。ラグビー・NZ代表のユニフォームにも、シダが・・・。(▲■アロータウン■の素敵なカフェ)ニュージーランドでは、国旗が変わるそうだが、その国旗もシダ採用されるようだ。シダは、キーウィとともに、ニュージーランドのシンボルのようだ。・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.02.09
コメント(0)
幕末の京都に生まれ、女性参政権がなかった明治期に、炭坑事業、銀行や生命保険事業に従事し、日本で初めての女子大設立に尽力した広岡浅子の生涯、NHKの朝ドラ■「あさが来た」■を楽しみに見ている。あさは、京に生まれ、大坂に嫁ぐのだが、当時の交通は、徒歩か船。京から大坂までは、下りだと半日で行けた。多くの船が行きかっていただろう。京の鴨川の近くを流れる高瀬川をご存知だろうか?かつては、ここも荷物の運搬に使われていた。しかし、小舟が一艘しか通れないほどの川幅。すれ違うことが出来ないのだ。だったらどうするか?下り、京から出て行く舟は午前中、午後からは、上り、大坂からの舟というように決めていたそうだ。数年前■大阪あそ歩■の京都版に参加した時に聞いたトリビア。また、大坂から京に行くのは徒歩だったようで、ドラマの中で、「まぁ、まぁ、わざわざ、舟で来てくれたんでっか?」と聞いていた。京から大坂に行くのは、舟、その反対は、徒歩というのが、江戸時代の京・大坂の交通。近い方だったんだろうが、日帰りは無理。今は、JR、阪急、京阪、近鉄と選べ、JRなら30分以内。日帰りどころか、通勤距離だ。■淀川の船運■ 現在のように道路や鉄道など陸上の交通機関が整備されていない時代に、船による水上輸送は、人や馬による陸上輸送よりも安定した輸送方法でした。淀川のように比較的流れが穏やかで、豊かな水量を持つ川は、水上輸送に適していたため、最盛期の江戸時代には京―大坂間で人や荷物を運んだ*「三十石船」*や、枚方あたりで船客に飲食物の商売を行う「くらわんか舟」など1000艘以上の船が行き交いました。 ■江戸時代に淀川と並んで■京―大坂を結ぶ交通路として利用されたのは「京街道」と呼ばれる街道でした。京街道は豊臣秀吉が、慶長元 (1596) 年に淀川左岸沿いの京―大坂間に築いた「文禄堤」の上を道として利用したもので、京と大坂を直通する初めての道となりました。江戸時代になると宿駅が設置され主に大坂から京都へ向かう際に利用され、明治時代には国道となりました。京街道には伏見、淀、枚方、守口に宿駅が設けられ、大名行列の武士をはじめたくさんの旅人に利用されました。紀州藩の大名行列が通ったこともありましたが、京街道の利用は、大坂から京へ向かういわゆる「上り」の利用がほとんどでした。これは多くの人が京から大坂へは淀川の舟運を利用したためで、京街道の宿は片道だけ利用され「片宿」と呼ばれました。 **「三十石船」** 京―大坂を結んだ貨客船。江戸時代末期頃には1日平均約1500人と800トンもの貨物を運んでいたといわれています。大きさ:長さ約17m、幅約2.5m定員:船頭4人、乗客28人所要時間:上り (大坂から京) 約1日、下り (京―大坂) 約半日 ・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2016.01.05
コメント(0)
NHK大河ドラマ■花燃ゆ■が12月13日終わった。総集編は12月26日にあるそうだ。最後は、主人公、みわ(ふみ)を迎える、山口県・萩の吉田松陰の家族様子。松陰の兄、杉 民治は、子どもたちに学問を教えていた。その妻は、子ども(生徒)に「た(食)べり。」と握り飯を配る。「たべり」とは、食べなさいという意味。 結婚して、兵庫県、高砂市に住む妹が「たべり」を使うが、山口県でも使われていたのかとビックリ。さっそく調べてみて、またビックリ!「食べり」というのは、北九州、福岡あたりで使われているそうだ。北九州と山口県は近いから、同じ言葉を使うのは当たり前だ。しかし、兵庫県の一部で使われているとは・・・。そして、大阪の泉州地方でも使われているらしい。「たべり」とは、食べなさいという意味と書いたが、北九州の場合は、少し違う。座ってというのに、「座れ」と言わず、「すわり」と言い食べろと言う代わりに「たべり」という。■命令形が「イ段」になるそうだ。■九州一の歓楽街中州でも、初対面のお姉さんたちは「もっと飲み♪」「こっちに座り♪」「これ食べり♪」「また来(き)♪」「もう寝り♪」という。 どれも「イ行」だ!! そういえば、私も使う。「座り」。娘に、ちょっと文句が言いたい時など「ちょっと、そこに座り」という具合に使うのだ。「飲み」も使う。幼児などに、「これ飲み」というふうに・・・。「帰り」。これは、「もう帰って」という意味。「帰れ」という強い命令ではない、弱命令表現だ。 それにしても、「たべり」という言葉が、北九州、山口、兵庫県の一部、大阪の泉州地方で確認されたというのは、驚きだ。・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2015.12.20
コメント(2)
ハマナスは、バラ科バラ属の落葉低木。夏に赤い花(まれに白花)を咲かせる。根は染料などに、花はお茶などに、果実はローズヒップとして食用になる。晩夏の季語。「ハマナス」の名は、浜(海岸の砂地)に生え、果実がナシに似た形をしていることから「ハマナシ」という名が付けられ、それが訛ったものである。ナス(茄子)に由来するものではない。■利尻島(りしりとう)■では、ハマナスを見かけた。その時、ガイドさんハマナスの語源を紹介してくれた。「潮かおる北の浜辺の砂山のかの浜薔薇(はまなす)よ 今年も咲けるや」石川啄木「ハマナスは、「浜梨」だったのだが、東北出身の石川啄木は、「ハマナシ」を「ハマナス」と訛ったのだ。啄木の歌で、一気に有名になり、以後ハマナスとよばれるようになった。」のだそうだ。 それが本当なら、植物の名前を変えるなんて、やっぱり、キミってすごいね■石川くん。■■利尻島ガイドマップ■・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2015.09.19
コメント(0)
■出会いと別れ、踊る島、礼文(れぶん)■を昼過ぎの船で離れ、隣の利尻(りしり)島に渡った。隣といっても、40分くらいかかった。ちなみに、■北海道・稚内から礼文■まで2時間!!利尻(りしり)島に降りてみると、礼文(れぶん)島との違いが分かる。礼文は、高い山がない、樹林が少ないというかほとんどない。それは、日本海からの風があまりにも強すぎて、高い木が少ないのだそうだ。 しかし、利尻(りしり)島では、大きな木が茂っている。それは、利尻富士とよばれる高い山があるから。この山が風を遮って、植物を育ててくれるのだそうだ。 そして、この利尻富士は、北海道のお土産、「白い恋人」の箱にある山だそうだ。「白い恋人」といえば、 吉本興業の「面白い恋人」。利尻富士を大阪城に変えたパロディが面白いと思っていたら、本家、「白い恋人」が■商標登録侵害面白くない!!■と待ったをかけた。これは、真似ではなく、パロディなのに・・・。現在は、関西地方のみで売られているという。■「白い恋人」と「面白い恋人」の写真■しかし、今回の北海道旅行で見てしまった!!! 「黒い恋人」を!!「面白い恋人」はダメで「黒い恋人」はあり??と思っていたら、■静岡の恋人■、■島根の恋人■■白いお台場■まで!!次ぐ次ぐと新恋人発覚!!利尻富士■利尻山(りしりざん)は北海道、利尻島に位置する独立峰で標高1,721m。利尻町、利尻富士町の2町にまたがる成層火山で、利尻礼文サロベツ国立公園内の山域は特別区域に指定され、日本百名山、新日本百名山、花の百名山及び新・花の百名山に選定されている。国土地理院では利尻山(りしりざん)という名称がつけられているほか、「利尻岳」、「利尻富士」、「利尻火山」とも呼ばれる。高山植物が生息し、夏季は多くの登山客が訪れる。・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2015.09.18
コメント(0)
■人魚姫に会った■後、バスであっちこっち、市中引き回し、もとい、市内観光。その中に、ロイヤルコペンハーゲン本社があった。■ロイヤルコペンハーゲン(Royal Copenhagen)■は、デンマークの陶磁器メーカー。正式名称は「ロイヤル・コペンハーゲン陶磁器工房」(The Royal Copenhagen Manufactory)。絵付けはすべて手描きで、製品の裏側にはロイヤルコペンハーゲンのマークと、アーティストのサイン、シェーブナンパーが入れられている。◆トリビアその1◆マークは王冠と三本の鮮かなプルーの波型ラインで構成される。3本の波線は、デンマークを囲む3つの海峡を現し、その上に王室御用達を意味する王冠が輝く。 うちのティーカップ(もらい物)を改めて見ると、ほんとマークがあるわ。 社長のお土産に買ったのは、ティーカップではなく、紅茶。カップは沢山持っているだろうし、壊れるのが怖い。紅茶の缶を二つ持ってカウンターに行く。イケメンの店員さんがそれをひとつづつ紅茶の缶と同じ濃い紺の袋に入れ、同じ色のリボンをかけてくれた。◆トリビアその2◆私の買ったものを見た同じツアーの人が、「これ、一度、袋から出してスーツケースに入れないといけないのよね。」なるほど、袋のままスーツケースに入れると手渡す時、袋がくしゃくしゃになっているからだ・・・。日本に持ち帰ってから再度、濃紺の袋に入れ、濃紺のリボンをかけて手渡した。ところで、ロイヤルコペンハーゲンのカップは私は時々使っているが、食器棚に飾るという人が多いようだ。高価なものなので壊してはいけないと思うからだ。◆トリビアその3◆しかし、ロイヤルコペンハーゲンにブレケージ ギャランティー( 破損交換 )というシステムがある。■もし、ロイヤル コペンハーゲンの大切なプレートやカップ&ソーサーが割れてしまったら・・・■ロイヤル コペンハーゲンはハンドペイントの器を特別な日だけでなく、ご家族や友人との毎日の食卓でお気軽に使って、お食事を楽しんでいただきたいと考えています。そのために大切な器が万が一割れてしまっても下記の条件にてロイヤル コペンハーゲン ブレケージ ギャランティーがサポートいたします。“ブレケージ ギャランティー”は、毎日のお食事に、ロイヤル コペンハーゲンの器を日常でお使い頂くために、ハンドペイント製品を対象にオンラインショップ、フラッグシップストアでご購入いただいてから12ヶ月以内又は、24ヶ月以内であれば、無償で新しい商品と交換させて頂くギャランティーです。■ロイヤルコペンハーゲンHP■へぇ~!!でも私のは20年以上たっているから無理だけど・・・。・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・
2015.08.20
コメント(0)
ノルウェイ・オスロで衛兵の行進などを見た。ノルウェイは、内戦や病気により14世紀に王家が絶えていた。この国は長年、デンマークの支配下にあった。スウェーデン=ノルウェーの連合を結び、デンマークからは逃れられたものの、スウェーデンは、事実上、ノルウェイを支配下に置いていた。ノルウェイ独立の気運が高まったが、長年、デンマークやスウェーデンに支配されていて、王様がいない。「王様、誰にする?」「デンマークのカール王子でいいんじゃね?」なんていう流れでデンマークの王子がノルウェイの王になったのが、今から100年ほど前。デンマーク、スウェーデンからの支配からやっと逃れたと思ったら、今度はドイツのナチスが侵略してきた。もう、いや~!!!(▲彫刻公園のおこりんぼう)同じヨーロッパなのに、あちこちからひどい目にあったノルウェイは、ユーロを使わないでノルウェイクローネというお金を使っている。現地のガイドさんいわく、「北海油田で国が豊かなこともあるけど、昔から侵略された歴史を繰り返しているのが、ユーロを使わない原因ではないか」と言っていた。なるほど・・・。(▲彫刻公園)・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・
2015.08.11
コメント(0)
今年の4月■兵庫県・龍野市■に行った。龍野市を流れる揖保川(いぼがわ)は、かつて、龍野の名産品、醤油を運んだ川だ。 その川の旧市街地側には、写真のようになっていた。その横には、洪水になって河が溢れそうになったら、ここに畳を入れ水を止めますと説明があった。特殊堤防畳堤(とくしゅていぼうたたみてい) というのだそうだ。私は、4月に初めて知ったのだが、40年以上前からというから、私が大阪に来るのと同時期だったのかもしれない。梅雨で台風が接近している。おのおの方、油断めさるな。■揖保川の特殊堤防畳堤(■兵庫県西部を流れる日本有数の暴(あば)れ川として有名な揖保川の緊急時の防災対策として、40年以上も前に考えられた特殊な堤防です。普通の土石・コンクリートなどでできた堤防とは違い、一見、橋の欄干のように見えるフレームが並び、川の景観を損ねません。住民の意見が反映された環境への配慮と、住民の防災自治の意識の高さが実を結んだ堤防といえます。 ・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・
2015.07.14
コメント(0)
「岬めぐり」あなたがいつか 話してくれた岬を僕は たずねて来た二人で行くと 約束したが今ではそれも かなわないこと岬めぐりの バスは走る窓に広がる 青い海よ悲しみ深く 胸に沈めたらこの旅終えて 街に帰ろう♪♪♪♪♪♪■2日目 5月27日■渥美半島に行く途中、「岬めぐり」という懐メロを聞きながら行った。ひとりで■豊橋鉄道渥美線■という電車に乗っていると、渥美半島の伊良湖(いらご)岬まで列車が出ていたらいいのにと思った。渥美線は、三河田原駅からで、岬まで行っていないのだ。しかし、なんということでしょう・・・。かつて、岬まで行く予定だったのです!!■この路線は■大正13年に渥美電気鉄道の手によって開業し、昭和2年には豊橋駅前~三河田原~黒川原が開通した。同社は更に、黒川原~三河福江間の延長を計画し測量などを行ったが、昭和初期の不況によって資金不足になり断念、この計画は国鉄の手によって進められた。工事終了後は渥美電気鉄道の路線も国鉄が買収する計画だった。国鉄による延長工事は陸軍技術研究所(通称伊良湖射場)の小中山試験場と伊良湖試験場への物資搬入が主な目的で、軍事上の重要路線に指定され、昭和14年には三河福江までの15Kmの路盤が完成し、あとは線路を敷くだけとなっていた。三河福江以遠も中山を通って伊良湖村堀切までの測量と用地買収が行われている。しかし、太平洋戦争の勃発により資材、特に鉄が不足し線路を敷くことは出来なくなってしまい伊良湖延長計画は中断、昭和19年6月には戦争中の資材供出で三河田原~黒川原間2.8Kmが休止となった。昭和15年9月、戦時中の交通統合で渥美電気鉄道は名古屋鉄道に合併、戦後は昭和29年に豊橋鉄道渥美線となったが、休止中の三河田原~黒川原は同年11月に廃止、国鉄の手による延長計画も工事再開とはならず、伊良湖延長の夢は幻に終わった。今は、田原駅から、バスが出ている。しかし、幻と終った鉄道の跡が、あちこちにあるそうだ。「岬めぐり」もいいが、幻と消えた「鉄道めぐり」もしてみたいな。・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・
2015.06.04
コメント(0)
テレビで、方言についてやっていると、喰いつく私だ。先日も、高知県の「ひざ」の方言が「すね」だといっていた。そこで、私も、はたと思いだした。子どもの頃、家族は、「ひざ」を「すね」と言っていたことを・・・。「ひざ」のことを「すね」と呼ぶのは、平安時代では西日本の広い地域で使われていたという。だが、東日本では「ひざ」と言っていたことから、その影響で西日本も「ひざ」と呼ぶように。高知県は四国山脈に囲まれ、他国の文化の影響を受けづらかったことから、そのまま残ったと推測される。 関東では、「ひざ」を「ひざ小僧」と言ったりするが私たちも、「すね」を「すねぼん」を言っていたのも思いだした。また、「耳たぶ」という言葉にも言及していた。そうだ!私の小さい頃は、「頬(ほお)」を「ほうたぶ」と言ってた。腿(もも)を「ももた」と言ってたことも思い出した。これは、「ももたぶら」の「ら」抜きと考えられる。「たぶ」とは、どうやら柔らかい部分という意味ではないかと思う。 以前、■秘密のケンミンSHOW「こぶらがえり」■という記事を書いたことがある。その時、いただいたコメントがとても興味深いのでここに書いておこう。Re:秘密のケンミンSHOW「こぶらがえり」(06/17) こもあ さん ふくらはぎは元来「たぶら」と呼ばれていましたお尻の肉は「尻たぶら」関西には古語からの流れもあるのでしょうね(2014.10.08 20:42:50) ・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・
2015.05.23
コメント(0)
われは湖(うみ)の子 さすらいの 旅にしあれば しみじみと 昇る狭霧(さぎり)や さざなみの 志賀の都よ いざさらば 琵琶湖の西岸の北に位置する今津は、■ヴォーリーズの建築■の他にもうひとつウリがある。この歌には、琵琶湖を中心とした滋賀県の風景が歌われている。第三高等学校(現在の京都大学)に入学した小口は、1917年(大正6年)の琵琶湖一周の漕艇中にこの歌詞を思いついたとされる。周航2日目の6月28日夜、今津(現滋賀県高島市今津)の宿で部員の中安治郎が「小口がこんな歌を作った」と紹介したのが初出である。吉田が作曲した『ひつじ草』のメロディに当てて歌われたのが定着し、三高の寮歌・学生歌として広まっていった。現在も京都大学ボート部の部員によって歌い継がれている。昔の大学生はエリートである。優秀な成績であることは、もちろん、家もそれなりに裕福だ。■博士と彼女のセオリー■でも見たが、そんなエリート学生の間では、ボートがはやっていたのだろうか。「琵琶湖周航の歌」を私は、琵琶湖周航中に亡くなった人の歌だと思っていた。私の勘違いだったのか?いや、琵琶湖でボートの練習中に亡くなった現金沢大学の学生11人を悼んで作られていた歌があった!!「琵琶湖哀歌」という歌だ。■琵琶湖哀歌■。1941年4月6日に琵琶湖でボート練習中に突風のため転覆し水死(琵琶湖遭難事故)した第四高等学校(現・金沢大学)漕艇部の部員11人を悼んで作られたとされている。歌詞には遭難事故には全く関係のない琵琶湖八景が詠み込まれており、またメロディの半分ほどは琵琶湖周航の歌の借用である。謎は解けた!!!それにしても、(現)金沢大学の学生が琵琶湖まで来て練習していたのには驚いた。■今津は金沢藩■だったというし、私の思っているより近い距離だったのかもしれない。「琵琶湖周航の歌」の曲名は「ひつじ草」というのだが、「ひつじ草」とは、スイレンのこと。名前の由来は、未(ひつじ)の刻に花が咲くからことらしいが、朝から夕方まで咲くそうだ。「琵琶湖周航の歌」の作詞をした小口太郎、作曲の吉田千秋も20代で亡くなった。2人は会ったことがあったのだろうか?「昨日は猛烈な順風で殆ど漕ぐことなしに雄松まで来てしまった。雄松は淋しい所で松林と砂原の中に一軒宿舎があるだけだ。羊草の生えた池の中へボートをつないで夜おそくまで砂原にねころんで月をながめ美人を天の一方に望んだ。今朝は網引きをやって面白かった。今夜はこの今津に宿る。 今津で 小口」■小口太郎が今津から友人に宛てたハガキ■ 消印 大正6年6月28日 午後9~12若くして亡くなった作詞者の小口だったが、この歌を作った時は青春真っただ中。そして、「ひつじ草」と書いてある偶然に、ビックリした。「琵琶湖周航の歌」作詞:小口太郎作曲:吉田千秋1.われは湖(うみ)の子 さすらいの 旅にしあれば しみじみと 昇る狭霧(さぎり)や さざなみの 志賀の都よ いざさらば2.松は緑に 砂白き 雄松(おまつ)が里の 乙女子は 赤い椿の 森陰に はかない恋に 泣くとかや3.波のまにまに 漂えば 赤い泊火(とまりび) 懐かしみ 行方定めぬ 波枕 今日は今津か 長浜か4.瑠璃(るり)の花園 珊瑚(さんご)の宮 古い伝えの 竹生島(ちくぶじま) 仏の御手(みて)に 抱(いだ)かれて 眠れ乙女子 やすらけく5.矢の根は深く 埋(うず)もれて 夏草しげき 堀のあと 古城にひとり 佇(たたず)めば 比良(ひら)も伊吹も 夢のごと6.西国十番 長命寺 汚(けが)れの現世(うつしよ) 遠く去りて 黄金(こがね)の波に いざ漕(こ)がん 語れ我が友 熱き心三高では明治26年に初めて琵琶湖周航が行われ、以後学生たちによる恒例行事になっていました。昭和15年ころまで行われていました。三保ケ崎から西岸を北上する時計回りのコースで、4泊5日、もしくは3泊4日の日程。■琵琶湖周航の歌:高島市■■琵琶湖周航の歌■■桜三昧2泊3日:福井県と琵琶湖湖西地方■■2015年4月7日(火)■国内第三位の美:養浩館(ようこうかん)■■4月8日(水)■一筆啓上:丸岡城■■湖北の「かくれ里」菅浦(すがうら)■■4月9日(木)■■今津:ヴォーリーズ建築■・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・
2015.04.22
コメント(0)
JR大阪環状線全19駅のホームで流れる発車メロディーが決まった。JR西日本が16日、未定だった15駅分を発表した。桃谷駅は故・河島英五さんの「酒と泪(なみだ)と男と女」、天王寺駅は和田アキ子さんの「あの鐘を鳴らすのはあなた」、天満駅はaikoさんの「花火」など、大阪ゆかりのアーティストの曲が目白押しだ。大阪環状線は昨年、大阪駅の「やっぱ好きやねん」(故・やしきたかじんさん)など4駅で発車メロディーを始めた。一つの路線の全駅で違う曲を流すのは全国的にも珍しいという。3月22日より使用。♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪先日、天王寺駅からJR環状線に乗ったら、聞き覚えのあるメロディが流れて来た。「あの鐘を鳴らすのはあなた」だ。そういえば、ニュースでそんなことをいってたなと思いだし、大阪駅に着くまで曲を聞きながら行った。★が分かった曲。■JR大阪環状線の発車メロディーと選曲理由★天王寺 あの鐘を鳴らすのはあなた(和田アキ子) 四天王寺の鐘にちなむ。 鐘の音を響かせたアレンジに♪寺田町 Life Goes On(韻シスト) 昨年書き下ろした大阪環状線イメージソング♪桃谷 酒と泪(なみだ)と男と女(河島英五) 駅近くでライブハウスを経営した、亡き河島の代表曲♪鶴橋 ヨーデル食べ放題(桂雀三郎withまんぷくブラザーズ) 焼き肉で有名な街。冒頭は「焼き肉バイキングで食べ放題」★玉造 メリーさんのひつじ(アメリカ民謡) 電車型ビル「ビエラ玉造」。窓の高さを音階に見立て、この曲を表現★森ノ宮 森のくまさん(アメリカ民謡)※ 「森」といえばこの曲だった★大阪城公園 法螺(ほら)貝(オリジナル) 戦国時代の戦を象徴する「大坂の陣」を思い起こす★京橋 大阪うまいもんの歌(アメリカ民謡『ゆかいな牧場』) 大阪のご当地ソング。駅周辺のにぎやかさをイメージ★桜ノ宮 さくらんぼ(大塚愛) 駅名や近くの大川の桜から。 数ある「桜」の曲から大阪出身者を選ぶ♪天満 花火(aiko) 天神祭の花火から。編曲でおはやしのリズムも加えた ★大阪 やっぱ好きやねん(やしきたかじん) 大阪を愛した故・やしきたかじんの代表曲♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪環状線は、内回りと外回りがあるので、今度は外回に乗ってたしかめてみよう。♪福島 夢想花(円広志) 「回って、回って…」の歌詞が環状線を思い起こす♪野田 一週間(ロシア民謡) 歌詞冒頭は「日曜日に市場へ出かけ…」。 大阪市中央卸売市場が近い♪西九条 アメリカン・パトロール(アメリカ民謡) ユニバーサル・スタジオ・ジャパンへの乗換駅♪弁天町 線路は続くよどこまでも(アメリカ民謡) 昨春閉館した「交通科学博物館」が高架下にあった♪大正 てぃんさぐぬ花(沖縄県民謡) 駅周辺は沖縄からの移住者が多い♪芦原橋 祭(芦原橋太鼓集団『怒』) 「太鼓の町」で知られる。 地元の太鼓集団のオリジナル曲♪今宮 大黒様(文部省唱歌) 駅に近い「大国町」や「大国主神社」にちなむ♪新今宮 交響曲第9番「新世界より」(ドボルザーク) 通天閣がある「新世界」の最寄り駅新世界は、大阪の色を濃く残す町。そこに、ドボールザークを持ってきた所が面白い。・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・
2015.04.06
コメント(2)
■「秘密のケンミンSHOW」■で、大阪府民が、ふくらはぎがつることを、 「こぶらがえり」ということを書いたことがある。 大阪以外の京都府や岡山県などでも「こぶらがえり」。 東京などでは、「こむらがえり」。 西日本では、「こぶら」で東日本は「こむら」なのだろうと思っていたら秋田県横手市の方言を集めたサイト■横手/方言散歩■というサイトで見つけた!!!「こぶらがえり」は、秋田県でも使われていたのだとビックリ!!そればかりか、横手市では、ふくらはぎを「こぶらはぎ」ともいうそうだ!!「ひぼ」→「ひも(紐)」。「ほっかぶり」→「ほっかむり」と同じように「ば行」が「ま行」に変化したものだ。しかし、いつまでも、「さぶい」→「さむい」日が続く・・・。■言葉の謎「さぶい」と「さむい」■・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・
2015.03.07
コメント(0)
「こたつにミカン」なんていうくらいだから、ミカンは冬の食べ物だと思っていた。しかし、さにあらず。ミカンは、ほぼ年中収穫出来るのだそうだ。以下、■秋津野■でもらったパンフレットに書いてあったもの。ほんとだ!ミカンがない月は、6月と9月くらい。ちょっと意外な気がした。最近、ミカンの消費量が減っているという。海外から珍しい果物を買うよりも、国内産のミカンを食べることは、エネルギー消費を少なくし、地球温暖化防止にも役立つ。■◎地球を救う127の方法・食◎■70.柿、イチジクなどの実のなる木を大切にし、自家製のおやつにする。 また、輸入フルーツよりは梨、みかんなど地元の果物を食べるようにする。■キン柑■1月温州と共に古くから栽培されています。皮の甘さは日本一。■ポンカン■1月中旬~2月中旬甘さは、最高級。さらに香りと風味は天下一品。皮がむきやすく食べやすいジューシーなミカン。■ネーブル■2月下旬~4月下旬樹上完熟ならではのおいしさ。果汁たっぷりで種がなくさわやかな香り。かくれた逸品です。■秋津野デコ■3月デコポン、不知火ともいわれ、清見とポンカンの交配種で最高級のミカンです。■三宝柑■3月上旬~4月上旬紀州の殿様が三方にのせて献上したことから呼ばれています。独特の風味と甘さです。■はっさく■3月上旬~4月下旬さわやかな甘さと香り。粒が大きく甘さもひと味違います。■清見■3月下旬~4月温州とトロピタオレンジの交配種。甘さも香りも原種のオレンジをしのぎます。■甘夏■3月上旬~4月下旬従来の夏ミカンのイメージを一掃する甘さと■セミノール■4月上旬~5月上旬むくとこぼれ落ちるほどの豊富な果汁とこくのある甘味が絶品です。見た目にもあざやかです。■バレンシアオレンジ■7月上旬~8月上旬秋津野で原産地をしのぐ味わいに育ちました。■極早生ミカン■10月~11月改良に改良を重ねた温州ミカン。秋津野を代表するジューシーな味。■仏手柑■12月仏の手に似ているのが名前の由来。鑑賞・料理用にとして出荷しています。■温州ミカン■12月~1月じっくりと樹上で熟成させ、他の品種では味わえないたっぷりの甘さとさわやかな香りです。■伊予柑■12月下旬~1月皮はむきやすく、味わい豊かでボリュームたっぷりです。・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・
2015.01.09
コメント(2)
12月9日~10日、和歌山県に一泊二日で行ってきた。■和歌山県のことを「紀伊の国」というが、その語源は?関西では、*「手」を「てぇ」*「目」を「めぇ」*「血」を「ちぃ」という風にのばす。和歌山は森林が多く*「木ぃの国」から「紀伊の国」になったという説がある。■もうひとつの理由は・・・。奈良時代以前に、和歌山に大豪族がいた。その名も「紀氏」。人はいざ 心もしらず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひけるの歌で小倉百人一首にも名の残る紀 貫之(きのつらゆき)は、その末裔だとか・・・。■和歌山県立紀伊風土記の丘■に行った時、聞いた。さて、どっちが正しいのだろう。 お土産にと夫がミカンを、お前は紀*伊国屋文左衛門*かというくらい、大量に買って来た。まっ黄色・・・。黄ぃの国かい!!_| ̄|○*紀伊国屋文左衛門*・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・
2014.12.10
コメント(0)
テニス全米オープンで錦織圭選手が惜しくも1位を逃した。でも、2位ってあっぱれ!!錦織圭選手の名前は、「にしこりけい」と読む。錦織は、「にしこり」の他に「にしごり」、「にしごおり」、「にしきおり」などがある。 大阪部富田林(とんだばやし)市に■錦織(にしこおり)公園■というのがある。私も何回か行ったことがある。また近くには、「錦織神社」があってそれも含めて、錦織公園に行った時、「錦織」という地名について聞いたことがある。錦織神社のある地域は、太古は「錦部(にしごり)部」と呼ばれていたようで、旧くは織物の技術を持つ人々が百済より渡来し住みついていたとされている。神社は錦部部(錦部氏)の氏神である。 ■錦織(にしこおり)神社■近くには、「竹之内街道」がある。飛鳥時代には、遣隋使の使節や留学僧が往来し、大陸から中国や朝鮮の文化をもたらし、飛鳥文化のいしづえとなった日本最古の官道だ。「土師ノ里(はじのさと)」、「上ノ太子」という地名の駅もあり、歴史を感じる地名がある地区。錦織圭選手の遠い遠い先祖も百済(くだら)から来たのだろうかとくだらない妄想にふけるのも楽しい。_| ̄|○ ついでにくだらないトリビアだが、「にしこり」は、野球の松井秀喜の顔文字。はじめは「?」と思っていたが、松井に見えてきた!!!(ヒント「し」が鼻。)・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・
2014.09.09
コメント(0)
「宮古では、畑に行くことをパリに行くと言います。」今年の2月、沖縄本島から南に400キロ離れた■八重山諸島■に行った時に石垣島で乗ったバスガイド嬢が言った。それが、八重山言葉採集の第一歩となった。次に気になったのは、上地島のことをパナリということ。「なぜ、上地島のことをパナリと言うんですか?」と気になった私は、上地島の元住民ガイド氏にたずねた。「上地島と下地島のことを合わせて、『アラグスク=新城』と言います。しかし、島は浅瀬ではあるが、離れている。「離れ」は八重山では「パナリ」と言うのです。その時、突然、ひらめいた!そうだ、大昔、は行は、ぱ行だったのだったことを!! 石垣島のサンゴが美しい海の名前は「川平」とかいて、カピラと読む。カピラ湾の中に小さな島があったが、地図を見ると「○○パナリ」と書いてあった。石垣島から離れているという意味だ。「ちゅらさん」の島、小浜島でバスの中からヤギを見た時、運転手さんが言った。「沖縄本島では、ヤギのことをヒーチャーというのですが、八重山ではピーチャーと言います。」 映画、■ペンギン夫婦の作りかた■。「返銀」という姓をヘンギンと読まず、ペンギンと読む。辺銀食堂は石垣島にあるのを思い出した。石垣島空港は「南(ぱい)ぬ島」と書いてある。沖縄本島で、「南風がふく」ことを「はえがふく」というと昔聞いたことがある。「はえ」が「ぱい」というわけだ。 もしやと思って、愛読書の「日本アホバカ分布図考」を調べたら、あった!!「惚れ者」という言い方が「プリムン」、「プリムヌ」という言い方に変わっていた。また、関西圏で使う「アホ」は「アッポ」、「アンポ」に。「アッポ」、「アンポ」は、関西でもたまに、おどけて使うことがある。やはり、そうだったのか・・・。「やはり」は「やっぱり」ともいうが、これもその変化なのか?八重山には、遠い遠い日本の言葉が今も生きている。は行とぱ行については書くことがあるが、それはまたの機会に。■追記■●ヒヨコは、その鳴き声から「ピヨコ」とよばれたいた。●イリオモテヤマネコのことを西表の言葉では「ヤマピカリャー」(山で光るもの)と、呼ばれている。この「ヤマピカリー」も「ヤマヒカリ」の変化形だろう。日本と書いて、「ニホン」と読むが「ニッポン」とも読む。これもそうなのか?■2014年2月20日(木)◎石垣島 石垣島(いしがきじま)は、沖縄県石垣市に属する島である。 面積は約 222.6 km² と沖縄県内では沖縄本島、西表島に次いで3番目に広い島である。 日本全体では、本土と沖縄本島を含め、熊本県上天草市・天草市に属する天草上島に次いで 21番目の面積を持つ。 人口は約4万5千人。 私の大好きなの■ビギン■の故郷。■八重山:石垣島・米原(よねはら)のヤエヤマヤシ群落 ■■川平湾グラスボート■■石垣 やいま村■■みんさー織■■2014年2月21日(金)◎西表(いりおもて)島 八重山諸島最大の島である。 島の90%を森が覆い、イリオモテヤマネコをはじめとする固有の生き物が多数生息する。 日本のガラパゴス!!■仲間川遊覧・遊覧ボート・マングローブ林を行く■◎上地島=新城(アラグスク)黒島の西4キロに位置する島で、上地と下地の2島からなります。上地島の集落近くには上地港、下地島北端には下地港があるが、定期航路はない。■ほぼ無人の島を歩く ■■火番盛■■古井戸の記憶■◎西表(いりおもて)島■ユツン川マングローブ木道 ■■吾輩はイリオモテヤマネコである。■■2014年2月22日(土)◎由布島西表島から400mの所にある島。水牛車で行くことが出来る。かつては、人が住んでいたが、今は無人。島中が植物園のよう。■牛車で海を渡る ■■電気はどこからくるかしら?■◎小浜島NHKの朝の連続小説「ちゅらさん」の舞台となった島で、撮影場所めぐりが島のウリ。■「ちゃらさん」の島■◎竹富島集落全体が、木造赤瓦の民家と白砂が撒かれた道という沖縄古来の姿を保っている。 町並みが重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。■重要伝統的建造物群保存地区■■安里屋ユンタ■■古代文字:カイダ文字■■お土産と 持ち帰れないもの■・・・・・・・・・・・・
2014.07.04
コメント(0)
小学校に入学したばかりの、ピカピカの一年生は、もう少しは慣れただろうか?小学校一年生といえば、ランドセル。最近、「天使の羽根」といううたい文句のランドセルのCMをよく見る。その会社の名前は、「セイバン」だ。テレビ番組で、「セイバン」を見学に行くというのがあった。セイバンの本社は、兵庫県たつの市御津町室津!!セイバンとは、西播州=西播からだ!!と気がついた。しかし、先日、もうひとつの意味があるということを知った。それは、「カバンの製造=製カバン」→製バン!!へぇ~~!! 株式会社 セイバン(Seiban Co.,Ltd.)は、兵庫県たつの市御津町室津に本社を置く各種鞄の製造・販売をおこなう企業である。社名は「カバンの製造=製カバン」を縮めたのと、同社が本社を置く兵庫県のたつの市が西播磨地域であり「西播=セイバン」と呼ぶことなどのダブル・ミーニングから来ている。・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2014年4月9日*四月一日さん*・・・・・・・
2014.04.14
コメント(0)
■竹富島■の港で、石垣島行きの船を待つ間、土産物屋をチラっと見た。そこで目に止まったのが、手ぬぐいだった。手ぬぐいの模様は、「カイダ(カイダー)文字」という。カイダ字ってはじめて知った!!家に帰ったから、カイダ文字について調べてみた。■カイダ文字■カイダ文字(カイダもじ)は、沖縄県の与那国島でかつて使われていた象形文字。カイダ字(カイダじ、琉球語与那国方言:カイダーディーまたはカイダディ)やカイダー文字(カイダーもじ)、カイダー字(カイダーじ)とも呼ばれる。起源については不明であるが、明治時代に小学校令が発布されるまで使用されていたことが分かっている。主に商品の売買記録や徴税記録に用いられたもので、一般の文章が表記できるまでには発展せず、公教育が導入されて以降は漢字や仮名が普及したため、使用されなくなった。主に取引の対象となった作物、家畜、家禽、魚介類、家、船などと漢数字を変形させた数字が文字化されていた。また、取引の上で区別が必要な雄馬と雌馬、雄鶏と雌鶏などは区別されていた。徴税記録を記した木板が国立民族学博物館などにも残されているが、多くは、第二次世界大戦の空襲で焼失した。与那国島海底地形からも、カイダ文字に似た跡のある岩が発見されている。現在は、与那国島周辺の民芸品やシャツなどにデザイン部品として用いられる例があるが、かならずしも字の意味を理解して使われているとは限らない。 ちなみに、写真の一番上左から右に。●雄鶏●牛蒡●薪3段目、左から右に(折れ目があって見にくい)●南瓜●油●雌馬3段目●数字の6(神社の鳥居のように見えるが)●竹●栗4段目●タコ(太陽に見えるが)●数字の3(ラではない)●数字の45段目●冬瓜●豚一番下●数字の5●芋他にも船や紙、足、肺、酒、布、大根、菜、卵、米、人参、家・・・。など、日常的に必要なものは、ある。また、米一俵、米三俵、五升、一斗、九勺など、単位をあらわす文字もある。全て、象形文字で4段目のタコなど、よく見ると、円の周りに8本の曲線が出ていてすぐ分かる。しかし、こんな文字があったとは、全く知らなかった。このカイダ文字は琉球王朝の時代から明治時代まで、徴税の通知や、家同士の連絡手段として使われていたのだそうだ。八重山は、日本とは違う文化を持っていたのだと、つくづく思う。海外旅行なみに文化の違いを知って楽しかった八重山。また行きたい・・・。・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2014年4月6日*ゴイサギの名前の由来 *・・・・・・・
2014.04.06
コメント(1)
明日、20日から石垣島~ 西表島~上地島~由布島~小浜島~竹富島と八重山諸島に行ってきます。 ■パリやロンドン、■NY■は、何回か行ったことがあるが、八重山諸島はおろか沖縄本島にも行ったことがない。「八重山」は八重山方言で「やいま」、沖縄方言で「えーま」という沖縄本島から南西400K離れており、台湾との距離の方が近い。最近まで、夜ともなると、台湾や中国の放送が混ざって聞き取りにくかったのだそうだ。与那国島では台湾から100kmあまりしか離れていないため、台湾のテレビ放送も受信できるといい、かつては日本の総理大臣や沖縄県知事よりも台湾の総統をよく見ていたという。 八重山の語源だが諸説ある。そのうちのひとつが石垣島、竹富島、小浜島、黒島、新城島、西表島、鳩間島、波照間島の8つの有人島が折り重なるように並ぶ姿からつけられたというが、「?」だと思う。八重山諸島には、無人島も多い。かつてはその無人島にも人が住んでいたことがあったかもしれない。「八重山」の「八」は八百万や八百万(やおよろず)などにも使われ「多い」ことを意味する。多いことが重なるということで、「多くの島々がある」という意味ではないだろうか。・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2014年2月19日*「おみい」の語源 *・・・・・・・
2014.02.19
コメント(0)
姫新線というJRのローカル線がある。■中国山地の山間を通るローカル線■で、沿線に湯郷温泉などの温泉地への入口林野駅、蒜山高原への入口中国勝山駅などがあり、山陽地方と山陰地方を結ぶ陰陽連絡路線の一つでもある。しかし、1970年代(昭和50年代)以降は中国自動車道が開通して自家用車や観光バスに観光客が転移し、JRの前身である日本国有鉄道(国鉄)も高速バス(中国ハイウェイバス)を開業させたことから、陰陽連絡路線や津山市と京阪神とを結ぶ役割を事実上喪失した。1989年の急行廃止と1994年の智頭急行線の開業により、以後は地域輸送が中心となっている。姫新(きしん)線の姫は姫路と新は新見までという意味。しかし、過去に、「姫津(ひめつ)線」と呼ばれた時代があった。■昨年12月■に行った姫路の平和祈念館で、それを証拠づけるような歌を見つけた。流行歌「姫津(ひめつ)双六(すごろく)」橋本一郎 歌咲いた桜に天守が浮かぶあれは国宝 お国自慢の白鷺城揖保(いぼ)の河原に身を焼く蛍夏は短夜 噂 龍野へ通ひくる。来栖(くるす)、三ケ月、徳久(とくさ)、作用、土居の四ツ塚、眠る維新の人柱私ゃ湯郷、温泉むすめ恋の紅帯 あつい情けの湯でとける天光勾践を空しうするなかれ (てんこうせんをむなしゅうするなかれ)忠臣児島の名が残る咲いた桜・・・の行は「姫路」揖保の河原・・・は「本龍野」「来栖(くるす)」、「三ケ月」、「徳久(とくさ)」、「作用」、「土居」と続く。私ゃ湯郷・・・「林野」天光勾践を・・・「院庄(いんのしょう)」と駅名が歌われている。 1936(昭和11)年4月8日に「姫津(ひめつ)線と呼ぶことにしたが、同年、10月10日には、作備線・因美線 東津山駅 - 津山駅間を姫津線に編入、姫路駅 - 新見駅間、津山駅 - 津山口駅間(支線)が姫新線となる。新見と津山が繋がり、津山と姫路が繋がったことにより、「姫新(きしん)線」となったのだ、。私は、姫路、本竜野、新宮から乗ったことがある。中学時代の同級生には、「作用(さよう)」から、高校時代の友人は「千本」という駅から通っていた。父の母親、私の祖母の実家は「美作江見」にあり、祖母の姉妹が「作用」で結婚していた。父は、母の里に遊びに行っていたので「楢原(ならはら)」という言葉がしょっちゅう出て来ていた。今から10数年前、林野駅から姫路駅まで乗ったら、途中で何回も乗り換え。姫新線は、私にとって懐かしい電車。しかし、「姫津(ひめつ)線」と言っていたとは、昨年12月にはじめて知った。それにしても、東京、大阪間の新幹線の本数は多いけれど、ローカル線は、一日に数本というバランスの悪さ・・・。■姫新線■・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2014年2月11日*初午(はつうま):狐にだまされる。*・・・・・・・
2014.02.11
コメント(0)
奈良県桜井市を源流とした大和川は、江戸時代の半ばごろまでは、いつくもの支流に分かれ、うねうねと流れ、淀川と合流していたという。その間に、土砂が積もり、大和川は天井川(砂礫の堆積により河床(川底)が周辺の平面地よりも高くなった川)という。そのせいで、常に水害が毎年のようにおこっていた。そこで大和川を付け替えということになった。付け替え後、大和川は、奈良県を源流とし、大阪府の南部を流れ、大阪市と堺市の間で大阪湾へと流れ込んでいる。その結果かつて、田畑だった所が川に・・・。その代わりにといってもらったのが、かつての川の後・・・。しかし、川の後は、砂地で、水田には向かない。そこで作ったのが木綿。河内地方で作られたから河内木綿という。 河内木綿とは・・・江戸時代から明治時代のはじめにかけて、河内地方で栽培された綿から糸を紡いで手織りされた木綿のことを、一般に「河内木綿」といいます。さらに、18世紀のはじめ、1704年(宝永元年)に大和川が付け替えられると、それまでの川床は畑として生まれかわり、綿作りがますます盛んになり、木綿織りはさらに発展しました。18世紀中ごろの久宝寺村(現八尾市)の田畑の作付状況の記録によれば、村の耕地の7割に綿を植え付けたと記されています。■八尾市立歴史民俗資料館河内木綿の部屋■河内木綿はよく知っていたが、大和川との付け替えの副産物だとは知らなかった。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2013年12月3日*トリビアの井戸:てしょう *・・・・・・・
2013.12.05
コメント(0)
NHKの大河ドラマ■八重の桜■を見ている。舞台は会津から京都に移ったのに、今さら「さすけねぇ」という会津の言葉って言われるかもと思いながらも書かずにはいられないタチで・・・。「さすけねぇ」は大丈夫という意味。なにか事件が起きると母「さすけねぇか?」娘「さすけねぇ」という風に・・・。で、さすけねぇの語源は。「さしつかえない」ではないだろうか?東北弁は、「す」と「し」がよくおかしくなる。また、「ない」が「ねぇ」と変化する地方は東北だけでなくよくあることだ。そこで「さしつかえない」↓「さすつかえねぇ」↓「さすけねぇ」と変化したのではないかというのが私の考えだ。本当の所はどうなのだろう?所で最近、竜巻だの大雨だの日本は大荒れだ。「さすけねぇか?」■あまちゃんも見てます。(*^ー゚)b■・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2013年9月4日*里山の歌:われは海の子 *・・・・・・・・・・・・・・
2013.09.04
コメント(0)
全305件 (305件中 151-200件目)