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今場所の優勝決定戦で朝青龍が勝利した時、会場に大きな喝采が沸いた。少なくともワシには「よく頑張ったゾ!」という温かい拍手に聞こえた。ガッツポーズにしたって「そうだよ、いろんなプレッシャーをはねのけてつかんだ優勝だ、うれしいよな!」とほほえましかった。確かに「この人は格闘家なんだな」と思ったけれど、相撲だって格闘技には違いないだろう。相撲協会もマスコミも、ワシにはいじめに見えるよ。伝統だ文化だと言ったって、それを支えているのはファンだろう。時代の移り変わりによってそれが変わっていくのは当然だ。品格だなんだって、場所前の悪評をはねのけて全勝優勝した朝青龍にケチをつけているとしか思えない。マスコミ(特にテレビ)も偏った報道の仕方しかしないし。優勝後の記者会見の質問に至っては「あと何年続けますか?3年?」って、アホか。そんなこと考えながら仕事するやつにロクなやつはいない。「あなたとは違うんです」って朝青龍に代わっていってやりたかったよ。世知辛い世の中で、いいニュースが少ないんだからさ、せめて頑張った人にまず「よくやった!」って言ってあげようよ。
Jan 29, 2009
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オバマ大統領の就任演説の肉声を聞きたいと思ったのはやはりワシだけではなかったのだろう。NHKが字幕入りで再放送したのには「よくやった」と初めて褒めてあげたい。あれだけ具体的に問題点を指摘し、それを乗り越えていこうと語りかけられると元気も勇気も出てくるというものだ。カリスマ性のあるリーダー、久々にアメリカを羨ましく思った。そして、問題山積みの大国アメリカを救おうとしている彼の姿を見ながら、ヘナチョコのワシでも自分ひとりを救うことはできるのだと確信した。がんばれワシ!God-given promise that all are equal, all are free, and all deserve a chance to pursue their full measure of happiness.www.whitehouse.gov/blog/inaugural-address
Jan 24, 2009
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たった2週間で、元気だったラックがいなくなってしまったという現実が受け入れられず、忘れようとする気持ちが働いてか他人事のようであり、そして急にものすごい寂しさが襲ってきて涙ぐんだりする。すぐにでも保健所に飛んで行き、子猫をもらってこよう、そんなことばかり考えるようになっていた。1月12日の夜、エアコンを止めてベッドサイドのスタンドも消して、さぁ寝ようとしたら「パタッ」と何かが落ちる音がした。また仕事用の椅子が跳ね上がってデスクにあたったのだろうと思った。落ちる音ではないけれど、他に物音の出どころが考え付かなかったから。翌朝起きてみると、椅子はデスクから離れていて何にもぶつかった形跡はない。なんだろうと思って部屋を見回すと、ミッキーマウスのぬいぐるみが落ちてまるくうつぶせになっていた。大学の卒業旅行の時に買ったもので、座っているタイプのミッキー。カラーボックスの上、深くに座らせてあるので、一度も落ちたことなどないのだが…。その日の午後、仕事をしていると、バスタオルをかけておいたハンガーが急にハンガーラックから落ちた。ハンガーが落ちるほどの風が部屋の中で吹いていたわけでもないのに。。ラックだと思った。たった2週間で変わってしまった状況に、ラックだって戸惑っているのだ。ピッピとミルの待つ虹の橋にすぐに駆けていけなかったのかもしれないね。それなのにワシは自分の寂しさを紛らわせるために次の猫のことばかり考えていて。ラックは「私はここにいるよ」と言いたかったんだ、そうだよね。いつもラックを抱いていたように、ミッキーを肩の上に乗せてみた。ラックと同じ大きさと丸さ。そして何気にミッキーの右手を触ってみると、先の曲がり角の硬さが、ラックの尻尾の曲がりの硬さとそっくり同じだった。ワシは何日ぶりかにラックの尻尾を触った感触を取り戻した。悲しみすぎてはいけないというけれど、自分の寂しさしか考えないワシの身勝手さはあんまりだったね。「ナーラックナー、ラック」。可愛いねぇラック。ワシとラックの合言葉のように、タイ語でいつもそう言ってたんだよね。悲しむことと愛を伝えることは違うってことに今、気づいた。
Jan 13, 2009
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ワシは島田紳助と同い年である。今日「行列のできる行列のできる法律相談所」で100キロ以上の投球を50球つづけるという挑戦をしていた。パーフェクトにこなした彼の姿勢に感動し、そして自分のふがいなさに泣けた。だらだらと毎日を過ごし、本当に向き合うべきことから逃げてしまっている、それが今の自分だ。「我が敵は我にあり」、羞恥心がうたったこの歌も紳助の作詞だそうだ。彼はいろいろな芸能人を番組で引き上げているが、徹底的に自分自身を追い込ませてできる限りの力をださせている。ワシがそれを今やっているかといえば・・・ウダウダ言ってないで、目標を明確にして働くのみだ。ヘナチョコキリギリスがどこまでサバイバルできるのか、それがワシのテーマ。
Jan 11, 2009
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1月2日にラックまでも虹の橋へ行ってしまった。ラックはミルの娘でピッピの妹。生後2か月で兄猫のタイちゃんと一緒にプーケットから秩父へやってきた。兄のタイちゃんはすごく頭のいい猫で、閉じ込められていた2階の部屋から脱出するためにあらゆる方法を編み出し、ラックは一回りちっちゃいながらタイちゃんに遅れまいと必死でついていくようなお転婆な子猫だった。5か月になった時に避妊手術をしたが、おなかに大きなテープを張りながら、タイちゃんと一緒に木登りしたりして、ハラハラさせられたものだ。タイちゃんは冬のある日から家に戻らなくなった。たぶん、遊びから帰ってきて家に入れなくなってしまったのがきっかけで、どこかサバイサバイな家に行ってしまった、私はそう思っている。ラックは先住猫のキョンコと喧嘩しながらも、呼べば大きな声で返事をして寄ってくる愛想のよさで、近所の人たちからも愛されていた。私にとってはプーケットを感じさせてくれる存在であり、そして実家に帰ってきてからは誰よりも一緒にいる時間が長いのがラックだった。朝10時にやってきて、天気のいい日にはベランダで日向ぼっこをした。昼間はどこかに遊びに行き、夜になるとやってきて、ひときり猫じゃらしで遊び、そして私の仕事用の椅子で眠る。私は椅子のかわりにバランスボールに座って仕事をした。ひと眠りすると私の膝の上に乗ってきて、私の左腕に両前足をちょこっとのせて眠る。その感触がたまらなく可愛かった。12月20日、前日の朝に猫用のムースを少し食べたきり何も食べなくなってしまったため病院へ連れて行くと、腎不全であることを告げられ、即入院となった。BUNが98、Creが10.1、その数字の高さに驚いた。ピッピの最初の時ほどには悪くなかったけれど、腎臓が10%くらいしか働いていないことになる。まだ尿毒症は起こしていないというので、また長い闘病生活が始まる、今度こそ1年でも2年でも生きられるように頑張る、そう決心した。治療が効いて、BUNが60、Cre7.3まで下がったため、24日は退院できることになった。家に帰ったラックはすこぶる元気で、腎臓病食のドライフードもよく食べた。投薬も母と二人で「1・2・3!」と手短に飲ませることで、ラックにもストレスはなかったと思う。薬を喉の奥へ落とし、口を閉めて鼻をフッと吹いてあげるといいとネットで知った。皮下輸液をするため27日に病院へ。この時には元気で、「k/dをよく食べるし、薬も飲んでいます」と誇らしい気持ちで先生に伝えた。でも・・・元気ながら皮下輸液が夜になってもなかなか吸収されないのが気になった。そして、また食欲を失った。29日再入院。31日から1月4日まで正月休みに入るが、午前中であれば面会できるということだった。ラックの好きな私の毛足の長いクッションを持って行った。看護婦さんたちは汚れると洗濯してくれていた。ラックはいつもその上で眠っていた。私が面会にいくといつも家でしているように、抱っこしたり、膝の上にのったりしたがった。1月1日朝10時過ぎに病院へ。「膝の上で寝るのが好きなんです」というと、看護婦さんがスツールを貸してくれた。面会の終わる12時まで、ラックは私の膝の上でいつものように気持ちよさそうに眠った。夜には先生が診てくれるということで、電話をまって病院へ行った。その日ほとんどおしっこが出ていない。それでも私や母の顔を見るとしきりに家に帰りたがった。先生も「この子は家にいたほうがいいのかもしれないね」といって、通院することを勧めてくれた。ラックは元旦の夜を家で過ごせたのだ。帰るなり炬燵の中にはいり、横になって安心しきって眠っていた。ただ、あまり元気がないので心配になり、深夜3時半頃に炬燵をのぞくとラックは起きていた。水を飲むかと思い、指の先に水をつけて鼻元へもっていくと、それだけで吐いてしまった。そのあとおなかで息をするようになりすごく不安になった。ラックに刺激を与えてしまったことをすごく後悔した。2日の午前中に点滴のためまた病院へ。そのまま夜まで点滴をし、先生の都合のいい時に電話をくれることになっている。先生が電話をくれたのは午後9時ごろ。ラックは生きているだろうか、不安な気持ちを抑えながら飛ぶようにして病院に行った。ラックは生きていた。元気がなかったけど、私と母の顔を見て鳴いた。先生が注射をして送り出してくれた。寒い夜だった。静かな運転を心掛けながら急いで家に帰った。ホットカーペットにいつものバスタオルを敷いてラックを寝かせた。父と母がラックを呼んでいた。私がその輪に加わっていったい何分たったのだろう。2、3分だった気がする。大きな息を一つつくと、ラックは逝ってしまった。あまりにあっけなかった。ただ、家に着いてみんなに見守れながら息を引き取ったことだけが慰めになった。今でもラックがいなくなってしまったことを受け入れられずにいる。2週間、2週間で死んでしまった。ピッピもミルもつらい思いをしたけれど、それでも3か月、4か月と頑張ったのに、なんでラックはこんなに早くに逝ってしまったんだろう。先生にもわからないようだった。なにか違う病気が潜んでいたのかもしれない。でも、声がかすれた、涙が出るといっては、小さなことにこだわって病院に行っていたのに、3週間前はなにごともなく遊んでいたのに。。肩の上に乗るのが好きで、私の左耳にラックは頭を押し付けてくる。私の首のカーブとラックの頭のカーブがすっぽり収まって、すごく暖かくて可愛くて気持ちが良かった。「ラックぽん、ハ~グ!」といっては1日に何度もそうんなスキンシップを取っていた。朝や夜寝る前にはそのままベッドにもぐりこんでしばらく私の胸の上でゴロゴロいっていた。ちょっと日向っくさかったけど、それがラックの元気な証拠だった。ラックがいなくなってしまったことがなにか他人事のように感じられるのに、なぜか涙がわいてくる・・・1月4日の朝、キョンコが2階にきたらしい。朝7時ころと早かったから私は全く気がつかなかったのだけど、母が言うには「キョンコが珍しく朝2階に行って、しばらくいたんだよ」ということだった。それはきっとラックだったと思う。ピッピはミルの体を借りておかずの魚を食べようとしたし、ミルはラックの体を借りて私のベッドにきてしばらく眠っていった。ラックはキョンコに乗って朝私をおこしに来たのだ。気づいてあげられなくてごめんね。でも今は、虹の橋のたもとでミルやピッピと一緒に野原を駆け回っていることだろう。ラックは今すごく幸せなんだ、そう思う。ラックありがとう。プーケットから帰ってきてこの1年半、ラックがどんなに気持ちを和ませてくれたことか。そしてこの数カ月は特に長く一緒にいることが多かったよね。あれは準備だったのだろうか。ラックは「Luk」、タイ語で「愛」。みんなに愛されたラックをずっと忘れないよ。
Jan 9, 2009
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