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Feb 11, 2006
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カテゴリ: 書評
チェーホフ

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チェーホフを知る



新書ながら非常に濃密なチェーホフ論。


「チェーホフが遭遇した時代の課題とは何だったのか、そしてチェーホフはその課題とどう取り組んだのか」(はしがき)を、浦雅春氏は19世紀のロシア・チェーホフの生い立ち・作品、この3つの視点を縦横に織り交ぜながら追求している。


チェーホフ作品、特に戯曲にはドラマがない。ギリシャ悲劇を引き合いにするまでもなく、1人のヒーロー=主人公が己の町を飢饉から救うために「行動」(目的)を起こす内、知ってはならむ出生の秘密を知らされ(受容)、挙句の果てに身を滅ぼす(カタルシス)というドラマ基本構造がない。その理由の1つは、先行するゴーゴリ・ドストエフスキー・トゥルゲーネフといった大作家達にと明確に袂を分かたなければオリジナルな作風が築くけなかったからである。「文学は道徳的、精神的涵養の手段」とされ、「ロシアにおいては文学はたんに文学であることを許されなかった。言語を保障する制度を有しなかったこの国では、文学は常に『文学+アルファ』でなければならなかった」(101頁)ことからの決別である。


チェーホフの「客観主義文学論」は以上の決意から形成された。スヴォーリン宛の手紙には「芸術家は、自分の作中人物や彼らの話の内容裁判官であるべきではなく、ただ公平な証人であるべきです・・・・・・私の仕事はただ才能ある人間であること、つまり重要な供述と重要でない供述とを分け、人物に光をあてて、彼らのことばで話すことにあります。」と記しているが、この言葉こそベンヤミンも述べる文学・戯曲解釈法ではないか。作者は神ではない。「公平な証人」としてただ「供述」するのみで、判断は「裁判官」である読者・観客に委ねるべきだという主張は当時においては受け入れられなかったようだ。


この独自の理論を確定させたのは流刑地サハリンへの旅である。殺人犯から強盗、政治犯までが収容されるサハリンの死刑囚達を取材し、チェーホフは「これまで自明とされてきたもの、当たり前と見えたものの意味が突如崩壊する。それは事物なり世界なりの意味を支えてきた共通の了解事項が失われること」(107頁)を知った。


「意味の崩壊」・「中心の喪失」と「中心の偏在」をサハリンの旅で目の当たりにした後のチェーホフの作風は「かみ合わぬ科白、相手に届かぬことば、意味を結ばぬ科白、成立しない対話。いくらことばをかえても、それらはすべて同じことを指している―『コミュニケーションの不在』あるいは『ディスコミュニケーション』」(182頁)を人間に見、確固たる<私性>というものの瓦解を余儀なくされた人間を描くことを徹底した。ギリシャ悲劇とも19世紀ロシア文学者ともことなる作風は、生前公に認められることはなかったが、確実に「二〇世紀の不条理演劇を予告」(188頁)しており、チェーホフの死後半世紀という時間を経て、サミュエル・ベケットが『ゴドーを待ちながら』(1953年)で見事完成させる。


19世紀の終わりと共にこの世を去り、20世紀、後年の演劇人達が引き継いだチェーホフの意思は21世紀になっても古びることはない。まとめの意味を込めて引用する次の文章に表れていよう。「チェーホフの作品は『大きな物語』が崩れ去り、単一の意味をもてなくなった現代の姿を一世紀も前に予示していた。『中心』を喪失し、『大きな物語』が崩壊した世界をありあわせの思想やイデオロギーで取り繕うのではなく、チェーホフはその解体していく世界を冷徹にながめる眼と、あるかなきかの希望の声を聞き取る鋭い耳をもっていた。」


チェーホフの「冷徹にながめる眼と」「鋭い耳」でもって描いた作品世界はまさに今日の日本や世界情況と恐ろしいまでに合致する。モラルハザード、若者の変化は滑稽なまでに世の中を混乱の渦に巻き込む。しかし、チェーホフはこういうことを引き起こす人々をこそ愛した。日常にいる滑稽な人間を「観察」し、そのまま「供述」し、「提示」する。一見ドラマがないのも当然である。意味不明な行動を起こすチェーホフ作品の登場人物達はそっくりそのまま我々自身だから。そうなれば悲劇を喜劇だと言い張ったチェーホフの真意も分かるというものだ。


もう一度『桜の園』(新潮文庫)から再読しようと思う。特に『ワーニャ伯父さん』についてはこれっぽっちも内容を覚えていない。本書で浦氏が要約した文章を読んでなっとくしたくらいである。読めばきっとだらだらと続く展開に飽き飽きするかもしれないが、それもまた己の鏡像だということに気づかされるはずだ。そういった意味では中原俊監督の『櫻の園』は本当に良くできたチェーホフ論でもあるのだと改めて思う。


人間、常にブレることなく明確な「目的」を持ったドラマを引き起こすほど有能ではないんだよ、というチェーホフの声が作品には溢れているように感じる。





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Last updated  Feb 19, 2006 01:26:40 PM


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