現在形の批評

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Feb 14, 2006
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カテゴリ: 劇評
現在形の批評 #20(舞台)
チェルフィッチュ  『目的地』

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チェルフィッチュ


僕達はこういう喋り方だったのだ。


1月15日放送のNHK教育『芸術劇場』の舞台中継、チェルフィッチュ『目的地』をようやく観た。


「だらだらしてノイジーな身体」「超リアル日本語」。なるほど、岸田國士戯曲賞作家・岡田利規とチェルフィッチュが紡ぎだす劇世界に冠せられたこの2つの新スタイルは舞台を観れば良く分かる。しかし、私はあえて言いたい。「それが何なんだ」と。


約2時間の作品を3回に分けて観なければならなかった。というのも、寝てしまったからである。つまりあまり面白くなかったということである。それは何だったのかを「身体」「言語」の方面から検証してみよう。決して高所から切って捨てることなしに・・・・・・


舞台は港北ニュータウン。ここに住む人たちによって交わされる内容は、妊娠したことについての夫婦同士分かり合えない心情吐露だったり、毎週日曜日に開催されるペットの里親探しに現れる人達の話など他愛のない事柄である。舞台はほぼ「なにもない空間」。椅子と自転車が時折持ち込まれるだけだ。舞台3面には途中で何度も流される映像。それは、港北ニュータウンの歴史を説明する字幕である。


「では今から・・・・・・の話を始めます」「とまあ、・・・・・・のその時の気持ちをこれからやります」と前置きしてから登場人物による会話が始める。この内容もさることながら喋り方、身振り自体を「だらだらしてノイジーな身体」と称されるのである。「言語」においては指示語の頻出、同じ言葉の繰り返しでなんとも要領を得なく、通常の戯曲なら切り捨てても良いはずの言葉がこれでもかと組み込まれている。登場人物が喋り終わるまでの一つの台詞を原稿用紙に起こせば相当な枚数に当たるのではないか。


では「身体」においてはどうか。これまた俳優は奇怪なことをする。手をブラブラさせる、打ち付ける、ステップを踏むといった単純な日常動作の反復を喋りながら繰り返し。ある部分を除いてはた登場人物は以上の「言語」と「身体」状態を保ちながら、延々と思われるくらい喋りそして動く。そして喋る内に語る主体がそのまま別人物へスライドし語り手が交代してゆく。舞台上で行われることは以上である。


演じる俳優を見て私が思ったのは、『真剣10代しゃべり場』に出てくる若者の姿である。主張したいことは山ほどあるのに、人前でうまく会話できず、ディスコミュニケーション状態から脱しきれないもどかしさに汲々するあの若者である。繰り返す動作はそれの証左ではないかと。テレビで見たために余計にそう思う。


『ユリイカ』2005年7月号において岡田がなぜ「だらだらしたノイジーな身体を」舞台に上げるかについて、「日常における身体は、演劇の身体としてじゅうぶんに通用するだけの過剰さをすでに備えている」と述べている。つまり、俳優訓練を行い、観客を非日常へと誘う身体をわざわざ措定する必要性がないという訳である。日常身体そのままで十分何事かを成し得るということなのだろう。目指す目論見は、日常身体同士が織り成す日常的反応をつぶさに観察することにより、人間を表層的に把握しようというものである。しかし、私はそれでは駄目だと思う。なぜなら、舞台で何かをするということ自体、演じることから逃れられなく「つぶさ」な人間性が表れることなどないからである。創られた=表現としての身体がどう現実を照射し且つ隠された真実を露呈させるか、それこそが舞台で何事かをするということである。「言語」と「身体」の不一致を目指したと岡田は言うが、それこそ2つをバラバラにすればするほど、限りなく現代人の身体的特徴を逆証するという「表現」へ繋がっていくのではないだろうか。


ここで、浦雅春氏の『チェーホフ』(岩波新書)にチェーホフがスヴォーリンに宛てた次の一説を引用しよう。
「芸術家は、自分の作中人物や彼らの話の内容裁判官であるべきではなく、ただ公平な証人であるべきです・・・・・・私の仕事はただ才能ある人間であること、つまり重要な供述と重要でない供述とを分け、人物に光をあてて、彼らのことばで話すことにあります。」
一見、劇的人物ではなく、市井の人間をただ記述するだけで戯曲を書いたチェーホフと岡田の思考は同一に見える。しかし、サハリンへの旅を経て「中心の喪失」ではなく「中心の偏在」という真理を目の当たりにしたチェーホフは、それまでのロシア文学では表現できない新しい形式を持ち出す必然性があった。( 現在形の批評#19 参照)それは演劇史的にも社会史的にも革命であったのだが、岡田の方法は膨大に横たわる演劇史の重みを容易に無視し、単なるスタイルの新規さを探した結果生まれたものでしかないのではないか。確かにスタイルとしては全く新しいが、そこに岡田の人間存在への思想が透けて見えてこない。以上の理由から、私は睡魔に襲われたのである。舞台上の「死に体の俳優」から、そんなに簡単に演劇史って無視できるのか、人間をそんなに容易に信頼してもいいのかとの思いを抱いた。


舞台中継後の岩松了との対談で、このスタイルの出所がアルバイトで経験したテープ起こしにあったことが明らかにされた。テープの中の語りはまさに無駄な言葉が横溢しているが、そこに豊かな人間性があったというのだ。確かに、私も幾度かインタビュー経験をし、再度テープを聞いた時には無駄な言葉、繰り返しがあったことを思い出すが、それを逐一台詞化すれば人間そのものが描けるかは別問題であろう。


唐十郎は俳優には「痛み」という名の辱めと緊張が必要だと『特権的肉体論』に記している。異界である舞台に立つにはそういった覚悟を持たなければ演劇の真意であるはずの、観客を侵犯するほど見返す力、そこから逆照射されて発見される自己の在り得べき新側面という往還作業を舞台と観客との「あいだ」に創成する時空間を生み出すことは不可能なのだ。そういった意味では『目的地』にはナイーブな若者同士が慰め合うような悲しき親和空間しかない。年齢がそう違わない岡田のやりたいこと、やられていることが嫌というほど理解できるだけに反発してしまう。


台詞の逐一に、語られる内容をあらかじめ提示するのは、ブレヒトの異化作用なぞではなく、そうしなければ言葉の洪水によって脳内麻痺を起こして破綻してしまうナイーブな人間性のための処方箋でしかない。


追記・・・尚、岡田利規とチェルフィッチュについてはその後 、『シアターアーツ』2008年春号(晩成書房) に論考を執筆しているので、詳しくは参照されたし)





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Last updated  Apr 30, 2009 03:01:27 PM


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