翔(はばた)く女性を応援する会社を目指します

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2023.09.14
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私は、昭和57年4月~昭和62年8月末まで
東証一部上場「東京スタイル」さんに、勤務していました。

百貨店3部に属していました。
地方の百貨店担当でした。
仙台の藤崎デパート、
山形の大沼デパート
名古屋の松坂屋名古屋本店
静岡の西武
甲府の岡島などなど、すべてデパートの営業マンでした。


当時のデパート婦人服担当は、エリートコースであり、
出世コースとも、言われていました。
とにかく、アパレルメーカーの営業マンに対しては、
顎(あご)で使う。



威張っているのが、仕入れ担当者(バイヤー)でした。
殆どのデパートが、委託条件。返品は、着払い返品。
ビニール袋に入れずに、平気で、返品する。


自分勝手に写真撮りして、セールちらしに載せる。
もう酷い状態でした。場貸し屋ですね。
そんな状態でしたので、今の段階になって、
あ~でもない。こ~でもない。・・・・というのは、
当たり前の状態ですね。悪くなるのが、当然ですね。



のれんに、胡坐(あぐら)をかいたツケが回ったのだ。
・・・・・と思います。
私は昭和62年10月に
一般社員として、小売業(ロコレディ)に転身しました。
小売業は、全くの素人の私。(もちろん、この時は、後継者になるとは、思いませんでした。)
私は、今度は、小売業で仕入れする立場でしたが、
決して、デパートのような横柄な態度や、安易な仕入れの委託販売は、しませんでした。



デパートのやり方を反面教師として、
絶対、営業マンが嫌がることは、やらないのが、私の信条でした。


そして、支払いが、悪い百貨店は、ゆくゆくなくなると思っていました。
特に、支払いが悪いのが、当時西●系と松●屋系のデパートでした。
でも、地方のデパートで、綺麗な商売をする仕入れ担当者(バイヤーさん)もいました。
それは、ADOグループ(伊勢丹G)でした。


常識無い返品や、値引きは、一切無しでした。
百貨店の花形は、アパレル。特に、レディース部門。(メンズ部門では無かった。)
その中でも、婦人服が、花形の中で、一番出世コースでした。
(どの部門より、早く部長職に)
なぜなら、売上面、粗利益率面でも、百貨店の中では、一番だったからです。
外商部門より、力を持っていたのが、アパレル部門でした。




詳しくは、「アパレル興亡」
企業作家 黒木亮氏の本をお読み頂くと、嬉しいです。
その登場人物として、「堀川利幸」が、出てきます。
モデルは、4人(4人とも、東京スタイルの男性営業マンです。)
そのうちの1人が、私です。
(まとめとして)
百貨店の衰退は、時代の流れもありますが、
創業者の思想が無くなった。(三方良しの気持ちが、消滅した。)
お互い様、お互い様の心が無くなったので、衰退したと私は、考えています。
デパートで、お子様ランチを食べるのが、
月に一度の愉しみでした。
(オリエンタル中村や、松坂屋名古屋栄本店で、
  お子様ランチを食べた味は、今でも忘れません)
デパートには、夢があった。


でも、それを無くしたのは、時代の流れもありますが、
保身になった横柄な態度のバイヤーや、幹部の責任もあるかと、思います。
(百貨店で、バイヤーを3年やると、担当者の家に蔵が建つと言われていました。)
奢(おご)れるもの久しからず。
・・・だと思います。

#百貨店の衰退

#アパレル興亡

#アパレル業界

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最終更新日  2023.09.14 08:12:47
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