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Ryu-chan6708

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2006.08.19
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テーマ: 生き方上手(655)
カテゴリ: 健康


 最近、たまたま、原信太郎氏の情報が入り、昔を思い出したので記す。

 1996年12月2日号の「日経ビジネス」の巻頭言:有訓無訓に「 組織に頼らず、自己流を貫け 」という氏の次のような談話が掲載されている。

日米開戦時の公定為替レートは100円で23ドル。闇ルートで17ドル
 太平洋戦争で日本が負けると思った原氏は、東京の住宅などの資産を処分し、得た金の大部分をドルに換え、静岡県袋井市に逃げた。

 ここを選んだのは東京が破壊されても中心地であり続けるだろうという予測と、海岸から距離があるので米軍が上陸しても逃げられるという2つの理由であったという。
 現在は、東海道新幹線の掛川から在来線に乗り換えて、浜松に向かって行くと2駅目が袋井である。
 駅の出口は、片方しかない田舎駅である。

敗戦となって、円は急落。ドルの価値は20倍以上もあがり、氏は、大きな資産を得た。
 だから、氏は国家を信用しないという。

 戦後は、奥さんの父親が創業者であるコクヨに入社。43年間、コクヨで専務をしたが、個人主義を徹底したため組織の中に終始摩擦を起こしたという。

 一例として役員室にクーラーがなかった時代、工場にクーラーを入れた。役員から「資本家の味方なのか、労働者の味方なのか」と反発されたが、生産性はあがった。
 役員会でも遠慮なく発言し、先輩役員から根回しをしろと文句を言われたが、そのときは途中退席した。
 保身のための発言は嫌いであった。

 また、 仕事は遊ぶための必要悪というのが流儀だった

 戦後、米軍のPXから酒タバコの横流しを受けて売りさばき、その後、コクヨに入るが、 その初任給が7千円なのに、すでに闇で月30万円稼いでいたという

 日経ビジネスに掲載された96年当時は、コクヨの専務を辞め、「原総合知的通信システム基金理事長」となって、海外に行くのは年功序列でなく、若手の技術的なチャンスを広げるのが目的であるという。

 この日経ビジネスの記事から10年ほどたった。
 インターネットで索引したら、Slownetの「いきいき大人見聞録」に4回シリーズのインタビューで登場されていた。

 その中の話を引用する。

戦争が始まる前、氏は、日米が開戦したら、日本は負けると言ったら、クラスの全員から殴られた。
 負けるという確信は、氏が学生時代のとき、持っていた国産車の車検整備を自分でやるため、整備工場に行ったとき、たまたま、 フォードのエンジン を見て、その技術水準の高さに驚いたからである。
潤滑油の差 も歴然としていた
 こういう技術水準の国と、戦争しても負けると思わざるを得なかったのである。
 精神論では近代戦は勝てないからである。

 趣味の機関車モデル作りをはじめ、その知的な多趣味はものすごい。
 まさに自由人である。

 そのせいか、当時、86歳なのに、 視力は両眼1.5、階段も2段とびであるという
 特に健康法をしていないというが、 これだけ、知的に自由奔放に人生を送ってきたら、ネガティブなストレスは皆無であろう

 現在、芦屋に住んでおられ、相変わらず、元気で趣味に多忙で海外もとびまわっているという。

 ホリエモンもこのような人生を送ったらどうであろう。






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Last updated  2006.08.19 08:24:15
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