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私
:「 グレート・ギャツビー
」の原作は1926年だね。
野崎氏はこの本を最初1957年に訳したとのこと。
その後、1974年に「 華麗なギャツビー
」で映画化されたりして、 フィツジェラルド
の作品が日本でも有名になったので、1974年に改訳して出版した。
この野崎訳を図書館で借りて読んだよ。
A氏: しかし、君は村上春樹訳の「 グレート・ギャツビー 」を買ったんだろう?
私: その前に、まず、野崎訳を読んでおこうと思ってね。
A氏 :なんでそんな迂回をするんだい?
私
:いや、村上氏の「グレート・ギャツビー」へのほれ込みがすごいことと、この作品の訳に対する重要性を強調しているからなんだ。
その知的興味が出てきたせいだね。
村上氏は「 これまでの人生で巡り会ったもっとも重要な本を三冊あげよ
」と言われたら、次の三冊だという。
フィツジェラルドの「グレート・ギャツビー」
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」
チャンドラーの「 ロング・グットバイ 」
さらに「一冊に絞れ」となると、「グレート・ギャツビー」だという。
A氏 :日本ではそんなに評価されていないような気がするがね。
私
:それは、一つには訳のせいだという。
フィツジェラルドの英語は深いという。
だから、訳がよくないと彼の評価が正確でないというわけだ。
もっとも、彼は自分の訳が最高だとはいっていないがね。
しかし、今までの訳では不満のようだね。
A氏 :そこで君は例の知的興味とか称するのにひかれて、まず、 佐藤訳の出だしを比較 したね。
私
:野崎訳の「グレート・ギャツビー」を全部読んだが、この文章は大きく 2つの部分
に分かれると思うんだね。
ストーリーをハードボイルド的に淡々と表現する部分
と、 心理的な内的な部分を表現する部分
だね。
こないだの佐藤訳の比較のように、出だしの部分は心理的な内的な部分だね。
おそらく、その部分が訳としてはむずかしいんだろうね。
事実、今回、野崎訳を読んでいて分からない部分があり、そこに該当する部分だけ村上訳を読むとスッキリ理解できる。 なるほどと思ったね。
A氏 :例えば?
私: 最初のほうから、つっかかっただけど、例えば、次のような野崎訳がある。
「そうだ---最後になってみれば、ギャツビーにはなんの問題もなかったのだ。むしろ、ギャツビーを食いものにしていたもの、航跡に浮かぶ汚ない塵芥(ごみ)のようなギャツビーの夢の後についていたものに眼を奪われて、ぼくは、人間の悲しみや喜びが、あるいは実らずに潰え、あるいははかなく息絶える姿に対する関心を阻(はば)まれているのだ。」
A氏 :センテンスが長すぎるのか、よく意味が分からないねぇ。
私 :同じ部分の村上訳は次のようだよ。
「そう---ギャツビーは最後の最後に、彼が人としてまっすぐであったことを僕に示してくれた。果たされることなく終わった哀しみや、人の短命な至福に対して、僕が一時的にせよこうして心を閉ざすことになったのは、ギャツビーをいいように食い物にしていた連中のせいであり、彼の夢の航路を汚すように浮かんでいた、醜い塵芥(ちりあくた)のせいなのだ。」
A氏 :なるほど、スラスラ読めるね。
私:
実は、この小説を読んでみると、 この出だしの部分でこの物語のすべての部分を語っているようだね。
それを村上訳はよく伝えているようだね。
「No- Gatsby turned out all right at the end; it is what preyed on Gatsby, what foul dust floated in the wake of his dreams that temporarily closed out my interest in the abortive sorrows and short-winded elation of men.」
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