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私
:「 原爆の父」オッペンハイマー
は 1945年10月16日
に原爆を開発した ロスアラモス
を去る。
この頃すでに、 FBI
の フーバー
は オッペンハイマー
宅を 盗聴
していた。
オッペンハイマー
自身は共産党員ではないが、 彼の弟フランク
は 共産党
にいたことがあるし、 妻キティ
もそうだ。
オッペンハイマー
は、原子爆弾は、今までにない恐ろしい兵器だから国際的にオープンにして 国際共同管理下
に置くべきだと主張していた。
1946年
、 原子力委員会の一般諮問委員の議長
になる。
A氏
:単なる研究者でなく、政治にも関係するのは、 原爆を作り出した贖罪
のためだろうかね。
しかし、 トルーマン大統領
はすでに冷戦に踏み切った。
原爆の情報をソ連に提供するなどということは、とんでもないことだね。
むしろ、国家を売ることになるね。
反逆罪
となるね。
私
: 1949年8月29日
に ソ連が原爆の爆発実験
をする。
トルーマン政府
としては信じたくなかったことだ。
これが、 ソ連
が追いつくのを蹴落とすために「 スーパー」原爆
、すなわち、 水爆の開発
にアメリカを急がせる動機になる。
オッペンハイマー
は そんな強力な爆弾は破壊力が強すぎて無意味だとして反論を展開
する。
A氏:オッペンハイマー は後の 1954年に聴聞会 にかけられて、政府に関わる仕事を禁止されるが、これは例の マッカーシー旋風 の一つかね。
私
:そうではないんだね。
これは、「 マッカーシー自身がいないマッカーシー旋風の勝利
」と言われた。
A: 誰が マッカーシー の代わりになったの?
私
: 原子力委員会のメンバー
だった ルイス・ストローズ
だね。
ユダヤ人
でハイスクールを出て 最初の仕事が靴の行商
だった。
1911
年、共和党員の助手となり、勤勉でおもねるのがうまい彼は出世街道を登り、ニューヨークの投資銀行クーン・ローブの優秀な社員となる。
第二次世界大戦で海軍長官の補佐官を務め、 戦後の米国のエスタブリッシュメントの中で独力によって強大な地位を築く。
彼は、 アインシュタイン
で有名な プリンストン高等研究所
の 理事
をしていて、それで オッペンハイマー
に 所長
になるように働きかける。
こうしてオッペンハイマーは 1947年7月
にプリンストンに行き、 所長官舎に移住
する。
A氏 :最初は、両者に確執がなかったようだね。
私
: ストローズの強い権力志向
と対立
して研究所の運営で意見が合わなくなってきた。
決定打は、やはり、 オッペンハイマーの鋭い皮肉
だね。
1949年6月
、 オッペンハイマー
は国会で、 研究目的で放射性同位元素を外国の研究所に輸出するかの問題で、輸出を可とした証言
をした。
議論の末、 原子力委員会は4対1で輸出を承認
した。
この反対の1がストローズであった
。
その ストローズ
の懸念を知っているのに、 オッペンハイマー
は「 同位元素だけでなく、シャベルだって原子力のために使えます。ウソではありません。ビール瓶だって原子力のために使えます。本当です
」と証言した。
A氏 :痛烈な皮肉だね。
私
: ストローズ
は怒りで 顔が真っ赤
になったという。
男の顔にはあまり現われない、 憎悪の表情
がそこにあった。
ストローズ
は権力があり、神経過敏で、傷つきやすく 復讐心に駆られる男
だった。
彼は アイゼンハワー大統領
に働きかけたりして、 オッペンハイマーの失脚
を図り出す。
A氏 :だから、 マッカーシー にやらせたくなかったんだね。
私
:かくして、 1954年4月12日
に、 オッペンハイマー
が政府の仕事をするための 保安許可
を継続すべきかの聴聞会
が始まる。
一種の赤狩りだね
。
1ヶ月ほどかかる。
結論は保安許可の取り消しであり、政府の機密を要する仕事はできないことになった
。
ストローズの私憤は実った。
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