デフレの正体 0
原発 0
体罰 0
糖質制限食 0
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私:8月30日のテレ朝のサンデープロジェクトは、衆議院選の当日であることを配慮して政治問題を避けていたね。 しかし、不思議なことに自然に政治がからむ。 特に、大きく取り上げたのは、皇室典範の問題だね。 このままだと、後何十年もすれば、天皇家が消滅する危険性が指摘されていたね。A氏:俺もこのTV番組を見たよ。 皇室典範改訂は小泉政権時代にかなり論議され、女系天皇を認めるかという改訂論まで出ていたね。 それが秋篠宮に男子が出生されてから、急に議論がしぼむね。私:しかし、このサンデーモーニングでは、そんな悠長な問題でないことを明らかに指摘しているね。 そして、マッカーサーの陰謀まで登場する。A氏:マッカーサーは、占領後の安定した統治のために天皇制を利用するが、同時に天皇制の継続崩壊を狙ったという。 宮家を大幅に減らしたことで、男系の天皇の維持を困難にする。私:それが次第に現実化してきたということだね。 この問題は、日本社会の少子高齢化同様に、将来を確実に予測できるから、こわいね。 宮家の問題、皇室典範の問題は男系天皇制の問題からはあまり先延ばしができないね。
2009.09.03
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ポスト戦後社会 私:この知的街道も現代に近づいてきたが、現代を歴史的に捉えて、新書版にまとめることは難しいだろうね。 どんどん、社会は変化していくからね。 特にグローバル化が激しい。A氏:君のこの知的街道は、シリーズの1巻、2巻、3巻、4巻、5巻、6巻、7巻、8巻と続いたね。私:8月30日の選挙による民主党の政権交代は、長い間、続いた自民党政治に終止符を打った戦後史の一大問題だが、当然、この本はそれを予測していないね。A氏:そこに現代史のむずかしさがあるね。私:この本は、高度成長が後半に入る1970年代からはじまる。 まず、1971年のニクソンショックでここから円高が始まる。 1973年オイルショック。 これで日本は低成長時代に入るが、工業製品の品質競争力は向上を続けるね。 1980年後半から土地の高騰が始まり、バブルが到来。 それが1990年頃から崩壊して、「失われた10年」となる。 2001年に小泉内閣発足。 そしてイラク戦争が始まる2003年ごろまでの30年間位を扱っているね。A氏:高度成長時代同様に、俺たちがその真っ只中に生きていた時代だね。私:だから、ことさら新しい知識はなかった。 ただ、俺が知的興味を持ったのは、この戦後から高度成長を経て、現在に至る間を簡単にどのようにまとめるかだね。 著者は、「敗戦後から高度成長期までの1945年から1970年代前半」を「戦後社会」、「1970年代後半から現在まで」を「ポスト戦後社会」と分けているね。 そして、この2つの社会の時代意識の特徴を「戦後社会」は「夢の時代」、「ポスト戦後社会」は「虚構の時代」と言っているね。A氏:たしかに、戦後はソニー、ホンダに代表されるように、アメリカの技術に追いつき、アメリカの中流層の生活に追いつくという「夢」があったね。私:それがテレビでアメリカを追い越し、ついで自動車まで追いつく。 そのため、技術を誇ったアメリカの民間の製造業は崩壊していく。 アメリカは元気がなくなる。A氏:アメリカはレーガン時代に市場原理主義を導入するね。 技術的にはIT分野、そして次に金融資本の活動に生きる道を模索する。 そして勢いを盛り返す。 1991年、ソ連が崩壊する。 グローバル時代に入る。私:日本も「失われた10年」を解決するために、民営化と規制緩和を行う。 これは実は中曽根政権から始まっており、それが小泉政権につながっている。A氏:「戦後社会」と「ポスト戦後社会」との違いで、大きな特徴は、格差拡大だろうね。私:高度成長時代には、会社も成長するから、ポストも増える。 当時、松下電器が仕事別賃金制度を導入するということで、話を聞きに行ったことがある。 聴衆から、「課長のポスト数が決まっているから、問題ではないか」と質問があったが、講師をしていた人事部長が「どんどん、会社は伸びていて、課長のポストも増えているから心配ない」と平然と答えていたね。A氏:それが、約30年後には松下もリストラの嵐が吹き荒れたね。私:「虚構の時代」となったね。 そして、高度成長の負の部分である核家族化、都市化、郊外化、公害問題などを受け継ぐことになった。 高度成長は「日本的なもの」を破壊してきた面もあるね。 著者は、「『日本史』がもはや不可能になる時代を生きている」と最後にまとめているね。A氏:今度の政権交代は「虚構の時代」の閉塞感に対する国民の叛乱かね。私:後世の人は2009年の変化をどのように評価するだろうかね。
2009.09.01
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イスラムの怒り私:イスラム教徒のあいだから、怒りで暴走し、テロを引き起こす過激派を減らすには、三点が必要と著者はいう。 まず第1は、弱い者いじめはしないことだ。 とくに女性、子ども、高齢者の殺害だね。A氏:「非戦闘員」だね。私:アメリカは軍事力では取るに足らない相手に戦争を挑み、蹴散らす。 しかし、イスラム過激派のテロ組織は、イスラム圏の国家を追放されているのでその庇護は受けられない。 どの国家のいうことも聞かず、ネットワークを組んでいる。 そして、世界中のイスラム教徒を殺戮し、侮辱することに対して、暴力で応える。A氏:戦争で降伏するのは「国家」だが、テロ組織は「国家」でないから降伏しないね。私:しかし、アメリカ大統領はブッシュからオバマになった。 イスラム教徒は、オバマに対する期待感がある。 オバマのフルネームは、バラク・フセイン・オバマであり、フセインはイスラム教徒的な名前で、バラクも、アラビア語のバラカ、イスラムでいう「神の恩寵」を意味するという。A氏:彼の父親はケニア出身だから、オバマ大統領の名前からして、イスラム教徒だね。 母親は白人でクリスチャンだがね。私:イスラム法では、父親がイスラム教徒なら子どもは自動的にイスラム教徒になる。 しかし、オバマはキリスト教の洗礼を受けている。 両親は離婚したので、母親のほうのクリスチャンになったと言えるが、厳密に言うと、イスラム教を「棄教」したことになり、イスラム法では死罪だという。 現在、オバマ大統領に対するイスラム教徒の期待感が強いので大目に見られているが、期待が裏切られるようなことになると問題だと著者は言っているね。A氏:今年、オバマ大統領は4月ヨーロッパ訪問で、最後にトルコを訪問しているね。私:トルコの国会で、彼はイスラム世界との融和を訴え、「私もイスラム系だ」と述べているという。 注意点の第2に、聖典コーラン、預言者ムハンマド、神を侮辱、嘲弄、揶揄、不適切なかたちで使用しないということだという。A氏:2005年にデンマークの新聞の風刺画が大きな問題になったことがあるね。私:第3は、イスラムに由来する価値観や生活習慣、すなわち、イスラム文化を「遅れている」と侮辱しないことだね。 著者もイスラム教徒の日常行動について惑わされているようだね。 それを理解するために、著者はイスラム教徒は、因果律を信じていないと説明しているね。 西欧でも、ニュートンが「万有引力でリンゴが落ちる」と言うまでは、「神がリンゴを落としている」と考えていた。 ニュートン以降、「神の御意志によってリンゴが地面に落ちてくるのでない」という自然科学の因果律が生まれる。 イスラム教徒も自然科学の因果律は信ずるが、人間の社会行動では明確な因果律観がないようだというA氏:自己責任ではなく、すべては神がしたことになるというがわけだね。私:その意味で、イスラム教徒の価値観をすべて遅れているとして否定はできないとしているね。A氏:多文化の共生ということは、お互いの文化を冷静、かつ、謙虚に学ぶことから始まるようだね。私:俺も10年くらい前に、イギリスに行ったことがあるが、偶然、数日間、移民のイスラム系のビジネスマンとつきあった。 彼は仕事上の昇進では、イスラム差別があるとこぼしていたがね。 もっとも、イギリスは伝統的に階級社会だからね。 あるとき、子供が生まれたということで、夫婦できれいなイスラムの着物を着て、赤ちゃんを抱いて、上司の家にきた。 毎日、スーツ姿の彼を見ていたので、民族衣装の彼を見て、ビックリしたね。 夫婦と一緒に写真をとったことがある。 子どもが生まれたときのイスラム教の習慣らしいね。 日本の着物文化や、七五三の祝いを思い出したね。 こういうそれぞれの民族の独自の文化を外国人が尊重することは多文化の共生には不可欠だね。
2009.08.24
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イスラムの怒り私:19世紀から20世紀前半にかけて、イギリス、フランスなどの西欧列強諸国の中東支配のときも、イスラム教徒の野蛮さや好戦性という「理屈」が使われた。 第2次大戦後に、イギリス、フランス、ドイツに、イスラム教徒が移民として流れてくる。 イギリスとフランスは、かっての植民地から労働力を調達するので、言語問題はすくなかったが、ドイツは植民地を持ち損ねたので、移民はドイツ語が話せないという問題があった。 これがドイツに移民がなじめない大きな原因となっているようだね。A氏:単に労働力不足を補うための移民でなく、移民には次第に、子どもが生まれ、育ち、社会を形成していくね。私:しかし、イスラム教徒は、貧困な生活をしているので、共同体を維持するものとしてイスラム教が重要な精神的な支えとなる。 これらのイスラム教徒に対する差別は、9.11テロの頃から激しくなったようだね。 これが返って、反発を生み、逆効果になっているようだね。 ところで、近代では、キリスト教と国家との関係は次第に疎遠となる。 フランスでは1905年、「国家と教会の分離法」が制定される。 こういう憲法原則をもっているのを「世俗主義」という。 「俗っぽい」という意味でなく、宗教からの中立性を意味する。 フランス独特の世俗主義を「ライシテ」というそうだ。A氏:だから、フランスでイスラム教徒の女子学生のスカーフが学校では問題になるわけか。私:ところが、イスラムの国=イスラム教の国という誤解があるが、フランスのようにトルコ共和国は政教分離を憲法で定めている。A氏:トルコは世俗主義だね。 日本も世俗主義だね。私:サウジアラビアやイランは逆で、イスラム法が国家の法律に入っている。 これを「イスラムの国」という。 トルコの国民の95パーセントはイスラム教徒だが、「イスラムの国」ではない。 サウジアラビアやイランでは複数の妻をもつことは「合法」だが、国家の法律をイスラム法から切り離したトルコでは「違法」となる。 ところで、著者は2008年にトルコの東南部にあるアンタキヤという都市を訪れている。 「キリスト教徒」という言葉はここで生まれたという。 今のアンタキヤにはイスラム教徒も多いという。 しかし、宗教対立などなく、共生しているという。 それを打ち壊したのは1947年の国連のパレスチナ分割決議と翌年のイスラエル建国だね。 今のイスラエルとパレスチナの衝突をあたかも宗教戦争のようにとらえるのは間違っているということだね。 明日は、イスラム教徒のあいだから、怒りで暴走し、テロを引き起こす過激派を減らすには何が必要か、著者がまとめた三点についてまとめよう。
2009.08.23
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イスラムの怒り私:ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は一神教で、神は一人だから、いずれも同じ神を信じていることになる。 イスラム教では、キリスト教やユダヤ教の神も自分たちの神と同じなので「アッラー」と呼び、兄弟とみなしてきたという。A氏:それなのに、なんでキリスト教はイスラムを嫌うのだろうね。私:ユダヤ教は神からのメッセージを旧約聖書に基づいて信仰してきた。 キリスト教は、神がこの世につかわしたイエスの行動と言葉を信仰の対象としてきた。 その後、600年以上もたってから、アラブ人ムハンドが神のメッセージを伝える預言者として登場し、イスラム教が生まれる。A氏:イエスも預言者だが、ムハンドは至高の預言者だというからキリスト教にとっては邪教だね。私:イスラム側は、ユダヤ教もキリスト教も、一神教の兄弟と思っているから、近親憎悪だね。 だから、キリスト教は、異教徒の仏教やヒンドゥー教に対してもっていない敵意を、イスラム教にはもっていた。 キリスト教は伝道師により世界に拡大し、世界宗教とも言われるようになるが、これも世界的に拡大するイスラム教徒をキリスト教徒に変えることはできなかった。 後発の一神教のイスラム教のほうが、古い一神教のキリスト教よりいいと考えているからだ。A氏:キリストは「神の子」としたが、イスラム教のムハンドは生身の人間だね。私:それもキリスト教がイスラム教を嫌う理由だね。 ムハンド自身、彼を神格化することを厳格に禁じている。 イスラム教では神は絶対だ。 神が子を産むことなどありえない。A氏:イスラム教はイエスに神性を認めないわけだね。私:キリスト教の中でも、イエスは人間か、神の子かという論争があって、結局、「神と子と聖霊」の一体化という「三位一体」となる。 イスラム教は神の子としてのイエスを認めないが、預言者としてのイエスを否定していないから、イスラム教側からしては、キリスト教に対しては意外なくらい寛容だという。 もともと、キリスト教は、今の中東地方で生まれ、次第に中心がヨーロッパに行く。 だから、中東はイスラム教徒と古いキリスト教徒とが共生していた。A氏:以前、NHKテレビで中東地方の民衆を取材した番組を見たが、ある老婆は、かっては、イスラム教徒もキリスト教徒も同じ地区で仲良く共生したいたのに、何故、憎むようになったのかと嘆いていたね。私:キリスト教側からのイスラム敵視はキリスト教がヨーロッパに移り、ヨーロッパの宗教、西欧の宗教となってから生まれたという。 2006年にローマ教皇ベネディクトがイスラムを非難して 「信仰とは暴力によって広めるものではない。 理性によって広めるべきものである」 と言った。 しかし、「理性」という考えは古代ギリシャで生まれたが、それらは、イスラム王朝で保護され、アラブ・イスラム世界にその知恵の体系が伝わる。 ヨーロッパが古代ギリシャの「理性」を知るのは、直接ギリシャ語でなく、いったん、アラビア語に訳され、それが12世紀頃にようやくヨーロッパの学問用語だったラテン語に訳された。A氏:随分、遠回りして伝わったもんだね。 なるほど、英語の学問用語にアラビア語源のアルコール、アルカリ、アルゴリズムというのが残っているのはアラブ経由をしているせいだね。 それを西欧は忘れているわけだね。私:案の定、世界中のイスラム教徒は、このローマ教皇ベネディクトの発言に反発した。 教皇はあわてて、後に「誤解だ」と遺憾の意を表したという。 次に歴史的に問題になるのは、19世紀のイギリス、フランスなどのヨーロッパ列強による中東支配だね。これは明日、ふれることにしよう。
2009.08.22
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イスラムの怒り私:イスラムについては、俺たちはあまりなじみがないせいか、誤解している点が多いだろうね。 この新書本は、イスラムの正確な理解のために、平易に解説してくれるね。 ブッシュ政権は「テロとの戦い」で想定していた敵は「イスラム原理主義者」だね。 著者は、ブッシュのこの戦いの失敗として3つあげている。 第1は、ムスリム(イスラム教徒)自身、「イスラム原理主義」という言葉を理解していない、それをブッシュ政権は知らなかったという失敗。A氏:「イスラム原理主義」というのはアメリカがつくりだした用語ということか。私:イスラム教徒自身、それが誰を指し、どんな組織かを知らない。 第2の失敗は、イラクのフセイン政権はイスラム原理主義とは何の関係もないということだね。 フセインはイスラム的な道徳からかけ離れた人物で、敬虔なイスラム教徒は、フセインを嫌っていた。 フセイン時代はバース党政権だが、バース党の正式名は「社会主義アラブ復興党」だ。 社会主義を頭につけているくらいだから、イスラムに従った統治はしない。A氏:世俗的なフセイン政権とイスラム過激派のアル・カーイダがくっつくことはないわけだ。 フセイン政権が倒れた空白を狙って、反米のアル・カーイダがイラクに入ってきたね。私:イラクの「スンニー派対シーア派」の抗争も政治的利権の争いであって、宗派の抗争ではないという。 ブッシュの第3の失敗は、イスラム教徒に対して戦争という手段を取ったことだ。 そのため、イスラム教徒の「非戦闘員」を殺戮する結果となった。 イスラム教徒が意味する「非戦闘員」は、子ども、女性、高齢者だ。 戦争時は男性は全員、「戦闘員」となる。 「非戦闘員」、特に子どもの死は、イスラム教徒の怒りを買うことになった。A氏:しかし、欧米は、何故、同じ一神教のイスラムを嫌うのかね。私:歴史的な背景があるね。 それは明日の話題としよう。
2009.08.21
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私:今朝の新聞には8月15日という日付の下に「終戦記念日」とあるね。 これがこの日の正式名かね。A氏:カレンダーにもそうなっているね。私:本当は、敗戦の日なんだが、戦争が終わってホッとしたという気分でつけたんだろうかね。A氏:この日から、空襲におびえて、不気味な空襲警報のサイレンで、夜、電灯を黒い布で囲むことも、なくなったからね。私:この記念日になるといろいろな人がいろいろな場所で、この日の体験を語っているが、次第にナマの体験を語る人が減っているね。A氏:それに本当の戦争の地獄を見た第一線の兵士だった人は、多くは黙して語らない。 語る言葉もないし、語りたくもないんだろうね。私:俺には戦争の悲惨な体験はないね。 俺の8月15日は母の実家の田舎の家で迎えたね。 夏休みだから、山奥の母の実家に行っていたんだね。 俺の兄は、学徒動員で工場勤めだったから、地方都市にある俺の家から通っていた。 夏休みなしだね。 内陸奥地の地方都市だから、B29による空襲もなかった。 8月15日は、記憶では俺がいた田舎は晴天だったと思う。 伯父に連れられて、魚をとるために朝早くから川に投網に行った。 途中、昼飯を食べに、近くの農家に寄ったら、そこで戦争が終わったと言われて知ったね。 実は、俺の家があった地方都市は、8月13日だと思うが艦載機の機銃掃射を受けている。 艦載機は、俺の兄が働いている工場を狙った。 俺の兄は、それを逃れて、田舎にある父親の実家に行った。 母も俺が泊まっている実家に逃れて来た。 その夜、母と久しぶりに会ったが、寝るとき、母がしみじみと「日本は負けだね」と言った。 軍国少年の俺は 「きっと神風が吹く。 そんなことを言うのは非国民だ」 と怒ったことをいまだに鮮明に記憶しているね。 そして、2日後に母の言うように日本は負けた。 夏休みが終わって、学校に行って、すべてが百八十度、変わりだしたことを体験することになるね。 教科書に墨を塗るのは、もう少し後になるがね。 それが、俺が「終戦記念日」で連想することだね。
2009.08.15
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私:8月4日の朝日新聞の夕刊の「TV 訪ねてみれば」というコラムで、昨年8月にNHKドラマ「帽子」のドラマの舞台となった「呉市」をとりあげているね。 実は俺はこのドラマは見ていない。A氏:このドラマには、放送から2ヵ月後になくなった緒方拳が出演しているね。私:呉市内の帽子屋さんの話だが、山本五十六がこの店に軍帽を注文する。 戦中は、店のカーテンは昼でも閉めっぱなしだったという。 仕事の忙しさから海軍の動向を察知されるのを防ぐためだという。A氏:「軍帽作り」も「軍事機密」だというわけだね。 しかし、太平洋戦争ではアメリカに暗号を解読されているから、チグハグだね。私:俺はこの欄の記事を読んで知的街道でひっかかったのは、「高度成長」の基盤となった日本の技術力との関係だね。 すなわち、このコラムで、呉市の戦艦大和を作った建造技術が、戦後、大型タンカー製造に引き継がれ、日本が世界のトップに躍進したことだね。 日本の経済成長に大きく貢献する。 このコラムには次のような文章があるね。 「呉市は自己矛盾の固まりの街だった。 大和を造った誇りと、戦争に敗れた挫折感。 巨大なタンカーを造って、ようやくその技術力に誇りを取り戻した」 高度成長時代には「造船業は日本のお家芸」と言われたが、オイルショックで高度成長が終わった後に韓国に追い越されるがね。 「高度成長の原動力」は、やはり技術に負けた敗戦から立ち上がり、勝ったアメリカ以上の技術力をつけることだったと言えるようだね。 「経済成長」というときに、どのような技術革新があるのかを明確にすべきだね。 かって、バブル崩壊で日本経済がどん底になったとき、いかに経済成長するかということが問題になった。 このとき、当時自民党で郵政民営化に反対していた福島県選出の荒井広幸氏が「朝までテレビ」で、欧州でやっているセル方式を日本に導入して、日本企業を活性化して経済成長すべきだといっていたね。A氏:セル方式というのはトヨタ生産方式の1つではないの?私:政治家の技術音痴を示した発言だね。 セル方式は、1960年代にはトヨタ生産方式の1つとして開発され、「高度成長」の後半の1980年代に品質で日本が世界を制覇するとともに、1990年代に欧米に広がった。 それすら知らないとは不勉強だし、当時、出席者も司会者も誰もそれを指摘できなかったね。 こういう意識が、次の小泉竹中路線に継承されていると俺は思うね。 技術音痴の政治家に、経済成長を語る資格はないね。 怖いのは中国だね。 首席をはじめ、幹部は理工系の大学出身だね。 経済成長にはそういう視点を持つべきだね。 バラマキではダメだね。 魚を与えるのでなく、魚を取る技術を与えなくてはね。
2009.08.06
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A氏:「フジヤマのトビウオ」と言われていた古橋広之進氏が、世界水上選手権が行われているローまで、2日に死去されたと昨日のテレビで報じられていたね。 新聞では、今日の朝刊で報じられている。 前夜まで元気だっただけに意外な死去だったね。 1928年生まれだから、享年80歳だね。私:有名なのは、49年に全米選手権に参加して、400、800、1500メートル自由型で世界新記録を更新して、アメリカ選手をはるかに引き離して勝ったことだね。 2位にはいつも橋爪四郎選手がいたね。A氏:同じ49年には、湯川秀樹氏が日本人で始めてのノーベル賞を受賞。私:戦争に負けて、心身ともに、落ち込んでいた日本人に、日本人も勝てるという希望を持たせたね。 特に、俺たちは当時、学生だが、夢を持てたね。 残念ながら、戦争に負けたため、戦後すぐのロンドンオリンピックに参加不可能のため、古橋氏は、オリンピックの金メダルを獲得できなかった。 1952年のヘルシンキオリンピックから日本は参加するが、すでに、水泳の長距離では若いアメリカのハワイ出身のコンノ選手が台頭してきた。 年齢的に若さが必要な水泳で、古橋氏は24歳だった。 その上、南米遠征でアメーバ赤痢にかかり、体力が落ちていた。A氏:結局、400メートルは8位。 1位はフランスの選手、2位はコンノ。 1500メートルは、古橋氏は出ず、橋爪氏が出るが、金メダルはコンノ。 橋爪氏は銀メダル。私:古橋選手は悔しくて、試合直後、隣のプールで、体を振り回していた姿が、今でも頭にこびりついているね。 時代の波には勝てなかったんだね。 心から、ご冥福を祈る。
2009.08.03
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高度成長私:日本企業の国際競争力が次第に上昇し、工業製品市場で外国と遜色のない価格と品質を実現できるようになった結果、67年を転機にして、貿易収支は恒常的な黒字になる。 その繁栄ぶりは70年の大阪万博の賑わいに象徴的に示されるね。 もっとも、俺は仕事が忙しくて、そんな混雑している博覧会に行く気はなかったがね。A氏:俺も行かなかったね。私:日本は工業製品でアメリカに追いつき、追い越したといえるね。 しかし、そういう日本の好調さに対して、アメリカからの抵抗が当然生まれるね。 1970年代になると、アメリカの国際政治・経済両面での圧倒的な優位が崩れる。 政治的には1972年のアメリカのニクソン大統領の訪中だね。A氏:一方、経済面では、ベトナム戦争で疲弊したアメリカは大きな財政赤字を抱えることになるね。 ドルの金などとの交換停止をやるね。私:今回のアメリカの金融危機の始まりはここからだという学者もいるね。 訪中とともに「ニクソンショック」だと言われているね。 今まで、1ドル360円の固定相場制が崩れ、変動相場制に次第に移行し、以後、円高になっていき、円高に一喜一憂することになる。A氏:ニクソンは貿易赤字に占める日本の輸入が多いことから、圧力をかけるね。 これから、日本に対する政治的な圧力はその後の歴代大統領が継続してやってきたことだね。 貿易摩擦だね。私:1979年に「ジャパンアズナンバーワン」という本がアメリカから出版される。 今まで、日本企業の「後進性」とされてきた企業別労働組合、終身雇用、年功賃金なども見直される。 「カイゼン」や「ケイレツ」などは国際的に通用する日本語となる。 トヨタ生産方式は、1980年代にはアメリカのMITで「リーン生産方式」として評価されるね。 しかし、日本の躍進の原因であった「後進性」構造に目をつけたアメリカは、それに介入を始めるね。A氏:1989年から始まる「日米構造会議」だね。私:金持ちになった日本では1986年には「財テク」という言葉が流行り出す。 ある中堅企業の社長は、1日にして億近いカネを「財テク」で稼いで、時の人になる。 もっとも、この会社は、バブル崩壊で破産したがね。 いい技術を持っていた会社なのにね。 「財テク」をしない経営者は、経営能力がないと言われたくらいで、経営者向けのセミナーが盛んになるね。 このあたりから、理系の優秀な学生でも金融機関に高い給与で就職するケースが生まれるね。 急になりあがった金持ちは、効果的な金の使い方を知らないみたいだね。 紀ノ国屋文左衛門みたいだね。A氏:1989年、ソニーがコロンビア・ピクチャー・エンタテイメント社を、三菱地所がロックフェラー・グループ社を買収する。私:技術革新による生産性向上でなく、利益追求を中心にした経済成長に関心がいくようになるね。 こうして、バブルが生まれ、ついで1990年代のバブル崩壊とつながる。 この本では日本は高度成長時代を経て、「経済成長は神話になった」とあるね。 それは、今回の衆議院選挙の各党のマニュフェストに「経済成長戦略」が乏しいという批判によく現われているね。 「成長なくして福祉なし」という両面は、経済についてまわる神話なのだろうかね。
2009.08.01
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私:高度成長が始まる前の1952年にサンフランシスコ講和条約が発効され、同時に公職追放された人が多数解放される。 1955年の鳩山内閣の閣僚18名のうち、13名が公職追放を受けた経験者だという。 「もはや『戦後』ではない」という経済白書の言葉は56年の「文藝春秋」に寄稿した中野好夫の文章から借りたものだという。 中野は、この評論の中で、目前に展開する保守合同などによる旧世代の復活に警鐘を鳴らし、戦後意識から抜け出して、未来に向かってのビジョンを明確にすべき時期に来ていることを訴えたものだという。A氏:「もはや『戦後』ではない」という経済白書の意味と違うね。私:しかし、この本ではふれていないし、経済白書でも明記されていないが、この時代の産業人の考えには、敗戦コンプレックスがあったと思うね。 特にアメリカに対する技術コンプレックスだね。 アメリカに負けたのは、その巨大な物量と技術の勝負に負けたと感じたんだね。 俺が働いた電子部品の会社の創業者は、大手の課長だったが、戦争中、徴用されて中国大陸の無線隊の隊長になったが、無線機が故障すると交換する部品はほとんどアメリカ製であったという。 敗戦後、彼は大手企業をやめ、数人の仲間と電子部品の会社を作る。 目標はアメリカの技術吸収だね。A氏:トヨタも、敗戦後、すぐにアメリカのフォードに2名の技術者を派遣しているね。私:彼らが持ち帰ったのはエンジン技術など以外に、提案制度があるね。 これが後に「カイゼン」の母胎になるね。 ある有名な評論家は、高度成長の戦後体制のは、戦時体制を長い間、引きずっていた、と言っていたが、ある意味で「戦後は終わった」のでなく、日本は体制を整えて、アメリカ技術への反撃戦に入ったのが高度成長だと俺は思うね。A氏:そう言えば、俺たちの世代は、理科系の大学卒業生は初任給が文科系より高く、就職率もよかったね。私:ホンダのように政府の反対を押し切ってまでして、そのエンジン技術を生かして自動車を作り出す。 過当競争といって、俺がいた電機業界もすごい競争だったね。 競争に勝つためには、技術力が強くなくてはならない。 しかも、相手はアメリカだ。 1960年代に、俺の会社がアメリカのある会社と技術提携した。 あるとき、こう工場長が「この部品は、アメリカでは、大きな機械で、おばちゃんの運転で、1工程でやっている。 ところが、当社は、大の男が10人で10工程でやっている。 これではダメだ。」 といって、すぐに大方の機械を買って、やりだした。 現場技術者が集まって試行錯誤の繰り返しで、半年くらいで、ついにアメリカに追いついたね。 これが日本国中の大企業、中小企業の現場で行っていた。A氏:ジャーナリストでその技術者たちに目をつけたのが、日本の高度経済成長を支えた現場の技術者たちを活写した内橋克人氏の「匠の時代」シリーズだね。 また、山根一真氏の「メタルカラーの時代」だね。 山根氏によると高度成長に寄与したメタルカラーは約10万人という。私:1970年代には、アメリカのテレビ技術を追い越す。 当時、アメリカに行ったら、ドイツから来た技術者が、日本にはカメラをやられ、スイスは時計をやられていると言っていたね。 すでに技術向上で品質は世界を制するようになっていたね。 そして、1980年代には自動車でアメリカを制するようになるね。 GMの凋落はこのときから始まっているんだね。 この本では、この技術立国問題と高度成長の関係をあまり重視していないようだね。 世界的に貿易が拡大し、大量生産時代に入り、「品質が良くて、かつ、安い」という日本の工業製品の製造技術が高度成長の基礎をなしていたと俺は思うね。 明日は、それが崩壊していく姿を考えよう。
2009.07.31
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私:高度成長が、何時から始まったかというのは、後から振り返ると、1955年くらいではないかね。 1956年の経済白書は有名な「もはや戦後でない」に続いて、 「われわれはいまや異なった事態に直面しようとしている。 回復を通じての成長は終わった。 今後の成長は近代化によって支えられる」 とある。 副題が「日本経済の成長と近代化」とあり、ここに「経済成長」という言葉がはじめて登場する。 そして、「経済成長」は戦後日本経済を象徴する言葉になる。 しかし、1955年に急激に経済が伸びたわけではない。 その背景には、いろいろな混乱が次第に安定してきたということがあるね。A氏:今、政治の問題になっている「政権交代選挙」だが、もし、民主党が政権を握れば、鳩山代表が総理になるのかね。 彼の祖父の鳩山一郎が総理になるのは1955年だね。 それはまでは保守派もタゴタしていていた。 汚職問題もあり、指揮権発動問題が1954年だね。 保守派の分裂が、ようやく1955年末に収束し、自由民主党(自民党)が誕生する。 これから、今日まで、自民党政権の長期政権が続くことになる。 それを孫の鳩山由紀夫が終止符をうつことになるのかね。私:社会党のほうもいろいろな派が統一されて、ここに保守、革新の2大政党の対立時代が生まれ、後に「55年体制」と呼ばれね。 1955年は労働運動も転機の年になるね。 この年、日本生産性本部ができ、生産性向上運動がはじまる。 生産性向上とは、資源、人力、設備を有効的に活用することだね。 そして、生産性を向上して、コストを下げ、市場を拡大し、雇用を増大して、実質賃金と生活水準の向上を図るという運動だね。 俺は、これが高度成長の裏にある支配的な考えだと思うね。 明日は、それについてふれよう。
2009.07.30
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高度成長私:このシリーズは、幕末から始まるが、大体、最初は、2ヶ月に1冊くらいのペースで刊行されていたね。 ところが、6巻目の「アジア・太平洋戦争」から、次の7巻目の「占領と改革」の間が半年近く空いてしまった。 だんだん、現代になるにつれ、著者のほうも新書版にまとめるのが難しくなってきたようだね。 間延びしてきたんで、俺もつい、このシリーズの関心を失ってしまった。 1年ほどたち、今年になって、あるとき、本屋でこのシリーズの新しい本を見たんで、すぐに買ったよ。 これがなんと9巻目の「ポスト戦後社会」だね。 この本は面白かったが、読んでいるうちに、何か欠落しているのに気がついた。A氏:なんだね?私:途中の8巻目の「高度成長」を読んでいなかったんだね。 これは昨年4月に刊行されている。 あわてて、後追いで買って読んだ。A氏:考えて見ると、俺たちはこのシリーズでいくと5巻目の「満州事変から日中戦争へ」の時代に生まれ、6巻目の「アジア・太平洋戦争」の時代に小学生で軍国少年になり、7巻目の「占領と改革」時代が学生時代だ。 その意味で、これは俺たち世代の新書シリーズによる時代史となるね。私:そして、俺たちがビジネス現場の第一線で働く8冊目の「高度成長」になるわけだ。 この時代は、本に書いてあることと、自分のナマの体験とが比較できるね。 最近、テレビでやっていた「官僚たちの夏」もそうだね。 それにしても、この時代の複雑性を新書版に収めるというのは至難の業だね。 日本の国内の問題だけでなく、同時並行的に世界の動きが大きく影響する。 だから「響きあう脳と身体」で甲野氏が言っているように、現実は「同時並行処理」だ。 しかし、本にして示す思考や論理というのは根本的に「時系列順」だね。 そういう根本的な表現上の困難があるね。 この8冊目「高度成長」を読みながら、過去の俺たちをまとめてみたいと思うね。 明日は「経済成長」という発想が、始めてこの時代に生まれることから考えよう。
2009.07.29
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ナチが愛した二重スパイ 私:どこかの書評で知り、図書館で予約して借りた。 400頁ほどの長編だが、実話だね。 本命のスパイ活動よりは、独英の関係者の生い立ちや経歴など、詳細だね。 第2次大戦のスパイの物語なので、国家機密的なことが多い。 だから、長い間、事実の全体が公表されなかった。 ようやく全体の公文書も公開されるようになり、本書が生まれたというわけだね。 原書は2007年の発行だね。 A氏:二重スパイというのは、ドイツとイギリスの二重ということかね。私:主人公はイギリス人のエドワード・チャップマンだが、腕の立つ犯罪者だね。 1914年生まれ、第2次大戦で青春を送ったわけだ。 83歳で死亡。 1940年頃、イギリスのジャージー島の刑務所に入るが、この島がドイツに占領される。 そこで、彼はドイツのスパイになることを志望する。 ナチは、彼をスパイとして訓練し、イギリス本土に送り込む。 当時は、スパイは夜間に飛行機でイギリスに飛び、パラシュートで降りるんだね。A氏:何の目的で行くのかね。私:このときのチャップマンに指示された仕事は、航空機工場の爆破だね。 当時、イギリスの木製爆撃機がドイツに損害を与えていたので、その工場の破壊工作だね。 ところが、チャップマンは、自らすぐに捕まり、イギリスのスパイを志望する。A氏:ナチスをだますわけか。私:愉快なのは、当時のイギリスのスパイ本部は、ナチのスパイ本部の暗号を解読しており、チャップマンがイギリスに侵入することは事前に知っていた。 この暗号解読の事実は、最後までチャップマンには知らせなかった。A氏:航空機工場の爆破はどうなるんだね。私:ドイツスパイとして活躍していることを示すには、まず、航空機工場の一部が爆破されたデマをナチに流すことから始まるね。 イギリスの新聞も協力する。 ナチスも信ずる。 チャップマンは、後にヒットラーの名誉ある鉄十字章までもらっている。 一旦、帰った彼にスパイとしてナチが欲しかった情報が2つあった。 1つは、一時活躍していたUボートが、よく沈められるようになり、イギリスは新探査機を開発したのでないかというので、その情報収集が必要となる。 もう一つは、V1号ロケットだね。 Uボートのほうは、原因は簡単で、イギリスはドイツ軍の暗号を解読していたんだね。 それをナチは知らなかった。A氏:V1号は今で言うミサイルだね。私:ナチはロンドンに向けて発射するのだが、着弾位置と効果はどうだったかを正確に知りたい。 それによって、効果的な発射角度や距離に修正できる。 イギリスに飛んだ二重スパイチャップマンやイギリス当局にとっては、ポイントはいかにドイツに気付かれないように、着弾場所をごまかすかにあった。 チャップマンのニセ情報によって、かなり、ロケットの効果が減ったという評価もあるらしい。A氏:二重スパイの成功でチャップマンはイギリスからも勲章をもらったのかね。私:彼のイギリスでの過去の犯罪歴が影響して、第2次大戦終了間際に解雇される。 しかし、犯罪については特赦される。 戦後、彼は、その二重スパイの手記を書こうとするが、政府に押さえられる。 彼の二重スパイの詳細が明らかになるには、戦後、60余年の年月の経過が必要だったのだね。 すでに、彼がなくなった後になるがね。 この本を読むと、ドイツは暗号を解読されても、それに気がつかずにやられている。 太平洋戦争の日本と似ている。A:日本もドイツも情報戦に弱かったということかね。私:ファッシズムの特徴かね。 この本の物語は、トム・ハンクスがプロジューサーでスパイ映画になるそうだね。 面白い映画になるだろうね。
2009.06.17
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私:30年来の古い書類を整理して不要なものを捨てているが、ときどき、自分の写真が混じっていることがある。 若いね。A氏:それは当然だよ。私:そういえば、89歳になる森光子さんが、舞台劇「放浪記」に主演2000回だという。A氏:国民栄誉賞だね。私:新聞各紙もその若さを讃えているね。 しかし、こないだスポーツクラブのおばちゃんたちが「いい年をして、もう引退すべきだ。演技に『老い』を感ずる」と批判的だったね。A氏:本人ははりがあって、楽しみだし、健康によいだろうが、演劇は客からカネをとってやるんだからね。 お客に老いを感じさせて不快感を与えてはいけないね。私:映画俳優になると、年をとると若いときの映画もやっているので、比較すると、違和感があるね。 三船敏郎なども「用心棒」「赤ひげ」時代は若いときよりも風格があったね。 それが歳をとってからの映画は、ちょっとイメージダウンだったね。 仲代達矢は変らない風格はあるがね。A氏:落語の桂文楽は、老齢で高座にあがったが、話の筋を忘れ「勉強しなおしてきます」と言って、高座を降りたというね。私:年齢に応じて、役を変えるのも俳優としての「生き様」ではないのかね。 俳優は見られている商売だけに「うまく老いの仕方」が大きく問われる商売だね。
2009.05.16
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私:今朝の朝日新聞の3面記事に「あす昭和を振り返る日」、すわわち「昭和の日」とあるのを読んでビックリしたよ。 最近はいろいろな祝日があるので覚えていないよ。 前は「天皇誕生日」だったのではないの? A氏:この祝日ができるまで、国会でいろいろもめたらしいね。 昭和天皇の崩御とともに「天皇誕生日」は意味がなくなったんで「みどりの日」になったんだが、これを「昭和の日」としたいという運動があり、それが07年に決定したんだね。 「みどりの日」は5月4日になったんだね。私:朝日新聞の見出しは「昭和ってどんな薫り」とあるが、言葉を変えれば「昭和のエートスとは何か」だね。A氏:たまたま、最近、君のブログ1、2、3で扱っていたね。私:朝日新聞には昭和で思い出す事件を街頭で聞いていたが、トップはやはり敗戦だね。 次に東京オリンピック。 昭和の人物としては、トップは田中角栄だね。 ところで、今月の文藝春秋で佐野眞一氏が書いた「ドキュメント 昭和が終わった日」の最終回を掲載している。 メインタイトルが「宮崎勤と美空ひばりと天皇」となっている。A氏:なんで宮崎勤が昭和に登場するの?私:宮崎勤の犯罪が、昭和の終わりである昭和63年にはじまっているが、これが昭和以降の異常な犯罪の始まりとなるという象徴的な事件だからだね。 宮崎の部屋に家宅捜索に入った警部がそのビデオの多さに驚く。 千五百本あればビデオショップを開けるというのに、五千七百三十七本ものビデオがあったという。A氏:宮崎勤は祖父が好きで、祖父の死後からおかしくなったようだね。私:祖父は昭和天皇の崩御の1年前になくなっている。 昭和天皇より2年早く生まれているから同世代だね。 宮崎勤は昭和天皇の崩御と盛大な葬儀の礼を伝える新聞記事をいつまでも大事に持っていたという。 その理由は「あれはおじいさんの葬式だったから」と答えているという。A氏:宮崎勤は多重性人格ではなかったのかね。私:人間は良くも悪くも「物語」がないと生きていけない動物だ。 その「物語」が人格を統合する。 「物語」がないと人格がバラバラになり、多重人格的になる。 宮崎勤は、その「昭和の物語」の崩壊による閉塞感の産物ともいえると佐野氏はいう。私:祖父が宮崎勤の「物語」だったんだね。 宮崎勤事件をテーマに「M/世界の、憂鬱な先端」を書いた吉岡忍氏は、日本は敗戦の戦争責任を不問に付し、戦争がもたらした災禍をみてみぬふりをした。 戦争のトラウマを切り離し、忌まわしい過去を記憶から追放して、戦後復興を成し遂げ、高度成長をして世界第2位の経済大国になった。A氏:すなわち、戦前から続いた日本の歴史「物語」を切り離した「多重人格国家」だというわけだね。 俺たち「昭和人」が「昭和20年8月15日」の「断絶」をまだ解決していないツケかね。私:ところで俺は岩波新書の「シリーズ日本近現代史」を読んできているんだが、その9巻目は「ポスト戦後社会」だね。 ここにも宮崎勤が登場するね。 この本では、時代意識として敗戦から昭和50年代頃は「夢」の時代としている。 しかし、昭和末期から現在までは「虚構」の時代としている。 だから、殺人事件として「夢」の時代に起きた永山則夫の連続ピストル射殺事件は「夢」が破れたことが背景にあるという。 しかし、「虚構」の時代の宮崎勤の犯罪は、殺人そのものが現実離れした「虚構」で行われているという。 この9巻目の「ポスト戦後社会」の読後感はまた、別にとりあげるが、なんだか、バラバラで一貫していない時代だと感じたね。 多重人格国家とは名言だと思ったね。
2009.04.28
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宮本武蔵私:転居のときに、売却せずに持ってきた本の中に吉川英治の「宮本武蔵」があるね。 装丁本の立派な箱入り本で、6巻ものだね。 それに、徳川無声が朗読した「宮本武蔵」のカセットテープ20巻がある。 これも捨てずに持ってきたね。 徳川無声の「宮本武蔵」の朗読はテレビのないラジオ時代のシリーズもので、小学校、中学校からよく聞いていて、このラジオ放送で「宮本武蔵」を知ったと思う。 この本と放送での武蔵の生き方は俺の人生に影響を与えたね。A氏:吉川英治の「宮本武蔵」は佐々木小次郎との巌流島の試合で勝って終わっているね。私:武蔵が29歳のときだという。 これが真剣勝負の最後になったようだね。 著者の魚住氏は1953年(昭和28年)生まれだから、徳川無声のラジオ放送で武蔵を知ったという世代ではないね。 著者はむしろ「五輪書」を読む機会があり、そのショックで武蔵に入り込む。 そのせいか、この岩波新書赤本の「宮本武蔵」は、巌流島以降の武蔵、特に「五輪書」に焦点をあてている。 武蔵の「五輪書」に至る道だが、それに至る人生は吉川英治の「宮本武蔵」と違った研究者、求道者としての人生だね。 このほうも素晴らしい人生だね。A氏:宮本武蔵は絵でも一流だね。私:高校生ぐらいのときに、武蔵の「もず」が一本の枯れ木の頂点にとまって、獲物をにらんでいる絵を見て、背筋に寒気を感じるほど感動したね。 「一芸に通ずる者は、万芸に通ず」だね。 「五輪書」の考えでもあるね。 この書は武蔵の最後の書だが、今でいう論文だね。 しかし、参考文献などない。A氏:自分の経験と独自の思考の産物だね。私:死ぬとき、手元にあったのは「五輪書」と「独行道」だけだね。 A氏:君は昨日のブログで死ぬときは、1冊の本を残して死ぬのが理想だと言っていたが、武蔵は2冊を残したのかね。私:もっとも死期を察して、「五輪書」の草稿を死の2,3日前に弟子に渡しているというから、正確には、手元にあったのは、「独行道」くらいなのかね。 武蔵の人生の圧縮の書だね。 「身ひとつに美食をたしなまず、末代物なる古き道具を所持せず」 まさに「独行道」の人生だね。 こういう日本人が増えて欲しいね。
2009.04.26
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昭和のエートス 私:この本の後のほうで、「隠居の楽しみ」という短いエッセイがある。 これが引っ掛かったね。 そこでは、筆者と80歳代の吉本隆明氏と対談したときの感想を書いている。 この対談で、吉本氏は「うまく老いる仕方を日本人は忘れた」と言っていたという。 吉本氏は「老いる仕方」を知っていた最後の世代は谷崎潤一郎、川端康成まであって、それ以降は、精神的な深化と身体性の不随意の間を調和させる術が文化としてもう継承されていないという。A氏:簡単に言えば、昔は「人生50年」だったのが、最近は「人生80年」と長生きになり、体は老化するが、精神活動は衰えないということかね。 そのアンバランスは、日本人にとっては歴史上、初めての経験ということになるんだね。 長寿社会が産んだ新しい問題だね。私:日本には、「老いる仕方」の文化として「隠居」というのがあったね。 歌舞伎では「襲名」があった。 若手が「襲名」すると、それなりの自覚と責任をもって成長する。 「襲名」して「隠居」するほうは、「隠居名」を名乗る。 伝統を次世代に伝承して、その「しがらみ」から離れた第2の人生に新境地を見出すわけだね。 そういう「老いる仕方」があったわけだね。 定年制もそうだろうね。 聖路加病院の理事長の日野原重明氏は、今年、98歳だが、健在。 養老孟司氏は東大を退官したときに見た空は新鮮だったとうね。 こういう人たちは例外的な存在だね。A氏:30年位前かね。 企業で、定年後の自立を支援するプログラム支援がよく流行ったね。 これなど、定年後のことまで、企業がマニュアル化するというのは、真の「自立した老後」ではないのではないの? 定年後も「会社離れ」をしないことになるね。私:俺は、転居とともに、高度成長、経済成長でしみついた消費癖、浪費癖から脱却した子供の頃の「つつましい」生活にもどった「老いる仕方」をしたいと思うね。A氏:俺が知っている中堅企業の社長は、84歳だが、もう片耳が聞こえないが、元気で第一線で活躍している。 社長業は30年くらいやっているが、何回も経営危機を乗り越えて来た。 今回の不況でも健在だね。 ワンマンタイプだね。 後継者が育っていないのが、心配だね。私:今回の不況で、トップ交替する企業も多いが、「老いる仕方」も企業経営に関係してくるようだね。 定年制も日本の歴史はじまって以来の老齢化社内に対応して、見直すべきかもしれないね。 「老いの仕方」の観点からね。
2009.04.20
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昭和のエートス私:昨日の「明治人」の定義同様、「昭和人」の定義も「昭和20年8月15日の断絶」経験者としている。 「断絶」とは「断絶以前」を自分のうちに抱え込んだまま「断絶以後」の時代を生き延びることを選んだ人間にしか存在しないという。 年齢的には1910年から1935年生まれの人々だという。 1914年生まれの政治学者の丸山真男氏を「昭和人」としてあげていないのは、氏は敗戦前から、日本の敗戦を予測しており、「断絶」がなかったからだという。A氏:養老孟司氏は、昭和12年生まれだね。私:しかし、内田氏は、敗戦で教科書に墨を塗った養老孟司氏の小学生の体験が「だまされた」という「断絶」となり、氏のその後の人生に深い影響を与えたという観点から、養老孟司氏も「昭和人」だとしているね。A氏:君も俺もその意味では「だまされた」「昭和人」だね。 内田氏は昭和生まれだが、戦後生まれだから、その「断絶」は経験していない。 しかし、その「断絶」のトラウマに真剣に向かい合った人は少ないようだね。私:俺の死んだ父も日露戦争当時の明治の生まれだから、大正デモクラシーの気風があった。 だから、昭和の軍国主義にはなじめなかったようだから、「断絶」はなかったね。 敗戦直後、俺の父は、「これからはアメリカとソ連が戦うな」とポツリと言って、軍国少年だった俺を驚かしたね。 しかし、俺の小学校では、当時、20歳くらいだった若いある教師は、徴兵で一時、学校を休んだが、敗戦後、学校に復帰した。 復帰の挨拶を全生徒が集まった講堂でしたが、「一生懸命、天皇陛下のために頑張ったのに負けて悔しい」と壇上で号泣したのをいまだに生々しく記憶しているよ。 彼は、壮烈な「断絶」を体験したんだね。A氏:そういえば、アメリカの物量や技術に徹底的にやられた俺たち「昭和人」は、敗戦後、軍国主義イデオロギーに拒否反応を示し、軍国主義イデオロギーがもっとも軽んじたもの--科学性と民主主義--への熱い期待を持つようになるね。私:非科学的なものへの嫌悪と科学志向は、「昭和人」の特徴だという。 内田氏は「昭和人」でないのに、俺たちの気質をうまく言い当てているね。 同じ「昭和人」でも養老孟司氏のように「だまされたから、2度とだまされまい」という年齢層と「2度と加害に加担しない」というやや年上の層とに分かれるね。 俺たちは、「2度とだまされない」ほうだね。 しかし、軍国主義以前の日本の伝統文化は幼い頃から教えられている。A氏:科学主義だから、人の言うことを注意深く聴く。 反対意見も必ず聴く。 合理性、論理性や、具体性がないと疑い深くなる。 金切り声を上げる意見には本能的に慎重に対応する。 自分の体験を重視する。 試してみて納得する。 独自の意見は根拠を明らかにして言う。私:それと案外、せっかちではないかね。 それらが「昭和人」の気質、エートスだというわけだね。 しかし、考えて見ると、「昭和人」はその「断絶」をしっかり解決しないまま、技術重視、民主化などをもとに高度成長に入るね。 結果は、ダラダラと大衆消費に浮かれてしまったね。 その面では、敗戦後約40年で、ある面ではアメリカに追いつき、追い越した。A:しかし、同時に、何かを失った。私:内田氏によれば、安倍元首相がよく言っていた「戦後レジームからの脱却」とは、言い換えれば「敗戦を『断絶』として受け容れることを拒否すること」だということになるという。 「明治人」も「昭和人」も未解決な大きな問題を抱えたままだね。 そう言えば、先日、「昭和人」の上坂冬子氏もなくなったね。 話題が少し変わるが、この本の後のほうで、俺たちのような「老いた『昭和人』」に参考になったエッセイがあったので、明日、それにふれよう。
2009.04.19
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昭和のエートス 私:今の天皇が結婚して50年になるという。 そのせいか、昭和に関するマスコミ特集が多いね。 今月の「文藝春秋」も美智子皇后の特集だね。 この「昭和のエートス」という本は、題名からして「昭和人」の俺としては興味をもって、図書館から借りた。 しかし、この本の内容は内田氏が2006年から2008年にかけてブログ的にいろいろな雑誌などの情報媒体に書いたものを集めたものだね。 だから、40くらいのテーマが羅列的に並んでいる。 そのうちの「私的昭和人論」が「昭和のエートス」中心だから、テーマ的には全体の40分の1くらいしかないね。 「カンバンに偽りあり」だね。 「エートス」とは慣習、気風などを意味するから、「昭和人の気質、気風」とも言うべきかね。A氏:君も内田氏に興味があるのか、このブログでもいろいろ扱っているね。 最初にこのブログで「書評の書評:内田樹「下流志向」講談社刊」でふれ、次に「逆立ち日本論」養老孟司・内田樹対談・07年5月新潮選書、「私家版・ユダヤ文化論」内田樹著・06年7月文春新書、そして間をおいて、「街場の教育論・第10章国語教育はどうあるべきか」内田樹著・08年11月ミシマ社刊、「街場の中国論」1、2と続いたね。私:内田氏は独特の視点をもっているね。 養老孟司氏を高く評価しているようだが、養老氏は1937年(昭和12年)生まれ、 内田氏は1950年(昭和25年)生まれだからかなりの年齢差があるね。 ところで、養老孟司氏も内田氏も昭和生まれだが、内田氏の定義によると「昭和人」とは、「昭和生まれの人間」ではない。 「昭和20年8月15日」という「断絶(ショック)」を受け入れ、生き抜いてきた人、だという。 それは「明治人」が「明治生まれの人間」を意味しないのと同じという。 夏目漱石や森鴎外は代表的な「明治人」だが、漱石は慶応3年、鴎外は文久2年生まれ。 明治生まれではない。 内田氏のいう「明治人」は、「明治維新」で、日本の伝統文化と西欧の文明の「断絶」によって、日本人である自己の半身を否定するような「近代化」の痛みを受け止め、半身から血を滴らせながらも生き延びた人たちであるとしているね。A氏:たしか、岸田秀氏は、日本人は黒船で無理やり押し付けられたトラウマ心理を持つようになったと言っているね。私:引越しのとき、本の整理をしたら、2005年頃に買った「百年の誤読」という2人のライターが対談している本が出てきた。 副題が「ベストセラーに良書なし?」とあるように、名作やベストセラーに厳しいコメントをしている。百年の誤読 しかし、夏目漱石の「それから」の書評は評価が高いね。 「この時代、漱石と泉鏡花の文章に対する意識の高さは一頭地を抜けている」としているね。A氏:やはり、漱石は漢詩の影響かね。私:テーマの追求という点からも「それから」を高く評価しているね。 「他者と自分」、「世間と自分」、「西洋と日本」とまで拡大し、結局両者は分かりあえないという結論に達したという。 漱石の作品に現われる「気鬱や狂気」はその「絶望」に端を発していると批評しているね。 漱石は、「明治の断絶」に対してついに「絶望」したのかね。A氏:漢詩と英語の間に挟まれた漱石は、近代化明治に悩む「明治人」の典型だね。私:内田氏は、その「明治人」の定義を使って、「昭和人」の定義をしている。 明日は、その定義からはじめよう。
2009.04.18
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私:昨日の「漱石の漢詩を読む」のブログを読んだ知人のK氏からメールを戴いた。 それは、「街場の教育論・第10章国語教育はどうあるべきか」3の3のブログに、次のような意見を寄せられていたからだ。 ここにブログからK氏の感想を再録する。 「それにしても、明治時代に、日本に洋楽が入ってきて、外国の曲に日本語の歌詞を付けるのに、どれほど苦労があったかは、想像に難くありません。」 「有名な『流浪の民』という合唱曲があります。 これは、もともとドイツ語の歌詞ですが、近藤朔風による日本語の訳詞は、『作詞』と言っても良い程、見事に原曲の音形に合わせた歌詞となっています。」 「もちろん、完璧とは言いませんが。 ただ、これも、近藤朔風に、漢詩の素養があったからではないかと思います。」 K氏は、学生時代に合唱団にいたので、西洋音楽の素養もあるね。A氏:中国の音律をふんだ漢詩を、日本語の漢文読みにすると、また、独特のリズムを生むという不思議な関係が、中国語と日本語にあったんだが、ドイツ語でも同じことがいえるというわけだね。 漢文はまさにインターナショナルだね。私:明治の頃は、外国語の習得なんかは、現在のような恵まれた環境にないね。 外国語の発音やリズムなんか、幼稚だったと想像しがちなんだが、漢詩の素養があった森鴎外は、最初のドイツ訪問でドイツ語を堂々と話したというね。 これは、K氏の推測と一致するね。A氏:日本人の漢文離れは、逆に、日本人の外国語習得力を弱体化しているともいえるね。 皮肉だね。私:世界で一番難しい言語は日本語とアラビア語だというが、日本語の深さを日本人はもっと追求すべきだね。 英語コンプレックスはかえって弊害が多いね。 今日は、これから、引越しの準備なので、失礼する。 また、明日会おう。
2009.03.26
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街場の中国論私:この本は、小泉政権頃のまだ日中関係が悪い頃からの話題を扱っているね。 この本は、インターネットで図書館の内田氏の著書を検索し、中国問題についての氏の視点を知りたくて借りて読んだ。 氏は中国問題の専門家でないと前置きして、言いたいことを書いたとあるね。 内田氏は、最初にこのブログで「書評の書評:内田樹「下流志向」講談社刊」でふれ、次に「逆立ち日本論」養老孟司・内田樹対談・07年5月新潮選書、「私家版・ユダヤ文化論」内田樹著・06年7月文春新書、そして間をおいて、「街場の教育論・第10章国語教育はどうあるべきか」内田樹著・08年11月ミシマ社刊と続いたね。A氏:君に薦められて読んだ「街場の教育論」には、大学が教養学科をやめるようになってから、専門の学力が逆に低下し出したと書いてあったが、専門家が案外、見当違いの解釈をしていることもあるね。私:内田氏も本の中で書いているが、このような時局ものは、時間が経つと問題点が変わるね。 だから、俺が興味を持ったのは、日中関係よりも日米関係の話題だね。 「鬼畜米英」と昨日まで叫んでいた人たちが、厚木にマッカーサーが来たら「万歳、万歳」と迎えた。 敗戦後の3日後にヤクザのマーケットが新宿にできる。 闇市に供給された物資は、まず、日本の兵隊が帰郷に際して盗んで持ち帰った軍需物資だ。 中には特攻隊飛行士が特攻機で盗んた軍需物資を運んだというのもある。 しかし、その後に流通した主力商品は米軍物資だという。A氏:日米経済関係は、すでに闇市からスタートしたんだね。私:GIたちは、自分たちの基地からどんどん盗み出して闇市に売る。 彼らが闇市で稼いでアメリカ本国に送金したカネは、GIに占領軍が払っている給料よりも多かったという。A氏:別に60余年かかって日米同盟は成熟したわけではないね。 敗戦とともに日米同盟の基礎はできていたんだね。私:内田氏は、小泉元首相の靖国神社公式参拝でまっさきに抗議すべきはアメリカ大統領だと言う。 30万人のアメリカ将兵の死に直接責任があるとA級戦犯を裁いたのはアメリカだ。 A級戦犯というのは、アメリカが作った分類だと内田氏は言うがね。 そのA級戦犯を同盟国の日本の首相が参拝するというのは問題だというわけだね。 中国も韓国も東京裁判には関与していない。 もっとも、事実はアメリカ内部でもA級戦犯は問題視されていたんだがね。 これには内田氏はふれていない。 専門家でないのでやむを得ないがね。A氏:歴史認識問題というのは、具体的な歴史事実そのものの問題でなく、あくまで「認識」の問題だということかね。私:江沢民の反日教育が集中的にスタートしたのが1995年6月からだそうだが、その2ヵ月後に例の「村山談話」が出ている。 しかし、当時の日本では反日教育についてまともな報道や分析がなかったという。 後の小泉さんの靖国公式参拝まで気がつかないとはね。A氏:1995年1月には阪神大震災、3月はサリン事件と日本は大変な年だったからかね。私:日米関係だって、日本側は負けた悔しさを「認識」するときがあるね。 「東京裁判史観」という言葉すらある。 アメリカ人も、牛肉とかカネがらみで摩擦が日米間で出ると、突然、「リメンバー・パールハーバー」となる。 「認識」が復活する。A氏:16日の朝日新聞「風考計」欄で「校長悩ます『田母神』応援団・防衛大学校」という記事があったね。 田母神論文は、パールハーバーも「ルーズベルトの罠」だね。 これは靖国神社の遊就館にも展示されていたというが、外交評論家の岡崎久彦氏が「知のモラルを欠く」として「未熟な反米史観を廃せ」と言ったので、展示は07年に削除されたという。私:歴史的な事実は別として、内田氏の言うように感情的な「認識」は、日本にも、韓国にも、中国にも、アメリカにも、思い出したように復活するんだね。
2009.03.18
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日本語が亡びるとき私:著者は、現在の「英語公用語論」は、明治維新のときの森有礼の「英語採用論」や太平洋戦争敗戦直後の志賀直哉の「フランス語採用論」と違うという。 日本語はそのまま、維持しようという「国民総バイリンガル社会」を目指そうというものであるとしている。 だから、選択肢2の「国民全員バイリンガル」に相当するね。 これは1999年、小渕内閣のとき「21世紀日本の構想」で座長を務めた河合水隼雄氏が次のように言っているという。 「日本人が『国際共通用語』としての英語の実用能力を身につけることが不可欠である。 もちろん、私たちの母語である日本語は日本の文化と伝統を継承する基である。 日本語はすばらしい言語であるが、それをもって外国語を排斥するのは誤りである。 外国語と文化を積極的に吸収し、同時に日本文化を国際言語にのせて輝かせるべきである」A氏:ではどうするのか、具体的な姿がハッキリしないね。 「国民総バイリンガル社会」を考えていることは確かだがね。私:著者は、シンガポールの例をあげているね。 シンガポールは「英語公用語論」を唱える人の理想として挙げている国だが、「国民総バイリンガル社会」だね。 学校教育も英語の授業が増加する。 新しい世代が英語を流暢に話す。 訛りがあって、シングリッシュと言っているが、「書き言葉」はちゃんとした英語だね。 シンガポールの作家は英語で書くという。 そして英語がどんどんシンガポール国民に拡大するが、マレー語、北京語などはシンガポールでは駆逐されてきているという。 同様の傾向は他のアジア諸国やアフリカの「国民総バイリンガル社会」でも発生しているという。A氏:バイリンガルは、英語が「母国語」を消滅させるという事実が出ているんだね。 言語の植民地化かね。私: ところで、日本では「英語公用語論」は立ち消えになったが、本当の意味で否定されていないという。 それは「学校教育を通じて多くの人が英語をできるようになればなるほどいい」という前提があるからだという。A氏:非英語圏の国の一種の強迫観念だね。私:著者は、国益のための英語なら、「道を聞かれて教えられる」程度の英語ではだめだという。 プロの教育が必要で、それは必要な人の選択にすればよいという。 プロの政治家に必要な英語は、通常の学校教育で学べるはずはないね。 問題は、英語の強迫観念で日本語を軽視することだという。 むしろ、日本語の学校教育を強化すべきだという。 日本語を話せるというレベルだけでなく、日本文学を学ぶレベルにまで高めるべきで、夏目漱石など近代文学をテキストに使うべきだという。 著者のアメリカの学校の経験だと、優秀な生徒の英語のクラスでは、英語の古典をテキストにしていたという。A氏:言語は文化だからね。私:「もっと英語を」という強迫観念に対して、学校では「英語はここまで」という線をはっきりする。 そして公的な学校教育では日本人は何よりもまず、伝統的な日本語ができるようにする。 敗戦のとき、「新かなづかい」の強制に反対して福田恒存氏が 「『言葉』をおろそかにしておきながら、何が伝統、何が文化であろう。 なるほど、戦いに敗れるというのはこういうことだったのか」 と書いているという。A氏:今、金融資本主義だけでなく、グローバリゼーションの大きな見直しに入っているね。私:「国語は自然なものではない」 日本国民が、意図的に手入れしないと、北一輝ではないが、日本語は50年後に「英語に負けて」「自然に」消滅することになるね。 それが、著者がいう「日本語が亡びるとき」だね。 そのときが、真の「日本の敗戦・植民地化」だね。
2009.03.01
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日本語が亡びるとき A氏:去年、ノーベル物理学賞をもらった益川敏英教授は、英語がダメで、外国旅行も嫌いだったね。 しかし、普通は、日本では大学教授が論文を書くとき、英語にして発表する。 この翻訳が大変で、英語圏以外の学者には負担となり不公平だと、養老孟司氏が、どこかで不満を述べていたね。私:数学や科学関係は、数式や英語の共通語があるから、あまり抵抗は少ないが、問題は文学系統だね。 小説はもちろん、俳句、和歌、川柳まで英語でやるのかね。 著者は、英語の世紀に入ったということは、国益という観点から見れば、すべての非英語圏の国家が優れて英語ができる人材を、充分な人数、育てなくてはならなくなったことを意味するという。 その対応策として、原理的に3つの選択肢をあげている。 選択肢1は、「国語」を英語にすること 選択肢2は、国民全員がバイリンガルになること。 選択肢3は、国民の一部がバイリンガルになること。A氏:日本は、選択肢1は選択しないだろうね。私:著者が選択肢1をあえてあげたのは、「国語」が充分に機能していない多民族国家が、英語を「公用語=共通語」として使っているうちに、いっそのこと英語を「国語」にしてしまおうという結論に達しないとも限らないからだという。A氏:では、日本は選択肢2か、3かだね。私:それに対して、著者は日本の現在は「無策」だという。 あぁだ、こうだと言って決定しない。 戦略発想がないので、議論が浅い。 この本で、著者がしているような深い議論が政治家も国民をしていないで、目先の小手先の英語教育や国語教育を論じている。 だから、英語は学校でやっているが中途半端だね。 例えば、英語をきちんと話す政治家、外交官が少ない。 一方で、怖いのは、同時に日本語教育も次第に中途半端になっていることだね。A氏:その危機感から、日本でも選択肢2を行うべきという人々がいるね。私:「英語公用語論」だね。 今は下火になっているが、その根底にある英語に対する思いは、日本政府、そして国民の中で熱く息づいていると著者はいう。 そこで、著者は、この「公用語論」を徹底的に論じているね。 すでに、インド、フィリピン、シンガポールのアジア諸国と、かって英国の植民地だったアフリカの20ほどの国が「公用語」の一つとして英語を使っている。 これらの国に共通しているのは、多言語国家であるということだね。 シンガポールのような小さな国でもマレー語、北京語、タミル語、英語の4ヶ国語が「公用語」だね。A氏:その点、世界的な視点で見ると、日本はきちんと機能した伝統ある一つの「国語」を「公用語」としてもっているね。 それは、日本がインド、フィリピン、シンガポールなどのアジア諸国、英国の植民地だったアフリカ諸国と違って、植民地化された歴史がないのが大きな原因だね。 独自の言語を作り上げた誇らしい歴史がある。私:それにもかかわらず、「英語公用語論」が提案されるのは、「憂国」のためだという。 日本が世界と公平につきあっていくためには、英語力が必要だというわけだね。 受験英語では役に立たない。 満州事変から太平洋戦争までの外交でも、日本外交官の英語のまずさが問題を起してきたという。 それは、戦中、戦後のアメリカの外交官が言っていることだね。 ましてや、インターネットの時代には、英語でないと意見が円滑に通じない。 国際競争力が低下するという「憂国」だね。A氏:そこでまだ根底に「英語公用語論」が根強いわけか。私:明日は、選択肢2の問題点と、著者が強く推す選択肢3の利点にふれよう。
2009.02.28
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日本語が亡びるときA氏:25日の朝日新聞の「天声人語」では、世界には、6千前後の言語があり、うち2500語が消滅の危機にさらされているという。 生物多様性ばかりでなく、言語の多様性もこの地球上で細りつつあると嘆いている。 印刷術、ラジオ・テレビ、そして、現在はインターネットと技術が、少数派の言語を駆逐しているという。 英語も大切だが、弱肉強食にまかせていては多彩な文化は守れないと最後にまとめているね。私:この「天声人語」では日本語の運命のことはふれていないね。 重大な問題なのにね。 この本は、インターネットにより、「普遍語」化しつつある英語に対して、日本語はどうあるべきかを論じたものだね。A氏:題名からして、著者は、日本語滅亡論者かね。私:違うね。 日本語コンプレックスから脱し、立派な日本語とその文化をいかに守るかの提言だね。 著者は小説家だが、この本は評論だね。 このブログでも「本格小説」上・下、「私小説・from left to right」で著者の小説を紹介している。 「私小説」で述べているように、著者は12才で父親の仕事の都合で渡米してから、滞在20年。 フランス語教師までやるようになる。 しかし、興味あることに、アメリカの学校生活では、ヒマがあれば、日本の「近代文学」に読みふけっていたという。 ハイスクールの休み時間でも読んでいたという。 著者のそのアメリカの生活との対比で得た深い日本語感覚が、この日本語論に深みを与えているように思うね。A氏:日本語というと、一応、現在、日本列島に住む日本人が使う国語だね。私:著者は、西洋の言語も含め、「国語は自然なものではない」として、その歴史を詳細に辿っていて勉強になるね。 最初、「現地語(土着語)」としての日本語が、中国の漢字文化とぶつかったときが、第1の危機だね。 しかし、大陸から離れていたため、朝鮮などの周辺諸国と違い、中国の直接の言語支配を逃れ、日本はひらがな、カタカナなどの独特の文字言語を作り出すともに、歌、紀行文、小説などを産み出す。 また、日本は科挙制を行わないね。 こういう日本語文化は、印刷技術が進む江戸時代まで続くね。A氏:日本語の第2の危機が明治維新だね。 西洋に対して、表音文字でない日本語コンプレックスが発生する。 漢字廃止論が生まれるね。 有名なのは、当時の文部大臣前島密の「漢字廃止」の上申だね。私:しかし、夏目漱石に代表されるような近代小説などが生まれる。 「国語」という考えが生まれる。 著者は、「国語」とはもとは「現地語」でしかなかったものが、「翻訳」という行為を通じて、「普遍語」と同じ重荷を負うようになったという。A氏:明治維新による「国民国家」の誕生とともに、国民の言葉となるわけだね。私:しかし、昭和のナショナリズム時代でも、北一輝は、意外にも「日本語は劣悪な言語で50年後には使われなくなるから、エスペラント語にすべきだ」と言っていたそうだね。 第3の日本語の危機が太平洋戦争の敗戦だね。 占領軍は漢字が嫌いだ。 漢字廃止が決まる。 全面廃止まで「当面使用」される最低の漢字が定められた。A氏:あぁ、それで「当用漢字」というのか。 確か、当時、志賀直哉が日本の国語をフランス語にすべきというね。私:日本語がようやく自主性をとりもどすのが1966年だね。 当時の中村梅吉文部大臣が「国語の表記は漢字かなまじり文によることを前提」と述べた。 明治の前島密から続いていた漢字コンプレックスから、百年たって解放された。 そして、第4の日本語の危機がインターネットのグローバル化だね。 英語が「普遍語」となりつつあるからだ。 明日は、これに対する著者の提案にふれよう。
2009.02.27
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読まない力私:「読まない力」というタイトルは、新書版にあるような、奇をてらったタイトルだと俺は思うね。 養老孟司氏は、読書家だし、誤解しやすいタイトルだ。 この本の「まえがき」で養老氏がそれを否定して、解説を加えているので意図している意味は分かるが、解説がいるようではやはり、奇をてらっているとしか言いようがないね。 要するに「読む」には、読書の意味の読むとは別に「先を読む」という意味があり、「あまり予想をしないほうがいい」ということを言いたいという。 もう一つは、「本におぼれないで、考えろ」という意味だという。 ソクラテスは、文字は批判的思考を鈍らせると考えていたという。A氏:論語でも「学びて、これを習う」とあるね。 だけれども、現代社会で本を読むことは重要だろう?私:だから、できるだけ言葉による被害を受けないようにしないといけないというわけだね。 養老氏は、そういう意味で小学2年生のときにいい体験をしたという。 当時は大切だった教科書に墨を塗ったからだという。 見事な教育で、ソクラテスも誉めてくれるだろうというと皮肉っているね。A氏:「言葉は信用できない」というのは、振り込め詐欺でよくわかるね。 詐欺に引っ掛かるのは「言葉は信用できる」世相を反映しているのかね。私:養老氏が、この「まえがき」を書いていたときは、例の田母神空幕長が論文で辞めさせられたときらしく、この問題について書いているね。 大臣も何かの言葉を言っただけで辞めさせるというのはおかしいという理屈だね。A氏:しかし、自衛隊の上層部にいる人の発言は重いのではないの?私:養老氏は、田母神論文は読んでいないし、読むつもりもないという。 自衛官は軍人が本務だからだ。 論文がよくできていたらむしろ信用しないという。 俺たちの世代は、理想とする軍人像は剛毅木訥(強い心と毅然たる態度で、しかも無口で飾り気のない人物)だったからね。 孔子の言葉で「剛毅木訥は仁に近し」とあるね。 「武士道」にも通ずるね。A氏:反対語は「巧言令色」だね。私:養老氏は、「情報」は「死」すなわち、「いつまで経っても変化しないもの」だと定義しているね。 過去のことだね。 未来は教えてくれない。 自分で考えないといけない。 養老氏は、スキーを習ったとき、スキーの本を数冊、読んだ。 でもスキーは上手にならなかった。 スキーは情報でないというわけだね。 ところで、俺は1月末に用事であるアパホテルに泊まった。 部屋に、社長の本が室内閲覧でちゃんとあった。 各部屋にあるんだろうね。 帯に例の目の大きな佐藤優氏の顔写真があり、推薦すると書いてあった。 俺はすでに田母神論文の大体の趣旨は知っていたし、社長の意見も推測できたから読まなかった。A氏:日中戦争は侵略戦争でないという論理だね。私:養老氏が、別のところで書いていたが、歴史を1冊の本に書くということ自体、無理があると言っているね。 現実は多様で複雑だね。 第一、戦争に大義がない戦争などないだろうね。 侵略戦争と大義のある戦争など、世界史上の戦争は完全に2つに分かれないね。 ブッシュのイラク戦争だって、大義があったから、当時の小泉首相もイラクに派兵した。 しかし、その後大量破壊兵器がないと分かり、大義が崩れブッシュ大統領も反省している。 では、これは侵略戦争なのかね。 日本は自衛隊も行っているしね。 ブッシュの後のオバマ大統領も、白か黒かの二元論をやめようと言っているね。 冷静な相対的思考のない指揮官による戦争は負けるね。 軍人は勝たないといくら理屈を並べてもダメだね。 「敗軍の将は、兵を語らず」だね。 それが陸海200万人の軍人戦死者、しかも7割が餓死だったという日本史にかってなかった恥ずかしい負け戦をした俺たち昭和世代の反省だと思うよ。
2009.02.21
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伝説のプロ野球選手に会いに行く私:有名なプロ野球選手にはいろいろ伝説みたいのがあるね。 打撃の神様と言われた川上哲治の「投手の投げた球が止まって見えた」という伝説は有名だね。 この本は、そういう人から10人の人を選んで、著者がインタビューする記事だね。 単なるインタビュー会話録でなく、その前後の話を含めて、独特のインタビュー記事になっているね。 10人の選手が登場するが、俺は生年順に並び替えてみた。 敬称略。 カッコ内は生まれた年だ。 苅田久徳(1911年)、千葉茂(1919)、西本幸雄(1920)、小鶴誠(1922)、杉下茂(1925)、関根潤三(1927)、金田正一(1933)、中西太(1933)、吉田義男(1933)、稲尾和久(1937) この本は数年前の2、3年間のインタビュー記事をまとめたものだね。A氏:長島茂雄が1936年生まれ、王貞治が1940年生まれだから、ON時代の前を走っていた人たちだね。 戦後の苦しい中から昭和のプロ野球全盛時代を築いた人たちだね。 皆、野球殿堂入りをしている。 苅田、千葉、小鶴、稲尾の4氏は、2000年になってから、あの世に行っているね。 これを見ると、年齢順では一番最後の稲尾の死は若くて、残念だね。私:この年齢順を見ると、杉下までは戦争体験があるね。A氏:伝説の名投手で、太平洋戦争で戦死した沢村栄治が1917年生まれだから、戦後のプロ野球を起した人は、戦争体験者が中心だろうね。私:俺は、この10人の中で、杉下、小鶴、千葉は球場で直接見ている。 しかも、まだ、地方都市に生活していた中学生時代に、地方の球場で見た。 せまい球場だから、選手は間近に見える。 杉下の体格に驚き、その体から投げられるための速さに驚く。 小鶴が軽くバットを出したようなのに、ライトにホームランとなり、ライトの外野の後の板塀に「ドカン」と音を立ててぶつかる。 千葉の軽快な守備。 はじめて、プロ野球を見て、その球の速さ、守備の華麗さ、打撃のすごさに感動した記憶がある。A氏:小鶴はONと比較すると、あまりパッとしないが、はじめて、年間本塁打を50本以上打った記録があるんだね。私:俺とほぼ、同世代の中西、稲尾の活躍は、白黒テレビで見たね。 野球少年の俺はすでにサラリーマンとなっていたがね。 この世代の人は、今のようにコーチ制のようなシステムができていないから、皆、自分で研究して、野球術を極めているんだね。 杉下のフォークボールも自分で考えているね。 稲尾も、キャッチャーのサイン通りでなく、自分で考えて球種やコーナーを考える。A氏:今のようなマニュアル主義ではなかったんだね。私:コーチ任せでなく、自分で考えるわけだね。 杉下はいまだに、投手コーチをしているというのは、そのオリジナリティがあるからだろうね。 ところで、俺は、戦後、早速、学校の放課後、友だちと草野球だったね。 戦争中は、もちろん、野球なんか知らない。 敗戦後、テレビもないときに、どこからか知らないが、野球を知ってたんだね。 俺は一時、部活で野球をやったが、硬球だったよ。 ボールの芯を革で包んでいるが、使っていると包んでいる革の縫い目が破れるから、縫い直して何回も使う。A氏:当時は、硬球もグローブも高価だったからね。私:あるとき、サードを守っていたら、とんできたゴロが、途中で、縫い目が切れて、革がはがれながら、すごいスピードで転がってきたことがあるよ。 俺は草野球で投手をしたことがあるが、当時、古本屋で戦前の野球の本を探し出したよ。 そこに、大きなワインダップをして投げる「火の玉投手」ボッブフェラーの写真を見て、その真似をして、大きなワインダップで投げた。 そしたら、皆おかしなフォームだと笑ったね。 そんな時期があったね。 今の人は、ボッブフェラーなんて知らないだろうね、 この本を見ながら、野球少年の頃を思い出したよ。
2009.02.01
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私:昨日のテレビ朝日のサンディプロジェクトを録画で今日見たが、例の佐藤優氏が、オバマ大統領就任演説で、興味ある点を指摘していたね。A氏:俺は当日見たが、演説の最後のほうだね。私:ここで、イギリスからの独立戦争のことにふれているね。 引用すると次の部分だね。 「首都は放棄された。 敵(the enemy)が進軍していた。 雪は血で染まっていた。」A氏:この「敵(the enemy)」とはイギリス軍のことだね。 佐藤氏は、イギリスは近代ではアメリカの一番の同盟国なのに、この言葉は穏当でないとしているね。私:これは、オバマ大統領が、アメリカ独立戦争は、単にイギリス本土と新大陸に渡った白人同士の争いによる独立でなく、黒人を含めたアメリカの独立だということを意味するという。A氏:それから、アメリカ経済問題でポール・クルーグマン氏が、ナマで登場したね。私:この人は、オバマが大統領になる前に、アメリカでのすべての問題の根源は、アメリカの人種差別問題にあるとし指摘しているね。 先進国でアメリカだけが国民に対して医療保険制度を提供していない理由は、黒人解放運動に対する白人の反発があるからだという。 福祉の恩恵を受けるのは、貧困に喘いでいる黒人や移民たちであり、その福祉の財源となるのは、白人たちが支払っている血税だからね。A氏:レーガン政策の「小さな政府」「富裕層に対する減税」は、裏に白人達の人種差別があるということか。私:かって、クルーグマン氏は、「黒人解放運動に対する反発を基礎とする政治は、アメリカの白人人口が減少していること、そして、多くの白人が人種差別的でなくなってきているというとで、勢いを失いつつある」と言っていた。 それが、それがオバマ大統領就任によって立証されたね。 その意味では、白人のヒラリー女史が大統領になるよりも、大きな意味があったね。
2009.01.26
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ウォールストリートの靴磨きの告白私:オバマ大統領就任演説の中に、次のような言葉があるね。 「経済はひどく疲弊している。 それは一部の者の強欲(greed)と無責任の結果だが、私たちが全体として、困難な選択を行って新しい時代に備えることができなかった結果でもある」A氏:英語のgreedは、辞書をひくと「一般に冨・利得に対する強欲を意味し、言外にそれに対するはっきりした非難の気持ちを示している」とあるね。私:この本は、その「一部の者の強欲と無責任」の全盛期の日常生活、すなわち、ウォールストリートの裏を描いた本だね。 彼らのオフィスで靴磨きをして歩く、ブラジル出身の一人の若者と、それに関連するジャーナリストの行動によって描いているね。 実際の取材に基づいた、フィクションで、440頁の分厚い本だが、面白くてすらすら読めたね。A氏:テレビ朝日の人気番組の「家政婦は見た!」というのがあるね。 市原悦子が家政婦役で、大金持ちや名家の裏面をクローズアップする。 この視点と似たストーリー立てだね。私:この本のストーリーのほうが、世界経済を相手にしているだけにはるかにスケールが大きいね。 この本は、原書が07年で、日本訳が去年の8月の刊行だね。 すでに、サブプライムローン問題が出始めているが、その時点では、この著者も訳者も出版社も、「一部の者の強欲(greed)と無責任の結果」が、今日現在のようなひどいものになるとは、予測できなかっただろうね。A氏:彼らの生活は、さぞかし豪華なものだろうね。私:生活は豪華だが、道徳的に乱れているね。 人は強欲で得た金では退廃するという物語だね。 ドラッグをやっている者もいる。 そういう人生が本当に楽しいのかという気もするね。 しかし、そのウォールストリートも今は崩壊しているだろうね。 作者に、崩壊後のウォールストリートの話しを書いてもらいたいね。 ところで、主人公の靴磨きの男の友だちが、トレーダーのオフィスのトイレ掃除をしている。 彼は、男子トレーダーたちの男子便器の汚し方がひどいのをこぼしている話がある。 男子トイレ知的小街道の面から、アンテナに引っ掛かったね。 このトイレ掃除夫の話によると、一番汚れる男子便器は、一番、入口に近いトイレだと言う。A氏:「人は見た目が9割」での男子トレイの法則とは逆だね。私:理由は、奥のトイレに行くのを惜しむほど、彼らは忙しくせっかちだということらしい。 しかし、その忙しさは今となっては虚しかったようだね。 20世紀末から、21世紀の始まりにかけて、瞬間的に開いた金融資本主義の徒花の話であることを望みたいね。
2009.01.25
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A氏:朝日新聞は、隔週の月曜日にGlobeという8頁の特集号を新聞の中央に綴っているね。 紙の色も真っ白ですぐわかる。 1月12日の月曜日のGlobeは、半分は、就任が迫ったオバマ新大統領に関する記事で、Changeという文字が大きく掲げてあったね。私:オバマに関するニュースは、いろいろ他の記事で読んでいるので、あまり、目新しいことはなかったね。 俺がこの週のGlobで、気になった記事は、最後の8頁目の大野和士氏のことだね。 海外で音楽監督や指揮者として有名らしい。 俺は、クラッシック音楽は無学だが、この大野氏の生き方に感動したね。A氏:俺も浅学にして知らなかったね。 海外で活躍しているオーケストラ指揮者で知っているのは、小澤征爾氏くらいだからね。私:小澤征爾氏はもう、70歳台だが、大野氏は50歳前だね。 今は、フランス国立リヨン歌劇場首席指揮者だというからすごいものだね。 クラシック音楽界では世界的に有名なんだね。 ところで、俺はこの新聞記事で気になったのは、大野氏が若い頃にもっていた劣等感だね。 クラッシック音楽が生まれた土壌の人間でない、「異邦人」の彼が果たして世界でクラシック音楽を極めることができるのかという劣等感だね。 これは、日本人が欧米文化に接するときに必ず出会う劣等感だね。 俺も30年位前に、初めてヨーロッパにツアーで行ったとき、イタリアでサン・ピエトロ大聖堂に入った瞬間、その壮大さと大理石文化には文化的なショックを受けたね。 大野氏は、そのクラシック音楽に対する劣等感を持ったまま、旧ユーゴのクロアチアで指揮者と音楽監督を8年間つとめる。A氏:劣等感は消えたのかね。私:あるとき、チャイコフスキーを指揮しているときに、スラブ民族の情念がふつふつとうねり出すのを感じたという。A氏:スラブ民族にとっても、クラシック音楽は「異邦人」だからね。私:それなのに、これほどの深い情念を音楽から引き出している。 「私にだって、出来ないはずがない」と、「異邦人」の劣等感に苦しんでいた自分が、突如、クラシックという大河へと解き放たれたように思えたという。A氏:最初、クラシック音楽が生まれたドイツやフランスへ渡らないで、スラブのユーゴに行ったのが幸いしたのかね。私:劣等感から逆に日本を突破する力を得て、これから大野氏の躍進が始まる。 自我を脇におきつつ、ひたすらに一本の道を突き進む、古武士のようなたたずまいは、いつしか国境を越えて人々を魅了する力になっていったという。 夏には必ず帰国し、各地の病院を慰問コンサートで巡るという。 日本人であることに、今はどこまでも頑固だという。A氏:小澤征爾氏と違った方向なのかね。 ウィキペディアによると、小澤氏は若いときにNHK交響楽団の指揮で問題を起している。 N響の演奏委員会が小澤に協力しないことを表明した事件があったね。 彼の指揮者としてのスタイルはアメリカ的で、いちいち団員に指図するやり方だった。 日本では、黙って全体を把握するのが指揮者だ。 一応の和解を果たしたものの、一時、小澤氏は日本で音楽をするのはやめようと思ったとあるね。私:その小澤氏の方法と違い、大野氏のやり方は徹底的に日本的だね。 「和のサムライ」だという。 フランスのリヨン歌劇場総裁ドルニは「カズシほど、グローバルな空気をまとう日本人はいない。 それでいて、他者を敬う『日本人らしさ』を誰よりも感じさせる」と言っているという。 最後にこう大野氏は言っている。 「異邦人だからこそ、到達できる世界もある。 そう思えるようになりました」 今後の活躍を期待したいし、俺たちも日本の伝統文化に対して、簡単に欧米コンプレックスを持たないように努力すべきだね。 最近のリストラ騒ぎで、簡単に「日本式経営」を見失った経営者も見習うべきだね。
2009.01.20
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キムはなぜ裁かれたのか私:キムはシンガポール刑務所で6年ほどいて、1951年8月日本のスガモ刑務所に送られ、日本の土を初めて踏む。A氏:「日本の戦犯」となってから、日本の土を踏むとはね。 すでに、母国朝鮮は1950年(昭和25年)6月25日に始まった朝鮮戦争で戦火の中だね。私:キムは1952年、仮出所となる。 身元引受人は在日朝鮮人がなってくれた。 「日本の戦犯」なのに、「外国人登録」をしないと働けないので、登録する。 翌、1953年に刑期が満了。 しかし、職は簡単にない。 彼ら捕虜収容所監視員で戦犯になった者は、仮出所しても食うのがまず、問題だった。 スガモにいたほうが楽だった。 故郷は朝鮮戦争で荒れているし、「戦犯」ということで「親日者」として故郷では冷たい目でみられる。 キムは北海道までわたり、同胞がやっているパチンコ店で仕事を見つけ、結婚し、1956年に東京に戻り、貧しいながら生活をする。 しかし、キム以外の刑期の長い朝鮮人捕虜監視員はまだスガモにいた。A氏:1952年4月からサンフランシスコ講和条約が発効したんだから、朝鮮は独立したわけだね。 だから、当然、朝鮮人は釈放されるべきだね。私:サンフランシスコ講和条約の第11条は、今でも東京裁判問題でとりあげられるね。 ここに「日本国は戦争犯罪法廷の『裁判』を受諾する。日本国で拘束されている『日本国民』は法廷が科した刑を執行する」とある。 この「裁判」はjudgmentsだから「判決」だと訳すべきだとかいう議論が、東京裁判の正当性をめぐる議論で登場するね。 しかし、この本のメインテーマは朝鮮人問題だから、後者の「日本国民」は講和条約発効後、朝鮮人は含まないかという議論で登場するね。A氏:朝鮮人は日本国民でなくなるのだから、当然、釈放だろう?私:日本政府も講和条約が締結され、発効するまでそう考えていたが、発効直前に「戦争中、日本人として裁かれたから、釈放できない」となった。 その裏には、連合国側の戦犯に対する厳しい姿勢があったという。 日本政府としては、「日本国民」の戦犯以外は、連合国軍に引渡し、後は、連合国軍の管理に任せたいとおもっていたようだね。 独立した韓国政府も戦犯は「親日」だとして冷たい。A氏:講和条約の発効後、日本政府は戦犯の援護に動き出すね。 拘禁中に死亡した戦犯の遺族にも年金や見舞金が出るようになった。 後に軍人恩給も出るようになった。私:しかし、「日本国民」でない朝鮮人、台湾人はその恩恵にあずかれない。A氏:講和条約後も、服役中は「日本国民」、出所すると「外国人」か。 なんだか、一貫していないね。 同じ戦犯でも戦後の日本人との処遇の格差が拡大するね。 こういう戦後処理は、日本政府は下手だね。 それで後で長い間、もめる。私:その格差解消を裁判で訴えるがなんども却下され、やっと、2008年5月、民主党から補償法案が国会に提出された。 「人道的精神に基づき」一人あたり300万円を支給することを柱にした法案だという。 法案は2008年9月現在継続審議になっているという。A氏:講和条約後、約50年、彼らには「わたしは貝になりたい」は終わっていないんだね。私:BC戦犯だったキムは、今年、86歳になり、愛する家族に囲まれて、高齢者施設で暮らしているという。 帰りたくても帰れなかった故郷への強い愛着と愛する家族のいる日本。 キムの想いは国境をまたいで自由に往来していると著者は書いている。 この本はその他多数の朝鮮人捕虜監視員の運命を詳細に綴っているが、あの戦争の悲劇は植民地の人にとって、日本人と違った意味で、深く、広いものだということを知ることができるね。
2009.01.06
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キムはなぜ裁かれたのか 私:ジャワ捕虜収容所には最初5万344人の捕虜がいたという。 食糧豊富なジャワでは、捕虜の扱いで大きな問題は出ていなかった。 しかし、ちょっとしたことで、捕虜はピンタを食わされたようだね。 朝鮮人軍属の到着とともに、42年11月から泰緬鉄道の現場へと大量の捕虜が移動する。A氏:泰緬鉄道は映画「戦場にかける橋」に登場するね。 君のブログでも「『戦場にかける橋』のウソと真実」でとりあげているね。私:キムが所属した収容所の捕虜は、1943年3月頃から、インドネシア東部にある小さな島に飛行場を建設する労務者として、移動する。 ろくに施設ができていない小さな島に、大勢の捕虜が送り込まれたので、その生活はひどいものになる。 不衛生なので南洋の伝染病はすぐに伝染する。 病人は増加する。 それに、日本軍の海上輸送力が次第に落ちているので、食糧はもちろん、医薬品も欠乏する。 それに飛行場建設はいそぐので、重労働となる。 当然、病人や死者は増えるね。A氏:東京裁判では日本の捕虜になったアメリカ・イギリス連邦の兵士13万2134人のうち、3万5768人が死亡したという。 死亡率が27パーセントだという。 ドイツ・イタリアの捕虜となったアメリカ・イギリス連邦軍兵士の死亡率が約4パーセントであったのに比較すると、日本側捕虜の死亡率が著しく高いというね。私:これを日本軍独特の残虐性のように解釈するようだが、違うと思うね。 俺は連合軍の捕虜の死亡者は、虐殺や暴行によるものが主でなく、この本を読むと、ほとんどが、食料がないための餓死に近い状態で、赤痢やコレラの病人となり、医薬品も足りない状態での病死が多いのではないかと思うね。 その統計がないね。 日本軍の戦死者の7割が餓死で死んでいるのと同じだね。 東南アジアに広がった捕虜と日本軍は同じように食糧と医薬品の欠乏に悩まされ、病死や餓死をしていく。 フィリピン・ルソン島では飢餓のため、日本兵同士の人肉食いの噂すらあったからね。 この本では、詳細にその地獄のような捕虜の生活を描いているね。 それは捕虜だけに対しての意図的な残虐な行為ではないと思うね。 視点を日本軍の東南アジアの島々や、ビルマなどでの戦いでの飢餓の地獄図と同じだというのが実感だね。A氏:しかし、迫害を受けた捕虜のほうは戦争後、それではすまない。 まして、ピンタや殴打はやられたほうがよく覚えている。私:敗戦後、キムはジャワの朝鮮人民会に入る。 しかし、11月に連合軍の視察が入った。 そのとき視察に来たピッツ中佐を、以前、キムは捕虜収容所でなぐったことがある。 そのため彼はトラックに載せられ、同じジャカルタのロドック刑務所に連れて行かれる。 さらにシンガポールの刑務所に移動する。 そしてシンガポールで裁判になる。A氏:連合軍は、ジュネーブ条約違反で徹底的に裁くね。私:シンガポール裁判では、捕虜虐待の罪で、13人が起訴され、そのうち、5名がキムを含めた朝鮮人監視員。 結局、6人が絞首刑、2人が終身刑となる。 絞首刑には朝鮮人監視員はいなかったが、終身刑に朝鮮人監視員が1名いる。 キムは禁錮10年。 朝鮮人監視員はいくら「上司の命令」は「天皇陛下の命令だ」と言っても裁判官には通じない。A氏:「私は貝になりたい」と同じだね。私:明日は、シンガポール刑務所に収容されたキムのその後に追っていこう。
2009.01.05
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キムはなぜ裁かれたのか私:「私は貝になりたい」という映画はフランキー・堺主演でBC戦犯を扱った有名な映画だが、先月封切りしたリメイクの映画でSMAPの中居正広が主演したね。 この本は、捕虜虐待の罪で、BC級戦犯となった朝鮮人をキムという人物を通して描いているね。A氏:君のブログでは、朝鮮人戦犯の問題はすでに「洪思翊中将の処刑」で扱っているね。私:洪思翊中将は日本軍のトップ層だね。 しかし、この本では、戦線と関係のない朝鮮人の戦犯が問題になっているね。 BC級戦犯は全部で5700人、死刑は984人。 そのうち、BC級戦犯は朝鮮人は148人、台湾人は173人。 朝鮮人の死刑は、洪思翊中将を含め、23人。 特徴的なことは、この朝鮮人148人のうち、129人が軍人でなく、捕虜収容所の監視員で、かつ、14人が死刑。A氏:戦争犯罪には捕虜虐待の罪があるから、捕虜収容所の監視員は戦場のことよりも、もろに捕虜虐待の罪を追及されやすいね。 しかし、なんで韓国人や台湾人が捕虜収容所の監視員となったのだろうね。私:1942年2月にシンガポール、3月にジャワが占領されると25万から30万人もの捕虜が出た。 予想外の大きな数字に、日本軍はあわてた。 その捕虜の管理にただでさえ兵員不足の日本軍を割り当てられない。 日本兵も捕虜の監視の仕事は「かっこわるい」と下に見て嫌がる。 陸軍省が目をつけたのが、まだ、徴兵制が実施されていない朝鮮と台湾だね。 1942年5月に朝鮮人及び台湾人で編成する特殊部隊をこれら海外の捕虜収容所の監視にあてることがきまる。A氏:日本国内の収容所監視もしたのかね。私:いや、国内は、日本兵、のちに傷痍軍人軍属が配属される。 海外の捕虜収容所の監視に韓国人、台湾人が配属されるということは、すでに不幸な運命だと言えるね。 この本の主人公の金完根(キムワングン)は、1922年生まれ。A氏:日韓併合が1910年だね。 朝鮮は次第に日本支配になるね。私:1942年6月、キムは、名指しで捕虜収容所監視の軍属への募集に応ずるように言われる。 月に50万円の給料が出て、2年の期限。 帰った後は日本人並みの待遇。 条件はいい。 しかし、家族の反対で、再三、断るが最後には日本人巡査までくる。 しかたなく「志願」した。A氏:「創氏改名」の「希望」と似ているね。 これは君のブログにもあるね。私:こうして3016人の朝鮮人が南方に捕虜収容所監視要員として派遣されることになる。 その前に釜山に集合して「教育」を受ける。 日本軍の有名なピンタ、殴打や体罰を、身をもって味わいながら、「軍人勅諭」、「軍属読法」、「戦陣訓」による捕虜観を叩き込まれる。 もちろん、捕虜に関するジュネーブ条約なぞ、全く教えられない。 教えられたのは、捕虜は「叩け」「殴れ」「動物のように扱え」であるという。A氏:日本の外務省は対外的にはジュネーブ条約を「準用」するとあいまいな返事をしているね。 捕虜収容所の現場では、「条約無視」であった。 「軍人勅諭」では、捕虜は卑怯者だからね。私:1942年8月、釜山で教育訓練を終わった朝鮮人軍属3016人は、行方を知らないまま、出港する。 こうして、タイ、シンガポール、ジャワの各捕虜収容所の監視要員として配分されていく。 主人公のキムは、ジャワの捕虜収容所の監視要員として配属される。 明日は、捕虜収容所の話に移ろう。
2009.01.04
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対テロ戦争株式会社私:どこかの書評で読んで興味がわいたので、図書館に予約しておいた。 順番が来たので図書館で受け取ったんだが、300頁を越える厚い本だね。 ジャーナリストの書いた本なんで、読みやすいが、次から次に出てくる調査によって出てくる記事は、戦争をめぐる英米の政治家と民間企業のなれあいの姿を示していることは共通だね。A氏:君の過去のブログでも「エコノミック・ヒットマン:途上国を食い物にするアメリカ」1、2,3,4、5で、経済のヒットマンの次に本当の戦争のヒットマンが登場することが書かれているね。私:しかし、その後のアフガニスタンやイラク戦争が従来になかった一つの特徴は、軍事関連の輸送、施設の管理、警備業務など、かっては軍や警察のものだった業務が、コスト削減や民間の活力導入という理由から私企業に外注化されるようになったことだという。 イラクで死亡した斉藤明彦氏は、イギリスの民間軍事会社ハート・グループに所属する警備員であったというね。A氏:「民にできることは民へ」というスローガンは、戦争まで民営化がされ出したということとかね。 君のブログ、「メタル・ウォーズ:中国が世界の鉱物資源を支配する」には、1996年、パプアニューギニアのチャン首相が、国内の政敵の暫定政府をつぶすため、イギリスの施設軍隊会社(戦争請負会社)であるサンドライン・インターナショナルに、ブーゲンビル島の侵攻を依頼するという話があるね。 サンドライン社の社長のスパイサーは元英国陸軍大佐で、イギリスのブレア首相のペット・ブルドッグと言われた男だというね。 イギリスでも軍事活動の民営化は進んでいるんだね。私: アメリカの軍事活動の民営化は、実は、イギリスのサッチャー時代の市場原理主義時代に、刑務所の民営化を始めたのがきっかけだという。 この本は、その時代から、現在までの米英の軍事部門の民営化の流れを具体的に調査してまとめたものだね、A氏:軍、政府、企業の3者の癒着構造だね。 私:この本の題名の「対テロ戦争株式会社」通りの実態だね。 言語の題名は「WAR ON TERROR INC.」だね。A氏:アメリカは常に、敵を想定し、その「不安・恐怖」をもとに軍備を増強し、企業との関係が深くなってきたね。 冷たい戦争の頃は、対ソ連の恐怖だね。 ソ連が崩壊しても、アメリカのネオコンはロシアが大国になるのを抑制する。 プーチンとの関係が悪くなるね。 これは、君の「『今のロシア』がわかる本」に書いてあるね。私:今年、夏のロシアのグルジア侵攻のときに、すぐにネオコンのアメリカ副大統領のチェイニー氏が、グルジョアに行っているね。 このチェイニー氏やラムズフェルド氏などは各軍事会社の取締役や顧問を務めているね。 イギリスも同様だね。 かって、アイゼンハワー大統領は、アメリカの軍需産業と軍との深い関係を「軍産複合体」と批判した。 現在は「対テロ」という大義名分で「安全保障-軍複合体」に進化していると著者は指摘する。 軍の民営化だけでなく、さらに国内の管理体制に強化に民間企業を使おうとしているね。 これらの民営化の結果、もたらされている問題を具体的にこの本ではふれている。 しかし、オバマ大統領になったら、ネオコンは否定され、この「複合体」も否定されるのではないかね。 その動きは注視したいね。
2008.12.22
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私:戦前の「軍隊」との連続性ですが、「警察予備隊」の次に「自衛隊」と言い、立派な戦車を「特車」と言い、アメリカ輸入の軍用機は、高いカネを追加して、防衛専用にカスタマイズするなど、憲法の足かせですかね。 「政治の責任」というより、敗戦の結果、軍事基地をアメリカに継続して提供する羽目になったことが尾を引いていますね。 当時の吉田首相が、朝鮮戦争後のサンフランシスコ講和条約に行くことを頑固に拒否した心理が分かります。 GHQのG2のウイロビーは熱狂的な反共論者ですから、旧日本軍参謀本部作戦課長服部卓四郎を温存しますね。 この人は後に吉田首相暗殺計画に関係しますね。 ウイロビーは戦犯で逃げ回っていた辻参謀も無罪とします。 彼は東京裁判すら反対でしたね。 「警察予備隊」は、旧日本軍のメンバーが中心になりますが、ダレスが目指したアメリカの反共戦略の一環となり、「国防」でなくなったと思います。 朝日新聞の記事では「国防」の使命は連続性があるとしていますが、私はそれすらないと思います。 まさに自衛隊は「ヘビの生殺し」状態です。 戦前の日本軍は一応、国民からは尊敬されていましたからね。 私の小学校のときは、「お国を守る兵隊さんのおかげです」と学校でよく歌いました。K氏:小生は、東海道線の辻堂駅近くで育ちました。 厚木の米軍基地への航空機の進入路の真下で、物心ついた頃から、頭上を米軍機が飛んでおりました。 厚木基地での夜間発着訓練で、騒音問題でよく揉めておりますが、辻堂付近でも、そんなに高度が低くは無いのですが、結構うるさいものです。 ある夜、ジエット戦闘機の騒音に腹を立てた母が、突然気づいて、言いました。 「何さ!まだ、日本はアメリカに占領されたまんまじゃないの!」 まさに、軍事的にはそのとおりなのですが。 それも、アメリカの反共戦略の一環であれば、確かに「国防」でないと言われるのも頷けます。私:その反共・冷戦の大義名分が、ソ連崩壊で消えた現在、ますます、中途半端な状態になっていますね。 しかも、アメリカは、今度は経済で国力が低下する。 アメリカもオバマ政権になりますしね。 戦略的な考え方の上では、今後、大きな転換があるでしょうね。 それに機動的に、自主的に自衛隊がついていけるかどうかですね。 ところで、雑誌Willが特集を組んで田母神論文を援護していますね。 これはまた、別途、論じましょう。
2008.12.06
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私:K太郎という親爺の話は面白かったですね。 私は20年位前に、中国の仏教の観光ツアーに単独で参加しました。 やはり一人の参加で、私の兄貴くらいの中高年の男性がいました。 彼は、行く先々の寺で一人深く祈りをささげていました。 異様なので、帰りの飛行機で理由を聞きました。 そうしたら、「20歳草々で戦場に行き、中国ではよく人を殺した。 しかし、それは仕方がなかった。 相手をやらないとこっちが殺される」 と言っていました。 そして、「今から、思うとひどいことをした。それで深い祈りをすることにした」と言っていました。 それ以上は、語ろうとはしませんでした。 20才代で、そういう経験をした彼には、40年たってのその祈りが「総括」だったのかもしれません。 「人生いろいろ」ですね。K氏:小生の生まれた、昭和33年は、テレビ放送が始まり、在来線の特急「こだま」が、東京~大阪を6時間半で結んだ年です。 それから東海道新幹線の開業までたった6年、技術力の向上もさることながら、それに向けての努力と知恵の蓄積は、すごかったのではないかと改めて思います。 皆、他人からはうかがい知ることの出来ない、その方なりの「戦争の総括」があった、ということなのでしょうか。私:私が就職した頃は、高度成長の兆候が出てきた頃ですが、すでに、一般的なムードとして、「技術重視」が日本中に定着していたと思います。 一方では、経済学はマルクスが中心だったようですが。 大学卒も技術系の初任給がたしか当時、1万3千円くらいなのに対して、文科系は1万2千円でした。 この「技術重視」の戦後ムードは、戦中派の作ったものだと思います。 アメリカには技術力で負けたというコンプレックスが根底にありますね。 私の入社した会社が町工場から立ち上げた苦しみを先輩からよく聞いたものです。 アメリカから技術を必死に吸収します。 それが、ビジネス界での彼らなりの「総括」だと思っています。 そして民需品ではありますが、30年後あたりからアメリカを追い越します。 私は、1970年代にアメリカ視察に行きますが、すでに業界はアメリカから学ぶことはなくなっていました。 石原慎太郎は同世代ですが、いまだに、根底のところでアメリカに負けた悔しさが消えないようで、彼は右翼のようですが、アメリカに負けた東条は嫌いですね。 ただ、残念なことに、この世代は、それに集中していたためか、あるいは追いついた油断か、きちんとした後継世代を作らなかったように思います。 それは、文化なのか、マネジメントの問題なのか分かりませんが。K氏:旧日本軍と自衛隊の連続性についてですが、警察予備隊の幹部は、かなり旧軍関係者が係わっていると聞いております。 組織の「ミッション」としての連続性は「無い」かも知れませんが、「文化」としての連続性(といっても、大昔の事ですから、どこまで受け継がれてきたかは定かでは無いですが)は、どうだったのでしょうか? これは週刊誌ネタで、真偽の程はわかりませんが、前の防衛大臣(石破さん)が、「あたご」事故や、機密漏洩事件に関して、防衛省幹部を度々集めて、再発防止の「誓約書」を、その度毎に出させていたらしいのです。 元空幕長は、大臣の命令を笑い飛ばして、「書かんで良い、そんなもの!」と、無視していたようです。 旧日本陸軍の下克上の文化ですね 石破さんは、小生と同じ歳で、小生と同じ、相当の「鉄道マニア」という話なので、親近感も無いではないのですが、「誓約書」を出させるのはいただけません。 面識でもあれば、「やめろよ、そんなこと。JR西日本の脱線事故の話、忘れたか?お前のやっていること、日勤教育と、何か違いあるか?」とでも言ってやるのですが。(笑)私:明日は、その自衛隊と旧日本軍との関係に移りましょう。
2008.12.05
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私:K氏は、世代が違うのだが、このブログ立上げ以前から、俺と知っていた人だね。 そのためか、ときどき、メールでブログに対してコメントを戴く。 今回は、自衛隊に関するブログの議論でK氏から電話以外に貴重なコメントを戴いた。 個人的なメール記録ではもったいないので、K氏の了解を得て、プライバシー的なことは差し支えないように多少編集して、3回に分けて、とりあげることにした。 以下、K氏のコメントは、K氏で示す。K氏:実は、今日になって初めてウイキペデイアで「山本七平」を検索し、あまりの毀誉褒貶の多さ(特に「ノート」の記載)に驚きました。 小室直樹の「理論の方法」(東洋経済新報社)で、「丸山真男の日本政治モデル」の項で、丸山真男を扱いながら、山本七平さんとならんで、「典型的な浅学非才の人」としています。 もちろん、けなしているのではなく、「少ない知識で、驚くべき発見をする人。物事の本質をズバリと見抜く人」として褒めています。 七平さんの書かれたものが、どこまで間違い(嘘とまでいう人もいる)なのか、当方としては吟味のしようがないのですが、「砲兵の測地」のごとくに、ある一定の範囲の円に収まるまで、続くのでしょうかねえ......。私:浅見定雄氏の山本七平氏の批判書が出た当事、早速、買って読みました。 しかし、山本七平氏に対する私の評価は変りませんでした。 私は、氏の体験を自分の幼い体験と比較して理解できたからです。 浅見氏には山本氏に対する悪意みたいなものが根底にあることを感じました。K氏:もう1点、ウイキペデイアで議論になっている「日本刀」ですが、これまた「現物」が無いので検証のしようも無いですね。b当時の「ユーザー」である方々も、大方は鬼籍に入られたかと思いますし。私:日本刀のもろさは、山本七平氏だけでなく、他の名刀工の話や歴史的な話などで明らかだと思います。 黒澤明の「七人の侍」でも、「一本の刀じゃ五人と斬れん」と菊千代が刀を何本も土に刺しているシーンがあります。 もっと多くの人を斬れるでしょうが、実戦のときは、確実に斬らないといけないので、どんどん刀を取り替えますね。 無防備な捕虜の首を斬るのと違いますからね。 私のブログの「日本刀と時代小説」をおヒマがあれば参考にしてください。 日本刀の権威の岩崎航介氏 と吉川英治の話もあります。 日本刀論の本質は、「何人斬った、斬らない」論議でなく、「百人斬り」での七平さんの本多記者とのデベートでの視点の違いにありますね。 戦後の価値観の喪失で「もの作り」の基礎になった技術発想論に走った人と自虐史観の抽象論(そして全共闘)に走った人の対立ともいえますね。 養老孟司氏は「解剖学」を選んだ理由に、敗戦ショックをあげていますね。 技術論に走ったほうですね。K氏:20年近く前、当社の倉庫番に、K太郎という親爺がいました。 中国戦線の生き残りで、工兵隊兵長だったということですが、本当のところはわかりません。 この親爺が言うには、「中国人を50から60人くらい並べておいて、後ろから機関銃で撃ちまくった」というのです。 小生もすでに七平さんの著書は読んでいましたから、「でも、日本軍の重機って、1コ中隊に4丁あるけど、3丁同時に動いたら奇跡だって言われたとか。 今じゃ『アカハタ』って、共産党の新聞だけど、昔は佐官級の将校の乗る自動車だったとか、いろいろ聞いているけど、本当?」 と聞き返して見ました。 K太郎親爺、小生の顔を見てニタリとして、「それだけ知ってりゃ上等だ!」と、話をそらしました。 ただ、本当に接近戦になった場合、七平さんでは無いですが、「円匙のほうが役に立つ」のは本当らしく思えます。 「西部戦線異常なし」はさておき、石川達三の「生きている兵隊」で、従軍僧が、スコップで中国兵を殴り殺す場面が出てきます。 ちょうど、南京攻略戦の前後が舞台ですが、この「スコップ」は「円匙」ではないかと想像します。 リーチの長さから言っても、日本刀・軍刀より安心できるように思います。 あとは、軍刀の製造に携わった方々が、真実の一片はご存じでしょうが、事実に迫る、という事は、何であれ、大変なことなのだなあ、と、思います。私:教育テレビの「歴史を楽しむ」によると、日本の戦国時代の武器としては、弓、槍、鉄砲が中心で日本刀の活躍は少ないとの解説がありました。 日本刀が中心になるのは、江戸時代の剣客と幕末の志士の活動くらいで、対決用、暗殺用などで戦争用ではありませんね。 数字問題としては、最近でも、沖縄教科書反対集会11万人というのがありますね。 ここにも、「百人斬り」同様の技術的発想と感情的発想の対立があります。 明日は、戦後の反省問題についてふれましょう。
2008.12.04
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気骨の判決私:国会でも、この選挙介入について、昭和18年2月4日の本会議で、貴族院議員の大河内輝耕氏が膨大な資料で東条らにつめよっているが、所詮、翼賛議会。 司法の判断を待つしかなくなるね。 そして、 東条は昭和19年2月28日に、司法のトップ層が集まる「全国司法長官合同」という集まりを臨時に開催させる。 そこで、東条首相が威圧的な訓辞をした。A氏:三権分立でいくとすると、東条は翼賛選挙で立法と行政を一体化させたが、今度は司法まで一体化しようというわけだね。 独裁国家体制を目指すね。私:このときの東条の演説は法曹界では「東条演説事件」と呼ばれているという。A氏:そのような東条らの圧力に抗して、審議を進めるのだから、吉田判事に対する圧力は大変だったろうね。私:死を覚悟の調査であり、審議だったらしいね。 これには吉田判事の人物が影響しているね。 明治17年生まれ。 貧しい家に育ち、苦学する。 そこで「気骨の人」が育つ。 そして、21歳で難関の司法試験には2番目の成績で合格する。A氏:この頃は、日本に階級格差はなかったんだね。私:昭和19年6月に大審院刑事部が不敬罪に問われていた尾崎行雄に無罪判決を言い渡す。 このときの判事、三宅正太郎は、かって、吉田の部下であったという。 翌7月にはサイパン島が陥落し、東条内閣は総辞職。 しかし、軍部の司法への圧力は変わらず、軍人有利の判決が多発。A氏:そして、これに対抗して昭和20年3月1日の選挙無効の判決になるわけだね。私:吉田はその3日後に大審院を辞職している。 国家に逆らう判決を出した吉田は終戦まで危険人物として見なされ、特高の監視も続いていたようだね。 吉田は大学の講師を続けていた。 敗戦の年、政党作りを始めた鳩山一郎の要請で、自由党政調調査会の顧問に就任する。 「気骨の判決」を鳩山が歓迎していたことを示すね。 そして、自由党の憲法改正案作成に参加する。 昭和46年9月20日、老衰のため87歳で他界。 氏を知る人は、 「自分自身が社会の底辺で苦労を重ねただけに、貧しい人にも豊かな人にも、一切の予断を抱かずに、平等に謙虚に耳を傾け、その人のことを全て信頼しようとする『人間主義』だった」という。A氏:今、日本の政治も混乱しているが、こういう「気骨のある人」がいたらねと思うね。 しかし、社会の底辺を知らない世襲議員が多い国会だからね。私:アメリカは苦労人の黒人オバマを選んだ。 日本はどうなるのかね。
2008.11.24
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気骨の判決私:昭和20年8月15日に敗戦となる。 その年の3月1日、当時の大審院第三民事部の裁判長吉田久は、昭和17年4月30日の衆議院選挙で、鹿児島県2区の選挙は無効だとした判決を出す。 大審院の判決は今の最高裁の判決と同じだ。 これにより、19日後の3月20日には選挙をやり直している。A氏:買収問題かなんかあったのかね?私:いや、違う。 政府の介入だね。 昭和16年10月に東条内閣が誕生する。 日本は憲法上、三権分立だが、東条は、国策に沿っておとなしく従う議会を作ることを考える。 当時は、まだ、元気のある議員がいた。 昭和15年2月には、民政党の斉藤隆夫が、有名な「反軍演説」を行っているね。A氏:陸軍は、この演説は聖戦への侮辱だとして攻撃し、記録は削除され、斉藤は議員を除名される。私:削除された内容は「ただいたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、かくのごとき雲を掴むような文字を並べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤ることがありましたならば、現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことはできない」A氏:今から、みると、まさに国家百年の大計を誤ったね。 アジアの共存共栄の美名のもとにね。私:当時、東条は陸軍大臣だね。 こういう一部議員の存在を苦々しく思っていた。 自分が首相になったとき、議会も思う通りに動かしたい。 昭和17年2月に東条首相は、一部の議員、陸海軍の幹部、財界や大政翼賛会の幹部を官邸に招き、選挙に向けての協力を依頼する。 これにより「翼賛政治体制協議会(翼協)」が作られる。 そして、選挙候補者に対して「翼協」推薦候補を出す。 反政府的な候補者がいる選挙区には「翼協」から対立候補を立てる。A氏:「刺客」だね。私:推薦を受けなかった政治家には、片山哲、鳩山一郎、芦田均、三木武夫という戦後の総理経験者も含まれていた。 戦後の大臣も務めた安藤正純、河野一郎、一松定吉、西尾末広、犬養健、世耕弘一などがいる。 「憲法の神様」の尾崎行雄も非推薦だね。 「反軍演説」の斉藤隆夫も当然、推薦されない。 そして、これらの非推薦候補に対して、選挙活動で「翼協」や警官などのあからさまな妨害が始まる。A氏:開発途上国の選挙みたいだね。私:昭和17年4月30日の選挙は、投票率83.1パーセント。 「翼協」推薦候補は、381人が当選し、全候補の8割を超える。 東条の試みは一応、成功するね。 しかし、三木、斉藤、尾崎はそれでも当選する。 鳩山一郎は、当時の日記に 「だんだんと乱暴の干渉をきく。 憲法は実質的に破壊される。 選挙にして選挙にあらず」 と書いているという。A氏:しかし、そういう中で、なんで、大審院まで選挙妨害の訴訟が出たんだろうね。私:鹿児島2区で当選した4人は全て「翼協」推薦候補だった。 落選した非推薦候補らは黙っておらず、ひそかに選挙介入の証拠を集め、選挙無効の訴訟を霞ヶ関の大審院に提訴する。 鹿児島県知事まで選挙介入している。 当時は、県知事は内務省からの移動人事だね。 こうして、この本の主人公である大審院判事吉田久氏が登場することになるね。 明日は、その話に移ろう。
2008.11.23
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私:先日夜、突然、俺の「前空幕長と『言論の自由』」のブログを見た知人K氏から電話をもらった。 産経新聞に問題論文の全文が掲載されたとのことなので、FAXしようかという電話だった。A氏:ところで、一昨年の君のブログの「われ巣鴨に出頭せず」で、昭和3年の張作霖爆破事件や昭和7年の上海事件がソ連の陰謀だということを引用していたね。 田母神前空幕長の論文には、これが載っているようだね。私:「われ巣鴨に出頭せず」の著者は、この情報はかなり確度が高いというが、ウィキペディア(Wikipedia)の「張作霖爆殺事件」によると「異説」としてあげており、専門家の間では評価は低いようだね。 「満州事変から日中戦争へ」でも、河本大作大佐らの計画として扱っているね。A氏:河本大佐は、この事件で左遷されるが、君のブログでは、山西省での戦後の居残り日本兵を扱った「蟻の兵隊」1.2.3で、山西省の日本国策会社の山西産業の社長として登場するね。私:電話をもらったK氏から、昨日、突然の電話の失礼を詫びた丁寧なメールが来たよ。 K氏はまだ、現役パリパリのやり手だ。 彼の父上が俺たちの兄貴の世代だね。 K氏の父上は、終戦前は勤労動員で授業どころでなく、複列24気筒のどデカいエンジンを作らされていたそうで、「部品はない、何は無い」で、ちっともエンジンが出来ず、4台できるとトラックに積んで、「万歳」して出荷していたという。 計画倒れになった4発爆撃機(連山)のエンジンだったのかもしれないとのこと。 K氏の母上も田舎に疎開して、勤労動員で電波探知機を作っていたとのこと。 K氏は「オフクロがそんなことやらされるようなら、そりゃ、負けるわ!」 とメールに書いてあった。 また、K氏は、「どうも、山本七平さんの『日本軍もの』などを読む限りでは、『侵略』どころか、何か盲滅法に動き回って、外地の住民にも食料の挑発などで生活をムチャクチャにしたうえ、『勝手に自滅した』に近いように見えます」と書いてあった。 その通りで、東京裁判の「共同謀議」の疑いをかけられるほど、名誉な敗北ではないね。A氏:「村山談話」の村山さんも、一時は、自衛隊は違憲、日米同盟廃棄といっていたのではないの? それが首相の地位のニンジンでごまかされたのか、自衛隊は違憲でないと言い出す。 かついだ自民党も自民党で人としての節度がないね。 結局、「村山談話」であいまいなまとめをしてしまい、敗戦の総括をきちんとしなかったことが、まだ、長く尾をひいているようだね。私:しかし、戦後の日本をゼロから築いた人たちは、負けた悔しさをバネにしたと思うね。 アルプス電気の創業者故・片岡勝太郎氏は、戦争中は中国で中尉かなんかで無線部隊にいたが、無線機の部品がアメリカ製なんで日本技術の低さを痛感したという。 敗戦後、大手企業の課長をやめ、そのアメリカコンプレックスからか、電子部品メーカーを数名の同志と立ち上げ、苦労して、アメリカを追い越すまでに成功する。 技術に負けたくやしさだろうね。A氏:ソニー、ホンダなどの創業者は世代的にその技術コンプレックスがあったようだね。 皆、「負けた悔しさ」が体にしみこんで、戦前、戦中の日本にならないように苦労したんだろうね。 戦後の「物づくり」日本の立国をした世代は、それら負けた悔しさをバネにしたと思うね。私:K氏のメールは最後に「とにかく、事実は事実、外交テクニックは外交テクニックとして、明確にしておく必要はあるでしょう。 私にとっては、まず『事実』が知りたい、そう思います」としめていた。A氏:その外交も、国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結などの立役者の松岡洋右は、後でヒットラーの対ソ戦略にだまされ、「奇々怪々」としてガックリするね。 その松岡が、君のブログの徳富蘇峰著「終戦後日記・『頑蘇夢物語』によると、敗戦間際に、病床で、「日本には必ず、神風が吹くから負けない」と言っていたそうだから、英語はペラペラでも、しっかりした人としての信念がなかったのだろうね。私:外相広田弘毅の「トラウトマン工作」なんて、何をやっていたのか訳が分からないね。 とにかく、敗戦のコンプレックスから、日本人の歴史に対して、変に元気よくなったり、被害者意識なったりしないことだね。 戦前を乗り越えて、敗戦の荒廃をなんとかGNP世界2位まできた戦後をかみしめるべきだね。 戦前をきちんと反省して、失敗から学び、日本軍幹部のようなデタラメを再びしないことだね。 特に自衛隊はね。
2008.11.17
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A氏:昨日の新聞は、例の田母神前空幕長の参考人招致問題を報じていたね。 今朝の朝日新聞の「私の視点」ワイド欄では、元自衛隊の陸将の志方俊之氏をはじめ、3人の人が違った視点でコメントしているね。 志方氏は憲法9条の曖昧さで、田母神氏が「キレタ」というようなことを書いていたね。私:軍人の上層部がすぐに「キレル」タイプでは、不適格だね。 俺はたまたま、昨日、図書館に本を借りに行くついでに、朝日、読売、毎日、産経、日経と主な新聞をざっとみたが、皆、この問題をとりあげていたね。 この問題は、二つに分かれるようだね。 一つは、「過去の日本の戦争が侵略戦争かどうか」の問題。 2つ目は、軍人の「言論の自由」という、「シビリアン・コントロール」問題だね。A氏:朝日新聞の天声人語は、日本の占領時代、帝王のように君臨していたマッカーサー元帥がトルーマン大統領にいきなり解任される話から始めているね。 当時、まだ若き宮沢元首相は、「シビリアン・コントロール」に目を開かれたとある。私:日経と朝日では、日本でも戦後、来栖統幕議長が、「日本が奇襲攻撃を受けた場合、超法規的行動をとらざるを得ない」と発言し、当時の金丸防衛庁長官は「シビリアン・コントロールに反する」として、事実上、議長を解任している例をあげている。 読売も、自衛隊の最高指揮官は、総理大臣だからその総理大臣の政府見解に従うのは当然としており、「シビリアン・コントロール」として扱っているね。 本来、軍隊とは、普通の企業組織と違い、「個人の自由」は極めて限定された組織で、上官の命令には従う厳しい規律を持った組織だがね。 よほど、今の自衛隊は「自由」なのかね、それとも無統制なのかね。A氏:軍隊での「規制なき言論の自由」となると、関東軍の「下克上」を思い出すね。私:それは、「日本は侵略戦争などしていない」という問題に関係するね。 産経は、「シビリアン・コントロール」よりも、この侵略問題の方をもっと議論すべきだとして産経らしいコメントをしている。 田母神前空幕長の論文は、俺は読んでいないが、日中戦争や太平洋戦争は、蒋介石、コミンテルン、ルーズベルトなどの陰謀の罠にひっかかったせいだということらしい。 これを真面目にとれば、当時の日本軍は「謀略の罠にはまりやすい」「やわ」な軍隊だったということになるね。 誇れる過去の歴史ではないね。A氏:君のブログの「戦争で人が死ぬということ」によると、太平洋戦争の戦闘員の戦死者は陸軍165万人、海軍47万人で、広義の飢餓による死者の比率は70パーセント。 海軍の海没者(海没とは、移動などの途中で輸送船が撃沈されて兵士が死んだことをいう)は18万人、陸軍は18万人。私:司馬遼太郎は、日本は日中戦争、太平洋戦争と、なんでこんなバカな戦争をしたのか、しかし、日本人はそんなバカな国民でないはずだ、と明治から歴史をさかのぼる。 「坂の上の雲」は日露戦争の戦いを書いているが、この頃の日本軍人は一流だね。A氏:「明石大尉によるロシア革命への裏工作」があり、逆に「謀略」をしかけている。 日本の戦国時代の武将のように「大人の謀略センス」を持っていたようだね。 それがいつの間にか、列強の謀略の渦のような20世紀の植民地化時代に、「謀略に弱い」「罠にかかりやすい」な国家や軍隊に日本はなったのかね。私:毎日新聞では、第3代防衛大学学長の猪木政道氏の言葉を引用し、1928年の張作霖暗殺事件以降、陸軍が無法集団化したと言っているね。 これは山本七平氏が「一下級将校の見た帝国陸軍」でも述べているね。 司馬遼太郎氏は、大正の末から昭和の敗戦まで、日本人は魔法の世界にとりこまれた日本史上でも特異な時代だとしている。 司馬遼太郎はその原因に「統帥権」をあげているね。A氏:石原莞爾を参謀とする関東軍は政府方針を無視して、満州を攻略する。 規制を受けない「自由」だね。 ところが、石原莞爾は1937年、中央の中国への戦線非拡大方針に反して行動する前線に行き、中央の統制に服するよう前線に説得に出かけたが、かえって現地参謀であった武藤章に「石原閣下が満州事変当時にされた(下克上の)行動を見習っている」と嘲笑される。 武藤章の上司を無視した「自由」だが、その武藤も後に日米開戦で部下の「下克上」にあっているというね。 下克上参謀の典型は、辻参謀だね。私:多くの戦死者は組織のシバリのない「自由な」下克上で無法集団化した日本軍の犠牲者なのか、「国際的な罠にかかった」犠牲者なのか。 多くの戦死者の意味は、田母神氏の世代は、いざ知らず、俺たち世代には重い事実だね。 田母神氏は、軍人なんだから、専門家としてこういう軍事の歴史を論ずるべきだね。
2008.11.13
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日中戦争期における経済と政治私:1935年8月に石原莞爾は参謀本部の作戦課長に就任して、ソ連に対する戦備の遅れに驚き、以後、対ソ戦争準備の充実に重点をおくようになる。 従って、石原にとっては、中国と和平を維持し、ソ連に対抗することが必要だった。 しかし、1937年7月7日の盧溝橋事件が上海へと拡大する。 石原の考えに反して、軍を中国に投入し日本は日中戦争の深みにはまり出す。 しかし、戦略的にソ連重視だから、中国に投入した日本軍は質が悪く、これが南京事件の背景にあるね。 ところで、「トラウトマン工作」は、1937年末から38年初めにかけて参謀本部の石原莞爾が中心になって推進されたとあるね。A氏:しかし、同じ参謀本部内でも中国への強硬派が強く、上海への増兵が決まった直後、石原は作戦本部長としては辞表を出し、関東軍に転出するね。私:しかし、関東軍参謀副長に転じてからも、石原は参謀本部内の和平論に大きな影響を持っていて、多田駿参謀次長は、石原系の中心的な人物だった。 多田参謀次長は、後の「トラウトマン工作」打ち切りを決定する1938年の1月15日の大本営政府連絡会議で、陸相、外相、海相ら政府側に対して、激しく対立するね。 しかし、内閣の瓦解を避けるために折れたという。 多田参謀次長は南京攻略も反対した。A氏:石原派の「トラウトマン工作」の意図は純粋に平和を希求したものでなく、対ソ戦争準備を至上目的としていたわけだね。私:「トラウトマン工作」は中国の停戦を実現するだけでなく、その後もそれを継続するに必要な、財政経済的・外交的・軍事的な配慮が不十分だという危惧があったようだね。 近衛内閣が「トラウトマン工作」に反対する理由として、日本の戦時経済の脆さに対する危機感があったという。 当時、日本は中国本土では連戦連勝だが、ここでこちらから和平を言い出すと、弱腰と見られ、対外的には日本為替の暴落、公債の下落とういことで、商売に影響するという見方があったようだね。A氏:政府側は財務上の配慮が大きかったのかね。私:それは和平そのものに反対するのでなく、その方法の違いにあったと言える。 それは「トラウトマン工作」中止の後も別な方法で和平をさぐっているからだね。 広田外相も、職業外交官としての経験から中国側には誠意がないと判断していたようだ。 参謀本部の和平工作は、無理をして停戦を急ぐ危険なものに見えた。A氏:君のブログの「広田弘毅」では、後に政治学者猪木政道氏はその著書で、「1936年のはじめころから、広田は決断力を失っていたのではないかと思う」とあるが、そうすると、これは怪しいね。私:ところで、「広田弘毅」は東京裁判で死刑となるが、判事は6対5の1票の差で決まったと書いてある。 しかし、「東京裁判」を詳細に知っている人は、票決は公表していないから、それは信用できるものではないという。 だから、これも怪しい。 とにかく、この和平問題は、当時の中国ナショナリズムと日本の対中侵略の流れは容易に回避できないものであることがわかるね。 そして日本側にはリーダーシップのある人がいなかったね。 陸軍省、参謀本部自体が、和平・強硬両派に分かれており、陸海軍の間にも対立があり、さらに、軍中央と現地軍との間にも対立があった。 バラバラだね。 「東京裁判」で連合国側が問題にした戦争指導者たちの「共同謀議」などありえないね。 それがあったら、もっと別な道があったかもしれないね。
2008.11.03
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日中戦争期における経済と政治私:この本は著者の博士論文のもとになったものだという。 300頁の小さな字がピッシリ埋まった専門書だね。 専門家でない俺は、もちろん、全部、読むつもりはない。 これを図書館から借りたのは、簡単な知的興味からだね。 それは、「広田弘毅」の本で、近衛声明の「今後、国民政府を対手とせず」が出る経過が書いてあり、その辺の事情をもっと知りたいという知的興味がわいたからだね。A氏:この「近衛声明」は日本が太平洋戦争に踏み込んで行くきっかけとなったものだね。 日本の近代史を後から振り返ってみると、その後の日本の運命を決めた大きなターニングポイントだね。私:中心となるのは「トラウトマン工作」だね。 これについて、この本では10頁程度、ふれているので、これに知的興味をもったね。 これをまとめておきたいと思ったね。 それが終わったら、図書館に返すよ。 しかし、この本のこの部分は、時系列が相前後して読みにくいね。 読みにくいと博士論文にならないのかね。 ところで、この本によると、「トラウトマン工作」に対しては、最初、広田や日本の外務省は乗り気でなかったとあるね。A氏:ドイツは、蒋介石軍に武器を提供し、かつ、上海事件ではドイツは軍事顧問団まで派遣していて、日本は苦戦するという苦い経験があるね。私:しかし、一方、ドイツ側は、中国が戦争とともに共産化することを恐れてきた。 ドイツはソ連に有利に展開する心配が出てきた。 だから、必ずしも日中戦争を日本に有利な形で収拾しようというものではなかった。 むしろ、中国に巨大な権益を持ち、中国にとっても関係の深い英国を利用して、日中和平をはかったほうが、日本有利の形で停戦になると日本の外務省は考えていたんだね。 広田外相は、1937年11月2日にドイツ大使に日中和平条件を正式に伝える前日にもイギリスの仲介にまだ未練があったという。 この辺の経緯は「広田弘毅」の本にはないね。A氏:外務省はイギリスを重視していたんだね。私:イギリス頼みの広田が、ドイツに変った経緯は、高木惣吉海軍省臨時調査課長の集めた極秘情報「広田外相の講和条件提示に関する経緯」になまなましく書かれているという。 それによると、当初、杉山陸相が広田外相に和平工作を頼み、広田は英国の仲介工作に乗り出す。 1937年か9月から10月初旬にかけて、英国はクレーギー英国大使を通じて広田外相の和平条件を中国に伝えたが、蒋介石の拒絶にあって終わっていた。 英国は、当時は外交は米国と共同歩調を取っており、日中戦争への介入に消極的だったアメリカに合わせて、あまり和平には積極的でなかったようだね。 しかし、日本外務省としてはこのルートによる和平調停の継続を強く要望していた。 ところが、陸軍省と権力争いをしていた参謀本部が陸軍省とは別に、ドイツ外務省とではなく、ドイツ軍に対して和平交渉を始めたんだね。私:陸軍の「下克上」だね。 その結果、陸軍内部からの突き上げを恐れた杉山陸相が広田外相に依頼していた英国を通じての和平交渉を断念したという。A氏:列強が駆け引きしていて外交の難しい時期だね。 それにしても、日本軍の内部分裂はひどいね。私:陸軍内部では参謀本部内も武藤章作戦課長らの中国に対する強硬派と、参謀本部の石原莞爾作戦部長などの不拡大派の対立があったね。 今村均陸軍大将の回顧録・「今村均回顧録」によると、石原が武藤章に日中戦争反対を説くと、武藤は「私はあなたが、満州事変でとった行動を真似しているだけです」と言い返したという。 武藤がそういうや否や、他の青年将校が口を合わせて哄笑したという。A氏:軍の中では石原は不人気だったんだね。 武藤は後の東京裁判で死刑判決を受けるがね。私:実は「トラウトマン工作」は、日中戦争拡大を阻止したい、その石原が熱心だったようだね。 明日はそのへんから、話しを進めよう。
2008.11.02
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昭和天皇・マッカーサー会見私:日中戦争の頃から終戦に至るまでの天皇の主張を記録したものとして、有名な「昭和天皇独白録」があるね。 これは、1946年の3月から4月にかけて、松平慶民宮内大臣、木下道雄侍従次長、寺崎集成御用係など5人の側近が4日間で5回にわたり、天皇から直接聞き取りをしたものをまとめたものだね。 これによると、太平洋戦争の開戦について「東条内閣の開戦の決定を天皇が裁可したのは、立憲政治の下では、やむを得ぬことで、もし、好むところは裁可し、好まないところは裁可しないとなると専制君主となってしまう」というようなことがあるという。 しかし、「木下幸一日記」によれば、日米開戦決定の御前会議前日の1941年11月30日、海軍の厭戦気分を聞いた天皇は「予定通り(開戦を)進めるように東条首相に伝えよ」との下命をしている。 木戸はそれにより、東条首相に電話連絡する。A氏:「忠臣」東条首相はその通りにするね。 翌12月1日の御前会議の「表舞台」では天皇は無言だった。 「表舞台」では立憲君主だが、「裏舞台」では専制君主的な動きをしていることになるね。私:天皇は「独白録」では、例外的に「専制的」に指示したのは、二・二六事件の反乱軍対応と、終戦の「聖断」の2つだけだというが、著者は、「独白録」をよく読むとそれ以外の例があることを指摘しているね。 「独白録」には、天皇の軍隊への統帥権のことが抜けているという。 統帥権により軍事問題でも指示がある例をあげているね。 著者は、「能動的君主」と「受動的君主」を天皇は使い分けている、としているね。A氏:ところで終戦の天皇の御聖断についてだが、君のブログで劇作家の井上ひさし氏が、やはり「日記」を発掘して、次のように、「ホワイトハウスから徒歩5分」の本で興味あることを書いているね。 以下に、再録する。 「木戸日記」と「細川護貞の日記」の併読でわかったことで、大正天皇は早くなくなり、貞明皇后は皇太后となるが、そのボーイフレンドが長谷川清という海軍大将で昭和天皇の特使だ。 長谷川は天皇の命を受け、本土決戦がどうなるか探るが、その結果を最初に貞明皇太后に伝える。 貞明皇太后はこの話を聞いて、宮中で、このまま戦争を継続すると皇室がなくなり、国民に否定されると息子の昭和天皇を一喝したという。 これが終戦の年の6月で昭和天皇は3日間寝込んで考えて、和平に本気に乗り出す。私:実は、終戦の御聖断に至る経過をこの本で詳しく書いているが、比べてみるとよく背景が分かるね。 07年に発掘された「小倉庫次侍従日記」によると、1945年6月22日に「最高戦争指導者会議」が、天皇の招集で開かれた。 この会議で、天皇は「戦争終結」方針を打ち出した。 ここでも「能動的君主」が登場するね。A氏:考えがガラリと変ったのだね。 何があったのかね?私:2週間ほど前の6月6日の御前会議では、あくまで「徹底抗戦」で決まっていたのだから、これがガラリと変わる。 この2週間の間に何かあったんだね。 その謎を上記の井上ひさし氏が「木戸日記」と「細川護貞の日記」の併読が解いている。 「小倉日記」にも、6日の御前会議から5日目の6月14日に急に体調を崩して病床に伏したとあるという。 これが、貞明皇后が「息子の昭和天皇を一喝した」時期で、「天皇が3日寝込んだ」ときだね。 「おっかさんの一喝」の影響があったんだね。 そして、6月22日に天皇主催で「最高戦争指導者会議」が開催され、「戦争終結」方針が打ち出されたことになる。A氏:天皇と言っても普通の人の子だね。 立場上、悩み、試行錯誤することはあるね。 特に万世一系の天皇制と、三種の神器を守るためにーーーー。 「能動的君主」になったり、「受動的君主」になったりする。 それはそれとして、歴史の事実は明確にすべきだがね。私:そういう意味で、知的興味をひいた文庫本だね。 ただ、もう、ちょっと、内容を時系列で、きちんとまとめて欲しかったね。 そうすると、読むほうも楽だったがね。 まぁ、俺なりにエキスはまとめたつもりだがね。
2008.10.31
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昭和天皇・マッカーサー会見私:マッカーサーとの会見は1950年の第10回会見以降行われず、朝鮮戦争でマッカーサーが解任され、帰米する前日が最後の両者の会見となった。 この会見の記録で、東京裁判が東条らに全責任を負わせる一方で、天皇の不訴追に終わるという「日米合作の政治裁判」であったことが、この最後の会見で当事者同士の会話によって確認される。 次に昭和天皇にとって共産主義の脅威から天皇制を守りきるためには、無条件に米軍依存するしかなかった。A氏:天皇にとって「安保体制」こそが、戦後の「国体」として位置づけられたわけか。 ところで、朝鮮戦争でアメリカが日本に再軍備を要求するね。 そして、吉田首相が「無理な要求だ」としてうまく立ち回るね。私:ところが、著者はダレスの交渉の狙いは日本軍の再編成でなく、米軍基地の継続利用だったという。 朝鮮戦争でアメリカも日本に基地がほしいから、日米で「五分五分の論理」を展開できる外交カードを日本は持っている状況にあった。 途中、したたかな吉田はそのカードを使い出そうとしたようだね。 ところが、51年1月30日に日米交渉の最初の段階で、吉田はそのカードを切らず、基地提供の意向を早々と表明してしまう。A氏:吉田外交は稚拙だったことになるね。私:著者は、その原因は昭和天皇の「二重外交」にあるという。 それは天皇が直接ダレスに「口頭メッセージ」で安全保障の諮問会議設置を伝えていることだね。 さらに、アメリカ側の要請で、「口頭メッセージ」でなく「文書メッセージ」を送る。 ここには外交カードを使う吉田批判も含まれていたという。 そして、1951年2月、第1次交渉がほぼ決着がついた2月10日、天皇・ダレス会談となる。 天皇の安保条約への関与は吉田首相が日米交渉の節目ごとに「内奏」に行っていることで明らかだという。 その「内奏」の記録を見ると、「あたかも外相が首相に交渉の詳細を報告しているかのようなもの」であったという。A氏:「内奏」自体が新憲法では政治介入だね。私:ところで、俺はこの本で知ったのだが、意外なことに、吉田首相がサンフランシスコ講和条約に出席することを、最後の最後まで執拗に固辞したことだね。 ついにダレスまで、吉田以外の代表では「不十分」だと督促し出す。A氏:吉田首相は、何故、そこまで頑強に抵抗したのかね。私:著者は、講和条約そのものは、吉田は高く評価していた。 しかし、問題は、同時に締結される予定の「安保条約」だ。 これは、吉田の「自尊心」を傷つけた「不平等条約」だ。A氏:それが、ワンマンと言われた吉田首相が折れて、結局、最後はサンフランシスコ講和条約に行くようになったのは何故なの?私:ダレスの督促が来た3日後に、吉田は昭和天皇の「拝謁」に行く。 この後に、吉田は態度をガラリと百八十度変える。 天皇から「御詰問」か「お叱り」があったのではと推測される。 そして、吉田の全権就任問題が解決すると、ダレス側が「日本の全権委任状に天皇の認証あることを明示すること」「全権は天皇の拝謁式で公表のこと」という要請が来る。 その根拠は、「今度の平和条約が天皇陛下によって嘉納されていることを世界に明らかにするため」であるという。A氏:アメリカ占領期には、ワンマンの吉田首相の上に、もう1人ワンマンがいたことになるね。私:著者は、その観点から戦後史を再評価すべきとしているね。 いろいろな手記も公表されてきたからね。 著者は、天皇の政治介入は戦争中から一貫しているという。 明日は、最後の話題として戦争中の政治介入問題に話しを移そう。
2008.10.30
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昭和天皇・マッカーサー会見私:戦後、日本人はマッカーサーを「天皇」のごとく思っていたが、実は、「天皇・マッカーサー第1回会見」の頃、マッカーサーの地位も不安定であった。 まず、マッカーサーとトルーマン大統領の関係だね。 これは、マッカーサーがワシントンの指示に従わないで勝手な行動をとることが多いということから来ているね。 トルーマンの帰国命令に対しても従わない。A氏:マッカーサーが朝鮮戦争で、原爆攻撃を言い出して、解任されるが、それ以前から両者の確執があったわけだね。私:国際的には、占領後の各国の政治体制は、連合国の協議によることになっていたが、占領地に共産主義体制を拡大しようとするソ連と米英との間には対立が始まる。 日本占領も、極東委員会ができて、占領終了後の日本の治体制に介入しようとしだす。 天皇制廃止論も出ていた。 これをマッカーサーは嫌い、極東委員会が動き出す前に既成事実を作り出すね。A氏:天皇象徴制の日本の新憲法が緊急で作られた背景だね。私:それはマッカーサーの「権限」と天皇の「権威」の一体化政策だね。 新憲法は押し付けというよりも、天皇制維持は、マッカーサーも安定した占領政策上、必要だったわけだね。A氏:その意味からすると第9条より天皇制の維持が重要だったわけか。私:新憲法は、1947年5月3日に施行された。 天皇・マッカーサー会見の第4回会見は、その3日後の5月6日に行われる。 この会見の内容も、当時、極秘であったが、1978年になって、児島氏が公表した通訳の奥村氏の「手記」で明らかになっているね。 この会見では、新憲法で「象徴天皇」になったはずの天皇が、マッカーサーと冒頭から、新憲法の9条問題に集中して会話する。 この頃は、天皇には東京裁判の行方に脅えていたころの気配は微塵もない。A氏:9条問題とは非武装のことだね。私:天皇は安全保障上、軍隊がないと、国連に頼らないといけないが、その国連があてにできない。 アメリカによる安全保障が好ましいという論を提起するが、マッカーサーは、国連も強化されるし、非武装の日本を侵略する国家はないと反論する。 実は、この会見の奥村手記は、ここで終わり、後半が廃棄されているという。 奥村は、会見後、オフレコを条件に記者クラブに会見の内容を説明したという。 ところが、何故か、翌7日のAP電で「マッカーサーは、天皇との会見で、日本防衛への広範囲な保証を与えた」と報じた。 それが「カリフォルニア州を守るように日本を守る」と天皇に言ったという噂をよぶ。 マッカーサーは、翌7日に直ちに否定の声明を発表する。 このせいか、奥村氏は、通訳をクビになる。 奥村氏のオフレコは、むしろ、日本の安全保障問題をクローズアップしたいための意図があったのではないかという。A氏:しかし、この会見では新憲法が施行されたのに「象徴天皇」は、政府や外務省の「頭越し」に明らかにマッカーサーと政治的活動をしているね。私:天皇の発言は、この第4回会見後、沖縄における米軍の占領が「25年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与というフィクション」もとで継続を望むという、有名な「沖縄メッセージ」として、マッカーサーの政治顧問シーボルトによって覚書にまとめられている。 このメッセージが天皇自身の意思で出されたことは、「入江相政日記」で明らかであるという。A氏:しかし、マッカーサーは国連主義だったのかね。私:「日本は極東のスイスたれ」という主張だったようだ。 1950年の第10回会見以降、天皇が安全保障をめぐり、具体的な外交に動き出す。 この年の6月に来日したダレスに対し、天皇は口頭及び文書で基地提供を日本が自主的にオファする旨を伝える。 基地問題で消極的な姿勢であった吉田首相に対する不信任だね。 天皇には、無防備の場合、共産勢力による天皇制の崩壊という強い危機感があった。A氏:あいまいなマッカーサーと吉田をバイパスしてしまったんだね。 天皇とダレス側近との間の直接の外交チャンネルが生まれる。私:明日は、そのチャンネルを使った安保条約をめぐる天皇の活動に移ろう。
2008.10.29
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昭和天皇・マッカーサー会見私:天皇・マッカーサー第1回会見の通訳の奥村勝蔵氏の「手記」は1975年11月号の「文藝春秋」で作家児島襄氏によって公表される。 児島氏は「手記」の入手先を明らかにしていない。 この「手記」には「全責任を負う」とか天皇が「自分を処刑してもらいたい」いう発言はない。 A氏:何故、そのような「手記」が1975年のタイミングで出たのかね。私:著者は、外務省の意図的なリークではないかという。 というのは、「手記」の発表と天皇・皇后の訪米とが時期的に一致しているからだ。 そうなると「手記」自体も「脚色」、「削除」があるのではないかと疑う余地がある。 実は、昭和天皇は1946年1月29日に、英国王にあてた「親書」で「東条」にふれているという。 2002年10月に外務省が重い腰をあげ、昭和天皇・マッカーサー第1回会見記録を公開する。 しかし、内容的には、先の「文藝春秋」で作家児島襄氏によって公表されたものとほぼ同じで、「東条発言」の記録はない。A氏:60年近くなっているのに、だんだん、いろいろな記録が出てくるね。私:さらに、1945年の9月25日の「ニューヨーク・タイムズ」のクルックホーン特派員の質問に対する天皇の回答の正式文書の控えが、2006年7月に宮内省で見つかった。 この中で、「東条発言」を裏付けるような内容があったという。 これによって、著者は、奥田「手記」に「東条発言」がないのは、削除されたとみなすことになるとしている。A氏:東条は天皇の言うことに対して忠実な「忠臣」で、天皇も信頼していたのではなかったのかね。私:著者は、昭和天皇の「東条非難」は、皇室を守り抜く天皇の徹底したリアリズムの表現であったとみているわけだね。 2002年8月には、昭和天皇・マッカーサー会見の第8回から、リッジウエイが去るまで通訳をした松井明氏のメモである「松井文書」を「朝日新聞」が入手して、紙上で特集掲載され、ベールがはがれた。 「東条非難」という面からみると、「松井文書」では、マッカーサーとの最後の会見となる11回会見の内容が明らかになっているが、そこで天皇は東京裁判に対して「謝意」を表明している。A氏:2006年7月に「富田メモ」が出るね。 A級戦犯が靖国神社に合祀されて以来、昭和天皇は靖国参拝をやめる。 この理由をめぐって、議論が生まれ、メモの「捏造」、「歪曲」説も出たね。私:そこへ、翌2007年に、元侍従・卜部亮吉の日記が公刊される。 ここに「直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」とあった。 この新資料で、御厨貴氏や半藤一利氏らが、長年議論されてきた天皇の靖国不参拝の理由が証明されたとしているね。A氏:昭和天皇は、サンフランシスコの講和条約を絶賛し、リッジウエイにそのメッセージを託した。 これで、敗戦直後からの天皇戦犯訴追の危機を「全ての責任を東条にしょっかぶせるがよい」という基本路線にそって、天皇制を守ったことになるね。私:敗戦で危機に瀕した世一系の天皇制を守る義務が昭和天皇にはあった。 天皇制を守るためには、天皇を戦争責任者として裁こうとする東京裁判と、後、2つ解決すべき問題があった。 1つは、憲法改正だね。 連合国のなかには天皇制廃止論が強くあった。 もう1つは、アメリカの占領終了後の日本防衛をどうするかだね。 天皇は共産主義勢力の侵略を恐れた。 共産主義は当然、天皇制廃止だからね。 明日は、その憲法改正問題に話しを移そう。
2008.10.28
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昭和天皇・マッカーサー会見私:文庫本だが、カバーの裏に次のようにあるように、衝撃的な研究成果が書かれているね。 「戦後レジーム形成に天皇が極めて能動的に関与した衝撃の事実を描き出し、従来の昭和天皇像、戦後史観を根底から覆す」A氏:昭和天皇がなくなってから、天皇の側近の侍従などのメモ、日誌、マッカーサーとの会見時の通訳のメモなどが多数公表されたりして、実態が明らかになってきたからね。私:ただ、この文庫本には著者が過去に逐次、雑誌などに掲載されたものを収録しているので、内容的に重複している部分があってまとめるのに苦労したよ。A氏:天皇は、新憲法では「象徴的存在」なんだから、政治に直接関与していないのではないの? 戦中だって、立憲君主制だしね。私:著者の資料では、それは逆で、戦中、戦後も積極的な政治・外交介入があるね。 マッカーサーとの会見も、6年間の間に実に11回あったんだね。 まず、1945年9月27日に天皇がマッカーサーを初めて訪問したときの内容だね。A氏:天皇は「戦争の責任はすべて私にあり、一身はどうなってもいい。 私の運命は貴下の判断にまかせる」というようなことを言ったということだね。私:実はこれは「マッカーサー回想録」に書いてあるものを新聞などが引用したものだという。 この回想録は歴史的な事実と照らし合わせると間違いが多く、それを1964年に「文藝春秋」編集部で指摘しているという。 だから、著者は、「回顧録」で、漏れている重要な天皇発言があることを仮定する。 それは「戦争は天皇の意思に反して、東条が開始した」という「東条発言」だ。A氏:どこから、そういう仮説が出てくるのかね。私:敗戦後、天皇の戦争責任を追及する海外の声は大きく、天皇が何らかのメッセージを出す必要があり、9月27日のマッカーサーとの会見の2日前に、「ニューヨーク・タイムズ」特派員のクルックホーンとの会見がセットされる。 これは、あらかじめ出された質問に対する文書回答によるものだった。 9月25日付けの「ニューヨーク・タイムズ」の一面トップに掲載されたクルックホーンの記事に「ヒロヒト、インタビューで奇襲の責任を東条におしつける」という大見出しがついていたという。 また、マッカーサーの政治顧問のジョージ・アチソンが、当日、マッカーサー本人が彼に語ったとされる「東条が私をだました」という天皇発言のメモもあるという。A氏:では、何故、「マッカーサー回顧録」には「すべての責任は私にある」となっていて「東条発言」はなかったのかね。私:クルックホーンの記事が日本国内紙に掲載されるのを内務省は抑えた。 日本国民は天皇自身が東条を非難したと考えたら、大きな騒動になるかもしれないことを危惧したという。 この頃のマッカーサーとの会見内容の報道は、当時はGHQの検閲があるから、政治的な配慮がされている。 要するに、マッカーサーは、占領政策を問題なく行うためには、天皇の利用が必要だったので、天皇の責任追及をできるだけ免れるようなキャンペーンをする。 そのためには、東条が開戦を天皇におしつけたという説明が分かりやすいね。 これがマッカーサーの東京裁判対策の「表舞台」だね。 「裏舞台」は逆で、東京裁判のキーナン検事はマッカーサーから天皇が、「責任は全部自分にあるから私だけ処罰してくれと言った」と言われ、それでは裁判は成立しないから、天皇を無罪にしたいとして、東京裁判で証人となった田中隆吉元陸軍少将に言ったという。 田中は、天皇の全責任ということに感激して、天皇無罪のために証言することを誓ったという。A氏:マッカーサーとの会見における「天皇発言」は政治的な道具として使い分けられたんだね。私:この第1回の天皇・マッカーサー会談の通訳をしていた奥村勝蔵氏の「手記」が1975年に出る。 明日はその話からいこう。
2008.10.27
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ベルリン・オリンピック1936 私:ドイツと国際スポーツ社会との橋渡し役だった、半分ユダヤ人のドイツIOC会長のレーヴァルトはその座を降ろされた。 ベルリン・オリンピックで好成績をあげたので、ドイツは国中、スポーツ熱に浮かされた。 IOCはナチ体制がオリンピックをヒトラーナチの宣伝のために使ったことに嫌悪感を抱くどころか、オリンピック理念の偉大な守り手だと言い続けた。A氏:ベルリン・オリンピックの次の1940年のオリンピックを日本は辞退し、慌てて選んだヘルシンキ・オリンピックも戦争で中止となるね。私:勢力を広げだしたドイツは、ドイツの考えにそったオリンピックを提唱し、1944年に予定されていたロンドン大会をベルリンかローマにすべきだと言い出した。 並行して深刻化する第2次世界大戦は、次第にドイツに不利になる。A氏:1945年4月25日、ソ連軍は遂にベルリン・オリンピックスタジアムに突入するね。私:ナチ・ドイツのオリンピック指導者は、敗戦後も西ドイツのオリンピック組織で重要な役割を持つようになった。 半分ユダヤ人のベルリン・オリンピックのドイツIOC会長のレーヴァルトは辞めさせられてからは、静かな引退生活をしていた。 そして再び活動するには年をとりすぎていた。 彼は1947年4月、87歳でなくなった。A氏:もう一人のディームはどうなったの?私:彼はナチとの関係を否定し、ナチ党の党員でないことを明言した。 1947年ケルンのドイツ体育大学の学長になり、1962年に死ぬまで、学長の職にあった。A氏:ドイツが敗戦後、西ドイツだけだが、はじめてオリンピックに参加するのは1952年のヘルシンキ大会ときからだね。私:そのとき、ディームは選手団の団長として参加する。 1956年のメルボルン大会にも参加する。 1957年、IOCは最高の栄誉であるオリンピック賞をディームに与える。 しかし、著者は、このベルリン・オリンピックの中心人物であった、レーヴァルトもディームもその役割について反省したようには見えないという。 逆に、ヒトラーには影響を受けていないというようなことを言っていたという。A氏:あいまいな、日本の戦争責任と似ているね。私:1951年8月22日、ベルリン・オリンピックの百メートル競走の英雄だったジェシー・オーエンスがヨーロッパ巡業中に、ベルリンに立ち寄った。 スタジアムにヘリコプターで降り、7万5千人の観衆の歓呼の中を、グランドを一周した。 そして「全能の神のもとに、われわれと一緒に自由と民主主義のために頑張ろう」と短いスピーチをする。 オーエンスが1980年に死ぬと西ベルリン当局はスタジアムに通ずる通りを「ジェシー・オーエンス通り」ト名付けたという。A氏:人種差別の国、アメリカでは、ベルリンの英雄オーエンスは幸福でなかったのだね。 マラソンで優勝した韓国の孫選手も同様だね。 「政治臭」はオリンピックの選手までからむ。私:オーエンスが、このスタジアムに来たとき、一人の少年がサインを求めに来た。 そのとき、わかったことは、その少年の父親は、ベルリン・オリンピックの走り幅跳びで最後までオーエンスと金メダルを争ったドイツの名選手ルッツ・ロングだということだ。 ロングは第2次大戦中にシシリー島で戦死したという。A氏:感動的な出来事だね。私:4年ごとに、各国を回る近代オリンピックの歴史は、ある意味で近代世界政治の裏面史だね。 アメリカの1980年のモスクワ・オリンピックボイコット、そのしっぺ返しにソ連など東側の1984年のアメリカのロス・オリンピックボイコット。 オリンピックの「政治臭」のハイライトだね。 もっとも、偶然、重なる4年後とのアメリカ大統領選は、まさに政治の場面だがね。 北京オリンピックの後、アメリカ発の世界恐慌が拡大し出す。 ベルリン・オリンピックの後、第2次大戦で世界が巻き込まれたように。 そして、アメリカはルーズベルト大統領だった。 そのアメリカは、今度、初の黒人大統領を選ぶだろうか。
2008.10.19
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”鬼才”リーフェンシュタールによる1936年ベルリンオリンピック大会ドキュメント第1部!第1部となる本作では陸上競技を中心に、勝利の喜びと敗北の悔しさを克明に記録!■民族の祭典■ベルリン・オリンピック1936 私:ベルリン・オリンピックが画期的な成功を収めたとして記憶されているなら、それはその映画「オリンピア」のおかげであろうと著者は言う。A氏:監督は女性のレニ・リーフェンシュタールだね。 1932年のアメリカでのロスアンゼルス大会の映画は、近くにハリウッドがありながら、大会の映画は作られていないんだね。私:最初、彼女は映画女優としてスタートするが、次第に映画監督もするようになる。 ヒトラーは彼女のファンで、ナチ党大会の第1回ドキュメンタリー映画の監督に彼女を依頼する。 これは失敗作だったというが、ヒトラーは翌年の党大会の映画監督も依頼する。 これは成功作となり、これにより、ヒトラーからベルリン・オリンピックの映画作成の要請が来る。A氏:この映画を一部見たが、苦痛に歪む選手の顔、力を込めた際に盛り上がる筋肉などの近接撮影が多いね。私:これはエキスパートの写真家が600ミリ望遠レンズ付きの巨大カメラを使い、スタジアムの半分向こうから選手の汗まみれの顔を捉えることができたという。 しかし、当時の撮影、現像技術の制約で、いくつかの選手の競技シーンは、競技が終わってから明るいときに取り直したものもあるという。A氏:棒高跳では12時間の死闘を、アメリカのアール・メドーズ、西田修平、大江季雄の3人でくりひろげて、夜10時半になってしまうね。 メドーズが4.35メートルをクレアするが、西田、大江はクレアできず、銀と銅とのメダルを半分に切断して分け合ったということがあったね。私:映画「オリンピア」の最初の公開は、オリンピックの2年後に、ヒトラーの49回目の誕生日である1938年4月20日に行われ、好評であった。 そしてドイツの映画館で上映されたが、毎夜満員であったという。 映画の発表が遅れたのは、その膨大な記録フィルムの編集に時間がかかったことだね。 映画は第1部「民族の祭典」、第2部「美の祭典」の2本だ。 この映画は、政治的、イデオロギー的メッセージを持たない、純粋な芸術映画だと、リーフェンシュタールは主張しているが、実際には評価しにくいという。 というのは、いろいろな版があるからだという。 オリジナル版は戦後、アメリカに没収されている。 ドイツ語版を著者が見ているが、「中立」的だし、オーエンスなど黒人選手も描かれているという。 しかし、いくつかの問題点も指摘されるようだ。 ヒトラーが実に頻繁に登場するが、英雄としてでなく、ごく普通のスポーツ愛好家、自国のチームが勝つと元気づき、負けると悲しがる、腹の出たドイツ人として描かれているという。A氏:ヒトラーはスポーツをしないから、運動不足で、今で言うメタボだね。私:ところが「オリンピア」の英語版では、ヒトラーは時々しか現われず、唯一のクローズアップショットは開会式で開会の辞を述べるときだけだという。A氏:外国での評価はどうだったんだね。私:パリではナチの鉤十字やヒトラーが写っている場面をいくつか削除したせいか、批判はなかったようだね。 問題はアメリカだね。 ユダヤ人の反対があった。 1938年11月にリーフェンシュタールは個人的な旅行という名目で、アメリカに渡る。 悪いことに、その頃、「ミュンヘン協定」の問題で、アメリカは政治的にドイツに反感を持つようになっていた。 リーフェンシュタールのアメリカ滞在中に、「水晶の夜」のユダヤ人迫害事件が起きる。 しかし、1939年6月、彼女はIOCから「オリンピック賞状」をもらっているがね。 こうして、この映画はアメリカでは上映されず、イギリスでも戦後まで上映されなかった。 映画まで「政治臭い」ね。 明日は、ベルリン・オリンピックのその後を追ってみよう。 その「政治臭い」足あとを--。
2008.10.18
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