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私 : 今上天皇の退位問題 から 天皇制への関心 がたかくなったのか、 文化・文芸欄 で「 歴史の中の天皇制」シリーズ を載せている。
28日は初回で、万世一系の天皇 についてふれている。
A 氏 : 国立歴史民俗博物館の仁藤敦史教授(日本古代史) は「 6世紀以前の王位はむしろ、実力・能力主義で決められていたのでは 」と考えているという。
中国の歴史書に出てくる、5世紀の日本列島 を治めたとされる讃、珍、済、興、武の5人の王・「倭の国王」 は、 自ら甲冑を身につけ、山河を駆け巡って東西を平らげた――などと中国の皇帝あての文書に記したことで知られる。
私 : 済は19代の允恭天皇、興は20代の安康天皇、武は21代の雄略天皇とする説が有力。
仁藤 氏は、「 天皇は元々、自然神などを祭る祭祀を司ることで特別な存在 となっていくが、 5世紀になると、軍事や外交などの実務に秀でていなければ務まらなくなる 。
そんな状況下では、 親から子への世襲より、広い意味での血縁・婚姻関係の中で優れた能力を持った人物が王位に就いていた可能性が高い 」という。
にもかかわらず、 日本書紀などで天皇がすべて世襲であるように記された のは、それらが 編纂された8世紀に、中国から、男系での皇位世襲を重視する思想が入ってきていた からで、「 それに従う形で歴史が改変された結果 」とみる。
A 氏 :しかし、これには 反論 があり、 堺女子短期大学の水谷千秋教授(日本古代史) は「 少なくとも5世紀頃からは、基本的に古事記や日本書紀の記述は信用できる 」との立場。
私 :ここで問題になるのが、 26代の継体天皇 で、 書紀などによると、25代の武烈天皇が506年に後継ぎを決めずに死去したため、15代の応神天皇から5代離れた男大迹王が越前(今の福井)から迎えられ、王位に就いた という。
A 氏 :日本では、 血筋以外の人物が王位に就く危機 は、 水谷 氏は「 古代で可能性が極めて高かった 」と考えるのが、 35代皇極天皇に仕えた蘇我入鹿 と、 46代孝謙天皇(48代称徳天皇)に重用された僧・道鏡 だという。
私 :「 入鹿は皇位継承さえ左右した権力者 であり、 自らも政治の表に出ようとする傾向 があり、 乙巳の変で暗殺されなかったら、将来的には天皇の位に就いていたのではないか 」という。
A 氏 : 日本のラスプーチンと言われる道鏡 は、「 孝謙天皇は疫病や相次ぐ天災を自らに徳がないのが原因と憂え、その救いを仏教に求めた父の聖武天皇(45代)の影響を強く受けていた。
僧である道鏡に国を委ねることで『天命』を更新し、仏教によって国を立て直していこうとした可能性が高い 」と推測。
私 :一方、 仁藤 氏は「 日本では藤原氏 なども基本的に王位を奪うのではなく『第一の臣下』のポジションを志向してきた 」とし、「 天皇がすべてのセンターで他の貴族の貴種性もすべて天皇家 に依拠 している。 このため、取って代わるという事が起きにくかった 」という。
歴史をひもとくと、 天皇家の権威の源は元々、「祭祀」にあり 、 それを司ってきたからこそ、人々の尊敬を集め、血筋が続いてきたことがわかる という。
天皇陛下が私事として行っている「宮中祭祀 」もその伝統を引き継いでいるといえるだろう という。
三島由紀夫が日本は「祭祀国家」だという のもそこからきているのかね。
これが万世一系の天皇であることを示している のかもしれない。
「宮中祭祀」がポイント
A 氏 : 「宮中祭祀 」については、 この知的街道 のブログの 高谷朝子著「宮中賢所物語」 、 「昭和天皇」原武史著 、 「天皇家に何が起きている・総力特集」 、 「神々の乱心・上下」松本清張著 が参考になるだろう。
私 :このうち、特に 「昭和天皇」原武史著 の 5の2 、 5の4 、 5の5 に 戦前戦後の「宮中祭祀」の変化 が詳しくまとめられている。
歴史的 には、 紆余曲折 があったが、 万世一系の天皇は、特に学問的にも問題ないよう だ。