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2024.07.10
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NEWSポストセブンの「​ 小学校の運動会で「紅組・白組を廃止」の動き “勝ち負けをつけない”方針で、徒競走も「去年の自分に勝つ」 応援は「フレー! フレー! 自分」に ​」という記事によると、東京の一部の小学校で運動会で勝敗をつけなくなって、運動会も「体育学習発表会」という名称で体育の授業参観という位置づけにしている学校もあるそうな。はたして競争はいけないことなのか、学校の競争だけでなくていろいろな競争について徒然なるままに考えることにした。

●競争とは何か

競争(competition)とは競い合わせて優劣をつけることである。社会では様々なところで競争していて、枠が限られているときに競争が起きる。役所の入札では複数の業者に価格や設計とかの案を出させてよい案を採用する。入試では定員の枠が限られているのでテストの点数で優劣がついて合否が決まる。スポーツでは走ることを競えば競走、泳ぐことを競えば競泳、技術を競えば競技と呼ばれて、優勝という限られた枠を取り合っていて、良い試合をしても負けるとあまり評価されない。
スポーツやゲームでは一定のルールの下での競争を繰り返すことで勝つためのトレーニングや戦略が充実していって、次第に競技の質が上がっていく。スポーツでは競技を成り立たせるために他人と競争することが必然だけれど、他の分野でも競争することが無条件で良いこととは限らない。例えば不景気の時に在庫を捌こうとして安売りの競争をすると、物価が下がって利益も下がって人件費も下がって労働者は物が買えなくなるデフレスパイラルになって安い粗悪品が出回って質が良い商品が製造されなくなってしまう。

●学校での競争の是非

・競争の成長への影響

成功者はたいてい子供のころから負けず嫌いである。将棋や囲碁のような完全情報ゲームだと勝敗に運が関係なくて自分の考えの浅さが負けに直結するので、子供は負けると泣くほど悔しがる。負けず嫌いの人ほど他人に勝とうとして努力して勉強して実力をつけていく。
スポーツやゲームで勝てば自信がつくし、負けたからといって悔しいだけで金銭的に損したりするわけではないし、ノーリスクで何度でも負けられる子供時代のうちに競争に慣れておくほうがレジリエンスがついてよいと思う。競争で負ける事で向いていない分野を諦める決断をできるようになるのも成長の証で、そうして子供は幼児的万能感を捨てて現実の自分の長所短所を受け入れて将来の可能性を取捨選択して進路を絞っていけるようになる。競争で負けた子供が泣いてかわいそうだからといって競争させないのは、無菌室で子供を育ててかえって病弱にしてしまうようなものである。左翼は競争と争い(conflict)を混同して、争わなければ平和になると考えて競うこと自体を禁止したがるのじゃなかろうか。
学校は自分よりも優れた他人から学ぶ場所でもある。同じ年齢でも性格も体力も知能もばらばらだからこそ長所が際立つ。他人の優れているところからも学べずに過去の自分に勝つだけなら、勉強も運動も独学でいいし学校に行く必要さえなくなる。というわけで私は子供は同級生といろいろな事で競争すると良いと思う。

・運動会の競争の是非

PRESIDENT Onlineの「​ リレーをやりたい生徒8割、やりたくない生徒たった15人…それでも「中止」を選んだ中学生が守りたかったもの ​」という記事によると、麹町中学校では運動会が廃止されて体育祭に変更されたそうで、優勝した1クラス以外は目標が実現しない教育活動で運動が苦手な生徒が苦痛を感じるという理由で運動会をやめて、生徒会主導で全員が楽しめる体育祭を目指したそうな。
私は運動会で競争することに問題があるというよりも競技内容に問題があると思う。幼児にとって幼稚園の運動会は玉入れやくす玉割りや大玉転がしとかの普段やらない競技をやるレクリエーション的な側面が強くて、運動が苦手で苦痛だから運動会が嫌いだという幼児はいないだろう。例えば玉入れはクラスのみんなで一斉にわあわあやるから誰の玉が入ったのかよくわからなくて玉を投げるのが下手な人がいても戦犯として責められることはないし、種目ごとに得点があったりして勝敗にこだわるからゲームとして成り立つしクラスでの協力が生まれる。
ところが中学や高校の運動会だとレクリエーション的な側面がなくなって、短距離走やリレーとかのゲーム性が乏しい陸上競技に強制参加させられるのでは不満を持つ人がいて当然である。運動が得意か苦手かという以前に短距離をただ走って何が面白いの、馬鹿じゃないのと思う。何かの目的のために体を動かすから楽しいのであって、体を動かすことを目的にしても楽しくないだろう。公園で短距離走やリレーしている子供はいないし、鬼ごっこや水鉄砲やフリスビーとかで遊んで走り回っている子供の方がよっぽど体を動かす楽しさを理解している。たぶん教師は学校で遊んではいけないという変な固定観念があるので面白い運動会を開催できないのだろう。
NEWSポストセブンに書かれている都内の学校のように「去年の自分に勝つ」と自分で決めていない目標を勝手に設定されて無理やりやらされてもモチベーションが出ないだろうし、ストイックに自己新記録を狙いたい子供はほとんどいないだろう。競争をなくしてゲーム性もなくしてしまったら運動会が面白くないと思う子供が出てくるのも当然である。というわけで私は運動会ではゲームとして楽しめる競技で競争するのが良いと思う。

・部活動の競争の是非

日本中学校体育連盟は2027年度以降は全国中学校体育大会で水泳やスキーやハンドボールとかの部活動の少ない競技を実施しないそうで、少子化に伴ってマイナースポーツの部活動に全国大会がなくなりつつある。ヨーロッパでは学校の部活動の全国大会みたいなのがないようである。
ほとんどの生徒はプロスポーツ選手を目指すわけではないし、授業でバスケやサッカーとかの一通りのスポーツをやるのにさらに部活動に加入するのはあまり意味がないと思う。本格的にスポーツを習いたい人はプロが指導するスイミングスクールやサッカースクールとかに通ってそっちの大会に出るので素人の顧問が監督して設備がしょぼい学校の部活に参加する意味がないし、レクリエーションとしてスポーツを楽しみたい人はボール拾いとかの雑用や体力づくりの走り込みをやらされて試合をする機会がなくてつまらないので部活に来なくなる。
ではなぜ学校は部活動を必須にしているのか。「異年齢との交流の中で、生徒同士や教員と生徒等の人間関係の構築を図ったり、 生徒自身が活動をとおして自己肯定感を高めたりすることができる」というのが部活動の意義のようで、先輩後輩の関係を体験する機会としてみれば教育的な効果はあると思う。となると運動系でなくて文化系の部活動でもいいわけで、競争することが部活動に必須とはいえなくなる。
進学の際に推薦がほしい人は学校の部活動があるほうが全国大会〇位の実績をアピールできるだろうけれど、練習時間が長いのは問題である。2018年に柏高校の男子生徒が吹奏楽部の部活動の練習時間が長いのを苦にして自殺して、練習時間は平日約5時間半、休日約11時間、休養日は月平均1.5日で、学業にも影響しそうなほど練習時間が長くて休養もない。柏高校は吹奏楽部の強豪校だそうだけれど、だからといってプロのミュージシャンになって収入が増えるわけでもないし、青春の思い出作りとしてもコスパが悪いし、吹奏楽に興味がない私から見たら吹奏楽の強豪校であることにあまり価値がないと思う。それに上手くなるために自発的に練習するのと、周りについていくために練習を強いられるのではストレスも違う。部活動に楽しさがなくなって苦行になるほど過当に競争するメリットはないと思う。

●企業の競争の是非

三菱総合研究所の「 イノベーションと競争政策 ​」という記事には「保護主義的な政策等により、国や産業の置かれる競争状況を保護することは、経済成長や雇用にプラスの効果を与える場合がある。一方、経済における競争圧力が、イノベーションを促進し、経済の効率性や生産性の向上をもたらすとの見方もある」と書いてあるけれど、果たして保護するのと競争させるのではどちらが良いのか。たぶん分野によって競争したほうがよい分野と競争しない方がよい分野があると思う。

・公共事業の競争の是非

新自由主義者は競争をすればイノベーションが起きるのだと言って、郵便や水道などのインフラを民営化して民間企業と競争させようとするけれど、はたして公共事業は競争するべきなのか。市場原理に任せて競争すればサービスがよくなるかというと、むしろ悪くなる。小泉純一郎の郵政民営化の結果は西室泰三がM&Aで失敗して大損したうえに土曜日配達が休止してサービスが悪化しただけだった。バスの場合、公営バスは住民が多くて儲かる路線の利益で乗客が少なくて赤字の路線も維持していて、裁判所とかの利用者が少なくても重要な公共施設にアクセスしやすくしている。そこに民間企業を参入させて競争させると儲かる駅や商業施設周辺の路線だけで営業するので、黒字路線の客を取られたぶん公営バスの利益が減る。そうすると公営バスは赤字を減らすためにバスの運行をやめて、地域に均一のユニバーサルサービスを提供できなくなって全体としてはサービスが悪化する。維新の会は大阪で公立病院や保健所を減らした結果、新型コロナ禍でバッファーがなくなって医療がひっ迫して日本一の死者を出した。というわけで公共事業は利益を出すために競争させる性質のものではなくて、国民に必要不可欠なサービスを提供するために保護するほうが良いと思う。
公共事業を民間企業にアウトソーシングして競争させるのも役所が説明責任を果たさなくなる問題がある。経済学者のマリアナ・マッツカートの『The Big Con』はコンサル批判の本で、タイトルのConはconfidence trick(信用詐欺)の略とコンサルティングをかけていて、コンサルティングやアウトソーシングに頼るほどやり方がわからなくなって幼稚化させられてしまって、知識の伝達や企業や政治の説明責任を妨げると主張している。公共事業なら住民が開示請求をすれば不正をチェックできるけれど、民間企業にアウトソーシングすると株主でないと内部資料を閲覧できなくなってしまう。例えば都庁のプロジェクションマッピングに対して開示請求をした人がいて電通に48億円で発注したのが判明したけれど、電通の単価は企業の競争にかかわるノウハウとして不開示なので、しょぼいプロジェクションマッピングに対して金額が妥当なのかぼったくりなのか都民が判断できなくて東京都は説明責任を果たしていない。都庁のプロジェクションマッピングを続けたところで観光名所として競争力をもてるようにはならないだろう。
アウトソーシングはガバナンスできなくなるのも問題で、愛知県豊田市ではイセトーに通知書の作成を委託したら契約が終了した時点で削除するはずのデータが保存されたままになっていて、ランサムウェアの被害を受けて税額などの42万人分の個人情報が流出したそうな。東京海上ホールディングスグループも保険の損害査定業務の委託先の税理士法人がランサムウェアの被害にあって、21社6万3千人分の個人情報が漏洩した恐れがあるそうな。サイバーセキュリティに関しては役所や大企業が対策したところで取引先の中小企業がセキュリティーホールになっているので、自分のところでやれる仕事は委託しないほうが安全性は高くなる。競争というとコスト削減に焦点があたりやすいけれど、直接利益を生まないセキュリティ対策まで削減されがちである。

・労働者の競争の是非

労働者に対しては解雇規制をして雇用を守る方がよいのか、解雇を自由にして能力を競争せさる方が良いのか。
厚生労働省の「​ 解雇及び個別労働関係の紛争処理についての国際比較 ​」という資料によると、アメリカ以外の国では解雇理由が制限されていて、正当な理由がないと不当解雇になる。解雇規制は雇用を安定させて労働者の生活を安定させて社会不安を減らすという点で必要である。しかし労働者が保護されると企業にとっては負担になって、従業員を解雇したいときに企業は業績が悪化しはじめたときに希望退職者を募って退職金を増やして自己都合で退職させようとして、さらに業績が悪化したら会社都合でリストラするけれど、それだと人員整理に時間がかかって再建も遅れてしまう。解雇しにくいことが雇用しにくいことにもつながって、ハズレを引きたくないがあまりに気軽に人を雇えなくなって、大学生が授業をおろそかにして何カ月もかけて就職活動してSPIやらグループディスカッションやら6次面接やらの何段階ものふるいにかけられていて採用効率が悪くなる。
個人や組織が特定の課題について経験を積むにつれて効率的に課題をこなせるようになることを経験曲線効果といって、経験を積ませて効率を高めるという点では労働者を保護する方がよい。非正規の有期雇用に頼っている会社にはノウハウが蓄積されなくて、派遣は最長3年で職場を変えるし、外国人技能実習生は最長で5年しか日本に滞在できないので、目先の人件費は削減できても何度も新人を育成しなおす手間がかかって効率が悪くなる。
その一方で解雇しにくくなると勉強しなくなる人が出てくる。日本人は勉強しないと言われていて、2022年の社会生活基本調査によると社会人の勉強時間は平均1日13分で、パーソル総合研究所の調査によると読書や資格取得のための学習とかの勉強を何もしない社会人が52.6%もいるようである。無期雇用の社内失業者が解雇されずに新聞を読んで暇つぶしするだけで給料をもらっている一方で、有期雇用の非正規労働者は低賃金で酷使されてもボーナスもなくてすぐ解雇される雇用格差も問題で、不平等だと労働者のモチベーションが下がって企業に貢献する気がなくなって企業の競争力も落ちていく。
私は終身雇用かいつでも解雇できるかの二択でなくて、一定期間の雇用の保障とその期間後の解雇の自由化をやればよいと思う。無期雇用でも一定期間は正当な理由がない解雇を規制して、その期間後はアメリカのat-will雇用のように企業の裁量で解雇できるようにすれば、労働者は解雇されないために勉強するようになったり、適性がない仕事に見切りをつけて適職に転職しやすくなったりすると思う。

・研究開発の競争の是非

研究開発では発展の方向性がわかっている分野なら早く特許を取得する方が有利になるので、競争するほうがよいだろう。例えば既にある技術を使って製品をコストカットしたり省エネ化したり小型化したりする場合は市場競争すれば消費者の選択でより安くて省エネで小型の製品が売れるので、企業努力で製品が改良されて高性能になっていく。しかしゼロから新しい技術を生み出す場合は比較対象する競争相手がいないので、競争とは違う仕組みにするほうがよいと思う。
総務省の「​ 主要国の研究開発費の総額の推移 ​」によると、中国は2022年には日本の5倍以上の5000億ドルの研究開発費を使っていて優秀な研究者を集めて高度な研究をしていて、質の高い自然科学研究に貢献した機関と国を示したNature Indexというランキングでは中国の機関がランキング上位を占めている。それでも中国からノーベル賞の受賞者が出ないのは、短期での評価を求めて論文工場での研究データの捏造や剽窃が横行して査読が不十分で、まじめにこつこつ長期的に基礎研究をする人がいないからだと言われている。つまり単に研究開発費を増やしたからといってイノベーションを起こすような新しい技術が開発されるわけではない。
民間企業だと配当を求める株主の圧力が強いので儲からない研究を打ち切って部門ごと研究者が解雇されたりするけれど、公営事業や大学の研究だとすぐに研究成果で利益を出すことは求められていないしテニュアがある教授は解雇されずに長期間研究できるので何かしらの研究成果を出せる。マリアナ・マッツカートがスマホに使われているインターネット、GPS、タッチパネルディスプレイといったイノベーションを起こす技術は公金を投入した研究から生まれたと言っているように、公的機関がスポンサーになって秀才に予算と権限と研究時間を与えて利益を度外視して好きにやらせるほうが民間企業で利益目当てに競争するよりも目覚ましい成果を生んでいる。日本のムーンショット型研究開発制度だと5年を基本として最長で10年間の支援を可能にしていて2050年までに〇〇をするといろいろな目標を掲げているけれど、本当にやる価値があることなら期限を区切らずに何十年でも研究するべきだと思う。天文学は古代ギリシアの暇なおっさんたちが何十年も夜空を観察して少しずつ発展させたけれど、5年以内最長10年で研究しろと言われて地動説の真理にたどり着けるかというと無理だろう。というわけで研究開発では研究内容に応じて競争する方が良い場合と保護するほうが良い場合があると思う。

●国際競争の是非

何のために国際競争力が必要なのかといえば、安全保障のためである。ロシアのように国内でエネルギーや食糧を自給できていれば世界中から貿易を拒否されても生きていけるので国際競争力はなくてもよい。一方で日本は資源が乏しくて石油や天然ガスや食料を輸入に頼っているので、代わりに外国に輸出して外貨を稼げる産業が必要になって、トヨタなどの自動車メーカーが燃費が良くて頑丈な車を世界中に輸出している。貿易相手の国に必要不可欠なものを輸出できればその国と敵対して侵略されるリスクが少なくなる。
国際競争といっても競争で相手を叩きのめすわけではなくて実際はお互いに必要なものを融通しあう互恵関係なので貿易黒字や貿易赤字はあまり気にする必要がなくて、貿易黒字だから良いというわけでもないし貿易赤字だから悪いというわけでもない。輸入額が多いのは国にとって必要なものが多いというだけで、貿易赤字を解消して貿易黒字にしたら相手国が貿易赤字になるので、どこかの国は必ず貿易赤字になる。貿易赤字だから取引を辞めるという考え方だとそもそも貿易が成り立たなくなる。アメリカが対日貿易赤字を解消しようとしてレーガン大統領が日本製のパソコンやテレビに100%の関税をかけたり日米半導体協定で日本の半導体産業を潰したりしたように、日本が対米で貿易黒字になっても産業が規制されて競争力を失うのでは意味がない。その一方で韓国や台湾や中国は政府が半導体産業を保護して成長させたように、自由競争をしないほうが国内産業は成長する。
イギリスのエコノミスト誌は市場原理主義とグローバリゼーションを擁護する論調だったけれど、元編集長のビル・エモットは地政学的な緊張でグローバリゼーションが後退していると言っている。新型コロナのロックダウンで中国の工場の生産が止まったり、ウクライナ戦争でロシアからドイツへの天然ガス供給が停止したりしてグローバルサプライチェーンが機能しなくなって、グローバリゼーションを主導してきた欧米人がグローバリゼーションの衰退を言うようになって、次はどうするかという段階に入っている。
新自由主義グローバリストは自由競争すればよい製品が世界中に行きわたってみんな幸福になれるよという性善説でグローバリズムを推進して外資の参入への規制を緩和したり関税をなくしたりしてきたけれど、そしたら中国製の粗悪品が世界を席巻する結果になった。日本は製品に付加価値をつけて競争しようとせず、中国と価格で競争しようとして非正規雇用に頼って人件費を抑えてデフレになって国民が不幸になった。中国は人件費が安い労働者が大量にいて環境汚染対策や労災対策をせず知的財産を侵害して政府が補助金を出してダンピングすることで製品価格を安くして世界の工場になって国際競争力を持って急激に経済成長したけれど、経済に疎い習近平が調子に乗って製品やアプリにスパイウェアを仕込んだり、反スパイ法で外資の中国進出のリスクを増やしたり、台湾にリトアニアの大使館を作った報復でリトアニア製品を中国の税関で止めたり、外国の政治家を賄賂で買収して債務の罠にハメたりして中国離れを引き起こして自滅している。アメリカが中国製品に関税をかけて中国からの直接の輸入を減らそうとしても、中国が発展途上国を経由してアメリカに輸出するのが問題視されている。このやり方はconnector economiesと呼ばれていて、ブルームバーグによるとベトナム、ポーランド、メキシコ、モロッコ、インドネシアの5か国が米中間のコネクターになっていて、ベトナムからアメリカへの輸出が二倍になったときに中国からベトナムへの輸出も二倍になっていたそうな。メキシコとモロッコはアメリカと自由貿易協定を締結しているので、中国製品に関税をかけてもメキシコに中国資本の会社を作られてメキシコ製品として輸出されたら関税をかける意味がなくなってしまう。
ホワイトハウスの「​ FACT SHEET: U.S. STRATEGY TOWARD SUB-SAHARAN AFRICA ​」によると、アメリカと協調して中国やロシアによる有害な活動に対抗する開かれた社会を擁立する方針のようだけれど、その一方でアメリカに規制されたHuaweiはサブサハラアフリカに投資してデジタルスキルを持つ人材を2025年までに10万人育成するLEAPプログラムで12万人育成して前倒しで目標を達成してさらに追加で2027年までに15万人育成するそうで、アフリカでも米中の衝突の芽がある。
アメリカン・エンタープライズ公共政策研究所(共和党系のシンクタンク)のエリザベス・ブローは『Goodbye Globalization: The Return of a Divided World』という本を書いていて、インドはまだ不安定だけれど中国以外の安定している民主主義の国が出てきたらわざわざリスクをとって中国と取引する理由がなくなると言っている。次の大統領選挙でトランプが大統領になったらアメリカファーストの保護主義的な政策をして中国への規制を強めるだろう。
というわけで私は中国のような平和を脅かして信用できない国と自由市場で競争するのは安全保障上のリスクになるので規制するほうがよいと思うし、リージョナライゼーションとフレンドショアリングで友好国との互恵関係を深めて安全保障上を強化するほうがよいと思う。友好国と過当に競争して相手の産業を潰して反感を持たれたり自分の産業が潰されたりしたら競争する意味がないので、グローバル企業の利益を増やすことが目的の侵略的な競争をせずに国家の安全保障を目的にほどほどに競争するべきだと思う。

●生存競争の是非

生物は個体レベルでみれば縄張りを巡る競争や配偶者を巡る競争があるけれど、力の競争だけなら強い大型の恐竜は絶滅して小型の動物が環境に適応して生き残ったように、種のレベルでみると環境に適応するほうが重要である。渡り鳥やオオカバマダラとかの蝶が数千キロ移動するように、餌や気温などの生存に適した環境を求めて移動する動物もいる。
人間にも生息域の縄張りを広げたり守ったりするために競争する人と、よい環境を求めて渡りをする人がいる。先進国では既得権益の縄張り争いをしていて、資本力の差は容易に覆せないので格差が固定化されて、生存競争があるとはいっても相応の福祉もあるので労働者は飢えることはないけれど子供を持てなくなって少子化になっている。その一方で人口が多い発展途上国は生存競争が厳しくて、福祉も教育もなくて敗者が飢え死にする劣悪な環境から抜け出そうとして命がけで密航して先進国に移民が押し寄せる。サブサハラアフリカでは貧困が多くて、農耕や牧畜をしても武装グループに奪われるので働かずに外国からの支援に頼る人たちがいるけれど、これも支援してもらえる環境に適応した最適解の生き方といえる。社会の最底辺に位置する乞食でさえ環境によって待遇が違って、ドバイのプロ乞食は金持ち相手に月に27万ディナール(2018年で73500ドル相当)稼ぐそうだけれど、インドでは貧民の子供がbeggar mafiaと呼ばれる乞食の元締めに誘拐されて目を潰されたり薬物漬けにされたりして商売道具として物乞いをやらされて搾取されている。
人間の生まれながらの身体能力はたいして差がないのに、なぜ国によって発展度合いが違うのか。ゲーム理論だと協調と裏切りのどちらかの自分に有利になる選択をする。人間は道具を使って自分で環境を作り変えることができるがゆえに森を開拓して灌漑工事をして道路や橋を作って文明を発展させてきたけれど、それには大勢の人間の協調が必須だった。先進国では法律で刑罰を設けていて取り締まりが厳しくて、裏切り者が不利になって、協調すると生計が成り立つ社会になっているので、自己家畜化して法律に従って協調するようになる。一方で発展途上国では法律があっても取り締まりが追い付かなくて犯罪者が野放しになって、裏切り者が多くて協調できないがゆえに大事業ができなくて発展しない。劣悪な環境が改善されないままだと人間も環境に適応して、他人を信用しなくなって騙される方が悪いという考え方になって、スリや詐欺やぼったくりが横行して、政治家は権力を持ったとたんに汚職して悪人が勢力を拡大する悪循環になる。個人の生存戦略としては他人を裏切ることでちょっとだけ有利になるとしても、犯罪のやり方を競ったところで社会全体としては荒廃する。日本は協調できるがゆえに資源が乏しくて地震や噴火や台風が多い過酷な環境でも発展したし、アフリカや南米は資源が豊富でも協調できないがゆえに発展しないように、国家単位でみれば集団が協調するほうが生存競争では有利になるわけである。こないだ移民について考えたけれど、同化せずに協調できない移民を増やすのは国家の衰退につながる。
というわけで生存競争自体をなくすことはできないけれど、協調と裏切りのどっち側で競うのかが問題で、私は協調を競うほうが良いと思う。

●人類が競争をやめる日はくるのか

人類は競争によって文明を発展させてきたけれど、競争が人を不幸にしている。金や土地や権力の奪い合いで戦争が起きて大勢が殺されて、努力では覆せないほど格差が拡大して階級が固定化されて、1%の上流階級は親から相続した資産を運用するだけで一生安泰な一方で、中流階級以下は絶え間ない競争で疲弊して心身を病んで、子孫を残そうとする本能よりも理性が勝って、こんな社会で子供を作っても不幸になると考える反出生主義の人も出てきて少子化も進行している。
機械やAIは人間の職を奪う脅威としてみなされがちだけれど、私はむしろ人類を競争から解放する希望になると思う。たぶん現代人が生きているうちは無理だろうけれど、千年後には食料が工場で自動生産されてAIがサービスを提供して、無職でも健康な生活が保障されて金を稼ぐために一生懸命競争する必要がない社会になっているかもしれない。そしたら文明は競争の次のフェーズに行って、労働に時間を使うよりも誰とどう人生を過ごすのかのほうが重要になって、娯楽や芸術が充実して、優秀な人よりも善い人が評価されるようになるかもしれない。





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最終更新日  2024.07.14 11:28:01
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