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「すし匠」の中澤圭二がマンハッタンに出店して、キャビアやトリュフが高級食材をどしどし足していく「足し算の鮨」をやる現地の寿司屋に対して、「引き算の鮨」でシャリを主役にして魚のうまみを引き出してシャリに合わせる江戸前鮨で勝負するというような話を最近見かけた。こういう感覚は料理だけでなくて芸術にも重要なので、徒然なるままに算数について考えることにした。●料理の算数味を形容する言葉に甘酸っぱいや塩辛いとかがあるように、味の足し算をするにしてもたいてい二つの味が中心になるので、何でも足せばよいわけではない。鍋料理は足し算の傾向が強くて、汁のベースになる味があるにしてもいろいろな食材からだしが出るほど汁が濃くなって美味しくなる。スターバックスのコーヒーはキャラメルやらクリームやらをマシマシにする足し算のコーヒーで、喫茶店のコーヒーはミルクか砂糖を最低限入れるだけでコーヒー本来の味を楽しむ引き算のコーヒーといえる。酒は割り算で、アルコール濃度が高い酒を氷や炭酸とかで割って薄めて、そこに果物とかのフレーバーを足して好みの味に仕上げる。酒と食べ物のマリアージュはおいしさを引き上げる掛け算といえるかもしれない。デザートは足し算になりがちで、洋菓子のケーキやクレープはごてごてと果物を盛っているほうがインスタ映えして美味しそうに見えるけれど、飽きるのも早くてたまに食べるにはいいけれど毎日は食べたくない。和菓子は餡をメインにして餅や最中を合わせて素材のおいしさを引き出す引き算のお菓子で、地味だけれど毎日食べても飽きにくい。湖池屋がカルビーの真似をしてごてごてと味を足したポテチを出すのを見直してジャガイモのおいしさを追求したプライドポテトを出したらヒットしたように、普段食べるおやつは引き算の考え方で本質的なおいしさを追求するほうがよさそうである。パンはハード系パンは小麦のおいしさを追求した引き算のパンといえる。サンドイッチやホットドッグやハンバーガーや総菜パンは足し算のパンである。焼きそばパンとかの日本特有の総菜パンはパンと具のどっちがメインなのか不明で具が甘めのパンに合わなかったりするので、私は総菜パンをあまりおいしいとは思わない。●製品の算数平成の日本の家電は機能を足し算するのが付加価値だとばかりにいらない機能をてんこ盛りにして、テレビのリモコンがボタンだらけになったりパソコンやアプリがプリインストールされたいらないソフトだらけになったりして迷走して、Appleとかのデザインに凝ったシンプルでスマートな家電に取って代わられた。バルミューダもトースターとかの単機能の引き算の家電で成長したのに、スマホに独自の電卓アプリを足すことにこだわった足し算病にかかって、自己満足のこだわりが消費者のニーズに合っていなくて失敗した。電卓にこだわりたいならスマホでなくて意識高い事務職用の卓上電卓を開発して引き算の製品にするべきだった。●建築の算数家を建てる時は家族の人数や必要な用途に応じて寝室や書斎やウォークインクローゼットとかの部屋を足していって、大は小を兼ねるということで大きな家になりがちである。昭和は大きな家で3世帯同居して、ジジババが死ぬ頃にひ孫が生まれて家族構成が入れ替わるので、家の構造自体はあまり変わらなかった。核家族化してからは子供が生まれたり子供が家を出たりしてライフステージが変わるごとに引っ越すのが普通になって、単身用の最低限寝起きできるだけの超狭いアパートや月極のロッカーみたいな用途を限定した引き算の部屋が出てきた。●ファッションの算数化粧は素顔に対する足し算で、まつ毛の長さや唇の厚さとかを盛って誇張するのが標準になっている。そのうえ写真アプリやプリクラとかでさらに加工して盛る。女性らしさを足していくとドラァグクイーンのド派手な化粧にいきつく。昔の服は身分を表していたので、偉い人ほど足し算のファッションで装飾が増えていって、冠をかぶったり勲章をつけたり凝った刺繍を入れたりフリルをフリフリしたりする。現代の服はコーディネートが難しくて、服のブランドも靴のブランドも鞄のブランドもアクセサリーのブランドも個性を出そうとして派手になりがちで、重ね着でも動きづらくなって、足し算をするとゴテゴテした感じになるので足しすぎないようにする必要がある。モノトーンのモード系ファッションは服から色の要素を減らしてそのぶんスタイルに特徴をつけた引き算のファッションといえる。女性は性の解放で好きな服を着られるようになると、スカートの丈が短くなったりへそを出したりして服の面積を引き算して露出を増やすようになった。服で隠さずに直接性的魅力をアピールするようになったら豊胸手術で胸を足し算する人も出てきた。●スポーツの算数ボディービルダーは筋肉を足していくけれど、筋肉ムキムキのマッチョマンがあらゆるスポーツに強いわけではない。身長や骨格に最適な筋肉量があるし、格闘技は体重制限もあるので、スポーツマンは無駄な筋肉や脂肪をつけないように引き算で体を鍛えて機能を絞る必要がある。スポーツのスコアは基本的に足し算で、相手のスコアを減らせるスポーツはないような気がする。●音楽の算数音楽は演奏者の人数や楽器の種類が増えるほど音が豪奢になるので足し算になりがちだけれど、そのぶん作曲や合同練習が難しくなる。西洋では大人数のオーケストラが隆盛して、アメリカのポップミュージックではジャズの後に大所帯のファンクが出てきて、日本では大所帯のアイドルが出てきたけれど、大人数だとそのぶん維持費がかかるのでジャンル自体の人気がなくなると運営できなくなる。楽器が電子化してからはシンセサイザーがあればいろいろな楽器の音が出せるようになったうえに楽器ごとのズレがない正確な音が出るので、オーケストラやマーチングバンドやアイドルみたいに生演奏のパフォーマンスに価値があるグループ以外は大所帯のグループはいなくなった。その一方でジャズはロックは3-4人が専門の楽器を担当するので、個性の掛け算的なところがある。音楽の方向性の違いでメンバーが抜けて別のメンバーを入れるとソロパートの部分が違う雰囲気になって人気が変わったりする。ラップバトルも掛け算で、一人だけうまくてもだめで、相手もうまい返しをしないと盛り上がらない。アカペラのバラードは引き算の音楽で、伴奏がないぶん歌唱力が要求される。ボイスパーカッションは音を足していって一人でいろいろな音を出すのが面白さになる。●文学の算数文体面ではヘミングウェイのハードボイルドの文体は描写を必要最小限にした引き算の文学といえる。日本文学にあるような句点で文章を長くしてつらつらと書いて独特のリズムを出す文体は足し算の文学といえる。物語の内容は登場人物同士の足し算でなくて掛け算になるようにしないと登場人物を増やす意味があまりない。足し算の登場人物はいてもいなくてもたいして変わらないけれど、掛け算の登場人物はいなくなったらプロットが成立しなくなったり物語の魅力がなくなったりする。テーマとしては甘酸っぱい恋とかほろ苦い恋みたいに味に例えることもできるので、料理の算数も応用できるだろう。ミステリに恋愛要素を足した甘辛い殺人事件とか、自意識の探究に文明批判を足した塩辛い純文学とか、ポストアポカリプス世界で死闘を繰り広げる苦辛いSFとか、二つの要素なら足し算ができそうである。●ゲームの算数ゲームは足し算の傾向が強くて、オンラインゲームやソーシャルゲームは経験値を貯めてレベルを上げてアイテムやスキンを集めさせることでユーザーが成長して強くなった感じを出したり、ログインボーナスでゲーム内資産が溜まった感じを出してユーザーをつなぎとめている。その一方でローグライク系は良いアイテムを集めても死んだらアイテムがなくなって初めからやり直しという緊張感があるのがウケていて、これは引き算のゲームである。『桃太郎電鉄』は基本的に足し算で資産を増やしていくゲームだけれど、貧乏神が強制的に引き算をすることをイベント要素にしてゲームバランスを調整している。引き算もやり方によっては面白いイベントになるわけである。●番組の算数ラジオは人数が増えると声だけ聴いても誰が喋っているかわかりにくくて足し算はできないので、キャストの人数を最低限にして企画を掘り下げる引き算の番組作りといえる。ラジオはメインパーソナリティーとアシスタントやゲストがいれば一時間くらい会話を途切れさせずにつなげることができるので、キャストは1-2人で十分である。バラエティ番組はキャストが多いほど賑やかな感じになるので足し算の番組作りといえる。企画がしょぼくてもひな段に芸能人を並べて何かコメントをさせて良さそうなものをピックアップして編集すれば尺を稼げるので、企画力がないテレビ番組はたいていひな壇に頼っている。YouTuberも似たようなもので、1人でやるとくだらなくて盛り上がらないような事でもグループ系YouTuberが5-6人でわちゃわちゃやるとリアクションの引き出しが増えて楽しそうに見える。●宗教の算数宗教を広めるにしても、一人づつ説得して教化するのには時間がかかる。そこで避妊を禁止して子供を増やして親と同じ宗教にすれば信徒が増えるし、あるいは異教徒を征服して改宗させれば信徒が急増する。そのやり方で中世のキリスト教やイスラム教は掛け算で世界中に増えていった。現代は人権が重視されて信教の自由があるので宗教戦争で征服した相手を改宗させることはなくなったけれど、それでも結婚と出生への宗教的な干渉は残っていて、統一教会は合同結婚式と避妊禁止で二世三世を信者にすることで信者を増やしたし、モルモン教は一夫多妻制と避妊禁止で信者を増やしている。その一方で原始仏教は引き算の宗教で、個人的な欲や執着を捨てることを目指していて出家した僧侶は子供を持たないし、布教して権力や資産を持つことも目的にしていない。それゆえに出家者は尊敬の対象となって、在家の仏教徒に説法をして悟りに導く代わりに布施を集めて生計を立てられるようになる。●人生の算数人生は学習の連続で、知識や技術の足し算で成長して仕事で生計を立てられるようになる。人脈も足し算で、友人や知人が増えていくほど仕事に有利になる。しかし過去の成功パターンにはまって認知バイアスができたり、人間関係のしがらみにとらわれて身動きできなくなることもあるので、時折アンラーンしたり、悪人との縁を切ったりする引き算も必要になる。艱難辛苦を乗り越えて頑張って生きても死なない人はいないので、最終的には積み上げてきた知識やキャリアや資産とかがリセットされてゼロになる。あるいは人生に何も足すことができなくて生きがいがなくて自殺したり、やけになって他人が積み上げたものを壊そうと無差別殺人をする人もいる。その虚しさにどう対処すればよいのか。ノーベル文学賞を受賞したメキシコの詩人のオクタビオ・パスが『弓と竪琴』で愛は存在の投影であるというようなことを言っていたような気がするけれど、何か他の物に自分の存在を投影して、知識、技術、愛情、人脈、金、志とかの自分が築いた価値を子供や弟子や部下とかに譲渡すれば、価値が一代限りで消えずに受け継がれて文明が発展していく。一度はヨーロッパから消えた古代ギリシアや古代ローマの芸術の技法もルネサンスで再発見されて芸術が再び隆盛したように、直接価値を継承できなくても間接的に継承されることもある。いくら世界の真理を知っていても誰にも伝えずに死んだら文明の発展に寄与しないので、知識を積み上げてきた人は本に書き残して他人に伝えればよいし、いくら金持ちでも使わない金を残したまま巨大な墓を建てるのは無意味なので、金を積み上げてきた人は事業をするなり寄付をするなりして他人に金を渡せばよい。使い道がないお金が余っている人は私にくれるといいよ。ちょっとでもいいよ。●まとめ足し算でマシマシにすると強くなる感じがするけれど、それだとバランスが悪くなりがちで食品や製品や芸術だとかえって欠点になりかねない。引いてみることを選択肢にいれるのも良いと思う。
2024.11.25
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最近は修正なんとか主義とかいろいろ言われているので、徒然なるままに修正について考えることにした。●修正とは何か修正とは、不十分・不適当と思われるところを改め直すことである。どんな計画でも細部まで完璧に想定通りに行うことはできないので、何か間違ったりうまくいかなかったりしたら計画を修正する必要がある。●生物の進化と適応と修正生物は巨大隕石の衝突や大噴火とかで地球の環境が大幅に変わった時に適応できなかった遺伝子を持つ生物は淘汰されて、環境に適応した遺伝子を持つ生物が生き残ってきた。無性生殖で同じ遺伝子をコピーして増える単細胞生物は変化に弱くて全滅しやすいけれど、有性生殖で雌雄で遺伝子を交換する生物はより多様な遺伝子を残せるようになって、環境が変わっても適応して生き延びる個体が出てきて、体が大きく強くなって獲物を捕食しやすいように体の特徴が変化したり、皮膚の色を変えたり毒を蓄えたりして外敵から逃げやすいように変化したり、気温の変化に対応したり、他の種との棲み分けや共生とかができるように変化したり、海から出て陸上で暮らせるようになったりして、遺伝子が徐々に変わっていくことで多種多様な生物へと進化してきた。人間以外の動物は本能によって生きているので自分の意思で変わることはないけれど、人間は自分の体を修正したり環境を修正したり子孫の遺伝子を修正したりできる点に大きな違いがある。現代人は寒ければ厚着をしたり暖房をつけたりするし、灌漑工事をして川の流れを変えて飲用水や農業用水を確保したりするし、婚期の若者は異性にもてるために流行に敏感になって服装や化粧を頻繁に変えたり、顔を整形したりする。他の生物も修正して、時間をかけて動物を交配して遺伝子を変えて家畜やペットとして利用価値が高い品種を作ったり、EMS処理で人工的に突然変異を起こして種子の品種改良をしたりする。・遺伝子の修正の倫理的問題遺伝子治療は病気の治療に役立つ半面で、アスリートの遺伝子研究は遺伝子データで競技の向き不向きが判断されてしまうと差別につながりかねないと問題提起されて研究が停止されたそうな。デザイナーベビーも今は禁止されているけれど、いずれ金持ちが子孫の知能を強化して権力基盤を固めるために遺伝子操作をやると思う。そこから先がどうなるのかはSF的で予想しにくいけれど、安直に考えれば超人的な知能と身体能力を持つ金持ち権力者集団が世界を牛耳るようになって、遺伝子ガチャ頼みの庶民が成り上がって権力構造を覆す機会はなくなるかもしれない。・少子化は修正できるのか植物は自分で移動できないので環境の影響をうけやすくて、標高が高くなると水が凍って水分不足で森が形成されなくなる森林限界があるし、密度が高くなると相変異が起きて小さくなる。昆虫だと密度が高くなると産卵数が減少する密度効果がある。じゃあ人間はどうなのかというと、環境を修正して寒い所に住むことはできても、先進国では出生率が減っていて長期的に見たら種の存続ができなくなりつつある。フランスでは移民2世や3世の女性は1世よりも子供を産まない傾向だそうで、これは単に宗教で避妊を禁止しているとかの個人的な思想だけで出生数が決まるというより、年収や部屋の広さや家賃や電車の混雑具合や治安や福祉とかの社会的な出生限界とでもいうような子供を産みたくなくなる諸条件があるのかもしれない。都市部では仕事はあって教育水準も高いけれど、部屋が狭くて家賃が高くて治安が悪くて子育てに向いていない。都市部の混雑が嫌な人は田舎に引っ越せば広い家に安い家賃で住めるけれど、仕事があまりなくて低い収入になって教育水準も低いので子供を産みたくなくなる。都市部に賃料が格安で家族で住める国営アパートを作ったら子供を産みやすくなるだろうけれど、それだと資本主義国家では民業圧迫になるので現実にはやれないだろう。庶民の収入を増やして少子化を改善することと金持ちの資産を増やすことのどっちが大事かと言うと、資本主義だと後者のほうが大事なので、資本主義を修正しない限り必然的に少子化になるのだろう。●脳の修正・認知や行動の修正脳はエネルギーを消費するので、なるべく省エネにしようとしてどうでもいい情報を無視しようとする。アナログ時計の針の音や雨音のように危険がないと判断した刺激に慣れて徐々に反応しなくなるのを馴化(じゅんか)という。子供が親に何度も遊んでないで勉強しろと叱られても聞き流すようになるのも馴化である。同じ行動に慣れて意識しなくてもタスクをこなせるようになることを自動化という。何かに興味を持つとその情報を認識しやすくなるのをカラーバス効果と言って、逆に興味がないことを認識しなくなるのはスコトーマ(心理的盲点)という。養老孟子が『バカの壁』で指摘したのもスコトーマと似ていて、知りたくないことの情報を自主的に遮断して、わかったつもりになってそれ以上知ろうとしなくなる。このように脳が無意識に認知や行動を修正することでいろいろな問題が起きているので、無意識の認知バイアスを自覚して意識的に認知を修正して、自動化された行動や思考パターンを変える必要がある。ただし自分で自分の認知バイアスに気付くためにはメタ認知能力が必要で難しいので、教師やメンターとかの他人に指摘してもらって修正するのがよい。例えば工場の労働者は最初は慎重にマニュアルを確認しながら作業していても慣れてくると作業を自動化するようになって注意が散漫になって雑談やよそ見をしながら作業して事故を起こすけれど、本人は危ないことをしている自覚がないので、安全管理者が客観的な視点から指導したり、人間の認知に頼らずにセンサーで異常を感知して知らせたりする。自動化は注意を促せば修正できるけれど、バカの壁は修正しにくい。そもそも相手があまり興味をもっていない話題に対して間違いを指摘したところで、バカの壁に阻まれて無視されてしまうと意味がないのである。財政破綻論がバカの壁の典型で、個人の銀行預金を集めて国債を買っていると信じて国債発行額が増えるといずれ銀行が国債を買えなくなるんだという論法で財政破綻論を唱えているザイム真理教信者が未だにいるけれど、2022年3月15日の参議院財政金融員会で西田昌司議員の質問で日銀の担当者が銀行の新規国債は日銀当座預金で買っていると答弁しているので、国民から銀行預金を集めて国債を買っているわけではなくて信用創造で国債を買っていることが既に明確になっている。2023年1月24日の参議院本会議の大島九州男議員の質問で岸田文雄は「国債は政府の負債であり、国民の借金ではありません」と答弁しているので、国債が国民の借金ではないことが明確になっている。経済を知らない人は赤字だと破綻すると誤解している人もいるけれど、赤字続きの企業でも株を売ったり融資を受けたりしてキャッシュフローがあれば倒産しないし、帳簿上は黒字の企業でも売掛金を回収できなかったりしてキャッシュフローがなくて買掛金の支払いや従業員の賃金の支払いが不能になれば取引を続ける企業や従業員がいなくなって事業を続けることができなくなって倒産する。このように破綻は資金繰りができなくて債務を返済できなくて組織を運営できなくなることを言うけれど、通貨発行権がある国が自国通貨建て国債の償還ができなくなることは論理的にありえない。それでも国債発行の仕組みに興味がない人たちは知識をアップデートしないので、相変わらず膨大な借金で大変だー財政赤字で大変だーと財政破綻論を言っている。最近JNPC(日本記者クラブ)の「巨大地震を考える」(1)という動画を見ていたら、1:16:35ころに千数百兆も借金している国でみんなで頑張るしかないのだから行政は頑張っている人は助けるけど頑張らなかった人は助けられないと言うべきだというような財政破綻論に基づく自己責任論の選民思想を言っていたのであきれてしまった。教授の肩書を持っていて人を助ける学問を研究しているはずの人でさえ公的な場で選民思想を言えてしまうところにバカの壁の危険性がある。この考えで小さな政府を目指すと日本は滅亡に向かう。犯罪が多発しても予算がないから防犯意識が低い人は助けなくていい、伝染病が蔓延しても予算がないから健康管理ができない人は助けなくていい、不景気でも頑張っている企業は利益を出しているのだから頑張らない企業は補助金で助けなくていい、スキルがなくて転職できない労働者は努力不足だから助けなくていい、能登みたいな田舎に住んで古い家で耐震工事もしていない被災者は自己責任だから助けなくていい、とあらゆる分野で予算を盾にして国民を切り捨てていけば、貧困層は福祉がない中で生きるために犯罪をするようになって、中間層もどうせ政府が助けてくれないなら税を払う意味がないじゃんかと脱税をするようになって、金持ちの財産を守るために薄給で命を賭けるのはばからしいと警察官や自衛官のなり手がいなくなって、金持ちはこんな危ない国には住んでられねえやとタックスヘイブンに移住して、国民同士が助け合わなくなって次第に国が統治できなくなるだろう。財政破綻論の間違いは単なるマニアックな経済学の話題として扱うのでなくて、国の未来のために間違った貨幣観を修正する必要がある。・修正が難しい問題もある知識が間違っている場合は間違いを修正しやすい。しかしギャンブルや犯罪で成功体験を得てうれしくなったり、薬物で無理やり脳内物質を分泌させたりして報酬系の異常が起きると、社会的に好ましくない行為に依存する問題が起きる。あるいは強迫性障害で確認や手洗いとかを繰り返したり、発達障害で思い込みや固執が激しかったりして生活に支障が出る人もいる。理屈では悪い事や間違っている事に対する認識や行動を修正する方がよいとわかっていても、脳内の異常が原因のばあいは修正が難しい。前科者の社会復帰を支援する団体で共同生活したり、精神科に通院して投薬や認知行動療法の治療を受けたりして、数か月から数年の時間をかけて認知や行動を修正していく必要がある。●なんとか主義の修正初期の資本主義は問題だらけで、児童労働や長時間の重労働による労働力の搾取が行われて、工業化で効率がよくなったぶん失業者も大量に生まれて、ロンドンでは4ペニーの棺桶や2ペニーのすわり宿とかの劣悪なホームレス用の宿屋があったほどだった。それで労働組合や労働者を支持基盤にする政党が生まれて、徐々に法律が整備されて解雇規制や最低賃金や失業保険や有休や育児休暇の制度ができて労働環境が改善されていって資本主義が修正されてきた。修正資本主義のように修正なんとか主義と名乗らなくても、いろいろな主義は徐々に修正されている。例えば中国共産党がソ連と同じ計画経済をやろうとしたら同じ失敗をしただろうし、実際に毛沢東はいろいろ失敗したけれど、経済政策に対しては1978年に鄧小平が改革開放をして資本主義を取り入れて一部の経済特区で外資を受け入れて、中央集権と言論弾圧は共産主義のままで反乱分子を粛清して、ある程度共産主義を修正したからこそソ連とは違って中国は世界の工場として経済成長して豊かになった。需要や在庫や原料費は国外の要因でも変動するので、自国で計画した通りに淡々とやるのではだめで状況に応じて経済政策を軌道修正する必要があるけれど、経済に疎い習近平が強権を持ってからは修正が効かなくなって、不動産バブルがはじけて外資もスパイ容疑での逮捕を恐れて中国から引き揚げて不景気に突入して自滅している。●宗教の修正戒律や経典がある宗教は後世の人が勝手に書き換えるわけにはいかないので修正しにくい。そこで教義に忠実な原理主義を貫くか、解釈を変えて分派するか、世俗化するかでその後の発展性が違ってくる。中世のキリスト教ではジョルダーノ・ブルーノとかの聖書と異なる説を言う優秀な学者は異端者として処刑されて仮説を言うことさえできなくて科学の発展が阻害されてきたけれど、カトリックが腐敗して新教に分派してカトリック教会の権力がなくなって世俗化していくにつれて自由に仮説を言って検証できる啓蒙主義に移行して、プロテスタントと産業主義は相性がよくて科学が発展するほど工場が儲かったので科学が急速に発展して欧米が近代化して白人が世界を席巻した。イスラム教もキリスト教と同様に原理主義が発展を阻害しているけれど、トルコのように政教分離して世俗化した国もある。第一次世界大戦の敗戦後にトルコ革命を起こしてオスマン帝国を打倒してトルコ共和国を建国した初代大統領のムスタファ・ケマル・アタテュルクが宗教と政治を分離しなければトルコの発展はないと考えたのは正しかったわけで、世界のネタ帳の「中東の名目GDP(USドル)ランキング」によると中東ではGDPが一番高い。トルコは石油資源がなくても自動車部品とかの製造業や農業や観光業とかで繁栄している。サウジアラビアも石油に頼りっぱなしではだめだと言うことで産業を育成していて世俗化しつつあって、女性が男性と同じ職場で働けるようになりつつあるようである。サウジアラビアで日本のアニメが人気なのも世俗化と無関係ではないだろうし、偶像崇拝の禁止で視覚的面白さを追求したコンテンツが乏しかった状態でアニメを見たらはまったのだろう。アゼルバイジャンもシーア派ムスリムが多いけれどソ連時代に世俗主義になったようで戒律が緩くて飲酒の制限がないようだし、2003年にイルハム・アリエフが大統領になったのを境に経済成長し始めて、最近はトルコと天然ガスの供給契約をして天然ガスのハブになることを目指していて、ロシアを介さないヨーロッパへの天然ガスの供給ルートなのでヨーロッパの投資も集めている。トルコと対照的にイランは1978年のイラン革命でイスラム法に基づく宗教国家になって、道徳警察がヘジャブを適切につけていない女性を殴り殺したことでデモが起きて国際的に批判されている。ナイジェリアは人口が多くて経済成長を期待されている一方で、イスラム原理主義のボコ=ハラムが女性を教育する学校を襲撃して発展を阻害している。パキスタンもインドと明暗が分かれて、日本の倍の2億3580万の人口がいてもアフガニスタンと接しているだけあってイスラム原理主義の影響が大きくてテロがたびたび起きて外国人が狙われるのであまり発展しない。パキスタンで音楽が弾圧されて衰退して音楽家の仕事がなくなって、シタールやタブラとかの古典楽器を使う伝統音楽家がジャズに転身して海外進出しようとする様子は『ソング・オブ・ラホール』というドキュメンタリー映画になっているけれど、これはサクセスストーリーの美談というよりは苦肉の策で本来の音楽のスタイルを修正しなければ仕事ができなかったわけで、音楽家がみんな海外進出できるわけではないので自国で音楽が迫害されずに栄えるにこしたことはない。このようなイスラム原理主義者が多い国は排他的で異教徒の外国人を迫害していて外資が進出しないし、女性の教育や就労も制限されて人口が多い割には高度な知識や技術がある人が少ないので、経済、技術、文化などのあらゆる点で発展が遅れる。日本は神道と仏教が主な宗教で、神道は境内で殺生を禁じるとか以外には特に戒律がないし、仏教は口伝で広まって経典がいろいろあって経典同士が矛盾したり宗派によって解釈が違ったりするせいか原理主義になりにくくい。それが幸いして特に宗教的価値観を修正する必要がなかったので、学問への宗教的な弾圧がなくて中国やヨーロッパの優れたところを取り入れてすんなりと近代化して文化や科学や経済が発展した。●製品の修正家電とかはいったん売ってしまったら修正ができないので、発売前にいろいろテストしたりして開発に時間がかかるし内部失敗コストもかかる。開発している間に同業他社に先に特許を取られたり、あるいは申請中の特許を真似されて類似製品を作られたりする問題もある。その一方でソフトは後で修正がきくので開発からリリースまでの期間が短くなって稼ぎやすいので、パソコンやスマホとかの家電を作る日本や中国の製造業よりもアプリやクラウドサービスとかを売るアメリカのIT企業が儲かっている。バグやセキュリティリスクが判明したりした場合はその都度アップデートしてパッチを当てて不具合を修正するやり方なので、製品が壊れていなくて動作してもサポートが終了して不具合の修正ができなくなった時が製品の実用面での寿命で、サポートが切れたパソコンやスマホはオフラインでは使えるもののあまり使い道がないし、セキュリティリスクがあるままインターネットに接続するとハッキングされる可能性があるので買い替えるほうがよい。●芸術作品の修正芸術ではどの時点を作品の完成とみなすのかは曖昧である。顧客がいる作品は顧客が満足するまで修正するし、顧客がいない作品は作者が満足するまで修正する。例えばレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」は何度も修正されてきて、最初は眉毛とまつ毛があったのに修正されている。作者は自分で満足するところがわかるけれど、素人の顧客がどの程度で満足するのかはわからないのが問題で、最近はホロライブというVtuberを運営しているカバーという会社がイラストや3Dモデル製作などを委託している23人の下請け事業者に計243回の無償やり直しを要求して公取委が下請法違反で勧告した。こういうのはやりがい搾取の労働力ダンピングになって業界ごと潰しかねないので、無料で修正する回数を決めて、無理な要求は断るべきである。エログロとかの過激なコンテンツは社会的な倫理観に基づいて適正な範囲に収まるように黒塗りしたりモザイクを入れたりして修正されることもある。ポリコレも芸術の倫理観を修正しようとする試みだけれど、クリエイターが何かを表現したくて作品を作っていない場合は共感を得られないのでたいてい失敗する。開発期間8年で100億円かけたConcordというゲームはポリコレ基準の不細工でもっさりしたエイリアンみたいなキャラクターだらけで魅力がなくて売れなくて11日でサービスを停止して明らかな失敗例になった。ディズニー映画もポリコレ色が強くなって世界中でディズニー離れが起きているそうな。フィクションでの美化を否定して不細工をありのままに描くという創作姿勢は芸術だとロマン主義からリアリズムに移行するときに起きたけれど、大衆向けの商業作品でそこにこだわってもそれは大衆が求めているものとは違うので売れなくて当然である。もし『タイタニック』が美男美女のラブロマンスでなくて太った不細工なおっさん同士のブロマンスだったらプロットが同じでもヒットしないだろうし、ポリコレ作品を作るのは自由だけれどそれを受け入れることを視聴者に強制することはできない。●選挙と政策の修正科学的な真実は独裁者や宗教の権威が決めるものではないし、民主主義で多数決で決めるものでもない。民主主義でも間違うことはあるし完璧なシステムではないけれど、民主主義国家で定期的に選挙があるのは政策の修正の機会といえるし、そこが権威主義国よりも良い点といえる。こないだ石破総理が国民の信を問うと衆議院を解散した結果、自民党が比例票を500万票減らして大敗してそのぶん現実的な経済政策を掲げる国民民主党が20-40代の若者の支持を受けて躍進して、積極財政策を支持するれいわや参政党や保守党も議席を獲得した。自民党と公明党は過半数を維持できなくなって強行採決ができなくなって、法案を通すには野党を支持する国民の声も聴かざるを得なくなった。国民民主党の政策は正論で、ガソリン税にさらに消費税をかける二重課税はおかしいし、ガソリンの元売りへの累計6兆円の補助金は出してきたのにトリガー条項で年5000億円の減税するのを財源がないといって拒むのもおかしい。いきなり消費税減税を言っても与党の反発が大きいので、まず明らかにおかしい所から改善していくのはよいやり方である。マスコミの財政破綻論に洗脳されなかった若者が積極財政策を掲げる政党を支持してようやく積極財政への転換の兆しが出てきて、次の参院選でも積極財政派が支持を伸ばすようならいずれ消費税の減税や廃止にもつながると思う。こないだのアメリカの大統領でトランプが大差で勝利したのも民主党政権の答え合わせ的な側面があって、民主党の政策ではインフレで庶民の生活が苦しくなったので、自分の生活を守るためには嫌いなトランプに投票してでも政策を修正しなきゃいけないと思ったアメリカ人が多かったのだろう。不法移民は厚遇して高級ホテルで無料で暮らせて1万5千ドルの給付金ももらえるのに、アメリカ国籍がある貧困層はインフレで学費が払えなくて低学歴で仕事を見つけにくくて不法移民が増えたのに住宅建築が追い付かなくて家賃が高騰してホームレスになっても補助を貰えなくて、病院に行けない若者がフェンタニルとかの鎮痛剤や麻薬に依存して年間で10万人くらい死亡しているのは国の対応としておかしい。苦しんでいるアメリカ人の同胞は助けないのに遠くにいる不法移民やウクライナ人やイスラエル人は助けたがって善人ぶるところにリベラルの欺瞞があるので、格差の頂点にいる大富豪の意識高い系セレブたちがハリスの支持を表明しようが庶民には響かなかったようである。日本で間違った政策をやってもアメリカのようにすぐに選挙で修正されなくて何十年も失われっぱなしなのは、言葉の仕組み自体が違うからかもしれない。英語のようなスル的言語では、誰かが何かをするからそういう結果になったのだと動作する個体を認識する。バイデンが不法移民を歓迎するから不法移民が増えて家賃が上がった、バイデンが不法移民に給付金をあげるからインフレになった、と動作主の行為と結果がセットになっている。ところが日本語はナル的言語なので、不景気になる、生活が苦しくなる、という言い方をして動作主をとらえずに全体の出来事をとらえようとして、その結果に至るまで誰が何をしてきたのかという因果関係が不明である。増税による不景気や生活苦は自然災害じゃないのだから辛抱していればいつか災いが過ぎ去って景気が良くなるわけではないし、誰が何をやってきたのかを明確にして、財政破綻論に基づいて不景気なのに増税するような科学的に間違った政策をしてきた政治家は批判して選挙で落として政策を修正しないといけない。間違った経済政策を主導してきた自民党が大敗して経済に疎い石破政権が短期で終わりそうなのは良いことだと思う。
2024.11.12
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最近は闇バイトに応募した人の強盗殺人とかの凶悪犯罪が頻発している。白昼に銀座の高級時計店で集団で強盗したのも闇バイトだったし、神奈川県横浜市の強盗殺人事件では実行犯の男は日給15万円以上のホワイト案件と書かれているバイトに応募したら闇バイトで自分や家族への危害を恐れて言いなりになっていたようだし、千葉県鎌ケ谷市では保育士の男が闇バイトに応募してシグナルという通信アプリの指示に従って住居に侵入して逮捕された。無職やDQNや反社会的勢力だけでなくて、正業がある人まで犯罪をして治安が悪化しつつあって、セキュリティ会社の問い合わせが増えているそうな。これについて考えることにした。●闇バイトとは何か闇バイトとは犯罪の実行犯の募集で、SNSや求人サイトで合法な求人を装って高収入で釣って応募者に個人情報や顔写真を送信させてから脅して犯罪に加担させている。犯罪グループの指示役はルフィ強盗団のように偽名を使って外国とかの捜査されにくいところから匿名性が高い通信アプリを使って指示して、実行犯は監視カメラや目撃証言や物証とかで身元が割れて逮捕されやすいので使い捨ての実行犯を闇バイトで調達して、強盗、特殊詐欺の受け子・出し子、密漁、麻薬の売買、犯罪に使う銀行口座の開設、盗んだ金品の輸送、犯行時の運転手や見張り役とかをやらせているようである。このような闇バイトを使った犯罪グループは匿名・流動型犯罪グループ(トクリュウ)と呼ばれている。2024年の4-10月に4472人がトクリュウ絡みの事件で逮捕されて、そのうち4割の1820人は闇バイトで、罪状別では犯罪収益防止法違反が最多の1515人で、闇バイトが銀行口座を開設して譲渡するパターンが多いようである。実行犯は犯罪の素人で証拠を残しているのですぐに捕まるけれど、実行犯が捕まっても指示役の素性を知らなくて尋問しても指示役までたどり着かないので、なかなか犯罪がなくならないのが問題である。今は詐欺や強盗とかの金銭目的の犯罪が中心だけれど、要人の暗殺やテロや言論弾圧にも使われかねない危険がある。闇バイトで雇った人を上場企業の飲食チェーンのバイトとして潜り込ませて、闇バイトに開設させた証券口座で株を空売りしてから一斉にバイトテロを仕掛けて株価を下げて儲けるトロイの木馬のようなこともできてしまうので、強盗だけを警戒すればよいわけではない。●なぜ若者は闇バイトをするのか・闇バイトだと理解していない東京都の詐欺被害加害防止特設サイトの「どっちが闇バイト? クイズでわかる “危険な求人情報”の見分け方」によると、現役高校生の8割が闇バイトの求人情報を判別できないそうな。高校生ならバイトをしたこともない人も多いだろうけれど、楽に稼げる仕事はないのは一般常識の範囲内で、最低賃金とかのニュースを見ていたら高校生でもわかりそうなものだろうに、資格がいらずにリスクもなくて楽に稼げるバイトがあると思っている常識がない若者が多いようである。たぶん親が金融リテラシーを高める教育をしていないのだろう。普通の求人なら合法なのが当たり前なのでわざわざ「ホワイト案件」なんて書かないけれど、「ホワイト案件」と書いてあること自体が怪しいとわからないようである。・タイパ至上主義今時の若者はタイムパフォーマンスがよいのを好んでハックやチートで最適解を見つけて楽をしたがって、長期間努力して技術や経験を積んでいこうとしない。だからこそ最低賃金程度の普通の求人でキャリアを積むのを避けて、「短時間」「簡単」「高収入」「即金」という情弱ホイホイの単語に引き寄せられるのだろう。・金がない今の10-20代の若者の親は40-50代の就職氷河期世代で、親が金を持っていないので子供を支援できない。それに人手不足とはいえコロナ禍で企業の利益が減って高い賃金を払うほどの余裕がない。普通にバイトしてもたいして稼げないので、高収入を喧伝する闇バイトが魅力的に見えるのだろう。若者を騙す反社会的勢力にしても若者に金がないとうまみがない。2000年代はデート商法で高額のローンを組ませたり、マルチ商法に勧誘したり、情報商材を売りつけたりして社会経験が乏しい若者を騙して直接金を取っていたけれど、手口が知れ渡って騙しにくくなったし、今は若者が貧困化して金をとりにくくなった。そこで反社会的勢力は若者を騙して直接金をとるのではなくて、若者を騙して犯罪に加担させてから金づるにしているのじゃないかと思う。・親子の仲がよくない若者に闇バイトを判別する能力がないにしても、応募する前に「このバイトやろうと思うんだけどどう思う?」と親に相談していたら、まともな社会人の親なら闇バイトだとわかって止めるので子供は騙されずに済む。成人したら親に指図されたくないのもわからなくはないけれど、堅い会社で働くときには身元保証人が必要になって親に頼むこともありうるのだから、親の意見を聞いても損はない。・頭が悪い闇バイトをするにしても、手に入れた金の大半は指示役に取られて、逮捕されてその後の職探しに苦労したり、強盗殺人で無期懲役や死刑になるリスクとリターンを考えたら全く割に合わない。目先の数万円程度の報酬につられてその後の人生に得られたはずだった数千万円を失うのは非合理的である。もちろんリスクが少なくて割に合うとしても犯罪はしてはいけないのだけれど、自分が得をする状況でも犯罪をしないためには理性や自制心や思いやりとかの非認知能力が必要になる。闇バイトをやる人たちは損得を理解する認知能力と善悪を理解する非認知能力の両方が低いので、割に合わない極悪非道な犯罪を指示されるままにやるのだろう。頭が悪い人たちの中には粗暴犯はいても計画的に資産家の資産や金庫の場所を調べて強盗をやるほどの悪知恵はないし、闇バイトの求人に騙されて横浜で強盗殺人をした宝田真月容疑者みたいなのは犯罪をするほどの悪意も度胸もないタイプである。指示役も逮捕を恐れて外国とかに潜伏しているので実行犯を調達できなければ犯罪ができない。頭が悪い人たちと指示役が別個に存在するだけでは犯罪が起きないけれど、匿名・流動型犯罪では頭が悪い人たちが偽の闇バイトの求人で騙されて指示役と繋がることで、指示役と同等の計画性と残虐性を持って逮捕されることを恐れずに凶行を繰り返す犯罪グループが量産されるという創発特性がある。暴力団みたいに固定された構成員がいる集団と違って、匿名・流動型犯罪は闇バイトの実行犯を捕まえても代わりのアホを補充できるので犯罪グループの解体につながらないし、刑を重くしても損得の計算ができないアホの犯罪の抑止につながらない点で普通の組織犯罪よりも社会への害が大きい。『ケーキの切れない非行少年たち』で境界知能が指摘されたみたいに7人に1人は境界知能と言われていて、頭が悪くて闇バイトの求人に騙される人たちの頭を良くすることはできないので、犯罪が起きてから捜査する従来のやり方ではなくて、ネット上の求人には企業名や氏名と電話番号の公開を義務付けるなりしてSNSで匿名で闇バイトを勧誘するシステム自体を潰して指示役と頭が悪い人たちとの接点をなくしたり、秘匿性が高い通信アプリを規制して犯罪の証拠を捜査しやすくしたりして、匿名・流動型犯罪に特有の創発特性を消さないと犯罪を減らせないだろう。・反社会的勢力が怖い闇バイトをする人は最初に脅されたり小さい犯罪をやらせられたりして、それをネタにさらに脅されて凶悪犯罪に利用されるようである。脅しに屈せずに犯罪に加担しないのが最善で、犯罪に加担しても刑が軽いうちに自首するのが次善で、凶悪犯罪に加担して逮捕されたらもう手遅れで、強盗殺人で死刑になるか反社会的勢力に殺されるかの二択になるまで言いなりになる意味がない。生き残りたかったら早いうちに犯罪グループから抜けないといけない。警視庁がXで「自分自身や家族への脅迫が理由であっても強盗は凶悪な犯罪です。犯罪に関わってはいけません。勇気を持って抜け出し、すぐに警察に相談してください。警察は相談を受けたあなたやあなたの家族を確実に保護します。安心して、そして勇気を持って、今すぐ引き返してください」と告知しているように、警察に相談すれば自宅周辺をパトカーの巡回ルートに加えたりして保護してくれる。このXの投稿に反響があって警察は3人を保護したそうな。反社会的勢力に脅されたときは「俺の親戚は刑事だから手を出したら事務所総出で潰すぞ」みたいなハッタリを言えばよい。6親等以内の血族に刑事がいなくても1000親等くらい婚姻関係をたどれば遠戚の誰かは刑事だろうから嘘ではないし、匿名・流動型犯罪グループはランダムに個人情報を入手しても親戚まで調べる能力はないのだから、脅迫を恐れる必要はない。反社会的勢力にやばいやつを脅しちゃったと思わせることができればそれ以上執着しないだろう。脅されて従う人がいなくなれば匿名・流動型犯罪グループに実行犯がいなくなって皆が安全になるので、反社会的勢力が怖いならなおさら警察に頼るのが合理的な選択である。●ちゃんとした会社の求人の見分け方・公式サイトがある自社の公式サイトを作ってドメインを維持するのには費用が掛かるので、零細企業や個人事業主とかはSNSで代用したりするけれど、ちゃんとした会社はちゃんとした公式サイトを作っていて、会社概要ページに代表取締役の経歴や役員一覧や資本金や従業員数や業種や創業年や主要取引先とかが記載されているし、採用ページがある場合もある。相手を騙すために偽の企業サイトを作って嘘を書くこともあるので、書かれている情報が正しいかどうかを判断するために裏取りする必要がある。いまどきの意識が高い経営者は他の経営者とつながりを持ってトップセールスするためにFacebookやLinkedInとかをやっていたりするけれど、代表取締役の名前を検索してもSNSに情報がなくて経歴が不明な場合はあまり信用できない。本社の住所はグーグルマップのストリートビューで見て、レンタルオフィスでないか、民家やアパートの一室でなくてちゃんとした事務所なのかを確認するほうがよい。裁判をする場合は相手の住所を特定する必要があるけれど、自前の事務所を持っていなくてすぐに夜逃げできるような会社はあまり信用できない。・大手求人サイトで求人している求人サイトは審査があって違法な求人ははじかれるし、履歴書とかの個人情報を送信しても個人情報保護法で保護されているので基本的に悪用されることはない。求人サイトを使わずにSNSで求人情報を出している場合は求人サイトへの掲載費用が出せない零細企業か、あるいは求人サイトの審査が通らない反社会的勢力なので、SNSでの求人は怪しいものとして警戒して安易に個人情報を渡さないほうがよい。零細企業の求人は犯罪をする闇バイトでないとしても労働基準法に違反するブラック企業だったりするので、他に選択肢があるなら避けるほうがよい。・採用担当者の顔と名前がわかる闇バイトの指示役は素性がばれないように直接会わずにSNSや通信アプリでやりとりする。それに名刺には指紋が残るので犯罪をやるつもりの人たちは名刺を作らないし、他人と会った証拠を残さないようにする。逆に言えば、採用担当者が顔と本名を出して事務所で採用面接をしたり、ビデオ通話でオンライン面接をしたりして一般的な採用活動をしている会社は闇バイトである可能性は低い。求職者が履歴書とかの個人情報を渡す代わりに相手の情報も握って、もし問題があれば訴訟を起こせるようにしておけるようにするのが対等な雇用契約である。作家とかのクリエイターでもないのに、一緒に働く相手にさえ顔と名前を出したがらない人は基本的に怪しい人とみなして関わらないほうがよい。・労働条件が明示されている普通の求人には勤務地、勤務時間、業務内容、賃金などが明示されている。求人情報で応募者を集めて、面接で条件を交渉してそれで双方が納得するなら雇用契約をする流れになる。求人情報に詳細な条件を明示せずに「簡単な作業」とかの曖昧な表現をする場合は応募者を騙すつもりの不誠実な求人なので避けるほうがよい。●犯罪者から財産を守る方法・金持ち自慢をしない2019年に青梅市でジュラルミンケースに札束を入れて1億円あると知人に自慢していた男が強盗に殺害された。誰かが大金を持っているという情報は犯罪グループに共有されて犯罪のターゲットになる。インターネットの掲示板に資産家だという間違った情報が書かれて1年に3回も強盗に入られた人もいる。犯罪者は噂が事実でも事実でなくても金がありそうなところを狙うので、金を見せびらかしてはいけない。・個人情報を出さないフリマなどで貴金属やブランド品とかの高額の商品を売買すると金持ちだとばれてしまうので、匿名で配送するオプションを使って取引相手に個人情報がわからないようにするとよい。空き巣が玄関付近に変なものを置いて、SNSの「玄関にこんなのがあった」みたいな反応から個人を特定して留守の時間を見計らう手口もあるので、自宅付近の出来事や写真をうかつにSNSに投稿しないほうがよい。一人暮らしの人が住所を特定された状態でSNSで「ライブを見に行く」「ハワイなう」「終電間に合わない」とかの予定を言うと留守にする時間がわかって空き巣のターゲットになってしまうので、SNSに投稿するにしても「ライブに行ってきた」「ハワイに旅行してきた」「終電間に合わなくて野宿した」みたいな過去形で事後報告して留守にする時間がわからないようにするほうがよい。・財産を家族に移す高齢者が大金を持っていると、認知能力が低下していて詐欺で騙されやすいし、強盗に反撃するほどの体力もないので、犯罪者に狙われやすい。高齢者は家族信託で子供に財産の管理を任せたり、生前贈与で子供や孫に早めに財産を相続させたりすると、詐欺や強盗で財産を犯罪者に奪われずにちゃんと家族に残せるようになる。神奈川では横須賀警察署地域課の36歳の巡査長が面識がある70代の住民の通帳や印鑑を預かったうえで委任状を偽造して700万円を引き出して借金の返済に充てて逮捕されたように、公務員でも犯罪をするので、公務員だからといって信用して通帳などを預けてはいけない。基本的に公務員が通帳やキャッシュカードなどを預かることはないし、詐欺グループが警察官を装って「口座が犯罪に使われている」とか言って通帳やキャッシュカードをだまし取る詐欺もあるので、他人に通帳を渡してはいけない。・財産を盗まれにくくて換金しにくいものに変える現金は盗んだ直後に使えて足がつきにくいので狙われやすい。宝石や高級腕時計もかさばらなくて高価で盗品市場で換金できるので狙われやすい。現金や貴金属を自宅の金庫に保管するのは悪手で、火災報知機の点検を装った下見とかで金庫の位置を把握されて、強盗グループに拷問されて金庫の暗証番号を言わされて結局金庫の中身を盗まれることになる。普段身に付けない貴金属を保管するなら自宅の金庫でなく銀行の貸金庫を使うほうがよい。三菱UFJ銀行の練馬支店と玉川支店の貸金庫から行員が数十億円の資産を盗んで懲戒解雇されたけれど、銀行員の犯行なら銀行の過失として被害を保証してくれるので強盗に盗まれるよりはましである。すぐに使う予定がないまとまった現金があるなら株や投資信託や個人向け国債などを買ったり定期預金をしたりして本人でないと現金に戻せないようにしたり、不動産を購入して物理的に盗まれないようにしたりするとよい。キャッシュカードも1日の振り込みや引き出しの限度額を低く設定すると、騙されたり脅されたりしてATMで金を振り込まされたり金を引き出させられたりするときに被害を少なくできる。・押しが強い若い営業マンを避ける広島で7月に野村證券に勤務する29歳の男が顧客の高齢者夫婦宅で食事をした際に睡眠薬を飲ませて放火して現金2600万円を盗んで、強盗殺人未遂と現住建造物放火等の容疑で逮捕された。証券会社は金持ちに営業して株を売買させて手数料で利益を出す仕組みで、まれに顧客を金づるとしか見ていないサイコパスが紛れ込んで顧客の損で儲けようとするので、しつこく提案してくるような営業マンは避けるほうがよい。1998年の富士銀行行員顧客殺人事件では32歳の銀行員の男が顧客の被害者夫婦から預かった預金から2500万円を別の顧客に不正融資して、それが焦げ付いて発覚を恐れて夫婦を殺害して債券の証拠を隠滅しようとして、強盗殺人罪で無期懲役になった。どちらのケースでも犯人は2500万円程度のために殺人を辞さないようで、大富豪ではない庶民でも老後の備えを狙われるので注意が必要である。2021年の高槻市の資産家女性の殺人事件では犯人の28歳の男は保険会社に勤務しているときに被害者と知り合って高額の生命保険を契約して、養子縁組の書類を偽造して保険の受取人を自分に変更してから殺害している。親身になって相談に乗る営業マンが良い人とは限らなくて、下心が見えてプライベートに踏み込んでくる場合は避ける方がよい。歳をとっている営業マンは危ない橋を渡らずに長く仕事を続けてきたと言えるので、若いイケイケの営業マンよりは信用できるかもしれない。・家の防犯対策をするドアの鍵を増やしたり窓に格子をつけたりして空き巣や強盗が侵入しようとしても時間がかかるようにしたり、防犯カメラやセンサーライトを設置して敷地に人が侵入したらわかるようにしたり、警報装置をつけて近所に異変を知らせて警察官がすぐに現場に到着しやすくしたり、番犬を飼ったりして、防犯対策がしっかりしていることが外部からわかれば犯罪者が警戒して狙われにくくなる。家をリフォームするくらいお金に余裕があるなら寝室の脇にすぐに逃げ込めるようなセーフルームを作るのもよい。キーホルダー型の通報装置を枕元に置いておくと、深夜にガラスが割れる音や不審者の話し声とかの異変に気付いたときに通報装置を起動して他の部屋で寝ている家族を起こして避難させるのにも役立つ。田舎は防犯意識が低くて日中は玄関の鍵をかけない地域もあるけれど、近所で被害が出てから防犯意識を持つのでなくて、普段からちゃんと鍵をかけるべきである。・予定にない訪問者を警戒する宅配便や設備工事の業者を装ってドアを開けさせて押し込み強盗する場合もあるので、訪問者への警戒も必要である。予定にない宅配便が届いたときは送り主を確認して心当たりがなければ受け取りを拒否したり、「消防署のほうから来ました」みたいな役所系を名乗る訪問者が来たときは名前を聞いて役所に電話してその人が所属しているのか確認したり、ドアを開けるにしてもまずはドアチェーンをかけたままで開けたりすると、訪問者を装った強盗が侵入するリスクを減らせる。屋根の無料点検や床下のシロアリの無料点検とかも反社会的勢力の下見の可能性があるので、無料だからといって家の中を見せないほうがよいし、業者に頼むにしても素性がわからない訪問営業でなく地元の業者に頼むほうがよい。広島県だと不審者が勝手口を開けて「トイレ貸して」「両替して」「一人か」と言ったりする事例が10件以上県警に相談されていて、愛知県では「変な臭いがしませんか」と話しかけてきたり玄関を撮影したりする不審者の通報が79件あったようで、こういうのも反社会的勢力の下見の可能性があるので家の中を見せたり家族構成を教えたりしてはいけない。古い戸建てはインターホンがなくてすりガラスの引き戸の玄関だったりするけれど、それだと玄関を開けるまで訪問者の顔や人数がはっきりわからないので、インターホンや監視カメラをつけるほうがよい。・家の手入れをする都市部の一軒家の庭木の枝が伸びっぱなしだったり二階の障子が破れたままだったりして手入れされていないと、都市部に一軒家がある(資産がある)、木が大きくなるほど長く住んでいる(高齢者が住んでいる可能性が高い)、自分で剪定ができなくて代わりに手入れをする若い人もいない(高齢者しか住んでいない可能性が高い)、二階への出入りが少ない(階段を登れないような高齢者が一階で寝起きしている可能性が高い)、という情報が外部からわかって犯罪のターゲットになりかねないので、ちゃんと家の手入れをしてこの家は人の目が行き届いているよと外部に示すのが大事である。高齢者が自分で一軒家の手入れができなくて持て余すようなら家を売ってマンションやサ高住に引っ越したりする選択肢もある。●まとめ 社会人経験が乏しい若者がリスクなしに楽に大金を稼げる合法的な仕事はほとんどない。治験は楽で高報酬でも健康被害のリスクがあるし、パパ活は性病のリスクや犯罪に巻き込まれるリスクがあるし、起業や投資やギャンブルは損をするリスクがあるし、アーティストは売れなくて一生貧乏になったり精神を病んだりするリスクがある。高収入が欲しかったらリスクをとるか、努力して能力を高めていくしかない。楽に高収入を稼げるという求人は犯罪の実行犯を募集する闇バイトで、犯罪はリスク云々以前に違法なのでそもそも選択肢に入れてはいけない。犯罪をしたら今までのキャリアも信用も失ってマイナスからやり直すことになるし、家族や友人がいなくなったり結婚できなくなったり就職できなくなったりしてその後の人生が大変になる。借金とかがあるなら自己破産して生活保護を受けたりして合法的にやり直すべきである。若者が他の人よりも有利な点は時間があることである。何年か時間をかけて能力を高めていけば相応に収入も増えるのだから、短期間で高収入を得ようとせずに長期間で計画的に物事を考えるとよい。あるいは境界知能とかで能力の伸びしろに限界があるにしてもまじめに働いていれば飢え死にすることはないのだから、犯罪をやらずに分相応に幸福になれる方法を探すとよい。
2024.10.27
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FRIDAY DIGITALの「6、7人の子どもが授業中に寝そべり…衝撃の教育ルポ「勝手に教室から出るのも特性?」学級崩壊の実態」という記事だと、勝手に教室から出て行ったり、床に座ってYouTubeを見たりする子供がいても、発達障害の子供の特性を認める方針にしているので学級崩壊につながっているそうな。デイリー新潮の「「バンザイができない」「骨折の怪我が1.5倍に増加」 子どもたちに起きている運動能力低下の実態」という記事だとハイハイができないとかの未就学児の状態から運動能力の低下が起きていると言っている。文春オンラインの「「ボールをうまく投げられない小学生」急増の理由」という記事だと、親の運動系の習い事への意識によって子供の運動能力が両極化しているそうな。子供の様々な能力が落ちていることは日本の未来にも影響する重大な兆候だと思うので、これについて徒然なるままに考えることにした。ちなみに上の記事はどれもノンフィクション作家の石井光太氏の記事なので、興味がある人は『ルポ スマホ育児が子どもを壊す』を読むとよいよ。●子供が劣化する原因・格差とSNS依存インターネットがなかった時代の昭和の子供は都会の金持ちの子供の暮らしぶりを具体的に知らなかったので、同級生に会社社長の子供がいたりして格差はあるにしても「よそはよそ、うちはうち」であまり気にしていなかったし、鬼ごっこや缶蹴りやゴムとびや昆虫採集とかの体を動かすアナログな遊びがあって、スポーツと違って道具の費用がかからないので誰でも遊べた。雨の日はトランプや塗り絵や折り紙やお手玉やジグソーパズルやウォーリー探しとかのゲーム機を使わない安価な暇つぶしがいろいろあったし、おもちゃやゲーム機がなくても自分ですごろくを作ったりチラシの裏に絵を書いたりして創意工夫する余地もあって、物がないからこそ想像力が培われた。ところが現代はSNSで他人の暮らしぶりが動画でわかるようになって格差が浮き彫りになって、貧しい子供たちは自分が体験できないことの代償行為として動画で他人を眺めるのに夢中になっている。親に旅行に連れて行ってもらえない子供はリア充のキッズYouTuberが日本中の遊園地で遊ぶ動画を眺めている。親におもちゃを買ってもらえない子供はおもちゃ系YouTuberがトレカを大量に開封したりトミカをコレクションしたりフィギュアで遊んだりする動画を眺めている。親にゲーム機やゲームソフトを買ってもらえない子供はYouTuberのゲーム実況動画を眺めている。子供が自分で直接世界を体験して主役として自分の王国を作ろうとせず、スマホ越しに他人の人生を見る傍観者にすぎなくなってしまったことで主体性や行動力や創造性とかの非認知能力が落ちて、その結果として運動能力が低下したり学級崩壊が起きたりしているのじゃないかと思う。端的に言えば子供に生きる力がなくなっていると言える。・子供の公園離れ公園でボール遊びが禁止されて、様々な遊具も危険だし点検費用がかかるからと撤去されてベンチとトイレしかないような殺風景なつまらない公園になって、公園で遊んでウワァーッと大声を出すと近所のジジババから苦情がきて、夏は暑すぎて日影がない公園は熱中症になる危険があって、公園はもはや子供が自由に遊べる場所ではなくなった。現実世界に子供の遊び場がなくなったので、マインクラフトやフォートナイトや動物の森とかのゲーム内のサンドボックスが公園の砂場代わりになっている。仮想空間で無制限に積み木パーツを使えて自分でデザインした家を作ったりキャラクターの着せ替えをしたり友人とロールプレイをしたりできるのは創造性にとってはプラスだけれど、座りっぱなしでゲームをすればそのぶん運動能力の低下につながる。香川県の調査だと小学4年生の脂質異常の割合が11%で過去最高だそうで、スマホやゲームに長時間触れる生活が定着したことが原因だと県は分析している。仮想空間では基本プレイ無料ゲームが多くてアップデートが充実していてインターネットでつながれるユーザーが大勢いて魅力的になったのに比べて、現実世界がダウングレードして魅力が乏しくなってしまった。バッティングセンターやボーリング場とかの有料の娯楽施設は子供の小遣いでは頻繁に行けるものでもないので、子供が放課後に体を動かして遊べる場所がなくなっている。危険な遊びは面白い半面で怪我をするリスクを伴うもので、子供の頃にはリスクをとってジャングルジムのてっぺんからジャンプして着地に失敗して怪我をしたりして、身体能力と判断力をすり合わせていって次第にリスクを見極めて怪我をしなくなるし、他人の失敗を間近に見て学ぶことも多い。その一方で仮想空間上で失敗しても実際に怪我をすることはないので、自分や他人の痛みや苦しみに対する共感能力が育たない。言葉に身体感覚が伴わないので言葉が軽くなって喧嘩をすると「死ね」「消えろ」とかの暴言も言うし、殺意を持って相手に直接殴りかかることはないにしても言葉が他人を死に追いやる自覚がない。・晩婚化と障害政府の失政によって就職氷河期世代が生まれてデフレが長引いて、安定した収入や貯金ができてから結婚しようとすると婚期が遅れるようになった。父親の高齢化は精神遅滞や自閉症などの子供の精神発達障害のリスクが高くなると言われているし、母親の高齢出産は染色体異常や自閉症などのリスクが高くなると言われている。それに晩婚だと年齢的に二人目の子供を産めなくなって、一人っ子だと兄弟姉妹の競争が起きないのでそのぶんたくましさがなくなると思われる。さらに一人当たりの教育費は増加していて、庶民は共働きでないと習い事の費用や大学進学費用を捻出できないので、専業主婦・主夫として育児に専念することもできない。忙しかったり疲れていたりして子供の相手をしている暇がなくても子供にスマホをいじらせておけばおとなしくさせられるので、スマホを子守代わりに使う「スマホ育児」に頼るようになってしまう悪循環になる。親が一生懸命働く姿を見せずにYouTuberが奇行して散財してわめきちらす動画を見せて、まともな価値観を持った子供に育つのか疑問である。●生活から肉体が置き去りになっている生きるということは何かを食べて栄養をとって活動して寝て体を休めるという物理的な行為である。ところが科学が発達すると歩かずに車や電車やエスカレーターやエレベーターに乗るようになって、肉体を動かさずに空間を移動させるようになった。買い物でも通販が発達して、店まで行かなくても配達してくれるようになった。コミュニケーションのためにはきはきとしゃべる必要もなくなって、メールやチャットで指先をちょっと動かすだけで連絡できるようになった。昔はブラウン管テレビのチャンネルを変えるためにテレビに近寄ってダイヤルを回して周波数を変える必要があったけれど、今ではテレビはリモコン操作が標準で、スマート家電のオンオフもスマホで操作できるので、室内でちょっと歩くことさえしないで済む。イーロンマスクが出資しているNeuralinkは脳直結インターフェイスでPCを操作する研究をしていて、いまは体が麻痺した障害者向けだけれどいずれ健常者も使うようになるかもしれない。あまり体を動かさずに生きていけるのは便利には違いないけれど、運動量が減ったぶんは意図的に運動をして補わないと筋肉がつかないし心肺機能が鍛えられない。家で生活する分には体力がなくても問題ないけれど、文明を維持するために欠かせない仕事に必要とされる体力がないことが問題になる。軟弱な人だらけでは犯罪の取り締まりや国防が危ぶまれて、数十万人のよく訓練した警察官や自衛官がいないと治安は維持できないけれど、現業職が敬遠されていて警察官のなり手は10年で6割減だそうな。ただでさえ日本人と白人・黒人とは体格差があるのに、そのうえ少子化で人手不足で若者が軟弱となれば、移民が増えていく未来の日本の治安には不安しかない。さらには農業、漁業、林業などのある程度の体力が必要な一次産業や建設業なども高齢化していて、若者に技術を継承できないと高齢者が引退した時に食料自給やインフラの維持ができなくなって国の存続にかかわる問題になる。女児の身体能力の低下は成人した時の出産に影響を与えてさらに少子化になる可能性もある。いまから対策しないと軟弱な子供たちが成人して子供を持った時にはさらにひどい有様になるだろう。現業職以外の人に身体能力が不要かと言うと違う。明治時代や大正時代のエリートは結核や神経衰弱とかで早死にしたりする人が多かったけれど、これは栄養状態があまりよくない中で外国語を猛勉強して疲労したことで体力が落ちたのが一因と思われる。漫画家も座りっぱなしで運動不足なうえに締め切りに追われて睡眠不足になって早死にする人が多い。身体能力が低下して疲れやすくなると集中力が維持できなくなるのでパフォーマンスも落ちる。事務職でも肩が凝ったり腰が痛くなったりしてそれなりに疲れるもので、1時間集中して椅子に座っていられなくて授業中に寝そべるレベルの体力が乏しい子供が将来士業やプログラマーとかで活躍できるかというと無理じゃないかと思う。●どうすりゃいいのさ子供の能力が落ちていても子供が悪いわけではなくて、そういう環境を作った大人が悪い。オリンピックのスケボーで活躍している若者もいるように、良い環境があって良い指導者がいれば子供はどんどん知識や技術を吸収して能力が育っていく。子供にはいろいろな可能性があるのに、知力や身体能力のポテンシャルを引き出さないままスマホを渡されて放置されて育つのはもったいない。動物園にいる動物が運動不足で太って野性を失っているように、スマホが檻のように子供を狭い世界に閉じ込めてしまっていて、檻の隙間から外の世界を眺めるだけになってしまっている。スマホは便利で面白いには違いないけれど、とりあえず子供に分別がついて自制できるようになるまではスマホやゲームは時間に制限をつけるなり親がいる時にしか使えないようにしたりして、仮想空間やSNS上の他人よりも現実の自分の周りの世界にもっと興味を持つようにするとよいと思う。自分の五感で世界を感じて自分の手で世界を作り変えていく喜びを感じれば、現実はゲームよりもずっと面白いものになる。例えば農業や家庭菜園をすれば水やりとかの世話をするうちに葉が増えて幹が太くなって実が大きくなっていって収穫する喜びがあるし、音楽を演奏すれば自分の体の動きに合わせていろいろな音が出て自己表現できる喜びがあるし、ダンスをすれば音に合わせて自分の体を自在にコントロールする喜びがある。ウワァーッと歓声を上げたくなるほどの感動を得られるのはたいてい物事を初体験する子供のころくらいなので、その感動を大事にしてほしい。現実の人間にはフィクションのようなチート能力はないのだから、感動に突き動かされて知識や技術を少しづつ身に付けていくしかない。檻を壊して社会を変えていくにはウワァーッという勢いが必要で、それは感動かもしれないし、希望かもしれないし、不正義への怒りかもしれない。若者たちはいまのくだらない拝金主義の社会を作った老人たちの言うことに従って搾取される必要なんかないのだから、自分には世界に干渉して世界を変える力があるのだと自覚して、よく学んでよく鍛えて洗練された蛮族となって、いずれ腐った老人をぶっとばしてウワァーッと台頭して新しい時代の新しい文明の主役になってほしいものである。ルポ スマホ育児が子どもを壊す [ 石井 光太 ]価格:1,870円(税込、送料無料) (2024/10/17時点)楽天で購入
2024.10.17
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最近は小泉進次郎が「大学に行くのがすべてじゃない」「手に職をつければ大学を出てからの所得と遜色なく稼げるようなキャリアが今は作れる」等と言って批判されている。というわけで徒然なるままに進学と就職について考えることにした。●いまどきの高校生がアホすぎてつらい私のいとこの子供が偏差値40台の高校の普通科の三年生で、偏差値40台の大学の総合型選抜入試を受験するのでプレゼンを見てくれと言うので見てやったらだいぶひどいものだった。二つ質問すると一つしか返答しない、二つ修正しろというと一つしか修正しないのでもう一回指摘しないといけない、正しい引用の仕方を教えても「そこまでやる必要あるんですか?」と面倒くさがってその通りにやらない、調べればすぐにわかるような事実を調べないで既にあるものを自分が思いついたすばらしいアイデアのように言う、自分で考える前にどうすればいいのかと丸投げの質問をする、実現不可能な案の大枠だけ考えて細部を突き詰めて考えようとしないのでなぜ実現不可能なのか理解していない、間違いを指摘しても素直に認めない(あるいはなぜ間違っているのか理解していない)、俯瞰して全体の構図を見ることができない、「費用対効果」の意味をわかっていなくて無駄に費用と時間と労力がかかる非効率な方法をやろうとする、「論理的」の意味をわかっていなくて論理が一貫した主張ができなくて論旨と逆の結論を出す、「独創性」の意味をわかっていなくて独創性を出すのが難しいと言って逆切れするような感じで、私が助言しなかったらプレゼンの形にさえ仕上げられない有様だった。事実を把握して因果関係を考えて論理的に実現可能な意見を言う能力が弱いようで、マッキンゼー流のピラミッド・ストラクチャーで事実に基づいて根拠を集めて主張をするのだよ、As-is(現状)とTo-be(理想)のギャップから課題を抽出するのだよ、実行できないアイデアは机上の空論だから思い付きを言いっぱなしにせずに検証して実行可能なものに修正するのだよ、と考え方の基本から教えてやらねばならなくて、無事プレゼンが終わったらたいそう感謝された。このレベルの生徒を何十人も指導する偏差値50以下の高校の教師は大変だなと思った。子供の読解力の低下について考えると子供の国語力低下について考えるという記事でも考えたけれど、国語力が低いのは想像していたよりも深刻な問題なのだなと高校生に接してみてわかった。国語力が低いので「頭痛が痛くて大変なのは大変だ」とかの小泉進次郎構文みたいな二重表現でプレゼンが冗長になって、要点を理解していないのでプレゼンを簡潔にまとめられなくて、メタ認知能力が低くて他人の視点で自分の主張がどう見えるかをとらえなおして修正することができなくて、指導しても言葉の意味を十分に理解できないので「一を聞いて十を知る」どころか0.7くらいしか伝わっていなくて指導が非効率になって、自分の主張の意味を自分でもよくわかっていないのでダメ出しされると落ち込んで自信や楽観性とかの非認知能力も低くなって打たれ弱いようである。一人の例で世代全体のことは言えないけれど、スマホを通じて世界を見て、ファンタジー世界の漫画やアニメやゲームを消費してきた子供は現実世界を直接観察して実際の物事の仕組みを追求する姿勢が欠如しているのかなと思う。●大学に行くメリット・民度の向上1万年前の人類と現代人は脳の大きさに大きな違いはないけれど、現代人が高度な文明を作れたのは身体能力が進歩したからではなくて、再現性がある科学の知識と技術を長期間蓄積してきたからである。狩猟採集生活をしていた頃はどの季節にどの場所にどんな食べ物があってどんな危険な生物がいるかとかを全部覚えていたので現代人よりも若干脳が大きかったそうだけれど、それは再現性がない知識で、一つの場所で食料が乏しくなって他の土地に移動したら食料がある場所をまた覚えなおさないといけない。ところが農業は再現性がある知識である。種から作物を栽培しようと試行錯誤して、どの時期にどういう土地に種を撒けば芽が出るかという科学的知識を手に入れると、あとは同じ条件下ならどこでも作物を育てられるようになる。さらに粘土板やパピルスや木簡や紙とかで後世に知識を伝える手段ができると、世界各地で知識を蓄積して一挙に文明が発展しだした。再現性がある知識を蓄積できるようになるとゼロの概念や車輪とかを頑張って再発明する必要がなくなって、新しく生まれてきた子供たちは文明を維持するための仕組みを学習するだけで済む。そのためにたいていの国では国が費用をだして基礎教育をしているし、その教養のレベルが国の民度になる。OECDの中で日本は公的支出の割合が最低レベルで、OECDが「日本は公的な支出の中で教育費が占める割合が低く、将来世代よりも、高齢者に対してより多く投資している現状がある。日本は若者が減っていくからこそ、教育の質を高め社会を支える人材を育てる必要がある」と忠告したのがニュースになったけれど、それでも国民性として教育熱心な風土なので公的支出がなくても家庭の努力でそれなりに民度が保てている。大学退学率で比べると日本が一番低くて10%で、いったん大学に入学した人は家計の急変とかがないかぎりほとんど卒業している。他の国に比べて退学の基準や学位の審査が緩いというのもあるけれど、それでも4年間まじめに授業を受けている人が多いと言える。GLOBAL NOTEの「世界の大卒比率 国別ランキング・推移」によると日本は大卒人口が世界でも高い方で、25-64歳以上の半分以上が大卒である。国全体の民度を高めるという点では私立のFランク大学でも進学しないよりは進学するほうがよい。・批判的視点の形成高校までの教育では、正しいとされている知識を覚えなさい、偉い先生の言うことを行儀よく聞きなさいという最低限の知識を教えるだけで批判のやり方を教えないし、批判すると素直でないとみなされてマイナス評価にさえなりかねい。クリエイティブであるためにはクリティカルであることが必要で、現状を肯定して批判をしないのでは改善もできないので、クリティカルシンキングができるかどうかでその後の伸びしろも変わってくる。じゃあどこでクリティカルシンキングを学ぶのかと言うと、会社でも教えないので、大学で学ぶか独学するかしかない。我々は日常生活でも様々なことに不満を持つけれど、漫然とした不満をそのままで終わらせずに、じゃあどうすればいいのかという提案をして改善しないと不満は解消しないし理想には近づかない。「不満」を学問的に言い換えると「課題」で、大学では課題の分析や解決のための総合的な知識を分野ごとに学べるという点では学習効率が高い。大学で現代文明のパラダイムを学びつつ、そのパラダイム自体を批判する視点を持つことで文明は進歩していく。山口周がクリティカル・ビジネス(社会批判としての側面を強く持つビジネス)を論じた『クリティカル・ビジネス・パラダイム』という本を出版していて、従来のアファーマティブ・ビジネス(既存の価値観を肯定して利得を最大化するビジネス)は持続しないからクリティカル・ビジネスを目指すべきだというようなことを言っているようである。私は超絶貧乏で金がないのでこの本を読んでいないけれど、批判的であることが今後重要になるだろう。20世紀までは批判するのはごく少数の批評家の役割だったけれど、口先で批判するだけでなくてビジネスとして実際に課題を解決してSNSで支持者を増やしていくのが今後の成長モデルになると思う。例えば車の速度を最大化しようとしてF1レースを見世物にしてスポーツカーを少数の金持ちに売るよりも排気ガスや交通事故に批判的になって燃費や安全性を競うほうが幸福度は高くなるだろうし、食べ放題や飲み放題で食欲を最大化しようとするよりもだらしない生活習慣に批判的になって健康的な食事や運動を提供するビジネスの方が幸福度は高くなるだろう。チャレンジについて考えるという記事でも考えたけれど、薩摩藩の人事評価のように批判的視点を持たずにイケイケドンドンを評価するやり方だとリスクマネジメントもできなくなる。高卒で飲食店を起業する人とかはうまくいくに違いないと思い込んで自分に都合がいいシナリオだけ考えて勢いで開業して見込みが甘くてすぐに店を畳んだりするけれど、何かをやろうとするときにメタ認知的に批判する視点を持って改善していくほうが成功の確率が高まって失敗の損害を減らせるだろう。批判的視点を持つことはリーダーになる人には必須の能力と言える。・論理的思考力の向上PRESIDENT Onlineの「20代社員の文章にストレスを感じる人が84.5%…「頭が悪いな」と思われる報告書に共通するパターン」という記事だと、「説明不足」「語彙や表現が合っていない」「文が無駄に長い」「筋道が立っていない」「主語がわからない」などが原因で文章がわかりにくいようである。上記のいとこの子供もプレゼン原稿の主語が不明なパターンが多くて、この社会的課題を解決するにはこれをやればいいという案を出すけれどいつ誰がどこでどうやるのか不明で、5W1Hがわかるように説明しろと何度も指摘しないといけなかった。たぶん日常会話やSNSのチャットだと主語が自分だと明らかなので主語を省くのが日常化して、三人称の文章でも自分にはわかっているつもりで主語を省いて、それでは他人には伝わらないことがわからないのかもしれない。読書して知識を増やしたり年を取るにつれて人生経験を増やすだけなら誰でもできるけれど、社会人はせいぜい短いメールや報告書を書く程度で長文をアウトプットする機会はあまりないので、ただ仕事をするだけだとアウトプットする能力が育ちにくい。芸能人のSNSはしばしば行間がスカスカで年齢に似合わないような幼稚な短文だったりするけれど、幼少期から芸事ばかりやってきて文章を読み書きする機会が乏しいので論理的構成がある長文を書けないのだろう。いくら人生経験が豊富でも、アウトプットが貧弱なのでは情報や意見を効果的に伝えられない。上記のように文明は知識や技術の蓄積で成り立っているけれど、インプットだけでなくてアウトプットも正確にしないと後の世代に知識や技術を伝えられなくなってしまう。職人の世界でしばしば見て覚えろと言うけれど、こういうのは見る必然性があるならまだしも指導者に暗黙知を言語化する能力が欠けている可能性があって、いくら指導者自身に優れた知識や技術があってもそれを言語化して伝えられないのでは指導が非効率である。大学だとレポートや論文を書かないと単位や学位を貰えないので、セメスターごとに学習内容をアウトプットする機会があるし、そうすると論理的思考能力が鍛えられていく。大学受験の小論文なんかはしょせん1000字程度でしかなくて、それでは論拠を掘り下げたり自分の主張を展開したりするには文章量が少なすぎるので、4000-12000字程度のレポートを書くのに慣れておけばたいていのトピックに対して論理的に矛盾しない文章を書けるようになるだろう。というわけで、金と時間に余裕があって学びたい分野がはっきりしている人は大学に進学する方が良いと思う。仕事をしながら収入につながらない勉強するのは大変なので、勉強に専念できる環境を得たり、自分の将来や社会についてじっくり考えるモラトリアムの期間を得たり、自分より優れた学生やメンターとなる教授に出会って知的な刺激を受けやすくなって青年期の人格形成に良い影響があると言う点でも有益である。しかし学費に教育の質が見合っているとは限らないので、お金に余裕がない人は無理して奨学金を借金して学費に何十万円も払うよりもその金で専門書を数百冊買って独学するほうがましだと思う。大学に行った後に現場仕事をして手に職をつけるのでも何の問題もないのに、小泉進次郎は高卒でブルーカラーの仕事をするか、大卒でホワイトカラーの仕事をするかみたいな間違った二分法で議論をミスリードしている。例えば経済学を学んだ人が農家になってマーケティングをしてブランド野菜を開発したり、出資者に作物を分配する農地ファンドを作ったりしてもよいわけで、大学に行かないよりは行く方が稼げるキャリアを作りやすいだろう。●手に職をつければ稼げるキャリアが作れるのか社会の変化が緩やかだった時代は職人と呼ばれる職業になれば需要の変動はあるにせよ仕事歴の長さが信頼につながったけれど、今ではどの業界でも技術の進歩によって職が奪われうるので、もはや専門的なスキルがあれば生涯安泰で稼げるという時代ではない。例えば自動運転が実用化されてAIが自動的に最短ルートを割り出すようになったら、運転手の経歴が長くて運転がうまくて道を良く知っていようがそのスキルは評価されなくなる。大工は昔は稼げる仕事だったけれど、木造軸組工法から2X4工法に移行してパネルを組み立てるだけなので人手は必要でもノミで正確にほぞを彫ったりするような高度な技術は不要になっていて、将来3Dプリンタの家が普及したら戸建てには大工自体が必要なくなるかもしれない。翻訳や通訳もかつては専門職だったけれど、政治家の外交交渉の同時通訳とかの高度な正確さが求められる仕事以外はAIで代替できるようになりつつある。冷凍技術の進歩で冷凍食品がおいしくなって、コロナ禍では個人経営の飲食店は商品開発力がなくてテイクアウト需要に対応できなくてつぶれていった。職人になって手に職をつけたところで個人の努力で稼げる額はたかがしれていて、既存の枠組みに適応しても技術の進歩と時代の変化に適応できなければ稼げるキャリアは作れないので、大学に進学して社会を変える側になるほうがもっと稼げるだろう。教育者の藤原和博氏が100万人に1人の存在になる方法として、何かに1万時間取り組んで100人に1人の存在になって、それを15-30年くらいかけて3回やって作った三角形の大きさが100x100x100で100万人に1人の希少なキャリアだと言っている。私はこの考え方でキャリアをとらえる方が良いと思う。梯子や竹馬が2点で接地していて不安定なのに対して、カメラの三脚が3点で接地しているので安定しているように、キャリアを安定させるにも3点が必要だろう。芸能人が典型的で、競争が激しくて代わりは大勢いるので、本業の歌や演技や漫才以外にも何かの趣味に精通しているとかで希少性を出してバラエティ番組に出たりYouTubeをやったりしないと稼げなくなっている。文系のエリートの弁護士も過当競争で稼げなくなっているけれど、例えば外国語ができて国際結婚の離婚訴訟に詳しい弁護士となったら100万人に1人の弁護士として依頼が来るようになるかもしれない。●まとめ議会制民主主義では大多数の偏差値50前後の人たちが選ぶ政治家の水準が国の政策の水準になるので、政治家や官僚だけ大卒のエリートであればいいというわけではない。発展途上国はいくら人口が多くても国民の教育水準が低くて生産性が低くて政治家も汚職まみれなように、国民全体の教育水準を上げないと国は発展しない。我々は生涯に稼ぐ額を競うために生きているのではなくて、幸福になるために生きている。無知の状態から脱することも幸福の条件の一つである。私の遠戚に80代で中卒で左官になって70代まで現場で仕事をしていた人がいるけれど、酔うと「学校に行きたかったな」としみじみと言っていた。ただ仕事をして生活ができればそれで幸福になれるわけではないので、学べる時間や機会がある若いうちにできるだけ多くの事を学んでおくほうがよいだろう。クリティカル・ビジネス・パラダイム 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2024.09.27
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最近は牛角という焼き肉チェーン店で期間限定で女性を半額にしたら男性差別だとして炎上したので、これについて考えることにした。●割引・値引きとは何か割引とは一定の価格からある割合の金額を引いて安く販売することである。値引きとは一定の価格からある金額を引いて安く販売することである。割引・値引きすると普段よりもお得な感じがするので客を集めやすくなる。新商品の宣伝、新店舗のオープン記念、期末在庫セールとか、販売促進のために期間限定で一時的に割引・値引きされる。恒常的に割引・値引きしたらそれはもはや定価なので割引・値引きとは言わないし、セール開始前の8週間のうち4週間以上は通常価格での販売実績がないと二重価格表示として景品表示法に違反する。●割引・値引きの是非私は企業が割引をやるのは合法である限りどんな理由であれ自由にやればいいと思うし、客がそれを批判したり不買したりする自由もあると思う。例えば相席居酒屋や街コンで男性か女性のどっちかに客の性別が偏ったら営業が成立しないので、どっちかを優遇して客数を調整するのは差別ではなくて営業を成立させるための事業戦略と言えるだろう。すき屋や松屋が深夜料金を取っているけれど、逆に深夜に残業お疲れ割引をやって近所のすき屋や松屋から客を奪うのも事業戦略としてありだろう。携帯電話会社がMNPの新規顧客だけ優遇してスマホ代金を割引して長期契約している人を蔑ろにしているのもそういう経営方針なのだから別によいし、それが気に入らない客は他の会社にMNPすればよいだけである。会員だけ割引したりポイントを付与をしたりするのも会員を増やすための事業戦略で、非会員に対する差別だと怒る人はいなくて特典が欲しい人は会員になればいいだけである。個人経営の飲食店の禿げた店主が禿げた客を励ますために禿げ割引をして禿げた常連客を増やしてピカピカに励ましあってもフサフサ差別として嫉妬して怒り狂うフサフサな人はいないだろう。しかし高級ブランド店がブランドイメージを保つために値下げをしないように、商品やサービスに魅力があるなら割引・値引きをしなくても客が来るので、頻繁に定価から値段を下げないと客を呼べないようなビジネスは値下げよりも質を改善するほうが良いと思う。それにわが社は〇〇を支援しているんだという企業方針でもない限り性別などの属性を基準にして特定の属性を優遇することは反発を生むので、むやみに割引をしないほうがよいだろう。・牛角の炎上の問題牛角の場合はさいたまスーパーアリーナのTOKYO GIRLS COLLECTIONへの出店を記念して9月2日から12日まで限定で女性の食べ放題90品牛角コースが通常3938円なのがアプリ会員で予約限定で半額の1969円になるプロモーションをしたけれど、食べ放題で女性の方が肉を食べる数が4皿少ないというのが理由で半額にするなら恒常的に定価を下げるのが筋で、期間限定で半額なのは企業姿勢として中途半端で、じゃあ普段は女性に対して割高の料金を取っていることを正当化するのかという話になるし、それだと女性客は常連として定着しないだろう。それにたいていの食べ放題は従量制でなくて〇品から選べるという選択肢の多さでコースの値段が変わってくるので、食べる量を理由に割引するのはサービスが一貫していない。男性だって小食の人はいるし、女性だって大食の人はいるのだから、食べる量を理由に値段を決めるなら性別にかかわらずスマホの料金プランみたいに〇皿までは基本料金で〇皿以上は追加料金みたいにすればよい。たかが10日間のプロモーションのために主要顧客の肉好きの男性客に批判されてその後の客数低下や売上減少につながるのであればプロモーションとしては失敗だろう。そもそも牛角がTOKYO GIRLS COLLECTIONに出店するというのがよくわからない。若い女性が行きたがるおしゃれな店というイメージはないけれど、若い女性客を増やしたかったのだろうか。プロモーションをするにしても既存の食べ放題コースで女性だけ半額という安直な手段にせずに、GYUKAKU GIRLS ALL YOU CAN EAT COLLECTIONとか名付けて、有名なモデルの何某ちゃんが選んだ野菜やデザート中心の〇品2000円程度の食べ放題メニューを期間限定で提供するとかだったら男性客からの大きな反発はなかったと思う。服屋で女性向けのスカートを半額で売ったところで男性客は差別だと言わないし男性客でもスカートを買いたい人は買えるように、牛角は女性向けの食べ放題メニューとして売って男性でも注文したい人は注文できるようにすればよかったわけで、牛角の担当者が「女性限定」と「女性向け」の違いを理解していないので不公平感がでて炎上したのだと思う。カンニング竹山の「“これで何で女だけ安いんだよ”って言ってる男に本音を言うと、ケツの穴小さいこと言ってるんじゃねえよ馬鹿野郎!女が安くてもいいじゃねえか馬鹿野郎」というのはマーケティング的にもジェンダー論的にも筋が悪い意見で、ケツの穴が小さい男性を批判しているようでいて女性はケツの穴が大きい男性に庇護されるケツの穴が小さい存在でいいことを容認するような男尊女卑の固定観念を助長しかねない。2000円程度で文句言うなと金額の問題にする意見も筋が悪くて、2000円程度なら性別で差をつけても問題ないのだといろいろな企業が判断して新幹線やホテルやコンサートチケットや家賃やスマホの料金プランやサブスクとかのいろいろなものが男性か女性のどちらか片方だけが安くなると、マクロで見たら大きな差になって社会全体で性差別を助長するようになる。割引金額の大小の問題でなくて、同じ商品やサービスを提供しているのに性別を理由にした割引をすること自体が妥当かどうかの問題である。牛角に対する擁護には女性だけ割引するのは差別でない(女性は食べる量が少ない、企業の自由、等)という主張と、差別だけど文句を言うな(受け入れるのが男らしさ、男性は今まで優遇されていた、男性の方が収入が多い、等)という主張の2パターンの擁護があるけれど、後者の主張は男性差別容認につながるがゆえに問題である。前者の主張も差別の正当化につながる可能性があって、例えば東京医科大学の一般入試で女性を一律で減点したのは女性差別だと批判されたけれど、35歳時点で24%の女性医師が離職しているという厚生労働省のデータを根拠にすれば減点しても差別ではないということになって、今までフェミニストが女性差別だと主張してきたことと整合性がとれなくなる。●優遇のコンセンサスと公平さ日本は建前では男女平等の社会になっているので、男女どちらかの優遇を正当化するには相応の理由がいる。性別は一部の性同一性障害の人を除いて自分の意思では変えないので、性別を理由にした優遇をすると不公平になって差別と言われかねない。昔は男尊女卑で明治政府は女子教育の整備に消極的で女性が進学できなくて女性が差別されていたので、キリスト教徒によって私立の女子大学や短期大学が作られて女性の教育や就職を支援したけれど、現代では大学全入時代になって女子大学が役目を終えていていくつかの女子大学が学生不足で共学になっているので、女性だけに焦点を当てて優遇する必要がなくなっている。もし現代で女性だけ学費を安くするとかの優遇をしたら男性差別と批判されるだろう。昔は映画館でレディースデーがあったけれど、最近はTOHOシネマズとかの大手はレディースデーを廃止している。アゴラの「牛角の女性割引に疑問の声、アメリカでは既に「違法」」という記事によると、カリフォルニア州だとUnruh公民権法というのがあって、裁判所は性別による価格差は有害な固定観念を強化するため、一般的には男性と女性の両方に悪影響を及ぼす可能性があると判断したそうな。日本でもアメリカ的な自立した女性を目指すのであれば、女性であることを理由にした優遇は女性側から拒否するべきだろう。アメリカのアファーマティブアクションでは黒人が優遇される一方でアジア系は一生懸命勉強して成績が良くても入学できない不公平感が強いように、人種を理由にした優遇も性別を理由にした優遇と同様に社会のコンセンサスを得にくい。親の年収が低いけれど成績が良い学生に奨学金を出すのなら機会の平等といえるけれど、性別や人種や国籍とかの自分の意思では変えられない生得的なものを優遇の条件に入れてしまうと、それに納得しない人からはなんであいつらばかり優遇するのだと相応の批判も起きる。ではどういう基準なら優遇のコンセンサスを得られるのか。美術館や遊園地とかのたいていの公共施設では、未成年、高齢者、障碍者に対しては割引している。これは自分で収入を得られない社会的弱者に対する配慮として社会的なコンセンサスがあるし、誰でも子供だった時期があるし、誰でも長生きしたらいつかは高齢者になるし、誰でも事故や病気で障碍者になる可能性があるので、公平な割引である。飲食店の食べ放題では小学生以下の料金が安いけれど、大人と子供は明らかに体格と食べる量が違うので、子供の優遇というよりは食べる量に相応の値段として誰でも納得できるだろう。新規顧客限定の割引なら誰でも新規顧客になりうるので公平だし、長期契約している顧客や常連客への割引で顧客をつなぎとめようとするのも誰でも条件を満たせば恩恵を受けられるので公平だろう。例えばスタンプカードがある飲食店は常連客が来店数や売上に応じて割引とかの特典を受けられるけれど、一見の観光客よりも店の経営を支える地元の常連客に還元するのは社会的な慣習として一般的で、観光客差別だと言う人はいないだろう。誕生日の割引も誰でも年に1回は誕生日があるので公平である。客が少ない時間帯に客を呼び込むために特定の時間や天候が悪い日に割引するのも公平だろう。プロモーションをしたい企業はなるべく公平なやり方をするとよいだろう。
2024.09.06
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最近は自民党の総裁選挙だの立憲民主党の代表選挙だのアメリカの大統領選挙だので誰をリーダーにするかが話題になっているので、徒然なるままにリーダーについて考えることにした。●リーダーとは何かリーダーとは集団の指導者や統率者のことである。総理大臣、代表取締役、町内会長、学級委員長とか、集団の規模に関わらずリーダーがいて、集団の方向性を決定する。リーダーとしての能力や統率力をリーダーシップと言う。トップダウン型でメンバーに指示を出す人もいるし、ボトムアップ型でメンバーの話をよく聞いて根回しして折衷案を出す人もいる。株式会社あしたのチームによる「30歳以下の若手管理職 「新しい会社のリーダーズ」 に関する調査」だと、若手管理職のMBTI診断では「INFJ・提唱者型」「INTJ・建築家型」がトップ2で全体の3割を占めていた。E(外向型)がリーダーに向いていそうという印象と違って管理職の2割しかいなくて、I(内向型)とJ(判断型)の特徴を持っていて洞察力と合理的判断力がある人にリーダーが多いようである。日本ではコミュ力を重視して採用している企業が多いけれど、実際にリーダーになる若手の性格は企業が求める人材とは違う点が面白い。どういう人がリーダーに向いているかは孫子の智信仁勇厳とかの基準がいろいろあるけれど、いくら理想のリーダー像を求めても実在しない人をリーダーにはできないし、リーダーに向いているタイプを選ぶことよりもリーダーになってはいけないタイプを避けることのほうが集団の存続には大事だと思う。●リーダーになってはいけないタイプイギリスの歴史家のジョン・アクトン(1834-1902)は「Power tends to corrupt, and absolute power corrupts absolutely(権力は腐敗の傾向がある。絶対的権力は絶対的に腐敗する)」という格言を残したけれど、これは歴史が実証している。人々の救済を掲げたキリスト教の教会でさえ教皇が王以上の権力を持ったら腐敗して免罪符を販売して金儲けして人々を弾圧する側になってカトリック離れが起きて、カトリックとプロテスタントの宗教戦争が起きた。テンプル大学の社会心理学教授のデヴィッド・キプニスも「Power Corrupt」という論文で検証していて、「人は権力を持てば持つほど行使したがる」「人は権力を持つほど権威主義的になる」「権限が弱いと権力は堕落しない」と結論付けた。日本人は政治に興味を持っていない人が多いのでどうせ誰が総理になっても同じだと思いがちだけれど、ただでさえ人間の普遍的な性質として権力を持つと腐敗するのに、人間性に問題がある人が権力を持つとなおさら大勢を不幸にするので、リーダーになってはいけないタイプは避けなければならない。・ブリリアントジャークブリリアントジャークとは優秀だけれど人間性に問題があって周囲に悪影響を与える人を指す。最近は兵庫県の斎藤元彦知事(東大卒、元総務省官僚、維新の会と自民党の推薦)が瞬間湯沸かし器や暴君という悪評が多くて、お土産をほしがったりして意地汚いだけでなくて部下が自殺して問題になっている。秋田県鹿角市の関厚市長(京大卒、元農水省官僚)は「俺の言うことを聞かないやつは懲戒免職にしてやる」「おまえ、退職金をもらえなくしてやろうか」などと高圧的な発言してパワハラ疑惑が出ている。この人たちはブリリアントジャークの典型例だと思う。ブリリアントジャークに該当する人は人格障害なんじゃないかと思う。自己愛性人格障害の人は承認欲求が強くて他人に認められたがって努力はするけれど、自己満足のために権力が欲しいだけで権力を用いて他人に奉仕するつもりがなくて、自分の尊厳が傷つけられると激高して、自分の言いなりにならない人を恫喝して従わせようとする。こういう人でもワンマン経営者として頭角を現すこともあるけれど、政治家として強大な権力を持たせてはいけないタイプの人である。任期が長引くほど諫める人を排除して周りをイエスマンで固めて強権化していくので、こういう人に長期間権力を持たせるのは危険である。・頭が悪い人どんなに頭が良い人でもあらゆる分野での専門家にはなれないし、政治、経済、軍事、外交、防災、教育、福祉、医療とかの専門家の意見を聞いて判断する必要がある。頭が悪くて専門家の意見を理解できない人や、あるいは自分で物事の論理や整合性を考える能力がない人はたとえ人柄が良いとしてもリーダーになってはいけない。新しい技術の利便性だけでなくて危険性も理解できないと、治験が不十分で副作用が不明なワクチンを国民に打たせて薬害を起こしたりする。専門家だからといって頭が良いわけではなくて、メンデルの遺伝学の研究を否定した生物学者たちや、センメルヴェイスの手洗いによる消毒を否定した医師たちが科学的真理を検証しようともせずに頭ごなしに否定する馬鹿だったように、自分で物事を考えようとしない馬鹿な専門家は大勢いる。天動説から地動説、聖書から進化論、金本位制時代の古典派経済学から現代貨幣理論へのパラダイムシフトを受け入れられない人も科学的に合理的な思考ができない人で、権威がある人が言ったことを鵜呑みにして自分で物事を考えていないので、通説と違うものが真実だと言われても理解できないままそんなはずはないと否定する。頭が悪いリーダーが馬鹿な専門家の意見を鵜呑みにすると必然的に間違った行動をとるようになるし、頭が悪いと何が間違っているのかも理解できないので問題の解決も遅れる。森鴎外は陸軍の軍医のトップまで出世したけれど、『脚気現象は果して麦を以て米に変へたるに因する乎』という論文で脚気と麦飯の関係を根拠なく否定して、日露戦争で白米食が採用されて麦飯の支給が後回しになって2万7千人が脚気で死んだ。根拠のない自説に固執して科学的に合理的な思考ができていないので私は森鴎外は頭が悪いと思う。20世紀の日本は頭が悪いリーダーが多いせいで大勢の人命が失われることになった。最近は小泉進次郎を自民党総裁選に推す人がいるようだけれど、もしおぼろげに46という数字が浮かんで消費税率が46%になったら日本の経済が壊滅する。そいういう馬鹿なことをやりかねない人に権力を持たせてはいけない。・利益を追求する人論語で「君子は義に喩り、小人は利に喩る」というように、志がなくて利益を求めて右往左往する小人は人の上に立つべきでない。そういう人がリーダーになると社会的弱者を助けても儲からないから別に助けなくていいじゃんと社会福祉を削減して弱者を切り捨てたり、儲けるために弱者から搾取したり、個人の利益のために賄賂を受け取ったり売国したりして社会が荒廃していく。経済の語源は経世済民で、民を救って幸福にすることを意味していたけれど、今では経済学者や経営者が政治家に取り入って規制緩和させて合法的に民を虐げて不幸にして金儲けするレントシーカーになってしまっている。昔は悪政をした王や領主は国民の反乱で殺されたので経世済民をして国民の不満を減らす必要があったけれど、今では政治家はどんな悪政をしても殺されることはないと開き直っているので経世済民をやらなくなった。維新の会が典型的で、経営者気取りで新自由主義の政策を推進して公立病院と保健所を減らして新型コロナ禍で日本で一番の死者数を出した一方で、やる必要がないIRと大阪万博には巨額の公金をつぎ込んだり、上海電力を咲洲のメガソーラー事業にステルス参入させたりして中国と癒着している。失政で亡くなった人たちの遺族が政治家に対して復讐をするわけではないので、吉村知事は慙愧することもなくのうのうと政治家を続けている。利益にとらわれた人は道徳観も狂っている。かつては利益のために黒人奴隷の貿易も植民地の搾取も正当化されてきたし、現代でも利益のために戦争をやりたがっている人たちがいる。イスラエルが自国の利益のためにハマスへの報復を超えてパレスチナ人を民族浄化してガザ地区を占拠しようとして、ガラント国防大臣は「We Are Fighting Human Animals」とパレスチナ人を動物扱いして、スモトリッチ財務相はガザへの支援物資の配給をコントロールすべきだと主張して「今日の世界の現実では戦争遂行は不可能。市民200万人を飢えと渇きに追い込むことは世界の誰も許さないだろう。ただ、彼らが人質を解放するまでは、それが公正で道徳的な行為かもしれない」と発言した。アメリカが1990年からイラクに経済制裁して50万人の子供が死んだと言われているけれど、マデレーン・オルブライト国務長官はCBSテレビの「60 Minutes」のインタビューで「the price is worth it」と発言した。利益を求めることを正当化して計画的に数十万人を虐殺してもなんとも思わない人が世界各国の政治経済の中枢にいて、こういう人たちはいくら儲けても満足せずに際限なく利益を求めて、時間をかけて研究開発して良い商品やサービスを作って利益を出そうとせず、手っ取り早く他人の権利や財産を侵害して利益を出そうとして世界に惨禍をもたらす。・決断力がない人リーダーがやることは決断することである。戦争や大災害の際には検討が長引いて対処が遅れるとどんどん状況が悪化して国が亡ぶので、決断に時間がかかるようではいけない。岸田文雄は検討ばかりして無駄に政治を停滞させた一方で、アメリカからの指令はすぐにこなしてロシアに強硬姿勢をとって必要以上に経済制裁をして外交官まで送り返して北方領土問題の解決が遠のいて日本の国益を損ねていて、岸田はリーダーの器でなくて上司に命令されたことをこなす従業員レベルの器でしかなかった。・有言不実行の人民主党は一度やらせてみようという国民に与党になる機会をもらっても、マニフェストとして掲げたことをやらなかったうえに、財務省に丸め込まれてやらないと言っていた消費増税をやったことで信用を失って、いくら自民党がダメでも政権交代をさせてはいけない政党になった。岸田文雄も総裁選で所得倍増を掲げて総理になったとたんに金融所得倍増に方針を変えた。この人たちは地位と権力が欲しいだけで、国民のことはどうでもよくて政治家としての志は何もなくて嘘をついても恥とも思わないのだろう。・逃げる人戦国時代の武将は戦に負けても自分の首を差し出すことで家臣を守ったし、西郷隆盛は西南戦争の挙兵には反対していたけれど自分のために挙兵した私学校の生徒に生死を預けて最後は切腹して義理を通したように義に厚い人だからこそ大勢の人がついてきた。立派なリーダーたちは自分の命より大事な信念や使命があったからこそ後継者を育てて、自分が率いてきた集団と運命を共にして、一人でなく皆で大事を成した。我が身と財産を惜しんで部下を守ろうとせず責任を取らずに一人だけで逃げる人には部下はついていかないし、たまたま事業が成功したとしても志が継承されないので一代限りで終わって大事をなすこともない。自己愛性人格障害の人は褒められるのが好きで責められるのが嫌なので、仮病で記者会見を欠席したり、嘘をついて言い逃れをしようとしたりする。政治家は記憶をなくしたり、ご飯論法で質問をはぐらかしたり、ハードディスクにドリルで穴を開けて証拠を隠滅したりして追及から逃げようとする。会社経営者で経営が傾くと経営再建や債務処理を投げ出して失踪する無責任な人も少なからずいる。セウォル号の船長は乗客を救助せずに乗組員だとばれないように制服を脱いで逃げて、殺人罪で起訴されて無期懲役になった。・公私混同する人元市川市長の村越祐民は市長だったときにリース代が高いテスラを公用車として導入したり、市長室に360万円をかけてガラス張りのシャワー室を作ったりして、市民のためというより自分のための公私混同ともとれるような非合理的な公金の使い方をして、次の市長選挙では惨敗した。危険な道路を改善したりして良い政策をやっていたとしても村越でないとできないようなことではないので、じゃあ他の人が市長でもいいじゃんと市川市民は判断したようである。舛添要一はテレビ番組では政治家を批判していたくせに、自分が東京都知事になったら公用車で別荘通いしたり家族の宿泊代や飲食代を政治資金扱いしたりして公私混同が原因で辞職した。公私混同する人は監査がある上場企業の取締役や政治家とかになると変な金の使い方が批判されて長続きしなくて大事業を成すことはないし、不正の追求に議論が割かれて議会が停滞してしまう。リーダーが模範を示さないと、部下のモラルも低下していって上司がやってるからいいじゃんと不正をしかねない。・縁故主義の人縁故主義だと身内に対する批判や罰則が甘くなる。泣いて馬謖を斬るようなことができずに信賞必罰の原則がなくなると、そこから権力の腐敗が始まっていく。それに縁故主義者は血族以外を信用しないので、有能な部下が集まりにくくなる。世界中の様々な王朝は縁故主義で政治をやろうとしたがゆえに腐敗して部下が謀反を起こしたり国民が反乱を起こしたりして滅んできた。スリランカでは兄のマヒンダ・ラジャパクサと弟のゴタバヤ・ラジャパクサの兄弟で10年以上大統領になって首相や財務省に親族をあてがって、中国の債務の罠にはまったうえに化学肥料を禁止する馬鹿な政策をして主要産業である農業が壊滅して輸出で外貨を得られなくなって自滅して、国家破綻宣言をして反政府デモが起きたら大統領一家はモルディブに逃げた。ラジャパクサ一族は頭が悪くて目先の利益を求めて中国になびいて縁故主義で親族を優遇してさらに逃げ足が速いという複数の欠点を抱えていて、リーダーにしてはいけない人たちだった。岸田文雄がお坊ちゃんを秘書官にして官邸で遊ばせていたのも批判されたけれど、外国の縁故主義者が親族で要職を固めるのに比べたらかわいいものである。●分断の時代に必要なリーダーとはどの国もたいてい建国時は単一民族や単一宗教だったりするけれど、隣国を征服したり交易したりするうちに多民族多宗教になって統治が難しくなっていく。人種や民族や宗教や性別やイデオロギーで分断されて対立している現代では対立を解決できるリーダーが必要になる。水と油はそのままでは混ざらなくて分離するけれど界面活性剤を使うと乳化するように、文化や宗教が異なる人同士も何の工夫もなければ融和することはないので、何かしらの哲学や政策が必要になる。「和を以て貴しとなす」は中国のことわざらしいけれど、聖徳太子が定めた十七条憲法の最初にも書かれていて、聖徳太子は神道に仏教を融合させたことで宗教の対立を起こさない国家の礎を作って、観音菩薩の化身として崇拝の対象にもなった。現代はそういう立派な政治家はいないのじゃなかろうか。多様性と移民について考えるという記事でも考えたけれど、間抜けなEU各国はEU内の移動の自由化だけでは満足せずに目先の利益目当てでアフリカや中東の不法移民や自称難民を労働者にしようとしたら、福祉に寄生するフリーライダーやテロリストを大勢呼び寄せることになって多文化共生に失敗した。スウェーデンは左派のステファン・ロベーンが2014年に首相になってから積極的に移民や難民を受け入れて、銃による犯罪やレイプが急増している。ちょっとでも考えたらどうなるかわかるだろうに、同化のための十分な政策もなしにイスラム原理主義者や犯罪者を含む移民を受け入れたら失敗して当然である。アメリカも民主党政権では不法移民対策が不十分で、スウェーデンと同様に国家を揺るがす問題になりかねない。カマラ・ハリスはCalifornia DREAM Actというのを作って、16歳以下で親と一緒にアメリカに不法入国したDreamersと呼ばれる人たちを保護して市民権を与えようとしているけれど、トランプは「彼女は最悪の国境問題担当の副大統領だ。何百万人もの犯罪者が入り込んでくる国境は他に存在しない。不法移民の多くは犯罪者。しかも常習犯なのだ」と批判している。もしハリスが大統領になったらアメリカは南米からの不法移民が増えて南米化していくだろう。スウェーデンの移民受け入れの失政は犯罪の増加と言う形ですぐに影響が出たけれど、中国でバブルが崩壊すると北京オリンピック以前からずっと言われてきても景気が悪くなるまで時間がかかったように、大きな国の失政はすぐには影響が出てこない。アメリカは不法移民の流入によるホームレスの増加、犯罪の増加、社会保障費用の増加などで数年かけてじわじわと内政が悪化していって、白人キリスト教徒の保守層との分断と対立が深まるだろう。アメリカは現状でさえ刑務所不足で軽犯罪が野放しで、開拓時代みたいに貨物列車が襲われて物資が略奪されている有様なのに、南米のギャングが不法入国して犯罪が凶悪化するといずれ警察官が取り締まりしきれなくなるだろう。コロラド州オーロラではTren de Araguaというベネズエラの不法移民のギャングが武装してアパートを徘徊している様子の監視カメラの映像が公開されてニュースになっていて、4つのアパートを占拠して縄張りにしているようである。こういう南米からの不法移民の犯罪がアメリカ各地で起こりうるし、もしテキサス州が不法移民の犯罪に耐えかねて独立運動をしたりしてアメリカが内戦になればアメリカの栄華の終わりの始まりになる。たとえエリート揃いの大企業の経営が好調でも中産階級以下の庶民の生命や財産が脅かされるようになったら国家の運営としては失敗だろうし、武装した貧民が金持ちの家になだれ込んで貴金属を略奪したりして金持ちの安全さえ脅かされるかもしれない。かといってトランプの強引なアメリカファーストのやり方だと、不法移民の流入は抑えることはできても中国とかの他の国との分断と対立が進んで、アメリカが世界のリーダーとして自由と民主主義を主導する役割は果たさなくなる。ハリスとトランプのどっちが大統領になってもそれぞれ違う形で分断と対立を深めることになる。じゃあどうすればいいのか。黒人の女性だとか白人の男性だとかの属性でどこかの集団の代弁者になるのでなくて、自分の属性を捨てられる人が分断から融和に導けるリーダーになれるのじゃないかと思う。しかしそういう人はアメリカでは大統領の候補にもなれないだろう。たぶん今後100年くらいして人類が分断と対立に疲弊したころに、哲学者や芸術家や人工知能とかの権力や利益への欲がない人の中から地球規模で人類を俯瞰して国境を越えたリーダーシップを発揮して融和に導く超越者が出てくるんじゃないかと思う。19世紀のアメリカの哲学者のラルフ・ワルド・エマソンは「コンコードの聖人」と呼ばれて、自然の中でエゴイズムが消えて「透明な眼球」として無となっていっさいが見えるという思考をしているけれど、そういう人がまた出てくれば世界は変わるかもしれない。
2024.08.27
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最近はフワちゃんという芸人がやす子という芸人を誹謗中傷して炎上して楽屋で態度が悪いこともばれて仕事がなくなって活動自粛したり、オリンピックの選手や審判が誹謗中傷されたりしているので、徒然なるままに誹謗中傷について考えることにした。●誹謗中傷とは何か誹謗中傷とは特定の人物や組織の名誉や人格を傷つけることで、誹謗はハゲやデブとかの事実に基づいた悪口を公然と言うことで、中傷は噂や嘘などで事実無根の悪口を公然と言うことである。「あいつは不倫して離婚した」と事実に基づく悪口を言うと名誉棄損罪になって、「あいつは淫乱だ」と事実を指摘せずに悪口を言うと侮辱罪になる。本人は冗談のつもりで言ったとしても、言われた側には冗談に見えないものは誹謗中傷に当たる。フワちゃんはやす子の「やす子オリンピック 生きてるだけで偉いので皆 優勝でーす」というツイートに対して「これにアンチコメントがつくなら」という大喜利のようなことを芸人仲間とやろうとして「お前は偉くないので、死んでくださーい 予選敗退でーす」と誤送信したようだけれど、やす子からしたらそういう事情は知らないのでいきなり暴言を言われたと感じて当然である。大喜利みたいなことをやりたかったのならその場に居ない他人を巻き込まずにその場に居る芸人仲間同士でやるべきだった。芸人同士だからやす子が謝罪を受け入れて手打ちにしたようだけれど、もし一般人だったら侮辱罪として訴えられかねなかった。●誹謗中傷でないもの名誉棄損罪や侮辱罪は親告罪で、告訴して裁判をしないとどこまでが誹謗中傷になるのかはっきりしないけれど、過去の判例や社会的な慣習などである程度の基準はある。・芸としての毒舌有吉弘行は「アメトーーク!」というテレビ番組で品川祐におしゃべりクソ野郎というあだ名をつけたけれど、これはエンタメとしてそういう台本があって毒舌を言われる側も了承していてリアクションすることでギャラをもらっているので、芸人同士で悪口を言う分には告訴されることはない。プロレスラーがマイクパフォーマンスで公然と対戦相手の悪口を言うのも同様に試合を盛り上げるための演出なので、「何コラタココラ」「おっさんなめんなよこの野郎」とか言っても侮辱罪として告訴されることはない。・批評スポーツや芸術には技術の良し悪しがあるし、政治や経済には政策の効果の良し悪しがあるので、一生懸命頑張ったからといって必ずしも褒められるわけではなくて、現実と理想のギャップが批評の対象になる。例えば「あのタイミングで選手を交代して逆転されたのは監督の判断ミスだ」とか「あのドラマのヒロインは演技が下手で浮いていたので別の女優を起用した方がよかった」とか「あの市長の政策は膨大な予算をかけた割に効果がなかったので責任をとって辞任するべきだ」とかは個人の人格を否定するものではなくて技術や戦略や判断についての批判なので誹謗中傷には当たらない。批判的だからと言って悪意があるわけではなくて、あれはダメだったからこうすればもっとよくなるのにという建設的な提案である。・商品やサービスに対するクレーム「検品体制が甘くて商品にバリが残っていてけがをした」とか「担当者がタメ口で馴れ馴れしくて態度が悪い」とかの口コミを書いたりして、対価に見合うサービスを受けられなくてクレームの正当性が証明できるときは誹謗中傷には当たらなくて、企業から補償や謝罪を受けられることもあるし、他の客に対しても役に立つし商品やサービスの改善につながるので公益性がある。・叱責立場が上の人が立場が下の人の失敗を叱る場合は職務遂行上で必要な指導の一環で、他の従業員や客の前で公然と事実を指摘してもその指摘が合理的であれば侮辱罪は認められにくいだろう。・価値観の表明人間には性格の相性や価値観の違いがあるし、誰かを嫌いになることもある。「あいつは嫌いだ」と言うのは自分の価値観の表明にすぎなくて相手を誹謗中傷しているわけではないので、表現の自由として認められる範疇だろう。ただし名誉棄損罪や侮辱罪として告訴されることがないとしても、その価値観に賛同しない人からは批判されうる。最近は川口ゆりというフリーアナウンサーが「夏場の男性の匂いや不摂生してる方特有の体臭が苦手すぎる」「1日数回シャワー、汗拭きシート、制汗剤においては一年中使うのだけど、多くの男性がそれくらいであってほしい…」とXに投稿して男性差別だと批判されて事務所に契約を解除されたそうな。1日数回のシャワーは現実的でないにしても私は契約を解除するほどの差別的なコメントだとは思わないけれど、カチンときた男性が多かったのだろう。カードショップで臭い人は出入り禁止になるくらいの問題になっているけれど、それも差別ではなくて他の客を守って店の営業を続けるためだろうし、人前に出る時はやれる範囲で体臭対策をやるのがマナーだろう。・首相などの公務員に対する報道公然と事実を指摘したら名誉棄損罪になるといっても、政治家が不祥事を起こしたのを報道したら名誉棄損罪になるのでは報道の自由や言論の自由がなくなって権力の監視ができなくなってしまう。名古屋法律事務所の記事によると、刑法では首相など公務員について摘示された事実が真実であることの証明があったときは処罰されないという例外扱いになって、真実であることが証明できなくても確実な資料や根拠に照らして真実だと信じた場合にも名誉毀損罪は成立しないそうな。・動物や非実在人物に対するコメント「この警察犬は権力の犬だ」や「アンパンマンはアンポンタンだ」とかは法的人格を持つ実在する人間の名誉を棄損しているわけではないので、誹謗中傷しても法的な処罰の対象にならない。●誹謗中傷しないためにやること、やらないこと・一般化する固有名詞を出さずに「柔道の試合で勝った選手がガッツポーズをするのは相手への礼がなっていないのと同様に、負けて畳に座り込んでごねたり泣いたりするのも相手への礼がなっていないので柔道家としてはダメだ。柔道発祥の国の選手として勝っても負けても世界の手本となる礼を示すべきだ」と一般論を言うのは特定の個人に対する誹謗中傷にはならないので、告訴されることはない。ただし一般化するといっても「男は」「女は」と主語を大きくしすぎると批判されやすくなる。・感情的にならないスポーツは選手だけでなくて観客も熱中するがゆえに興行が成り立つので、情熱の裏返しで選手のミスに対して厳しくなって感情的な暴言が出やすくなる。eスポーツでもプレイヤーが勝ちたいがあまりに熱くなって「引くこと覚えろカス」と味方に対しても暴言が出る。イラついた感情をそのまま言語化せずに自分の意見と感情を切り分けて、個人の人格を否定するような意見を言わずに技術や戦略や判断などの非人格的な部分に対して意見を言うとよい。仏教で人間の苦しみの根源とみなす三毒の貪瞋癡では瞋(自分の心と違うものに対して怒りにくむこと)がこれに該当して、他人が自分の思い通りになることなんて夫婦でも親子でもないのだから他人の言動にいちいち怒るのは不毛である。・炎上に便乗しない有名人が炎上すると掲示板が祭りみたいになって、レスがほしくて過激なコメントをする人やそれをもてはやす人が出てきて、一線を越えて誹謗中傷や脅迫や殺害予告をする人もいる。フワちゃんに対しても誹謗中傷が殺到していたけれど、フワちゃんに非があるからといってフワちゃんを誹謗中傷してネットリンチしてよいことにはならない。・投稿する前に見直す誹謗中傷は罰金を払ったり前科がついたり仕事がなくなったりしてでも言う価値はない。インフルエンサーや言論人とかなら炎上しても知名度向上につながるけれど、一般人が炎上しても良いことはないので、きわどいコメントをして注目を集めようとせずに投稿前に見直して毒気を抜いておく方が良い。「死ね」「生きる価値ない」などと直接生死に言及すると強い悪意がある中傷として侮辱罪で告訴されかねないので、生死に関することは安易に言うべきではない。・事実を確認する2017年の東名高速道のあおり運転事故では容疑者と苗字が同じだけで無関係な会社社長が容疑者の親族で勤務先だというデマを流されて中傷される事件が起きて、中傷した5人は名誉棄損罪で30万円の罰金を払って計176万円の損害賠償の支払いを命じられた。デマを流す人にも問題があるけれど、デマをそのまま信じて事実確認しない人にも問題があって、一方的に批判してストレスを発散できる相手がいれば相手が誰だろうが事実がどうだろうがどうでもよいのだろう。刑事事件などでは容疑者として言及されるだけでも相手の名誉が傷つくので、事実が確認できないことについてはうかつに意見を言うべきでない。・専門外の事に口を出さない警察官でもなくて何の知識もない一般人が刑事事件の犯人を推理してあいつが怪しいだの言って探偵を気取ったところで、事件の真相が明らかになるどころか中傷になる可能性の方が高い。現行犯逮捕でない限り容疑者の段階ではまだ犯人と決まったわけではないし、裁判で判決が出るまでは犯人が確定していない。それに容疑者が控訴している場合は最高裁まで裁判が長引く。凶悪犯が許せないという感情はわかるけれど、それをぶつける相手の容疑者が犯人とは限らないし、事件に無関係な人がしゃしゃり出てきて厳罰を求める理由はないので、事件について何か言いたいのなら容疑者への批判よりも被害者の支援に回るとよい。スポーツや芸術の批評でも専門知識がないと技術に対する批評にならずに人格否定になりかねない。・片方の言い分を鵜呑みにしない漫画家の結賀さとるがイラストレーターの花邑まいに自作をトレースされたと言いがかりをつけて取引先にトレースを認めさせようとしたりブログでトレパクを主張したりしたことで花邑まいの仕事がキャンセルされて、それで花邑まいが名誉棄損で訴訟したら勝訴して、東京地裁は結賀さとるにブログの削除と314万円の賠償を命じた。結賀さとるが花邑まいにトレース行為などを理由に損害賠償を求めた反訴は並行で審理されて棄却された。判決文では花邑まいのイラストのほうが先に描かれていて結賀さとるが後で描いて取引先に納品したイラストはアクセス権限があって部外者が閲覧できなくて外部にも発表されていないので花邑まいがトレースすることは不可能で、それにもかかわらず線の重なりがあってトレースでなくても線の重なりが生じうるので、線の重なりがあるだけでトレースしたとは推認できないとしている。結賀さとるの主張に追随して花邑まいを誹謗中傷した人たちも名誉棄損になるので、双方の言い分が食い違っているときは片方の言い分だけを鵜呑みにしてあいつは悪いやつなんだと誹謗中傷してはいけない。・中立的な視点を持つ芸能人のアンチは中立的に批評する視点を持っていなくて相手のやることなすことすべてをけなしていて、悪口を言うことに慣れてしまって歯止めが利かなくなって誹謗中傷に発展していく。批判だけするのでなくて良い所は認めるべきで、そうでないと建設的な批評にならない。・寛容になる人生で一度も失敗しない人はいないし、若気の至りや飲酒による判断力の低下や更年期障害や仕事のストレスや加齢による前頭葉の委縮や精神疾患の発症とかで一時的に行き過ぎた言動をする人もいるけれど、そういう人たちは社会にまったく貢献していない悪人かというと違う。何か責められるようなことをしたとしても司法が相応の罰則を与えるし、情状酌量の余地があって反省している人たちを敵視して誹謗中傷してやっつけようとする必要はない。政財界の巨悪を批判せずに自分の人生にほとんど影響がない有名人の些細な不祥事をあげつらって粘着して誹謗中傷するのは興味関心の優先順位がおかしい。・公然での発言を控える口が悪くて悪口を言いたくてしかたがない人はSNSや掲示板で全世界に向けて発信せずに自宅で家族と話すだけにとどめておけば「公然」に該当しなくなるので名誉棄損罪や侮辱罪の要件は成立しなくなる。道端で数人で世間話をするだけでも「公然」に解釈されて名誉棄損罪や侮辱罪として告訴されうるので、基本的に家の外で他人の悪口を言わないに越したことはない。大塚・加藤法律事務所の記事によると自分のコメントを含まない単純リツイートでも名誉棄損の判決が出ているので、リツイートを使いこなせない人はあまりSNSに関わらないほうがよい。・ダイレクトメッセージで直接やりとりするSNSや掲示板で皆が見れる状態で投稿をせずに、ダイレクトメッセージなどを使って一対一でやりとりして他の人から見られないようにすれば「公然と」の要件を満たさないので、名誉棄損罪や侮辱罪にはならない。・動物に例えない和田アキ子が陸上女子やり投げの北口榛花に「なんか、トドみたいなのが横たわっているみたいな。かわいいな」とコメントして批判されている。動物は一般的に人間よりも知能が劣る存在だし、宗教や文化によっては不浄な存在として扱われているので、かわいい動物に例えるつもりで使っても相手が褒められたと受け取るとは限らない。悪意はないので侮辱罪として告訴されることはないだろうけれど、普通にかわいいと言えば済むのでわざわざ動物に例える必然性がない。くまのプーさんみたいでかわいいと言うと怒る主席もいる。・フィクションのキャラクターを批判対象にするインターネットがなかった頃はナイーブな視聴者が多くてドラマの悪役やヒール役のプロレスラーを悪人だと信じこんで誹謗中傷していて、それがストレス発散の娯楽として機能していたので華のある悪役がいるドラマやプロレスは人気があった。SNSができてからはそういう人たちが直接芸能人のSNSで誹謗中傷するようになったけれど、実在の人物でなくフィクションのキャラクターをストレス発散の対象にすれば悪口を言っても問題にならないので、悪口を言いたくて仕方がない人は悪役が出てくるドラマとかを見るとよい。●まとめ人間は言語能力を発達させたことで情報を共有して蓄積して議論して社会を発展させてきたけれど、その言語能力は他人を害して社会を壊す方向にも使われうる。日本人は自分が損をしてでも相手の利益を減らそうとするスパイト行動をとる意地悪な人が多いそうだけれど、金持ちや芸能人やインフルエンサーに嫉妬して誹謗中傷して成功者を引きずり降ろそうとするのは生産的でないし、名誉棄損の訴訟も弁護士や裁判所の人的資源の無駄遣いなので、誹謗中傷はしないほうがよい。誰かの言動を批判するにしても個人の幸福や社会の発展に役立つことを目的にするべきで、教養ある文明人として恥ずかしくない言葉遣いをするべきだろう。岸田文雄のように所得倍増という嘘をついて総理になってPB黒字化を目指してインボイス制度を導入して控除廃止とかのステルス増税して国民を困窮させて能登の被災者を見捨ててウクライナの支援を優先する支持率最低のクソみたいな政治家でも増税クソメガネや財務省の犬と呼ぶのは下品で行儀が良くないので、もっと上品に御増税うんこメガネ様や財務省のわんこちゃんなどと呼ぶ方がよいかもしれない。
2024.08.13
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2021年に子供の国語力低下について考えるという記事で考えたときにはPISA(OECD生徒の学習到達度調査)で読解力が低下していたけれど、2023年のPISAでは日本は読解力が3位で、前回の2018年に過去最低の15位だった状態から回復したそうな。ところが小学6年生と中学3年生を対象とした2024年4月の全国学力調査だと中学国語の「話す・聞く」「読む」「書く」の技能別で「読む」の正答率が過去最低の48.3%で、「話す・聞く」の59.1%、「書く」の65.7%に比べて極端に低くなっている。間違えた人はキーワードだけ見て、言葉の意味はわかっていても文章としての言葉のつながりを理解していないそうな。前回よりも試験が難しくなったという見方もあるので正答率が低いからといって読解力が落ちたとは限らないけれど、楽観的に見るよりは悲観的に見て対策する方が良いだろう。というわけで徒然なるままに読解力の低下について考えることにした。●読解力は必要なのか読解力の低下は子供がスマホで動画を見ている時間が長くなったことが原因とみられているけれど、動画で情報を得られるのだから本を読まなくていいという人もいる。YouTubeには大学の講義やシンポジウムの動画がたくさんあるし、医療でも法律でもたいていのトピックは専門家がYouTubeでわかりやすく解説しているので、本を読まなくても動画から学べることは多い。しかし動画は文章よりも情報伝達効率が悪い。それでタイパとか言い出して短い切り抜き動画ばかり見るとますます得られる情報が少なくなって、結論だけ見てその結論に至るまでの背景や論拠を考えないようになる。それに文章は能動的に意識を集中して読んで理解する必要があるのに対して、動画は受動的に聞き流すことができてしまうので、動画で知った情報の方が記憶に残りにくいと思われる。中学生の頃に読解力が低いままだと、高校生、大学生と年齢が上がって知るべき情報が増えていくにつれて学習効率が落ちていくだろう。大学生は卒論を書くために動画で誰も解説していないような専門分野のマイナーな文献や先行研究を自分で調べる必要があるけれど、読解力が低いと論拠となる情報を正しく引用できなくてろくに研究もできなくなると思われる。というわけで文章読解力が落ちた分を動画の視聴で完全に補うことはできないので、私は読解力は必要だと思う。動画はそれ自体は有用だけれど、子供のうちは情報源を動画に偏重しないで先に読解力を身に付けて、それから動画で情報を得るのがよいだろう。●読解力の低下がもたらす問題・議会制民主主義の危機古代でも話したり聞いたりすることはたいていの人ができたけれど、文字を読み書きできるのは教養がある貴族や官僚だけで、庶民の識字率は低かった。口頭で伝えられる内容には限界があるし、記憶には間違いも多くて伝達ミスが起きるので、様々な学問の研究成果が記録された資料を読める事が正しい知識を持つことにつながる。それゆえに読解力が高くて長くて複雑な文章を読めることが教養の度合いを示す指標になる。近代国家は識字率を上げて国民に高等教育を施して、教養ある国民が選挙権や被選挙権を持つことで、議会が世襲貴族に占領されなくなって国民の代表による議会制民主主義が成り立つようになった。政治家は法律や科学的根拠を基に政策を議論する必要があるので、いろいろな資料を正しく読めない人とは議論にならないし、議論ができないと議会が機能しなくなる。読解力が低くて政策が理解できない国民が変な政治家を選ぶようになると、個人的な問題で終わらずに議会制民主主義を脅かす社会問題になる。こないだの東京都知事選挙で石丸伸二が若者の票を集めて躍進したのも衆愚政治に向かいつつある兆しといえる。石丸は安芸高田市長のときに議会で寝ている議員をSNSで批判して知名度を上げて、具体的な政策がないのにSNSで露出を増やして若者の浮動票を集めたけれど、テレビでのインタビューではインタビュアーへの敵意が強くて議論がかみ合わない石丸構文が話題になって、石丸支持者も誹謗中傷をして評判を落とした。石丸に投票した人たちは議会は敵と対決してやっつける場所でなくて政策を議論する場所だと理解していないのじゃなかろうか。これは小泉純一郎が「自民党をぶっ壊す」といって郵政民営化に異論を言う人を抵抗勢力扱いして小泉劇場としてブームになった時のB層の投票行動と同じで、敵を作って戦う姿勢を見せれば政策の良し悪しを無視してエンターテイメントとして支持を集めることができてしまうけれど、結果として郵政民営化は失敗だったし小泉純一郎や投票した人たちがそれを反省するわけでもない。改革を主張する維新の会も同様で、公立病院や保健所を削減して新型コロナ禍で大阪で一番の死者を出していて改革どころか改悪して失敗しているのに、テレビで露出を増やして既得権益と戦って変える姿勢だけ見せれば支持を集めてしまうし、失政の結果に対する責任を取らない。小泉進次郎も同じ内容を繰り返す小泉構文が国語力の低さを表していて、二酸化炭素の削減目標で46という数字が浮かんできたと言い出して科学的根拠がないままでたらめに政策が決められてしまっている。もし100というセクシーな数字が浮かんでいたらマジでヤバイことになって、マジでヤバイということは、マジでヤバイことになるところだった。・扇動されやすくなる読解力がなくて情報の真偽を確かめられないとフェイクニュースや陰謀論を信じて社会を破壊する活動に参加しかねない。真偽を確かめるためにはまず情報を誤読せずに正しく理解して、論拠がどこにあるのかを把握して整合性を検証する必要がある。動画などで音声として聞くと複雑な文法や論理を理解しにくいけれど、文章として読めば前後の文章を比較して論拠や論理の飛躍や矛盾を見つけやすくなる。それに動画は話している人を映すので、話の内容についての議論よりも発言者に対する批判になりがちである。そんで発言者に差別主義者だの陰謀論者だのなんだのとレッテル貼りをして議論そのものがなくなってしまうと情報の真偽の検証がおろそかになる。発言を文章化すると発言者と発言内容を切り離して客観視することができるので、動画でなく文章をベースにして議論するほうがよいだろう。・クソリプの増加文章読解力不足で論旨や論点を理解せずに誤読して、具体的な指摘や提案ができず、嫌いな相手に感情をぶつけて憂さ晴らしをしようとする人たちがクソリプを量産していて、インターネットという文明の利器が非生産的な誹謗中傷に使われて、本来は有益な情報交換ができるはずの掲示板やSNSが不快な場所になっている。MBTI診断で思考型と感情型に分かれるように、人の意見にも思考型と感情型のどちらが優勢なのか特徴が出る。私のブログやYouTubeのような場末のSNSにもクソリプがたまにくるけれど、クソリプを送る人は感情型といってよいだろう。誰でも意見を言う自由はあるし、生産的な指摘や提案や批判なら歓迎するし私が間違っているなら訂正するけれど、生産的でないクソリプは相手にしても時間の無駄なので私は無視している。ショーペンハウエルが馬鹿と議論しても無駄だと言っていたように、相手は物事を理解する能力がなくて、相手の間違いを指摘しても相手はなぜ間違っているのか理解できなくて間違いを認めて意見を変えることはないので指摘する意味がないし、教師でもないのに無料で相手を指導して間違いを正してやる義理もない。せっかく人間として生を受けて自我を持ったのに、豊かな言葉を学問や芸術に使わずに誹謗中傷に費やすのは不毛で、私は人間として理性を磨いて生きようと思っているので理性が乏しくて物事の道理を理解していない人たちとはなるべく関わりあいたくない。村上春樹がSNSを見ない理由として「大体において文章があまり上等じゃないですよね。いい文章を読んでいい音楽を聴くってことは、人生にとってものすごく大事なことなんです。だから、逆の言い方をすれば、まずい音楽、まずい文章っていうのは聴かない、読まないに越したことはない。」と答えたのも作家としては当然の感覚で、人間は周囲の環境から何かしらの影響を受けるので、まずい文章を読めばそれに影響されて変なミームや流行語や差別用語を使ったりして言葉が荒れかねない。中国のことわざに「一顆老鼠屎壞了一鍋粥」(一粒の鼠の糞が粥の鍋をすべて壊す)というのがあるそうだけれど、一行のクソリプでも読まないで済むならそれに越したことはない。辻美紀や工藤静香が料理を作ってSNSに写真を上げるとけなす人が大勢いるそうだけれど、他人が何を食べていようが自分が食べるわけでもないのだからどうでもいいだろうに、芸能人に嫉妬して粘着しているアンチは他人に不満を募らせて文句を言って非生産的な行為で人生を浪費している。「沈黙は金、雄弁は銀」ということわざがあるけれど、それに付け加えるなら「クソリプはうんこ」で、クソリプをすればするほど自分の評価が下がっていることにクソリプしている本人は気づいていないのだろう。感情的にクソリプをしてうんこまみれで生きる自由もあるけれど、おそらく幸福とは程遠い生き方になる。木村花や韓国の芸能人のように誹謗中傷が原因で自殺した芸能人もいるし、名誉棄損で訴えられて書類送検されたり慰謝料を払ったりする人もいるし、クソリプは個人の幸福や社会の発展に何も寄与していない。クソリプから殺人事件にも発展して、2018年の福岡IT講師殺害事件ではブログに「低能」と罵倒コメントして荒らしていた人が低能先生とあだ名をつけられて、その対処法を紹介したHagexというIT講師のブロガーが逆恨みされてセミナーで刺殺された。今後読解力がない人が増えたら、相手の意見を理解できずに自分の意見を押し付けようとして揉めて殺害する事件が頻発するような殺伐とした社会になるかもしれない。●読解力を向上させるにはどうすればいいのか読解力を向上させるためには小説を読むのが良い。ニュースやプレスリリースや論文とかのわかりやすく書かれている文章とは違って、小説はあえてわかりにくい言葉遣いをして日常生活では起きないような出来事を書いているので、内容を理解するために橋渡し推論や精緻化推論を頻繁に行って言外の意味を補完して、ワーキングメモリを働かせてこの登場人物はこういう体験をしてこういう価値観を持っているのでこういう言動をしているのだというメンタルモデルを登場人物ごとに作って人物像を想像する必要があって、単に言葉の意味を理解する以上の複雑な認知能力が要求される。例えば恋愛小説なら「恋をした」「嫉妬した」みたいに直接感情は書かないので、頬が紅潮して目をそらしたとか物陰から横顔を眺めていたとかの描写を手掛かりにして言外の微妙な感情を推測する必要がある。本格ミステリだと登場人物の言動や犯行現場の状況を正しく読めないと犯人の推理ができないし、正しく読むことが推理の面白さにつながるので、楽しみながら読解力を鍛える訓練になる。キーワードの拾い読みだと小説は理解できないので、キーワードだけ見て早合点して全体の文章のつながりを理解していない子供の読解力を向上させる対策としてはうってつけである。幼児向けの絵本は絵で状況を補完しているけれど、小説は絵がなくてより高度な読解力が必要になるので、言語能力の発達に応じて絵本から小説にシフトしていくのがよいだろう。しかし子供向けの漫画は多いのに、学校の図書館におけるような子供向けの児童小説やジュブナイル小説があまりないのは出版界の課題といえる。ライトノベルは青少年向けだけれど、たぶん娯楽色が強くて読書感想文の対象にならないので学校の図書館に置いてもらいにくいと思う。その需要を埋められたら小中学生の読解力が向上するかもしれない。国語の授業で小説を読ませないでもっと実用的な勉強をさせろという人がいるけれど、たかが小説さえ理解できない程度の読解力しかないのでは実用的な知識を学ぶどころか文章を曲解して間違って覚えることになりかねない。計算自体はできるけれど算数の文章問題を理解できなくて回答を間違える子供がいるように、読解力がなければ他の学問を学ぶうえでも障害になる。大人になってから小説を読まないのは個人の自由だけれど、認知心理学の点から見たら子供の言語能力を向上させるためには小説を読むほうがよいだろう。
2024.08.05
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最近は『アサシンクリードシャドウズ』(Assassin's Creed Shadows)というゲームが炎上したので、これと歴史の改ざんについて考えることにした。●歴史とは何か歴史とは過去の人間生活に起こった事象の変遷・発展の経過である。文字ができる前の時代の歴史は骨や土器や化石などの出土品を解析して、争いがあったか、何を食べていたのか、栄養状態はどうだったのかなどを推測している。文字ができてからは古代人が戦争や天変地異などの何か重要な出来事を後世に残そうとして石や粘土板や紙に記録するようになって、現代人はそれを信憑性が高い一次資料として現代語に翻訳して、他の資料との整合性を考えていろいろな仮説の中から矛盾がない説を史実としている。しかし鎌倉幕府の成立は源頼朝が征夷大将軍になった1192年じゃなくてそれ以前だという説が有力になったりして、史実とされて教科書で教えられていたことが後から変わることもある。●『アサシンクリードシャドウズ』の問題『アサシンクリードシャドウズ』はUBIの看板タイトルのアサシンクリードシリーズの最新作で11月15日に発売予定のゲームで、日本を舞台にして織田信長に仕えた黒人の弥助を主人公にしている。しかし畳が長方形でなくて正方形だったり、桜が咲いているときに田植えをしていて豊作だと言ったり、日本向けの動画に中国語の簡体字の字幕が使われていたりして、時代考証が不十分なだけでなくて開発チームや監修者の中に日本人がいなくて日本の文化について根本的に理解していない人が作っているのがわかる有様だった。日本人がこれを見たら違和感だらけでよくある外国人が作った和風ファンタジーだとすぐにわかるし黒人が侍として活躍しようがファンタジー忍者が登場しようが別に気にしないけれど、問題はUBIが史実を忠実に描いたかのように発言したことである。ファミ通のインタビューでは「数年間、専門家の助けを借りていましたが、日本のスタジオとチームでも調査を行いました。異なる種類の情報源を使ってチームが正しく理解し、16世紀の日本の様子を再構築するために必要なすべての情報を持っているかを確認しました。」と言っている。Xboxのインタビューでは「We’re showing real historical figures, such as Oda Nobunaga and a lot of events that happened during that time, so you’re not only playing in feudal Japan, but learning about this fantastic time period.」(織田信長のような実在した歴史上の人物や当時の出来事を忠実に描いているので、封建時代の日本を舞台にゲームを楽しみながら、この素晴らしい時代について学ぶことができます)と発言した。それでゲーマーたちが忠実に描いていないだろと批判して、粗探しが始まって画像の無断盗用や左右反転コピペが発覚して炎上が広がった。専門家でない人なら弥助が侍だったと言われてもふーんそうなんだと思う程度だろうし、私もこの問題が起きるまで気にしなかった。そういえば侍とは何ぞやと考え始めると、主人のために戦えば侍で、主人がいないのは侍でなくて野武士だという広義の定義では弥助は本能寺の変で織田信忠がいる二条新御所で刀で戦った記録が残っているので侍といえなくもないけれど、なんで弥助には三浦按針みたいに苗字(家名)がないの、俸禄はどのくらいなの、なんで資料がないの、といろいろ疑問が出てくる。信長は刀好きで森蘭丸には不動行光、黒田官兵衛にはのちに国宝になるへし切長谷部という名刀を下賜しているけれど、弥助には刀を与えたようだけれど名刀として後世に残っていないのでそれほどお気に入りだったとも思えない。資料があまりないことから見ても弥助はたいして重要な人物ではなかったと思われる。この炎上でUBIの株価が一時的に約15%下落して、UBIは「皆さまのご意見は深く尊重されるとともに、日本の皆さまにご懸念を生じさせたことについて、心よりお詫び申し上げます」「史実や歴史上の人物を再現する目的で作られたものではありません」と声明を出してトーンダウンしている。外国産のフィクションでも真田広之に監修を任せて細部にこだわったディズニーのドラマ『SHOGUN』がヒットしたのに比べて、『アサシンクリードシャドウズ』は発売前から不買運動をされる有様で、いくらフィクションと言えども時代考証は重要である。時代考証をしたうえでフィクションとして面白くするために脚色するのはありだけれど、時代考証がずさんなのはクリエイターの創作姿勢としてだめである。歴史フィクションが好きな人は歴史に詳しい人が多いのだから、ネタ元にリスペクトがなくてろくに調べてない外国人が明らかに不正確な情報を史実かのように語ったら批判されて当然である。●弥助の歴史改ざんの問題UBIの炎上で弥助に関する本を書いていた日本大学法学部准教授のトーマス・ロックリーも批判の対象になった。ロックリーは『Yasuke: The true story of the legendary African Samurai』という本を出版して、Wikipediaやブリタニカを自著に沿う内容に改ざんしていたことが判明した。しかもその主張は根拠がない。本能寺の変で自害したとされる信長の遺体が見つかっていなくて、焼けて身元の判別がつかなくなった説と、遺灰が阿弥陀寺の清玉上人に持ち出された説と、首が原志摩守宗安に持ち出されて西山本門寺に埋められた説があって、いまだに真偽は不明である。しかしロックリーはTIMEの「The True Story of Yasuke, the Legendary Black Samurai Behind Netflix’s New Anime Series」で「Yasuke was in the temple with Nobunaga when he performed seppuku. “There’s no record, but tradition holds it that [Yasuke] was the one who took Nobunaga’s head to save it from the enemy,” Lockley said. “If Akechi, the enemy, had gotten the head and he’d been able to hold up the head, he would have had a powerful symbol of legitimacy.” Lockley explained that an act like that would have given Akechi credibility as a ruler. After the attack on Nobunaga, Akechi did not get much support and was soon defeated in battle. “Yasuke, therefore, by escaping with the head, could have been seen and has been seen as changing Japanese history,” Lockley said. 」と記録はないと前置きしつつも弥助が信長の首を敵から守って日本の歴史を変えたと見られると言っていて、弥助を英雄視している。BBCの「Yasuke: The mysterious African samurai」という記事でも同様に「He was also there on the fateful night one of Nobunaga's generals, Akechi Mitsuhide, turned against him and set the warlord's palace alight, trapping Nobunaga in one of the rooms. Nobunaga ended his own life by performing seppuku, a ritual suicide. Before he killed himself, he asked Yasuke to decapitate him and take his head and sword to his son, according to historian Thomas Lockley. It was a sign of great trust. 」と弥助が信長に信頼されて首と刀を息子(信忠)に届けたというロックリーの説を紹介している。CNNの「African samurai: The enduring legacy of a black warrior in feudal Japan」という記事でも「Facing defeat, Oda ended his own life to avoid losing his honor. He performed a ritual called “sepukku” which saw him stab a short sword into his stomach, slicing horizontally while his attendant Ranmaru Mori lopped off his head. Legend has it, says Lockley, that Oda’s last order to Yasuke was to take his sword and his decapitated head to his son.」と森蘭丸が信長の首を切り落として信長が最後の命令をして弥助が首と刀を息子(信忠)に届けさせたというロックリーの説を紹介している。このロックリーの説を裏付ける根拠がない。ルイス・フロイスの『1582年度日本年報追信』だと弥助は「信長の死後、世子の邸へ行き同所で長い間戦っていた」とされていて、弥助が信長の首を本能寺から二条新御所の信忠に届けたかどうかには言及していない。森蘭丸は本能寺で討ち死にしているけれど信長より先に死んだのか後に死んだのか不明で森蘭丸が信長の首を切ったという証拠はないし、明智光秀の1万の軍勢に本能寺が包囲されて首を探している中で長身の黒人の弥助が信長の首を持って逃げていたら目立ってすぐに発見されるだろうし、もし弥助が首を守って二条新御所の信忠に届けたとしても信忠や家臣がそれに言及しないのもおかしい。『信長公記』によると信忠は「腹を切った後、縁の板を剥がしてこの中に入れ、遺骸を隠すように」と自分については言ったけれど信長の首の扱いには言及していないので、信忠のところに信長の首が届いたという根拠はない。弥助が日本語を話せて信長の最期を見届けたのならそれを信忠や家臣に伝えないのもおかしいし、明智光秀も投稿した弥助に信長の首の所在を尋問せずに「その黒人は動物であって何も知らず、また日本人でもないから彼を殺さず、インドの司祭たちの教会に置くように命じた。」と何も知らないような扱いをしてすぐに追い払うのはつじつまが合わない。信忠の家臣が信忠の切腹後も戦って討ち死にしている一方で、弥助が刀を捨てて投降するのは忠義がなくてとても伝説の侍とはいえない。ロックリーが黒人奴隷が信長に信頼される侍になって信長の首を持って逃げて日本史を変えたというサクセスストーリーを主張したいなら歴史研究者としてでなく小説家として言うべきで、根拠なしにtrue storyと言うのは学者としてのモラルが欠如している。TIMEやBBCやCNNのような比較的権威のあるサイトで仮説にすぎないものが史実であるかのように外国に広がると、それを訂正するのも大変になる。日本ファクトチェックセンターは「黒人侍とその家族の画像?【ファクトチェック】」という記事でAIが作った黒人侍の白黒写真の真偽についてロックリーに尋ねているけれど、聞く相手を間違っている。専門家が言うことだから正しいとみなすやり方は専門家が間違っている可能性を考慮していない。●なぜ歴史は改ざんされるのか・利益や名声を得るため歴史が古くなるほど資料が乏しくなって専門家でも何が真実か断言できなくなるので、そこに歴史の改ざんの余地が生まれる。生きている人間は事実無根の事を言われたら反論するけれど死者は反論できないし、専門家でない一般人には反論するほどの知識もないしわざわざ調べるほど暇でもないし、専門家でも外国人が外国語で出版した本や論文を全部チェックするのは大変なので、歴史を改ざんしてもなかなかばれにくい。芸術の盗作と似たようなもので、捏造がばれれば名声を失うけれど、ばれなければ専門家の地位を得て本が売れたり記事の執筆依頼がきたり大学の講師になれたりする。旧石器捏造事件を起こした考古学者の藤村新一は「功名心から捏造を始めたものの、『神の手』などともてはやされるようになり、プレッシャーから捏造を続けてしまった」と言っていて、学者としての真理の探究よりも功名心が上回ったようである。吉田清二が『朝鮮人慰安婦と日本人』を出版して慰安婦が強制連行されたと主張したのは金儲けのためだろうし、朝日新聞が吉田証言を根拠にして女子挺身隊と慰安婦を混同して慰安婦を外交問題にまで発展させたのも反日の購読者に媚びて金儲けをするためだろう。韓国が端島炭鉱(軍艦島)で朝鮮人労働者が虐待された証拠して出した写真が実際は福岡の筑豊炭田の写真だったように、韓国政府は被害者ぶって補償で利益を得るために証拠を捏造して歴史を改ざんして外交問題にしようとする。・国を支配するため新しい国や政権ができたときに、焚書して過去の王朝や政権を否定して歴史を改ざんすることがしばしばある。秦の始皇帝は秦以外の国の歴史書を焚書して自分の偉業を称える刻石を作らせた。日本では第二次世界大戦で敗戦して、GHQが日本人の愛国心をなくさせるために戦前に出版された7000冊が燃やされて、日本人はアメリカに従順な自虐史観に調教された。仮想敵国を作ると愛国心を煽って国内の問題から国民の目をそらさせることができるので、中国は南京事件を大虐殺に仕立て上げようとして合成写真などで証拠を捏造して反日プロパガンダを広めている。・自分の国を擁護するためアメリカは第二次世界大戦で日本人を猿扱いして東京を空襲して10万人を虐殺したり広島に原子爆弾を落として14万人虐殺したり長崎に原子爆弾を落として7万人を虐殺したりして非戦闘員の市民を虐殺して、イスラエルがパレスチナ人を動物扱いして市民を無差別に虐殺しているのと同様の大量虐殺をしたけれど、その蛮行を正当化するために日本人が残虐非道だったのだという物語をでっちあげて歴史を改ざんしたがる。中国系アメリカ人のアイリス・チャンは『ザ・レイプ・オブ・南京』で日本軍が数週間の間に一般市民約26万人から35万人を虐殺し、女性2万人から8万人をレイプしたと証拠もなしに主張して、最近はアメリカ人のブライアン・マーク・リッグが『Japan's Holocaust: History of Imperial Japan's Mass Murder and Rape During World War II』という本で1927年から1945年の間に天皇の命令で少なくとも3000万人が虐殺されたと根拠もなしに主張していて、外国に反日プロパガンダを広めている。ジャーナリストや歴史家の肩書を持った人たちが史実に嘘や誇張を混ぜて拡散する工作活動をするので悪質である。●歴史を改ざんされないためにどうすればいいのかしばしば文系の学問は役に立たない(企業の利益にならない)からなくせと言う人がいるけれど、大学が歴史を研究して研究成果を継承し続けなければ歴史が改ざんされても気づけなくなる。それゆえに歴史研究者の数と質を維持して、文化財や歴史資料や公文書を保管してデジタル化するなり外国語に翻訳するなりして資料に反する説の間違いを証明しやすくするのが重要である。国立公文書館の平成30年の「公文書管理体制の日英比較」という記事によると「欧米先進諸国では、作成後30年経った重要公文書は国立公文書館に移管されて永久に保存され、原則として公開されるという「30年ルール」が定着している。最近はその期間が縮小される傾向にあり、イギリスでは2010年の法改正により、「30年ルール」が「20年ルール」に改められ、現在は2023年の全面施行に向けた移行期間となっている。日本は「30年ルール」さえ定着しておらず、彼我のあまりの差に驚かされるばかりである。」そうで、公文書がちゃんと保管されて公開されることで事実を確認しやすくなる。化石とかの考古学的な資料は放射性炭素年代測定で年代がわかるので捏造しにくい。しかし写真や動画はAIの進歩で捏造が容易になって、古代史よりも近現代史の検証の方が難しくなるかもしれない。AIが悪用されたらカティンの森事件のように虐殺をなすりつけられたり偽旗作戦で被害をでっち上げられたりする可能性があるので、資料の真偽を判定するための科学技術も発展させる必要がある。Xのインプレゾンビが東日本大震災の写真や動画を能登地震の時に投稿したように、写真や動画が合成でないとしても元の文脈とは違う文脈に使われることもあるので、いつどこで誰が撮影したのか、初出はどの本やサイトなのかという背景情報もアーカイブして検索しやすくする必要があるだろうし、exif情報がない写真は加工されたものとみなして歴史的資料として採用しないとかのデジタル資料に対応した保管基準も必要だろう。反日外国勢力による歴史の改ざんからの防衛も国家の防衛の一環として相応の予算をつけて取り組むべきで、従軍慰安婦問題みたいに捏造から外交問題に発展するようなことは繰り返してはいけない。
2024.07.30
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ナショナルジオグラフィックの7月号で世界各地の先住民の特集をしていたけれど、そういえば先住民について考えたことがなかったような気がするので、徒然なるままに先住民について考えることにした。●先住民(indigenous people)とは何かWikipediaでは先住民を「政治的に劣勢な地位にある集団で、その国の支配的な地位にある集団のものとは異なった、同じエスニック・アイデンティティを共有し、現在統治している国家が支配を及ぼす以前から、その地域において、エスニックな実体をなしていたもの」(Greller, 1997) と定義しているけれど、英語版のWikipediaだと「There is no generally accepted definition of Indigenous peoples」と一般的に受け入れられている定義はないとしている。世界大百科事典では先住民とは「一般に,〈近代〉国家が形成される段階で,〈未開〉であるとの偏見をもとに,民族としての存在と固有の文化を否定され,その伝統的領土とともに一方的にその国家に併合された民族集団を指す。その領土には植民地政策が敷かれ,大虐殺や強制同化政策などにより民族としての抹殺が行われるが,同化が進んでも,差別問題は解決しない。この点,先住民族は,近代国家に自らの意思で統合されたかどうか,植民地政策が行われたかどうかによって確認される政治学の概念であり,民族学や人類学の概念ではない。」そうな。白人が征服して植民地にした国に対しては先住民という概念は適応しやすい。オーストラリアのアボリジニはイギリス人に侵略されて人間狩りをされて虐殺されたし、南北アメリカのインディアンやインディオはヨーロッパ各国に侵略されて虐殺されたので、上の定義だとアボリジニやインディアンやインディオは先住民族と言える。しかしもしオーストラリアやアメリカが宇宙生命体に侵略されてキリスト教徒の白人が未開生物扱いされて虐殺されて統治されて支配的地位をなくした場合、キリスト教徒の白人は先住民族と呼べるのか疑問である。あるいはもしアメリカ人が最初に月にコロニーを作って移住して、それから中国人が月に移住してコロニーを乗っ取って支配した場合は、アメリカ人は月の先住民と言えるのだろうか。日本語で先住というと単に先に住んでいるという意味なのでどこかの時点を基準にして先に住んでいれば先住と言えるけれど、英語のindigeousには原産や土着という意味があるし、aboriginal people(土着民)とも呼ばれるので、どこかの土地で文化を持った民族が他の土地に移住した場合は先住民の定義に当てはまらないのではないかと思う。上の定義だと先住民を迫害されている少数派と決めつけている点に問題があって、先に住んでいる土着の民族でも多数派は先住民に当たらないのはおかしい。インディアンやインディオは白人に征服されていない大航海時代以前でもアメリカ大陸の土着民なのに、上の定義だと白人に征服されないと先住民扱いされないことになる。結局のところ先住民の定義をはっきりさせて定義を共有しない限り、どの民族が先住民か否かという議論をしたところで科学的に証明しようがない。●先住民のメリットとデメリット・メリット先進国では近代化して生活が均質化したのに対して、芸術では他と違っていることが魅力になるので、芸術家はマイノリティであることがメリットになる。芸術で0から1を生み出すのは難しいけれど、先住民は伝統文化を受けつぐだけでも他のマジョリティの民族から見たらユニークな存在になる。民族特有のデザインやモチーフを他の民族の人が真似した場合は文化盗用としてポリコレで批判されるので真似されにくい。先住民は観光業もやりやすい。アメリカではカジノがラスベガスとかの特定の地域を除いて制限されているけれど、アメリカ先住民の居留地は自治区で連邦法や州法が適用されないのでインディアン・カジノの運営が産業になっていて、遠方からでも客が来るそうな。革や銀を加工したアクセサリーも土産物になる。・デメリット先住民は自殺率が高いのが問題で、自殺に至るには教育水準の低さ、貧困、人権侵害などのいろいろな問題がある。オーストラリアのアボリジニは1969年まで白豪主義の政策で親権を否定されて子供が隔離施設で育てられて、文化が断絶してアボリジニとしてのアイデンティティーを失うアイデンティティクライシスが起きていて自殺率がオーストラリアの平均の2倍以上である。ホワイトハウスの「2014 Native Youth Report」によると、1/3以上のアメリカンインディアンとアラスカ先住民の子供が貧困で、高校の卒業率が国の平均で80%なのが先住民は53-67%で全学校の人種や民族の中で最低で、先住民の15-24歳の自殺率は国の自殺率の2.5倍である。カジノで成功する人は少数で、多くのインディアンとアラスカ先住民は仕事がなくて過去数十年間の失業率は約50%の高水準である。仕事がなくても土地があれば伝統的な狩猟採集生活はできるけれど、インディアンのように居留地に強制移住させられてアメリカバイソンも白人に狩られて少なくなったのでは伝統的な生活もできない。先住民は差別や迫害の対象にもなって、カナダでは30年間で先住民の女性や子供が1200人以上行方不明になったり殺害されたりしたことが問題になった。映画の『ウィンド・リバー』はアメリカの話だけれど、先住民の失踪や性犯罪被害が多発していることからインスパイアされて作られたものである。田舎で伝統的な狩猟採集生活をするのか、都会で近代的な生活をするのかの選択でも人生がだいぶ変わる。伝統的な生活をする場合、他の国民と同等の教育を受けられないと会社の事務員や営業職とかの一般的な仕事につけないし、貧しさから抜け出せなくて働く気をなくしてアルコール依存症や薬物依存症になったりする。国際医学情報センターの「人種/民族別のアルコールおよび自殺-17州、2005~2006年」によると、人種や民族別に血中アルコール濃度を測定したら、アメリカンインディアンとアラスカ原住民にアルコール依存症が最も多くて、自殺前の飲酒も最も多かったそうな。新自由主義者は貧しい人は怠け者だから自業自得なのだと言って弱者への支援をなくそうとするし、先住民の保護のための支援や補助金をもらったらもらったで自立できない劣った人たちという偏見を持たれてしまう。芸術でもデメリットになる場合がある。音楽では器楽なら民族音楽のエキゾチックな雰囲気を出しやすいけれど、ポップミュージックをマイナーな言語で歌ってもたいていの人は理解できないので人気が出にくい。ナショナルジオグラフィックではペルーのCay Surというケチュア語のラッパーを取り上げていたけれど、YouTubeの動画を見てみたらチャンネル登録者数は397人で再生回数は2000回以下で儲かってなさそうだった。先住民として生まれるとメリットよりデメリットの方が大きくて生きるのが大変そうである。●民族の同化の是非大航海時代から帝国主義時代に世界各国が植民地を獲得して先住民に同化政策をした。同化させれば先住民の族長でなく宗主国の政治家に従うようにできて統治しやすくなって独立運動が起きる可能性を減らせるし、同じ国民という名目で植民地の土地や資源や労働力を国家のものにできる。言語が違うのは統治の上で障害になって、議会や警察の取り調べや裁判や病院の診察とかのあらゆることに通訳が必要になって言語の数だけ行政コストがかさむし、マイナー言語の話者の教育水準が落ちて教育格差が所得格差につながってしまう。同化政策をすることで先住民の生活を宗主国の水準まで引き上げることができるメリットがある反面で、先住民の言語や文化の継承が途絶えて、民族が語り継いできた歴史や土地に関する知識や思想や宗教が失われてしまうデメリットがある。そのデメリットが大きいので、同化するか否かは個人や民族の選択にゆだねられるべきで国が強制するものではないだろう。20世紀の領土拡大競争が世界大戦を引き起こして、第二次世界大戦後に帝国主義が終わって世界各地の旧植民地が独立したり、同化しなくてもそれぞれの民族が自治できるならそれにこしたことはない。ユーゴスラヴィアが各民族の自治を巡って紛争して分裂したり、フランス領のコルシカ島で民族主義運動が起きたり、スペインのバスク地方で独立を目指す過激派が紛争を起こしたり、フランス領ニューカレドニアで独立を目指す先住民が憲法改正に反対して暴動を起こしたりしたように、自分の民族の将来は自分たちで決めたいと思うのは当然である。しかし国は未開の僻地だとしても領土や領海や資源は手放したくないので、民族を独立させたがらない。じゃあどうすれば異民族と同じ国民として共存できるのか。ロシアにはいろいろな民族がいるのでロシア革命でレーニンは民族自決を原則にしていて、連邦という形で小さな共和国を取り込んで従属させて少数民族の文化を残しているけれど、それでも自治権の裁量が地域によって違っていて完全に自治しているとは言えないので、チェチェン共和国が連邦から独立しようとして紛争やテロが起きた。無宗教の中国は宗教が政治的権力を持つことを危険視しているのかウイグルやチベットや法輪功を弾圧している。母語の使用を禁止したり、信仰を捨てさせたりするやり方での同化は人権侵害だし、強制避妊手術による断種は国家の犯罪である。同化のために人権侵害をしてはいけないけれど、同化政策をとらずに放任してもそれはそれで問題になる場合がある。ロイターの「アングル:アマゾン奥地で殺人急増、麻薬密売と環境犯罪が結合」という記事では「ボルソナロ政権下で環境や警察、先住民関連の監督機関が解体されたことが、環境および麻薬関連の凶悪犯罪の急増を招いた」と言っている。アマゾンでは違法採金者が先住民に弓矢で殺される事件も起きていて、違法採金者が悪いにしても逮捕や裁判をすっとばして先住民の流儀で殺害するのは問題である。インド領の北センチネル島のセンチネル族みたいに島に隔離されているなら好戦的な先住民との接触を禁止してトラブルを防ぐ対応ができるけれど、陸続きだとそういうわけにもいかなくて、同じ国民として扱う以上は政府は治安維持に責任を持たないといけない。私は国民の言語は統一して、先住民でも移民でも最低ひとつの公用語は覚えるべきだと思うし、母語を禁止せずに母語と公用語を両方学ばせるやり方が良いと思う。●アイヌは先住民なのか国会は2008年に「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が採択されたので政治的にいえばアイヌは先住民で、政府の先住族の定義は「先住民族とは、一地域に、歴史的に国家の統治が及ぶ前から、国家を構成する多数民族と異なる文化とアイデンティティを持つ民族として居住し、その後、その意に関わらずこの多数民族の支配を受けながらも、なお独自の文化とアイデンティティを喪失することなく同地域に居住している民族である」というものだった。私は政治的に誰が先住民か否かを判断するのでなくて、科学的に検証可能な形で判断するべきものだと思う。現状では先住民の定義に支配を受けたとかのいろいろな政治的な概念を詰め込みすぎているし、世界共通の先住民の定義はないので定義はいったん脇に置いて、北海道には誰が先に住んでいたのかという考古学的な点を素人なりに考え直してみる。函館市のサイベ沢遺跡からは縄文時代前期の円筒土器が出土しているし、伊達市の北黄金貝塚からは縄文時代の集落の遺跡が見つかっているし、函館市の恵山貝塚からは続縄文時代の土器が出土しているので、縄文時代から誰かが北海道に住んでいた痕跡はある。網走市のヨモロ貝塚からはオホーツク式土器が出土しているけれど、5-9世紀ごろのものとみられている。その一方で中世以前はアイヌ的な文化的特徴を持った出土品が出ていなくて、北海道大学の「出土資料からみたアイヌ文化の特色」によると、アイヌ文化の物質文化を特徴づけるガラス玉や蝦夷刀などが出そろうのは13世紀末から14世紀初頭だそうな。伊達市の噴火湾文化研究所の「擦文(さつもん)文化と中・近世のアイヌ文化」という記事には「中世(本州の鎌倉時代から安土桃山時代:約800年から450年前)アイヌ文化の遺跡は上ノ国町や松前町などの道南地域や、平取町などの日高地方で多く発見されています」と書いてある。これを素直に考えたら、北海道では縄文時代に縄文人がいて、その後にオホーツク文化人やアイヌの祖先が北海道に来て鎌倉時代頃にアイヌ文化が出来上がったように見える。日本ファクトチェックセンターの「北海道の先住民族はアイヌではなく縄文人?【ファクトチェック】」という記事では、国立アイヌ民族博物館の佐々木史郎館長は「アイヌは日本が近代国家になる前から北海道の主要な住民でした。その近代国家による開拓政策、植民地政策、同化政策によってアイヌはいろいろな権利を奪われていきました。そういう過程を経た人々を『先住民族』と定義しているのです」「ですから、近代国家となった日本が、北海道などにおいて具体的な政策を展開した段階で、アイヌがすでに北海道で暮らしていたということが、すなわち先住民族であるということなのです」「文化人類学からすると縄文人という『民族』はおそらく存在しないと考えます。縄文土器という言葉があります。縄を土器の器面に転がして紋様をつける、その技法は広い範囲に見られ、そのような技法を持ち、そのような土器を使う人々を広く「縄文人」と呼ぶことは可能かもしれません。しかし、その技法を共有していたからといって、民族としてのアイデンティティーを共有していたかというとそれは考えられません。縄文文化は時代ごとに、地域ごとに非常に多様だからです」「幻想の縄文人という『民族』を創って、現代の大和民族あるいは他のどれか一つの民族の祖先だとするのは論理の飛躍があって、学術的には意味がないです。現代のそれぞれの民族のルーツが何千年もの間、不変であるということは考えられません。様々な集団が離合集散を繰り返してきたと考えるのが自然です」「考古学の最新の知見では、擦文文化から徐々に変化していって17世紀近世以降に見られるようなアイヌ文化に移行していく間に大きな人の入れ替わりはない。擦文文化を担っていた人たちが自分たちの文化を変えていく。変わっていった要因は本州や大陸との交易が飛躍的に発展したからです。擦文文化もその前の続縄文文化も、アイヌの祖先が担っていたはずです」 と言っている。しかし「民族としてのアイデンティティーを共有していたかというとそれは考えられません」というのは論理のすり替えがある。アメリカにインディアンという単一の民族がいるわけではなくてチェロキー族やナバホ族などの数百の部族がいたり、オーストラリアにアボリジニという単一の民族がいるわけでなくてアナング族やジャプカイ族とかの多数の言語が違う部族がいるように、縄文人という単一の民族がいるわけではなくて縄文時代に多数の部族がいただろうし、同朋意識がないと集団は形成されないので、その個々の集団は何らかのアイデンティティーを持っていて自集団と他集団を区別していただろう。「我々は縄文人だ」みたいな民族のアイデンティティーは共有していないだろうけれど、だからといって縄文時代の個々の集団にアイデンティティーがないことにはならないし、その個々の集団は先住していたと言えるはずである。「擦文文化もその前の続縄文文化も、アイヌの祖先が担っていたはずです」という点は考古学的な根拠や遺伝学的な根拠が示されていない。独立行政法人国立科学博物館の「形態と遺伝子から解明する近世アイヌ集団の起源と成立史」という研究だと、「近世アイヌ人骨122体を対象としてDNAを抽出し、ミトコンドリアDNAの解析を行った。最終的に100体からDNA情報を取得し、アイヌ集団の成立の歴史の解明を試みた。解析の結果は、北海道のアイヌ集団は在来の縄文人の集団にオホーツク文化人を経由したシベリア集団の遺伝子が流入して構成されたというシナリオを支持した。また同時に行った頭蓋形態小変異の研究でも、アイヌは北海道の祖先集団に由来するものの、オホーツク人との間の遺伝的な交流を持っていた可能性が示された。」と言っている。東京大学の「日本列島3人類集団の遺伝的近縁性」という研究だと、「アイヌ人と琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、両者の中間に位置する本土人は、琉球人に次いでアイヌ人に近いことが示された。一方、本土人は集団としては韓国人と同じクラスターに属することも分かった。さらに、他の30人類集団のデータとの比較より日本列島人の特異性が示された。このことは、現代日本列島には旧石器時代から日本列島に住む縄文人の系統と弥生系渡来人の系統が共存するという、二重構造説を強く支持する。また、アイヌ人はさらに別の第三の系統(ニブヒなどのオホーツク沿岸居住民)との遺伝子交流があり、本土人との混血と第三の系統との混血が共存するために個体間の多様性がきわめて大きいこともわかった。」と言っている。つまりは日本列島は縄文時代に沖縄から北海道まで縄文人がいて、渡来した弥生人と交雑するか、シベリア系と交雑するかでその後の遺伝的特徴が分かれていったわけである。網走市で出土したオホーツク式土器は5-9世紀のものなので、縄文人とシベリア系が交雑したのはそれ以後と思われる。国立遺伝学研究所の「遺伝子から続々解明される縄文人の起源~高精度縄文人ゲノム~」という研究だと、北海道礼文島の船泊遺跡から出土した縄文人のゲノム分析をして、「ウルチ、韓国人、台湾先住民、オーストロネシア系フィリピン人と遺伝的に近かった」という結果になったそうな。東京大学の「骨格形態にもとづくオホーツク文化人」という研究では「サハリンのオホーツク文化の人骨は、大岬やモヨロの人骨にもっとも形態が近くサハリンアイヌ、北海道アイヌとは遠いことがわかった」と言っている。つまりは縄文人、アイヌ、オホーツク文化人はそれぞれ遺伝的な特徴が違うわけである。もし北海道から出土した続縄文時代の骨からシベリア系の遺伝子が検出されたりしてアイヌと近似性があるのならアイヌの祖先が続縄文文化や擦文文化を担っていたと言えるだろうけれど、そうでないならアイヌの祖先が続縄文文化や擦文文化を担っていたと言えるような根拠がない。遺伝子からみたら縄文人が北海道に先住していたと言えるだろう。民族衣装もアイヌとシベリアの民族のつながりを示している。アイヌの民族衣装はトゲや渦の模様の刺繍をした半纏のようなもので、文様には魔よけの意味があるとかないとか言われていて、伝統的に獣皮や魚皮や植物の皮を使っていて、江戸時代後半から木綿が普及して刺繍技術が発達したそうな。しかしそれがアイヌ特有のデザインとはいえなくて、シベリアの民族は似たような民族衣装を着ている。例えばOtykenというシベリアのチュルク系民族のバンドが着ている民族衣装と渦巻きの形や位置が似ていて、このバンド名はチュリム人、タタール人、ケット人、ハカス人、セリクプ人の文化を保存する活動をしているけれど、チュリム人はシベリア中部のウイグルやモンゴルの北側に住んでいる民族で、北海道とは距離的にだいぶ離れている。VIEW OF THE ARTSのOtykenへのインタビューによると、「Our clothes are based on the traditional clothing of different Native people of Siberia. We also like to add some modern designs and accessories to our outfits.」と答えているので、現代風にアレンジされているにしてもシベリアの先住民の衣装が元になっているので、Otykenがアイヌの渦巻きの文様をパクったわけではないだろう。他にも東シベリアのエヴェン人はアイヌみたいに長い外套を羽織っていて襟に沿って縦に模様が刺繍してあるし、アムール川下流のウリチやナナイやニヴフなどの先住民の服にも襟に沿って渦のような文様がある。海で隔絶された北海道に住むアイヌがシベリアのいろいろな民族とデザインが似た服を偶然考案したとは思えない。アイヌがアムール川下流との交易をして服のデザインを取り入れたのかというと、アイヌに民族としてのアイデンティティーがあるなら外国の文様は取り入れないだろう。日本人が外国の服を着るようになったのは明治維新で西洋化の方針を打ち出してからだけれど、アイヌもこれからはシベリアの文化を取り入れようと考えるような出来事があったのかというと、アイヌの歴史の詳細が不明なのでよくわからないけれど、外敵がいない状態では大きな変化は起きないと思われる。というわけでアイヌは縄文時代以前から北海道にずっと住んで一から文化を作ったのでなくて、シベリアで服飾などの文化がある程度出来上がった集団が擦文時代前後に北海道に移住して縄文時代から住んでいた集団と交わって、縄文人ともオホーツク文化人とも遺伝的特徴や文化的特徴が違う独自のアイヌ民族になったのじゃないかと私は思う。
2024.07.22
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NEWSポストセブンの「小学校の運動会で「紅組・白組を廃止」の動き “勝ち負けをつけない”方針で、徒競走も「去年の自分に勝つ」 応援は「フレー! フレー! 自分」に」という記事によると、東京の一部の小学校で運動会で勝敗をつけなくなって、運動会も「体育学習発表会」という名称で体育の授業参観という位置づけにしている学校もあるそうな。はたして競争はいけないことなのか、学校の競争だけでなくていろいろな競争について徒然なるままに考えることにした。●競争とは何か競争(competition)とは競い合わせて優劣をつけることである。社会では様々なところで競争していて、枠が限られているときに競争が起きる。役所の入札では複数の業者に価格や設計とかの案を出させてよい案を採用する。入試では定員の枠が限られているのでテストの点数で優劣がついて合否が決まる。スポーツでは走ることを競えば競走、泳ぐことを競えば競泳、技術を競えば競技と呼ばれて、優勝という限られた枠を取り合っていて、良い試合をしても負けるとあまり評価されない。スポーツやゲームでは一定のルールの下での競争を繰り返すことで勝つためのトレーニングや戦略が充実していって、次第に競技の質が上がっていく。スポーツでは競技を成り立たせるために他人と競争することが必然だけれど、他の分野でも競争することが無条件で良いこととは限らない。例えば不景気の時に在庫を捌こうとして安売りの競争をすると、物価が下がって利益も下がって人件費も下がって労働者は物が買えなくなるデフレスパイラルになって安い粗悪品が出回って質が良い商品が製造されなくなってしまう。●学校での競争の是非・競争の成長への影響成功者はたいてい子供のころから負けず嫌いである。将棋や囲碁のような完全情報ゲームだと勝敗に運が関係なくて自分の考えの浅さが負けに直結するので、子供は負けると泣くほど悔しがる。負けず嫌いの人ほど他人に勝とうとして努力して勉強して実力をつけていく。スポーツやゲームで勝てば自信がつくし、負けたからといって悔しいだけで金銭的に損したりするわけではないし、ノーリスクで何度でも負けられる子供時代のうちに競争に慣れておくほうがレジリエンスがついてよいと思う。競争で負ける事で向いていない分野を諦める決断をできるようになるのも成長の証で、そうして子供は幼児的万能感を捨てて現実の自分の長所短所を受け入れて将来の可能性を取捨選択して進路を絞っていけるようになる。競争で負けた子供が泣いてかわいそうだからといって競争させないのは、無菌室で子供を育ててかえって病弱にしてしまうようなものである。左翼は競争と争い(conflict)を混同して、争わなければ平和になると考えて競うこと自体を禁止したがるのじゃなかろうか。学校は自分よりも優れた他人から学ぶ場所でもある。同じ年齢でも性格も体力も知能もばらばらだからこそ長所が際立つ。他人の優れているところからも学べずに過去の自分に勝つだけなら、勉強も運動も独学でいいし学校に行く必要さえなくなる。というわけで私は子供は同級生といろいろな事で競争すると良いと思う。・運動会の競争の是非PRESIDENT Onlineの「リレーをやりたい生徒8割、やりたくない生徒たった15人…それでも「中止」を選んだ中学生が守りたかったもの」という記事によると、麹町中学校では運動会が廃止されて体育祭に変更されたそうで、優勝した1クラス以外は目標が実現しない教育活動で運動が苦手な生徒が苦痛を感じるという理由で運動会をやめて、生徒会主導で全員が楽しめる体育祭を目指したそうな。私は運動会で競争することに問題があるというよりも競技内容に問題があると思う。幼児にとって幼稚園の運動会は玉入れやくす玉割りや大玉転がしとかの普段やらない競技をやるレクリエーション的な側面が強くて、運動が苦手で苦痛だから運動会が嫌いだという幼児はいないだろう。例えば玉入れはクラスのみんなで一斉にわあわあやるから誰の玉が入ったのかよくわからなくて玉を投げるのが下手な人がいても戦犯として責められることはないし、種目ごとに得点があったりして勝敗にこだわるからゲームとして成り立つしクラスでの協力が生まれる。ところが中学や高校の運動会だとレクリエーション的な側面がなくなって、短距離走やリレーとかのゲーム性が乏しい陸上競技に強制参加させられるのでは不満を持つ人がいて当然である。運動が得意か苦手かという以前に短距離をただ走って何が面白いの、馬鹿じゃないのと思う。何かの目的のために体を動かすから楽しいのであって、体を動かすことを目的にしても楽しくないだろう。公園で短距離走やリレーしている子供はいないし、鬼ごっこや水鉄砲やフリスビーとかで遊んで走り回っている子供の方がよっぽど体を動かす楽しさを理解している。たぶん教師は学校で遊んではいけないという変な固定観念があるので面白い運動会を開催できないのだろう。NEWSポストセブンに書かれている都内の学校のように「去年の自分に勝つ」と自分で決めていない目標を勝手に設定されて無理やりやらされてもモチベーションが出ないだろうし、ストイックに自己新記録を狙いたい子供はほとんどいないだろう。競争をなくしてゲーム性もなくしてしまったら運動会が面白くないと思う子供が出てくるのも当然である。というわけで私は運動会ではゲームとして楽しめる競技で競争するのが良いと思う。・部活動の競争の是非日本中学校体育連盟は2027年度以降は全国中学校体育大会で水泳やスキーやハンドボールとかの部活動の少ない競技を実施しないそうで、少子化に伴ってマイナースポーツの部活動に全国大会がなくなりつつある。ヨーロッパでは学校の部活動の全国大会みたいなのがないようである。ほとんどの生徒はプロスポーツ選手を目指すわけではないし、授業でバスケやサッカーとかの一通りのスポーツをやるのにさらに部活動に加入するのはあまり意味がないと思う。本格的にスポーツを習いたい人はプロが指導するスイミングスクールやサッカースクールとかに通ってそっちの大会に出るので素人の顧問が監督して設備がしょぼい学校の部活に参加する意味がないし、レクリエーションとしてスポーツを楽しみたい人はボール拾いとかの雑用や体力づくりの走り込みをやらされて試合をする機会がなくてつまらないので部活に来なくなる。ではなぜ学校は部活動を必須にしているのか。「異年齢との交流の中で、生徒同士や教員と生徒等の人間関係の構築を図ったり、 生徒自身が活動をとおして自己肯定感を高めたりすることができる」というのが部活動の意義のようで、先輩後輩の関係を体験する機会としてみれば教育的な効果はあると思う。となると運動系でなくて文化系の部活動でもいいわけで、競争することが部活動に必須とはいえなくなる。進学の際に推薦がほしい人は学校の部活動があるほうが全国大会〇位の実績をアピールできるだろうけれど、練習時間が長いのは問題である。2018年に柏高校の男子生徒が吹奏楽部の部活動の練習時間が長いのを苦にして自殺して、練習時間は平日約5時間半、休日約11時間、休養日は月平均1.5日で、学業にも影響しそうなほど練習時間が長くて休養もない。柏高校は吹奏楽部の強豪校だそうだけれど、だからといってプロのミュージシャンになって収入が増えるわけでもないし、青春の思い出作りとしてもコスパが悪いし、吹奏楽に興味がない私から見たら吹奏楽の強豪校であることにあまり価値がないと思う。それに上手くなるために自発的に練習するのと、周りについていくために練習を強いられるのではストレスも違う。部活動に楽しさがなくなって苦行になるほど過当に競争するメリットはないと思う。●企業の競争の是非三菱総合研究所の「イノベーションと競争政策」という記事には「保護主義的な政策等により、国や産業の置かれる競争状況を保護することは、経済成長や雇用にプラスの効果を与える場合がある。一方、経済における競争圧力が、イノベーションを促進し、経済の効率性や生産性の向上をもたらすとの見方もある」と書いてあるけれど、果たして保護するのと競争させるのではどちらが良いのか。たぶん分野によって競争したほうがよい分野と競争しない方がよい分野があると思う。・公共事業の競争の是非新自由主義者は競争をすればイノベーションが起きるのだと言って、郵便や水道などのインフラを民営化して民間企業と競争させようとするけれど、はたして公共事業は競争するべきなのか。市場原理に任せて競争すればサービスがよくなるかというと、むしろ悪くなる。小泉純一郎の郵政民営化の結果は西室泰三がM&Aで失敗して大損したうえに土曜日配達が休止してサービスが悪化しただけだった。バスの場合、公営バスは住民が多くて儲かる路線の利益で乗客が少なくて赤字の路線も維持していて、裁判所とかの利用者が少なくても重要な公共施設にアクセスしやすくしている。そこに民間企業を参入させて競争させると儲かる駅や商業施設周辺の路線だけで営業するので、黒字路線の客を取られたぶん公営バスの利益が減る。そうすると公営バスは赤字を減らすためにバスの運行をやめて、地域に均一のユニバーサルサービスを提供できなくなって全体としてはサービスが悪化する。維新の会は大阪で公立病院や保健所を減らした結果、新型コロナ禍でバッファーがなくなって医療がひっ迫して日本一の死者を出した。というわけで公共事業は利益を出すために競争させる性質のものではなくて、国民に必要不可欠なサービスを提供するために保護するほうが良いと思う。公共事業を民間企業にアウトソーシングして競争させるのも役所が説明責任を果たさなくなる問題がある。経済学者のマリアナ・マッツカートの『The Big Con』はコンサル批判の本で、タイトルのConはconfidence trick(信用詐欺)の略とコンサルティングをかけていて、コンサルティングやアウトソーシングに頼るほどやり方がわからなくなって幼稚化させられてしまって、知識の伝達や企業や政治の説明責任を妨げると主張している。公共事業なら住民が開示請求をすれば不正をチェックできるけれど、民間企業にアウトソーシングすると株主でないと内部資料を閲覧できなくなってしまう。例えば都庁のプロジェクションマッピングに対して開示請求をした人がいて電通に48億円で発注したのが判明したけれど、電通の単価は企業の競争にかかわるノウハウとして不開示なので、しょぼいプロジェクションマッピングに対して金額が妥当なのかぼったくりなのか都民が判断できなくて東京都は説明責任を果たしていない。都庁のプロジェクションマッピングを続けたところで観光名所として競争力をもてるようにはならないだろう。アウトソーシングはガバナンスできなくなるのも問題で、愛知県豊田市ではイセトーに通知書の作成を委託したら契約が終了した時点で削除するはずのデータが保存されたままになっていて、ランサムウェアの被害を受けて税額などの42万人分の個人情報が流出したそうな。東京海上ホールディングスグループも保険の損害査定業務の委託先の税理士法人がランサムウェアの被害にあって、21社6万3千人分の個人情報が漏洩した恐れがあるそうな。サイバーセキュリティに関しては役所や大企業が対策したところで取引先の中小企業がセキュリティーホールになっているので、自分のところでやれる仕事は委託しないほうが安全性は高くなる。競争というとコスト削減に焦点があたりやすいけれど、直接利益を生まないセキュリティ対策まで削減されがちである。・労働者の競争の是非労働者に対しては解雇規制をして雇用を守る方がよいのか、解雇を自由にして能力を競争せさる方が良いのか。厚生労働省の「解雇及び個別労働関係の紛争処理についての国際比較」という資料によると、アメリカ以外の国では解雇理由が制限されていて、正当な理由がないと不当解雇になる。解雇規制は雇用を安定させて労働者の生活を安定させて社会不安を減らすという点で必要である。しかし労働者が保護されると企業にとっては負担になって、従業員を解雇したいときに企業は業績が悪化しはじめたときに希望退職者を募って退職金を増やして自己都合で退職させようとして、さらに業績が悪化したら会社都合でリストラするけれど、それだと人員整理に時間がかかって再建も遅れてしまう。解雇しにくいことが雇用しにくいことにもつながって、ハズレを引きたくないがあまりに気軽に人を雇えなくなって、大学生が授業をおろそかにして何カ月もかけて就職活動してSPIやらグループディスカッションやら6次面接やらの何段階ものふるいにかけられていて採用効率が悪くなる。個人や組織が特定の課題について経験を積むにつれて効率的に課題をこなせるようになることを経験曲線効果といって、経験を積ませて効率を高めるという点では労働者を保護する方がよい。非正規の有期雇用に頼っている会社にはノウハウが蓄積されなくて、派遣は最長3年で職場を変えるし、外国人技能実習生は最長で5年しか日本に滞在できないので、目先の人件費は削減できても何度も新人を育成しなおす手間がかかって効率が悪くなる。その一方で解雇しにくくなると勉強しなくなる人が出てくる。日本人は勉強しないと言われていて、2022年の社会生活基本調査によると社会人の勉強時間は平均1日13分で、パーソル総合研究所の調査によると読書や資格取得のための学習とかの勉強を何もしない社会人が52.6%もいるようである。無期雇用の社内失業者が解雇されずに新聞を読んで暇つぶしするだけで給料をもらっている一方で、有期雇用の非正規労働者は低賃金で酷使されてもボーナスもなくてすぐ解雇される雇用格差も問題で、不平等だと労働者のモチベーションが下がって企業に貢献する気がなくなって企業の競争力も落ちていく。私は終身雇用かいつでも解雇できるかの二択でなくて、一定期間の雇用の保障とその期間後の解雇の自由化をやればよいと思う。無期雇用でも一定期間は正当な理由がない解雇を規制して、その期間後はアメリカのat-will雇用のように企業の裁量で解雇できるようにすれば、労働者は解雇されないために勉強するようになったり、適性がない仕事に見切りをつけて適職に転職しやすくなったりすると思う。・研究開発の競争の是非研究開発では発展の方向性がわかっている分野なら早く特許を取得する方が有利になるので、競争するほうがよいだろう。例えば既にある技術を使って製品をコストカットしたり省エネ化したり小型化したりする場合は市場競争すれば消費者の選択でより安くて省エネで小型の製品が売れるので、企業努力で製品が改良されて高性能になっていく。しかしゼロから新しい技術を生み出す場合は比較対象する競争相手がいないので、競争とは違う仕組みにするほうがよいと思う。総務省の「主要国の研究開発費の総額の推移」によると、中国は2022年には日本の5倍以上の5000億ドルの研究開発費を使っていて優秀な研究者を集めて高度な研究をしていて、質の高い自然科学研究に貢献した機関と国を示したNature Indexというランキングでは中国の機関がランキング上位を占めている。それでも中国からノーベル賞の受賞者が出ないのは、短期での評価を求めて論文工場での研究データの捏造や剽窃が横行して査読が不十分で、まじめにこつこつ長期的に基礎研究をする人がいないからだと言われている。つまり単に研究開発費を増やしたからといってイノベーションを起こすような新しい技術が開発されるわけではない。民間企業だと配当を求める株主の圧力が強いので儲からない研究を打ち切って部門ごと研究者が解雇されたりするけれど、公営事業や大学の研究だとすぐに研究成果で利益を出すことは求められていないしテニュアがある教授は解雇されずに長期間研究できるので何かしらの研究成果を出せる。マリアナ・マッツカートがスマホに使われているインターネット、GPS、タッチパネルディスプレイといったイノベーションを起こす技術は公金を投入した研究から生まれたと言っているように、公的機関がスポンサーになって秀才に予算と権限と研究時間を与えて利益を度外視して好きにやらせるほうが民間企業で利益目当てに競争するよりも目覚ましい成果を生んでいる。日本のムーンショット型研究開発制度だと5年を基本として最長で10年間の支援を可能にしていて2050年までに〇〇をするといろいろな目標を掲げているけれど、本当にやる価値があることなら期限を区切らずに何十年でも研究するべきだと思う。天文学は古代ギリシアの暇なおっさんたちが何十年も夜空を観察して少しずつ発展させたけれど、5年以内最長10年で研究しろと言われて地動説の真理にたどり着けるかというと無理だろう。というわけで研究開発では研究内容に応じて競争する方が良い場合と保護するほうが良い場合があると思う。●国際競争の是非何のために国際競争力が必要なのかといえば、安全保障のためである。ロシアのように国内でエネルギーや食糧を自給できていれば世界中から貿易を拒否されても生きていけるので国際競争力はなくてもよい。一方で日本は資源が乏しくて石油や天然ガスや食料を輸入に頼っているので、代わりに外国に輸出して外貨を稼げる産業が必要になって、トヨタなどの自動車メーカーが燃費が良くて頑丈な車を世界中に輸出している。貿易相手の国に必要不可欠なものを輸出できればその国と敵対して侵略されるリスクが少なくなる。国際競争といっても競争で相手を叩きのめすわけではなくて実際はお互いに必要なものを融通しあう互恵関係なので貿易黒字や貿易赤字はあまり気にする必要がなくて、貿易黒字だから良いというわけでもないし貿易赤字だから悪いというわけでもない。輸入額が多いのは国にとって必要なものが多いというだけで、貿易赤字を解消して貿易黒字にしたら相手国が貿易赤字になるので、どこかの国は必ず貿易赤字になる。貿易赤字だから取引を辞めるという考え方だとそもそも貿易が成り立たなくなる。アメリカが対日貿易赤字を解消しようとしてレーガン大統領が日本製のパソコンやテレビに100%の関税をかけたり日米半導体協定で日本の半導体産業を潰したりしたように、日本が対米で貿易黒字になっても産業が規制されて競争力を失うのでは意味がない。その一方で韓国や台湾や中国は政府が半導体産業を保護して成長させたように、自由競争をしないほうが国内産業は成長する。イギリスのエコノミスト誌は市場原理主義とグローバリゼーションを擁護する論調だったけれど、元編集長のビル・エモットは地政学的な緊張でグローバリゼーションが後退していると言っている。新型コロナのロックダウンで中国の工場の生産が止まったり、ウクライナ戦争でロシアからドイツへの天然ガス供給が停止したりしてグローバルサプライチェーンが機能しなくなって、グローバリゼーションを主導してきた欧米人がグローバリゼーションの衰退を言うようになって、次はどうするかという段階に入っている。新自由主義グローバリストは自由競争すればよい製品が世界中に行きわたってみんな幸福になれるよという性善説でグローバリズムを推進して外資の参入への規制を緩和したり関税をなくしたりしてきたけれど、そしたら中国製の粗悪品が世界を席巻する結果になった。日本は製品に付加価値をつけて競争しようとせず、中国と価格で競争しようとして非正規雇用に頼って人件費を抑えてデフレになって国民が不幸になった。中国は人件費が安い労働者が大量にいて環境汚染対策や労災対策をせず知的財産を侵害して政府が補助金を出してダンピングすることで製品価格を安くして世界の工場になって国際競争力を持って急激に経済成長したけれど、経済に疎い習近平が調子に乗って製品やアプリにスパイウェアを仕込んだり、反スパイ法で外資の中国進出のリスクを増やしたり、台湾にリトアニアの大使館を作った報復でリトアニア製品を中国の税関で止めたり、外国の政治家を賄賂で買収して債務の罠にハメたりして中国離れを引き起こして自滅している。アメリカが中国製品に関税をかけて中国からの直接の輸入を減らそうとしても、中国が発展途上国を経由してアメリカに輸出するのが問題視されている。このやり方はconnector economiesと呼ばれていて、ブルームバーグによるとベトナム、ポーランド、メキシコ、モロッコ、インドネシアの5か国が米中間のコネクターになっていて、ベトナムからアメリカへの輸出が二倍になったときに中国からベトナムへの輸出も二倍になっていたそうな。メキシコとモロッコはアメリカと自由貿易協定を締結しているので、中国製品に関税をかけてもメキシコに中国資本の会社を作られてメキシコ製品として輸出されたら関税をかける意味がなくなってしまう。ホワイトハウスの「FACT SHEET: U.S. STRATEGY TOWARD SUB-SAHARAN AFRICA」によると、アメリカと協調して中国やロシアによる有害な活動に対抗する開かれた社会を擁立する方針のようだけれど、その一方でアメリカに規制されたHuaweiはサブサハラアフリカに投資してデジタルスキルを持つ人材を2025年までに10万人育成するLEAPプログラムで12万人育成して前倒しで目標を達成してさらに追加で2027年までに15万人育成するそうで、アフリカでも米中の衝突の芽がある。アメリカン・エンタープライズ公共政策研究所(共和党系のシンクタンク)のエリザベス・ブローは『Goodbye Globalization: The Return of a Divided World』という本を書いていて、インドはまだ不安定だけれど中国以外の安定している民主主義の国が出てきたらわざわざリスクをとって中国と取引する理由がなくなると言っている。次の大統領選挙でトランプが大統領になったらアメリカファーストの保護主義的な政策をして中国への規制を強めるだろう。というわけで私は中国のような平和を脅かして信用できない国と自由市場で競争するのは安全保障上のリスクになるので規制するほうがよいと思うし、リージョナライゼーションとフレンドショアリングで友好国との互恵関係を深めて安全保障上を強化するほうがよいと思う。友好国と過当に競争して相手の産業を潰して反感を持たれたり自分の産業が潰されたりしたら競争する意味がないので、グローバル企業の利益を増やすことが目的の侵略的な競争をせずに国家の安全保障を目的にほどほどに競争するべきだと思う。●生存競争の是非生物は個体レベルでみれば縄張りを巡る競争や配偶者を巡る競争があるけれど、力の競争だけなら強い大型の恐竜は絶滅して小型の動物が環境に適応して生き残ったように、種のレベルでみると環境に適応するほうが重要である。渡り鳥やオオカバマダラとかの蝶が数千キロ移動するように、餌や気温などの生存に適した環境を求めて移動する動物もいる。人間にも生息域の縄張りを広げたり守ったりするために競争する人と、よい環境を求めて渡りをする人がいる。先進国では既得権益の縄張り争いをしていて、資本力の差は容易に覆せないので格差が固定化されて、生存競争があるとはいっても相応の福祉もあるので労働者は飢えることはないけれど子供を持てなくなって少子化になっている。その一方で人口が多い発展途上国は生存競争が厳しくて、福祉も教育もなくて敗者が飢え死にする劣悪な環境から抜け出そうとして命がけで密航して先進国に移民が押し寄せる。サブサハラアフリカでは貧困が多くて、農耕や牧畜をしても武装グループに奪われるので働かずに外国からの支援に頼る人たちがいるけれど、これも支援してもらえる環境に適応した最適解の生き方といえる。社会の最底辺に位置する乞食でさえ環境によって待遇が違って、ドバイのプロ乞食は金持ち相手に月に27万ディナール(2018年で73500ドル相当)稼ぐそうだけれど、インドでは貧民の子供がbeggar mafiaと呼ばれる乞食の元締めに誘拐されて目を潰されたり薬物漬けにされたりして商売道具として物乞いをやらされて搾取されている。人間の生まれながらの身体能力はたいして差がないのに、なぜ国によって発展度合いが違うのか。ゲーム理論だと協調と裏切りのどちらかの自分に有利になる選択をする。人間は道具を使って自分で環境を作り変えることができるがゆえに森を開拓して灌漑工事をして道路や橋を作って文明を発展させてきたけれど、それには大勢の人間の協調が必須だった。先進国では法律で刑罰を設けていて取り締まりが厳しくて、裏切り者が不利になって、協調すると生計が成り立つ社会になっているので、自己家畜化して法律に従って協調するようになる。一方で発展途上国では法律があっても取り締まりが追い付かなくて犯罪者が野放しになって、裏切り者が多くて協調できないがゆえに大事業ができなくて発展しない。劣悪な環境が改善されないままだと人間も環境に適応して、他人を信用しなくなって騙される方が悪いという考え方になって、スリや詐欺やぼったくりが横行して、政治家は権力を持ったとたんに汚職して悪人が勢力を拡大する悪循環になる。個人の生存戦略としては他人を裏切ることでちょっとだけ有利になるとしても、犯罪のやり方を競ったところで社会全体としては荒廃する。日本は協調できるがゆえに資源が乏しくて地震や噴火や台風が多い過酷な環境でも発展したし、アフリカや南米は資源が豊富でも協調できないがゆえに発展しないように、国家単位でみれば集団が協調するほうが生存競争では有利になるわけである。こないだ移民について考えたけれど、同化せずに協調できない移民を増やすのは国家の衰退につながる。というわけで生存競争自体をなくすことはできないけれど、協調と裏切りのどっち側で競うのかが問題で、私は協調を競うほうが良いと思う。●人類が競争をやめる日はくるのか人類は競争によって文明を発展させてきたけれど、競争が人を不幸にしている。金や土地や権力の奪い合いで戦争が起きて大勢が殺されて、努力では覆せないほど格差が拡大して階級が固定化されて、1%の上流階級は親から相続した資産を運用するだけで一生安泰な一方で、中流階級以下は絶え間ない競争で疲弊して心身を病んで、子孫を残そうとする本能よりも理性が勝って、こんな社会で子供を作っても不幸になると考える反出生主義の人も出てきて少子化も進行している。機械やAIは人間の職を奪う脅威としてみなされがちだけれど、私はむしろ人類を競争から解放する希望になると思う。たぶん現代人が生きているうちは無理だろうけれど、千年後には食料が工場で自動生産されてAIがサービスを提供して、無職でも健康な生活が保障されて金を稼ぐために一生懸命競争する必要がない社会になっているかもしれない。そしたら文明は競争の次のフェーズに行って、労働に時間を使うよりも誰とどう人生を過ごすのかのほうが重要になって、娯楽や芸術が充実して、優秀な人よりも善い人が評価されるようになるかもしれない。
2024.07.10
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2018年の中高年を対象にした調査では40-64歳のひきこもりは61万人程度いるそうで、ひきこもりが長期化しているようである。最近ではコロナ禍で引きこもりが急増して、2022の調査では15-64歳の全年齢の2%の146万人がひきこもりになっていたそうな。求職活動をしないと完全失業者としてカウントされないけれどおそらくひきこもりの人は求職活動をしていないだろうし、人手不足の中で労働力が余っているのはもったいない。ひきこもり支援のガイドラインはあるけれど、ガイドライン通りにやってひきこもりがいなくなるなら引きこもりの長期化は起きないはずだし、いろいろ考える余地があると思うのでひきこもりについて素人なりに考えることにした。●ひきこもりとは何かひきこもりとは病名でなくて、自宅に引きこもって仕事や通学をせずに家族以外と交流しない状態が6カ月以上続いている状態のことで、精神科医の斎藤環が1998年に著書『社会的ひきこもり』を出版したことがきっかけで広く知られるようになった。しかしひきこもりの定義はあいまいで、6カ月に達していないという理由で相談に乗ってもらえないケースがあるので、ひきこもりの定義変更を視野に入れて検討するそうな。ひきこもりは日本特有の現象でなくて家族の絆が強いアジアやラテン系の地域にひきこもりが多くて、親子で同居する習慣があるイタリアでもひきこもり現象が起きているようである。ひきこもる人は実家がセーフティーネット代わりになっているのでそのぶんホームレスが少なくて、厚生労働省の2024年4月の資料だと日本ではホームレスが全国で2820人しかいないそうな。その一方でアメリカだと個人主義で親子が同居を嫌がって実家がセーフティーネットにならないので、2023年1月時点でホームレスが約65万3千人いるそうな。ひきこもりが多い社会とホームレスが多い社会のどっちがましなのかというと、私はひきこもりが多い方がましだと思う。●ひきこもりの問題私は個人がどう生きようが自由だと思うし、家にひきこもることで本人も同居家族も幸福になれる場合はひきこもればいいと思う。中国では不動産不況で新卒の就職先がなくて専業主婦のように家事をして給料をもらう専業子供が出現しているらしいけれど、このように子供が家事を手伝って親子関係が良好なら一日中家にいても別に問題がないだろう。家族の仲が良いなら世帯を分けるよりも同居する方が家賃が浮いて生活費を節約できて合理的である。動物が冬に餌がなくなるので活動をやめて冬眠するように、不景気で労働条件が悪いときに無職でいるのも悪い事とは思わないし、割に合わない仕事で一生懸命働いて心身をすり減らすよりも充電期間として勉強したり創作したりする方がましである。しかしひきこもることで本人や同居家族が不幸になる場合はひきこもり状態を改善するべきだと思う。・家計の問題ひきこもりの一番の問題は本人に収入がなくて親の貯金や年金に依存する場合が多いことだろう。80代の親が年金で50代の子供の生活を支えることは8050問題と呼ばれていて、親に資産がない場合は親子で貧困になる可能性があるし、生活能力がない子供が親の死を隠して年金を受給し続ける事件も起きている。親が成人した子供の生活費を払いたくない場合は同居せずに世帯を分ける必要があるけれど、子供が家を出ていこうとしないからといって引き出し屋に依頼して乱暴に拉致して施設に入れるのは人権侵害なので、これも問題になる。・言動の問題テレビや新聞とかで特集されるひきこもりを見ると言動に問題がある人が少なからずいるし、親が子供の暴力に耐えられなくなったり子供の将来を悲観したりして子供を殺す殺人事件もときどき起きている。ひきこもり状態に満足していない人は、受け入れがたい状況の不安を軽減するための防衛機制として、暴力、暴言、過食、浪費、ゲーム依存などの問題行動を起こしているように見える。防衛機制は誰にでも起きる行動で、ひきこもる人が本来暴力的な性格とは限らないのでそこは偏見を持つべきではない。いじめやパワハラなどで理不尽な目にあってひきこもっている場合、理不尽な体験を自分より弱い人に転嫁しようとして家族に暴力や暴言をふるうことも考えられる。・病気の問題ひきこもりが外出を嫌がって病気の初期治療を拒むと病気が悪化してしまう。例えば虫歯になっても歯医者に行くのを拒んで歯がぼろぼろになったり、運動不足で肥満になって生活習慣病になったりする。不潔な生活をして掃除や洗濯や入浴をしないと、ダニやカビなどで皮膚炎になったりして外見も悪くなる。あるいは高齢者がひきこもって社会性がなくなると認知能力が衰えていく。●ひきこもりになる原因・挫折厚生労働省の「ひきこもりの評価・支援に関するガイドライン(PDF)」によると、ひきこもりの開始年齢は平均開始年齢は22.3歳で、思春期に自己感覚が過敏になって挫折や恥に対する他者の視線や批判から自己を防衛するためにひきこもるようで、青年期になっても危機になると思春期心性が出てきてひきこもるそうな。例えば学校の授業についていけなくなって成績が悪くなった姿を同級生に見られたくなくて不登校になってそのままひきこもったり、新卒で入社した会社で仕事を覚えられなかったり営業職なのに売上が悪かったりして退社してひきこもったりする。兄弟がいると喧嘩したりゲームで勝負したりして負けることがしょっちゅうあるのでストレス耐性がつくけれど、一人っ子だと親にちやほやされて挫折の経験が乏しいのでストレス耐性が低くてレジリエンスがなくなって、他の人から見たらたいしたことがないような失敗でも気にして再出発できなくなってしまう。・迫害学校でのいじめやブラック企業でのパワハラなどがトラウマになって、社会を怖がってひきこもりになる場合がある。自分の能力不足で目的を達成できなくて挫折するのと違って、迫害をうけるような環境に原因がある。・病気ひきこもる人がうつ病や統合失調症などの精神疾患を発症したり、人格障害や発達障害があったりして、それが正常な生活ができない原因になっている場合がある。ひきこもりの熊沢英一郎は18-20歳頃に統合失調症と診断(他の医師はアスペルガーと診断)されて、就職氷河期で就職できなくて独り暮らししてゲーム三昧の生活をしていて官僚の親が代わりに通院して薬を届けていたようで、実家で同居を始めたらエリートに馬鹿にされているという被害妄想で父親に暴力をふるったことで父親に殺害されることになった。・不況不況で仕事がなくて外出しても買い物する金もないのならずっと家の中にいるようになるし、友人と遊ぶ金さえないと友人が減っていって家族としか人間関係がなくなる。買い物のために外出するならひきこもりでなくてただの無職だけれど、無職であることを恥じて他人の目を気にして外出できないとひきこもりになる。・親の問題ひきこもりの本人の問題でなく、毒親が原因で子供の自立を妨げている場合がある。例えば高齢の親が正社員でないと一人前の人間になれないというような固定観念を持っている場合は子供がアルバイトや派遣やフリーランスとかで働こうとすると仕事として認めずに辞めさせようとしたり、親が人格障害などで子供に依存している場合は子供に見捨てられるのが嫌で子供が家を出て一人暮らしをしようとするとお前には無理だとかの暴言で自尊心をなくさせて邪魔したり、親が過保護で子供の世話に生きがいを見出していると子供が成人しても手放したくなくて甘やかして自立を妨げたりする。・人生をあきらめた無職期間が長引いて高齢になると就職活動をしても雇われなくて、誰にも必要とされないのだと自信をなくして就職をあきらめてひきこもりがさらに長引いてしまう。今まで働いていても失職を期にひきこもる人は、青年期に頑張ってもうまくいかないまま高齢になって、もう結婚したり出世したりする可能性がないと悟って人生に見切りをつけて働く気をなくしてしまったのかもしれない。技術者だと古い技術が新しい技術に置き換わって、今までの知識や経験が役に立たなくなって新しい技術を学ぶ気力もなくなって、かといって現業職をやる体力もなくて転職をあきらめたりする。●ひきこもりを脱出する対策ひきこもり本人が原因なのか、外部の環境や状況が原因なのかによって対策も違ってくる。ひきこもり本人に原因があるとしても自分で対策できるくらいならそもそもひきこもらないしひきこもりが長期化しないので、家族や友人や行政などが対策をする必要がある。病気を治療する、身だしなみを整えて健康な生活をする、他人の目を気にせずに外出して社会不安をなくす、コミュニケーション能力を改善して対人不安をなくす、就労する、実家を出て一人暮らしして自立する、の順に改善していけばひきこもりを脱出できるかもしれない。・心療内科で診療する中国の専業子供のように家事手伝いをして普通に生活できているならまだしも、被害妄想で家族に暴力をふるったりして普通の生活やコミュニケーションができない場合は精神疾患を疑うほうがよいだろう。精神疾患だと本人に病識がない場合もあるので、家族がメンタルヘルスについてリテラシーを持つ必要がある。日本ではまだ精神疾患についての理解度が低くて治療しないで放置しがちだけれど、精神疾患や人格障害は適切に治療をしないと治らないし、放置すると悪化する。心療内科で診察して病名がわかることで、自分が無能で怠惰なのが原因でなくて病気が原因なのだと自責の念を減らすことにもつながるので、おかしいと思ったときは早めに治療するほうがよい。しかし心療内科の治療はすぐに終わるものでなくて長期に診療を受ける必要があって、どこも予約がいっぱいで新規の患者を受け入れる余裕がなくて半年待ちとかだし、ひきこもりを家から連れ出すのも大変なので、ひきこもりを対象にした訪問診療やオンライン診療とかの制度を整えないと診療するのは難しいだろう。精神疾患でないのに体調不良を訴えてだるくてやる気がでなかったりする場合は、脳髄液減少症とかの体の病気の可能性もある。ひきこもっている人が不調を訴えているときは、家族は怠けてごろごろしていると決めつけずに病院で医師に判断してもらうと良い。・考え方を変える普通の無職とひきこもりの違いは家から外出できるか否かで、ひきこもりは心理的要因で家から外出できなくなっている。何かの考え方に固執していることがひきこもる原因になっている場合、その考え方を変えないといけない。例えば完璧主義で理想の自分と現実の自分を比較して無職の自分の姿を他人に見られたくなくて外出できなかったり、容姿にコンプレックスがあって他人に容姿を中傷されることを恐れて外出できなかったりする場合は、想像上の他人とかの妄想にとらわれて現実を蔑ろにしているといえる。しかも脳は同じ妄想を繰り返すことでシナプスが強化されてしまうので、おばけを怖がる子供のように自分で作りだした妄想が肥大していって自己暗示に苦しめられることになる。アメリカのカウンセリングの権威のカール・ロジャーズは理想の自分(ideal self)と現実の自分(real self)の不一致(incongruity)が大きくなると不安定な状態や問題行動につながると考えた。そもそも達成不可能な理想の自己像を持たず、現実の自分を受け入れれば問題ないわけである。仏教やマインドフルネスのように、現実の今の瞬間を基準にして生きるように考え方を変えれば妄想にとらわれなくなる。玄関のドアを開けても外には誰もいないし、ヨレヨレの部屋着で散歩しても文句を言ってくる人もいない。その現実の瞬間に集中していれば妄想上の他人や理想の自己像はどうでもよくなる。妄想に惑わされなくなってから現実の他人と人間関係を構築していけばよい。あと日本だと無職で貧乏なのは恥ずかしいと思っている人が多いと思うけれど、立派な人であるためには職業や収入は関係ない。人格を修養していれば立派な人である。諸葛孔明が劉備玄徳に軍師として招かれるまで晴耕雨読の生活をする無職だったように、立派な人が登用されるかどうかは時の運や人の縁もあるので、運が悪くて無職で貧乏なのを恥じる必要はない。『徒然草』に「愚かにつたなき人も、家に生れ、時に逢へば、高き位に昇り、奢を極むるもあり。いみじかりし賢人・聖人、みづから賎しき位に居り、時に逢はずしてやみぬる、また多し。」とあるように、岸田家に生まれればアホな長男でも秘書官になるけれど、地位があるからといって岸田一家が賢くて立派なわけではない。昔の命が軽い時代の偉人たちは人事を尽くして天命を待って、不遇のまま死んでも別にいいやと運否天賦を受け入れる鷹揚さがあったけれど、現代人には命がけで筋を通して生きる立派な人はほとんどいない。資本主義社会では弱者から搾取して金持ちになっている人間の屑や、金持ちや権力者に媚びて悪事の片棒を担いでいる連中が勝ち組としてもてはやされているけれど、真善美がなくただ金を追い求めるだけのくだらない生き方をするくらいなら無職の方がましである。就職活動をしても企業がブランクがある人を嫌がって雇わない場合は個人の責任でなくて社会の責任なので、堂々と生活保護を受ければよい。・目的や向上心を持つ孤独について考えるという記事で考えたけれど、人生に何かしらの目的があればたとえ学校や仕事で挫折したとしてもひきこもりが長期化しないだろう。例えばスポーツで挫折しても毎日筋トレしまくって腹筋がバキバキになったらSNSのアクセスが増えて在宅でも金を稼げるだろうし、就職できなくて挫折しても絵や音楽とかの芸事を長期間やれば才能が開花することもありうる。大きな目的がなくても何事も上達しようという向上心を持って趣味や火事に取り組めば、習字を続けて字がうまくなるとか手芸を続けて小物を上手く作れるとかの些細な事でも自信をもつことにつながるし、普段の家事を上手く手早くこなせるようになるだけでも飲食店や清掃業の仕事を見つけやすくなる。ネルソン・マンデラが反アパルトヘイト運動をして国家反逆罪で終身刑の判決を受けてもめげずに27年間の獄中生活の中で勉強を続けて通信制過程で法学士号を取得したように、向上心があればひきこもり状態でも成長する。固定マインドセットを持っていてどうせ何をやってもだめだとあきらめている場合は、何歳でも人は成長できるのだと成長マインドセットに考え方を変えるところからはじめるとよい。ひきこもりはせっかく他の人より自由な時間が多いのに、知識や技術の習得に時間を使わないのでは成長できない。一日中アニメを見たりゲームをしたりして暴飲暴食して部屋を片付けずに自堕落な生活をしている人は親や社会などの外部が原因でなくて本人が原因なので、自分で生活習慣を正さないといけない。論語で「朽木は雕るべからず」というように、病気でもないのにやる気がない人を他人が変えようとしてもうまくいかない。自分の生活がこのままではだめなのだとメタ認知で自覚するには、生活状況を文章にして事実を陳列すればよいと思う。〇〇ができないという事実を羅列して、少しづつ〇〇ができるに変わっていけば、良い変化が目に見えるようになっていろいろやる気になるかもしれない。・環境を変える植物は環境に合えば肥料がなくてもすくすく育つけれど、環境に合わなければ芽が出なかったり生育が悪かったり実がつかなかったりする。人間にも育つ環境と育たない環境があって、メンターとなる立派な人がいるところにいると成長するので人々は金を払ってでも良い大学に行きたがる一方で、毒親がいる実家にいたところで成長できないだろう。ひきこもり状態を変えたいのに変えられない人は、長期間自宅にいても変わらないのだから同じ環境にいたところで改善する見込みがないし、環境を変える必要がある。挫折がきっかけでひきこもった人は新しい刺激や成功体験や人間関係で過去の記憶を上書きしないと嫌な記憶を何度も思い出してトラウマを強化してしまうので、なおさら外に出ないといけない。しかし金も人脈もない状態でいきなり就職して一人暮らしするのは難しいので、まずは家族以外の他人と普通にコミュニケーションをとれるようになるようにする必要がある。自宅を訪ねてくるひきこもり支援団体の人と世間話をしたり、近所の公園の掃除とかのボランティア活動に参加したり、支援施設でひきこもり同士で共同生活をしたり、ひきこもりを預かる寺で雑をしながら共同生活したりして、生活環境が変わってあいさつや掃除とかをやらざるを得ない状態になれば、自立して生きていくうえで必要最低限のコミュニケーション能力が身につくだろう。それから仕事を探して自立すればよい。江戸川区の「駄菓子屋居場所よりみち屋」だとひきこもりの人が販売や接客などの就労体験をしていて、1日15分から気軽に働けて給料ももらえてそこでいろいろ経験して自信をつけて、3人が関連企業に就職したそうな。いわば大人向けのキッザニアのようなもので、就労体験が気軽にできることが脱ひきこもりのきっかけになっている。・会話を増やす文章はじっくり添削して書けるのと違って、会話は相手の言葉や意図を理解してすぐに応答しないとコミュニケーションが成り立たないので、相応に会話の訓練をしないと会話がうまくならない。対面で会話するに越したことはないけれど、会話する相手がいない場合や、家族相手だと気まずい場合はスマホに搭載されているGoogleアシスタントやSiriとかでもよい。家族以外の他人との会話に慣れることで対人不安がやわらぐだろう。女性ならライブチャットすれば収入につながるし、アバターや加工アプリを使えば外見にコンプレックスがある人でも外見を気にせずにすむ。ゲーム内のボイスチャットは良し悪しがあって、FPSとかのユーザーの民度が低いゲームだと暴言が多いのであまり会話能力の改善にはならないかもしれないし、かえって言葉遣いが悪くなりかねない。・文章を書く会話が苦手だけれど文章を書くのが得意な人は文章力に全振りしてもよい。日本人なら誰でも文章くらい書けるだろうと思いきや、文章を書くのには時間がかかるので、実際は誰にでもできることではない。フリーライターやアフィリエイトブログやなろう小説とかで収入につながることもあるし、文章を書く仕事は一人で在宅で働ける場合が多いので、ひきこもっていることがデメリットでなくなる。・嫌な奴と戦う方法を身に着ける世界にはいろいろな人がいて、良い人も悪い人もいるし、学校にも職場にも少なからず嫌な奴がいるのは仕方がない。社会不安が強い人は嫌な奴との戦い方がわからないから他人を必要以上に恐れるわけで、嫌な奴と戦えるようになれば他人を必要以上に恐れなくなる。ひきこもり支援のガイドラインをいくつか見たところ、善良な人がガイドラインを作ったのか知らないけれど戦い方を教えていないのはよくない。ドラクエの勇者だって武器なしで旅に出てモンスターと戦えと言われても無理だし、ひきこもりも戦い方がわからないまま外に出てDQNと戦えと言われても嫌だし逃げるしかないだろう。戦うといっても物理的な戦いはあまりやらないにこしたことはなくて、法律で戦えるようになればよい。いじめやパワハラや誹謗中傷されたりしたときに少額訴訟なら弁護士を雇わなくても少ない手数料で合法的に相手の時間と金を奪って反撃することができるし、ポリスメンに電話して代わりにバトルさせることもできるし、めんどくさいやつだと印象付けることができれば嫌な奴も絡んでこなくなる。私は不良が多くて荒れた公立中学校で一学年上の番長グループに目をつけられたけれど、ポケットに鉛筆削り用の折りたたみ型のボンナイフを入れて一対多の喧嘩になって負けるとしても最初の一人はやっちまおうとやる気まんまんで臨戦態勢でいたら、不良が絡んでこなくなった。私は自分の人生を他人に邪魔される筋合いはないと思っているので命がけで戦うけれど、相手は命がけで私に絡む理由もメリットもないので、戦う姿勢を見せることで戦いを回避できることもある。・無料オンライン講座を増やす最近はMOOC(Massive Open Online Course)という無料のオンライン講座があるけれど、英語の講座が多くてまだ気軽に利用できるものにはなっていない。日本語の講座を増やして、金がないひきこもりでも在宅で新しい知識や技術を学習しやすくなるだろう。大学に通学しなくてもオンラインで講義を受講をしていればひきこもりの定義には該当しなくなるんじゃなかろうか。MOOCと求人サイトが連携して、特定の講座を修了した人に適した仕事を紹介すれば就職しやすくなるかもしれない。・在宅の仕事を増やすIT系の仕事はリモートでできるし、SNSの動画チェックや監視カメラのチェックとかのスキルが必要ない仕事もあるのに、日本の企業はリモート対応のシステムを作る能力がないのか無駄に出社を要求する場合が多い。もっと在宅で働ける仕事が増えればパニック障害があったり社会不安があったりして外出が嫌な人でも働く気になるだろう。あるいはひきこもり支援施設が内職を受託してひきこもりに仕事を割り振るようなやり方なら、面接が嫌で就職活動をしたがらない人でも働きやすいと思うし、普通の会社で働くよりも負荷のコントロールをしやすいだろう。少額でも自分で稼ぐ習慣を身に着けるのが自立につがなる。
2024.07.02
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6月のEU議会選挙だと中道左派の欧州刷新が議席を減らして中道右派の欧州人民党が第1会派になって、右派の欧州保守改革、極右の国民連合も議席を増やしていて、EUの各国で左翼の環境政策や移民政策に対して揺り戻しが起きて右傾化している。NEWSWEEKの「イタリアの移民法令は茶番。メローニ首相が欠陥を認め法律を変える」という記事によると、イタリアでは移民を規制するはずのボッシ・フィーニ法がかえって不法移民を増やすことになっていて、メローニ首相が法律の欠陥を認めて修正するそうな。EUの移民・難民の受け入れと多文化共生は失敗したし、アメリカもバイデンの不法移民対策が不十分で次の大統領選挙ではトランプが優勢とみられていて、トランプが当選したらアメリカだけでなく世界の移民政策の転換点になると思う。前にアイデンティティと移民について考えるという記事でも考えたけれど、移民問題は世界の勢力図を変えうる重要な問題なので、多様性と移民について考えることにした。・移民がもたらす多様性国の伝統的な料理を作る料理人には就業ビザが出るし、料理人は学者や芸術家よりもなりやすいので、移民は飲食店で働く人が多い。東京だと世界のいろいろな国の郷土料理のレストランがあるので、東京で食べ歩きするだけで世界を観光する気分になれる。代々木公園ではブラジルやタイとかがフェスティバルを開催していて、ライブやダンスをしたり服や雑貨や料理を売ったりしている。服や音楽は日本人とは違う感性なので、アーティストにとってはインスピレーションをもらえるよい機会になる。スポーツだと世界中から才能がある移民が集まることで、外国のトレーニング方法や戦術が取り入れられて国内の技術水準が引き上げられていく。黎明期のJリーグがラモス瑠偉とかの外国人選手に引っ張られたり、最弱だったラグビーの日本代表がニュージーランド出身で日本に帰化したリーチ・マイケルをキャプテンにして躍進したり、相撲で外国人力士が横綱になって国外にも相撲人気を広めているように、スポーツには良い影響がある。良い影響だけでなくて悪い影響もある。犯罪も多様化して、地下銀行の不正送金、違法賭博、薬物の密輸、密漁、詐欺、売春、人身売買、身分証の偽造、通貨の偽造、盗品の売買、不法就労などが行われてギャングの資金源になる。警察官が外国語がわからなくて捜査しにくいし、逮捕できても捜査が不十分で不起訴になりやすいし、犯罪の収益を正直に確定申告して税金を払う犯罪者はいないので、ギャングが勢力を拡大しやすい。ヴァンダリズム(器物破損)も起きやすくて、イスラム教徒は異教徒の寺や神社を破壊するし、自称芸術家が建築物に落書きしたりする。犯罪でない軋轢も起きて、パーティーをやる文化の外国人は壁の薄い日本のアパートで大勢で騒いで近隣住民や大家とトラブルを起こす。良い移民は移住した先で良い影響をもたらすし、悪い移民は悪い影響をもたらすし、移民が良いとか悪いとかの二元論でなくて結局は個人次第なので、誰でも移民を入れれば国が発展するわけでもない。欧米の移民政策が失敗した理由は明確で、就業ビザを取ったり留学したりする正規のルートで入国する民度が高い移民でなくて、高度技能も学力もないのに無理やり国境を越えてくる順法意識がなくて民度が低い不法移民を大量に入れたのが原因だろう。移民の良し悪しは個人次第とはいえ、ある程度の国民性が出る。日本も貧しかった頃にアメリカや南米に移民を送り出したけれど、日系アメリカ人は第二次世界大戦で奮戦したし、南米の日系人は働き者で荒地を開拓して農園を作ったし、努力して自分の居場所を作っている。中国は世界に移民を送り出しているけれど、中国企業の従業員としてアフリカや中東に行く労働者から英語を覚えて欧米に行く大卒エリートまでピンキリで、エリート層は勤勉で働き者で中国人同士で助け合うので起業や投資で成功する人も多い。それは移民としては良い特性だけれど、その一方で世界中にチャイナタウンを作って現地に同化しようとしなくて景観を破壊するし、移民1世は勤勉でも2世や3世から不良が出現して犯罪をするし、無宗教で欲への歯止めとなる思想がないので事業が成功しても典型的なモラルのない成金になってスポーツカーで暴走して人を跳ねたり買春しまくったりするし、中国のプロパガンダを拡散したり産業スパイをしたり政治家にハニートラップを仕掛けたりして中国共産党の手先として活動したりするので、世界各地で嫌われている。韓国人は世代によってだいぶ違う。日本では戦後に朝鮮半島からの不法入国者の対処に苦慮していて、Wikipediaの特別永住者のページによると1949年に在日朝鮮人が100万人いてその半数は不法入国だそうで、犯罪を犯すものが多くて日本の復興に全く貢献していなかったそうな。特別永住者の韓国人移民1世は強制連行されたと嘘をつく人や生活保護に頼って働かない人や暴力団に入る人や反日活動をする人もいた。しかし最近の韓国は超学歴社会で若者がまじめで勉強熱心なので外国に行く人は英語ができるし、日本に来る人は日本語もできるし、インターネットの普及後は反日教育の洗脳も解けたようで教養がある層は日本を敵視しているわけでもなくて優秀で、日本のゲーム会社やIT系企業の役員の名前を見ると韓国系だったりする。・多様性を尊重する必要がないものもあるたいていの先進国は歴史や伝統があって固有の文化が出来上がっているので、その幸福の形を余所者や新参者に変えられる筋合いはないし、その国の法律に従えないのは多様性を尊重するとかしないとか以前の話で、どの国籍や宗教であれ社会の構成員として不適格である。言葉がわからないからといってゴミ捨てルールを無視して不法投棄していい理由にはならないし、役所の手続きがわからないからといって納税しなくていいという理由にはならないし、宗教の戒律に書いてあるからといって異教徒を殺害していいことにはならない。結婚とかの人権に関する部分はマイノリティーを尊重しないと人権侵害や差別になりうるので法律を変える必要があるだろうけれど、生活習慣に関する法律はマイノリティーにあわせて変える必要はないと思う。例えば尻割れズボンを履いて道端で子供にうんこをさせる民族や、うんこの後で指で尻を拭く民族が自分の国でそういう生き方をするのは勝手にすればいいけれど、トイレが整備されている国ではその不衛生な排泄の流儀を尊重する必要はないし、マイナス方向の多様性はいらない。イギリスで一番金持ちで435億ドルの資産を持つヒンドゥジャ家の4人がスイスの別荘で労働者のパスポートを取り上げて家から出ることを禁じて1日18時間週7日働かせてスイスの法律で定めた給与の1/10しか支払わなかったとして4年半の懲役刑を言い渡されたけれど、こういうヒンドゥー教の階級意識による下層階級からの搾取も外国では尊重する必要はないだろう。・DEIの欺瞞と失敗DEIとはDiversity Equity & Inclutionのことで、意識が高くて目覚めた企業や大学の人材活用のスローガンのようなものとして扱われている。Diversity(多様性)は文化や宗教や人種や民族や性自認や障害などの個性を尊重すること、Equity(公平性)は機会の公平を追求すること、Inclusion(包括性)は組織にいる多様な人を認めて組織に活かすことを指す。個々の要素を見ると大事なことを言っているように見えるけれど、この取り組みがうまくいっていないようで、スペルを並べ替えてDIE(死)と皮肉を言われているそうな。アメリカでは保守的な共和党員がDEIに反発していて、リベラルによるDEI推進への反動からDEIを解体させる動きも起きていて、例えばフロリダのHouse Bill 999ではフロリダの大学でDEIを促進させるプログラムに資金を提供しないことにして、急進的フェミニズムやクイア理論とかの批判的人種理論に関するプログラムを禁止したようである。Xは30人いたDEIチームを2人に減らしている。ではなぜすばらしい理念を掲げたはずのDEIはうまくいかないのか。保守派が頑固だからというより、ダイバーシティ、エクイティ、インクルージョンのそれぞれの概念が単体なら成立するけれど、同時に成立しないものを全部いっぺんにやろうとするところにリベラルの欺瞞があるのでうまくいかないのだと思う。ダイバーシティとインクルージョンが両立しないのは生物を例にするとわかりやすい。生物の多様性を大事にしたいときは環境を保護する必要があって、例えば日本固有種のタナゴを保護しようとしたらタナゴがいる池に外来種を入れないようにして環境を保全して生息域を分ける必要がある。ところがDEIはタナゴは他の生物を排斥したがる差別主義者でオオクチバスもヌートリアもウシガエルもジャンボタニシもオオカナダモもインクルージョンしてお互いを理解して個性を尊重するべきだと言ってタナゴの池に外来種をどばどばぶち込むようなものである。料理に例えると、ラーメンとカレーとうな重と刺身とピザと麻婆豆腐とおはぎとケーキとクッキーとコーラと抹茶はそれぞれ違うおいしさがあるし、相性が悪い味や素材は除外するほうが味の個性を出せて多様性が出るけれど、DEIは全部混ぜて一つの料理として提供しようとしたり、ケーキの材料に果物だけ使うのは差別主義者で刺身にもケーキの食材になる機会を公平に与えるべきだと言ってケーキにマグロを飾ったりするようなものである。化学物質で言うと、酸性洗剤を差別主義者だと批判してアルカリ性洗剤をインクルージョンして有毒ガスを発生させるようなものである。DEIを推進するリベラルはこういう非合理なことを人間の社会でもやろうとして、自国の文化を多様性のうちの一つとして尊重せずにダイバーシティの根源になる文化や伝統や価値観などを破壊しようとするところに矛盾がある。ダイバーシティを尊重するならむやみにインクルージョンしてはいけないし、インクルージョンしたいのならダイバーシティをあきらめてある程度同化させて軋轢を生まないようにする必要がある。人間が顔と名前を憶えて安定的な人間関係を作れるダンバー数は150人程度と言われているけれど、DEIを推進している意識が高いリベラルのエリートたちは自分の交際関係の150人の中に自分と価値観が異なる人を加える気がないのも欺瞞である。エリートは新自由主義の金持ち同士で交流してDEIを推進して自己満足する一方で、実際に価値観が合わない人の近くで生活する庶民が軋轢の犠牲になる。アメリカのように黒人奴隷の解放後に黒人をアフリカに送り返すわけにもいかなくて異なる人種で差別せずに仲良く一緒に暮らせるように知恵を絞るのはわかるし、インドやロシアのような他民族多宗教の国家が自国内の民族や宗教の違いを尊重して民族紛争や独立をしないように配慮するのならわかるけれど、EUのようにわざわざアフリカや中東から言語や宗教が異なる移民を呼び寄せたがるのは意味が分からない。ポーカーだと同じマークや同じ数字のカードを集めると手が強くなるけれど、これは国や企業でも同様で、大きな組織で構成員が多様になるほど団結するのが難しくなって、団結力がない烏合の衆は弱くなる。17世紀にオランダがインドネシアを統治していたときにはインドネシアの民衆が結束しないように共通語を作ることを禁止したり、3人以上の立ち話を反乱罪として禁止していたりしていたように、支配する側からしたら搾取の対象は結束しないで分断している方が都合がいい。企業が社内人事でDEIを推進してLGBTや障碍者や移民を幹部に登用するのは勝手にやればいいけれど、短期間の任期中にできるだけ高い報酬が欲しいグローバリストの外国人役員と、利益を伸ばすことよりも女性の地位を上げるのが目的のお飾りのフェミニストの女性社外取締役と、子育てして家のローンを払い終えるまで長く安定して働くのが目的の正規雇用の従業員と、早くキャリアアップして転職したい新卒と、低賃金でも無職よりましなので我慢している非正規雇用の移民で、それぞれの目的もモチベーションもばらばらなのに多様性があってお互いを尊重してすばらしい組織ができるかというと無理だろう。東日本大震災が起きたときに在日外国人が一斉に帰国したように、国家や同朋のために尽くす意識が根底にない人を寄せ集めたところで有事の時には結束が弱い所から崩れていく。多国籍企業のジョイントベンチャーや外国企業のM&Aも失敗が多い印象がある。銀行のシステム統合が難航して失敗しているけれど、人間の社会も異なる文化を安易に統合できるものではない。・移民の経済合理性欧米が何で移民を入れたがるかと言うと、国民が子供を産んで20年かけて育てるよりもすぐに働ける大人の移民が来る方が早く労働人口を増やせるからだろう。企業にとっては労働者のアイデンティティはどうでもよくて自国民だろうが移民だろうが働いてくれるなら利益が出るけれど、金儲けのために移民が欲しいと公言すると感じ悪いので、多様性や多文化共生を方便にしているんじゃなかろうか。移民が来て人口が増えても通貨の流通量が変わらない場合、貧しい移民が使う分の通貨が手元になかったり、移民が就職したらしたで仕事を奪われた人の収入が途絶えたりして、需要があっても通貨がなくて商品が売れなくて消費が伸びない。そこで自国通貨建て国債(=自国通貨)を発行して、直接通貨を給付するか、公共事業などで仕事を作ってどこかの会社で雇って賃金として通貨を与えると需要の分だけ消費が増えてGDPが増える。通貨を直接給付する場合は供給力が増えなくて、移民に仕事を与えて賃金として支払う場合は供給力が増える。アメリカの人口は1970年には2億人程度だったのが2022年には3.3億人程度まで増えていて、人口に占める移民の割合が1970年には4%台だったのが2022年には14%台まで増えていて、移民の労働力によって産業が支えられているので労働人口の増加分に相応の自国通貨建て国債を発行しても問題ないわけで、国債発行額が増え続けていても毎回債務上限額を引き上げながら国債を借り換えしていればよくて、国債を償還しなくても財政破綻論者がいうような膨大な借金で通貨の信任がなくなってハイパーインフレになって通貨が紙くずになるような事態にはならない。移民をわんさか入れて需要と供給を増やして経済成長させる目的で新自由主義グローバリストの政治家や学者や経営者は移民を入れたがるけれど、人間は経済合理性のために生きているわけではないし、国のGDPが増えて企業の利益が増えても強欲な経営者が労働者に分配しなければ国民の所得は増えないので国民の幸福度が増えるとは限らない。アメリカは世界一の経済大国だけれど国内は人種と宗教と格差で分断して犯罪が多発して国民の不満が高まっていて、バイデン政権下では不法移民が730万人も流入したそうで、バイデンでさえ次の大統領選挙に備えて国境対策の法令を出したけれど、アメリカ国民はより厳格な不法移民対策を求めている。特にメキシコと国境が接しているテキサスは1835年にテキサス革命を起こしてメキシコ軍と戦ってメキシコ合衆国から独立してテキサス共和国を作ってからアメリカ合衆国に併合された経緯があるので愛郷心が強くて、そこにメキシコから郷土愛がない不法移民がわんさか来るのが我慢ならないようでバスで不法移民をニューヨークに送り付けていて、テキサスの独立を目指して運動をするテキサス・ナショナリスト運動も出てきている。それに移民が来たら食べ物や衣類や住居やエネルギーとかの需要はすぐに増えるけれど、移民が福祉に頼って働こうとしない場合や、言語や技術の教育が不十分で労働者として役に立たない場合や、不景気で仕事がない場合や、窃盗や麻薬の売買などの不法行為で生計を立てる場合や、犯罪で収監された場合は供給力は増えない一方で福祉の負担が増える。その場合は需要に対して供給が足りなくなるので物不足でインフレになって福祉の負担も増えて、貧民ほど悪影響を受けてインフレで高騰した家賃が払えなくてホームレスになったり、犯罪や薬物中毒とかで治安が悪化したり、刑務所に犯罪者を収監しきれなくて早期に釈放されて再犯したりして内政問題が慢性化して深刻になって、移民で経済成長するどころか景気減速要因になる。企業は働く移民を選別して儲ける一方で、働かない移民のしわ寄せは一般国民に来る。アメリカは貧乏人が働かずにホームレスになって病気になって高額の医療費が払えずに野垂れ死ぬのは自己責任として働かない移民を自然淘汰して働き者の移民を残して移民を経済成長の燃料としてこき使っているのに対して、EUはアメリカと違って働かない移民にも人道的に十分な福祉を与えてかえって移民の自立を妨げて移民を働かせられないでいるので、EUに数百万人の移民を受け入れたからといってアメリカのように経済成長するわけでもない。ドイツは人口が多くて自動車産業とかの主要な産業があるので若干景気後退してGDPが減少しているもののまだなんとかなっているけれど、スウェーデンのように人口が少ない国ほど働かずに犯罪をする移民の悪影響が早く出ている。2015年の欧州難民危機以降は発展途上国の人にとっては緩い審査でEUの福祉に寄生できるボーナスステージで、就業ビザは技能や学歴の条件が厳しいうえに解雇されて生計を立てられなくなると在留資格を失うけれど、難民を自称すれば技能がなくても働かなくても無期限に在留できるので、本来は入国を拒まれるはずの人までEUに押し寄せた。傲慢なEUのリベラルは識字率が70%以下のアフリカや識字率50%以下のアフガニスタンからの移民を厚遇すれば立派な労働者に育てることができると思い込んでいたようだけれど、それができるなら発展途上国はとっくに経済成長している。ドイツでは5月31日にイスラム過激派に反対する団体「パクス・エウロパ」の集会でアフガニスタンの移民がナイフで襲撃して警察官を1人殺害して5人を負傷させたけれど、この犯人は無職で市民金(ドイツの生活保護のようなもの)で生活していたそうな。この事件を受けてドイツではアフガニスタンへの強制送還再開を検討するそうだけれど、送還云々よりもこの犯人はそもそも入国させるべきではなかった人物で、働かずに凶悪犯罪まで起こしてドイツに害しかもたらしていない。EUで移民政策への反発が強まったところで凶悪犯罪を起こさない限り強制送還はできないし、子孫の代まで福祉に依存するつもりでいるフリーライダーを強制労働させることもできないので、EUはもう詰んでいる。一方でイギリスはEU移民の流入を制限したり国金保険サービスを競争から保護したりする目的でEUを離脱して、インド系移民のスナク首相でさえ純移民の減少を支持していて主要政策として不法入国者をルワンダに移送する法案を可決させたけれど、ブレグジットを主導したイギリスの保守党の政治家にはEUが移民の増加によって中長期的に衰退していく未来が見えたのかもしれない。デンマークもイギリスと同様にルワンダに亡命希望者を送ってから難民審査をしていて自称難民を国内に滞在させないようにしていて移民受け入れに消極的で、難民審査中に国内の治安が悪化することを防いでいる。日本だと高度専門職の外国人の永住許可要件を緩和して高度人材を歓迎する一方で、難民申請や永住許可の取り消しを厳格化して素行が悪かったり独立生計を営む能力がなかったりして国益にならない外国人を国外追放しやすくしようとしていて、欧米に比べたら基準が厳しい。日本は観光ビザで入国してから難民申請するような日本語を習得する気がなくて生計を立てる技能もない自称難民は難民認定しないし、2021年には約4万6000世帯の外国人が生活保護を受けているものの在日外国人が300万人以上いる割には生活保護世帯が少ないし、基本的に生計を立てられない外国人は生活保護法の対象外で国外退去になるので、労働意欲が高い外国人を選別できているし、外国人による家畜や果物の窃盗とかの軽微な犯罪は起きているしベトナム人同士や中国人同士での喧嘩での殺人事件は起きているけれど、日本人を対象にしたテロとかの大きな事件は起きていない。外国人留学生がバイトばかりして勉強がおろそかになっている問題はあるけれど、働く気がない偽装難民よりはましである。日本は西側諸国の中ではうまく移民とつきあっているほうだと思うし、寛容な移民政策で失敗している欧米に追随して移民の受け入れ基準を緩和する必要はない。・宗教と政治の問題エジプト、チュニジア、アフガニスタンでは民主化が失敗した。いろいろ要因はあるのだろうけれど、これらの国でイスラム教徒が大半を占めていることが大きな要因だと思う。宗教に敬虔であるほど経典を妄信して自分で物事の仕組みや是非を考えなくなって宗教指導者に従うようになるので、民主制で自分たちで政治家を選んでより良い生き方のために法案を作るやり方と権威主義の宗教は相性が悪い。イスラム教徒が多い国でもインドネシアやパキスタンのように独立戦争の末に独立して民主制を採用した国と、途中から民主制になろうとした国では政治に対する意識も違うようで、アフガニスタンは国民がタリバンと戦ってまで民主制を続ける気がなくてアメリカが撤退したらすぐにタリバンの支配下におかれてしまった。ヨーロッパでも中世はジョルダーノ・ブルーノがコペルニクスを擁護する宇宙論を主張して異端審問で処刑されたり、ガリレオが地動説を唱えて異端視されて終身刑(自宅謹慎に減刑)になったように宗教的反啓蒙主義が障害になって哲学が発展しなかったけれど、宗教改革後の啓蒙時代以後はルソーやロックやヴォルテールとかの哲学者が出てきてパラダイムが変わって、宗教に頼らずに理性で合理的に物事を考えるようになって科学を発展させて、フランス革命で王を処刑した末に民主制に移行した。一方でイスラム教では神やコーランを否定すると死刑になるので著名な哲学者がいなくて不合理な神を否定して合理的に考えるプロセスを経ていなくて、宗教に基づいて物事を考えて意思決定する中世的なパラダイムのままでいる。民主制はすばらしい体制というわけではなくて多数派による独裁に過ぎないので、政権を担う多数派が中世的なパラダイムから変わらない限り、独裁から民主制に変わったところであまり意味がない。イスラム教圏で独裁者に不満を持って民主化革命で政権からおろしたところで、合理的に物事を考えて議論で解決する能力が育っていないのだと思う。中世のアゼルバイジャンの詩人のImaddadin Nasimiはイスラム教で異端とされるフルフィズムで宗教的不寛容さに抵抗して詩の表現の自由を追求して、イスラム教のシャハーダに「神(アッラー)以外に神はなし」とあるのに対してNasimiは「我々以外に神はなし」という人間を中心にした啓蒙主義の先駆けのような思想を持ったことが原因でスンニ派に処刑されたけれど、死ぬときに「地上の邪悪な人たちは自分たちの意思を支配するために神を利用する」と言い残したそうな。アッラーアクバルと叫んで蛮行を正当化するイスラム原理主義者たちがまさしくそうで、イスラム原理主義者が世界を中世的なパラダイムに戻して人類の理性の進歩を止めようとするので、世界中でイスラム原理主義のテロリストと戦っている。イスラム教徒の中から哲学者が出てきて内部から思想が変わらないとテロとの戦いは延々と続くだろう。世俗化していないイスラム教徒は自由に生きれるEUに移住しても自由に生きようとせずにイスラム教の教義に従って生きて、教義が異教徒の殺害を肯定しているので法律に基づいて裁判や議会で議論して問題を解決しようとせずにシャルリー・エブドを襲撃したように短絡的に敵を殺害して解決しようとする。既に価値観が出来上がった大人を変えるのは難しいし、その親に育てられた子供も同じ価値観を継承するので、イスラム教徒の移民の子供が社会になじめずにホームグロウンテロリストも育つようになる。イスラム教徒は避妊しないし改宗もしないので、世代を経るごと人口が加速的に増えていく。数百年後にイスラム教徒が増えた頃にはイスラム教徒が自治を求めるようになって紛争の火種になって、イスラエルがパレスチナ人を追い出そうとして塀で囲って虐殺するようなジェノサイドがEU各国で起きうるし、もしイスラム教徒が勝った場合はEUの民主制が終わって白人が迫害される側になって難民として他の国に逃げてEUがイスラム化していくと思う。・増え続ける難民難民条約の定義だと自国にいると迫害を受ける恐れがあるために他国に逃れる人々のことを難民というけれど、これは政治亡命者を念頭にしていて紛争や内戦による難民には当てはまらないので、紛争や内戦による避難民を難民として認めるかどうかは国によって違う。日本は出稼ぎ目的の偽装難民が多いので難民認定を厳しくていて迫害をうける可能性があることを証明する必要があるけれど、EUは認定が緩くてテロリストも紛れ込んでいる。国連難民高等弁務官事務所によると、世界の難民や避難民は去年末の時点で1億1730万人で、12年連続で増加しているそうな。ウクライナ、パレスチナ、スーダン、ミャンマーとか、世界各地で紛争や戦争が起きている。香港の民主活動家の周庭がカナダに事実上の亡命をしたように、中国やロシアのような独裁国家では反体制派はスパイ容疑や内乱罪や脱税などの罪をでっち上げられて逮捕されて長期間収監されたり拷問されたり暗殺されたりする恐れがあるので、民主制の国家よりも独裁国家の方が政治的な難民が生まれやすくなる。世界では民主制の国が減っているので、今後独裁国家が増えていくほど腐敗や権力闘争が起きやすくなって難民が増えていくだろう。国連の難民の地位に関する条約に加入している国は難民の人権保障と難民問題の解決のために国際協力しているものの、政治家や学者や経営者とかが政治亡命を希望するなら受け入れる国にもメリットがあるけれど、高度技能がないどころか就労意欲さえもなく犯罪をする難民を受け入れるメリットがない。日本は難民を受け入れないと外国に批判されているけれど、そもそも他国の内政や外交の不始末で紛争や戦争が起きているのに、なんで無関係で地理的にも遠くて言語も文化も宗教も違う日本が外国人を保護してやらないといけないのか。国連安全保障理事会の常任理事国のロシアがウクライナを侵略して、中国がウイグル人やチベット人や民主運動家や法輪功を弾圧して、欧米がイスラエルを支持してパレスチナ人に対する非人道的なジェノサイドを容認して難民を作り出しているのは矛盾しているし、常任理事国でない日本が外国の尻拭いで大量の難民を押し付けられる筋合いはないしその難民を受け入れないからといって非人道的だと非難される筋合いはない。1億1730万人のすべての難民を受け入れる余力がある国はないので、難民キャンプの支援とかで現地で人道的援助をするのが最善である。あるいは言語や宗教や文化が近い国で保護するほうが軋轢が少なくて済む。ミャンマーはロヒンギャを少数民族として認めずに国籍を剥奪して不法移民扱いして弾圧して、バングラデシュも難民として押し寄せたロヒンギャをミャンマーに強制送還しようとして、どっちも移民として受け入れる気がなくて押し付けあっているので現地では問題が解決しそうにない。それで人身売買のブローカーが難民をサウジアラビアやパキスタンとかのイスラム教の国に密航させているように、現地に居場所がない場合は外国に帰化するのが現実的な解決策になる。外国に移住した難民がずっと支援に頼るのも負担になっているけれど、難民だからといっていつまでも保護対象にする必要はないだろう。ウクライナ戦争で630万人のウクライナ人がヨーロッパ各国に避難したけれど、避難当初は住宅の提供や給付金とかの支援が中心でも戦争が長期化したら就職促進プログラムで自立して生計を立てるように促している。福祉に依存するだけの人はどの国でも歓迎されないし、難民がかわいそうだと同情してもらえるのはせいぜい半年くらいで、長期滞在するのに言語を覚えて就労する意欲がないのであれば福祉目的の偽装難民として送り返してもよいのじゃなかろうか。・解決できない問題難民や移民を受け入れれば戦火を逃れた人や発展途上国から来た貧しい人に衣食住を与えることはできるけれど、だからといって移住した先で異教徒や異民族同士が仲良くできるわけではない。例えばイスラム教徒が少ない国にイスラム教徒を受け入れると、スンナ派とシーア派の対立や宗教に基づく女性差別や同性愛差別とかのもともと国内になかったイスラム教徒特有の問題まで一緒についてくるし、それは非イスラム教徒の部外者には解決できないし改宗させることもできないので内政問題が残り続けることになる。偽善者のリベラルはいろいろな属性の人を自分の国に受け入れただけで何かすばらしいことをしたような気分になっているけれど、紛争や対立が起きる根本原因を解決できないまま国内に問題を増やしている。インクルージョンしたからといって価値観の共有はできていなくて、例えば学校で同性愛について教育をしようとしたらイスラム教徒の親に同性愛について教えるなと抗議されるような問題が起きていて、同性愛者も同性愛を嫌うイスラム教徒もお互いに不満を持つようになる。中国人も移住した先のアメリカやカナダで反体制派と体制派が争っていて、SNSで中国を批判した反体制派の中国系移民が体制派の中国系移民に殺されたりしている。日本でも2015年のトルコの総選挙のときの在外投票でトルコ人とクルド人が対立してトルコ大使館で乱闘して7人が病院に運ばれた。こうした国内での移民同士の対立は部外者が仲裁したりできないので、対立が過激化してしまう。だったら価値観が違っていて同化する気がない移民を入れずに別の国に住んだ方がお互いに幸せになれるだろう。トランプは大統領だった2017年にイスラム教徒が国民の大半を占めるイラン、リビア、ソマリア、スーダン、シリア、イエメン6カ国からの入国や難民の受け入れを90-120日禁止する大統領令を出してニューヨーク州やハワイ州から差し止め請求を出されていたけれど、厳格なイスラム教徒と異教徒が共生できないのはEUが実証したし、パキスタンやバングラディシュがインドから独立したりユーゴスラヴィア紛争で民族や宗教ごとに国が分裂したりして歴史でも実証されているので、差別と言われようがトランプの移民政策の方がアメリカ国民の幸福にはつながる。・私の意見私は移民政策については保守思想だけれど、移民自体は必要だと思っている。明治時代に欧米から教師を招聘して学問や芸術を発展させたように、優れた学者や技術者や芸術家は国が大金を払ってでも招く方が日本の国益になると思う。頑張って日本語を覚えてビザを取って日本で働いたり留学したりする人の意見も日本を良くすることにつながると思う。しかし外国人技能実習制度は外国人から搾取して不幸な外国人を増やして日本への反感を増やすのでやめるべきだと思う。リベラルがかわいそうな外国人を救ってあげたいと聖人気取りで偽装難民を受け入れさせようとゴネるやり方にも反対で、偽装難民を支援したい人は公金にたからずに私費でやればいいし、難民申請した外国人が放免中に起こした犯罪には支援者が連帯責任を負って損害賠償すればいい。外国人への生活保護の支給にも反対で、日本人でさえ水際作戦で生活保護を受けられなくて餓死する人まで出ているのに、なんで国民の福祉が不十分な状態で外国人を保護するのか。病気で働けなくなったガーナ人が千葉市が外国人の生活保護の申請を却下したのは違法だとして提訴して敗訴したけれど、千葉市の「生活保護法が保障対象とする『国民』は、日本国籍を有する者を意味することは明らかだ」という主張はその通りで外国人は国民ではないし、病気で働けなくなったガーナ人を保護するのはガーナ政府やガーナ大使館の責任なので日本が面倒を見る必要はないだろう。もし外国人の生活保護を認めたら、外国人の女性が妊娠して働けなくなったとして生活保護に頼ったまま働かずに日本に居座って育児をして、子供は日本語しか話せないから母国に送還されても生活できないとゴネて滞在期間を伸ばそうとするケースが多発して、少子化している日本の金で外国人の出産と育児を支援する不合理な状態になりかねない。欧米の傲慢なリベラルや強欲なグローバリストが難民や不法移民の増加で自滅するのは自業自得だと思うし、欧米が迷走して衰退する方が日本の利益になると思う。最近中国の新興富裕層が台湾有事を警戒して日本に移住しているように、欧米の治安が悪化して金持ちが強盗や誘拐やテロの標的になるようになったら平和な日本に行きたがる欧米の金持ちも出てくると思うし、日本は欧米に追従せずに偽装難民や不法移民に厳しく対処して治安やモラルを維持することでまともな移民を集めやすくなると思う。Preplyの「Expat nation: Why more young Americans than ever are emigrating」という記事によると、アメリカのZ世代3000人に調査したら、移住候補でイギリスが1位、カナダは2位、日本は3位で、英語が通じるシンガポールやオーストラリアよりも日本が上位で、日本が移民に媚びなくても飯がうまくて皆保険制度があって治安がいい日本の良さを理解している外国人は日本に移住したがっている。人間は幸福になるために生きている。戦後の物がない時代は物があることが幸福につながるので、一生懸命仕事をして物を作ることで幸福になった。しかし現代はもう物はあふれるほどあるし、移民の労働力で物やサービスを提供することで幸福になるとは限らない。店が24時間営業になって物が安く買える代わりに近所の移民の騒音が増えて夜に眠れなくなったり、移民の暴走車にひき逃げされたり、家の周りがポイ捨てされたゴミだらけになったり、強盗やレイプが起きるようになって夜に一人で外出できなくなったりするのなら、店の営業時間が短くて物が高くても静かに安心して生活できる方が私は幸福になれる。モラルや平穏とかの金を払っても買えない価値と引き換えに金を払えば買えるものを安く手に入れるのは馬鹿げている。日本は少子化だから移民を入れろと短絡的に言う人がいるけれど、人口が増えたら幸福になるのかというと違うし、人口が増えているアフリカ諸国は貧しくて教育も受けられなくて不幸な人だらけである。観光地に住んでいる人がオーバーツーリズムでモラルがない外国人が旅館で騒いだり道端にゴミをポイ捨てしたり列に割り込んだりしてうんざりしているように、移民が増えたら職場でも学校でも近所でもモラルが低いDQNが隣にいるのが日常になるけれど、それで幸福になれるだろうか。人口が多くて民族や宗教や言語が多様なほど統治が難しくなるけれど、日本の政治家が3流でも治安がいいのは国民がほぼ単一民族で公用語が日本語だけで統治しやすいからで、多言語多人種の移民社会になったら教育や警察の取り締まりが追い付かなくなって統治できなくなるだろう。経済成長したら幸福になるかというと、アメリカで格差があるように株主が儲かるだけで労働者に還元されないと経済成長の恩恵がないし、移民に職を奪われる人はむしろ不幸になる。国民が幸福になることを目的にせず、人口を増やすことや経済成長することを目的にして国民が不幸になったら本末転倒なので、グローバリスト主導の労働力としての移民を増やそうとする政策には私は反対である。世界中に多様な文化を持つ人間がいるということを尊重して外交や貿易や観光や留学を通じて時間をかけてお互いの国を尊重できる人同士が相互理解すればいいし、日本人が不幸になってまで日本の文化を尊重しない外国人と一緒に暮らす必要はないだろう。
2024.06.17
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原作改変について考えるという記事で漫画『セクシー田中さん』のドラマ化が原因で原作者の芦原妃名子が自殺した件について考えたけれど、この件に関して日テレが「セクシー田中さん」調査報告書(公表版)を公表して、小学館も調査報告書(公表版)を公表したので、この調査報告書について考えることにした。日テレの調査報告書が小学館の調査報告書よりも先に公表されたので、日テレの調査報告書を中心に考察する。●テレビ局の同一性保持権軽視の問題日テレの報告書によると日テレのA、Bと小学館のC、Dの話し合いでは同年 3 月 9 日、及び同年 3 月 29 日の打ち合わせの際には、2024 年 1 月 26 日に公表された本件原作者のブログにあるような「必ず漫画に忠実に」「漫画が完結していない以上、ドラマなりの結末を設定しなければならないドラマオリジナルの終盤も、まだまだ未完の漫画のこれからに影響を及ぼさない様『原作者があらすじからセリフまで』用意する」という条件は小学館からは口頭あるいは文書で提示されていなかった。なお、この点についての当調査チームの質問について、C 氏、D 氏は条件として文書で明示しているわけではないが、漫画を原作としてドラマ化する以上、「原作漫画とドラマは全く別物なので、自由に好き勝手にやってください」旨言われない限り、原作漫画に忠実にドラマ化することは当然という認識である旨書面回答している。と書いてあるけれど、この小学館の認識が著作権に関する常識的な認識で、わざわざ日テレに伝えなくても著作権を守って当然である。ところが日テレのAはその認識がない。ドラマ化にあたって「必ず原作に忠実に」「終盤は本件原作者が脚本を書くこともあり得る」という条件については、A 氏自身そのような条件が小学館から出されているという認識がなかったため、A 氏から本件脚本家には説明されていない。とあるようにこのAの同一性保持権の認識がおかしいことがその後に何度も改変されまくって原作者に修正を強いて疲弊させる根本原因になっている。本件ドラマの脚本制作は、まず原作を基にドラマ化するためのプロットを作成して C 氏を通じて原作者に提出し、原作者の修正意見を基に修正プロットを作成する。何回かのやりとり(以下、このやりとりを「ラリー」という。)の後、原作者から修正プロットに OK が出たら、脚本作成に進むが脚本段階でも C 氏を通じて原作者に提出し、原作者の修正意見を基に修正脚本を作成し、何回かのラリーの後、原作者から修正脚本に OK がでたら決定稿とするという流れであった(但し、後述するとおり 9,10 話は異なる)。プロット・脚本の本件原作者への提案、及びその後の完成台本の最終承認は A 氏の責任であった。これらのプロットや脚本の制作は、コアメンバーでアイデア出しを行い、話し合いをする場である本打ち主体で進む。原作を読んでコアメンバーで話し合った内容をホワイトボードに記載していき、それをもとに、本件脚本家がプロットや台本におこした。本打ちは、2 時間以上の話し合いになる事が多く、合計で 30 回程度行われた。③ コアメンバーの原作への姿勢A 氏は、本件原作のキャラクターが不器用だけど生きづらい世の中で変わっていくところに惹かれており、このキャラクター像を失わないようドラマ作りを心掛けた。本件脚本家も原作漫画がしっかりしているので、大きく変える必要はないという意見だった。コアメンバーの間では「原作を大切にしよう」という話は当初からされていた。本件脚本家の記憶では、最初の本打ちの際、本件ドラマ全体の方針や軸となる部分について協議し、本件脚本家から女性 2 人(朱里・田中さん)のシスターフッドの要素を取り入れることが提案され、それを一つの軸とすることになった。本件ドラマの方向性としては「原作のいいところを活かしながら、ドラマとして成立できるとことを探る」というところに落ち着いた。A 氏は、原作を大事にしようという思いを持ちつつも、ドラマ化にあたっては、尺、撮影、連続ドラマとしての1話ごとの盛り上げ、実写化するにあたり実在する俳優の演技・セリフ、実写化にあたってのロケや予算等の制約、スポンサーへの配慮等による原作の改変は発生すると考えていた。当調査チームへの C 氏の書面回答によると、過去にドラマ化経験がある本件原作者もそれらは理解していた、ということであった。また、A 氏は、原作をドラマ化するにあたっては映像化のプロである制作サイドと本件原作者との間で意見のやりとりを続けて、よりよいドラマを作っていこうと思っていた。なお、後述のとおり、キャラクターのうち、特に朱里、進吾という内面の難しい点を抱えたキャラクターについては、制作サイドが作成したプロット、脚本に対し、本件原作者が原作のセリフ、エピソードに戻してほしいという修正意見をいうことが多かった。とあるように、責任者のAは小学館から原作漫画に忠実にドラマ化しろと明言されていないから変えたあとで原作者に了解をとればいいと解釈したようで原作者とのラリーをやりまくって、「朱里のキャラクターについて、ただの可愛くて軽い女に見えないようにしてほしい」と原作者に意見を言われたにもかかわらず、「よりよいドラマ」のために無駄にキャラクター設定を変えようとして同一性保持権の侵害を原作者に認めさせようとしたようである。その結果として4話で原作者からエピソード順番を入れ替える度に、毎回キャラの崩壊が起こってストーリーの整合性が取れなくなってるので、エピソードの順序を変えるならキャラブレしないように、もしくは出来る限り原作通り、丁寧に順番を辿っていって頂けたらと思います。漫画とドラマは見せ方が違って当然なので、本来なら、ドラマはドラマのアレンジを加えてより良い物にして頂くのが 1 番と承知しておりますが、まだキャラクターや物語の核になる物が共有しきれていないせいか、アレンジが加わった部分から崩壊していってしまいがちな気がしていますので、何卒宜しくお願い致します。とキャラ崩壊しないように釘を刺されているし、6話のプロットでもアレンジに対して原作者が修正しているし、7話の脚本の修正では「散々説明して来たつもりなので、流石にもう堂々巡り、なのでもうこれ以上のやりとりはしたくない」とまで言われている。漫画とドラマは媒体が違うので、本当はドラマ用に上手にアレンジして頂くのがベストだって事は、私も良く理解してるんですよ。(中略)でも、ツッコミどころの多い辻褄の合わない改変がされるくらいなら、しっかり、原作通りの物を作って欲しい。(中略)これは私に限らずですが…作品の根底に流れる大切なテーマを汲み取れない様な、キャラを破綻させる様な、安易な改変は、作家を傷つけます。悪気が全くないのは分かってるけれど、結果的に大きく傷つける。それはしっかり自覚しておいて欲しいです。最終的に意にそぐわないモノが出来ても、多くの作家は公に文句が言えないです。莫大な数の役者さんスタッフさん達が、労力や時間を使って関わってくださってる事を知ってるので。その事に対しては、本当にとても感謝をしているので。なので、闇雲に原作を変えるな!と主張しているわけではなく、よりよいドラマになるように、自分を守るために、現段階で出来るベストを尽くしているつもりです。宜しくお願い致します。と原作者に「作品の根底に流れる大切なテーマを汲み取れない」とまで言われているのに悪気なく何度も安易に改変しようとするのは「③ コアメンバーの原作への姿勢」と矛盾している。「(13) リテイク(撮り直し)の発生」には本件原作者は「制作サイドから何を言われても信用できない」という思いを抱いたと書かれているように、Aが原因で原作者との信頼関係が破綻している。小学館の報告書の35ページでは原作者は「脚本で100点を目指すのはもう無理だと思うので、演技や演出力で、なんとか80~90点に、引き上げて欲しい。」とはっきりと脚本に見切りをつけているけれど、日テレの報告書でそこを中略するのは脚本家への配慮だろうか。原作者に脚本を拒否されているにもかかわらずA 氏は、1~7 話において制作サイドの提案を本件原作者が受け入れることもあったため、このときは、本件原作者も絶対に譲らない人ではないと考えており、すり合わせで 8 話以降も作っていきたいという思いだった。C 氏は A 氏に対し、オリジナルで挿入したセリフをマストでなければ削除してほしいと言ったところ、A 氏は、それでは本当に本件原作者が書いたとおりに起こすだけのロボットみたいになってしまうので本件脚本家も受け入れられないと思う旨答えた。とAは同一性保持権を理解していなくて脚本家が改変するのが当然だという認識で、だからこそ何度も原作者に文句を言われているのにAは原作者の言葉を理解していなくて話が通じない。原作者に対して「譲らない人ではない」という言葉が出てくること自体がおかしくて、許諾を受けて原作を使わせてもらう側が原作者に譲ってもらって改変を押し通すつもりなら傲慢極まりない。60ページに改変例が載っていて、原作では朱里が短大に進学した設定があるが、本打ちでは、同設定に関して、「短大に進学するよりも専門学校に進学する方が近時の 10 代、20 代としてはリアリティがあるのではないか」、(短大進学の原因となっている)「父親のリストラはドラマとしては重すぎるのではないか」等の議論を経て、高校受験の際に、父親が勤める会社が不景気になり、母親から「高校は公立でいいんじゃない?」と言われて本当は友達と一緒に制服がかわいい私立校に行きたかったけど、「うん、そうだね」と笑って受け入れたという設定に変更する旨のプロット案を送信した。というのはドラマ化で必要不可欠な改変とは言えないし、変える必要のない部分をわざわざアレンジしてキャラクター像を変えようとしている。小学館側の報告書には日テレの報告書以上にやる必要のないアレンジ箇所がわんさか出てきて、飼っていたハムスターの逃走範囲を原作で100M以内だったのを200M以内に変えようとするとかの間違い探しみたいな些細な改変までやろうとして原作を尊重する姿勢がまったく見られない。小学館の報告書によると物語で重要なベリーダンスについてドラマ班が理解しないまま改変しようとして原作者が修正していて、それで原作者から最終通告が来る。・ 脚本家は今すぐ替えていただきたい。・ 最初にきちんと、終盤オリジナル部分は本件原作者があらすじからセリフまで全て書くと、約束した上で、今回この 10 月クールのドラマ化を許諾した。・ この約束が守られないなら、Hulu も配信も DVD 化も海外版も全て拒絶する。・ 本件脚本家のオリジナルが入るなら永遠に OK を出さない。度重なるアレンジで何時間も修正に費やしてきて限界はとっくの昔に超えていた。・ B 氏が間に入ったというのを信頼して今回が最後と思っていたが、また同じだったので、さすがにもう無理である。一方、2023 年 10 月に脚本家を変えるよう要望があったことは、今後のモチベーション低下につながるため、本件脚本家に伝えていなかった。そのため本件原作者が書いた脚本は本件脚本家にとっては突然見せられる形になった。と原作者の意向をAが脚本家に伝えなかったことがその後の脚本家のSNSでの原作者批判につながって、原作者と脚本家が対立したと思われる。原作者はAに対する不信を関係者に打ち明けている。・ A 氏は最初から本件ドラマについて改変ありきで進めていたのではないか疑問に思う。・ 1 話から 8 話までは自分が大変な思いをして修正したものであるのに本件脚本家の手柄にされており、自分が脚本として作った 9,10 話が駄作と言われているのが許せない原作者が危惧したようにAが「改変ありきで進めていた」のはその通りだったと日テレと小学館の双方の調査報告書からわかるし、Aがうそつきな無能で同一性保持権を無視してやたらアレンジしたがるせいで問題を引き起こしている。そのうえAが脚本家に詳細を伝えていないので脚本家は悪くないよというのが日テレの調査チームの結論のようで、85ページでは「脚本家はクリエイターであり、その尊厳は尊重されるべきである。同時に原作の改変において、最終的な責任は脚本家ではなく日本テレビ側にある。」と脚本家が被害者かであるかのように扱っている。その一方で日テレが原作者をクリエイターとして尊厳を尊重している様子はなくて、原作者が同一性保持権を守ろうとしている様子を「難しい作家」とわがままであるかのようにとらえているのは中立な見方とはいえない。それを言うなら権利を持つ原作者の意向を無視してまで改変することへのこだわりが強いプロデューサーや脚本家が「難しいプロデューサー」や「難しい脚本家」と呼ばれるべき存在である。●脚本家の問題日テレの調査報告書はAからドラマ化の条件を聞いていない脚本家は悪くないという風に誘導しているけれど、「作品の根底に流れる大切なテーマを汲み取れない様な、キャラを破綻させる様な、安易な改変」をやりたがって、何度も大幅に改変して原作者に修正されることが異常だと理解していないという点では脚本家にも問題がある。だからこそ脚本家を変えろ、創作するなと原作者にきつく言われるほどこじれて対立することになる。そして一番の問題はInstagramに原作者批判の投稿をしたことで、調査報告書の38ページに脚本家の投稿について書いてある。② 本件脚本家の当時の心境2023 年 12 月 24 日の投稿については、「9 話の脚本をなぜ書かなかったのか?」という心配のメッセージが本件脚本家のインスタグラムに届いていたため、何らかの説明をしなければと考えた。その際、本件脚本家は、自分が体調不良やスランプなどで周囲に迷惑をかけたと受け取られるのは困ると思い、状況を書ける範囲で正直に伝えた。同月 28 日の投稿については、放送終了後、9,10 話を本件脚本家が書いたと誤解した視聴者から、本件脚本家に多くのメッセージが届いた。なかには物語の内容に不満を訴える声もあり、本件脚本家は再度自分が書いていないということを明確にする必要があると感じ、インスタグラムに投稿した。また、状況を鑑みて脚本家の権利として商習慣上「脚本協力」のクレジットが表記されるのが当然であり、日本テレビの対応を容認できないと考えていたため、2 度と同じことが繰り返されないようにという思いを書かずにはいられなかった。本件脚本家は、当時は何をどこにどう訴えても届かないことに疲弊し、精神的にも限界だった。不評だった9-10話の脚本を書いていないことを強調しているくせに、9-10話の「脚本協力」のクレジットの記載を要求するのは矛盾していないか。それに商習慣よりも契約や法律が守られるべきで、クレジットの記載を要求する根拠がおかしい。日テレの調査報告書は「本件原作者の死亡原因の究明については目的としていない」と書いてあるけれど、原作者が自殺するほど追いつめられる異常な状況になったことが問題なのだから、死亡原因の究明をしないなら調査する意味がなくなるだろう。この脚本家のInstagramの投稿が原作者の「1 話から 8 話までは自分が大変な思いをして修正したものであるのに本件脚本家の手柄にされており、自分が脚本として作った 9,10 話が駄作と言われているのが許せない」という感情を引き起こしてSNSで反論をせざるを得なくなって、直接的にしろ間接的にしろ自殺の原因になったと思われるし、たぶん世間の人もそう認識するだろう。調査チームはAをスケープゴートにして、脚本家は日テレの部外者だからこれ以上脚本家を追求しないつもりなのだろうか。この日テレの姿勢は一回限りの付き合いの原作者をないがしろにして、今後も付き合いがある脚本家をかばっているように見える。●原作者軽視の問題日テレの調査報告書の32ページの「(16) その他の原作サイドとのトラブル」の「③ Hulu の本件ドラマページのクレジットに関するトラブル」に「日本テレビ側のミスで Hulu の本体ドラマのキャスト・スタッフ欄に原作者の表記が一切されていないことが発覚した」とあるけれど、これは単なるミスでなくて原作者軽視の表れだろう。例えばもし有名な村上春樹の小説を原作にしてテレビドラマ化したなら原作者をこれでもかとアピールして表記を忘れることなんてありえないだろうし、芦原妃名子があまり有名でない漫画家だから原作者の名前を出したところで視聴者を集められないと日本テレビは原作者を雑に扱っていたのだろう。ウェブサイトの技術的エラーで他のスタッフについても記述がごっそり抜けていたとかならまだわからなくもないけれど、原作者だけスタッフ欄に入れ損ねるなんて普通はない。こういうところに人間の本性が出るし、リスペクトを欠いたミス(あるいは故意の嫌がらせ)をするドラマ班が原作者の言葉を真摯に聞いて原作を尊重したとは思えない。日本シナリオ協会が「緊急対談:原作者と脚本家はどう共存できるのか編」という動画で原作は大事だけど原作者には会わなくていいというような原作者を軽視するような発言をして批判されたけれど、調査報告書は84ページで「制作サイドは出版社の理解と協力を得ながら、できるだけ早い段階で原作者に直接会うことを要請する」を原則にすることを提言している。調査報告書を作った人から見ても脚本業界の原作者を軽視する態度は改善すべきだということになる。最近は生成AIが急激に進歩しているので、原作を改変することが脚本家の仕事だと誤解して変なプライドを持っていて原作レイプしたがる脚本家を起用するくらいなら生成AIを使うほうがましということになって、10年後にはオリジナル作品を作れないくせに原作者も軽視するような才能も仁義もない脚本家の仕事はなくなっていると思う。●契約の問題日テレの調査報告書の18ページに「脚本化の過程で本件原作者の了承がどうしても得られない場合は、本件原作者自ら脚本を執筆する可能性があること、これを実施すると、専業の脚本家の方に大変失礼であるので、予め了承を取っておいてほしいこと」について「言った」とか「記憶にない」とかの記述があるけれど、重要な交渉なのだからメールか契約書で確認とって証拠を残しておくべきだろう。この辺はテレビ局も出版社も普通の会社に比べて常識がない。「③ ドラマオリジナル部分の制作方法に関する問題」では65ページに日テレと小学館の認識の齟齬が書かれていて、 以上のことから、本件では、原作の上記「要望」が許諾の条件に等しいレベルの要望であったのか、それとも、単なる今後に向けた「お願い」だったのか、原作サイドと制作サイドの間で認識の齟齬が生じていた疑いが強い。このような認識のずれは、ドラマオリジナル部分に関する脚本制作に関し、スムーズで噛み合ったやり取りがまったくできなかった(その結果、本件原作者の不満が募った)原因になったと考えられる。とあるように、条件か否かでは扱いが全然違う。87ページの「2 ドラマ制作におけるトラブル回避のための方策」に契約書の早期締結が提言されているけれど、ふつうのビジネスなら当たり前の契約書の締結を今までやってこなかったこと自体がおかしい。89ページに契約書の秘密保持条項等にSNSの利用に関する条項を定型的に追加する提言もあるけれど、今まで秘密保持契約書を作っていないこともおかしい。外国のコンテンツ制作の契約書だとロケで出演者が滞在するホテルはどこにするとかの細かいところまで契約書に書いておくそうで、明文化することで契約に書かれていないことでトラブルが起きることを防いでいる。ドラマ制作を始める前に契約書で条件を詰めて、条件に同意できないならドラマ化をあきらめるのがビジネスとしての筋だろう。日テレに限らずに契約書を作らずに原作者との交渉が終わる前にドラマを作り始めるテレビ業界の慣習自体がおかしくて、辻村深月が『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』のドラマ化の脚本に納得できなくて許諾を取り消したらNHKから提訴された件とかが典型的で、許諾をもらう側がやたらと図々しい。しばしばテレビの常識は世間の非常識と言われるように、ドラマ班だけでなくてテレビ業界の体質事態に問題がある。小学館もおかしくて原作者の代理人として契約条件を詰めるべきところをやっていなくて、「難しい作家」を妥協させれば改変が通るとドラマ班に勘違いさせてしまっている。出版社もしばしば編集者が非常識な行動をして契約書なしで口約束で発注して原稿を納品しても無視して原稿料を未払いにしたり原稿を紛失したりして作家と揉めていて問題がある業界だし、テレビ局と出版社という契約を軽んじる連中のしわ寄せが原作者に来て多忙な原作者の時間を奪って精神的・肉体的な負担になっている。こないだ機会論について考えたけれど、どんな脚本家が担当しようが契約で縛ってしまえば改変する機会をなくせるので、原作者が望まない改変を防ぎたいなら契約書を作ることが効果的だろう。●今後の原作のドラマ化の問題 いうまでもなく、日本テレビは、著作権者にあたる原作者(ライセンサー)から、原作の利用許諾を得た上で、新たにドラマを制作・放送するライセンシーという立場である。もっとも、そうではあるものの、今回当調査のヒアリング等を通じ、制作サイドにおいては、原作を映像化するという作業の中で、原作を何ら改変しないことは基本的にないという考え方が標準的であることや、原作をもとに、どのようなエッセンスを加えれば、より視聴者の興味を惹きつけるドラマにできるか、という考えを少なからず持って企画・制作に当たっているということが分かった。これは、ドラマという映像コンテンツはあくまでもテレビ局の作品であるという考え方が根底にあるものと思われる。この点に関して、小学館 S 氏は当調査チームの質問に対して、あくまで個人の見解とした上で「ドラマ制作という一面だけを見れば、作家の先生や担当編集部、担当編集者はテレビドラマの制作者あるいは制作協力者ではない。作家の先生、担当編集部、担当編集者は、利用許諾者(ライセンサー)であり、監修者であるから、制作者側(ライセンシー)と必要以上に相互理解を深める必要はない」、「ドラマ制作者の意図や思いといったものは、作家の先生がそれらを受容可能か否かで判断されるべきことであり、双方協議の上、落としどころを調整するようなものでない」、「貴社に限らず、ドラマ制作者側は、ドラマ制作にあたり原作作品を改変するのが当然で、原作作品の設定やフォーマットだけ利用して、ドラマの内容は制作側が自由に改変できると考えているように見受けられた例が多数ある。…ドラマ制作者側のそういった意識の改革が必要」、「原作を利用する以上、必要最低限の改変とすべきだということをドラマ制作者側が認識すべき」といった回答をしている。と78ページに書いてあるように、「ドラマ制作にあたり原作作品を改変するのが当然」というテレビ局の考え方を改めない限りドラマ化を巡るトラブルは今後も起きうる。芦原妃名子が「難しい作家」だから起きた問題ではなくてテレビ局側が同一性保持権を軽視して必要最低限どころか積極的にキャラを崩壊させたがるところに根本的な問題があるのに、ドラマ班に終始その自覚がない。テレビ局はオリジナルのドラマを好きなだけ弄り回せばいいだろうに、オリジナルを作れないくせに原作を叩き台扱いして「ドラマという映像コンテンツはあくまでもテレビ局の作品である」とクリエイターぶる感覚がおかしい。テレビアニメでは漫画の原作を忠実に再現した人気作品が多いのとは対極的で、どうしてテレビ局内でドラマとアニメで原作の扱い方が全く違うのか不思議である。たぶんアニメは世間では無名な声優を起用して少ない費用で制作して深夜に放送しているのに対して、ドラマは有名な俳優を起用してアニメよりも多くの製作費を使っていて視聴率が高いゴールデンタイムに放送しているという驕りがドラマ班を増長させて、原作をブラッシュアップして原作を宣伝してやっているのだと原作者よりも立場が上であるかのように勘違いするようになるのかもしれない。日テレは調査報告書を出して終わりでなくて、調査報告書の提言を踏まえてこれから日テレがどう変わるのかを記者会見してプロデューサーたちが質疑応答しないと調査した意味がない。TBSは坂本弁護士のインタビュービデオをオウム真理教の早川たちに見せて情報源の秘匿というジャーナリズムの原則に反したことで批判されてワイドショーを自粛したように、日テレも何かしらの反省を示さないと出版社や作家からの信用は回復できないだろう。例えば年間のドラマ枠でオリジナルドラマと原作付きドラマの枠を分けてオリジナルドラマを規定数作った実績がないプロデューサーや脚本家には原作のドラマ化は担当させないようにしてゼロから作品を作る大変さや原作者へのリスペクトを教育するなりすれば安易に原作を改変しないようになるかもしれない。一朝一夕に日テレのドラマ班の態度が変わるとは思えないし、調査報告書のひどい有様を見る限り、日テレからのドラマ化を拒否したいと思う作家や日テレのドラマは見たくないという視聴者が多いんじゃなかろうか。
2024.06.03
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最近犯罪機会論というのを知ったのだけれど、犯罪学には犯罪機会論と犯罪原因論があって、犯罪機会論は犯罪者に犯罪の機会を与えないことで犯罪を未然に防止しようという考え方で、犯罪原因論は犯罪者の人格や境遇に原因があるとしてそれを取り除くことで犯罪を防止しようという考え方だそうな。犯罪機会論は例えば割れ窓理論で小さな悪を放置しないことで凶悪犯罪が起きにくい雰囲気にしたり、警察官が犯罪が起こる確率が高い所を重点的に回るホットスポット・パトロールをして犯罪者に犯行をあきらめさせるようにしている。人間に原因を求めずに機会に原因を求めてよくないことを防止する機会論という考え方は他の物にも応用できると思うので、徒然なるままに機会論について考えることにした。・無職機会論無職になることを未然に防止することはできないけれど、無職を続けたいと思う人の機会をなくすことで無職が長期化することは防げるかもしれない。ドイツだと市民金(日本の生活保護に相当)の受給者が働けるにもかかわらずジョブセンターの斡旋する就職を断り続けると補助が10%減らされるそうだけれど、低賃金の仕事と市民金の金額がほとんど差がないので10%減額されても市民金を受給する人が多くて、市民受給者の2/3が移民だそうで、働けるのに働かない移民のフリーライダーへの福祉が労働者の負担になっている。受給開始からの時間経過ごとに減額割合を増やして最終的に需給停止にしたり、就労したらすぐに補助を打ち切るのでなくてしばらく補助を受けながら働く方が所得が増えて生活基盤を作りやすくするなりしていけば、働けるのに働こうとせず無職のままでいる機会が少なくなるかもしれない。・ブラック企業機会論サービス残業とかで法律を無視するブラック企業がなかなか淘汰されないのは、労基の権限が弱くて監視の目が届かなくて違法行為が見逃される機会が多いせいかもしれないし、逆に言えば企業に対する監視がつよくなって違法行為をする機会が少なくなればブラック企業は減っていくかもしれない。個人だと履歴書の賞罰欄に刑事事件で有罪判決として確定した罰を書かないと経歴詐称になるけれど、企業も法的人格として疑似的な人格があるのだから、金融商取引法や不正競争防止法や労働安全衛生法とかで刑事罰を受けた場合は企業情報に賞罰を書くことを義務付けたり、社名を変えたときに旧社名を書くことを義務付けて悪い評判があっても検索逃れをさせないようにすれば、法人が組織的に不正をやりにくくなるかもしれない。工場や工事現場では作業の様子を監視カメラで記録して契約書と同様に最低2週間保管することを義務付けたら労災隠しや残業代未払いや労働ビザがない外国人の不法就労が少なくなるかもしれない。・交通事故機会論スピードの出しすぎや危険運転などの交通事故につながる行為をする機会をなくすことで交通事故を防げるようになるだろう。田舎はしばしば見通しがよくて信号がない道路でコリジョンコース現象が起きて相手の車が止まっていると錯覚して交差点で事故が起きるけれど、交差点をラウンドアバウトにしたら手前で減速する必要があるので事故を起こす機会がなくなる。北海道警察は一斗缶を使ったダミーのオービスを作って速度抑止をしていて、費用は本物の移動式オービスが1千万円かかるのに対してダミーは1000円で済んだそうで、費用対効果がよさそうである。ドライブレコーダーが普及してあおり運転をする危険な車をSNSで晒し上げしたり動画を証拠にして警察に通報したりしやすくなって、あおり運転をやろうとする人をあきらめさせてあおり運転が原因の事故を未然に防止できている。将来自動運転が普及して全部の車が機械で制御されれば、ドライバーの運転技術や体調とかの個人差は関係なくなるので、人間が運転するよりも事故が起きにくくなる。・読書離れ機会論最近は電車の中ではみんなスマホをいじってSNSを見たりゲームをしたりしていて本を読んでいる人はほとんど見かけなくて、本を持ち歩いてちょっとした空き時間の暇つぶしに読むという習慣さえなくなっているようである。本屋も経営が厳しくなって町の小さな本屋が廃業していて全国の3割の自治体には書店がなくなっていて、遠くの大きな本屋に行ったりしないといけなくて気軽に本を買いにくくなっている。そこで病院の待合室やバス停や道の駅やサービスエリアとかに本の自動販売機を置いて待ち時間や休憩時間に暇を潰せるようにしたら、本屋が身近にないがゆえに本を読まなくなる状態をなくせると思う。絶版への対策も必要で、もし興味がある本があっても絶版なら古本を探すのも面倒くさいし、絶版本の価格が高騰して買えないこともあるし、図書館に蔵書がある場合でもわざわざ遠くの図書館まで行きたくないので、すぐに手に入らないなら別に読まなくてもいいやと本への興味をなくしてしまう。図書館による電子書籍の貸し出しをやれば興味を持ってすぐに本を借りやすくなって、読書離れを防げるだろう。・恋愛離れ機会論男子校や女子校だと日常生活で異性と会う機会がないので、ふとしたきっかけから仲良くなって恋愛に発展していくようなイベントが起きない。共学でもいったんクラス内の人間関係ができあがると次のクラス替えまでは新しい出会いがなくなる。そこで学園祭や体育祭とかは近隣の学校と合同開催したり、部活で他校と合同練習したりしたら、人間関係が固定される機会を減らして新しい出会いを増やせると思う。企業だと席を固定しないフリーアドレスを導入すれば、普段話をしない人と隣の席になる機会が増えてそこから恋が始まるかもしれない。・病気機会論イタリアのブレシア大学医学部のルイジ・フォンターナ氏の研究チームによると、フライドポテトを週に2-3回食べると死亡リスクが上昇するそうで、トランス脂肪酸による動脈硬化やアクリルアミドの発がんリスクが原因の可能性があるようである。学術誌「ニューロロジー」には超加工食品(インスタント食品や菓子パンや加工肉や清涼飲料水などの乳化剤や保存料を添加して工業的過程によって作られる食品)の摂取が10%増加すると認知機能低下リスクが16%上昇して、未加工食品または最小加工食品を多く食べることは認知機能障害のリスクを12%低下させるという研究を発表した。フランス・パリ第13大学の研究によると超加工食品の割合が10%上昇すると全がんリスクおよび乳がんリスクが10%以上有意に上昇するそうな。こうした揚げ物や加工肉とかの健康に好ましくない食べ物に税金をかけると、小売りの値段が上がって摂取する機会を減らすことにつながって、生活習慣病とかの病気になりにくくできるだろう。例えばイギリスだと砂糖税があるし、イタリアだと加糖ノンアルコール飲料の消費に対する税がある。日本のたばこ税や酒税とかも有害な嗜好品の値段を上げることで摂取を控えさせるようにしている。日本だとやたらと入院を長引かせたりやたらと薬を処方したりする過剰医療が社会保険料の負担の増加につながっているけれど、病気にならないように予防できれば社会保険料の負担も減らせていいことづくめである。場所も機会と関連がありそうで、例えば家の周りや通勤の経路に高カロリーのジャンクフードの店が多い人は健康によくないものを食べる機会が多くなって病気になりやすくなるかもしれない。健康に悪影響がある食品を提供する店を撤去するわけにはいかないけれど、サラダなどの健康的な食事を提供する店よりはジャンクフードを提供する店のほうが不利になるように税制や条例で規制するくらいならできるだろう。たばこの包装に警告表示をするのも機械論的な考え方で、ジャンクフードも同様に広告や包装に健康に悪影響がある旨の警告の表示を義務付ければ買うのを躊躇して食べる機会を減らせるかもしれない。・詐欺機会論こないだ投資詐欺について考えたけれど、金融リテラシーが低い人は自分で投資や詐欺の手口を勉強しようとしなくてほいほい詐欺被害にあっているけれど、詐欺が起きた後で被害者の落ち度を責めたところで詐欺はなくならないので、詐欺師が詐欺をしにくくする仕組みにするほうが詐欺被害を防止しやすいだろう。寸借詐欺のような対面の詐欺に比べて、SNSの投資詐欺やロマンス詐欺や詐欺メールによるフィッシングや詐欺通販サイトはオンラインで完結していて詐欺師が身バレしにくくて逃げやすくて外国人詐欺師がわんさか現れるところに問題がある。前沢勇作がMetaを提訴して自民党にプラットフォーム規制を要望したように、そもそもSNSが詐欺広告を掲載しなきゃいいのに詐欺広告を通報されても放置しているのが詐欺の温床になっている。被害者が詐欺師の偽SNSアカウントや広告を知る機会がなければ詐欺を未然に防止できたはずで、被害が起きてから動く警察のやり方だと被害を防止できなくて被害が増える一方なので、政治の力で規制する必要があるだろう。検索結果の上位に詐欺通販サイトを表示するGoogleとかのプラットフォーマーの責任も追及して詐欺サイトや詐欺広告の表示数に応じて罰金を取るなりすればよい。広告を閉じる×ボタンの表示や大きさを規定して、広告を閉じにくくしたり広告だとわかりにくくしたりするのを違法にするとかでも投資詐欺広告に誘導させにくくする効果があると思う。あるいは広告主の名前の表示義務をつけてクリックしなくても広告主がわかるようにすれば、例えば有名人が投資を呼びかける広告なのに広告主が中国の企業だったらなんかおかしいと気づきやすくなるだろう。スマホやパソコンの機能を制限することでも詐欺対策できて、例えば広告をブロックするアプリやブラウザを使えば詐欺広告が表示されなくなる。・ペット遺棄機会論去年の落し物は過去最多で、落とし物として全国の警察に届けられた動物は2万5535匹で、犬が1万2722匹、猫が4382匹、鳥やカメなどのその他が8431匹だそうな。愛護動物を遺棄した者は動物愛護法違反で1年以下の懲役または100万円以下の罰金になるけれど、遺棄の現行犯逮捕や監視カメラとかの遺棄した証拠が残っていないと捕まえにくくて、目を離したすきにペットが逃げてしまって探していたとかの言い逃れをされたら遺棄したと証明できないので、罰則があったところであまり抑止効果がない。令和4年6月1日からブリーダーやペットショップなどで販売される犬や猫のマイクロチップ装着が義務化されていて、これは遺棄をした際の個人情報を割り出しやすくして遺棄を防止するのに効果的だと思う。しかしこれだけではブリーダーやペットショップから買わずに自家繁殖したり知人から子犬や子猫を譲ってもらったりした場合の遺棄を防げないので、動物病院で受信する際にマイクロチップの有無の確認と新規登録を義務付けて、マイクロチップがない場合は診療しないようにすればさらに遺棄を防ぎやすくなるかもしれない。あるいは新規にペットを飼うまでの手続きを面倒くさくすれば、ペットが欲しくなって衝動買いしたけれどすぐに世話に飽きて1週間で捨てたり虐待死させたりするようなパターンを防いで、面倒な手続きをしてでも本当にペットを飼いたい人だけが大事に飼うようになるかもしれない。・消費控え機械論エコノミストの永濱利廣によると、経済学者ギヴリアーノとスピリンバーゴの2009年の論文では若い頃(18-25歳)の不況経験が価値観に影響を与えることを米国のデータから実証的に明らかにしていて、その価値観はその後年齢を重ねてもほとんど変わらないそうな。クレジットカードでがんがん消費する傾向が強いアメリカ人でさえ若い頃の不況の価値観を生涯引きずるのだから、けちな日本人ならなおさら不況の影響は強いだろう。若い頃に第二次世界大戦を経験した日本人が戦後に地価が上昇して農地を売って金持ちになっても老後が不安で金を使わずに質素な生活をして数千万円のタンス預金を残したまま死ぬのが典型的である。就職氷河期世代以下の年代は若いころから30年間ずっと不況と低賃金と不安定な雇用の中で生計をやりくりしてきたし、政府がPB黒字化目標を掲げている限り給付金や減税の分は結局他の増税や社会保険料の増加で取られて意味ないと賢い国民は理解しているので、1回限りの10万円の定額給付金を配ったり1回限りの4万円の所得減税をするだけでは消費は増えないし、ましてや実質賃金が低下している現状ではなるべく金を使わずに安いものを求めて節約して将来に備えて貯金を増やそうとするデフレマインドの改善は難しい。若いころから豊かな生活をしてきて親のコネと政治団体の資産引き継ぎで金にも仕事にも困らない世襲議員には不況を経験した若者の価値観がわからないので、あまり効果のない経済対策ばかりやるのだろう。そこで単に実質賃金を増やそうとするのでなく、金を使ったら得して金を使わないと損する仕組みにすれば消費控えする機会をなくせる。韓国ではキャッシュレス決済をした人に所得控除をすることによって金を使うようになって、キャッシュレス普及率が96.4%になったそうな。日本だと特定地域で期間限定で使えるプレミアム商品券は現金で買い物するよりも得なので購入者が殺到するように、プレミアムを付けて使用期間を限定すれば期間内に確実に消費する必要があるので消費控えしなくなる。くら寿司で5皿寿司を食べるとガチャの景品がもらえる『ピッくらポン!』のように消費に対して非売品とかで付加価値をつけるやり方も効果的で、4皿食べた人がそこで満足して消費をやめずにせっかくくら寿司に来たのでついでにもう1皿追加で注文したくなるようになる機会が生まれる。インフレでタンス預金の価値が目減りしていくと、金利が低いうちにローンを組んで家や車とかの高額の消費をしたり投資したりして金の価値が目減りする前に使うほうが得するので消費控えする機会をなくせる。それゆえに緩やかなデマンドプルインフレを継続させることが消費と投資のサイクルを回すことになって経済成長につながる。・モンスター機会論本来はサービス提供者と客は対等な関係なのに、デフレ下の消費社会ではお客様は神様だと増長して自分を特別扱いするように要求して、些細なことで尊厳を傷つけられたと激高するモンスターを生み出してしまった。このような欲求が肥大したモンスターは違法ではないけれどサービス提供者のストレスになって社会を害している。中国の信用スコアは窃盗やローン未返済などの行動が信用スコアに影響するので、信用スコアを悪くしたくない人が好ましくない行動をする機会をなくしているけれど、学校の内申点も同様に進学の際の内申点を下げられたくなければ素行を良くする必要があるので、問題行動をしたい衝動にかられた生徒の脳裏に内申点がちらついて問題行動を抑止する効果がある。しかし内申点はあくまで生徒の評価であって親の評価ではないので、親のモンスターペアレント化を防ぐ効果はない。となると親に対するなんらかの評価基準を作ることがモンスターペアレント化を防ぐことになると思う。私立学校では幼稚園や小学校の受験で親の素行もチェックしてモンスターペアレントに育てられた素行が悪い子供が入学する機会を減らしていて、入学後に保護者と教師の争いや保護者同士の争いが起きることを防いでいる。東京都はカスタマーハラスメントの防止条例を制定する方針のようだけれど、違反者への罰則がないのでたいして防止効果はないと思われる。JR西日本グループはカスタマーハラスメントをする客への対応を中止するそうで、これはカスハラ客は自分を特別扱いさせようとしたらかえって不利益を受けるのでそれなりにカスハラ防止効果があるだろう。カスタマーサポートで通話を録音すると告げるのもハラスメント予防に効果的なように、言った言わないの掛け論にならないように交渉事には録音や録画を標準対応にすると、言葉尻を捕らえて相手を屈服させて謝罪や賠償を引き出そうとするモンスタークレーマーへの牽制になるだろう。・傍観者機械論日本財団18歳意識調査で「自分の行動で国や社会を変えられると思う」日本人は46%で、他の先進国よりも若者の主体性が低くて、日本では当事者意識がなくて不平不満を言うだけで選挙にも行かない人が大勢いる。これは主体性を育てない日本の教育の仕方に問題があると言われていて、子供のころからおとなしく授業を聞いて教師に素直に従うことが評価されて、同級生と喧嘩したとかの問題が起きたときに親や教師が口出しして子供自身に問題を解決させようとしなくて、ヘリコプターペアレントが子供に付きまとって口出しして子供が失敗するまえに先回りして助けて子供が失敗から学ぶ機会を奪うので、子供が当事者意識を持たなくて問題は親や教師が解決するものだという傍観者になってしまって、問題解決のために取り組んで自分で考える能力が育たなくなってしまうようである。そういう子供が大人になると自分で問題を解決しようとせずに相手がやってくれないことに対して不満ばかり言って感謝しないモンスターペアレントやモンスタークレーマーになる。事故現場でもスマホを構えて録画するだけの野次馬は多いけれど、率先して救急車を呼んだり救助したりする人は少ない。アメリカの大学では授業で発言することを求められるし、スティーブ・ジョブズは日本に来た時に会議でメモを取るだけで発言しない日本人に対して怒って退場させたそうで、アメリカでは意見を頻繁に聞かれるのでそもそも傍観者になる機会がない。その一方で恥の文化にいる日本人は間違いを恥だと感じるので正解がわからないことや間違っている可能性があることを言おうとしないし、空気を読んで周りと違う意見も言おうとしない。とりあえず自分の意見を表明しないことにはそれが間違っているかどうかの検証も議論もできないのに、何も言わずに周りの様子を見てから付和雷同するのでは課題に取り組む気がないとみなされても仕方がない。失敗や間違いは学習の機会だし、失敗や間違いは恥ずかしいことではなくてむしろ失敗が多いほどいろいろな事に挑戦する意欲があると評価するべきである。学校の授業で主体的に発言したり行動したりするほうが評価されるようになって、教師が生徒にやれと命令せずにどうしたいのか意見を聞いて自分で判断して行動するように促せば、様子見して傍観者になる機会が減って当事者意識を持つようになるだろう。創作では自分で主体的に考えて作らないことには作品は完成しないので、創作をするのも主体性を持つのによい。創作の授業は図工や美術だけとは限らなくて、例えば算数で教科書に書いてある問題で一番早く手を挙げて正解を答えた人を評価するのでなくて、各生徒が数式を創作して隣の人と交換して答えるとかのやり方でもいいわけである。小中学校の日々の授業で創作の機会が増えれば、黙って教師の言うことを聞いているだけの傍観者になりにくくなるだろう。
2024.05.27
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最近はSNSを使った詐欺が急増していて、警視庁によると2024年1月から3月までの3ヶ月間でSNS型投資詐欺の認知件数は1700件、被害額は219億3000万円で、SNS型ロマンス詐欺は認知件数603件、被害総額60億6000万円だそうな。コンビニで大量のギフトカードを買ったり電話しながらATMで入金しようとする人とかも店員に詐欺を疑われて止められても、詐欺師の意見を信じ込んでコンビニ店員や銀行員の制止を素直に聞かない人が大勢いる。このような詐欺の被害者たちはメタ認知能力が低いがゆえに犯罪を誘発して社会の発展を阻害していると思うので、メタ認知と詐欺について考えることにした。●メタ認知とは何かメタ認知とは自分が認知していることを認知することである。メタ認知的知識として自分がどういう人間なのか自分自身について知って、メタ認知的技能としてメタ認知的モニタリングで知覚、情動、記憶、思考などの認知活動を客観的に評価したうえで、メタ認知的コントロールで認知活動を制御することができるようになる。SNSを使った投資詐欺では森永卓郎や池上彰やホリエモンとかの著名人の動画や音声をAIに学習させて本物そっくりの偽SNSアカウントを作っていてこのAIは相手の言葉に合わせて応答もできるので、外見だけでは相手が本物か偽物か見抜きにくくなっている。そこで自分の認知を客観的に認知して検証するメタ認知能力が詐欺に騙されないようにするために重要になってくる。詐欺師のツールとなるAIや詐欺の手法は日々進歩しているので、我々も騙されないように進歩しないといけない。なにか自分にとって都合がよすぎる儲け話が来たときは、もしかしてだけどもしかしてだけどそれってオイラを騙してるんじゃないの、とメタ認知が詐欺に気づくようにすれば詐欺被害を減らせるだろう。●メタ認知能力が弱い人のタイプ・感情的なタイプ感情を制御する脳の前頭前野は成長が遅いので、一般的に子供は感情を制御しにくくて、泣きわめいたり怒って暴れたりする。大人になるにつれて前頭前野が成長して感情を制御できるようになって、誰かに侮辱されて怒っても怒鳴ったり殴ったりせずに証拠を残しておいて後で名誉棄損で訴えようと考えたりして、自分が怒っていることを認知しつつもその怒りをコントロールして適切な行動をとれるようになる。しかし中国の小皇帝みたいに親に叱られずに過保護に育った子供は、親が子供のわがままを通してしまうので衝動をコントロールする訓練をしてこなくて前頭前野が未熟なまま感情的に振舞う大人になって、周囲が思い通りにならないストレスで感情を制御できなくなってキレて暴力的になったりしてしまう。感情的なタイプは好き嫌いの感情で全肯定したり全否定したりしがちで、例えば未婚の女性がSNSで知り合ったイケメン外国人からレストランを開業したいから金を融資してくれと嫌なことを要求されて認知的不協和が起きたとき、不協和を解消するために全肯定して好きな相手の言いなりになってしまって、好きな相手でも嫌な要求は断るという細かい認知の制御ができなくてロマンス詐欺の被害にあう。・権力があるタイプ最近はいなば食品が無知な新卒をだまそうとして説明と実際の待遇が違っていて新卒の大半が入社辞退する事態になって、まともな企業のPRとは思えないような釈明が批判された。ワタミの渡邉美樹も「カンブリア宮殿」で「『無理』というのはですね、嘘吐きの言葉なんです。途中で止めてしまうから無理になるんですよ」と従業員が鼻血を出そうが倒れようが無理やり働かせるやり方を披露して批判された。餃子の王将のブラック研修もテレビに取材させて批判された。ペッパーフードサービスの一瀬邦夫が社員に無意味な点呼をさせたりする様子をテレビに取材させて批判された。こういうワンマン企業の経営者は事業自体はうまくいっているので記憶力や計算力や判断力とかの認知能力は高いのだろうけれど、自分の言動が他人にどう思われて自分の社会的地位にどう影響するのかを理解する社会的メタ認知能力が低いといえる。権力を持って周りをイエスマンで固めて忠言する人がいなくなると社内で全肯定される自己評価と社外の世間からの評価のずれが大きくなって、非常識な言動をしてもどこが問題なのか自分ではわからないようになる。独裁者やワンマン経営者は自分が間違っていようが社内で異を唱える人を怒鳴りつけて従わせたり粛清したりすれば自分が正しいことにできてしまうので、相手に合わせて言動や感情を制御する必要がなくなってメタ認知的コントロール能力が育たなくなるのだろう。コロワイドの蔵人金男会長がM資金詐欺という昭和から何度も繰り返されている古典的詐欺に騙されたように、本来ならまともな判断ができるはずの実業家も詐欺にあう。積水ハウス地面師詐欺事件では社長が稟議承認の前に承認して社長案件扱いされて、承認体制が機能しなくなったことで詐欺が成立してしまった。権力者に従順な権威主義者も権威を妄信して本当にそれでいいのかと疑ったり考えたりすることをやめてしまってメタ認知が働かなくなってしまう。例えば上司が飛行機に乗っていて応答ができないタイミングを見計らって上司を装って部下にオンライン会議のメールを送ってディープフェイクで作ったなりすまし動画で送金を指示する詐欺の手口があるそうで、ターゲットになった部下が権威がある人の言うことだから大丈夫だろうと妄信して新規の送金先について調べたり上司に確認したりすることを怠ると詐欺に騙されてしまう。・自信があるタイプ歯科医院を運営する「ザ・グランシールド」や信用保証会社「トラステール」がコロナ禍で経営難に陥った病院の債務保証として「年利20%の高配当」「5年満期の元本保証」をうたって無登録で出資を募ったとして経営者の中村佳敬や勧誘役ら8人が逮捕されて、1300人の出資を集めて80億円の被害があったそうで、中村容疑者は実際は病院の債務保証をせずに10億円で外車を買ったりキャバクラで豪遊したりしていたそうな。東京新聞の記事だと関東の医師(55)は全資産の9割の約6000万円分の社債を買って、子供の大学進学費用もなくなって、妻に社債購入を相談しなかったので妻との信頼関係も崩れて後悔しているそうな。年利20%で元本保証という異常な利回りを変だと思わないのもおかしいし、一つの商品の全ツッパするのは「卵は一つの籠に盛るな」という投資の格言を無視した異常な資産運用の仕方で、金をケチらずに投資助言業者を雇って相談したり、時間をケチらずに投資の勉強をしてセオリー通りにポートフォリオを組んで株と投資信託と不動産とゴールドと外貨にリスクを分散したりしていれば資産の大半を詐欺で失うことにはならなかっただろう。投資と詐欺について考えるという記事でも考えたけれど、「元本保証」の言葉で安全だと思い込んで思考停止しているんじゃなかろうか。普通はリスクが高い事業ほど出資を集めるのが難しいので利回りが高くなって、例えば楽天モバイルの巨額赤字で資金繰りが苦しい楽天グループのドル建て社債は3年で12.125%でドル債として過去最高の利回りだけれどもし満期になる前に倒産したら元本が返済されないリスクがあるし、国債みたいに満期まで待てば確実に金が増えてリスクがない場合は誰でも投資したがって出資者を集めやすくて利回りが低くなって、例えば個人向け国債の利率は3年満期で0.29%だし、人並みに経済に関心を持っていたら元本を保証しているのに年利20%の超高金利にしないと出資を集められないのはリスクとリターンが矛盾していて怪しいと気づきそうなものだろうに、元本保証で安全だという確証バイアスがいったんできてしまうと自分に不利になる事実は受け入れようとしなくなって危険だと思わずに全ツッパするのだろう。医師は学力は高いけれど、そのぶん異様にプライドが高くて性格に難がある人も多い。医者が高学歴だろうが医学以外の事については素人なのに、自分が優秀な成功者だという自覚があるせいで自分の考えが間違っている可能性を検討せず、偉い先生とおだてられて増長して謙虚に他人の意見を聞くことができなくなってしまうのかもしれない。詐欺師から見たら金持ちで忙しくて金の使い方を知らなくて世間知らずの医師は騙しやすくていいカモだったのだろう。能力が高い人だけでなく能力が低い人も自信満々の場合があって、能力が低い人ほど自分の能力を過大評価する認知バイアスはダニング=クルーガー効果と呼ばれる。経済アナリストの森永康平が偽SNSアカウントの詐欺被害にあった人から話を聞いたら、その人はSNSで有名人になりすまして投資をもちかける詐欺のニュースを知っていて騙される人は馬鹿だと思ったけれど自分だけは特別だと思ったと自分に都合がいいように解釈して騙されたそうな。「自分だけは特別」というのは根拠がない感情的な判断で、自分の感情を判断基準にせずに、金融商品取引業に登録していない人が投資を勧誘したら違法だという事実だけを判断基準にすれば詐欺かどうかを判断できたはずである。高齢男性がマッチングアプリで知り合った相手に結婚や投資を持ちかけられて詐欺被害にあうロマンス詐欺も能力が低いのに自信があるパターンで、社会的メタ認知能力がある人なら老人が若い美女と結婚できるはずがないし言いよって来る奴は詐欺や個人情報の蒐集とかの下心があるはずだと自分の社会的地位を客観視できるだろうに、根拠のない自信がある人は自分に性的魅力があると勘違いしてモテて気分が良くなって相手の言うままに金を渡してしまう。・障害があるタイプ発達障害や精神障害がある人は、こうでなければならないという思い込みが強くて修正できなかったり、共感能力が低くて他人の気持ちがわからなくて社会的認知能力が低かったり、言語化する能力が低くて自分の意見をまとめられなかったりして、認知能力自体に問題があるので認知を認知するメタ認知の働きも弱くなる。あるいは健常者でも高齢になるにつれて老眼や難聴などで五感が衰えたり、前頭前野が衰えて記憶を思い出しにくくて考えがまとまらなくなったりして、認知能力もメタ認知能力も落ちてくる。こうした障害がある人たちは努力して障害を治せるとは限らないし、独力では詐欺を見抜きにくくて騙されやすいので、詐欺被害にあわないように周囲がサポートする必要がある。●メタ認知能力を鍛える方法・エポケーするエポケーとは判断を保留する状態のことで、しばしばカッコに入れると言われる。人間はさまざまな認知のバイアスがあって無意識に間違った認知をして間違った結論や判断に至ってしまうことがあるので、いったん判断を保留することで正しい判断をしやすくなる。例えば著名な経済学者A氏とSNSが炎上した個人投資家B氏が討論番組で投資について異なることを言っている場合、ハロー効果でA氏はすごい経歴と業績があるのだから正しいに違いないと過大評価されがちで、B氏はスキャンダルがあるから間違っているに違いないと過小評価されがちだし、二項対立の選択肢を提示されるとどちらかが正しくてどちらかが間違っていると思いがちでA氏とB氏が両方とも間違っている可能性に気付きにくくなる。このときに片方が正しくてもう一方を間違っていると直感的に判断せずに、(A氏はこう主張している)(B氏はこう主張している)とカッコに入れてひとまず脇に置いて、データが間違っていないか、他のデータはないのか、データは正しくても解釈が間違っていないか、データと解釈は正しくてもロジックが間違っていないか、討論番組の参加者に選択バイアスがあるかもしれないしA氏とB氏以外の人はどういう主張なのか、とひとつづつ検証していけば、A氏とB氏の主張の正しい部分と間違っている部分が明らかになっていって認知バイアスの影響をなくして客観的に判断できるようになる。他人の意見だけでなくて自分の思考もエポケーできる。(羽振りがいいN氏に元本保証で年利20%の投資を持ちかけられたけれど、これは儲かるので投資するべきだと私は考えている)という認知をエポケーしてカッコに入れていったん脇に置くと、儲けたいという欲やN氏の主張から離れて投資に対する自分の認知を客観視できるようになる。そもそも資産運用とは何なのか、なぜ仕事をして収入を得るだけではだめで投資する必要があるのか、資産運用にはどういうものがあるのか、と冷静に投資に対する自分の認知を検証していけば、そもそも収入と預金で余生を十分に過ごせそうなのでわざわざリスクを取って投資する必要はないとか、今は子供の学費を確保することを優先して子供が大学を卒業してから今の家を売って夫婦で小さい家に引っ越して残った金で老後の生き方を考えればいいとかの投資する以外の考え方にも気付けるようになる。詐欺師はまくしたてるように話してその場で契約や振り込みを迫って相手に考える時間を与えないようにして論理の飛躍や根拠不足を相手に気付かせないようにしているので、いったん判断を保留するのは詐欺被害防止には有効な手段になる。・情報と感情を切り離す訓練をする情報自体には感情がないけれど、感情が思考を鈍らせて判断を間違えさせる。これは投資の判断としては致命的なので、投資詐欺で騙されないようにするには少額で株取引をして損したり儲かったりするのを繰り返して感情の変化に慣れておくことが情報と感情を切り離す良い訓練になると思う。例えば株価が下がったというのは単なる情報だけれど、含み損を抱えて悲しいという感情を持ってしまうと、株価の変動に自分の感情は関係ないはずなのに負の感情を解消しようとして慌てて損切りしたりして判断を間違えやすくなる。損得で自分の感情がどれくらい揺れ動くのかという自分自身の特徴についてメタ認知知識を得たうえで、メタ認知的モニタリングをして判断する前に不足している情報を補足してなんで株価が下がったのか、将来の業績見通しはどうなのかを分析して、メタ認知的コントロールをして情報から感情を切り離して感情が判断に影響しないようにすれば、一時的な感情に左右されずに客観的で合理的な判断ができる。少額の投資の経験さえ不十分なのにいきなり資産の大半をぶっこむような投資をしてはいけない。他人から投資を持ちかけられたときは金持ちや有名人や美男美女が自分を特別視して声をかけてくれてうれしいという感情をいったん切り離して、誰が何の事業をしようとしているのかという情報だけを判断基準にすれば投資詐欺を見抜けるだろう。・長い文章を書く人間のワーキングメモリーは個人差があるにしても、複雑なことを一挙に考えることはできない。しかし文章を書くことでちょっとづつ自分の思考を可視化していって客観視できるようになって、根拠を集めて論理を組み立てて複雑な思考ができるようになる。特に小説を読んで記憶を頼りにして感想を書くのは自分が認知したことを認知する訓練としてはうってつけである。「おもしろかった」「つまらなかった」と一語で感想を終わらせずに、自分が何を面白いと感じたのかという認知を掘り下げていくとメタ認知能力が鍛えられていく。私は自分の考えを言語化してしゃべったり文章を書いたりするのが苦手な子供で、大学のレポートを原稿用紙10枚分書くのも苦労していたけれど、ブログを書くようになってからたいていの物事について4000字から8000字程度の文章を書けるようになったので、継続して長い文章を書くことによる前頭前野の能力強化の効果はかなりあると思う。
2024.05.21
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最近は人口戦略会議が子供を産める年代の女性が2050年に半減して全国の市区町村のうち4割超にあたる744自治体が消滅する可能性があるという報告書を発表したことが話題になった。というわけで徒然なるままに自治体の消滅について考えることにした。●自治体の消滅とは何か自治体の消滅と言っても人や土地が物理的に消えてなくなるわけではなくて、市町村合併で新しい自治体が新設されるか、隣接する自治体に編入されることになる。それに伴って役場や学校が集約されて行政が効率的になる反面、公共施設から遠い所に住んでいる人は生活が不便になっていく。田舎について考えるという記事でも考えたけれど、田舎者は偏狭で余所者を受け入れようとしない問題があって、近隣の自治体と張り合ってどの自治体が主導権をとるか、新設する自治体の名前をどうするかで揉めて市町村合併を拒むことがある。地元に愛着があって自治する意欲があるのはよいけれど、全国的に無名な自治体が狭いエリアで低次元ないがみ合いをしても不毛で、日本全体の中でその地域がどういう役割を果たすのかという広い視野でとらえないと産業育成や観光促進も効率が悪いだろう。●なぜ自治体は消滅するのか・政府のせいで衰退する自治体日本の滅亡について考えるという記事でも考えたけれど、地方自治体が衰退するのにはまず政府に問題がある。政府が消費税を導入したあげくに不景気の中で税率を上げたのは明らかな失政だけれど、地方自治体には消費税をなくしたりする権限がなくて独自にとれる経済振興策や少子化対策とかも限られるので、政府が間違った政策をしたら予算が少ない小さな自治体ほど被害を受けて衰退することになる。田舎はもともとは不便で農業や漁業や林業のような一次産業しかなかったけれど、「国土の均衡ある発展」を基調にして高度経済成長期に田舎に高速道路やトンネルや橋や新幹線を作ったりしてインフラが整備されてアクセスが良くなったことで、工場を誘致したり観光客が来たりして二次産業や三次産業が増えて、産業が増えれば移住する人が増えて宅地が開発される好循環になって発展してきた。ところがバブル崩壊後の小泉政権では緊縮財政政策をして道路族議員が悪の権化のように叩かれて、民主党政権では「コンクリートから人へ」のマニュフェストで公共事業を削減してきた。当時はまだ就職氷河期世代が若くて労働力が余っていたのだから、水道管を取り換えるなり建設国債を出して釜山みたいな国際コンテナターミナルを整備するなり全国を新幹線でつなぐなりすればいいし投資先は十分にあったのに、政府が財政支出をしなかったので田舎の仕事がなくなって余った労働力が仕事を求めて都会に向かって飲食店や日雇い派遣とかで低賃金で過当競争して長期間のデフレを引き起こして若者が結婚できなくなったことで少子高齢化して、事業や技術の承継もできなくなって老朽化したインフラの更新もできなくなっている。政府を黒字にしようとして政府支出が減ればそのぶんGDPが減って、投資をしなければ成長しないどころか衰退して当然である。この政府の黒字化を目指すパターンの不況はアメリカが200年前に経験している。アメリカ独立戦争の時に連邦政府が各州の戦争債務を引き受けることにして、それを支持する連邦主義者は債務を経済の燃料にできると主張したものの、反連邦派の中心人物のトーマス・ジェファーソンは借金を国家の恥だと考えて反対して、第7代大統領のアンドリュー・ジャクソンも同様に借金を嫌って歳出法案に拒否権を行使してインフラ拡大プロジェクトを中止して政府の土地を売却して、1835年にアメリカ史上で初めて国債を完済して政府が黒字になったけれど、ジャクソンは政府の財務を扱う第二合衆国銀行が政治的腐敗とインフレを助長するとみなして第二合衆国銀行に再免許を与える法案に拒否権を行使して銀行を破綻させて中央銀行的な銀行がなくなったうえに、政府の土地が大量に売却されて民営化されたことで銀行からの無謀な借り入れが行われて土地バブルが起きて、そのうえ土地売買の増加によるインフレ抑制のために1836年にSpecie Circular(国有地の購入代金は紙幣でなく金か銀の正貨で払うことを定めた大統領令)を出したら紙幣の価値が落ちてジャクソンの意図とは逆にインフレが起きて、1837年に恐慌が起きて土地バブルが崩壊して銀行が破綻して失業率が増加して1840年代後半まで不況が続いた。トーマス・ジェファーソンやアンドリュー・ジャクソンは道徳的に政府の借金をなくそうとして、逆に大勢のアメリカ人を困窮させる非道徳的な悪政をした無能な為政者となった。これに懲りたのか結局は連邦政府が国債を発行してそれ以来アメリカの債務は増え続けているけれど、毎回債務の上限を更新して借り換えをするだけで国債を返そうとはしない。もはや金本位制でないので正貨の金銀の保有量にこだわらずに国債の発行(=自国通貨の発行)をして、増え続ける移民に対して通貨を供給して経済の規模を膨らませ続けている。アメリカ人は失敗の経験から学んで、金の貸し借りを嫌って政府の負債を非道徳的な恥と見なすキリスト教的な金銭感覚からパラダイムが変わって投資効率を高めるためにレバレッジかけるようになって、ゴールドマンサックスを創業したマーカス・ゴールドマンのようなユダヤ人によってウォール街の金融業が発展して世界の金融の中心になった。一方で日本人はアメリカの歴史に学ばずに政府と家計を同一視して政府の借金や赤字を悪いものと見なして、PB黒字化を目指して債務償還費を予算に計上してインフラへの投資を減らして不景気な中でインボイス制度を導入して零細企業を倒産に追い込んで政府が所有するNTT株を売ろうとして、国民を困窮させて国家の資産を外国に売り渡して国力を弱体化させて日本の衰退を主導している。ビスマルクは「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言ったけれど、経験からも歴史からも学べないのであれば愚者ですらなくてもはや人の形をしたうんこである。岸田文雄はまさしく増税クソメガネと呼ばれるに値する稀代のうんこだけれど、さすがの名宰相ビスマルクでもこんな愚者未満の頭にうんこが詰まったうんこ踏み男がいるとは予見できなかったのだろう。・自業自得で衰退する自治体日本では議会制民主主義の制度になっているけれど、国民が民主主義者とは限らない。とういうのも選挙で投票に行かない人が多くて、2022年の参議院選挙だと投票率トップの山形県でさえ61.87%で、最下位の群馬県は48.49%である。衆院選や参院選は国の行く末を決めるのでまだ投票率が高い方で、あまり権限のない首長の選挙は投票率が低くなる。2023年の埼玉知事選の投票率は過去最低の23.76%だそうな。その政治への無関心の結果は住民に跳ね返る。石川県の地震で復興が遅れているのが典型的で、選挙で無能な政治家を選ぶと、平時には前例を踏襲するだけでそれなりに運営できるのであまり影響はなくても、前例がない有事の際には無能ぶりが際立つ。1997年の「石川県地域防災計画 地震災害対策編」の想定が甘くて防災の専門家が県に見直しを要請しても27年間放置されてきて、そのうえで想定外の大きな被害が出る地震が起きたので対応できていなくて、初動対応の不手際もその後の復興の遅れも災害に備えてこなかった政治家の無為無策が招いた人災と言える。石川県の局所的な地震でさえ復興が遅れているのだから、南海トラフ地震で広範囲で被害が起きたときはさらにひどい状況になるだろう。プッシュ型支援は人口が多い大都市が優先されて、自治能力が低い自治体では被害の全容が把握できなくてプル型支援を要請できないまま放置されて、いつまでもインフラが復旧できずに他県に避難した住民が帰れなくなってそのまま見捨てられるかもしれない。地方議会の選挙は数十票差で当選するか否かが分かれることもあるので、衆院選や参院選よりもちゃんと民意が反映された選挙になる。政治は誰がやっても同じではなくて、政治家をやらせてはいけないタイプの人がいる。モラルがなくて企業と癒着したり公金を私物化したりする人や、嘘をついたりごまかしたりする人には権力を与えてはいけない。選挙が終わったらそれで終わりでなくて、市議会のYouTube動画や広報誌とかで議員の活動も見るべきで、選挙の時だけ立派な公約を掲げて当選後に実行せず支持者に活動内容や進捗状況を報告せず議会を欠席するような議員は2期目以降はやらせてはいけない。無能な政治家やその支持者だけに責任があるわけでもなくて、投票しない人にも責任がある。地方選挙で投票しない人は自治体の「自治」の意味すら理解していないのではなかろうか。国民同士で助け合うのが大事とはいえ、自治をする気がない人たちを他の地域の裕福でもない人が身銭を切って助けてやる筋合いもないので、投票率が低くて住民が自治をする気がない自治体は投票率に応じて地方交付税交付金を減らすなりすればいい。投票率が低い地域で住民が政治に参画しないままハコモノを作ったところで住民の声が反映されなくて利用率が上がらなくて採算がとれないだろうし、投票率が高くて自治をする気満々の自治体に地方交付税交付金を増やす方が有意義に公金を使うと思うし、頑張っている自治体が報われる仕組みにするほうが良い自治体ができるだろう。・衰退が加速して手遅れ戦後のベビーブームで人口が増えて団地やニュータウンとかの宅地が開発されたのとは逆に、人口が減ったら自治体が消えるのは当たり前のことだけれど、その当たり前のことさえ予期せずに何も備えてこなかったので、車を運転できない高齢者が買い物や通院ができなくなったりして生活に不自由する状態が起きている。高齢化で里山が維持できなくなって害獣があふれて、老朽化したインフラを治す金もなくなって時間が経つほど不便で住みにくくなっていくので、地元に見切りをつけた若者がインフラが整っていて仕事がある政令指定都市周辺に逃げて、移住者も来なくなって田舎の衰退が加速するだろう。そうなってから対策を始めても手遅れである。衰退期は失敗をリカバリーする余力さえなくなるので成長期よりも政治家に高い能力が求められるけれど、市町村議員はあまり優秀な人達とは言えないし、高齢者たちはもはや日本は成長局面でないことに気付いていないので、いまだに市町村に不釣り合いなほど立派で集客数が少ないハコモノを助成金頼みで作りたがって失敗している。新しい知識を学ばず、古い知識の間違いを正そうともしない無知で頑固な老人たちが選挙で票を持っているので、もう議会制民主主義では地方自治体の状況を改善できなくて手詰まりである。人口が減少するにつれて放置された空き家が増えるのも問題で、害獣の巣になったり不法侵入者が増えて治安が悪くなったり景観が悪くなって観光業に影響がでたりして衰退が加速する原因になるけれど、自治体は費用だけかかって直接利益にならないことはやりたがらなくて、鬼怒川温泉ではバブル期に建てられた旅館の廃墟が放置されたままになっている。移住支援金を出すとか子育て支援をするとかの政策レベルの小手先の対策でなくて、どういうパラダイムをどういう哲学で生きるのかという高次のレベルで町づくりをしないと衰退局面は切り抜けられないだろう。江戸時代には各藩に権力があったので上杉鷹山や西郷隆盛とかのリーダーシップがあって社会を変える傑物がいたけれど、現代では首長に権力がなくてせいぜい予算を組み替えて公共事業の予算を減らして育児の予算に当てる程度のことしかしないので田舎からはもはや傑物は出てこないし、田舎が劇的に変わることも見込めない。それでしびれを切らしたB層が維新の会みたいな改革や既得権益の打破を主張する新自由主義者を支持するようになるけれど、新しい権益を得ることが目的の人たちがでたらめな改悪をしたところで状況は悪化する一方である。・在日外国人の問題地方自治体は農業や工場などで外国人技能実習生の労働力に頼っているけれど、外国人が増えると役所や病院や警察も数か国語で対応しなければならなくなって行政のコストが増加する。特に外国人による犯罪が起きた場合は取り調べや弁護に多大な人的リソースが必要になって、最近はベトナム人の犯罪が増えたのにベトナム語の捜査通訳が日本各地で不足していて捜査が追い付いていなくて治安の悪化が懸念される。在日外国人が自動車やバイクを窃盗してヤードで解体して輸出しているし、外国人が金持ちの家を狙ってカネカネキンコと金を要求する押し込み強盗も多発したし、ペルー人による熊谷連続殺人事件のような凶悪な事件も起きた。外国人も精神病になるけれど、精神科医は予約が取りにくくて半年待ちになるほどの過労状態で外国語での診療に対応する精神科医は余っていないので、外国人が治療されないまま病態が悪化して殺人事件を起こしたりする。川口市の人口の推移を見ると、日本人は56万人台でほぼ横ばいだけれど、外国人が2015年の25263人から2024年の43128人まで10年間で1.7倍に増えている。川口市は2020年と2021年は「本当に住みやすい街大賞」で1位だったけれど、2023年7月のクルド人の病院での乱闘事件とかのクルド人との軋轢が全国ニュースになって埼玉県の住みたくない町ランキングのトップになった。川口市の犯罪の認知件数自体はピークの2004年の16314件から2022年の3815件に減少しているけれど、クルド人が夜にたむろしてしつこくナンパしてきたり車で暴走したり騒音を立てたりするなどの犯罪にならない迷惑行為で体感治安が悪化して不安を感じて住みたくないと思う人が多いようである。川口市の4万人の在日外国人は特に問題も起こさずに日本人と共生してきたのに、3千人程度のクルド人がここまで川口市の評判を下げて、住みやすい町づくりをしてきた大勢の人たちの努力が無駄になった。川口市の奥ノ木信夫市長は難民申請をした仮放免制度に対して不法行為を行う外国人の強制送還や生活維持が困難な仮放免者への国からの援助措置とかの要望書を提出して、自治体に仮放免者の対応を丸投げせずに国が対応するように求めているけれど、比較的大きな川口市でさえ自称難民が起こす問題に十分に対処できていないのだから、人口数万人の小さな市や離島だとなおさら対処は難しいだろうし、国が何とかしないと自治体が潰されかねない。川口市の医療センターでは外国人の未払い金が7400万円あるそうだけれど、それも結局は住民が補填することになる。武蔵野市の住民投票条例案のように在日外国人に投票権や参政権をあげようと左翼が活動している自治体もあるけれど、もともと日本人の投票率が低い中で外国人が組織票を持つようになったら外国人が政策への影響力を持つようになるだろう。日本に帰化せずに一時的に留学や仕事で滞在しているだけの外国人が投票したところで、日本人にとって住みやすい自治体になるか疑問である。・コンパクトシティ政策の失敗Yahooの「コンパクトシティはなぜ失敗するのか 富山、青森から見る居住の自由」という記事に失敗の経緯が詳しく書いてあるけれど、青森や富山は2000年代からコンパクトシティ政策をしてきたものの、富山は車移動が中心で移住が進まず、青森は首長が交代したことで住みやすい街づくりから中心街の活性化へとコンセプトがぶれて迷走して再開発ビルのアウガが赤字になってハコモノ行政の典型的な失敗パターンを辿ったそうな。田舎は広い土地にまばらに人が住んでいるとやがてインフラが維持できなくなるのは予見できるので、私はコンパクトシティ政策自体はインフラの効率を高めて雪国の除雪費用を削減できる点で良いと思うけれど、再開発利権が絡んで金儲けが主軸になると失敗して当然だと思う。どこに住むかを決めるのは市民なので、民意がついてこないまま行政だけ先走っても意味がない。地元民さえ家賃が高いことを理由に移住を拒むくらい魅力がないのであれば、他の自治体から移住者を集めるのも難しくなる。それに日本各地に小さい東京のような施設を作ればいいというものでもなくて、結局は人が町をつくるので、良い隣人たちがいないところには移住しようとは思わない。相互監視する田舎の人間関係の距離感のままコンパクトになって田舎の欠点を濃縮したような隣人ガチャハズレ率が高い町になってしまったら、都会育ちの人はなおさら移住を敬遠したくなるだろう。・当事者意識の欠如しばしば日本が経済成長しないことに対して「失われた30年」という言い方をされるけれど、自然災害が起きたかのように被害者ぶって受動態を使うのはよくない。政治家、官僚、学者、経済団体やマスコミが間違った政策を推し進めて経済成長を鈍化させて若者を低賃金で使い捨てて結婚できないようにして幸福と将来を奪ってきたけれど、その当事者意識がない。養老孟子が『バカの壁』で指摘したけれど、たとえ高学歴な人でも自分には関係ないと思ってしまうと知りたくない情報を脳が遮断してわかった気になって詳細を知ろうとしなくなってしまう。これが政治でも起きていて、中央の役人は地方の問題は自分とは関係ないとみなして理解しようとせず取り組もうともしないし、ましてや新自由主義者は小さい政府を目指して地方自治体や収益が低い一次産業を積極的に切り捨てようとさえする。国民も国債発行の仕組みを調べて理解しようとせず、財政破綻だの円の信認だのの定義が不明な言葉でわかったつもりになって不景気な時に緊縮財政と増税をするバカな政治家を支持して自滅しているけれど、地方が衰退しても東京の不動産価格や日経平均株価にはあまり影響は出ないので、東京で生活している政治家や官僚や経営者には危機感もなく自分たちが地方在住の国民を破綻や自殺に追い込んでいる非道を行っている自覚もない。自然災害じゃないのだから我慢すればいずれ災いが過ぎ去る類のものではなくて、間違った政策をやめない限り日本は衰退し続ける。もし国家が危機に瀕したり国民が不幸になったときに国民がとりうる選択肢は、選挙で政治家を替えるか、あきらめるか、他の国に逃げるか、クーデターで政権を転覆するか、内戦を起こして独立するかのどれかである。小選挙区制度になってから組織票がない候補者が勝ちにくくなって、小渕優子とかの不祥事を起こした世襲政治家でさえ何度も当選して、票集めに比例で立候補する芸能人やスポーツ選手がB層に支持されて当選する有様では、投票しない人たちがあきらめている一方で、もはや民主制を見限って暴力でしか社会を変えられないのだと短気を起こす人も出てきてしまう。安倍晋三の暗殺の後に岸田文雄の暗殺未遂事件が起きて、最近も千葉市で鉄パイプで殺傷能力がある銃を自作した26歳の男が逮捕されて、取り調べに対して「日本の政治を含め、世の中に失望していた。日本の未来を良くするという自分なりの正義のため、こんな国にした者たちを攻撃することを想像していた」と供述したそうな。当事者として不景気で不幸な日々を生きて未来を奪われた若者が、当事者意識がなく腐敗した政治家に怒るのも理解できる。アメリカは政府が腐敗したときに対抗する手段を持つ権利を主張して銃を持ちたがるけれど、そのアメリカでも大統領選挙での不正選挙疑惑で議会制民主主義が機能しなくなりつつあって、テキサス州の独立や内戦の噂が出ていて『Civil War』という映画も人気だそうな。日本では銃刀法の取り締まりが厳しいので内戦は起きないだろうし、鉄パイプや火炎瓶とかで武装して暴動を起こしたところで警察の銃には敵わなくて鎮圧されるだろうけれど、内戦が起きにくいぶんローンオフェンダーが出てきて暗殺やテロに向かうと思う。竹中平蔵はホリエモンとの対談で「社会的に非難される事はあるけど、殺される事は多分ないから」とのんきな事を言っていたけれど、これは日本人の民度を信用しているというよりは、どうせ臆病な日本人は不平不満を言うだけで何もできないと舐めているのだろう。これから日本が衰退するにしたがって怒って天誅を下そうとする国民がさらに増えるだろうし、政治家や官僚や御用学者たちも身の危険を感じるようになったら当事者意識を持って無責任な言動をしなくなるかもしれない。国民の生命と財産を守って敵と戦って死ぬなら名誉として語り継がれるけれど、私利私欲を追求して腐敗して国民に誅殺されるのは恥である。長篠の戦いで命がけで援軍を呼びに行った鳥居強右衛門のような足軽のおっさんでさえ忠義を称えられて現代に名前が残っている。岸田文雄は悪政をして国民を虐げて国富を外国に譲渡して暗殺されかけた史上最低の総理として日本史に名前が残るだろう。どっちにしても死ぬのなら後世に恥じない最期を迎えるのがよいだろう。●話は聞かせてもらった!地方自治体は消滅する!上記のような様々な問題があるので、地方自治体の消滅は免れない。では我々はどう地方自治体の消滅に向き合えばよいのか。人口が減少するからといって短絡的に移民を大勢入れようとするのは論外で、日本の文化や伝統が好きで移住してくる移民ならまだしも郷土へのリスペクトがなくて仕事がほしいだけの移民が増えたところで方言や郷土史や伝統芸能を継承できないのであればその地域は実質的に消滅したようなもので、川口市のクルド人みたいに共生する気がない移民が増えたらむしろ自治体の破壊につながって消滅を速めるだろう。地方が衰退していく中で老人たちは何を残すのかの取捨選択が必要になるし、地方の未来を託された子供たちも自分が地域を担うのだという当事者意識が必要になる。人が多くても貧富の差が大きくて犯罪が多発して魅力がない自治体はあるし、人が少なくても風光明媚で穏やかで平和で魅力的な自治体になりうるので、自治体が合併して名前が消滅することを恐れずによい町を作っていけばよい。
2024.05.10
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こないだ父方の祖母の葬儀に行ってきたので、徒然なるままに葬儀について考えることにした。・葬儀とは何か葬儀とは人の死を弔うために行われる祭儀で、故人か喪主の宗教や地域の風習に合わせたやり方で葬儀をする。日本だと一般的に悲しみを表すために派手でない喪服を着用して、故人の家で通夜をして納棺をして霊柩車で棺をセレモニーホールまで運んで、セレモニーホールで葬儀をした後に火葬場に移動して火葬をして、お斎や直会とかの会食をして解散する流れになる。中国や朝鮮半島だと泣き女という葬儀で泣く仕事もあって、葬儀で感傷を強調している。外国だと賑やかに葬儀をする文化もあって、ガーナの棺担ぎグループのダンシング・ポールベアラーズが棺桶を担いで踊るCoffin Danceというパフォーマンスがインターネット・ミームになって流行した。・葬儀はつらい私はコミュ障なので、他人と会うだけでもストレスになる。知人の結婚式の二次会では新婦以外知らない人の中で一人で黙々と飯を食ってじゃんけん大会が始まったら終わるまでトイレに避難して新郎新婦に一言挨拶して帰ってきたけれど、これはもともと知らない人が集まるのだしせいぜい2時間程度なのでまだ楽だった。一方で葬儀では5時間電車に座って実家に帰って、祖母の家やら祭場やらのあちこちを車で連れまわされて乗り物酔いして、特に親しくもない親戚に囲まれて初対面のいとこの旦那とその子供たちのコイツ誰だよ的な視線を避けながらほとんど会話せずに3日間で合計20時間くらいじっと座って纏の鍛錬をしながら過ごして、トイレに行くタイミングがかぶらないように円で周囲の人の流れを把握しつつ絶で気配を消して素早くトイレを済ませて、べろべろに酔ってろれつが回らない酒好きの老人のとりとめもない話に無言で頷いて聞き役をこなして、コミュ障にとって人生最大級の苦行のようなイベントを何とか乗り切った。もしかしたらこの葬儀が裏ハンター試験だった可能性もある。オレじゃなきゃ見逃しちゃうね。心理的な面だけでなくて身体的にもつらくて、着慣れない喪服を着てじっと座りっぱなしで食後に眠くなっても横になってくつろぐことができなくて肩や背中がこるのが一番つらかった。登山で重いリュックを背負いっぱなしなくらい肩が痛くなって、2日くらい痛みがとれなかった。セレモニーホールの控室にマッサージチェアを置いたら行列ができる名店になると思う。・葬儀のメリット葬儀が非常に疲れたので、疎遠な親戚の葬儀なら仕事が忙しいことを言い訳にして弔電で済ませたり、通夜か葬儀の片方だけに参列するほうが楽だと思った反面、核家族化して子供が高卒で地元企業で働かずに日本各地の大学に就職して地元を離れていく現代では正月やお盆に本家に集まるようなこともしなくなって冠婚葬祭でないと親戚一同が集まる機会がないので、長時間のつらい葬儀を親族で共有して親族の名前と顔と人となりと職業を確認して血族の連帯感を深めたり、あるいはあのDQNっぽい一家とは深く関わらないほうがいいやと確認することにも意義があると思う。遺伝学的に見れば自分が直接子孫を残さなくても親族が子孫を残していれば血族の遺伝子は残るので、親族の中で若い人を助けてやるのも良い。いとこの子供は高校二年生で大学の文系の学科に進学したいそうで、私が模試で国語で200点取ったことがあるよと言ったらたいそう尊敬されたので、祖母が残した縁だと思って脳科学に基づく効率の良い記憶の仕方を教えたらたいそう感謝された。私もたまにはたいそう役に立つものである。もし彼が社会人になってから会っていたら新卒以下の年収のゴミとしてたいそう軽蔑されていたかもしれないし、一期一会の縁も面白いものである。いつか自分の家族の葬儀をするときに、どこに祭場や火葬場があって費用はいくらかかって控室の設備がどれくらい充実していてどういう段取りで葬儀を進めてどういう料理が出てどのくらい疲れるのかを確認できるという点でも有益なので、体力があるうちに一回は納棺からお斎や直会まで通して参加しておいても損はない。会うたびに老いていく親や親戚を人生の先輩として観察することで、いつか自分が死ぬときにどういう見送られ方をするのかという想像もついて、自分の死への備えもできる。来客対応や香典の計算とかを親族で分担することで喪主の負担を軽減できるし、親族の葬儀を手伝えば自分の葬儀でも手伝ってもらえるかもしれない。時間をかけて面倒くさい体験をすることで、親族の死を受け入れて感情を消化しやすくなるというメリットもある。世間では新型コロナや地震や戦争でろくに葬儀もできなかった人が大勢いる中で、時間をかけて葬儀ができるのは有難いことである。それに親族の死を体験することで、世界中の見ず知らずの人たちの死にも無関心にならずに同情できるようになるだろうし、それは人として成長する数少ない機会でもある。弔電を送るだけで済ませると記憶に残らないけれど、葬儀で普段とは違う服を着て斎場に行くと故人の最後の姿がエピソード記憶として長期間記憶に残るので、親しい人の葬儀は最後の思い出としてなるべく参加するほうがよいと思う。・祖先がもたらす時間の感覚我々は誰かが作った社会で生まれて、既に整備されたインフラと科学の恩恵を受けてそれなりに豊かな生活をしているけれど、そこに至るまでには数多の戦と災害があって多くの血が流れて飢餓や疫病や人権侵害に苦しんだ時代を生きてきた祖先がいた。父の実家の仏間に祖父の親戚たちの遺影があって、徴兵適格年齢になって従軍して南方戦線に行って26歳で戦死した人がいた。祖父と祖母が亡くなってその人のことを直接知る人はもういなくなったけれど、血族である私がその人の存在を忘れてはいけないと思う。私は宗教を持たないけれど祖先への敬意はあるので、親戚の家を訪ねたときはその家の宗派のやり方に合わせて水や線香をあげたりする。そうすると私と血族とのつながりを感じられるし、祖先の苦労に報いて勉学に励んで恥じないような生き方をしようと背筋を正すような気になる。最近は経済学者の成田悠輔が「高齢者は集団自決、集団切腹みたいなことをすればいい」と発言をしたのにキリンがCMに起用したことが批判されて財務省広報誌への起用も問題視されたけれど、成田は戦争中に集団自決した人たちがどんな思いで死んでいったか理解しているのか疑問である。自分の親族に第二次世界大戦で戦死した人がいたら自決を茶化すようなことは言えないだろうし、経済合理性のために凶悪犯でもない人の死を正当化するのは倫理観が欠如しているし、実現不可能な提言をするのは学者としてもおかしい。イェール大学の助教には誰でもなれるわけではないし経済については役に立つことをいうこともあるかもしれないけれど、そんな肩書よりも倫理観があるほうが大事だろうに、そんな人間として当たり前のことさえ理解せずに有名人をCMに使って儲けようとするキリンもおかしい。先達を蔑ろにして今だけ金だけ自分だけを考えてまるで自分がこの時代を築いたかのように振舞う金持ちやエリート、あるいは先祖と祖国を捨てて利己的に国を転々とする根無し草の移民たちは、たとえ一時的に地位や権力や金を得たとしてもいずれ次の時代を生きる人たちに同様に蔑ろにされて居場所を失って誰にも顧みられることもなくなるだろう。戦国武将の収入が何万石だったかを現代人は気にしないように、もし我々が後世に何かの影響を残せるとしたら、いくら金を稼いだかでなく、いかに生きて後世に何を残したのかという点のほうが重要である。葬儀に参列したり祖先の墓参りをしたりすると、今だけ金だけ自分だけを考えず、自分が生まれる前の時間、自分が死んだ後の時間の感覚を得られるのじゃないかと思う。・在日外国人の葬儀の問題最近は日本でも外国人が増えて日本で死ぬ人も増えているけれど、イスラム教徒の土葬を受け入れる墓地が全国に9か所しかなくて墓地不足が問題になっている。土葬自体が違法なわけではないけれど、墓地の新設の許可が下りないことで墓地不足になっている。かつては日本でも土葬をしていて、江戸時代には火葬に否定的な儒教が布教して土葬するようになって、明治時代には明治政府が火葬禁止令を出して土葬を推奨したものの、伝染病の蔓延と土葬可能な土地の減少で火葬禁止令が解除されて火葬が普及したそうな。土葬に対して自治体の条例で土葬を禁止したり地元住民が反対したりするのは、異教徒だから差別しているというよりは農業用の溜め池の水質汚染や伝染病の懸念が大きいのだろうし、エンバーミングをする業者が土葬の安全性を保証できれば禁止する理由は特にないと思う。安全と安心は違うとしばしば言われるように、土葬が科学的に安全だと証明できても地域住民が安心していなくて自治体が禁止しているのであれば、地道に対話して信頼関係を築いて安全だと説得するしかないだろう。あるいは日本政府が移民の受け入れを拡大するなら、単なる労働力と見なさずに死後のことも考えて、地方自治体に対処を丸投げせずに国の責任として外国人用の墓地を整備するべきである。外国人の葬儀のやり方を認めないのは信教の自由を侵害していて外国人差別だと言う人もいるけれど、私は差別ではないと思う。もしチベット仏教徒の在日チベット人が鳥葬をしたり、ヒンドゥー教徒の在日インド人がジャル・プラヴァの儀式として病死した人の遺体を川に流したり、食人習慣がある部族が家族の遺体を食べたりするのを認めないのは差別なのか。おそらく宗教的行為だとしても逮捕されて死体遺棄罪や死体損壊罪とかになるだろうし、もし外国人が日本では違法になるやり方で葬儀をやりたいのであれば、そういう葬儀が許されている母国で弔えばいいし、葬儀が大事ならそもそも異教の文化圏に行かないで母国で生活するという選択肢もある。日本の主権者は日本国籍がある日本人なのだから外国人の宗教や倫理観に合わせて法律を変えるものではないし、どんな宗教的行為であれ法律で違法になっている行為を禁止するのは差別ではないだろう。オウム真理教の教義に基づいてポアした人たちが殺人罪として裁かれて、シャクティパットで病気が治せると主張したライフスペースが殺人罪として裁かれたように、信教の自由はあっても違法な宗教的行為を認めるわけではない。ネパールでは火葬したあとで川で散骨するのが一般的だけれど、日本では漁業を優先して川や湾港での散骨は規制されている。科学的に見れば遺灰はべつに危険な成分ではないけれど、遺灰を食べた魚を食べたくないという心理は大勢の日本人が理解できるものだし漁業への影響が大きいので、漁業権内での散骨を禁止するのも差別ではないだろう。陸上散骨や海洋散骨は自治体ごとにガイドラインがあるので、それに沿ったやり方で周囲と問題をおこさないように散骨すればよい。・葬儀とフィクション登場人物の死は物語の見どころになるのでミステリにしてもアクション映画にしても人が死ぬ展開は多いけれど、死者を弔うことはどういうことかをテーマして葬儀を掘り下げるフィクションがあまりない印象である。有名なのは納棺師をテーマにした映画の『おくりびと』くらいだろうか。純文学だとたいていつまらない葬儀をつまらないまま書いていて、滝口悠生の芥川賞受賞作の『死んでいない者』は通夜を書いていたけれどつまらなかった。自分の親族や友人の葬儀なら過去の記憶を思い出したりして葬儀で感極まることもあるけれど、見ず知らずの他人の葬儀、しかも架空のキャラクターの葬儀を描かれても読者としては特に思い入れもないので、フィクションとしてはつまらなくなる。ドリフの葬式コントだと厳粛に振舞うべき葬式で脚がしびれているのをくすぐったりして変なことをやるギャップを笑いにしているように、コメディーは価値観を逆転すればいいのでやりやすいけれど、それは葬儀の本質をテーマにしたとは言えないだろう。まじめに葬儀をテーマにしてなおかつ面白い作品に仕上げるのはなかなか難しそうで、そう考えると『おくりびと』はそれなりに面白く見れて良い作品だと思う。外国のフィクションでどういうのがあるかを調べてみたら、2007年の映画『Death at a Funeral』は主人公の喪主の男性が癖がある親戚たちに悩まされるダークコメディーのようである。1996年の映画『The Funeral』は犯罪者一家の葬儀で兄弟を殺した相手を探して復讐するような展開のようである。こういうのは葬儀の話というよりは人間関係のいざこざの話で、別に葬儀でなくても結婚式や同窓会でも似たような展開にできそうである。2019年の映画『ミッドサマー』はカルト宗教の異常な人身御供の儀式を描いていて、葬儀というよりは殺人が見どころになっている。こういうホラー系の異常な展開のほうがフィクションとしては作りやすいのかもしれない。
2024.04.29
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Business Insiderの「アメリカのZ世代女子の間で今、流行っているのは「読書会」」という記事によると、パンデミックで孤独になった若い女性が社交のために読書会に参加するようである。アメリカはもともと社交を重視する文化だけれど、孤独な趣味ともみなされかねない読書を社交の手段にするあたりは面白い。というわけで徒然なるままに読書会について考えることにした。●読書会とは何かWikipediaによると読書会とは集団で読書または読書に関するコミュニケーションを行うためのイベントで、読書会の進め方には特定のテキストを一区切りずつ読んでいく輪読会式、特定のテキストを事前に読んだうえで報告や講義をする研究会式、自由なテキストとテーマで発表する発表会式があって、何を読むかについては同一のテキストを扱うテキスト読書会、テーマが同じならどのテキストを使ってもいいテーマ読書会、テキストもテーマも自由な自由読書会があるそうな。大学の文学部だと主に研究会式で特定の小説を皆で合評して様々な視点から小説を見ることで理解を深めるし、大学院の学会は発表会式で各研究者が自分の専門分野の研究内容を発表するけれど、民間の読書会は研究のためというよりもカジュアルに本の感想を言い合って共感するのが目的の集まりといえるだろう。・読書会のメリット読書会のメリットは特定の話題について他人の意見をちゃんと聞けることである。政治や宗教やスポーツの話題だと意見の違いで喧嘩になるかもしれないけれど、本の感想なら正解がないので解釈が違ったところでそういう見方もあるよねと受け流して喧嘩にならなくて相手の考え方を知るきっかけになるし、感想が似ていたら共感して仲良くなれるので、社交の話題作りに向いている。他人の意見を聞いて自分の誤読に気づいたり、自分の解釈よりももっといい解釈に気づいたりして、本やテーマへの理解も深まる。それに読書会の参加者はそれぞれ本の好みや知識量が違うので、一人で読書するよりも関連する知識を集めやすくなる。・読書会による共時性の創出スポーツや音楽や映画はファンが会場に一斉に集まって同じ体験をする共時性があるので、ファン同士が仲良くなりやすい。それに比べて読書は基本的に一人でやるものだし、出版されてからすぐ本を読むとは限らなくて本を読むタイミングが人によって違うので、作家や作品のファンがいてもファン同士で交流しにくい。それにブログやamazonに感想を書いたところで批評家でない素人の感想はほとんどの人が興味を持たない。そこで読書会という場所と機会を作ることで、皆で同じタイミングで同じ作品を読むという共時性が生まれて、自分の感想を丁寧に聞いてフィードバックをくれる相手もいて一人で読書することでは得られない体験ができる。これは読書会ならではの付加価値といえる。大学の文学部の授業内容も独学で勉強しようと思えばできなくもないけれど、教授を中心にして学生が皆で同じテキストを読んで意見を言い合うことに講義の意義がある。・アメリカの読書事情経済産業省の「国内外の書店の経営環境に関する調査(PDF)」という2023年の資料によると、アメリカの書店数は2012年に7244店舗だったのが2020年には5733店舗になって減少傾向だった。しかし新型コロナのパンデミックで書店が人気になって紙の本の売り上げが増えて、独立系書店が増えて大手書店チェーンのバーンズ・アンド・ノーブルも店舗数を増やして2023年には書店数が増加に転じたようである。人気の司会者のオプラ・ウィンフリーのテレビ番組の企画の「Oprah's Book Club」が読書会ブームに影響したそうで、番組で取り上げた本はベストセラーになるそうな。日本で言うと「徹子の部屋」のゲストに作家が来るようなものである。こないだのYouTubeの動画でアメリカにはクリエイティブライティングコースが多いことを取り上げたけれど、アメリカの社会全体で作家に対する敬意があるのはよい。日本だと古典や小説は金儲けの役に立たないから無駄だと言う教養のない拝金主義者が多いけれど、金持ちになっても教養への関心を失わないアメリカの富裕層を見習うべきだろう。文部科学省の「アメリカ合衆国の読書環境・読書活動の実態(PDF)」という2012年の資料によると、アメリカ人はあまり読書をしなくて読書量が減るに従ってティーンエイジャーや成年男子の間で読解力も低下していると言われている。ただ社交するだけなら映画鑑賞会でもスポーツ観戦会でもなんでもいいだろうに、読書会に参加することがイケてる女子のステータスになるのは本を読まないアホな男子と対照的な知的な行為であることが大きな要素だと言えるし、教養マウントとかをしたりしてアメリカの社交界のスノビズムとも相性が良いのだと思う。アメリカの読書会はブッククラブに所属するメンバーが特定のテキストを事前に読んだうえで自由に意見を言う形式で、日本でいうギャルサーに相当する活動としてイケてる女子同士がグループを作って読書会をしているようで、本を読まないで社交だけするメンバーもいて必ずしも本好きの集まりというわけでもないようである。●読書会の可能性人が集まる行為は何かしらのビジネスになるものなので、頭の体操として読書会の発展の可能性を考えてみる。・サロン読書会中世のフランスでは貴族の邸宅の応接間(サロン)に学者や作家とかの文化人を招いて文学論とかの知的な会話をして社交する文化があったけれど、現代でも金儲けに飽きた風流な資産家がサロン文化を復活させて小説家を招いた読書会をして小説家に謝礼をあげたりパトロンになったりしたら貧乏な小説家が生活しやすくなって小説家の地位が向上するかもしれない。・婚活読書会結婚相手を探している男女が恋愛小説の読書会をすれば、職業や年収とかの肩書で選ばずに恋愛観や結婚観が合う人を選びやすくなるかもしれない。会話下手な人でも本の話をすればいいので、話題がなくなって気まずくなることもなくなる。出版社や本屋が婚活読書会を主催してそれをきっかけに結婚する人が増えれば恋愛小説の売り上げが増えるかもしれない。・認知症予防読書会高齢になると自分はもうじき死ぬのだから社会がどうなろうがどうでもいいやと社会や他人に関心を持たなくなって、自己中心的になったり無気力になったりする。町内会やサ高住主催で月に1回くらい読書会をして、自分の意見を言うだけでなくて他人の意見を聞くことを習慣にすれば、社会性を失いにくくなってわがままで周囲に憎まれる老人や無気力な老人になりにくくなるかもしれない。・ホラー読書会ホラー小説の読書会をして、誰かが感想を言うたびにろうそくを消していったり、交代で朗読しながらろうそくを消していったりしたら怖い雰囲気が出て面白いかもしれない。百物語と違って自分で怪談を創作する必要がなくて参加しやすいので、ホラー小説の新作の発表のタイミングに合わせて小規模のイベントを開きやすいと思う。・カラオケ読書会カラオケボックスみたいな時間貸しの小さい部屋で食べ物を注文してBGMを流しつつマイクを使って朗読したらおしゃれな感じの読書会ができて内輪で盛り上がるのにちょうどよいと思う。・聖地読書会フィクションの舞台になった場所は聖地扱いされてファンが集まるけれど、ただ写真だけ撮って帰られても地元の観光業が潤わない。読書会をファン向けの観光ツアーに組み込んで、バスでゆかりの地を巡ったあとに地元の料理を食べながらファン同士で歓談する機会をつくれば観光業の売り上げが増えるかもしれない。・オンライン読書会YouTubeだと政治経済の解説者が自著の宣伝をすることが多いけれど、本を買ってねというだけで実際に買って読んだ人の感想は取り上げない。そこでオンライン読書会を開催して読者同士が感想を言い合う機会を作って著者がコメントしてそれをYouTubeのコンテンツにすればフォロワーが増えるかもしれない。・グランピング読書会パジャマパーティーが子供に人気なように、夕食後から寝る前の自由な時間はなんとなくわくわくするものである。グランピングはキャンプよりも手間がかからないけれど、暇だからといってスマホをいじって日常と同じ行動をするのではグランピングする意味があまりなくなるので、『羆嵐』や『野性の呼び声』とか自然をテーマにした本の読書会をしたら雰囲気が出ていいと思う。・英語読書会英語を勉強している大学生や社会人が洋書を読んで英語で感想を言えば語学学習がはかどるかもしれない。・エクササイズ読書会読書をしている間はあまり体を動かさないので運動不足になりがちである。そこでスクワットやヨガをしながら読書会をしたら運動不足を解消できてよいかもしれないし、一人だと運動を続けられない人も皆でやれば運動が習慣になるかもしれない。・ギャルサー読書会日本だとギャルは遊びまくって変な言葉遣いをするアホっぽい感じがあるけれど、ファッション雑誌がギャル向けの本を特集したらアメリカみたいに知的ギャルを目指すギャルサー読書会がブームになるかもしれない。社会問題の一つも論じられないようでは21世紀のギャルは務まらないようになれば、知的ギャルが尊敬されるようになって若者を代表するオピニオンリーダーが出てくるかもしれない。・社員研修読書会ただ社訓を復唱したり黙って訓示を聞いたりするよりも、読書会でビジネス書とかについて意見を言い合えば会議で発言する訓練になって有意義かもしれない。そんで指導役の先輩が小粋でウィットに富んだコメントを言えれば新卒たちの尊敬を集められるかもしれない。・読書会文学賞読書会で盛り上がった本を全国の読書会グループに推薦してもらって集計して賞をあげれば、読書会ブームが起きて本の売り上げが増えるかもしれない。
2024.04.18
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日本のメジャー大学に小説創作コースがないのは不思議だというコメントをもらったので、日本で文芸創作の教育が不十分な理由について考えた。小林秀雄が「宿命的に感傷主義に貫かれた日本の作家たちが、理論を軽蔑してきたことは当然である」と言ったのは現代でも同じ状況で、又吉直樹が『火花』で「本当に美しかった」と感傷をごり押ししていたのが典型的な感傷主義である。文学賞の選考でも芸術作品として技術の良し悪しを評価するべきだろうに、いい話というということに満足して技術的に下手な小説に文学賞をあげて芥川賞作家としてもてはやすのは悪い傾向だと思う。いい話で満足したいなら大衆小説でやればいいし、芸と術を追求しないなら芸術じゃない。あるいは逆に文体実験とかの奇をてらう一発芸みたいなやり方をやる作家もいるけれど、それは技巧の洗練の結果として生まれた作品ではないし再現性がないのでそういう作家は結局は大成しない。よい小説を作るには地道に技術や理論の基礎教育を充実させて訓練して洗練させていくことが遠回りなようでいて結局は一番の近道だと思う。
2024.04.12
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最近は大谷翔平の通訳の水原一平が大谷の金を使って巨額の違法賭博をしていたことが話題になっているので、徒然なるままにギャンブルについて考えることにした。●ギャンブル(賭博)とは何かギャンブルは金銭や品物を賭けて勝負を争う遊戯で、参加料が有料、勝敗の結果が偶然、勝敗の結果に応じて収益が変わるという条件を満たすものをいう。賭博は厳密に言うと、勝負事の結果に参加者が関与できない賭事と、勝負事の結果に参加者が関与できる博戯に分かれている。日本だと競馬、競輪、競艇、オートレースが公営競技になっていて、それ以外の賭博は賭博罪で処罰される。宝くじも当せん金付証票法で定められた都道府県と都市だけが発売できて、個人や会社が発売すると違法である。●ギャンブルで勝つために必要な要素・運宝くじやBIGのようにギャンブルの参加者がどういう能力を持っていようが完全で運で当たりが決まる賭事は、参加者は労力を使わずに実力以上の大金を得る可能性があるので少額で気軽に参加しやすい。しかし当たらない確率の方が高いので、パチプロと違って宝くじだけで生計を立てるくじプロみたいな人はいない。・判断力競馬だと実力がある一番人気が必ず勝つとは限らなくて馬の機嫌が悪いとかの運の要素もあるし、単勝だと当てても配当が低いので、連番のどの組み合わせに賭けたら儲かるかというリスクとリターンの判断力が必要になる。totoはBIGと違って賭ける人が勝つチームを選べるので、サッカーのどのチームが強いとかどのチームの戦術とは相性が悪いとかの知識も必要になるけれど、主力選手がけがやファールをして退場するとかの運の部分は予想しきれない。FXも不確定な未来を予測して金をかけて参加者同士でゼロサムゲームをしているという点ではギャンブルで、金融政策や外国の選挙の影響等の知識が必要になるけれど、戦争や災害とかの予想できない突発的な事態で相場が大きく動く運の部分もある。ポーカーや麻雀のように参加者同士で競うゲームは配られる手に運の要素があるし、そこから相手の手を推測してどう自分の手を展開していくか、勝負するか勝負を降りるかという判断力が必要になる。1回限りの勝負なら運の要素が大きいけれど、ゲームを何度も繰り返す場合は状況に応じて適切な判断ができる人が総合的に勝つようになるので、ギャンブルで生計を立てるプロのギャンブラーが出てくる。・技術パチスロは台の良し悪しの判断力に加えて、目押しするためにはリール配列を覚える記憶力や動体視力や素早くボタンを押す身体能力が必要になる。その技術をもっと生産的なことに使えばいいのに。●ギャンブルの問題・ギャンブル依存症になるギャンブルをする人が320万人いるうちの3%くらいがギャンブル依存症になるそうで、大阪のカジノ誘致などでギャンブルする人が増えるほど依存症になる人も増えていく。ギャンブル依存症になると家族や職場の金を盗んだりして周囲にも迷惑をかけるようになる。ギャンブル依存症や麻薬中毒や性犯罪のように、快楽に関する依存症は脳の報酬系や価値判断に異常をきたしていて治療で認知や行動を変えさせるのに時間がかかるし、治療中に快楽の欲求に負けて再犯しやすいので社会復帰が難しくなる。水原一平はギャンブル依存症だと告白したけれど、年収数千万円あって通訳としては高収入なので違法なギャンブルをやってまで金を儲ける必然性がないし、堅実に不動産や投資信託に投資して老後はSNSで大谷の思い出話とかをしておけば一生食いはぐれることはなかっだだろう。いくら高収入だろうが欲を自制できなくて高額ベットをしたら破滅するところにギャンブル依存症の危険性がある。ギャンブルはホストクラブの売掛金の問題と似ていて、たとえ合法であっても少なからず不幸になる客を生み出して依存して犯罪までする客の金で儲けている事業は行政が放置せずに健全化のために規制するか改善していくべきで、例えば公営競技をクレジットカードを持っていないと賭けられないシステムにして、カード会社の与信情報を使って最大でも与信枠内までしか賭けられないようにしたら自制できずに持ち金を全部ブッ込む人を減らせるかもしれない。パチンコやパチスロは業界共通のIDカードを作って全店舗合計で週に最大〇時間までしか遊べないように規制したら一年中開店から閉店まで入り浸るギャンブル依存症の人を減らせるかもしれない。・働かなくなるギャンブルで労せずに大金を得られるようになると、低賃金でこき使われてまじめに働くのが馬鹿らしくなって働かなくなる。そうすると仕事で得られるはずだった知識や技術が身につかなくなるので、金がなくなってから働こうとしても就職先がなかったり、社会全体の生産能力が落ちたりする。・収入以上に借金をするギャンブルをしていると借金をしても一発当てれば取り返せるという甘い考えになって、いったん金銭感覚が狂うと歯止めが効かなくなって、収入からこつこつ借金を返済しようとせずにギャンブルで勝って返済しようとして返済のめどが立たない無計画な借金が増えていってしまう。ギャンブルのために借金をした場合は免責不許可事由として自己破産が認められないので、借金で生活が破綻しても多重債務から抜け出しにくくなる。・生活保護受給者の社会復帰の妨げになる生活保護をもらったとたんにパチンコや競馬に全部使って負けて家賃を払えなくなる人もいるし、勝ったら勝ったで収入を申請しないと生活保護の不正受給になりうるし、公金で無職のギャンブラーの生活を支援するのも倫理的にどうなのという話になるし、ギャンブルが原因で生活が破綻して生活保護を受けている人はまずギャンブル依存症を治さない限り社会復帰できなくなる。・治安の悪化借金で首が回らなくなった人が闇金に手を出して返済を急かされて目先の金欲しさに強盗をする場合がある。強盗したところで全額返済できるわけではないし前科がついたら就職先がなくなってますます返済が難しくなるのに、返済に追われてテンパっている人には合理的な判断ができなくなって犯罪をやってしまう。家族の金を盗んだり、会社の金を横領したりする場合もある。パチンコ店で暴れて台を壊したり店に放火したりする人もいる。負けるのが嫌ならパチンコをやらなきゃいいじゃんと思うのだけれど、ギャンブル依存症になっている人はギャンブルに固執して勝てないことでストレスをためて暴発するようである。パチンコ店の駐車場の車に子供を放置して熱中症で死なせる事件もたびたび起きている。外国だとサッカーやボクシングがギャングの賭けの対象になっていて、大金を賭けた試合でミスをして負けた選手が損したギャングに殺されたり、ギャングに脅されたり買収されたりして八百長を指示されたりして、スポーツの健全性も脅かされている。例えば1994年にワールドカップでコロンビア代表のエスコバルがオウンゴールして負けた原因を作って射殺されたけれど、これは賭けで損したギャングの指示でヒットマンに殺害されたと見られている。・反社会的勢力の資金源になるいくら法律で公営競技以外の賭博を禁止したところで、賭場はたいした設備がなくてもすぐに開けるので反社会的勢力の資金源になりやすい。ビルやバーの一室が闇カジノに使われたり、店舗がなくても競馬や野球賭博のノミ行為も行われたりする。オンラインカジノも資金源になる。日本人が外国のオンラインカジノで賭けるのは違法だと警視庁のサイトで言っていて年間で59-127人程度が検挙されているけれど、オンラインカジノは違法でなくてグレーゾーンだというサイトがたくさんあって、たぶんカジノ運営側が違法でないかのように誘導しているのだろう。カジノはマネーロンダリングにも利用されて、犯罪で手に入れた出所を明かせない金でもカジノでチップに変えてそのチップを預けておけば銀行代わりに裏金をプールしていつでも現金化できるようになるし、どのゲームでいくら勝ち負けしたかという明細も出ないので金の追跡が困難になる。●なぜギャンブルにはまるのか・大儲けしたときの快楽が忘れられないギャンブルは胴元が必ず儲かる仕組みになっているとはいえ、負けた客が二度とギャンブルをやらなくなるのではすぐに客がいなくなってビジネスにならない。そこで胴元は負けた客でもそれなりに楽しめて勝った時にはさらに興奮が増すような仕組みをとりいれる。例えばパチンコは台がぴかぴか光ったり、漫画やアニメをテーマにしてリーチ時に特別な演出が出て焦らしたり、大音量で音楽を流したりして客を楽しませるようにしている。そんでコツコツと負けを重ねてたまに大当たりして儲けるとドーパミンがどぱどぱ出て、トータルでは損をしていても大儲けした時の成功体験が記憶に強く残って、その快楽がまた欲しくなってギャンブルにはまるようになる。普通に仕事をして節約して貯金額を増やすのでは成功体験によるドーパミンの快楽は得られないので、ギャンブルにはまる人は金が増えるかどうかよりも快楽を求めているといえる。・興奮が欲しい欧米人にはアドレナリンジャンキーと呼ばれるスリルを楽しみたくて仕方がないタイプの人がいる。例えばビルの屋上でパルクールしたり、電車の屋根に上ってトレインサーフィンしたりして、金銭的リターンがないにもかかわらず危険を追求してたびたび死んでいる。そういう人がいたからこそ古代の人類がリスクを冒して旅をして山や海を越えて世界中に生息域を広げてきたのだけれど、現代ではあまり必要がない能力になっている。そういう人は退屈な日常生活では満足できないので、ギャンブルで大損して破産するかもしれないというスリルを楽しむようになる。成功した時のドーパミンの快楽が欲しい人とは違うタイプである。・運を言い訳にできるスポーツのように完全な実力を競うゲームと違って、ギャンブルは運の要素が大きい。そうすると負けたときに運が悪かったという言い訳ができる。合理的に考えればギャンブルで損する人はギャンブルに向いていないし続けたところで損を増やすだろうからやめたほうがいいのに、ギャンブルで取り返せると考える自信過剰な人が多いようである。たぶん何度か大勝ちした経験があるので、運よく勝てたとは思わずに実力で勝ったと勘違いしているのだろう。勝った時は実力、負けたときは運のせいにできて、自分に都合がよい解釈ができるわけである。・すぐに負けを取り返せる可能性があるギャンブルは競馬の大穴やスロットのジャックポットのように、ごく稀な大当たりで大金が手に入る場合がある。なまじ負けを取り返せる希望があるせいで負けたときが辞め時にならなくて、負けた分を次で取り返そうとしてさらに負けが込んで掛け金が大きくなっていく悪循環になる。株の投資の場合は大きな利益を出すには数か月から数年の時間がかかるし、休日は取引できないので、投資家は損をしたら素直に損切りして再エントリーの機を見たりして冷静に判断する時間があるので投資依存症みたいなものにはならない。ギャンブルでは負けを次の勝負ですぐに取り返せる可能性があって冷静になる期間がないので興奮状態のままブッ込むことが依存する原因になっていると思う。・サンクコストを捨てられないパチンコやスロットだと打ち始めてすぐ当たりがでるわけではないので、もうちょっと打てば当たるかもしれない、いまやめたらその台への投資が無駄になって次に打つ人に当たりが出てしまうかもしれないという心理が働いて辞め時が難しくなって長時間プレイする原因になる。●健全なギャンブルの楽しみ方・借金をせずに余剰金を使うギャンブルだけでなく投資にも言えることだけれど、基本的に生活に必要な命金には手を付けてはいけないし、返済のめどがない借金をしてはいけない。ギャンブルが主な収入源として生活の中心になってしまったらそれはもはや健全とは言えないので、たとえ一時的に勝って儲かったとしても普通に仕事をして安定した収入源は維持するべきである。そんで生活に余裕があったら一定額の余剰金を使ってギャンブルをして、勝ったとしても全額をギャンブルに使わずに一定額を次回の余剰金分としてプールしておいて、負けて余剰金がなくなったらあきらめてそこで終わりにして、また余剰金がたまってからギャンブルをやればいい。それなら生活に影響が出ることはない。・金を賭けずにギャンブルに似たことをするゲームセンターのコイン落としはジャックポットがあったりして仕組み自体はギャンブルと似ているけれど、金でなくてコインを使っているのでゲームとして楽しめる。パチンコやパチスロやカジノのアプリのように金を賭けずにただのゲームとして遊べるアプリもある。・金を賭けずに「一時の娯楽に供する物」を賭ける「一時の娯楽に供する物」とは関係者が即時に娯楽のために費消するもののことで、食べ物やたばこなどを賭けても賭博罪にはならない。例えば弁護士ドットコムニュースの記事ではテレビの企画の「ゴチになります!」で金額当てゲームで負けた人が全員分の飲食代を払うのは賭博罪にならないと解説している。・他人のギャンブルを眺めるYouTubeではパチンコやパチスロや競馬の動画が無数にある。ギャンブル依存症を治したい人は自分で金をかけずに他人が金を賭けて一喜一憂する様子を見て代償行為として満足しているのだろう。他人の不幸は蜜の味とかメシウマとかいうけれど、ギャンブルで大損して泣きわめいている自業自得の人は同情せずに安心してニヤニヤ眺められる。●我々は皆ギャンブラーである金銭を賭けた賭博をやらない人でも、不確定な未来に対して時間(ある期間の労力や学習にかかる費用)を賭けて勝負して成果を得ようとしているという点では我々は皆ギャンブラーである。例えば高校生がいい大学に行っていい会社に就職しようとして同学年の人と学力を競うのは賭博よりは運の要素が少なくて実力通りの結果になる確実性が高いけれど、それでも運が悪くて勉強したところが試験に出なくて数点の差で不合格になったり、大学を卒業するときに運が悪くて不景気で就職に失敗したり、病気や災害や戦争が受験と重なって勉強どころでなくなったりする人は少なからずいる。人間関係でも無数にいる人の中からいい人と出会えるかどうかは運だし、出会ったところでうまく付き合えるかどうかはある程度時間をかけて話を聞いてみないとわからないし、自分より容姿や性格や財産が勝っている恋敵に横取りされることもある。別れる時にプレゼントやデート代を返せと言ってサンクコストを回収しようとするみみっちい人や執着してストーカーする犯罪者になってはいけなくて、賭けに負けたらあきらめて引くべきである。リスクを取らないで平凡に慎ましく生きるのは別に悪いことではない。しかしリスクに無自覚でリスクマネジメントができなかったり、リスクを過剰に恐れて子供の可能性の芽を摘んだりするのはよくない。しばしば親が子供が芸能人やミュージシャンや小説家や漫画家を目指すことに反対したりするけれど、たいてい成功するのは親の反対を押し切ってリスクを取った人たちである。金を賭けるのと違って夢に破れたからといって生活ができなくなるわけでもないのだから、運否天賦でえいやっと夢に賭けてみればいい。どういう家庭に生まれてどういう遺伝子を持っているかも運だし、どう生きるにせよ自分の思い通りになる人生なんてないのだし、非生産的なギャンブルで一喜一憂するよりも限られた人生のうちの数年の時間を何か生産的なことに賭けるほうがよっぽど楽しいと思うし、たとえうまくいかなかったとしても真剣に取り組んでいたら何かしらの能力は身につくので次の挑戦につながるものである。
2024.04.01
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2021年に大阪の進学校の私立清風高校の試験でカンニングした2年の生徒が自殺して、遺書には「このまま周りからひきょう者と思われながら生きていく方が怖くなってきました」とつづられていたそうで、教師の不適切な指導が原因だとして両親が約1億円の損害賠償を求めて学校を訴えたことがニュースになっていた。若者が亡くなったのは残念だけれど、カンニングはいけないと思うので、これについて考えることにした。●カンニングとは何かカンニングは試験の時にメモを見たり他人の答案を見たりしてずるをすることである。英語のcunning(ずるい)が語源の和製英語で、英語ではcheating(不正行為)という。明治時代に先にカンニングという言葉が紹介されてチーティングでなくカンニングという言葉が定着したようである。大学受験や資格試験とかの大事な試験ではたいてい試験監督がいて不正行為がないように監視していて、試験中にトイレに行ったりしていったん退室した人の試験会場への再入室を禁止したり、試験に遅刻した人の入室を禁止したりしている。試験に持ち込んで机の上にのせて使ってよいものにも制限があって、スマホやスマートウォッチやワイヤレスイヤホンとかの外部と通信できる機器はたいてい認められない。法科大学院の入試だと書き込みや付箋がない六法全書を持ち込んで参照してもよかったり、FP試験で電卓を使ってもいいように、試験中に本を参照したり電卓を使ったりすること自体が絶対だめとわけではなくて試験で禁止されていることをやるのが不正行為にあたる。・カンニングの手法カンニングペーパーと呼ばれる紙に試験に出そうな箇所の情報を書いて、試験中にこっそり見るのが代表的なカンニングの手法である。試験監督の人数が少ない場合は共犯者が気をそらした隙に回答を盗み見たりする。試験の身分確認が厳格でない場合だと替え玉受験が行われることもあるし、オンラインで回答する試験も替え玉を使われたりする。昔は紙くらいしか記憶媒体がなかったのでカンニングペーパーをちらちら見るような不審な行動をしている人を警戒する程度の対策でよかったけれど、テクノロジーの発展とともにカンニングの手法も多様化していて対策が大変になっている。不正の仕方に国民性も出るようで、インドだと親が学校の壁をよじ登って子供にカンニングペーパーを届けたり、ロープで壁にぶら下がって集団カンニングしたりしてたびたび問題になっている。中国だとカンニング専用の腕時計型デバイスや金属探知機にひっかからない超小型イヤホンや消しゴム型ディスプレイとかのハイテク技術を使ったカンニングをしているようで、電子機器の持ち込みを禁止して4G電波を遮断しても5Gで通信したりして抜け穴を探ってカンニングをしていて、日本の大学を受験する中国人留学生のカンニングが見つかったりしているので日本でも外国の最新のカンニング手法に対応しないといけない。ホワイトハッカーが脆弱性を発見するみたいに、学校でも試験の欠陥を見つける目的でカンニング大会を開いて対策を強化したらよいと思う。・カンニングの罰則試験では公平な条件で同じ問題に対する回答能力を競っているからこそやる意味があるので、その条件に違反して不正をする人は試験の成績を取り消されて罰則を受ける。カンニングに対してどういう罰則があるかは学校によって違うだろうけれど、私が知っている大学だと試験でカンニングをしたらその期に受講した全科目の単位が取り消されたり、停学処分になったり、コピペレポートを提出した場合は校内の掲示板で学科と名前を公表されてその科目だけ単位なしになったりしていた。学内の成績を評価する試験でのカンニングに対して刑事罰はなくて校則で処理されるけれど、入試でカンニングした場合はその学校の生徒でないので校則が適用されなくて偽計業務妨害で送検されて三年以下の懲役又は五十万円以下の罰金になる。中国だと高考(ガオカオ)と呼ばれる普通高等学校招生全国統一考試でカンニングすると最長7年の懲役刑になるそうで、日本より厳しめである。私立清風高校の場合は教師に叱責された上に全科目0点、自宅謹慎8日間、写経80枚、反省文の作成という罰があったようで、写経は何のためにやるのかよくわからないけれど、それ以外は特に厳しい罰則というわけでもないだろう。●カンニングをやる理由・認知能力の低下人間が車を使うようになって運動能力が落ちたり、パソコンを使うようになって漢字を書けなくなったりするように、科学が発展して生活が便利になるほど必然的に人間はそれまで使っていた能力を使わなくなって能力が衰えていく。これは必ずしも悪いことばかりではないけれど、スマホ依存になって記憶力が思考力が落ちることは明確に悪いことだと言える。最近はスマホばかり使ってデジタル健忘症になって記憶力が落ちている30代未満の人が多いようで、これは脳がエネルギーを節約したがって、調べればすぐにわかる情報は重要でない情報だと脳が判断して長期記憶に残らないのが原因のようである。例えば単語を調べる時にインターネットですぐ検索するよりも労力を使って紙の辞書でじっくり調べる方が脳の活性が高まるそうな。さらに脳は何もせずにぼんやりしているときにデフォルトモードネットワークで活動していて情報や思考を整理しているけれど、スマホ依存の人は移動中もトイレや風呂や就寝前の布団の中でもずっとスマホを使っていてぼんやりする時間が無くなって、脳内の情報が整理されないまま散らかった状態になっていることが思考力や集中力が低下する原因になっている。スマホを使っていなくても手元にスマホがあるだけでも気が散るという研究結果もある。パソコンが登場した時は問題にならなかったのにスマホがいろいろ問題になっているのは、パソコンはワープロの上位互換機として職場に据え置いて主に資料作成やデータ管理とかの情報のアウトプットに使っているのに対して、スマホは持ち運びしてSNSや検索などで主に情報のインプットに使うという違いが大きいのだろう。必要な時にだけインターネットを使って情報を参照したりデバイスに情報を記録しておいて参照するのは作業としては効率がよくても、ずっとスマホを手元に置いていじりっぱなしなのは学習としては効率が悪いわけで、参照と学習は別の行為としてそれぞれの是非を考えるべきである。最近は暗記して速さや正確さを競う認知能力は外部デバイスで代替できるので創造力とかの非認知能力を高める事に注目が集まっているけれど、それでもある程度の情報は長期記憶として学習しておかないと既知の情報を基にした複雑な思考ができなくなって創造力もなくなってしまうので、認知能力が大事でなくなるわけではない。職場のデジタル化による作業の効率化はやるほうがよいと私は思うけれど、学校のデジタル教育が子供の認知能力の低下を招くのであれば高校生まではノートとペンを使ったアナログな学習を優先するほうが実際の学習効率はよいかもしれない。インターネットの検索やAIにも思考力を低下させかねない問題があって、Googleは検索結果に直接情報を表示するようになったけれど、この機能が便利な一方でタイパ志向の若者は抜粋部分だけで満足してサイトにアクセスしてソースの全文を確認したり他のソースと比較したりしなくなった。さらにはChatGPTが登場して、物事を論理的に考えて根拠や整合性を検証する過程をすっ飛ばして簡潔な結論だけアウトプットできるようになった。読売新聞の「中学1年生250人の半数超、理科の課題で同じ間違い…教諭の違和感の正体は生成AIの「誤答」」という記事だと、都内の私立中学校で唾液アミラーゼの働きを調べる課題を出したら生成AIの回答を生徒がそのまま書き写していて同じ間違いをしていたそうだけれど、時間をかけて複数のソースを調べていたら間違いに気づけただろう。すでに学習を終えて自分で物事を考えて判断できる大人が便利な道具としてスマホや生成AI使う分にはあまり問題ないだろうけれど、これをそのまま子供に使わせて適応させるのは危険で、スマホが登場して20年程度しか経っていない現代でもすでにデジタルネイティブ世代の認知能力の低下の問題が出ているのだから、あと20年くらいしてAIネイティブ世代が大人になったら脳の記憶を司る海馬、読み書きの統辞処理を司るブローカー野、思考を司る前頭葉の能力が落ちると思う。最近はSNSで根拠なしに直感で感情的に具体性のないクソリプする人が多くて、根拠に基づいて具体的に論理的に意見を言える人があまりいなくて他人と建設的なコミュニケーションをとることさえ難しくなりつつなる。そんでカンニングの問題に戻ると、大学受験までは記憶力とかの認知能力が重要なのに日常的に外部デバイスに頼ることで記憶力や思考力が低下して、デバイスに頼らない勉強の仕方がわからないことがカンニングする動機になるのだと思う。そのうえ思考力がないと失敗した時に多面的に物事を考えて立ち直るレジリエンスがなくなるので、失敗を極端に恐れて、不正をしてでも失敗したくない、失敗したらもうだめだ死のうという極端な思考をして打たれ弱い豆腐メンタルになりやすくなるのじゃなかろうか。・チートとハックの蔓延チートは前述のように不正行為のことで、特にオンラインゲームでチートが多い。例えばFPSとかのオンライン対戦ゲームで負けるストレスが嫌で金を払ってチートツールを買ってでもウォールハックやオートエイムや無敵や移動速度上昇や無限弾薬とかのチートを使って無双したがる人が大勢いて、ゲーム開発者とチートツール開発者のいたちごっこになっている。チーターはゲームを壊す行為を悪いとも思っていないし、プロゲーマーやストリーマーでもチートを使っているのがばれて信用を無くした人が少なからずいる。ハックは技術的な方法で問題を解決することで、例えば生活を便利にするコツをライフハックと呼ぶ。しかしシステムやアルゴリズムの欠陥をついて利益を得る場合もハックに含まれて、例えばフリマで古着を売るときに説明欄に関係ないブランド名を羅列して検索に引っかかりやすくしたりする検索スパム行為や、YouTubeで動画の内容と違うサムネイルやタイトルをつけて動画の再生数を増やそうとするクリックベイトとかの違法ではないけれどモラルや利用規約に反する行為も行われている。違法でなければ何をやってもいいと考えて家を壊したり食べ物を破壊したりして建設的でないことをやって再生数を増やそうとするYouTuberもいるけれど、それはYouTubeがそういう動画をおすすめに表示して広告を表示するアルゴリズムになっているから儲かるハックとしてやっているだけで、アルゴリズムが変わって儲からなくなったらやらないだろう。フリマで読書感想文や自由研究とかの宿題の代行サービスを売買するのも問題になった。これも違法ではないけれど、代行させたら当然自分の学習にはならない。受験の入試科目以外の勉強は無駄だと考える人がこういうサービスを使う。日常生活でチートやハックが蔓延して、ルールを守ってまじめに頑張れと教師に言われても素直に従わなくなって、ばれなければ問題ないと考えてカンニングへの心理的抵抗も少なくなっているのじゃなかろうか。Z世代のアホがしばしば闇バイトに応募して強盗の実行役をして捕まっているように若者のモラルが乏しくなっているだけでなくて、短絡的に行動して不正がばれた後のことまで考えていないようである。自殺した私立清風高校の生徒もカンニングがばれた後になって卑怯者と思われるのが嫌だと悩むのならそもそもカンニングをやらなきゃいい。・教育虐待子供の成績が悪くても親が受け入れる家庭なら子供はカンニングをしようとは思わないだろう。しかし教育虐待をされている子供は成績が悪くて親に叱られることを恐れて、良い点を取ろうとしてカンニングするのじゃなかろうか。教育虐待というのは、例えば高学歴の親が子供に自分と同じ進路を強制してそこからはずれると落ちこぼれ扱いして叱責したり、低学歴の親が子供に過度に期待をかけて塾代に何万円も出してやってるのに何で成績が上がらないんだと叱責したりして、親が子供の意思や幸福を無視して自分の理想の教育を押し付ける虐待である。学習塾でさえカンニングする子供がいるそうで、そういう子供は勉強して学力を向上させることよりも親に叱られないようにするほうが重要なのだろう。教育虐待されている子供のカンニングはSOSの側面もあるので、カンニングを取り締まるよりも家庭での教育虐待をなくさないと根本的な解決にならない。●不正行為はよくないカンニングは自分の能力をごまかして不正に評価を高めようとする行動である。不正をして一時的に高い点をとったところで実際に能力が向上したわけではないし、不正に得た高評価を維持しようと思ったらずっと後ろめたさを感じながら不正し続けなければならなくなる。そのうえ不正がばれたときの罰則も大きいので、リスクとリターンを合理的に考えたらわざわざカンニングをやる価値はない。受験とかの試験だけでなくて大人でも不正行為をする人が少なからずいて、論文を剽窃して博士号を取り消された博士、STAP細胞の論文で不正をした研究者、イラストを剽窃したイラストレーター、学歴詐称したタレント、ドーピングしたスポーツ選手、不正会計や検査データの偽装をした企業とかは一時的に周囲をごまかして高い評価を受けても結局は不正がばれて信用や仕事やキャリアを失っている。未熟な子供の不正行為なら魔が差したということで許してもらえるかもしれないけれど、大人の不正行為は意図的に狡猾にやっているのでいったん信用をなくしたらなかなか信用を回復できなくなるし、民事訴訟にもなりうる。そういうダメな大人にならないために若いうちから自律するためのモラルを持つべきで、たとえ誰にもばれない状況だとしても不正をやらないような人でないと偉大な事業はなしえないものである。特に学問では真理に対して真摯でないといけない。高校や大学の受験でカンニングをしないと合格できないような人は学問に向いていないし結局は実力で合格した人に負けるのだから、別の進路を目指す方がよい。
2024.03.25
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最近は鳥山明が亡くなって世界中のファンがショックを受けているようである。鳥山明といえば『ドラゴンボール』が代表作で世界で人気があるけれど、私は子供の頃に読んだので大人になってからあまり考えたことがなかった。というわけで徒然なるままに『ドラゴンボール』について考えることにした。●『ドラゴンボール』とは何か『ドラゴンボール』は週刊少年ジャンプに1984年11月20日-1995年6月5日に連載されて、全42巻、519話で完結した。単行本は全世界累計で2億6000万部発行されて、アニメは1986年から1996年まで放送されて平均視聴率20%以上を記録して全世界80か国以上で放送されて、日本の漫画・アニメの代表的な作品となった。・あらすじ田舎で孫悟飯に拾われて育った孫悟空が天才発明家のブルマと7つ集めれば何でも願いが叶うというドラゴンボールを探しに行って、ウーロンやヤムチャと知り合ってピラフの世界征服の野望を阻止して、亀仙人と知り合ってクリリンと一緒に亀仙人のもとで修行して天下一武道会に出場して天津飯と戦い、ピッコロ大魔王が復活したので戦う。そこから時間が飛んで孫悟空が青年になってピッコロ大魔王の生まれ変わりのマジュニアと戦い、牛魔王の娘のチチと結婚して孫悟飯が生まれて、サイヤ人のラディッツが地球を侵略しに来たので倒すものの悟空が死んでしまって界王で修業して、ベジータやナッパが地球を侵略しに来たのでピッコロや悟飯とかのZ戦士が戦って悟空がドラゴンボールで復活して倒すものの、悟空が重傷を負ってピッコロが死んでドラゴンボールが使えなくなったので悟飯とクリリンとブルマがナメック星にドラゴンボールを探しに行って傷が治った悟空がピッコロを復活させて超サイヤ人になってフリーザを倒して、未来からベジータとブルマの息子のトランクスが来て人造人間セルが誕生してしまってセルの自爆を防ぐために悟空が死んで悟飯がセルを倒して、魔導士バビディが宇宙征服のために魔人ブウを復活させて悟天やトランクスがフュージョンして戦うものの敵わなくてミスターサタンが地球人に呼びかけて作った巨大な元気玉で倒す。●『ドラゴンボール』の特徴・画力が高い鳥山明の画力の高さゆえにバトルシーンに迫力があって、攻撃が当たった時の顔の表情や満身創痍で悶絶する様子や強敵に絶望する様子がよく描けていて人物に精彩があった。ごつごつした岩の質感や爆発の影のつけ方や擬音とかの背景や演出の部分も格好よい。『Dr.スランプ』とは違う作者の絵のうまさが引き出されていた。コマ割りや構図がわかりやすいのもよい。『ONE PIECE』とかのごちゃごちゃした絵を描いている漫画家に見習ってほしいものである。・空中の高速格闘中国拳法を基にしてシュバババと高速でパンチやキックを繰り出して空中に蹴り上げて背後に瞬間移動し吹っ飛ばしたりして、現実ではありえないほど高速で戦うのがリアル寄りのバトル系漫画ではなかった戦い方で、漫画でも迫力があったけれどアニメ化したときにも画面映えした。格闘が中心でありながら「気」の遠隔攻撃も使うし、独特のファンタジーっぽい戦い方である。いったん敵にやられて限界まで追い込まれてから逆転するのはプロレスに似たパターンの展開だけれど、プロレス系の『キン肉マン』と違って『ドラゴンボール』には投げ技や締め技がほとんどない。殴って蹴って吹っ飛んで岩や地面にめり込んだりするようなシンプルで派手な暴力の面白さがあって、主人公が修行して敵より強くなって勝つという子供にもわかりやすい展開になっている。・変身悟空が大猿やスーパーサイヤ人に変身したり、フリーザが最終形態に変身したり、セルがエネルギーを吸収して見た目が変わったり、魔人ブウが悪い人格に変わったり、敵より弱いキャラがフュージョンや界王神のポタラで合体したりして、能力だけでなく見た目も変わる変身をしている。キャラが変身して強くなるアイデアは『BLEACH』の卍解や『ONE PIECE』のギアとか他のバトル系漫画にも引き継がれていった。『進撃の巨人』の巨人化もサイヤ人の大猿化と似ている。・敵が味方になる一般的なバトル系フィクションでは勧善懲悪で善い主人公が悪い敵を成敗して終わるので敵が味方になる展開はなかったけれど、『ドラゴンボール』ではピッコロやベジータや人造人間18号とかの一度倒した強敵が次のエピソードでは味方になって一緒に戦うのがユニークな展開で、それがキャラクターの新しい側面を掘り下げて魅力を増していた。プライドが高いベジータが徐々にデレていってブルマと結婚したり、人造人間18号がクリリンと結婚したりして、内面の成長がない悟空よりも脇役のほうが変化が多くてキャラクターとしては見どころがある。・戦闘力インフレ物語後半に戦闘力がインフレしてからはウーロンやプーアルやチャオズやランチとかの戦闘力がない脇役は出番がなくなって、ヤムチャや亀仙人やヤジロベーとかのそれまでの戦いの功労者も脱落して、ピッコロは悟飯の師匠役としてメインキャラ枠に残ったけれどセル編以降にベジータが悟空のライバル役になってからは活躍しなくなった。少年時代の孫悟空は筋斗雲や如意棒といった西遊記的な小道具を使っていたけれど舞空術や瞬間移動を使うようになって出番がなくなったし、ブルマのホイポイカプセルからかっこいい乗り物や家が出てくるあたりが鳥山明のデザインセンスが良く出ていたのに、その小道具を活かした初期の世界設定の面白さも後半にはなくなってしまった。『ドラゴンボール』はバトル系フィクションの金字塔には違いないけれど、際限のない戦闘力インフレとそれに伴う初期キャラの雑魚化は反省するべき点といえる。・血統主義孫悟空は実は地球人でなくて戦闘民族のサイヤ人の下級戦士カカロットだったという展開が物語前半の大きな見どころになっている。こういう血統の設定は漫画らしくて面白い一方で、地球人はどうやっても戦闘力ではサイヤ人には敵わないようになるというデメリットもある。すごい血統に生まれたから強いという設定は主人公を目立たせるには便利なやり方なのでバトル系漫画で採用されやすいようで、『NARUTO』や『鬼滅の刃』とかのジャンプ漫画は似たようなエリート血統設定だらけになってマンネリになる原因にもなっている。・死んだキャラを生き返らせる基本的にフィクションでは登場人物が死んでも生き返らせてはだめで、それをやったらご都合主義になってリアリティーがなくなってしまうし、人が死ぬシーンが悲劇でなくなってしまう。例えば当時流行していたドラクエやファイナルファンタジーとかのRPGでは蘇生魔法があったけれど、漫画の『ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章』や『ダイの大冒険』やアニメの『ドラゴンクエスト』では蘇生魔法は使わなくて、アニメ版はザオリクとザオラルがない世界という設定になっている。それくらいキャラの蘇生は物語のバランスを崩すのでタブー扱いされている。『ドラゴンボール』では仙豆を食べれば一瞬で怪我が全回復してサイヤ人は瀕死状態から回復するたびに戦闘力が上がるというだけでもバトル系フィクションとしては十分ご都合主義だけれど、さらにドラゴンボールを集めたら生き返らせることができるので、敵に地球人が大勢殺されても後でまとめて生き返らせればいいやという大雑把な展開になった。最初は死んで生き返るのは1回までという縛りがあったし願いを叶えた後にドラゴンボールが各地に散らばったけれど、孫悟空は死んだ後も占ババの力で1日だけ地球に戻ったり、魔人ブウと戦うために界王神の命をもらうことで復活したりしていて結局はご都合主義的に誰でも生き変えさせられるようになっている。ドラゴンボールを集めると神龍が何でも願いをかなえるのが初期の主なファンタジー要素だったのに、後半はドラゴンボールはただの復活用万能アイテムになってしまって神秘性も有難みもなくなった。・女性が戦闘では活躍しない少年漫画では劇画タッチの硬派な男だらけであまりかわいい女性キャラが出てこなかった中で、『ドラゴンボール』では少女漫画に出てきてもおかしくないくらいかわいいブルマが悟空の相棒のメインキャラとして登場したところがユニークだった。しかしブルマはドラゴンレーダーや重力トレーニング室やナメック星に行く宇宙船を作ったりしてプロットを進行させるサポート役にすぎなくて、戦闘では活躍しない。チチは牛魔王の娘なので強いのかと思ったら気が強いだけで戦闘には参加しなかった。主人公側で強い女性は人造人間18号くらいしかいないけれど、それでもサイヤ人系キャラより弱いので魔人ブウ編ではたいして出番がない賑やかし要員になっているし、ビーデルもスポポビッチにボコボコにされたくらいしか見せ場がなかった。戦闘力がインフレしすぎて人類最強のクリリンでさえ戦闘では足手まといになっているのだから、クリリン以下の女性たちが活躍する余地がなくなっている。フェミニズム批評的にみれば女性が男性に守ってもらう存在として描かれている男性中心主義的な作品で、『NARUTO』や『鬼滅の刃』で女性が命がけで戦って活躍しているのに比べたら女性が活躍していなくて、魅力的な女性キャラがいるのにあまり活かせていない。・ストーリーはいまいち私は『ドラゴンボール』の連載中に子供時代を過ごして、放課後に駄菓子屋でカードダスを買ったり同級生の家に行ってファミコンの『ドラゴンボール 神龍の謎』や『ドラゴンボール 大魔王復活』で遊んだりしていたけれど、魔人ブウ編ではすでに飽きていて連載が終わっても何の感慨もなかった。作者が連載を辞めたがっていたのに編集者がなだめすかして連載を続けさせていたという事情があるうえに週刊連載の締め切りに追われてじっくりストーリー展開を考える暇がないにせよ、批評眼がない子供でも展開がダレているのはわかる。敵よりも強くなって倒すことの繰り返しでマンネリだし、人造人間セルと魔人ブウが相手を吸収して強くなる設定は似ていて敵にも目新しさがなくなったし、超サイヤ人の次のパワーアップが超サイヤ人2→超サイヤ人3と安直だし、カリン様→神様→界王→界王神とどんどん上の偉い人が出てきて敵を倒すのを手伝ってくれるのもご都合主義だし、修行さえせずに合体して強くなるのではもはや亀仙流とかの拳法と関係なくなっているし、魔人ブウが敵をお菓子に変えて食べてしまうチート能力を持っているのはもはや格闘という次元でなくなったし兎人参化が触った相手を人参に変えるネタを安易に使いまわしているように見える。『ドラゴンボール』の初期の悟空の少年時代の物語が好きであるほど初期の世界設定がないがしろにされていく後半の展開がつまらなくなっていって、アニメ版の続編の『ドラゴンボールGT』や『ドラゴンボール超』は蛇足だと思って興味を持たなかったので見ていない。良くも悪くも少年漫画で、小学生の読者にとっては面白くても思春期を過ぎた読者にはあまり面白いものではない。たぶん鳥山明はデザイナーとして画力を上げる方向に才能を伸ばしてストーリーテリングの方面はあまり勉強していないのかもしれない。●『ドラゴンボール』の商品化戦隊ヒーロー系やロボット系が変身ベルトやフィギュアとかのおもちゃを子供に売るために物語を作っているのと違って、『ドラゴンボール』はおもちゃを売る目的でなかったのに漫画が人気になってキャラクターグッズの売上が大きくて、鳥山明が連載を辞めてしまうとおもちゃ業界とかにも大きな影響が出るのでなかなか辞められなかったようである。特にカードダスは男児のコレクション心を刺激してヒットして、その後もシリーズ化して今もアーケードのトレーディングカードゲームの『スーパードラゴンヒーローズ』が稼働している。漫画の人気作品はたくさんあるけれど、連載が終わったら徐々に人気がなくなって忘れられていく作品が多い中で『ドラゴンボール』のように連載終了後もずっと人気が続いてゲームやトレーディングカードゲームが売れているのは珍しい。『ドラゴンボール』の連載終了後に鳥山明が掲載した漫画はあまり人気が出なかったので、鳥山明の作品が好きというよりは『ドラゴンボール』が好きという人が多いのだろう。あと10年くらいしてAR技術が発展したらApple Vision ProみたいなARスカウターが作れるかもしれないし、もし実用的なスカウターが商品化されたら高くても買う人がいると思う。ベジータのかつらにLEDを仕込んで超サイヤ人みたいに光るようにしたコスプレグッズとか、ブロリーのギュムギュムいう足音がする靴とかも作ったら宴会芸用に売れると思う。●なぜ『ドラゴンボール』は世界的に人気になったのか『ドラゴンボール』は悟空が大人になったあたりから外国で人気が出て、『Dr.スランプ』的なテイストがあるギャグ寄りの少年時代はあまり人気がない。鳥山明がキャラクターデザインを担当した『ドラゴンクエスト』シリーズも外国では人気がない。その違いに外国で人気になる理由があると思う。ヒットの主な理由としては、まず外国人はマッチョイズムへの共感度合いが高いのだろうと思う。例えば『ドラゴンボール』とは画風が全く違う『北斗の拳』もマッチョが悪人を倒す展開で世界では人気がある。それにアメリカではマーベルのスーパーヒーロー系が人気があるし、『パワーレンジャー』とかの日本の特撮ヒーローもアメリカや南米で人気が出たそうなので、スーパーヒーローへの変身がもう一つの重要な要素と言えるだろう。悟空が単なるマッチョなヒーローでなくて、超サイヤ人に変身するマッチョなスーパーヒーローである点が外国でヒットした決定的な要因だと思う。アメリカのタイツ系のスーパーヒーローはたぶんプロレス由来なのだろうけれど、武道の道着を着たマーシャルアーツ系スーパーヒーローは外国ではいなかったので、亀仙流の道着はビジュアル面でも差別化できている。道着の色が白でなくてオレンジであるところも派手好きな外国人にウケる要素だろう。ではアメリカ人のマッチョなスーパーヒーローへの憧れはどこからくるのか。子供は単に強いキャラが好きと言えるだろうけれど、大人でもスーパーヒーロー好きが多いのは単なる懐古趣味でなくて文化的な理由があると思う。宗教から考えてみると、ベジータ、フリーザ、セル、魔人ブウとかの悪い敵が現れて地球が滅亡するピンチになって地球人の代表のZ戦士たちが戦って勝利して善い死者がドラゴンボールで蘇るという展開はキリスト教やユダヤ教の終末論と似ている。神による救済の代わりにスーパーヒーローが地球を滅亡から救って再生する展開が欧米人が考えるフィクションの理想の勝利像なのかもしれない。『ドラゴンボール』では天界に閻魔大王がいる仏教的な要素と界王神や破壊神とかの多神教の要素が混じっている世界なのでたぶん鳥山明は一神教を意識して終末論的な物語にしたわけではないだろうけれど、結果的に終末論を教えられている欧米人の理想と合致したがゆえに人気になったのかもしれない。あるいはカルヴァンの予定説のように神が救済する人を予め決めているという考え方だとどう努力しても運命は変えられないことになるけれど、一神教でないフィクションの世界で、自分は潜在的にすごい能力を秘めていて修行したらスーパーヒーローに変身できるのだ、巨悪を倒せる超越的な存在になれるのだ、という考え方は一神教の国で神に運命を決められていると思い込んでいる人たちにとっては魅力的に映るのかもしれない。時代背景としては、ブルース・リーやジャッキー・チェンといったアジア系のアクション俳優が1970-80年代に世界的に有名になったり、1984年に映画『ベスト・キッド』がヒットしたことも『ドラゴンボール』が外国でヒットする下地になったと思う。亀仙人がジャッキー・チュンという偽名で天下一武道に出場したように、鳥山明もジャッキー・チェンを意識していたのだろう。さらに黒髪で黒目のアジア系の風貌の悟空が金髪で青い目の超サイヤ人になることで、単なるアジア系の主人公よりも白人の視聴者にとっては親しみやすくなったと思われる。1980-90年代にレーガンやブッシュが保護貿易主義をとって対日赤字を解消するために日本製のパソコンやテレビや自動車に対して関税を高くしたり輸入を規制したりする中で、日本のコンテンツが規制されなかったのもよかった。時代に合った作品だったところは狙ってやってうまくいくものではないので、運が良くて連載時期やアニメ化の時期が外国でウケるタイミングと重なったのだと思う。というわけで、外国でヒットするコンテンツを作りたい人はマッチョ要素、スーパーヒーロー要素、終末論要素を入れてみるとよいと思う。
2024.03.14
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こないだ祖母の葬儀のために5年ぶりに実家に帰ったら、父が時代劇中毒になっていた。夕方に『水戸黄門』の再放送を録画して見て、それでも飽きずにスマホで東映時代劇YouTubeチャンネルで『暴れん坊将軍』を見ていて、昔は火曜サスペンスとかのミステリを見ていて時代劇が好きというわけでもなかったのに時代劇ばかり見るようになっていた。そんなに面白いのだろうかと気になったので、時代劇について考えることにした。●時代劇とは何か時代劇とは過去の時代を舞台にしたテレビドラマや映画である。たいてい江戸時代の元禄以後の幕府政治が安定して町人文化が栄えた頃を舞台にしていて、剣豪がチャンバラをする殺陣が見どころになっている。撮影するときには電線や飛行機とかの現代のものが映ってはいけないので、日光江戸村とかの時代劇用のセットを使って撮影している。物語の展開は勧善懲悪物や股旅物とかのある程度のパターンがある。・勧善懲悪物『暴れん坊将軍』や『遠山の金さん』や『大岡越前』や『桃太郎侍』や『旗本退屈男』は偉い人や強い人が城下町を見回って悪党を成敗するパターンになっている。主人公が悪党を見つけて力づくで問題を解決するというワンパターンな展開だけれど、被害者と加害者を変えることでエピソードを増やしていて、1話でエピソードが完結しているのでシリーズの途中の何話から見ても話が分かりやすいメリットがある。・股旅物股旅物の代表的な作品である『水戸黄門』では主人公一味は水戸光圀、助さん、角さんとその他のお供で固定しつつ旅した先で出会った町人たちがエピソードの中心になって、主人公たちが旅先の問題を解決したら別の場所に旅立ってエピソードが終わるというパターンになっている。勧善懲悪物に旅の要素が加わって、エピソードごとに脇役の町人を変えやすくなってエピソードを増やしやすくて長期シリーズにしやすい製作上のメリットがある。時代劇以外にも『男はつらいよ』や『ONE PIECE』とかの股旅物があって、股旅物は人気作品を長期シリーズ化できる王道パターンのひとつといえる。各エピソードは主人公一味による殺陣のアクションをメインにしつつも、殺人の下手人を捕まえるミステリとか、おっかさんに結婚を反対される頼りない若旦那の恋愛とか、病気のおとっつぁんを看病する娘の人情とか、由美かおるの入浴シーンの色気とか、いろいろな見どころを加えて展開に緩急がある総合エンタテイメントに仕上がっている。・怪談怪談は幽霊や妖怪の怖い話を見どころにしている。上田秋成の江戸時代の読本『雨月物語』は映画になったし、『怪談百物語』として2002年にフジテレビの時代劇にもなったようである。小泉八雲の1904年の短編集『怪談』は「耳無芳一の話」で知られていて、何度かドラマ化されている。ノイタミナ枠のオリジナルアニメの『モノノ怪』は江戸時代を舞台にして薬売りが妖怪を退治する展開の怪談で、アニメらしい絵柄や派手な演出が面白かった。怪談は夏の風物詩として定番化していて万人受けして人気になりやすい反面で、ネタを使いまわしできないので話が広がらなくてシリーズ化しにくい制作上の欠点がある。・伝記伝記は日本史に残る人物の生涯を描くパターンで、しばしば大河ドラマの主題になる。ネタを探しやすい一方で、史実に沿う展開にするほど脚本の自由度は減るので、誰を主人公にするかによって面白さや人気が変わってくる。信長や家康とかの有名人はすでに何度もドラマ化済で、ネタ被りしやすいデメリットもある。時代劇はたまに1話だけ見る分には話が分かりやすくてテレビドラマとしては良くできていると思う反面、何話も見たらワンパターンなご都合主義的展開で飽きてくる。最近は時代劇があまり視聴率が取れないうえに、撮影に金がかかるし、殺陣をこなせるベテランの役者や時代劇が似合う顔立ちの役者がいなくなって新しい時代劇はあまり作られなくなっているようで、時代劇の定番だった『忠臣蔵』さえ作られなくなった。しかしそれで視聴者が困るかというと時代劇の新作が求められているわけでもなくて、ワイヤーアクションやCGを取り入れた新しい撮影手法や今までやってなかった展開をやるのでなければ新しく時代劇を作る必然性がないので、再放送で十分だと思う。●時代劇の特色・主人公が無双する小林秀雄の1930年代の批評で日本人は髷物が好きだと言っていて、大正から昭和初期頃には時代小説や時代劇が作られて人気になっているようで、昭和にテレビドラマ化されたものでも原作は古いものが多い。これは日本人は髷物が好きというより主人公が無双してスカッとするわかりやすい展開が好きなのだろうし、いわば異世界転生チート無双の先駆けとして剣豪無双が流行ったのだと思う。特撮ヒーローとも共通する要素があって、主人公がいかにも主人公っぽく男前で堂々としてキャラ立ちしていて、お忍びの偉い人が敵の一味に会った時に素性を明かすのがヒーローの変身に相当して物語を変調させることができて、「この紋所が目に入らぬか」ドヤァ「この金さんの桜吹雪、見事散らせるもんなら散らしてみろぃ」ドヤァというヒーロー的なドヤ顔決め台詞があって、暴れん坊将軍が白馬に乗るのは仮面ライダーのバイクのようなものでヒーロー度を増す効果があって、ショッカーみたいなやられ役がぞろぞろでてきて主人公が一気にズバズバなぎ倒すところにヒーローっぽさがある。ウルトラマンと宇宙怪獣との戦いやバトル系少年漫画の戦いは一対一で攻撃したり反撃されたりして最後に主人公が逆転するプロレス型だけれど、時代劇は主役と悪役の戦いは刀で1-2回切られたら死ぬので主人公が攻撃をくらうわけにもいかなくて怪我をせずに一方的に無双して勝ちが確定している特撮ヒーロー型と言える。・空間の使い方がうまい私は映画の撮影手法の詳しいことは知らないけれど、昭和の時代劇は空間に奥行きがある撮り方をしているのは素人でもわかる。部屋にいる三人の人物を映すときは手前、中間、奥に座っていたり、二人の人物の会話を映すときは横並びにせずに手前で背中を見せる人と奥でカメラ側を向く人の構図にしたり、歩きながら会話するときはちょっと上から俯瞰する視点にして周囲の街並みを映したり、格子状の塀や戸を画面の手前にして格子の隙間から奥の人物を映したり、エキストラが多くて入り組んだ城下町の奥の方でも町人たちがわちゃわちゃ通行したり会話している主人公の手前を桶を担いだ町人が横切ったりして、そんで時々顔のアップが入って演技を強調したりする。殺陣の場面だとカメラの手前、横、奥から敵がわあわあやってきて斜め方向に移動したりする。『サザエさん』で茶の間に並んで座っている様子を真横から映して人物が歩くときに左右にまっすぐ移動するような奥行きのない場面があまりない。人間の目は本能的に動くものを追いかけるので、ストーリー自体が単調でも映像の構図に動きがあれば飽きなくていつの間にか見入ってしまう。昭和の時代劇は俳優の背中を映したままセリフをしゃべらせているけれど、最近のドラマは俳優の顔を映したくてあまり背中を映さないようで、子供の運動会を撮影する親みたいにカメラがずっと主人公を追いかけて顔を映している構図の単調さが学芸会っぽさを醸し出して潜在的なつまらなさにつながっている気がする。映像づくりとしては最近のドラマよりも昭和の時代劇のほうが空間の使い方に工夫があって舞台セットを効果的に使っていて、伊達に人気シリーズになったわけではないなと感心した。・スタッフロールの文字が大きい私は時代劇以外の昔のドラマは知らないので時代劇に特有なのか昔のドラマに特有なのかは知らないけれど、時代劇は冒頭でテーマソングとともにメインキャストを白い大文字でどーんと表示していて、これから物語が始まる期待感を高めるような堂々とした感じがある。・予算がかかる時代劇は現代を舞台にするのと違って町や城の舞台セットや衣装や小道具を全部作らないといけないし、合戦とかでは大勢のエキストラを動員する必要があるので、多額の予算がかかる。しかし予算をかければそのぶん迫力がある映像が撮れる。ディズニー傘下のFXプロダクションズが過去最高の予算を使って真田広之主演・プロデュースの『SHOGUN 将軍』というドラマを作って世界でヒットしているそうだけれど、これは外国の作品によくある中華風が混じった似非日本が舞台でなくて真田広之がエキストラの帯の巻き方とかの細部にもこだわってリアリティーがあるようで、絵作りに予算を使えば面白くなる例と言える。東映は実写版の『聖闘士星矢』に80億円を使うくらいならノウハウの蓄積がある時代劇に予算を回したほうが儲かったかもしれない。●時代劇の可能性時代劇はいくつも人気シリーズ化してチャンバラがやりつくされたけれど、それでもまだあまり開拓していないパターンがあってもっと面白くなる可能性もあると思うので、頭の体操として考えてみる。・最新技術満載の殺陣最近はカメラとかの技術の進化とともに様々なエンターテイメントが面白くなっている。例えばF1でドライバー視点のカメラがあるだけでなくて、高速飛行するドローンで俯瞰視点からも映像を撮れるようになっている。サッカーやテニスだとボールがラインを出たかどうかを審判だけでなくカメラも使って判定をしてリプレイも出るので、判定がフェアになって視聴者にも判定がわかりやすい。時代劇でも殺陣でアクションカメラを使って俳優の一人称視点で目の前に敵の刀が迫ってきてつばぜり合いをする様子を映したり、殺陣で人が入り乱れていてカメラでは遠くからしか移せないところをドローンが縦横無尽にすり抜けて近くから撮影したり、ハイスピードカメラを使って刀を間一髪で避けるところをスローモーションで映したり、CGで刀の残像を映したりすれば、昭和の時代劇とは違う迫力がある映像が撮れると思う。予算がないと無理だろうけれど、わかりやすい形でアクションの面白さの水準を引き上げることができそうである。・女性主人公時代劇は男性作家が原作で男性の侍が主人公になりやすいので、女性主人公の話なら差別化しやすいと思う。退屈した姫がお忍びで城下町の殺人事件を推理する「名探偵こな姫」系ならシリーズ化しやすいんじゃなかろうか。そんでピンチの時には謎のふんどし天狗仮面が助けに来て「月に代わって成敗致す」という展開にしたら恋愛要素も付け足せる。最近人気の『薬屋のひとりごと』は女性主人公が謎を解くという点が日本の時代劇でやってこなかった部分にはまって、目新しくてうけたのだと思う。・衆道昭和の時代劇は万人受けするエンタメとして侍のチャンバラを中心にしていて、侍の私生活は掘り下げなくて衆道はテーマにしてこなかった。しかし今は性の価値観がだいぶ変わったので、衆道の心理を掘り下げて細マッチョたちが下半身でチャンバラすればゲイやBL好きな貴腐人たちにはうけるかもしれない。・ピカレスク白浪五人男や石川五右衛門といった盗賊は江戸時代は歌舞伎のテーマになったものの、昭和以降は大衆が勧善懲悪物を好むせいか時代劇には悪党が主人公の物語があまりない。『ルパン三世』が宮崎駿が監督してからは狡猾な悪党でなくて悪の組織から財宝を盗む義賊のイメージに変わってしまったのが大衆が勧善懲悪物を好む典型だと思う。しかしそのぶんピカレスクの開拓の余地があるし、悪代官が暴れん坊将軍を返り討ちにする話や、野武士が七人の侍を倒して村を略奪する話や、博徒が命がけの博打をしてざわざわする話や、坊主が欲に負けて破戒僧になる話があっても良いと思う。・サスペンス辻斬りや押し込み強盗に狙われる町民や農民の物語にして、ご都合主義的な剣豪が助けてくれなくて町民たちが命からがら生き延びる展開なら人権が軽視されていて理不尽がまかり通った昔ならではの犯罪の怖さを描けると思う。『ワナオトコ』を時代劇版にリメイクして忍者が設計したからくり屋敷に泥棒に入ってしまった人がひどい目に合う話とかも面白いかもしれない。・災害パニック1783年の浅間山の噴火やその後の天明の大飢饉は詳細な記録が残っているけれど、あまりフィクションのテーマにはなっていない。調べてみたら本宮ひろ志が『大飢饉』として天明の大飢饉をテーマにして漫画を描いているようである。昭和は技術的な理由で映像化できなかったものでも今ならCGで映像化できるだろうし、噴火のシーンを映像化できたら見どころがあると思う。あるいは江戸時代の西回り航路を通っていた北前船は荒ぶる日本海でしばしば沈没していて命がけで航海していたので、沈没や漂流をテーマにした時代劇も面白そうである。武田泰淳の『ひかりごけ』は1944年に起きた食人事件を基にしているけれど、船がよく難破していた江戸時代もたぶんそういう事件が起きていたのではないかと思う。・経済もの株価の表示に使われているローソク足は本間宗久が考案したと言われていて、宗久は酒田五法として売買パターンを分析して米の先物で大儲けした。江戸時代に米の先物取引があったことは画期的で、ビジネス書では取り上げられることはあるけれど時代劇のテーマとして経済に焦点が当たることはあまりないので、やったら面白いと思う。・宗教もの日本ではカルト宗教がいろいろ問題を起こしていて庶民が宗教色があるものを娯楽としては嫌うせいか、宗教がテーマのフィクションがあまりない。キリスト教徒は布教のために物語を使いたがるので絵画が発展したし、遠藤周作とかのキリスト教徒がキリスト教をテーマにした小説を書くけれど、仏教は小説をくだらない妄想と見なしているせいか布教のために物語を使おうとしない。『一休さん』は主人公こそ坊主だけれどとんちが見どころで仏教がテーマというわけでもない。神道も天皇をフィクションにすることがタブー視されているのであまりフィクションのテーマにならないし、やるにしても神主が神力で悪霊払いをするとかのファンタジー的でリアリティーのないものになりがちである。密教の即身仏や比叡山の千日回峰行とかの日本ならではの独特の宗教行為があるのだから、掘り下げたら面白いと思う。旅の坊主が困っている人の相談に乗ったり悪人を改心させたりして問題を解決していく股旅物なら物語を作りやすそうである。・SF現代人が過去にタイムスリップして現代の知識で無双するファンタジー的な展開は多いけれど、江戸時代に殺戮用からくり人形を開発して将軍を暗殺しようとするとかの当時の科学水準を基にしたハードSFはないような気がする。蒸気を使って史実とは違う方向に技術を発展させて蒸気忍術を使って戦うスチームパンク時代劇とかも面白そうである。・ガンアクション江戸時代を舞台にした時代劇では刀が主な武器になって、ふだんは銃を持ち歩くわけではないので戦でもないかぎり銃を使わない。そこで火縄銃でガン=カタで戦ったりするような演出をすれば今までにない映像が作れるかもしれない。例えば本来は連射出来ない火縄銃を何丁も所持して一発撃つごとに素早く取り換えて連射したり、近接戦闘用に改造したソードオフ火縄銃を懐に忍ばせたり焙烙玉をポイポイ投げたりして、『コマンドー』みたいに単身で悪代官の屋敷に乗り込んでドッカンドッカン無双するアクションならハリウッド映画並みの爽快感がありそうである。漫画の『イサック』で銃を焦点にして主人公が凄腕スナイパーとして活躍しているのは着眼点がよいと思う。・釣り魚拓をとる習慣は江戸時代に庄内藩で始まって、武士が鍛錬のために荒波の中で釣りをして大きな魚は敵将の首に見立てて魚拓を取って藩主に献上していたようで、現存最古のものは天保10年(1839年)に9代藩主酒井忠発が釣り上げた鮒を魚拓にしたのだそうな。『釣りバカ日誌』を時代劇版にリメイクして、うだつが上がらない浪人が藩主とは知らずに釣り仲間になって愚痴を聞いて釣り対決をして問題を解決するみたいな展開ならシリーズ化できそうである。・コメディ落語をそのまま劇にしたらコメディ時代劇になると思う。そんでナレーターや俳優に落語家を起用したら落語っぽい雰囲気も増しそうである。・日常系萌え少女が寺子屋で勉強したり兄弟の面倒を見たり野良仕事を手伝ったりする日常系時代劇を作れば大きいお友達に人気が出るかもしれない。・昔話絵本やまんが日本昔ばなしとかの定番の桃太郎や浦島太郎とかの昔話を時代劇で実際に人が演じたら絵本やアニメとは違う面白さが出せそうである。長野には甲賀三郎が地底の国に迷い込んで地上に出たときに蛇または龍になって神になるという伝説があって、浄瑠璃や歌舞伎にはなっているけれど時代劇にはなっていないようで、こういうあまり知られていない各地方の伝承を掘り下げるのも面白いと思う。
2024.03.04
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昭和初期の1930年代の批評とエッセイ集で、昭和43年に新潮社から定價千八百圓で発売された。●面白かったところのまとめ・小説の問題Iスタンバアグの「アメリカの悲劇」という映画の湖の殺しの場面はうまい。しかし人々は劇を待っていて、出来事を待っていなかった。どんなに平常な現実が忘れたいとは言え、人々はまったく荒唐無稽なものに決して酔うことはできないので、納得しながら酔う。出来事は劇よりも納得しにくかったから、多くの観衆はその場面に失望したと信ずる。現代の恐ろしい小説の氾濫は数知れぬ世の中の劇を報道していて、人々の想像と事実の距離を次第に小さくしていく。日々自動人形のような無気力な生活を送り、他人の噂話ばかり聞いていれば、言葉と事実とのけぢめがつかなくなってくるのは当然である。レマルクは「西部戦線異状なし」で霞に隠れている事実を人々に知らせたいと念じて書いている。ドルジュレスの「木の十字架」で戦線から家に帰ってきた主人公はいろいろな人に戦争の話をねだられても語らず、事実を知った青年の眼には事実を知らない人々の眼は取り付く島もない化け物の眼だった。この二作家は戦争のおかげで事実というものの前に正当に戦慄することを知った人たちで、事実というものがいかに語り難いものかという一種の絶望感の上に二人のリアリズムは織られている。世の中には劇はない。ただ出来事の重なりがあるだけだ。出来事が己の姿を一番烈しく人々に見せつけるときこそ人々にとってこれを勝手気ままな劇に翻訳するのが最も容易で、平常な事実に至っては多くの人々に存在しないも同様である。彼らは無駄な行動が嫌いなように、精神上の吝嗇が好きである。大衆作家の問題は、事実がいかに大衆を動かすかという事情にはなく、大衆がいかに事実を糊塗するかという事情にある。ドストエフスキイの「憑かれた人々」のなかで、ピョオトル・ステパノヴィッチ・ヴェルホーヴェンスキイという人物を書くにあたって、こういう人物を書くことが小説家の最大難事だと断り書きを書いている。自然はどんな軽薄な空疎な人間にも人間である以上生き生きとした実在性を与えている。ところが作家の精神が空疎な人間を創造しようとするとき、これを巧みに描き出せば出すほど空疎な表現にみえてくる。ドストエフスキイの偉才をもってすればヴェルホーヴェンスキイを完膚なきまでに分析することは容易だったろうが、作者はこういう困難な人物を自然が目の前で歩かしているように作中で歩かしてみたかったのだ。彼が望んだものは分析ではなく綜合であった。近頃心理主義小説に関する議論がいろいろあって、みんな心理主義という言葉に首を突っ込んで外を見ようとしない。河上徹太郎が「心理小説についての一私見」で、今日の心理主義小説の巨匠の制作方法は、象徴派詩人等の制作方法が心理的であるに反し、単なる素朴なリアリズムに過ぎぬ、ただその描く対象が心理的であるに過ぎぬ。したがって彼らの作品は如何なる詩的精神とも縁のない純粋な散文であるという意味のことを書いていたが、正しい。最大の芸術家としての自然を見失うこと、これが現代新小説家等の最大の弱点である。・小説の問題Ⅱ文学というものののうちに小説という明瞭な形式があるなどという事を誰も信用してはいない。一方で、小説という文学形式がいかに曖昧なものであるといえ、そんなものはないとはだれも言い切るものはない。人々は絵を見てまるでほんとみたいだと感心し、その癖ほんとを見てまるで絵みたいだとうっとりする。小説だって同じことで、小説がまさしく小説にみえて皆退屈する。現実が何らかの意味で小説にみえなければ身がもてないのである。私達は小説を読んで、その現実性とか具体性とかを暢気に口にしているが、実は自分が常日頃抱いている現実の小説的要約を口にしているに過ぎない。ドイツロマン派の傑物アマディウス・ホフマンが小説の中で「こういう奇怪な話をすると、諸君は信用しないかもしれないが、諸君もだんだん年をとってくると、この世がどのくらい気違い染みたものであるか、という事を得心すようになるのだ」と書いている。現実の苦い経験を嘗めた人に、小説が軽薄に見えても仕方がない。ただ問題は、生々しい経験を生々しいままに貯えるには一種の術が要る、というより一種の稀有な資質が要る。私は老大家というものには常に尊敬を失うまいと思っているが、偶々老大家が近頃の新文学は皆子供っぽくていかん、大人の読む様な小説を書いてくれなどと書いているのを読むと馬鹿馬鹿しい気持ちになる。こういう癇癪を鎮めるには、私達若年者の作る處をてんで小説と思って読まないことで、その代わり人生における若年者の象徴と思って味わえばよい。小説の詩的価値、倫理的価値、社会的価値、政治的価値等々と批評家は言いたがるが、そういうものは皆小説に擦り付けた価値にすぎない。人々はもっと生々しく直に小説に触っている。いい小説は批評家が容易に考える處とは違った性格で生きながらえている。この性格とは作家がどの位な深みまで世間を理解しているかという曖昧だが厳然とした事実の、曖昧だが厳然とした文学への反映をいう。・故郷を失った文学谷崎潤一郎の「芸について」で「現代の日本には大人の読む文学、或いは老人の読む文学というものがほとんどないと言ってよい。日本の政治家は概して文芸の素養に乏しく、文壇の情勢に暗いという誹りを受けるが、それは文壇の方にも幾分の罪がありはしないか」「日本の現代文学、殊に所謂純文学を読むのは十八九から三十前後に至る間の文学青年共であって、極端に言えば作家もしくは作家志望の人たちのみである」「文壇というものが全く若い者相手の特別な世界であることは、自然主義の昔から今日に至る迄変わりがない。政治組織や社会状態に関心を持っている筈のプロ作家と雖も、一とたび『文士』として『文壇』の仲間入りをして、『月評』に取り上げられるようになると、彼らの読者は純文学のそれとあまり違わない狭い範囲に限られてしまい、広く天下の労働者や農民をファンに持つという人はめったにない」「自分を読者の側に置いてみて、古典より他に読むに堪えるものがないということは、何かしら現代の文学に欠陥があるように思えてならない。なぜなら青年期から老年期に至るまで、ときどき燈下に繙いては慰安を求め、一生の伴侶として飽きないような書物こそ、真の文学といえるからである」「私の固陋さを嗤う若い人達も、私と同じ年頃になれば恐らく思い当ってくれる所があるだろう」という文章にぶつかって考え込んで重苦しい気持ちになった。大衆作家達が、所謂文壇小説の狭隘を攻めてその滅亡を宣言したげな顔をする。けれども大衆小説にも亦わが国特有の光景がある。文壇小説がどんなに若い者相手であろうともこれを理解するには文学的教養を要する、単に世情に通達した大人が読んでも容易に理解できないような名作だって少なくはない。だが通俗現代小説を世間の成人たちが読むとは私には考えられない。もうわかり切った事が故意に面白そうに書いてあって、それ以上発見が語られていないものを成人たちが読むはずがないからだ。そこで彼らはどうするかというと髷物を読む。凡そ大衆小説通俗小説というもので、現代ものによらず髷物によって大人の世界と交渉しているというそういう事実が外国にあるとは私には考えられない、我が国に特殊な事情だという他はないであろう。映画を見ればもっとはっきりする。傑作は依然として舊劇の側にある。いい俳優もいい監督も。文学に比べれば映画ははるかに直接な芸術だ、一般ファンが現代ものの傑作を一番望んでいることは論をまたない。然るに実情は依然として上述のような有様なのだ。こういう奇怪な事実は日本の映画界でなくては今日みられないとは皆も断言することができるであろう。髷物の小説やチャンバラ映画が大衆の間に非常な勢力をもっている、こういう変則な状態が長続きするとも思えぬが、容易にはほろびないだけのしっかりした根拠は持っていることも争われない。単に奔放な構想や奇怪な筋立てだけでは、大衆の文学的教養がいかに低いにせよ彼らの心を魅することは出来ない。ほんとうに彼らの心をつかんでいるものは、もっと地道なもので、作品に盛られた現実的な生活感情の流れに知らず識らずのうちに身を託すか託さないかという處が、面白いつまらないの分かれ道だと、私は信ずる。髷物やチャンバラ映画にはこの流れがあるのだ、現代ものにはこの流れがないのだ。何事につけ近代的という言葉と西洋的という言葉が同じ意味を持っている我が国の近代文学が西洋文学の影響なしに生きてこられなかったのは言うまでもないが、重要な事は私たちはもう西洋の影響を受けるのになれて、それが西洋の影響だかどうか判然しなくなっている所まで来ているという事だ。私たちが文学に頭をつっこんだ時にはもう西洋の翻訳文学は読み切れない程あったので、二葉亭の「うき草」や鴎外の「即興詩人」などが当時の青年に与えた感情や協学は、到底私達には想像ができないのではないだろうか。私達は生まれた国の性格的なものを失い個性的なものを失い、もうこれ以上何を奪われる心配があろう。一時代前には西洋的なものと東洋的なものとの争いが作家制作上重要な関心事となっていた、彼らがまだ失い損なったものを持っていたと思えば、私達はいっそさっぱりしたものではないか。私たちが故郷を失った文学を抱いた、青春を失った青年たちである事に間違いはないが、又私達はこういう代償を払って、今日やっと西洋文学の伝統的性格を歪曲することなく理解し始めたのだ。西洋文学は私たちの手によってはじめて正当に充実に輸入されはじめたのだ、と言えると思う。こういうときに、徒らに日本精神だとか東洋精神だとか言ってみても始りはしない。何処を眺めてもそんなものは見つかりはしないであろう、又見付かる様なものならばはじめから探す価値もないものだろう。谷崎氏の東洋古典に還れという意見も、人手から人手に渡る事の出来る種類の意見ではあるまい。氏はただ私はこういう道をたどってこういう風に成熟したと語っているだけだ。歴史はいつも否応なく伝統を壊すように働く。個人はつねに否応なく伝統のほんとうの発見に近づくように成熟する。・批評について私は元来抽象的な議論は得手ではなかったし、そういうものに滅多に心を動かされたこともなかった。理論というものを愚弄した覚えは一度もないが、理論の為の理論には絶えず不平を言って来た。誰も空論はしたくない、批評家は出来るだけ実相に即して、文学の理論を編もうとするが、出来上がった處は、作家には直接何んの利益も齎さぬ、実際制作というものからは掛け離れたものを書き上げて了う、これはいかにも奇怪な事である。それが理屈というものだ、批評というものだとこの奇怪な事実を承認して進む道も、成る程ひらけているにはいるのであるが、批評の自律性というものは小説の自律性と同様いや一層不安定なものであって、批評の限界とか方法とかに関する数多くの議論に私は一度も満足を感じたことがない。批評は作品を追い越すことは出来ない、追い越してはならぬ。これを一つの批評態度としてひとえに退廃的だとか人間進歩の敵だとかと考えるのは、未だ考えが足りないのである。この作家と批評家との主従関係は、勿論いつも守られているとは限らぬ。現今の様な世に、批評家が作家を乗り越えようとし、作家の創作活動を指導しようと努めるのはやむを得ない勢いだ。成る程この道は正当には違いないが、それはやむを得ない勢いである限り正当なのだ。この勢いを過信するのは正しくない。時代的な実際的な思想に生きる人もあるし、もっと悠久な境地に心を寄せる人もあるので、作家がみんな所謂進歩的になられたら恐らく芸術などは不必要になるだろう。元来自分と同時代に生き同じ問題に苦しんでいる人を厳密に評するという事は、至難なわざであって、科学的とか客観的とかやかましく言うが、まづいい加減なものだと私は思っている。批評家をもって任ずる人々は、よろしくその重厚正確な仕事を自由に発展させる場所として、文学史とか古典の研究を選ぶのが当然であり、文芸時評の如きは余技と心得て然るべきではないかと思う。人間の生活を一番よく知っている人が一番立派な文学作家なのだ。私はもうそれを信じて疑わない。他はみんな付けたりだ。それでなくて何が文学というものが面白かろう。文学だと思って読まなければ面白くないような文学は私はもういらない。文学の害毒を知り抜いたうえ書かれたものでなくては信用する気にはなれない。拙い作品を拙いとは言うまい、拙いと考える代わりに文学の人心に及ぼす害毒の一例と考えたいと思う。この世を如実に描き、この世を知りつくした人にもなお魅力を感じさせるわざを、文学上のリアリズムと言う。これが小説の達する最後の詩だ。・私小説について創作方法論というものは方法論の為の方法論に終わりやすいものだが、これは評者の罪というより寧ろ理論本来の弱みだ。理論本来の弱点に比べれば評家の才能の欠点は微々たるものである。この弱点が例えば科学の領域では見事に逆用され、美しい表現となっているが、文学批評ではそううまく行かぬだけの話しで、これが為に文学理論が軽蔑される筋合いはない。宇野浩二の「私小説私見」によると、日本の近代小説の主流派今日まで所謂私小説にあり、明治末期から昭和の今日に至るまで傑作は私小説の側にあり、これは日本だけのもので、また日本の最近代の小説の特徴の一つと思われるが、よく考えてみると不思議な現象であると書いている。私小説が近代文学の主流であったという意見は間違ってはいないと思うが、重要な問題は「よく考えてみると不思議な現象である」という處だけで、この自覚が今日新しい作家の正当な戦場だと信ずる。久米正雄の「私は第一に、藝術が真の意味で、別の人生の『創造』だとは、どうしても信じられない。(中略)只私に取っては、藝術はたかが其の人々の踏んで来た、一人生の『再現』としか考えられない。例えばバルザックのような男が居てどんなに浩幹な『人間喜劇』を書き、高利貸や貴婦人や其の他の人物を、生けるが如く創造しようと、私には何だか、結局、作り物としか思われない。そして彼が自分の制作生活の苦しさを洩らした、片言隻語ほどにも信用が置けない」は徹底した私小説論で、こういう考え方は自然主義の影響がいかにも強く現れているので、一流芸術とは真の意味で、別な人生の創造であり一個人の歩いた一人生の再現は二流芸術であるという明瞭な意識を、わが国の作家は今日に至ってはじめて持ったのである。バルザックの小説はまさしく拵えものであり、拵えものであるからこそ制作苦心に就いての彼自身の隻語より真実であり、見事なのだ。そして又彼は自分自身を完全に征服して棄て切れたからこそ拵えものの裡に生きる道を見つけ出したのである。・文学界の混乱「苦海」には人の心を爽やかにする何物もない、人の命を豊富にする何物もない。言うまでもなく僕は作者の厭世的精神が不満なのではない。厭世も強い表現となってあらわれれば、人をくつがえすに足りる。僕の言いたいのはそういう表現の強さ、そういう表現のほんとうの美しさが「苦海」にあるとは思えぬというのである。「苦海」を読んで読者が救われる救われないは問題ではない。作者があれを書いて、ほんとうに作者と生まれた幸福を感じているかどうかが僕は作者自身に聞きたいのである。作者は恐らく答えるだろう。文学が悟達への道か迷妄への道か誰が知ろう、と。併し四十年の作家生活の頂に、作家たる幸福が、いや幸福ではないとしても作家たる強い矜りが刻印されていないという事は悲しいことだ。生涯の不幸を賭けてこの刻印を確と押した作家は沢山はあるとは言えぬ。だが確かにいることを知っているからこそ、僕たちは、恐らく文学は人間を必ず不幸にすると思いつつ、文学への道に希望が持てるのである。「苦海」はこういう希望へ逆に働きかける。もっとあまい作品を読ませて呉れた方が僕らにはまだしも無害であろうか。その仕事の世界に、実生活には到底うかがえないような深さが表現されているという様な作家が、今日日本に幾人いるであろうか。先ず大部分の作家の場合では、その仕事は実生活を抜いてはをらぬのではあるまいか。実生活の方が高みにあるのではあるまいか。この作家的弱点は従来の私小説の伝統の裡で明らかに意識されなかった許りか、かえって必死に守られてきた。実生活の夢に憑かれた作家等は、己れをしゃぶりつくして所謂深い人間的境地なるものを獲た。だが読者は何を貰ったか。極言すれば御馳走のお余りだ。実生活に膠着しつつ表現した作家等は、その実生活の豊穣が滅びるとともに文学の夢も滅びるのを知った。そういう時だ、夢殿観音が現れるのは。僕は先輩作家等の到達した境地を冷視するのでは決してない、そういう境地を羨望しないだけである。僕はマルクス主義文學を信じてはおらぬ。併しマルクス主義が巻き起こした社会小説制作の野心を信ずる。己れを捨てて他人の為に書くという情熱を信じている。又僕は心理主義文學も理知主義文學も信じておらぬが、この道を辿るものが、速かに己れの個人的像の夢に破れ、実生活をしゃぶる夢に破れ、新しい文学の国を築く野心に駆られていることを信ずる。・文芸時評に就いて作家の努めるところは文学の社会化ではない。社会性を明瞭な文学的リアリティに改変する事だ、社会事情が文学作品に反映しているという事実性と社会事情を作品に表現するという実践性とが、今日くらい奇怪な混乱状態にある時はない。併し両方の概念を混同してものを考えてはいけないのだ。僕はそんなに頭が悪い筈はないのだが、と弁解しても駄目である。力及ばず止むなく社会化した文学作品を制作しているうちに、自分は結構社会性を文学化しているという錯覚に落ち入るものだ。誰がこの錯覚に悩まぬと言い得よう。人間の精神はそう強いものではない。・私小説論自分の正直な告白を小説体につづったのが私小説だと言えば、いかにも苦もないことで、小説の幼年時代には、作者はみなこの方法をとったと一見考えられるが、歴史というものは不思議なもので、私小説といふものは、人間にとって個人というものが重大な意味を持つに至るまで、文学史上に現れなかった。ルッソォは十八世紀の人である。では、わが国では私小説はいついかなる叫びによって生まれたか。西洋の浪漫主義文学運動の先端を切るものとして生まれた私小説というものは、わが国の文学には見られなかったので、自然主義小説の運動が成熟したとき、私小説に就いて人々は語り始めたのであった。周知の如く、マルクス主義文学が渡来したのは、二十世紀初頭の新しい個人主義文学の到来とほぼ同じ時であった。マルクス主義の思想が作家各自の技法に解消しがたい絶対性を帯びていた事は、プロレタリヤ文学に於いて無用な技巧の遊戯を不可能にしたが、この遊戯の禁止は作家の技法を貧しくした。むろん遊戯を禁止する技法論はあり余るほどあったが、それらの技法論に共通した性格は、社会的であれ個人的であれ、秩序ある人間の心理や性格というものの仮定の上に立っていた事であり、この文学運動にたずさわった多くの知識階級人達は、周囲にいよいよ心理や性格を紛失してゆく人達を眺めて制作を強いられていながら、これらの技法論の弱点を意識できなかった。又それほどこれらの技法論の目的論的魅惑も強かった。だが、又この技法の貧しさのうちに私小説の伝統は決定的に死んだのである。彼らが実際に征服したのはわが国の所謂私小説であって、彼らの文学とともに這入って来た真の個人主義文学ではない。私小説は亡びたが、人々は「私」を征服したろうか。私小説は又新しい形で現れて来るだろう。フロオベルの「マダム・ボヴァリイは私だ」という有名な図式が亡びないかぎりは。・現代の小説の諸問題一般読者にとっては、純文学と通俗文学の区別は存在しない。彼らはいつも文学を求め、文学を読んでいるにすぎぬ。それを忘れているのは文壇人だけという事なのだ。純文学の読者が減ってきたのは、純文学が面白くなくなったからだ。簡単明瞭な理由である。一般読者は、純文学を捨てるのにこれ以上の言い訳をする必要はない。だから彼らは、さっさと大衆文学に走った。元来小説というものは、様々な芸術のうちで最も自由な形式を持っているもので、小説作者は小説の技法に音楽を利用しようが、絵画を利用しようが、何を利用しようが一向構わないというあんばいであるが、作者がどういう方法に頼ろうが、実生活というものの模造品を言葉で作り上げ、読者にあたかもその模造品を生活している様な錯覚を与えなければならぬという小説の原則を、変更する事はできない。この原則は、あまりわかり切っている為に、小説に関する方法論が精妙になればなるほど批評家はこれを振り返ってみなくなるし、作家も制作の方法の万能に苦しみ乍ら、この根本の原則が、現今どんなに小説家の重荷になっているかという事を忘れがちなのである。小説の面白さは、他人の生活を生きてみたいという、実に通俗な人情に、その源を置いている。小説が発達するにつれて、いろいろ小説の高級な面白がり方も発達するが、どんなに高級な面白がり方も、この低級な面白がり方を消し去ることは出来ないのである。小説は僕等が日常話したり聞いたりする物語と本質的に少しも異なったものではない。噂話に耳を傾けたり、歴史的事実に興味を感じたりする時の、若し「自分があの男なり女なりだったら」と思う僕らの止み難い空想を、小説はただ故意に挑発する為に工夫されたものなのだ。最近の純文学は、こういう物語というものの根本にある通俗性を、いろいろの事情から急速に失って行った。作者がその心境を享楽する事により、或いはその思想を誇示する事により、或いは心理風景のうちにさまよう事により、読者に高級な鑑賞を強制し、評家に面倒な議論を余儀なくさせ、自ら世間を狭めたのである。人々の間に、小説に物語を求めるという強い欲求が無くならない限り、こういう場合、その欲求を満たす為に大衆文学が、人々の人気を攫って行ったのは当然の事だ。純文学者等は、大衆小説が、人々の低級な趣味に迎合しているという点ばかりを見たがるし、社会批評家は、最近の大衆文学の繁栄を、頽廃した社会人が不健康な感覚上の刺激を求めているというところにばかり帰したがるが、最近の大衆文学と純文学との奇怪な対立は、そういう事ばかりからでは決して説明がつかない。大衆はもっと素直に動いたのだ。純文学に欠けている物語の面白さを、大衆文学に求めたに過ぎぬ。そしてそれは不健康な事でも低級な事でもない。・文芸批評の行方作家が批評家より批評的に饒舌であり、又上手に喋った事は当然なのであり、又そこに育て上げられた作家と批評家との暗黙の主従関係は、其後批評が著しく進歩した今日も、なかなか拭い去れず、批評家とは作家に成り損なった人間だという考えは、そういう環境に成熟した作家の心底にこびり付いているのである。のみならず、一般文学志望者の心にも、まるで遺伝的悪疾のように巣食っている。純文学の貧困が云々されている今日でも、小説志望者の数は一向減らない様だが、批評の重要性が益々明らかになっても、批評家の卵は目立って増えたとは思われぬ。ただ文学を目指して優れた文学が作れる様な時代はとっくに過ぎたにも拘らず、小説みたいなものを書く事を練習していれば、やがてそれは本当に小説になる筈だという信念に燃えた文学志望者が減らないという事は悲しむべきである。・文藝月評IV近頃インテリゲンチャの能動的精神であるとかリベラリスムの積極的意義であるとかいうことが論じられているが、そういう気持ちを作品に仕上げる事は大変な努力が要るだろう。この努力は今までの作家の実生活上の、或は技法上の努力を超えた文人気質を軽蔑する教養上の、或は思想鍛錬の上の努力を是非必要とするものだ。その点でこういうテエマを扱って当世向きの観を与えないようなものを書くに足りる十分な用意を持った新作家はまだ一人もいないと僕は思っている。どうも大変な事らしいが、人智の進歩で致し方ない。だからわが国でも優秀な新作家の認められる年齢は、外国のようにだんだんこれから遅くなるだろう。小説の勉強から作家修行をはじめるような文学志望者は、もうこれから駄目になるだろう。理屈というものの蟲の好かぬ作家等は亡びて行くだろう。・アンドレ・ジイドの人及び作品彼に言わせると、自然主義小説というものは、お話主義(エピソディスム)の小説であり、昔から真の偉大なる作家は、人生をエピソディスムのうちに押し込めやしなかったし、又人生は自然主義小説家の亜流が信じている様に、客観的描写によってその真相が語られるような貧弱なものでは本来ないのだ。一体自然主義小説家等は、人生の断片という言葉を好んで口にしているが、彼らはただ人生を時間というものの方向に切っているに過ぎない。何故に縦横十文字に人生を切って見せてはいけないか。ただ人生の諸事実を次々に起こって来る順序通りに冷静に描いても人生の真相は現れて来ない。第一人生に対する作家の態度というものはどうするのか。小説の裏面に隠れて安心していいものか。作家の創造的思索が作品の前面に横溢するのが何故に恐ろしいか。彼は人生を描くのに自然主義小説家等が使用した一面的な客観的な描法を捨て、人生をあらゆる角度から、あらゆる異なった人間がそれぞれ独特の見方で眺めているというところに真のリアリズムの狙いどころがあると考え、人生を単に描写するというより、これを立体的に構成しようとした。こういう方法によれば、最も真に近い人生の図を完成することが出来るとともに、自分の持っている小説家らしからぬ様々の要素、モラリストとか批評家とか心理家とかいう諸傾向もこの方法によって綜合的に実現できるだろうと考えたのである。これが彼の有名な純粋小説という思想の根本的な考えなのである。●感想1930年代の古い文章なので旧字旧かなで読みにくいし、当時の背景がよくわからないうえに話があちこちに飛んで論点が整理されていない部分もあるし、私は昭和初期の小説をほとんど読んでないので月評でどんな小説に何を言いたいのかよくわからない。当時は現代のように作品と作者を切り離して批評できないようで、小林秀雄は楽屋話はいらないと言うくせに、自分の批評では林房雄の「青年」を読んで作品にはちょろっと触れた程度で林君と会ったときにどうのこうのという知人としての楽屋話をしていて態度が一貫していないし、純粋小説や本格小説がどうのこうのとカテゴリ化ありきで婉曲に小説を見ているようで作品自体の批評は十分にできていないようである。それでも私小説と文学的リアリティに関する意見は面白かったので、私小説を卒論の研究対象にしている文学部の学生は読んでも損はないと思う。「批評について」で「この世を如実に描き、この世を知りつくした人にもなお魅力を感じさせるわざを、文学上のリアリズムと言う。これが小説の達する最後の詩だ。」と言うのも私は同意で、シュールリアリズムにしろマジックリアリズムにしろリアリズムをベースにして世界の文学が発展している。宮本百合子が1947年の「作家の経験」で「芸術の根帶はリアリズムである。どんな幻想的創作さえも、それが幻想としてありうるためには幻想のリアリティーを欠くことは不可欠である。人間というものが本格的にリアリストであり、芸術の根帶がリアリズムであるからには、作家として現実を真にその活き動く関係のままに把握しうる眼としての世界観、史的唯物論に立つ現実のみかたと、そこからのリアリズムを求めるのである。」と言っていて、そのころはまだ作家がリアリズムの重要性を理解していたようだけれど、その後のポストモダニズムの影響のせいなのか今の純文学には物語にも描写方法にもリアリティがなくなっていて「他人の生活を生きてみたいという、実に通俗な人情」さえ満たさなくなってつまらなくなっている。もはや庶民は物語を求めて文学を読むことすらやめて、YouTubeで他人の恋愛だの育児だの食事だのペットだのの物語になっていない私生活の断片を覗き見て他人の人生を体験した気分になって、芸術作品を鑑賞したときの唯一無二の感動の体験がなくても、等身大の他人に共感するだけで満足して投げ銭さえしている。今の時代に純文学が売れるためには生涯かけても消費しきれないほど氾濫している無料コンテンツや著作権が切れた古典よりも価値がある何かをプロの芸術家として提供しないといけないけれど、金を払ってでも読みたくなるほどの価値を出せていない。小林秀雄風に言うなら「純文学の読者が減ってきたのは、純文学が面白くなくなったからだ。簡単明瞭な理由である。一般読者は、純文学を捨てるのにこれ以上の言い訳をする必要はない。だから彼らは、さっさとSNSに走った。」ということになる。私小説作家が己れをしゃぶりつくして書くことがなくなるのもその通りで、ヘミングウェイくらい世界中を旅行して波乱万丈な人生を送れば書くことはなくならないだろうけれど日本で貧乏で地味な生活をしている作家のネタなんて採掘量が限られている小さい鉱脈のようなもので生涯の食い扶持として固執するものではないのに、当時は私小説以外を書けない不器用な私小説作家だらけだったようで、そのうえ技法も貧しくて、私小説は滅ぶべくして滅んだ。読者にしてみればフィクションだと理解したうえで小説を読んでいるのだから実際に起きた出来事かどうかは面白さと関係なくて、事実であることよりも言葉をリアルに感じられることのほうが文学では価値がある。もし純文学がこの文学的リアリティを追求しなくなったときは純文学と通俗小説という区分がなくなって散文の芸術としての純文学は消滅して、詩だけが言語芸術として残ると思う。「故郷を失った文学」では谷崎潤一郎が「自分を読者の側に置いてみて、古典より他に読むに堪えるものがないということは、何かしら現代の文学に欠陥があるように思えてならない。なぜなら青年期から老年期に至るまで、ときどき燈下に繙いては慰安を求め、一生の伴侶として飽きないような書物こそ、真の文学といえるからである」という指摘は図星でろくに反論できなかったのか、小林秀雄は労働者や農民がファンになるような大衆小説批判へ論点をずらして純文学を擁護している。「現代ものによらず髷物によって大人の世界と交渉しているというそういう事実が外国にあるとは私には考えられない、我が国に特殊な事情だという他はないであろう。映画を見ればもっとはっきりする。傑作は依然として舊劇の側にある。いい俳優もいい監督も。文学に比べれば映画ははるかに直接な芸術だ、一般ファンが現代ものの傑作を一番望んでいることは論をまたない」というのはこの評論が書かれた1932年には正しいのかもしれないけれど、通時的な普遍性がある意見ではない。11-15世紀の中世ヨーロッパではトルバドールやトルヴェールといった吟遊詩人が歌うアーサー王伝説や十字軍遠征などの騎士の武勲詩が人気になったし、1880年の小説『ベン・ハー』がアメリカで200万部売れる人気になって1907年と1925年と1959年に映画化されて大ヒットしたし、1960年代には西部劇が外国で人気になって『荒野の用心棒』みたいな正義のガンマンが悪党を成敗するマカロニウエスタンが大量に作られているので、時代劇を好むのは「我が国に特殊な事情」というわけでもなくて、流行のタイミングに違いがあるにせよどの国でも大衆はそういうものを好むものである。現代でも『鬼滅の刃』やマーベルのスーパーヒーローが超能力で戦うアクション映画が人気で、一般ファンが現代ものの傑作を一番望んでいるわけでもないと言えるし、剣→銃→超能力に武器の形を変えてチャンバラの人気は長続きしていると言えるだろう。巻末の中村光夫の解説によると、昭和12年の日中戦争前の小林秀雄は「文壇をはなれて、精神の健康を回復する」と言って日本の近代小説に関心を持たなくなって古典に傾倒したようで、結局は谷崎の意見が正しかった。古いか新しいか、時代劇か現代劇か、純文学か大衆小説かという二項対立の問題ではなく、真善美を真摯に追求して人間や社会を向上させる要素を含んでいないものはなんであれ大人が真面目に読むに堪えない。古典は作者が生涯をかけて真善美を模索して数十年から数百年の時間の経過による淘汰を経てなお読む価値があるものとして読み継がれて残ってきたものなので、大人が読んで考察したり研究したりするのに堪えるものになっていて、それゆえに古典を読むことが教養になる。「もうこれ以上何を奪われる心配があろう」と小林秀雄は暢気に言うけれど、現代のフィクションはもはや現実世界を舞台にしていなくて、現代人は故郷や西洋や東洋だけでなく現実や人間や社会を観察する眼さえ奪われてしまった。現代人がフィクションで頻繁に目にするのはデフォルメされたアニメキャラや超人や妖怪や怪獣や宇宙人やロボットだのといった非人間的な存在だらけで、子供の頃から漫画やアニメを見て育った大人が歴史的連続性から切り離された架空の世界の箱庭の人形遊びを楽しんで現実逃避していて、大衆が幼稚化して社会問題を自分の関心事として考える事さえなくなって投票にもいかなくなった。現代の異世界転生無双小説や学園ハーレムラノベや金儲けのために作者の肩書で話題作りして大衆に媚びる芥川ショーとかは昭和初期の文学よりいっそうくだらないので、大人が読むに堪えるものがない、古典より他に読むに堪えるものがないと言わざるを得ない。しかし古典だけあればよいというものでもない。クンデラが『小説の技法』で既に語られたことを語りなおしても価値がないというようなことを言っていたけれど、小林秀雄の「通俗現代小説を世間の成人たちが読むとは私には考えられない。もうわかり切った事が故意に面白そうに書いてあって、それ以上発見が語られていないものを成人たちが読むはずがないからだ」も似たような指摘である。大人にとってはすでにわかりきった事でも、学校を卒業して世に出たばかりの青年にとっては何もかもが初めての事なのでありきたりな事を書いた小説でも初めての読書体験として面白く感じるし、青年向けの作品はいつの時代でも一定の需要がある。純文学は青年の作家志望者向けのニッチなビジネスなのだから大人が読まなくても別にいいのだと開き直ればよいし、たとえ教養のない大衆がファンにならなくても純文学こそが現実を見る眼を持つ創作者の最後の砦なのだと胸を張ればよい。明治時代の青年に大人気だった樗牛は現代では古典扱いされずにほとんど読まれていないけれど、それでも当時の青年には樗牛が必要だった。これは令和の青年が村上春樹の小説を読まなくなっても平成時代の青年には春樹が必要だったようなものである。青年読者の恋愛や人間関係や将来の悩みの機微をとらえるには読者と同年代か少し年上くらいの作家でないとだめで、源氏物語とかの古典では時代背景や価値観が違いすぎて未熟な青年が生き方を求めて傾倒するようなバイブルにはならない。現代の純文学は古典すら読まず文学的教養がない人が作家になって昭和の文士たちの議論が反映されないまま劣化したようで、まだ語られていない人間の実存を発見しようとせず、すでに誰かに語られた内容をリアリティを感じられない奇抜な文体で語りなおすことでオリヂナルな新しい文学を気取って文壇ウケを狙う人が少なからずいて、文学を見る目がない選考委員がそういう小説を文学的だと評価して賞をあげることで変な文体の小説のほうがいいのだと勘違いして文学の害毒に侵されて現実を見て小説を書かずに小説を見て拙い小説を書く作家志望者を増やす悪循環になっている。角田光代が文学界新人賞の選考委員を辞めるときに普通の小説を書けと作家志望者に忠告を言っていたのはその通りなのだけれど、そもそも変な小説をもてはやしてきた文壇や編集者に問題があって、角田光代がいち選考委員として意見を言ったところで芸術の本流をそれて蛇行して迷走している純文学を本流に引き戻すのは大変で、灌漑工事みたいな大事業をやらないといけない。昔は社会の変化と芸術の変化が連動していて新しい〇〇主義が出てくるたびに文学の流れも変わったのだけれど、今は大きな物語がなくなって美術も音楽もやりつくして行き詰っていて外部から文学を変える力がないし、内部も停滞していて文学が自発的に変わる力もない。今は政治経済界の新自由主義グローバリズムや、リベラルによるLGBTQや移民の推進や、それに反発する保守思想や、人種や宗教の対立が世界の関心事になっているけれど、純文学はその流れにも乗れていなくて「社会性を明瞭な文学的リアリティに改変する事」をせずに、作家の周辺で起きた些細な出来事を描いて私小説作家と同様にネタ切れして技法も貧しくて結局は恋愛小説や青春小説だののありふれた大衆小説を書くようになる。純文学でデビューした作家が生活の為に大衆小説を書くのは別にいいけれど、純文学と称して大衆小説のように既に語られた事の繰り返しをやるのはだめで、気鋭の文士を気取るためにそんな手の込んだ欺瞞をやらずに素直に大衆小説作家としてありふれた売れ筋の大衆小説を書けばいいぢやないか。純文学という形式で思想や物語を表現したい芸術家を増やさず、芥川賞作家という肩書を見せびらかしたい売文屋をいくら増やしたところで純文学はつまらなくなる一方である。★★★☆☆関連記事:『小林秀雄全集第一巻 様々なる意匠』
2024.02.25
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最近は一部の脚本家が原作者や同一性保持権を軽視して原作を有料加工素材のように雑に扱って好き勝手に脚色して原作レイプしていることに多くの人が憤っている。その一方でNews PicksのYouTubeの動画で日本料理店の龍吟(りゅうぎん)のオーナーシェフの山本征治が落合何某と対談していて、うなぎを料理することはできるけれど自分でうなぎは作れないので材料を大事にするというようなことを言っていて、一流の人は良いことを言うなあと感心した。というわけで徒然なるままに材料について考えることにした。●材料とは何か材料とは何かの目的の為に使われる素材のことである。農業をしたい人にとっては大きな岩が邪魔だけれど、石屋にとっては石材として商品になるように、目的次第で物の価値は違っていて、目的に適するものは材料としての価値をもつ。たいていはまずは何かの目的があって、その目的を達成するために適した材料を探したり開発したりする。例えば服屋は乾きやすい服や丈夫な服を作る目的のために合成繊維を開発して、ゴアテックスだのなんだのを材料にして機能性が高い服を作って差別化する。あるいは廃棄物を有効活用するために用途を考えるアプローチもあって、例えばホタテの貝殻はそのまま産業廃棄物として棄てると処分費用がかかるし貝殻の塩分で土壌汚染もするけれど、貝殻を焼いて塩分を除去すれば肥料用の炭酸カルシウムとしてリサイクルできる。理系の大学の研究室はとりあえず何かの物質を開発してみてから何かの用途に使えないか考える方法をとることもできるけれど、研究開発費がかかる一方ですぐに収益につながるわけでもないので営利企業はそういう方法はやらない。何かを本来の目的とは違う目的のための材料にすることは例え合法であっても倫理的に批判されがちで、例えば本来はおいしく食べてもらう目的で調理された食品を食べずに破壊することで動画のネタにする食べ物を粗末にする系YouTuberとか、本来は故人を追悼する目的で行われた芸能人の葬儀に行って参列した芸能人に絡んで動画のネタにする迷惑系YouTuberとかは批判されている。社会を良くしようとしたり人を幸福にしようとしたりするような有意義な目的がない人たちが何を材料にしたところで社会のためにならない。良い目的があってこそ良い材料たりえる。サルトルの「飢えている子供たちを前にして文学に何ができるのか?」という問いみたいな、もともとの目的と無関係な目的を持ち出すのは不毛である。文学は食べてもらうためでなくて読んでもらうために作られているのは自明だし、どんな目的にも使える万能の材料などそもそもない。ライスペーパーにイカ墨で小説を印刷して春巻きを作ったり、饅頭に漢詩の焼き印を押したりしたら一応食べられる文学を作れなくもないけれど、飢えた子供は文学なんかどうでもいいだろう。素直に「飢えている子供たちを前にして何ができるのか?」と考えた場合に文学以外の効果的な手段がたくさんあるのだから「文学に」と限定する意味がない。「糖尿病の大人たちを前にして文学に何ができるのか?」とか「工学部の受験を控えた理系の高校三年生を前にして文学に何ができるのか?」とか「住宅地に出没する熊を前にして文学に何ができるのか?」とかどんな問題でも文学で解決しようとするやつがいたらただの阿呆である。・材料調達の重要性何かの物を作るにはまず材料が必要で、材料を加工するために道具が必要で、うまく加工するには技術が必要になる。論語で「朽木は雕るべからず」(腐った木には彫刻できない)というように材料がだめだったら良い道具やすごい技術があってもどうにもならないので、良いものを作ろうと思ったらまず良い材料が必要になる。それゆえに材料の目利きができて材料を調達できることも製作者には必須の能力となる。例えば陶器を作ろうと思ったら陶器に向いた土が必要になるので、陶芸家は土の目利きをして陶器向きの良い土が取れるところのそばに窯を作る。良い日本刀を作るには炭素含有量が少ない玉鋼が必要で、中世の刀工は化学の知識もないのに経験から良い材料を見極めて国宝になるほどの名刀を作った。資源が乏しい日本で料理や工芸とかの様々な文化が発展したのは限られた材料を吟味して有効活用してきたおかげだといえる。しばしば寿司職人の長年の下積みの修行は無駄とか言われるけれど、これは材料調達を無視した意見だと思う。魚を捌いたり寿司を握ったりする技術だけなら料理学校やYouTubeの動画でも教えられるけれど、料理学校ではネタの仕入れ先は教えないし、安定した仕入れができないと寿司職人にはなれても寿司屋の経営はできない。魚屋や仲卸は大手や老舗とかの得意先を優先していい魚を売っていて、新人のすし職人がいい魚を欲しがったところで卸してもらうことはできないので、老舗の寿司屋の看板を利用して魚屋に顔を覚えてもらったり魚を見る目を培ったりすると言う点では寿司屋で修行するのは無駄ではないだろう。動画とかで技術のコツが共有されて技術が普遍化すると、限られた資源の中から良い材料を調達するほうが相対的に難しくなるので、材料調達の能力のほうが重要になる。ガイアの夜明けかなんかのドキュメンタリーで見たけれど、イギリスらへんで寿司屋を開業した人は地元の魚屋の魚は鮮度が悪いので寿司ネタにできる新鮮な魚を手に入れるところからはじめないといけなくて、漁船に乗って地元の漁師に魚のしめ方を教えて寿司ネタにできるくらい鮮度のいい魚を調達していた。寿司を握る技術が同じだとしても、外国で新鮮な寿司ネタを現地調達できれば冷凍のサーモンやマグロに頼っている他の寿司屋よりも仕入れで優位性を持てるわけである。ものづくりだけでなくて小説や漫画とかのコンテンツ作りでも材料が必要で、道具はパソコンとかの誰でも買えるものなので道具の差はあまり出ないけれど、そのぶん材料と技術で差がでる。小説では言葉の文法とかの一般的なルールに従う必要があるし、新しい文学理論や描写技術が開発されていなくて他人が真似できないほどの超絶技巧はないのでプロ同士の技術の差はあまり大きくなくて、取材に金と時間をかけてテーマを掘り下げてネタを吟味することが作品の出来を左右していて、例えば外国が舞台の小説や企業の内幕を掘り下げた経済小説や膨大な資料を調べる必要がある歴史小説とかだと取材力がない他の小説家が真似できない作品になる。漫画なら直接取材をしなくても背景や小物の資料集を使って絵を描くこともできるけれど、実際にある場所を取材して舞台にすると物語にリアリティーが出るし、資料集を使っている他の作品との差別化もできる。クリエイターは生きる事自体が取材のようなもので、嫌な体験も良い体験も人生のすべてを創作の材料にできるところに強みがある。●人は材料なのか労働者は人材と呼ばれているけれど、自由意思があって規格化できない点で物としての材料とはだいぶ違う。体調によってパフォーマンスも違ってくるし、能力があってもモチベーションがないと能力を発揮しきれないし、成長することもあるし老いることもあるし、人同士の相性もあって能力が一定ではない。企業にとっては人材は利益を生み出すための材料か道具のような存在だけれど、人は利益を生み出すために生きているわけではないし、材料として使い潰されるのはまっぴらである。社会に貢献して利益をもたらすに越したことはないけれど、利益を出さないからと言って生きる価値がないだの社会に不要だのと言われる筋合いはない。その齟齬が資本主義社会での様々な問題の原因になっている。日本の経済界は自社で人材を育成せずに削減可能なコストとして扱って代わりはいくらでもいると就職氷河期世代を酷使して使い捨てて、今になって人材がいないと言い始めた。かつて「官僚は一流、経済は二流、政治は三流」と言われていたそうだけれど、どれも三流になって低賃金で搾取された若者が結婚しなくなって少子化が進行して技術承継もできなくなって衰退しつつある。企業が生産性を高めて利益を出すためには、従業員が経験を積んで効率よく仕事ができるようになるか、大規模化して大量に材料を調達して大量生産して調達コストを下げる方法があるけれど、日本企業はその逆に給料が高いベテランをくびにして給料が安い新人バイトや外国人技能実習生に入れ替えてうわべのコストだけ下げて、経験曲線を無視して数年おきに経験値も人間関係もリセットして教育をやり直す非効率なことを繰り返して来たのだから生産性が上がるはずもない。さらにもともと資源が乏しい国なのに食料やエネルギーの自給率を高めようとしてこなかったのでウクライナ戦争による資源価格高騰のあおりをもろに受けて、原価コストが高いうえに効率よく作業できるベテランが不足しているという極めて非効率な状況になって、可処分所得が上がっていない中で価格転嫁もできなくて資本が少ない零細企業が倒産している。ラーメン屋が1000円の壁を越えられなくて、バイトの給料を上げられなくて従業員も集められなくなって倒産しているのが典型的である。岸田政権がようやく賃上げに動き始めたけれど、単に給料を上げればよいというものではない。岸田が当初に新自由主義からの脱却と言っていたように、権力者による搾取を正当化する新自由主義的な考え方を覆さない限り国民の生活が本質的に向上することはないし、国民が未来に希望を持って子供を作るようにならない。『カモのネギには毒がある』という経済学をテーマにした漫画で、「神はアルゼンチンの民にありとあらゆる物を与えて下さった。豊かな土地、穏やかな気候、様々な動植物、豊富な資源。ただ一つだけ恵みを与えて下さらなかったものがある。それはアルゼンチン人だ」というジョークを言っていたけれど、日本より広くて資源が豊富な土地があっても人がダメだと良い国にはならない。人間が権力者の金儲けのための材料や道具扱いされてあれをやれこれをやれと命令されたところで見返りもなしに権力者の言いなりになる人なんか当然いなくて、仕事をさぼったり脱税したり賄賂を贈って犯罪を見逃してもらったり麻薬に耽って現実逃避したりして信賞必罰が履行できなくて犯罪者が増えていくので良い国は作れない。発展途上国はたいていこのパターンで国民も政治家も官僚も警察官もすべて腐敗してうまくいっていなくて、犯罪組織の力が強くなりすぎると犯罪を撲滅しようとするまともな政治家や警察官や裁判官が殺されてなかなか腐敗から抜け出せなくなる。個々人がどういう社会を作りたいのかを主体的に考えて行動してこそ良い社会ができる。そういう人たちは人材ではなく、国の礎と呼ぶべきだろう。人材は会社にいる間は役に立ってもいなくなったら何も残らないけれど、礎は残ってその上に何かを積み上げていくことができる。日本人が文化も学問も技術も発展した豊かな社会で生きられるのも志を持った大勢の先人たちが礎となって知識や技術や思想や倫理観を少しずつ蓄積して次代に継承してくれたおかげで、拾った財布を交番に届けたり列に割り込まずに待ったりする世界有数のモラルが高い国になっている。人材派遣や技能実習生等で一時的な労働力の確保をしたところで、その人たちは国の未来を支える礎にはならない。帳簿の数字しか見ていない経営者や経済学者はそれが理解できないようで、従業員を解雇して仕事を外注する経営コンサルタントの感覚で国民がいなくても国家を運営できると思っているらしい。かつてアメリカが発展したのは愛国心を持ってイギリスからの独立戦争や南北戦争を戦ったりした人たちが理想のために血を流して国の礎になったおかげだけれど、今のように利己的な移民が集まった愛国心がないアメリカでは労働力こそ多くて金を稼ぐことだけはできても人種や宗教で分断されて幸福な社会を作ることはできないだろう。アメリカやEUは移民推進政策の答え合わせと清算のフェーズに入っていて、アメリカでドナルド・トランプのような際物が大統領候補に担ぎ上げられるのもそれだけアメリカがおかしくなっていることの裏返しで、保守派が多いテキサスが独立する噂まで出ている。ヨーロッパではキリスト教の国同士で移民するぶんにはうまくいっても、2015年以降にアフリカや中東から来たイスラム系移民が同化しなくて働かずに福祉にたかって治安が悪化して多文化共生は失敗だったという結論になって、ドイツやフランスやスウェーデンやデンマークで移民排斥を掲げる右派が増えつつある。かつてヨーロッパ諸国は世界中を植民地にして労働力や資源を搾取してきたけれど、一時的には儲かってもそれが国の礎にならず、愛国心のない移民の逆流で歴史や文化が蹂躙されて国の礎が壊されようとしている。中国は植民地がないかわりに自国民の人権を無視して少数民族を強制労働させて安い労働力と環境破壊で世界の工場として成り上がってきたけれど、日本よりも格差が大きくて共産党のコネがないと就職できなくて「四不青年」と呼ばれる恋愛しない、結婚しない、家を買わない、子供を持たない青年が出現して、日本以上に急激に少子化が進行していて、将来は世界の工場としての収益モデルが成り立たなくなる。努力しても報われずに巨大なシステムの中で権力者に搾取されて思想の自由さえない人生を生きたい人はいないし、その不幸を子供に受け継がせようと思わないのも当然で、一度きりの人生で家族の為に犠牲になることをいとわない人はいても、国家や見ず知らずの他人の為に犠牲を強いられて納得できる人はなかなかいない。だからこそ愛国心が必要なのだけれど、反日教育をして仮想敵を作ることで愛国教育をしたところで、実際に中国人を殺しているのは中国人自身で、大躍進政策の失敗による食料難では3500-4000万人、文革の粛清では1000-2000万人が死亡しているし、ウイグルやチベットも無理やり同化させるために弾圧されている。いくら習近平が独裁者として権力をふるって強制労働させたり統計をごまかしたり反日教育をして批判そらしをしたりしても、一定以上の教育を受けた人は為政者の欺瞞に気付いてしまうので国民に愛国心や未来への希望を持つことを強制することはできない。国家転覆を恐れて国民を信頼できずに国民に権力を分け与えることができないのが独裁者が率いる国の発展の限界である。中国は文革で知識人がいなくなって、そのあと経済成長しても富裕層が我先にアメリカやカナダやオーストラリアとかの言論の自由がある先進国に逃げて、香港の若者の民主化運動も潰されて、国の未来の為に礎になる愛国者がいなくなったということでもう政策の答え合わせが終わっていて、いまいる人材を権力で脅して使い潰したあとは数十年かけて落ちぶれていくだろう。未完成のまま廃墟となった高層マンションだらけでうわべのGDPだけを高くしたところで、その実態は豊かな国や幸福な国民と呼べるものではない。日本が欧米や中国の失敗から学ぶことができないのであれば、いくら移民を増やしたところで国の礎となる人がいなくなって腐敗して衰退していくだろう。何のために人が生きるのか、何のために国が存在するのか、その目的からもう一度考え直すべきである。
2024.02.15
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最近は『セクシー田中さん』という漫画の作者の芦原妃名子が原作が未完であることを理由に原作に忠実であることを条件にしてドラマ化を許可したのに、キャラクターが原作とは別人のように変えられたり、作品の核となる部分がカットされたりして、結局は原作者が脚本に加筆修正する事態になったそうな。それで芦原妃名子が29日に栃木県のダムで自殺しているのが見つかったけれど、この自殺には原作改変騒動によるストレスも無関係ではないだろう。私は芦原妃名子の作品を読んだことがないけれど、死屍累々の漫画業界で作品を世に出せる才能がある人がこんな形でいなくなるのは残念なので、これについて考えることにした。●なぜ原作は改変されるのか作者には同一性保持権があるので、ドラマ化などで翻案の許可を与えたとしても作者が同意していない改変は同一性保持権の侵害になる。しかし小説や漫画や映画はメディアごとに表現の形式が違うので、何かを原作にして違うメディアで表現しなおそうとすると忠実に再現しきれないところがでてくる。例えば小説だと自由に章立てできるので長い場面を展開できるけれど、ドラマや映画だと時間の制限があるのでカットせざるを得ない部分が出てきて重要でないエピソードやキャラクターを減らしたり、逆に短いエピソードを引き延ばしたり複数のエピソードつくっつけて1話分にまとめたりする。これは改変されても仕方がない部分として原作者や原作ファンも受け入れられるだろう。しかしテレビや映画はスポンサー集めのためにキャストありきで制作しようとして、原作に合わない俳優をねじ込むためにキャラクターの年齢や性別を変えたり、オリジナルキャラクターを登場させたり、調子に乗ったジャニーズのタレントが勝手にセリフを変えたりする。これは同一性保持権の侵害に当たって原作者や原作のファンには受け入れられない改変なので原作レイプとも呼ばれる。個人で活動していて小説家や漫画家よりも資本力がある出版社やテレビ局のほうが契約上の力関係が大きいので、著作権が十分に守られていなくて勝手に改変されて、原作者が納得していなくても権力や納期で押し切られてしまう。特にテレビや映画のプロデューサーは原作を宣伝してやっていると勘違いして原作者を見下しているようで、原作者の権利が侵害されたことによるトラブルがしばしばある。例えば『海猿』をドラマ化・映画化したフジテレビが原作者の佐藤秀峰の許可を得ないまま関連書籍を出版して揉めて映画の続編が作られなくなった。万城目学は映画のオリジナル脚本の仕事を受けたらボツになった挙句にアイデアを盗用されたとTwitterで愚痴を言っていた。辻村深月は『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』のドラマ化の撮影直前で脚本をチェックして納得できないとして許諾を取り消したら、NHKが講談社に約5980万円の損害賠償請求を求めて提訴した。結局NHKの訴えは棄却されたけれど、気の弱い原作者なら出版社に迷惑をかけたくないとか裁判に巻き込まれたくないとかの理由で我慢して改変を受け入れてしまうかもしれない。映画について考えるでも考えたけれど、日本の映画やドラマはシナリオがダメである。ネットがなかった頃の1990年代までのテレビは『寺内貫太郎一家』や『おしん』や『家なき子』や『ひとつ屋根の下』や『ロングバケーション』とかのオリジナル作品で視聴率20%以上のヒット作が出ていたけれど、いつの間にか原作ありの作品だらけになってオリジナル作品を作れる脚本家が育っていないようである。テレビ番組を作りたくてテレビ局に入社した昭和時代の人たちから金と安定が欲しくて大企業に入社した平成時代の人たちに代替わりして大企業病になって、コケるリスクをとって自分でコンテンツを作って発信しようとする制作意欲や作品の良し悪しを判断する審美眼がなくなって原作に頼るようになっているんじゃなかろうか。それでプロデューサーは自分でコンテンツを作れないくせに大企業のテレビ局や映画会社のエリートの肩書で零細原作者を見下すちぐはぐな状況になっているのだと思う。原作だけ欲しくて原作者は邪魔だから口出しすんなという同一性保持権を軽視する態度は経済界が労働力だけ欲しくて人はいらないというのに似ていて、人を軽視した拝金主義的なやり方で感じ悪い。脚本家も原作を忠実に再現する裏方仕事に徹することができないようで、オリジナル脚本を作れないくせに自分のアイデアを盛り込もうとして原作を壊す。実写化した駄作として有名な『DRAGONBALL EVOLUTION』に対して原作者の鳥山明は「脚本があまりにも世界観や特徴をとらえておらず、ありきたりで面白いとは思えない内容だった。注意や変更案を提示しても、製作側は妙な自信があるようであまり聞き入れてもらえず、出来上がったのも案の定な出来のドラゴンボールとは言えないような映画だった」と言ったそうで、原作の設定を使って原作者よりも面白い作品を作れると勘違いしている根拠のない妙な自信が原作ありのドラマや映画が改変されて駄作になる根本的な原因になっている。原作がある作品のメインの客は原作のファンなのだから、制作者が自己満足しようがファンが満足しないのであれば失敗作である。『ONE PIECE FILM RED』みたいに原作にはない映画版のオリジナルストーリーでも原作者が監修して原作の世界設定やキャラクター像に沿って作られていればファンも受け入れるのだから、プロの脚本家なら自己満足のために仕事をせずに客の方を見て仕事をするべきだろう。原作者が死んだ場合は財産権としての著作権は遺族に相続されても著作者人格権(公表権、氏名表示権、同一性保持権)が消滅するので、作品が改変されうる。例えばトヨタのCMで実写版ドラえもん役にジャン・レノが起用されたけれど、藤子・F・不二雄が生きてたらロボットであることにこだわって許可しなかった可能性もある。・同一性保持権の無理解5ちゃんねるでの議論を見ていると、ドラマ化を許可したのなら原作者は口を出すなという人や、改変した方が原作よりも面白くなるならいいという人がいたけれど、そういう人たちは同一性保持権を理解していないようである。プロデューサーや脚本家も同一性保持権を理解していなくて、翻案の許可をもらったら内容も好きに変えていいと誤解していて改変が常態化しているのじゃなかろうか。難しい法律の話でなくて原作者の同意なしに内容を変えてはいけないという一般常識レベルの話なので、同一性保持権を理解できない人はコンテンツビジネスに関わるべきでない。作者にとって作品は自分の思想を表現した存在の分身や子供のようなもので、だからこそ思想の表現でない工業製品とかと違って同一性保持権があるのだけれど、自分で作品を作ったことがない人にはその概念が理解できないようで加工素材程度にしか認識していないようである。たとえ下手でつまらなくて売れない作品だとしても作者はその内容の同一性を保持する権利があるし、意にそぐわない改変を防ごうとするのは原作者のわがままではなくて当然の権利である。自分の子供が勝手に名前を変えられたり整形手術をさせられたり性転換させられたりBLカップリングのネタにされたりしたら誰でも文句を言うだろうし、面白さの追求とか金儲けとかのどんな理由であれ思想の表現を勝手に変えていいものではない。原作レイプは原作者の魂の殺人である。脚本家の存在意義は原作を改変してオリジナリティーを付け足すことではないし、原作を違うメディアで再現する職人としての裏方仕事に徹することができない脚本家は原作がある作品の脚本を引き受けるべきでない。もし大工が建築士の図面を無視してオリジナリティーを出そうとして部屋の間取りを勝手に変えて家を建てたら施工不良として損害賠償請求されるし、通訳が相手の発言を忠実に翻訳せずに勝手に自分の意見を付け足したら通訳としては役に立たないように、脚本家なのに原作の同一性保持権を無視してオリジナリティーを出そうとする奴は自分の仕事の役割をわかっていない無能な働き者である。●原作を改変されないようにする方法『鬼滅の刃』みたいにアニメ化やドラマ化をきっかけに人気が加速して原作も売れることもあるので、他のメディアで展開することは原作者にとっては必ずしも悪いことではない。しかし『セクシー田中さん』のように原作に忠実であることを条件にしてドラマ化を許可しても無視されて原作を改変されるとなると、ドラマ化や映画化を許可しないことが同一性保持権を守る確実な手段となる。漫画家の井上雄彦が『SLAM DUNK』の映画化の際に自分で監督・脚本を担当したように、製作者側に入って権限を持てれば一番よいのだけれど、原作者が有名でない限りそこまでの権限は持てないだろう。ドラマ化や映画化をするにしても相手を選んで交渉して、原作レイプの前歴があるプロデューサーや脚本家は避けるべきだろう。それでも原作レイプが起きた場合は、小説家や漫画家たちが組合を作って1年くらい新規のドラマ化を全員で拒否して出版社やテレビ局のやり方に抗議するなりしないと、今後も原作者や原作が軽視されて100-200万円の安い原作使用料でテレビにネタを提供する有料素材扱いされて同一性保持権は尊重されないだろう。あるいは原作でなく原案扱いにして原作と切り分ければドラマ化や映画化が失敗しようが原作には傷がつかないで済む。楠桂の『八神くんの家庭の事情』や、きくち正太の『おせん』のように、ドラマ版が原作とあまりに違うことを原作者が受け入れられない場合は後から原案扱いに変える場合もある。あるいはテレビ局が最初からメディアミックスの製作チームに加わってメディアごとのプロデュース方針を決めていれば後で揉めずに済む。例えば『機動警察パトレイバー』はゆうきまさみが編成したヘッドギアというグループのメンバーが作品の設定を共有して、漫画版では組織犯罪絡みのシリアスなストーリーを展開している一方で、OVA版にはAV98星雲から来たイングラマンみたいな漫画のストーリーとは関係がないパロディ回もあって製作者が遊んでいるけれど、それに対して漫画版のファンが怒るわけでもなくてOVA版はそういうテイストとして受け入れられる。テレビ局がリスクを取らずに人気になった作品だけ原作として利用して都合がいいように改変したいという態度ではクリエイターやファンの信頼は得られないだろう。作者に無断でエロ同人誌を販売されたり、夢小説のカップリングネタに使われたりするのも同一性保持権の侵害になる。作者が二次創作を認めなくて法的な対処をする旨を公式サイトで公表すれば、作者の意向を汲んだファンが違法な同人誌を見つけて告発してくれて被害防止になる。●メディアミックスの危険性小説や漫画を翻案した時に改変したアニメ版やドラマ版や映画版のほうが認知度が高くなってしまうと、原作の存在が薄くなって原作者が表現したかったことは伝わらなくなる。例えば『サザエさん』や『ルパン三世』はアニメ版はたいていの人が知っているけれど、原作の漫画を読んだことがある人はほとんどいないだろう。長谷川町子やモンキーパンチはアニメ版が自分の漫画とは違うと文句を言っていたけれど、いったんアニメ版が世間に定着してしまうと覆せなくなる。作者の思想や感情を表現した作品から金儲けするための商品に変質して、それが代表作のように扱われてしまう。創作をただの金を稼ぐための手段だと割り切れる人ならそれでもよいけれど、後世に自分の作品を残したい人は安易にメディアミックスをしないほうがよい。●脚本家の言い分小説や漫画は作家個人の才能に依存して作品単体で完成しているのに対して、脚本は役者に演じてもらわないことには作品にならないのでチームで作品を作ることになる。アメリカだと脚本の第1稿は買い取られて報酬を得る代わりに脚本に手が加えられることを認める契約をして、ライターズ・ルーム方式で複数の脚本家がアイデアを出し合って合作している。作品が属人的で同一性保持権がある小説や漫画の作者と、チームで制作して脚本を変えることが前提になっている脚本家では話がかみ合わないのも当然である。オリジナルの脚本を変えるのは好きにすればいいけれど、すでに作品として独立して完成している小説や漫画を改変しようとするから問題になる。日本映画製作者連盟の記者会見で東映、東宝、松竹、KADOKAWAの社長が原作を尊重する姿勢をコメントしたけれど、原作者が同意しなければ作品作りができないのだから尊重して当然である。しかしその姿勢が現場の監督や脚本家や俳優に浸透していないのではなかろうか。日本シナリオ協会が「緊急対談:原作者と脚本家はどう共存できるのか編」という動画をYouTubeにアップロードしたけれど、原作は大事だけど原作者には会わなくていいというような原作者を軽視するような発言が批判されたようで動画が削除された。実際にどんな発言があったのかは動画が削除されたのでわからないけれど、何か言いたいことがあるなら動画を削除しないで誤解がないようにさらに詳しい説明をしないと一般人には伝わらないだろう。表現者の端くれなら、動画を消さず、SNSを鍵垢にせず、批判に対して反論すればいいではないか。今言わずにいつ言うというのだ。
2024.01.30
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こないだ芸とモラルについて考えたので、ついでに下ネタ等の表現の是非についても考えることにした。●性欲と表現人間は基本的に異性と交尾をしないと繁殖しないし、他の動物のような繁殖期がない代わりに快楽によって繁殖を促す仕組みになっていて快楽を求めていつでも発情するので、性欲は誰にでもある。しかし快楽にふけってばかりいると浮気や嫉妬から争いが起きたりして弊害があるので、たいていの宗教では性欲を節制することをモラルとして定めていて、他人に性欲を見せることは下品なこととされて、性欲は劣情とも呼ばれる。しかし性欲を創作に転化して昇華すれば芸術作品になりうる。人間同士の愛情を主題にすればロマンスになるし、性的な行為を主題にすればポルノになるし、その中間は下ネタになる。現代では異性に対して愛情を持たず、性的な行為をしなくても人工授精で子供を持つこともできるけれど、それだとロマンスにもポルノにもならなくてフィクションとしては見どころが乏しくて読者の共感を得られないので、人工授精がフィクションの主題になることはあまりない。タンゴやサルサやベリーダンスやダンスホールレゲエのような性的なアピールをするダンスがあるように、性的だからといって必ずしも芸術的な価値が落ちるわけでもない。変態的な性欲を描いたマルキ・ド・サドやザッヘル=マゾッホも人間の一面を掘り下げてサディズムやマゾヒズムの概念の起源となったという点では歴史的な価値がある。●性欲がクリエイターの支援になる誰でも性欲を持っているので、性欲を刺激したり解消したりできる作品にはいつでも需要がある。それゆえにポルノはスポンサーを集めにくい若手のクリエイターや貧乏なクリエイターの金策の手段にもなっていて、水清ければ魚棲まずというように、ポルノが規制されて道徳的できれいな創作だけになってしまうとクリエイターも困る。例えば絵だと葛飾北斎が鉄棒ぬらぬらという隠号を使って春画を描いたり、漫画家やイラストレーターがコミケやfanboxでエロ同人誌を売ったりする。女優は役のために脱ぐことで仕事が広がるので、ハリウッド女優でも若くて無名な頃に濡れ場がある映画に出演してコネと実績を作ってのし上がっている。コスプレイヤーはOnlyfansでエロコンテンツを配信してコスプレ費用を捻出している。需要があるところに商品を供給するのは経済活動としては当たり前の事なので、クリエイターが別名義でこっそりポルノを売っていたりしても批判されるようなことではないと私は思う。●芸術とわいせつとの境界基本的人権に表現の自由があるので、性的だからといって表現は規制されるべきではない。しかし社会の公序良俗を守る必要もあるので、どこまでなら良いのか悪いのかという線引きが問題になる。小説や漫画のような架空のキャラクターによるフィクションには被害者がいないので、架空のキャラクターがセクハラされようが殺されようが法律は適応されないけれど、実在する俳優が演じる場合は法律に沿った配慮が必要になる。志村けんのバカ殿様のようにコントの中で女性にセクハラする役を演じる場合は相手の女性もセクハラされる役を演じることに同意しているのでセクハラとはいえなくてコメディとして成立する。しかし江頭2:50のようにコントとしての脈絡がないまま性器を露出して突撃して相手が嫌がる様子を見せ場にするのは思想の表現とはいえなくて独自性がないのでセクハラや公然わいせつに該当するだろうし、実際に2013年にイベントで全裸になって観客席に飛び込んだとして公然わいせつ罪で略式起訴されている。公然わいせつ罪でのわいせつな行為とは「徒らに性慾を興奮又は刺激せしめ且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し善良な性的道義観念に反するもの」を指すけれど、どの程度なら性的羞恥心を害するのかよくわからないので、裸に対する扱いは難しい。外国のファッションショーだとしばしばモデルが半裸で歩いたりするけれど、これはモデルに対する性的な文脈がなくて服が焦点なので公然わいせつには当たらない。欧米だと人間が裸になる権利も認めているので、ヌーディストビーチという限られた場所でなら裸になっても違法でないようになっている。日本だと慣習的に混浴する文化があったので、温泉で大勢の異性の前で裸になってもそれで羞恥心を害するわけではないので公然わいせつはならない。ストリップ劇場はダンサーの行為や劇中の演出が観客の性欲を刺激するという理由でしばしば公然わいせつで摘発されているけれど、日本芸術労働協会が「ストリップは演者・観客両者の同意の上でなりたっています。公然わいせつ罪の改正を求めます」と抗議しているように、同意しているのなら羞恥心を害するとは言えないかもしれないし、性的なダンスも自己表現になりうるのでむやみに規制や摘発をするべきではないだろう。アフリカのンドンボロという音楽は腰振りダンスがわいせつで下品だということでコンゴ民主共和国では禁止になったようだけれど、私からしたら禁止するほどわいせつには見えない。被害者がいるセクハラはダメだけれど、自己表現としての下ネタには寛容であるほうが芸術は発展すると思う。●下ネタの価値下ネタは直接行為を示さずに婉曲に仄めかすやり方にユーモアがあって、芸術作品としての完成度は低くても文化的な価値はある。ポルノはエッチして終わりというワンパターンな展開になりがちだけれど、下ネタはユーモアの出し方に言葉遊びやしぐさとかの個性がでる。芥川賞を受賞した森敦の小説『月山・鳥海山』には「隣のあねちゃのすりこぎ変えて泡が出るほど擦ってみてえ」(本が手元にないのでうろ覚え)みたいな猥歌が取り上げられていたけれど、こういうのはその時代にその土地で生きた人の素直な欲が出ていて人間味があってよい。お笑いコンビ天津の木村の「なんだか今日行けそうな気がするぅ~」というエロ詩吟は男の下心を詩として吟じる芸で、モテない人が行けそうだと勘違いしているところに面白さがある。Numanielという歌手のsakashitaという曲は坂下千里子にちんこでビンタしたいという欲望を歌ったくだらない歌だけれど、くだらない歌をわざわざ作詞作曲して一生懸命歌うところにおかしみがある。シーモネーターというラッパーは名前の通り下ネタを売りにしていたけれど、SEAMOと改名して下ネタから転向して紅白歌合戦に出演していて、下ネタでの下積みがエンターテイナーとしてのキャリアアップにつながっている。Grausame Tochterというドイツのバンドはステージ上で全裸で放尿したりするBDSM的なパフォーマンスを売りにしている。ロックやパンクのように社会的規範に対する反抗のエネルギーも人が生きる原動力になるし、性の規制に対しても反発して芸術として表現することは正当化されうるだろう。
2024.01.29
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最近はダウンタウンの松本人志が2015年に都内ホテルで開かれた飲み会でスピードワゴンの小沢に素人女性を集めさせて同意のない性的な行為をしたと週刊文春に報道されて、吉本側は行為があったこと自体は認めて同意したか否かが争点になっている。そもそも品行方正に生きていれば醜聞になることもないけれど、芸人には醜聞が多いので、芸とモラルについて考えることにした。●松本の行為の問題・同意があった場合の問題同意があった場合は女性と文春が嘘をついて名誉を棄損したことになる。しかし同意があったとしても既婚者が愛情なしに女性を単なる性処理の道具として扱うことは多目的トイレで女性に一万円を渡して性欲を発散していたアンジャッシュの渡部建と同様に女性から反感を買う。2015年の『人志松本のすべらない話プレミアムライブin 福岡』で松本人志が福岡に来た時に博多大吉が女性を飲み会に呼んでも何をされるかわからないと女性たちが怖がって集まらなかった話をしていたように、後輩に指示して好みのタイプの素人女性を集めさせた飲み会は長年常習的にやっていたのだろう。自分で気に入った女性を口説いたのなら不倫という個人的な問題でしかないので浜田のパパ活不倫みたいに大事にはならないけれど、既婚者で子供がいるのに後輩に好みを指示してヤレる素人女性を連れてこさせてヤリ捨てするのは社会的な倫理観の許容度を超えている。売春の報酬としてでなく帰りのタクシー代として金を渡したとしても実質的には売春だし、ヤレる素人女性を集めたアテンダーは売春を斡旋したとして売春防止法違反になりかねない。ダウンタウンは大阪・関西万博のアンバサダーになっているけれど、合意の上だとしても性欲解消のために女性を一方的に利用するのはSDGsの目標5-2「女性や女の子を売り買いしたり、性的に、また、その他の目的で一方的に利用することをふくめ、すべての女性や女の子へのあらゆる暴力をなくす。」に抵触して、大阪・関西万博が目標とする「持続可能な開発目標(SDGs)達成への貢献」のアピールにはふさわしくない人ということになる。・同意がなかった場合の問題同意がなかった場合は松本や小沢たちは有名な芸能人という立場を利用して携帯電話を取り上げて証拠を残せないようにしたうえで「粗相があったら、この辺りを歩けなくなるかも」と脅しとも取れることを言って組織だって強制わいせつをしたことになって、悪質である。松本はこのまま引退してテレビに出ることはなくなるだろうし、松本に女性を献上していた取り巻きの芸人も仕事がなくなるだろう。所属芸人の素行を管理していない吉本興業のコンプライアンスも問われる。そもそも女性から接待を受けたいのならキャバクラとかの接待用の店に行けばいいし、性欲を発散したいのなら芸能人御用達の口が堅い高級風俗に行けばいい。飲み会の賑やかし要員が欲しいだけなら女性の職業にこだわる必要はないけれど、松本が黒髪の学校の先生やべんごし等の好みを指示して素人女性にこだわっていたのはそういう固い職業の素人とやる性癖を満たすことが目的なのだろうし、飲み会の名目で女性を集めたのに性的な行為を要求したのなら話が違うと同意をしない人も当然いるだろう。もし松本のファンの女性だけを集めたり、特定の女性を何度も飲み会に呼んでねんごろな関係になっていたりしたのなら同意はあったのかもしれないと推測できるけれど、松本のファンでない人は一般的な倫理観があればたとえ相手が金持ちの有名人でも初対面の人といきなり乱交のような性的な行為はやらないだろうし、「俺の子供を産めや!」と言われる筋合いはない。松本を擁護する人は、なんで2015年のことをいまさら文春に告発するのか、被害にあったのならすぐに警察に行けばいいではないかと言っているけれど、ショックを受けてすぐに告発できない人もいるだろうし、報復を恐れて泣き寝入りする人もいるだろうし、時間が経ってトラウマを乗り越えてようやく告発できるようになる人もいるだろう。ジャニーズ問題で世論の流れが変わって、有名人の犯罪の被害にあっても泣き寝入りせずに刑事事件としては時効であっても告発するようになったので、時間が経ってから告発したからといって信憑性がなくなるものでもない。同意があったかなかったかは当事者しかわからないことなので、松本と女性のどっちが嘘をついているのかは第三者には判断がつかないけれど、一般論で言えば録音やメモやSNSのやり取りとかの同意した証拠が出せないのであれば同意していないとみなされるし、本当は同意したのに口約束だけで証拠を残していないのであれば芸能人としては脇があまーい。あるいは主張に矛盾があったり、主張を何度も変えたりする側の信憑性がなくなる。吉本は最初は事実無根と言っていたのに行為はあったと主張を変えたし、小沢は何ら恥じる点はないと言ってLINEのやり取りまで公開したのになぜか活動自粛したので、今のところは吉本側の主張の信憑性のほうが乏しい。松本が記者会見をやらないのは、文春が取材したことを全部書くわけではないので、先に文春に書かれていないことの情報を出して文春からその主張と違う情報を出されたくないという判断なのだろう。その方が裁判には有利なのはわかるけれど、松本が記者会見をしないで黙っていると世間の評価は悪くなる。松本が黙っているのに後輩芸人が勝手に記者会見をして松本の擁護をするわけにもいかないので、飲み会に出席した後輩の評価も松本と一緒に下がるけれど、松本に後輩を守る気があるなら記者会見してどこが事実でどこが事実と違うのか主張するべきだろう。松本は筋肉を鍛えて性欲ビンビンなのに、自分で女性を口説く度胸もなく後輩を守ろうとする漢気もないのはダサい。●女遊びは芸の肥やしなのか「女遊びは芸の肥やし」というけれど、本来は歌舞伎役者や落語家が女性と交際することで女性のしぐさや表情や感情の機微を学んで、女役を演じる時の芸につなげるという姿勢である。ただ女性とまぐわる回数を多くすれば芸がうまくなるというものではない。しかし枕営業やカキタレという業界用語さえあるように芸能界の悪い噂は昔からあって、女役を演じるわけでもないのに性欲を正当化するために芸能界は芸人の女遊びを肯定してきた。「人志松本のすべらない話」で木村祐一がマンションに来たのに性的な行為を断って帰ろうとする女性に対して冷凍鶏肉を投げつけた鶏肉事件を千原ジュニアが笑い話として語ったことも批判されている。話を盛っている可能性もあるけれど、女性が自宅に来たら同意があるものとしてヤってもいいという考え方自体が時代錯誤な女性蔑視だし、プライベートで女性を不幸にしてもエピソードトークのネタに使えておいしいという利己的な姿勢は迷惑系YouTuberと大差ない。人間のクズについて考えるという記事で考えたけれど、クズのほうが女性にモテる。しかし芸人だからそういうものだと開き直るのは人間のクズである免罪符にはならないし、社会的な信用が乏しい芸人だからこそ人格を磨くべきである。●功利主義的な芸の是非誰かをいじる芸はたとえいじられた人が不快になっても笑ってる人のほうが多いからいいじゃないかという功利主義的な考え方で正当化されている。自虐ネタで自分や信頼関係がある相方をいじる分にはいいけれど、後輩いじりや共演者いじりは立場を利用したパワハラ・セクハラである。たいていの芸人は中堅になったら漫才やコントとかのコンビの持ちネタの披露をやめて、バラエティ番組に一人で出演してコンビ以外の人に絡んでいじっていくようになるけれど、コンビでなくて信頼関係がない人をいじって不快にしても他の人を笑わせれば許されるかのように芸人を助長させたのはテレビ局にも原因がある。テレビ番組が若手芸人に体を張った無茶をやらせるのも同様にパワハラ・セクハラである。20年くらい前に小沢が深夜番組の罰ゲームかなんかで涙目になりながらADか誰かの臭いちんこを舐めさせられていた。彼は後でエピソードトークのネタにして天童よしみの「なめたらアカン」が聞こえたと言って笑いに変えていたけれど、本当に嫌だったのだろう。私はたまたまその番組を見たのだけれど、面白いどころかかわいそうだったし、性的いじめのような内容を面白いと思って放送するテレビマンの感性が理解できない。ディレクターは芸人に無理やりちんこを舐めさせるのが本当に面白いと思うのなら松本人志にも無理やりちんこを舐めさせればいいだろうに、仕事を断れない若手芸人にだけちんこを舐めさせるのは立場を利用したパワハラである。小沢は松本に女性をアテンドしたことで迷惑をかけたとして活動自粛したけれど、自分がプロの芸人として金をもらってでもやりたくなかった性的な行為を素人女性にやらせたらだめだろう。本来は自分が集めた女性たちが先輩芸人に望まぬ行為をやられそうになったら体を張って助けてあげる立場のはずで、小沢が女性たちの代わりに犠牲になって「俺となんでそういうことができないんや!」と松本のちんこを舐めていれば世間の評価が高くなって、ハンバーグ師匠と並ぶちんこ師匠としての地位を確立できたかもしれない。そもそも誰かをいじってリアクションを引き出すのは芸なのか。芸人にタイキックをしたら「痛い」とリアクションをするし、女性の芸人や局アナにセクハラをしたら嫌がるリアクションをするだろうけれど、本当の芸ならば技術が洗練されていって名人芸と呼ばれる人が出てくるもので、例えば落語家がそばを食べているようにズズッと音を立てるのは芸だけれど、熱いおでんを芸人に無理やり食べさせて熱がる様子を笑いものにするいじめやパワハラのような行為は洗練がないので芸ではないだろう。アクションとリアクションについて考えるという記事でも考えたけれど、リアクションは素人のYouTuberでもできる程度のものでしかないので、プロの芸人が芸として追及するようなものではない。10の笑いと1の害をもたらす芸と、1の笑いと0の害をもたらす芸のどっちが社会にとって良い芸かというと後者で、あまり面白くなくても社会に害をもたらさないことのほうが大事である。私は藤井隆や山田花子とかの吉本新喜劇系のとぼけた感じの芸人は不快感はないので嫌いでないけれど、島田紳助やダウンタウンや千原ジュニアや木村祐一とかの吉本興業のチンピラっぽい芸人は面白いことを言うとしても言葉遣いや態度が下品で暴力的で高圧的なのが嫌いで、娯楽で不快な思いをするくらいならテレビを見ない方がましである。●先輩後輩の人間関係落語とかの昔の芸人は師匠が弟子を取って芸を教えて〇〇一門として世に出すスタイルだったけれど、吉本の芸人は直接師事する師匠がいなくて芸人養成所に先に入って芸歴が長いことが偉いかのような上下関係があって、売れている先輩が舎弟に飯を奢って小遣いを与えて、先輩を「兄さん」「姉さん」と呼んで芸風がバラバラな人たちが〇〇ファミリーと称する疑似家族を作る異常な人間関係になっている。芸人の地位や収入が低かった昭和時代はその疑似家族で扶助しあうことが芸人が生き残るために役に立ったのだろうけれど、理不尽でも上に逆らえない体育会系の人間関係では親分が間違ったときに諫言して間違いを正す人がいなくて、親分が腐敗したら子分も揃って腐敗していく問題がある。オリエンタルラジオの中田は吉本興業を退所して松本を批判していたけれど、大卒以上の教養があって事務所に頼らなくてもYouTubeの自分の稼ぎで食える中田にとっては芸歴で上下関係が決まる吉本興業の理不尽さには我慢ならなかったのかもしれない。モリマンが番組の打ち上げで先輩に裸にされて掘りごたつに入れられて踏まれた話を文春オンラインでしているけれど、東京のテレビのセクハラ・パワハラの理不尽さに耐えられずに地元の北海道に戻ったそうな。この理不尽に耐えられる人だけが吉本に残るとクズ度が凝縮されていく。仏教の犀の角の逸話が有名で、「学識豊かで真理をわきまえ、高邁、明敏な友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の角のようにただ独り歩め」と教えていて、悪友を避けて善友と交わり、善友がいないなら孤独でいる方がいいと言っているけれど、芸人の場合は悪い先輩や悪いプロデューサーを避けて孤独に営業するわけにはいかないので、芸歴が長くなるほど悪人に囲まれて悪に染まって、若いうちに大金を稼げるようになったらどんな性欲でも叶えられるようになって、それを咎めるメンターとなるべき師匠もいない。この先輩後輩の人間関係が芸人に不祥事が多い原因になっていると思う。松本の場合は中居正広が性欲を抑えるように友人として忠告していたそうだけれど、中居の忠告は天狗になった松本には届かなかったようである。松本は芸人であるまえにまず人間の生き方としてどうなのかに向き合うべきだった。●テレビ業界の腐敗マスコミについて考えるという記事で考えたけれど、テレビ局はどこの局がだめという話ではなくて、業界全体がだめである。吉本ホールディングスの主要株主はフジメディアホールディングス、日本テレビ放送網、TBSテレビ、テレビ朝日などの民放各社なので、本来は吉本興業のガバナンスをする側なのに、テレビ局自体にも問題があるので他社までガバナンスできていなくて一緒に腐っている。松本の問題に対してもテレビ局のトップの発言が批判されている。NHKの稲葉会長は17日の記者会見で、性教育番組の「松本人志と世界LOVEジャーナル」に松本を起用したことについて「中央放送番組審議会でも、『注意深く番組を作るように』とお話をいただいている。こういう事態になることが当時予想できなかったのは事実」と釈明したけれど、こんなの外部から見たら芸人の女遊びが激しくて表に出たらまずい話があることくらい予想がつくのに、業界の内部にいるとわからないのだろうか。ジャニー喜多川に忖度してジャニーズ部屋を用意して性加害を助長させたNHKらしいコメントである。読売テレビの大橋社長は17日の記者会見で「たとえば報道番組で、松本さんと被害に遭われた女性が対決してくれるというのであれば、今すぐにでも私は放送したいと思う」と語ったそうで、この発言もYahooニュースのコメントやXで批判されている。もし女性側が言っていることが事実なのだとしたら視聴率目当てに番組で対決して性被害を見世物にする内容ではないし、やったらセカンドレイプになるので性被害に対して人権意識が乏しい。この程度の倫理観の人たちがトップにいるようでは今後のテレビ業界の凋落は免れないだろう。昔はテレビを見ると馬鹿になると言われたけれど、今後はテレビを見ると性犯罪者になると言われるようになるかもしれない。じゃあいつからテレビ業界は腐敗したのかというと、お笑い芸人が視聴率を取るようになってからだと思う。昭和のテレビ番組はまだ公共放送としての自覚があって、スターが着飾って上品な言葉遣いをしていてそれなりの格式があったもので、例えば『徹子の部屋』みたいに昔からある番組では黒柳徹子がゲストに対して敬意をもってエピソードを聞き出していて視聴率を追い求めずに真摯に上品な番組を作っている。その一方でダウンタウンの浜田が音楽番組で倉木麻衣を宇多田ヒカルのパクリ呼ばわりしたように、芸人が出てくる番組では他人に対する敬意が根底になくてゲストと信頼関係が築けていなくてエピソードを掘り下げられないので、その場では笑いは取れて視聴率はよくても資料としてアーカイブするほどの情報価値がない。明石家さんまがメッシに老後はどうするのかと質問したり、ロナウドに対して大谷翔平を知ってるかと質問したりしたのもサッカー選手に敬意がないと批判されている。ニュース番組やスポーツ番組や音楽番組のように笑いが必要ない番組にまで芸人が出てきてくだらないジャンクなものにしてしまった。小泉今日子が文春オンラインのインタビューでバラエティ番組はくだらないから絶対出たくないと言っている。「たぶん、昔と同じだからマズいんじゃないですかね。世の中がガラッと変わっていっているのに、昔のムードのまま押し通そうとしている。テレビ局は変わらないとマズいよね、と思っています。」と言う通りで、本来は情報を発信する側こそが情報感度を高くして変わっていかないといけないのに、芸能村の中で視聴率に貢献した大御所に忖度してガラパゴス化して世間の変化についていけなくて、名実ともに昭和の価値観からアップデートできないオールドメディアになっている。テレビとラジオと雑誌くらいしか情報源がなかったころは映像を映せるテレビに優位性があったけれど、インターネットが普及してからはテレビはパソコンの下位互換でしかなくなっている。才能があるアーティストや教養がある学者がSNSで直接情報を発信してコメントまで返してくれるのだから、若者が芸も教養もない芸NO人に興味を持たなくなってテレビ離れするのも当然である。・スポンサーの責任芸人は会社員と違ってたいてい高卒で上昇志向と欲が強くて私生活がだらしなくて、山本圭壱が未成年と淫行したり、小笠原まさやが女子高生と淫行して逮捕されたりしているし、反社会的勢力とも昔から関係があって島田紳助が暴力団と付き合いがばれて引退したり、宮迫博之やロンドンブーツ1号が振り込め詐欺グループの忘年会で闇営業したのが判明して吉本興業と契約を解除したりしたし、田代まさしのように薬物で捕まる人もいる。レピュテーションリスクを考慮するなら企業はCMやアンバサダー等にお笑い芸人を起用するべきでないし、大金を払って芸人をCMに起用してきた企業にもモラルがない芸人を増長させた責任がある。フジテレビに対するデモが起きたときにはスポンサーも不買運動の対象になったけれど、テレビ局に金を出して支援しているのだからスポンサーも腐った連中の仲間とみなされて当然である。問題が発覚してから慌ててスポンサーを降りるのでなくて、最初からくだらない番組のスポンサーにならなきゃいい。レピュテーションリスクを軽視した失敗例としてはコナミがある。YouTuberの加藤純一が黒人や女性に対して差別発言をしたことでコナミが加藤純一が出演していた「遊戯王OCG」の動画を非公開にしたけれど、コナミは「過去に不適切な言動で事務所から謹慎処分を受けていた点は認識していたものの、今回問題となっている具体的な発言については把握していなかった」と認識が甘かったことが露呈した。問題が発覚してから非公開にしたところでコナミが加藤純一をイベントに起用した事実がなかったことになるわけではないし、世界展開している企業なら世界的な不買に発展しうる。苦労して開発した大事な商品の宣伝をモラルがない人に託したら、宣伝になるどころかその商品を潰すことになりかねないことを企業は理解するべきで、視聴率やフォロワー数とかのうわべの人気だけ見ないで人となりを見るべきである。
2024.01.19
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正月早々に能登半島で震度7の大地震が起きて200人以上が死亡して、辰年どころか震年である。前にも防災について考えるやパニックについて考えるでも考えたけれど、大事なことは何度考えてもよいと思うので地震について考えることにした。●地震とは何か地震とは地面が振動することで、プレートが動くことによって発生するプレート間地震と、マグマの動きで起きる火山性地震があって、プレートが動くタイプが大地震になる。プレートは固有の方向へ年に数センチメートル動いていて、陸のプレートと海に沈み込むプレートがぶつかり合う部分で岩盤が潰れたりしてプレートがすべって海溝型地震が起きたり、プレートがひび割れて断層ができて断層型地震が起きたりする。日本だとユーラシアプレートとフィリピン海プレートがぶつかるところが南海トラフで、北米プレートと太平洋プレートがぶつかるところが日本海溝になっている。プレートが動く速度が遅いので、地震はある程度のエネルギーがたまった頃合いに数十年から数百年の周期で定期的に起きる。・地震対策揺れによる建物倒壊や物の落下への対策、火事の対策、津波への対策とやることがたくさんある。中でも一番重要なのが建物の倒壊への対策である。人間は建物の中で過ごす時間が長いし、寝ている間に地震が来ることもあるし、建物が潰れて閉じ込められてしまうとその後に起きる火事や津波に対して避難もできないので、建物が倒壊しないだけでかなり生存率が高くなる。2023年2月のトルコ・シリア地震だと、古いレンガ造りのアパートがぺしゃんこに潰れて5万6千人の犠牲者が出た一方で、耐震設計の新しい建物は無事で、建物の強度で生死が分かれた。毎日新聞の「低い耐震化率 高い高齢化率 「壊滅的」被害招く 能登半島地震」という記事によると「珠洲市によると、市内にある住宅約6000軒のうち、2018年度末までに国の耐震基準を満たしていたのはわずか51%。同じ時期の全国の耐震化率(87%)と比べても極端に低かった。」そうで、高齢化が背景にあるようである。金がないから耐震補強工事をしない人もいるけれど、家が壊れたら立て直すのにはもっと金がかかるので、壊れないようにする方が結果的には安上がりだし、家が潰れて死んでしまっては節約する意味がない。耐震化率が低いまま放置してきたのは行政の怠慢で、耐震補強していない古い家や空き家に対しては補助金を出すなり固定資産税を上げるなりしてアメと鞭で耐震補強や建て替えや取り壊しを促す方が良いだろう。災害に備えずに家屋が倒壊したり備蓄がなくて飢えたりして被害にあうのは自己責任ともいえるけれど、自治体は自己責任として無視することはできなくて救助活動をしないといけないので、だったらある程度は自治体が耐震補強工事を強制するほうが防災や救助の効率が良い。しかし安全に対して金を払いたがらない人が少なからずいる。例えば自転車のヘルメット着用が努力義務になっても罰則がないのでヘルメットをかぶらない人のほうが多い。石川県の避難所でも食料がないと言っている人がいるけれど、備蓄していないのなら食料がなくて当然である。そういう人はたぶん想像力が欠如していて、もし自分が事故や災害にあったらどうなるのかを理解していないのだろう。極端に言えば自分や家族の命を守るためにいくら払えるのかという話で、きちんと金をかけて防災をしていたら相応に生存率は上がるのだから、安全に配慮して無駄になることはない。・避難地震発生時にどこにいるかによっても安全な場所が違う。地震発生時に外にいる場合は、ビル周辺は割れた窓ガラスや看板が降ってくるので高層建築物から離れるほうがよいし、ブロック塀や電柱が倒れたり電線が切れたりするので狭い道から離れて周囲に建物がない大通りや公園に行く方が良い。あるいは建物内にいるときに地震が起きたときは、倒壊の恐れがある古い建物にいる場合はすぐに外に逃げて、耐震設計がしてあって倒壊の恐れが少ないビルとかの大きな建物にいる場合は揺れが収まるまでテーブルの下に隠れたりして電灯や棚や天井板とかの落下物から頭を守って、揺れが収まって落下物がなくなってから避難するほうが安全である。山間部だと土砂崩れ、落石、倒木、トンネル崩落などの危険がある。土砂崩れや落石に対しては車の中にいても安全ではないし、土砂崩れで道路が寸断されて孤立することもあるので、危険な山間部を抜けて平野を目指すと良い。海岸近くだと津波が来るので、震源地が海に近い場合はすぐに近くの高台に避難しないといけない。町の人口にもよるだろうけれど車で避難するのは推奨されていなくて、停電で信号が機能しなくて事故が起きる可能性があるし、地震で道路が地割れしているとパンクする可能性があるし、地域住民が一斉に車で避難すると渋滞して動けなくなったところに津波が押し寄せることがあるし、渋滞やパンクで路上に乗り捨てられて放置された車が道路をふさいで避難や救助活動の妨げになるし、避難所の駐車場も限られているので、避難所が遠くにあったり、車に乗っているときに地震が起きたのでない限りは徒歩で近所の避難所に移動するのがよい。避難するときは冷静になることが肝心である。パニックになると判断力が小学生レベルにまで落ちるし、間違った判断は死につながるので、自分がパニックになって慌てふためいている自覚があるなら自分で判断するより周りの冷静な人の真似をして避難するほうがましである。JAL機の事故の機内の映像では子供が「開けてください」と叫んでいたけれど、大人はパニックにならずに冷静に添乗員の指示を待って避難できたのは民度が高くて立派である。被災地にある避難所に一時的に避難しても長期的に生活するには向いていないので、周辺の県で被災者の受け入れ準備ができてから自治体が借りたホテルや空いている県営住宅や仮設住宅に二次避難して、インフラの復旧を待って生活再建を図ることになる。・生活再建地震で道路、水道管、電線が破壊されると、家が無事でもインフラがほとんど使えなくて日常生活が送れなくなるので、行政は住民が避難所から自宅に戻れるようにインフラを復旧する。個人は家の修理とかに費用がかかる上に会社が休業や倒産したりして仕事がなくなることが生活再建の遅れにつながるので、被災者への金銭的な支援も必要になる。厚生労働省は緊急小口資金の対象に特例として能登半島地震の被災世帯を加えて低所得世帯に10-20万円を貸し付けることを決定したけれど、給付でなくて貸付である点が批判されている。●地震の二次被害・災害関連死持病がある人の薬が切れたり、けがをしても避難所で適切な治療が受けられなかったり、水分不足のまま車中泊をして血栓ができたりして、避難中に死亡する場合がある。停電して暖房が使えなくなると冬は凍死の危険があるし、冬でなくても雨に濡れたままで乾かしたり温めたりする手段がないと低体温症になる危険があるし、夏は停電してエアコンが使えないと熱中症や脱水症状になる危険がある。けがをしていなくても家族を亡くしたり仕事や財産を失ったりしてうつになって自殺する場合もあるので、精神的なケアも必要になる。・犯罪の増加災害時は停電で防犯カメラが作動していなかったり、被災者が避難して無人になっていることを利用して窃盗や強制わいせつとかの犯罪が起きやすくなる。石川県では17日までに24件の空き巣や避難所での置き引きなどの被害を確認したそうな。迷彩服を着た偽自衛官も出没しているようである。民度が低い外国人移民が増えたことも犯罪のリスクになっていて、普段から果物や豚を盗んで売りさばいている連中は災害時にはなおさら悪事を働くだろう。日本はまだ治安がいいので被災地での強盗殺人は起きないけれど、他人から食料を奪わないと餓死するという状況になったら被災者同士で食料を奪いあったり自警団が過剰防衛したりして殺人が起きる可能性もある。・悪質商法被災者が余震で不安になってすぐに家を修理したい心理に付け込んで、高額のリフォームをしようとするDQN建設業者が他県から集まってくる。17日までに悪徳商法の相談が96件あるそうな。石川県七尾市では神戸から来たという若い男が屋根にブルーシートを張るだけで12万円を請求して、施工不良ですぐにシートがはがれたので電話をしても電話に出ないそうな。その人が本当に神戸から来たのだとしたら、阪神淡路大震災では神戸は他県から支援を受けただろうに、被災者から搾取しようとするのは恥知らずである。・風評被害地震の被害が少なくて通常営業できている地域でもホテルのキャンセルなどで観光業は金銭的被害を受ける。石川県といっても広いので、能登半島の先端部では被害が大きくても本州側の金沢市ではほとんど被害がなくて観光客を歓迎している。原発関連のデマでも風評被害を受けるし、特に外国人は日本でどの原発が稼働していてどの原発が稼働していないのかという情報を持っていないし日本語の情報を読めないので、外国に間違った情報が伝わりやすい。●支援や災害ボランティアの在り方プッシュ型支援がいいかプル型支援がいいかという話があるけれど、能登地震で対応が遅いという批判に焦った岸田総理が被災地に賞味期限5日までのおにぎりを5日の夜10時過ぎに現地に届けたように、プッシュする側が無能だったらプッシュ型支援は効果的でない。避難所で足りないものとかの被災者の要求を聞いてから必要な物資を届けるプル型支援のほうが無能な政権の場合の支援としては確実だろう。同様のことはボランティアにも言えて、被災者が求めていない善意の押し売りも害になりうる。全社協被災地支援・災害ボランティア情報にまとめられているけれど、自治体によって災害ボランティアの募集条件が違っていて、県内在住者のみの自治体や事前登録制の自治体もある。自治体が被害状況を把握して、それから県知事が自衛隊に災害支援要請をしたり物資や人手を集めて各避難所に物資や人手を振り分けたりするので、避難所に物資が届くまでに数日かかる。その間は個人の備蓄や避難所の備蓄でしのぐことになるけれど、被災者がSNSに「この避難所には食料がない」とかの情報を出して、それに反応して個人が勝手に被災地に押し寄せて自家用車で段ボール数箱程度の物資を届けたところで渋滞の原因になったり悪路でタイヤがパンクしたりして自治体の活動の邪魔になって、かえって他の大勢の被災者への支援が遅れることになるし、賞味期限が切れた食品とかの本来は破棄するべきものを持って行って邪魔になるだけの人もいる。それに被災者は火事場泥棒を警戒しているので知らない人が付近をうろつくのがストレスになるし、被災で医療がひっ迫していて避難生活のストレスで免疫が落ちている中で余所者に新型コロナやインフルエンザとかの感染症を持ち込まれるとかえって状況が悪化する。馳浩知事は5日の石川県災害対策本部員会議で「能登に向かう道路が渋滞し、困っている。個人や一般ボランティアが被災地へ向かうのは控えてほしい」と発言しているし、石川県はホームページで個人からの義援物資を受け入れないと発表して、7日から一部道路で一般車両は通行止めにして、「三連休のため、多くの人が移動されることが予想されます。」「能登方面への不要不急の移動は控えて!」「人命救助、物資支援の優先のため、何卒ご理解・ご協力お願いいたします。」と要請している。被災地支援はミクロではなくマクロでとらえないといけなくて、SNSで助けを求める個々の被災者を個人で助けようとするのでなく、被災地の自治体の支援要請に応じてボランティアや募金などで自治体の活動を支援するべきである。指揮系統が統一されていないと現場が混乱するので県知事や市長とかの責任者の指示に従うべきで、自治体がボランティアに来てほしいと言うなら行くのが支援になるし、ボランティアの受け入れ態勢ができていないから来ないでほしいと言うなら行かないのが支援になる。被災直後の食料の配給は大手食品会社やコンビニやNPOとかの災害時支援のノウハウがあるところに任せて、救助や復旧は自衛隊や医療関係者や土建会社とかの専門職に任せて、特殊技能や設備を持たない個人は道路が復旧されて被災者が普通に生活を始めて落ち着いた頃に観光したり特産物を買ったりして被災地の復興を支援すればよい。迷惑系YouTuberのへずまりゅうや私人逮捕系YouTuberの煉獄コロアキやガッツchとかが被災地に行っているけれど、こういうのは被災者のための活動というより自分本位の売名行為である。他人の不幸を利用してここぞとばかりに自分に注目を集めて動画の再生回数やX(旧Twitter)の閲覧数を増やして儲けようとせずに普段から社会の役に立つ活動をやればよい。大谷翔平やYOSHIKIとかの有名人が寄付を表明するのは良いことで、有名人が寄付をするとつられて寄付をする人も出てくる。最近スキャンダルで話題の某芸人は寄付をすれば多少は世間の評価が高くなるだろうに、金持ちなのに寄付をしないで私利私欲の追求をしてノブレスオブリージュを果たさないのは格好悪い。・支援物資でいらないもの被災地に支援物資を送るにしても被災者が必要としないものや規格がばらばらなものを送ると仕分けが大変になったり場所を取ったり廃棄の手間がかかったりしてかえって邪魔になるので、たとえ善意でもそういう物資は送ってはいけない。・消費期限や賞味期限が切れた食品(停電した被災地では冷蔵庫が使えないし、過熱調理ができない場合があるので食中毒の危険がある)・汚れた古着(サイズが合わないし、衛生的でないし、仕分けが大変。ユニクロとかの大手企業が新品の下着や防寒具を送るので古着は必要ない)・古本(重くて邪魔になるし、娯楽よりもニュースなどの最新情報のほうが必要)・千羽鶴(邪魔になるし役に立たない)●SNSの活用とデマへの注意SNSはインターネットが使える時に被災者が自分の居場所を知らせたり動画で周囲の状況を知らせたりして救助を求めるのに役に立つ。しかしX(旧Twitter)は青バッジを付けた人はインプレッション数に応じて金がもらえるので、注目を集めるために外国人のコピペツイートやら無意味な顔文字の連投とかがXにあふれていて、真偽の判断が難しくなる。能登地震と無関係な東日本大震災の情報のツイートをする人がいたり、家が潰れたという嘘の情報を他人に勝手に投稿された人もいるけれど、これも注目を集めて金を稼ぐためにやっているのだろう。被災して現金がないからPaypayに振り込んで欲しいと言う詐欺も発生している。直接フォローしている人以外の情報は疑ってかかるほうがよい。災害時には誤報や真偽不明なデマが多くなるので、刺激的な情報に過剰に反応してSNSで拡散せず、本当にそうなのか冷静に根拠を判断するべきで、なるべく続報もチェックするほうがよい。熊本地震で動物園からライオンが逃げたというデマをツイートした人は動物園の業務を妨害した容疑で逮捕されている。伊藤詩織の名誉棄損の訴訟だとリツイートも本人の発言として認定されたように、リツイートにも法的な責任が伴うので、安易にリツイートするべきではない。災害を記録してSNSでバズろうとして悠長にスマホを構えて撮影している人がいるけれど、スマホを見ていると視界が狭くなって周りで起きている出来事に注意が向かなくなるので危ない。外国だと崖や滝で自撮りしようとして足元がおろそかになって転落している間抜けな人が少なからずいる。災害の状況を記録して後世に残すことには意義があるだろうけれど、まず自分の安全を確保してからやるべきである。●地震は他人事ではない日本はプレートが重なるところにあるので、地震はどこでも起こりうる。1993年の釧路沖地震(震度6)、1994年の北海道東方沖地震(震度6)、1995年の阪神・淡路大震災(震度7)、2001年の広島の芸予地震(震度6弱)、2003年の十勝沖地震(震度6弱)、2004年の新潟県中越地震(震度7)、2008年の岩手・宮城内陸地震(震度6強)、2008年の岩手県沿岸北部地震(震度6強)、2011年の東日本大震災(震度7)、2011年の長野県北部地震(震度6強)、2016年の鳥取県中部地震(震度6弱)、2016年の熊本地震(震度7)、2017年の北海道胆振東部地震(震度7)、2019年の山形県沖地震(震度6強)と、日本各地で数年おきに大地震が相次いでいるけれど、太平洋側の関東や東南海ではしばらく震度6-7レベルの大地震が起きていない。となると素人的な予測では次に大地震が危ぶまれるのは首都直下型地震や南海トラフ地震である。地方都市は災害にあっても自衛隊や他県からの援助で持ち直すことができるし産業の規模が小さいので経済への影響も小さいけれど、東京や大阪とかの大都市の防災と被災からの復興ができなければ日本の没落の直接の原因になりうる。都市部は狭い敷地に家が密集していて火事が広がりやすいのがリスクになっているし、高齢化に伴って放置された空き家も多くて、都内だと腐朽・破損した空き家が16万戸あって地震で倒壊する危険がある。能登地震では川が干上がって消防車が取水できなかったことで火事の延焼を防げなかったそうで消防車がいても消火できない可能性もあるし、東京は建物の倒壊よりも火事のほうが怖い。タワマンは耐震設計が厳しめなので地震で倒れないと言われているけれど、火災旋風(渦の中心は1000度)が起きたときにどうなるのか不明で、火に外壁があぶられて蒸し焼きになるかもしれないし、911のツインタワーみたいに鉄筋の一部が溶けて重みに耐えられずに崩壊するかもしれない。東京は戦後に大きな災害が起きていなくてデータがないからこそ十分に備えておくにこしたことはない。大都市が被災した時は地方都市はさらに悲惨な状態になるだろう。能登半島はくびれていて山が多くて半島の先端に向かう道路が限られていて、沿岸部を囲む国道249号が土砂崩れで通行止めになったことが救助の遅れにつながっているけれど、同様のことは似た地形の伊豆半島でも起こりうる。南海トラフ地震で広範囲に被災した場合は救助に割けるリソースが不足して政府は人口が多い都市部の救助を優先すると思われるので、人口が少ない山間部や沿岸部は後回しにされて本来ならば助けられたはずの人が助けられずに死者が増えるだろう。被害が広範囲になると被災状況を正確に把握するのに時間がかかって物資の振り分けも大きな避難所に偏る可能性がある。例えばエレベーターに何日も閉じ込められて誰にも気づかれないまま脱水症状で死亡する人とか、避難所への移動が困難な老人ホームが孤立して物資が届かなくて餓死する人とかが出てくるかもしれない。能登地震では倒壊した建物から生存者を3日内に救助することがほとんどできなかったのだから、南海トラフ地震で広範囲に津波がきて無数の家屋が倒壊したらすぐには救助は来ないだろう。能登地震では七尾市以外の漏水箇所は1月4日までに復旧したものの七尾市の復旧に2カ月以上かかる見込みだそうで、飲料水がないと死に直結するので、ペットボトルの水を備蓄するだけでなくて川の水をろ過したり煮沸したりする器具も持っておく方が良い。就職氷河期世代の棄民や消費税増税やインボイス制度導入で国民を貧困や自殺に追い込んできた自民党・公明党が災害の時だけ国民を助けるという道理はないし、政治家は少子化対策でも北朝鮮の拉致被害者の奪還でも食料自給率の向上でもやったふりだけして結果に対して責任を取らないことが常態化していて法治国家どころか問題を先送りして解決しようとしない放置国家になっているので、私は自公政権を信用していない。被災地に行くわけでもないのに作業着を着た岸田総理はやったふりだけで中身がない典型で、田舎者が死のうがどうでもいいのだろう。被災したときに救助や支援物資が来なくてもしばらく独力で生きていけるように、個人でできる限りの備蓄をするほうがよい。アレルギーがある人や歯が悪くて乾パンとかの硬いものを噛めない老人は支援物資が届いても食べられない可能性があるので、なおさら他人頼みにしないほうがよい。・防災への投資道路や鉄道や港とかのインフラ整備は直接防災の役に立つし、産業の振興にもなるので単年度会計をやめて長期的な予算を組んでやるべきである。今は均衡財政主義の政治家がインフラの維持費用さえけちっているので全国の橋や水道管が老朽化しているけれど、老朽化を放置して壊れてから作り直すよりも壊れないようにメンテナンスするほうが安上がりなので、お金をかけたくないならなおさらメンテナンスはちゃんとやらないといけない。東京、大阪、兵庫とかの大都市だと道路の無電柱化を進めているけれど、一番無電柱化率が高い東京でさえ5%程度であまり進展していないので、大地震が起きる前に無電柱化をやっておくべきである。首都機能を移転して東京一極集中を解消して地方都市に産業を分散して地方を発展させて災害復興のレジリエンスを持たせるのも防災になる。卵は一つの籠に盛るなという投資の格言があるけれど、これは防災にも当てはまって、災害でも戦争でも首都が壊れたら国が亡ぶような事態は避けるべきである。防災用のテクノロジーへの投資も進めるべきである。KDDIがSpaceXのStarlinkを活用して2024年内に衛星とスマートフォンの直接通信を開始することを宣言したように、電柱のてっぺんに取り付けている基地局に頼らない通信方法が確立されれば災害時に役に立つし、停電時でも発電・蓄電方法と通信方法があれば孤立しても救助を呼べて被災状況を把握しやすくなって安否確認もはかどる。田舎は医者が少ないので地震で一気に怪我人や病人がでるとキャパオーバーになるけれど、医師が被災地に行かなくてもオンラインで診察できるようになれば健康管理がしやすくなる。ドローンを使った輸送手段が確立されれば、ヘリを使って物資を運搬するよりも低燃費で輸送できて安上がりだろう。輪島市では8日にドローンを使って3キロ離れた孤立集落に薬を届ける取り組みを初めて行っていて、機体は片道7キロ飛行できて、今後は大量輸送も可能になるそうな。大型ドローンで重いものを運べるようになれば道路の復旧を待たなくても被災者に物資を届けられるので災害救助で活躍するだろう。能登地震では海岸が隆起して海岸線が後退して港が使えなくなったことが支援の遅れにつながったけれど、接岸しなくても船から陸地にドローンで物資を運搬できれば道路の状況に関わらず被災地に迅速に物資を輸送できるので、海に面した県では役に立つ。いまはドローンにいろいろ規制があるので、災害時のドローン運用の法整備も必要である。ドローンが物資を運搬できるようになれば、ヘリは病人の搬送や孤立した人の救助とかの優先順位が高い活動に専念できるだろう。WOTAが水がない所でも水が使えるポータブル水再生システムのWOTA BOXを開発していて、電源さえあれば暖かいシャワーを繰り返し使えるけれど、これが普及すれば被災地でも衛生的に過ごせて感染症を防ぎやすくなって災害関連死を減らせるだろう。理研が生きたゴキブリに太陽電池や無線通信装置を背負わせたサイボーグ昆虫にする研究をしていて、災害時に生存者を探索できるそうな。しかし生存者を発見できたところで人手不足で救助が追い付かないと意味がないので、被災地に専門職がいなくても作業できる仕組みの構築も必要である。今は重機を動かせる建設会社や自衛隊がいないと道路の修復や倒壊した家屋の撤去ができないけれど、重いものを運べるパワードスーツが安価で普及すれば倒れたブロック塀や瓦礫をどかすとかして重機がなくてもある程度救助や復旧を手伝えるだろう。大工がいなくても短期間で大量に建設できる3Dプリンタ製の使い捨て仮設住宅とかも開発したら便利そうである。位置情報共有アプリや避難者リスト自動作成アプリとかがすでにあるけれど、他にも災害時に役に立つアプリの開発も必要である。新型コロナ対策用のアプリのCOCOAが不具合だらけであまり役に立たなかったように、災害が起きてからアプリを急に作ってもうまく機能しないので、平時にそういうアプリを作っておくべきである。例えばマイナンバーカードを使った災害時の安否確認システムとかも開発して、スマホでマイナポータルにログインしたら役所が情報を共有して生存確認したり、役所が発表した死亡情報をマイナポータルで閲覧できるようにすれば安否確認がはかどるだろう。東日本大震災みたいに避難所に手書きのメモを貼り付けてあちこちの避難所をまわって家族を捜すのは非効率である。指紋での身元確認システムもある方が便利で、特に死体が損壊して外見では誰なのか判別がつかないときには役に立つだろう。・偽装が潜在的危機になる2005年に建築士の姉歯秀次が担当した98件の物件でコスト削減のために構造計算書の偽装をしたことが発覚したり、2015年に東洋ゴムで納期へのプレッシャーから免震ゴムの試作品のデータを改ざんして大臣認定を受けたことが発覚したり、2018年にレオパレス21の界壁施工不備が発覚したり、2022年に和歌山県の八郎山トンネルで覆工コンクリートの厚さが大幅に不足する施工不良が発覚して工事がやり直しになったように、建設業では手抜きが利益になるので不正されがちで、どこに偽装や施工不良があるかわからない潜在的な問題がある。まだばれていない偽装や施工不良も当然あるだろう。素材のグレードを下げたりコンクリートに混ぜ物をしたりして物理学に反したことをやると必ず災害時にごまかしがばれて相応のしっぺ返しを受けるので、偽装による間接的な人殺しに加担したくない人は大地震が起きる前に告発してほしいものである。
2024.01.13
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あけまして今夜もパーリーナイツフゥワフゥワ。最近はホストクラブの売掛金が問題になっていて、警察庁の露木康浩長官が歌舞伎町を視察して「卑劣な営業手法をあらゆる法令を駆使して取り締まる」と語ったように、ホストクラブを取り締まる流れになっている。というわけで徒然なるままにホストクラブについて考えることにした。●ホストクラブとは何かホスト(host)とは本来はパーティーなどで客をもてなす主人役や、旅館の宿主や、寄生虫の宿主の事を指して、女性の場合はホステスという。銀座とかのクラブとかだとママがいてホステスが男性客に対して接客するけれど、雇用機会均等法ができてからは女性も働いて金を稼いで夜遊びする需要が出たので、クラブの男性版のホストクラブができてホストが女性客を接客するようになった。2000年代のホストは茶髪の長髪をフゥワフゥワに盛って日焼けサロンで肌を焼いているギャル男や、狩野英孝みたいなイケメンを気取ったキザな感じや、入れ墨を入れているオラオラ系だったけれど、最近のホストの写真を見てみたらマッシュのアイドルっぽいかわいい容姿をしていた。その時代の女性の好みに合わせてホストの服装も変わるのだろう。ホストクラブのメニューとしては酒のほかにつまみや料理や果物があるけれど、料理は近所の飲食店から出前をとったりしているので別にたいしたものではない。メインのサービスはホストの接客である。ホストクラブは大勢で独自のシャンパンコールをしたりマイクパフォーマンスをしたり売り上げが一番高いホストがラストソングを歌ったりして場を盛り上げる独特の文化がある。原価が安い酒に数倍の値段をつけるのはぼったくりだとしばしば言われるけれど、パフォーマンス料や人件費込みの料金としてみれば高すぎるというほどでもないだろう。酒の値段というより、推しホストのスーパーレア確定演出を見るための値段のようなものである。2015年に風営法が改正されて、風俗営業者は午前0時から午前6時までの深夜に営業してはならない、18歳未満の者を客として店舗に立ち入らせてはならない、暴力団排除特別地域でみかじめ料の支払いを行ってはならない等の規制があるけれど、だからといってクリーンなビジネスというわけでもないのでいろいろ問題になっている。・ホストの文化的考察ホストはシャンパンコールで「飲んで」(飲んで)みたいにコール&レスポンスをするのが特徴的である。モロッコの伝統音楽のgnawa musicとかではコール&レスポンスが取り入れられてイスラム教スーフィズムのトランス状態になるために音楽が使われているので、それと同様にホストクラブでもコール&レスポンスで客を平常時とは違うトランス状態にする効果があると思われる。ホストの服装も独特で、長髪をフゥワフゥワに盛ったりシャツの襟を立てたりつま先が尖った靴を履いたりするのはライオンのたてがみと同様に男らしさの誇張表現である。ROLANDみたいにホストがやたらとサングラスをかけるのはたぶん目線で嘘がばれないようにするためかもしれない。目をそらしたり目が泳いだりするのは至近距離で見るとよくわかるので、目を見せないミステリアスで人間味がない感じのほうが焦りや不安を見せない完璧なホスト像を装えるのだろう。●ホストクラブの問題・ホスト同士が売り上げを競うシステムホストは店に雇われている従業員というわけではなくて、店から営業場所を借りている自営業者という扱いになる。それゆえに店によっては永久指名制度があって、いったん客に指名されたホストはずっとその客を担当して、他のホストが客を奪ってはいけないことになっている。普通の飲食店なら誰が接客しようが店の売上として勘定して従業員に給料を配分するけれど、ホストクラブの場合は個人の売上のマージンがそのまま個人の収入になるので、店単位でなくて個人単位で売り上げを競うことになる。それゆえに客のツケ(売掛)で売り上げを上げてホストが店への支払いをいったん肩代わりして、後でホストが客から未払いの代金を徴収するようになる。代金を払えない客を風俗で働かせて代金を徴収をする女衒のようなことをして若い女性に高額の借金を負わせるのが最近問題視されて売掛を規制する流れになっているし、ROLANDが自分が運営するホストクラブで売掛を禁止したように行政に規制される前に自主規制する店も出てきた。ホストは酒で肝臓を壊しやすいし、不健康な生活やストレスのせいで老化が早くて歳をとると人気も衰えるので長く続けられる仕事ではないし、独立資金を貯めたりパトロンを見つけたりして自分の店を持てるホストはごく一部である。それゆえにホストたちは若いうちに短期で大金を稼ごうとして、客の支払限度を超えた売上を出そうとして売掛をするのだろう。しかし客に無理をさせてナンバーワンになったところで社会に何か良い影響があるわけでもないし、アイドルみたいに何か作品があるわけでもないし、スポーツのように記録に残るわけでもないし、世間にとっては誰がナンバーワンだろうがどうでもいい存在でしかない。海援隊の「えらい!あんたが大将」の歌詞に「泣かせた女の数ばかり威張ってみても男の値打ちあがるもんじゃないんです」とあるように、ナンバーワンホストが必ずしもいい男というわけでもない。・客同士がホストの時間を奪い合うシステムホストは客の指名が多かったらあちこちの席に行かないといけないし、売り上げを増やすためには必然的に大金を使う太い客といる時間が長くなる。そうすると指名がかぶって他の客に担当ホストを横取りされた客は代わりのどうでもいいホストに接客されてもうれしくないので、担当ホストを奪い返そうとして無理をしてでも高い酒を頼むようになる。こうして客同士が人気ホストを奪い合って自分のものにしようとすることで売り上げが増える仕組みになっている。ホストの誕生日とかの客が大勢来る日だと何万円も使ったのに数分しか席に着かなかったとかで不満を貯める客もいる。予約制にするほうが客の満足度は上がるだろうけれど、客同士にホストの奪い合いをさせるほうが店が儲かるので予約制にしないのだろう。・拝金主義半グレが違法行為で稼いだりビッグモーターが保険金水増し請求で稼いだりしたようにモラルに反することをやれば利益が出るので利益を出すこと自体はべつにすごいことではないけれど、ホスト業界に限らずたいていのビジネスではどれだけ客を満足させたかよりもどれだけ売上があるのかが話題になる。ホストは稼げることを売りにしているので、儲けるために他人を利用して踏み台にするサイコパスを集めやすい。そういうホストは客の容姿や職業を見ていくら収入があるのか、風俗に沈めたらいくら稼げるかと人の価値を金に換算して、頭が悪い女性や上京したばかりで世間知らずな若い女性をカモにしてだまして嵌め込んで金づるにしようとして客を不幸にする。最終的に客をフゥワフゥワに幸福にしていればよいビジネスだけれど、客を不幸にしているのなら合法であっても社会に不要なビジネスだし、規制されて当然である。どれだけ客を幸福にしているのかは店やホストによって違うのでホスト業界自体が良いか悪いかという一般化はできないけれど、ホストが客に恨まれて刺される事件がたびたび起きているように客を不幸にするホストはそれなりにいる。11月5日に歌舞伎町でホストがカッターで切り付けられた殺人未遂事件について文春オンラインが特集しているけれど、このホストも問題があるようである。・酔った状態での高額の注文居酒屋なら日本酒とかの高い酒のボトルの取り置きをしている店もあるけれど、ホストクラブの代名詞ともいえるドンペリとかのシャンパンは炭酸が抜けるので取り置きできないし、ボトルを全部飲むわけではなくてグラスに継いでちょっと飲んで残った酒は流しに捨てたり、ヘルプのホストを大勢呼んで飲ませて盛り上げたりする。そうして短時間にシャンパンをどしどし注文することで売り上げを増やすことができるようになっている。キャバクラのように焼酎やウイスキーとかのアルコール度数が高い酒を割ってちびちび飲むやり方だと量をたくさん飲むわけではなくて高額にならないのでキャバクラでは売掛は問題になっていないけれど、ホストクラブの場合は客が高いシャンパンをどしどし頼んでシャンパンタワーを作ったりして払いきれないほどの高額な注文をして売掛が発生するのが問題になる。酔った状態でイケメン集団に囲まれておだてられて頭がフゥワフゥワした状態で調子に乗って酒を頼むことを自己責任ととらえるか、判断力が落ちているところをカモにされているととらえるかは判断が分かれる。・色恋営業ホストは自営業者なのでただ店の勤務時間だけ働けばいいわけではなくて、営業時間外も営業活動をしている。同伴出勤として客と待ち合わせて一緒に出勤したり、アフターとして閉店後に店の外でデートをしたりして、客と一緒にいる時間を増やすことで次の指名につなげている。他にも客に営業メールを送ったり、チャットでナンパしたりして新規の客を見つけたりもする。ホストクラブ自体の深夜営業を禁止したところで結局は個々のホストがアフターで店の外で営業活動をしているし、そうすると店での仕事とプライベートの境目が曖昧になる。ホストと客が店外のデートを金で買った疑似恋愛と割り切っているならよいけれど、結婚を匂わせて金を借りて返さないのが結婚詐欺になるように、付き合えることを匂わせてフゥワフゥワと金を貢がせて結局付き合わないのは詐欺になりうる。・男社会のしがらみが大変ホストクラブにはナンバーワンになりたがる上昇志向の人が集まって客を奪い合うし、上記のように拝金主義のモラルが欠如したサイコパスも呼び寄せるので、ホスト同士の衝突もある。2010年には八王子のホストクラブ経営者の土田正道が殺害されて鍋で溶かされた事件が起きた。FRYDAYの『「西東京の帝王」と呼ばれたカリスマホストが殺害されるまで』という記事に特集されているけれど、土田は暴君的なやり方で脅してホストを従わせたことが原因で殺害されたようである。・感情労働が大変夜遊びに慣れた女性は初回の割安の料金でホストクラブを値踏みして無理難題をふっかけて憂さ晴らしをしたりするけれど、ホストはそういうスレたわがままな女性の相手もしないといけない。酔った状態でも客の名前を忘れたり間違えたりできないし、客の機嫌を損ねたら指名や売上が減るし、ホストラブという掲示板では客から誹謗中傷されるし、楽して大金を稼げるような仕事ではない。毎日酒を飲んで夜更かしをする不規則な生活なうえに接客業ならではの対人ストレスを抱えて精神を病んでフゥワフゥワしている場合じゃなくなるホストもいる。・男性弱者の嵌め込みホストクラブは寮があって、地方から上京してきたり実家を追い出されたりして住む家や就職先がない若者の受け皿になることで金を稼ぎたい人を集めている。しかし店によっては接客数や売上のノルマや遅刻とかに対していろいろな罰金があって、人気がないホストは金を稼ぐどころか罰金で借金を負わされる。高卒とかで他の仕事をした経験がないフゥワフゥワした若者はホスト業界はそういうものだと思って罰金があることに違和感を持たなくて、罰金まみれで稼げなくて寮を抜け出せなくなって店に雑用係として搾取されるようになってしまう。・女性弱者の嵌め込み日常生活で恋人や夫がいて満足している女性はわざわざホストクラブに行かないので、ホストクラブに行く女性客は容姿が悪くて恋愛が成就していなかったり親子関係が悪くて愛情不足だったりして、親からの愛情不足をホストからのフゥワフゥワした優しい言葉で補おうとしてホストに見捨てられることが不安で依存して貢ぎ続ける人とか、発達障害で自尊心が低くてホストにおだてられるとお世辞だと気づかずにうれしくなってほいほい大金を出す人とかがいる。発達障害者が子供のうちは親が忘れ物とかをフォローするけれど、大人になって家を出てからの稼いだ金の使い方や恋愛の仕方とかは親が教えきれないので、収入以上にホストに貢ぐ人が出てきたり、悪人を悪人と見抜けずに悪いホストに騙される人が出てくる。倫理観があるホストは儲かるからと言って相手が生活できなくなるほど金をとろうとしないけれど、サイコパスなホストは金づるとして相手を破滅に追い込んでいく。坂口杏里がホストにはまって散財して芸能人から風俗嬢に転落したような事が一般人でも起きている。名古屋のホストの和田圭祐容疑者(33)が500万円の売掛がある19歳の女性に千葉市のデリヘルを紹介して職業安定法違反の容疑で逮捕されたけれど、普通の19歳には払えない金額なのをわかったうえで風俗に沈めているので悪質である。・脱税現金で取引していて明細を出さない水商売は脱税が多くて、国税庁の「事業所得を有する個人の1件当たりの申告漏れ所得金額が高額な上位10業種」で上位に位置している。脱税が多いことが水商売が世間で健全なビジネスとしてみなされない一因だと思う。●ホスト業界の健全化の問題ホストクラブを健全化するために、普通の飲食店のように従業員として雇用してホスト同士を競わせずに店全体の売り上げから給料を払ったり、指名料一時間いくらという予約制にして客の指名がかぶらないようにしたり、会員制にして収入が低い人は店に入れないようにしたり、売掛を禁止してクレジットカードの支払いにして明細を明らかにしたりして、やろうと思えば自主的に健全化できるだろうになぜやらないのかというと、高収入が欲しいホストにとっては現行の荒稼ぎできるシステムのほうが都合が良いし、1店舗だけ健全化したところで在籍ホストが高収入の他の店にフゥワフゥワと移籍してしまったら意味がないので変えられないのだろう。もともと長く続けられる仕事ではないうえにあまり稼げないのではホストをやるメリットがなくなる。あるいは自治体が強制的に健全化する場合は、酔った状態での高額な取引を規制する条例や、ホームページに料金を明示していなくて明細がない高額の請求する場合は契約が無効になる条例とかを作ればホストクラブだけでなくてぼったくりバーの被害や脱税も減らせると思うし、水商売全体の健全化になると思う。女性弱者が被害者にならないように権利を制限するパターナリズムの考え方もある。しかし知的障害者や発達障害者でも自由に行動する権利はあるので、本人が借金してでもホストに貢ぎたいと思ってやっていることを他人がよかれと思って規制するのは人権侵害になりかねない問題がある。●私のホストクラブの思い出私はホストクラブに客として行ったことはないけれど、高校の同級生がホストクラブの雇われ店長になったときに開店と閉店を手伝ったことがある。開店のときにはシャンパンコールに使う音楽をちょうどいい長さに編集したり、経理で使うパソコンを選ぶのを手伝ったりして、閉店の時には売れ残った鏡月やスミノフやプリングルズをもらったり、寮を引き払う時にいらなくなった電子レンジをもらったりした。オーナーはキャバクラを経営していた人で、ホストクラブも儲かると思って始めてみたそうだけれど、こんなに金がかかるとは思わなかったということで半年で閉店した。半年の営業にもかかわらず、やくざがみかじめを払えと脅してきて警察を呼んで逮捕したり、体験入店したホストが辞めた後に強盗殺人事件を起こして警察に事情聴取されたりといったトラブルも起きていた。ホスト業界に伝手がない人がやると売れそうなホストを集めたり勤怠管理したりするのが大変そうで、普通に居酒屋とかをやるほうがましじゃないかと思った。1955年に芝木好子が『洲崎パラダイス』という小説で東京の赤線地帯を書いたけれど、1958年の売春防止法で須崎の遊郭はなくなって住宅街になっていて、今では赤線地帯の様子は資料からでしか知ることができない。歌舞伎町のホストクラブとかもいずれ規制されて50年後とかにはなくなっているのかもしれないし、現代のホストクラブの有様をちゃんと記録して考察して後世に残すのも文化的な意義があることじゃなかろうか。*日常生活でフゥワフゥワと合いの手を入れる機会がなかなかないので文章にたくさんフゥワフゥワを入れてみたけれど、文章として使うには無理があるようである。
2024.01.01
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不意撃ちに関連した5作の短編集。●各短編のあらすじと感想「渡鹿野」はデリヘルの送迎ドライバーの左巴がルミを送ったら客が死んでいたので訪ねた証拠を消して仲良くなったものの、ルミが仕事をやめて伊勢の近くの賢島にいるというので会いに行く話。左巴が焦点人物の三人称。冒頭の殺人事件がその後の話に関係ないのはモダニズム的脱線なのだろう。左巴が店を辞めたルミを探して島にたどり着くとかの展開ならミステリになるけれど、デリヘルで働く訳ありの女性の訳を過去編として直接読者に説明してしまったのではオチのインパクトがなくなるので、長編の出だしならこれでいいけれど短編の構成としては失敗かもしれない。結局左巴はルミの人生に深く関わるわけでもないし、ルミと最初から仲が良くて不和や和解とかの感情の動きもないし、ルミを相対化する視点として機能していなくて左巴とルミのどっちを物語の主軸にしたいのか決めかねた感じで左巴の存在感がない。取材はちゃんとしてあるようで、舞台になる池袋や賢島の細部の描写が具体的なのは良い。「仮面」は阪神淡路大震災で会社が倒産してボランティア活動をした甲斐が復興Tシャツを売って儲けたものの経営が危うくなって、かすみが運営するNPOの代表になって東日本大震災に一番乗りして儲けようとする話。甲斐が焦点人物の三人称。タイトルは北条裕子の「美しい顔」に対して含みがあるのかどうかはしらないけれど、作者が直接経験していない災害を小説に仕上げるときは直接災害の当事者を書こうとするよりも周辺の出来事を掘り下げるほうが粗が目立たなくてうまいやり方である。オチの不意撃ちが効いていてよい。「いかなる因果にて」は奥崎謙三が飼い犬を保健所に連れていかれた逆恨みで厚生労働省の官僚を殺した事件から作者が中学の同級生の芝原が数学の教師の大伴に体罰をされたことを思い出して教師に会いに行く話。作者の一人称で、小説なのかエッセイなのか判断がつかないけれどたぶんエッセイかもしれない。オチはないけれど、確かめに行く行動力はよい。「Delusion」は宇宙飛行士の女性が精神科医にカウンセリングを受けに来て、宇宙ステーションで人の気配に出会って以来予知夢のような幻想を見るようになったと言う話。三人称。エピソード自体は面白いものの、精神科医と患者の対話の形式で患者側だけが目立っていて精神科医はプロット上の存在意義があまりなくて巻き込まれ損みたいでもったいない感じ。精神科医側にもひねりが欲しかった。「月も隅なきは」は定年退職した団塊の世代の元編集者の奥本さんがいままでやったことがない独り暮らしをしたくなって、妻と娘に内緒で家出して近所でバイトしつつ生活して妻の行動を観察していたら、妻も探偵を雇って奥本さんを観察していた話。奥本さんが焦点人物の三人称。基本的に神の視点の三人称では敬称の「さん」はいらないし、作者は他の三人称の小説には敬称はつけていないけれど、この小説では新しいやり方を試したくなったのだろうか。奥本さんが何かの事件を起こすわけでなく、行動を変えることで日常生活を異化して人生を捉えなおすやり方は純文学らしくてよい。最後に明るい終わり方なのも人が死ぬ話題が多い短編集の最後の作品としては読後感がよい。全体としては感動するほどの作品ではないけれど、作風や手法が違う短編がいろいろあって楽しく読めた。★★★☆☆不意撃ち [ 辻原 登 ]価格:1,760円(税込、送料無料) (2023/12/27時点)楽天で購入
2023.12.27
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最近は大阪・関西万博の予算が増えたり工事が遅れたりしていろいろ問題だらけなので、これについて考えることにした。●万博とは何か国際博覧会条約によれば、「博覧会とは、名称のいかんを問わず、公衆の教育を主たる目的とする催しであって、文明の必要とするものに応ずるために人類が利用することのできる手段又は人類の活動の一若しくは二以上の部門において達成された進歩若しくはそれらの部門における将来の展望を示すものをいう」そうである。パリで毎年ジャパンエキスポが開催されているようにどこかの国が単独で開催すれば単なる博覧会で、複数の国が参加すれば万国博覧会となる。日本では1940年の東京市の万博が日中戦争の激化で中止になって、戦後は1970年の大阪万博、2005年の愛知万博を開催してきた。大阪・関西万博は2025年4月13日(日)から10月13日(月)の184日間、大阪の夢洲(ゆめしま)で開催される予定である。大阪・関西万博がめざすものとして「持続可能な開発目標(SDGs)達成への貢献」と「日本の国家戦略Society5.0の実現」を掲げている。オンライン空間上に3DCGで夢洲会場を再現するバーチャル万博会場もあるそうな。会期中の一日券は大人が7500円、小人が1800円で、前売りチケットは若干安くなる。●大阪・関西万博の問題点・後出しで予算が増え続ける万博を誘致した当初は会場建設費が1250億円だったのが、資材費の高騰などを理由に費用が何度も増額されて総額3187億円になって、国が3分の1を負担する会場整備費2350億円とは別にパビリオン「日本館」の建設費用や途上国の出展支援などとして約837億円の国費負担が生じる。大阪市民は1人当たり1万9千円を負担して、府民は4000円、それ以外の国民も600円負担することになる。運営費は809億円で計画していたものが1000億円超に増額される予定だそうな。予算が当初の想定よりも〇%増えた場合は中止するというような規定を作らないと、低予算を売りにイベントを誘致してから関係者が利権に群がってもう決まったことだから今更やめられないという口実で公金を無駄遣いするようになってしまう。1964年の東京オリンピックや1970年の大阪万博は戦後から復興した日本を世界にアピールする意義はあっただろうけれど、2020年の東京オリンピックがコネと利権まみれで開会式がぐだぐだになって使い勝手が悪いボート場とかの負の遺産を残したように理念よりも利権を優先すると何年も記憶に残る良い思い出になるどころかさっさと忘れたいような汚点を残すことになりかねない。万博は総会参加者の3分の2以上の議決があれば中止できるそうなので、予算が当初予定より増えたことを理由に中止すればよいだろう。あるいはロードマップを出して各工程の具体的な費用や進捗率を公表して、進捗率が〇%以下なら中止するというような規定を作る方がよい。・会場選びの失敗万博会場の夢洲はUSJの西側にある埋め立て地で、広さは1970年の大阪万博をした吹田市の万博公園と同程度である。夢洲は埋め立て地であるがゆえに地盤沈下するので建物を建てるのに適していない。土壌汚染・液状化対策には1554億円もかかるし、ごみから染み出た水が臭いそうだし、地盤沈下するせいで会場建設が遅れているし、地盤改良したところでアクセスが悪いので費用対効果が悪い。埋め立て地で上下水道もないので、上下水道の整備が間に合わなければ万博では仮設トイレになる可能性もあるし、トイレが不足したりバスが渋滞してトイレに行けなくなったりしたら2007年の富士スピードウェイのF1のようなうんこ祭りになる可能性もある。万博をやりたくてやるというよりも、夢洲へのIR(Integrated Resort、総合リゾート)計画ありきで万博を口実にして夢洲を整備したいという維新の会の思惑があるので夢洲に固執するのだろう。東日本大震災で浦安市が液状化したように、南海トラフ地震が起きたときには夢洲は液状化してひどい有様になると思うし、インフラが貧弱な夢洲で万博開催中に地震や台風とかの災害が起きたら大勢死人がでかねない。夢洲は公園にでもして建物を立てずに利用して、大阪の他の場所を万博会場にするほうがましだっただろう。万博をやること自体は別に悪い事でもなくて、1970年の大阪万博では政府が万国博関連事業として6500億円を支出して周辺の道路、鉄道、地下鉄を整備して、それが高度経済成長期に大阪が大都市に発展する下地になっている。インフラは皆が使うものなので長期的に見れば整備した分のもとはとれる。しかし夢洲を整備してIRに使ったところでカジノに行く人は大阪府民のごく一部だろうし、夢洲の整備が将来の大阪の発展につながるのか疑問である。もし液状化対策がうまくいかないまま建物を立てれば地盤沈下するたびに延々と補修を続けなければいけなくなる負の遺産になる。・ずさんな想定「大阪・関西万博 来場者輸送具体方針(アクションプラン)」(初版)によると、想定来場者数が約2820万人で、国内来場者は約9割、海外来場者は約1割と想定している。自家用車の乗り入れは規制して、鉄道と予約制のシャトルバスで輸送するそうな。2005年の愛知万博は3-9月の6か月間開催して入場者は2200万人で想定の1500万人を700万人上回る盛況で140億円の黒字で、普通の万博なら同程度の入場者数があると思われるので、2820万人もものすごく頑張れば不可能ではないだろう。ちなみに2012年の麗水国際博覧会の入場者は割引券を配りまくって820万、2015年のミラノ国際博覧会は2220万人、2019年の北京世界園芸博覧会は1600万人、2020年のドバイ国際博覧会(コロナの影響で2021年に延期)は2500万人で、どの万博でも大勢来場者がいるわけではなくてテーマや開催国によって入場者は異なるようである。しかし大阪・関西万博は愛知万博と違って埋め立て地へのアクセスが橋とトンネルしかなくてアクセスしにくいのがボトルネックになっている。万博協会が策定した輸送計画ではEVバス70台を導入して1日最大約1万6000人を運ぶ予定で、運行には180人の運転手が必要としている。ピーク時は朝8時から9時の80便で45秒ごとに1台の頻度でシャトルバスでピストン輸送する想定をしているそうだけれど、45秒に1台は机上の空論だと参議院予算委員会で辻元清美議員につっこまれている。それにシャトルバスの運転手が大阪府内のバス会社から最大80人しか確保できなくて100人以上運転手が足りていなくて、全国の貸し切りバス事業者から運転手を募る方針のようだけれど、寄せ集めの運転手が乗り慣れていないバスで45秒に1台のペースの輸送をミスなくこなせるのか疑問である。客も予約したシャトルバスの乗り間違えとかのミスをするだろうし、トラブルが起きることを想定して余裕をもって運用しないとトラブルが起きたときにはひどいことになる。会期中の184日間に毎日1万6000人を輸送しても294万4000人にしかならないけれど、残り2500万人は電車で夢洲駅から来る想定なのだろうか。IRの区域整備計画だと年間2千万人が訪れて、そのうちインバウンドを600万人と見込んでいるそうな。USJの年間入場者数は1000万人程度、全国のパチンコの参加人口は2020年で710万人、全国の競馬場の年間入場者数は600万人程度なのに、IRは日本人客だけでUSJや全国のパチンコ屋や競馬場以上の入場者数があると想定していることになるけれど、競馬でGIとかの大きなイベントがいくつもあっても来場者が1000万人まで行かないのに、何のイベントもないカジノに何度もリピート訪問するか疑問である。絵に描いた餅のIRのために万博の絵を描くというずさんな想定になっている。想定通りに2820万人が万博に来場したとしても、コロナ禍で飲食や宿泊とかのサービス業を中心に人手不足になってオーバーツーリズムが問題になっているときに、バス運転手さえ地元で用意できないのに客をちゃんと捌けるのか、ホテルやタクシーのキャパシティーがあるのか疑問である。・350億円の木造リングがどう見ても無駄リングを再利用するから無駄でないとか日よけになるとか芸術だとかいう理屈でごり押ししているけれど、そもそも不要な物を作らないのがSDGsだろうに、リングの存在自体が万博のテーマにそぐわない。リングがなければ万博が成立しないというような重要施設でもないし、木を使った巨大建造物という点では国立競技場の二番煎じで建築物としてどこに芸術性があるのかわからないし、文楽の補助金を削減したり美術品を地下駐車場に放置したりして芸術をないがしろにしてきた維新の会の政治家に芸術を語る資格はない。日よけが欲しいなら東京オリンピック用のかぶる日傘でもかぶっておけばいい。リングの組み立てや解体は失業対策にはなるけれど、日雇い労働者が作業したところで他の仕事に使える技能が身に着くわけでもないので失業対策としては費用対効果が悪い。これを無駄だと思えない人には政治家をやめてほしい。350億円あれば何ができるのか考えてみると、例えば100億円を使って日本国内の気鋭の芸術家1000人に一人当たり1000万円の予算で万博のテーマに沿った作品制作を依頼して展示するほうがよっぽど芸術性が高いと思うし、話題性や集客や芸術家支援という点でも費用対効果が高いと思う。そんで発注した美術品は大阪府の所有物になるので、府内の美術館で再展示したりすれば長期的に大阪府の文化や芸術に寄与する財産になる。あるいは総額100億円が当たる万博記念宝くじ付きチケット(1等50億円、当選者の氏名公表義務あり、日本人限定、購入は1人1枚まで、来場した人の中から抽選して必ず当選者が出る)を発売したらたいして手間をかけずにチケットの売り上げや入場者を増やせる。あるいは100億円で企業とタイアップして、万博会場にポケモンGO用の限定モンスターを配置するとか、万博記念ポケモンカードを配布するとか、万博記念ラッピングの電車を運行するとかすればコレクターやオタクは必ず万博に来る。・ミャクミャクがかわいくない公式キャラクターのミャクミャクは青い体に目がたくさんある赤いポンデリングがくっついたような造形をしている。キャラ設定は『細胞と水がひとつになったことで生まれた、ふしぎな生き物。その正体は不明。赤い部分は「細胞」で、分かれたり、増えたりする。青い部分は「清い水」で、流れる様に形を変えることができる。なりたい自分を探して、いろんな形に姿を変えているようで、人間をまねた姿が、今の姿。但し、姿を変えすぎて、元の形を忘れてしまうことがある。外に出て、太陽の光をあびることが元気の源。雨の日も大好きで、雨を体に取り込むことが出来る。開幕前から自分のことを皆さんに知ってもらい、2025年に開催される大阪・関西万博で多くの人に会えることを夢見ています。』ということのようで、人間を真似た姿のくせに目がたくさんあるのが気持ち悪さを醸し出していて、形だけでなくて動脈瘤と静脈瘤のような色合いもかわいくない。ミャクミャクがどういうふうに万博のテーマのSDGsと国家戦略Society5.0に関連しているのかもわからない。赤い部分は府民の血税を搾り取る木造リングを表して、青い部分は夢洲の地盤沈下を表していると思えば万博の失敗の象徴としてはぴったりである。万博の運営費用の1160億円うち、8割の969億円を入場券の販売収入で賄って、残りの191億円は関連グッズの販売収入や企業からの賃料収入などを見込んでいるそうだけれど、グッズの割合が大きい気がする。ちなみに愛知万博の会場内の公式記念品ショップの売り上げ目標は60億円で、ミャクミャクがモリゾー・キッコロの3倍売れるとは思えない。モリゾーのぬいぐるみはトトロっぽいふてぶてしさがあってかわいいけれど、奇形のミャクミャクのぬいぐるみを欲しがる子供がいたらメンタルが心配になる。・維新の会が無責任吉村知事によるとシンクタンクは大阪万博に2.3-2.8兆円の経済波及効果があると言っているそうで、儲かるんだから予算が増えてもいいじゃんという理屈で予算が増え続けることに歯止めが利かなくなっている。しかし経済波及効果というのは風が吹けば桶屋が儲かる方式で、需要を作れば第一次間接波及効果で生産が増加して雇用者所得も増加して、第二次間接波及効果で民間消費支出が増加してそれに対する生産も増加するという楽観的な予測で、何をやっても経済波及効果はあることになるので経済波及効果自体が事業の良し悪しを裏付けるわけではない。例えば巨大な穴を掘って埋めるだけの誰の役にも立たない無駄な事業でも建設会社の売り上げが増えて従業員の給料が増えて経済波及効果があることになるので、経済波及効果を事業の根拠にしてはいけない。万博のチケットやグッズの売り上げを万博の成否の判断基準にするべきだろう。吉村知事は会場建設費が上振れする見通しについては「国と府市、経済界で責任を持ってやる」とコメントして、運営が赤字になる可能性については「運営費については、国が『もし赤字になっても補填しない』というふうに明言をしています。これは大阪府市も同じです」と言っているけれど、大阪が万博を誘致したのだから大阪府と吉村知事を選んだ府民が責任を負うべきである。万博の誘致を自分の手柄にしていたくせに、工事が遅れて失敗しそうになったら国や他の誰かに責任を取らせようとするのは無責任すぎる。大阪府は約20億円をかけて府内の4歳から高校生までの約102万人を無料で万博に招待するそうだけれど、負担がちょっと減ってよかったねという話ではなくて、チケットの販売不振とかで運営が赤字なら結局は府民が負担することになるだろうし、そもそも万博をやらなければ負担ゼロである。維新の会は選挙では身を切る改革をスローガンにして当選したくせに、権力を取ったとたんに権力を濫用して金遣いが荒くなって身内の企業に利益誘導するのは投票した府民に対する裏切りである。大阪府民の生活のために必要な公立病院を削減する一方で、府民の生活には不要な万博には大金を投じるのは優先順位がおかしい。万博をやる以上は成功してほしいという人が多いようだけれど、私は長期的な目でみたら大失敗して維新の会みたいな口先だけで人気取りして選挙に強いだけの無責任な連中に政治をやらせたらだめだというはっきりとした教訓を後世に残すほうが国益になると思う。プロジェクトのマネジメントができていなくて当初予算を大幅に超えて工期も大幅に遅れている時点でもはや失敗なのに、現場に無理をさせて工事を急がせてボランティアと称して公務員を動員するやり方を成功例としてしまうと、頑張って困難を乗り越えたという美談になってしまってマネジメントの失敗から学ばないだろう。大阪の公務員の勤務態度に問題があるのも、市制を改革しようという維新の会に問題があるのも、結局は大阪の民度の問題で、倫理観がない奴には何をやらせてもダメである。維新の会を支持する大阪府民の政治リテラシーは横山ノックを大阪知事にしたときから進歩していないし、有権者がまともな政治家に投票しないと何度も失政を繰り返すことになる。新型コロナは感染しなかった人にとっては他人事で、大阪が日本一の死者数を出しても関西のマスコミも批判するどころか吉村はんはようやっとると評価する有様だった。しかし失政の結果として住民税が増えたらもはや他人事でなくなるので、大阪府民も維新の会はだめだと気づくだろう。●ぼくのかんがえたさいきょうのばんぱく私は貧乏なので大阪・関西万博に行くつもりはないけれど、貧乏な私でも行きたくなるような最強の万博を日本で開催するとしたらどういうものがよいか考えてみた。・完全バーチャルデジタル万博大阪・関西万博ではバーチャル会場が作られるそうだけれど、中途半端にやるくらいなら全部バーチャルにしてデジタルコンテンツの展示会に特化すればいいじゃんと思う。日本のゲーム会社に会場制作を依頼したらメタ社のメタバースよりもましなバーチャル会場が作れるだろう。そしたら物理的に日本に旅行する必要がなくなるので輸送に関する問題はなくなるし、チケットも融通が利いて1時間1000円とかの売り方もできるし、普通の万博に比べてバーチャル万博の入場者は増えると思う。そんで新作オンラインゲームのデモを遊べるようにしたり、VTuberのライブを開いたりすればよい。バーチャル会場のデータはデジタルアーカイブとして残しておけば無駄にならなくて他のバーチャルイベントにも再利用できるし、世界中からの数億のアクセスに耐えるために用意した大量のサーバーも政府系施設で再利用すれば無駄にならない。・豪華客船万博巨大な客船を万博会場にして世界を一周して各地の寄港地で数日間滞在しながら展示をしていくスタイルにしたら面白いと思う。そうしたら海外旅行するほどの金がない庶民でも自分の国に寄港したときにちょっくら万博に行って豪華客船の中を散策してみようかという気になるだろうし、すべての寄港地に経済波及効果がある。寄港地ごとにその国の言語に合わせた通訳を用意しやすいので運営もしやすい。常時客船に乗るVIP客はカジノで遊ばせて大金をふんだくることもできる。会場になる豪華客船の新造のために1000億円かけたところで万博終了後も客船として運用できるので無駄にならないし、日本の造船業の技術力のアピールになるだろう。・遷都記念万博北関東あたりに首都を移転して新しく国際空港を作ってそこを万博会場にすれば、新都の開発とお披露目ができて投資効率が良い。そんで都市設計を一からやって自動運転専用道路を作って自動運転のバスで客を運べば運転手がいらなくなって、少子高齢化や人手不足に対応した日本の都市像を示すことができる。そんで静岡を迂回するルートで北関東から大阪までリニアを開通させれば日本をさらに発展させることができるだろう。・サイバー江戸時代タイムスリップ万博温故知新をテーマにして、中世の様々なものを最新技術を作って作り変える。核シェルターになる城をメイン会場にして、ポリカーボネート樹脂の鎧を着た侍が会場を警備して、城下町をパビリオンにしてオール電化長屋に化学繊維の裏モコ着物やデジタル浮世絵やLED提灯とかを展示したり、力士型パワードスーツで相撲を取ったり、光学迷彩スーツを着た忍者が出没したり、ポケモン花札で賭博をしたり、クレーンゲームで根付を取ったり、分子ガストロノミーの研究を応用したエスプーマ寿司を提供したり、電動アシスト付き人力車で場内を移動したりすれば、日本の技術だけでなく歴史や文化も世界にアピールできるだろう。
2023.12.17
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最近はハライチの岩井勇気(37)が年下の奥森皐月(19)と結婚を発表してロリコンだのと話題になっている。YouTuberのあやなんが夫のしばゆーと喧嘩してセカンドパートナーと遊びあるいているのも話題になっている。結婚にまつわるいろいろな議論があるようなので、これについて考えることにした。●歳の差婚の是非歳の差婚は合法であるにもかかわらず、批判されがちである。はたしてその批判は筋が通っているのか考えてみる。アメリカのエモリー大学の「‘A Diamond is Forever’ and Other Fairy Tales: The Relationship between Wedding Expenses and Marriage Duration」という2014年の論文によると、3000組の既婚者を調べたら年齢差が大きいほど離婚率が高いそうな。離婚率が高いから歳の差婚はあまりよい組み合わせではないと一般論としては言えるけれど、結局は個人の相性次第だろう。歳の差が何才だろうが好きになった相手はその一人しかいないし、代わりに歳が近いクローンを用意できるわけでもないのだから、歳の差がある人を好きになったのなら介護や死別が早く来るとかの想定される障害を夫婦で乗り越えていけばよいだけの話である。子供に関しては歳の差がありすぎると不妊や障害児が生まれるデメリットがある。日経Goodayの「セックスは体にいい? 何歳までできる? 素朴な疑問を聞いてみた」という記事によると、男性は35歳を過ぎると精子の数は毎年1.71%ずつ減り、41歳から精子の奇形率は毎年0.84%ずつ増えていくそうな。女性は言わずもがなで出産できる年齢が限られていて高齢出産にはリスクがある。子供のことを考えるなら歳の差がありすぎる結婚はやめたほうがよいというのは科学的に道理がある。歳の差婚はデメリットだけでなくてメリットもある。バートランド・ラッセルの『西洋哲学史1』だとアリストテレスは結婚適齢期を男は37歳、女は18歳と言っていて、理由は若くして結婚すると子供は弱くて女児ばかりで、妻は浮気になりがちになり、夫は妻の発育に圧倒されて自らの成長を阻止されるからだそうな。若くして結婚すると子供は弱くて女児ばかりという点は現代の科学で否定できるけれど、若くして結婚すると夫が自らの成長を阻止されるという点は現代でも言える。成長盛りの時に仕事よりも妻の機嫌取りや愚痴の聞き役とかに時間を取られるのではあまり成長できないだろうし、キャリア志向の人は独身の時に仕事に集中して余裕ができてから結婚する方がよいだろう。それに経験が豊富で経済力が高い年上側が年下の相手を庇護しやすいので、年下のほうは金銭的にも精神的にも豊かな生活ができる。アリストテレス的にはハライチ岩井の歳の差婚は結婚適齢期のよい結婚だと言える。金持ちのおっさんが若い女性と結婚するとロリコンだと批判されがちだけれど、金持ちの女医が若いイケメンと結婚する場合もあるし、結婚する当事者がメリットとデメリットに納得しているのなら他人がどうこういうものでもない。それにもし離婚したところで別の相手と再婚すればいいだけだし、結婚している間にそれなりに幸せになれるのなら歳の差があろうが別によいのじゃなかろうか。●セカンドパートナーの是非セカンドパートナーは友人以上恋人未満の存在を指すようで、肉体関係はないので不倫ではない扱いになっている。異性の友人なら友人と言えばいいだけの話だけれど、わざわざパートナーと呼ぶのだから友人以上の親密さをアピールしたいのだろう。しかし冠婚葬祭に配偶者と一緒に連れていって周囲に紹介できる存在でないのであれば、いくらセカンドパートナーという呼称にしてプラトニックな関係だと強調したところで愛人や浮気相手のような後ろめたい存在としてみなされても仕方がない。そもそも結婚している人にセカンドパートナーは必要なのかといえば、生物学的に言えば必要ない。子育てをするあらゆる動物がつがいを作るのは自分の遺伝子を確実に残すためである。しばしばDQNが継子を虐待して殺すのも、そのほうが自分の遺伝子を持つ子供に子育てのリソースを割けるようになるからで、本能的に自分の遺伝子を残すために有利な行動をしている。セカンドパートナーにいつでも乗り換え可能な状態でスタンバイされているのでは、もはやつがいとしての関係は破綻しているといえる。セカンドパートナー側には遺伝子を残す可能性が高くなるメリットはあるけれど、浮気されかねない側にはメリットがない。本来夫婦で相談して乗り越えるべき家庭の危機でもセカンドパートナーに頼るのでは夫婦仲が深まらないだろうし、利己的な個と個が同棲して各々の幸せを追求したところで、それはもはや幸せな家庭とはいえないだろう。恋愛してから時間が経つにつれて恋愛ホルモンのPEA(フェニルチルアミン)の分泌が徐々に減っていって恋愛感情は3年くらいで冷めるし、たいていの人は恋が冷める前に結婚して、恋人から家族、子育てする親へと関係が変わっていく。その関係の変化に満足できなくていつまでも異性との恋愛を求めてロマンティックが止まらない人は家庭を持つのに向いていないのだから結婚しなきゃいい。独身で遊びまわる分には誰も咎めないけれど、結婚して子供がいる人が配偶者以外の異性と遊びまわるのは節操がない。これはホストクラブやキャバクラとかも同じで、接待とかでない限り既婚者が異性と遊んだり大金を使ったりプレゼントを送ったりしていたら不倫を疑われるし、離婚の原因になりかねない。昭和の恋愛観だと『めぞん一刻』で音無響子が亡くなった夫に操を立てて五代裕作となかなか新しい恋愛を始めようとしないけれど、現代では婚約者が存命中にセカンドパートナーと恋愛ごっこしていて貞操観がだいぶゆるくなった感じがする。男性と女性のどちらが権力を持っているかでも愛人の許容度が違ってくる。歴史的には男性が権力を持ってきたので女性の囲い込みと他の男性の排除をして遺伝子を残そうとして一夫多妻制が世界各地にあって、イスラム教のスルタンはハレムを作ったし、中国の皇帝は後宮を作ったし、日本の将軍は大奥を作って、権力者の直系の子孫を増やして権力を継承してきた。主人に甲斐性があれば女性は自分の遺伝子を残してちゃんと子供を教育できるので他に何人愛人がいようがあまり文句はない。イスラム教の一夫多妻制だと第四夫人まで持つことができるけれど妻を増やすには他の妻の了承が必要で平等に扱うことが求められるし、アフリカの一夫多妻制だと妻子とは別居して夫が順番に訪問していくことで妻同士の諍いを防いでいるようである。その一方で女主人が複数の男性の愛人を持つケースはあまりない。そもそも女性が権力を持つケースが少ないし、女性は生涯に産める子供の人数が限られているので寵愛する相手も限られるし、男性同士が嫉妬するとライバルを排除して多くの寵愛を受けようとして刃傷沙汰に発展しうるので人間関係が安定しない。権力や金がない一般人の女性がセカンドパートナーを持ったところで男性たちを御せないだろうし、件のYouTuberも夫と別居していて結局は家庭を維持できていない。というわけで甲斐性のない庶民はセカンドパートナーに現を抜かす暇があったらファーストパートナーに向き合うほうが良いと思う。
2023.12.06
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最近はTikTokで250万人のフォロワーがいるmama soupというオーストラリアのインフルエンサーが顔に「スケバン」という日本語のタトゥーを入れたのが話題になっている。なんで今更スケバンなのか知らないけれど、久しぶりにスケバンという単語を聞いたので徒然なるままに不良について考えにけり。・不良とは何か不良とは素行不良の人を指す。不良というと主に10代の非行少年を指して、素行不良の小学生未満は悪ガキ、素行不良の中年はチンピラや輩(ヤカラ)と呼ばれる。不良にもいろいろ種類があって、バンカラはもともとは不良を意味したわけではなくて明治時代に西洋風の服装をしたハイカラのアンチテーゼとして擦り切れた学生服を着た野蛮じみた人を指す言葉だったけれど、『ドカベン』の岩鬼正美や『俺の空』の安田一平や『魁!!男塾』の塾生のようにフィクションではたいてい喧嘩が強い粗暴な不良として描かれていて、一匹狼が強い男とみなされて仲間と馴れ合わなかった。ヤンキーは1970年代ころに出てきた不良像で、大阪のアメリカ村で買った派手な服を着て繁華街を徘徊していたのでヤンキーと呼ばれてその呼称が関西から全国に広まったようで、校則を無視して髪を染めてリーゼントやポンパドールやパンチパーマにしたり改造した制服を着たり学校のトイレで煙草を吸ったりしていた。学校の番長とかになって他校と喧嘩をしているのは硬派、あるいは虚勢を張って突っ張っているのでツッパリと呼ばれていて、バンカラの粗暴なスタイルを継承している。女性(スケ)の番長はスケバンと呼ばれた。おしゃれして町をぶらついて「お姉さん暇ならお茶しばかない?」と女性を口説いているのは軟派と呼ばれて、女性を口説くことは「ナンパする」という動詞になって、女性から男性を誘うのは「逆ナンパ(逆ナン)」と呼ばれるようになった。軟派という言葉自体は明治時代からあったけれど、カタカナの「ナンパ」は1980年代に使われるようになったようである。暴走族は車やバイクに乗って道路交通法を無視する不良で、暴力団に目をつけられて金を上納したりスカウトされたりする。走り屋はスピードを出すのが好きで車を改造して峠でドリフトしたりしてドラテクを競うけれど、街中で暴走するわけではないし暴力行為をするわけではないところが暴走族とは違う。チーマーは渋谷とかの繁華街でたむろする都市型の不良で、裕福な家庭の子供がグレてキムタク風の茶髪のロン毛にしておやじ狩りや美人局とかの悪さをしていた。チームごとに同じ色の服を着ていた不良はカラーギャングと呼ばれたけれど、もともと外国の文化だったせいか根付かずに廃れた。中国残留孤児の不良グループとかは暴力団に所属せずに暴力団のような行為をするので半グレと呼ばれて、闇金や特殊詐欺のような違法行為だけでなくて芸能プロダクション経営や飲食店経営や格闘技団体の運営とかの合法な仕事でも稼いでいる。不良の変遷を見ていくと、粗野な一匹狼の個人が反抗していたのが仲間で結束して反抗するようになって、自己表示のために服装が派手になって学校の規則や道路交通法を破るようになって、次第に社会への反抗心や敵対チームへの反抗心がなくなって服装も地味になって違法な金儲けへと目的が変わっているようである。・なぜ不良になるのか大学は頭のいい人が社会に出るための準備をするモラトリアムと言われているけれど、不良は勉強ができない人のモラトリアムといえる。昭和の管理教育だと子供の個性を無視していただけでなくて体罰もあったし発達障害や境界知能に対して理解がなかったので、反抗的な生徒が反発して不良になった。勉強ができないからといって学校に行かずに何もしないで家にいるだけならただの引きこもりやニートだけれど、不良グループに入れば似た境遇で似た年齢の話し相手がいるし、喧嘩が強ければ同性に一目置かれて尊敬されたり異性にモテることもあるので不良グループに入るのだろう。グループ名をつけて他のグループと差別化することで帰属意識ができるし、一緒に悪いことをするとお互いに大っぴらにできない秘密を共有した状態になって絆ができて、これは友情とは違うのだけれど一応仲間はできる。学校では勉強は教えるけれどどう生きればいいかは教えないし、子供が不良になるような家庭でも生き方を教えなくて、メンターがいないどころかメンターになるべき人たちに邪険にされて生き方がわからないという点では不良に同情できる部分もある。そんで何も特技がない不良でも派手な服装をしてバイクのマフラーを改造してうるさい音を出して示威行為をすればみんなに存在が認知されて勢力が拡大して警察も追いかけてきて刺激があって楽しいので、なんかすごいことをやっている気分になって増長して武勇伝を増やしていく。しばしば不良が学校や交番を襲撃しているけれど、自分に指図したり邪魔したりしてムカつくから攻撃するという低レベルの反抗心でしかなくて、社会の仕組みを理解していないので日本を牛耳っている政治家や資本家といった権力者は襲撃しようとしない。幼稚で社会性がないからこそ深夜に爆音を出して社会を支えている労働者の安眠を妨げたり、まじめに勉強している学生をカツアゲするような迷惑なことをやる。不良として有名になったところで働かないのでは収入もないし、モテたところで収入がないのでは家庭を持てないし、犯罪で金を稼ごうとすると捕まるし、社会の役に立つどころか迷惑にしかなっていないし、いつまでも不良をやっているわけにはいかないと気づいた人から不良グループを抜けて、車弄りが好きだったら自動車整備士やガソリンスタンドの店員になったり、体力があったらとび職や解体業や格闘家になったり、話し上手ならホストになったり、音楽が好きならミュージシャンやラッパーになったり、暇なら手伝えと先輩に誘われて祭りでたこ焼きを焼いてテキヤになったりして、何かしらの人生の目的をみつけて社会人として建設的な生産活動をやるようになる。その一方で社会人になりそびれた人は半グレや暴力団とかの反社会的勢力にとりこまれていく。そうして非行少年のモラトリアムが終わる。「しくじり先生」に元暴走族だった竹原慎二が出演してやんちゃしたらいけないと反省していたように、不良が武勇伝だと思っているようなことは社会に出てからは逆に汚点になる。朝倉未来も「しくじり先生」に出て50対2で戦ってボコボコにされて失明しかけたとか暴力団に拳銃を突きつけられたとか武勇伝を語っていたけれど、竹原と違ってあまり反省している様子は見えなくて、伊集院光にヤンキーは嫌いと釘を刺されていた。昔はワルかったんだぜと自慢して威張っている人は反社会的な価値観を持ったままで更生していないんじゃないかと思う。特大のうんこを漏らしたのをどうだすごいだろうと自慢しているようなもので恥知らずである。・若者の不良離れ最近は少子化ということもあって少年犯罪の件数は減っているし、暴走族もメンバーを集められなくて解散している。果し状で相手を呼び出してタイマンで決闘する人もいなくなって決闘罪もほとんど適用されなくなっている。たぶん学校の規則が緩くなって体罰がなくなって生徒をお客さん扱いして不登校も許容するようになって友達親子のように親が子供を叱らなくなって子供が反発しなくなったことに加えて、インターネットが普及してどこかの不良グループに所属しなくてもネット上のコミュニティに受け皿ができてSNSですぐに気が合う他人とつながりやすくなって、バイクで暴走しなくてもSNSで目立って金を稼ぐ手段がいろいろあるので、わざわざ危険な暴走族に入ろうとする人がいなくなったのだと思われる。暴力団も締め付けが厳しくなって組長の使用者責任を問われるので粗暴でやんちゃな馬鹿はスカウトしなくなって、不良が度胸と腕っぷしで裏街道をのし上がるキャリアパスもなくなった。それに格闘技のイベントが充実して地下格闘技をやっている素人の不良よりもちゃんと訓練しているプロ格闘家のほうが強いのもばれてしまったので、不良が喧嘩無敗伝説とかを自称したところで素人の喧嘩の強さが憧れの対称にならなくなった。インターネットやゲームがなかった昭和は車でどこかに出かけることが娯楽だったので、車よりも安く買えて高校生でも免許が取れるバイクが若者の移動手段になったのだけれど、最近の若者は娯楽がたくさんあるので免許すら持たなくなっている。最近の若者は尾崎豊の『15の夜』の歌詞の誰にも縛られたくなくて行き先もわからないまま盗んだバイクで走りだす心情が理解できないそうだけれど、たぶん子供時代が快適になって縛られるどころかスマホを与えられて放置気味に育ったので大人や社会への思春期の反発心がなくなっているのだろう。格好いい男性像も変化して、肩肘張って男らしくツッパるよりも男性アイドルのように中性的になってやさしくて女性に媚びる軟派だらけになった。メンチを切って喧嘩に明け暮れるギザギザハートな不良が少なくなった半面、トー横キッズのように家出して友人宅を転々として夜遊びをしたり売春したり風邪薬をオーバードーズしたりして縄張りを持たないノマド不良が出てきた。本人の人生はだめになるかもしれないけれど、暴走族と違って集団としての結束がゆるくて他人や社会に直接害があるわけでもないので危険視されているわけでもない。・不良の文化ロックは不良の音楽と言われてきたけれど横浜銀蝿の『ツッパリハイスクールロックンロール』のように直接不良をテーマにしたコミカルな曲も作られたし、猫が特攻服を着てなめんなよと言っている「なめ猫」とかのかわいい不良グッズも作られた。『スケバン刑事』のような正義の不良像も描かれた。氣志團のように不良のファッションだけ取り入れている善良な人たちもいる。暴走族の改造車はアメリカの車マニアに人気があるようで、セルシオやシーマの中古車がいまでも流通している。実在の不良は迷惑な存在だとしても南米のギャングのような凶悪な犯罪者集団というわけでもなくて若気の至りの悪ふざけという側面もあるし、元不良の芸能人もけっこういてメディアでの露出も多いので、音楽やファッションの文化としてはそれなりに受け入れられていた。しかし文化としてはたいして洗練されないまま一時的な商業ネタとして消費されて不良ブームが終わったともいえる。ロックミュージシャンやファンはおじさんだらけ、バイクに乗るのもおじさんだらけで、次世代の若者に不良文化は継承されなかった。大阪の中学の卒業式で感謝ポエムを刺繍した派手な変形制服を着たり、沖縄の成人式で派手な衣装を着たりするのは不良っぽい文化と言えるけれど、これは普段のファッションでなくて一回限りのコスプレ的な扱いである。最近だと若者が漫画の『東京卍リベンジャーズ』のコスプレとして特攻服を着ているけれど、ヤンキーはもはや実際の生き方というよりフィクションの衣装という次元になってしまった。ヤンキー的な不良文化が廃れた反面で、現在はヒップホップ的な不良文化が繁栄している。1990年代からヒップホップが流行し始めて、グラフィティとしてシャッターにスプレーで落書きをする人が出てきたり、ぶかぶかのズボンをずり下げてパンツを見せている人が出てきたりして、暴走族のような暴力的な不良でなくて音楽をベースにしたファッション志向の不良になってクラブで騒ぐようになった。ラッパーが逮捕されるにしてもたいてい大麻取締法違反とかで、入れ墨だらけのいかつい見た目や過激なラップと違って実際は暴力性がそれほど高くない。あまり危険な目にあわずに不良を気取ることができて間口が広いし、夜遊びできて楽しいので文化として定着したようである。昭和はロックとヤンキーとバイクとタバコとシンナーが流行して、平成はヒップホップとコギャルとオラオラ系とクラブとマリファナとMDMAが流行して、令和に新しい不良文化があるかというと特にない。Z世代はやたらと闇バイトで捕まっている印象だけれど、馬鹿が悪人に利用されて使い捨てられているだけなので若者が自発的に作った文化というわけでもない。団塊ジュニア世代は人数が多かったので昔は未成年が流行を作るだけの行動力や影響力があったのだろうけれど、今は少子化で不良がグループを作れるほどたくさんいないし、若者は注目されることを嫌っているそうなので、若者発祥のブームを作るほどの行動力も影響力もないのだろう。Z世代発祥の不良文化がないので、平成レトロとしてまたルーズソックスを履いたりして制服を着崩しているのかもしれない。・不良とフィクション『あばれ花組』、『ビー・バップ・ハイスクール』、『疾風伝説 特攻の拓』、『湘南純愛組!』、『今日から俺は!!』とかの不良を主人公にしたフィクションだと、たいてい不良が喧嘩しながら仲間との友情を深める話で、主人公が高校生のまま物語が終わる。卒業後に普通に働き始めたら不良でなくなってキャラクターのアイデンティティーを維持できなくなるので、必然的に成人後の姿は描かれない。勉強も仕事もできない若者の青春像が喧嘩に明け暮れる不良なわけである。不良は部活系フィクションとも相性が良くて、『SLAM DUNK』の三井寿や『ROOKIES』のように不良から更生して普通に青春する展開にもできる。技術的な点で言えば、格闘技系のフィクションのようにルールやテクニックとかの取材をしなくても不良は適当に殴り合うだけで見せ場になるので取材コストが低いメリットもある。不良をテーマにしていないフィクションのキャラクターとして登場するステレオタイプな不良は物語に刺激をもたらす役割を担っている。たいてい暴力担当で、味方キャラの場合は最初は主人公に突っかかってきたのに実は根性がある良いやつだったり、あるいは敵キャラの場合は悪役として主人公に絡んで成敗されて主人公を引き立てたりする。暴力担当にしても暴力団だと毒が強すぎて味方としては使いづらくて、敵としてもアクが強すぎるのに対して、不良だと主人公の見せ場を食わない程度に個性を出せるので脇役としては使い勝手が良い。『幽☆遊☆白書』の桑原和真は主人公のライバル的な立場の不良で、顔が不細工なのでボコボコにしてもファンから苦情がこないし、不良ならではの根性があるという設定で瀕死の状態から復活しやすいので、やられ役として使うと便利である。『グラップラー刃牙』の柴千春も桑原と似たキャラ付けで、格闘技の素人の暴走族がボコボコにされながら根性で戦って脇役なりに見せ場を作っている。主人公が不良の人気作品は多いけれど、不良を出したからと言って人気になるわけでもない。『仏恥義理ステッチ』はスケバン風の見た目のアフロ主人公がかわいい手芸をするというギャップを売りにした展開の最近の漫画だけれど、フックが弱かったのか3巻で完結して長続きしなかった。作品にヤンキー的な要素を入れたところでもはやヤンキー文化がなくなっているので古臭い感じになって現代の読者にはあまり刺さらないようである。昭和や平成の古い不良像を現代にリバイバルしようとするよりも、新しい不良像を打ち出す方がフィクションとしてはウケがよさそうな気がする。しかし何かの正しい規範があるからこそ制服の着崩しとかのファッションが出てくるけれど、規範がなくて各自が好き勝手やっている現代だと規範から少しはずれたキザな感じが出しにくいし、単に粗暴なだけだと筋を通す不良の美学やいざという時に頼りになる番長のような格好よさがなくなるので、魅力的な不良のキャラクターづくりとしては昔よりも難しくなっている。『ONE PIECE』の海賊もある意味不良で、現実世界の不良が少なくなっているからこそファンタジー世界でライバルや権力者を相手にして暴れる話がウケるのかもしれない。
2023.11.23
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最近は秋田で熊を射殺したら役所や猟友会に熊を殺すなと抗議の電話が来て業務に支障が出ているそうである。北海道の大千軒岳では大学生が熊に殺されたし、出没が増えた熊をどうするかが問題になっている。というわけで徒然なるままに熊について考えることにしたくま。●熊とは何か日本にいる熊は本州にはツキノワグマが8400-12600頭いて絶滅危惧II類(VU)で、北海道にはヒグマが2000-3000頭いる(春グマ駆除の廃止とハンター不足で2020年度に推計値で1万1700頭に急増したという情報もある)。九州のツキノワグマは絶滅している。ツキノワグマは100km2程度の範囲で特定の餌場を中心に移動しながら生活していて、雑食で季節によって食べるものを変えていて、春はフキとかの柔らかい植物の若葉やシカの死体を食べて冬眠後の体力を回復して、夏は葉っぱが固くなって食べられないので植物不足を補うためにアリやハチとかの昆虫やミヤマザクラの実を食べて、秋は冬眠に備えてサルナシやヤマブドウとかの果実やミズナラのドングリを食べて、冬は何も食べずに冬眠する。ツキノワグマは野生では20年くらい生きて、4歳ぐらいから繁殖が可能になって数年おきに冬眠中に1-2頭の子供を産んで、1年半子育てしてから子別れする。畑に近い所にいるクマは作物や家畜や養殖している魚を食べたりするし、人家や市街地に出没する熊は危険なので、害獣として駆除される。環境庁の「クマ類の捕獲数(許可捕獲数)について」によると、だいたい年間3000頭くらいが捕殺されているようである。ツキノワグマとヒグマを合わせて10400-15600頭いるうち3000頭が捕殺されていると多いような印象だけれど、大雑把な推計をすると最低でも10400頭いるうちの半分の5200頭が雌だとして、繁殖可能な4歳以上の雌が4/5の3900頭いるとして、それが1年半に1-2頭子供を産むとすると3年で平均3頭、1年で1頭くらい子熊が増えることになって、毎年3900頭の子熊が増えることになる。となると年間3000頭くらい駆除しても、雌や子熊を集中的に駆除しないかぎり熊が絶滅することはなさそうである。ただし正確な頭数は把握できていないし近年熊が増えているという情報もあるので、まずは頭数を把握しないと適正な狩猟数がどれくらいかはわからない。熊は警戒心が強くて人の声を聞くと警戒して逃げていくけれど、子連れの熊にうっかり遭遇すると子熊を守るために攻撃してくるし、登山中に気づかずに突然出会うとびっくりして襲ってくるし、熊のマーキングに気づかずに縄張りに入ると縄張りから排除するために襲ってくるし、好奇心でなんとなく襲ってくることもあるし、いったん人間を襲って食べられるとわかると足が遅くて弱くて狩りやすい餌として人間を認識して何度も人間を襲うようになるので、人を襲った熊は危険視されて駆除される。飢えた熊は危険で、1886年にはカナダのラブラドール地方で飢えたホッキョクグマの群れがイヌイットの集落を壊滅させたそうな(古い事件なので真相は不明で、フェイクニュースという情報もある)。熊は獲物に執着する性質もあって、1915年の三毛別羆事件では最初の犠牲者の遺体を見つけて村で葬儀をしたところをヒグマが襲撃しているし、1970年の福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件ではヒグマがあさった荷物を取り返したせいかヒグマが延々と追いかけて襲撃している。熊は背中を見せて逃げると追いかけてくる習性もあるので、熊と出くわしたら熊を刺激しないように静かに後ずさりして離れるのがよいと言われている。熊は前足が短くて上り坂を走るのは得意でも下り坂を走るのは苦手なので、熊から逃げるときは下り坂方面に逃げるのがよい。・熊の理想と現実熊はずんぐりしているのでかわいいキャラクターとして描かれがちで、くまのプーさんやテディベアやリラックマとかには爪も牙もついていない。ある程度の知能もあるので、サーカス団で飼われて芸をする熊もいるし、動物園で棒を振り回す熊の動画も話題になった。しかし現実の熊は簡単に人を殺せるほどの身体能力を持っている猛獣である。2022年には長野県で20年飼っていたツキノワグマに全身を噛まれて男性が死亡していて、熊は噛むことで親しみを示すそうだけれど、熊同士なら愛情を確かめ合うことができても人間の体は熊の愛に耐えられない。アメリカの熊愛好家のティモシー・トレッドウェルはアラスカで13年間夏にハイイログマと生活したものの、結局恋人とともに熊に食い殺されている。中国だとパンダが好きな人が動物園に乱入して爪でひっかかれて大けがをしている。熊はぬいぐるみのようなかわいいだけの動物ではないし、人を襲う害獣になりうる。・熊が山から出てくる原因熊が山を出て人家があるところに出没するのには複数の原因がある。基本的に山に餌がたくさんあればわざわざ山から出てこないので、餌が不足しているのが主な原因になる。自然の原因としては、天候不順などで果実の実りが悪かったりして餌が不足すると、強い熊が餌場を縄張りにして弱い熊は山のふもとまで追い出されてしまって、餌を探して人家まで来てゴミをあさったりする。熊が増えすぎる事でも相対的に餌が不足することになる。人間が原因の部分としては、過疎化で里山が維持できなくなって草刈りがされなくなって民家の近くまで藪が茂って熊が接近しやすくなったり、空き家の庭の柿や栗の木が放置されて熊が引き寄せられたり、猟師が高齢化して害獣駆除が追い付かなくなって鹿が増えてミズナラが食害で剥皮して枯れてドングリが不足するのも原因になる。あと体温が高くて冬眠し損ねた熊は穴持たずと呼ばれて、冬は山に食べ物がないので徘徊して山を出てくる。あとマナーが悪い登山者やキャンパーが山に食べ残しとかを捨てると、人間の食べ物の味を覚えた熊が人間を怖がらなくなって食べ物を奪おうとして人間を襲うようになってしまって、危険な個体として駆除対象になる。熊が多いアメリカやカナダのキャンプ場では熊が食料をあされないように金属製の頑丈な食料保管庫やゴミ箱があったり、食料の匂いが漏れないように密閉容器に入れて持ち運んだり、テント内に食料や匂いがする化粧品や洗面用具を持ち込まずにロープで木の上に食料が入ったリュックをつるしたり車の中に入れたりしていて熊対策が徹底しているけれど、日本だとキャンプブームに乗っかっただけのにわかキャンパーが多くてゴミを持ち帰る程度のことさえ徹底していない。知床でソロキャンパーが残飯を出したまま寝てカラスに荒らされて周りのキャンパーに罵詈雑言を浴びせられた話をXで見かけたけれど、そういう人は自分や周りの人が熊に襲われるかもしれないという危機感や想像力がないし、自然の生態系を乱しているという自覚もないのだろう。●熊の射殺の是非熊の射殺に対して抗議の電話をする人はたいてい熊が出た自治体に住んでいない人で、かわいそうだからというのが抗議する理由のようである。私は熊よりも地域住民の生命や財産の保護が最優先されるべきだと思うし、役所は地域住民でない人の意見に取り合う必要はないと思う。デヴィ夫人がアメリカでは熊を麻酔銃で捕獲して山に返していると言って批判されていたけれど、熊を殺すなという人は麻酔銃で簡単に安全に熊を生け捕りにできると誤解しているようである。環境省の「住居集合地域等における麻酔銃の取扱いについて」によると日本では猟として麻酔銃を使っていいのは原則ニホンザルだけが対象で、熊には効果が表れるまでに時間がかかるし、撃たれたことで熊が興奮して周囲に被害を出す恐れがあるので原則としては許可されていない。環境省の「クマ類の出没対応マニュアル」によると、屋内等の熊が逃走できない場所や、逃走する姿を継続して視認できる場合は麻酔銃による捕獲をするようで、例えば10月29日に岩手県奥州市の住宅の倉庫に入り込んで閉じ込めた熊に対しては麻酔銃を使って捕獲している。麻酔銃の理想と現実の違いを解説した漫画がSNSでバズっているけれど、もし熊相手に麻酔銃を使うとしても銃だからといってスナイパーみたいに遠くから安全に撃てるものでなくて10-15メートル程度しか射程がないので時速40-60キロで走る熊に対してかなり接近して襲われるリスクを負って撃たないといけないし、連射できないし、名探偵コナンみたいに麻酔針が刺さったらすぐに意識をなくすような即効性もないし、誰でも麻酔銃を撃てるわけではなくて麻薬の知識がある獣医師しか麻酔銃を撃てないけれど銃の扱いに長けた獣医師がいないという麻酔を扱う上での法的な問題がある。麻酔を打てば安全というものでもなくて、熊の大きさと麻酔の量が合わないと麻酔が効かない場合もあるし、捕獲した熊を放獣するときにも熊に襲われる危険が伴う。YouTubeの「マタギが山で体験した不思議な話」というマタギへのインタビューで熊が飛ぶように早く走って弾が当たらないという話をしているように、マタギでさえ動いている熊に当てるのが難しくて命がけで猟をしているのだから、普段銃を使っていない獣医師が連射出来ない単発の麻酔銃を使って動いている熊に接近して命中させて捕獲するのは捕獲する側のリスクが大きすぎて現実的でない。アメリカの熊の捕獲のやり方を調べてみたら、アラスカの「Wildlife Capture and Chemical Restraint Manual」によると、熊に対してドラム式箱罠を併用しつつ、ヘリからチレタミン・ゾラゼパム混合液の麻酔やケタミン・キシラジン混合液の麻酔を撃って捕獲しているようで、ケタミンの効き目が出るまで20分程度かかって2時間の鎮静作用があるようである。カナダではWildlife Care Committeeの「Capture, Handling and Release of Bears Standard Operating Procedure」によると、ドラム式箱罠とTelazol(チレタミン・ゾラゼパム混合液)やMZT(メデトミジン・チレタミン・ゾラゼパム混合液)の麻酔を使って捕獲して襟や耳にタグをつけていて、ヘリのパイロットは獲物を追跡するスキルがある熟練者でなければならないと定めていて、妊娠中の熊と子育て中の熊は捕獲してはだめで、麻酔で動けなくした状態での大口径の銃による安楽死や出血による安楽死や塩化カリウムの静脈注射による安楽死は人道的方法として認められているようである。日本でもヘリを使えるなら地上から麻酔銃を撃つよりも安全に麻酔銃を撃てるだろうけれど、ヘリから麻酔銃を撃つ訓練をしている獣医師はたぶん日本にはあまりいないだろうし、アメリカの山よりも日本の山のほうが地形が複雑で風が強いので山岳ヘリの操縦が難しくてヘリの墜落のリスクを冒してまでヘリで熊を追跡して麻酔銃を撃つ必要があるのか疑問である。経験豊富な猟友会の猟師に頼んで熊を射殺してもらうのが予算的には安上がりで、熊の被害の予防という点では確実な手段である。そもそもアメリカは熊にやさしい国ではない。カリフォルニアハイイログマは家畜を襲うので害獣として駆除されて1920年代に絶滅させているし、メキシコハイイログマも同様に害獣として駆除されて1960年代に絶滅したようである。アメリカクロクマやアメリカヒグマは何十万頭も生息しているけれど、かつて北アメリカに広範囲に生息していたのを駆除してきたので現在の生息域はほとんどカナダ側である。広大な国土にいたクマのうちの2種を絶滅させるほど数を減らしたから熊と共存できているという歴史を無視して、アメリカには広大な土地があって熊の餌が十分にあることも無視して、アメリカよりも国土が狭くて平野が少なくて山と人家の距離が近い日本の地形も無視して、アメリカで熊を殺さずに捕獲しているのだから日本でも同じようにやれというのは都合のいい部分しか見ていなくて現実的でない。熊を殺すなという批判も、環境保護のための科学的な理由での批判と不殺のイデオロギーが理由での批判を分けて考える必要がある。熊が絶滅しないように生息数の維持のためになるべく殺さないようにするほうがよいという環境保護団体の主張ならわかるし一時的な凶作の時に保護するのはよいけれど、熊が増えすぎた分を駆除するのは問題ないだろう。ヴィーガン系の動物を殺すのがかわいそうというナイーブな人の意見を聞いたところで熊だけでなくて狩猟自体に反対なのだろうし、「かわいそうだから」という個人的な主観的な理由で抗議する人は無視してよいと思う。熊を保護したい人は自分で金を出して麻酔銃を撃てる獣医を訓練してヘリをチャーターして保護活動をやればいいし、金も労働力も出さずに役所への苦情の電話だけで自分の理想の世界の実現を要求するのは横着である。電話で脅迫したりして役所や猟友会の業務を妨害するやり方も主張を発信する方法として間違っているし、市民の支持を得られないだろう。猟師は命がけで熊を駆除しても6千円から1万円程度しかもらえないのに熊用ライフル弾は20発で1万円以上するそうでリスクが大きいのに儲けがなくて割に合わない仕事だし、環境保護団体が代わりに命がけで麻酔銃で熊を捕獲してくれるならそのほうがよいだろう。それに飢えて市街地に出没する熊を殺さずに生け捕りにして山に返しても結局飢えて死ぬし、人間が自然のすべてをコントロールすることはできないのだから、人間が殺しても殺さなくても餌場の縄張り争いに負けた熊はある程度死ぬものだと受け入れるべきで、絶滅の恐れがないのであれば個体数を把握しながらある程度の頭数を狩猟の対象にするのも問題ないだろう。すべての生き物はいずれ死ぬかわいそうな存在である。熊を射殺せずに保護する具体的な対策としては、戦後に植林された杉を伐採してブナやミズナラを植樹するなり凶作を予測して熊に餌を与えるなりして熊が飢えないようにすればいいけれど、ミズナラを食べて枯死させる鹿の駆除もしないとドングリは増えないので猟師が鹿を駆除する必要がある。しかし鹿を駆除しても死体をちゃんと処分しないと、熊が鹿の肉を食べて体温が高くなって冬眠しなくなったり、肉の味を覚えて人を襲うようになってしまうそうで、人間の都合で野生動物の行動をコントロールをするのは難しい。人を害する可能性がある熊が射殺されるのは仕方がないにしても、山奥のソーラーパネル建設とかの動物の生息域や行動パターンを変えるような大規模な開発はむやみにやらないように改善するべきである。あと射殺よりもドラム式箱罠で無傷で捕獲するのを優先するように駆除の手順を決めるとか、比較的危険性が低い子熊は山に返すとか狩猟の対象にするのも禁止するとかの対応でよいのじゃなかろうか。
2023.11.09
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最近はパレスチナの武装組織のハマスがイスラエルを襲撃して市民を殺害している。ロシアのウクライナ侵攻も終わりが近いと言われながらも相変わらず続いていて、双方で数万人が死亡している。世界は戦争と殺人だらけで、どんなに経済が発展しようが戦争で財産を壊されたり殺人で財産を奪われたりしては意味がないので、人類が豊かな文明を築くためには戦争や殺人が起きないようにしなければならない。天変地異で天寿を全うせずに不本意に死ぬのは運が悪かったので仕方がないとあきらめがつくけれど、戦争や殺人は人間の意志で避けられるものである。というわけで徒然なるままに戦争と殺人について考えることにした。*この記事には殺人に関するショッキングな記述があるので、子供や豆腐メンタルの人やトラウマを抱えた人はラウンジを聴いて濃い目のココアを飲んで半身浴してかわいいコアラの子供が母親のうんこを食べる様子を想像したりしてリラックスしながら薄目で読んでください。●なぜ人は人を殺すのかしばしば小賢しい子供が「どうして人を殺してはいけないのか」という質問をするけれど、これは問いの立て方が間違っていて、べつに人を殺していけないわけではない。理由や条件によっては人を殺しても刑罰がない場合と刑罰がある場合があるわけで、正当防衛では殺人が無罪になることもあるし、絞首刑のスイッチを押す人も罪に問われないし、胎児の堕胎も人として認められる以前の段階なら医師は罪には問われないし、戦争でも国際法に従っている限り敵の兵士を殺しても罪にはならない。そもそもなぜ人は人を殺すのかを理解しないことには殺人を防ぐことはできない。・物や金目当ての殺人他人を殺して持ち物や財産を奪う強盗殺人は発展途上国では頻繁に起きる。女性は力づくで金を奪おうとしても男性には負けるけれど、生命保険目当てに好きでもない人と結婚して病気や事故死に見せかけて殺害するパターンがしばしばある。金をもらって殺人を引き受ける殺し屋や、金をもらって自殺志願者を殺していた座間の男も金目当ての殺人と言える。誘拐して身代金を要求して交渉が決裂して殺人するのも金目当ての殺人と言える。1913年の愛知貰い子殺人事件では養育費をもらって200人ほどの私生児を引き取っておきながら育てずに殺している金目当ての大量殺人である。・恋人を巡る殺人配偶者を見つけて子孫を残すことは人生の大きな目的になるので、浮気をして愛情を裏切ると憎しみに逆転してしばしば殺人事件に発展していて、浮気をした恋人を殺すパターンや、恋人の浮気相手が殺されるパターンがある。・復讐のための殺人ハンムラビ法典に「目には目を、歯には歯を」とあるように、やられたことと同程度のことをやり返すのは遺恨の解消のために認められていて、ある程度の復讐を認めることでやられたこと以上にやり返すことを防げたと思われる。江戸時代は仇討ちは美徳とされて、子供が殺された親の仇討ちの旅に出て下手人を自分で始末していた。南米のギャングは警察が取り締まれなくて対立するギャング同士が延々と報復をし続けているように、現代の法治国家で復讐を認めると復讐の連鎖が起きて収拾がつかなくなるので復讐は認めていなくて復讐したら情状酌量にはなっても有罪だけれど、国家が復讐する権利を取り上げたかわりに死刑がある。光市母子殺害事件だと被害者遺族の本村氏が犯人が死刑にならないなら出所した時に自分が殺すというようなことを言っていたように、遺族感情も考慮して極悪な犯罪者は死刑になる。・カッとなって殺人サルなみの知能しかないDQNは誰かと目が合ったり言動を注意されたりするとムカついて、相手を排除することでストレスをなくそうとして後先考えずに短絡的に殺人をする。ラーメン屋で他の客と口論になって踏み殺した人とかが典型的で、酔っているといっそう自制心が働かなくなって敵を攻撃しようとする。・自暴自棄になって殺人自暴自棄になった人が道連れに誰かを殺して自殺するパターンは拡大自殺と呼ばれる。一家心中だと誰かが思い詰めて家族を不幸にするくらいなら一緒に死んでしまおうと考えて家族を道連れにするけれど、無理心中をしようとしたのに犯人だけ自殺が怖くて生き残るパターンがしばしばある。・支配のための殺人戦争はたいてい権力や領土をめぐって起きて、相手の勢力を殺害して王位に就いたり、領土を獲得したりする。たいていの国は征服されたり内乱が起きたりして王家が長続きしなくて巨大なモンゴル帝国でさえ代替わりしたら滅んだけれど、天皇は実権を放棄して将軍に実権を譲って支配者でもなく被支配者でもない独特の地位にいたからこそ権力争いから逃れて、戦国時代の武将みたいに自分で兵を率いて戦って戦死したり暗殺されたりせずに済んで男系男子の血脈が途絶えなかった。南米のギャングは警察に通報した市民をみせしめに殺害して、暴力で脅して地域を支配している。ストーカーによる殺人は相手が他人と付き合って幸せになるくらいなら殺して自分だけのものにするというゆがんだ支配欲が原因で起きる。・支配から逃れるための殺人共和制ローマでは奴隷が過酷な待遇だったので3回反乱が起きていて、第三次奴隷戦争の指導者のスパルタクスは英雄視されている。アメリカでは1831年に黒人奴隷のナット・ターナーが仲間の奴隷と反乱を起こして57人の白人を殺害した事件があったけれど、直接自分に危害を加えていなくても支配者側にいる人なら間接的に自分を苦しめていることになるので白人なら誰でもよかったわけである。2002年のモスクワ劇場占拠事件では犯人はチェチェン共和国の独立派のテロリストで、ロシア軍のチェチェンからの撤退を要求して人質を殺害した。2014年の南幌町家族殺害事件では母親と祖母に召使のようにこき使われて虐待されて育った女子高生が「しつけが厳しく、逃れたくて殺した」という動機で母親と祖母を殺害していて、犯人への同情から減刑のための署名が1万以上集まって、医療少年院送致で済んだ。・自己防衛のための殺人2013年に荒川沿いの歩道をジョギングしていた女性が果物ナイフを持った痴漢に「大声を出したら殺す」と脅されて、隙を見てナイフを奪って太ももを刺して逃げて男が失血死した事件があった。続報がないのでどうなったか不明だけれど、これで正当防衛にならないのではネットで話題になったはずなので、たぶん正当防衛として認められて不起訴になったと思われる。ニュージーランドのモスク襲撃とかのヘイトクライムは異文化や異宗教によって自分のアイデンティティーが棄損されることへの防衛としてとらえられるけれど、この場合は自分の生命が脅かされたわけではないので正当防衛は認められない。・宗教行為としての殺人イスラム原理主義者は異教徒の殺害を教義として正当化している。アメリカのサタニストはサタンに生贄を捧げるために殺人をする。アフリカだと黒魔術のために赤ん坊やアルビノの人が生贄として殺害されている。・快楽のための殺人被害者を拷問して殺人の過程を楽しんだり、殺人や死体の損壊に性的興奮を覚えたり、死体を犯したりするタイプの殺人は快楽殺人と呼ばれる。支配のための殺人と似ていて、被害者の生殺与奪権を握って人権を侵害することで自分が相手よりもすごい人間だと認識して満足する。殺人に満足してしばらくはおとなしくしても、快楽を求めてまた殺人をやりたくなるので連続殺人になりやすい。殺人映像の流出で有名になったウクライナ21はウクライナの若者たちが21人を殺した快楽殺人で、ホームレスや女性や子供などの弱者をいたぶるように殺害している。フィクションに登場するイカレた殺人犯の典型である。・遊びで殺人2020年の岐阜市ホームレス襲撃殺人事件では大学生や社会人の未成年のDQNグループがホームレスの老人に石を投げて反応を楽しんで殺害していて、ウクライナ21ほどの殺意はなくても見下した相手には何をしてもいいと勘違いしている人権軽視の態度が見える。・好奇心で殺人2000年の豊川市主婦殺人事件、2014年の佐世保女子高生殺害事件、2014年の名古屋大学女子学生殺人事件のように人を殺してみたかったという理由で殺人をするパターンがあって、たいてい犯人は未成年である。犯人は共感性が欠如したサイコパスなのだろうけれど、大人なら殺人をしたところでメリットがないどころか仕事や自由を失うデメリットしかないので殺人をしないけれど、未成年だと好奇心のままに殺人に至るようである。・有名になりたくて殺人うろ覚えだけれど2000年代に有名になりたいという理由で通り魔をして殺人未遂で捕まった男がいたような記憶がある。4月には北海道旭川市で「バズってやる」と言ってネット中継しながらコンビニ店員を襲う殺人未遂事件が起きた。小田急サラダ油男も犯行前に自分が有名人になるつもりで気取っていたそうな。たぶん境界知能とかで目的と手段と利害を適切に考えられない人なのだろうけれど、頭が悪いおかげで犯行がずさんで殺人未遂で終わるようである。・口封じのための殺人犯罪者は犯罪の目撃者を口封じのために殺している。空き巣をしているところを見つかって住人と鉢合わせして突発的に殺人をしたりする場合は居直り強盗と呼ばれる。殺人してしまうと捜査班が結成されて厳重に捜査されて防犯カメラで顔が割れて全国指名手配されて結局は捕まるうえに刑が重くなって損しかないのだけれど、空き巣は見つかったら動転してやりすぎてしまうようである。官僚やジャーナリストとかの真実を知りすぎた人も暗殺される。・名誉のための殺人インドだとカースト制度の価値観が強いうえに子供は父親の所有物という感覚なので、娘が下のカーストの男と結婚しようとすると一族の名誉のために娘を殺したりする。イスラム教だと娘が結婚前に妊娠したり暴行されたりすると娘が名誉を汚したという扱いになって父親が娘を殺したりする。中世だと名誉を汚された貴族が決闘して侮辱した相手を殺害している。・メンツのために殺人2017年にメキシコで17歳のYouTuberの少年が麻薬王を侮辱して殺害されたように、反社会的勢力は武力で脅すことをしのぎにしているので、舐められたら威厳を保つために粛清する。悪名は無名に勝るというように、名誉とは逆に不名誉な悪名を維持するために犯行も残忍なものになる。・世直しのための殺人現代ではあまりないけれど、昔は天誅と称して悪人とみなした相手を殺害していた。幕末には尊皇攘夷派浪士が天誅組の変を起こして幕府の代官を殺害している。・嫉妬して殺人2013年に東北公益文科大の学生が同級生に殺害される事件が起きた。この事件は人柄がよくて周囲に慕われていた被害者に犯人が嫉妬したのが動機で、被害者は鍵がかかった部屋で背中を刺された状態で発見されていて現金も盗まれていなくて、ミステリ好きには顔見知りの犯行だとわかる典型的なパターンである。自分より優れた人から美点を学ぶどころか嫉妬して嫌がらせをしたあげくに殺害するのは愚かである。人類最初の殺人と言われている旧約聖書のカインが弟のアベルを殺害したのも、弟の供物が神に気に入られたことへの嫉妬が原因である。・治安維持のための殺人通常は警察による逮捕→検察による取り調べと起訴→裁判→死刑/無期懲役という流れで凶悪な犯罪者などの社会に好ましくない人物を社会から合法的に排除して治安を維持している。ハイチは政情不安で警察や司法が機能していない無法地帯になっていて、市民がギャングを捕まえて寄ってたかってリンチして石を投げたりナタで切り刻んだり生きたまま火をつけたりして殺害している。ハイチ人はリンチが楽しくて仕方がないような凶暴な人だらけというわけでもないだろうけれど、悪人を強制的に排除しないと自分が犯罪の被害にあうかもしれないので、見せしめとしてひどい殺し方をすることでギャングを怖じ気づかせて治安を改善しようとしているのだろう。・医療行為としての殺人安楽死は日本では違法だけれど、国によっては合法的な殺人である。堕胎は日本では妊娠22週未満までは認められているけれど、国や宗教によっては殺人扱いになる。・錯乱して殺人精神病で殺せという幻聴を聞いたり、覚せい剤を使って何かに襲われる幻覚を見たりして錯乱して殺人をするパターンがある。精神鑑定で心神喪失で責任能力がないものとみなされれば無罪になったりする。・養育放棄や介護放棄のための殺人シングルマザーが育児放棄して子供に食べ物を与えずに放置したまま遊びに行って殺害したり、母親の彼氏が連れ子を育てたくなくて虐待して殺害したり、老老介護とかで介護疲れで家族を殺害する事件もたびたび起きている。●イスラエルとパレスチナの問題第一次世界大戦でオスマン帝国が崩壊して1918年からパレスチナはイギリスの植民地になって委任統治されて、1947年の国連総会でパレスチナを分割決議が採択されて国土の56%がイスラエルに分割されることになったものの、1948年にイスラエルが建国されたことで周辺のアラブ諸国が反発して中東戦争が起きて、それ以来アラブはイスラエルを敵視してきたし、ハマスも散発的にイスラエルを攻撃してきた。イギリスの委任統治時代の1946年にはパレスチナの土地は94%、イスラエルの土地が6%だったのが、2012年にはパレスチナの土地は8%、イスラエルの土地が92%に逆転していて、イスラエルが国際法上認められていないところまで占拠して入植地を拡大してきたのでパレスチナ人は強硬に抵抗している。日本に例えると第二次世界大戦後のGHQ統治下で勝手に建国許可が出されて分割されて岩手県と佐賀県以外の土地が移民に奪われて孤立した佐賀地区の武装勢力が抵抗しているようなものである。ドラゴンクエストでいうと竜王が世界の半分をやろうと言ったのに半分どころか92%を牛耳っているようなものである。そもそも他人に対して非人道的扱いをしなければ恨みを買うこともない。イスラエル政府はパレスチナ人が満足するくらいの大金を払って土地を買っていればパレスチナ人も別に恨まずに引っ越して新居を建てて生活するだろうけれど、そうではなくて動物扱いして非道に土地を奪って入植してきたから長年恨まれて敵視されている。イスラエルが原因で起きている戦争なのだから、イスラエルが譲歩して国際法上認められていない土地を返すなり賠償金を払うなりして解決するのが筋だけれど、なまじ武力と後ろ盾があるせいで強気で譲歩しないので何十年も問題が解決していない。ハマスが突然イスラエル市民を殺害した目的は何なのかというと、イスラエルとサウジアラビアが平和条約を締結してパレスチナとの和平交渉をするつもりだったので、それを潰すためにハマスと裏にいるイランがテロをしたと言われている。平和になったほうがよいだろうになんでわざわざテロをするのかと考えると、素人の私から見ると反撃されて死ぬことを覚悟の上での道連れの復讐に見える。正面から戦争したところでアメリカやイギリスの支援があって核兵器も保有しているイスラエルには勝ちようがないし、中東戦争みたいに周囲の国を巻き込まない限り戦争で勝って領土を取り戻すのは現実的でないし、要人を暗殺するならまだしも政治経済に影響力を持たない民間人を数百人殺したところでネタニヤフ首相が批判される程度でイスラエルの政治は変わらないだろうし、パレスチナの締め付けはますます厳しくなるだろう。合理的に考えたらハマスがやっていることには損しかないので、非合理的な動機があるといえる。復讐は生産的ではないとはいえ、他国に家族を殺されてもそれを罰する法律がなく、補償もなく、犯人の反省もなく犯行を繰り返している状況で、犯人たちが自分たちから奪った土地で幸福に暮らしているところに出稼ぎに行って底辺労働者として白眼視されながら生きるのは人間の感情としては無理で、皆が聖人君子というわけでもないので復讐心を持っても仕方がない。死んだ人を無視して遺族を置き去りにして他の生きている人たちが幸せになるのが許せなくて、復讐の連鎖の中に他人を引きずり込もうとしているのかもしれない。プーチン大統領でさえ戦うのはいいけど女子供は殺すなと言っている。これは的を射ていて、子供は人類の未来だし女性にしか子供は産めないので、何が原因であれ子供や女性が大勢死ぬのはよい社会とは言えない。それに男にとっては配偶者を見つけて子孫を残すことが生きがいになりうるし、最愛の妻や子供を失ったら死を恐れずに戦う恐ろしい兵士になる。普通に平和な国で育った人は徴兵されて銃を渡されてもためらって人を撃てなかったり怖気づいて戦場から逃げたりするけれど、復讐にかられた人は殺意満々で捕虜や人質を拷問して最大限の苦痛を与えようとしたりするし、自爆テロも辞さないので戦争が凄惨なものになる。古代の中国の王朝は何度も戦争をして復讐の恐ろしさを知っているので、王族や官僚とかを処刑するときは一族郎党を子供まですべて処刑して復讐の芽を摘んできた。ではイスラエルは復讐の連鎖をなくすためにハマスを殲滅してパレスチナ人を国外に追い出すつもりなのか。ハマスを殲滅するために空爆して無関係な市民まで殺害するのでは結局は別の復讐者を生んでアラブ諸国のイスラエルへの敵意をつのることになるし、パレスチナに武器を支援する勢力がいる限りはハマスだけ殲滅したところでハマスの代わりに他の武装勢力が出てくるのであまり意味はないだろう。バイデン大統領はイスラエルのハマスへの報復は容認してもガザの支配は間違いだと言っているし、国連人権委員会は「自衛の名の下に、民族浄化に相当する行為を正当化しようとしている」と警告して停戦を求めていて、イスラエルが報復をやりすぎないように牽制している。そもそもなぜイスラエルは入植地を拡大し続けているのかというと、人口が増えているからだろう。イスラエルはユダヤ系の移民を受け入れてきただけでなくて超正統派は旧約聖書の「産めよ、増やせよ、地にみちよ」の思想で避妊を禁じているので子だくさんで、1980年の人口は392万人、2023年には981万人で、2050年にはさらに70%増の1568万人になる予測だそうな。人口が増えるとそのぶん入植地が必要になるので、このまま人口が増え続けたらパレスチナは飲み込まれて消えるかもしれないし、そうしたらまた中東戦争が起きるかもしれない。国連が主導するSDGsも欺瞞で、サステナブルな社会を目指すのであれば人口も増やすべきではない。いったん戦争がはじまると双方が戦う意思をなくして停戦するまで兵士を投入して人口減少をもたらすので戦争は人口増加に対するスタビライザーとして機能するけれど、戦争で人口を減らすくらいなら初めから産児制限して住み分けるほうが人道的である。人口でも信仰でも資本でもどんなものでも拡大しようとすると他の人と利害が衝突する。ここに有史以来戦争を続けてきた人間の縮図があって、宗教の経典を妄信することをやめて自分の頭で考えないかぎり宗教対立は解決しない。本来は人々を安寧に導くための宗教だろうに、何教の何派だのにこだわる人が争う一方で、無神論者同士は平和に仲良くやっているという矛盾した状況になっていて、科学文明の現代では非科学的な宗教のほうがむしろ害になりつつある。核戦争でも起こさない限りユダヤ教とイスラム教のどちらかを絶滅させることはできないのだし、いつかは和解しないと宗教戦争が終わらないのだから、早く和解するほうが双方の被害が少なくて済む。イスラエルがテロに屈しない態度を見せたいのであれば、ハマスが何をしようが影響されずに予定通りにサウジアラビアと平和条約を締結してパレスチナとの和平交渉をすればよい。核戦争まで行ってどちらかが止めをさされないと戦争をやめられないのであれば、エルサレムは聖地どころか人類の愚かさを象徴する土地になる。・日本とユダヤの関係日露戦争ではロシアが反ユダヤ主義だったのでユダヤ人が日本側について、アメリカのユダヤ人銀行家のジェイコブ・シフが高橋是清の求めに応じて日本の戦時国債を買って資金援助して勲一等旭日大綬章を授与されたし、第二次世界大戦では杉原千畝がナチスの迫害からユダヤ人を助けてきた。しかしだからといって日本が親ユダヤ、親イスラエルかというと必ずしもそうではない。日本のエネルギーはサウジアラビアの石油に依存しているし、イスラム教のアラブ諸国は反イスラエルである。その一方で日本の防衛はアメリカに依存しているし、アメリカは親イスラエルである。日本はイスラエルとパレスチナのどっちにも味方したり敵対したりできない状況である。ユダヤ人のノーム・チョムスキーはマサチューセッツ工科大学のYouTubeの動画(MIT 24.912)で、 1930年代の日本のファシストはユダヤ人が世界を支配しているというナチスのプロパガンダを真に受けて、アメリカをなだめるためにはユダヤ人を味方につければいいと考えてポーランドから黒い帽子をかぶったコテコテのユダヤ人を呼んで、彼らは日本に留まらずにアメリカのユダヤ人コミュニティに行きたがるだろうと考えたものの、アメリカでは別に彼らに来てほしくなかったので日本に留まったのだと言っていた。アメリカは移民が作った国家だけれど初期に入植した移民が新移民を差別して19世紀後半から移民排斥運動をしていて、アメリカに同化しにくい南東ヨーロッパのポーランド人やイタリア人の新移民を制限して北西ヨーロッパの移民を優遇するために1921年に移民の数を制限する法律(Emergency Quota Act)を制定して、ポーランド人の移民は減らしている。日本政府は八紘一宇や五族協和のスローガンを掲げている以上はナチスの民族浄化に加担するわけにはいかなったというだけでなくて、ユダヤ人を政治的に利用する打算があったのだろうけれど、アメリカでの諜報活動が不十分だったのだろう。古代日本にユダヤ人が渡来したという日ユ同祖論を仮説として言うのは別にいいけれど、物的証拠が乏しいこじつけみたいなもので現時点では論としては信憑性はないと私は思う。●フィクションと殺人以前も何度かフィクションと殺人について考えた気がするけれど、ついでにまた考えることにする。娯楽は刺激を売りにしているので、フィクションではしばしば過激な戦闘シーンや殺人シーンがある。バトル系の少年漫画でも殺人の場面がしばしばあって、『鬼滅の刃』の内容を知らない親が子供を映画館に連れて行って文句を言っていた。じゃあ殺人シーンが不謹慎かというと必ずしもそうではない。欲と悪事にまみれた古代インドの王子のブッダが仏教の創始者になったように、悪が何なのかを理解しなければ善も理解できないし、より良い人生を追求することもできない。この世界には悪意を持って殺人をする人がいることを認識できると言う点ではフィクションは有用である。現実世界の殺人事件は所詮は他人事だけれど、フィクションでは主人公に感情移入して疑似的に生死の境の極限状態を体験できるところにメリットがある。それにフィクションの死体はグロすぎないように調節されているので、実際の殺人事件の犯行現場の写真や映像を見るよりはショックが少ない。あらゆる生物は戦うか逃げるかして自分の安全を保っているし、ふだん直接戦う機会がない現代人も自分の生命が脅かされる事態を想定しておくべきだろう。ラブストーリー以外のたいていのジャンルのフィクションでは殺人を描くことがある。ミステリでは殺人事件が起きて、警察や探偵が犯人を推理して、犯人が捕まって動機を自供するというパターンが多い。アクション映画だと警察やマフィアや軍隊が銃撃戦をするところが見どころになる。『ジョン・ウィック』や『スノー・ロワイヤル』とかの復讐系のアクション映画は見せ場を作りやすいけれど、人を殺すことや許すことについての思想を掘り下げないので、つよつよ主人公が怒り狂って無双して敵のボスを殺して終わりという似た展開ばかりであまり名作はない。青年漫画だと反社会的勢力が死体を冷凍してミンチにしたり豚に食べさせたりして証拠隠滅したりする凄惨な場面が見どころになる。ホラーだとジェイソンのような超人的なフィジカルをもった殺人鬼が猟奇的に拷問や殺人をして、主人公たちがどうやって殺人鬼を退治して生き残るかが見どころになる。時代小説やファンタジーだと国同士の大規模な戦争の場面や剣豪や武将が活躍するところが見どころになる。少年ジャンプとかの子供向けのフィクションだと正義のヒーローが凶悪な殺人犯を退治する勧善懲悪の展開になるけれど、敵が人間でなくて妖怪やモンスターで主人公が敵を殺すことに対する葛藤がなかったり、『DRAGON BALL』や『魁!!男塾』のように殺された登場人物が生き返ったりして、そのぶん死のリアリティーはなくなっている。人狼ゲームが流行した影響のせいかデスゲーム系のフィクションは多いけれど、何かの組織に強制的に命がけのゲームをやらされるという時点でリアリティーがなくなるので傑作はない。実在の殺人犯をモデルにしたフィクションだと肖像権とかが絡むので生きている間はモデルにしにくいけれど、死んだ後にフィクションのモデルになったりする。1930年代に銀行強盗や殺人を繰り返したボニーとクライドを描いた『俺たちに明日はない』や、カポーティーがカンザス州の農村の一家殺人事件の加害者に取材してノンフィクション・ノベルのスタイルで書いた『冷血』や、埼玉愛犬家連続殺人事件をモデルにした映画『冷たい熱帯魚』や、アルゼンチンの連続殺人犯のイケメン少年カルロス・エドゥアルド・ロブレド・プッチをモデルにした映画『永遠に僕のもの』とかがある。私は実際に起きた陰惨な殺人の物語は気が滅入るしオリジナリティがないし他人の人生を奪って金儲けの道具にするようで個人的には嫌いだけれど、殺人犯の生い立ちや犯行の手法を掘り下げたりすることにはある程度の社会的意義はあると思う。犯罪の被害者をテーマにしたものだと2015年のパリ同時多発テロで妻を亡くしたジャーナリストがテロリストに向けてメッセージを語る映画『ぼくは君たちを憎まないことにした』がある。死んだ人は直接語れないので遺族が語るしかないけれど、ノンフィクション的になって娯楽として鑑賞するものではなくなってしまうので、こういう作品はあまりないようである。他人の死を観察することはいずれ来る自分の死を相対化して、自分がどう生きるかを考えることにつながる。ウクライナやパレスチナのように戦地にいて死と隣り合わせに生きている人たちは人生についてゆっくり考える暇はないだろうけれど、凶悪犯罪が少なくて何十年も戦争をしていない平和な国で生きている日本人はフィクションを鑑賞しながら考える時間は十分にあるはずである。EMELの「Naci en Palestina」はパレスチナに生まれて場所も景色も故郷もないよと歌っているけれど、日本人は国も家もあるのが当たり前で他人がなんとかしてくれるという考え方をやめて、自分が国や文明や文化を作っているのだという自覚を持つべきである。その自覚があれば、様々な才能や技術で文明を担っている個々人が殺人で失われてしまうことの損失の大きさや罪の大きさがわかる。誰も他人の代わりに生きることはできないのだから、他人を故意に殺すべきではない。もし口論とかでカッとなってコイツぶち殺そうかなと思ったときは、かわいいコアラの子供が母親のうんこを食べる様子を想像して殺意を抑えたり、フィクションを創作して殺意を昇華するとよいよ。
2023.10.21
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おっさんになるとたまに膝が痛くなって関節は消耗品だと思い知るのだけれど、若くて膝が丈夫だった頃に夜な夜なダンスしていた日々を思い出すのだった。というわけでダンスについて考えることにした。●ダンスとは何かダンスとは音に合わせて体を動かすことである。喜んだ時に手を叩いて足踏みして小躍りするように楽器はなくてもダンスはあるし、アルタミラ洞窟の壁画に人が踊る様子が描かれているので、原始時代から人間は踊ってきたと思われる。機械がなくて人力で労働していた時代は皆で同じペースで作業をしたほうが効率が良いので、歌を歌って音頭をとって鍬を振ったり船を漕いだりしてきて、歌と動作は日常生活とも結びついていて、それがダンスの動作にも取り入れられたと思われる。例えばコンゴのダンスは日常の動作をダンスの振付にしている。島根県のどじょうすくいもザルでどじょうをすくう動きがダンスになっている。楽器が発明されてからは見世物や祭りで踊るようになって、音楽のジャンルごとに違うスタイルのダンスがあって、一人で踊るか、男女ペアで踊るか、グループで踊ったりする。民族舞踊のような伝統的なダンスやバレエのように芸術の域に達したダンスは流行と関係なくずっと続いているけれど、ポップダンスの流行は音楽の流行と一緒に推移していて、たいてい若者が流行の発信源になるけれど、歳をとると踊れなくなるし、若者はおっさんたちの真似をするのをダサいと感じて他の流行を追い始めるので、10年程度で流行が終わる。●ダンスの目的・儀式としてのダンス盆踊りは平安時代の踊念仏が死者を供養する行事として定着して、やぐらの周りをまわりながら踊っている。今は宗教色が薄れて地域の夏祭り的な位置づけになっているけれど、もともとは宗教的儀式である。・社交としてのダンス宮廷の社交ダンスだと男女がペアになって一曲ごとにパートナーを交代して、パーティー参加者の顔を覚えてちょっと会話して社交する目的があった。ヨーロッパの民族舞踊はマイムマイムみたいに皆で輪になったり手をつないだりして踊る形式が多い。手をつないだり肩を組んだりして身体的接触をすることで愛情ホルモンを分泌させて、皆で同じ動きをすることで同調して結束を高める効果があったと思われる。踊りの主役がいないのが社交としてのダンスの特徴である。世界各地のたいていの民族に民族舞踊があるけれど、文化人類学的にみるとダンスが民族の結束を高めるのに不可欠だったのだろう。アメリカだとblock partyという街区(ブロック)の住民の野外ダンスパーティーが1970年代から行われている。ジャマイカだと同様にpassa passaとして野外でダンスホールレゲエを踊っていて、地域の住民たちが交流している。・求愛としてのダンス女性がスカートをひらひらさせたり腰を振ったりするのは性的アピールになる。タンゴなんかは極端で、女性が体をのけぞらせたり足を高く上げたりして色気がムンムンしている。ベリーダンスはスルタンのハレムの女性の教育としてダンスを学ばせていたそうで、へそを見せて腰を振って扇情的である。ダンスホールレゲエは男女が腰を密着させるワイニーというダンスがある。鳥でも極楽鳥が求愛のダンスをしたりするし、ダンスでたくましさや美しさを誇示して性的アピールをするのは生物学的には理にかなっている。・仕事としてのダンス日本の職業ダンサーとしては舞妓がいて、座敷で芸を披露している。バレエやミュージカルはショービジネスとして大きな劇場に大勢の客を呼ぶ形で興行している。ヒップホップとかのトップダンサーはコンテストに出て賞金を稼いだり、クラブでパフォーマンスして出演料をもらったり、バックダンサーとしてMVに出たり、振付師になったり、ダンス教室を主宰したりして生計を立てている。トミー・ザ・クラウンのTSquadはブロックパーティーや誕生日パーティーで踊って盛り上げるのをビジネスにしているようである。ダンサーは体力的な限界もあって活動期間も短いし、作詞家や作曲家みたいに著作権料ももらえないので、コンテストで優勝したりして世界のトップレベルのダンサーになってもあまり稼げないようである。AyaBambiというレズビアンの二人組のダンサーはマドンナのバックダンサーをして話題になったものの、破局してダンサーとしての活動を休止しているようである。・戦いとしてのダンスヒップホップはギャングたちが抗争するのをやめて音楽で戦おうぜというコンセプトで発展してきたので、二つのチームがバトルしてどっちがすごい技をぶちかませるかという勝負の形式になっている。ニュージーランドのハカはマオリ族の戦士が戦いの前に力を誇示して相手を煽るための民族で、今ではラグビーの試合で踊るのが有名になっている。カポエラはブラジルの黒人奴隷が看守にばれないようにダンスのふりをして格闘技を練習していたことから発展して、他の格闘技と違って音楽があるのでダンスともいえる。アルメニアの民族舞踊のYarkhushtaは男性同士が向き合ってハイタッチするように手を叩いているけれど、これは疑似的な力比べをするダンスに見える。ヤギがけがをしない程度に頭をぶつけあって群れの中の優劣をつけるようなものだろう。・娯楽としてのダンスジャズが流行した20世紀初頭はダンスホールで夜遊びするのが庶民の娯楽になって、アメリカにはサヴォイ・ボールルームという大きなダンスホールがあったし、日本では大正時代にダンスホールが作られてナウでヤングなモダンボーイ・モダンガールたちが集って私小説作家もネタ作りに遊びに行ったりしていた。ジュリアナ東京のお立ち台でボディコンを着た女性がもさもさしたうちわを振るのはバブルのシンボル的なダンスになっている。しかしダンスホールが買売春の取り引きに使われているという認識から風営法の規制対象になって、現代でもクラブは不良のたまり場として偏見で見られたりする。2000年前後にはゲームセンターで「Dance Dance Revolution」(DDR、ダンレボ)が流行した。音楽に合わせて上下左右の矢印を踏む音ゲーだけれど、フリースタイル要素もあって華麗なステップを踏む人たちが話題になった。・注目を集めるためのダンスニコニコ動画がサービスを開始してから踊ってみた系が流行し始めて、「ハレ晴レユカイ」とかのアニソンの振付やアイドルの曲の振付を一人で踊って動画を投稿するようになった。TikTokも同様で、数秒の簡単なダンスを踊って動画を投稿することで流行に敏感でイケてる自己像を周囲にアピールしている。いわばカラオケのダンス版で、プロダンサーとして稼ぐつもりはないけれど注目を集めたい人たちが踊っている。ペンライトを振るオタ芸も推しアイドルを応援するためのダンスというよりは自分に注目を集めるための自己満足のダンスで、歌の邪魔になるのでアイドルのコンサート会場ではオタ芸が禁止されたりする。・教育としてのダンス幼児教育ではリトミックでリズムに合わせて体を動かす練習をする。2012年からは「心と体を一体としてとらえること」を目標にして中学校でダンスが必修化されて、文化祭でダンスを披露したりしている。ダンスはどこでも踊れて道具が要らないという点では自己表現としては手軽で、SNSに振付の解説がわんさかあるので教師も教えやすい。登美丘高校ダンス部のバブリーダンスがバズったりして、部活動としても人気のようである。●ダンスの技術ダンスはジャンルによって体の動かし方が違うし、必要になる技術や筋肉も違う。・全身の動きバレエは動作を美しく見せるためのダンスで、つま先立ちでバランスを取ったり片足立ちで回転したり高くジャンプしたり女性を抱えたりするための高い身体能力が必要とされるので、バレエダンサーは柔軟性が高いうえに筋肉質である。社交ダンスは社交を目的にしているので、好き勝手に踊るのでなくてパートナーをリードしたり、同じフロアで踊っている他の人とぶつからないようによけたりして周りを見て気配りする技術が必要になる。ヒップホップは他のダンスが足を床につけて踊るのと違ってウインドミルやヘッドスピンとかで足を床から離して頭を下にして回転するパワームーブがあるのが特徴的で、体を腕だけで支えたりするので体操選手並みの身体能力が必要になる。クランプはヒップホップに似ているけれど全身を痙攣させるような激しい動きをしていて、細かく音を拾っていて動いたり止まったりする緩急が大きい。エアロビクスやズンバは他人に見せるためのダンスというよりもエクササイズ的な側面が強いので、全身を大きく動かす有酸素運動で心肺や筋肉に負荷がかかるようになっていて振付の技術はあまり求められていない。・腕の動きパラパラは腕の動きに特化したトランス系のダンスで、足は左右に足踏みする程度で技術的には簡単で体力も必要ないのでとっつきやすい。顔の周りで手をひらひらさせることで自分に注目を集めて盛ることができるので、ギャルやギャル男とかのチャラい人たちに人気だった。アムラーやシノラーとかがブーツを履いていて複雑なステップを踏めなくても踊りやすくて、当時の服装と振付が合っていたのも流行った理由だろう。・足の動きシャッフルは足の動きに特化したEDM系のダンスで、足をシャッフルするといかにも楽しく踊っていてイケてる感じが出るので、SNSで踊ってみた動画を投稿する若者に人気が出た。スウィングやロカビリーでもツイストして足の動きを強調していた。アイルランドのステップダンスは16世紀にダンスが禁止されたときに窓から見られても踊っていることがわからないように上半身を動かさずに下半身だけで踊るところから発展したようで、つま先やかかとで床を鳴らしてリズムを取っている。・腰の動きダンスホールレゲエは女性の腰と尻の動きを強調しているのが特徴的で、ダンス衣装もセクシーで女性の性的アピールになってクラブで注目を集めやすいので若い女性ダンサーに人気が出た。フラダンスは腰を左右に動かすけれど、激しい動きではないのでハワイ好きの女性の習い事として人気のようである。アフリカのンドンボロはレゲエに似たような足を開いて中腰で腰を振る動きをしているけれど、腰を振るのが卑猥だとして一部の国では禁止されているそうな。・アイソレーションアニメーションというジャンルはステップや振付よりも表現力に特化していて、アイソレーションで体の各部位を個別に動かしてユニークな動きをする。ロボットダンスとかが典型的である。●ダンスとフィクション小説だとダンスの複雑な動きを描写しにくくて相性が悪いせいか、ダンス自体をテーマにした有名な小説があまりない。しかし『伊豆の踊子』や『舞姫』のように登場人物としてダンサーが出てくることはある。漫画だと音は描けないもののある程度動きを描けるので、ダンス自体をテーマにした作品がある。特にバレエは女性に人気のテーマのようで、バレエ漫画が1970年代から現在までに16作品あるようである。映画だとより直接的にダンスを描けて派手なダンスシーンを見どころにできるので人気の作品が多い。『フラッシュダンス』、『ワイルド・スタイル』、『ブレイクダンス』、『フットルース』、『グリース』、『サタデーナイトフィーバー』、『リトル・ダンサー』、『shall we ダンス?』とかは面白かった。『サタデーナイトフィーバー』のジョン・トラボルタはスカした感じがちょうどよくてはまり役である。ダンス自体をテーマにしなくても、『マスク』で警察官に囲まれたときに踊ってごまかしたようにダンスシーンを入れて盛り上げることができるし、ストーリー自体はたいしたことがなくてもすごいダンスシーンがある映画は楽しめる。インド映画だとストーリーと関係なしにやたらと踊っていて賑やかである。ドキュメンタリー映画だとオペラ座のバレエ団を特集した『パリ・オペラ座のすべて』、トミー・ザ・クラウンの活動を特集した『RIZE』が面白かった。ダンス系フィクションのストーリーはたいていは若者の青春を描いたもので、練習して上手くなってダンスコンテストに出たり、ライバルと勝負したり、ダンスパートナーと恋愛したりするような展開になる。映画『ヘアスプレー』は太っちょの女子がダンスで人気者になる話で、コンプレックスを克服するサクセスストーリーにもできる。コンテストの結果や恋の行方をオチにしてきりがいいところで物語を終わらせることができるので、フィクションとしては作りやすいテーマといえるけれど、そのぶんストーリー展開は似たようなものになるので、登場人物の個性や演出で差別化できるかどうかが重要になる。日本舞踊や盆踊りとかをテーマにしたフィクションがないような気がするけれど、たぶん勝負や恋愛とかの展開にできなくてストーリー性を持たせにくくてオチをつけにくいしダンスの超絶技巧みたいな見せ場もないのでテーマにならないのだろう。ファンタジーなら『マクロス』で歌で敵と戦ったようにダンスで戦う展開があってもよいと思う。例えば踊りを踊らないと魔法が発動しない世界設定ならダンスバトルの展開にできるだろうし、映像化したときに見栄えもするだろう。マイケル・ジャクソンは「スリラー」で今までなかったホラー系のゾンビダンスをしたのがユニークで、ホラー系のダンスは他にあまりない。タランテラという舞曲はタランチュラに噛まれた毒の苦しさに踊り狂って死ぬ説が由来になったように、踊る幽霊にとりつかれるとか踊るゾンビに噛まれると踊らずにはいられなくなるとかのホラー系のフィクションを作ったら面白そうである。幽霊は貞子みたいに関節をごきごき曲げてぎこちなく追いかけてくるどんくさいイメージがあるけれど、たまには幽霊も華麗なステップで踊るとよい。『踊る大捜査線』は「踊る」がタイトルに入っているのにダンスシーンがないのはもったいないので、日本の俳優はもっと踊ると良いと思う。ちなみに私はイギリスのJungleというバンドとアメリカのFresh P The Clownというダンスクルーのダンスがかっこよくて好きである。
2023.10.12
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最近は田舎に移住して地域おこしをやろうとしたりYouTuberをやろうとしたりする人がしばしば地元民と揉めたりしているので、田舎について考えることにした。ちなみに私は人口10万人程度の港町で育ったけれど、駅がある中心部以外は畑と田んぼが広がっていたので若干田舎だと思う。●田舎とは何か田舎は都会の対義語で、家が少なくて田畑が多い農村や漁村などの場所を指す。田舎と言っても程度の幅があって、都市部まで電車や車で1時間程度の距離ならそれほど不便でもないけれど、山奥とかの過疎地になると町の中心地となるような商店街や商業ビルがなかったり、客が少なくて採算が合わないので飲食店や小売店が少なかったり、インフラが貧弱で消防署がなくて消防団で消火活動したり、人材育成の拠点になる学校がなくて他の町まで長距離通学しないといけなかったり、駅がなくて車が必須だったりして不便である。田舎には自然が多いけれど手つかずの自然でなくて誰かが開墾して整備してきた里山なので、森にも人の手が入っていて林業や山菜取りをしているし、川も治水されていて魚が遡上できるように魚道が作られたり田んぼへの水路が作られたりしていて、間伐や除草や排水溝の掃除とかの手間もかかる。「自然が豊か」というのは決してリゾート地のような写真映えするような素敵なものでなくて、放っておくと草木や害獣や害虫が家を侵食してくるし冬は雪の重みで家が潰れるので動植物と縄張り争いする生存闘争に近いし、除草や雪かきや害虫駆除とかの利益にならない作業が多くて時間をとられるので仕事の効率も悪い。都会の人は田舎暮らしに理想郷のような幻想を持つのだろうけれど、田舎の実態を理解しないまま移住した人は必然的に失敗する。・田舎者は純朴ではない新潟出身の坂口安吾は『堕落論』で、「一口に農村文化というけれども、そもそも農村に文化があるか。盆踊りだのお祭礼風俗だの、耐乏精神だの本能的な貯蓄精神はあるかも知れぬが、文化の本質は進歩ということで、農村には進歩に関する毛一筋の影だにない。あるものは排他精神と、他へ対する不信、疑ぐり深い魂だけで、損得の執拗な計算が発達しているだけである。農村は淳朴だという奇妙な言葉が無反省に使用せられてきたものだが、元来農村はその成立の始めから淳朴などという性格はなかった。」と田舎者を批判している。私も田舎者を純朴と美化するのは間違っていると思う。南極のペンギンみたいに初めて人間をみて無防備にわらわら近寄る好奇心旺盛な田舎者もいるだろうけれど、そういう人は進学や就職を機に田舎を去るだろうし、北センチネル島のセンチネル族みたいに交流を拒否してヘリコプターに弓矢を向けてくる感じが田舎の人間の本性だろう。地域猫でない野猫も人になつかなくて餌をあげようとしてもやたらと攻撃的で威嚇したり臆病ですぐに逃げたりする。田舎ではろくに教育を受けられないので無知で、無知だからこそ未知のものを怖がって、よそ者を見たら泥棒か詐欺師か何かだと思って疑い深くて偏見に凝り固まって攻撃的になる。田舎は飢饉や自然災害とかで困窮してきたので耐乏精神はあるけれど、明治時代から高度経済成長期までの栄えている都市に出稼ぎに行くという思考で止まっていて、自分たちが田舎に産業を作って豊かにするという発想がなくて、金の使いどころを理解していないので教育や産業に投資をせずに補助金目当てに利用者がいない箱物を立てたりして人材や産業が育たないし、文化レベルが低いとそのぶん民度も低くなる。例えば秋田県は見栄っ張りな県民性だと言われていて、実用性よりも見栄を張るために豪華な車や服を買って無駄ともいえるような金の使い方をする一方で、上小阿仁村ではよそから来た医師が高給取りと嫉妬されて定着しないし、2022年の人口動態統計では秋田県は出生率も婚姻率も全国で最低で自殺率も一位になっているので、秋田県には地域特有の問題があるといえる。さらに田舎は人が少ないが故の縁故主義になりやすくて、同じ町長が長年議会を牛耳っていたりするし、市町村議会レベルだと候補者も少なくて無投票当選になったりして変な政治家も多い。新参者の若者やよそ者が無知で頑固な老人たちを変えようとしたところで和を乱すとして対立を招いて多数派の老人たちに疎外されて、不毛な労力をかけるよりもその土地を去る方が個人としては幸せになれるので若者が去って高齢化して人口が減って町村合併して消滅したりしている。田舎者は他の町の成功を見ても他所から学ぼうとしないし、無駄に近隣の市町村に対抗意識を持っていて市町村合併を拒んだりしてつまらない争いをしている。そもそも田舎者に合理性があればよそ者から文化や技術を学んでもっと発展しているはずで、閉鎖的でよそ者を受け入れない保守的なところが発展しないのは必然である。江戸時代は移動制限があって鑑札をもらって関所を通らないと他の藩に行けなかったので農民は土地に縛られていて移住できなくて藩同士の交流も乏しかったけれど、その中でもよそ者と交流が多いところは顕著に発展した。出島がある長崎、北前船の西回り航路の立ち寄り先の日本海沿岸部の港町、米問屋があって商人があつまる大坂、参勤交代で全国から大名が集まる江戸とかで特産品の交易とともに文化や技術も伝播した。例えば宮津節という民謡が江戸末期に日本中の花柳界で流行したそうだけれど、これは丹後に立ち寄った北前船の商人から口伝で伝わったもので、よそ者との交流から文化の発展につながったといえる。岐阜県の白川郷みたいに世界遺産として生活様式を残すほどの価値がある田舎はあまりないのだから、観光名所や産業とかの売りがない田舎こそ開放的になって移住者や観光客を呼んだりして変わろうとしないと発展しない。昔は田舎は本屋やテレビ局が少なくて都会と情報格差があったけれど、今はインターネットが普及して情報格差はなくなったのだから田舎も変わってもよさそうなものだけれど、田舎の実権を持っている老人たちが電子機器を使えないし使い方を覚えようとしないので技術革新や合理化が起きなくて、電卓とFAXを使う昭和の頃の価値観のままで進歩が止まっている。・田舎の生活費はそれほど安くない田舎は地価が低いので家賃こそ安いものの、移動に車が必須なのでガソリン代や車検とかの車の維持費がかかるし、なまじ土地が広い分インフラ整備に金がかかるので水道代やガス代が高いし、雪国では暖房の費用もかかるし、小売店が少なくて競争が乏しいので加工食品は東京より高い。庭や畑で野菜を育てられるならそのぶん食費は安く済むけれど、水やりや除草とかの手間がかかるので労働時間を時給換算したら安いというほどでもない。東京と同じ広さのアパートに半分の家賃で住めるとしてもそのぶん他の出費が増えるので、大きな家に大家族で住むなら田舎のほうが割安になるけれど、単身ならトータルの生活費は都会とあまり変わらない。●田舎暮らしのメリットとデメリット・生活の基本がある自分が食べるものを自分で栽培して収穫するのは生きる上で基本的なスキルである。農家がいろいろな仕事をやっていたので百の姓があるということで百姓と呼ばれたように、畑の柵を作ったりもするし、梅干しや梅酒や干し柿とかも作るし、農閑期は藁で縄を作ったり竹で籠を編んだりする。豊作なら親戚や近所へのおすそ分けもして、近所との人付き合いもあって孤立しない。庭の手入れとかで毎日何かやることがあるので、忙しい半面で体を動かすことが多くて日々の生活に充実感がある。大きな木がある古い神社や江戸時代の頃に作られた町割りを見ると伝統を継承しながら歴史の中の一時代を生きているという時間の感覚を持ちやすいので、都会みたいに故郷もなく孤立するような感覚がない。・食べ物がおいしい田舎では旬の野菜や果物が食べられる。港町だと魚が新鮮なのでスーパーのパック寿司でさえ十分おいしい。山の近くだとたいていソバを栽培しているのでソバがおいしい。私が大学受験のために上京したときに食べたコンビニ弁当のチャーハンがすごくまずくて、こんなものに値段をつけて売っているのかとびっくりした。逆に言えば、コンビニ弁当ばかり食べていた人が田舎に行ったら食べ物がうまくてびっくりすると思う。あと田舎は車の交通量も少なくて空気もきれいなので、散歩するだけでリフレッシュできる。・創造力が培われる田舎は動植物が多いので好奇心旺盛な子供にとっては退屈しない。私は実家から徒歩10分で海に行けたので、子供の時はしばしば放課後にビーチコーミングして貝殻を拾ったり、流木を拾って彫刻したり、防砂林でキノコやアケビやアリジゴクやミノムシを観察したり、キジやウグイスやヒヨドリの声を聞いたり、オジギソウをつついたりキイチゴをつまみ食いしたりしていた。父の実家は山のふもとにあったので、祖父母に会いに行くときは山でオニヤンマを捕まえたり、田んぼで蛙を捕まえたり、川で小魚を捕まえたりしていた。実家の庭の巣箱には毎年シジュウカラが営巣していたし、親戚の家には毎年ツバメが巣を作っていたので、鳥の子育ての様子を間近で観察できた。風の湿り気と土が濡れる臭いで雨雲が近づいてくる気配もわかる。都会みたいにスマホを通じて視覚と聴覚の情報だけが入ってくるのに比べて田舎は五感の刺激が多いので、そのぶん認知能力が向上すると思われる。雑木林にはスマホのナビとかもないので、どっちに行って何をするのか自分で意思決定する必要があるので非認知能力も向上すると思われる。岐阜県では里山学習として森遊びの体験を提供しているけれど好評のようである。都会の小学生が夜10時くらいまで塾に通っているのを見ていると、くたびれるまで外で遊んで夜はちゃんと寝る田舎の生活のほうが健全だと思う。子供を田舎でのびのびと育てたくてわざわざ都会から引っ越す人もいる。芸術家もしばしば静かな田舎にアトリエを作って、森や海とかの周囲の環境からインスピレーションを得ている。・人間関係が面倒くさくてDQNが多い田舎には私立学校がほとんどないので私は高校まで公立学校だったけれど、私が行った中学は市内で一番荒れていて体育教師が不良に膝蹴りされて内臓破裂したりしてたまに警察が学校に来たり、教師が泣きながら職員室に引きこもって授業が中断されたりしていて、教育環境はよくない。DQNに対応する精神力は鍛えられるけれど、いじめとかで潰れる子供もいるだろう。大学に行く人は進学を機に人間関係がリセットされるけれど、ずっと田舎暮らしだと学校の同級生や先輩後輩の人間関係がずっと付きまとうし、車の車種も覚えられてどこに出かけていたとか噂される。それに高卒のマイルドヤンキーが地元に残ってつるむのでDQN率も高くなるし、都会では絶滅した暴走族が田舎にはまだいたりする。田舎は人目につかないところが多いので山や川へのごみの不法投棄もある。犬飼いの民度も低くて無駄吠えしたり放し飼いしたりうんこが路上に放置されたりしていて、私が小学生の時は登下校の道で犬のうんこが雪に埋もれているトラップだらけだったし、放し飼いで飛び掛かってくる好戦的な犬がいたりした。田舎は持ち家が多いので、隣人ガチャが外れてもアパートほど気軽に引っ越せない。町内会の加入拒否や会費の使途をめぐるトラブルもしばしばある。回覧板を隣の家に回すのも非効率で、町内会のホームページやブログを作るなりすればいいのに、たぶん老人がパソコンやスマホを使えないのでアナログなやり方のままなのだろう。・虫が多い土手を自転車で走っているとイナゴが飛んできてバチバチと顔に当たるし、メマトイがしつこく目の周りにまとわりつくし、家にカメムシが侵入してきて臭いし、ムカデも侵入してきて危ないし、植木の葉っぱにイラガとかの毒がある毛虫がいて危ないし、庇に蜂が巣を作ったりして危ない。林の中を散歩していると巨大なクモの巣に気づかずにつっこんで顔がねとねとになったりする。虫が嫌いな人にはストレスが多いだろう。・仕事が少ない田舎の一次産業の農業や漁業はたいてい世襲で、工場はあるけれどサービス業があまりないので、土地を持っていない人や普通科を卒業した人は仕事の選択肢が少ない。よそ者は田舎に引っ越して新規就農しようとしても農地を貸してもらえなかったりするし、役所がイオンとかの大型スーパーマーケットを誘致しようとしても地主や商店街が拒否したりして新規に雇用を生む産業も起きにくい。公共事業も減らされて田舎で稼げる仕事の定番だった土建業さえも成り立たなくなりつつある。●田舎の重要性都会には人も金も集まるので発展しやすいけれど、田舎を放っておいて廃れさせてよいわけではない。特に安全保障の面では一極集中よりも人口を分散させる方がメリットがあるので、田舎も維持して整備する必要がある。・防衛の要になる日本の端の北海道と沖縄と島嶼部は国防において重要なので基地があって、海上保安庁が中国や北朝鮮やロシアの船を警戒している。もし田舎をほうっておいたら密入国し放題になって不法移民が居ついたりするし、ロシアのウクライナ侵攻みたいに外国に侵略されたときにちゃんとした道路や橋や港がないと部隊を配備して迎え撃つこともできないので、金をかけて警備する必要がある。・リスクヘッジになる田舎でも高速道路や電車や港や空港などのインフラが整っていると災害が起きたときの救助や復興も迅速に効果的に行えるようになる。例えば東日本大震災が起きたときには隣の県から支援物資を輸送して炊き出しをしたり家をなくした被災者を受け入れたりした。もし南海トラフ地震が起きたときには反対の日本海側が支援する側になるので、太平洋ベルトだけに集中して投資するのでなくて日本海側にも投資してインフラを整備することがリスクヘッジになるし、もし地震で東海道新幹線が潰れても日本海側を経由して東京と大阪を迂回できるようなルートがあれば復興も早くなるので結果的に損失が少なくて済んで投資が無駄にならない。特に都市部は人口が多いのに自分で食料を生産できなくて輸送が生命線になるので、大都市間のインフラ整備だけでなくて付近の田舎から食料を調達する輸送ルートが複数あることが重要になる。戦時中でも都会の人が田舎に疎開したおかげで空襲を逃れて生き延びた人もいたし、私の実家の付近では集団疎開してきた人たちのために畑を潰して家を建てて、田舎暮らしが気に入った人たちが戦後も帰らずにそのまま住み続けたそうな。田舎の駅や港や空港は利用者が少なくて赤字なので無駄だと言われがちだけれど、緊急時の輸送手段が増えるという点では無駄ではないので、帳簿上の利益だけ見ずに帳簿に乗らないリスクを軽減するためにインフラを維持するべきである。国土が上下に長くて北と南で気候が違うのも農業や漁業をするうえでメリットが多くて、例えば何かの魚種が不漁でも他の地域で他の魚種が豊漁になったりして多種多様な食材を調達できるので食料不足になりにくくなる。●田舎とフィクション都会の人の田舎のイメージはフィクションによるものが大きいと思う。『となりのトトロ』や『おもひでぽろぽろ』みたいにのどかな田舎暮らしを美化するとか、『八つ墓村』や『TRICK』みたいに陰惨な事件が起きたり「祟りじゃー」という迷信深い老婆が出てきたりするとか、ステレオタイプが両極端である。森敦の芥川賞受賞作の『月山・鳥海山』は自身の体験を基に貧しい田舎の実像を描いていてよいと思うけれど、リアリティを重視すると地味になるので大衆受けはしない。『ばらかもん』や『Dr.コトー診療所』は島が舞台で、島は人口が少ないがゆえに人間関係を濃密にして特色を出しやすいものの、癖が強い島民と仲良くするという人情もののステレオタイプな展開になりがちである。島でなくて何の変哲もない田舎は舞台にする価値があるのかというとあまりない。『東京喰種』みたいに誰でも知っている都会を舞台にした方がお洒落な感じで華があるので、田舎はエンタメの舞台になりにくい。もし『埼玉喰種』とかだったらダサい感じがして流行らなかったかもしれない。『SR サイタマノラッパー』みたいに田舎で格好つけようとするギャップを売りにするやり方もあるけれど、何度も使える手法ではない。登場人物が方言を使うと大多数の人が理解できないのも作品作りの制約になっていて、それゆえに田舎を舞台にしていても主人公はたいてい田舎育ちでなくて都会から田舎に行って標準語を話す人が多い。そうなると都会人の目線で田舎を観察して田舎の珍しい慣習や行事に驚いたり感動したりしてリアクションする構図になって、田舎の表層をなぞるだけの似たような展開になってあまり面白くならない。じゃあフィクションでは田舎をどう描けばいいのさという話になる。田舎を異文化として異化するにはリアリティが必要になるし、方言とかの細部にこだわらないと田舎の個性は出ないので、現地を取材して歴史や地理や地元民の慣習を把握することが必須になる。自分の地元や転勤とかで長期間住んだことがある場所を書くのなら問題ないけれど、北条裕子の『美しい顔』みたいに行ったことがない場所を資料と想像だけで書こうとするとリアリティがなくなるので、取材できないなら実在の田舎を舞台にしない方がましである。田舎を都会でない場所として異化の装置として使ったり、都会に対するアンチテーゼとして使ったりするのでもネタにはなるけれど、身土不二や地産地消とかの田舎ならではの思想やその土地の個性を描ければ田舎をもっと活かせるかもしれない。富士山が日本のシンボルになっているように田舎の山も象徴主義のシンボルとしても使えるし、シンボルやメタファーの選択肢が多いと言う点では純文学とは相性がよさそうである。スタインベックの『怒りの葡萄』は大不況で土地を追われた農家の物語としてみれば田舎の話といえるし、パール・バックの『大地』も祖父は農民で、ヘミングウェイの『老人と海』は田舎の漁師の話だけれど、日本だと田舎の小説と言えばコレというような大作がない。「水木しげるロード」みたいに作者の出身地が観光名所になることがあるけれど、うまく田舎をフィクションにできたらいわゆる聖地巡礼としてファンが来て観光にも役立つしスポンサーがつきやすいので、これから田舎系フィクションが発展する可能性はあると思う。今までファッションや音楽とかの文化は渋谷や原宿とかの都会が発祥で田舎に伝播する感じだったけれど、インターネットで情報格差がなくなった現代では田舎こそユニークな価値を発信できるかもしれない。バルビゾン派が田舎発祥だったように、文学でも田舎発祥の流行を起こしたら面白いと思う。
2023.09.27
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最近は脳科学者の茂木健一郎がジャニーズについて「とりたてた才能があるわけでも、すごいパフォーマンスがあるわけでも、ものすごくかっこいいわけでもないそのあたりにいる兄ちゃんたちが人気になった理由は単にたくさんテレビに出たから」「ジャニーズにだまされないでほしい。人生がもったいないし、人生の時間が無駄になるから。ジャニーズはほんものじゃないし、あなたのためでもない。ほんものは他にあるし、あなたのためになるものは他のところにある」「ジャニーズにだまされる人は、芸術の教養が根本的に欠けている。クラシックからロック、ポピュラーまで、音楽のほんものに触れていれば、SMAPや嵐には騙されない」などと言っていたので、これについて考えることにした。●クリエイターとパフォーマーの違いクリエイターは作曲や歌詞や振付に対する著作権を持っているのに対して、パフォーマーは著作権を持っていない。誰かが作った曲や踊りを間違えないように演じるのがパフォーマーの仕事になる。良い作曲家が良い歌手とは限らないし、良い振付師が美男美女とは限らなくて、パフォーマーのほうがクリエイターよりも上手く演じられたりイケメンだったりするので、人前に出るパフォーマーのほうがクリエイターよりも人気になりやすい。しかしパフォーマーは最高のパフォーマンスができなくなったり人気がなくなったりすると引退する。特にアイドルは代わりの若者が次々に出てくるので旬が短くて、30代になって踊れなくなったり老けたりすると俳優やバラエティー番組のタレントに転向したり芸能人や実業家と結婚して引退したりする。クリエイターは自由に作りたいように作品を作れて、自分が作ったものに上手いか下手かの違いはあっても正解や間違いはないけれど、パフォーマーは作者が作った通りに演じないと間違いとみなされる。例えば即興で歌うラッパーに正解や間違いはないけれど、歌手は決まったメロディーと歌詞通りに歌わないと音程や歌詞を間違ったとみなされる。脚本家は自由に脚本を作れて正解や間違いはないけれど、役者は脚本に書いてある通りにセリフを言わないとセリフを間違ったとみなされるし、アドリブの指示がないのに脚本にないセリフを勝手に言うと監督にダメだしされる。森進一が「おふくろさん」に無断で前奏パートをつけて作詞家の川内康範が激怒したように、あくまで作品は作った人のものなので、演者がどれだけ人気だろうが勝手に改変して良いものではない。●ジャニーズのパフォーマンス茂木の言う「すごいパフォーマンス」がどの程度を指すのかは不明だけれど、昭和のエンタメは今に比べたらたいていしょぼいものだった。アイドルが棒立ちで歌を歌っているのに比べて光GENJIがローラースケートですいすい滑ったりバク転したりするのは当時としてはそれなりのパフォーマンスだと思うし、TOKIOが自分で楽器を演奏していたのもプロのバンドには見劣りしても歌うだけのアイドルに比べたらそれなりのパフォーマンスだと思う。ジャニーズのライブツアーは満席だし、ファンはパフォーマンスには満足していると言えるだろう。俳優としてもそれなりに演技はできていて、岡田准一や森田剛が出ている映画は私は面白く見れたし、『池袋ウエストゲートパーク』の長瀬智也ははまり役だと思う。昭和の頃は国内の他のアイドルと比べたらジャニーズは頑張っていたと思うけれど、2010年代にBIGBANGとかのK-POPが台頭してからは見劣りするようになった。K-POPはひとつのグループをデビューさせるまでに1億円くらい投資しているそうで、歌やダンスをみっちり練習したうえで公開オーディションでメンバーを選んだりしているので実力が劣る人が紛れ込んだりしないし、ダンスや歌のうまさだとK-POPのほうがジャニーズより優れている。公開オーディションをすることで人気や実力がある上澄みを厳選できるだけでなくて、メンバー選考に落選した人にもそれなりにファンがついて他のグループでデビューする下地ができるメリットもある。K-POPの男性グループは少女漫画に出てくる白馬に乗った王子様の実写版のような造形をしていてアジア的イケメンのツボを押さえているので、日本のティーンエージャーが惚れるのもわかる。私はK-POPは別に好きでもないけれど、それでもStray Kidsのフィリックスはかっこよさとかわいさが両方あってよいと思う。K-POPの女性グループは顔の見分けがつかないけれど、手足が長くてスタイルは日本のアイドルよりも良い。K-POPは外見やファッションセンスではものすごくかっこいいと言えるレベルだし、それに比べたらジャニーズは長瀬や滝沢とかの一部のイケメンを除いたら茂木のいう通りの「ものすごくかっこいいわけでもないそのあたりにいる兄ちゃんたち」と言うレベルだろう。●パフォーマー偏重の文化私はアイドル全般に興味がない。というのもアイドルはいくら人気があろうが所詮はプロデューサーがおぜん立てした舞台で役割を演じているだけで、そこに芸術性を感じないのである。アイドルも努力しているのはわかるけれど、どれも似たような曲や似たような踊りでそこから新しいものが生まれる期待がないし、クラシック音楽やバレエみたいに伝統と高度な技術に基づいた芸術作品というほどの完成度も見られないので、どうでもいいと感じてしまう。アイドルは推しが一生懸命頑張っている姿を応援する対象であって、芸術作品として鑑賞する対象でないので、応援したい人がいなければそのパフォーマンスに感動もなくて、芸が未熟なだけに見える。子供の学芸会を親が見たら楽しめても、知らない人が見たら楽しめないようなものである。日本はパフォーマー偏重の文化なのに肝心のパフォーマンスがだめなのがエンタメとしては致命的である。韓国発祥の「The Masked Singer」という番組は出演者がマスクで顔を隠して純粋に歌唱力だけを競っているので歌がうまいし、アメリカの「America's Got Talent」もすごいパフォーマンスが見れるので人気だけれど、それに比べて日本のテレビ番組は出演者の実力よりも知名度で視聴率を集めようとするのでパフォーマンスがおざなりである。1980-90年代のバンドブームでいろいろなバンドが個性的なオリジナル曲を作って小さなライブハウスで切磋琢磨して腕を磨いてメジャーデビューをしていてその頃はJ-POPが面白かったものの、2000年代に音楽がデジタル化してCDが売れなくなってからは後ろ盾なしに才能でのし上がるクリエイターが少なくなって事務所の後ろ盾があるパフォーマーだらけになって、今はジャニーズやAKBとかのアイドル系の似たような曲ばかりがチャートに乗ってJ-POPはつまらなくなっている。ミュージックステーションでもしばしば放送事故と言われるレベルの下手な歌を歌ったりして番組が打ち切りになる噂も出ている。アイドルの音楽には忌野清志郎がエフエム東京を罵倒したような強烈なメッセージ性やユーモアもないし、行儀よく振舞うように躾けられたアイドルたちが口パクする様子を見ても刺激がなくて面白くないので、私はアイドルだらけのMステも紅白歌合戦も見ない。AKB系はしばしば素人が踊ってみた動画を投稿しているように、歌やダンスは素人でも頑張ればできるレベルだし、メンバーが何人か変わっても結局は全員で合唱しているので個人の歌唱力の差が出ないので替えがきくレベルの才能でしかないし、アイドルグループを脱退してソロで歌手として自分の才能で成功した人がいない。PerfumeやももクロやBaby MetalやBiSHとかも人気だけれど自分で曲を作っていないので、クリエイターでなくてパフォーマーである。YouTubeにいる歌い手とかはたいてい流行りの曲やボカロ曲のカバーを歌っていて、歌はうまいけれど新しさはない。茂木の「人生の時間が無駄になる」は言い過ぎだと思うし、ティーンエージャーにとっては憧れのアイドルのライブに行ってはしゃぐ体験をするのも青春の良い思い出だと思う。しかし「ほんものは他にある」はその通りで、ジャニーズが自分で大麻ソングや同性愛ソングを作詞作曲するなら私はクリエイターとして評価するけれど、生活態度と歌っている内容が一致していなくてうわべだけ飾った綺麗事を言って本音を言わないのでは所詮は牙を抜かれた事務所の飼い犬で、にせものである。人生経験が乏しくて審美眼がないティーンエージャーがほんものとにせものの区別がつかないのは仕方がないけれど、おっさんやおばさんが若いアイドルを性的目線で見て尻を追いかけるのはさすがにみっともない。●プロデューサーへの依存がハラスメントの温床になるクリエイターが作品を作ったりイベントを興行したりして自力で稼いで嫌な仕事を断れるのに対して、アイドルとかのパフォーマーはプロデューサーがいないと何もできなくて自分で作詞作曲したり仕事を取ってきたりすることもできないし、芸能事務所が歌の著作権やグッズの商標権を抑えているので事務所に不満があって独立したところで持ち歌を歌えなくなったり芸名を使えなくなったりするので、仕事を与えてやるプロデューサーに権力が集中する力関係の不均衡がセクハラやパワハラの原因になる。ジャニーズは他のアイドルと違って旬を過ぎても引退せずに中年になっても事務所に残って仕事をもらっていて、独立しても干されて仕事がなくなるので、ジャニー喜多川一家に長期間権力が集中して逆らえなかったことが問題を悪化させることになったのだろう。テレビ局は長い物に巻かれてジャニーズに忖度して不祥事を報道しなかったくせにBBCに報じられて風向きが悪くなったら手のひらを反してジャニーズを批判してジャニーズ所属のタレントを起用しないと言い出しているけれど、じゃあセクハラや枕営業をしていないクリーンな芸能事務所やテレビ局や広告代理店があるのかという話で、そもそも同じ穴の狢で芸能界自体が腐っているのでテレビ局はジャニーズを批判できる立場でない。企業は被害者への補償が終わるまではジャニーズと距離を置いてCM契約を終了させる方針のところがあるけれど、そもそもジャニーズに関わらず芸能人をCMに起用しなければよい。野口健がネスカフェゴールドブレンドのCMに出たり、高見盛が永谷園のお茶漬けのCMに出たり、docomoがスマホのCMの「森の木琴編」で人が出ないCMを作ったりしたように、別に芸能人を起用する必然性がない。たかがCMでさえ新しいことをやる姿勢がない企業が新しい良いものを作れるとは思えないので、いかにも広告代理店に丸投げして作ったようなアイドルやお笑い芸人を起用するCMには私は好感を持たないし、嫌いな芸能人が出ているCMはむしろ反感を持つ。企業がテレビCMや広告代理店に依存するのをやめれば、間接的にテレビの影響力も減って芸能界のセクハラも少なくなると思う。●ジャニーズはどうなるのかジャニーズが被害者への補償が終わってまともな会社とみなされるまで数年かかるだろうし、テレビ局や企業のジャニーズ外しの流れはとうぶん続くだろう。ジャニーズはテレビの仕事がなくなってもライブで客を呼べるし、ISLAND TVでジャニーズJrの独自コンテンツを配信しているし、ファンクラブの年会費で定期収入が入ってくるし、代わりになるような大手芸能事務所がないので、ショタ需要がある限りジャニーズは存続できるだろう。K-POPとかの比較対象があったところで好きなものが変わるわけではないし、宝塚歌劇団が好きな人が一定数いるようにジャニーイズム的な感じが好きな人も一定数いるだろう。しかしアイドルが中年になってからテレビ局とのコネで俳優になったりバラエティー番組に出たりするルートがなくなると活動の幅が狭くなるし、若いうちに薄給でこき使われてもそのぶん歳をとってもクビにしないで仕事を与えるやり方ができなくなるだろう。稼ぎ頭の若いアイドルからしたら自分たちの稼ぎで先輩のおっさんたちの老後の生活を支えるのはやってらんねーと思うだろうし、SMAPや滝沢秀明がジャニーズを辞めて自分の会社を作ったようにジャニーズを辞める人たちがでてきて事務所に求心力がなくなるだろうし、吉本興業と韓国のCJ ENMがJO1をプロデュースしたみたいに歌と踊りの実力でジャニーズを超えるアイドルが出てきて相対的にジャニーズは落ち目になると思う。いち視聴者としてはテレビや映画がジャニーズだらけの状況が変わるのは歓迎したい。ジャニーズに残る人たちも楽して儲かるバラエティー番組やCMに頼らないで本業の歌や踊りに力をいれて一流のパフォーマーをめざせばよい。アイドルをやりたいならファンサービスを良くしてアイドル活動に特化すればよいし、俳優をやりたいなら最初から俳優として活動すればよいし、マルチタレントと称して全部中途半端なのは一番よくない。せめてカラオケレベルの歌唱力は改善して、↓の人くらいの歌唱力はつけてほしい。
2023.09.12
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最近はコロナ禍で高齢のタクシー運転手が辞めて、一転して観光客受け入れ再開後のインバウンド需要でタクシー不足になって、菅義偉、河野太郎、小泉進次郎、竹中平蔵とかの新自由主義の人たちがライドシェアを提言している。これについて考えることにした。●ライドシェアとは何かライドシェアは配車サービス会社が提供するアプリ上でドライバーと利用者をマッチングさせるサービスで、車だけを貸すカーシェアとは違ってドライバーが客を乗せて目的地まで送り届ける。例えばウーバーだと客がアプリで迎え先と行き先を指定すると、そのルートで送ってもいいよというドライバーが仕事を受けて送迎する。現在は日本では相乗りでガソリン代とかの実費を折半するのは合法だけれどウーバーのような有償で客を送迎するライドシェアは禁止されていて、有償で客を乗せて運転をするには二種免許が必要になっていてタクシーは緑のナンバープレートをつけているけれど、ライドシェアを推進する人たちは二種免許なしに客を乗せられるようにいわゆる白タクを合法化する規制緩和しようとしている。タクシー業界は安全な客の輸送にはドライバーの育成や飲酒運転の対策や車両の整備が不可欠としてライドシェア解禁に反対している。●ライドシェアのメリット・移動手段が増えるそもそもタクシーが不足していなかったらライドシェアを解禁しようという動きにならない。京都はオーバーツーリズムが問題になっていて地元住民がバスやタクシーに乗れなかったりして公共交通機関が足りなくなっているけれど、ライドシェアが解禁されたら移動手段の選択肢が増える。・運賃が安くなるnottecoというライドシェアサービスだと帰省やイベント参加とかの長距離ドライブで車を出す人が相乗りする相手を募集して、ガソリン代や高速代を割り勘することで費用を安上がりにしている。nottecoが相乗り事業を照会したら国土交通省と経済産業省は「道路運送法第2条第3項の「旅客自動車運送事業」に該当せず、道路運送法上の許可または登録を要しない」と発表したそうで、これは合法のサービスである。送迎の対価を払うわけではなくて実費を負担するだけだし、客の目的地への送迎でなくてドライバーの目的地まで誰かが同乗するだけでドライバーが主体なので、相乗りマッチングが合法なのは妥当な判断だろう。ちなみにヒッチハイクも対価を払わないで相手の厚意で乗せてもらうなら合法である。・収入を得やすくなるプロのドライバーになるつもりがない人でも休日にライドシェアで副業したりして収入を得やすくなるし、フリーランスで稼ぐ手段が増えることである程度の失業対策にもなる。・環境に良い車を持っている人が多いのに車庫に置きっぱなしであまり運転しないのでは車を作る資源が無駄になる。ライドシェアで車の稼働率を上げてそのぶん車を買わない人や車を手放す高齢者が増えて社会全体で車の保有台数を減らせば資源が無駄にならない。●ライドシェアのリスク・客が危険にさらされる岡山県のゲストハウスで客に睡眠薬を飲ませてレイプした事件があったけれど、民泊と同様にライドシェアに誰でも参入できるようになるとプロ意識がなくてモラルが低い人まで呼び寄せてしまう。ライドシェアのドライバーがDQNだったら美人の客が乗った時にむらむらしてナンパやセクハラをしたり、道をそれて人気がない所に連れ込んでレイプしたり、自宅を突き止めてレイプしたりする可能性もあるし、酔客を乗せたときに相手の判断力が落ちているのに付け込んでぼったくったり寝ている隙に財布を盗んだりする可能性もある。ウーバーイーツならDQN配達員に当たって食べ物をつまみ食いされたり汁物をこぼされたりしてもせいぜい数千円の被害で済むけれど、ライドシェアだともっと深刻な被害が起きうる。ちなみにCNNの記事によるとウーバーが2022年6月に発表した安全報告書だと、2020年に6億5000万回の配車回数のうちでレイプ被害が141件、性的暴行被害が998件報告されていて、2019-20年の2年間で身体的暴行による死者は20人で、うち15人が乗客だそうな。タクシー会社は車を整備してドライバーの体調やアルコールとかも検査しているし、事故を起こした場合はタクシー会社が補償するけれど、ライドシェアでは車が整備されているか不明だし、ドライバーの運転技術も不明だし、事故を起こしたときにドライバーが保険に加入しているのかが問題になる。タクシーはチャイルドシートをつけなくてもいいことになっているけれど、ライドシェアする乗用車が客の子供を乗せる時も同様にチャイルドシートがなくてよいのかという問題になるし、タクシーよりも運転技術が未熟な一般人がチャイルドシートなしで事故を起こしたら被害が大きくなる。最近は在日外国人が解体業をしていて安全管理が不十分で違法な工事をしているのが問題になっているけれど、それと同様にライドシェアが解禁されたら法律をよく理解していなくて順法意識が乏しい在日外国人が小遣い稼ぎをするようになって、偽造免許証を使って整備が不十分なハイエースに乗車定員を超える中国人観光客をぎゅうぎゅうに乗せて事故を起こしたりするかもしれない。ウーバーイーツで生活費を稼ぎながら旅をする人がいるけれど、同じことをウーバーでやったら土地勘がないところで運転して事故を起こす可能性が高くなる。例えば雪国出身でない人が旅行中に小遣い稼ぎをしようとして冬に不慣れな雪道を運転して客を危険にさらす可能性がある。ライドシェアで誰でも簡単に稼げるようになったらわざわざ二種免許を取ろうとしなくなって、十年単位の長期スパンで見たら素人ドライバーだらけになってタクシーのドライバー不足に拍車をかけてサービスの低下につながると思う。・ドライバーが危険にさらされるライドシェアの議論では客の安全性に焦点があたりがちだけれど、ドライバーも危険にさらされる。ドライブレコーダーが普及する前はタクシーの売上金を狙った強盗がしばしば起きていたし、ドライブレコーダーの普及後も酔客に暴行されるトラブルがしばしばニュースで取り上げられたりするけれど、タクシーは乗客に暴行されたり強盗されたりしたときに行灯を緊急点滅させる機能がついているので車外の人に異常を知らせて通報してもらって助けを呼びやすい。一方で自家用車には緊急点滅とかの装置がないので、事件に巻き込まれたときに運転手を守ることができない。一応ハザードランプがあるけれど、通りすがりの人から見たら車が故障したのかなと思われるだけで異変に気付きにくい。タクシーを盗もうとする人はあまりいないけれど、スポーツカーとかのリセールバリューが高い人気の車種でライドシェアしたらDQN客に目をつけられて強盗されて車を盗まれる可能性があるし、あるいは盗難の下見に使われて雑談の中からドライバーの生活圏や家族構成を把握されて車内にGPSを仕込まれて自宅や駐車場を突き止められて車を盗まれたり家に侵入されたりする可能性もある。個人間カーシェアで車を盗まれる被害が出ているのだから、ライドシェアでも同様に被害が出るだろうし、仲介会社が被害を補償するわけでもないので小遣い稼ぎをするつもりがやられ損になる。ウーバーの安全報告書だと性的暴行事件の加害者として訴えられたうちの43%が乗客だそうで、女性ドライバーの貞操も危ない。アメリカは国土が広い車社会でキリスト教的な隣人を助ける価値観でヒッチハイクしている人を無償で乗せる文化があったので一般人が見ず知らずの人を車に乗せることにあまり抵抗がないし銃で自衛もできるのでウーバーも浸透したのだろうけれど、日本ではドライバーの自衛手段がないので、アメリカでライドシェアがうまくいっているからといって日本でもうまくいくとは限らない。ABEMAでは客目線の議論だけしていて、事故のリスクがあるのが嫌な人は乗らなきゃいいし客の選択肢を増やせばいいじゃんという論調だったけれど、ドライバーも危険だということを認識するべきである。・在日外国人の不法就労インバウンド需要に応える目的でライドシェアを導入するなら空港周辺のドライバーは外国語を話せる外国人が主体になると思う。在日中国人はすでに違法に白タク営業をしていて空港で中国人観光客を送迎して摘発されているくらいだから、ライドシェアが解禁されたら当然やるだろう。就労ビザだと認められた分野の職種でしか働けないのに資格外活動許可を得ずに副業として不法就労する可能性があるし、ライドシェアだとアルバイトと違って労働時間の把握が難しくなるので労働時間が週に28時間に制限されている外国人留学生がその時間を超えて労働する可能性もある。誰でもライドシェアのドライバーになれるのでは在日外国人の不法就労を誘発しかねない。・トラブルの増加タクシーには営業区域や銀座の乗車禁止エリアとかの制限があるのにライドシェアで制限がないのでは不公平だし、法律が整備されないままライドシェアが解禁されると問題が起きると予想される。例えばウーバーイーツだと配達員がマクドナルドとかの人気の飲食店の付近に陣取って注文待ちしているけれど、ライドシェアでもDQNドライバーが駅周辺のコンビニとかに長時間駐車して客待ちして商売の邪魔をする可能性があるし、タクシーと違って自家用車だと外観では客待ちしているかどうかがわからないので取り締まりも難しい。タクシー会社は新人研修をしているので乗車禁止エリアやスクールゾーンの車両通行禁止時間帯とかのローカルルールを把握しているだろうけれど、素人がライドシェアをすると無自覚に違反をするだろう。相乗り型のライドシェアとしてすでに活用されているnottecoでもドタキャンやガソリン代の踏み倒しやナンパなどのトラブルが起きているようである。一般道から入れる姫路SAに集合してから相乗りして車を長期間放置する迷惑駐車が多発しているので一般道から姫路SAへの侵入路が9月13日に封鎖されるそうで、ライドシェアを使うDQNのせいで一般人も不便を被ることになる。●私の意見規制する理由があって規制しているものをリスクを顧みずに規制緩和するのは改革でなく改悪である。どんな業界でも素人が大勢参入したら質が悪くなるので、タクシー業界が自分たちの既得権益を守るためだけにライドシェアに反対しているとみなすのは筋違いで、安全性を保つためにも規制は必要である。竹中平蔵はPIVOTの動画でウーバーが10年で15兆円の企業価値を持つようになってライドシェアが成長産業なのに既得権益のタクシー業界が反対していると言っているけれど、安全対策にコストをかけなければそのぶん儲かって当然である。規制緩和したら儲かるのはライドシェアに限った話でなくて、例えば大工不足だから建築基準法を無視して中国のアパートみたいな脆い家を誰でも自由に建てていいとなったら儲かるだろうけれど家が倒壊して死ぬ人も出るし、看護師不足だから資格を無視して素人が自由に訪問看護していいとなったら儲かるだろうけれどでたらめな処置で死ぬ人も出るし、誰かが儲かる一方で不幸になる人を生み出してよいのか、それを経済成長と呼べるのかという話である。たぶん竹中平蔵はライドシェアを推進しているくせに自分がライドシェアで貧民のみすぼらしい車に乗るつもりはなくて安全なタクシーを使うだろうし、自分が規制緩和の被害を受ける側だとは思っていなくて自分が儲かれば不幸になる人がいてもいいと思っているのだろう。論語に「子曰、放於利而行、多怨(自分の利益ばかりを考えて行動すると人から恨まれることが多い)」とあるけれど、利己的に儲けてきた新自由主義者はそろそろ恨みを自覚する頃合いじゃなかろうか。それに政府がタクシードライバーを増やしたくて規制緩和をやるならまずタクシー業界の規制緩和からやるのが筋で、二種免許の取得費用を下げたり個人タクシーの開業条件を緩和したりする政策をやればいい。需要が多すぎてタクシーが足りない状態を解決したいならタクシーの運賃を上げれば需要を減らせるし、タクシー会社が儲かるようになってドライバーの給料が増えればタクシー会社に就職する人も増えて需要と供給が均衡してドライバー不足は解消するだろう。もしライドシェア推進派にごり押しされてライドシェアが解禁するとしても、一定の安全性を担保するために何かしらの制限は必要である。日本国籍で65歳以下で免許を取ってから10年以上の運転歴があって3年間無事故無違反で前科がないことをドライバーの条件にするとか、観光客が多い大都市や観光名所限定で解禁するとか、自宅から10キロ圏内だけしかライドシェアの営業を認めなくて土地勘があるところの利用に限定するとか、出発地点と目的地の距離を10キロ以内に制限するとか、空港とホテル間の特定のルートだけ解禁するとか、車の乗車定員が何人だろうが最大3人までしか客を乗せてはいけないと人数に制限をつけるとか、ドラレコ装備を義務付けるとか、軽自動車での営業を不可にするとか、借りた車での営業を不可にするとか、てんかんとかの持病がある人の運転は不可にするとか、強盗や性的暴行防止に夜間の営業を不可にするとか、ドライバーや客の本人確認や車両の確認を厳格化するとかして、ミニマックス法を基準にして運転技術が未熟な人や外国籍の人はライドシェアのドライバーになれないようにして違反を未然に防いで事故が起きたとしても被害を最小限に抑えるような仕組みは必要だろう。タクシー不足は客にとっては不便だけれど、タクシー会社にとっては商機でもある。昔はタクシーといえばクラウンコンフォートでどのタクシー会社を選ぼうがたいして違いがなかったけれど、平成27年に道路運送車両保安基準が廃止されてどんな車種でもタクシーとして使えるようになったそうで、そこにタクシーが活躍するチャンスがあるかもしれない。私はライドシェアよりも個人タクシーの開業条件を緩和すればよいと思う。運転を専ら職業とした期間が10年以上という厳しい条件をなくして二種免許を取ったら個人タクシーを開業できるようにして、個性的な車で副業として個人タクシーをやる人が増えれば観光客にとっても面白いだろう。林道や砂浜を走れる四駆オフロードタクシーとか、ドライバーがコスプレしている痛車タクシーとか、巨大スピーカー付きのテンションアゲアゲタクシーとか、大型犬を乗せられるペット可ワンボックスタクシーとか、乗り物酔いしにくいように足回りにこだわったタクシーとか、チャイルドシート完備で暇つぶし用のモニタ付きで保育園への幼児送迎に特化したタクシーとか、大量の荷物を運べるデコトラタクシーとか、個性的な個人タクシーが増えたらその車種を予約して乗りたがる客はいると思う。儲からない業界には人は集まらないのだから、タクシーの運賃の認可の規制も緩和してホテルみたいに需要に応じて柔軟に値段を変えられるようにして、予約が殺到する人気のタクシーはそのぶん料金を高くして市場原理で儲かるようにすればよいと思う。
2023.09.07
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最近は福島第1原発処理水の海洋放出が批判されているけれど、それに対してホリエモンは「十分に放射性物質を薄めた上で海へ排出するということが、何か知らないけど一部のマスコミと左翼の活動家みたいなアホが大騒ぎしてるんで、コイツら本当、頭が悪すぎて、“薄める”っていう概念が理解できないみたいですね」と批判している。これについて考えることにした。●原発処理水と放射性物質とは何か福島第一原子力発電所で放射能で汚染された水(汚染水)は、多核種除去設備(ALPS)で放射性物質を除去する処理をして、処理水としてタンクに貯蔵されている。その処理水を永久にタンクに貯蔵しておくわけにもいかないしタンクを置く場所がなくなってきたので、今後30年にわたって海洋放出されることになった。復興庁によるとトリチウム以外の放射性物質は安全基準を満たすまで浄化処理で取り除かれているけれど、水素の同位体のトリチウムは酸素と結合してトリチウム水になってしまうと今の技術では水からトリチウムだけを取り除くことはできない。そのトリチウムを含んだ処理水を海洋放出してよいのかということで現在中国や韓国の野党や日本の左翼とかが騒いでいるけれど、アメリカ政府や韓国政府は科学的に安全だとみなして別に問題視していない。日本原子力研究開発機構によると、「国が定めたトリチウム放出の規制基準値である1リットル当たり60,000ベクレルは、この濃度の水を毎日70年間摂取したときの1年間の被ばく量が1ミリシーベルトとなることを考慮して決められています」と言っている。Wikipediaにいろいろな物質の半減期の一覧があるけれど、トリチウムは40日で9割が体から排出されるそうな。核融合科学研究所によるとトリチウムは自然環境中にも水1リットルあたり1ベクレル程度存在しているので人体にも50ベクレル程度存在するそうで、組織に蓄積せずに短期間で体から排出されるので放射性物質の中では毒性が少ないし、放出停止の基準値は第1原発から半径3キロ以内で1リットルあたり700ベクレルなのに、BBCによると「24日の放出開始後に発電所から3キロ以内の10カ所で採取した海水のトリチウム濃度は、いずれの地点でも検出限界値(1リットル当たり約10ベクレル)を下回っていた」そうで国の安全基準を満たしているし、国連の原子力の安全性を判断する機関のIAEAもALPS処理水を検査して国際安全基準に合致して人及び環境に対する放射線影響は無視できるほどであると7月4日に報告書を出しているので、海洋放出しても問題ないという判断は妥当だろう。トリチウムが自然の水1リットルに1ベクレル存在するのが、処理水を海洋放出して原発から半径3キロ以内で検査したらわずか10ベクレル未満で自然の状態とあまり変わらないし、1リットルあたり60000ベクレルの水を毎日飲んだとしても1年間あたりの被ばく量が1ミリシーベルトに過ぎなくて健康に影響が出ると言われている100ミリシーベルトに及ばないのだから、1リットルあたり10ベクレル未満ではIAEAが言うように人体や環境への影響は無視できるレベルだろうと文系の私でも理解できる。週刊ポストによると「日本は年間最大22兆ベクレルのトリチウムを含んだ処理水を海洋放出していく計画だが、中国では2021年だけで東シナ海に面した秦山原発(浙江省)が218兆ベクレルのトリチウムを海洋放出。福建省の寧徳原発は約102兆ベクレル、南シナ海に面した広東省・陽江原発は約112兆ベクレルを放出している。近隣諸国への通告はなされていない。韓国も2019年に釜山近郊で日本海に面した古里原発が91兆ベクレル、月城原発が31兆ベクレルを海などに放出したことがわかっている。」だそうで、福島第一原発から海洋放出される処理水のベクレルは外国よりも少ない。環境省のトリチウムの年間処分量の海外との比較だとフランスは2018年にラ・アーグ再処理施設からイギリス海峡側に11400兆ベクレルを排出していて突出しているけれど、それでも問題視されていなくてフランスやイギリスの水産物の不買運動とかは起きていない。ベクレルとは何かというと、環境省によると放射性物質は原子核が不安定なので余分なエネルギーを放射線として出して壊変して安定したら放射線を出さなくなるそうで、1秒間に1個物質が変化することを1ベクレルというそうな。つまりは処理水のベクレルが少ないほど放射性物質も放射線量も少ないといえる。日本の処理水の海洋放出を問題視するならそれ以上にベクレルが多い外国のほうが問題にならないとおかしいし、外国の海洋放出を今まで問題視してこなかった人たちが日本の海洋放出でだけ騒いで問題視するのもおかしい。立憲民主党の原口議員はABEMAに出演して処理前のデータが出ていないということにこだわって海洋放出に反対しているけれど、処理後に海洋放出されたデータで1リットルあたりのトリチウムが10ベクレル未満だと出ているのだからそこは安全だと言えるんじゃなかろうか。原口議員は生物濃縮も心配しているようだけれど、生物濃縮を調べたいなら福島をどうこう言うよりも11400兆ベクレルのトリチウム水が排出されたイギリス海峡の魚を調べればいいではないか。トリチウム以外の核種を問題視するのはALPSの処理能力やIAEAの検査の正当性を根拠なく否定することになるので、否定するなら基準値を超えているというデータを出さないと説得力がないし、基準値以下でも検出されたらだめだというのでは基準の意味がない。●科学を理解できない人たちホリエモンが薄めるという概念を理解できない人たちを批判したように、物質の有害性を考えるうえで濃度は重要である。たいていの物質は量や濃度で人体への影響も違う。生きる上で必要不可欠な水だって一度に飲む量が多すぎれば希釈性低ナトリウム血症になるし、塩だって濃度が濃すぎれば高血圧になって病気を引き起こす。私のおならを大気中に放出して濃度が薄まればちょっと臭い程度で無害だけれど、数百回分のおならを濃縮した気体を寝ている人の鼻に大量に注入したら危険である。科学を理解していない人は原発の周りにだけ放射性物質があると思っているようだけれど、水素3(トリチウム)、炭素14、カリウム40、ヨウ素131とかの放射性同位体が自然に存在しているし、食べ物の中にも微量に存在して放射線を出しているけれど摂取量が少なければ特に問題を引き起こすわけでもない。普段の食事でも被ばくしているし、レントゲン検査での被ばくも、飛行機に乗るときの被ばくも、ラジウム温泉での被ばくも、人体に影響がないレベルである。一般食品の放射性セシウムの基準値は国際基準のCODEXだと1キロあたり1000ベクレルで、日本ではそれよりもさらに厳しい1キロ当たり100ベクレルを設定しているので、日本の基準に沿っていれば基本的に安全だし、基準をちょっと超えてもまだ国際基準の範囲内である。環境省のサイトでは2017年時点で「1年間に受ける日本人の平均被ばく線量は5.98ミリシーベルトであり、そのうち2.1ミリシーベルトが自然放射線からの被ばくであると推定されています」と言っている。短期間の被ばくよりも長期間の被ばくのほうが人体への影響は小さいので、短期間に何度もレントゲン検査をしたりしてむやみに大量に被ばくしないにこしたことはないけれど、日常生活ではいちいち今日は何マイクロシーベルト被ばくしたかと放射線量を気にするレベルではないし、福島第一原発の放射性物質が原因で健康を損なって死んだ人はゼロだし、放射線量よりもむしろ酒の量や二郎系ラーメンを食べる頻度とかのほうが健康への影響が大きい。科学的に安全な被ばく量であるにもかかわらず、被ばくすること自体が不安でしょうがない人たちは強迫性障害やノイローゼとかの精神病の領域である。1リットル当たり10ベクレル未満のトリチウム水が不安でもう東北の水産物を食べないと言っているような神経質な人は水も飲まなければよい。なにせ雨水とかの自然の水1リットルにはトリチウムが1ベクレルも含まれているのだから、水を飲まなければさらに安心できるだろう。原発処理水に含まれる放射性物質もIAEAが検査して人や環境への影響は無視できる程度だと言ったのだから、問題視する理由もない。外国の原発が日本より多い放射性物質を海洋放出していようがIAEAが問題ないと言うのであれば問題ない。科学者の中にはIAEAの基準を疑問視する人もいるとマスコミが取り上げているけれど、それはその科学者とIAEAが議論して科学的に真偽を検証するべき問題だし、IAEAのコンセンサスに反する一部の科学者の意見を聞いて政府が政策を決めるのならそっちのほうが中立性を損なって癒着が疑われて問題になる。IAEAは海洋放出を承認したわけではないとマスコミは取り上げているけれど、だからといってIAEAが海洋放出に反対しているわけでもないし、そもそも国連の検査機関に各国の政策を承認する権限があるわけでもない。IAEAがどうのこうのと批判すること自体が無理筋である。しかし左翼活動家はとにかく原子力に関わるものには反対だという反原発思想で批判するか、とにかく日本を批判できれば批判するという反日思想で批判するので、IAEAや政府とかの科学的データを検査する権威を否定したり、論理を捻じ曲げて詭弁を言ったり、科学そのものを否定したりするようになる。頭が悪くて科学を理解できない人や論理の矛盾に気づかない人もいるだろうし、科学を理解したうえで日本を批判できる材料ならなんでも利用する反日活動家もいるだろう。例えばいま中国で塩が放射線に効くと言って塩を買い占めている連中や、東北の飲食店に嫌がらせの電話をしている連中や、中国の日本人学校に石や卵を投げている連中は教養がなくて科学や海流が理解できない本物の馬鹿である。中国の科学者はたぶん原発処理水の海洋放出が科学的に問題ないと理解しているだろうけれど、中国共産党は日本に圧力をかけるちょうどいい口実ができたので水産物を禁輸しているのだろうし、中国のコロナ対策失敗や不動産バブル崩壊による不景気の批判が中国共産党に向かないように不満のガス抜きに愚かな人民の批判の矛先を日本に向けようとしているのだろう。しかし中国人がガイガーカウンターで周りのものを測りだしたら上海の建材に基準値を超える放射性物質が含まれていることが判明したり、陳薇羽によると内モンゴルのオルドスの炭鉱を露天掘りしたらウラン混じりの粉塵が飛散して急性放射線症候群でドライバーが死亡したそうで、情報統制されているので事実かどうかは不明だけれど日本の原発処理水の海洋放出の危険性を煽るほど中国のほうがもっと汚染が深刻で危険だと周知されてしまうブーメランになっている。東日本大震災で原発事故が起きたときにも韓国人が日本の放射能汚染を批判して旅行に行かないとか不買するとか騒いでいたけれど、韓国の放射線量が日本よりも高いことは無視して日本は危ないと批判するのは反日に目がくらんで自己矛盾に気づかない馬鹿である。ちなみに在韓国日本大使館が日本と韓国の放射線量を紹介しているけれど、8月30日時点で福島県の富岡が0.096μSv/h、東京は新宿が0.036μSv/h、ソウルは0.146μSv/hで、どれも安全な水準である。中国の底辺層みたいに情報統制されてろくに教育を受けられなくて科学を理解できなくて民度が低い人や、一応教育を受けても頭が悪くて科学を理解できない人がいるのは仕方がない。頭が悪い人は放射線やウイルスや5Gとかの肉眼で見えないものの存在が理解できなくて、その存在を情報から推論して論理的整合性をつけることができないので、塩を買い占めるような非科学的なことをやりだしたり陰謀論を言い出したりする。わからないことはわからないと認めておとなしく専門家の意見を傾聴しておけばよいのに、見当違いの言動をして騒ぎだすから馬鹿と蔑まされる。無駄にわめきたててデモをしたりするエネルギーを勉強に使えばいいのに。●科学を理解できないマスコミ頭が悪くて科学を理解できない馬鹿な社会的弱者はどの国にもいるけれど、弱者に寄り添うということは弱者の言い分を代弁して拡散することではない。正しい情報をわかりやすいように教えるのが本来のマスコミの役割だろうに、某新聞は左翼思想の宣伝機関になって馬鹿をカモにして購読者を喜ばせるための偏向報道をしている。これはマスコミは文系だから科学が理解できないというだけの問題でなくて、根底に親中・親韓・反日思想があるので科学的な事実を無視してでも日本を批判しようとしている。問題ないことを問題視して騒ぎ立てること自体が人的リソースの無駄だし、左翼は政府の予算の無駄を批判しているくせに自ら無駄を引き起こしていることには無自覚である。そのうえマスコミが処理水を汚染水と呼んで安全な東北の水産物に対して汚染されているかのようにミスリードして風評被害を引き起こしている。馬鹿な人にも人権があるので個人的に馬鹿なことを言う自由もあるけれど、社会的な影響力が大きいマスコミが組織として科学的根拠がない馬鹿な主張を喧伝して国益を損ねるなら相応の罰則や規制を受けるべきだろう。
2023.08.30
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最近はマウイ島で山火事が起きてハリケーンの強風で火が燃え広がって壊滅状態になって100人以上が死亡して1000人以上が行方不明だそうな。災害は他人事ではなくて自分にも起きうることだし、関東でもしばしば震度3-4くらいの地震が起きるようになっていつ首都直下型地震や南海トラフ地震が起きるかわからないので、防災について考えることにした。●防災とは何か防災とは災害の予防と応急対策のことで、河川の整備などの被害抑止、マニュアル作成などの被害軽減、消火や救助などの応急対応、住宅の再建などの復旧をする。災害といっても地震や台風や噴火のような自然災害から放火やテロのような人為的な災害まで多岐にわたるので、それぞれの災害に応じて取りうる対策も違ってくる。災害を防いで被害を小さくすること、災害が防げない場合は災害に巻き込まれないように予報などで事前に安全な場所に避難すること、災害に巻き込まれた時には逃げ延びること、逃げた後で避難生活をすることの全部が生き延びるために重要である。●個人でできる対策・災害が起きやすい場所を避ける2014年に広島で豪雨による土砂災害で77人が死亡した八木地区は昔は蛇落地悪谷と呼ばれていたのに宅地開発して不動産を売るために印象を良くしようとして名前を変えられたように、平野が少ない島国だと居住に適さない土地まで開拓されがちで、家の立地に難があれば災害に巻き込まれてしまう。水害も同様で立地で被害を受けるか否かが決まって、川のそばの家はたいてい割安だけれどそのぶん堤防の決壊が起きたら一番大きな被害を受けるし、東京だと谷も多いので大雨が降った時に谷間にある家は浸水する。地震はどこでも起きうるのでどこに住んでも安全なところはないけれど、宮古市に「此処より下に家を建てるな」という碑文があるように過去に津波が到達した沿岸地域は特に危ないので、沿岸部から離れたところに住むにこしたことはない。海辺に津波に耐えられるコンクリートの5階建ての要塞のような家を建てて津波と真っ向勝負するよりも、海から離れたところに住むほうが合理的である。住む場所は自分で決められるので、土地の歴史や地形を調べることである程度自衛はできる。DQNが集まる場所を避けるのもリスク回避になる。富士山の5合目のプレハブの下で外国人観光客が雨宿りしながら火を使って調理していたのが話題になったけれど、自分に落ち度がなくてもこういうDQNが原因で火事に巻き込まれかねない。DQNが多い都会の雑居ビルだとビルオーナーの順法意識が低くて十分に防火対策をしていなくて死亡リスクが高くなる。2001年の歌舞伎町ビル火災は放火が原因とみられるとはいえ、誤作動が多い火災報知機の電源が切られていて避難器具も使用できない状態で従業員が避難誘導しないで窓から逃げ出したせいで煙が充満してビル内に残された44人が一酸化炭素中毒で死亡して、消防法が改正される契機になった。2013年のブラジルのサンタマリアナイトクラブ火災では、ライブの演出用の花火に点火したら天井の防音材に印化して火事になって、建物に非常口がなかったので2000人の客が出口に人が殺到して出口近くのトイレを出口と間違えて逃げ込んだ客が閉じ込められて239人が死んだ。2022年のソウル梨泰院雑踏事故ではハロウィンのイベントで逃げ場のない狭い通路に人が押し寄せて158人が圧死している。人が大勢集まる場所でパニックが起きて群衆に巻き込まれると身動きがとれなくて逃げることもできなくなるし、救助も遅れがちになるので、夜遊びやイベントとかでは理性をなくすほど酔わずにいつでも非常事態に自力で対応できる程度の余力を残しておく方が良い。・普段から避難経路を意識しておく旅行してホテルや旅館に宿泊するときはチェックインしたら最初に避難経路を確認しておくと寝ているときに火事で起こされてもすぐに避難しやすくなる。1982年のホテルニュージャパン火災は寝たばこの不始末で火事が起きたうえに防火管理体制がずさんで初期消火に失敗して避難誘導もほとんど行われなくて34人が亡くなった。最近だと人手不足で外国人の従業員を雇っている宿泊施設があるけれど、日本語がおぼつかなくてあまり地震を体験したことがない外国人従業員が地震の時にちゃんと避難誘導できるか疑問である。建物が立派だからといって防災対策がちゃんとできているとは限らないので、自分の命を他人任せにせずに面倒くさがらずに避難経路を確認しておくべきである。旅行中で土地勘がない場合や海外旅行中で現地の言葉が十分に理解できない場合は危険な建物から逃げたからといって他の安全な避難場所がわからなかったりするので、危険な場所に取り残されないように早めに行動して土地勘がある現地の人に着いていく必要がある。最近のマルハンの駐車場で車が152台燃えた火災や、2004年のドン・キホーテの放火事件のように買い物とかでちょっと立ち寄っただけの場所でも災害に巻き込まれることがあるし、商業ビルは商品を見て回らせるために導線が長くて階段の位置が出入口から遠かったり上りと下りのエスカレーターが別の位置にあったりして迷いやすいので、いちいち非常口を確認しないような場合でも建物が何階建てで現在地が出入口からどれくらい離れているかとかの大まかな距離感や出入口の方向は把握しておく方が良い。大地震が起きてマンションで火事が起きた場合はすぐに消防車が来なくて上に延焼するし、エレベーターも止まる可能性があるし、古いマンションだと免振装置がなくてドアがゆがんで開かなくなって閉じ込められる可能性もあるので、高層階に住んでいる人ほど危ない。地震が起きたらすぐに避難できるようにドアを開けて避難経路を確保したり、防災リュックや走りやすいスニーカーを玄関に置いておくなりするほうがよい。・電子機器に頼りすぎない最近はスマホの決済アプリやクレジットカードを使ってキャッシュレス決済をして現金を持ち歩かない人がいるけれど、2018年の北海道胆振東部地震で広範囲で停電が起きた時に店のレジが使えなくなって電卓で計算していて、停電になってから現金を引き出そうとしてもATMが動かなくて現金がなくて買い物ができない人がいたように、キャッシュレス決済は停電に弱いので防災用としてある程度の現金も持っておくべきである。公共交通機関が止まって帰宅できなくなってホテルに1-2泊したり食料を買ったりするのを想定したら、徒歩で帰宅できない距離まで出かけるときは2万円程度の現金は持っているほうがよいのではなかろうか。本来は停電時に自動販売機から飲み物を無償提供するはずなのに管理者が鍵を回していなくて停電時に使えなかったように、自販機を当てにしても使えないこともある。・備蓄しておく東日本大震災の後に政府が備蓄を呼びかけるようになって、最低でも3日、できれば1週間分の水と食料を備蓄することが推奨されている。局地的な地震なら橋が壊れたり土砂崩れが起きたりして孤立しても1週間もあれば自衛隊が救助に来るので、1週間分が妥当なところだと思う。備蓄は災害だけでなくてコロナに感染したりして買い物に行けないときにも有効だし、賞味期限が来たら食べて買い替えるだけなので備蓄が多くても無駄にならない。車を持っている人はトランクに多少の水や食料や防災用アルミシートを入れておくと、外出中に地震で道路が寸断されて家に帰れなかったり大雪で車が動かせなくなったりしたときでも生き延びやすくなると思う。最近は物を持たない生活をするミニマリストがいるけれど、備蓄くらいはするべきである。企業のオフィスでも帰宅できない従業員が3日くらい泊まれる程度の食料は用意しておく方がよい。・情報感度を高めるテレビでは災害が起きてから少し時間が経ってからニュースが報道されるし、ニュース番組でない時間帯はテロップを出すだけで詳しく報道しなかったりするので、テレビ頼みなのは情報源として危うい。スマホに天気予報アプリをいれて警報が出た場合に通知する設定にしたり、近くの河川のライブカメラを映している役所のサイトをブックマークしたりしておくと、早く異変に気づいて災害が起きる前に避難できるようになる。・自分が災害の発生源にならない自分が災害の発生源にならないことも大事で、例えば寝タバコによる火事や、埃がたまったコンセントからの出火や、ストーブの上に洗濯物が落ちる火事や、ガス漏れによる爆発や、てんぷらを揚げているときの火事とかは自分の行動次第で防ぐことができる。2016年の新潟県糸魚川市のラーメン店のコンロの消し忘れから出火して強風で火の粉が飛んで燃え広がって147棟が焼けたけれど、これは注意していれば防げた。シリア人の歌手のOmar SouleymanのKhayenという曲のSwick Remixバージョンは警報のギュモギュモいう感じの音を取り入れているので、この曲を聞くと楽しく防災の準備ができるかもしれない。●政治の責任本来防げたり被害を小さくできたはずの災害を防げなかった場合は人災の部分がある。ハワイの火事では80機あったサイレンが一切稼働しなかったことが避難の遅れにつながったけれど、防災当局のトップがサイレンを作動させなかったことは問題ないと発言して辞任したし、ハリケーンが来ているときに送電を続けたとして電力会社も批判されている。何割が天災で何割が人災なのかはっきりは言えないけれど、早期にサイレンを鳴らして緊急事態として送電を止めていれば被害を小さくできた可能性がある。2021年の熱海市伊豆山土石流災害では役所に盛土の危険性を忠告した土木作業員がいたにもかかわらず、役所が何年も対策しなかったせいで大雨で違法盛土が崩れて土石流が起きて28人が死亡した。これは役所が早期に適切に対処していれば防げた人災である。いくら条例があったところで権限がある役所が動かないことにはどうにもならない。新自由主義と防災は相性が悪くて、維新の会が改革と称して公立病院の予算を減らした大阪がコロナ禍で一番被害が大きかったように、小さな政府は面倒を見ないから災害が起きても自己責任で対策しろというやり方では大規模な災害に対応できないし、予算を節約して得するどころかむしろ被害を広げて損してしまう。個人で対応できない事態に対応するために国や自治体があるのだから、防災に関しては新自由主義の考え方をしてはだめである。・防災予算の使い方防災が大事とはいえ、公共事業は無駄や利権として左翼に批判されがちで、普段使わない設備に膨大な予算をかけるわけにもいかない。じゃあどうすればいいのかというと、そもそも災害が起きやすい場所に住まなければよい。市場原理だと川のそばとかの災害が起きやすい場所は地価が安くなるので人が集まりやすいけれど、その人たちの防災や救助のために膨大な予算が必要になったり保険料が上がったりして他の人の負担が増えるのでは本末転倒である。そもそも災害が起きやすい場所には住まないようにするほうが合理的だし、防災は市場原理に任せずに役所が仕切るほうがよいと思う。首長がアホだったらどうしようもないけれど、それはそういうアホな政治家を選んだ市民の責任である。それになるべく効率が良い防災対策をするにこしたことはない。ダムや護岸工事は費用こそかかるものの、いったんちゃんとしたダムや堤防を作れば数十年は水害を防げるので、川が氾濫するたびに低予算でしょぼい堤防を作り直すよりましである。江戸川や荒川の周辺はもう大勢人が住みすぎていて他の地域に移住させることもできないので、東京を首都のままにしておくつもりなら巨額の費用をかけてでもスーパー堤防で川を決壊させないようにするのはよいと思う。防災にいくら予算をかけるのが適正なのかは、災害の頻度や規模と災害が起きたときの原状回復にかかる費用を照らし合わせて決めればよいだろう。総工費2300億円の首都圏外郭放水路はちゃんと洪水対策として機能していてインフラツーリズムとしても活用されているのだから、予算額だけみて無駄と決めつけるのはよくない。地下シェルターは台風や地震や戦争のときの避難所として使えるし、役所が地震や爆撃で壊れたときの臨時指令室としても使えるし、普段は防災用品の備蓄倉庫としても使えて汎用性が高くて長期間使えるので、政令指定都市では単なる防災対策としてだけでなく戦争時の対策としても地下シェルターを充実させた方がよいと思う。ウクライナのオデーサの地下の石切り場はシェルターに改造されて、1200人が2週間生活できる設計の空間とかがあるそうな。●フィクションと災害火事、噴火、地震、台風、津波とかはフィクションのネタにもなっている。映画だと『タワーリング・インフェルノ』、『バックドラフト』、『ボルケーノ』、『イントゥ・ザ・ストーム』、『ザ・ウェイブ』、『日本沈没』とかがあるし、アニメだと『東京マグニチュード8.0』がある。パニックの様子を見どころにするだけでなく、もしこんな災害が起きたらどうなるのか、生き残るためにどうすればいいのか、というifを展開することによって防災意識を高めると言う点でもこういうフィクションは社会的意義があると思うし、隕石が衝突したりして人類が滅亡するフィクションよりもスケールが小さいからといって面白さが劣るわけではない。極限の状態で人間の価値観が浮き彫りになるところも災害系フィクションの面白さになる。自己犠牲で他人を助けようとしたり、他人を犠牲にして自分だけ助かろうとしたり、学術的研究をやろうとしたり、職務放棄して逃げ出したり、どさくさに紛れて金を盗もうとしたり、生きることをあきらめたりして、命がけの状況で本音の価値観がぶつかり合うのが見せ場になるし、登場人物がキャラ立ちしやすくなる。こないだ映画について考えたのだけれど、日本は災害が多いわりには災害をテーマにした映画が少ない気がする。災害がテーマだと不謹慎とみなしてスポンサーが集まらないとか、災害を再現する予算がないとかの理由なんだろうか。しかしあまり作られていないということはまだそこに伸びしろもあるわけで、作ったら面白いんじゃないかと思う。台風で孤立した避難所で元配偶者や元上司と一緒になって浸水していく中で食料を巡って争うとか、老人や子供を助けるか見捨てるか争うとかの展開なら低予算で緊迫した場面が作れると思う。地下シェルターに避難したら浮浪者や謎の生物が住み着いていて備蓄が食い荒らされていたというホラーも面白いかもしれない。
2023.08.25
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私は普段はドラマは見ないのだけれど、『VIVANT』は1話1億円の予算をかけた割につまらないと話題だったので、TVerの見逃し配信で1話と2話を見てみたらやはりつまらなかった。普段ドラマを見ない私があれこれ言うのはおこがましいとは自覚しているものの、私のようなドラマを見ない人が興味を持たないようでは視聴率は上がらないと思うので、なぜつまらないのか考えることにした。*5話まで見たので追記。●『VIVANT』のあらすじVIVANTとは一体…?敵か味方か、味方か敵か――遂に、冒険が始まるあらすじを調べようと思って公式ページを見ても1話目のあらすじがこれしか載ってなくて制作側に視聴者の興味を引く気がまったくなくて、こりゃだめだと思った。宣伝しないで話題作りする作戦だったらしいけれど、もう放送したんだからあらすじくらい載せればいいのに。1話目のあらすじは丸菱商事で1億ドル(TVerのあらすじには130億円と書いてあるけれどドラマ内だと140億円と言っている)が中央アジアの国に不正送金されたので堺雅人が金を取り返すために調査に行って砂漠を散歩して送金相手のおっさんにVIVANTがどうのこうのと言われて現地の警察に追われて阿部寛に助けてもらって大使館に逃げる話で、それから日本に戻って不正送金した社員を探す展開になる。●つまらなかったポイント・主人公っぽさがないそもそも会社が130億円を回収したいなら横領した疑いがある主人公に金を回収させようとしないで優秀な人を集めて調査チームを作るなりすればいいのにぱっとしない主人公が一人でうろうろ行動していてやる気が見えないし、主人公に有能さが感じられなくて視聴者を引き付ける魅力がないし、自発的に行動する主人公の物語を描いているというよりも事件に巻き込まれた脇役が驚いて右往左往している様子を延々と見せられているようで、主人公が物語をけん引する原動力になっていない。阿部寛が行動を仕切っていて、堺雅人は主人公なのに阿部寛に従うだけになっている。4話の終盤からようやく堺雅人がオラオラ系になって独自に動き始めるけれど、展開が遅い。・登場人物同士の化学反応が起きないドラマだと登場人物同士が反発したり協力したりする掛け合いが面白い部分で、『今日から俺は!!』とかが典型的で、性格が違う三橋と伊藤が意見の不一致で喧嘩しても最終的には協力して友情を深めるという展開でそれなりに面白いエピソードになる。しかし『VIVANT』では堺雅人は堺雅人のままで、阿部寛とドラムはお助けキャラのままで、敵の警察官は敵のままで、登場人物同士の距離感があまり変わらないので掛け合いの面白さがない。5話になって警察官が阿部寛と組んだけれど、変化が起きるのが遅い。・演出が古臭い警察に追われて逃げる時に車がぶつかるシーンを別のアングルからリプレイするのは昭和の感性で、金をかけたんだよと主張しているようでダサい。ベストショットを1回映せば十分である。そこは物語では重要な部分でないので強調する意味がないし、アクションを映したいなら物でなく人を映さないと面白くないので、ドラマとしての勘所を外している。ハリウッド映画でもっと派手にカーチェイスして車が崖から飛んだり衝突して何回転もしてひっくり返ったりするシーンを見慣れているし、車が何台かゴチゴチぶつかった程度では面白いとは思わない。何の工夫もなしにただ無人の車を壊しただけでは既視感がある劣化版にしかなっていないので中途半端にお金をかけても無駄で、やるなら何か新しいことをやらないと見せ場にならない。テレビマンの感覚が世間の感覚からずれている部分は誰かがダメだししないと直らないと思う。冒頭の砂漠を歩くシーンから時間をさかのぼってもう1回同じシーンを繰り返すのも冗長で、普通に時系列順に話を展開するほうがわかりやすい。・鬼ごっこが長い1話目の後半はずっと警察から逃げているばかりで飽きる。無実の人が警察官から逃げる展開はハリソン・フォード主演の『逃亡者』とかで既にやっているのでなんとなく既視感があるし、鬼ごっこを見たいわけではないのでさっさと話を進めてほしい。・字幕を見るのがしんどい『VIVANT』は外国でのロケが見どころのようで砂漠がきれいで動物がたくさん出てくるのは良いけれど、その一方で登場人物が外国人だらけでセリフも外国語なのは物語の展開がわかりにくくなる。それに字幕を読んでいると画面の下の方に目線が行くので映像が印象に残らなくなる。・VIVANTが何なのかわからないVIVANTが何を意味するのかを探るだけで最初の2話を使ったけれど、VIVANTが別班を意味するらしいとわかったところで、別班って何なのさと別の疑問がでてきてしまって視聴者の疑問を解消していない。そもそも私はVIVANTが何だろうが130億円がどうなろうが別班が何をしようが所詮は他人事なのでどうでもいいし、その他人事に興味を持たせるような工夫がない。それに別班だのなんだのと話を大げさにしたせいでかえって登場人物の感情の掘り下げが雑になって登場人物たちに共感できなくなってしまった。1話ごとにエピソードが完結するドラマに比べたらやたらと長い前置きを見せられたような感じでカタルシスがなくて、派手な展開な割には続きを見たいと思うようなヒキがない。・のびしろがなさそうたいていのドラマは視聴者を掴むために1話目に気合を入れて個性豊かな仲間たちを登場させたり主人公の邪魔をする障害を用意したりして盛り上げようとする。黒人が裏切ったと思ったら裏切ってなかったり、警察に追われたけれど逃げ切ったりして、一通り盛り上がる展開をやったのに微妙だったら続きを見てもこれ以上面白くならなそうな予感がしてしまう。130億円を取り戻したところでマイナスがゼロになるだけでプラスになる部分がないのでどうでもいいし、2時間の映画ならまだ見れるけれどドラマで何時間もこの展開の続きを見たいという気が起きない。2話目の子供を助ける展開が不正送金とあまり関係なくて脱線気味で地味で冗長で、私はそこで飽きて脱落してしまった。もっとサクサク展開していたら視聴率が上がったかもしれない。●面白かったところもあるよ1話でヤギの大群をズンドコ追い立てて警察をブロックしたり、3話で軍隊が出てきてズンドコ大砲を撃ったりするあたりは日本のドラマや映画で見たことがないズンドコぶりでよかった。しかし日本に戻ったら一転して地味になって普通の刑事ドラマっぽくなってしまって「冒険」風味が薄れて、テイストにむらがあって魅せ方を詰め切れていない感じでもったいない。ハッカーがテロ組織の陰謀を捜査する話は『BLOODY MONDAY』で既にやっているし、そっちに寄ったら外国を舞台にする必然性が乏しくなる。●1話1億円使えるならどんなドラマを作れるのか映画の『CUBE』が1億円以下の予算で作れたのだから1億円の予算があったらやりたいことはたいていできそうだけれど、どんなドラマが作れるのか頭の体操として考えてみることにする。『美蛮島』別班の陰謀で130億円が不正送金されて犯人グループがいる東南アジアの島に調査に行ったら全裸の殺人鬼が跋扈する危ない島だったので全裸で丸太を振り回して戦うのだった。お金をかけて俳優を脱がせて毎回俳優のヌードシーンがあるのが見どころ。『ビバ番頭』江戸時代の商家の丁稚から出世して番頭になってようやく金を自由に使えるようになったので遊び惚けてしまって別藩の陰謀に巻き込まれるのだった。お金をかけて江戸時代の豪奢な遊びを再現するのが見どころ。『BIGBANG逃亡』別班の陰謀でBIGBANGが130億円を不正送金した容疑で指名手配されたので、ファンたちが協力して逃亡を手助けするのだった。お金をかけて韓流アイドルを起用するところが見どころ。『パパン』離婚した男が130億円を横領して子供との面会日に大金を使って有名人を呼んでサプライズして子供の気を引こうとしたら別嬪の陰謀に巻き込まれるのだった。お金をかけて毎回豪華なゲスト(大谷翔平や小室圭やイーロン・マスクとかのドラマに出なさそうな人)を呼んで恥ずかしいセリフを言わせたり無茶ぶりでアドリブをさせたりするのが見どころ。『ブブン』暴走族たちが全国制覇するために全日本コール選手権で優勝することを目指すのだった。お金をかけて様々な単車を何十台も揃えて毎回違うコールが聴けるのが見どころ。『アカン』ネタ切れしたディレクターがディズニー映画のパロディーをしたら膨大な著作権使用料を請求されてしまうのだった。お金をかけてディズニーに喧嘩を売るのが見どころ。私がドラマを作った方が『VIVANT』よりも面白くなる可能性がなくもないので、誰か私にうっかり130億円を送金するとよいよ。
2023.08.13
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最近は年間500万円の授業料を取る港区のインターナショナルスクールが家賃不払いの強制執行で閉鎖されて、授業料の返還もされていないのが話題になっている。そこでは幼児に英語と中国語の英才教育をするのが売りだったそうで、100人の児童がいたそうな。在日外国人で日本に仕事のために家族と滞在していて永住する気がない人が子供を一時的にインターナショナルスクールに預けるならまだわかるけれど、両親が日本語を話す日本人の幼児に英語の早期教育をする必要があるのか疑問である。というわけで語学学習について考えることにした。●語学学習の必要性最近はAIの機械翻訳の精度がかなり向上して、西武新宿駅で翻訳対応透明ディスプレイが使われたり、ポケトークとかの小型の翻訳ツールも市販されたりして、日常会話程度なら機械翻訳でも意思疎通できるレベルになっているけれど、それでも英語を学びたいと言う需要は大きいようで、学んでおけばよかったこととかのアンケートだと英語が上位に来ることが多い。中学から大学まで英語の授業があると思うのだけれど、学校での教え方が悪いのか英語ができない人がまだ多いようである。日本人が外国人と商談をするには英語が必要になるし、日本で働く外国人は建前上は日本語ができることになっているけれど実際は日本語を理解していない場合があるので十分にコミュニケーションをとるためにも英語が必要になる。●語学学習のタイミング語学学習の必要性があるにしても、学習のタイミングを間違うと効果的でない。母語を理解していない子供の頃に複数の言語を教えようとすると、どの言語も中途半端になるセミリンガル(ダブルリミテッド)の状態になってかえって言語能力が落ちる可能性がある。例えば日本人の親の転勤に付き合って幼児の頃に短期間外国で暮らして外国語を覚えかけたころに日本に戻った子供は言語能力が伸びなくなって学校で日本語の授業についていけなくなったりする。あるいは頑張って母語を英語にしたとしても外国に移住せずに日本で暮らし続けるつもりなら結局日本語も覚えないといけないし、日本語が不十分なままだと将来病気になった時に英語対応の病院や介護施設を見つけるのが難しくなるので、日本人として日本で暮らすつもりなら日本語を母語にするほうがよい。言語能力は中学生でピークになってそれ以上は成長しないそうなので、小学校で常用漢字を覚えて母語で十分に思考ができるようになってから語学学習に取り組むのがよいと思う。●語学学習の費用単語やイディオム程度ならネットで独学で学べるけれど、教科書なしで外国語の文法を理解するのは難しいし、ちゃんとした辞書がないとスペルや意味を間違って覚えかねないので、教科書や辞書の費用で数千円程度はかかる。中古の教科書や安いペーパーバックを買ったりすると多少節約できる。語学学習はある程度継続しないと忘れてしまうので、英会話教室に通ったり個人教師を雇ったりして外国語を使わざるを得ない環境に身を置くのもよい。だいたい月に数回のレッスンで1-3万円程度なので、継続しやすい値段になっている。外国への語学留学は国や滞在期間によって費用が違って最低でも数十万円かかるけれど、勉強に集中できるという点では効果は高い。しかし高い費用をかければ効果が高いと誤解してはいけなくて、学費数百万のインターナショナルスクールに通ったところで他の語学学校よりも優れているとは限らない。ある程度外国語を覚えたらlanguage exchangeで外国語を学びたい人同士がお互いに言葉を教えあえばネイティブの言葉を無料で学習できるけれど、相手がプロの講師ではないので当たり外れがあるデメリットがある。●語学学習のメリット・ソースの増加大学生レベルの英語が読めたり聞けたりするようになると世界中のソースにアクセスできるようになって、使えるソースが大幅に増える。例えばProject Gutenbergで著作権が切れた英語の本が無料で読めたり、YouTubeでアメリカの大学の講義やシンポジウムを見れたり、世界各国の英語版ニュースサイトで日本で報道されていない事件を知ったりできる。私はYouTubeの大学の講義の動画を暇なときに見ているけれど、文系の分野はYaleCourses、理系の分野はMIT OpenCourseWareが講義が充実していておすすめである。YaleCoursesにはIntorduction to Theory of Literature with Paul H. Fryという文学理論の講義の動画があるので、アメリカの大学で文学理論をどう教えているのか知りたい人は見てみるとよい。・仕事の選択肢の増加外国語は覚えるのに時間がかかるけれど、そのぶん替えがききにくい人材になるので仕事の選択肢が増える。日本で働く場合は二か国語でネイティブレベルの語学力があると通訳や翻訳の仕事ができるし、ビジネスレベルの英語ができれば海外営業や貿易事務やインバウンド関連の接客業とかができるし、歴史や旅行が好きな人は通訳案内士というガイドの仕事があるし、運転が好きな人は外国人観光客向けの公認英会話ドライバーになれるし、クリエイターなら日本語圏よりもマーケットが大きい英語圏に進出できるし、弁護士が外国の弁護士資格をとれば国際弁護士として世界展開する大企業の顧問やM&Aとかの高額報酬の案件に絡むことができる。何かの専門職の人が外国語ができれば外国で働く選択肢も出てくる。刃物を扱う仕事は就職に強いと言われるように、民族料理とかの料理人は就労ビザが許可されやすくて寿司職人は外国で求人が多い。アメリカに行った日本人女性が長髪になるのはアメリカの美容師の腕が悪くて日本人の髪質を理解していなくて注文通りに仕上げられないせいだそうだけれど、不満があるところにはビジネスチャンスがあるので日本人の美容師が英語を覚えてアメリカで起業すれば在米日本人客を取り込めるだろう。英語が話せる看護師は世界中で需要があって、CNAのニュースを見ていたらシンガポールは人口が高齢化して外国人の看護師を募集しているそうで、インド人の看護師の応募が増えていて外国人看護師全体の2/3の4000人が年末までに雇用される見込みだそうな。シンガポールの看護師の収入を調べてみたら、勤続2年以下の新人の平均月収が3350シンガポールドル(1シンガポールドルを105円として換算すると35万円程度)、勤続20年のマネージャークラスになると8940シンガポールドル(94万円程度)だそうな。シンガポールが外国人看護師を大量に採用している一方で、日本で看護師を目指すフィリピン人の面接会を7月にやったら応募者がたった17人で過去最少だったそうで、日本で外国人看護師が働こうとすると日本語が必須なうえに雇用主が外国人を見下して代わりはいくらでもいると低賃金で長時間労働をさせて労働環境も劣るのでは高度技能を持った外国人の採用競争に敗れるのも当然と言える。もし円安が進んだら外国人が採用できなくなるだけでなくて英語ができる日本人も外国に出稼ぎに行くようになって国内の生産力が落ちて日本の衰退に拍車がかかるだろう。・言語能力の増加文法が全く違う言語を覚えようとすると、必然的に文章のどこに形容詞や副詞を入れるべきかという文章構成を意識するようになる。外国語の学習が母語の文章力を高めることにもなるので、小説家とかの文章を書く仕事の人は外国語を学ぶほうがよい。ミラン・クンデラがチェコからフランスに亡命してフランス語で小説を書いたり、アゴタ・クリストフがハンガリーからスイスに移住してハンガリー語で詩を書いても出版されなくて現地で売れるためにフランス語で『悪童日記』を書いたように、母語でない言語で小説を書いて成功した作家もいる。・異文化を理解するサピア=ウォーフの仮説(言語的相対論)という言語によって思考が影響を受けるという仮説がある。例えば雪が多い地域だと雹や霰や霙や粉雪やぼた雪みたいに雪の状態を表す言葉がいろいろあるけれど、雪が降らない地域ではその概念を表す言葉がないので雪国の人ほど雪について思考ができないかもしれない。サンスクリット語や古代ギリシャ語には能動態(する)、受動態(される)の他に中動態があって、動作主が道具や他人を洗ってやる場合は能動態で、動作主が自分の手足を洗う場合は中動態だそうで、こういう物事の認識の違いもその外国語を覚えないと理解しにくい。フランス語やイタリア語やスペイン語には男性名詞と女性名詞があるけれど、例えばフランス語の女性名詞を多用したフェミニンな詩をそのまま日本語に翻訳してもニュアンスは失われてしまうので、外国語の詩を理解しようと思ったらなるべく原書を読む必要がある。ナショナルジオグラフィック6月号のウクライナ特集で、「ウクライナ語はカッコ悪い方言だと思っていた」という大学生が戦争を機にウクライナ的なものへの関心が高まったと言っていたけれど、ロシアによる非ウクライナ化で失われなかったウクライナ的なものを外国人が理解するにはロシア語でなくウクライナ語を学ぶ必要がある。異文化を理解することで母国の文化を相対化して違いに気づくようになるので、母国についてより深く知ることにもつながる。・他の言語を学習しやすくなるマイナーな言語で日本語版の辞書がない場合でも英語版の辞書があることが多いので、英語を覚えれば他の言語も覚えやすくなる。私は外国の音楽をいろいろ聞いていて歌詞の意味を調べているうちにいろいろな外国語をちょっとずつ覚えたのだけれど、そうすると各言語のつながりも見えてくる。「いいえ」は英語だとnoで、フランス語やイタリア語はnonで、ポーランド語はnieで、ロシア語はnietで、「水」は英語だとwaterで、ポーランド語だとwodaで、ロシア語だとvodaで、「座れ」は英語だとsit downで、ポーランド語だとsiadajで、「自由」は英語だとlibertyで、イタリア語とルーマニア語だとlibertataで、「父」は英語だとpapaで、スワヒリ語とトルコ語ではbabaで、「はい」は英語だとyesで、ズールー語だとyeboで、「私」はフランス語だとjeで、クロアチア語だとjaで、各言語がどこか似ているところがある。単語や文法は違う部分が多いけれど、日本人が外国語を学ぶときはいったん英語を覚えてから他の外国語を覚えると類似点もあるのでゼロから覚えるよりは覚えやすいと思う。シュリーマンが自伝で18か国語を話せたというのは話を盛られているようだけれど、日常会話レベルなら数か国語を覚えるのは可能なので、暇な人は他の言語も覚えるとよいと思う。
2023.08.07
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面白かった本や興味深い本を教えてほしいと言うリクエストがあったので、それについて書くことにした。●面白さとは何か作品やコンテンツの面白さとは何かという記事に詳細は書いたけれど、面白さとは刺激である。技術の良し悪しはある程度客観的に判断できるけれど、面白さとは主観的なものなので、私にとって面白かった本が他の人にとって面白いとは限らないし、私にとってつまらなかったからといって他の人にとってつまらないとは限らない。下手ななろう小説だって面白いと思う人がいるから商品として売られているし、たいていの本には誰かにとっての何かしらの面白さがある。それに読む順番や年齢によっても面白さの感じ方が変わってくる。例えば似たような内容の二冊の本があった場合は先に読んだほうが新しい刺激があって面白くて、後に読んだ本は既視感があってそのぶん刺激が少なくてつまらなく感じる。無知な若い頃に読んだ本と大人になって審美眼が身についてから読んだ本では感じ方が違ってくるもので、高校生の時に読んだ赤川次郎のミステリはそれなりに面白かったけれど、大人になって他の本格推理小説を読んだ後では推理が物足りなくてあまり面白く感じなくなる。それに私はある程度思想ができあがって小説の技術にも海原雄山なみに厳しくなって面白さにも耐性がついてしまって、感動するほどの本にはほとんど出会わなくなった。なのでこの記事ではあくまで私にとって面白かった本について書くけれど、それが必ずしも他人にお勧めというわけではない。●私にとって面白かった小説以外の本ソシュールの『一般言語学講義』とフッサールの『現象学の理念』は大学生のときに読んだけれど、受験勉強で暗記することに慣れて本に書かれたことを鵜呑みにすることで賢くなると思っていた田舎者の私が現象学的にエポケーしてそれまで学んだ知識をいったん脇に置いて自分で物事を考えて理解しようとするきっかけになったと言う点では私にとっては一番影響が大きくて面白かった本である。他の学部に行っていたらたぶん読まなかっただろうし、この2冊の本に出合っただけでも文学部に行ってよかったと思える。構造主義的に要素を分析する無神論実存主義の考え方が私の思考の基礎になっていて、倫理面では小乗仏教と孔子の『論語』に影響を受けているので、論語に影響を受けた渋沢栄一の『論語と算盤』や青空文庫にある和辻哲郎のエッセイも面白く感じる。和辻哲郎は「創作の心理について」で「ほんとうに生きようとしていないノンキな似而非芸術家が創作をやっている。それを「ほんとうに生き」たくない読者が喜んで読む。」「偉大な表現はただ偉大な内生あって初めて可能になるのである。何を創作したいという事よりも、まずいかに生きたいという欲望が起こらなくてはならない。」と言っているけれど、私も同じスタンスで、自分の人生を生きない限り独自の表現はあり得ないと思っている。本当に生きようとしている人が芸術を鑑賞すれば、技術が乏しくても何かの表現をしようとしている本物の芸術と、技術があっても表現をしようとしていない偽物の見分けがつくだろう。サリンジャーの真似をして感受性が高いティーンエージャーのおしゃれな小説を書けば評価されると考えてうわべの真似に終始して自分の人生を生きようとしていないような人が典型的な似而非芸術家と言えるし、そういう人はインフルエンサーに憧れる凡人みたいに他人の人生に憧れているだけじゃなかろうか。Tu vuo fa l'americanoのという1956年のイタリアのジャズの曲があってナポリ人のくせにママのカバンの金で野球やってキャメル吸ってアメリカ人ぶってやんのと第二次世界大戦後のイタリアのアメリカ化を揶揄しているけれど、戦後の日本のアメリカ化やK-POPを見て韓国人になりたがる現代の若者も似たようなもんで、中身が空っぽな人たちは自分の国で自分の時代を生きないで他の何かになりたがる。このブログで感想を書いた本の中ではジム・ドワイヤーの『9・11生死を分けた102分』や吉村昭の『関東大震災』が面白くて、実在の事件や事故を掘り下げると下手なフィクションよりも人の生死の迫力があるし、失敗から何かしらの教訓を得られるところがあって有意義である。『関東大震災』では関西での地震を警告する地震学者が取り上げられているけれど、関西では大きな地震は起きないという正常性バイアスがかかった俗説で安心せずにちゃんと地震を警戒して対策していたら阪神・淡路大震災の被害はもっと少なくできただろう。歴史を忘れたり歪曲したりして過去の失敗から教訓を得られなくなると悲劇は繰り返されるもので、だからこそ我々は歴史的事実と科学的真理には謙虚に向き合わなければならないし、見たいものだけ見ようとしてバイアスをかけて物事を見てはいけない。何が起きたのかという出来事のうわべだけ見ずに、なぜ起きたのか、どうすれば防げたのかという視点も持つべきで、災害の当事者でないからこそ冷静に物事を観察して分析するべきである。バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』は歴史上のへんてこな哲学者たちが面白かった。このブログに感想を書いていない本では、図鑑や事典は私が知らない知識を得られると言う点で面白い。暇だけど特に読みたい本がない場合は図鑑や事典をぱらぱら読むだけで暇つぶしになるし、庭に生えているイノコヅチやクロジクカリヤスやアジアンタムとかの草の名前を知るだけでも世界を知った気分になれる。あと歴史については知らないことだらけなので、歴史に関する本は何か1冊面白い本があるというよりはどれも少しずつ何かしら面白いところがある。山川出版社の日本史図録や世界史図録はたまに読み返したりする。こういう博物学や歴史の知識はすぐに役に立つ知識というわけでもないけれど、脳にちまちま新しい情報を入れておけば脳が活性化してアイデアが出やすくなる気がする。あと会社四季報でどういう会社がどういう仕事をしているのかを見るのも面白い。●私にとって面白かった小説最近はノーベル文学賞が迷走しているけれど、ノーベル文学賞を受賞した作家の小説にはけっこういい作品が多くて外国文学が好きな人は読んでも損はなくて、パール・バックの『大地』は3世代を書くスケールがよいし、ヘミングウェイの『老人と海』と『武器よさらば』と『誰がために鐘は鳴る』はハードボイルドがよいし、スタインベックの『怒りの葡萄』はアメリカの大恐慌の様子がわかってよいし、フォークナーの『響きと怒り』は白痴のベンジーの意識の流れとかの手法が独特で大江健三郎やトニ・モリソンに影響を与えた重要な作品だし、ラーゲルクヴィストの『巫女』は宗教的情熱を掘り下げていてよいし、カミュの『異邦人』と『ペスト』は不条理に反抗するカミュらしさがよいし、ゴールディングの『蠅の王』は『十五少年漂流記』を先に読んでから読むとパロディとして面白いし、ナギーブ・マフフーズの『渡り鳥と秋』はエジプト革命の官僚の苦悩がよいし、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』や『予告された殺人の記録』はマジックリアリズムがよいし、トニ・モリスンの『青い目が欲しい』や『ビラヴド』はアメリカで黒人であることの苦難が描かれていてよいし、ジョゼ・サラマーゴの『白の闇』は目が見えなくなる病気が伝染するという特殊な状況が面白いし、カズオ・イシグロの『日の名残り』はイギリスらしいコテコテの執事っぽさが面白かった。技術的に上手かったりストーリーが面白かったりするだけでなくて、苦難に焦点を当てる人道主義的な作家の思想や人間観が出ているのがよい。他の外国文学はフローベールの『ボヴァリー夫人』はリアリズムがよいし、トルストイの『戦争と平和』と『アンナ・カレーニナ』はポリフォニー的な人物の対話がよいし、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』は男女のすれ違いから始まる恋が面白いし、サッカレーの『虚栄の市』も男女4人の恋模様が面白いし、アフラ・ベインの『オルノーコ』は奴隷の物語が中世ならではでよいし、モーパッサンの『脂肪の塊』は脂肪の塊がかわいそうでよいし、シャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』はイギリス的な食事の貧しさがよいし、バーネットの『小公女』と『秘密の花園』は少女趣味的なのがよいし、ジャック・ロンドンの『野生の呼び声』は犬がかわいそうでよいし、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』と『不滅』は構成がよいし、イタロ・カルヴィーノの『木登り男爵』はへんてこで面白いし、タブッキの『インド夜想曲』は幻想的でよいし、ブッツァーティの『タタール人の砂漠』は戦争が起きそうでおきないという着眼点が面白かった。SFはあまり読んでいないけれど、ブラッドベリの『華氏451度』やH・G・ウェルズの『宇宙戦争』はSFらしさを楽しめた。他にも読みたい本はいろいろあるけれど、外国文学の翻訳は単行本が4000円くらいして高かったり絶版になっていたりして、文庫になっていない本は貧乏人にはなかなか買えない。日本の純文学は文学理論を理解していない下手な作家や思想がない作家が多くて外国文学に比べたらつまらなく感じる。戦争を経験した作家は生死に向き合っていて思想があるぶんましで、フランス文学を研究した大岡正平の『俘虜記』や『野火』は単に戦争をテーマにしたのでなくしっかりした文章で小説として仕上げていてよい。現代作家では辻原登は純文学だけでなく時代小説も書いて作風の幅が広くて、『許されざる者』は純文学の技法を駆使したエンタメとして面白かった。私は本格ミステリも好きで、我孫子武丸の『殺戮にいたる病』は叙述トリックのどんでん返しを楽しめたし、綾辻行人の『殺人鬼』は単にグロいスプラッターホラーではなくて叙述トリックを楽しめた。●私にとって面白かった漫画このブログでは漫画はレビューしていないけれど、本というくくりなのでせっかくなので漫画についても書くことにする。漫画がアニメやドラマや映画の原作にもなっていて日本のエンタメの中核といえるし、大手週刊誌に連載しているような漫画は漫画界のトップの作品ということもあってどれもエンタメとしては標準的な小説以上に面白いのだけれど、商業作品なので売り上げを優先して編集者が口出しして作者の思想が見えなかったり、締め切りに追われて絵が雑になったり、連載を引き伸ばしてプロットがぐだぐだになったりするので、小説の名作よりは物足りない。私はゆうきまさみの『機動警察パトレイバー』や『じゃじゃ馬グルーミン☆UP!』が気に入っていて、これらは親子関係や恋愛関係とかに悩みを抱える平凡な青年たちが周囲と衝突しつつも大人に見守られながら成長していく様子が良い。教養小説の漫画版みたいな良さと漫画ならではのどたばたしたコミカルな展開の娯楽としての面白さがあって、私はこういう平凡な人間が成長していく奮闘記が好きである。ロボットに乗ったからといって世界を救わないといけないわけではないし、ロボットを使って近所の事件を解決していくスライス・オブ・ライフでも面白い物語になる点はセカイ系のフィクションは見習うべきだろう。物語の主役は人間でロボットは主役を引き立てるガジェットに過ぎないけれど、それを勘違いしてかっこいいロボットに焦点を当てて人間をないがしろにすると子供だましのつまらない物語になる。『花の慶次 -雲のかなたに-』は巨根の大男が巨大な馬に乗って巨大な槍で戦う話だけれど、単に強い主人公が無双するご都合主義の話でなくて戦国時代の情を描いていて傾奇者の喧嘩の仕方に外連味があるのがよい。作画は『北斗の拳』と同じ原哲夫だけれど、『北斗の拳』よりも人間味があって好きである。『サンクチュアリ』は暴力団が政治を変えようとするハードボイルドな話で、池上遼一の作画のキリっとした感じがはまっているッ。『勇午』は交渉人が拷問されながらめげずに問題を解決しようとするハードボイルドな展開がよい。硬派な日本男児がいなくなって軟弱な男だらけになった現代でハードボイルド成分を補充したくなったときには命がけで目的を達成しようとする硬派な漢の漫画を読みたくなる。医療系フィクションは個人で創作する小説よりも出版社が取材をバックアップして監修がついている漫画のほうが出来がよい。『フラジャイル 病理医岸京一郎の所見』は脆弱な医療を何とかしようとする医師の奮闘を描いていてよい。我々はたいてい患者側として医療を受けるけれど、医師も人間なので診断を間違えて悩むこともあるということを理解するべきだし、自分以外の病気の人への共感や同情を持てるという点で医療系フィクションはよいものである。『ブラックジャック』や『スーパードクターK』は漫画らしく凄腕医師が活躍する話で、凄腕医師を中心にすると物語は作りやすくなるし娯楽としてはそれでよいけれど人間離れしすぎてそのぶんリアリティがなくなる。小説は物語を展開するのには向いていても具体的な映像を見せることはできないけれど、漫画だとそれができることが小説にはない面白さになる。美大を受験する漫画の『ブルーピリオド』は実在する作品を引用しながら芸術家を目指す青年たちの悩みを描いていてよい。
2023.07.31
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映画について意見を聞きたいというリクエストがあったので映画について考えることにした。ちなみに私は映画が好きなわけでもないし、一度も映画館で映画を見たことがなくてたいてい金曜ロードショーやインターネットで無料で見れる映画を暇つぶしに見てきた程度の素人なので、映画に詳しい人は私の意見を真に受けなくてよい。●映画の魅力映画は建築、絵画、彫刻、音楽、舞踏、文学に続く第7番目の新しい芸術として第7芸術と呼ばれることもあるように、芸術では比較的新しいジャンルである。私は戯曲はあまり読んでいないのだけれど文学部だったので映画も多少は勉強して、映画の最初期のリュミエール兄弟の映画やモノクロ映画のジョン・フォードの『周遊する蒸気船』や山中貞夫の『丹下左膳余話 百萬両の壺』やゴダールの『勝手にしやがれ』や戦後の邦画の小津安二郎の『東京物語』や石原裕次郎主演の『嵐を呼ぶ男』とかも見たのだけれど、昔の映画は新しい芸術で何を表現しようか、どんな映像を見せようかという試行錯誤とワクワク感に満ちていた。女優に気品とでもいうような独特の色気があって、例えば『ローマの休日』は王女がローマを観光するだけでシナリオ自体はたいしたものでもないけれどオードリーのかわいさだけで物語を成り立たせていて、そういう作品の作り方も初期の映画ならではでよいと思う。ジャッキー・チェンの初期の映画は体を張って高い所から落ちるスタントが見どころで、シナリオ自体は拳法の師匠がやられたから報復するとか警察が悪党を捕まえるとかのたいしたものではないけれど映画ならではの画面の躍動感があった。シュワルツェネッガー主演の映画もマッチョがわちゃわちゃするだけで賑やかな見せ場になった。『ゴジラ』や『エイリアン』や『ジョーズ』や『13日の金曜日』や『ドーン・オブ・ザ・デッド』は人を襲う怪物の恐怖を描いたという点ではワクワクするもので、シリーズ化したらマンネリになって面白くなくなったけれど初期作のアイデア自体はよいものだった。文革後の1980年代の中国映画は現代の映画ほどストーリーがエンタメ化していなくて、『黄色い大地』は中国の文化を表現していてよい。20世紀の映画は画質が荒くてセットが安っぽくて完成度は低くても、ここでないどこかの世界の今まで見たことがない新しいものや珍しいものやすごいものが見れるという期待があった。●映画の制約映画は総合芸術で何でもできそうな気がするけれど、実際はいろいろな制約がある。まずは時間的制約があって、映画はたいてい2時間程度で、それよりも長い大作もあるけれど長すぎるとずっと見ているのがしんどくなる。クラシック音楽やオペラも3時間を超える長いものはたいてい不評である。小説や漫画は延々と連載を続けることができるし、読者は好きなところで中断して好きな時に続きを読んだり前のエピソードを読み返したりできるけれど、映画や演劇はいったん場面を中断させるとそれまで積み上げてきた場面の緊張感が消えてしまって面白くなくなるので初めから終わりまで一気に鑑賞する必要がある。休憩せずに見れる長さとして90分から120分が妥当なところで、そうなるとシナリオも時間の制限を受けてちょうどいい物語の長さに収めるのが難しくなって、本来は尺がない物語を引き伸ばして中身がスカスカになったり、重厚な物語をむりやりまとめようとして展開にゆとりがなかったりする。さらには金銭的制約がある。舞台なら照明を暗転して背景の絵を描いた板をスライドするだけで簡単に場面転換ができるけれど、映画の場合はすべての場面のセットを用意しないといけない。学校や病院が舞台なら撮影専用のセットがあるけれど、実在の神社や駅とかを舞台にするときは撮影時にエキストラを配置したり一般人が映らないように排除したりする手間もかかる。大勢の役者やスタッフを長期間拘束するので人件費もかかる。映画はスポンサーがつくとはいえ撮影に取り掛かってから上映して売上を回収できるまでのキャッシュコンバージョンサイクルが長いので、そのぶん資金繰りも苦しくなる。映画会社の肝いりの膨大な予算をかけた映画でさえ大コケしたりするし、売れるかどうかわからない作品のためにあまり予算をかけるわけにもいかなくなって、俳優やシナリオやセットや演出がしょぼくなったりする。●日本映画はダメだと思う映画をほとんど見てないくせに批判するなという邦画ファンの意見があるのを知ったうえで批判するけれど、演技の良し悪しや撮影手法の良し悪しがわからない素人の私でもストーリーの良し悪しはわかるし、私が見た限りの作品で言えば最近の邦画はダメな映画が多いと思う。・予算がないハリウッド映画はセットやCGに予算をかけられるので派手なアクションや爆発やビルの倒壊とかの「これどうやって撮影しているんだろう」的な映画ならでは絵作りの面白さがある。トム・クルーズが『ミッション:インポッシブル デッドレコニング PART ONE』で1年間トレーニングして1万3千回バイクでジャンプして十分訓練してからバイクで崖から落ちるシーンを撮影したそうだけれど、邦画だと予算の都合で俳優のスケジュールを抑えられないので同じ事はできないだろう。日本ではろくにCGを作れない実写映画に代わって低予算でシナリオや絵作りの自由度が高いアニメが台頭して、宮崎駿や押井守や大友克洋とかは外国でも人気の監督になった。これが何を意味するかというと、日本人の映画監督の能力がないわけではなくて予算がなくてやりたいことが十分にやれていないのだろう。『名探偵コナン』の映画は毎回ヒットするけれど、『マトリックス』が『AKIRA』の演出をインスパイアしたように実写で同じことをやれといわれても予算の都合でビルを爆破したりできないだろうし、CGでやろうとしてもチープで違和感があるものになるだろう。子供向けの戦隊ヒーローものならチープな爆発でもいいけれど、大人向けの実写映画だと粗が目立つのは面白くない。・シナリオがだめなぜSF映画がつまらなくなるのか考えるという記事でも考えたけれど、シナリオにもっと手を加えたら面白くなるのに、なんでその程度のことさえやらないでわざわざつまらない作品を作ってリリースするのか疑問に思う。ハリウッド映画だと冒頭で客を引き付ける工夫をするけれど、邦画だと冒頭を見ても何の話をやりたいのかわからなくて、私は続きを見ても時間の無駄だなと思って途中で見るのをやめることが多い。しばしば小説家や漫画家は映画の原作にしてやるからありがたく思えという高圧的な態度で交渉されたとか原作の料金が少ないとか愚痴をいっているけれど、映画会社は独力で物語を作れないくせに原作者やシナリオライターを軽視して金を払わない姿勢はだめである。そのうえに原作をよく知らない監督がオリジナル展開をやろうとして原作の設定を無視して原作ファンにも嫌われたりして、何をしたいのかよくわからない。・地味で暗くて華がない邦画は暗い台所でぼそぼそ会話して食器をカチャカチャしていると揶揄されているけれど、そういう映画を見てもワクワクする楽しい気分にならない。ジャッキー・チェンの映画なら食卓と言えば喧嘩が勃発してテーブルに飛び乗って椅子を武器にしてわちゃわちゃ戦って賑やかだし、『羊たちの沈黙』では食卓はサイコパスが人肉をおいしそうに食べる場面が見どころになるし、ジブリ映画はいかにもおいしそうに料理を食べて登場人物はお腹がすいて食事をしてうんこもしてちゃんと生きている存在なのだと強調してそれが人物に精彩を与えている。何も起きないはずのところで何かが起きて予定調和を崩すギャップが面白いのに、退屈な食事の場面を退屈なまま描いたらだめである。『AWAKE』は将棋で挫折してプロをあきらめた青年が将棋ソフトを開発してライバルと対決する映画で、ストーリーは良いと思うけれど暗い部屋でパソコンをカタカタしていて画面が暗いし、俳優が地味で主人公とライバルが似た雰囲気なのでどっちがどっちなのかわかりにくくて、髪型や衣装とかでもうちょっと華やかな感じにできたんじゃないかと思う。漫画原作の映画『ヒメアノ~ル』はいじめられた森田剛が人を殺しまくる映画で救いがない。実際の殺人事件をモチーフにした『冷たい熱帯魚』も陰惨な展開で、実際の被害者を連想してしまうので娯楽としては面白くない。私はミステリが好きだけれど人が殺されるところを見たいわけではなくて謎解きが見たいのだし、心霊ホラーならお化け屋敷的感覚で人が死ぬ様子を楽しめるし、殺人でも復讐系の展開はその後に犯罪者がフルボッコにされてカタルシスがあるけれど、単に被害者がかわいそうなのはだめである。これは小説もそうで、カポーティーの『冷血』みたいに犯罪を忠実に描いただけで作者の思想や表現がないのは作品として面白くないし、人間の魅力を描かずに嫌なところだけ描いても気が滅入る。世界中の紛争や犯罪や疫病で大勢人が死んでいて現実世界に向き合うだけでも十分過酷なのに、なんでフィクションでも嫌な思いをしなきゃならんのさという気分になる。俳優にも華がない。ブルース・ウィリスやロバート・デニーロやアル・パチーノやスティーブン・セガールとかは主役感があって存在するだけで絵になるけれど、日本の俳優でそういう主役感がある人があまりいない。幼く見えるアイドルみたいな細身の優男ばかりでごついハードボイルド系やダンディ系がいないし、個性がある昭和の俳優が亡くなった後は代わりがいない。精悍な松田優作がなんじゃこりゃーと叫んだのに比べたら、童顔の藤原竜也がどうしてなんだよーと叫んだりほんわかした堺雅人が倍返しだと言うのは物足りない。・漫画原作に頼りすぎ漫画はデフォルメした絵だからこそリアリティがない物語でも受け入れやすいけれど、漫画原作のリアリティが乏しい展開を実写でやろうとすると違和感が出ていっそうリアリティがなくなって物語の世界に入り込めない。特にファンタジー系はいかにもコスプレしたチープな感じが出て私は見る気がしない。原作を知っていると原作と比べてしまってシナリオに不満が出るし、原作を知らないなら興味がないので見る気がしない。衣装が新品のままで体になじんでいなかったり、漫画的な派手な髪型をするためのかつらのせいでコスプレ感が出る原因になっているようで、舞台版の『テニスの王子様』みたいにファンを対象にしてやるならそういうコスプレでもいいけれど、一般人向けに映画を制作するようなものではないだろう。人気の漫画を映画化すれば漫画ファンが見るだろうしアイドルを起用すればアイドルのファンも見るだろうという判断で制作するのだろうけれど、それは別に映画でなくてもいいわけで、漫画で儲けたいならキャラクターグッズでも売る方が手っ取り早いし、アイドルを売りたいなら下手な演技をするよりも新曲でも作ればいい。監督は映画を作りたいから映画を作るという創作の原点に戻るべきで、金になるならなんでもいいというおざなりな態度で作られた映画が漫画を描きたくて描いた原作以上に面白くなることはない。漫画原作だとストーリーありきで展開するのでフィクションぽさが際立って人間の在り方の同時代性がなくなる。人間を描いた物語というより、物語を演じる人間を用意した感じになってそこに不自然さが出てしまうし、視聴者が同時代・同世代のスターに憧れるという感覚もなくなる。石原裕次郎主演の『嵐を呼ぶ男』は現代の若者が見てもあまり面白くないかもしれないけれど、戦後の同時代の若者像を描いたという点ではよい映画だと思うし、それゆえに石原裕次郎は当時の若者を代表する昭和のスターとなったのだろう。生身の役者が演じるところが漫画とは違う映画ならではの特徴なのだから、原作ありきで商業作品をつくるのでなく、まず監督が現代社会の人間の生き方に向き合うことからはじめるべきだろう。『デスノート』はリュークの造形が良くできていてそこそこ面白かったけれど、私は漫画の原作を先に読んでオチがわかっているのでわざわざ金を払って映画版を見ようと思わないし、無料なら暇つぶしに見るという程度でしかない。原作に頼らないでオリジナルの映画を作らないと映画ファンは増えないんじゃなかろうか。・同じことの繰り返し現代人はすでに映画がコモディディ化した世界に生まれていて、映画がここではないどこかの世界につれていってくれるという特別な期待がないし、その役割はゲームに移ってしまった。CGが発達して演出手法が増えたとはいえ、映画が登場してから100年も経つと面白い映画の展開や演出のパターンはだいたい出尽くして、映画のワクワク感がなくなって既視感がある作品ばかりになった。これは日本だけでなくてハリウッド映画も同様で、ヒット作の続編に頼りすぎていて新しい作品を作ろうとしていない。特にホラーはネタバレしていると面白くなくなるので、『リング』や『呪怨』は売れたからといってシリーズ化せずに新しいことに挑戦してほしかった。『名探偵コナン』と『クレヨンしんちゃん』はファンが飽きるまで映画を作り続けるつもりなんだろうけれど、私はもうキャラクターと展開のパターンに飽きたので興味ない。青春恋愛映画はキャストを変えて同じことを繰り返しているようなものでおっさんが見て面白いものではない。外国の青春映画だと『ウエスト・サイド・ストーリー』や『グリース』や『フットルース』や『サタデーナイトフィーバー』や『フラッシュダンス』や『あの頃ペニー・レインと』みたいにその時代ならではの音楽やダンスの文化とともに青春を描いているので同時代を生きた人が後で懐古的に見返したり、当時を知らない若い人が親世代の青春時代に興味を持って見る需要もあるけれど、日本の青春映画だと時代や文化を描かずに単に流行りの俳優やアイドルの恋愛ごっこを描くので俳優のファンしか見ないし、後で見返す需要もない。・左翼的展開のねじ込み別に左翼的だから悪いというのでなくて最初から左翼的なテーマを作品にするならよいけれど、それを映画でやる必要あるのかという左翼的なテーマを無理やりねじ込むのは気に入らない。例えば小説原作の映画『あん』はどら焼き屋の繁盛記かと思ったら途中でハンセン病患者の差別の話になって話がぶれて、差別がテーマなら別に舞台がどら焼き屋でなくてもアンパン屋でも饅頭屋でも羊羹屋でもなんでもいいやんけとしらけてしまった。アメリカ映画の『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』やフランス映画の『シェフ! ~三ツ星レストランの舞台裏へようこそ~』みたいに、最初に食べ物をテーマにしたなら食べ物の話題で一貫してまとめないと作品としてはだめである。ハリウッド映画界が左傾化してポリコレで人種やLGBTに過剰に配慮してキャストがぐちゃぐちゃになっているのに比べたらまだ邦画のほうがましとはいえ、物語を描くことよりも政治的主張を優先すると不自然さが出る。・単純に下手芥川賞を受賞した小説はしばしば映画化されることがあるけれど、そういうのはたいてい駄作になる。田中慎弥の『共喰い』が映画化されたけれど、誰が誰に対していつの時点でいつの出来事をなぜ語るのかという語りの構図を突き詰めないまま冒頭で主人公が延々と一人語りしていて、これは技術的にダメだと思って冒頭だけ見て続きを見る気をなくして最後まで見ていない。小説の朗読を聞きたいんじゃないのだから、ナレーションに頼らずに何が起きているのかを映像で説明しないと映画になっていない。映画監督が文学理論を理解していないのではどんな小説を原作にしても映画に落とし込めなくて下手な映画もどきにしかならないだろう。西村賢太の『苦役列車』もヒロインに前田敦子を起用して映画化されたけれど、西村は「中途半端に陳腐な青春ムービー」だと批判していた。若い頃の苦労を青春というステレオタイプで美化されるのが気に入らなかったのかもしれないし、主人公の苦役を掘り下げずに前田敦子の青春映画に仕上げるなら『苦役列車』が原作である必然性もなくなるので、映画単体として見たらそれほど悪くない出来でも原作ありきの映画として見た場合は勘所をはずしている。映画の『デビルマン』は主役の演技が下手すぎてかえって有名になったけれど、客から見ても粗が目立つものを監督がOKしてリリースしてしまうのは商品としてだめで、名演技でなくてもいいからせめて可もなく不可もなくというレベルまで仕上げてほしい。・時代遅れ20世紀に映画が人気になったのは当時映画が新しい芸術というだけでなくて他に娯楽があまりなくて競合が少なかったおかげでもある。競合が少ないので儲かって良いクリエイターも集まるようになってスターも大勢生まれて昭和が日本映画の黄金期となった。東大卒の高畑勲や学習院大学卒の宮崎駿が東映動画に入社したのとかが典型的で、俳優だけでなく裏方も教養ある人材が豊富だからこそ切磋琢磨する環境があってこの監督たちはのちにアニメで頭角を現した。動画が一般的でなかった時代はカメラやフィルムが高額で個人では買えなかったのでテレビや映画の映像は貴重なコンテンツだったものの、現代は個人が高性能のスマホで解像度が高い動画を撮ったりドローンで空撮したりしていて外国の珍しい風景もインターネットで見れるし、娯楽はいろいろあってクリエイターが漫画やゲームやYouTubeに分散しているし、客も時間の奪い合いになっていて若者はTikTokとかのショート動画に移行して2時間映画を見る行為がだるくなっていてファスト映画の違法ダイジェスト版が作られたりして映画というフォーマット自体が時代に合わなくなりつつある。私は映画ファンでもなくて映画館に行く気がないのでネットで見れないなら別に見なくていいやと思う。あと昔の映画はちょっとぼやけた感じでそれが独特の雰囲気を出していたものの、カメラが高性能になって衣装やセットがはっきり見えるようになって粗さがしをしているつもりがなくても粗が見えてしまうのもしらける要因になって、特に時代劇だと違和感が出てしまう。・ファンや信者に頼るしばしばアニメ映画は劇場ごとに違うノベルティを配って熱心なファンに何度も映画を見させてグッズをコンプリートさせようとするけれど、これはもう映画自体の面白さで勝負していなくて物で釣っている。『映画 えんとつの町のプぺル』みたいに信者力を競わせて何度も見させて売上ブーストするのもよくなくて、それをやったら幸福の科学と同類で芸術作品として映画を作ったというより信者を対象にした集金装置として映画を作っていることになる。●日本映画の復活の可能性・低予算で面白いシナリオを作るCGを作る金がないのは仕方がないとはいえ低予算でもシナリオ次第では面白い映画が作れる。例えば製作費60万ドルの『エグザム』は変な入社試験を受けるだけの展開でひとつの部屋と登場人物のやり取りだけで緊張感を出していたし、制作費12万ドルの『オープンウォーター』はダイバーが海に取り残されるだけの展開で海の怖さを演出していたし、製作費35万ドルの『CUBE』はキューブが連結した変な建物から抜け出そうとするだけの展開で1つのセットを使いまわして部屋がいくつもあるように見せていた。邦画で低予算で面白くする工夫ができないのはシナリオがだめなのだと思うし、そもそも漫画原作だらけで映画専門の著名なシナリオライターがいない。予算の都合でシナリオに金をだせないなら著作権が切れた名作を翻案したりリメイクしたりするのが現実的な解決策になりうる。宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』が今上映されているように、映画監督が若い頃に読んで感銘を受けた小説とかを映画化すればいいんじゃなかろうか。あるいは歴史上の人物の伝奇物ならその生涯が大まかなシナリオとして出来上がっているので、シナリオライターの腕に関わらずそれなりに面白い話になるだろう。例えば安井算哲の生涯を描いた小説が原作の映画『天地明察』はそこそこ面白かった。あとミステリならテレビドラマ程度の予算でそこそこ面白い話を作れると思う。金田一耕助シリーズや『金田一少年の事件簿』シリーズや『名探偵コナン』や『TRICK』が人気になったり、『刑事コロンボ』が金曜ロードショーの常連だったように、ミステリファンが大勢いるのだから推理小説を原作にした映画を作れば低予算で人気になるかもしれない。私はドラマの『名探偵ポワロ』シリーズのポワロのぽっちゃりした感じがドラえもん的で好きである。・クロスオーバーする映画会社は交渉力が強いのだから、単に漫画原作で映画化するのでなくて「名探偵コナン」対「ルパン三世」や「エイリアン」対「プレデター」みたいなクロスオーバーをやればいい。「釣りバカ日誌」対「ジョーズ」で海外出張した浜ちゃんが人食いサメを釣って退治するとか、「今日から俺は!!」対「東京卍リベンジャーズ」で共闘するとか、「弱虫ペダル」対「頭文字D」で御堂筋くんとイツキが峠の下りでキモイ対決するとか、その程度のくだらない内容でも原作ファンは原作を改変されたと怒らずに原作にはない展開を楽しめると思う。・良い俳優を見つける予算がなくてシナリオもだめなら俳優の魅力に頼れば良い作品になるかもしれない。昔の映画はダンディな俳優や気品ある女優がいて、俳優への憧れが映画の魅力になっていたと思う。ハリウッドだと配役を専門にして監督の注文にぴったりの役者を見つけてくる会社があるそうで、日本もそういう会社を作ればよいし、知名度がある芸能人を話題作りに起用するのでなく作品をよくするためのキャストを起用するべきである。子役も話題性があって、『おしん』で小林綾子が有名になったり、『家なき子』で安達祐実が有名になったり、『ホームアローン』でマコーレー・カルキンが有名になったり、『ハリー・ポッター』でダニエル・ラドクリフやエマ・ワトソンが有名になったりしたように、子役の魅力は大人を魅了する可能性があるので子役発掘に力を入れれば映画に関心を持つ人が増えるかもしれないし、無名の役者を発掘すればギャラが安くて済む。私は『ルート225』のお姉ちゃんに文句を言う弟がかわいくてよいと思ったのだけれど、こういうふうに子役を活かして家族の情を描けるのは外国映画にはない日本映画の良さだと思う。最近はNETFLIXの『サンクチュアリ -聖域-』という相撲ドラマが話題だけれど、主演の一ノ瀬ワタルは元キックボクサーだそうで、こういうごつい人がやんちゃしていると外連味があってよいので、アスリートのセカンドキャリアとして俳優になる人を増やせばよいと思う。ハリウッド俳優が落ち目になって映画のオファーがなくなると日本のCMに出て小遣い稼ぎしてビッグインジャパンと揶揄されたりするけれど、落ち目でギャラが安くなったハリウッド俳優や監督を日本映画で起用するのもいいと思う。・視聴者層を広げる『ウォーターボーイズ』や『スウィングガールズ』は明るくて青春部活映画としてはよくできていると思うけれど、私のようなおっさんには刺さらない。学園物は学校を借りて舞台に使えてセットを自作する必要がなくて低予算で映画を作りやすいのだろうけれど、少子化が進行していく中で若者をターゲットにして学園物をやってもジリ貧だろうし、日本の学校の出来事というローカルなテーマだと外国の視聴者はなおさら関心を持たないだろう。それにどんな学生時代を過ごしたかよりもどんな大人になってどう生きるかのほうが重要だし、テレビドラマは放送がだいたい夜ということもあって大人向けのテーマが多いように、映画も大人向けを基本にするほうがよい。ホラーが盛んなタイのホラー映画やホラーゲームは日本でも評価がいいように、国や年齢を問わずに楽しめる作品を作るほうが世界での売り上げが増えると思う。・短編映画にシフトする映画の劇場での公開にこだわらずに若者向けに短編映画をネット配信したりするのもよいかもしれない。90-120分の映画でハリウッドと勝負できないなら10-20分の短編映画にすべての技術をつぎ込んで世界最高レベルで作って各国語に翻訳してPPVで100円で世界中で売るという方向性でもいいと思う。尺が変われば他の映画監督がやっていない工夫をする余地が出てくるし、長さの関係で原作に採用されなかった短編小説や読み切りの漫画を原作に使えばネタが増えるし、制作期間を短くしてキャッシュコンバージョンサイクルが短くなれば資金繰りもしやすくなってリスクを負っていろいろ新しいことに挑戦できるようになるだろう。例えばSadeのSmooth OperatorのPVは自分と付き合っていた男がヤバイ取引をしていて他の女と付き合っていたという短編映画のような展開で大人っぽい色気があって私はこういうのが好きだけれど、こういうふうに数個の場面だけで人間の一面を描くというのでもそれなりに面白いと思うし、アイドルを俳優として起用するなら新曲のPVに物語性を持たせて短編映画仕様にしてもよいと思う。『デッド寿司』みたいなネタ映画は途中で飽きるので90分見るのはきついけれど、10分に内容を凝縮させたらもっと面白くなったかもしれないし、日本が変な映画を作っているぞと外国でバズる可能性もあったかもしれない。そんで短編映画でいろいろ試して人気だったものを長編映画に作り直したり、短編映画集として映画館で上映すればよいと思う。藤本タツキの読み切り漫画の『ルックバック』が話題になったけれど、こういうのは短編映画の原作に向いていると思う。ポカリスエットのCMの「でも君が見えた」篇のぐにゃぐにゃした床とかはどうやって撮影しているんだろうというワクワク感があってそのへんの映画以上に映像の面白さを感じられたけれど、こういう雰囲気の演出だけで終わらせずにストーリーをつけて短編映画にすればよいと思う。●私の気に入った映画私は映画は娯楽として暇つぶしになればいいやと思っているのでDVDを買って何度も見返したくなるほどの好きな映画は特にないけれど、実写の邦画だと1964年の『砂の女』や1984年の『麻雀放浪記』は原作が好きなので映画版もよいと思う。これらは小説が原作ということもあって登場人物の設定や話の構成がしっかりしていて、映画の中の登場人物にリアリティを感じるがゆえに面白く思える。『麻雀放浪記』に麻雀仲間の死体を気軽に捨てるシーンがあったような記憶があるけれど、人の死が軽い戦後の死生観を描けているのはよい。その一方でABEMAで『人狼ゲーム』という映画が無料で見れるけれど、こういうのは人が死んだり叫んだりしても物語が面白くなるわけではないというダメな映画の例と言える。これは映画も小説も同じでただ人が死ねばいいというものではなくて、どこかの時代のどこかの場所を生きた登場人物自体にリアリティがないとその生死もどうでもいいものになってしまってしらけてしまう。黒澤明や伊丹十三や山田洋二とかの映画はよくできていると思うけれど、私の面白さの感覚に引っかからなくて別に好きでもない。外国映画だと『トレマーズ』の人間と未知の怪物の知恵比べみたいな展開が好きで、登場人物たちが特殊能力を持ったヒーローというわけでもなくて田舎者のおっさんたちが協力して知恵と勇気で急場をしのいでいくやり方がよい。同様に初期の『エイリアン』もただの作業員にすぎないリプリーの奮闘ぶりがよかった。逆にマーベル系の主人公が特殊能力を持っていることが前提の展開はCGはすごいと思うけれど物語自体はヒーローがヴィランを倒すだけで面白くないし、人間離れしたヒーローの苦悩にも共感できないのでマーベル的世界がヴィランに滅ぼされようがどうでもいいやと思ってしまう。パニック映画の『ポセイドン・アドベンチャー』は船が転覆するところに画面作りの面白さがあるし、登場人物がキャラ立ちしていて役割分担ができていた点が良くて有名な俳優がいなくてもシナリオがよければ映画は面白くなる例といえる。世界滅亡系の映画はいろいろあってスケールが大きくてどれもそれなりに面白いけれど、世界が救われる展開よりもネヴィル・シュートの小説『渚にて』が映画化された『エンド・オブ・ザ・ワールド』みたいなどう死に向き合うかという展開が好きで、世界がどうなろうが結局は個人を描いてこその映画である。『君の名は。』みたいに破滅を避けてハッピーエンドになるのはエンタメとしてはいいけれど死に向き合わない幼稚な展開で、大人向けの物語は避けられない死にどう向き合ってどう生きてどう死ぬかを描くほうがよい。個人の成功と破滅を描いた映画では『シティ・オブ・ゴッド』や『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』や『パーティ★モンスター』がそこそこ面白くて、『パーティ★モンスター』はマコーレー・カルキンの病んだ感じとぴったりの役である。『孤島の王』みたいな反骨的なやさぐれた少年の生き方も好きである。アクション映画だとブラジル警察と麻薬組織との対決を描いた『エリート・スクワッド』やアル・カポネの逮捕を描いた『アンタッチャブル』が外国ならではの汚職具合のリアリティがあってよい。歴史ものでは1959年の『ベン・ハー』のガレー船での戦いや戦車競走のシーンも古い映画と思えないほど迫力があってよいし、こういう作品を代表する名シーンがある映画は印象に残っている。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』はデロリアンやホバーボードとかのガジェットが面白い。関連記事:アンリ・アジェル『映画の美学』
2023.07.24
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最近はコロンビアの音楽グループのSystema Solarの曲が夏にちょうどいい感じで気に入っているのだけれど、そういえばシステムとはなんじゃろうと思ったのでシステムについて考えることにした。●システムとは何かシステムとは相互に影響する複数の複雑な要素からひとつの統一体を構成している組織のことである。例えばコンピューターはハードウェアやソフトウェアや周辺機器とかの複数の違う役割のものを組み合わせて動くシステムになっている。システムエンジニアはクライアントの様々な業務をこなすシステム用のソフトウェアの開発をしている。サウンドシステムは音源にミキサーやアンプやスピーカーとかの様々な機器をつなげてちょうどいい具合の音響を作っている。●思考のシステム心理学の二重過程理論だと、思考には無意識に自動的に直感的に素早く思考をする「システム1」と意識的に論理的にゆっくり思考する「システム2」があると言われている。システム1は感情に結びついていてバイアスがあるのでしばしば間違うけれど、巷の出来事の様々な誤解はシステム1による思考が原因になっているのではないかと思う。例えば日本は1000兆円の国債(地方債を合わせると1200兆円)を発行しているけれど、システム1の思考をする人は膨大な借金で大変だ、借金を返すために増税しないといけないと直感的に考える。しかしシステム2で論理的に考えれば、外貨建てでなくて自国通貨建て国債なうえに通貨発行権があるのでデフォルトすることはないし、1000兆円を税金で徴収して国債を償還したら政府の負債がなくなる代わりに1000兆円分の国民の資産が消えるし、不景気でデフレになっている時に増税してまで国債を償還する必要がないと理解できるはずである。インボイス制度でもシステム1で考えている人は消費税を預かり金と考えて消費者から預かった税金を払わないのは脱税だの猫ババだのと言ってインボイス制度に賛成しているけれど、システム2で論理的に考えれば消費税は預り金でないと地裁で判決が出ているのだからそもそも税を預かっていないので猫ババに当たらないし、免税されている売上1000万円未満の零細事業者や零細事業者と取引している企業に増税する産業抑制策だと理解できるはずである。マイナンバーカードで7312件の入力ミスがあったことで、システム1で考える人はミスがあるから危ないということで導入に反対したりカードを返納したりしている人がいるけれど、衆議院議員の甘利明によると保険証で受診する年間総受付数は約20億件で受診の都度に手入力していて年間500万件の氏名ミスとかの誤入力が発生しているというのだから、システム2で論理的に考えたら毎年500万件の誤入力が出るのに比べたら初回だけ7312件の誤入力が出たマイナンバーカードのほうがミスを少なくできるのは明白である。ヒトラーの大衆扇動術だと「大衆は愚か者である」「敵の悪を拡大して伝え大衆を怒らせろ」「大衆を熱狂させたまま置け。考える間を与えるな」「利口な人の理性ではなく、愚か者の感情に訴えろ」というのがあるけれど、これはシステム1を利用した戦略だといえる。ヒトラーだけでなくて中国や韓国が同様の手法を取って歴史的事実を教えるよりも感情を煽る反日教育しているし、日本の左翼マスコミも同様の手法を取っていて論理でなく感情に訴えて自虐史観で大衆を扇動している。システム1でしか物事を考えられない人は愚か者である。愚か者でないはずの人が愚かな発言をしているならヒトラーと同様に扇動のために意図的にやっていると思われる。例えばデービッド・アトキンソンは儲からない零細企業は政府が保護せずに潰れたほうがいいという新自由主義思想なので、インボイス制度が預り金でないと理解したうえでインボイス制度に反対する人を「脱税をしたい人の集まり」とレッテル貼りをして愚かな大衆の感情を煽りたいのだろうし、経営者なのでさすがに免税と脱税の違いがわからないレベルの馬鹿というわけではないだろう。システム2で物事を考えないと、複雑な社会の構造は読み解けなくなる。ではシステム2で論理的に考えるにはどうすればいいかというと、文章にして思考を整理するとよいと思う。たいていの学問はスピーチやプレゼンでなくて論文を基準にしているように、論拠を提示して論理的に自説を展開すればどこが正しくてどこの論拠が間違っているのか検証可能になる。文章と言ってもTwitterや掲示板のような短文がベースだと論拠を提示するほどの文章量がなくて不完全な切り取りや藁人形論法になりがちでシステム2による論理的思考にはなりにくいので、大学のレポートと同様に原稿用紙10枚分程度の文章量はほしいところである。●社会のシステム生物学では動植物が捕食したり依存したりする生態系のことをエコシステムという。透き通ったきれいな海はシステム1で直感的に見るとインスタ映えする素敵な海に見えても実際は生態系がなくて物質としての海水があるだけの貧しい海で、濁った海はプランクトンがいて海藻が生えて魚がいて多様な生物の生態系がある豊かな海である。ビジネスだと製品が連携して大きなシステムを形成することをエコシステムといって、たとえばGoogleやAppleのプラットフォームができるとそこにアプリ屋がわんさか群がって切磋琢磨して勝手にアプリが改善されてIoTとも連携してスマホの使い勝手がよくなってどんどん商圏が広がっていく。一方でMicrosoftはスマホでは他社を巻き込んだエコシステムを形成できなくて、Windows phoneはスペック自体は他社と比べて劣るものではなかったもののアプリが少なくて電話やメールやブラウジングくらいにしか使えなくてPC版のWindowsとも互換性がなくてどうしてもWindows phoneでなければならないという特徴もなかったのでシェアをとれなくて撤退した。企業はしばしば欲張って技術や規格を独占しようとするけれど、安藤百福が「日清食品が特許を独占して野中の一本杉として栄えるよりも、大きな森となって発展した方がいい」と言って即席ラーメンの製法を公開してメーカー各社に使用許諾を与えたら即席ラーメンが国民食といえるほど人気になったように、ファーストパーティーだけで事業をやるよりもサードパーティーにエコシステムを広げていって業界全体での認知度やシェアや製品の多様性を拡大するほうが最終的には儲かる。人間も一人で生きようとしてもたいしたことができないので、大勢が分業してそれぞれ得意なことをやることで作業効率がよくなって文明が発展していって、統治のための法律や宗教とかのシステムができた。イスラム教の国に発展途上国が多いように宗教的システムで厳格に管理して皆が同じ価値観を持って同じことをやる同質的な社会は変化がなくてあまり発展しないので、近年はダイバーシティ&インクルージョンが大事だと言われるようになった。女性や身体障碍者や高齢者や移民の社会進出だけでなく、アスペルガー障害の人が細かい違いに気づきやすくてプログラミングに向いているように発達障害や精神障害などのニューロダイバーシティも社会のシステムに組み込む必要がある。無職や引きこもりやホームレスや定年退職した高齢者のように社会から疎外される人が少なくなって社会参加する人が増えるほど治安もよくなるし福祉費用も少なくて済む。アメリカみたいに役立たずがホームレスになって野垂れ死ぬのは自己責任だという新自由主義の社会は治安が悪くて、2022年は小売店の万引きで14兆円の被害があってモラルが崩壊して大勢が不幸になっているけれど、犯罪が福祉代わりになるくらいなら最初から福祉を充実させて落ちこぼれを切り捨てずにみんなで頑張ろうというソーシャル・インクルージョンのシステムの方が不幸になる人が出なくてよいだろう。●物質のシステム地上の物体は原子からできているので、分子の構成やら運動やらのシステムが化学式や数式で科学的に説明できる。科学文明を維持するうえで科学的に真であることは必須なのだけれど、しばしば人間は真理に基づかずに欲や感情に基づいて判断するがゆえに間違うし、間違った人は相応の報いをうける。物理学を理解していない子供はスーパーヒーローが飛んでいるのを見て自分も空を飛べると思って高い所から飛び降りて骨折する。NASAの幹部はチャレンジャー号のゴム製Oリングが低温で弾性に影響が出ることを指摘されても無視して安全性よりもスケジュールを優先して爆発事故を起こした。ヴィーガンは動物がかわいそうだという感情を優先して人間には動物性のタンパク質が必要だという栄養学的な身体のシステムを無視して体調を崩したり早死にしたりしている。スティーブ・ジョブズのようにがん治療で西洋医学を拒んで非科学的な民間療法に頼る人はそのままがんが進行して亡くなっている。人間の行為の様々な失敗はこのような物質のシステムへの無理解が原因となっている。システム1で直感的に天動説が正しいように見えてもシステム2で論理的に考えないと地動説が正しいと理解できないように、科学的真理を理解するにはシステム2で時間をかけて考えることが必要になる。高等教育をしているはずの先進国でさえ非科学的な陰謀論やスピリチュアルが蔓延しているのは科学文明が壊れかけている兆候かもしれない。Googleが科学的根拠がないスピリチュアル系を検索結果から締め出したせいなのかココナラというスキルを売買できるサイトがスピリチュアル系の巣窟になっていて、レイキヒーリングや波動とかのカウンセリングが数千円から数万円で売られている。サイトは手数料で儲かるし、スキルを売る人も元手なしで儲かるし、客も満足して金を払っていて三方良しなのだろうけれど、感情を満足させることはできても病気が治るわけでもないし、科学的に真実でないことをやっても社会の発展にはつながらない。「波動の塩」という塩が普通の塩の10倍くらいの値段で売られているし、鉱石も運気が上がるパワーストーンと称して高額で売られているし、スピリチュアル系のビジネスは儲かるのだろうけれど、科学的教育を受けた文明人はそういう儲け方をしてはいけない。●芸術のシステム芸術は直感でぐわーっと創作するものに思われがちだけれど、商品づくりと同様に緻密な構成がないと完成度が高い芸術作品にはならないので、画家は色や光や形やシンボルのシステム、音楽家は音や楽器や音響のシステム、小説家は言葉や物語のシステムを理解する必要があるし、さらには鑑賞する人の認知のシステムも理解する必要がある。言語化されたシステムは理論と呼ばれていて、色彩学や図像学や音楽のコードや旋律とかの体系化された理論がある。プロとして活動するには同じクオリティの作品をいくつも作って生計を立てる必要があるので偶然いい作品がひとつできるだけではだめで、創作に再現性を持たせなければならないし、再現性を持たせるためには理論や技術を組み合わせて独自のシステムを確立する必要がある。芸術の才能は無数の要素の組み合わせの中から独自のシステムを組める能力ともいえる。しばしばいきなり創作してうまくいかなくて才能がないと判断して創作をやめる人がいるけれど、それは創作へのアプローチが間違っている。DIYで設計図がないまま材料が不揃いでメジャーでサイズを測らずに行き当たりばったりで作っても失敗して当然なように、創作でも完成像から逆算してどう創作すれば完成に行きつくのかというプランが必須で、作品を構成する要素のシステムを知らないと具体的なプランを組めない。どの理論に基づいてどういう技術を使えばこういう出来栄えになるというプランができればあとは実行するだけになるし、技術力を上げるほど完成度が高くなる。本を買ったり動画を見たりすれば理論は学べるのだから、ちゃんと理論を学んでから創作するほうがよい。そういえば私は文学理論の動画をYouTubeに投稿しているので、小説を創作する人は見ると良いですよ。ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? 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2023.07.19
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最近は某女優と某シェフが不倫してろうそくが炎上したりして話題になっている。ということで徒然なるままに不倫について考えることにした。●不倫とは何か不倫とは既婚者が配偶者以外と肉体関係をもつことで、法的には不貞行為という。異性とのデートやキスやハグ程度では法的には不貞行為と認められないので、不倫でなくて浮気と呼ばれる。既婚者が風俗に行く場合でも肉体関係があれば不貞行為として離婚の原因になりうる。独身同士がパートナー以外と肉体関係を持っても婚約していないなら不貞行為には当たらないので不倫でなくて浮気と呼ばれる。ゲイとレスビアンは今の法律では結婚できないので、パートナー以外と肉体関係を持っても不倫でなくて浮気扱いだろう。人間の倫理といえるものは不貞行為以外にもいろいろあるけれど、なぜ不貞行為だけが倫理を代表して不倫と呼ばれているのかといえば、古来から男女が家族になることが社会をつくる基礎になっているからかもしれない。ただでさえ人間は恋愛で相手の気を引こうとしたり恋のライバルを排除しようとしたりして情熱的になるのに、ましてや裏切られたとなれば憎しみも相当で、痴情のもつれはしばしば殺人事件にも発展する。やってはいけないこととして法律や戒律で禁止してしまえばトラブルを未然に防げるわけである。一夫一婦制の結婚の制度がない頃は不倫という概念もなかったのかというとそうではなくて、Wikipediaの「姦通」の記事を見てみると一夫多妻の平安時代は未婚の女性のところに通うのはよくても他人の妻を奪うのは批判されて、鎌倉時代には武家法で不倫密懐が処罰されたそうな。キリスト教では旧約聖書に「なんじ姦淫するべからず」とあるので不倫を禁じるのはわかるけれど、性についておおらかな日本でも既婚女性に手を出すのは人の道に反することとみなされたようである。家父長制では長男に家を継がせていたので、既婚女性が不倫すると血がつながっていない子供が長男になる可能性があってお家騒動になってしまうのでだめなのかもしれない。現代でも子供が父親に似ていない場合は母親の不倫を疑われるけれど、DNA鑑定がなかった時代は不倫していなくても証明しようがないのでなおさら不倫には厳しかったのだろう。●なぜ不倫するのか・遊びたい若い夫婦だと一緒に過ごした時間が短いので愛情もそれほど深くないし、子供がいなければ家庭を守る意識も乏しくて独身気分が抜けていないし、美男美女や金持ちとかの相手を選べて遊び慣れている立場の人ほど不倫へのハードルも低い。単身赴任している夫が夜遊びして独身だと偽って交際相手をだまして不倫する場合もあるし、夫が単身赴任でいない間に寂しくなった妻が夜遊びして浮気をしている場合もある。多目的トイレで不倫していた某芸人はたぶん風俗嬢代わりのヤリ捨てできる都合がいい相手で性欲処理をしたいだけで恋愛感情もなかったのだろうし、恋愛感情を持って不倫した人よりもかえって好感度を下げることになった。・隣の芝生は青く見える何度も結婚や離婚を繰り返している人はあまりいないので、初めて結婚した配偶者が最高の相手だという確信はないだろうし、結婚後に他の人が配偶者よりも魅力的に見えることもある。マリッジブルーで不安になった奥さんが元カレのほうがいいんじゃないかと目移りすることもある。男性と女性は性欲がピークになる年齢が違うので、歳をとってそろそろ落ち着こうとして性欲が衰えてきたおっさんが女ざかりの女性と結婚すると夜の営みに不満が出たりするし、そんなときに妻が異性の友人に愚痴をこぼしてほだされて浮気をしたりする。・不仲でも離婚できない恋人として付き合っているときは最高のパートナーだと思って生涯寄り添うつもりで結婚しても、人間は大人になってからも成長するし、成長の方向性が同じとは限らない。片方は仕事で飛躍したがって、片方は家庭を充実させたがったりして、結婚から時間が経つほど価値観のずれが大きくなっていく。パートナーに不満があっても子供がいると子供のことを考えてなかなか離婚しにくいけれど、それでも人間である以上は性欲もあるし恋をすることもあるので離婚するまで待てなくて不倫したりする。共働きの収入を前提にした自宅のローンがある場合は離婚するとローンが払えなくなるので、仮面夫婦を続ける一方で不満を他のパートナーで埋めようとして不倫する。経営者や政治家は政略結婚していて離婚できないので愛人を秘書にして不倫する。芸能人だとおしどり夫婦キャラや家庭的な主婦キャラで仕事をしたりするので仕事や好感度を気にして離婚できなくて不倫する。不倫でない普通の恋愛でも脳がホルモンの影響でバカになって変なことをやりがちになるけれど、不倫だと離婚したいのにできないという不満のブーストがかかることでいっそう燃え上がって大恋愛になって、こっそり黙って不倫していればばれないのに真実の愛をSNSで仄めかしたり増長して堂々とデートしたりして証拠を残して醜聞に発展する。・弱者の生存戦略金持ちの遺産相続目当てで不倫して子供を認知させようとする女性とか、正妻になれないと知りつつも既婚の経営者や芸能人と不倫して手切れ金をもらおうとしたり週刊誌にネタを売ろうとしたりする女性とか、交際目的というより金目当てで不倫する人もいる。不細工な金持ちと結婚した女性が夫をATM扱いして、本命のイケメンの子供を妊娠して托卵することもある。●不倫の報道のあり方不倫は道徳で言えば悪い事には違いないけれど、刑事事件ではなくて当事者が民事訴訟で決着をつける程度の話だし、マスコミが芸能人の不倫を大々的に報道するほどの情報価値やプライバシーを侵害する大義名分はないと思う。誰でも家族に対する態度と他人に対する態度は違うし、不倫した人たちが家庭でどう過ごしていたかは第三者には知りようがないし、いい人ぶっているけど実はクズなんだと知ったところでその情報が社会の役に立つわけでもない。せいぜい週刊誌が儲けて不倫した芸能人を起用したCMのスポンサーがCM差し替えで損する程度で、大勢の庶民には関係ない。それに私信であるラブレターや交換日記やLINEのやりとりを本人の許可なくテレビやネットで公開・拡散するのはプライバシーの侵害で、不倫を報道する側が倫理に反しているなら不倫した芸能人を批判する資格はないだろう。●不倫とフィクション我々は誰でも恋をしたことがあるだろうし、他人の色恋沙汰を邪推してああだこうだ言うのは野暮である。しかし他人事だからこそ不倫バレの修羅場が面白く思える。そんなときこそフィクションの出番である。ナサニエル・ホーソーンの『緋文字』やフローベールの『ボヴァリー夫人』やトルストイの『アンナ・カレーニナ』のように、不倫をテーマにした小説が古典として残っている。19世紀は宗教の影響が強くて貞操観念が厳しくて離婚もしにくかったので、それゆえに禁忌の不貞の物語が話題になったのだろう。たいてい男性作家が女性を主人公にして書いた話で、不倫する女性は不幸になって不倫する男性は咎められないという展開ではフェミニストから見たら不満があるかもしれない。しかし男性は精子をばらまくことが本能なので浮気したところでたいして罪悪感を持たなくて感情的な見どころがあまりないので、浮気をする女性を主人公にして心理を掘り下げるのはフィクションの作り方としては合理的だと思う。不倫をテーマにしたフィクションはエンタメとしては需要があるし、作品も作りやすい。不倫する側の物語だと結婚生活に不満がある→不倫相手と出会う→離婚して不倫相手と一緒になる/離婚せず夫婦生活をやり直す/破滅する、というストーリーの大まかな構成が出来上がっているのでストーリーが作りやすいし、濡れ場や不倫がばれたときの修羅場とかの感情的な見せ場も作りやすい。あるいは不倫される側が主人公の物語だと不倫した人が不幸になる勧善懲悪のざまぁ系の展開にもできる。恋愛小説での不倫は、不倫する男性の物語、妻に不倫される男性の物語、不倫する女性の物語、夫に不倫される女性の物語の4パターンのどれかの展開になってあまり発展性がないので、新しい不倫系フィクションを考えてみる。不倫相手が実は幽霊で呪い殺されてしまう不倫ホラーとか、呪いで死にたくなかったら幽霊と不倫した証拠のビデオを他人に見せて社会的に死なないといけない不倫リングとか、探偵が密室での不可能不倫のトリックを解明する本格不倫ミステリとか、魔法を使って姿を消したり変身したりして不倫相手の家に忍び込む不倫ファンタジーとか、経営者が愛人と不倫したせいで会社が潰れる様子を書いた経済不倫小説とか、探検家がジャングルの遺跡で巨大ワニに追われながら不倫する冒険不倫小説とか、宇宙飛行士が宇宙人と不倫して宇宙訴訟に発展するSF不倫とか、夫が妻の不倫相手と戦って強くなっていくバトル系不倫とか、他のジャンルと不倫を混ぜると面白くなるかもしれない。
2023.07.11
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