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「泳ぐひと」(フランク・ペリー監督、68年)がそれで。場合によっては、これまで見た映画の1位に僕が挙げる作品でもあります。 バート・ランカスター演じる主人公が、水泳パンツ一枚で友人の家のプールに現れる。そこから、主人公は友人の家のプールを次々と訪ねて泳ぎながら家に帰る、っていうことを試みる。 ストーリーはそれだけです。 ランカスターが演じる中年の晩期に差し掛かっている男のパンツ一丁の肉体が見所の一つにもなってて…。この男、映画のラストまで、ついに水泳パンツ姿だけで貫き通して描かれてます。 まあ、寓話か怪談と言っていい。でも、郊外のプール付きの家、つまりアメリカで成功した人の象徴となっている住まいを裸の男が訪ねて回る、っていうとんでもない発想から、残酷なまでに主人公、そして周りの人物の真実の姿っていうのをこちらに想像させてくれる映画になってます。寓話であり、現実でも通じるってところがミソで。 チーバーの原作は、僕は原書(短いので読みやすかったのです)でしか読んでません。ただ、これは映画の勝ち、と思った記憶はあります。 なぜなら、映画のランカスターの50を過ぎても鍛え抜かれていて、だぶついてない肉体っていうのが、余計いろんな悲劇的要素を感じさせてくれていたためで、言うまでもなく、小説ではこの肉体を表現するのは難しいし、短編では絶望的と言って良かったと思います。 映画と原作の間、の中に入れましたが、これはともに同じテーマで。で、本来、奥行きは映像があって想像力が限定される映画よりも小説の方が深いケースが多いのですが、これは逆でした。 (下)「泳ぐひと」のレーザーディスクの表紙。 長い間、私はこの作品をこのディスクか、VHSの ダビングテープで繰り返し見てました。ネットで 調べると、昨年6月にDVD化されてるみたい。 買いに行こう、と。フランク・ペリー監督の作品、って DVD化されにくいみたいで「リサの瞳の中で」と「去年の夏」 って二本も、僕は見れてません。「去年の夏」は、 エバン・ハンターの原作が残酷でせつなくて、って青春もの で、本当に是非見たいのですが。
2005年03月26日
ようやくDVDで、映画も見直す ことが出来たので、書きこみます。 木管楽器ディジュリドゥの木霊する ような独特の音感が響く中、始まる 映画。 自分の記憶に唖然とするのですが、この ファーストシーンに、重要な独白シーン で誰が話しているのか、まであれほど10 数年前に真剣に見てたのに、忘れてました。 原作との大きな違いは、異文化に融合が 2週間という期間で出来るか、どうか、 という点です。映画は正確な期間が分る ようには描いてませんけど。 「クルラ」-アボリジニの言語で、水、を 意味するらしいのですが、「ウォーター」と この「クルラ」が映画と原作の決定的な違い で。一言でいうと、原作者のマーシャルは 融合は可能とみており、映画の監督ローグは 不可能と見ている、ということでしょう。 DVD版のカバー裏、紹介文の最後「あの時、 君が望みさえすれば…」、は意味深長です。 映画を見ればすぐ判りますが。思春期の性、 男女、異人種、文化、野生、その他にもあ りますが、ともかく融合、っていうやつ。 言葉では簡単だけど、現実にはそう簡単には…。 余談ですがDVD版の画質は素晴らしい。見事に 三十年以上前の映画の色を復元してる、と 思います。同時に見れるオリジナルの予告編 の色の抜け方、落ち方を見ると。オーストラ リアのむき出しの原野が一方の主役なだけに、 これは重要なことで。エリマキトカゲも出て くるけど、色が落ちてたら興ざめだわな、 確かに。 ジョン・バリーの透明感のある叙情的な音楽 も秀逸で、このアカデミー賞を何度も受賞して る巨匠さんが、決して金儲け(この映画の スコアを書いて儲かったとは思えない)ばかり 考えていたのでないのも分ります。 70年ごろのオーストラリア内陸部の風景を 見るだけでも価値あり、と思うし、その後の 例えばピ-ター・ウィア監督の「ラスト・ウェ ーブ」(これも不遇の一本)などでも使われて いるデジュリドゥの、ヒーリングだけでない、 本当の使われ方垣間見れる(といっても演奏する シーンなんて出てこないけどね)のも ありがたい、という映画。 (下)DVD版のBOXの表とカバー裏。 ブロードウエイとかいうところが出してるんだけど、 こんな高いもん、オレぐらいしか買わん。 おかげで、手に入ったけど(定価・税込みで6090円)
2005年03月12日
何日かけてんのや、っていう感じですが、J・V・マーシャルの「WALKABOUT 美しき冒険旅行」読み終えました。気になった点といいな、と思う点なのですが、気になった一番は視点のぶれ、です。小説を書く際に、注意すべきこととして、僕などがまず心掛けるのは、心理描写とかでそのシーンを誰が見ているのか、感じてるのか、という点で。この小説は、基本的に3人の登場人物とオーストラリアの奥地=砂漠地帯とひとの住めない地帯の描写で構成されてます。その際、誰か一人を主人公としてその人物の視点から、他のものを書いていく、というのが王道です。しかし、この小説はそういった僕などの既成概念を簡単に無視してます。飛行機事故で生き残ってオーストラリアの原野をさまよう、メリーとピーターの二人の姉弟しか出てこない、最初のうちこそメリーの視点、となってますが、アボリジニ=ブッシュボーイが登場してからは、行ったり来たり。だから、心理をいとも簡単に解釈というか吐露させてしまえる。普通、このスタイルで書かれると読めるものは完成しにくいです。ところが、登場人物の極端な少なさと、ブッシュボーイと姉弟での、言葉の障壁というものもあって、心理を自由自在に行き来する方法が読み易さとなって、この小説の場合、むしろプラスに働いてます。読者を怖がらせたり、サスペンス的な状態に置きたいのならメリーの視点で統一した方がいい。ただ、作者の狙いは自炊から何から、自分等でやらないと死んでしまう、原野に放り出された子供たちのサバイバル状況を描きたいのですから、逆にサスペンスはいらない。そこが明確です。自分の書きたいことが判りやすく表現出来るなら、セオリーなんていらない、それをマーシャルは見事にやってます。もっと分り易く言うと「馬から落馬する」って書くと、まず普通の編集者は「直してください」とくる。でも、そのほうが分りやすいのならOKという手法です。映画。まだ見直してませんが、ニコラス・ローグ監督はメリー(ジョニー・アガター)を主役としてきちんと規程していた記憶があります。映画の場合、心理描写はいらない、というか映っているものをそのまま解釈するしかないですから、セリフが少ないということは、映像を見せるという意味でも監督にとって腕の見せどころです。その中で映像のどこかで、主人公となる人物の独白を入れてしまえば、それが主役って誰にでも分る。もっとメジャーな映画なら、「ブレードランナー」のハリソン・フォード、「地獄の黙示録」のマーティン・シーンらの独白を思い出していただければ、分りやすい。まあ、映画を見直してからまた書きます。今日は妙に、堅い話になってしまった。読んでくれてる人。懲りずに、また来てください。こんな、ややこしいことばかり考えとるわけ違うので。 スポーツ記者なら、スポーツ記者らしくスポーツの分野できちんと「仕事せいよ」って、ですか。そうだよなあ。いつからスポーツを見て熱くなる瞬間がこんなに少なくなったのかな? (下)今日の仕事場、大阪ドーム。 なぜかカメラを出すのがはばかられ、ピンぼけ が…。
2005年03月10日
好きな映画とリンクするのですが。 なかなか「美しき冒険旅行」のDVDを 見直すチャンスがないので、それまで 他のもので。 今回は、原作が絶対に辻仁成さんの、芥川 賞作品「海峡の光」に影響を与えていたと 思える勝手に人の心理を読む純文学で。で も、個人的には原作、映画ともにかなり高 いレベルの作品だったと思ってます。 青春時代の幻影と現実からの逃避。それに よる新しい世界に対するときめきと期待。 って、ことになるんだよなあ。堅く書くと。 原作の独白。中年男「私」によるものだけど、 これを最初に読んだ84年3月にも“こう いう自分で何も手に入れられず、他人に期待 しておこぼれをもらおうとする男には なりたくないけど、なるかも”と思った 記憶はあるのですが、20年ほどの年月が 経って、やはりなってしまったか、が実感 で。 映画は、中年男を杉浦直樹さんにやらせて、 彼が期待を抱く青年に、沢田研二を配して ます。原作の方が、丸山健二さん自身が、 その10年以上前に書いていた「雨のドラ ゴン」をどこかほうふつさせる期待と現実 の残酷なコントラストを突きつける、しが ない中年男の心理ドラマなのに対し、映画 は無機質な人間関係を、涼しい北海道(函館 から大沼まで、って感じ)を舞台に描いてます。 この映画の公開前に、「風の歌を聴け」の ところでも書きましたが、大森一樹監督に インタビューしたことがあります。その時、 「家族ゲーム」で時の人、に近くなっていた 森田監督に関して「彼(森田監督)はほかの 監督とは付き合わないっていうのを信条にし てるらしいですよ。親しくなるとやる気がな くなるやないか、いうて」と話していたのを 思いだします。 同時期に「すかんぴんウォーク」が上映される という絡みもあって聞いたのですが、考えたら その時に「なんで映画は温かくなければいけな いんや、思いますね」という、「風の歌を聴け」 の低評価に対する、大森監督の本音を聞いた ことがありますが、この「ときめきに死す」 もまさに、そうなりました。「涼しいですね」 という、ジュリーのセリフを劇場で聞いた時、 僕はほんとうに鳥肌が立つほど感激しましたが、 そんな人は当時、ほんの一握り。 大沼公園や函館本線の渡島大野駅を巧みに使い、 映像(前田米造)も、音楽(塩村修)も監督の 狙い通り、透明感のあるガラス細工のような 見事な出来映えで。肝心の映画全体も、丸山 健二の原作ものは、原作があまりにきちんと 出来上がりすぎてるためか失敗作ばかり(「 アフリカの光」「正午なり」)だったのを、 最低ドローに持ち込んだ、ということで覆した 初めての作品だと思ってます。 大森一樹監督の「風の歌を聴け」と、この 森田芳光監督に「ときめきに死す」。 原作を見事に換骨奪胎し、自分のフィールド の話に作り変えて、映画ってこんなに 面白い、っていうのを認識させてくれた 二本。 ともに“温かみがない”と、低評価を受けた のがお笑いで。二本とも見事に、20年経って カルトムービーとして残っている(と僕は 思ってますが)というのが、監督の、と いうか作る側の醒めた映像の裏にあった熱意 の証明ではないか、と思います。 僕は眠れない夜。テレビを見る気もなくつける 時、DVDなら「ときめきに死す」、ビデオな ら「風の歌を聴け」をバックグラウンドムービ ーとしてよく使ってます。ともに、本当に心地 いい。こういう見方をされることを制作側が 望んでいたかどうかは知りませんが。(下)「ときめきに死す」(文芸春秋、84年2月 10日発行の第三刷、映画公開に合わせて 増刷されたんだと思います)
2005年03月07日
小説も映画も、となるとこういうやり方しか ないかな、と今は思ってます。昨日の「美しき 冒険旅行」に続いて、今日は「風の歌を聴け」。 邦画も洋画も関係なく、人気、不人気にも関係 なく、自分の気になったものに対して書きます。 映画の公開が81年暮れ。この映画に関しては 公私ともにつながりがてんこ盛りなので、どこ から記していいのやら、で。今回は内容でなく、 まつわる話から。 前年の「ヒポクラテスたち」が劇場公開される 直前に、大森監督を大学の学際での自主映画上 映会に招いて、氏の「暗くなるまで待てない!」 ほか数本の上映をやったのが、今思えばこの映画 との出会いの始発点。私の出身大学は映画「風の 歌を聴け」でも、重要なロケ地として出てきます。 当時の大森さんは、「オレンジロードエクスプレス」 の興行的失敗もあって、ATGで撮った「ヒポ・・」 が背水の陣だったはずです。これが、興行的にも 作品的にも成功したのは周知の通り。で、その 成功の一年後の暮れに、「風の歌を聴け」の公開 にこぎつけます。 僕は、「風の歌を聴け」の、地元神戸でのロードシ ョーに行けませんでした。前売り券を買っていながら、 当時自分が撮ろうとしていた8ミリ映画(未完成) に出てもらっていた女の子にその券をあげた、という こともありますが、それ以上に映画の上映期間が問題 でした。三週間なかったんじゃないか、と記憶して ます。単館上映で、今は無き三宮の阪急文化っていう狭い 映画館でやって。ほんまに、絵に書いたようなこけ方 で。 僕がこの映画をやっと見ることが出来たのは、封切りから 7ヵ月後。これも今は無き大阪の毎日ホールで、当時周期的 にやっていた「映像のロマン」の一本として。人生20数年 で初めて出来た彼女と行って、映画館の中で軽いペッティング をやる、という行動を取りながらで。その彼女とは今後も 含め一度もSEXせずに終る、っていうオチまでつけて。 未だに、彼女のことを眠れぬ夜に考えると、切ない気持ち になる。 映画を見た一週間ほど後に、彼女と二人である研修旅行に 山梨まで出かける機会を持った。その時に、持参したのが 原作の「風の歌を聴け」。1979年に群像で新人賞を 村上春樹さんが受賞されて、その年の7月に初版。僕が 手にしたのは82年3月4日付けの9刷目。気がついた 時は、手遅れ、っていうのは当時からで。 付き合って、まだ2ヶ月目ぐらいだったのに、彼女はも う僕を見限りかけてました。そういう時期に、小説っていう ものからイメージしていた湿り気を完全に取っ払った小説 との出会い。 「この映画が評価されなくて『ヒポクラテスたち』が高い 評価ってのもねえ。なんで映画は温かくなければ、いけない のか、って思います。これは高級ないい映画だからね」 って、いうのは、映画を見てから1年半ほど後、ある情報誌 のインタビュアとして、大森監督に話を聞いた時の言葉。 大森監督に話を聞いた時には、とっくに彼女は僕の前 から姿を消してました。 「君の抜けて来た井戸は時の歪みに沿って掘られているんだ」 の、原作から引用した小林薫のナレーションで始まる映画。 「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が 存在しないようにね」で始まる小説。 1982年の夏。映画、小説の両方に同時に出会い、 彼女を失いました。それこそ、ノートの半分に線を引き 左に失ったもの、右に得たもの、…。もういいですよね。 このジャンルを覗く、多くの作家志望の人がやったように、 今もやっているように、僕もまねようとしました。 文体を、主人公の生き方を。 ちょっと、書き方が湿り気を帯びてきたので、 この日記はこの辺で。「風の歌を聴け」については 今後も、何度も書かせてもらいますね。 (下)「風の歌を聴け」、僕が擦り切れるほど読んだ 講談社からのハードカバー版の裏表紙。690円の値 段が、時代を感じさせてくれます。
2005年03月02日
もう真夜中で、やっと家に辿り着きで。 一日に3回、日記を書けるって本当か、 試したくなりました。何人かの訪問して 下さった方には失礼なのですが、この 日記を書くことを優先させますね。 本とか、映画の話が全然書けてないので、 書きましょう。 今、通勤時間を利用して読んでいるのは、 J・V・マーシャルの「美しき冒険旅行」 (角川文庫刊)。おととしの夏に、ネット オークションで手に入れました。昭和47年 2月に初版が出て、僕が手にしているのは昭和 49年6月の4版目のもの。 原題は「WALKABOUT」。オーストラリアの奥地 に放り出された姉弟とアボリジニの少年の 放浪と交流が描かれているはずです。 今、全編の三分の一ぐらい読んだところで、 明日の電車でどこまで読み終えれるか、ですね。 映画との関連は大いにあって、一週間ほど前に ニコラス・ローグ監督がこの原作を映画化した 「美しき冒険旅行(WALKABOUT)」のDVDを、三宮の TUTAYAで発見したのが発端です。懐かしくて、 嬉しくて、で。 「地球に落ちてきた男」っていう、D・ボワイ主演 の映画が大好きな僕にとって、大学時代からこの映 画の噂、それと手に入れそこなった原作に対する悔 しさ、とが重なってマイ“まぼろしの一本”だった のですが、91年10月(きちんと調べず記憶だよ りなので、92年の可能性あり)に東京の吉祥寺の 草月ホール(こんな名前だった)でやっとお目に かかりました。 あれぐらい必死で今も映画を見たいもの、と思うぐ らい真剣に見ました。ビデオになってなかったし、 衛星放送も含めTVでもやってなかったし・・。 切なく、哀しく、美しく。の3拍子の映画。 「きみに読む物語」(ラスト15分が長すぎて残念でした) などのように、無理に泣かせよう、とかして引っ張 るところが全くなくて、というか、 ほとんどぶった切り状態の映画なんだけど、それが いらない説明なく、映像だけで“ちゃんと見ろよ” と言われてるみたいで。本当に、良かった。 それ以来。風の便りで昨年、再映になったとは 聞いてましたが、DVDになってるとは、で。2001 年にジョン・バリーの書いたCDサウンドトラック 版は手に入れてたので、これで原作、DVD、サントラ、 と3種の神器が揃いました。 前置きが長いよな。ともかく、原作を初めて今、 読んでます。読み終えると、もう一度DVDで映画 も見るつもりです。原作と映画の間、っていうのも 分るでしょう。ジョニー・アガターの清純さ、美しさ にもう一度、お目にかかれるのも楽しみで。 本を読み終え、映画を見直してからもう一度、 「WALKABOUT 美しき冒険旅行」については 記します。だから「1」ということで。 (下)角川文庫版の表紙
2005年03月01日
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