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「大江の評論はダルイよな!」 それが、その友達との合言葉でしたが、 小説 だって、当時、出版されたばかりで、
「スゴイ!スゴイ!」 と騒いでいたことだけは覚えている 「万延元年のフットボール」(講談社文芸文庫) とかを、最近、読み直して驚きましたが、何を喜んで読んでいたのか、今となっては見当がつかないわけですから、クドクドと、やたら一文が長い 評論 なんて、自動的に字面を追っていただけで、今となっては、何にも残っていませんね。
ぼくがしばしばくりかえしてきた愚かしい泥酔さえも、時にはそうした指向にみちびかれていたことがあった。誰もいない書斎で、あるいは旅さきのホテルで、ぼくはおよそ嫌悪感とともにしか、その味を認識しえない強い酒によってひとり猛然と酔いはじめる。その酔いの上昇のさなかに、ぼくは頭のなかの火のかたまりに熱せられてしだいに赤く浮かびあがってくるタングステン・コイルで示されるような、はっきりした分岐点の存在を見出す。それはAの道を選択するならば、この暴力的な自己破壊じみた乱酔をなおも加速して、それがついににせの情熱すぎないにしても、ともかくその昂揚のうちに死ぬ、あるいは意識が存在しなくなるのであり、Bの道を選択するならば、再びここから醒めておよそ額をまっすぐにあげることもむつかしいような憂鬱の明日にはいりこむのであるところの分岐点である。アルコール飲料の眠りをさそう性格によってぼくの実験はなんとか無難にすんできたといっていいかもしれない。泥酔したあげくの眠りは、死に似ているし、二日酔いの憂鬱は、狂気のさめたあとの脱力感をいくらかなりと想像させる。もともとぼくは、活字のむこうの暗闇から自分を無意味に引き剥がすところのアルコール飲料を、二十代の半ばちかくまで嫌悪していた。それが不意に、ウイスキーあるいはジンに向かって急速に近づくことになったのは、狂気あるいは死に準じるものについてひとつの体験に近いように思える状態を、想像力のヒューズが焼けきれるような電圧まで忍耐せざるをえなかったとき以後なのであるから(もっとも忍耐しえた以上、ぼくはもとより死も、狂気も経験しなかったわけだ)、ぼくの頭のコンピューターの配線図は、アルコール飲料と無意識との接続について単純な直線を描いているにちがいない。(P159)実は、昨年の夏、具体的にいえば 2023年 ですが、 「芽むしり仔撃ち」(新潮文庫) という、 1950年 代の末に書かれた、今となっては 大江健三郎 の初期を代表する作品を読みあって感想をいうという会がありました。はい、読書会ですね。そこで、その作品の 主人公の少年 の、結末における 絶望的状況 ということが話題になりました。
「それはちゃうんちゃうかなあ!?」 という気分でしたが、ふと、湧いた、その 拒絶感 を説明することができませんでした。
狂気あるいは死に準じるものについてひとつの体験に近いように思える状態を、想像力のヒューズが焼けきれるような電圧まで忍耐せざるをえなかった 行為であったという述懐だとボクは読みましたが、その結果生まれた、この時代の 作品群 が、おおむね
絶望的な状況に投げ出された人間 を描くことになったことは、作品を否定する理由には、やはり、ならないし、当時、読者であったボク自身を含めて、多くの読者たちは、 作家 のその状況認識をこそ支持したのではなかったか、というのが、この文章を読んでハッとした理由のように感じました。
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