読書案内「水俣・沖縄・アフガニスタン 石牟礼道子・渡辺京二・中村哲 他」 20
読書案内「鶴見俊輔・黒川創・岡部伊都子・小田実 べ平連・思想の科学あたり」 15
読書案内「BookCoverChallenge」2020・05 16
読書案内「リービ英雄・多和田葉子・カズオイシグロ」国境を越えて 5
映画 マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、クロアチア、スロベニアの監督 5
全54件 (54件中 1-50件目)
朝倉裕子「雷がなっている」(編集工房ノア) 70歳の女性が90歳の母との別れを「母の眉」という1冊の詩集にまとめられた朝倉裕子さんの新しいというか、同じ時期にお書きになったらしい詩を集めた「雷がなっている」(編集工房ノア)という詩集を読んでいて、あっ!? と驚いた詩にであいました。ぼくのこと君にどうみえるのか川端の道を歩いていると後ろからゆっくりと自転車が追い越していった薄ピンクのTシャツに黒いキャップ帽背中の襟首あたりHow Do I Look?小さな文字を背負っている昔 若いフォーク歌手が歌っていた ぼくのこと君にどうみえるのか 今夜泊まるところもないんだと思うのか 腹が減って死にそうなんだと思うのか 淋しくって気が狂いそうなんだと思うのか猫背のおじさん子どもからみればおじいさん急ぎの用にはみえないいつもの喫茶店の遅いモーニングサービスを食べに行くのか図書館の雑誌コーナーへ行くのかその先のショッピングセンターのソファで本でも読むのか賢い奥さんに夕方まで帰らないように言われているのか夕方には洗濯物を取り込むように言われているのかそれとも小犬の散歩自転車はゆったりと先をゆくなれた様子は明日も自転車に乗っているのだろう柳がゆれる梅雨の晴れ間に風が吹き抜けてなんだかしあわせそうHow Do I Look?Tシャツは誰が買ったのだろう 詩のなかに出てくる若いフォーク歌手は、友部正人ですね。彼には、同じ題の歌があります。たしか、発売禁止になった「どうして旅に出なかったんだ」というLPに入っていた歌でこんな歌です。ぼくのこと君にはどう見えるのか 友部正人たとえばぼくが道路の上を歩いている時今夜泊まるところもないんだと思うのかたった今彼女と別れてきたところだと思うのか寂しくって気が狂いそうなんだと思うのか今日も何も書けなかった漫画家みたいだと思うのか声のでなくなった歌手みたいだと思うのかぼくのこと君にはどう見えるのかたとえばぼくがこの町を出ていく時氷が折れたんだと思うのか手紙が来たんだと思うのか糸が切れたんだと思うのか季節がきたんだと思うのかぼくのつばさが見えたのかまた帰ってくると思うのか夜更けの新宿中央公園を歩いていたら「にいさん 寂しそうだね」って2人づれのこじきに声かけられた行くあてもなさそうに見えたのかそれとも今にもなにかしそうに見えたのか2人づれのこじきはほろ酔い心地石油かんをたたきながら歩いて行った小高い丘の上から新宿の灯を見ていたんだするとなんとなく「にいさん しあわせそうだね」って言われたような気がしたんだ 「ぼく」は「にいさん 寂しそうだね」と声をかけられたのであって、「にいさん しあわせそうだね」っていわれたわけではありません。詩人は「なんだかしあわせそう」と思いながら、自転車の老人の後ろ姿を見ていらっしゃるようです。 阪急の駅の名前が、まだ「西灘」だったころ、水道筋の近くにあった6畳のボクの下宿の部屋に勝手に上がり込んで、電気もつけずに友部正人のLPを繰り返し聞いていた友人がいました。1976年のことです。あれから50年ほどもたったんですね。 詩の題名を見て、すぐに気付きました。で、詩を繰り返し読み直しながら、あの頃、朝倉さんも、どこかで、「今度、きみにいつ会える?」とか口ずさんでいらっしゃったんじゃないだろうかと、新しい友達を見つけたような嬉しい気持ちになった詩でした。 退職されて、10数年、詩を書き続けていらっしゃる詩人の、おそらく、散歩の途中とかなのでしょうね、ふと浮かんできているのであろう記憶が、読んでいるボクをあのころへと連れ戻していきながら、「ああ、ほかにも聴いていた人がいたんだ!」 という、まあ、あたり前といえばあたり前のことなのですが、なんだか嬉しい発見というか、記憶への共感をしみじみと感じた詩でした。こういうこともあるのですね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.09.16
コメント(0)
朝倉裕子 詩集「母の眉」(編集工房ノア) そのとき子どもが生まれておばあちゃんと呼ぶようになった部屋にはかすかにでも規則正しく呼吸の音幼い日のようにおかあちゃんと呼んでみるもう返事はない握った左手に握りかえす力もない 詩人は1952年生まれの女性です。彼女が子供産んで、母親のことを「おばあちゃん」と呼ぶようになった時から、おそらく30年以上の時がたっていて、今、彼女自身も「おばあちゃん」と呼ばれているのではないか。そんな思いが、詩人より少しだけ年下の読者であるボクには浮かんでくる詩です。 「おかあちゃん」と耳元で囁いても、もう、握りかえしてこない母との「そのとき」が、静かに浮かんできます。 偶然、知り合いになった朝倉さんが、新たに上辞された詩集「母の眉」を贈ってくださいました。飾らない言葉でしるされた詩を読みながら、朝倉さん自身が今日まで生きていらっしゃった「時」とともに、自分自身の「時」を彷彿とする詩集でした。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.23
コメント(0)
宗左近「長編詩 炎える母」(日本図書センター) 中村稔という詩人の「現代詩人論」という上下巻の大作評論を読みました。その中で、取り上げられた。いわゆる戦後史人たちの作品に、出会い直す、あるいは、新しく出会うという体験をしたのですが、それは、ボク自身が、1970年代、今から50年前にそれらの詩や詩人たちの発言に触れることで、今のボクの考え方や、感じ方を基礎づけたと思われる、まあ、種のようなものを、再発見する体験でもあったのですが、その中で、「ああ!」 と思わず声を上げたくなるような再会もあったわけで、その一つが、この詩集です。 宗左近「炎える母」です。 ボクが、どの出版社の詩集で読んだのか、実は何も覚えていません。年譜によれば1967年彌生書房から出版された長編詩集で、今回、読んだのは日本図書センターから、2006年に「愛蔵版詩集シリーズ」として再刊された本で、市民図書館で借りたものです。 戦後詩、という範疇があって、幾多の詩人が、数えきれない詩を残していますが、「ああ、これが、戦後詩だよな。」 と、1970年代に20代だったボクが、そう思った記憶だけがあって、70歳を迎えて、偶然読み直しました。で、今、20代の人たちに読んでほしいと素直に思いました。この詩集の、最大のクライマックス、東京大空襲の最中、燃え盛る火のなかを母の手を引いて逃げていた詩人自身が体験した悲劇の場面を描いた詩です。 詩集そのものが100篇近くの詩で構成されていて、全体で300ページを越える長大なものですが、この詩も8ページを越える長編詩ですが、読み始めれば、最後まで読み続けるほかには、どうにもなすすべがないことが読めば、わかります。題名は「走っている その夜14」です。 走っている その夜 14走っている火の海のなかに炎の一本道が突堤のようにのめりでて走っているその一本道の炎のうえを赤い釘みたいなわたしが走っている走っている一本道の炎が走っているから走っている走りやまないから走っているわたしが走っているから走りやまないでいる走っているとまっていられないから走っているわたしの走るしたをわたしの走るさきを焼きながら燃やしながら走っているものが走っている走っているものを追いぬいて走っているものを突きぬけて走っているものが走っている走っている走っていないものはいない走っていないものは走っていない走っているものは走って走って走っているものが走っていないいない走っていたものがいないいるものがいない母よいない母がいない走っている走っていた走っている母がいない母よ走っているわたし母よ走っているわたしは走っている走っていないでいることができないずるずるずるずるずるずるずるすりぬけてずるおちてすべりさっていったものはあれはあれはすりぬけることからすりぬけてずりおちることからずりおちてすべりさることからすべりさっていったあの熱いものはぬるぬるとぬるぬるとひたすらにぬるぬるとしていたあれはわたしの掌のなかの母の掌なのか母の掌のなかのわたしの掌なのか走っているあれはなにものなのかなにものの掌のなかのなにものなのか走っているふりむいている走っているふりむいている走っているたたらをふんでいる赤い鉄板の上で跳ねている跳ねながらうしろをふりかえっている 母よ あなたは 炎の一本道の上 つっぷして倒れている 夏蜜柑のような顔を もちあげてくる 枯れた夏蜜柑の枝のような右手を かざしてくる その右手をわたしにむかって 押しだしてくる 突きだしてくるわたしよわたしは赤い鉄板の上で跳ねている一本の赤い釘となって跳ねている跳ねながらすでに走っている跳ねている走っている走っている跳ねている一本道の炎の上母よあなたはつっぷして倒れている夏蜜柑のような顔を炎えている枯れた夏蜜柑の枝のような右手を炎えているもはや炎えている炎の一本道走っているとまっていられないから走っている跳ねている走っている跳ねているわたしの走るしたをわたしの走るさきを燃やしながら焼きながら走っているものが走っている走っている跳ねている走っているものが突きぬけて走っているものが追いぬいて走っているものが走っている走っている母よ走っている母よ炎えている一本道母よ いかがでしたか? 作品の文学性がどうのとか、技法がどうのとか、まあ、いろいろ言う人はいるのかもしれませんが、戦争が終わって、20年、戦後を生きて、この詩を書いた詩人がいたことをおろそかに考えてはいけないんじゃないかというのが、ボクの率直な感想です。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.07.09
コメント(0)
穂村弘×東直子「回転ドアは、順番に」(ちくま文庫) 唐突ですが、あの小野小町にこんな和歌がありますよね。恋ひわび しばしも寝ばや 夢のうちに 見ゆれば逢ひぬ 見ねば忘れぬ「こひわび」なのか「おもひわび」なのか、ボクには、まあ、判然としませんが、それはともかく、恋する乙女には「夢」なんですよね、カギは。 で、これに返事する人が出てくれば「相聞歌」ですよね。今回の読書案内「回転ドアは、順番に」(ちくま文庫)は穂村弘と東直子という現代歌人二人による、いわば、相聞歌集なのですね。 もっとも、お二人とも還暦を過ぎていらっしゃるようですから、まあ、ごっこというこというか、気鋭の現代歌人共作の相聞和歌小説とでもいうべきかもでしょうね。 で、平安の昔であれば文であったのでしょうが、現代では、お二人の間を取り持つのはメールです。 俳諧には付け句ということがありますが、連歌の伝統を考えれば和歌にもあったはずで、それをお二人でやっていらっしゃるという面白みですね。 出会いは、ある年の春です。で、やがてめぐってきた再びの春に別れがやって来ますね。ボクは一年間の出来事として読みましたが、さて、短歌とメールが描き出す歌物語の主人公にはどれほどの歳月だったのか、まあ、お読みくださいという感じですね。 最初のページにこんな短歌が出てきます。遠くから来る自転車をさがしてた 春の陽、瞳、まぶしい、どなた夢見ていた夢の中でボクは自転車に乗っていた(P9) 巻頭、この歌を詠み、「夢見ていた」とメールに書いているのは東直子さんです。日溜りのなかに両掌をあそばせて君の不思議な詩を思い出す と答えて、夢から覚めたのが穂村弘さん。恋の季節の始まりです。歩くなら一人がいいの青空に象のこどもがうまれたようにおはよう。今、こちらは、朝です。生まれたての今日を、歩いています。ゆうべ少し降った雨が、空気にとけていて、音が遠くから近くからひびきます。清潔な音だな、と思います。わたしたちの身体は、どのくらい同じ時間をすごしたのだっけ。わたしたちを動かしていたものは、なんだったのかな。いちどあなたの身体にふれたものは、あなたのにおいが消えないね。ねえ、蜘蛛の巣があるよ。露をびっしりとまとって、それがひかりをはねかして、とてもきれい。ここに棲んでみたいよ。じょうだんでもかまわないから、あなたと、あなたのにおいと。ありがとう、時間。おはよう、時間。さよなら、あなたの身体。(P169) 東直子さんのオシマイの短歌とメールです。メールで相聞される短歌がやがて、こんなふうにとじられるまで、さて、何首の歌が詠まれたのか。で、二人に何があったのか。そのあたりはお読みいただいて、ということですね。なかなか、いけますよ(笑)。 最後の最後は、元に戻って、こんな結末でした。日溜りのなかに両掌をあそばせて君の不思議な詩を思い出すジテンシャデユクネ遠くから来る自転車をさがしてた 春の陽、瞳、まぶしい、どなた 1冊にまとめられた、二人の夢の跡ということでしょうか。まあ、それにしても、達者なものですね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.14
コメント(0)
吉野弘 「母」 中村稔「現代詩人論 上」(青土社)より 中村稔の大著「現代詩人論」(青土社)を読んでいて、久しぶりに再会した吉野弘の詩です。吉野弘という詩人の詩は高校あたりの教科書で紹介されていたりして、所謂、人口に膾炙している作品も多いのですが、「母」と題されたこの詩は初めて読みました。1979年の「叙景」という詩集に載せられていた詩だそうです。「母」 吉野弘身まかった母の胸の上に両手の指が組み合わされていた遠い日のことなぜか、今日ほのかな明るみを帯びて思い出されるあの手は生き残っている誰とももはや、手を取り合うすべがなかった死者の手を取っているのは死者自身の手だった組み合わされた両の手はそのくぼみに温もりと見まがうものをつつんでいたそのようにして旅だったのがその日の母だった で、中村稔の感想というか解説はこうです。 心に沁みる挽歌である。組み合わされた両手のくぼみに温もりと見まがうものを見たのはおそらく作者だけだろう。その母親の死を悼む気持ちが温もりと見まがうものを見させたのであろう。私はこの詩に若干こじつけめいたものを感じているが、作者の人柄を考えると、このまま受けとるのが正しいように思われる。(P354) ナルホド、ですね。 ボクは、この詩を読んで、病院のベッドで、ため息をついたと思うと、それを最後に静かに息をひきとった母の顔を思い浮かべましたが、手は浮かびませんでした。その時、ボクの右手は彼女のまだ暖かい右手を握っていたのですね。 で、ナースコールが押せなかったのですが、詰所のナースたちは朝の交代時で、そこに、たくさん並んでいたであろう画面の一つが、あれこれ波うちをやめて棒になったことに気付かなかったらしく、息子一人による見取りという体験になったのでした。 詩が描いているのは、それから半日ほど後のシーンだと思いますが、それを組み合わされた両の手の記憶のシーンとして、それから何年もたった、今、思い浮かべているところが、そういう言い方をすると身も蓋もありませんが、吉野弘のうまさですね。 詩が語っているのは現場の体験そのものではなく、詩人の記憶の中で結晶化(?)されつつある母の両手のようですね。 中村稔が「こじつけ」を口にしているのは、そのあたりかなあとも思いますが、そうはいっても、「心に沁みる挽歌」であること間違いないですね。ボクのような奴に、もう、10年以上も昔の母の手の、最後のぬくもりを思い出させたのですからね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.01
コメント(0)
安東次男「其句其人」(ふらんす堂) 元町の古本屋さんの棚に300円で立っていました。安東次男「其句其人」(ふらんす堂)、1999年の初版です。目次 其句其人 P4(飯田蛇笏集成第四巻月報) わたしの選ぶ「四季百句」-芭蕉から現代まで P9(「太陽」昭和62年三月号) 三句の覚書 P106(加藤楸邨全集第5巻解説) 文庫サイズの小さな本ですからポケットに入れて出かけています。「其句其人」と「三句の覚書」は、それぞれ、飯田蛇笏、加藤楸邨という、まあ、名だたる俳人について、句をひいての解説風エッセイですが、「四季百句」は古今の俳句から著者が選んだ、一句ごとの解説で、読んでいて楽しいことこの上ありません。なんとなく、繰り返し取り出して読んでいます。 ちなみに「春」の最初に登場するのが芥川龍之介です。 元日や手を洗ひをる夕ごころ 芥川龍之介 「夕ごころ」がうまい。元日の手を洗ひをる夕かな、では唯の記録になってしまう。造語という程でもないが「夕ごころ」は前に記憶がない。夕情(慕情)の和訳でもあるか。とはいえ、中七文字を「弓をひきをる」「葱きざみをる」あるいは「田村を謡ふ」などと作り替えてみると、中七の意味のうるささが邪魔して、物事の始終や心の旦暮(平常心)に働くそっちょくな興は現れてこない。どれでも句のさまにはなるが、それは別の「夕ごころ」だ。夕ごころは元日に勝るものはない、と読みとらせる仕草の無意味(「手を洗ひをる」)がよく利いた句である。「澄江堂句集」 とまあ、こういう調子で、おっしゃっていることに対する理解の程度はともかく、文章のテンポと心地よい言い切りに引き込まれます。 で、ノンビリ読んでいて、ふーん、そうか! という体験もあるわけで、その一つがこんな所でした。 頬白やそら解けしたる桑の枝 村上鬼城 「小鳥(小鳥くる)」という仲秋の季語がある。秋になると、渡鳥のはかに漂・留鳥も入混って里に姿を見せる。晩秋ことに、人家近くで見掛ける印象がつよい。昔の人が頬白・四十雀・眼白・山雀などをいずれも秋の季に部類しているのは、漂・留の生態区別がよくつかめていなかった時代のせいばかりではないのだろう。今の歳時記は、右のうち頬白を春(囀による)、その他は概ね夏(繁殖期による)に分類する。虚子の「新歳時記」ではどれもまだ秋である。鬼城のこの句や「頬白や雫し晴るる夕庇 川端茅舎」など、秋として詠んだものだ。これらを囀る頬白(春)の例句に挙げている歳時記があるが、よろしくない。「そら(空)解け」は紐の結び目が自然に解けること。言葉の面白さも与って出来た句のようだが、「桑くくる」という晩秋の季語があるから、「そら解け」も応用と読んでよい。乾いた土一色に枯葉の条々許、という殺風景のなかでまぎらわしい色をした小鳥が動いている、スズメかと思ったらホオジロだった、というちょっとした発見は一株の空解の面白さによく似合う。(P76 ~77) こういう本を持ち込んで、座り込んでいるわが家の某所の壁には、新聞の俳句や短歌の欄に載っている句や歌がポストイットにメモって貼ってあります。チッチキ夫人の仕業ですが、その中にケアマネのあゆみさん来る小鳥くる 加藤節江(1929生) という句があって、それを見ながら、この本を読むということになりますが、へえー、この句は夏か!? なのでした。貼った当人は春ちゃうの?小鳥がよく鳴くのって、今ごろでしょ。うん、でも、今ごろは、たぶん、夏やで(笑)。 ケアマネさんのピンポンの響きで、きた! と、こころと一緒に、お住まいになっているおうちの空気が軽やかにうごくのを感じていらっしゃる加藤さんといっしゃる方の様子が浮かんで、覚えてしまった句なのですが、季節と時間は初夏の午前中なのでしょうかね。 まあ、いつのことでもいいようなものですが、気になり始めてしまいますね(笑) それはともかく、この本、「すべての実作者へ」 とか腰巻で謳っていますが、ボクのようなただの素人読者にも、読みでがあって、おもしろかったですね。さすが安東次男! まあ、そういう感じでしたね。 なかなか、手に入りにくそうな本ですが、おススメですね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.04.29
コメント(0)
永田和宏「歌に私は泣くだろう」(新潮文庫) 歌人で科学者の永田和宏の「あの胸が岬のように遠かった」(新潮社)を偶然読んで読書案内に書きました。「スゴイで、アッケラカンやで、おくさんいはったら怒らはるで。」「題見たらわかるやん。胸って、女の人のやろ。」「うん、でも、チョット癖になって、今度はこれを借りてきた(笑)。」「はあー?すきやなあ(笑)。でも、それ、『波』で連載してた時、評判やった気がするわ。ちらちらしか読んでないけど。」 「あの胸が岬のように遠かった」(新潮社)は、現代を代表するといわれている女流歌人の一人、河野裕子亡き後、取り残された夫で歌人の永田和宏が、彼女との出会いを赤裸々に語った、いわば、回想的青春記 でしたが、新たに読み終えた、「歌に私は泣くだろう」(新潮文庫)は、妻であり、二人の子供たちの母であった河野裕子の10年にわたる闘病生活を共に生きた夫、永田和宏の共闘記・共棲記 ともいうべきエッセイでした。 始まりは2000年の9月でした。その日のことを河野裕子が詠んだ歌がこれです。 病院横の路上を歩いていると、むこうより永田来る何といふ顔してわれを見るものか私はここよ吊り橋ぢやない 裕子 歌を詠んだ河野裕子自身が、その日のことを振り返った文章がこれです。 「十余年前の秋の晴れた日だった。乳癌という思いがけない病名を知らされたあの日の悲しみわたしは生涯忘れることはあるまい。鴨川のきらめく流れを、あんなにも切なく美しく見たことは、あの時もそれ以後もない。 人には生涯に一度しか見えない美しく悲しい景色というものがあるとすればあの秋の日の澄明な鴨川のきらめきが、わたしにとってはそうだった。この世はなぜこんなにも美しくなつかしいのだろう。泣きながらわたしは生きようと思った。(「京都うた紀行」京都新聞出版センター) まあ、案内はこれで終わってもいいとは思うのですが、本書の最初の書き出しの記述がこうです。 すべてはこの一首から始まったと言っていいのかもしれない。 夜中すぎ鏡の前で偶然気づく左脇の大きなしこりは何ならむ二つ三つあり卵大なり 河野裕子「日付のある歌」 二〇〇〇年九月二十日の夜である。「左脇の大きなしこり」。風呂に入っているときに気付いたという。すぐに私に見せにきた。で、本書の最後の記述がこれです。さみしくてあたたかかりきこの世にて会ひ得しことを幸せと思ふ 裕子 死の前日に、私が口述筆記で書き残した数首のうちの一首である。河野裕子にとっても、そして私にとっても短かった「この世」の時間。寂しくても、暖かかったと感じてくれたことを、そして、そんな「この世にて」私と出会い、私たち家族と出会って幸せだったと思ってくれたことを、今は何にも替えがたい彼女からの最後の贈り物だったと思うのである。 永田和宏が病と闘う妻、河野裕子と暮らしながら、詠んだ歌の一つが、本書の題名として取られているこの歌です。歌は遺り歌に私は泣くだろういつか来る日のいつかを怖る 永田和宏 二〇一〇年八月十二日にその日が来ました。河野裕子がこの世に遺した最後の歌がこの歌です。手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が 河野裕子 泣くのは、永田和宏だけではありませんね。 歌の言葉では「相聞」というのでしょうか、あるいは「挽歌」の心かもしれませんが、この作品の読みどころの一つは、愛し合った夫婦の、残された夫による素直な述懐にあると思いますが、もう一つは、河野裕子の闘病10年のすさまじさを包み隠すことなく書くことで、「生きようと思った」一人の人間の美しくも哀しい生の真実 を描いたところでしょうね。 ボクは、胸、打たれましたね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.03.09
コメント(0)
永田和宏「あの胸が岬のように遠かった」(新潮社) 今日の「読書案内」は、後期高齢者になった元京大教授が著者ですが、「いやー、そこまで書きますか!?」 と70歳を迎えることにビビっている、前期高齢者のシマクマ君がひっくり返りそうな率直さで、10年ほど前に亡くなった配偶者、河野裕子さんとの出会いから結婚までの思い出をつづっていらっしゃる「あの胸が岬のように遠かった」(新潮社)です。 ちなみに、著者の永田和宏さんは細胞生物学の学者で、歌人。配偶者だった河野裕子さん、息子さんの永田淳さん、お嬢さんの永田紅さんも、現代短歌に少し関心のある方ならご存知であろう歌人です。 市民図書館の新入荷の棚で見つけて、借りてきたのですが、読みながら繰り返しのけぞりました。あけっぴろげ! とはこのことですね、文書に書かれている当事者が、すでにいらっしゃらないので、まあ、文句をつける人はいないのかもしれませんが、ボクが、もし、同居人との出会いを、こんなふうに赤裸々に描きこんで公開するというと、ボクの場合は、まだ、生きている当事者である同居人が許さないでしょうね。 たとえば、書名の「あの胸が岬のように遠かった」は、永田和宏自身の短歌の上の句で、全体では「あの胸が岬のように遠かった。畜生!いつまでもおれの少年」という短歌ですね。あの胸が岬のように遠かった。畜生!いつまでもおれの少年 永田和宏『メビウスの地平』 こう詠ったのは、一年程も前のことだったろうか。自らの幼さを呪詛するように「畜生!」と吐き出した少年は、そのはるかに遠かった胸にようやく到達した。(「わが愛の栖といえば」P196) で、それに対応して乗せられているのがブラウスの中まで明るき初夏の日にけぶれるごときわが乳房あり 河野裕子「森のように獣のように」 これは自伝なのか、回想なのか、はたまた、告白なのか、まあ、よくわかりませんが、新潮社のPR誌「波」に2020年1月号から2021年6月号まで連載されていた「あなたと出会って、それから…」というエッセイ(?)の単行本化されたもののようです。 上に、引用しながら「まあ、興味をお持ちになった方がお読みになればわかるだろう」と書きやめたのは、引用歌の前段として、河野裕子さんの死後らしいですが、永田和宏さんが発見されたらしい河野裕子さんの「日記」と、永田さん自身の「日記」の、その当時の記述が、そのまま転記されていて、小説とかであれば、まあ、のけぞったりしないのですが、「えっ?あなたと、あなたの奥さんの実話?」 というわけですからね。短歌どころではない内容で、やっぱり、のけぞりましたね(笑)。そのまんま書き残していること自体が「若気の至り」とでもいうほかない、若き日の経験ということが、まあ、誰にでもある気がしますが、それを50年後に人目にさらすというのがすごいですね(笑)。 ここまで、茶化すように案内していますが、著者が、こういう作品を世に出すという覚悟は、多分、並大抵ではありませんね。 愛する人を失った時、失恋でも、死による別れでも、それが痛切な痛みとして堪えるのは、愛の対象を失ったからだけではなく、その相手の前で輝いていた自分を失ったからなのでもある。私は2010年に、40年連れ添った妻を失った。彼女の前で自分がどんなに自然に無邪気に輝いていたかを、今ごろになって痛切に感じている。 本書の「おわりに」の章で「知の体力」(新潮新書)という、ご自身の著書からの引用ですが、「愛する人」とか、真っ向から口にされると、まあ、チョットのけぞるのですが、著者の誠実な生き方が告白されていることは疑いないですね。 書くとなると、そこの底まで浚えないと気がすまない様子ですが、歌人というの、そういう性の存在なのでしょうかね。 まあ、しかし、後に、世に知られるようになった、二人の現代歌人の青春記! 好き嫌いは別れそうですが、やっぱり読みごたえはありますよ。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.03.07
コメント(0)
長谷川櫂「四季のうた」(中公新書)龍の玉升さんと呼ぶ虚子のこゑ 飯田龍太 新年あけましておめでとうございます。2024年最初の「読書案内」は長谷川櫂の「四季のうた」(中公新書)です。長谷川櫂が2004年4月から読売新聞紙上に連載した「四季」というコラムを一年分まとめた新書です。 連載開始の4月から、翌年の3月までの一年間、現代詩、翻訳詩、漢詩の一節、短歌、俳句、川柳が毎日ひとつづつ紹介されいて、某所の暇つぶしに重宝します。 昨年の秋の終わりに見つけてはっとしたのが上の句です。2024年が辰年なので、お正月のあいさつにちょうどいいかなと思いついて引用しましたが、実は、哀しい秋の句です。 長谷川櫂のコラムの本文はこうです。 正岡子規は幼名升(のぼる)。少年時代からの友人たちは「のぼさん」と呼んだ。今、子規は臨終の薄れていく意識の中で、自分を呼ぶ弟分高浜虚子の声を聞いている。龍の玉は龍の髯という庭草の青い実。この句の「龍の玉升さん」は、龍の玉を天に昇らせようとも聞こえる。(P134) 後のことでしょう、子規の臨終のシーンを思い浮かべた、大正生まれの俳人飯田龍太の創作ですが、子規が亡くなったのは明治三十五年九月十九日です。 昨年、2024年の11月、作家の伊集院静の訃報が報じられましたが、彼には『ノボさん 小説正岡子規と夏目漱石』(講談社文庫上・下)という、とても心に残る作品がありますが、その中で子規の臨終を月明かりの中で透き通るように響き渡った母八重の声で描いた名シーンがあります。「さあ、もういっぺん痛いと言うておみ」 透きとおるような声で響き渡った。 八重の目には、それまで客たちが一度として見たことのない涙があふれ、娘の律でさえ母を見ることができなかった。 ちなみに、その場に同席していた高浜虚子の残した句がこちらです。子規逝くや十七日の月明に 虚子 虚子の句は十七夜の月の明るい夜の別れを読んでいますが、まあ、要するに、「四季のうた」を覗きこんでいた某所で、まず、知らなかった飯田龍太の句に偶然出会い、虚子の声が浮かび、それに促されて母八重の声が浮かび、虚子の句が浮かび、その上、あれ、これ、ワラ、ワラ、と湧いてくる個人的な体験のシーンまでも、思い浮かべさせていただいたというわけです。 まあ、誰もが、そんなふうにいろいろ思うわけではありません。ボクだって、収められている300を超える詩の一節や短歌、俳句を読みながら、ああ、そうですか!で通り過ぎたのがほとんどなわけです。でも、おっと! という出会いはあるわけで、お試しになっても悪くないと思うのですが、いかがでしょう(笑)。 正月、そうそう、縁起でもない案内でしたが、2024年、辰年の初投稿でした。読んでいただいてる皆様、今年もよろしくお願いいたします(笑)。
2024.01.01
コメント(0)
長谷川櫂「震災句集」(中央公論新社) 先だって「震災歌集」(中央公論新社)を案内した長谷川櫂の、まあ、いわば本業「震災句集」(中央公論新社)です。収められている百句ほどの句を、ボソボソ呟くように読んで、十句ほど選びました。あの年、みちのくの海辺に立ち尽くしていたかの長谷川櫂の姿 が浮かびました。二〇一一年新年正月のくる道のある渚かな古年は吹雪となって歩み去る幾万の雛わだつみを漂へる 雛は雛人形焼け焦げの原発ならぶ彼岸かな天地変いのちのかぎり咲く桜滅びゆく国のまほらに初蕨 「まほら」は「まほろば」列なして歩む民あり死やかくもあまたの者を滅ぼさんとは ダンテ「神曲」迎え火や海の底ゆく死者の列怖ろしきものを見てゐる兎の目からからと鬼の笑へる寒さかな二〇一二年新年龍の目の動くがごとく去年今年みちのくや氷の闇に鳴く千鳥鬼やらひ手負いの鬼の恐ろしき 巻末に「一年後」という、いわば、あとがきを載せておられます。「震災歌集」で、「俳人の私がなぜ短歌なのか」 という、自らに対する問いを発しておられた俳人による、答えの一文でしたが、この句集ができる成り行きが書かれている部分を引きます。 大震災ののち十日あまりすぎると、短歌は鳴りをひそめ、代わって俳句が生まれはじめた。しかし、「震災句集」をつくるのに一年近くかかったのは私の怠け心を別にすれば、俳句のもつ「悠然たる時間の流れ」を句集に映したかったからである。また句集の初めと終わりに二つの新年の句を置いたのもこれとかかわりがある。どんな悲惨な状況にあっても人間は食事もすれば恋もする。それと同じように古い年は去り、新しい年が来る。(P154) 俳句という表現形式が「悠然たる時間の流れ」に支えられるものだという長谷川櫂の俳句観が、妥当なものであるのか判断する見識はボクにはありませんが、短歌という表現が、どこかで語りたがっている主体を意識させる、まあ、よくもわるくも押しつけがましさを感じるのに対して、俳句という表現が詠んでいる人の存在以前に、フッと浮かんでくる場や時が浮かんでくるような気はしますね。 まあ、あてにならない感想ですが、同じ震災という事件を前にして、長谷川櫂がどんな場所にいたのか、「震災歌集」、「震災句集」という二つの表現集で、実に、正直にさらけ出していらっっしゃることに感動しますね。 句集とか歌集とか、とりあえず読むことには苦労しませんからね。いかがでしょう。 ちなみに、この句集も、ここの所いじっている池澤夏樹本に出てきた本です。
2023.12.20
コメント(0)
長谷川櫂「震災歌集」(中央公論新社) 今日の案内は俳人として知られている長谷川櫂の「震災歌集」(中央公論新社)という短歌集です。くりかえしになりますが長谷川櫂は俳人として知られている人ですが、これは短歌集です。そのあたりの事情が「はじめに」の中にこう記されています。 はじめに この「震災歌集」は二〇一一年三月十一日午後、東日本一帯を襲った巨大な地震と津波、続いて起こった東京電力の福島第一原子力発電所の事故からはじまった混乱と不安の十二日間の記録である。 そのとき、わたしは有楽町の山手線ホームにいた。高架のプラットホームは暴れ馬の背中のように震動し、周囲のビルは暴風にもまれる椰子の木のように軋んだ。 その夜からである。荒々しいリズムで短歌が次々に湧きあがってきたのは。わたしは俳人だが、なぜ俳句ではなく短歌だったのか、理由はまだよくわからない。「やむにやまれぬ思い」というしかない。(P1) ボクはこの歌集の存在を池澤夏樹の「いつだって読むのは目の前の1冊なのだ」(作品社)の2017年4月20日の日記の紹介で知りました。 人々の嘆きみちみつるみちのくを心してゆけ桜前線という1首を引き、池澤夏樹はこういっています。 あの春、ぼくは長谷川櫂のこの歌を知らなかった。六年後の今になって出会って、また別の思いを抱く。「心してゆけ」という自然現象への命令が後鳥羽院の「我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け」を引き出す。自然に命令してそれが叶えばどんないいいことだろう。 福島について言うならば 青く澄む水をたたえて大いなる瞳のごとく原子炉ありき が「かつて」であり、「されど」として 見しことはゆめなけれどもあかあかと核燃料棒の爛れるをみゆ が隣に並ぶ。前の歌は河野裕子の「たっぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江といへり」を連想させるけれども、あとの歌に続く歌はない。 句集の方では 千万の子の供養とや鯉幟 にぼくはあの年の五月五日、花巻から遠野に向かう途中で、猿ヶ石川の水面の風に泳いでいた無数の鯉幟を思い出す。まさにこの句のとおりの思いで見たのだ。詩歌の喚起力である。(P585) ぼくが、この歌集と出会ったのは2023年の秋です。数えてみると東北の震災から12年たっていました。一首づつ読み進めてるボクの中に呼び起こされたのは1995年、1月17日の早朝に始まったあの記憶でした。あれからボクには、生きているということは信じられないと呟くしかないような出来事に出会うことだという思いがありますが、その思いを揺さぶるかのように記されている歌の中から10首選びました。 二〇一一年三月十一日津波とは波かとばかり思ひしがさにあらず横ざまにたけりくるふ瀑布乳飲み子を抱きしめしまま溺れたる若き母みつ昼のうつつにかりそめに死者二万などといふなかれ親あり子ありはらからあるを新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやけし吉事大伴家持新年をかかる年とは知らざりきあはれ廃墟に春の雪ふるヒデリノトキハナミダヲナガシサムサノナツハオロオロアルキ 宮沢賢治「雨ニモマケズ」たれもかも津波のあとをオロオロと歩くほかなきか宮沢賢治避難所に久々にして足湯して「こんなときに笑っていいのかしら」被災せし老婆の口をもれいづる「ご迷惑をおかけして申しわけありません」身一つで放り出された被災者のあなたがそんなこといはなくていい黒々と怒りのごとく昂りし津波のあとの海のさざなみ復旧とはけなげな言葉さはあれど喪ひしものつひに帰らず 長谷川櫂には「震災句集」もあるようです。読むことができたときには、また案内したいと思います。
2023.12.11
コメント(0)
北原白秋「からたちの花」(小池昌代「通勤電車でよむ詩集」より) からたちの花 北原白秋からたちの花が咲いたよ。白い白い花が咲いたよ。からたちのとげはいたいよ。青い青い針のとげだよ。からたちは畑の垣根よ。いつもいつもとおる道だよ。からたちも秋はみのるよ。まろいまろい金のたまだよ。からたちのそばで泣いたよ。みんなみんなやさしかつたよ。からたちの花が咲いたよ。白い白い花が咲いたよ。 小池昌代さんが編集した「通勤電車でよむ詩集」(NHK生活人新書)の「朝の電車」の章の最後に載せられていました。 北原白秋といえば、たとえば、「あめあめふれふれかーさんが♪」の「あめふり」とか、上に載せた「からたちの花」とか、ボクたちの世代ならだれでも鼻歌で歌える童謡の歌詞の人ですね。 で、小池さんは童謡の歌詞であるこの詩を、詩として読んで「からたち」の白い花のそばで泣いている人の「泣いた理由は何だったんだろう?」 と問いかけていらっしゃるわけですが、とがめだてるわけではもちろんありませんが、そんなことを朝から考え始めると、次の駅で降りそこねてしまうんじゃないでしょうか(笑)。 で、まあ、繰り返しになりますが、北原白秋といえば、短歌で出発した人というのが、高校の国語のパターンです。下に引用した「春の鳥」の歌が教科書の定番で、「桐の花」という白秋の最初の歌集の冒頭の歌です。引用した作品は最初期の歌が多いですが、確認し忘れていますから、そのあたりはご容赦ください。春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕かなしきは人間のみち牢獄(ひとや)みち馬車の軋みてゆく礫道(こいしみち)ひなげしのあかき五月にせめてわれ君刺し殺し死ぬるべかりき病める子はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし畑ばたの黄なる月の出石崖に 子ども七人こしかけて河豚をつりおり 夕焼け小焼け草わかば色鉛筆の赤き粉のちるがいとしく寝て削るなり秋の色 いまか極まる聲もなき 人豆のごと橋わたる見ゆ。君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ まあ、興味の方向は人それぞれですが、獄中歌らしきところに目がいってしまうのは、個人的な傾向にすぎませんのであしからず(笑)。
2023.12.04
コメント(0)
小池昌代(編)「通勤電車でよむ詩集」(NHK生活人新書) 今日の案内は、時々出逢っている女子大生さんたちに小池昌代という詩人の詩を紹介したこともあって、なんとなくネットで見つけて読み始めたアンソロジー詩集、小池昌代編集「通勤電車でよむ詩集」(NHK生活人新書)です。 多くの人と乗り合わせながら、孤独で自由なひとりの人間にもどれるのが通勤電車。 表紙の裏に、そんなうたい文句が書いてあるのを読みながら、朝、夕の電車通勤をしなくなって30年以上の歳月がたったことに気付きました。 ボクにとって通勤電車の思い出は、勤め始めたのころにJRの西明石駅から六甲道駅の間を通っていたころに始まって、神戸の地震があったころ、市営地下鉄の学園都市から上沢駅まで通っていたころまでの十数年間です。 その後、仕事をやめるまでの二十年ほどは原付通勤でしたから、通勤電車の「孤独と自由」の中で、スポーツ新聞やコミック週刊誌を読んだり、仕事とは関係ない読みかけの本を開くという体験は、40代の終わりころに終わっていたのだというのは、なんだか、ちょっとショックでした。そういえば週刊のマンガ雑誌を読まなくなったのも、その頃でしたね(笑)。 表紙にはこんなキャッチコピーも貼られています。「次の駅までもう1篇。足りないのは、詩情だった。」 ウーン、詩情ねえ(笑)。でも、まあ、ボクの場合、詩集を読んだりしたことはいちどもなかったような気がしますけどね(笑)。 それにしても、電車で運ばれるという経験は、改めて考えると、実に面白い。わたしたちは、どこかへ行くためにその途上の時間を、見知らぬ人と共に運ばれる。電車が走っている途中は無力であり、降りたいと思っても簡単には降りられない。あがいても、次の駅まで運ばれていくだけだ。 移動あるいは途上の時間は、目的地に着いてしまえば、消えてなくなる。それはこの世のどこにも根を下ろさない、不思議な間(ま)としか言えない時間である、しかもその時乗り合わせた人々とは、おそらく再び会うことはないだろう。そんな人々とひととき、運命を共にする。 このことには、どこか人間の生涯を、圧縮したような感覚がある。(P15) まあ、週休1日、ある時期から週休2日のお勤めでしたから、1年間に、600回くらいの電車の旅があったわけで、サンデー毎日の徘徊老人には、ちょっと目が眩みそうな記憶ですが、詩ですか?読まなかったなあ。でも、なるほどなあ、という気もしますね。 とはいうものの、出かけることのない老人には、座りこんでボンヤリする某所での読書にうってつけでした。まあ、詩情が必要な場所でもないのですが、所用時間が適当なのでしょうね(笑)。で、どんな詩が載っているのかということですが、目次を載せてみますね。目次朝の電車「うたを うたうとき」(まど・みちお)「フェルナンデス」(石原吉郎)「イタカ」(コンスタンディノス・ペトルゥ・カヴァフィス)「少女と雨」(中原中也)「緑」(豊原清明)「胸の泉に」(塔和子)「宇宙を隠す野良犬」(村上昭夫)「森の奥」(ジュール・ショペルヴィエル)「いつ立ち去ってもいい場所」(谷川俊太郎)「ばらあど」(ガブリエラ・ミストラル)「春の芝生の上に」(趙明煕)「九才」(川田絢音)「言語ジャック」(四元康祐)「からたちの花」(北原白秋)午後の電車「アドルストロップ」(エドワード・トマス)「川が見たくて 盛岡・中津川」(高橋睦郎)「四十五歳」(ヘイデン・カルース)「見えない木」(エドワード・トマス)「洛東江」(崔華國)「滝のある山」(中本道代)「緑の導火線を通して花を駆り立てる力」(ディラン・トマス)「孤独な泳ぎ手」(衣更着信)「ぼくの娘に聞かせる小さい物語」(ウンベルト・サバ)「しずかな夫婦」(天野忠)「母の死」(草野心平)「賀状」(長田弘)「雪、nobody」(藤井貞和) 夜の電車「駅へ行く道」(山本沖子)「池(pond)」(白石かずこ)「昨日いらつしつて下さい」(室生犀星)「犬を喰う」(金時鍾)「眼にて云ふ」(宮沢賢治)「家」(石垣りん)「ぼくは聞いた」(パウル・ツェラン)「記憶」(小池昌代)「会話」(ルーシー・タパホンソ)「遺伝」(萩原朔太郎)「ひとつでいい」(トーマ・ヒロコ)「踊りの輪」(永瀬清子)「週電車の風景」(鈴木志郎康)「わたしは死のために止まれなかったので」(エミリー・ディキンソン) これで、全部です。41篇ですね。ボクでも知っていた詩が3割程度、ほかの詩ですが、読んだことのある詩人が6割くらい、だから、詩としては、ほぼ、知らない詩ばかりでしたが、読んで意味不明の作品はありませんでした。ページの終わりに記されている小池さんの一言紹介で、ふーん、そうか、という場合もありましたが、おおむね、誰にでも理解可能な詩篇でした。 ああ、それから、この詩集は池澤夏樹の「いつだって読むのは目の前の1冊なのだ」(作品社)の2009年10月15日の読書日記で紹介されています。 編者のセンスをそのまま反映するいいアンソロジー、通勤電車でよむという仕掛けも気が利いている。まず立ち読みで四元康祐の言語ジャック1新幹線・車内案内という1篇でも読んでみるといい。これはすごいよ。 まあ、こんな紹介ですが、四元康祐さんの詩、気になるでしょ。まあ、それはおいおい紹介しますが、今日は小池さん自身の詩を引用してみますね。 記憶 小池昌代オーバーをぬいで壁にかけた十年以上前に錦糸町で買ったものだわたしよりさらに孤独にさらに疲れ果てて袖口には毛玉すそにはほころび知らなかったひとはこんなふうに孤独をこんなふうに年月を脱ぐことがあるのか朝ひどい、急ぎ足で駅へ向かうこのオーバーを見たことがあるおかえりそれにしてもかなしみのおかしな形状をオーバーはいつ記憶したのかわたし自身が気づくより前に このオーバーとは長い付き合いだった。いよいよだめになって捨てるとき、古い自分を捨てるようにすっきりした。感傷なんか、まるでなかった。冬の朝晩は、これを着て通勤。電車のなかで、よく詩集をよんだ。(P150~P153) やっぱり、電車で、詩を読む人だったんですね。
2023.12.03
コメント(0)
天野忠「しずかな夫婦」(小池昌代「通勤電車でよむ詩集」より) しずかな夫婦 天野 忠結婚よりも私は「夫婦」が好きだった。とくに静かな夫婦が好きだった。結婚をひとまたぎして直ぐ しずかな夫婦になれぬものかと思っていた。おせっかいで心のあたたかな人がいて 私に結婚しろといった。キモノの裾をパッパッと勇敢に蹴って歩く娘を連れて ある日 突然やってきた。昼飯代りにした東京ポテトの残りを新聞紙の上に置き昨日入れたままの番茶にあわてて湯を注いだ。下宿の鼻垂れ息子が窓から顔を出し お見合だ お見合だ とはやして逃げた。それから遠い電車道まで初めての娘と私は ふわふわ歩いた。―ニシンそばでもたべませんか と私は 云った。―ニシンはきらいです と娘は答えた。そして私たちは結婚した。おお そしていちばん感動したのはいつもあの暗い部屋に私の帰ってくるころポッと電灯の点(つ)いていることだった―戦争がはじまっていた。祇園まつりの囃子(はやし)がかすかに流れてくる晩 子供がうまれた。次の子供がよだれを垂らしながらはい出したころ徴用にとられた。便所で泣いた。子供たちが手をかえ品をかえ病気をした。 ひもじさで口喧嘩(くちげんか)も出来ず 女房はいびきをたててねた。戦争は終った。転々と職業をかえた。ひもじさはつづいた。貯金はつかい果たした。いつでも私たちはしずかな夫婦ではなかった。貧乏と病気は律義な奴で年中私たちにへばりついてきた。にもかかわらず貧乏と病気が仲良く手助けして 私たちをにぎやかなそして相性でない夫婦にした。子供たちは大きくなり(何をたべて育ったやら)思い思いに デモクラチックに遠くへ行ってしまった。どこからか赤いチャンチャンコを呉れる年になって夫婦はやっともとの二人になった。三十年前夢見たしずかな夫婦ができ上がった。―久しぶりに街へ出て と私は云った。 ニシンソバでも喰ってこようか。―ニシンは嫌いです。と 私の古い女房は答えた。 小池昌代さんの「通勤電車でよむ詩集」(NHK生活人新書)を読んでいて、心に残った詩の一つです。 編者の小池さんは詩の後ろに載せられた短い解説で「詩のなかに、いびきをかく女房が出てくる。いや女房とは、いびきをかく者のことを言うのだ。」 と喝破しておられるのですが、その「女房はいびきをかいてねた」の一行が心に残りました。「あのな、トイレに置いてる詩集やけどな、天野忠っていう詩人な、鶴見俊輔がどこかで話題にしてたような気がするけど、京都の人やねんな。その人のしずかな夫婦というのがエエねんな。」「どこが?」「女房はいびきをかいてねたっていうねん。詩のなかで。」「それで?」「あんた、自分がいびきをかいてるかもしれんって思うことある?」「いびきうるさいのんは自分でしょ。」「いや、それは知ってるけど、自分はどうなん?」「寝言は気づいたことあるけど、いびきかいてるの?」「うん、まあ、絶無ではないな(笑)。」「なに、それがいいたいの?」「いや、ちゃうちゃう」「そしたら、なにがどうなん?」「いや、あそこ置いてるから読んでみ。ええ詩や思うで。」「わたし、トイレでは読みません!」「風呂では読むやん。まあ、ええけど、その奥さんなニシン蕎麦いうか、みがきニシンな、京都の蕎麦にはいってるあれな、嫌いなんやて。」「あっ、わかる。わたしもニシン蕎麦きらいやわ。」 と、まあ、こんな会話になったしというわけです(笑)。天野忠のほかの詩については、またいずれ紹介しますね。ご本人は1993年に亡くなっておられるようですが、編集工房ノアという所から詩集がたくさん出ています。思潮社の現代詩人文庫にもあります。まあ、また、ですね(笑)。
2023.11.28
コメント(0)
四元康祐「日本語の虜囚」(思潮社) 洗面鏡の前のコギト 四元康祐眼を開けて鏡のなかの自分を見る眼を閉じてその自分を闇に流そう(マバタキは 慌しくも無言の舞台の暗転息殺す黒子らの汗の臭いよ)眼を開けると 自分はまだそこにいてだがその自分がさっき見たあの自分だという保証はあるのかしらん(あれはあれ これはこれただひたすらに流れるだけの3Dハイヴィジョン)どれだけ覗きこんでも睨みつけても笑いかけても眼は口どころか手ほどにも物を言わんねまるで塀の節穴の向うからきょろきょろとこっちを見ている赤の他人の目玉のよう沐浴するスザンナ もう何世紀にもわたって物陰に屈みこんでその裸身を視姦している二人組の老人たちお尻ふりふり逃げだす対象を視線はしつこく追いかけて景色はめくるめくメリーゴーラウンド意識は続くよどこまでも君はどっちだ 見る人それとも見られる人?目の前に我が手をかざして振ってみる(仰向けのザムザの視野の辺境で これが俺かよコガネムシ風にたなびく脚脚脚脚脚脚・・・・・)可哀相なグレゴール 部屋には鏡ひとつなかったのかねカフカが Die Verwandlung(変身)を書いていたちょうどそのころリルケはWendung(転向)という詩を書いたおなじプラハ生まれのふたりは題名同士の語根も同じ「もはや眼の仕事はなされた/いまや 心の仕事をするがいい・・・・・・内部の男よ 見るがいい お前の内部の少女を」ってリルケは言うけどどんなに眼を閉じたって内部なんか見えるもんか瞼の裏でも目玉親爺は直立不動 律儀に寝ずの番をしているからね夢現を問わず形なし色めくものを片っ端から指差してはあの甲高い声でものの名前を喚き続けるおかげで鬼太郎の大きすぎる頭のなかには名辞の卒塔婆がぎっしりだ虚空に浮かぶ閉鎖系としてのソラマメひと粒からだは殻だ からだは空だ(闇に薔薇 籠に虫の音 胸にひと・・・・・・我は悲しき卓上ビーマー)眼の穴 鼻の穴 耳の穴 そして皮膚のぽつぽつそこから奔流する感覚のことごとくをデカルトは虚空として退けたすえに「そう考えているこのわたし」がそこに存在することだけは揺るがしがたい真理として認めるに至ったがその瞬間の〈わたし〉に自画像を描かせたとしたら一体どんな姿が現れただろう彼は幾何学が好きだったそうだから単純明快な三角形でも描いてみせただろうかだが光学を研究し光の屈折や虹の論文まで書いている人にその頂点近くに丸い孔を描きこむ誘惑に抗うことができたかどうか?丸窓に額押し付けたままなすすべもなく冷たい炎に包まれてゆくアストロボーイラグビーボールひとつ小脇に抱えていろは坂駆け下りる首なし男の気楽な足取り操る者と操られる者の凭れ合い癒着の構造もの言わざれば腹膨るるというその腹をば切り裂いて覗いてみたいな未だ発せられざる言語なるものあえいうえあお「浮かべる脂の如くして水母なる漂へる」粥状なりしややゆぇいゆゆぇやよどこから湧いてくるのかわうぇうぃううぇうぁうぉ文字は干からびきった言葉の吐瀉物そこに己の唾を垂らしてオートミールのごとく素手で掻き混ぜ舌の先ぴんと尖らせて「こをろこをろに掻き鳴ら」す物書く人の姿こそおぞましけれ反吐が出そう「我思う」とは「我言語する」、いやもっと正確に訳すなら「我推敲す、故に我あり空高く我が脳髄を蹴り上げたまえこちら、カモメ」やまとうたは、人のこころをたねとして、よろずのことのはとぞなれりけるって貫之くんは言ったんだ、ならば言葉の蔓をザイルに縒って意識の深層へ降りてゆこうか か、 か、 かるた、たいよう、 うみ、 みる、 る、 る、 るーびっくきゅーぶ、 ぶんしこうぞううぞうむぞう、うくれれれもんみかんぽんかんちかんはあかん?歯ブラシ片手に鏡の前でぽっかり口を開ければ地獄岳暖簾くぐって喉ちんこ ちぎれて揺れる蜘蛛の糸その先どろりと澱む生あったかい闇の奥から立ち昇るのは匂えど無色響けど透明 あれぞ言霊?いいえ、あれはポエムのシャボン玉 星影に誑かされて宇宙を目指し脳天に当たって砕けて消えた 現代詩なんて、長いこと読んだことがなかったのですが、だから、四元康祐なんて言う詩人の名前も知りませんでした。知ったのは池澤夏樹「いつだって読むのは目の前の一冊なのだ」(作品社)に載せられている2011年11月15日の読書日記「デカメロン、きだみのる、陰部(ほと)の紐」(池澤本P395) によってです。 池澤夏樹はこんなふうに紹介しています。×月×日 まいったな、と詩集を手に座り込む。いや、四元康祐の「日本語の虜囚」(思潮社)のことだ。テーマは日本語の歴史、主人公は日本語そのもの、比喩はすべて性交がらみ、 やったわな、やったわな、 大陸渡来の帰化人と 稲作欲しさにやったわな 仏像抱えた鑑真と 漢字貰ってやったわな って、この卑俗きわまる七五調が効き過ぎて痛いほど。 やったわな、やったわな どんな客とも寝てしまう 軽業並みの膠着語 融通無碍のてにをはは アメノウズメの陰部(ほと)の紐 なでしこジャパンの処女性は 万世一系不滅です」これだけのところに注を付ければ何十行になるだろう。こういう圧倒的表現の技術を詩というのだ。 いかがでしょうか、池澤本に引用されているのは「旅物語 日本語の娘」という詩の一節です。下に詩集の目次を写しました。参考にしていただければと思いますが、後ろの数字は所収ページです。一つ、一つの作品が、結構、長くて読みでがあります。若いのかと思っていたら、ボクが知らなかっただけで詩人は1959年生まれで、まあ、もう、お若いというお歳ではありません。長くミュンヘンに暮らした人のようです。詩は日本語で発表されているらしく、思潮社の現代詩文庫179に「四元康祐詩集」があります。いずれ読むことになりそうです。目次日本語の虜囚 009洗面鏡の前のコギト 017多言語話者のカント 025歌物語 他人の言葉 035旅物語 日本語の娘 045島への道順 063マダガスカル紀行 069新伊呂波歌 079ことばうた 109こえのぬけがら 113うたのなか 117 われはあわ 121うみへのららばい 125みずのれくいえむ 129虚無の歌 133日本語の虜囚―あとがきに代えて140
2023.11.10
コメント(0)
照井翠「龍宮」(コールサック社) 池澤夏樹の「いつだって読むのは目の前の1冊なのだ」(作品社)という書評集に教えられた1冊です。まあ、そうは言うものの、実はかなり以前から照井翠という方の「龍宮」という句集が存在し、次のような句が読まれていることは、何というか、風の便りで知っていました。喪へばうしなふほどに降る雪よ春の星こんなに人が死んだのかなぜ生きるこれだけ神に叱られて寒昴たれも誰かのただひとり いかがですか。下にも、もう少し引用しましたが、これらの句を紹介しながら、池澤夏樹はこの句集との出会いをこういいます。感情を揺すぶられてどうしようもなくなった。人はたった十七文字を前にして取り乱すこともあるのだと知った。(P207) ボクはボクで、そういう句集があると知りながら、なんとなく遠ざけていたのは、こんな句があることを知っていたからかもしれません。毛布被り孤島となりて泣きにけり もう、ボンヤリした記憶なのですが、1995年の神戸の、どこかの体育館で見たことのある光景だと思いました。アスファルトが陥没して地下鉄の線路が見えていたり、町全体が傾いていたり、石の鳥居が真ん中でおれていたりした光景が一緒に浮かんできて、なんとなく、しんどいなと思ったんですね。 でも、池澤夏樹の解説というか紹介を読みながら、まあ、そうはいっても読んでみるかとなったわけです。 文学に携わる者として、あのような出来事を文学はどうやって作品化するのかずっと考えてきた。自分も含めてたくさんの文学者が三・一一と格闘している。恐怖と戦慄・激情・喪失感、はたまた時を経た後でもまだ残る喪失感と悲哀の思いは文字にできるのか。協調の副詞ばかりをハデに立てても遠くの者には伝わらない。余る思いを容れるにはしかるべき器が要る。 それが、この人の場合は俳句だった。 ボクが手に入れたのは照井翠 句集 新装版「龍宮」(コールサック社)という文庫版で、2021年に出版された本です。池澤が紹介しているのは2012年の角川書店版のはずです。で、角川版にも載せられている、照井翠自身の「あとがき」に、こんな一節がありました。 てらてら光る津波泥や潮の腐乱臭。近所の知人の家の二階に車や舟が刺さっている、消防自動車が二台積み重なっている、泥塗れのグランドピアノが道を塞いでいる、赤ん坊の写真が泥に張り付いている、身長の三倍はある瓦礫の山をいくつか乗り越えるとそこが私のアパートだ。泥の中に玉葱がいくつか埋まっている。避難所にいる数百人のうな垂れた姿が頭をよぎる。その泥塗れの玉葱を拾う。避難所の今晩の汁に刻み入れよう。 戦争よりひどいと呟きながら歩き廻る老人。排水溝など様々な溝や穴から亡骸が引き上げられる。赤子を抱き胎児の形の母親、瓦礫から這い出ようともがく形の亡骸、木に刺さり折れ曲がった亡骸、泥人形のごとく運ばれていく亡骸、もはや人間の形をとどめていない亡骸。これは夢なのか?この世に神はいないのか?(P249~250) 照井翠自身が釜石で被災し、三日目の話です。句集にはその体験を彷彿とさせる句が並んでいます。池澤夏樹が「どうしようおなくなった」作品群です。 ボクは、ボクで、湧き上がってくるなんともいえないなにかと格闘する羽目になりました。某所に座り込みながら、文庫本の句集相手に涙をこらえるなんて、まあ、チョット想像できない事態です。冥途にて咲け泥中のしら梅よ脈うたぬ乳房を赤子含みをり双子なら同じ死顔桃の花卒業す泉下にはいと返事してひとりまたひとり加わる卒業歌初蛍やうやく逢ひに来てくれた灯を消して魂わだつみへ帰しけり柿ばかり灯れる村となりにけり廃校の校歌に海を讃えけり節分や生きて息濃き鬼の面半眼に雛を並べゆく狂女虹忽とうねり龍宮行きの舟朝の虹さうやつてまたゐなくなる 被災から、ほぼ1年半の間に詠まれた二百句ほどの句が載せられています。ある種の直接性というか、いきなり突き刺さってくるなにかを、何とか受け止めようと踏ん張りながらの読書(?)ですね。詠んでいるご本人も大変だったでしょうね。 ちなみに文庫版には、池澤夏樹の「いつだって・・・」の全文と、「照井さんは今、俳句によってかろうじて人間界とつながっているが、もはや鯛やヒラメは寄せ付けない、一匹の龍なのだ。」 と結んでいる玄侑宗久の解説も載っています。
2023.11.07
コメント(0)
「ミッキー・マウス」清水哲男 「戦後代表詩選 続」より ミッキー・マウス 清水哲男消防夫であり機関士であり辻音楽師であり探偵であるミッキーは遠くアメリカの暗箱のなかで憤然とサラダを食らっていたそのくれなゐ色に冷えた影を鼠径部に溜めたまんまで僕は手紙を書き(出す宛もなく・・・・・)友だちにも会った「ああ、くさがぬっか にえがすっと」(ああ、草の暖かい匂いがするぞ)僕らは憤然として挨拶を交し鎌も握った消防夫であり機関士であり辻音楽師であり探偵であるミッキーはそれからは何度も結婚して世界中の日溜りのために尾のカーボンを燃やしつづけたそのあかがね色に冷えた灰を鼠径部に溜めたままで僕はせっせと会社に通い(結婚もしたぜ)友だちと酒も飲む「ネバ― ザ・トゥエイン シャル ミート」(二者、とこしえに相遇わず・・・・・か)僕らは軽く手をあげるだけで死ぬまで別れられるのである 鮎川信夫、大岡信、北川透という三人の詩人たちが編集している「戦後代表詩選 続」(詩の森文庫・思潮社)という新書をぽつぽつ読んでいます。 鮎川信夫の「近代詩から現代詩へ」(詩の森文庫・思潮社)という新書で、近代の詩を、これまた、ぽつぽつ読み始めた結果、こっちもあるな、とかなんとか思いつて引っ張り出してきた戦後詩のアンソロジーです。 で、この詩に再会してブワーッとなにかが襲いかかってきて、ユーチューブで『A LONG VACATION』を聴き始めると、涙が溢れました。 「スピーチバルーン」という名曲がこのLPの中にありますが、上に引用した「ミッキー・マウス」という詩は清水哲男の「スピーチバルーン」(思潮社)いう詩集に入っている詩の一つです。 で、清水哲男のその詩集が本屋に並んだのは1975年で、ミュージシャンの大瀧詠一がその曲の入ったレコードで、大評判になったのは1981年です。お二人の間には、たぶん、何の関係もありません。ぼくだって大瀧詠一の歌に触発されて清水哲男の詩を読んだわけでもありません。にもかかわらず、大瀧詠一に戻るのはなぜでしょうね。おそらく、ボクの中で、その時代がひと塊 だからでしょうね。 で、今回、大瀧の「スピーチ・バルーン」という歌の中にこんな一節があることに気づきました。吐息一つスピーチ・バルーン声にならない飛行船君は耳に手を当て身をよじるけどなにも届かないで、清水の詩の最後の二行がこうです。僕らは軽く手をあげるだけで死ぬまで別れられるのである 当時はともかく、今回、清水哲男のこの結びの二行に心が揺らいだことは間違いありません。今、耳に手を当て、あるいは、目を瞠り、身をよじるようにして記憶をたどるのですが、あの日、軽く手を挙げて別れた人の姿は見つけることはできません。 まあ、そういう個人的な思い入れはともかくとして、大瀧詠一が2013年に亡くなったことは、さすがに知っていましたが、詩人の清水哲男が昨年、2022年の3月に亡くなったことには気づきもしませんでした。現代詩文庫の「清水哲男集(正・続)」(思潮社)」はもちろんですが、「スピーチバルーン」(1975・思潮社)とか「夕陽に赤い帆』(1994年、思潮社)とか、詩集を買って読んだ、数少ない詩人の一人だったのですが。 もっとも、今読み返してもそうですが、個人的な思い込みでは好きだったのでしょうが、詩想を理解(?)して読んでいたのかどうか、かなり怪しいですね(笑)
2023.08.06
コメント(0)
小澤實「芭蕉の風景」(ウェッジ)裸にはまだ衣更着の嵐かな 芭蕉 俳人(?)の小澤實という人の「芭蕉の風景」(ウェッジ)という上・下巻ある本の上巻を、半年がかりで読んでいます。で、ようやく200ページを通過して、ちょうど二月の句が出てきたので、途中経過の報告です。 と、まあ、こんなふうに案内を始めたのが二月の末でしたが、今日は、五月の三十日です。なんでそうなったのかというと、本書の中で、芭蕉のこの句について小澤實がこんな事を云って、この句の解説と鑑賞を始めていたからです。 芭蕉の弟子、支考が師の句文を収集した『笈の小文』という書には、掲出句についての芭蕉の「増賀の信をかなしむ」という言葉が記録されている。平安時代の高僧増賀の信仰心を愛おしむという意味である。増賀という僧を知らないと、掲出句は理解できない。芭蕉も愛読していた、鎌倉時代の仏教説話「撰集抄」冒頭にエピソードが載っている。(P208) ここを読んで、ボクはなにを始めたかというと、「撰集抄」を探し始めてしまったわけですね。増賀上人って?、撰集抄って? というふうにウロウロして、書きかけの案内のことを忘れてしまったというわけで、3ヵ月後の今日にになって、ようやく、ああ、そうだ! ということなので、悪しからずというわけです(笑)。 小澤實という人は「名句の所以」(毎日新聞社出版)という本で偶然、知りました。で、これまた偶然、市民図書館の新刊の棚で見つけたのが「芭蕉の風景 上」という、この本でした。松尾芭蕉の句の風景を訪ねて、あれこれ語った上で、自分の句を読むという企画らしいですが、芭蕉とか知っているようで、実は、全く知らないくせに、高校生には知ったかをかましていた元国語教員には、斬鬼とかいう言葉を思い出させながらも、目から鱗というか、もっと早く出会いたかったと思う本でした。 目次を紹介すれば、こんなふうです。目次第1章 伊賀上野から江戸へ 京は九万九千の花見哉 うち山や外様しらずの花盛 山は猫ねぶりていくや雪のひま ほか第2章 野ざらし紀行 霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き 猿を聞人捨子に秋の風いかに 道のべの木槿は馬にくはれけり ほか第3章 笈の小文 星崎の闇を見よとや啼千鳥 寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき 冬の日や馬上に氷る影法師 ほか第4章 更科紀行 木曾のとち浮世の人のみやげ哉 俤や姨ひとりなく月の友 吹きとばす石はあさまの野分哉 ほか 九十数句の句が表題になっていますが、まあ、それだけの場所を訪ねる旅の紀行文でもあるわけですし、参考句を入れれば二百句近い芭蕉の句、加えて、彼の周辺の俳人たち句の鑑賞にもなります。かなり、重厚な「蕉門俳諧」の教科書という趣でもあるわけです。 そうそう、忘れてはいけないことは、小澤實自身の旅先での句が、それぞれの旅の句として二句づつ読まれているわけで、例えば、西行の庵もあらん花の庭 芭蕉 訪ねて、江戸の内藤露沾(ろせん)邸跡地の訪問が、上巻最後の旅なのですが、そこで詠まれている小澤實の句はこんなふうです。閻魔坂くだりゆきたる椿かな墓地の端椿ももいろひとつ咲くと、まあ、そういう本なのですが、最初に引用した増賀上人にかかわる句の話の続きが気に掛かっていらっしゃると思うので引用します。 増賀上人は比叡山延暦寺の根本中堂に千夜籠もるという修業をした僧である。さらなる悟りを求めて、神宮に参詣する。神に祈って眠ったところ、夢に神が現れ「道心をおこそうと思ったら、自分の身を自分のものと思うな」というお告げを受ける。目覚めてから上人は「これは名利を捨てよということに違いない」と思って、来ていた衣を脱いで乞食にみな与えてしまった。下着も着けず、まったくの裸で、伊勢から帰り、修行していた比叡山に登る。 「名利を捨てる」ということと着衣を捨てるということを直接に結び付け、実際に実行してしまう上人には魅力がある。比叡山では悟りを得るのに千夜かかっているが伊勢では一夜にして得られている。伊勢の神のありがたさをものがたるエピソードでもある。僧と神とが伊勢という場で出合っている。神仏習合の一事件でもある。 芭蕉は伊勢を去るにあたって、増賀のことを思い出していた。「上人のように着衣を捨て去りたいが、二月は裸になるにはまだまだ寒い、いまだ重ね着がふさわしい季節。嵐も吹きすさんで、つらすぎる。」という句意になる。増賀の精神の気高さに打たれつつも、生身の世俗の人間としてはついていけないところをはっきりと示しているところがおもしろい。 「衣更着」が季語。旧暦二月の名称「きさらぎ」の語源説の一つとして、「まだまだ寒いので、着物をさらに着る」からというものがある。そこから「衣更着」という字が当てられているのだ。(P209) で、付け加えられるのが伊勢神宮の解説です。 明治の初めまで、僧は、宇治橋を渡り正殿の前で参拝することは許されなかった。僧が死の穢れに触れることが多いためであるという。芭蕉の「野ざらし紀行」には伊勢参宮の際、僧体であったため、神宮に入ることを拒まれたとことが明記されている。増賀も、西行も、五十鈴川を隔てて、正殿を拝することのできる高みにあった僧尼拝所から拝したらしい。その場所の存在を矢野憲一著「伊勢神宮」(角川書店)によって、帰宅後知った。同著によれば、現在、僧尼拝所のあった場所にはなにも残されていないというが、その位置から正殿を遠く拝してみたかった。芭蕉を訪ねる旅としても、神仏習合を考える旅としても必要だった。ン中略 『笈の小文』の旅においては、神前に入ることを拒まれたのか、許されたのか、芭蕉ははっきりと書いていない。しかし、掲出句の存在は、拒まれたことを意味しているのではないか。増賀と自分とを重ねる立場は、姿は同じ僧体であることをはっきりと意識している。伊勢に来て、神社、神道的なものばかり詠むのではなく、あえて僧を詠む姿勢がおもしろい。芭蕉は神前に入ることを拒まれたことによって、自分が伊勢という土地にとって、僧体の異物であることを意識している。その意識を積極的に楽しみつつ、神道と仏教との出合という奇蹟に目を瞠っている。 で、最後にあるのが小澤實の二句です。さざんかや増賀上人立ち走り 實神域をむささび飛べる月夜かな 長くなりましたが、まあ、こういう本です。毎日、一句か二句、3ページか、4ページ、楽しみで読んできましたが、いよいよ、新たな予約者の出現で、市民図書館から返却せよとの連絡が来てしまいました(笑)。で、大慌て、大急ぎで案内しました。 上巻は返却しますが、小澤さんの旅はまだまだ続きます。そういうわけで、ボクは下巻を借り出すことになりそうです(笑)。追記2023・05・30「撰集抄」の「増賀上人」の説話です。宇治拾遺にもあったような気がします。 昔、増賀聖人といふ人いまそかりけり。 いとけなかりけるより、道心深くて、天台山の根本中堂に千夜こもりて、これを祈り給ひけれども、なほ、まことの心やつきかねて侍りけん、ある時、ただ一人、伊勢大神宮に詣でて、祈請し給ひけるに、夢に見給ふやう、「道心を発(おこ)さんと思はば、この身を身とな思ひそ」と示現を蒙り給ひけり。 うちおどろきて思すやう、「『名利を捨てよ』とにこそ、侍るなれ。さらば捨よ」とて、着給へりける小袖・衣、みな乞食どもに脱ぎくれて、一重なるものをだにも身にかけ給はず、赤裸にて下向し給ひけり。 見る人、不思議の思ひをなして、「物に狂ふにこそ」、みめさまなんどのいみじさに、「うたてや」なんど言ひつつ、うち囲み見侍れども、つゆ心もはたらき侍らざりけり。道々物乞ひつつ、四日といふに山へのぼり、もと住み給ひける慈恵大師の御室に入り給ひければ、「宰相公の物に狂ふ」とて見る同法もあり。また、「かはゆし」とて、見ぬ人も侍りけるとかや。 師匠の、ひそかに招き入れて、「名利を捨て給ふとは知り侍りぬ。ただし、かくまで振舞ふは侍らじ。はや、ただ威儀を正して、心に名利を離れ給へかし」といさめ給ひけれども、「名利を長く捨て果てなんのちは、さにこそ侍るべけれ」とて、「あら、たのしの身や。おうおう」とて、立ち走り給ひければ、大師も門の外に出で給ひて、はるばる見送り侍りて、すぞろに涙を流し給へりけり。
2023.05.30
コメント(0)
土井晩翠「星落秋風五丈原」 鮎川信夫「近代詩から現代詩へ」(思潮社)より 星落秋風五丈原 土井晩翠(一)祁山悲秋の風更けて 陣雲暗し五丈原零露の文は繁くして 草枯れ馬は肥ゆれども蜀軍の旗光無く 鼓角の音も今しづか丞相病篤かりき清渭の流れ水やせて むせぶ非情の秋の声夜は関山の風泣いて 暗に迷ふかかりがねは令風霜の威もすごく 守るとりでの垣の外丞相病篤かりき帳中眠かすかにて 短檠光薄ければこゝにも見ゆる秋の色 銀甲堅くよろへども見よや侍衛の面かげに 無限の愁溢るるを丞相病篤かりき風塵遠し三尺の 剣は光曇らねど秋に傷めば松柏の 色もおのづとうつろふを漢騎十万今さらに 見るや故郷の夢いかに丞相病篤かりき夢寐に忘れぬ君王の いまはの御こと畏みて心を焦がし身をつくす 暴露のつとめ幾とせか今落葉の雨の音 大樹ひとたび倒れなば漢室の運はたいかに丞相病篤かりき四海の波瀾収まらで 民は苦み天は泣きいつかは見なん太平の 心のどけき春の夢群雄立ちてことごとく 中原鹿を争ふもたれか王者の師を学ぶ丞相病篤かりき末は黄河の水濁る 三代の源遠くして伊周の跡は今いづこ、 道は衰へ文弊ぶれ管仲去りて九百年 楽毅滅びて四百年誰か王者の治を思ふ丞相病篤かりき 鮎川信夫の「近代詩から現代詩へ」(思潮社)で土井晩翠は「明治の詩人」の二人目、トップ・バッターは島崎藤村ですが、二番バッターとして登場します。送りバントがうまい小技の人では、もちろんありません。 紹介、解説で鮎川信夫は、土井晩翠の詩集「天地有情」の序文から引用します。 詩は閑人の囈話に非ず、詩は彫虫篆刻の末技に非ず。詩は国民の精髄なり、大国民にして大詩篇なきもの未だ之あらず。本邦の前途をして多望ならしめば、本邦詩界の前途多望ならずんばあらず。 現在の眼で見れば、滑稽な大言壮語なのですが、この序文の中にこそ、 日清戦争以後、高まりゆく軍国調の世相の中で明治における帝国主義イデオロギーの随一の歌手として、青少年たちに愛唱高吟されたことこそが、詩人の本懐であることが叫ばれている と喝破しながらも、軍歌、校歌、寮歌のへの、圧倒的な影響力を通して、戦前の国民感情の形成に大きな役割を果たした ことを忘れてはいけないと結びます。 ボクが、この「近代詩から現代詩へ」の中で紹介されている、土井晩翠の代表詩の一つである「星落秋風五丈原」という、長編叙事詩を知ったのは、1980年代だったと思います。三国志の時代の歴史的な史話をネタに謳いあげる、長大な(後ろに全文載せておきますが)叙事の風格に強く惹かれたのですが、一方では事大主義的に歴史ロマンを謳う(まあ、嫌いではないのですが)姿勢に辟易する詩でもありました。 鮎川信夫は戦前の国民感情の形成の問題を指摘していますが、戦後民主主義育ちであるはずのボクたちの世代(今、現在、前期高齢者たち)が、小学生の時代から「荒城の月」の「あわれ」に育てられていたことには、生涯、気づかなかったのではないでしょうか。 現代の世相を振り返るとき、土井晩翠的な「国粋主義」が我々のような戦後民主主義世代にも、美しい唱歌のメロディと歌詞によって刷り込まれていたということは、見落としてはいけないという気がします。 まあ、あれこれ考えるの疲れるのですが「星落つ、秋風、五丈原」という詩がどんな詩だったくらいは知っておいていいんじゃないでしょうか。ホームランバッターを目指している詩人だったということがよくわかりますよ(笑)。(二)鳴呼南陽の旧草廬 二十余年のいにしへの夢 はたいかに安かりし 光を包み香をかくし隴畝に民と交はれば 王佐の才に富める身もただ一曲の梁父吟閑雲野鶴空濶く 風に嘯く身はひとり月を湖上に砕きては ゆくへ波間の舟ひと葉ゆふべ暮鐘に誘はれて 問ふは山寺の松の風江山さむるあけぼのの 雪に驢を駆る道の上寒梅痩せて春早み 幽林影を穿つとき伴は野鳥の暮の歌 紫雲たなびく洞の中誰そや棊局の友の身はそれ隆中の別天地 空のあなたを眺むれば大盗競ひはびこりて あらびて栄華さながらに風の枯葉を掃ふごと 治乱興亡おもほへば世は一局の棊なりけり其世を治め世を救ふ 経倫胸に溢るれど栄利を俗に求めねば 岡も臥龍の名を負ひつ乱れし世にも花は咲き 花また散りて春秋の遷りはここに二十七高眠遂に永からず 信義四海に溢れたる君が三たびの音づれを 背きはてめや知己の恩羽扇綸巾風軽き 姿は替へで立ちいづる草廬あしたのぬしやたれ古琴の友よさらばいざ 暁さむる西窓の残月の影よさらばいざ 白鶴帰れ嶺の松蒼猿眠れ谷の橋 岡も替へよや臥龍の名草廬あしたはぬしもなし成算胸に蔵まりて 乾坤ここに一局棊ただ掌上に指すがごと 三分の計 はや成れば見よ九天の雲は垂れ 四海の水は皆立ちて蛟龍飛びぬ淵の外(三)英才雲と群がれる 世も千仭の鳳高く翔くる雲井の伴やたそ 東新野の夏の草南瀘水の秋の波 戎馬関山いくとせか風塵暗きただなかに たてしいさをの数いかに江陵去りて行先は 武昌夏口の秋の陣一葉軽く棹さして 三寸の舌呉に説けば見よ大江の風狂ひ 焔乱れて姦雄の雄図砕けぬ波あらく剣閣天にそび入りて あらしは叫び雲は散り金鼓震ひて十万の 雄師は囲む成都城漢中尋で陥りて 三分の基はや固し定軍山の霧は晴れ 汚陽の渡り月は澄み赤符再び世に出でて 興るべりかりし漢の運天か股肱の命尽きて 襄陽遂に守りなく玉泉山の夕まぐれ 恨みは長し雲の色中原北に眺むれば 冕旒塵に汚されて炎精あはれ色も無し さらば漢家の一宗派わが君王をいただきて 踏ませまつらむ九五の位天の暦数ここにつぐ 時建安の二十六景星照りて錦江の 流に泛ぶ花の影花とこしへの春ならじ 夏の火峯の雲落ちて御林の陣を焚く掃ふ 四十余営のあといづこ雲雨荒台夢ならず 巫山のかたへ秋寒く名も白帝の城のうち 龍駕駐るいつまでかその三峽の道遠き 永安宮の夜の雨泣いて聞きけむ龍榻に 君がいまわのみことのり忍べば遠きいにしえの 三顧の知遇またここに重ねて篤き君の恩 諸王に父と拝されし思よいかに其宵の辺塞遠く雲分けて 瘴烟蛮雨ものすごき不毛の郷に攻め入れば 暗し瀘水の夜半の月妙算世にも比なき 智仁を兼ぬるほこさきに南蛮いくたび驚きて 君を崇めし「神なり」と(四)南方すでに定まりて 兵は精しく糧は足る君王の志うけつぎて 姦を攘はん時は今江漢常武いにしへの ためしを今にここに見る建興五年あけの空 日は暖かに大旗の龍蛇も動く春の雲 馬は嘶き人勇む三軍の師隨へて 中原北に上りけり六たび祁山の嶺の上 風雲動き旗かへり天地もどよむ漢の軍 偏師節度を誤れる街亭の敗何かある 鯨鯢吼えて波怒りあらし狂うて草伏せば 王師十万秋高く武都陰平を平げて 立てり渭南の岸の上拒ぐはたそや敵の軍 かれ中原の一奇才韜略深く密ながら 君に向はんすべぞなき納めも受けむ贈られし 素衣巾幗のあなどりも陣を堅うし手を束ね 魏軍守りて打ち出でず鴻業果し収むべき その時天は貸さずして出師なかばに君病みぬ 三顧の遠いむかしより夢寐に忘れぬ君の恩 答て尽くすまごゝろを示すか吐ける紅血は 建興の十三秋なかば丞相病篤かりき(五)魏軍の営も音絶て 夜は静かなり五丈原たたずと思ふ今のまも 丹心国を忘られず病を扶け身を起し 臥帳掲げて立ちいづる夜半の大空雲もなし刀斗声無く露落ちて 旌旗は寒し風清し三軍ひとしく声呑みて つつしみ迎ふ大軍師羽扇綸巾膚寒み おもわやつれし病める身を知るや情の小夜あらし諸塁あまねく経廻りて 輪車静かにきしり行く星斗は開く天の陣 山河はつらぬ地の営所つるぎは光り影冴えて 結ぶに似たり夜半の霜嗚呼陣頭にあらわれて 敵とまた見ん時やいつ祁山の嶺に長駆して 心は勇む風の前王師ただちに北をさし 馬に河洛に飲まさむと願ひしそれもあだなりや 胸裏百万兵はあり帳下三千将足るも 彼れはた時をいかにせん(六)成敗遂に天の命 事あらかじめ図られず旧都再び駕を迎へ 麟台永く名を伝ふ春玉樓の花の色 いさをし成りて南陽に琴書をまたも友とせむ 望みは遂に空しきか君恩酬ふ身の一死 今更我を惜しまねど行末いかに漢の運 過ぎしを忍び後計る無限の思い無限の情 南成都の空いづこ玉塁今は秋更けて 錦江の水痩せぬべく鉄馬あらしに嘶きて 剣関の雲睡るべく明主の知遇身に受けて 三顧の恩にゆくりなく立ちも出でけむ旧草廬 嗚呼鳳遂に衰へて今に楚狂の歌もあれ 人生意気に感じては成否をたれかあげつらふ成否をたれかあげつらふ 一死尽くしし身の誠仰げば銀河影冴えて 無数の星斗光濃し照すやいなや英雄の 苦心孤忠の胸ひとつ其壮烈に感じては 鬼神も哭かむ秋の風(七)鬼神も哭かむ秋の風 行て渭水の岸の上夫の残柳の恨訪へ 劫初このかた絶えまなき無限のあらし吹過ぎて 野は一叢の露深く世は北邱の墓高く蘭は砕けぬ露のもと 桂は折れぬ霜の前霞に包む花の色 蜂蝶睡る草の蔭色もにほひも消去りて 有情も同じ世々の秋群雄次第に凋落し 雄図は鴻の去るに似て山河幾とせ秋の色 栄華盛衰ことごとくむなしき空に消行けば 世は一場の春の夢撃たるるものも撃つものも 今更ここに見かえれば共に夕の嶺の雲 風に乱れて散るがごと蛮觸二邦角の上 蝸牛の譬おもほへば世ゝの姿はこれなりき金棺灰を葬りて 魚水の契り君王も今泉台の夜の客 中原北を眺むれば銅雀台の春の月 今は雲間のよその影大江の南建業の 花の盛もいつまでか五虎の将軍今いづこ 神機きほひし江南のかれも英才いまいづこ 北の渭水の岸守る仲達かれもいつまでか 聞けば魏軍の夜半の陣一曲遠し悲茄の声更に碧の空の上 静かにてらす星の色かすけき光眺むれば 神秘は深し無象の世、あはれ無限の大うみに 溶くるうたかた其はてはいかなる岸に泛ぶらむ 千仭暗しわだつみの底の白玉誰か得む、 幽渺境窮みなし鬼神のあとを誰か見む嗚呼五丈原秋の夜半 あらしは叫び露は泣き銀漢清く星高く 神秘の色につつまれて天地微かに光るとき 無量の思齎らして「無限の淵」に立てる見よ 功名いづれ夢のあと消えざるものはただ誠 心を尽し身を致し成否を天に委ねては 魂遠く離れゆく高き尊きたぐいなき 「悲運」を君よ天に謝せ青史の照らし見るところ 管仲楽毅たそや彼伊呂の伯仲眺むれば 「万古の霄の一羽毛」千仭翔る鳳の影 草廬にありて龍と臥し四海に出でて龍と飛ぶ 千載の末今も尚名はかんばしき諸葛亮
2023.05.27
コメント(0)
八木重吉「明日」 鮎川信夫「近代詩から現代詩へ」(思潮社)より 「明日」 八木重吉まづ明日も眼を醒まさう誰れがさきにめをさましてもほかの者を皆起すのだ眼がハッキリさめて気持ちもたしかになったらいままで寝てゐたところはとり乱してゐるからこの三畳の間へ親子四人あつまらう富子お前は陽二を抱いてそこにおすわり桃ちゃんは私のお膝へおててをついていつものようにお顔をつつぷすがいいよそこで私は聖書をとり馬太伝六章の主の祈りをよみますからみんないつしよに祈る心にならうこの朝のつとめをどうぞたのしい真剣なつとめとして続かせたいさあお前は朝飯のしたくにとりかかり私は二人を子守してゐるからお互いに心をうち込んでその務を果たさう・・・・・・・ 鮎川信夫の「近代詩から現代詩へ」(思潮社)という解説集を案内しましたが、その「八木重吉」の項で取り上げたのは「明日」という詩でした。 まず、こんなふうに詩人のプロフィールを語ります。 内村鑑三に私淑し、キリスト教徒として敬虔な信仰生活を送ったといわれる八木重吉は、わずか二十九才の若さで病没しているが、生存中に書かれた詩は意外に多く、七百篇を越えるといわれている。折りにふれての感懐が、日記でもつけるように次々と短詩のかたちでメモされていったという印象をうける。 誰かに読ませるためというよりも、自分自身の悟りのために書かれた詩である。 で、詩が紹介され、こんな解説がサラッと記されています。 「明日」という詩には、作者の実生活の意識がかなりはっきりあらわれていて同情をひく。神を信じ、愛を信じ、生きることに希望を見出してゆく詩人の一途の心が、ごく自然な形で表現されている。 しかし、八木重吉の詩の底に流れる寂寥感はどこからくるのであろうか。天気のいい昼間に、涙をにじませている作者の姿は、いかにも痛ましい。あまりにも信じすぎている人間の無垢の心が、それに応えることのできない現実の貧しさを洗いだして、そこにさむざむとしたスキマをつくっている。 この、短い評言を読みながら、八木重吉の詩はどの詩を読んでもさびしい、そう読んで間違いなかったんだという安心感のようなものに浸りながら、あまりにも信じすぎている人間の無垢の心が、それに応えることのできない現実の貧しさを洗いだして、そこにさむざむとしたスキマをつくっている。という結語に唸るのでした。 八木重吉が結核で亡くなったのは1927年(昭和2年)10月26日だそうです。「明日」の中に「富子」として名前が出てくる妻登美子は、重吉亡き後、残された二人の子どもを女手一つで育てますが、桃子を1937年(昭和12年)、陽二を1940年(昭和15年)、それぞれ結核で失います。ただ、彼女自身は、その後、歌人の吉野秀雄と再婚し、1999年まで生きられたそうです。彼女の遺骨は1967年に亡くなった夫、吉野秀雄の遺言で、八木重吉の墓に分骨され埋葬されているそうです。胸打たれる話だと思いました。
2023.05.19
コメント(0)
長谷川櫂「俳句と人間」(岩波新書) とりわけ、俳句に興味があるというわけではありません。いつも行く図書館の新刊の棚にありました。今回の案内は長谷川櫂「俳句と人間」(岩波新書)です。 長谷川櫂という名は知っていました。エッセイとか、ひょっとしたら句集とかも読んだ気がします。大岡信とか丸谷才一と歌仙とかやっていらっしゃった本もあって、才気あふれる若手の俳人だと思っていたら、同い年でした。 岩波書店の「図書」というPR誌に連載されていたエッセイの様なのですが、開巻早々、「はじめに」の書き始めが、こんな感じです。 いったん人間に生まれてしまったからには必ず死ななければならない。これがいつの時代も変わらない人間の定めである。しかし若いうちは命の歓びに目がくらんで目の前の鉄則が見えない。うららかな春の日が永遠に続くと思い込んでいる。 しかしあるとき人間は自分の命もやがて終わることに気づくのだ。これまで生きてきた人々と同じように自分もいつかは死ぬということに。2018年、皮膚がんが見つかったのは私にとって、その「あるとき」だった。 笑い事ではないのですが、笑ってしまいました。どこか、喧嘩ごしですね。 で、第1章が「癌になって考えたこと」で、中には、こんな文章が綴られています。 この年の夏は記録的な猛暑だった。梅雨明けとともに炎天が続き、街に出るとたちまち炎のような熱風に包まれる。 切除手術からひと月たった七月下旬、精密検査の結果を聞きに家内と病院に行った。まだ午前中というのに信濃町駅から慶応病院へ渡る横断歩道の、そして神宮外苑の森を超えて建設中のオリンピック・スタジアムへ続く青空のなんとまぶしく輝いていたことか。 私は診察室に入るまで、不覚にも「異常なし」といわれるものと思いこんでいた。ところが大内先生の口から出たのは想像もしない言葉だった。「皮膚癌でした。・・・・・もう一度、患部のまわりをきれいに切除しましょう。その前にPET検査を受けてください。転移が見つかれば、化学治療や放射線治療をすることになります。」 ガーン・・・、だったのでしょうね。先に引用した「はじめに」の冒頭の雰囲気が、まあ、ボクがそう思うだけなのかもしれませんが「喧嘩ごし」だった理由がわかります。 で、目次を引用するとこうなっています。 目次第1章 癌になって考えたこと第2章 挫折した高等遊民第3章 誰も自分の死を知らない第4章 地獄は何のためにあるか第5章 魂の消滅について第6章 自滅する民主主義第7章 理想なき現代第8章 安らかな死 突然、向こうからやってきた「死」をめぐる考察というわけですね。というわけで、第1章は、まあ、ご本人の発病というか、病気発見のいきさつがあれこれ書き綴られているのですが、そこで思い浮かべられたのが正岡子規でした。 さもありなんです。ちなみに、第2章で話題になるのは「挫折した高等遊民」という題で予想がつくと思いますが漱石です。というわけで、近代以降の俳句の歴史をたどるのかと思いきや、違いました。 もっと向うにいると思っていた「死」とリアルに出会ってしまった俳人長谷川櫂の頭や心に思い浮かんでくるあれやこれやが、「待ったなし」のテンポで書き綴られているというのがボクの印象でした。 日々の生活エッセイと考えれば、ある意味、本道ですね。その、話題の飛び方というか、選び方というかが、さすが俳人長谷川櫂!というところです。たとえば、2010年代後半の現実社会に対する、歯に衣着せぬ、まっすぐなご発言には、「なるほど、そういうふうにお腹立ちなのですね。」というか、「俳句の本なのか辛口時評なのかわかりませんね。」というか、「言え、言え、もっと言え!」というか、なかなか胸のすくところもありますが、興味深く読んだのは、矢張り「俳句」をめぐる「ことば」であり「文章」なのでした。 で、「案内」としてまとめていえばと考えると、結局、俳句そのものが残ります。巻頭から最終章まで、記憶に残った俳句、まあ、中には短歌もありますが、それらを一人につき一つづつ抜き出して振り返って案内してみようと思います。しんかんとわが身に一つ蟻地獄 櫂 自らの病を知った長谷川櫂です。で、彼の心に浮かぶのはのは正岡子規でした。病床の我に露ちる思いあり 子規 子規とくれば漱石です。冷やかな脉(みゃく)を護りぬ夜明け方 漱石 で、二人を見つめながら、思い浮かんでくるのは明治という社会の行く末で、そこに見えてくるのは沖縄です。死と向き合っている長谷川櫂が沖縄に目をやること自体に、ハッとさせられました。捕虜になるよりも死ねとぞ教えたるわれは生きゐて児らは死にたり 桃原邑子「沖縄」 戦後の社会を切なさとともに生き延びてきた人がいることから目を背けていないか。そんな自問が病との出会いと重なります。爽やかに主治医一言切りませう 山田洋 目を背けない医師は冷静ですが、診察室に響く声の音に、耳を澄ませ、息を詰まらせて座ってる人の孤独は他人ごとではありません。手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が 河野裕子 何とか息を吐こうをするのはあがきでしょうか。で、俳人が思い浮かべたのは死を覚悟した芭蕉の境地でした。秋深き隣りは何をする人ぞ 芭蕉 ベッドに横になり、目をつむって周囲を伺えば、蛍に化身してさまよい出て行った魂が帰ってきます。蛍来よ吾のこころのまんなかに 長井亜紀「夏へ」 蛍の淡い光の中にうかんでくるのは誰もいなくなった福島の雪の中で死んでいった生き物たちの姿です。牛の骨雪より白し雪の中 永瀬十悟「三日月湖」 海に消えた魂たちに声を届けたい。ひとりまたひとり加はる卒業歌 照井翠「龍宮」 思い浮かぶのは、遠き日の友人の笑顔と諧謔です。生きたしと一瞬おもふ春燈下 玩亭・丸谷才一 遠き日々、そして今日の日没、あの蕪村が立っていた場所。遅き日のつもりて遠きむかし哉 蕪村しかし、今日、長谷川櫂が立ち尽くして仰ぐ空は青いのでした。大空はきのふの虹を記憶せず 櫂 何とか書き続けようと自らを鼓舞するかのような文章に、こんな世の中で生きていることのいら立ちや鬱陶しさが伝染してくるようなイやな感じにとらわれながらも、「それでどうするの?」と問いかけたくなるような近しさをも感じながら読み終えました。同じ年に生まれた人だという、本来の意味の同情を呼び起こされたのでしょうか。 本書に引用されていた桃原邑子歌集「沖縄」、照井翠句集「龍宮」という歌集と句集は新しい発見でした。お二人のお名前と、それぞれの書名は記憶にあったのですが、今回、きちんと読み直すことを古い友人に促されたような気分で本書を読み終えました。
2023.05.07
コメント(0)
平出隆「猫の客」(河出文庫) 平出隆という人は野球の話を書く詩人だと思っていましたが、ネコの話も書いていらっしゃるそうで、その上、フランスあたりで評判をとっていらっしゃるということを、どこでだったか忘れましたが、聞きつけて読みました。「猫の客」(河出文庫)という小説を読みました。 始めは、ちぎれ雲が浮かんでいるように見えた。浮かんで、それから風に少しばかり、右左と吹かれているようでもあった。 台所の隅の小窓は、丈の高い板塀に、人の通れぬほどの近さで接していた。その曇りガラスを中から見れば、映写室の仄暗いスクリーンのようだった。板塀に小さな節穴があいているらしい。粗末なスクリーンには、幅三メートルほどの小路をおいて北向うにある生籬の緑が、いつもぼんやりと映っていた。 狭い小路を人が通ると、窓いっぱいにその姿が像を結ぶ。カメラ・オブスキュラ ― 暗箱と同じ原理だろう、暗い室内から見ていると、晴れた日はことに鮮やかに、通り過ぎる人が倒立して見えた。そればかりか、過ぎていく像は、実際に歩いていく向きとは逆の方へ過ぎていった。通過者が穴に最も近づいたとき、逆立ちしたその姿はあふれるほどにも大きくふくれあがり、過ぎると、特別な光学現象のように、あっという間にはかなく消えた。 ところが、その日あらわれたちぎれ雲の像は、なかなか過ぎようとしなかった。それでいて、穴に近づいてきてもさほど大きくならなかった。いちばんふくれあがっているはずの地点にあっても、窓の上部で、掌に載るほどの大きさにとどまっていた。ちぎれ雲はためらうように道にたゆたい、それから、ようやくかすかな啼き声がした。(P7~P8) これが書き出しです。なにかが台所の小窓にちぎれ雲が浮かんでいるように見えるシーンの描写ですが、書き写していて気持ちがいいですね。いかにも、詩人の文章を思わせる言葉の選び方の端正な雰囲気がいいのでしょうね。 実は、この本の文庫版の表紙カバーは二つあるらしいですね。上に貼ったのが藤田嗣治の「クチュリエの猫」という絵だそうですが、もう一つの方が、下に貼った、これですが、加納光於という版画家の「稲妻獲り」L-no.15というリトグラフだそうです。 藤田嗣治の猫の絵は、この作品の主人公(?)にちなんでいるわけですが、加納光於のリトグラフの方は、先ほどの引用の中にあった小路のことを、その通路の形が、多分、稲妻形なのでしょう、の連想から、書き手のご夫婦が「稲妻小路」と呼んでいらっしゃるということもあるのですが、実は作品の中にこんな描写があります。 昼は昼で、チビは梅の花びらを背につけたりしながら、ハナアブを叩き、トカゲを嗅ぎ、精気と渾沌の萌しはじめた庭で遊びつづけた。 突然の木登りは、稲妻に化けたようであった。稲妻はたいがい上から下へ走るものだが、この稲妻は下から上へも走ったわけである。チビが電撃的な動きで柿の木に登るの、件のノートの中で「稲妻の切尖のように」と妻は書き留め、また、「雷鳴を起こす手伝いをするように」とも言い換えたりした。なるほど、そんな感じがした。(P87~P88) この後、そこでは作品名しか出てきませんが、旧知であると思われる版画家との対談の話題とかが、まあ、ちょっと、ペダンチックに語られたりするわけですが、そこで話題にされている作品がこの表紙なわけです。 マア、お読みになって、面白がっていただくほかありませんが、この作品が自然現象としての、たとえば猫の「生」と、人間の認識とのスキマというか、ズレを凝視しているように、ぼくは思うのですが、そのあたりを考える上でも、二つの表紙の絵は興味深いですね。 この作品は、末次エリザベートという訳者を得て、フランスでも出版されているそうです。彼女の解説によれば、2009年現在で2万部を越えて読まれているそうです。日本の出版業界で2万部がどんな数字なのかはわかりませんが、フランスではかなりなヒット作品なのだそうです。 猫好きな方、別に限定するわけではありませんが、一度、手に取られてはいかがでしょう。ちょっとキザですが、悪くないと思いましたよ(笑)
2023.02.13
コメント(0)
坪内稔典「季語集」(岩波新書)時候暮秋 秋の末を季語では「暮れの秋」「暮秋」「秋暮れる」などという。 夏目漱石は「病妻の閨(ねや)に灯(ひ)ともし暮るる秋」という句を作っている。 「病妻」は病気の妻、「閨」は寝室である。漱石の妻(鏡子)はときどきヒステリーを発し、体が海老のように硬直した。そういうとき、漱石は茶碗の底をぶっ倒れている妻のみぞおちに押し当てた。そしていると次第に体がほぐれてくるのだった。 一方、夫の漱石は周期的に神経衰弱になり、たとえば夜中に手当たり次第に物を投げて暴れた。また、突然に妻に離縁を迫ったりした。 要するに、夏目家の暮秋はすさまじかった。「病癒えず蹲る夜の野分かな」。これは漱石の自画像か、それとも妻のようすであろうか。 髭風ヲ吹て暮秋歎ズルハ誰ガ子ゾ 松尾芭蕉 能すみし面の衰え暮れの秋 高浜虚子(P173) 坪内稔典という俳人の「季語集」(岩波新書)という、歳時記、エッセイ集、いや、季語集を読んでいます。日々欠かすことのできない「某所」での読書にぴったりです。 1ページ400字、俳句で言う、季語が必ず一つ、最後にその季語の句が2句、江戸以前の古典句と近代以降の現代句が一句ずつ添えられています。マア、季語によっては現代句ばかりの場合もあります。1ページ読み終えるのに、10分も座らなくても大丈夫です。 全部で、300余りの季語について、400字のエッセイという短さには訳があります。「季語を楽しむ」という前書きの中で作者自身がこう説明しています。 この本は毎日新聞に1991年12月より連載した「新季語拾遺」「稔典版今様歳時記」がもとになっており、後者は現在も連載が続いている。その連載は1回分が400字であり、その字数でいかに書くかに私は苦心した。(P7) という訳で、この前書きの文章が書かれたのは、この本が出版された2006年らしいのですが、15年以上続いた人気コラムの書籍化というわけです。新聞に載っていたのが30年前、出版されたのが16年前、今となっては古本屋さんで250円でした。 取り立てて「俳句」に興味があるわけではありません。250円の某所の友です。で、ちょうど、週に一度お出会いしている女子大生のみなさんに「『こころ』の授業をやるなら漱石に興味を持ってくださいね!」と呼びかけていることを思い出しての「読書案内」という次第です。病癒えず蹲(うずくま)る夜の野分かな ぼくも、はじめて知った句ですが、ぼくには妻の姿を見ている漱石が思い浮かびます。それにしても、何とも、漱石ですね。 坪内稔典という俳人は漱石の親友正岡子規の研究者(?)として知られていると思いますが、この句を持ち出して漱石夫婦の長い秋の夜を400字、絵でいえば一筆書きで描いて見せているのは、さすがの手練れぶりです。新聞連載を10数年も続けられたわけです。 マア、どこからで、20歳の女学生さんたちが、夏目漱石に興味を持ってくれるきっかけになれ、それに越したことはありませんという案内でした。もちろん、「漱石俳句集」は岩波文庫に、今もありますよ。マア、古本屋をお探しになれば、ただ同然かもしれませんが(笑)
2022.10.12
コメント(0)
小沢實「名句の所以」(毎日新聞出版) どこで、この方のお名前を知ったのか全く分からないのが、最近のシマクマ君の生活の実態を如実にわからせてくれる気がして、ちょっと不安なのですが、ともかくも、図書館で予約して借り出して読んでいます。 俳句の方らしいのですが、この方の句を唯の一つも存じ上げないわけで、この本が初対面です。「俳句αあるふぁあ」という毎日新聞社が出している季刊俳句総合雑誌というものがあるそうで、そこに連載されていた「新 秀句鑑賞」というエッセイ(?)が本になったようです。小沢實「名句の所以」(毎日新聞出版)です。 「新年」にはじまって「春」、「夏」、「秋」、「冬」、「無季」と、歳時記とかの並びで、ほぼ300ページです。1ページに一人、話題になっている「名句」が1句と、同一作者の参考句が1句、計2句載っていていますから300人で600句載っていますが、文章のなかにも、場合によっては数句出てきますから、1000句近い俳句が載っていることになります。 ページの隅に作句者の生年月日、没年(生きている人にはない、もちろん)、師匠、結社などが記されています。 こう書くと、辞書みたいなものということになりますが、たぶん、400字の原稿用紙一枚の観賞文は丁寧で、何よりも、読者がシロウトだという気づかいが感じられて読みやすいので、辞書のそっけなさはありません。 墓掴み洗い了りぬ山椒喰 石田あき子 ようやく墓をつかんで洗い終わった。いい声で山椒喰が鳴いている。 墓参の際の墓掃除の動作をていねいに描いている。あき子の夫は波郷である。橋本榮治は、掲出句と「霜の墓抱き起されしとき観たり 波郷」とが遠く響き合っていると指摘するが、そのとおりだろう。また、「掴み」と言えば、「西日中電車のどこか掴みて居り 波郷」が反射的に思い出される。この動詞によって、墓を頼りに生きている思いも感じられる。意識しているか、無意識かわからないが、夫の句に由来するのだろう。 「山椒喰」は雀くらいの大きさの鳥で、「ひりんひりん」と高い声で鳴くという。晩春。「山椒喰」の鳴き声も生前の夫に教わっているのかもしれない。「風くれば檜原したたり山椒喰 波郷」。波郷の墓は、東京・調布市の深大寺にある。「石田あき子全句集」(昭和五十二年刊)所載。【山椒喰】 さくら餅死んでも夫の誕生日あき子は大正四年生まれ。病の波郷を助け子を育てた。「鶴」「馬酔木」に投句。昭和五十年没。 句が気に入ったページですが、まあ、こんな感じですね。気に入ったのは「さくら餅」のほうの句です。 書き写したいページは何ページもありますが、きりがありません。この4月から、久しぶりに学生さんの前に立つ時間が週に一度ありますが、たぶんそんなこともあってでしょうね、いいなと思った句がありました。その句だけ引用します。起立礼着席青葉風過ぎた 神野紗希 「俳句甲子園」という大会で詠まれた句だそうです。漢字の連打なのですが、そういう経験のない方には、たぶん、爽やかな句なのでしょうね。ぼくには、「いいなあ」と思う一方で、40年近く務めた学校という仕事場の、終わりの頃の雰囲気が響いてくる気がしました。 勤め始めたころには考えられなかったことですが、20年ほど前から一部の中学校で「よろしくお願いします!」とか「ありがとうございました!」を大声で唱和させる「しつけ?」が始まったらしく、そこから来た新入生たちが入学先である高校で、そのことばを唱えて、慌ててやめさせた思い出があります。面白がる同僚もいましたが、なんとなく笑えなかった記憶です。 引用した句は学生さんの方からの句ですが、起立、礼のかけ声はともかく、授業の始まりに風が吹き抜けるのを感じる教員のがわからの句として読んでもいいじゃないかと思いました。「おい、ちょっと、外見てごらん。青葉がゆれてるよ。青葉風って知ってる?」 この本は、そういうネタ本にするのもよさそうですね。辞書みたいにして季節ごとにネタを探すのにうってつけです。やっぱり買おうかなあ?「起立、礼」の授業もうないけど・・・。
2022.04.28
コメント(0)
西東三鬼「神戸・続神戸」(新潮文庫) 奇妙なエジプト人の話 昭和十七年の冬、私は単身、東京の何もかもから脱走した。そしてある日の夕方、神戸の坂道を下りていた。街の背後の山に吹き上げてくる海風は寒かったが、私は私自身の東京の歴史から解放されたことで、胸ふくらむおもいであった。その晩のうちに是非、手ごろなアパートを探さねばならない。東京の経験では、バーに行けば必ずアパート住まいの女がいるはずである。私は外套の襟を立てて、ゆっくり坂を下りて行った。その前を、どこの横町から出てきたのか、バーに働いていそうな女が寒そうに急いでいた。私は両県のように彼女を尾行した。彼女は果たして三宮駅の近くのバーへ入ったので、私もそのままバーへはいって行った。そして一時間後にはアパートを兼ねたホテルを、その女から教わったのである。 それは奇妙なホテルであった。(P9~P10)「昭和17年冬」、「東京からの脱走」、「襟を立てた外套」、「バーの女」、何やら江戸川乱歩の登場人物あたりを彷彿とさせて、なんというか、探偵小説か悪漢映画の主役の登場というふうな書き出しなのですが、一つだけ「はアー?」と思わせる「胸のふくらむおもいであった」で脱臼させられて、「こりゃ、ちゃうな」というところに作者がいるようです。 昭和29年(1954)から「俳句」(角川書店)という雑誌に連載された、俳人西東三鬼が神戸時代の思い出を綴ったエッセイ(?)「神戸」の第一話「奇妙なエジプト人」の書き出しです。 友人にすすめられて読み始めて、「胸のふくらむおもいであった」あたりで、これが西東三鬼という人の「俳味」なのだろうと当てずっぽうをかまして読んでいたのですが、続けてこんな話が出てきて絶句しました。 その窓の下には、三日に一度位、不思議な狂人が現れた。見たところ長身の普通のルンペンだが、彼は気に入りの場所に来ると、寒風が吹きまくっている時でも、身の回りのものを全部脱ぎ捨て、六尺褌一本の姿となって腕を組み、天を仰いで棒立ちとなり、左の踵を軸にして、そのままの位置で小刻みに体を廻転し始める。生きた独楽のように、グルグルグルグルと彼は廻転する。天を仰いだ彼の眼と、窓から見下ろす私の眼が合うと、彼は「今日は」と挨拶した。(P11) もうやめられません。この後、この「普通のルンペン」とのやり取りこんなふうに続きます。 私は彼に、何故そのようにグルグル廻転するのか訊いてみた。「こうすると乱れた心が静まるのです」と彼の答えは大変物静かであった。寒くはないかと訊くと「熱いからだを冷ますのです」という。つまり彼は、私達もそうしたい事を唯一人実行しているのであった。彼は時々「あんたもここへ下りてきてやってみませんか」と礼儀正しく勧誘してくれたが、私はあいかわらず、窓に頬杖をついたままであった。 彼が二十分位も回転運動を試みて、静かに襤褸をまとって立ち去った後は、ヨハネの去った荒野の趣であった。それから二年後には、彼の気に入りの場所に、てんから無数の火の玉が降り、数万の市民が裸にされて、キリキリ舞したのである。(P12) いかがでしょう、この章の題は「奇妙なエジプト人の話」なのです。要するに、この話は、落語でいえば枕なのですね。その枕の「普通のルンペン」がこうなのです。「奇妙な」、その上、当時、「敵性国人」として監視対象だった「エジプト人」の話はいったいどうなるのでしょう。というわけで、あとはどこかで本書を手にとっていただくしか仕様がなさそうですね。 ところで西東三鬼という人ですが、要するに、ちょっとぶっ飛んでいるのですが、一方では、五七五では収まりそうもない大きな世界をどこかでを感じさせてくれる人でもあります。水枕ガバリと寒い海がある こんな句が高校の国語の教科書に出てくることもあって、よく知られていますが、こんな句もあります。つらら太りほういほういと泣き男秋の暮れ大魚の骨を海が引く 最近、小沢實という人の「名句の所以」(毎日新聞出版)という本で見かけて、ハッとした句です。「神戸」では、ただの世話焼きのおっさんとして登場するのですが、戦争末期から戦後のどさくさの神戸の町で生きる奇妙奇天烈な隣人たちの世界を、神戸の町ごと壺中の天に抱え込んでいる方術士というのは、ちょっとほめ過ぎでしょうか。まあ、そんなところがあると思います。 とくに、震災以前の古い神戸をご存知の方には、特におすすめです。乞うご購読!(笑)
2022.04.12
コメント(0)
松村由利子 「子育てをうたう」(福音館) 著者の松村由利子さんは1960年生まれの歌人だそうです。毎日新聞社にお勤めになって生活家庭部とか、科学環境部に所属して記者をなさっていたようですが、現在は石垣島にお住みになっていらっしゃるようです。 彼女の名前をどこで知ったのか、全く覚えがないのが不思議ですが、この本は図書館で借りて読みました。赤ちゃん育てる家族子どもの世界子どもとの日々 こんな目次で、お母さんのおなか中に新しい命として宿ってから、出産を経て、やがて学校に通い始めるまでの、その時その時の子どもの姿が詠まれている短歌が集められて、一首一首感想が記されているという短歌のアンソロジーです。 感想は、働きながらお子さんを育てられた女性の何気ない言葉として記されていて、鑑賞の助けはしてくれますが、邪魔にならないところが妙味です。 章ごとに記憶に残った歌を引用してみます。「赤ちゃん」 授かるわが体を内よりノックするひとよ白い光は梅の花だよ 駒田晶子分娩の話をすれば箸宙に浮かせて夫は少し怯える 前田康子 生まれるしんしんとひとすぢ続く蝉のこゑ産みたる後の薄明に聴こゆ 河野裕子 親になることわたくしは子を生みて良き力得て空響かせて布団を叩く 早川志織「育てる」 寝かせる遊びたい寝るのは嫌と子は泣けりこんなにわれは眠りたいのに 吉川宏志 食べさせるご飯、パン、魚、挽肉、豆、南瓜,豆腐ときどき言葉もこぼす 駒田晶子をさな子の指いそがしく働きてぶだうパンよりぶだうとり出す 西村美佐子 抱く子がわれかわれが子なのかわからぬまで子を抱き湯に入り子を抱き眠る 河野裕子 家族たったこれだけの家族であるよ子を二人あひだにおきて山道のぼる 河野裕子「子どもの世界」 おもちゃプレゼントの洋服よりも包装の紐が好き好き裸で遊ぶ子 小林さやか 遊びお母さんより猫になりたい子の増えて鳴き声ばかりの不思議なあまごと 山下れいこ 空想猫を生んだことがあるかと問へる子に驚くわれは否と言へざり 西村美佐子 笑いりす、すずめ、めだか、かい、いか、かかし、しか、かぼちゃでふいに子が笑いだす 中津昌子 幼ごころの不思議枝豆は自分で剝くから美味いのに 子供が皿に剥きてくれたり 吉川宏志危ないことしていないかと子を見れば危ないことしかしておらぬなり 俵万智 お菓子高熱のこどもとろんと起き上がりアイスクリームが食べたいと言う 東直子 うそ今日もまた嘘言ひし子よ肩抱きて忘れかけたる子守唄(ララバイ)うたふ 古谷智子とっぷりと吾子のつきたる大嘘の世界に入りて我も遊ばん 永守恭子 けんか食卓に諍いていし姉弟にさざなみの如く笑みが伝わる 花山多佳子 一人でいること白い紙こまかにこまかに刻みゐるこどもはうしろに立つものを知らず 葛原妙子「子どもとの日々」 ことばことなよりほかに与えるもののなきわれは子の指すものの名教え 鶴田伊津 それぞれの歩み自閉ちゃんダウンちゃんというふ呼び方に馴染めず輪から外れる、独り 東野登美子 おふろ湯上りの湯のにほひする子のはだか雪ふる夜の部屋を行き来す 小島ゆかり 病気熱のある児と幾たびも合わせたるおでこ、ほっぺた、おでこ、なつかし 栗木京子 男の子・女の子「おれ」という言葉覚えて来たる子の「オレ」とふ響きすこしはにかむ 棗隆 時間昨日でも五分前でも過去のこと「昔はねえ」とたっちゃんの言う 加藤扶紗子アイスクリーム舐めて眺めてまた舐める稚き子らに時間は長し 塚本諄 生と死眠る子を台所から見に戻る死んでいるかも知れぬと思い 川本千栄 成長洋服をひとり脱ぎゐる幼児がわが手助けを激しく拒む 高安國世振り向かぬ子を見送れり振り向いたときに振る手を用意しながら 俵万智 子育てのとき身をかがめもの言うことももはや無し子はすんすんと水辺の真菰 河野裕子あとがき地球はもうダメだと子ども言い放ち公文の算数解きにかかりぬ 松村由利子 なんだか引用の歌がふえすぎて大変なことになってしまいましたが、何はともあれ「いいな」とぼくが思った歌です。太字が「章」の名前と見出しです。見出しごとに、だいたい引用の三倍ほどの歌が載っています。 四人いた子供たちがみんな出て行ってしまった家で暮らす老人には、ただ、ただ、懐かしいだけのようなものですが、生まれたばかりの赤ん坊や、わんぱく盛りの少年たちと暮らしていた、あのころ読んでいれば、また違った感想だったかもしれないと思いました。 表紙のお母さんと二人のおチビさんの絵も素直に懐かしく感じましたが、裏表紙を見てしみじみしてしまいました。子どもたちはこうして旅立っていくのですね。まあ、自分も、そうしてきたのですが。 お母さんの歌が多いのですが、若いお父さんにも読んでほしいと思ったアンソロジーでした。
2022.02.08
コメント(0)
週刊 読書案内 石原吉郎「石原吉郎詩文集」(講談社文芸文庫) 映画が早く終わって、さあ、帰ろうと思いながら、さしたる目的もなく、ただ歩いているだけの日があって、そういえば「歩きながら考える」詩人が、貧血で倒れて、そのまま入院したとかいう話を、ずーっと昔に読んだことがあったことを思い出しました。 詩人の名前は石原吉郎です。1915年、大正4年生まれで、東京外語のドイツ語学科を出て1939年に出征し、1945年の敗戦を満州のハルビンで迎えるのですが、その年の暮れにソビエト軍に逮捕され、捕虜となります。 1949年、25年の重労働の刑を言い渡されます。反ソ・スパイ行為の罪だったそうですが、1945年以前の、彼の職掌に基づいた行為が断罪されたらしいです。結果、シベリアのラーゲリに収容され、1953年、スターリンの死によってようやく解放され、翌1954年に帰国するという「体験(?)」を経て、詩を発表し、戦後詩を代表する詩人の一人と評価された人でした。 戦争体験を背景にした詩人としての作品が60年代から70年代の若いひとの心をつかみました。かく言うぼくもその一人ですが、詩人がアルコール依存症に苦しみ1977年、62歳で世を去ったとき、「自ら命を絶ったのでは」と、一人で、ぼんやり考え込んだことを覚えています。「さびしいと いま」 さびしいと いまいったろう ひげだらけのその土塀にぴったりおしつけたその背のその すぐうしろでさびしいと いまいったろうそこだけが けものの腹のようにあたたかく手ばなしの影ばかりがせつなくおりかさなっているあたりで背なかあわせの 奇妙なにくしみのあいだでたしかに さびしいといったやつがいてたしかに それを聞いたやつがいるのだいった口と聞いた耳のあいだでおもいもかけぬ蓋がもちあがり冗談のように あつい湯がふきこぼれるあわててとびのくのは土塀や おれの勝手だがたしかに さびしいといったやつがいてたしかにそれを聞いたやつがいる以上あのしいの木もとちの木も日ぐれもみずうみもそっくりおれのものだ(詩集「サンチョ・パンサの帰郷」より) こんな詩を繰り返し読んでいたぼくは1974年に二十歳になった青年でした。で、そのころのぼくは、たとえば「石原吉郎の詩」のことなんかを誰かと語り合うことが、最初から禁じられているような思いこみで、文字通り「無為」な学生生活を送っていました。詩がわかっていたわけではありません。しかし何かが刻み込まれていくような印象だけは残りました。 あれから半世紀の時が経ちました。先日、思い出したついでに手にとった「石原吉郎詩文集」(講談社文芸文庫)をパラパラしていて、ワラワラと湧いてくる得体のしれないものに往生しましたが、中にこんな詩を見つけて、少し笑いました。「世界がほろびる日に」世界がほろびる日にかぜをひくなビールスに気をつけろベランダにふとんを干しておけガスの元栓を忘れるな電気釜は八時に掛けておけ (詩集「禮節」より) 50年たったからといって、詩人の作品がよくわかるようになったわけではありません。詩人の死の年齢をとうに過ぎて、二十歳の青年が「歩く」よりほかに行動する意欲を失った老人になっただけです。この50年のあいだ、その半ばには、住んでいた神戸では大きな地震があり、その後、世紀末だというひと騒ぎもありました。それから10年たって、想像を絶する津波と原子力発電所の崩壊までも目にしました。にもかからわず、世界は陽気に存続しつづけています。 「ああ、これがほろびの始まりかも」 このところの「コロナ騒動」を、半ば当事者として、半ばは傍観者として眺めながら、そう思ったのですが、なかなかどうして、しぶとく「ほろび」をまぬがれそうです。本当は、もう「ほろんでいる」のを知らず、毎日、電気釜をセットしているのかもしれませんが、世はこともなげに選挙で騒いでいたりして、イソジンが効くとかいった人が人気者だったりします。 「あるく」しか能のない老人は、うるさく騒いで人を集めている宣伝カーをなんとか避けながら、裏通りにまわり、ブツブツつぶやきます。 「かぜをひくな ビールスに気をつけろ」 なかなかいい感じです。寒くなります。皆様も風邪などお引きになりませんように(笑)。
2021.11.09
コメント(0)
週刊 読書案内 穂村弘「にょっ記」(文春文庫) 歌人の穂村弘の「にょっ記」(文春文庫)を元町の古本屋さんで買いました。2006年に「別冊文芸春秋」という月刊誌に連載されていた「日記(?)」のようですが、果たしてこれが日記かどうかは、意見の分かれるところかと思います。2009年に出版された文庫版です。もう10年以上も前の本ですね。 ぼくは暇なうえに、これといった目的があったり、夢の実現をもくろんで努力するということが、ただただ、ない暮らしをしていますから、妙にはまりましたが、お忙しい人生を生きている人が読んだらどう思うのか、聞いてみたいような気はしますが、特にすすめません。 開巻、第一日目はその年の4月1日です。その年がどの年かはわかりませんが、たぶん、穂村弘本人も連載の初回ということで、気合とか入っているんじゃないかとも思います。引用してみますね。4月1日 おにぎり できたてのおにぎりを食べる できたてのおにぎりは、やわらかく、あたたかく、湿っていて、まだおにぎりとして「確定」していないようで、落ち着かない気持ちになる。 おにぎりを食べながら、小学校の運動会を思い出す。 お母さんとたあちゃんとたあちゃんのおばさんと一緒に、広げた茣蓙の上で、風に切れ 切れの放送を聞きながら食べた。 あれは、ひんやりつめたいおにぎり。 風の合間の青空。 遠い歓声。 草に垂れた靴紐。 未来。 僕の未来。 僕の未来は、どこにいったんだろう。 今、ここにある、これが僕の未来なのかな。 指にくっついたご飯粒をぺろぺろ嘗めながら涙ぐむ。 こんな感じですね。ついでなので、適当に、まあ、なるべく短いのを引用します。6月6日 冗談を思いつく 「きびしい半ケツは出ました」という冗談を思いつく。10月1日 真夜中の先生 真夜中に、ベッドの上でぬいぐるみたちに通知表を配る。 ぬいぐるみたちは、とってもどきどきしていた。3月18日 ライオン 口の中にあたまをつっこめば友達になれる、ってテレビで畑正憲さんが。 まあ。こんな感じですが、ちなみに最終回は3月31日です。ぼくが選んだ日付は、ぼくの誕生日には記述がなかったので、翌日の6月6日。今これを書いているのが10月1日。「終りの方で」と思ったのですが3月31は少し長かったので、高校時代の友達の誕生日3月18日。彼は「アインシュタインと誕生日が同じだ」といって、威張っていましたが、今調べてみるとアインシュタインは3月14日が誕生日らしいですから、ぼくの記憶違いかもしれません。まあ、3月14日も「にょっ記」には記述がありませんから、これでいいです。 作家の長嶋有という人が、解説の代わりとか言うことで「偽ょっ記」というのを、お終いの方に何ページか書いていますが、面白くない上に長いので引用しません。 ということで、大したことが起こらなくても、特に腹が立ったりしないお暇な人にすすめます。
2021.10.02
コメント(0)
山形梢 編「赤ちゃんと百年の詩人 八木重吉の詩 神戸・育児編」(ほらあな堂) 赤ん坊が わらふ 八木重吉 赤んぼが わらふ あかんぼが わらふ わたしだって わらふ あかんぼが わらふ この「読書案内」で、以前、八木重吉の詩の、ちいさなアンソロジー詩集「六甲のふもと 百年の詩人」(ほらあな堂)を手作りした山形梢さんのことを紹介したことがあります。 その山形さんが続編、「赤ちゃんと百年の詩人 八木重吉の詩 神戸・育児編」(ほらあな堂)を作られました。 山形さんは、おチビさんが1歳の誕生日を過ぎたころ、小さなアンソロジーを手作りして届けてくれました。その手ぎわというか、勇気というか、心もちにとても感動したのですが、今度は、日々成長していくおチビさんの笑顔を見ながら作った詩集のようです。 ようやく歩きはじめたらしい、おチビさんの手を引いて、旧御影師範の跡地を訪ねて写真を撮ったり、石屋川公園あたりで水遊びをしたりしながら選んだ詩を編集した冊子のようです。 先日、山形さんのお住いの近くでおチビさんと半年ぶりに再会しました。目をぱちくりさせた驚きの表情がとてもかわいらしかったのですが、怪しい徘徊老人はお友達にはしていただけなかったようで、うってかわった渋面から涙かあふれる前に退散と相成りました。おどろきのかたまりよ、わたしのちいさなむすめうまれてからまるひとつのもも子おまへの からだはたましいのように おどろいてゐる草のように おどろいてゐる「欠題詩群(二)」1924年10月 詩人の薄幸な人生の、つかの間のよろこびを断片のように書き残した詩のことばの中に名をのこした長女桃子ですが、4歳で父を亡くした彼女もまた、父の不幸を追うように14歳で他界したことが解説に記されていました。 山形さんが、幼い命の輝きに目を見張る暮らしの中で、新たに見つけた、八木重吉の詩の喜びと悲しみが伝わってくる詩集だと思いました。 なかなか手に入れることが難しい冊子だと思いますが、どこかの古本屋の店先で見つけたら、手に取ってみてほしい、気持ちのこもった「小さな本」だと思います。
2021.05.21
コメント(0)
佐藤通雅(編・著)「アルカリ色のくも」(NHK出版)屋根に来てそらに息せんうごかざるアルカリ色の雲よかなしも(作品番号73)巨なる人のかばねを見んけはひ谷はまくろく刻まれにけり(74) 定型には当てはまっている、しかし既成の考えからは、なにかがずれている。ズレて今ガラ、不思議な魅力もある。これはどういうことなのだろうか、どのように読んでいったらいいのだろうか。(佐藤通雅) 2016年4月号から2020年3月号「NHK短歌」誌上で「宮沢賢治の短歌」と題されて連載された、現代歌人たちによる「鑑賞」「解説」がまとめられています。 宮沢賢治といえば「詩」なわけですが、賢治が学生時代から読み始めていたらしい短歌が700首を超えて残されているそうで、一首一首、解釈と鑑賞が綴られています。全部というわけではないようですが。で、それが300ページを超えるとなると、まあ、正直、退屈というか、途中を端折ったり、投げ出したりということになるわけです。 それでも、やはり、相手は宮沢賢治で、ギョッとするところに出会って、もう一度引き返してしまうことがあるのは仕方がありません。ああこはこれいづちの河のけしきぞや人と死びととむれながれたり(680)溺れ行く人のいかりは青黒き霧とながれて人を灼くなり(684) ところで、「春と修羅 第二集」の「序」には「北上川が一ぺん氾濫しますると百万疋の鼠が死ぬのでございますが」と書かれており、大洪水が起こるたび、北上川流域の多くの人命が流され、失われた事実を賢治が念頭に置いていたことが分かる。(後略)あるときは青きうでもてむしりあう流れのなかの青き亡者ら(685)青人のひとりははやく死人のただよへるせなをはみつくしたり(686)肩せなか喰みつくされししにびとのよみがへり来ていかりなげきし(687)青じろく流るる川のその岸にうちあげれられし死人のむれ(688) 壮絶なスケッチである。溺れ、流れゆく人々のあまりに理不尽な死。生への激しい執着を抱えて亡くなった方々の凄まじい憎悪の魂が出現させる亡者同士の壮絶なバトルを、賢治は恐れおののきながら見ている。しかし、九首目(688)に冷静な目が一瞬入る。この一種のリアリティを引き寄せる。幻視だが、我に返った賢治が掴んだ現実であり、その有り様に非情が伝わる。(大西久美子) こんな短歌を詠んでいたことがあるという、事実を知るだけでも、賢治の世界の「いろどり」が、少しかわる気がします。 「わからない」宮沢賢治に対する、気がかりにつられて読みましたが、ますます、気がかりの種がふえてしまいました。マア、そういうもんですかね。 ちなみに、引用は前略、中略でいい加減です。他意はありませんが、気になる方は本書にあたっていただきたいと思います。
2021.05.08
コメント(0)
100days100bookcovers no50 (50日目)奈良少年刑務所詩集 『世界はもっと美しくなる』(編集 寮美千子 ロクリン社) KOBAYASIさんご紹介の小池昌代の「屋上への誘惑」は、未読です。ごめんなさい。彼女のエッセイは、仕事で読んだことがありますが、その新鮮な感覚が印象に残っています。惹かれるものがあったのに忘れていました。これを機会にまた読みたい。近くの図書館には所蔵していないので、お目にかかるのは時間がかかりそうですが。 さあ、次は「屋上」かな?それとも?小池昌代は詩人だけど、私は詩がわからないなあと思いながら職場の図書室の棚を眺めていたら、この本が目に入った。 『世界はもっと美しくなる』奈良少年刑務所詩集 詩・受刑者 編・寮美千子 ロクリン社 去年までやっていたNHKラジオ「すっぴん」という番組中に「源ちゃんのゲンダイ国語」というコーナーがあった。高橋源一郎が毎週金曜日に本を紹介する。(高橋ヨシキの「シネマストリップ」もそのあとで放送されるので、「NHKラジオアプリの聞き逃しサービス」でよく聴いていた。)お相手の藤井アナウンサーも手馴れていて金曜日以外も楽しみだった。勝手に視聴率も悪くないと思っていたのだが、去年の春に終了。今もなお「すっぴん」ロス。どうしてこんな番組を終了させるのかと今もぼやくことしきり。脱線失礼。 このコーナーに編者の寮美千子をスタジオに招いて高橋源一郎といろいろ話をしているのを聞き、心打たれ読みたいと思っていた詩集だった。いまこの詩集を手にしているのも何かに導かれたようだ。 先日来、「ことば」のことを云々してきたが、この詩集の作者の青少年たちのことばには真実があり、力がある。詩の力、言葉の力だと思う。 「帰りたい」 ほんとうに まいにちおもう かえりたい 「心の声」 窓に 鉄格子がなく 扉の内側にも ノブがある 生活がしたい 刑務所の監房の扉の内側にはドアノブがありません。自分で扉を開けるということが一切ないからです。「早く出たい」は、受刑者に共通する切実な思いです。でも、出所間近になると、外でうまくやっていけるのかどうか、たいがいの子が、不安に思わずにいられません。 と編者。 「人間」 人間という 生き物が 一番悲しい 生き物です 「刑務所はいいところだ」 刑務所は いいところだ 屋根のあるところで 眠れる 三度三度 ごはんが食べられる お風呂にまで 入れてもらえる 刑務所は なんて いいところなんだろう 育児放棄され、電気も止められた真っ暗に家に一人取り残され、コンビニの廃棄弁当を盗んで食いつないでいた少年。ほとんどの少年が早く外に出たいと言い共感されないが、本人は「みんなにいろいろ言ってもらえてうれしい。」「いろんな感じ方や意見があるんだなあって思って、勉強になりました」 という。本当に誰からもかまってもらえない人生だったのだろう。 編者が奈良少年刑務所から「受刑者のために授業をしてくれないか」と頼まれて躊躇していたとき、刑務所の先生から言われたのは 彼らはみな、加害者になる前に、被害者であったような子たちなんです。 極度の貧困のなか、親に育児放棄や虐待されてきた子。 発達障害を抱えているために、学校でひどいいじめを受けてきた子。 きびしすぎる親から、拷問のようなしつけをされてきた子。 親の過度の期待を一身に受けて、がんばりすぎて心が壊れてしまった子。 心に深い傷を持たない子は、一人もいません。 その傷を癒せなかった子たちが、事件を起こして、ここに来ているんです。 ほんとうは、みんなやさしい、傷つきやすい心を持った子たちなんです。 と。 そして編者は2007年、詩の授業をはじめ、前の言葉のとおりだと思うようになったという。 詩の授業を通して、固く閉ざされた心の扉が開かれたとき、たとえば何も語らない子が苦しかった子ども時代のことをやっと吐露したときに、共感の言葉がかけられ、「やさしさ」があふれ出てくるのを感じたという。編者のほうが「人間は、基本的にいい生き物なのだ」と信じられるようになったとも書いている。 「時流」 サンタさんはいない より おとうさんはいない を早く覚えた いつ帰っても だれもいない家には 知らぬままであるべきことが 散らかっていた ありがとう より ごめんなさい を多く使った 求められているものを 持っていなかった 母だから こんなぼくでも 許してもらえる 愛してもらえる とは限らない 自分の命を背負うには まだ若すぎた 孤独を嫌う者で 群れをなし 寝床を探して 恥さらし 腹を空かして 見境をなくした わたしは あの日から大人になった いまは 家族と呼べる人がいる わたしは どんなときでも わたしでしかない いまのわたしを 必要としてくれる人がいる だから わたしは どこでも幸せだ いま 過ちを犯しても 待ってくれている人がいるから あの日から 遠くなればなるほど おかえりなさい が聞きたくて*編者注 「母は芸妓でした。なにをしても、怒られるばっかりで、ぼくはいつもいつも謝っていました。家族って思えなかった。でも、いまは家族と呼べる人がいます」 結婚して、家族を持ったのかな、と思ったら、違いました。母子家庭の子がビルの屋上や空き地に集まり、コンビニで盗んできたお弁当を分け合って暮らしていたそうです。「そのときの仲間が、ぼくの本当の家族です」と彼は胸を張りました。「別に、母子庭だから集まったわけじゃないんです。ほんとうに偶然、そういう子が友だちだっただけなんです」彼はあえてそう強調しますが、偶然であるはずがありません。 そんな暮らしをしている子どもたちが、今の日本にいるのだと知り、胸が痛みました。日本にはストリートチルドレンはいない、のではなく、見えにくいだけなのかもしれません。 同じ少年の詩です。 「犬」 物心ついたころから 犬を飼っていた その子犬はまっ黒で 病的に痩せていた わたしには どうすることもできないのに 犬は わたしに向かって唸りつづける まるで わたしが憎い とでもいうように だから わたしは犬を隠すことにした やがて犬は 狂暴かつ狡猾に育ち わたしに唸り散らすのは やめてくれたが ろくなことをしなかった 何度も 町に捨てにいったが 犬は何度でも 帰ってきてしまう わたしは 頭を抱えこんで 唸った 犬は 能力以上のモノを欲するようになる そのために どんな汚い世界にでも踏み込んだ でも 犬がほんとうに求めているモノは 手に入らないことを わたしは知っている 犬は その生き方を選んだのにも関わらず 必死になにかに 繋がろうとした いま わたしは犬に告げる 生ある限り 生きろ そして わたしと共にあれ 愛することができるか そうでないのか 確かに その違いで 世界は異なるだろう 「犬に告げる 生ある限り 生きろ そして わたしと 共にあれ」と書くその力を持ち続けていてと願っています。 その後、「奈良少年刑務所」は廃庁されました。明治五大監獄の一つで、築100年を超えていますが、ジャズピアニスト山下洋輔の祖父山下啓次郎設計の名煉瓦建築を保存したいという有志の働きかけで残されることになり、ホテルなどに活用されるらしい。しかし、編者が関わってきた詩の授業はなくなるらしい。少年や若年層の更生教育がどうなるのか、今年のように伝染病があるときはますます滞っているのだろうと想像されます。 simakumaさん 前回 詩集を紹介してくださったのに、だぶってしまい申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。(E・DEGUTI2020・11・17)追記2024・03・19 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2021.04.10
コメント(0)
100days100bookcovers no49(49日目)週刊 読書案内 小池昌代『屋上への誘惑』 光文社文庫 前回、SODEOKAさんが取り上げたエミリー・ブロンテ『嵐が丘』は未読なので、接点を探していくつか当たったら、ブロンテ3姉妹が小説の他に3人の共著として詩集を出している ことがわかり、今回取り上げる本が決まる。『屋上への誘惑』 小池昌代 光文社文庫 著者は詩人として活動を始め、その後小説も書くようになった。Wikiの「作品リスト」を参照すると現在も、両方執筆を続けているようだ。 ただ取り上げたのはエッセイ集。巻末の「文庫あとがき」によると「初めてのエッセイ集」。 そして私が彼女の著作中、唯一読んだ作品である。 一つ一つは短いものが多く、ほとんどが5~6ページくらい、長くて10ページくらいか。親本は2001年岩波書店刊。文庫化は2008年。講談社エッセイ賞受賞。文庫の表紙の著者紹介みたいなところを見ると、詩集にしろ小説にしろ、受賞歴もけっこう。 この作家を読んでみようと思ったきっかけはよく覚えていないのだが、もしかしたら、内田樹のブログやツイートで触れられていたことかもしれない。 一読、気に入った。たぶん文体が大きい。さっぱりしてケレン味がないのに、いくらか後を引く。そして、ちょっと意外でおもしろい視点。でも記憶にずっと残るわけではない。今回再読してみても、やはり同じように感じた。 たとえば。 エドワード・ホッパーが描いた絵について書かれた「言葉のない世界」と題されたエッセイ。 帽子をかぶった二人の女がテーブルをはさんで座っている。この絵に対してアップダイクが「まるで二人が互いに聴きあっているように見える」と書いたと紹介し、 しかし、「聴きあう」という表現ほど、この絵の女たちにふさわしい言い方もない。この不思議な対面は、まるで、互いに静かに消し合うようでもあるのだ。(中略) 描かれているのは、女たちというより、透明な関係性なのではないかと思われてくる。 と書く。さらに、 いずれにしても、この世での役割が吹き飛んで真裸になった存在同士が、とけあおうとしているように感じられる。 と続く。 そしてこの小文、 人と話しをしていて、話題がとぎれることがある。その瞬間のまの悪さが、私は実は、案外好きだ。話すことなど、もう何もない。-その虚空の中に身を置くと、ないことのかに、やがてゆっくり充ちてくるものがある。話題を探すのではない。私たちという存在が、こうしていつも、遠くからやってくるものに、手繰り寄せられ、探されるのだ。 さあ、話をしよう。 と結ばれる。 ホッパーの作品は、おそらく下のリンク先のものではないかと思われる。 https://www.artsy.net/.../artsy-editorial-edward-hoppers... 以前、はっきりは覚えてはいないのだが、ある作家、たぶん村上春樹だったような、が、理想的な友人関係の例として、話題が途切れたときに、あるいは沈黙が訪れたときに気まずくならない関係、というようなことを挙げていた。その時は、わかる気がすると思ったのだが、小池昌代のこれを読んで、「気まずくならない」ではなく、気まずくなってもそれに耐えうる関係と言うほうがいいのではないかと思い直した。あるいは「気まずい」というより「いくぶんぎこちない」くらいのほうが。沈黙の始まりはいくらか気にもなるが、沈黙が続くともはや気にならなくなる。そのうちどちらかが自然に口を開くことで沈黙が解消されたとしても、その過程が不自然でなく思える関係。ややこししいか。相手がどう考えているかがわからないのは仕方ないとしても。 あるいは。「いくつかの官能的なこと」には、ある夏の夜、小さなあつまりがあったときのことが語られる。だれかが「月がきれい」と言って、顔を上げようと思った瞬間、「月」と「まるで命令形のように男の人が言って、(みるようにと)、私のあごを急にしゃくり、くいっと月の方向へ向かせたのだった。 突然、ひとにさわられて、いやではなかった。むしろ、不思議なエロティシズムをあごに感じて、今でも、なぜか、忘れがたい。 たった、それだけのことなのだ。しかしロマンティックな乱暴だった。 そのひとを、きらいではなかったけれど、それ以来、一度も会うことはない。からだは、ふしぎなことを覚えているものだ。」 書き写していて気がついた。この作家の文章には読点が多い。それが作家の文体のリズムなのだろう。立ち止まり方の作法とでも言うべきか、軌跡の振り返り方と言うべきか。さらに。 いつか、夏の昼下がりの蕎麦屋で。 「こびんいっぽん」 と注文した、男の声の涼しかったこと。 これだけを切り取ると、さながら詩のような。 それから、ひらがな表記も多い。それはたしかに「すずしい」。 まだある。 フェルメールの絵はまた、私にいつも糞尿の匂いを想像させるのだ。洋服やカーテンのひだの多い分厚い生地に鼻をあてて、くんくん匂いをかいでみたい。分泌物のむっとするすっぱいような匂いが、そこからたちあがってくる気がするのである。そしてそれは、この画家の絵の表面を覆う、清潔な空気感と少しも矛盾しない。 わからないでもない。絵の中の世界に入り込んでみたと想像してみると。が、やはりフェルメールの絵に対する「糞尿の匂い」という表現には少々驚いた。おもしろい。 ただ私がフェルメールの絵に感じるのは、作家の言うのに近い、時間の過ぎていく重みが醸す、すえたような匂いと、「清潔感」というより、どちらかというと鄙びた自然な暖かさの入り混じったものにように思う。 そして。 カザルスホールでジュリアード・カルテットを一人で聴いた日、確かな理由もわからず感動し、涙があふれたとき、アンコールが終わり、拍手の起こる寸前に聞いた隣席の女性の、かすかなけれど深いため息に感じた「沈黙を分けあえたという思い」。 作家は、「沈黙」や「言葉にする含羞」にも直接、間接問わずいくどか触れていて、響くものが少なくなかった。 「あとがきにかえて」というサブタイトルが付いた「屋上への誘惑」には、夢に見たような、でも現実かもしれない風景が描かれる。 屋上の金網に手をかけて、地上へ吸い込まれるように落ちていくボールを、じっと見ていた子供のころ(入滅ってあんな感じではないかしら)。拾いに行った子を待っていた時間、あの場所には始終、風が吹いていた。結局、あの子はどうしたのだったか。今も時々、あの子をまだ、待ち続けているような気持ちになる。 屋上はたしかに心地よい空間だ。頭上に無限に開けた空間と足元に広がる限られた平面。風が吹き抜け、空が透明で、遠くまで見える。屋上にいるときはいつも一人だった。自身に普段流れる時間をほんの少し別の視点から見直せるような心持ちになっていたのかもしれない。 フィクションとノンフィクションが交じりあったような小品もいくつか。 様々な要素が緩やかに混じり合い融合してできた作品集のように思える。 最後に、「文庫あとがき」から。 作家が、詩を実際に書き始めたのは三十近くになってからで、「二十代のある時期」にはエッセイと称して頼まれもしないのに散文を書いていた。散文に詩を埋め込むという方法を用いて。そんなふうに、日常に驚きを見出そうとして、書き綴ったのがこの文章だと。 そうして綴られた散文には、「詩」というものの孤独と空っぽさと心細さと、そうして、風通しのよさが、これもまた、ないまぜになっている。では次回、DEGUTIさん、よろしくお願いいたします。(T・KOBAYASI2020・11・12)追記2024・03・17 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2021.03.17
コメント(0)
穂村弘対談集「どうして書くの?」(筑摩書房) 歌人の穂村弘が7人の表現者、まあ、たいていは作家と対談しています。お相手は「高橋源一郎」、「長島有」、「中島たいこ」、「一青窈」、「竹西寛子」、「山崎ナオコーラ」、「川上弘美」ですが、作家の高橋源一郎とは二度出会っています。 読む人によって「読みどころ」は変わるのでしょうが、ぼくには高橋源一郎との二度にわたる対談が面白かったですね。 穂村弘は高橋源一郎の「日本文学盛衰史」(講談社文庫)という作品で、石川啄木役を演じた歌人ですが、「明治から遠く離れて」という一つ目の対談はそのあたりから始まって、行きついた先の宮沢賢治をめぐる会話が出色です。穂村 自分の体内に宇宙があるという感じなんで、それが本物であろうということが言語を通じて生々しく伝わってくると、なぜその人の中にだけそんな混沌として、しかも整合性があるのか、ともいえますね。あの言葉の持っていき方というのは、勝手にこんな言葉を使うなよといいたくなるようなんだけど、本人の中ではすごい整合性があるわけでしょう。高橋 説得させられちゃうもんね。穂村 それでみんなを狂わせてしまうというか、だってあんなふうに自給自足で何かエネルギーが出せたら、表現者としてはすごくいいですものね。ばかみたいな「雨ニモマケズ」とか書いても、なんだか格好いい、なんだか彼なら格好いいみたいな。高橋 何書いても全部オーケーなんですね。日本文学内の唯一の自給自足作家(笑)。 もし、今宮沢賢治に相当する存在はと考えると吉増剛造ぐらいしか思いつかないけど、賢治のポピュラリティはないですものね。(中略) 読めば読むほど「理解」へ近づいていくことができる。言葉を解読していくことでその作家の謎に迫れる。しかしそういうやり方ではどうしてもわからないという人が必ず出てくる。単に頭が変だからわからない人もいるんだけれど(笑)、宮沢賢治となると、どこから来て、どこから何を持ってきたのかよくわからない。つまり、エンジンもよくわからないんだけど、その燃料をどこから持ってきたのかもわからない。それは非常に不気味なんですね。(中略) 宮沢賢治っていうのは日本文学史上のブラックホールみたいな作家、というか詩人で、この人のことをちゃんと言っておかないと日本語や日本文学についてきちんとわかったとは絶対いえないような気がするんです。 後半の引用は、高橋源一郎の部分だけになりましたが、まあ、そういう事です。ぼく自身、学生時代に宮沢賢治を読み始めたわけですが、世間一般の評判のよさについていけないにも関わらず、やめられない作家というか、詩人なわけで、皆さん褒めてばかりいて、悪口については黙っていらっしゃるのですが、高橋源一郎と穂村弘の言っていることって、どこか、ホッとしませんか? 二度目の出会いは「言葉の敗戦処理とは」と題されているのですが、穂村弘の「短歌の友人」(河出文庫)という評論をネタに対談が始まります。 小説にしろ短歌にしろ、表現者である二人の、2010年代の「現在」という「歴史性」がかなり突き詰められていて、スリリングです。近代150年の文学の歴史の中で、近代文学的な「言葉」が敗北した、今、現在に表現者は立っているのではないかという、仮説といえば仮説なのでしょうが、かなり本気な問題意識で語られています。モダンは終わったからポストモダンだという、80年代の流行りの話とはまあ、関係がないわけではないのですが、少し違います。そのあたりは読んでいただくほかありませんね。 本当は、この対談集の紹介は、竹西寛子との対談中に穂村弘が、おもわず(?)洩らしている表現者の本音について紹介するつもりでしたが、引用の成り行き上こっちの紹介で終ります。 「どうして書くの?」という書名の本なのですが、穂村弘という歌人が、真摯に「どうして」を突き詰めながら話しているところが面白い本だと思いました。
2021.03.12
コメント(0)
山田航・穂村弘「世界中が夕焼け」(新潮社)(その2) 「穂村弘の短歌の秘密」と副題された「世界中が夕焼け」(新潮社)を読み継いでいます。前回書きましたが、高橋源一郎の小説「日本文学盛衰史」に引用された短歌について「案内」したくて読んでいるのですが、超長期天気予報によれば我が一億年後の誕生日 曇り という、小説中で石川啄木が詠んだ歌の、ひとつ前のこの歌で、手がとまりました。ゆめのなかの母は若くてわたくしは炬燵のなかの火星探検 「火星探検」(「短歌」2006年1月号) 山田航の鑑賞文の中には、この歌に加えて、下の2首の引用があります。母の顔を囲んだアイスクリークリームらが天使の変わる炎なかで髪の毛をととのえながら歩きだす朱肉のような地面の上を 「母」の死をめぐる、穂村弘による一連の挽歌の中の歌ですね。で、山田航は総括的にこうまとめています。「火星」だけではなく、「炎」や「朱肉」といった赤のイメージを持つ言葉が氾濫する。これは火葬のイメージにつなげているのである。現実感を失ったふわふわした感覚の喩として、「朱肉のような地面」というのは素晴らしいリアリティを持っている。穂村の計算されつくした技巧が冴え、一連の世界全体が確実に炎のイメージへと向かっていく。 幼少時の「わたくし」が炬燵の中の「火星探検」というごっこ遊びに興じられたのは母という偉大なる庇護者の存在があったからだろう。母の存在が「ゆめ」となって焼失した現実のまでふらふらと歩き続ける穂村は、やがて自分が育ってきた昭和という時代を清算するべくねじくれたノスタルジーを追求するようになる。それは失われた自分自身を探し求める旅なのである。(山田) 歌人である山田航の「感性」というのでしょうか、おそらく「炬燵」あたりのからの連想でしょうか、「育ってきた昭和」という捉え方は、ちょっと意表をついていますね。「えッ、そこで昭和?」という感じです。 そのあたりについて穂村弘が応答しています。 昔の炬燵ってなんか出っ張りがあって、網々の、その中が赤くて、みんなが膝をぶつけて、その網がゆがんだりなんかしているようなものでしたね。(中略)で、子供は必ず一度はその炬燵の中にもぐってみたりする。それもそういう昭和的な感じがもちろん強いわけですね。だから、お母さんだ台所で夕餉のしたくをしている時に、僕は炬燵の中で火星探検という体感です。山田さんが書いているとおりです。(穂村) で、山田航の引用の2首の歌についてはこうです。少し長くなりますが、「読む人」と「作る人」のギャップが、ちょっと面白いので引用します。 「母の顔を囲んだアイスクリーム」というのは、これは比喩だと読まれることがあるのですが、実はそのまんまの実景。 うちの母は糖尿病で亡くなったんですけど、甘いものがとっても好きで、もうこれで好きなだけ食べられるよ、というので、お棺の中にアイスクリームを入れたんですよね、本物の。 それが何ていうか印象的で、アイスクリームが燃えるっていう感じに何かこう、ショックみたいなものを覚えたんです。母親と一緒にアイスクリームも燃えるというイメージをそのまま書いたんだけど、わりとそれは読み手には伝わらなかったみたいで、これは何かのメタファーだという読まれ方が多いですね。(穂村) 二つ目の「朱肉のような地面」については山田航の指摘した「色」よりも、どちらかというと「感触」についてこだわったことを、こんなふうに語っています。 母親が死んだ後、地面がふわふわするような現実感のない感じ。社会的には葬式とかやんなきゃいけないから、喪服着て髪を整えてみたいなことがあるわけだけど、歩くと道がなんかふわふわするんですよね。 自分を絶対的に支持する存在って、究極的には母親しかいないって気がしていて。殺人とか犯したりした時に、父親はやっぱり社会的な判断というものが昨日としてあるから、時によっては子供の側に立たないことが十分ありうるわけですよね。 でも母親っていうのは、その社会的判断を超越した絶対性を持っているところがあって、何人人を殺しても「〇〇ちゃんはいい子」みたいなメチャクチャな感じがあって、それは非常にはた迷惑なことなんだけど、一人の人間を支える上においては、幼少期においては絶対必要なエネルギーです。それがないと、大人になってからいざという時、自己肯定感が持ちえないみたいな気がします。(穂村) と、まあ、なるほどというか、そうなんですかというか、作った人にしかわからない実景と、実感について語られていますね。 山田航の持ち出してきた「昭和」は、実作者にとっても「炬燵」でよかったわけですが、穂村弘よりも8年早く「昭和」に生まれた、今や、老人の目からすると、「炬燵」をめぐる「昭和」的説明の卓抜さには舌を巻きながらも、それは穂村弘の「昭和」では?と言いたくなるのですね。 穂村自身が語る「母親」の解釈も、ぼくの目から見るといかにも「現代的」で、昭和後期、に育った子供たちに対する、「平成」的認識の解釈が施されて語られているような気もします。 ぼく自身も50代に母を亡くしました。ちょっと大げさになるかもしれませんが、他に知らないのでいうと、ぼくにとって「母」の死は斎藤茂吉の「死にたまふ母」の連作の感じに納得した事件でした。あっちは、まごう方なき「近代文学」なわけで、自分のなかの「近代」性を、再確認させられた事件だったと言っていいかもしれません。まあ、人それぞれなのでしょうが、微妙なズレのようなものがありそうですね。 穂村弘が現代短歌の歌人である所以が、この辺りにあるような気もしました。 いやはや、いつまでたっても「日本文学盛衰史」の引用歌にたどり着きません。次回こそは、ということで、ここで終ります。(その2)でした。(その1}はこちらをクリックしてください。じゃあ、また。
2021.01.10
コメント(0)
山田航・穂村弘「世界中が夕焼け」(新潮社)(その1) 高橋源一郎の「日本文学盛衰史」(講談社文庫)という作品を読んでいると、作中の石川啄木の短歌というのが出てきますが、実際の啄木の短歌ではありません。偽作ですね。小説の登場人物としての石川啄木の作品として作られた短歌なのですが、作中の作品を「偽作」したのが現代歌人の穂村弘だと、註に書かれているのですが、そうなると興味は移りますよね。 そういうわけで、穂村弘の歌集やエッセイ集を探していて見つけたのがこのがこの本です。 山田航・穂村弘「世界中が夕焼け」(新潮社) 山田航という人は若い歌人らしいのですが、実は、作品も著作も知らないのですが、その山田航という人が、穂村弘の短歌を読んで感想というか、解釈というかを書いて、それを作者である穂村弘が読んだうえで、リアクションしているという構成の本です。 で、50首の、実際は解釈のための引用歌がありますから、もっと多いのですが、章立てとしては50首の短歌が取り上げられています。終バスに二人は眠る紫の〈降りますランプ〉にとりかこまれて (歌集「シンジケート」) 開巻、第1首がこの歌です。山田航の文章は、まず、この歌が相聞歌であることを指摘し、〈降りますランプ〉という造語に対する批評があって、歌を包む「色」についてこんな指摘が加えられています。「紫の」にはおそらくこの万葉集のイメージが書けてある。あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る 額田王 なるほど、そういうイメージの広がりで読むのかと感心しながらページを繰ると、穂村弘自身の解説があります。 この歌は「降りますランプ」っていう造語がポイントになっているんですが、山田さんが書いていらっしゃる通り、本当は「止まりますボタン」ますボタンなんですよね、現実のバスでは。本来は不自然な造語なんです。 でも、歌を読む人には、これで瞬間的にわかる。あまり違和感を持たない。作者としては、「止まりますボタン」では字余りになるという音数の問題と、何よりも取り囲まれている光に注目したい、ということで「降りますランプ」という言葉を取り込んでいます。 あとから見直すと、この歌はMとRの音の組み合わせが多くて、「ムル」「ムラ」「リマ」「ラン」「マレ」と五回出てくるとインターネットで指摘されました。 作ったときは作者も無意識なんですが、長く記憶に残る歌には、内容以上にそういう音の側面に理由がある場合が多い、と高野公彦さんがよくおっしゃっています。たぶん読む人は、本当は「止まります」だよ、と意識しないように、MとRの音が多いな、なんて意識しないわけだけれど、意識下で、この響きを感じているらしい。 歌というのは、他の文芸ジャンルに比べて、この意識下で感じている領域に依存度が高いんですね。歌は調べ、っていうくらいですから。 引用が長くなりましたが(改行とゴチックは引用者によるものです)、作者自身の解説ですね。こういう調子で、穂村弘の、現在のところの代表歌でしょうね、50首の歌をめぐって二人のやりとりが交互に載せられています。 実は、1首ずつ取り上げて、プロの歌人が読んだ解釈と鑑賞が率直に述べられている本というのは、ありそうで、そうありません。斎藤茂吉のような人の場合は、後の歌人たちによって1首ずつの解釈と鑑賞が、1冊の本にまとめられたりしていますが、それでも、作者自身の感想や自作の意図が述べられているのがセットになっている本には出会ったことがありません。 この本には、現代短歌という文芸を読むという経験としても、「蒙を啓く」というべき指摘も随所にあります。穂村弘という歌人の作品に興味をお持ちの方にとどまらず、現代短歌を読むことを勉強したいと思っている人にはお薦めかもしれませんね。 自分がそういう仕事だったから思うのかもしれませんが、高校とかで短歌を取り上げて授業とかをしようとか考えている人には、なかなかな本ですね。 長くなりますので、とりあえず、本書の「案内」1回目ということで、2回目は、探していた「日本文学盛衰史」の作中歌について、案内したいと思います。それではまた。
2021.01.09
コメント(0)
辻征夫「突然の別れの日に」(「辻征夫詩集」岩波文庫) 突然の別れの日に知らない子がうちにきて玄関にたっているははが出てきていいまごろまでどこで遊んでいたのかと叱っているおかあさんその子はぼくじゃないんだよぼくはここだよといいたいけれどこういうときは声が出ないものなんだその子はははといっしょに奥へ行く宿題は?手を洗いなさい!ごはんまだ?いろんなことばがいちどきにきこえるああ今日がその日だなんて知らなかったぼくはもうこのうちを出て思い出がみんな消える遠い場所まで歩いて行かなくちゃならないそうしてある日別の子供になってどこかよそのうちの玄関に立っているんだあの子みたいにただいまって 「辻征夫詩集」岩波文庫 谷川俊太郎が編集している、岩波文庫版の「辻征夫詩集」を読みました。高橋源一郎の小説「日本文学盛衰史」(講談社文庫)を読んでいて、「きみがむこうから」という、作中に引用されていた詩が気になりました。あれこれ探しているのですが、今のところ見つかりません。 思潮社の「現代詩文庫」の最初のシリーズの「辻征夫詩集」に入っているようですが、その詩集が見つかりません。 で、岩波文庫版や、おなじ思潮社の「続・辻征夫詩集」とかを読んでいます。目的の詩は見つかりませんが、心に残る作品には出会います。 上に引用した「突然の別れの日に」という詩も、そんな詩の一つです。2000年に61歳の若さで去った詩人が、いったいいくつの頃、この詩を書いたのだろうと思います。突然訪れた天使の余白に だれもいない(ぼくもいない)世界(世界中でそこしかいたい場所はないのに 別の場所にいなくてはならない そんな日ってあるよね)十歳くらいのときかなひとりで留守番をしていた午後そおっと押し入れにはいって戸を閉めたんだ。それからすこうし隙間を開けてのぞいてみただれもいない(ぼくもいない)部屋を!なぜだかずうっと見ていて変なはなしだけどそのままおとなになったような気がするよ。 「辻征夫詩集」岩波文庫 この詩も、引っかかりました。ぼくは66歳なのですが、「そのまま66歳になったような」気がするわけです。「おとなになった」のかどうか、仕事をやめて「大人になっていない」自分に、あらためて気づいて辟易するのですが、そういえば、我が家の子供たちは古田足日(ふるたたるひ)という人の「押入れのぼうけん」という絵本が好きでしたね。 子供が入って、部屋を覗くことができる「押し入れ」って、今でもあるのでしょうか。まあ、自分が今はいったらどうかなんて、同居人に叫ばれそうですからしませんが、いや、入ってみるのもありかもしれませんね。 今度はそのままどうなるのでしょう。 とりあえず、見つかったこの詩も挙げておきますが、岩波文庫版には入っていません。 きみがむこうから…… きみがむこうから 歩いてきて ぼくが こっちから 歩いていって やあ と言ってそのままわかれる そんなものか 出会いなんて! 田舎へ行くと いちごばたけに いちごがあり 野菜ばたけに 野菜がある 百姓の友だちが ひとりいて ぼくは 百姓の友だちの 百姓ではない友だちの ひとり なあ おれたち こうしてうろついてばかりいて きっとこのままとしとるな 二十代の次には 三十代がくる その次は たぶん 四十代だな うん とおい国には 動乱があり きのう 百人殺された 今日も 百人殺されるだろう それとも 殺すのだろうか…… 宿に帰って ひとりで 酒をのむ 腕をくむ あるいは 頭をかしげ なにもみえない 外の くらやみをみつめたり 眼を 閉じたりする これが 生きる姿勢なのだろうか 六十代になって、毎夜、コタツに向かい酒をのむ。で、静かに目を閉じたまま眠りこんだりしている。生きる姿勢といえるようなものは何もない。でも、きみがむこうからくることは心待ちにしている。追記2023・02・14 街を歩いていて、ふと、知人が乗った自動車が通り過ぎたような気がして、首をすくめた格好のまま振り返ったのですが、そこに、もう、自動車はいなくて、この詩を思い出しました。 一人で歩いていると、そんなことが時々あります。もう、この世の人ではないこともあるのですが、しようがありません。 で、記事を少し直しました。66歳の時に書いたことは直してはいませんが、もう、2年余りたったのですね。時間が勝手に通り過ぎていく日々です(笑)
2020.12.28
コメント(0)
「100days100bookcovers no36」(36日目) 水原紫苑「桜は本当に美しいのか」(平凡社新書)あだなりと名にこそたてれ桜花年にまれなる人も待ちけり 謡曲の「井筒」で紀有常女が謡う(これでいいのかな?)和歌はこんな短歌でしたね。「古今和歌集」巻1、春の部に 「さくらの花のさかりに、ひさしくとはざりける人のきたりける時によみける」と詞書があって「読み人知らず」として載っていて、これに対する返歌が下の和歌です。けふ来ずはあすは雪とぞ降りなまし消えずはありとも花と見ましや 面白いことに、こっちには在原業平という読み手の名前が出てきます。「伊勢物語」の十七段に、二つの和歌の「詞書」も、まんま出ていますから、そっちが先でしょうか。 謡曲の「井筒」というのは世阿弥の作ですね。そもそも、「伊勢物語」ネタで、二十三段「筒井筒」に登場した少女が思い出に浸るとでもいう「物語」だったと思いますが、世阿弥の天才は、待ち続ける、こういうお面をつけた女性が「井筒」を覗くところにあると思うのですね。 「井筒」というのは井戸のことですが、その井戸をのぞきこむと、まあ、そこに何が映るかというところに「ドラマ」があるわけです。 なんていうふうに書くと、シマクマ君は「お能」について知っているに違いないと「生徒さん」達は騙され続けた30数年だったわけ(笑)ですが、実は、ぼくは「お能」なんて100%知りません。どこかの神社の能舞台で現代演劇をやっているのを見たことはありますが、「お能」体験は皆無です。 というわけで、DEGUTIさんの紹介を読んで、ただ、ひたすら「どうしようかな?」 だったのです。 白洲正子は食わず嫌いやし、松岡心平はちゃんと読んでないし、そういえば観世寿夫に「世阿弥がどうたら」というのがあったけど、ああ、多田富雄の「免疫の意味論」はどこにあったっけ。まあ、「お能」がらみのなけなしの知識の周辺を、そういう調子でウロウロしていたんです。 でも、まあ、偶然というのはあるものなのですね。最初に書いた「あだなり」 の和歌が、コロナ騒ぎのステイホームで読んでいた一冊にジャストミートしていたのです。「井筒」と聞いて、そこだけ、なんか知ってるぞと思いだしたのがこの本です。 水原紫苑「桜は本当に美しいのか」(平凡社新書)うすべにの けだものなりし いにしへの さくらおもへば なみだしながる なんていう現代短歌の歌人で、三島由紀夫に見出されたということが妙に有名な春日井健という歌人のお弟子さんです。 登場以来、若い若いと思っていたら、今や還暦だそうで、新古典派の、何といっても名前がいい、水原紫苑の「桜論」です。 「古今和歌集」から現代の「歌謡曲」まで、「桜」の毀誉褒貶を、まさに縦横無尽に論じている評論ですが、メインは「梅」から「桜」へと移り変わる「平安王朝400年」の時代と歌人の「詩意識」の変遷を100首以上の和歌に注釈を施しながら、紀貫之の「古今和歌集」から、「新古今和歌集」の西行、定家へと辿る前半150ページでした。 後半は、能から、江戸文芸を経て、近代文学の「桜」を話題にしています。たとえば、本居宣長にこんな和歌がありますね。しき嶋のやまとこころを人とはは、朝日ににほふ山さくら花 彼女に言わせればこうなります。「ここには『枕の山』のような無邪気さが無い。これ見よがしな、いやなうたである。」 と、まあ、きっぱりと切って捨て、こう言い加えます。「まして、宣長のあずかり知らぬこととはいえ、太平洋戦争末期の1944年10月、最初の特攻隊が、この歌から「敷島隊」、「朝日隊」、「山桜隊」と命名されことを思うと、やり場のない憤怒を一体どうしたらいいのだろう。」 ぼくは、彼女の歌には当然漂っているわけですが、このナイーブな言い切りの、気っぷのよさのようなものが好きなのですが、現代口語短歌に対する評価も、シャープだと思います。さくらさくらさくら咲き始め咲き終わりなにもなかったような公園 俵万智 例えば俵万智のこの歌についても、こんなふうにいっています。「文体こそ口語だが、内容は王朝和歌そのままで、桜の加齢と空虚を簡潔に言い当てている。」「俵万智については、只者ではない実力はわかったが、基本的に健康な世界観が、死や破滅が大好きだった私とはあわなかった。」「キバ」「キバ」とふたり八重歯をむき出せば花降りかかる髪に背中に 穂村弘 人気の現代歌人、穂村弘のこの歌に対してはこうです。「もうすぐ私たちは死んでしまうのに、こんな子供みたいなことを言ってどうするのだろう、と思った。」 ね、この視点です、ぼくが好きなのは。もっとも、この疑問に穂村弘はこう答えたそうです。「僕たちは死なないかもしれないじゃないか。」 まあ、この返事をする穂村弘も好きなのですよね。というわけで、今回も「ネタ本」系なのですが、最近の読書報告ということでバトンを引き継ぎます。YMAMOTOさんよろしくね。(Simakuma・2020・08・17)追記2024・02・02 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目)というかたちまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.11.30
コメント(0)
北村薫「詩歌の待ち伏せ 下」(文藝春秋社) ミステリー作家、北村薫の「詩歌の待ち伏せ」(文藝春秋社)ですが、「上巻」を以前、案内しましたが、今回は「下巻」の案内です。 本書は文春文庫版で「詩歌の待ち伏せ(1・2・3)」となって、出ていましたが、最近、「詩歌の待ち伏せ(全1巻)」(ちくま文庫)といういで立ちで、「筑摩書房」が復刊しているようです。この文庫版は、「続」も収めているようで、お得ですね。 ぼくが手にしているのは、単行本の上・下巻ですので、それぞれの文庫版との所収内容の異同はよくわかりませんが、単行本の下巻の内容は、「オール読物」(文藝春秋社)という月刊誌の2001年9月号から、2003年の1月号に掲載された記事がまとめられているようです。 まず、いきなり読者の心をつかむのが、土井晩翠の長編詩「星落秋風五丈原」(「星落つ秋風五丈原」と読みますが、)の一節に対して、北村薫が、みずからの子供の頃の記憶をめぐって、繰り広げる「ことば」探偵ぶりです。 この詩の題名を見て「三国志」、諸葛孔明の最後だとピンとくる人は、よほど「三国志」のお好きな方でしょうね。ぼくよりお若い方で、ピンとくる人がいるとは、ちょっと想像できません。 とてつもなく長い詩なのですが、今回の話題のためには、第1章の第1連があれば十分ですのでここに載せてみます。星落秋風五丈原 土井晩翠祁山悲秋の風更けて陣雲暗し五丈原零露の文は繁くして草枯れ馬は肥ゆれども蜀軍の旗光無く鼓角の音も今しづか丞相病篤かりき 島崎藤村の「初恋」という詩がありますが、「まだあげ初めし前髪の」の、あの詩と同時代の作品ですが、まあ、対照的ですね。 で、この土井晩翠の詩を北村薫は小学生の頃に暗唱して覚えていて、その暗唱を思い出す機会があって、ふと、疑問に思う事柄に出会うのです。 ところで、この記事をお読みの皆さん、北村薫さんは、この第1連の詩句を正確に暗唱すればするほど、はてな?と思う1行があることに気付くのですが、それは何行目だったでしょう? 高校生や大学生の皆さんであれば「零露の文」とか、「鼓角の音」あたりに引っかかってしまうでしょうね。 たしかに、普通では出会わない漢語表現ですが、辞書を引けばわかります。前者は草露の様子で、「文」は文章の意味ではなけて、模様「あや」を意味しています。後者は軍を鼓舞する笛太鼓をあらわす言い回しです。「角」は角笛でしょうね。 問題の個所は、第1行「祁山悲秋の風更けて」なのです。この1行目の終わりの語句が「風吹きて」か、「夜更けて」の、誤植ではないかと考え始めたところから、「風更けて」という、言い回しの正否に対して北村探偵が活躍し始めます。 「『風更けて』か?そういえば、変だなあ。」 そう思わなくても文章は面白いのですが、そこは、やはり、なるほど変だと思った方が、ノリはいいわけです。かくいう、ぼくは、なんか、どこかにあったような、という、いつものボンヤリなのですが、もちろん、北村探偵の方は、きっちり仕事をなさっています。 ミステリーのネタバレは、御法度です。そうはいっても、これでは案内にならないので証拠品だけですが、ここに掲示します。さ筵や待つ夜の秋の風更けて月を片敷く宇治の端姫 新古今のあの歌人だったのですね、犯人は。 「風更けて」や「月を片敷く」というような表現は、当時、「達磨歌」と非難された新しい発想だったそうですが、やがて新風として「影ふけて」とか「音ふけて」という使い方に広がったということも捜査報告書に書かれているのですが、北村探偵は、そこからもう一歩踏み込み、鎌倉後期の歌人にまで捜査の手を広げたうえで、明治の詩人、土井晩翠の「言語感覚」に戻って筆を擱きます。 北村少年の「暗唱まちがい」という疑いは見事にはらされたわけです。 そのうえ、ボンクラな読者は、平安朝末期の「詩意識」の変化の現場を、実例付きで勉強できたという決着で、お見事としか言いようがありません。 付けたしのようになりますが、本書について、もう一つ、これは是非という文章があります。最終章に記された、病床の歌人中城ふみ子と編集者中井英夫との間で交わされた「最後」の手紙に関するエピソードです。衆視のなかはばかりもなく嗚咽して君の妻が不幸を見せびらかせり冬の皺よせゐる海よ今少し生きて己の無惨を見むか 中条ふみ子の、この二つの短歌を上げた後、乳癌末期で死の床にある歌人と、東京の編集者との間で交わされた「愛の手紙」の謎についてです。 まあ、ここから先は、立ち読みででも結構です。本書を手に取っていただくほかはありませんね。 ところで、この「詩歌の待ち伏せ」(上・下巻)の装幀ですが、上巻が「青葉・若葉」、下巻が「紅葉・落葉」とシャレていて、本書中のイラストも面白いのですが、大久保明子さんのデザインで、イラストは群馬直美さんという方だそうです。こういう本は、手に取るだけでも楽しいですね。追記2020・11・29「詩歌の待ち伏せ(上)」の案内は書名をクリックしてください。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.11.28
コメント(0)
朝倉裕子「詩を書く理由」(編集工房ノア) 大人になっても大人になってもしゃがみ込んでこどものように泣きたいときがある母になっても電車に乗って隣町あたりへ行き捨てられた犬になって歩いていたいときがある風のない夜の雪のように静かに降り積もるものが眠りによって繋がれた日常の上に重ねた年月の上に心の底に握った小さな固いこぶしの上にある 冬至の頃真横に伸びるひかりが家を貫く時間がある冬の中心に向かうなかで与えられた驚き黙しがちな朝の支度の最中胸のあたり黄金色の扉がひらく 久しぶりにチッチキ夫人と映画を見て、元町から神戸駅に向かって歩きながら古本屋に立ち寄りました。偶然、手に取った1冊の詩集のページを繰りながら、詩人の名前に心当たりを感じて買ってきました。朝倉裕子さんの「詩を書く理由」(編集工房ノア)という詩集です。 詩人は、夕食を調え、月を見上げ、路上のネコとの出会いや、隣家の白い木蓮の花の思い出を詩のことばに託しています。 家族が寝静まった真夜中の台所のテーブルに広げられた1冊のノートがあり、ジッと俯いてすわっている女性が思い浮かんでくる詩集でした。 彼女はこの台所で子供を育て、父や母を送り、マイタケのてんぷらで銀婚式を祝う夫と暮らしているようです。 「風のない夜の雪のように」降り積もり続ける時間、黄金の光が差し込んで来る冬の朝の喜び、ひっそりと、日々の暮らしが書き留められた詩が、他人ごとではなく、胸を打ちました。にほんブログ村にほんブログ村
2020.11.13
コメント(3)
山形梢 編「六甲のふもと 百年の詩人」(ほらあな堂)松のある岩山のいただき近く仰げば雲の湧くつかみ取れそうな空の青さ、 八木重吉 このブログでは「小枝ちゃん」と呼ばせていただいている、お友達の山形梢さんが、一才になったばかりのおちびちゃんと暮らしながら、小さな詩集を作りました。 大正時代の詩人「八木重吉」の神戸時代の詩を集めたアンソロジー詩集です。装丁からすべて手作りで、20篇余りの詩と、詩人の神戸での足跡が紹介されています。 裏表紙はこんな感じです。 表紙から裏表紙を飾っている、六甲の山並みを感じさせる版画も「小枝ちゃん」の作品です。 30ページ足らずの「小さな本」ですが、編集者山形梢の最初の一歩。さわやかでりりしい本です。みづがひとつのみちをみいでて河となってながれてゆくようにわたしのこころもじざいなるみちをみいでてうつくしくながれてゆきたい 66歳のシマクマ君にとっては、八木重吉は思い出の詩人です。久しぶりに読み返しながら、「小枝ちゃん」と「フクロウくん」に「いずみ」と名付けられ、ようやく一歳のお誕生日を迎えたばかりのおチビさんの「こころ」が、「うつくしくながれ」続けることを祈っている本だと思いました。追記2021・05・21「小枝ちゃん」がこの詩集の続編を作りました。感想を書いています。覗いてみてください。山形梢 編「赤ちゃんと百年の詩人 八木重吉の詩 神戸・育児編」(ほらあな堂) |追記2020・10・05「小枝ちゃん」と「フクロウくん」と出会うために、久しぶりに六甲道辺りを歩きました。 灘区の区役所がこんなところに移転していたことさえ知らなかったのですが、新しくオープンしたらしい小さな絵本屋さんに連れて行っていただきました。 「えほんのトコロ」という喫茶店を兼ねたお店でした。お店の中に展示されている「絵本」を自由に手に取ることができるようです。子どもたちのスペースもあります。始めたばかりのようですが、うまくいくといいですね。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.10.06
コメント(0)
北村薫「詩歌の待ち伏せ 上」(文藝春秋社)より 石垣りん「略歴」(詩集『略歴』所収) 作家の北村薫の「詩歌の待ち伏せ」(文藝春秋社)というエッセイ集を読んでいて、面白い記事に出会いました。 北村薫が詩人の石垣りんの講演会を聞きに行った時のエピソードです。石垣さんに「略歴」という詩があります。幸い、石垣さんの詩集は、今、手に入りやすくなっています。全文引く必要はないと思います。 「略歴」は《私は連隊のある町で生まれた。》と始まり、《私は金庫のある職場で働いた。》と続き、《私は宮城のある町で年をとった。》と閉じられます。まさに日本の現代史がそこにあります。 ところが、石垣さんは、《私はびっくりしてしまいました》とおっしゃいました。伝え聞いたところによると、なんと、《大学を出て社会人になった方》が、「この詩の最後の《宮城》ってなんだろうね」といったそうです。 私も、びっくりしました。《宮城》という言葉がわからないなどとは、考えつかなかったのです。 その講演からさらに十五年が経ってしまいました。 エピソードの概要だけ抜き出して引用しましたが、北村薫は「詩」の中で使われる「ことば」について、もっと丁寧に語っていますが、結論はこうです。 しかし、詩では困ります。《最終的に意味がわかればいい》というものではありません。説明が一つはいるのと、いわずもがなの言葉として、直接、通じるのとでは、胸への響き方が違うでしょう。かといって、これを《皇居》と言い換えたら、もう別のものになってしまいます。難しいものです。 おそらく、北村薫はここで二つのことを問題にしています。一つは「詩」の言葉についてです。しかし、彼が困ったものだという「実感」の喪失は、外国の詩や古典の和歌の中では、しょっちゅう起こっていることで、常識的な言い草ではありますが、いまさらという感じもします。 気にかかるのはもう一つの方でしょう。この詩で言えば「宮城」という言葉が、若い読者には、ニュアンスどころか意味すら通じないという現象についてです。 ここで、石垣りんの「略歴」を載せてみます。どうぞ、お読みください。写真も載せてみました。いい表情ですね。 NHK人物録 略歴 石垣りん 私は連隊のある町で生れた。兵営の門は固くいつも剣付鉄砲を持った歩哨が立ち番所には営兵がずらりと並んではいってゆく者をあらためていた。棟をつらねた兵舎広い営庭。私は金庫のある職場で働いた。受付の女性は愛想よく客を迎え案内することを仕事にしているが戦後三十年このごろは警備会社の制服を着た男たちが兵士のように入口をかためている。兵隊は戦争に行った。東京丸の内を歩いているとガードマンのいる門にぶつかる。それが気がかりである。私は宮城のある町で年をとった。 詩集『略歴』1979年 北村薫の、このエッセイは「オール読物」という雑誌に連載されていたようです。2000年に書かれています。 言葉通りにとれば、この講演会は1980年代の中ごろのものと思われますが、ぼくには、上で引用した文章で少し気にかかったところがありました。 誤解しないでください。北村を責めるためにこんなことを言い始めたのではありません。ぼくが、「えっ?」と思ったのはここでした。《宮城》という言葉がわからないなどとは、考えつかなかったのです。 1949年生まれの北村薫は40代半ば、1990年代の初頭まで、公立高校の教員を続けていた人らしいのですが、彼は現場で、この現象と出合っていたはずではなかったということなのです。 「戦後文学」や「現代詩」の名作が、生徒たちにとっては、まったく理解できない祖父母の世代の「ことば」として響き始めたのはいつごろからだったでしょう。 それは高度経済成長の終盤、80年代の中ごろの教室だったと思います。そして彼は、その教室を経験していたに違いないし、そんな教室で「国語」の教員だった彼は、きっと「誠実」に苦闘していたに違いないというのが、ぼくの感想です。 それは、例えば、前後を読んでいただかなければ何を言っているのかわからない言い草ですが、このエッセイの文章にも現れているように思います。 最近「太宰治の辞書」という彼のミステリーを初めて読みました。この場合は「生徒」役は読者でしょう。楽しく読んだ「読者=生徒」の当てずっぽうですが、あの作品の構成なども、どこかの教室で何の関心も知識もない生徒相手に「考えるべき問題」を「謎」として設定し解き明かしていく展開に、教員の苦労が滲んでいると感じさせらるのですね。 彼はきっと「ことば」の「あったはずの」実相について、「詩」が生まれた時代や社会の真相に迫るべく、実に丁寧に面白く語る教壇の「噺家」だったのではないでしょうか。 もちろん、この詩の「宮城」という言葉の「実相」は、その言葉が口をついて出てくる世代の人々の「人生」であることは言うまでもないでしょう。が、それを、知らないという人に、わかるように語ることは「難しいもの」なのです。 ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.07.10
コメント(0)
岡井隆・馬場あき子・永田和宏・穂村弘「新・百人一首」(文春新書) どうしてこの本を読もうと思ったのか、よくわからないのですが、新コロちゃん騒ぎの間に図書館に予約していました。「新・百人一首」という書名の企画は、多分これまでにもあります。 ぼくが知っているものでは丸谷才一「新・新百人一首(上・下)」(新潮文庫)ですが、丸谷の企図も、それ以外の試みも古典和歌が対象でした。 本書の新しさは、明治から現代までの歌人100人です。近現代の、特に、比率として戦後の歌人の短歌を多く選んでいるところが特徴です。 歌を選んでいるメンバーも、御存命の歌人としては、最もメジャーな方たちで、文句はありません。 選歌の基準について馬場あき子さんは「カルタにして取れる歌」とおっしゃっていて、教養としての現代短歌というのでしょうか、楽しく読めるアンソロジーになっているのかもしれません。 しかし、近現代、特に現代短歌を「カルタ会」の場で読み上げるのは、なんだか自己矛盾を感じさせるのですが誤解でしょうか。少々「かったるい 」、まあ、平和なうたが多いような気がしました。 興味をお持ちの方は、どんな百人のどんな歌が選ばれているのか、手に取ってお読みいただくのがよろしいのではないでしょうか。 「というわけで」、というわけでもありませんが、我が家の同居人チッチキ夫人と二人でこの本の中に引用されている歌から十首づつ選んでみました。二人の十人一首というわけで、二十人一首ですね。 生まれの早い順に並べてみるとこうなりました。 江戸正岡子規(1867年―1902年 34歳) 瓶にさす 藤の花ぶさ みじかければ たたみの上に とどかざりけり 「竹乃里歌」 クマ やはり近代短歌といえばこの人を外すわけにはいきません。ただ一人の「江戸」生まれでした。年齢は歌人が亡くなった時の御年です。下段のカッコは所収歌集、「クマ」は選んだ人です。明治斎藤茂吉(1882年―1953年 70歳) のど赤き 玄鳥ふたつ 屋梁にゐて 足乳根の母は 死にたまふなり 「赤光」 クマ土岐善麿(1885年―1980年 94歳) あなたは勝つものとおもってゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ 「夏草」 チ北原白秋(1885年―1942年 57歳) 君かえす 朝の舗石 さくさくと 雪よ林檎の 香のごとくふれ 「桐の花」 チ・クマ石川啄木(1886年 26歳) やはらかに柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに 「一握の砂」 チ・クマ土屋文明(1890年―1990年 100歳) にんじんは 明日蒔けばよし 帰らむよ 東一華の花も 閉ざしぬ 「山下水」チ釈迢空(折口信夫)(1887年―1953年 66歳) 葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道 を行きし人あり 「海やまのあひだ」クマ 斎藤茂吉が石川啄木よりも年上だったことに驚きました。白秋と啄木のこの歌は満票(二人の、ですが)でした。 この辺りの歌は仕事でなんども出会っています。何度も読むということは、好きになるということとつながっているのでしょうか。大正山崎方代(1914年―1985年 71歳) こんなにも 湯呑茶碗は あたたかく しどろもどろに 吾はおるなり 「右左口」チ・クマ清水房雄(1915年―2017年 101歳) 三人の子三人それぞれにかなしくて飯終るまで吾は見てゐる 「一去集」チ森岡貞香(1916年―2009年 93歳) けれども、と言ひさしてわがいくばくか空間のごときを得たりき 「百乳文」チ塚本邦雄(1920年―2005年 84歳) 日本脱出したし 皇帝ペンギンもペンギン飼育係も 「日本人霊歌」チ・クマ中条ふみ子(1922年―1954年 31歳) 出奔せし夫が住むといふ四国目とづれば不思議に美しき島よ 「乳房喪失」チ前登志夫(1926年―2008年 82歳) この父が 鬼にかへらむ 峠まで 落暉の坂を 背負はれてゆけ 「霊異記」チ 山崎方代という人は「ほうだい」と読むそうですが、男性歌人です。「口語」というのでしょうか、ことばが「やわらかい」のが印象的です。 塚本邦雄の歌に初めて出会った時の驚きは今も忘れませんが、これを国語の授業で扱うのは至難の業でしたね。昭和(戦前) 尾崎左永子(1927年 93歳 存命) とどろきて 風過ぎしかば 一呼吸 おきてさくらの ゆるやかに散る 「星座空間」チ 寺山修司(1935年―1983年 47歳) 海を知らぬ 少女の前に 麦藁帽の われは両手を ひろげていたり 「空には本」チ・クマ 岸上大作(1939年―1960年 21歳) 装甲車 踏みつけて超す 足裏の 清しき論理に 息をつめている 「意思表示」クマ 寺山修司の「レトリック」と、岸上大作の「清冽」が、二十歳の頃の「短歌」との出会いの記憶です。特に岸上の「意思表示」は単行本を買ったように思います。それにしても、21歳の「青年」だったのですね。 ぼくは「遅れてきた青年」でしたが、そういう時代だったのでしょうか。昭和(戦後) 花山多佳子(1948年 72歳 存命) プリクラの シールになって 落ちてゐる むすめを見たり 風吹く畳に 「空合」チ 島田修三(1950年 69歳 存命) ボケ岡と 呼ばるる少年 壁に向き ボールを投げをり ほとんど捕れず 「晴朗悲歌集」チ永井陽子(1951年―2000年 49歳) ひまはりの アンダルシアは とほけれど とほけれどアンダルシアのひまはり 「モーツァルトの電話帳」クマ水原紫苑(1959年 61歳 存命) われらかつて 魚なりし頃 かたらひし 藻の蔭に似る ゆうぐれ来たる 「びあんか」クマ 穂村弘(1962年 58歳 存命) サバンナの 象のうんこよ 聞いてくれ だるいせつない こわいさみしい 「シンジケート」チ・クマ 同時代の歌人ですね。人気の俵万智さんや加藤治郎さんが入っていませんが、「新・百人一首」には入っています。チッチキ夫人が花山多佳子さんや島田修二の歌を選んでいるのに、何となく納得しました。 水原紫苑さんは、最近のぼくのひいきですが、還暦を越えていらっしゃるのに驚きました。 並べ終わって気づきました。二十一首ありますね。はははは。というわけで、「二十一人一首」、お楽しみください。 ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.07.08
コメント(0)
友部正人「誰もぼくの絵を描けないだろう」(SONYレコード) 「誰もぼくの絵を描けないだろう」 友部正人誰もぼくの絵を描けないだろうあの娘はついにやっては来ないだろうぼくの失敗は ぼくのひき出しの中にしかないこの砂のような夜を君に見せてあげたいんだだからもう5時間もこの丸テーブルの前に座り込んでる心臓をかすめて通るはビルディングの直線直線の嵐の中で人は気が狂うだろう女のスカートに男が丸呑みされるのを見たんだ女は最後まで男を愛せないだろうぼくは死ぬまで道路になれないだろうぼくは北国からやって来た南国育ちの君のからだに歯形を付けるために長い長い旅暮らし夜には寝袋に潜り込みボーッボーッて寂しい息をするうんとうんと 重たい靴をはくんだ歩いているのが ぼくにもよくわかるように一度始まれば もう終わりはない地球の胸板に 顔を埋めゆうべ ロバになった夢を見た…扉を開けばそこは北国 ぼくの吹雪の中を彷徨うのは誰だまたいつか君のところへ 帰って行く日が来たらぼくが渡った川や もぎとった取った季節の名前を地図のように広げて 君に見せてあげるよ大きな飛行機に乗っている夢でも見てるのかな記憶と酒を取り替えたまま地下街でまたひとり労務者が死んだ法律よりも死の方が慈悲深いこの国で死んで殺人者たちと愉快な船旅に出る西灘の岸地通りにあった六畳一間のアパートに住んでいたことがあります。鍵なんてかけたこともない暮らしでしたが、部屋に帰ると、灯もつけない部屋で、勝手に上がり込んで、いつもこのLPを聞いていたK君という友達がいました。今でも彼の姿が浮かぶと聞くのがこの曲です。 作家の諏訪哲史の「紋章と時間」(国書刊行会)という評論集を読んでいて、懐かしいこの歌を「詩」として評価するこんな文章を見つけました。 世に「歌詞」と呼ばれているもの、それは音楽の付属物ではなく、音楽そのものだと僕は思います。詞、そしてすべての言語芸術は、一面、文字という空間的要素を持つものの、その本質は、折口の言語情調論を引くまでもなく、節や拍子の連なりから成る「持続」、つまり時間芸術であって、言葉を用いたあらゆる芸術は、極端な話、ドローイングや書道をも含め、まずは音楽に等しいものだと僕は考えます。 すべての言葉が音楽であるからには、そうした音楽らしい音楽を破壊する音楽もまた音楽で、とすれば、言葉もを毀す言葉もまた言葉であり、僕はこうした自壊と内破の力を孕んだ「言葉の正統から避けられた鬼子としての言葉」の中に、言葉の「美」もまたあるように思います。今回取り上げた言葉、本来リリカルな旋律を伴った詞であるこの作品は、ぼくにとってその意味で、まさに美しい日本語です。 この作家の言葉は、K君のように、この曲を繰り返し聴いた人の言葉だと思いました。そして、ぼくより十幾つか若いはずの作家が、そんなふうに、この曲を聞いていたということに、何だかドキドキするものを感じました。うんとうんと重たい靴をはくんだ歩いているのが ぼくにもよくわかるように K君が神戸を去って40年たちます。ぼくは相変わらず神戸の街を歩いています。 友部正人の「詩」は単独の詩集もありますが、現代詩文庫(思潮社)に「友部正人詩集」としてまとめられています。ボタン押してね!にほんブログ村友部正人詩集 (現代詩文庫) [ 友部正人 ]
2020.01.09
コメント(0)
塚本邦雄「茂吉秀歌[赤光]百首」(講談社学術文庫) 昔、現代文の時間に、短歌や俳句の解釈や鑑賞を調べて発表するという形式で授業をやったことがある。狙いは、一首、一句でいいから興味をもって、自分で調べることで、教員の解説を待っていてはわからない、誰かに伝えたくなる実感に触れる人が出てくることだった。みんな何を調べたらいいのか、困ったようだ。ネットなんて便利なものはまだなかった。 国語の教員になって最初に感じた困惑は、教材である文学作品の何を生徒さんに伝えればいいのか、という当たり前といえば当たり前すぎる疑問だった。この疑問を味わってくれる人が一人でも出てくればいいな。そう思って計画した。 実際、教員になったボクは、自分の思い込みではない解説や解釈を探すことを仕事としてきたように思う。「読書好き」のように自分でも言い、何程か立派な趣味であるかのような態度で接したり、読んでいる量を誇らしげにいうこともあったと思うが、実は、仕事を人並みにやるための仕様がなしの作業の結果だった。 しかし、そうやってさがしていて見つけた本の中には、ボク自身の感受性を変えてしまうような迫力で迫ってくるものもあった。 今日紹介する歌人塚本邦雄による「茂吉秀歌[赤光]百首」(講談社学術文庫)はそんな本だった。斉藤茂吉の歌集「赤光」におさめられている《死にたまふ母》連作の中の有名な一首に対する塚本邦雄の解説を少し紹介する。 我が母よ死にたまひゆく我が母よ我を生まし乳足らひし母よ 初句から結句まで三十一音これ歔欷(キョキ)(嘆き悲しむこと)の感がある。そしてこの悲調は、たとへるならチェロの音色であろうか。高音へと一途に啜り上げて行くその旋律が、ヴァイオリン・ソロの飽くまでも繊細澄明な趣ではなく、より太太と、底籠りつつ、読者の魂を揺すぶるところ、チェロさながらであり、それがいかにも茂吉らしい。 初句切、三句切、末句は三句と同じ感歎助詞、この切目切目はまさに嗚咽の噦(シャク)り上げる息遣ひそのままだ。終始手離しで母よ母よと呼び、しかも感傷の甘さを帯びないのは偉とするに足りよう。 凡手が真似たなら、鼻持ちならぬ過剰叙情に陥ったことだらう。その例は後々いやと言いたひくらゐ見られるし、皆単なる口説き文句に堕してゐる。茂吉の歌が成功したのは、様々の要因が有効に働いたからであり、単に悲歎を「ありのまま」吐き出した結果などではあるまい。 わが愛する母よ、われを愛したまひし母よ、などと、抽象的な、綺麗事に類する修辞を廃し、我を生み、乳を与へ、はぐくみたまふ母よと、ある意味では聖なる動物の勁さが生まれた。「垂乳根、足乳根(タラチネ)」から派生させた彼独特の造語であるが、よくこれが罷(マカ)り通って今日まで来たものだと、小首を傾げたくなるような強引な用法だ。 その強引さ、好い意味の舌足らずも亦、この作品に関する限り、却って魅力になつてゐる。死者が父で「父の実の父よ」などと歌っても、この歌の十分の一のおもしろみもあるまい。 たらちねのと、万葉写しの枕詞をそのまま用ゐず、語源を蘇らせ、具象性、現実性を帯びさせ、しかも、古調は決して棄てなかったところが作者の才の稀なることを証すだらう。人の子を生み、わが身に代へ、おのが身を削ってでも生かしめたその人は「死にたまひゆく」母であるところに、この作品内部の重く気高く圧倒的な主題がある。 斉藤茂吉の「赤光」所収の短歌などであれば、図書館の目録を探せば解説書は山のようにある。今時であればインターネットで検索すれば、ほとんど無数といってもいいほど見つかるだろう。 しかし、自分が納得がいって、これは人に伝えたいと思う解説に簡単に出会えるわけではないのは、茂吉の場合にかぎらない。だから、納得がいく解説に出会うと、正直うれしい。当たり前の話だが、仕事が国語の教員だからといって、一読ですらすらと解釈できたりするわけではないのだ。 そういう経験の中でも、この解説の「聖なる動物の勁さ」という塚本邦雄の解釈、この短歌への理解のような、ぼくにとって、自分自身の体験の根っこを揺さぶる言葉と出合ったりすると、他の解説など目に入らなくなる。広げるつもりが、これしかない、これこそがほんとうの読みだという思い込みをつくったりもするのだ。 塚本邦雄の解説は、文学が、人が生きていることとつながっている芸術であることを、ハッと思い出させてくれた。「茂吉は、きっと、そうだったんだ。」 そんな感じ。 あんなあ、こんなこというてる人がおるねん! インチキな引用でごまかす40数年間だったが、本人は、たった一つの短歌の解釈でも、探せば生きていることを揺さぶる出会いがありうることを期待して、あれこれ読み散らしてきたというわけだ。(S)2009・12・24(2019・10・20改稿)にほんブログ村にほんブログ村【中古】 西行百首 講談社文芸文庫/塚本邦雄【著】 王朝百首 講談社文芸文庫 / 塚本邦雄 【文庫】
2019.10.22
コメント(0)
ア―サー・ビナード「鮭と星々と死者たちの向こうに」(2006年「図書」11月号) 2006年の「図書」の11月号に面白いエッセイがありました。「poetry talks」という連載で「鮭と星々と死者たちの向こうに」と題して詩人のアーサー・ビナードという人が書いています。「ここが家だ」のアーサー・ビナードさんですね。もう古い記事なのですが、全文書き写してみます。 「When the War Is Over」 W.S.MERWINWhen the war is overWe will be proud of course the air will beGood for breathinng at lastThe water will have been improved the salmonAnd the silence of heaven will migrate more perfectlyThe dead will think the living are worth it we will knowWho we areAnd we will all enlist again「戦争が終わった暁」 W・S・マーウィン戦争が終わった暁には私たちの胸はもちろん誇りに満ちようやく空気は吸っておいしいものになり水質も改善されて鮭と星々の静寂がより美しく正確に回遊して死者たちは生きているものを少しも恨まず犠牲を払ってよかったと思いわたしたちもみな自分自身への不安が解消してもう一度志願して出兵する 二十世紀のアメリカで最も信頼された演劇評論家ブルックス・アトキンソンは、第二次世界大戦の間じゅう「ニューヨーク・タイムズ」の戦線特派員をつとめた。そして一九五一年にこう振り返った―“After war there is a little less democracy to save.”「戦争が終わってみると毎回、守ろうとしていたはずの民主主義が、少しずつ減ってしまっている。」 その後も朝鮮半島、インドシナ半島、中東、中米、南米などで米軍は戦争を幾度も繰り広げ、アトキンソンの言葉どおり毎回、アメリカの民主主義が減少した。しかも自作自演の、仮想敵を作り上げるところから始まる戦争なので、飛び交う情報のほとんどがフィクションだ。「ホワイトハウス本営発表」を鵜呑みにした国民が、現実とかけ離れた妄想に包まれて暮らすことになる。 “When the War Is Over”という詩を作るにあたってW・S・マーウィンは、ひとまずそんな妄想の真っただ中に身を置き、想像を大きく膨らました。当局が決まって約束する「戦争が終わった暁には・・・」の画餅を、拡大してその薄っぺらな不条理を照らす。鮭と星々と死者たちの向こうに、わたしたちの不毛な繰り返しが透けて見える。ベトナム戦争の頃に書かれた作品だが、少しも古くなく、悲しいことに現在のアメリカの虚構にもぴったりだ。 マーウィンの観察眼は鋭いだけでなく、常に人間の枠を超えた広がりを秘めている。ただし派手に人間をかなぐり捨てようとはせず、少しも力まずに、さりげない比喩で読者に新しいレンズを与える。例えば“Separetion”では、別離の悲哀を味わっている自分自身を、刺繍の針の目を通して見つめた。 「Sepration」Your abusence has gone through Like a thread througouh a needle.Everything I do is stitched with its color.「離れているとき」ここにあなたがいないことが、針に通した糸のように、私の中を貫く。何をやるにもその縫い目が見える。いないあなた色で。 自然界を見つめるマーウィンの目は、その事象を逆に人間のそばへ、やわらかく手繰り寄せて活写する。一言でいえば「擬人化」だが、マーウィンのそれは澄み切った語り口で、微妙な客観性を保ちながら流れてくる。ホモサピエンスと、他の事物との間に引かれている境界線が、空虚なものとして消え失せる。自然を擬人化すると同時に、人間を擬自然化して、自由に行き来できる環境をととのえる。「Dsuk in Winter」The sun sets in the cold without frendsWithout reproaches after all it has done for usIt Goes down believing in nothingWhen it has gone I hear the stream running after itIt has brought its flute it long way「冬の夕暮れ」太陽は寒い中、友だちもなく沈んで行くあれだけみなに尽くしたというのに誰の非をとがめるでもなく、何も信じないまま沈むと、その後を追って走る小川の音が聞こえてくる―フルートを吹き吹きながらはるかどこまでも遠くへ W・S・マーウィンは2005年の全米図書賞を詩部門で受賞したアメリカの現代詩人らしいのですが、ぼくはこのエッセイで初めて読みました。英語の詩ですが、落ち着いていて僕にでもわかりますね。高校や、女子大の学生さんだって、一つ二つ辞書を引けば分かるに違いないでしょう。ビナードさんの解説もなかなかいいと思います。詩を読むというだけでなく、現代社会に視線を導いてくれています。 アーサー・ビナード の著書に、「日々の非常口」朝日新聞社がありますが、メルトモ?のUさんという方から、「読書案内」用にこんな記事をいただいたことがあります。 新聞の書評で気になりハードカバーのこの本を買い求めました。作者は40歳ぐらいのアメリカ人。大学卒業後、来日して日本語で詩やエッセイを発表しています。この本を読むまで知りませんでしたが。ここに書かれていたエッセイで一番面白かったのは、アメリカの空港を出るときたった2音節だったスーツケースが、成田に着くと、6音節にボリュームアップすることに驚くという話です。アメリカ人である筆者は日本語を勉強するとき飲み込みにくい言葉は佃煮にするくらい沢山あったと言っています。楽しい本ですが、鋭く日本や世界を見て表現しています。(U) Uさんが紹介してくださった「日々の非常口」は、その後、手に入れて読みました。その話はまたいずれ、というか、それから、その本が行く方不明で、今回とても困っています。というわけで、また、なのでした。 ベン・シャーン「ここが家だ」はここをクリックしてください。ボタン押してね!にほんブログ村知らなかった、ぼくらの戦争 [ アーサー・ ビナード ]
2019.09.12
コメント(0)
和合亮一「春に」 春に 和合亮一 きみに 贈りたい風景がある ある建物の 階段の踊り場に 大きな窓があって 青い空に 雲が浮かんでいてよく晴れ渡っていて そこに立って いつも見とれるんだ でも この春の 窓の光景を じゃあ ないんだ しばらくして 忘れた頃に ゆっくりと 心に浮かんでくる 空 その はるか かなた その 先を きみに この詩は、福島で教員をしている詩人、和合亮一のツイート詩集(?)「詩の礫 起承転転」のおしまいの方にあった。和合亮一という人が、高校の国語の教員をしている人で、高校入試の合否判定中に、所謂、東日本大震災に被災したということを、何となく知っていた。 ぼくは、当日、その時刻、勤務していた高校の校長室にいた。トラブルを抱えた生徒たちについての進級要件について意見を具申していたさなか、事務室から声がかかって、校長がテレビをつけた。テレビの画面が揺れていた。神戸の地震を知っているぼくには他人ごととは思えなかったが、ただテレビの画面にくぎ付けにされるより他になすすべがなかったことを覚えている。 彼がこの詩をいつ書いたのかは知らない。この詩があることに気付いたのも、この詩集を読み返したつい最近のことだ。現場にいる頃に読んでいたら、毎年作られる卒業文集に、きっと引用していたと思う。三年間の出会いの後、必ず別れてしまう生徒たちに感じる、教員の寂しさを、ぼくはこの詩に感じた。 たぶん、詩はもっと遠くへ行ってしまった人に向けて書かれているとは思うのだが。追記2022・02・16 まだ冬の最中ですが、明るい日差しがベランダに差し込んでくる朝に、思わず青空を見上げました。 「今年も『春』がやってくる。」 季節が巡るのを感じるたびに、過去が湧きあがってくるのは年齢のせいでしょうか。ボタン押してね!にほんブログ村
2019.08.11
コメント(0)
和合亮一「詩の礫」徳間書店 和合亮一がツイッターで「詩の礫」を書き始めたのが、2011年3月16日です。始まりのほぼ一時間をここに引用します。震災に遭いました。避難所にいましたが。落ち着いたので、仕事をするために戻りました。皆さんいろいろご心配をおかけしました。励ましありがとうございました。 2011年3月16日4:23本日で被災六日目になります。ものの見方や考え方が変わりました。 2011年3月16日4:29行きつくところは涙しかありません。私は作品を修羅のように書きたいと思います。 2011年3月16日4:30放射能が降っています。静かな夜です。 2011年3月16日4:30ここまで私たちを痛めつける意味はあるのでしょうか。 2011年3月16日4:33ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるのものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるのでしょうか。 2011年3月16日4:23この震災は何を私たちに教えたいのか。教えたいものなぞ無いのなら、なおさら何を信じればよいのか。 2011年3月16日4:34放射能が降っています。静かな静かな夜です。 2011年3月16日4:35屋外から戻ったら、髪と手と顔を洗いなさいと教えられました。私達には、それを洗う水など無いのです。 2011年3月16日4:37私が暮らした南相馬市に物資が届いていないそうです。南相馬市に入りたくないという理由だそうです。南相馬市を救ってください。 2011年3月16日4:40あなたにとって故郷とはどのようなものですか。私は故郷を捨てません。故郷は私の全てです。 2011年3月16日4:44放射線はただちに健康に異常が出る量ではないそうです。「ただちに」を裏返せば「やがては」になるでしょうか。家族の健康が心配です。 2011年3月16日4:53そうかもしれませんね。物事と意味には明かな境界がある。それは離反していると言って良いかもしれません。 2011年3月16日5:32私が避暑地として気に入って、時折過ごしていた南三陸海岸に、一昨日、1000人の遺体が流れつきました。 2011年3月16日5:34 この日から、5月26日までのツイートがまとめられたのが「詩の礫」です。140文字というのがツイートの約束事らしいのですが、一回一回を読みつないでいくと、被災地の真ん中に座り込んでいる詩人の肉声が聞こえてくるようです。魂の木を想う、魂が転がる闇を想う、魂は夜を明かす、魂は言葉を呟く、魂を生きよ、魂を生きている、あなた 2011年5月26日5:20あなた 大切なあなた あなたの頬に 涙 2011年5月26日5:21いつか 安らぎの 一筋となるよう 祈ります 2011年5月26日5:21そして共に 船の舵を 詩の舵を 2011年5月26日5:21闇の港から 光の岸辺へ 私たちが朝となり 私たちが誕生となり 2011年5月26日5:22船を 詩を 櫂を 漕ぎましょう 2011年5月26日5:22新しい詩を生きるために 2011年5月26日5:23共に信じるここに記す 2011年5月26日5:23祈りとしてこの言に託す 2011年5月26日5:25明けない夜は無い 2011年5月26日5:26◎3.16から書き始めて、二ケ月と十日が経ちました。支えて下さったみなさん、本当にありがとうございました。 2011年5月26日5:52◎見つけました。書斎の本棚の前の・・・、かさなっった本の合間に、胡桃が一個だけ、落ちていました。かつて、何げなく拾ってきたもの…。今日の記念にします。胡桃を机の上に載せて、ずっと眺めています。これが私にとっての詩の礫。明けない夜は無い。 2011年5月26日6:08 詩集は、こんなふうに終わります。250ページを超える呟きを支えているのは文脈の整合性ではありません。詩人の存在そのものです。最後に本棚から転がり出てきた「胡桃」についても、途中の呟きで出会うことができます。気にかかるかたは、どうぞ本書をお読みください。追記2019・12・08和合亮一「詩の礫 起承転転」の感想はここをクリックしてください。同詩集所収の「春に」という詩についてはここをクリックしてください。追記2023・02・19 毎日寒いですが、この寒さが緩むと、今年も3月がやってきます。20代から神戸で暮らしてきたボクには1月は特別な月です。ことさらに日付を確認してどうこうという気分はありません。毎年、お正月の三が日が過ぎると「ああ今年も1月になった。」という、まあ、感慨とでもいう気分が浮かんできます。福嶋や、宮城、岩手のみなさんも、おそらく、似たような、まあ、ボクのような甘ったれた気分ではないでしょうが、気分を浮かべられるのだろうなと思います。で、ぼくは3月を意識すると和合亮一という詩人を思い浮かべます。実は、この詩集を読んで以来、ツイッターとかも覗くようになりました。で、時々見かけます。マア、時々ですが、今日はどこかの新聞に記事をお書きになったというつぶやきをお見掛けしました。で、昔のブログの修繕にもどってきました。マア、そんな生活です。ボタン押してね!にほんブログ村廃炉詩篇 [ 和合亮一 ]ふたたびの春に 震災ノート20110311→20120311 [ 和合亮一 ]
2019.08.11
コメント(0)
和合亮一「詩の礫 起承転転」(徳間書店) 和合亮一という詩人がいます。この詩集は震災直後の福島からツイッターで発信された「詩の礫」、詩の言葉のつぶて、の続刊です。内容は、たとえばこんな感じです。この震災は私たちに 何を教えたいというのか、教えたいものなぞないのなら、何を信じれば良いのか2012年6月17日23:29:47事故の検証は 雲の検証は 水の検証は 死んでしまった牛や犬の検証は 光の検証は せせらぎの検証は 愛情の検証は 自死の検証は かぶと虫の検証は 雨の検証は 帆掛け船の検証は ランドセルの検証は 風の検証は 原子力の検証は 請戸浜の検証は 検証の検証は どうしたのか2012年6月17日23:31:01「いいのか なかったことにされちまうぞ」「もう されちまってるぞ」「「なにを根拠にしてそう思う?」」「「「もう?」」」「「「「もうだ」」」」「「「「「!」」」」」2012年6月17日23:32:25誰もがこれで良いのかと思っている良いはずがないと思っている確かにやみくもに反対することはいろいろなことを考慮して現実的ではない面もあるのかもしれないがそれでもこれで良いのかと思っていることはまちがいなく誰しも心にあるのだそれなのにこれで良いのか誰もがこれで良いのかと思っている2012年6月17日23:35:15私たち家族には いまだに 太陽の下で 涼しい風を受けて 洗濯物を干す 楽しさを 許されていません 私の書斎には 私のシャツが いっぱいにつり下げられています 何人もの私と一緒に 暮らしたことあるかい 嘘です 本当です どちらですか どちらでもないです 再稼働2012年6月17日23:37:32ザリガニを捕まえたり 小魚を網ですくったり どじょうをつかんだり 川海老の透明度に見とれたり ハヤを釣ったり 笹舟を浮かべたり 水しぶき 光 小石 川遊び 岸辺の 草の丈高さ 子どもたちの笑い声 返して下さい 返してあげる 返してあげない どちらでもないないです 再稼働2012年6月17日23:44:31こうえんであそんでいたらすりむいたのでないていたらしらないおとなのひとがぼくのきずにやさしいかおでしおをぬっていったからおおきなこえでわんわんないていたらまたべつのおとなのひとがみずできずをあらいながしてくれてそしてやさしいかおでおおつぶのしおぬっていったさいかどう2012年6月17日23:46:27 いくら書き写しても「詩の礫」はつづきます。これをどう読めばいいのだろう。詩集を手に取ってページをめくり始めて最初に感じたことです。 初めて手に取ったのは、もうかなり昔のことです。国文学者(?)の藤井貞和という詩人の「水素よ 炉心露出の詩 三月十一日のために」(大月書店)という詩集(?)に「うちなる詩の発生」と紹介されていた言葉に促されてのことでした。しかし、読みあぐねてしまいました。 つい最近のことです。作家高橋源一郎の「今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学編」(講談社)を読みました。その中で、こんな一節に出会いました。「詩の礫」は、「非常時のことば」である。というか、その「ことば」は、「非常時」の現場から生まれてきた。いや、もっとはっきり言うと、それは「現場」そのものなのだ。この世界には「現場」と「現場」でない場所の二つしかない。そして、ほんとうのところ、「現場」に住む人たちと「現場」ではない場所に住む人たちは、理解し合うことができないのかもしれない。 作家高橋源一郎が、登場人物「タカハシさん」に語らせている、この発言を読んでいて、わけのワカラナイままの「納得」がやってきました。 分刻みで、つぶやかれ続ける「詩の礫」にたどり着く方法はとりあえずないんだ。そのことを、むしろ肯定しよう。それでいいんだ。そこから始まる。 そういう納得です。 ぼくの「現場」でも、和合亮一の「現場」から聞こえてくる「ことば」を受信し続けることは可能かもしれません。その「ことば」を、ずっと受信し続けることで、ぼくの現場の「ことば」が、少し変わる日がやってくるかもしれない。そういう、もう一つの納得もあります。 もう一度読み返し始めました。「現場」は古びていませんでした。つぶやきつづけている和合亮一の、つぶやきのむこうにある沈黙している意識の「現場」が浮かんできます。受信するぼくの沈黙してゆく意識がそこに寄り添いたがっています。 今はもういない音楽家の武満徹が「音 沈黙と測りあえるほどに」といういい方をしていたことをボンヤリ思い出しました。沈黙と測りあえる「ことば」は、こんなふうに書いている饒舌と矛盾しないのだろうか。自分のことばの浅さが、やっぱり気にかかります。なんか、やっぱり訳が分かっていないですね。追記2022・02・17 最近「裁かるるジャンヌ」という無声映画を見ました。音のない映像を見ながら、一生懸命言葉で意味ををつむぎたがっている自分を感じて、なんだか哀しくなりました。意味を知りたくてしようがないのは、愚かさでもあるのかもしれません。そこに写っている映像をそのまま受け取ることはできないのでしょうか。詩でいえば「ことば」をそのまま受け取ること。「ことば」から浮かんでくる世界を、そのまま育てること、そんな風にできるようになりたいのですが、むずかしいですね。 ボタン押してね!にほんブログ村今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇/高橋源一郎【合計3000円以上で送料無料】非常時のことば 震災の後で (朝日文庫) [ 高橋源一郎 ]水素よ、炉心露出の詩 三月十一日のために/藤井貞和【合計3000円以上で送料無料】武満徹著作集(1) [ 武満徹 ]
2019.08.10
コメント(0)
四方田犬彦「詩の約束」(作品社) 「詩の約束」(作品社)は、ぼくにとっては最新の四方田犬彦。詩をめぐって、テーマを決めて書き継いできた連載をまとめた一冊。四十年前に、怠惰な学生だったぼくが、「映像の召還」に驚いて以来、読み続けてきた四方田犬彦。 「朗誦する」に始まって、「記憶する」、「呪う」、最後は「呼びかける」、「断片にする」、「詩の大きな時間」。 その間、記述に「召喚」された詩人はハーフィズ(ペルシャ)、ボードレール(フランス)、谷川俊太郎、西条八十、西脇順三郎、パゾリーニ(イタリア、映画)、ポール・ボウルズ(アメリカ・作曲家・小説家)、谷川雁、寺山修司、三島由紀夫、萩原恭次郎、ドゥニ・ロッシュ(フランス)、入澤康夫、中上健次、永山則夫、チラナン・ピットプリーチャー(タイ)、T.S.エリオット(イギリス)、エズラ・パウンド(アメリカ)、蒲原有明、鮎川信夫、吉岡実、北村太郎、夏宇(台湾)、九鬼周造、吉本隆明、高橋睦郎、高貝弘也、ブレイク(イギリス)、アドニス(シリア)という具合で、名前も知らなかった詩人や、難しくて挫折した人がたくさんいる。 そのなかで、「注釈する」、「発語する」の二つの章には登場する中上健次をめぐって、彼の「歌のわかれ」とも言うべき「芸ごとの詩はいくら書いても仕方がない」という発言が書きつけてあったのは印象に残った。 ぼくにとっては、中上健次も、あのころ「ああ、すごい才能がある」と、心底、仰ぎ見た作家だった。「ああ、そうだったのか。」と納得したエピソードはほかにもあるが、中でも面白かった話が二つある。二つとも「引用する」の章で記された話で、一つ目は北村太郎の「冬へ」という作品の「徒然草」からの引用の話。 もう一つは田村隆一の「枯葉」という詩について。 枯葉 そして かれらは死んだ 緑の 血もながさずに 土にかえるまえに かれらは土の色に 一つの死を死んだ沈黙の 色にかわる どうしてなにもかも 透けてみえるのか 日と夜の 境界を 枯葉のなかを われらはどこまでも歩いたが 星の きまっているものは ふりむかない 一読して気付いた人は戦後詩がかなりお好きな人だと思うが、この詩には、別の戦後詩を代表する詩人が書いた有名な一行が引用されている。 橋上の人 (第6連 部分) あなたは愛をもたなかった、 あなたは真理をもたなかった、 あなたは持たざる一切を求めて、 持てる一切のものを失った。 橋上の人よ、 霧は濃く、影は淡く、 迷いはいかに深いとしても、 星のきまっている者はふりむこうとしない。 北村太郎、田村隆一とともに、同人詩誌「荒地」に集い、戦後詩を代表する詩人、鮎川信夫の「橋上の人」の一節だが、本書を読みながら、ぼくを驚かせたのは、ここに記した、この部分こそ、40年前の怠惰な青年の部屋の天井に張り付けられていた、詩句の一つだったからだ。 四方田によれば、田村隆一の詩は、鮎川信夫の詩句を引用することによって、鮎川に対する友情のあかしと、同じ元日本軍兵士としての、戦死した兵士たちへの決意表明でもあったことが言及されている。しかし、何よりも驚いたことは、これがレオナルド・ダ・ヴィンチの「星の定まれる者は右顧左眄しない。」という言葉の、借用だという指摘だった。 40年前の青年がどういうつもりで書き抜いていたのかはもう忘れてしまったが、今の、今まで、四方田によって指摘された一連の事情がこの詩句をめぐってあったことなど知らなかったのだから、いい気なものだが、こういう発見が、随所に出てくる読書は時を忘れるというものだ。 まあ、いろいろ言われている面もあるようだけれど、「四方田」読みはつづきそうだ。ボタン押してね!にほんブログ村ひと皿の記憶 食神、世界をめぐる (ちくま文庫) [ 四方田犬彦 ]白土三平論 (ちくま文庫) [ 四方田犬彦 ]
2019.07.18
コメント(0)
荒川洋治 「黙読の山」 (みすず書房) 詩人の荒川洋治のエッセイ集がみすず書房から、連作のように出ていて、なんとなく気になっていました。隣町の駅前に新しくできた図書館を利用するようになって、初めて出かけて棚を見ていると、ズラッと並んでいて、思わず「黙読の山」(みすず書房)を借りてきました。 勝手ないい草なのですけれど、この詩人の詩については、ぼくは、長いあいだ、関心がなかったのです。全く読んだことがないわけではないのですが、何の印象も残っていません。だからここでは触れようがないわけです。 実は、エッセイだって、おっ、これは! と驚くような文章が書かれているわけではありません。どちらかというと、実直で、どんくさい文章だと思います。しかし、どこかに微妙で、なるほど、あなたはそうか! とうならせるようなところがあって捨てがたいのです。 たとえば、この本を読みはじめるとすぐに「二人」というエッセイがあります。「オブローモフの生涯より」という1970年代のソビエト映画について書いているのですが、その結語はこんな感じです。 自分の意思をもって生きる、近代人の世界はここにはない。それとまったく反対の人生を生きる人の姿だ。アレクセーエフもまた、そのひとりである。でも彼らが時折浮かべる穏やかで、すなおな表情は、ぼくをつよくゆさぶる。そして、こんなことを想う。 自分というものをもって生きようとすることは、ある意味でむなしいこと、もしかしたら徒労なのではないか。自分というものをもって生きることよりも、それをもたないで、生きることのほうに、しあわせがあるのではないかと。 アレクセーエフは、オブローモフのそばにいる。オブローモフがどこかへ行くと、ひょこひょこついてくる。二人はとても楽しそうだ。そこには、古い社会を通り越した人には見えないものがある。 文章はなにげないのですが、注意して読むと仮名の使い方や、文の切り方に独特なものがあります。何よりも、最後の言い切りが、譲らない荒川洋治を感じさせて、なかなかやるなあ、という雰囲気なのです。 続けて読んでいると「国語をめぐる12章」という、少し長めのエッセイに出会います。「国語」というから、学校の話ですね。で、これを読んで、ちょっと留飲を下げました。こんな調子です。 子供に読書をすすめる先生のなかには、相田みつをの詩は読むが、まともな本は読まないという人も実は多い。先生が読まないのに、子供たちに本を読めというのは無理がある。 読書を語るなら、先生は、しぶしぶ読んだ名作の話をするのではなく、先生がこれまでに読んだ本を、正直に語ることである。その読書のようすがどんなに悲惨、貧相なものであっても、それでいいと思う。 一人の人間が、正直に自分の読書を公開する。すなおな自分を見せることが大切だ。 一般に、学校の「先生」というのは本を読みません。何年も同僚で暮らしたからよく知っています。でも、「にんげんだもの」は保健室や図書室の掲示板にあふれています。 みんな、荒川がいう「すなおな自分」を見せるなんて、想像もできません。だって、にんげんだもの。 じゃア、「国語」の時間はどうだろう。 短歌、俳句は、しっかり覚える。それだけでいいのではないかと思う。そこにあるその文字でおぼえる。からだのなかに文字を入れる。 遠山に日の当りたる枯野かな(高浜虚子) 滝の上に水現れて落ちにけり(後藤夜半) 秋風や模様のちがふ皿二つ(原石鼎) 永き日のにはとり柵を越えにけり(芝不器男) いずれもすばらしい句である。だがしっかり字句を記憶するのはむずかしい。黒板に書くとき、そのたびに迷う。「当り」は「当たり」ではない。よみは同じだが、「当り」である。 ぼくはここのところを「あり」とおぼえる。そうすると「当り」という文字がでる。「現れて」も「あられて」とおぼえる。すると、字句が正しく引き出される。 高校生や学生を見ていると、頭のなかに「いいことば」があまりはいっていないように思える。からからとはいわないが、なにもない感じがある。これからこうしようとかの生活設計はあるが、それは「意味」に属すること。 俳句は「意味」ではない。いわくいいがたいいいものをもった、ただのことばなのだ。しかも、いちいち考えずにすぐにとりだせることばだ。そんなことばを一〇代のころから、あたまにつめておきたい。きっといいことがあるだろう。 荒川のいう「ことば」への信頼が、たとえば、高校の「国語」の時間に通用しているのでしょうか。「意味」へ、「知識」へ、と、草木もなびいて、しゃべったことの定着率を数値で確認することを授業と呼んでいないでしょうか。もう終わったこととはいえ、わが身を振り返っても、お寒い限りですね。 結局、いい「ことば」を頭のなか、からだのなかに入れることは自分の、自分に対する仕事なのです。まあ、そういうわけですが、せっかくだから、仕事の「やりかた」は若いうちに身につけるに越したことはありません。「ことば」への信頼のない人の「読書のすすめ」はさみしいですからね。 というわけで、どんくさいなどと勝手なことをいいながら、しっかり、はまっている「荒川洋治」でしたが、できれば若い人に読んでほしい老人の繰り言でした。(S)ボタン押してね!にほんブログ村日記をつける (岩波現代文庫) [ 荒川洋治 ]続続・荒川洋治詩集 (現代詩文庫 242巻) [ 荒川洋治 ]
2019.07.17
コメント(0)
全54件 (54件中 1-50件目)