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タイトルの通りです。工業高校の見学に行き、2校目でソウは「この高校に入りたい!」と彼の学力では無理だと思いましたが、猛勉強して合格。3年間しっかり勉強して、成績も良く、希望する企業に、一般で入社しました。我が家は就職より3ヶ月で独り暮らしをするという決まりを作っていたので、ソウは料理もするようになり、就職より3ヶ月で独り暮らしを始めました。高校にはソウの障害の事は話していましたが、就職先には話さずと学校と相談。独り暮らしの手配はほぼソウ自身で済ませ、本人は自信を手に入れました。ソウは自分でお給料のやりくりをして、私はたまにご飯に連れて行ったり、冷凍おかずを差し入れたりするだけとなりました。色々諦めないで良かったなぁ、夢みたいだなぁと今はとても幸せな気持ちでいます。
2024.04.18
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本日二件目。 書けるときに… ソウが小学校に入ってから、ソウのお父さんは自分の世界に入っていきました。 風俗に行ったり、浮気もあったみたいです。 詮索しなくてもわかるよ。 おかしな行動続くとね。 家では子供らとは関わらず、でも学校や地域行事には行く。めちゃいいお父さんしてる。 子供は訳がわからない。 なんでやねん⁉️ 私はパート先で正規職員になり、離婚する事にしました。 険悪過ぎる家庭。 「お母さん、もう別れたら?」 当時小学校5年のソウの姉ちゃんネネが言った言葉です。 ソウも私と行くと言ったので、転校です。 ネネがそのままの学校はイヤだって。 親のせいで… 悩んでました。 新しい環境は皆んなストレス。 ソウは本当に大変です。 でも泣いて私を庇うソウ。 常にお父さんが私に色々言うと庇おうとします。 お姉ちゃんは荒れるし。 限界でした。 決めてからは物理的に時間的に大変だった。 そして3人の生活になりました。 お金もそうないので、今までとは比べものにならないくらい不便な古いマンションだったけど、皆んな笑顔になったね。 (母子の公的なお金は自身の勝手と思い、一切申請しなかったのです…) 2隣の大阪の某地方都市。 小学校は支援の必要がある子供に対して 京都と全く違ったけど、私達には大阪が合っていた。 公に面倒を終生みてもらえないソウ。 自立が求められます。 大阪は、地域の小学校にいる児童や保護者に対して、良しも悪しも【特別感】はありません。 それが私達親子には最適でした。 PTA役員も普通級です。 担任は新卒の先生。 可愛らしいお兄ちゃん先生でした。
2017.02.06
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本当に長い間放置したブログ。 あれから、6年経ちました。 小学校は支援級に。 ソウの父親は仕事に逃げ、子供達と関わらないようになって行きました。 子供達からの信頼は全く無くなり、私は1人奔走してました。 結局離婚し、私は1人子供らを連れ転居しました。 転居先は【京都⇨大阪】 それがソウ小学校3年の学年末でした。 当時、国語と算数は支援級にそれ以外は支援級。 京都は支援級から普通級へ通うスタイルです。 やっぱりお客様。 学校のPTA役員も支援級で受けました。 大阪は普通級から支援級へ通うスタイル。 ソウは小学校に入ってからも、自身の頑張りと周りの援助、そして私とあの子のお姉ちゃんのフォローで、伸び続けました。 小児神経科の医師ですら驚く程発達しました。 普通の子では今でもないけど。 ソウは、先生の勧めもあり5年から普通級のみに行き、6年から籍も普通級になりました。 ソウが頑張れた理由。 それは『ずっと普通級の皆んなといたいから』 大阪では普通級から支援級に通います。 皆んなはクラスにずっといるのに僕だけ… それがソウには寂しかったのです。 私は、学校の事は先生にお任せして、 先生が困った時には親が協力させて頂く。 文句なんてとんでもない❗️と思う親です。 自閉の根本は決して消えません。 クラスの悪いコからプチイジメがありました。 それはやはり弱いソウに降りかかります。 それを伝えてくれる先生に感謝しています。 だって気付いてくれたのです。 当事者に話を聞いて、双方と話し、両者も交えて話す。 忙しい先生の生活を考えるとありがたい。 来年ソウは中学生になります。 イジメのような事があるかもしれない。 その可能性は否定出来ない。 はっきり言ってくれた先生。 私にはありがたかった。 だって、本当の事だもん。 臭いものには蓋出来ない。 子供の事だもん。
2017.02.06
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お久しぶりです・・・先月からついにパートを始めました。就学相談の時期に平成16年4月~平成17年3月生まれのこのカテのママさん達は就学相談ですよね。もちろん、うちもそうです。通級の先生による発達検査も終わり、先日面談がありました。以前お話したとおり療育施設の先生は信頼できず、面談参加はお断りをし、ソウの保育園の加配の先生、地元小学校の支援級の先生、近隣の通級の先生(地元に通級が無いため)主人も参加し、計5人で話をしました。また改めてお話したいと思いますが、少し前発達検査が近隣の通級の先生によって行われ、終了後、生育に関して話をしました。その時、『お母さん、ここまでよく頑張られましたね。』その言葉に涙しまくりましたこれまでのソウに対する取組みや、自閉や発達障害に関して調べたこと、支援学校を地元の他も見学しに行った事など、とても褒めてもらえ、なんだかご褒美をもらえたような気がしました。その先生が司会進行をされるという形で相談会は進められました。加配の先生には、正直に園のことやソウのことを話して欲しいと伝えていたので、いいことも良くないことも正直に話してくださいました。私たち夫婦が望むのは【ソウが発達していく為に一番いい環境はどこなのか?】それを知ることなんです。その為には、あるがままを正直に話し、どこが【適】(死語になっていますが)なのか。私たちは生育に関してを話し、家庭での様子を話しました。園に関しては、加配の先生にお任せし、通級と支援級の先生には『学校は集団生活の場なので、加配の先生からのお話を重要視してください』と伝えました。時には笑いの起こる和やかな、真剣な充実した相談会でした。お話していく中、折れ線型自閉症のソウの発達速度は、自閉症の子供としては驚く速さで進んでいることをまた言われました。療育施設でも言われて、先月行った発達支援センターでも言われたので、ソウは頑張ってるんだなと思いました。お母さんも一緒に頑張るね。
2010.08.09
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知的伴う自閉症児5歳のソウ。土曜から2泊で実家に帰省していました。現在私が骨折中(右手小指・右足首)なので、どこにも行けず・・・主人はなぜか私の実家がお気に入りなので(私の父と話すのが楽しいらしい)彼が行きたがり、付いていくに近い感じでお出かけ。小2のお姉ちゃんとソウは、お隣のソウと同じ年の双子と遊びます。ちょっとだけ発達遅めちゃんの双子ですが、ソウと比べると、ちょっっっっとです遊びに誘われても、ソウはダントツで一抜けた~大好きなDSをしに帰ってきてしまう・・・気が向いたら、またお外へ外交的な双子の兄、内向的な弟。一卵性でも全く性格は違う2人。何か起きないと呼びに来ない兄。何も無いのにやたらやってくる弟。気配なく戸を開けて こっそりこちらを伺っている去年の冬が始まった頃に急に会話ができるようになったソウ。助詞やら副詞を間違いまくりながらも一生懸命。生意気に文句タラタラ。でもイントネーションおかしいよ。一度、双子の弟とケンカになったらしく、プリプリ怒りながら帰ってきました。お互い頑固だからね~。まぁ、ケンカできるようになっただけでヨシ
2010.05.05
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ソウは3月一杯で卒園して、保育園へ転園しました。たまたま療育手帳の交付に伴う関係で、市役所に行った時の事です。「子育て支援科にも行って頂けますか?」そう言われ、支援科窓口で係りの人に話して待っていたとき「えー、昨年からお待ちいただいている次年長の男の子のお子さんです。 はい、療育施設に通われている・・・」( ・◇・)?(・◇・ )その人は、ソウがお願いしている保育園の担当係。資料をペラペラめくりながら話しています。そこに主人の名前・・・やっぱ、うちのことだ。どうやら一旦断られたのを再度お願いしている様子。別の用件で半月ほど前に子育て支援科に行った時、すごいご立腹で、全く不条理な申し立てをしている40台半ばの夫婦を見ました。保育園の事で話してたみたいなんですが、正直驚く内容でした。でかい声で話し続けているんで、つい聞こえてしまって・・・急に住宅が増えた地域なので、諦めてたのもあって頑張ってくれているその人に申し訳ないなって思いました。「Kさん、お電話聞こえてしまいました。 幼稚園でまだ見てもらえるみたいですから、無理なさらないでください。 色々ありがとうございました。」と声をかけると、「ちょっと待ってください」って、課長さんのところへ。『声かけないほうが良かったのかな・・・』「もう少ししたら、結果を報告させていただきますので」それだけお話してくれました。そして1週間後、ソウは保育園に転園できることになりました。2/27の事でした。
2010.04.29
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お休みしている間に年長になりました。そして、ソウは 幼稚園児 → 保育園児 小学校の隣にある保育園の待機となり一年。年度が替わるので再度市役所へ申請。当時通っていた幼稚園からは、年長に上がれるとは聞いていたので保育園が今年無理なら待機申請せず、幼稚園に通い続ける!と決めてました。年度末も見えた2月下旬。もう連絡ないんだから・・・と諦めていたところに連絡が来ました。3クラスの幼稚園から、1クラスの保育園。知ってるのは、療育で一緒のクラスの男の子1人。なじめるのかな・・・・泣き泣きになるんじゃないのかな・・・NO PROBLEM親が心配しまくる時程、問題なしっぶるあっさり保育園の子として生活してます。そして、就学相談の季節がやってきました。先日用紙を受け取り、GW明けに提出です。2歳上のお姉ちゃんの時は、(検診来てね~)で終わってた。ソウはこれから色々考えて、情報を更に仕入れてやっていきます。ソウの楽しみ DS命
2010.04.28
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長年放置してました・・・。ブログよ、ごめん。ソウは相変わらず、幼稚園と週1回の療育のダブルスクールです。4月から男の子ばかりのグループになりました。(前年度は殆ど女の子でした)OT(運動)は親子でしますが、学習は子供だけ。OTを2分割して、学習グループは2つに分かれます。マジックミラーから学習を親は見ているのですが、3ヶ月経ち、お母さん同士も仲良くなりました。話をしていると、4人の子供とも(年中)ズボンは総ゴムパンツ。どうしてもホックが難しい・・・うちのソウもホックがなかなかできません。ソウは背の高い子なので、年中で110の服を着ています。4人の中のFくんは、まだソウより少し背が高いんです。100を超えてくると、途端に総ゴムのパンツはあまり見かけなくなりました。F.O Kidsは全部総ゴムなので、福袋でお世話にwwFくんのママも、F.Oはご存知。でもシンプルなナチュラル色のパンツ、F.Oになかなか無いんですよね。ストレッチばっかじゃないし・・・なんで、作ることにしました!ヘビロテなので、使用感かなりありますが綿に少し化繊の入ったストレッチ生地なので、療育の日にはピッタリです。¥300で出来たので、洗濯で回しまくり。お姉ちゃんもハンドメイドが好きです。これまたヘビロテ中(トップスは、ユニクロにバテンレース縫い付けただけですが・・・)お姉ちゃんの場合は、ハンドメイドを着ていると「私って、お母さんに愛されてる」と、思うようです。普段の自分に反省です・・・ソウに手がかかる分、小学校に入って環境順応に大変なお姉ちゃんは、フォローが回りきってません。中学校の家庭科でキュロットスカートを作ったのが、初めてのハンドメイドでした。人の倍時間がかかるのに、とんでもなく下手。「私は一生もうしません」そう思っていたけど、ハンドメイドを始めたきっかけは、ソウの障害でした。幼稚園に入園する時、視覚優位のソウがわかるように、好きなキャラで、かばんなど必要なものを一式作ったのが最初でした。次が療育用のかばん一式。そして今の細々ハンドメイドに至ります。嫌いな事でも子供の為ならできるもんなんだな~。そう思います。
2009.06.29
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私の父に、ソウが自閉症であることを話して半年以上経ちました。現在父は、障害者の労働施設で週3回パートをしています。よくしゃべるけど、不器用な父なりに孫の事を知りたい一心からです。何処よりも安い賃金で、ソウの事が無ければ働くこともなかったはずです。娘としては、嬉しいですし、ありがたいと思います。施設には、20~50代まで様々な人が働いています。父には分からないことが一杯。●早く帰りたいのに、どうして仕事を急がないのか?●仕事に応用が利かないのか?●急に癇癪を起して、休憩所から出てこなくなったのか?個々の行動を聞いて、推察できることは父に説明。理屈がわからないと気がすまないタイプなので、説明は真剣に聞いてくれます。心理療法士のような方が男女ひとりずついるようですが、先日ソウが自閉症であることを話したようです。そこで働く父の意味をやっと理解されたことでしょう。父は、昔の事故で股関節に人工骨を入れている為、障害者3級の手帳を持っています。でも、普段の生活に支障は無く、定年退職するまで建設現場で働いていました。いまでも、もっと給料の良いところでいくらでも働ける。でも、可愛い孫の事を知りたくて、今のところで働くことにしたのです。一言も口には出さないですが、それくらいは私にもわかります。お世辞にも、障害のある人たちと働くのが向いているとは言いがたい性格。口も悪いしね。それでもそんな父になついてくれる(?)人もいるらしく、それが父には嬉しいらしいです。父はそれなりにそこで働くことを楽しんでいます。。そして、一緒に働く人たちがどういうひとであるのか、(どういう個性があるのか)だったらどうして接すればいいのか、それを聞いていいのか、また誰に聞けばいいのか、それを悩んでいます。(施設でお働きの親御さんが読まれたら、お教えいただけると助かります)これからソウがどう発達していくのかわかりませんが、お世話になる日が来るでしょう。その日の為に、娘の私への最大のプレゼントです。お父さん、本当にありがとう。
2009.01.07
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年末、じいさんの7回忌がありました。うちの家族は遠いのもあって、前日から泊り込みで参加しました。従兄弟の娘ちゃんたち(年長・2歳児)も来ていたのですが、あまりしゃべれない自閉症4歳のソウも、お姉ちゃんと、ハトコにあたる年長のRちゃんと遊んでいました。(2歳になるかならないかのAちゃんは、自分のじいちゃんと遊ぶ)幼稚園の力はいや、先生の力かな。従兄弟の娘Rちゃんは、公立の幼稚園(共働きじゃなくても入れるようです)の年長さん。一クラスしかない園で、同じ学年に女の子が4人しかいないようです。女3人でつるまれ、彼女は仲の良い女の子のお友達がいません。なかなかのしっかりもののRちゃんはそれに耐え、もう今では男の子と遊んでいるとの事。Rちゃんの祖母は、私の母の姉。小さい時からよくしてもらいました。Rちゃんのママは持病があるので、伯母はよくRちゃんを預かったり、幼稚園に迎えに行ったりしています。女の子たちやママたちから避けられる自分の孫を 切ない思いで見ていたそうです。その孫が、楽しそうに同じ年のうちの娘と遊んでいる。そして、障害のあるソウとも楽しく遊んでいる。伯母にとって、それは何より嬉しい事で、同時に母として悩んでいたRちゃんのママも嬉しい事だったようです。そして私にも嬉しいことでした。法事には親戚も来ていましたが、その中に母の従兄弟も来ていました。その人は遅くに結婚したので、うちの娘と同じ年長と、2つ上のお姉ちゃんがいます。お姉ちゃんの方が、『色々と出来ないことが多いし、下の子ができることも出来んことがある…』と、こっそり話していました。(お話を聞く限り、障害と呼べるものではないようですが)親をしていると、色々悩みが尽きないものですね。法事に関してですが、すごく心配をしていた私。読経が始まりましたが、ソウもお姉ちゃんの隣に座って手を合わせていました。子供たちは仏教系の幼稚園なので、手を合わせることに慣れているんですね。10分程たったら読経の途中でしたが、Rちゃんとうちの子供たちは退席させました。流石に暇で仕方がないみたいだったのでww大人がいない中、子供たちは仲良くなるのにちょうど良かった♪
2009.01.07
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質問魔の旦那。自分で全く調べないのに、病院で恐ろしいくらい質問しまくる傾向が強い _| ̄|○ 怖いので、今日で5分の第2のかかりつけ医に行きました。に向かう途中、子供2人が健康なら乗る園と遭遇。そういや、そんな時間だったソウはあんま関心が無さそうでしたが、お姉ちゃんはめちゃ気にして『みんなぁ~!!』と叫んでました。園はお休みと言ってあるからか??は園に向かい途中であるんですが、園が見えなくなるとお姉ちゃんはちょっと寂しそうでした。かかりつけ医は常に女医さん( ´,_ゝ‘)プッ自閉症もよく分かってらっしゃるので、ソウでも全く問題なしです。やっぱ火曜から抗生物質を飲んでいるので、検査をしても溶連菌が検出されないだろうとの事(喉を検査するので)。症状も中途半端すぎて、どっちとも言えない _| ̄|○ 予想してた通りです~『溶連菌らしい症状(発疹やいちご舌)が出ない溶連菌もあるから、 弟さんも溶連菌の可能性があるわ。 彼も抗生剤処方しとくから。 解熱したら、幼稚園通園していいわよ。』計1週間でいいと言われ、3日分の抗生剤等もらって帰りました。帰宅後、幼稚園にして、お姉ちゃんの担任の先生と話しました。『医師も判断付かないって事なので、普通に欠席で処理してもらえますか?』溶連菌だと出席停止処理できるけど、医師からの書面が必要。なんで、そういう風に言いました。色々お話していたんですが『溶連菌だとお友達にうつしても困るので、週明け体調悪いなら休んでもらえますか? まぁ溶連菌じゃなくても風邪でも困るんですが・・・』ちょっと気分害しました _| ̄|○ 少し熱があっても、鼻が詰まって咳が出ても、即欠席する方針の私。医者からのが出ても、情報で一般的な通園可能状態になるまでは欠席。でも、園のお母さんらは違います朝、園で真っ赤な顔をした明らかに体調の悪い子供も何回も見たし、『これは無理だ!!』という症状でも、普通に出席させてるし・・・お友達ママもそんな感じの人が多い _| ̄|○ 出席停止の病気でも、『まだ早いでしょ』という子も通園そういや先日のママさんバレーの大会にも、溶連菌で休園してる園児連れてきてたなぁ~関西らしい適当さ満開そして感染は更に広がる(元々関西出身で、大人になってから東京に住んでいた事もあるので そういう関西独自なのは、偏見ではありません)そんな事もあるので、仕方ないかと諦めましたが、先生よ、どの親にも私同様に言ってくれ・・・そういうの知ってるよ~。心の中で言いました。姉ちゃんの発疹は増えてるので、解熱はしてても発疹次第で週明け欠席です。ソウは行ってもらいますソウ1人で通園した事あったかな~??
2008.07.25
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おかげ様で、ソウは今日やっと解熱しました。長かった・・・が!お姉ちゃんがまだ解熱しておらず、しかも熱が38℃台キープでも元気はそこそこある。しかも!夕方から体に発疹が出始め(画像では見えにくいですが)夜に舌の味覚部分が突起し始めました長い舌のお姉ちゃんの喉を何とか頑張って見ましたが、なんだか水泡ができているような・・・溶連菌感染症ですか!?幼稚園で半月程前にまだ流行っていると聞いたけど、今頃?溶連菌は夏に一番少ないのに?どうせ抗生物質を飲むしかない病気だし、ペニシリン系では無いですが、代用できる抗生物質を処方されていてまだ残っているので薬が切れる土曜日に受診しようと思います。でせっせと画像貯めて、医師に見てもらおう。溶連菌じゃない事を願うばかりです _| ̄|○ (抗生物質を飲んでるので、検査しても判定されないかもしれないらしいです)ソウは痰が絡んだ咳をまだいくらかしています。溶連菌にあまり無い症状、そして溶連菌の症状は全くなし。3歳までは(来月で4歳ですが・・・)溶連菌独自の症状が出ない場合があるみたいなのでいちおソウも一緒に受診予定です。完全に看病疲れしてます・・・なので、旦那に病院に1人で連れて行ってもらおう明日、PCで【医師に渡す症状説明】【旦那への御願い】等を作成し自分は自動車教習所に行きます・・・・秋に引越し予定なので、教習あせってます8月は子供達が家にいるし、託児所は7月一杯で閉鎖だし9月になったら幼稚園の役員仕事が本番を迎え、すごく忙しくなるぅ~旦那にも病院慣れてもらわないと!元々旦那のアトピーを含めたかかりつけ医院だし。(旦那さんが内科・アレルギー科/奥さんが小児科)はい、押し付けです・・・・すごく評判の病院で、個人医院にも関わらずこの間行った時は2時間待ちでした _| ̄|○ 病気の説明や病気に関する注意点などとても丁寧で、紙に色々書いてくれてそれをくれます。処方薬の説明も薬局よりも丁寧。自閉症への理解もすごく高いので、遠かろうが2時間待ちだろうが行きます最近診療時間が近づいたら、電話連絡してくれるWEBシステムを導入されたので診察券を出したら自宅で待機できます。免許が無い私は、とっても役立たず市役所に、特別児童扶養手当の書類を今月中に提出しないといけません。早く良くなってください(m。_。)m オネガイシマス28日、私の誕生日ですが、書類の提出に行くことになると思います
2008.07.24
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ソウが珍しく金曜の夜から発熱しました。これが熱が【上がる→下がる→上がる→上がる・・・・】延々と繰り返し、もう5日になります下がった時で37℃。最高で40℃強殆どグッタリはしていないものの、流石に体力の低下が否めません。食欲も徐々に減退。月曜【市の休日診療所】火曜【かかりつけの小児科】←評判の小児科ですが、あまり病気しないうちの子供。1年ぶり _| ̄|○ 今日【耳鼻科】←姉弟ともに泣きながら診察受けました _| ̄|○ 結果、中耳炎に発展した風邪いつ熱下がるんでしょう?とうとう、今日の幼稚園の終業式には出られませんでした。明日は夏季保育(幼稚園ですが今月中はあります。)ですが、2週間に一度の療育。療育行けないじゃないか!!普段体が丈夫だと、1回症状がある程度になるとかなり重症化します・・・一昨日からお姉ちゃんまで感染し、ため息出ます。あんたも普段丈夫だからね~。ソウは下痢に咳まで出てるのですが、じっと寝てませんよ。まぁお姉ちゃんもなんですが _| ̄|○ 体力温存しない子供達。ちなみに、子供が発熱しているにも関わらず、旦那に子供を預け、連休3日間、自動車の教習所に通った鬼母な私子供の遊び相手にはなれるが、病気の時には全く役にたたない旦那。わきの下など、大動脈が通る部分を冷えピタしたら解熱すると思い込んでました _| ̄|○ 解熱剤は38.5℃になった時点で使ったほうがいいと思い込んでる旦那。どうして抗生物質を飲ませないといけないのか知らない旦那。お姉ちゃんが産まれてから6年。何回も説明したのに全く覚えていません。かかりつけ医にいまだに自分だけで行けません。道覚えてません _| ̄|○ なんであんなにすぐ忘れてしまうのだろう・・・仕事の事はしっかりできているけど、昔した仕事に関しては話を聞いているだけにすぎない私よりビックリするほど覚えていません。男女で脳の作りが違うだろうけど、ほんと謎です・・・そして旦那からしてみると、【物の置き場所をすぐ忘れる】【鍵を閉め忘れる】これらの私の行動が謎らしいです・・・さぁ今日もこれから清拭です。ピジョン清拭料 さっぱりタイプ我が家では、子供が熱でお風呂やシャワーができない時は↑利用。(旦那も重症な場合はこれ使います。私はしてもらえません _| ̄|○ )普通に濡れタオルで拭くのとは全く違います。ほんとサッパリするし、敏感肌のお姉ちゃんでも面倒ですが、毎日せっせと頑張っています
2008.07.23
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私はど田舎出身です。1クラスしかなく、学年25人位の小学生時代。もう兄弟からじいさんばあさんまで、どの人かわかるような生活です。地域に事情で親と暮らせない養護施設があり、そこから5人が通っていた。そしてたまに転校してくる子がいた。そして何故か1年位でその施設を去って行った。小学5年の時、ある男の子が転校してきた。今思えば、私が初めて会った自閉症の人だった。彼はとても色の白い、可愛い顔立ちをした子でした。4教科は当時の障害児学級で学び、給食や他の授業は通常学級にいた。男7人、女18人。そんなクラスで彼はアイドルのような存在でした。『(>▽<)きゃー♪(>▽<)きゃー♪』言われ、女の子らに追いかけられ、よく逃げていましたっけ。あまり話すことも無く、彼が自分から寄っていくのは、同じ施設から通う面倒見の良い男の子だけ。ふわふわと宙を浮いているように歩いていた。全校集会の途中でふらりと集団からはぐれ、先生と一緒にいた。学年が変わった時、前の学年の靴箱に靴を入れる。何度説明しても同じ場所におくので、結局そこはその年も彼の靴箱になった。注射が大嫌いで、当時集団接種していた予防接種ではパニックを起していた。身体測定を注射と勘違いし、障害児学級の窓から逃亡(←1階です)一度、授業が嫌いな同じ施設のA君が『次注射やぞ、逃げろ!!』と言って、信じた彼が学校から走って学外へ出たことがある。少し遅れてA君と先生達が追いかけたが、あまりの速さについていけなかったそうだ。彼のおっかけの女の子らも追いかけ、総勢15名ほどで追いかけた。彼は山の中に逃げ込み(それ位注射を怖がっていた)、足の速かったA君だけが彼を目視できる位置にいた。『うそや!注射違うんや。帰って来い!!』A君の言葉に、彼はすぐ戻ってきたらしい。先生らはすごく慌てていたが、戻ってきた彼は普通の顔をしていた。A君は猛烈に反省していた。彼は6年生の途中で、急に転校していった。何故だろう、私達はみんなクラスの子達とちょっと違う彼の事が好きだった。色々あったけど、誰も彼の事を嫌がらず、面倒とも思わず、【ちょっと変わってるけど、面白い子】と思っていた。パニックを起す彼の為に、身体測定の時もこっそり移動し、全員が終わってから、一番最後に『注射じゃないよ、体重と背測るねん。』とこっそり言いに行っていた。それが普通だった。特別の事ではなかった。ソウの障害の事が分かり、彼が自閉症だったんだと理解した。何の説明も、当時私たちの1人として受けていなかった。1年しかいなかった彼の事をよく覚えている。彼はいたく純粋で、少なくとも私達子供達を楽しい気分にさせてくれた。
2008.07.18
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もうすぐ4歳のソウ。お腹にいた時の事です。お姉ちゃんとソウは2歳1ヶ月離れて産まれました。お父さんとしてはいい父親ですが、旦那としてはお姉ちゃん妊娠中、私は8ヶ月まで働いていました。でも、布団の上げ下げから布団干しから家事を旦那がしたことは殆ど無かったです。同じ位の年齢のご主人では異例みたいで、よく気の毒がられました( ´,_ゝ‘)プッソウがお腹にできた時、お姉ちゃんはまだ1歳そこそこ。旦那はずっと深夜帰宅の人なので、お腹がよく張って張り止めを飲みながら下がってきているというソウを心配しながら毎日暮らしていましたが、当時、旦那は全く心配していなかったみたいです。ソウはお腹でグルグル回る、多動(?)な胎児でした。電車で1時間半の実家近くの病院で出産する事にしていたので、検診は毎回電車に乗って、ベビーカーに着替えなどの大荷物持参で通いました。普通なら1ヶ月に1回、後期は隔週でいい検診も逆子になりまくりで2週間に1度、後期は毎週右向き逆子が左向き逆子に・・・正常に戻った翌週にまた逆子に・・・逆子にならないように寝ても、何故かまた逆子に・・・逆子体操しまくりの妊娠中でした。『次回逆子だったら、帝王切開だからね』そう言われた38週1日前に、やっと頭位に戻り『こんなギリギリ初めて見た!』と医師を驚かせたヤツですww。でかめ胎児だったのに、あんな回転する空間の少ない中どうやって回転したのか謎です。お産は安産でしたが、睾丸が【陰嚢水腫・停留睾丸】と片方ずつ病気が見つかりました。幸い、1歳半には手術の必要なしと言われました。ソウはお腹にいた時から、ずっと心配し続けてきた子供です。でも体だけはとっても丈夫な子で、療育以外まだ幼稚園を休んでいません。それを喜ばないとね
2008.07.18
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本日2回目の日記です。最近ソウはお姉ちゃんを『○○ちゃん!』何故かちゃん付けで呼びます。間違いなく、幼稚園の影響です・・・・<ネネ>→<お姉ちゃん>に変えていったのに私は基本的に子供は呼び捨てです。『ちゃん、くん』を付けるのは自分の性格と符合すると思えず・・・しかし、何故かお姉ちゃんはソウを<くん>付けで呼びます。たまにクネクネしながら『ソウく~ん』若干虫唾が走ります最近2人はよく一緒にいます。子供達の園は23日が終業式。でも月末まで夏季保育があります。ありがたや~終業式が近づき、学年クラスを問わず、登園別に園児同士が固まって行動する事が増えます。通園の2人は一緒にいる時間も増えるわけで。自閉症児ソウは、園では1人でいる事が殆どです。誘われても拒否してるそうな _| ̄|○ ただお姉ちゃんがいると、ちょっと違うのかも・・・普段はソウが同じ園にいることなんぞ、すっかり忘れてるお姉ちゃんですが、同じ場にいると、ここぞとばかりお姉ちゃんズラしてるもんなぁ~。ところで、私は明日から自動車教習所に通う事にしました。大型じゃないですよ、普通の・・・あ~恥ずかしいあんた何歳なんだ!!ママ友達からは、『路上怖いよ~』と脅され、『勇気あるわ~』と褒められ(?)。本来は4月から通うはずが、園の役員があまりに忙しかったので、役員の仕事が落ち着いた今頃から通います。9月にはまた役員の仕事が忙しくなるから、なるべく早く済ませたいけど、8月は夏季保育後期の1週間以外は子供達がいるので、教習所には行けないなぁ。近所に親御さんがいらっしゃるママ友達が少し羨ましいです。
2008.07.18
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自閉症の3歳半の息子。いよいよ旦那の両親に告知する事を旦那が決めました。(1月に判明したんだから早い部類に入るんでしょうが)旦那が自分で鬱だと感じ始めました。自分が鬱だから、それとなくそう感じていたし、それとなく病院に行ってみないか誘ってみたりもした。鬱病の経験者ならお分かりかと思う。うつは精神科の範疇。精神科と考えると自分で行こうとするのはハードルが高い。だから相当悪化してから通院する人が多い。(私も同じだったもんな~)諸事情で6月から社宅費が出なくなる事になった。彼はいまどき珍しい会社に尽くすタイプ。(もちろん自分の為でもあるんですが)所長に所長の仕事まで押し付けられ、それで無くても多い仕事が溜まるばかり。息子の自閉症がわかり、それまでの午前様帰宅の自分を責める。そして急に社宅費が出ない事になり、彼は本当に疲れきってしまった。自分で鬱であろうと自覚せざる終えない位の状態。よくここまで耐えたよね。私に「うちの両親にソウの事話したいねん・・・」彼はそう言いました。私も同じだった。自分の両親に話したのは、ただただ心の助けが欲しい、そう願っていたからでも結局自分の思っていた反応とは全く違うといっていい結果。落ち込むだけだった。彼も私と同じように感じるんではないのか?私は不安だった。彼は実家に電話をし、そして姑が電話に出た。ある大きな宗教を熱烈に信仰している姑は【祈ればいいのよ】と言い出したようだった。とたんに旦那は珍しく、かなり感情的になっていた。彼が実家の人間に感情的になっているのは出会って10年近くになるが初めてだ。私は、電話を変わった。そしてできるだけ簡単にわかりやすいように姑に【自閉症とはどういう障害か】【ソウの状態がどうか】【症状の改善は改善される事はあっても治ることは無い事】そういった事を色々伝えた。姑はじっと私の話しに耳を傾けてくれた。いつも一方的に話してしまう彼女がこんなに私の話しに耳を傾けてくれたのは初めての事だった。「祈って治るんでしたら、いくらでも祈るよねって主人と話したこともあるんです…」そう話したりもした。姑は「私は祈る事しかできひんから・・・」そう言っていた。その気持ちが嬉しかった。私の実家も、主人の実家とは違う宗教だが、ある宗教を信仰している。姑と私の祖母が性格がとても似ている。色々な意味で、姑の気持ちが嬉しかったのだ。最後に旦那と電話を変わり、来週末実家に帰省する約束をしていた。誰だって親に甘える部分はあると思う。何処までいっても、私は主人の両親と他人。他人だからこそ冷静に聞けることもあるのだと、自分の両親に話した後感じた事だ。電話を切った後、主人は私に感謝していた。そして私は主人に感謝している。支えあって生きていかなくては・・・改めてそう感じる一日だった。
2008.03.04
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更新していない間怒涛の忙しさでした。2/5 実父母が自宅訪問・自分の鬱の治療の為通院。2/7 療育施設面接・3歳半検診2/8 療育施設面接2/9 MRI検査2/12 療育施設入園の手続きに市役所へ行く2/13 療育施設面接(姉は幼稚園に迎えに行き、託児所に預ける)鬱病の私にとっては余りに無理すぎる日程でした。なんとかこなす事ができて、安心しました。でも、こうやって色々進めていけるのは、恵まれていると改めて実感しました。2/5の事を書きます。その前日の2/4、午後に父に電話をしました。お米が週末くらいに無くなる事を連絡する為です。実家の近所でおコメを作ってらっしゃる方がいて、その方と父と懇意にしています。そのお宅でお米を消費しきれないので、最近父もそちらでお米を分けていただき定年を迎えて暇な父が孫会いたさのの口実で、それを届けに来てくれる様になっていました。実家に息子が自閉症らしいことを伝えていましたので、息子を見てみたいと思っているだろうというのも私には分かっていました。すると「明日、お母さんと一緒に行く」以前の日記にも書きましたが、軽くない鬱の私は毎日普段の生活をこなす事すら困難。何か通常と違う予定が入る時は、何日も前から準備やその日の為に備えなければ大変です。いきなりの翌日訪問の話に私は躊躇しましたが、親の気持ちも分かっていたので、「分かったよ」と答えました。翌日、ちょうど姉が幼稚園バスをマンション前で待つ時間に父母が到着しました。前日に書いた息子の好きなものや傾向などのガイドの様な物を渡し、説明し、「光とともに…」を良かったら読んで・・・と言い残し1人2週間に1度通院している精神科へ向かいました。父と母と夕方まで過ごし、今までの事や自閉症の説明などをできるだけわかりやすくを心がけて話しました。でも、話す単語が増え、できることが増えた息子を、父はそれだけを喜んでいました。母もあまり父とは変わりない様子でした。母は私に「まだあんた薬飲んでるの?」と聞きました。1年半前の鬱のあのひどかった状態を忘れたのだろうか・・・そんな簡単に鬱が治ると思っているのだろうか・・・読んで欲しいと言った「光とともに・・・」も読んでもらえず、私の息子の説明も『言葉増えてるやん。ちょっと遅れてるにしか見えない』と言う言葉で返され、きちんと聞いてはもらえませんでした。あれから、何度か電話で説明もしましたが、なんだか無理みたいです。もっと息子が大きくなって健常児との差がもっと歴然としたら分かってもらえるのか理解してもらう事は不可能なのか分かりません。何より彼らは息子と同じ年の子供の事を知りません。一番難しい事なのでしょうが、ただ遠い実家から見守ってて欲しい。それが私の願いです。父と母の帰宅後、私に残ったのは切なさとひどい疲労だけでした。色々息子に対しては接し方や話しかけなどを工夫し、(例:彼の希望が態度に出た時は、それに合う言葉を単語で話しかける できるだけ短い言葉で同じ状況には全く同じ言葉で話しかける)手作りでおもちゃを作ったり、物の名前を覚えやすいように写真入のカードを作ったり色々工夫しています。その結果、言葉は自分の興味のある物やよく使う言葉に関してですが、増えました。言葉の混同や、今まで覚えた単語の間違いのような後退もその分増えた気がします。またそれに関しても書きますので、良かったらまたお読み下さい。
2008.02.15
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本日2回目の日記です。私には小さい頃から少しだけ霊感がありました。大阪ミナミの大手電気店に行くと、何故か必ず同じ場所に行き着いてしまう。そこは以前プチデパートでしたが、その時もその場所に行き着いてしまう。エスカレーターを使っても、エレベーターを使っても。実はそこは昔大きな火事があり、私が行き着いてしまうところは人が沢山死んだまさしくその場所。大学卒業後外食産業で働いていた時も、座敷に女の人の姿が。「いらっしゃいませ~」と声をかけて見に行くが人の姿は無く。パタパタと足音が聞こえたり、勝手にトイレが流れたり。姿を見た人は少なかったけど、足音やトレイの流れる音は複数の従業員が経験していました。前住んでいたところは、お盆や彼岸になると、玄関からベランダにかけて大勢の人が行き来します。服装が明らかに時代と違うwwうっすら見えるんですよ。透き通ってるって言うのかな?始終じゃなくて時間帯が決まってます。最初は驚きました。「霊道ですか!?」3年目にはもう慣れてましたけどww良くしてもらった10年ほど前に死んだ祖父(その時はまだ生きてました)の兄。夢に出てきて、「墓に参ってくれ」とだけ言っていたので、祖父にその話をし、墓に出かけました。そしたら、使ってない花立にネズミの死骸。祖父は「兄ちゃん、これを埋めてあげてほしかってんな~」と言いながら、手厚く葬ってあげていました。そんな事が色々ありました。でもいい事もありました。祖父が死んだ時、私は東京在住で年末帰省でちょうど実家にいました。救急車で運ばれる祖父を、泣きながら見送りました。今5歳の娘は当時まだ半年にも満たず、自宅で待つしかなかった…。祖父の臨終の時間、私はキッチンで父といたのですが、15年以上前に死んだ祖父の兄が祖父の手を引いて、キッチンを通っていくのを見ました。私は呆然としていまい、父を見ましたが父に変わったそぶりはありません。後で知ったのですが、それが臨終の時間だったのです。最近は全く見なくなりました。嫌な雰囲気のところはやはりあります。そこは自分自身では避けて通りますが、そういうのも最近はやっと薄れてきました。最近息子の事がわかり、祖父に会いたくなります。薄れてきたのが良かったんだか、悪いんだかww
2008.02.04
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私の自宅マンションから電車で1時間半強の所に実家があります。昨年末に弟が結婚し、家を出て、現在は【父(養子)・母・祖母】の3人暮らしです。私が2歳の時に実家が全焼し、1年後に同じ町内に家を建て、大学卒業し、就職した5月に家を出るまで、20年その家で過ごしました。実家は田舎で、町内30軒程しかなく、このご時勢に隣組なるものまである正真正銘の金田一の世界です。そんな30軒ほどしかない集落ですが、市道を挟んでお隣さんがいます。私より10弱程年上のお兄さんには何人かお子さんがいますが、一番上のお子さんには障害があります。小学校を出る前くらいの年齢だと思うのですが、よく外で何をするとは無しに遊んでいます。(日中は養護学校に言っていると聞いています)小さい頃は弟さんと遊んでいましたが、現在は1人で外で遊んでいます。彼が4歳くらいの頃、近所のお年寄りを押してしまい骨折させてしまった事がありました。うちの祖母も同時期、かがんでいたところを押されてこけた事があるそうです。それまでは話しかけても返事が無い彼に、近所の大人たちは話しかけていましたが、それ以降は話しかけないようになっていました。そのお宅は敷地内同居ですが、そこのおばちゃん(彼の祖母)は「赤ちゃんの頃、手術で話せなくなった。耳も聞こえていない。」とうちの祖母に話していたようです。その言葉をうちの実家の家族は全員信じていました。でも、私もそんなにうちの実家に行かない私の主人も気づいていました。彼は耳が聞こえている車のクラクションが鳴ると、危なくないよう位置に移動しています。私は何故、毎日あの家に住んでいるうちの実家の人間がそんなことに気づかないのか不思議でしょうがありませんでした。たまに実家に帰り私が子供達を連れて外に出ると、彼がいますが、何かされた事は無く、こちらを見ていることがあります。たまに「こんにちは」と声をかけるようになりましたが、彼はどこかに行きます。お隣さんの弟さんは娘と同じ年で、よく遊んでいます。弟さんもいるので、うちの弟とも上手く遊んでくれて嬉しい限りです。(最近実家に帰ってないので、遊んでいませんが)うちの祖母は、隣人の家族を「障害がある子がいて可哀想にね」とすぐ言います。あまりに頻繁に言うので、「確かに大変だとは思うけど、可哀想可哀想ってそう思うのはどうなの? 弟達もいいこやん。 おばあちゃん口を開けば可哀想ばっかりやん。 それ以外になんか思わへんの?」って聞いた事があります。「せやけど、あんた可哀想やん。家族に障害あったら苦労するねんで。 将来かって大変やで。兄弟かって大変や。 可哀想って思って何が悪いん?」諦めました…うちの息子の事が分かってから、うちの実家には話しましたが、祖母には取り繕ういとまがありません。理解しようという気持も、私達夫婦の気持ちも理解する気は見えません。電話がかかってくれば「いつ帰ってくるの?」「あんたばっかりが苦労してるんじゃないで」私が鬱で、薬のおかげでやっと日常生活がおくれるようになってきたの知っていますよね?自分だけが苦労してるなんて思ってるわけ無いでしょ?何度言ったら分かってくれるんですか???実家の電話は取るのはかなり怖いです。祖母からの確率高い _| ̄|○ 母とはメールでやり取りしてるし、父は携帯からしかかけてこないし。父と母は理解してくれようとしています。とてもありがたいです。こんな時に、死んでしまった祖父が生きていてくれたらな~と思います。他人の辛さを自分に置き換えて考えられた祖父。自分が障害児の親になって余計に思います。もっと色々知って欲しい。もっと理解してもらいたい。どうしたらいいのか考えています。
2008.02.04
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本日2回目の日記です。年賀状で、東京時代の親友の第2子誕生を知りました。今は京都に住んでいますが、4年前は東京に住んでいました。ママ友達がいなかった私は、歩いて2分の区のセンターで彼女と知り合いました。娘と1ヶ月違いの男の子のお母さん。彼女はとても明るく、そして気遣いの上手な人です。何人かママ友はできましたが、彼女はお互いに特別な存在でした。私達はたちまち仲良くなり、家族ぐるみで付き合うようになりました。毎日の楽しい生活。私達は自分達の過去の話から、育児についてまで色々なんでも話しました。彼女も苦労して育ち、お母さんとご主人、そしてRくんと4人で暮らしていました。お母さんとはよく喧嘩をしていたようですが、ご主人と離別後、1人で3人の子供を育てた彼女のお母さんは実家の遠く離れた私の心配をいつもしてくれていました。『核家族でご主人も殆ど家にいない彼女がどんなに大変なのか、あなた分かるの?』そうお母さんは言ってくれていたそうです。でもね、彼女は分かっていてくれていたんですよ。そして、母と同居するのがどんなに大変か、父が養子だった私はよく知っていました。ひどい風邪で寝込んでいた私に、食事を届けてくれたのも彼女でお母さんもそれをしたらどうかと話してくれたのです。本当に色々助けてもらいました。初めてうちに彼女のご主人が来た日、ご主人は酔っ払って我が家で寝てしまいました。それほどうちの主人とも打ち解けてくれたんです。彼女は怒っていましたが、私がとても嬉しかった。そうやって、私達は親友になっていきました。本当に毎日が楽しくて、明日が来るのが待ち遠しかった。でも主人の時期外れの転勤で、突然別れが訪れました。本当にショックでした。どんなに2人で泣いたでしょう。そして私は親友を作るのが怖くなりました。『またいつ転勤するのか分からない、こんな思いはもうしたくない…』私は京都に来ても、人と仲良くするのを無意識に避けていました。親友とは、お互いの家族で京都・東京に行きあいっこをしました。そして、私は鬱になり、連絡する事をしなくなってしまいました。年賀状だけはやり取りしていました。そして、今年の年賀状で娘さんが産まれたことを知りました。本当に嬉しかった。自分の事のように嬉しかったんです。その頃、ちょうど息子が自閉症ではないかと疑いを強くしていた時期。確信に変わって、動揺していましたが、お手紙と出産のお祝いを贈りました。お礼のメールに「早く帰って来てね♪」と書き添えられていました。私は「ちょっと色々あって、帰れなくなってしまったの」と返信しました。一番にあなたに相談したかった。でも子供を産んだばかりのあなたに、それを話すことはできませんでした。いつか話す日が来るでしょう。あなたと一緒に泣きたい、そして理解してもらいたい。あなたはきっと理解してくれる。そう確信しているからです。今日、内祝いの紅茶が届きました。子供達は紅茶が大好きです。彼女の赤ちゃん、元気にすくすく育ってね。本当に心からそう願っているちょめりでした。
2008.02.01
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<テレビの時間を減らす>これは我が家の大きな課題でした。何故かと言うと、私がテレビっ子だから _| ̄|○ 先日書いたように、殆ど家族が家に不在だった幼少期。止める人もいないので、私も弟もテレビ三昧でした。大人になってもテレビが大好き。何のジャンルでも好んで見ます。旦那は昔から呆れてましたww以前、息子の発語の遅れに、娘が年少からの同じクラスのママさんに相談した事があります。そのお母さんは、以前育児関係の仕事に従事していた3人のママさん!(私以外は前職の事知らないかも・・・)娘の同級生の息子さんは一番下のお子さんです。年少の頃から私の好きなタイプのお子さんなんですが、年中になってますます大好きに♪もう可愛いったらありゃしない!声掛け捲ってたら、いつしか向こうからも声をかけてくれるようになって今では幼稚園に行くとよくおしゃべりをするようになりました。息子さんに接する姿を見て、まさしく私の理想のお母さん像。お人柄もすごく良くて、密かに尊敬するママ友さんですww『テレビの時間を減らしてみたら?』それがなかなか難しい。見ていない、こっそり主電源を消すと、子供は2人とも怒る。断念 _| ̄|○ 見ていない、こっそりリモコンで消してみる。これまた怒る。断念 _| ̄|○ そしてやっとじっくり考えた私。リモコンでこっそり少しずつ音量を下げて…無音。そして、こっそりリモコンで消す。成功!!!テレビをつけている時間を少なくする事に少しずつこうやって慣らしていきました。(まあ、私も同時にテレビの少ない生活に慣れたんですがww)Kくんのママ、ありがとう。あなたの言葉が無かったら、実行する事も試行錯誤することもなかなか無かった!今じゃ決まった番組だけ見る事が多くなりました。(NHK教育幼児部門は外せませんww。息子の好きな番組もあるし、 適当ですが踊ったり、唄ったりしているので)その分話しかけたり、<光とともに…>光とともに…(1)で学んだ方法で、色々息子への発達の促しをしています。昨日幼稚園の未就園クラスで付属の大学に行ったのですが、他のお母さんから子供への接し方で学ぶ事がありました。今日も日々勉強の毎日です。
2008.02.01
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本日2回目の日記です。1回目の日記に書きましたが、私達姉弟は寂しい幼少期を過ごしました。●かまってもらえない寂しさ●『お姉ちゃんなんだから。』という強いプレッシャー。●発達も遅く、【田舎の長男】と大事にされる弟へのいらだち。こんな事がありました。小学中学年の頃、私はトレーナーを1枚しか持っていませんでした。それを洗って乾いていない状態で、私は下着の上にジャンバーを羽織り学校へ。授業が始まり、ストーブで暖かくなっている教室。何も知らない先生は、私にジャンバーを脱ぐように言いました。それを脱げば下着だけ。本当の事が言えない私は拒否しました。周りの友達にはやし立てられて、本当に辛かった・・・。同時に子供の服が1枚しかない事にすら気づかない母への憤り。父は唯一私の味方(今思えば私が不憫だったのでしょう)をしてくれましたが、なんせ養子の身。しかも祖父母とも折り合い悪く、特に祖父とは最悪。母は客観的に祖父母が悪くともそちらの味方をし、父の味方をする事はありませんでした。その事が、私の更なる母への嫌悪と繋がっていきました。今ならわかります。母も一杯一杯で考える余裕が無かった事に・・・忘れもしません。私が小5の時、自宅のローンが終わりました。誰かが口にしたわけではありませんが、家族の異常な歓喜の状態が、それを私に分からせました。親戚に世話をしてもらった工場を止め、母は外へ働きに出ましたが、私が中学生の時、介護福祉の仕事に付きたいと言い出しました。家族中が反対する中、当時もう家族会議の一員として認められていた私は母から家族の説得してくれるように頼まれました。高校卒業後、介護の進路に進みたかった母は結局親の反対にあい、諦め、地元の銀行を紹介で入社し、1年後お見合いで父と結婚し退社しました。見合いの後、先に結婚していた姉に泣きながらイヤだと電話した事。姉が嫁いだその日から、養子をもらうことしか考えてなかった事。銀行勤務時、告白されても長男だからと諦めた事。そんな事を聞いていた私。中学生になり、母への気持ちも一段楽していた私は、結婚の経緯、そして結婚4年目の火事からの苦労。そんな事から母の願いを叶える為に、家族の説得に乗り出しました。弟を味方につけ、父を説得し、父と祖父母を説得しました。結局母の願いは通り、現在も介護福祉士として、特別養護老人ホームで懸命に働いています。結婚し、知っている人の1人としていない東京でバイトを始め、頑張りが認められ社員の話が具体的に進み出した時、妊娠し正職は諦め8ヶ月まで働きました。母となり、核家族で深夜帰宅の主人。休みの日も昼頃まで寝ている事が多い。彼も懸命でした。そんな私に大家族で私を育てた母は、当時私の苦労が分かりませんでした。伯母(母の姉)が核家族で子供を育てる苦労を母に根気良く話してくれました。ママ友に、現在5歳になった姉が1歳の頃『ネネちゃんって、うちの子より3倍以上大変だよね』と言われました。正直、私は彼女に何か障害があるんではないかと思っていた位です。(実はもっと楽だった息子に障害があったのですが)主人が京都に転勤になり、私の育児の見て母は私を不憫がり、そして、仕事で何も私にできないと謝る様になりました。(今度は伯母が不憫だといいすぎてる事のせいなんですが・・・)ソウを産む時、仕事を休んで姉の面倒を見てくれた母。1年少し前に私が重度の鬱になった時も助けてくれたのは母でした。(父もですが)両親がいなかったら、私は今この世にいなかったでしょう。私が浪人し、予備校に通っている19歳の時、父が飲酒運転の上での居眠り運転で自損事故を起し、下半身不随になると医者に宣告されました。母は病院の帰り、私と2人きりになり、『実はな、お父さんもう歩かれへんかもしれへんねん・・・ ずっと車椅子の生活ちゃうかって。 おとちゃんとおかちゃんには、まだよう言わんで、自分1人で抱え込まれへん。 ごめんな、誰かに言いたくなって』母は運転しながら、号泣しました。私は『なんとかなるよ。私働くわ。弟だけでも大学出したろう。』とだけ言いました。そんな父も普通に現場で働けるようになり、軽く走ったりもできます。昨年末弟も結婚し、母の肩の荷も下りたしばらく後、ソウの自閉症のことが分かりました。母は優しく私達を見つめてくれています。私が母を憎みさえしてきた事は、もう遥か彼方。遠い過去の出来事です。今は母にとても感謝しています。母の娘として本当に産まれてよかった。母が母でよかったと心から思っています。今日もお年寄りの介護を懸命にしながら、私達の心配をしているでしょう。お母さん、本当にいつもありがとう。今まで、実は私達は支えあって来てたんだよね。そして彼女の人生を振り返り、苦労や心配ばかりしてきて今度は私達一家の事で、また心配をし続けることになった母や実家の家族に申し訳なさを感じてしまう私なのでした。
2008.01.29
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うちの息子(医学検査はまだですが、異常がなければ自閉傾向極めて強しの3歳5ヶ月)。近所のスーパーへ行く途中、趣味の家庭菜園を通ります。ハウスじゃないので、季節の野菜が植えられています。5歳の娘と一緒にスーパーへ行った帰り、「ダイコン!」息子が右を向いて、言いました。植えてある大根が大根って分かってるよ!!土から根っこの部分は殆ど見えず、青々と茂った葉っぱで何故分かる??私は大興奮でしたが、5歳の娘は土に生えている大根を大根と気づかず、「そんなん無いで。」植えてあるその植物と大根と娘に説明したら、娘は自分が分からず、殆どしゃべらない弟が分かったことにすごい不機嫌ww実家の父の畑で見たのを覚えていたのか?2ヶ月は経ってるんでは・・・それとも父が持ってきた時の葉っぱ付大根を覚えていたのか?何度通ってもそれを大根だという息子ソウ。スーパーで売っている大根も大根だって分かってるんです。こちらが言うまで、しつこく≪繰り返せ!≫と言わんばかりに言ってますからww視覚が強い自閉っこ恐るべし・・・出来ないことが多いけど、これには嬉しい母なのでした。
2008.01.25
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