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北海道新聞より1943年(昭和18年)5月の「アッツ島玉砕」で、旧日本軍守備隊が壊滅したアリューシャン列島アッツ島での遺骨収集に向け、厚生労働省が現地調査を再開する方向で米政府と調整していることが23日分かった。調査は8月を予定し、実現すれば16年ぶりとなる。アッツ島には2千人以上の遺骨が残されたままになっている。現在は米国領の無人島で、気象条件が厳しい上、自然保護区に指定されているため、上陸が規制されており、活動は困難とみられていた。 アッツ島は42年6月に旧日本軍が占領したが、翌43年5月に約1万人の米軍が上陸し、戦闘で日本兵2638人が死亡。約3分の1の864人を道内出身者が占める。大本営の発表で初めて「玉砕」の表現が使われた。 厚労省によると、国がアッツ島で遺骨を収集したのは53年7月の1回のみ。現地で82人分の遺骨を集めたほか、米軍が戦闘直後に収容し、別の場所に一時埋葬していた236人分の遺骨を引き取った。さらなる遺骨収集のため、厚労省は2007、08年に現地調査を行った。しかし、アッツ島は日本から約3千キロ離れた極寒の島で、年間を通して強風や濃霧が多く、その後の現地入りは中断を余儀なくされた。 調査再開について厚労省は、高齢化した遺族の強い意向を踏まえ、米国の関係機関に対し、継続的に協力を求めていた。 調査は8月下旬に予定し、道路や橋などインフラの状況や遺骨がある場所を確認して、今後の収集につなげたい考え。厚労省の職員2人のほか、遺族の参加も予定されている。 アッツ島遺族会の山崎信之会長(65)=千葉県我孫子市=は「調査が実現すれば、悲願だった遺骨収集への大きな一歩となる。一刻も早く遺骨を日本に戻してほしい」と訴える。------------------------私の感想-------------------------------アッツ島の戦いアッツ島の戦い - Wikipedia記事にもあるが「玉砕」という言葉が初めて使用された。大日本帝国は1941年12月8日にハワイの真珠湾攻撃によって米国に宣戦布告をした。このアッツ島の戦いは1943年5月中旬より戦闘がはじまった。日米開戦から1年と半年後のことである。そしてサイパン島の戦いに負けた大日本帝国は制空権を奪われ、米軍による本土爆撃へとなる。1944年7月9日に大日本帝国軍は全滅した。そして当時大日本帝国軍事政権は本土決戦というとんでもない戦略とした。そして東京・大阪大空襲沖縄での地上戦。広島・長崎の原爆投下となる。サイパン陥落から1年と1ヶ月後1945年8月14日にポツダム宣言を受諾した。ポツダム宣言 - Wikipedia時間を戻してアッツ島の玉砕で、和平交渉に舵をきることが何故できなかったのかだ。国体維持というメンツだけだったのではと私は思う。遺骨が祖国日本に戻ってくることを祈ります。誰か故郷を想わざる (曲) - Wikipedia誰か故郷を想わざる。昭和15年発売、この歌を戦地で兵隊さんが歌い、本土で流行歌となりました。いろいろな人がカバーしています。石原裕次郎さんをリスペクトして。恐らく虎に翼のご主人優三さん直道お兄ちゃん、轟さんも戦地で歌っていたと思います。異国の丘は戦後発表された歌で、シベリアに抑留された戦友を想う歌です。軍歌てはありません。この歌を作曲された吉田正さんもシベリアに抑留されました。私の母方の叔父も敗戦後シベリアに抑留され帰国出来たのは4年後のことでした。中国戦線の様子をいろいろと教えてくれましたが、シベリア抑留に関しては思い出したくないと言って教えてはくれませんでした。あいち交通死をなくすボランティアにじいろ会|さえりん♥ストラップ (aichinijiirokai.wixsite.com)
2024.05.24
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webのサイトより1921年から3906年にタイムスリップした男が見た未来! 100年封印された「ディーナッハの未来予知」とは!?|webムー 世界の謎と不思議のニュース&考察コラム (web-mu.jp)2000年先の未来で目覚めた男は、戦慄の真実を知った。そして元の時代に戻ると、それを詳細に書き留めたのである。はたして彼の手記は今後の人類の行方を示しているのだろうか――!?1985年先の未来社会で目覚めた男1884年にスイスで生まれた言語学教授、パウル・アマデウス・ディーナッハは生涯を通じて健康不良に悩まされていたが、持病が悪化した1921年に昏睡状態に陥ってしまった。 目覚めた彼がいた場所は、明らかに異なる病院の病室であった。 気づいた医師たちがディーナッハのもとにやって来たが、医師たちの言葉が理解できなかった。しかし、ディーナッハがドイツ語を話していることを医師の1人が理解してくれたため意志の疎通が可能となった。 医師の説明によると、自分はアンドレアス・ノラムという名前の有名な物理学教授で、重大な事故に遭って病院に運ばれたのだという。 自分は別人になったということなのか? 混乱するディーナッハは病室の鏡を見ると、そこには見慣れない顔が映っておりパニックに陥った。やはり、自分は別人になってしまったのだ。 愕然としたディーナッハが力なく窓の外を見ると、そこには雲に届かんばかりにそびえ立つ超高層ビルや、宙を浮いて走り回るクルマなど、現実離れした風景が広がっていたのだ彼は「自分は死に、ここは天国なのだ」と思い始めた。そして医師たちは、「1921年に病院で気を失った」というディーナッハの説明を受け入れてくれた。この物理学者がショックによる記憶障害を発症していると理解したのだ。 その後、数日間でディーナッハは歩き回れるほど回復した。そして、病院内でもさまざまな不思議な 物事に触れることになる。 プロジェクション機器のような「景色を広く見渡すことができる水晶の壁」や、「暖かく柔らかい色で輝く金属製の物体」など、今まで見たことがないものが随所にあったのだ。 そして、タブレット端末を使って読書できることを知ったディーナッハが手当たり次第に書物に目を通してみると、驚くべきことにどうやら今は3906年であることを理解したのである。自分は別人の肉体になって、1985年先の未来にいるのだ。 信じ難いことであったが、覚悟を決めたディーナッハは、とにかくこの時代の知識を貪欲に吸収することにした。「レーガン・シュワーガー(Reagan Schwager)」と呼ばれる3Dマルチメディア装置を通じてさまざまな知識を吸収し、驚異的な未来の出来事の数々を追体験したのである。この装置は、サウンドとナレーションを伴う3D映像でコンテンツを再生し、その内容は手に取るように吸収できたという。 では、ディーナッハが3906年で知り得た人類史とは、どのような様相を辿るものであったのか。以下がその主なものだ。● 2300年までの人類社会は、世界中が人口過剰、環境危機、食糧不足、戦争によって荒廃していた。2200年代に火星を植民地にすることに成功したが、その後に入植者全員が死亡する不幸な出来事が起きて計画は中断された。● 2309年に中国と西側諸国との間で核戦争が起こり、大量の人命が失われ、北半球の放射性降下物地帯から大量の人々が移住した。この出来事は、最終的に戦争の恐怖が決して繰り返されないようにするための世界政府の設立に繋がった。それでも世界政府の概念に人々が納得するまでに数百年の年月を要した。● 3382年に人間の脳に何らかの変化が起こり「ハイパービジョン」と呼ばれる新しい感覚が備わった。この能力によって人々の考え方が大きく変化することになった。● 1000年以上続いた暗黒時代を経て、3400年には人類の新たな黄金時代が始まり、世界各地で生き残った10億人が平和と繁栄の中で暮らすことになる。この遠い未来の人々は「心配や恐怖に悩まされずに、のびのびとした子供たち」のようであるという。3906年の未来で知った真実をまとめた手記を執筆 3906年の未来で貪欲に知識を吸収していたディーナッハだが、ある朝目覚めると、そこは1922年の病院のベッドであった。彼は1921年から1年間、昏睡状態にあったというのだ。 そして、自分はもはやドイツ人物理学者ではなく、正真正銘のディーナッハに戻っていることを理解した。 体調を回復したディーナッハは、スイスからギリシャに移り住むことにした。ギリシャの地に腰を落ち着けたところで、自分が3906年で知り得た人類史について、憶えている限りの詳細を手記に残す作業に着手したのだ。こうして書き上げた手記を、ディーナッハは教え子の一人であるゲオルギオス・パパハジスに託した。いつまた体調が悪化するかもしれない自分が持っているよりも、信頼できる人物に託すことを選んだのだ。 手記を一読したパパハジスは「そこには、核戦争、火星の植民地化、世界政府の構想、空飛ぶ乗り物、ホログラフィックディスプレイ、さらに地球外生命体との接触など、未来を洞察する詳細な文章が含まれていた」と後にコメントしている。 当初、パパハジスたちは手記を単なるSF小説として軽視していたという。しかし、本文を深く掘り下げるにつれて、最初は架空の物語だと思っていたものが、実際には重要な意味を持っていることに徐々に気づいたのだった。 この後、ディーナッハはギリシャのパンテイオン大学の法学教授および学長となったのだが、残念ながら再び体調が悪化し、1924年に結核で逝去する。 ディーナッハの手記はパパハジスの手によっていったん別の言語に翻訳された後、どういわけかアテネのフリーメイソンのロッジに渡り、高位のフリーメーソンの間で秘密裏に共有されていた経緯があるという。長らく闇に葬られていたディーナッハの手記であったが、紆余曲折を経て2015年に英語訳版である『Chronicles From The Future: The amazing story of Paul Amadeus Dienach(未来からの年代記:パウル・アマデウス・ディーナッハの驚くべき話)』が出版されて大きな反響を呼ぶことになった。多くの予言書と同様に、ディーナッハの主張をどの程度真剣に受け止めていいものなのか、困難を伴うのは明白だ。しかし、病弱な学者であったディーナッハが自分の著作物から利益を得ようとはしなかったという事実は、彼の主張が少なくとも誠実であったことを示している。1920年代にタブレットや3Dホログラム装置などの技術が登場することを示唆していた点も見過ごせない。しかし、この先2300年までは地球上で混乱が続くのだとすれはあまり歓迎したくない予言であるともいえそうだ。------------------------私の感想----------------------------ファクトかどうかの判断は付きかねるが、記事としてはとても面白い。私が予測する未来は世界は統一通貨になると思われる。ユーロのように、そして原則関税が撤廃され自由貿易になると思う。ただしそれは100年以上先のことと思う。自動車は全て空を賜り飛ぶことになる。道路建設とかトンネルというのは過去の遺産として残されるだけだろうと。因みに指標として1924年100年前の日本の様子は以下である。1924年 - Wikipedia平均寿命が何歳なのかも想像はつかない、私の生まれる2年前1955年の日本人の平均寿命は男性63.6歳女性は67.75歳なのだ。今の私は既に死んでることになる(汗)子どもの頃「宇宙大作戦」スタートレックを夢中で観ていた。スタートレックは23世紀・24世紀の世界だったが、このサイトは40世紀の地球の様子なのだ。40世紀でも奈々ちゃんはアイドルとして通用すると思う(笑)ドリカム 未来予想図あいち交通死をなくすボランティアにじいろ会|さえりん♥ストラップ (aichinijiirokai.wixsite.com)
2024.05.16
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野川由美子さん鮎川いずみさんという必殺シリーズを思い出したら、江戸時代仇討ちいわゆる復讐が合法だったことを思い出した。----------------------------------------------------------------江戸時代、なぜ「仇討ち」はお上公認だったのか?山本博文江戸時代、なぜ「仇討ち」はお上公認だったのか?|武士はなぜ腹を切るのか|山本博文 - 幻冬舎plus (gentosha.jp)「日本人はもともととてもすばらしい民族だった」「日本人は、もっと日本人であることに自信をもってよい」……そう語るのは、歴史学者の山本博文東京大学教授。江戸時代にくわしい教授は、著書『武士はなぜ腹を切るのか』で、義理固さ、我慢強さ、勤勉さといった、日本人ならではの美徳をとり上げながら、当時の武士や庶民の姿を活き活きと描いています。昔の人はカッコよかったんだな、と素直に思えるこの本。一部を抜粋してご紹介します。実は「仇討ち」の成功率は低かった 江戸時代は、仇討ち、つまり復讐が認められていました。武士たる者、親や兄弟を殺されたら、自分の力で復讐するのが当然だと考えられていたのでしょう。そのため、届け出さえすれば、必ず認められました。 仇討ちが社会的に黙認されていたのは、むしろ武士たちの「汚名を雪がずにはおれない」という自尊心のためでした。「親を殺されて平気な顔をしているヤツは武士ではない」ということでしょう。武士は、面子をつぶされたり、汚名を着せられたりすることを極端に嫌がります。 たとえば江戸時代、親や兄を殺されるなどして「敵」をもった場合、まずはそれを討つために、幕府に届け出ます。そのうえで一度、脱藩し、浪人の身となって敵を追いかけます。 浪人なので当然禄はありませんが、どこかに雇われるというわけにもいきません。たまに日傭取りや用心棒などで糊口をしのぐことは可能だったかもしれませんが、基本的には仇討ちを狙っているあいだの生活は、親類などに頼るほかありませんでした。親類も、仇討ちが成し遂げられないと一門に悪い評判が立ってしまうため、何としても成功させようとがんばったのでしょう。 このように苦しい生活を強いられる仇討ちですが、成功率は江戸時代を通してたった数パーセントだったのではないかといわれています。というのも、交通機関も通信機関も、現代と違って発達していませんでしたから、敵がどこに潜んでいるか、簡単にはわからないわけです。場合によっては、敵の顔さえ、わからない場合もあります。そのうえ、敵を討つまでは藩に帰ることはなりません。しかし、なかなか会えないからといって途中で諦めたりしたら、それこそ武士の名折れといわれてしまいます。 そんな思いをしてやっとのことで敵を見つけ出したとしても、返り討ちに遭ってしまうこともあります。それでも、めぐり合えるだけましかもしれません。相手がどこにいるかもわからないまま一生を終えることも珍しくはなかったのです。本音をいうなら、武士たちだって「義理」のためとはいえ、仇討ちはしんどいなぁと思っていたことでしょう。『忠臣蔵』に見る武士の「義」 さて、みなさんご存じの有名な仇討ちといえば、やはり『忠臣蔵』でしょうか。 実は『忠臣蔵』というのは歌舞伎や文楽のタイトルであって、歴史上、そういう名前の事件は起こっていません。本当に起こったのは赤穂事件、つまり赤穂藩主・浅野内匠頭の起こした江戸城松之廊下での刃傷沙汰に始まり、その責任を問われた切腹処分に起因する赤穂浪士たちの討ち入りまでの、一連の出来事です。この赤穂事件を物語にしたのが『仮名手本忠臣蔵』で、“忠臣”つまり、忠実な臣下たちの手本という意味と、蔵=(大石)内蔵助をはじめとする忠実な部下たちという意味になっています。 この赤穂事件、詳細に調べていくと、実にさまざまなことがわかってきます。とくに一級史料である浪士たちの手紙などはたいへん興味深く、そこには彼らの本音が吐露されています。 たとえば浪士のひとりである神崎与五郎は、妻おかつに宛てた手紙のなかで「私もあなたが恋しいけれど、これは人たるものの務めなのだ」と書いています。一方、茅野和助も、討ち入り直前に兄弟に宛てた手紙のなかで「この場を逃れることは、私だけでなく一家の面目にかかわり、ことに武士として生きている以上、甥の武次郎や倅の猪之吉などにもよくないし、とにかく武士の道を外れることになります」といっているのです。 彼らのいう「人たるものの務め」「武士の道」とは、何か。それは言い換えると、「義」にほかなりません。つまり、討ち入りは、彼らにとっては武士として、どうしても行わなければならない「義」だったのです。当時の武士は「かぶき者」だったそもそも浅野家の家臣たちは、内匠頭は吉良上野介との“喧嘩”のすえに刃傷におよんだのだ、と考えていました。武家社会では「喧嘩両成敗」という天下の大法があり、両者が行ったのが本当に“喧嘩”であれば、当然、内匠頭だけでなく上野介も切腹になったはずなのです。 ところが、上野介はただ逃げただけで、“喧嘩”ではないということで、内匠頭にだけ一方的に、即日切腹の沙汰が下ったのでした。浅野の家臣、つまり赤穂藩士たちから見たら、幕府の処分は片落ちだった。簡単にいうと、えこひいきに思えたのです。ですから平等に上野介の切腹を願ったのですが、幕府は聞いてくれない。そのうえ、赤穂城は明け渡しになり、自分たちは浪人する。だから赤穂の浪士たちは、自分たちの手で上野介を討とうと決心したわけです。 売られた喧嘩は買わなきゃならない、というのは、現代の常識から見れば、どう考えてもまともな人間のすることではなく、「やくざ」の論理です。けれど、武士はそういう社会に生きてきた。誰かが斬りかかってきたら応戦する。自分に降りかかった汚名は血をもって雪ぐ。家や藩主が受けた汚名は、仇討ちで晴らす。とくに赤穂事件が起こったのは、江戸時代でもまだまだ、武断政治の殺伐とした気風が残っていた頃。この頃の武士のメンタリティは、「かぶき者」的心性であると、私は思っています。「かぶき者」とは、十七世紀に多かった無頼者たちのことで、武士や武士に奉公する者に特有の、やくざでイナセな気風をもつ者のことです。 彼らはどんな苦しいことでも我慢して強がりをいい、自分を頼る者や仲間のためには命を棄てても後悔しない、という倫理に基づいて行動していました。 赤穂事件の浪士たちは、この心性によって主君の汚名を晴らし、仇を討ち取り、後世に「義士」として名を残しました。 それは彼らの行った仇討ちが、「義理を果たす」「汚名を雪ぐ」といった武士の倫理に適ったものであり、人々が忘れかけていた武士の生き様を象徴するものだったからなのです。山本博文1957年岡山県津山市生まれ。東京大学史料編纂所教授。日本近世史を専門とし、武家社会や武士道精神など、江戸時代に関する研究で知られる。NHK総合テレビ「タイムスクープハンター」シリーズでの時代考証をはじめ、多くのメディアで活躍。92年『江戸お留守居役の日記』(読売新聞社、のち講談社学術文庫で再刊)で第40回日本エッセイスト・クラブ賞受賞。-------------------------私の意見---------------------明治になり近代国家として歩んできた日本ではあるが、義理と人情はどこに行ったのかと私は思う。キックバックもそうだ、自分の保身としか思えない。江戸時代なら切腹ものだ。また報道も安倍派とテロによって死した安倍元首相につばを吐きかけているようなものだ。清和会と報道すべきだろう。清和会の面々はもうこれ以上安倍さんの功績に傷をつけるな、切腹、辞職せよと私は思う。少しは赤穂浪士を見習えだ。裁判所が被害者の心情を酌んでいるのかなと私は思う。今は仇討ちはできないのだから。。。。必殺シリーズと言えば和久井映見ちゃん!!あいち交通死をなくすボランティアにじいろ会|さえりん♥ストラップ (aichinijiirokai.wixsite.com)
2024.04.04
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1945年8月15日にポツダム宣言を受け入れて敗戦となった。日本もドイツと同じように連合国から分割統治する案が出された。日本の分割統治計画 (hns.gr.jp)この案に猛烈に反対したのが蒋介石なのである。日本の敗戦後から2ヶ月のちに毛沢東率いる中国共産党との内戦状態になり、日本との戦争で疲弊した国民党軍は迷走を続け台湾へと追いやられた。また日本軍の残した兵器が中国共産党軍に接収されたことも大きい。また米英とも日本・ドイツとの戦闘で最早国民党軍を支援する余裕がなかったことと。戦後の統治について暗中模索状態だったと窺える。日本の分割統治は天皇制の廃止を意味する。日本への留学経験がある蒋介石にとって日本国の歴史と天皇制について充分な理解があったと思う。また北海道・東北がソ連領となったら、共産主義の脅威と隣り合わせということにもなる。蒋介石から見ればソ連の対日参戦は1945年の8月9日でもっとも終戦間近なのにも関わらず北海道・東北の統治ふざけるなという思いもあったと思う。蒋介石はソ連による分割統治だけは絶対に認めないとの思いだったのだろうと推測する。そして日本の統治はGHQの管理下におかれたわけだ。スターリンは北海道を二分割して併合することを諦めなかったが、トルーマンが強硬に反対した。「スターリンの野望」北海道占領を阻止した男 : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)蒋介石が分割統治案に賛成したなら、恐らく北海道・東北に住む日本人は強制移住させられていたかもしれないし、朝鮮半島のように分断国家となっていたとも思う。南京虐殺があったならば、蒋介石は四国を中華民国領として組み入れたと思う。蒋介石はいち早く戦後賠償を放棄している。私はこのことからも南京大虐殺は日本の左派が火をつけ中国共産党によってでっちあげられたことだろうと思う。蒋介石と根本博陸軍中将の友情「蒋介石が感謝と友情の証として根本博へ贈った花瓶の秘話」に感動した。蒋介石と根本博は真の漢だね! 根本博は戦後の日本と台湾の救世主の一人で、大和魂を持った本当のラストサムライ! (amazon.co.jp)台湾が今も尚親日国なのは、こういった背景があるのだと思う。もしウクライナが負けロシアの施政下に入ったら、次は北海道を狙ってくることは至極当然のことだと思う。日本の取るべき道は憲法9条を改正して普通の国になることだ。蒋介石には人情があったが、プーチンにはないのだ。ベルリン陥落 1945 - Wikipediaあの地獄を忘れられない…満州で「性接待」を命じられた女たちの嘆き(平井 美帆) | 現代ビジネス | 講談社(1/4) (gendai.media)【戦後70年〜昭和20年夏(7)】樺太に残された日本人女性 ソ連兵の恐怖に震え…過酷な日々、帰国信じ半世紀(1/3ページ) - 産経ニュース (sankei.com)真岡郵便電信局事件 - Wikipedia彼女達は靖国神社に合祀されました。恐らくウクライナでもロシア兵による性被害があると思う。恐らくロシアに併合されたら故郷を追われ強制移住させられるのだろう。台湾出身 欧陽菲菲さん、ラブイズオーバー 切ないけどいい歌です。あいち交通死をなくすボランティアにじいろ会|さえりん♥ストラップ (aichinijiirokai.wixsite.com)
2024.03.08
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NHKの朝ドラブギブキでパンパンのことが描かれている。そこで私が思うこと。パンパンパンパン - Wikipedia特殊慰安施設協会 - Wikipediaパンパンとは、戦後の娼婦を総じて指す、そして2015年9月30日の私の記事某掲示板でのやり取り某掲示板でのやりとり | 日本版レコンキスタ宣言 旅立った孫と子孫への私の人生卒業論文 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)ブギフギで戦争によって夫・父親を亡くした家族は困窮しました。そして今のひとり親家庭への助成は戦後7年経過して1952年に成立しました。昭和20年に敗戦となり、その間戦争により夫・父親を亡くした女性は生活苦から娼婦にならざる得ない人たちがいたわけです。生活保護の制度は戦後5年経過してから成立しました。女性のためのアジア平和国民基金 - Wikipedia1995年村山内閣の時に国民基金ができました。その時ある記者がパンパンを含めた日本人慰安婦についてはと村山首相に質問したところ絶句してしまい何も答えることができませんでした。私の知る限り日本人慰安婦への補償の言説はありません。私はそれはフェアではないと思います。日本人女性を含めて全てを包括すべきと思ってます。もう戦後79年経過しましたから。パンパンと呼ばれた人たちは亡くなったと思われます。でも戦後日本にパンパンと呼ばれた人たちがいたことを忘れてはいけないのです。戦前の中国大陸での慰安婦の総称はピーと呼ばれていました。あいち交通死をなくすボランティアにじいろ会|さえりん♥ストラップ (aichinijiirokai.wixsite.com)
2024.02.14
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能登半島地震の被害がだんだんと見えてきました。まずはキックバックを受けてた議員、キックバックの額を全額寄付しろと言いたい。もし派閥でプールしたお金があるのなら、この際だから能登半島地震被災者に寄付しろだと思う。“北朝鮮軍 黄海に60発以上砲撃” 韓国軍発表 2日連続で砲撃 | NHK | 北朝鮮情勢これは金正恩の娘の単なる実績作りだろう。10年前の延坪島砲撃事件も金正恩の実績作りに利用されたわけで、今回は娘なんだろうと。なんせ祖父の金日成は旧日本軍と10万回闘い全て勝利したとなんせ学校で教えているのだ。韓国の慰安婦支援団体は戦前日本軍によって少女20万人が性奴隷にされたと主張している。慰安婦支援団体の言ってることがファクトなら、金日成は少女を助けることもできず、ただ傍観していたとなる。このファクトは当時売春は合法であり、募集すれば集まったわけだ。しかも高報酬だった。当時朝鮮半島の防衛は朝鮮人日本兵が守っていたのだから、金日成は10万回も同胞と戦っていたことになる。また100年前の関東大震災のさいに朝鮮人虐殺が行われていたと100年も経過して、追悼文なんちゃらを主張する人たちがいる。関東大震災後も朝鮮半島から仕事を求めて本土に多くの朝鮮人が来ました。関東大震災で日本人によって虐殺されたはずなのですが。1925年10月、日本は朝鮮半島からの渡航制限を実施しました。この制限は、朝鮮人の日本への移民を抑制するために行われました。制限は、1928年には緩和されましたが、その後も移民数は増加し続けました。現代と違ってスマホがなかったとしても、本土と朝鮮半島と行き来してましたから、いわゆる「人の口に戸は立てられぬ」「悪事千里を走る」という諺があるように、そんな朝鮮人差別が歴然とあり、辛酸をなめなければいけない本土にくる必要があるでしょうか?普通惨たらしく日本人によって殺されたのであれば、朝鮮半島でも口コミで広がり本土へ来たいとは思わないと思います。親もそんなとこに行くなとなるでしょう。しかし真逆で渡航制限しなければいけないほど本土は朝鮮の人たちにとっては移住しやすいところだったと私は思います。小池知事の判断は未来に向けた正しい判断だと私は思います。いつまで引きずるのですか、都や政府を指弾して何がやりたいのと改めて聞きたいものです。南京事件もそうです。200キロ程度しか離れていない上海で日本人と中国人が合同で音楽会を開催し、日本人と判明した李香蘭の上海コンサートは中国人のお客様で大盛況でした。中華民国総統・蒋介石の要請により台湾の国軍を秘密裏に支援した旧日本軍将校を中心とする軍事顧問団。1949年から1969年までの間、団長富田直亮(陸軍少将、中国名:白鴻亮)以下83名にのぼる団員が活動した。毛沢東も旧日本軍を招聘した。『人民中国』 (peoplechina.com.cn)南京にて30万人を無差別に殺害した旧日本軍を招聘するとなったら間違いなく双方とも指揮が低下するどころではなく反対の渦になったろうと思う。南京大虐殺はフェィクであったと私は思う。来年で昭和100年となる。まずは自虐史観からの卒業だろう。あいち交通死をなくすボランティアにじいろ会|さえりん♥ストラップ (aichinijiirokai.wixsite.com)
2024.01.12
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世間的には令和6年であるが、昭和世代の私からすると昭和99年の方がしっくりとくる。来年昭和100年を期して故安倍さんが望んでいた戦後レジームからの完全脱却すべきと思う。慰安婦問題が旧正義連の金ずる集団であったことが白日の元に晒され韓国国内世論の反日機運が萎んでしまった。応募工も韓国政府が肩代わりするということで終結する。南京大虐殺論争も現在の中国共産党独裁体制が白日の元に晒され、いわゆる歴史戦が使えなくなっている。まさに自虐史観が消滅しつつあるということだ。来年で太平洋戦争終結80年にもなる。私はこれを期に日本国として憲法9条を改正し日本も普通の国を目指すべきと提言する。中国・ロシア・北朝鮮という独裁国家に囲まれている日本国としては、いつまでも80年前の出来事にとらわれない国家を目指すべきである。戦後日本の行ったことを歴史として私は伝えていくべきだと思う。いわゆる自虐史観からの脱却こそが日本の世界的地位が上がり、世界平和へ貢献できるものと思う。ウクライナの敗北は民主主義の敗北でもあるし、恐らくプーチンの次の狙いは日本の北海道である。かつてスターリンは太平洋戦争終結後、戦勝国として北海道分割統治を遡上にあげていた。結局プーチンの狙いはウクライナ利権の独占でしかない。ソ連時代に投資したウクライナがソ連崩壊により独立し、西側諸国に利権が奪われるのは許しがたいというたけなのだ。かつての大日本帝国が満州利権を独占するべく、傀儡国である満州国を建国した構図なのだ。ウクライナにはチタンの有望な鉱脈がある。チタンは宇宙開発や航空機、はたまた原子力に使用される金属なのだ。チタン - Wikipedia米国にはウクライナ産チタンが不可欠 ロシアに取られてはならない=米メディア - 2023年2月1日, Sputnik 日本 (sputniknews.jp)世界のチタン生産量 国別ランキング・推移 - GLOBAL NOTE21世紀の金属チタンプーチンの狙いはチタンの独占なのだ。ウクライナが負けるということは、民主主義の崩壊だと私は思う。ウクライナが負けたら、次に狙われるのは日本国だと思う。恐らくプーチンはスタリーンの北海道分割統治論をぶち上げて来るだろう、だからこそ戦後レジームからの脱却が必要なのだ。未だに関東大震災における朝鮮人虐殺に拘っている左の人たちは、習近平・プーチン・金正恩の応援団でしかないのだ。日本が普通の国になるだけで、これら三国は政策を見直しせざる得ないのだ、岸田さんウクライナにもっと支援しなよ、10式戦車とトマホーク供与しなよと提言する。あいち交通死をなくすボランティアにじいろ会|さえりん♥ストラップ (aichinijiirokai.wixsite.com)
2024.01.01
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北海道新聞より「国家の為(ため)に一命を投げ出して奮闘します」 1943年(昭和18年)9月10日に函館市内で開かれた出征学徒の壮行会。檜山管内江差町出身で北海道第二師範学校(現道教大函館校)本科3年の富沢幸光(ゆきみつ)さんはそう意気込みを語っていた。 北海道新聞の記者たちが親族や、ゆかりのある人、土地を訪ね、戦禍の実相に迫る「記者がたどる戦争」の一覧はこちら その8日後、富沢さんは友人とともに柔らかな笑顔で写真に納まっていた。戦後に友人が書き添えたとみられる説明文は駒ケ岳で撮影されたことと、富沢さんが道中で泣きだしたことを伝えていた。「『富沢(右端、戦死)が泣いた』というのが今では楽しくも、悲しい伝説になっている」 10月下旬、北斗市歴史研究会長の島津彰さん(73)とともに道教大函館校内の北方教育資料館を訪ねた。同資料館に保管されていたその写真を見て、戸惑った。壮行会での誓いの言葉とのギャップがあまりに大きかった。 資料館には、第二師範学校での学生生活を記録した個人のアルバム、島津さんが分析を進めた43年の卒業生の論文集などが保管されている。■勇ましい遺書 富沢さんはその卒業生の一人。学徒出陣の勅令公布前ではあったが、9月の繰り上げ卒業によって、今の大学生と同年代で海軍に入団し航空隊へ配属された。45年1月6日、フィリピン・リンガエン湾で、敵巡洋艦に体当たりする特攻で戦死した。享年23歳。 富沢さんの遺書の内容も展示されていた。東京・靖国神社に掲示され、広く知られているものでもある。 「日本国が大変なことになる。幸光は誰にも負けずきつとやります」 国を守ろうとする約80年前の若者の強い気持ちは私にも届いた。同時に、今とは異なる時代の別な世界の話だとも感じていた。函館での取材5日後に島津さんから着信があるまでは。 「遺書はあの1通だけではなかったようなんです」島津さんからの情報を基に、第2の遺書の持ち主にたどり着いた。江差町に住む富沢さんのめい、圭子さん(65)だ。 訪ねると、富沢さんの遺品がずらりと机に並んでいた。時に涙を浮かべ、約3時間語ってくれた。「365日幸光さんの話を父から聞いてきた。彼に恥じないよう生きてきました」。会ったことのない叔父が、今も心に住んでいた。大切に保管していた日記や手紙の中に、第2の遺書があった。第1の遺書との違いはすぐわかった。ある女性への思いを家族に明かしていた。 「落合道子といふ者、師範生の時からのお友達です」「嫁の口ある事三、四件、それを断つて今まで私を待つてくれました」 道子さんについて、江差に本宮を置く宗教法人「八大龍王神八江聖団」の出村龍日(りゅうにち)総裁(74)が教えてくれた。「富沢さんの町葬の日、自らの名を明かさずお参りに来て、そっと帰ったそうです」。富沢さんの兄嘉一さん(故人)から伝え聞いた話という。 富沢さんの戦死に衝撃を受けたのは家族や恋人だけではなかった。戦時中に江差に住んでいた庭山啓子さん(90)=渡島管内七飯町在住=によると、終戦から数年後、地域伝統の行事「姥神(うばがみ)大神宮渡御祭」でのことだった。例年ならにぎやかに地域を巡る山車が、静かにただ一つの場所を目指していた。 富沢家だった。庭山さんが耳を澄ますと、祭りばやしが聞こえてきた。「普段は神様の前でだけ演奏される(祭りばやしの)『立山』が響いて、その場にいたみんなが富沢さんの両親に頭を下げていた。あの時、江差の人は富沢さんのためだけに祭を開いていた」■多面的な視点で 43年9月に北海道第二師範学校を卒業した79人のうち、戦没者は富沢さんを含め12人。ただ、一人の「戦死」の影響はこれほどまでに大きい。 取材を重ねるほど、わからなくなったことがある。富沢さんは壮行会や第1の遺書では勇ましい言葉を並べた。しかし、入隊直前の友人とのひとときでは涙を流していた。静かに愛を育んだ人もいた。 戦争の時代が強いた運命を受け入れていたのか、それとも受け入れられなかったのか―。 学徒出陣に詳しい京大大学文書館の西山伸教授(日本近現代史)に疑問をぶつけた。「私たちと同じじゃないですか」と返ってきた。 「一人一人違うし、1人の学徒も昨日ときょうで考えは変わる。今後は固定的な見方で彼らを取り上げない視点が求められますよ」 学徒兵は映像や手記が数多く残っているのにもかかわらず、ある一面だけを切り取られることが多かったという。 80年が経過し学徒出陣をした当事者には今回、一人も出会えなかった。生の声を聞けなくなる時代の到来を肌で感じ、自らを省みた。 「洗脳されていた」「本当は戦場に行きたくなかった」。あの時代を生きた一人の人間を単純な言葉で捉えようとしていなかったか。(報道センターの工藤俊悟が担当しました)■富沢幸光さんの遺書(読みやすさを考慮し、句読点やルビを含め一部表記を換えています)・第1の遺書 「出撃最後の日」お父上様お母上様 ますますお達者でお暮らしの事と存じます。幸光は闘魂いよいよ旺盛元気でまた出撃します。 “左様奈良(さようなら)”お正月も来ました。幸光は靖国で二十四歳を迎える事にしました。靖国神社の餅は大きいからね。同封の写真は○○で猛訓練時 F中尉にうつして頂いたものです。眼光を見て下さい。この拳を見て下さい。この幸光はきっとお父上様、お母上様、兄様、弟君が喜んで下さるだけの大戦果をあげます。短い海軍生活でしたが短いだけの大成功をします。父様母様は日本一の父様母様である事を信じます。お正月になったら軍服の前に沢山ごちそうをあげて下さい。雑煮餅が一番好きでした。 ストーブを囲んで幸光の思い出話をするのも間近でしょう。 靖国神社では、また、甲板士官でもして大いに張り切る心算です。母上様 幸光戦死の報(を)知っても決して泣いてはなりません。最高の名誉をもって出撃するのです。母上様に軍服姿を見してやりたかった。しかしその余裕は今は持ちません。靖国で待っています。きっと来て下さるでしょう。 本日 恩賜のお酒を頂き感激の極みです。 人類の敵、米鬼がすぐ前に来ました。私がやらねば父様、母様が死んでしまう。否、日本国が大変な事になる。幸光は誰にも負けずきっとやります。ニッコリ笑った顔の写真は父様とそっくりですネ。母上様の写真は幸光の背中に背負っています。母様も幸光と共に御奉公だよ。何時でも居て下さる母さん 心強い限りです。幸雄兄、家の事は万事たのむ。嘉市(一)兄と共に、弟嘉平、久平、保則君を助けて仲良くやって下さい。この幸光は学校当時は、大部喰らったね、喰らっただけやるよ。父様は、また、お笑いでしょう。「あまり喰らう由 自重されたし」程は… 恩師によろしく申して下さい。十九貫の体駆今こそ必殺轟沈(ごうちん)の機会が飛来しました。小樽の叔父、叔母様によろしく函館の叔父、叔母様によろしく中野の祖母様によろしく嘉平弟喜んで天皇陛下の御為に死す者 之日本男児 最高の本懐なり学も当然これに帰一せねばならぬ本道教育は嘉平君たのむ保則弟保チャン 大キク ナツタラ 光チャンノオ話ヲ兄様カラ聞キナサイ キツト 保チヤンハ喜ブデショウ久平弟髙工受験突破、立派ナ飛行機ヲ沢山ツクレヨシ祖母様永く永く元気でお暮らし下さい米子姉様よろしくお願いします岡本師顕殿御世話を謝します。叔父さん幸光は立派に大戦果をあげます。・第2の遺書 父幸作様、母さん幸光を生んだ事は日本一の両親です。 永富少尉とも一緒です。今、永富少尉家で沢山ごちそうになりました。 家に入ったら父さん母さんと呼びたかった。今ただ この世の別れに母さんと会いたかった事です。 父さん母さん 幸光は海軍軍人として決して他に恥じん男です。喜んで下さい。 別府永富少尉の宅において「天ニ代リテ不義ヲ打ツ」天皇陛下の命を頂いて今勇躍任務を持って向かう途中です。驚いたでしょう しかし決して幸光は死なん事を確信しております。死は肉体を指しません。私こそ永遠に生き得る人間だと信じております。 皆さまの御恩は決して忘れません。海軍少将藤原閣下が涙を流して送ってくれました。今別府に来たら総隊司令官がわざわざ別杯をして下さいました。「オ願ヒシマス」これほどまでして今出撃する幸光の気持ちをくんで下さい、富澤家の名誉これ以上のものはありません。 今温泉に入ってこの世のよごれを全部落としました。母さんが「光ちゃん随分きたないね」と後で一生懸命流していたよ。一番好きな母さん お土産を買って送ったよ、靖国神社にくる時はそれをつけて面会に来て下さい。本当ね。それから幸光の一番好きなイモ南瓜を沢山もってね。それから落合道子という者、師範生の時からのお友達です。よく私をめんどう見てくれました。両親がありませんので可愛想な女です。嫁の口ある事三、四件、それを断って今まで私を待つてくれました。母さん ただ そんな人も幸光にはあったと笑って下さい。 保ちゃん どうしたかなあ、風邪は禁物だからね。母さんの写真は背中にしっかりおんぶしています、父さんの写真がほしかった。孝行は出来なかった。今度こそは、アルバムをよく見て幸光を想ひ起こして下さい。幸光こそ日本一の喰らい男だとまた父さんが言うだろうね、軍服はアイロンをかけて母さんの室に…中野家の方々によろしく、兄さん元気で征ってきます、後はたのみます。・「富澤家の皆様」と題した文章 富澤家の皆さま 幸作様、母さん、幸夫兄、米子様、嘉一兄、嘉平弟、久平君、保則君、幸光は今富澤家永遠存続はもちろん国家永遠の繁栄のためはるかに宮城を拝し勇躍某に向かいます。幸光は靖国で待っています。かならず来て下さい。母さん幸光はきっと待っています。富澤幸光は決して悪い死は致しません。今日の日はもとより覚悟、武人の本懐です。今朝母さんと兄さんの夢を見ました。うれしかった。父母様兄弟様 永く永く暮らして下さい、幸光の神前には(白飯の絵)よろしく御願ひします。決して泣かないで下さい。恩師友人によろしく。 出陣の日さようなら 幸光-----------------------------私の意見------------------------富澤さんの遺書には「靖国神社」と書かれている。ケルンコンサートのブログでお題とは関係がないのにHN是は是 非は非さんという方から恐らくではあるが私に対するコメントがあった。ケルンコンサートさんの該当記事映画「パッチギ!」(監督:井筒和幸 2004年制作)で朝鮮学校生の葬儀において朝鮮人老人が日本人高校生を罵倒する件を検証 | 地を這う虫 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)靖国神社には私の親族は勿論家内の祖父・同僚だった人のお父上も祀られています。国のために命を捧げた人は英霊でなく単なる霊なのだろうかと、私は絶対にそんなことはない、英霊という存在でしかないのだ。私は富澤さんと相思相愛だった、許嫁落合道子さんがいらしゃっただけでも。。。。。。靖国神社・遊就館には数多くの花嫁人形が展示されている。彼女がいなかった英霊に責めてもあの世で一緒になって欲しいと、奉納した花嫁人形なのだ。散っていた英霊、残された家族の思い。私達は未来永劫この事実から目を背けてはいけないと思う。英霊や残された家族の思いが詰まった九段の靖国神社に、天皇陛下と首相が自由に行けないなんておかしいと思いませんか?何に遠慮があるのでしょうか?ましてや靖国神社は陛下の曽祖父で明治天皇が建てられた神社です。中国から文句をいわれるからですか?ウイグル人を弾圧し、一国二制度を崩壊させて香港の自由を奪い、日本の領土領海を核心的利益と言って現状変更を目論む国になんの遠慮があるのでしょうか?陛下が英霊に対して手を合わせることにどこが問題があるのでしょうか?本日のブキブギですず子が蘇州夜曲を歌いたいと、戦争に負ける1が月半前李香蘭は上海でコンサートを開演します。既に李香蘭は日本人で山口淑子ということが中国人にわかっていたのに、連日立ち見が出るほど大盛況でした。勿論蘇州夜曲を歌ったでしょう。8年前200キロ程度しか離れていない南京で日本軍は30万人を殺害したとされています。いわゆる南京大虐殺です。今のカザ地区と同じような感覚で非戦闘員である。子どもを含めた老若男女を30万人以上殺害したのにも関わらずです。当然殺された人の家族や知り合いがいたでしょう。もし南京大虐殺が中国政府の言う通りなら、日本人と判明した李香蘭は間違いなくご遺族によってコンサートを妨害最悪殺害されていたかも知れません。それが立ち見が出るほど中国人に愛された日本人李香蘭なのです。私の出した結論は南京大虐殺ではなく、南京事件ではなかったのかと思います。当時の中国人は日本人をそんなに憎んでいなかったという証ではないかと思います。日本の左派と中国共産党政府が作り上げたプロパガンダだと私は思います。陛下や首相が自由に行けないところがあるという事自体が問題だと思わない日本人が私は一番問題だと思います。私は英霊と言い続けます。国のために命を賭してまで戦った人を英霊と呼ばずしてなんと呼ぶのだ!!李香蘭が「お兄ちゃん」と呼んだ東洋のマタハリと呼ばれた川島芳子さん 男装の麗人川島芳子 - Wikipediaあいち交通死をなくすボランティアにじいろ会|さえりん♥ストラップ (aichinijiirokai.wixsite.com)
2023.11.30
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北海道新聞より大学生や専門学校生を戦地に送った太平洋戦争中の学徒出陣について、北海道帝国大学(現北海道大学)では学生の徴集が始まった1943年(昭和18年)秋の時点に在籍していた学生のうち、142人が軍に入隊し、このうち少なくとも7人が戦死または戦病死して、9割近くは生還していたことが北大大学文書館の調査で分かった。学徒出陣での出征者や戦没者の総数は戦後78年が経過した現在も明らかになっておらず、専門家は「学徒出陣で亡くなった人を推計する上で役に立つ貴重なデータだ」としている。 調査は来年3月以降に刊行予定の北大百五十年史の編さん事業の一環として、当時の休学届や復学届、戦後の同窓会名簿などを精査し集計した。 41年の太平洋戦争開戦後も学生は在学中の徴集を猶予されていたが、戦況の悪化で政府は43年9月に猶予の停止を決め、文系と一部理系の学生が対象になった。当時北大は農医工理の理系4学部で、農学部7学科のうち農学、農業経済、農業生物の3学科の学生が徴集された。 文書館によると、学徒出陣の勅令が出された43年10月時点の3学科の在籍数は計177人。このうち第1陣となる同年12月に少なくとも117人、44年1月以降に25人が入隊した。残りの35人は43年12月より前に入隊した志願兵や徴兵検査の不合格者で、病気などで休学中の学生も含まれる。 入隊者計142人のうち、87・3%にあたる124人に戦後の復学や卒業などの記録が残っていた。他大学への転学や就職したケースもあり残り1割がただちに死亡とはいえないという。戦没した7人は同級生の回想録などから判明し、名前も明らかになっている。 2003年発行の「百二十五年史」には、43年12月の入隊者数のみが記され、44年1月以降の入隊者や戦没者などに関する記述はなかった。12月の入隊者数も134人(陸軍110人、海軍24人)となっていて今回の集計と異なるが、05年の文書館設立前は公文書や資料を一括して収集・保管する組織がなく、資料の整理、分析が困難だったことが影響したとみられる。文書館の井上高聡准教授は、生還率の高さに固執すると戦没学生の悲劇をすくい取れなくなるとした上で「出征した学生はかなりの割合で帰還していたことになる。(生還率の)数字だけでなく、彼らが戦後、どう社会に関わり、どんな役割を果たしたのかを考える必要がある」と話す。 学徒出陣の戦死者の総数などは分かっていないが、京大では徴集された4737人のうち、戦没者は263人で、全体の5・6%だったことが分かっている。同大文書館の西山伸教授は「北大の生還者の割合自体に驚きはない。各大学のこうしたデータがそろえばそろうほど、学徒出陣の戦没者を推測する上で参考になる。これまで『学徒兵は消耗品で、次々と死地に追いやられた』というのが定説だったが、実態はどうだったのかを考える上で役立つ」と意義を強調する。 北大には当時の教授会議事録や徴集される学生の保護者に配布した文書なども残っていて、文書館が調査を進めている。 43年12月の教授会議事録では、学徒出陣で学生数が少なくなった後に建物をどのように活用するか話し合っていたことが記録されていた。慶応義塾福沢研究センターの都倉武之准教授は「当時の教授会議事録は珍しく、少なくとも私たちの大学にも断片的にしか残ってない。学徒出陣に大学側がどのように反応し対応したかがわかり、実態を解明するための重要な資料だ」と話している。(工藤俊悟)-----------------------------私の意見----------------------私の叔父が学徒出陣し、敗戦によって戻ってこれたが、学徒出陣 - Wikipedia1943年の10月1日に公布し20日後の10月21日に明治神宮外苑で壮行会が行われた。たった20日後集められたということになる。1942年6月のミッドウェイ海戦で帝国艦隊が敗れ、日本は太平洋の制海権を失っている。しかもミッドウェイ海戦の敗北を隠蔽した。当時の大日本帝国は国体の維持というのが大前提であったのにも関わらず、未来の日本を背負う学徒を出陣させたかである。誰も反対した形跡がない。戦局の悪化を国民にしらせまいとしたのだろう。今週のブキブギでも、英語の使用禁止、派手なステージ禁止って完全に精神論になっているわけで、既に負けている。そしてミッドウェイでの敗北、1年4ヶ月後の学徒出陣、そして1944年6月サイパン島玉砕で制空権まで奪われ、東條英機首相辞任したが、当時の大日本帝国の出した結論は、本土決戦・神風特攻隊作戦となる。国体の維持という名目で、本土決戦という無謀な作戦のために一般人まで多く死亡した。今のガザと同じ構図だ。歴史にもしはないが、サイパン玉砕、東條英機首相辞任の時に戦争を終わらせることができたなら、東京・大阪大空襲もなかったし、広島・長崎の原爆投下もなかった。ソ連の侵攻もなかったから、南樺太・千島列島は日本の領土となっていたと思う。未来の日本のリーダーになるかも知れない学徒まで動員しなければならないという現実を当時の政府はどう考えていたのだろうかだ。国体の維持ではなかったの??この頃の笠置シズ子さん!!ブルースの女王 淡谷のり子さん李香蘭(山口淑子)さん当時兵隊さん達のアイドルだった。明日待子さん!! 今デビューしてもいけるあいち交通死をなくすボランティアにじいろ会|さえりん♥ストラップ (aichinijiirokai.wixsite.com)
2023.11.28
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雨にも負けず風にも負けず雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち欲はなく決していからずいつも静かに笑っている一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べあらゆることを自分を勘定に入れずによく見聞きしわかりそして忘れず野原の松の林の陰の小さなかやぶきの小屋にいて東に病気の子供あれば行って看病してやり西に疲れた母あれば行ってその稲の束を負い南に死にそうな人あれば行って怖がらなくてもいいと言い北に喧嘩や訴訟があればつまらないからやめろと言い日照りのときは涙を流し※寒さの夏はオロオロ歩きみんなにでくのぼうと呼ばれ褒められもせず苦にもされずそういう者に私はなりたい宮沢賢治 - Wikipedia----------------------------私の感想----------------------------ジャニーズの会見の一部を観て、宮沢賢治さんの詩が浮かびました。奈々ちゃん!!
2023.10.04
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韓国の文大統領がトランプ訪韓のさいに元慰安婦と対面させた、政権が脆弱ということを世界に示したものだろう。私の今まで集めた情報とかつて旧日本軍に従軍していた人から聞いた話を元に推察しまとめることにした。戦地慰安所が開設された1930年代朝鮮半島は日本の領土であり、江戸時代から続く売春宿と呼ばれる慰安所は朝鮮半島のみならず本土にも多数あった。また借金のかたに妻や娘を差し出すまたは女性を値踏みしていた。基幹産業が農業だったので干ばつや洪水などで不作になったら生きていくために身売りをしたというケースは朝鮮半島を含む日本国内でも多く見られた。特に朝鮮半島では1910年の日韓併合により平均寿命と死産の割合が劇的に改善され人口増となった。まだインフラ整備や雇用の場が少なかった朝鮮半島から本土へ職と豊かな生活を求めて本土にくるようになった。日本人も今でいう技術移転や教育のために朝鮮半島へ赴任することになる。1932年に満州国建国のさいに爆発的な人口増の受け皿として本土はもとより朝鮮半島からも多くの移民が満州国にわたった。当時は女性にとって不利な姦通罪とか、男の成功者のステータスとして妾を持つことはいわば当たり前の時代だった。また女性には参政権もなく、議会も含めて男性で占められていた。日中戦争が泥沼化したころ、日本軍の兵士による中国人女性へのわいせつ行為や暴行が問題になっていく、また蒋介石政権と対立し汪兆銘政権側についた日本軍ではあるがこのままでは全ての中国人を敵にまわすことになるから兵士の性欲を満たすため軍の管理下で慰安所を開設することになった。戦地なので本土や朝鮮半島よりも慰安婦の報酬を高くしないとなかなか慰安婦が集まらなかったが、他の赤線地帯と違い裏社会の介入がなく、親方日の丸なので慰安所を経営する者には人気の物件であり、いわゆる日本軍のニーズを満たした経営者は戦局の拡大とともに慰安所を増やしていった。日米開戦となってからは赤紙によって多数の日本人兵士が派遣され、当時の朝鮮人男性への赤紙はなく炭鉱労働者や土木建設業者の数が少なくなったので多くの朝鮮人男性が対馬海峡を渡った。朝鮮半島からの志願兵は倍々ゲームで増えていったちなみに1910年当時の朝鮮半島の人口は1313万人で最初の戦地慰安所ができた1932年では2004万人、1942年では2553万人なので、10年間で500万人人口が増えたのだから、強制連行なんかしなくても募集さえすればすぐ集まったと思われる。今回トランプ大統領と面会した元慰安婦の年齢は88歳1945年の終戦時16歳である。13歳か14歳で慰安所で働き始めたと思うが、ねつ造された経歴だと思う。人口が増えている朝鮮半島において強制連行なんかしなくても戦地慰安婦は集まったと思うから、わざわざ今の中学生を拉致して連れてくる方が高リスクだし管理している日本軍だって少女を慰安婦として働かせている経営者に対して許認可権をかさに改善を迫るとも思われる。当時の日本陸軍は絶大なる力を持っており、海軍との対立と陸軍内での激しい出世争いがあったから汚点を残すなになっていたはず。また当時の慰安婦は借金を返し終えたら帰郷も許されていたし、今と違って熟女というカテゴリーはなかったから対外三十路になれば慰安婦としての価値がなくなり、その後従軍看護婦に転身した人やそのまま慰安所の管理職となって経理や財務管理を担当したり、後進への教育係になった人もいた。勿論慰安婦の過去を消してカフェや百貨店等で働いていたことにして、水商売を始めたりお見合いし結婚した人もいるわけだから決して性奴隷なんかではない、日本人慰安婦が名乗り出ないのは高額な報酬をもらっていわゆる過去を消したからである。そしてほとんど生きていないと思う。私が思う慰安婦の最小年齢は92歳で終戦時24歳が一番多いと思うので、日本人・朝鮮人を問わず96歳以上になっていると思う。日本軍が管理している基地内には慰安所は一軒ではなく複数あり、いわゆる競争原理が働いていたので慰安所の料金や慰安婦の報酬について軍が管理し過剰な競争原理を防いでいたようである。また性病の防止について慰安婦本人は勿論、軍では兵士が感染すれば戦力の喪失、また経営者にとっては信用を失う結果となるので慰安婦の健康管理に日本軍が責任を持つのは当たり前のことである。今でいうアイドルのような慰安婦が入所した場合日本軍の兵士は並んだそうであり、実家が裕福な兵士は借金を肩代わりするから結婚してくれとプロポーズされた慰安婦もいたようである。また生きて帰れないと悟った兵士は全ての金銭を慰安婦に渡し戦地に出撃した者もいた。そして慰安所の料金は現代の価値でいうと3万円で。当時の兵士は衣食住はかからないので仕送りをしていない限り月に3回~4回は通よえたそうで、妻や許嫁がいる兵士は操を立てて利用しなかった兵士もいたそうである、日本兵が皆慰安所に通いつめたようではない。今もそうだが若い兵士の場合いわゆる手コキだけでいっちゃう者もいて一晩に何人も相手させられたとの証言があるが、一晩で5人も相手にしていたら身体が持たず働く動機は親や親族の借金返済だから身体を壊しちゃもともこうもないので慰安婦も経営側も無理がないようにシフトを組んだはず。手コキでいったからもう一人お客をとるかなというのはあったと思います。恐らく現在80代の慰安婦は朝鮮戦争時の慰安婦と思われ、戦地慰安婦というのはほとんど亡くなったと思われる。まさに反日プロパカンダでの作り上げた慰安婦でありねつ造事例だ。そもそも朝鮮人強制連行説が初めて登場したのは1964年の朴慶植によって徴用や募集・斡旋が強制連行になってしまった。アジアで初開催の東京オリンピックが行われ翌年1965年には日韓基本条約が締結され当時の北朝鮮と朝鮮総連は相当のあせりがあったと思うので、全て自由意志ではないが1944年からの国民徴用令もあり、また騙されて働いたとこがいわゆるタコ部屋で当時は労働基準法もなく、戦地にいった日本人男性労働者を補うために多くの朝鮮人男性が日本企業に行ったことを私は否定はしないし、また労働環境が劣悪なこともたしかだと思うが人口が増えており、しかも赤紙が来ない朝鮮半島ではむしろ職を求めて日本に来たというケースだろう、1940年に今の高校サッカー選手権で神戸三中を4-0で下したソウルの普成中が優勝した。現在92歳の賀川浩氏がこの試合を観戦したレポートを見たがいわゆる在日朝鮮人の人達が大応援をしており、優勝した時は歓喜にスタンドが沸いたと書かれていた。強制連行で日本に来た人たちではなく普通に日本に来て郷土を応援していたのであろう。またハンドルネームがチンダラコッチさんという方は今は北朝鮮の新義州の旧制中学を卒業されその方の書き込みでは日本人も朝鮮人も分け隔てなく学校で学び北朝鮮での同窓会が開催され参加された。創氏改名は家族まかせで半数の朝鮮人は変えなかったと書かれていた。またクリスチャンのために神社への参拝は本人の意思だったそうだ。またハンドルネームは失念したが平壌で生まれた人で親が商売をしていたそうで家には朝鮮人の娘さん達が働いていて、ある一人の娘さんが父親の借金のために慰安婦にならざる得ない環境になりその方の母親が何度も娘さんの父親に思い留まるよう説得したが聞いてもらえず、最後の勤務の日みんなで泣いて送り出したという記述があった。そして配給の時は朝鮮人日本人分け隔てなく並んだというのである。このお三方は思想的にはリベラルであった。恐らく賀川浩さん以外は尊命されていないと思うが、強制連行が頻繁に行われていたとは到底思えない。日韓基本条約の成立に危機感を覚えた当時の総連によって流布され、当時のサヨク勢力が助長していったのだろうと思う。その後強制連行が独り歩きし吉田清治によって慰安婦の強制連行となりまた朝日新聞の誤報によって泥沼の問題へと発展していく。また北朝鮮では日本人強制連行説が戦後30年経って北朝鮮でも流布され拉致事件へと繋がっていくわけだ、日本人が戦前朝鮮人を拉致したという論理展開になりその報復だと当時の金正日は日本人拉致を正当化したのだろう。うそも100回言えば本当になるとの諺があるが、100回うそを言えば100回否定すればいいのだ。10年で500万人の人口が増えたというのは10年で北海道が出現したことになる。水が下に向かって流れるように人は生活のため上に流れていく。だから強制連行なんてしなくても必然的に人が集まったのだろうと思う。日本だってちょっと前までは援助交際という名で売春が今も行われているし、また自由恋愛なんて言葉もあった。売春は合法非合法にかかわらず世界的規模で存在する。元慰安婦とトランプ大統領を会わせる文大統領の国際センスを疑わらざるおえない。結論から言って朝鮮半島とかかわるとろくなことがない。これを歴史の教訓とすべきだろう。35年間で1200万人も人口増やしてごめんなさいだろう、35年間で東京都が朝鮮半島に出現したわけだからそれじゃ食料も足りなくなるし電気も働くとこさえなくなるよね。そうだ日本に行って頑張ろうじゃないのかな。ーーーーーーーーーーーーーーーーー私の意見ーーーーーーーーーーーーーー韓国のユン政権により、ノージャパンからゴージャパンに変わって来ている。処理水放出に反対している野党代表を韓国世論は冷めている。自由に情報を入手することが出来る韓国と徹底した情報制限を国家ぐるみでやってる中国・北朝鮮とは全く違う。中国の日本産海産物の禁輸は経済戦争と言っても過言ではない、日本は毅然として対応していけばいいのだ。
2023.09.06
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お気に入りに入れさせて頂いているケルンコンサートさんのブログ映画「パッチギ!」(監督:井筒和幸 2004年制作)で朝鮮学校生の葬儀において朝鮮人老人が日本人高校生を罵倒する件を検証 | 地を這う虫 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)朝日新聞 昭和34年(1959年)7月13日2面「大半、自由意思で居住 外務省、在日朝鮮人で発表 戦時徴用は245人」本文: 「在日朝鮮人の北朝鮮帰還をめぐって韓国側などで「在日朝鮮人の大半は戦時中に日本政府が強制労働をさせるためにつれてきたもので、いまでは不要になったため送還するのだ」との趣旨の中傷を行っているのに対し、外務省はこのほど「在日朝鮮人の引揚に関するいきさつ」について発表した。これによれば在日朝鮮人の総数は約六十一万人だが、このうち戦時中に徴用労務者として日本に来た者は二百四十五人にすぎないとされている。主な内容は次の通り。一、戦前(昭和十四年)に日本内地に住んでいた朝鮮人は約百万人で、終戦直前(昭和二十年)には約二百万人となった。増加した百万人のうち、七十万人は自分から進んで内地に職を求めてきた個別渡航者と、その間の出生によるものである。残りの三十万人は大部分、工鉱業、土木事業の募集に応じてきた者で、戦時中の国民徴用令による徴用労務者はごく少数である。また、国民徴用令は日本内地では昭和十四年七月に実施されたが、朝鮮への適用はさしひかえ昭和十九年九月に実施されており、朝鮮人徴用労務者が導入されたのは、翌年三月の下関-釜山間の運航が止まるまでのわずか七ヵ月間であった。一、終戦後、昭和二十年八月から翌年三月まで、希望者が政府の配船、個別引揚げで合計百四十万人が帰還したほか、北朝鮮へは昭和二十一年三月、連合国の指令に基く北朝鮮引揚計画で三百五十人が帰還するなど、終戦時までに在日していた者のうち七五%が帰還している。戦時中に来日した労務者、復員軍人、軍属などは日本内地になじみが薄いため終戦後、残留した者はごく少数である。現在、登録されている在日朝鮮人は総計六十一万人で、関係各省で来日の事情を調査した結果、戦時中に徴用労務者としてきた者は二百四十五人にすぎず、現在、日本に居住している者は犯罪者を除き、自由意思によって残留したものである。」ーーーーーーーーーーーー2009年7月4日の私の意見ーーーーーーーーーーーー先日70歳の人といわゆる朝鮮人強制連行の件でディスカッションとなった。彼は戦前幼少の頃、縄で繋がれた朝鮮人の人達を目撃したことから当時の政府が朝鮮半島で拉致し日本に連れて来られた人達だと信じていた。恐らく彼が目撃したのは、刑務所に服役していた人達だったはずで、いつの間にかその光景が朝鮮人とダブッタものと見られる、私が上記の資料を見せると何も答えることができなかった。たしかに当時は労働基準法とかもなかったから、いわゆるタコ部屋というのがあり、劣悪な労働環境だったことは否定しない、また戦後の混乱期に賃金が不払いとか、労働災害等で命を落とした朝鮮人の人達もいて、遺骨が返還されない人達もいる。しかし朝鮮半島で普通に暮らしている人達を拉致し、強制的に本土に連れて来てはいない。在日コリアンに聞いても強制的に連れて来られたという人は皆無である。結局はプロパガンダされたものであるということだ。まだ国民徴用ならわかるが、メディアが率先して強制連行なる造語は使用すべきではない。戦前の我が国に対する誤った価値観を一番有しているのが、終戦時幼少だった世代と団塊の世代だろう、いわゆる自虐的教育を受けてきた世代が日本国の中心となったから、戦前体制悪玉論一辺倒になったと思われる、これからの日本国の中心は昭和30年代以降生まれとなるから、是正していくものと思われる。メディアも脱却して欲しいものと願うばかりだ。いつまでも反日プロバガンダに染まっていては国益を損ねるからだ。日本国民は自負心を持つべきだ。ーーーーーーーーーーーーーー2023年9月4日私の意見ーーーーーーーーーーーーー韓国でもこの慰安婦強制連行説を取り上げることはなくなった。いわゆる反日ビジネスの欺瞞さが露呈した。また日本国内でも今や強制連行説で論陣を取り上げる者は絶滅危惧種になっている。今や私の世代が政府のマネージメントしている。私はケルンさんが取り上げた映画パッチギのように強制連行の記述とかは削除するか、書き換える必要がある。史実に基づかないのなら、想像のものであるとテロップを入れるべきだと思う。2014年12月23日朝日新聞は強制連行の記述を訂正した。因みに2017年12月2日 強制連行という名のねつ造強制連行という名のねつ造 | 日本版レコンキスタ宣言 旅立った孫と子孫への私の人生卒業論文 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)長谷直美ちゃん!! 病気に負けないで!!
2023.09.04
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北海道新聞より15日は終戦から78年。敗戦により、日本は約7年間にわたり米軍などに占領された。この間に米軍兵士と日本人女性の間に生まれた子は「GIベビー」と呼ばれ、親元で育てられず孤児になった子たちもいた。札幌生まれの「ベルさん」こと堤麗子さん(74)=東京都渋谷区=もその一人。児童養護施設で育ち、ストリッパーとなるなど波乱の人生を送った。半世紀以上捜し続けた母は、四半世紀前に米国で亡くなっていた。生前の母親の様子を知りたい。9月に渡米し、異父妹と初対面する。 「お互い苦労したね」「今も昔の面影があるね」。堤さんは6月、約半世紀ぶりに北広島市のカトリック系児童養護施設「天使の園」を訪れ、幼少期を共に過ごした卒園生と再会を果たし、涙した。施設に残された当時のアルバムを見て「子どものころのことが思い出される」と目を細めた。 敗戦後、米軍などの連合国軍が日本に進駐し、道内にも45年10月末時点で札幌や旭川など8都市に2万人以上が駐留した。任務を終えた米兵が日本人女性との間にできた子を日本に残して帰国し、そのまま連絡が取れなくなるケースは少なくなかった。 日本に残された子は「敵兵の子」として差別の対象になった。母親の家族の反対や、母親が育てたくても働かせてくれる場所がないなどの理由で養育困難となり、多くは孤児院などで育てられた。堤さんも49年5月に生まれてすぐ親元を離れ、2歳の時、天使の園に預けられた。洗礼名の「アネッタ」と呼ばれて育ち、一時は横浜の施設に移ったが、小学2年でまた戻った。 「いい子にしていたら迎えに来るよ」。小学4年のころ、母が一度だけ会いに来た。赤ん坊を抱いたきれいな人だった。しかし、その約束が果たされることはなかった。「どこにぶつけていいか分からない怒り」(堤さん)を常に抱え、学校に行かず、施設を逃げ出すこともあった。 18歳で施設を出て札幌の病院に住み込みで働いた後、ススキノのキャバレーに。「ベル」はその時の源氏名だ。23歳でストリッパーに転身。“外国人ストリッパー”として全国で人気を博した。徐々に拠点を東京に移し、36歳で引退した。 引退後は飲食店やホテルでアルバイトをして生活したが、厳しい現実が待ち受けていた。学校にほとんど行かなかったため、読み書きが苦手だった。「隣で誰かが話をしていても難しい単語が出ると内容が理解できない。地獄だった」 それでも友人に薦められ、「あいうえお」から勉強を始めた。区役所で紹介された夜間中学に50歳から3年半通った。卒業生代表でスピーチをするまで学びを深め、「人生が百八十度変わった。見返してやろうという気持ちもあったが、毎日が楽しかった」 この間、戸籍謄本の情報を頼りに何度も母親捜しを試みた。人捜しのテレビ番組に応募したこともあった。「死ぬまでに『どうして迎えに来なかったの』とお母さんに聞きたかった」昨年夏、友人で東京在住の小説家岡部えつさん(58)に自身の戸籍謄本を託した。岡部さんはGIベビーの父親を捜す団体の協力などを得て親族を捜し、60代の異父妹2人が米国にいることが判明。連絡を取ると、実母の幸子さんは98年に67歳で病死していた。 堤さんは9月、岡部さんと米国に行き、ノースカロライナ州にいる異父妹と会う。テレビ電話で話したことはあるが、直接会うのは初めて。「お母さんが幸せに暮らしていたのか、様子を聞いてみたい」と心待ちにする。 岡部さんは12月に堤さんの半生をまとめた「GIベビー、ベルさんの物語」を亜紀書房(東京)から出版する予定だ。岡部さんは「ベルさんが人生で唯一拭い去れなかった憂鬱(ゆううつ)がお母さんのことだった。思いも寄らぬ形で肉親が見つかり、対面できるのは奇跡的だ」と話す。(竹中達哉)-----------------------------私の意見-----------------------------------8月15日を終戦記念日と表することに私は断固反対の立場だ、しいていうのなら占領された屈辱の日ではないだろうか。堤さんの例は日本が今も民法に規定されている単独親権制度そのもののではないかと思う。屈辱の日から78年経過した。ロシアが一方的にウクライナ侵攻し、中国が台湾を恫喝している状態で尚防衛費2%はけしからん、敵地攻撃能力の保有など国論を二分する事柄なのかと。おめでたいにもほどがある。やったらやり返す倍返しの戦力を保有することが抑止力なのだ。戦力を保有したことでようやく五分の話し合いができるわけだ。日本を攻撃したら倍返しするけどいいのかになるこれが抑止力なのだ。竹下景子さん、セクシー画像
2023.08.15
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北海道新聞より第2次世界大戦末期の旧ソ連による対日参戦から9日で78年が過ぎた。侵攻したソ連軍の攻撃で当時、日本領だった南樺太(現ロシア・サハリン南部)では、数千人もの住民が犠牲となった。だが松野博一官房長官が6月の記者会見で沖縄を「唯一の地上戦があった地域」と述べるなど、不正確な理解は今も続く。高齢化で数少なくなった当事者たちは「悲惨な歴史が忘れられてはいけない」と訴える。 「商店街が燃え、跡形もなくなった」。樺太(現ロシア・サハリン)からの戦後引き揚げ者らでつくる全国樺太連盟(2021年解散)の元会長で、豊原(現ユジノサハリンスク)出身の西本美嗣さん(86)=札幌市西区=は78年前の光景を鮮明に覚えている。旧ソ連は1945年(昭和20年)8月9日、当時有効だった日ソ中立条約を無視して対日参戦した。旧満州(現中国東北地方)や千島列島へ侵攻し、樺太では北緯50度の国境線を越え、南樺太へ南下した。 日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏を発表してから1週間後の8月22日、当時8歳だった西本さんは3機のソ連軍機を目撃した。「偵察機かな」。直後に爆発音がとどろいた。ソ連軍の侵攻で、各地から緊急疎開した人たちが押し寄せていた豊原駅周辺に爆弾が落とされた。 豊原空襲では100人以上が死亡。南樺太各地で日ソ両軍の交戦が繰り広げられ、住民の集団自決が相次いだ。正確な犠牲者数は今も不明だが、南樺太からの緊急疎開船3隻が留萌沖合でソ連軍の潜水艦に攻撃され、約1700人が死亡した「三船遭難事件」を含めれば5千人を超えるとの見方もある。 だが、日本領だった南樺太で戦闘があったにもかかわらず、国内の地上戦について沖縄を「唯一」とする見解は戦後長く語られてきた。沖縄戦を説明するパンフレットなどのほか、国会質疑でも同様の表現が繰り返されてきた。 旧民主党政権時代の10年5月、衆院沖縄北方問題特別委員会で、同党の山岡達丸氏(現立憲民主党)が、沖縄を国内唯一の地上戦とする表現は不適切だと指摘。前原誠司沖縄北方担当相(当時)が「多くの尊い命が失われたという意味においては樺太戦も同様」と述べ、政府は11日後、「沖縄本島、その周辺のみで地上戦が行われたとする認識は必ずしも正確ではない」との答弁書を閣議決定した。この政府見解は現在も引き継がれているが、国会議事録によると、その後も閣僚や複数の与野党の議員が国会の質疑で少なくとも20回、沖縄が「唯一の地上戦」と発言。安倍晋三元首相(当時)も複数回の答弁で言及している。 松野氏は6月22日の記者会見で「唯一の地上戦」として沖縄を挙げ、同日午後の会見で発言を訂正。「手元に資料がなく、正確性を欠く表現となってしまった」と釈明した。第2次大戦を巡っては、硫黄島(東京都小笠原村)や北千島の占守島(シュムシュ島)でも、上陸してきた米軍やソ連軍との戦闘で日本軍人らに犠牲者が出ている。 西本さんは昨年2月に始まったロシアのウクライナ侵攻のニュースを見るたび、故郷を追われた自身の記憶と重なりつらくなるという。戦後80年まで、あと2年。樺太侵攻がいまだ認知されていない現状に危機感を募らせ、「戦争の史実を伝える努力をしてこなかった政治の責任が大きい」と強調した。(村上辰徳)■体験聞けるのはあと10年 どう継承 富田・成蹊大名誉教授 旧ソ連による南樺太侵攻などについて、成蹊大の富田武名誉教授(日ソ関係史)に聞いた。◇ 日本は1951年のサンフランシスコ平和条約で南樺太と千島列島を放棄した。一方、米軍施政下にあった沖縄では本土復帰運動が盛んになった。これが本土を巻き込む運動へと発展する中、沖縄戦が米軍基地問題と合わせて人々の間で語られてきた。沖縄戦に比べて南樺太侵攻が戦後ほとんど知られてこなかったのは、こうした背景の違いが一因と思われる。 戦後の平和教育でも、教科書で南樺太に関する記述はごくわずかだ。原爆が投下された広島や長崎、そして沖縄のように、若い世代が修学旅行の一環で現地を訪れ、平和を学ぶ機会もなかった。国会議員も戦争を知らない世代に交代しており、平和教育を十分に受けてきたとは言いがたい。 戦争を体験した当事者は、どんどん人数が減り今後10年が体験を聞ける最後の機会になるだろう。先の戦争の歴史を正しく理解するために、国や政治家だけでなく、私たちも記憶をどう継承していくか真剣に考える時が来ている。(聞き手・村上辰徳)真岡郵便電信局事件 - Wikipedia三船殉難事件 - Wikipedia-----------------------------私の意見----------------------------ロシアの対ウクライナ戦争も国際条約など無視して進行を開始した。自民党政権は北方領土問題があるから地上戦は沖縄だけにしたかったのだろうと思う。でも完全に対ロ関係は崩壊したわけだから、きちんと教えていく必要がある。因みに真岡郵便局の自死した女性職員は靖国神社に合祀されている。ベルリン陥落 1945 - Wikipediaまた樺太に居住していた多くの日本人女性がソ連兵によって辱めを受けたことも書いておく。ロシアによるウクライナ侵攻は対岸の火事ではないのだ、78年前に8月15日以降も戦争は終わらなかった。樺太で地上戦が行われた事実は日本人として忘れてはいけない。霧の火-樺太・真岡郵便局に散った9人の乙女たち-|日本テレビ (ntv.co.jp)映画氷雪の門
2023.08.10
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戦後復興の様子と、私が生まれた昭和30年代の展示がありました。いわゆる青空教室です。当時の学校給食です。パンと脱脂粉乳でした。小学生が研修で来ておりました。私の記憶ですが、私が5歳くらいまで、こういった井戸で水を汲んでいました。靖国神社参拝の後、遊就館と昭和館を行かれると日本の近代史がよく分かると思います。遊就館|靖國神社 (yasukuni.or.jp)昭和館 - 昭和館は、国民が経験した戦中・戦後の国民生活上の労苦を後世代に伝えるのを目的とした、東京都千代田区九段南にある日本の国立博物館です。実物資料の常設展示をはじめ、特別企画展や図書・映像・音響資料の閲覧事業を実施しています。 (showakan.go.jp)おまけ靖国神社の茶屋で食したソフトクリーム550円 4962ウォン、ソフトクリームは北海道で食べましょう(笑)茶屋では時給1200円で募集してました。最早都内は1200円以上ですね。奈々ちゃんファンサイトより拝借m(_ _)m 暑さに耐える!!
2023.07.30
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品川でのミッションを終えて永田町でのミッションまで時間があったので、靖国神社参拝の後昭和館に行ってきました。入場料65歳以上 360円 3248ウォン女子挺身隊の様子、朝日新聞がこの女子挺身隊を慰安婦として報道した。のちに撤回したが。私の母は終戦時12歳だったので軍需工場で働いてはいなかったが、叔母達は働かされた。母は既に今年90歳である。この女子挺身隊は尊命されていても92歳以上となる。収集令状赤紙昭和館 - 昭和館は、国民が経験した戦中・戦後の国民生活上の労苦を後世代に伝えるのを目的とした、東京都千代田区九段南にある日本の国立博物館です。実物資料の常設展示をはじめ、特別企画展や図書・映像・音響資料の閲覧事業を実施しています。 (showakan.go.jp)
2023.07.29
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林千勝ウィキペディアより林千勝 - Wikipediaチャンネル桜より 林千勝 「決断」今こそ今しかない尖閣に防衛施設を!!#shorts 歴史は繰り返す#チャンネル桜 #水島総 - YouTube-----------------------------私の意見---------------------------全く同意見、尖閣諸島の基地化は沖縄本島の基地負担を減らし、台湾・沖縄防衛の拠点になる。中国の海洋進出を止めることができるわけだ。尖閣諸島は日本の固有の領土である。今こそ尖閣諸島に米軍基地・自衛隊基地・更にクワッドの基地にすればいいのだ。
2023.05.22
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北海道新聞より【ソウル上家敬史】韓国政府は5日、韓国最高裁が日本企業に賠償を命じた元徴用工問題の解決策を6日午前(日本時間同)に正式発表する方針を固めた。複数の日韓外交筋が明らかにした。韓国政府傘下の財団が被告企業の賠償支払いを肩代わりする内容。2018年の最高裁判決後、極度に悪化した日韓関係は改善に向けて動きだすことになる。 元徴用工問題を巡っては、韓国最高裁が18年10月に日本製鉄(旧新日鉄住金)、同11月に三菱重工業に賠償を命じる判決を確定。日本政府は1965年の日韓請求権協定で個人の請求権問題は「解決済み」だとして強く反発し、両社も賠償に応じていない。このため両社の賠償は、14年に元徴用工や遺族を支援するために韓国政府などが設立した「日帝強制動員被害者支援財団」が寄付金を募って肩代わりする見通し。 また韓国の聯合ニュースによると、両社が会員企業となっている日本の経団連と韓国の全国経済人連合会(全経連)が基金を設立し、若者の交流活性化事業を行う計画も併せて発表予定。経済界としても関係改善を後押しする姿勢を打ち出す狙いとみられる。 日本政府は韓国の解決策発表を受け、植民地支配への反省やおわびを表明した過去の政府談話を継承する姿勢を示す見込み。早期の日韓首脳会談開催や19年に発動した対韓輸出規制強化措置の解除も検討している。 一方、一部の原告は被告企業による直接の賠償と謝罪を求めており、解決策への強い反発も予想される。---------------------------------私の意見-----------------------------反日が利権となってしまったので、私は完全解決はあり得ないと思う。本来なら1965年の日韓基本条約で竹島の領有権以外全て解決した問題なのだ。慰安婦問題に最初言い出したのは日本のサヨクなのだ、韓国政府はずっと1965年の韓日基本条約で解決済みとして、門前払いをしていたのに、日本のサヨクが吉田清治の捏造を錦の御旗にして、時の政府を指弾するというスタイルになってしまったのだ。それが河野談話・村山談話に繋がり、韓国のサヨクに反日はお金になると知らしめいわゆる反日利権が生まれることになった。そして歴史問題と絡めてくるようになったわけである。反省していないとか、36年植民地にしたではないかと、韓国では反日=票となっていった。安倍内閣で今の首相岸田さんが外相の時2015年に慰安婦合意が成されたが、韓国のサヨクである文前大統領によっていとも簡単にひっくり返され、しまいにはレーダー照射問題まで発生した。もし自衛隊機が中国の戦闘機にレーダー照射したら、即戦闘が始まる、いわゆる宣戦布告とみなされる行為なのだ。本来ならそこで断交となってもおかしくない案件である。そして今回の「応募工」である。戦後今年で78年経過したわけである。仮に1945年で18歳の人は現在96歳なのである。私からすると、既に当事者たる慰安婦・応募工は生存していないと思う。それと被害者とされる人の証明が成されていないわけだ。本人の口述だけである。日本軍にいわゆる軍人・軍属と言われた朝鮮の方は24万人いたわけで、1990年代はまだ尊命されていたのに、元日本兵だった人からの証言もない。恐らく本当のことを言ったとしても、握りつぶされたのだろうと思う。応募工に関しても強制的に集められたわけではなく、応募できたわけである。そして日本政府は未払い賃金も含めて、1965年に日韓基本条約として、韓国政府に北朝鮮の分も含めて支払ったわけだ、お札を刷って渡したわけではなく、先人たちが額に汗し納税したお金で且つ12年間も日韓の関係者が膝を突き合わせてまとめたもので日本は朝鮮半島においてきた資産を放棄したわけだ。それを文前大統領の時に反故にされたわけだ。これでも日本が悪いのだろうか。ふざけるなになるのではないだろうか。また徴用というのは1944年9月から1945年3月までの7ヶ月間である。既に戦局が悪化しているわけだ。私は徴用工でなく、正しくは応募工なのだ。応募工問題がどう解決しようが、反日利権が存在し、韓国のサヨクと日本のサヨクの共同政権指弾反日事業は2世・3世となって出てくるものと思う。サヨクは無視でいいのだ。勝手に吠えていろなのだ。相手にするなと私は強く言いたい。韓国人の一番人気の国は日本なんです。先日札幌に行ったら韓国人旅行客がたくさんいました。韓国人全てが反日ではありません。反日者はむしろマィノリティの存在です、声が大きいだけです。日本のサヨクと同じです。因みに私はソンユンとゴンヒのファンですし、KARAもファンです。政治と国民感情は別です。1965年の日韓基本条約で恨みっこなしよになった筈なのです。反日利権になってしまったことが残念でなりません。韓国の国花は木槿です。花言葉は「信念」です。
2023.03.06
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貴方のウクライナへの特別軍事作戦から今日で1年経ちましたね。GDPで-2.1%とのことですが、これ普通の国家なら、政権交代起きてますよ。恐らく貴方の仮説は短期でウクナイナ全土を掌握し少なくともGDP5%程度伸ばすおつもりだったのでしょう。全くあてがハズレましたね。かつて大日本帝国も、戦況が不利になり学徒動員という学生を戦地に送り込んだのです。帝国大学は勿論私大生まで兵士にしました。将来の日本を背負って立つ人たちでもありました。学徒出陣 - Wikipedia私の叔父もその一人でした。良く生きて帰れた、戦地で何度も死にかけたと言っておりました。しまいには少年まで駆り出されました。その戦地で兵士達によって歌われ逆に本土で流行したひとつの歌があります。1940年に創られました。でもこの歌は戦意が喪失するということで戦地で歌うことは禁止されました。でも故郷を想う精神はロシア兵の人たちにも共通するものと思います。皆平和を願っているのではありませんか。戦闘なんかやりたくもないのではないですか。また貴方の国シベリアに抑留された兵士が歌った、異国の丘という歌があります。友達に思いを馳せた、耐えて頑張れという歌です。私の母方の叔父は4年強シベリアに抑留されました。祖父母は戦死したものと諦めていたそうです。それが生きて帰ってこれたのです。母も含めて皆で嬉しく泣いたそうです。貴方もご存知の通り、大日本帝国は東京・大阪大空襲・沖縄戦そして2発の原爆投下により敗戦となりました。でも戦闘は終わっても家族にとっては終わっていなかったのです。ずっと息子の帰りを待っていた母親の心情を歌った歌があります。強く日本人の心に響き、戦争の愚かさを訴えた歌でもあります。ロシア兵にもお母さんがいるでしょう。貴方にもお母さんがいるのではないですか?そして貴方が特別軍事作戦として侵攻している国ウクライナの国花はひまわりです。戦争の悲惨さを描いたひまわりです。兵士にも未来はあるんです。ロシア兵の未来を奪っちゃいけない。貴方が打ち方止めーと言えば終わりなんです。対立ではなく共存共栄できる道があるはずです。なかったら道を作ればいいんです。戦争から生まれるものは悲劇しかないのです。最後に映画ひまわりのメロディーを送ります。
2023.02.24
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船舶設計技術者播田 安弘さんのコラムよりYASUHIRO HARITA1941年徳島県生まれ。父は造船所経営、母の実家は江戸時代から続く船大工「播磨屋」の棟梁。艦艇の設計を夢見て三井造船(当時)に入社、大型船から特殊船までの基本計画を担当、半潜水型水中展望船、流氷砕氷船「ガリンコ号2」、東京商船大学(当時)のハイテク観測交通艇などを開発、主任設計。東海大学海洋工学部で非常勤講師を8年間務め、この間、2008年、日本初の水陸両用バス「LEGEND零ONE号」の船舶部分を設計。定年後は船の3Dイラストレーションを製作する「SHIP 3D Design 播磨屋」を主宰。2019年公開の映画『アルキメデスの大戦』では製図 を担当、戦艦の図面をすべて手描きで作成。「黒船」が日本にきたとき、実は「ペリー」もまた「驚愕」していた…彼が「日本人」について語った「驚くべき内容」(播田 安弘) | ブルーバックス | 講談社(1/3) (gendai.media)第二の大航海時代の到来16世紀の世界を一変させた大航海時代に、西欧列強に対し、うかつに手を出すと痛い目にあうことを見せつけて植民地化を免れた「ジパング」こと日本は、やがて港のほとんどをみずから閉ざします。豊臣政権を倒して日本の支配者となった徳川家康が開いた江戸幕府が、ごく一部の国を除いて出入りを禁じる鎖国政策を採ったからです。そして日本は、250年にもおよぶ泰平の眠りにつきます。一国の平和な状態がこれほど長く続いたことは、世界にもほとんど例がありません。内政が安定していたのもさることながら、外からの侵攻がなかったことがその大きな要因でしょう。化学反応や熟成、発酵には長く安定した時間が必要です。その時間を与えられた江戸時代の日本では、さまざまなものが育ちました。それらを総称して「文化」というなら、江戸時代の日本の文化は世界でもかなり高い水準にあったことが、近年の研究でわかってきています。泰平の眠りから起こされた日本を救ったのは結局、それらの文化だったのではないでしょうか。この間に世界では、スペインが没落し、かわって英国が7つの海を支配するといわれた巨大な海洋帝国を築いていました。世界の植民地から英国が収奪した富は、莫大な量にのぼりました。大英博物館やルーブル美術館の展示品を見れば、いかに世界から多くの宝物が集まったかがわかります。エジプトなどは現在、持ち去られた出土品の返還を求める交渉をしています。富が蓄積されると、国内では社会や経済が発展し、人口が増え、物品の需要が増大します。18世紀の英国ではとくに、インドの綿製品の人気が高まりました。そこで需要に追いつくため生産力を上げようと、それまでの手織りの紡績機に代わって、水力を利用した機械紡績機が開発されました。それでも足りず、カートライトが蒸気で駆動する機械紡績機を開発します。そして1769年、ワットが従来の蒸気式機械から復水器(コンデンサー)を独立させることでエネルギー効率を飛躍的に向上させた、本格的な蒸気機関を発明します。ワット式蒸気機関は燃料を75%も節約することができました。蒸気機関は鉱山の排水ポンプに使われ、さらに汽車にも使用されて、生産や移動にかかる負担を劇的に減らしました。その結果、企業の収益は急伸長し、各種の大工場が建設され、たくさんの労働者が働き、労働者たちとその家族が住む家が立ち並び、英国各地に新しい工業都市が生まれました。こうして世界で初めて起こった蒸気機関による社会変革が「産業革命」ですが、その原動力は、海洋支配によって得た多くの植民地からの富だったのです。英国で起こった革命の波は、やがて当時の先進国だったフランス、ドイツ、米国にもおよびます。同様に工業を発展させたこれらの国も、安い原料を輸入し、大量生産した製品を輸出できる貿易の相手を求めて、次々と海に出ていきました。それは産業革命による第二の大航海時代の到来ともいえました。しかしその貿易の実態は、軍艦と大砲による強力な軍事力を背景に、アフリカ、アジア、アラブ、南米諸国などの技術力が未発達な国々を服従させるもので、「砲艦外交」とも呼ばれています。19世紀になると、欧米の列強各国の矛先は東南アジアに向かいます。1842年には、英国が清(当時の中国)との阿片戦争に勝利して、租借地を獲得しました。インド、ビルマ(現ミャンマー)、シャム、タイも英国領または支配地域となり、インドシナ地域はフランス領、フィリピンは米国領、清は約20%が英国、フランス、ロシア、ドイツの領地あるいは支配地域となりました。日本を除くアジア諸国のほとんどが支配下におかれていったのです。ペリーには、長い歴史をもつ閉ざされた神秘の国の扉を最初に開けるのは、新興国の米国でありたいという強い意識があったようです。日本についての資料を読み込んで研究した彼は、幕府を開国させるには毅然とした態度で圧力をかけることが必要であると確信し、多数の新式大砲を備え、防水・腐食のためのタールを黒々と塗った「サスケハナ」を旗艦とする大型蒸気船をそろえて視覚的にも威圧感を強めたのです。この「黒船」作戦が奏功し、日本は200年以上も閉ざしていた港を開かざるをえませんでした。ただし、この初めての日米両国の接触で驚いたのは日本人ばかりではなかったようです。ペリーの日本来航時のエピソードをまとめた『日本遠征関連逸話集』(在NY日本国総領事館のウェブサイト)によれば、ペリーは寺子屋や藩校などで学ぶ日本人の教育水準の高さや、職人の腕のよさ、礼節を尊ぶ国民性に感嘆しています。そして中国や他の東洋諸国では女性が夫の従属物のように扱われ無知の中に放置されているのに対し、日本女性は夫の伴侶であり、教育や品位があるとし、既婚女性のお歯黒は奇異ではあるが一夫多妻制もない日本は、道徳や規範において東洋諸国のなかで異質であると、好感を表しています。とくにペリーは日本人が潜在的にもっている技術力の高さを見いだし、こう述べています。「日本人は非常な精巧さと緻密さを示している。そして彼等の道具の粗末さ、機械に対する知識の不完全さを考慮するとき、彼等の手工業上の技術の完全なことはすばらしいもののようである。日本の手工業者は世界におけるいかなる手工業者にも劣らず熟練して精通しており、国民の発明力をもっと自由に発達させるならば、日本人は最も成功している工業国民にいつまでも劣ってはいないことだろう。他の国民の物質的進歩の成果を学ぶ彼等の好奇心、それらを自らの使用にあてる敏速さによって、日本国民と他国民との交通から孤立させている政府の排外政策の程度が緩和されるならば、彼等はまもなく最も発達した国々の水準まで達するだろう。日本人が一度文明世界の過去及び現在の技能を所有したならば、強力な競争者として、将来の機械工業の成功を目指す競争に加わるだろう」この言葉がやがて、現実のものとなっていくのです。さらに連載記事<なぜ「日本」は「世界一の鉄砲大国」に? その「意外な要因」>では、戦国時代の日本の「凄すぎる技術」について解説します。-----------------------------私の意見-------------------------------台湾・朝鮮半島を併合した時、時の日本政府は各地に学校を建てました。最高学府である旧帝国大学は、最初に東大・京都大・東北大学・九州大学・北海道大学を開校し、大阪大学・名古屋大学よりも先に、ソウル大学と台北大学を建て開校したわけで、日本人は技術力は人の教育ということに重点をおいてたわけだ。私は日本の教育システムこそが技術力の伝承になっていると思う。人間には人間らしい仕事をさせよだと思います。Commodore Matthew Calbraith Perry - マシュー・ペリー - Wikipedia
2023.02.13
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飛行機が夕方の便だったので、浅草寺に行ってきました。平日にもかかわらずすごい人、やはり北京語が聞こえてくるので、チャイナさんが多い、世界各地からという感じである最早武漢肺炎はただの風邪になている。ただマスクをつけているだけだ。武漢肺炎前に戻ったと言っても過言ではないと思う。日本経済の明るい兆しと言える。続いて皇居へ、浅草寺とは違い、閑散としていた。桜の花が咲いていた、この季節北海道の路地で花を見ることはまずない。羽田空港へ極寒の釧路へ帰ります。まだまだ本州にスティしたいのだけど、業務多忙につき戻らないといけない、つかの間の感傷に浸る、羽田空港の私の勝手なイメージ。
2023.01.22
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次の日午前中平河町にオフィスのあるクライアント様と今年の打ち合わせ終了後陳建一さんの四川飯店でランチをご馳走になった。開店前から既に行列、ずっと行列が続いていた。さすがのクオリティ美味しゅうございました。赤坂 | 四川飯店 (sisen.jp)これだけ食べたので(笑)徒歩で九段下の靖国神社へ、昨年9月安倍さんの国葬の際に立ち寄ったが、あまりにも多い行列で諦めた、今年は月曜日の午後ということもあり簡裁としていた。石版に刻まれた奥様に宛てた遺書がある。今回遊就館には行ってませんが、靖国で会おうと誓い合い、家族に宛てた遺書を読むたびに涙が溢れます。英霊の御霊に手を合わせることが何故軍国主義になるのか私には理解できません。命を賭して日本を守ろうとした先人たちに感謝こそすれ、批難の対象にすらなりません。これから桜の季節靖国神社の桜も満開になります。英霊よ安らかに。。。。茨城県の娘の家へ、孫との時間を私は子孫に何を残せるかだ。
2023.01.21
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続いて那須塩原市の乃木神社へ乃木神社 - Wikipedia先日立憲民主党代表の泉さんが京都の乃木神社を参拝したことが騒ぎとなったが、乃木神社は全国に点在しており、北海道函館市にもある。那須塩原市の乃木神社は夫人の縁の地なのだ。乃木将軍は背が低い人だったらしい。池があり鴨がいた。番外那須塩原市の日帰り温泉千本松温泉、ここの湯はお肌がすべすべになる。上司が割引券を持っていたので600円 5701ウォン 露天風呂に洗い場がある。私の知る限り外に洗い場があるのはここだけかな?千本松温泉|那須千本松牧場 (senbonmatsu.com)軍神を参拝し、千本松温泉で身を清め、今年は平穏無事に過ごせますように。
2023.01.21
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土曜日は朝からマージャンで、日曜日福島県白河市へ南湖神社へ連れて行ってもらった。南湖神社 - 検索 (bing.com)この神社は江戸時代における経済通の松平定信が御祭神である。松平定信 - Wikipedia松平定信は公金貸付等、現代の金融緩和に繋がる政策を実行した人でもある。南湖神社のお団子旨い!! 400円 3837ウォン早めのランチ白河ラーメンの大葉ラーメン850円 8154ウォン 大葉をラーメンに入れる発想は北海道ではない、でもあっさりして旨い。手打ちの麺がいい。続いて白河小峰城へ白河小峰城 - Wikipediaここは戊辰戦争の激戦地で消失してしまったところ、日本も内戦を経て近代化したわけだ。お城の中は無料で拝観できます。戊辰戦争 - Wikipedia
2023.01.20
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ライブドアニュースより立憲・泉健太代表が憤慨 乃木神社参拝に「軍国主義者ではない」 - ライブドアニュース (livedoor.com) 立憲民主党の泉健太代表が4日、ツイッターを更新。正月早々、炎上した件について言及した。 京都3区が地元の泉氏は1日のツイートで乃木神社の写真を添付していた。初詣の報告と思われるが、乃木神社が明治時代の陸軍大将、乃木希典をまつった神社だけに「軍神賛美はダメです」「なぜ乃木神社なのですか」と批判的な書き込みが殺到していた。 泉氏が訪れた乃木神社は京都市伏見区にあるものだと思われる。批判に対して泉氏は「近所の神社で国家繁栄、家内安全を祈ることが『軍人を神と崇める行為』とされるとは…」と困惑のツイートをしていた。 さらに、「私は過去の歴史に学ぶし、教訓にもする。乃木神社創建の経緯もある程度は知っている。でも当然だが、軍国主義者ではない。本当に失礼な話」と憤慨した。 それでも批判の書き込みは続いている。1953年-------------------------私の意見-------------------------私は立憲民主党を支持していないが、泉代表の参拝を強く支持する。何が軍神賛美だ、先人たちは命をかけてこの祖国を守ってきた。乃木希典 - Wikipedia既に戦後今年で78年経過しているんだ。今を生きる私達は未だに戦争責任があるのか、バカを言うなだ。神社に参拝することのどこが悪いのか、鉄砲担いで行ってるわけでもない、平和を祈願しに行ってるのではないか、いわゆる無病息災を祈っているのではないか。泉代表を批難する人たちが逆に日本人を冷酷無比にしていると私は思う。そもそも明治天皇が建てた靖国神社に天皇陛下と国家最高責任者たる内閣総理大臣が自由に行けないことの方がどうかしている。中国が怖いからなのかA級戦犯が祀られているからか冗談じゃない、戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議 - WikipediaA級戦犯 - Wikipedia国会決議というものは内政干渉されたら撤回してもいいものなのか?日本の領海侵犯を繰り返す中国が怖いからか、竹島を実効支配している韓国も怖いからか、核兵器を持ってる北朝鮮が怖いからか違うだろうよ。天皇陛下と総理大臣が自由に行けない場所があること自体問題だろって。それを日本人が批難するとは私は狂っているとしか思えない。靖国神社には日本人だけではなく、朝鮮半島出身者や台湾出身者も祀られている、祀られている人達の中には遺骨さえない人もいる。靖国で会おうと命を賭して国に捧げたわけだ。日本人がどのような方法で慰霊刷るかは日本人が決めることであって内政干渉されるべき問題ではないはずだ。泉代表を批難する人たちの精神構造を私には理解できない。日本人やめたらと言いたくなる。私は8月15日に拘らなくてもいいから、天皇陛下と総理大臣とで一緒に靖国神社に参拝して欲しいと願う。安らかにである。海で沈没し戦死した人のお墓や骨堂に遺骨がないのだ、生前使用していた服やクシを遺骨かわりにしている。だからこそ魂が宿る靖国神社なのだ。
2023.01.08
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草の実堂サイトより浮気・不倫は当たり前? 江戸庶民の性生活 【夜這い文化、女性の初体験】 - 草の実堂 (kusanomido.com)江戸時代は現代に比べると、性に関してかなりオープンな時代であった。江戸の庶民の人々は、どのような性生活を送っていたのだろうか。お金がある男女のデート予算に余裕がある男女の場合、家以外でデートしたい時は「出会茶屋」に行くことが多かった。出会茶屋とは男女が密会に利用した貸席のことで、現代のラブホテルのようなものであった。建物は2階建ての数寄屋造りが一般的であり、健全交際の男女よりも不倫カップルが利用するケースが多かった。そのため、緊急脱出用の裏口を設けてあるのが定番であった。当時の不義密通はバレたら殺されてもおかしくない重罪であった。こうした事情で表向きは「茶屋」「料理処」という看板を掲げてカモフラージュしていたのである。出会茶屋の料金は現代価格で換算すると2人で15000円〜20000円くらいとやや高めで、軽食もついていた。現代のラブホテルのようにご休憩とご宿泊の概念があったのかは不明である。この出会茶屋が建ち並ぶ有名なスポットが上野・不忍池であり、「蓮茶屋」や「池の茶屋」とも呼ばれ、部屋から不忍池に浮かぶ蓮を眺めることが出来た。また河原の遊覧船で行為をするものもあった。一般庶民のデート一方で、一般庶民のデート場所はというと、どこでもありであった。蔵の中や物陰は当たり前、縁の下でも行われていた。他にも人が住んでいない空き家でも行われていたが、空き家デートでは大家さんにバレることもあり、リスクが大きかった。お金が無い一般庶民の男女は野外での行為も当たり前だった。また、一般庶民の住まいは壁の薄い長屋や実家だったりと、様々な事情からデートの場所が限られていた。そのためナンパやデートの際には、物陰や草むらの中等で行為に及ぶ男女が比較的多かった。そして男女の行為は着衣のまま行うのが一般的で、体への愛撫には時間をかけずに、それよりも「回数」が大事という価値観であった。さらに江戸の男性達は女性の胸にも関心が薄く、今ほど性的な象徴でも無かった。また、江戸時代は男女混浴だったため、銭湯も立派なデートスポットであった。カップルで無くても薄暗い浴槽の中で女性の体を触る男性も存在し、そのようなことが頻繁にあったため、風紀が乱れるという理由で1791年の寛政の改革で男女混浴が禁止された。他にもデートスポットとして季節ごとのイベントである花見や蛍狩もあった。当時は芝居などの娯楽もあったが、お金がかかってしまう。しかし男女のそれなら出会茶屋等を除けば、身近で刺激を受けられる庶民の最高の娯楽であった。夜這い文化江戸時代の性文化で代表的なものに「夜這い」がある。夜這いは農村部で江戸〜近代まで長く続いたもので、もちろん双方の合意のもとで行われた。事前に男性側が女性側に「今夜行く」ということを知らせておく場合もあった。当然女性には拒否権があり、今と同じく女性に強引に迫ったりすると罰せられたり、集落内で村八分にあったりした。周りにいる他の人々は危ない男から女性を守るために目を光らせていた。また、正しい夜這いのシステムは、若い男性への性指南や未婚率の低下にも役立った。男性は年上の女性に手ほどきを受けて自信をつけ、好意を持っている女性との交際や行為のために備えていた。江戸時代には恋愛や性事情に関する沢山のマニュアル本があった。また娘に春画を持たせ、嫁入り前の性教育に利用したという話もある。恋愛指南本、性 行為の指南本まで出版されており、人々はナンパから行為までの内容について、これらの本を参考にしていた。女性の初体験について江戸時代、結婚の適齢期は15、16歳とされていた。そのような時代背景から、それ以前に初体験を済ませている女性が多かったとされる。現代でも結婚するまで行為を頑なに拒否する女性は少数なので、現代の価値観に近い。これが明治時代以降になると、西洋諸国の文化やキリスト教の教えを積極的に取り入れ始め「女性は皆、結婚するまで純潔を守るもの」という考えが浸透していった。江戸時代の女性は「処女である」ことがそれほど重要とは考えておらず、むしろ沢山の異性と関係を持ち、男性のことを熟知しておきなさいという程の風潮や文化があった。デートと性 行為はほぼ同じことであり、そして男性の理想の女性として「おおらかで一緒に行為を楽しめる女性」ということが求められた。むしろ沢山の異性と関係を持ち、男性のことを熟知しておきなさいという程の風潮や文化があった。デートと性 行為はほぼ同じことであり、そして男性の理想の女性として「おおらかで一緒に行為を楽しめる女性」ということが求められた。当時の江戸の男女比はおおよそ2対1で、女性は男性達から引っ張りだこであった。そのためデートも性交渉も基本的に主導権を握っていたのは女性であり、現代の女性よりも積極的であった。ただしこれは庶民の女性のことであり、豪商家庭や武家の女性になると違う。武家の女性たちは一家の血筋を政治的に繋げていく役目があり、婚前交渉などはリスクがあり出来なかった。ほとんど自由は無く、初体験も婚約者である場合が多かった。大胆すぎる夫婦の性生活江戸時代の性生活・夫婦の営みは「見られても聞こえても気にしない」というものであった。一般庶民の住まいと言えば長屋だが、壁は薄く行為の際の声や音が筒抜けであった。長屋は現代のワンルームマンションほどの広さで、そこに家族一同で住んでいた。そうなると性生活において、隣や外に声がもれたり聞かれたりしても特に気にしない夫婦が多かった。その傾向は熟年夫婦に多かったという。子供がいる家庭では、寝ている子供の横で行為に及ぶこともあり、その様子が春画に描かれているものもある。さらに江戸時代には妻の浮気が当たり前のように行われており、「不倫は死刑、不倫された側は配偶者や不倫相手を亡き者にしても不問」という厳しい法があったにも関わらず、不倫自体が当たり前のように行われていた。当時は専業主婦がほとんどで家事にかける時間も現代より短く、夫が留守の時にその辺の男性を引っ張り込んだり、ナンパについて行くこともよくあった。夫は妻の浮気や不倫が分かっていても、自分が好きになった妻が罪に問われることが嫌なため、知らないふりをして夫婦生活を続けるパターンが多かった。また、江戸時代の夫婦生活の楽しみの1つに、パートナーの交換が行われていた。2組の夫婦がお互いのパートナーを交換するスワッピングである。乱交に近いものも行われていたという記録も残っている。現代の視点から見ると、当時の性事情がこれほどにオープンだったことは驚きだが、江戸の庶民にとっては1つの娯楽として楽しんでいたことが分かる。--------------------------------私の意見-----------------------------性 行為をつなげると公序違反で拒否されます(笑)江戸時代には偉大な作家井原西鶴先生の好色一代男という小説もあったくらいですから。井原西鶴 - Wikipedia同伴喫茶やラブホの原型があったことも驚いた。所詮今の世も男と女しかいないわけで、婚姻率と特殊出生率が上がることを期待する。もしタイムマシーンがあったら混浴禁止前の銭湯に行ってみたい(笑)
2022.12.23
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北海道新聞より<デジタル発>「自粛警察」戦時下もいた? 日米開戦前の新聞投書から読む世相:北海道新聞 どうしん電子版 (hokkaido-np.co.jp)不心得(ふこころえ)者は豚に食われてしまえ―。感情的でとげとげしい言葉は、戦争へ向かう社会の空気感を映しているのだろうか。81年前、1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦に至る時期の新聞投書欄には、日中戦争が続く言論統制下とはいえ非常時を強調し、戦争に非協力的な人々を攻撃する主張が頻繁に掲載された。開戦の日までの3年間の北海タイムス(北海道新聞の前身の一つ)の投書欄「金声玉振(きんせいぎょくしん)」から、当時の人たちの心情を探った。(くらし報道部 井上雄一)(※投書の文言は読みやすさを考慮し、一部言い換えています)「デパートで身の回りの品をあさる暇があっても、国民の覚悟の声を聞こうとしない女性たちの心が悲しい」。開戦前日の1941年12月7日付紙面に掲載された投書だ。増税を前に札幌の商店やデパートには大勢の人が殺到し、中には大量の化粧品を買い占めた女性がいたと記し「今日の世に処する国民的熱意とか、愛国心とかの持ち合わせがない」と嘆いた。 1937年7月、中国・盧溝橋付近での日中両軍の衝突から始まった中国との戦争は泥沼化していく。政府は巨額の軍事予算を編成し、資金や資材が軍需産業に優先的に回される一方、不要不急の民生品の生産は制限された。1940年7月7日にはぜいたく品の製造、販売を禁止する「奢侈(しゃし)品等製造販売制限規則」(通称七・七禁令)が施行されたほか、砂糖などは切符がなければ購入できず、1941年には米も配給制となった。 生活必需品さえ手に入りづらくなり、国民生活が厳しくなっていくこの時期、金声玉振には「非常時」「この時局」といった言葉が多数登場する。「世間にはまだ時々たばこが不足だ、酒がない、物の配給がどうなどとささいな事に非常時国民らしくもない苦情を見聞する」(1941年5月31日)といったものだ。この難局を乗り切るために国民が結束すべきなのに、それを理解していない人がいる―。そんな怒りやいら立ちを含んだ投書は、日米開戦の2年前にすでに登場していた。 1939年3月の投書は、夜の歓楽街では送迎用の車が横付けされることや、近くの市場に買い物に行く際に車を使う女性がいることを挙げ、過激な言葉で怒りをあらわにしている。「国家がガソリン統制に苦心している非常時局だ、こういう徒輩はまさに国賊だ、このような不心得者は豚に食われて死んでしまえだ」 女性のファッションに注がれる視線も厳しかった。街でパーマやウエーブをよく見かけるという女性は1939年2月の投書で「何のためにあんな頭をしていなければならないのでしょう、この非常時に」と嘆き、若者だけでなく40代でも同様の髪形をしている人がいるのを見ると、寂しい気持ちになると記した。「あの髪かたちは人々の気持ちがまだまだ引き締まっていない証拠だと思います」女性が接待するカフェーなどへの風当たりは、さらにきつかった。営業時間短縮や一時休業を求めるのはまだ穏当な方で、1940年12月の投書は「国家艱難(かんなん)の非常時局下」になぜカフェーや酒場などの享楽街が繁盛するのか、このような歓楽街は「忌まわしい退廃的精神の巣窟であり、国民生活かく乱の根源地であり、嘆ずべき一大消費の場所」と非難し、最後は享楽街を「閉鎖せよ」「撲滅せよ」とトーンを上げる。 なぜこれほど攻撃的な主張になるのか。日本社会の同調圧力に詳しい九州工業大名誉教授で、評論家の佐藤直樹さん(世間学・刑事法学)は「非常時になると、日本人がもともと持っていたマインド(心理的特性)が一気に噴き出す」と指摘する。 佐藤さんは、日本では幼少の頃から学校や家庭で「人に迷惑をかけてはいけない」と言われ続け、その社会は「法ではなく世間(周囲の目)に支配されている」と指摘する。世間には「みんな同じ」という暗黙のルールがあり、非常時にもかかわらずカフェーに行くなど、他の人がやっていないことをする、いわば「ルール」を守っていない人に対しては「何をしてもいい」と思いがちだという。「新型コロナウイルスの流行で営業自粛の要請期間中に営業していた飲食店やパチンコ店が、『自粛警察』の人たちに嫌がらせを受けたのと同じで、戦時中も今も基本的な構図は変わっていない」■物不足で悲痛な訴え、それでも戦争には反対せず 非常時の緊張を求める投書とともにこの時期に目立つのが、物資不足など生活苦を訴える内容だった。「釧路で卵や豆腐の値段があがり、警察が注目しているらしいが、鬼志別(宗谷管内猿払村)ではもっと高くなっている。警察には地方でも取り締まりを徹底してほしい」(1939年9月19日)、「子供に飲ませるミルクの配給がない」(40年11月23日)…。政府は砂糖などの購入を切符制にするなど経済統制を強化したが、切符を持っていてもモノを買えないことは少なくなかった。1940年2月の投書の男性は、冬の生活に欠かせない石炭の配給が不公平だと訴える。まだ星が出ている明け方に買いに行っても手に入らないのに、市中では石炭を満載した馬車が往復していると怒りをあらわにする。「時局を考え、ばか正直に配布された切符を持って、釣り銭の必要のないまでに注意をはらい、子供たちのために炭を買い出しに行く衷情(ちゅうじょう=うそや偽りのない心)を当局は何と見るか」「われわれは聖人ではないゆえ、腹が立って仕方がない」物資が不足すれば、買い手の弱みにつけ込み高値で販売する闇商売が横行する。政府は物価高騰対策として1939年、9月時点の価格を上限にして値上がりを禁止する価格統制令を出すが、1940年4月の投書は、米やしょうゆ、魚、野菜に至るまで驚くほど値上がりしていて、数倍に上がっているものもあると記す。子供の学用品や通学服までもが何倍にもなっているとし、価格統制令が守られず「闇(商売)の多いことは立法国としての汚辱」と政府の対応不足に不満をにじませた。 しかし、これほど生活に苦しんでいる国民が、その原因となっている戦争について、否定的に言及した投書は見当たらない。 1931年の満州事変以降、新聞各紙は中国との戦争を大きく報じて部数を伸ばした。その後、中国を支援する米英との緊張が高まる中、盛んに危機をあおっていた。同時に1938年施行の国家総動員法は、政府が記事の掲載を制限、禁止できると規定していた。学習院大教授の井上寿一さん(日本政治外交史)は、「新聞紙面に反戦的な言葉がないのは、(当局からのペナルティーを恐れた)新聞社側が自主規制した可能性がある」と指摘する。 井上さんは、当時の日本は中国の主要な拠点を占領しており、多くの国民は「勝っている戦争」と認識し、日本の領土内での戦争でもなかったため、直接的な戦争の実感に乏しかったとも説明する。 その上で、井上さんはこうも指摘した。「『ぜいたくは敵だ』という言葉が示すように、戦争では格差社会の中で貧困層が富裕層を下に引きずり降ろすことで平等にするという下方平準化の力が働く。多くの国民は、戦争が格差を是正することに期待したから(戦争に対する反対論が起こらなかった)とも考えられる」■「いくら非常時でも」、小さな違和感にじませ 非常時の緊張感や生活苦の改善を求める内容が多い中で、戦争協力が強化されていくことに違和感をにじませた投書もあった。 日米開戦約9カ月前の1941年3月上旬、「ここに閑地(=空き地)あり」と題する投書が載った。食糧増産のため札幌・大通公園にジャガイモを植えてはどうかと提案する内容だったが、3月下旬に反論の投書が掲載される。 大通公園や中島公園は市民の保健上最も大切な場所であり、「いかに未曽有の非常時であっても、われわれは明日の奮闘勉励のために最小限度の休養を必要とする」と訴えた。他にもたくさんの空き地があるのに、市民が日光浴や休息に使っている公園を畑にして芝生を全滅させることは、「暴挙」「軽挙劣策」と批判した。 約1カ月後にも、同じような投書が載った。札幌中心部にあり、市民の保養地として全国に知られる公園を畑にしていいのか。市民の保養や市の美観を失って、どれだけの作物が採れるのかも分からない。しかし、これらの声は届かず、大通公園は畑になり、イモや大根などが植えられた。戦時体制の強化は、子供たちにも波及した。鉄道が兵員や軍事物資を優先的に輸送するようになっていたため、文部省(当時)は1940年6月、修学旅行の制限を全国に通知。その後、児童生徒や教員の団体旅行の鉄道運賃の割引も停止になった。道内でも多くの学校で修学旅行が中止になった。 日米開戦半年前の1941年6月、「修学旅行復活論」と題した投書が掲載された。投書した男性は、修学旅行を今でも楽しく思い出すと振り返り、鉄道輸送などの影響による中止は児童が失望するのはもちろん、自分たちも胸が痛むと記した。 食糧や燃料用として、児童に米や炭を持たせてでも行かせてあげたいとした上で、東京ではまだ修学旅行を続けている学校もあると指摘。「こうした時世でも、せめて少国民だけには、心の糧としてまたは実地見学の意味において修学旅行を復活させてやりたいものである」 日米開戦の日が迫り、戦争協力への圧力が高まっていたであろうこの時期に、このような投書が掲載された背景について、新聞の検閲に詳しく「新聞検閲制度運用論」などの著書もある青森県職員の中園裕さんは、こう話す。「戦争協力への強化に違和感を持つ道民はいただろうし、例えば大通公園の利用に関しては『他に方法がないのか』という庶民の当然すぎる感情が投書という形で出たのだろう。軍部や政府を批判しているわけではないので、問題ないと判断され掲載されたのだろう」■そのほかの投書の内容は? 論争になることも 日米開戦前の「金声玉振」に寄せられた投書は、欧米や中国などとの関係を論じたものから、子供の受験、鉄道やバスなど公共交通機関への苦情など、取り上げる内容は幅広い。ただ、日中戦争が続いている時期だけに戦争に関連する話題が多く、意外な方向に話が飛んで論争が展開されることもあった。金声玉振は毎日1、2人の投書を掲載。時期によって異なるが、600字以内で、住所や氏名の記載がない場合は採用しないと投稿規定にある。紙面では投稿者の名前が記載されている日もあるが、「一市民」「札幌憂国の士」など匿名になっているケースも多い。 太平洋戦争開戦3年前の1938年12月上旬の投書は、麻雀(マージャン)をやり玉に挙げている。麻雀は「亡国遊戯」と呼ばれることもあり、いったん始めると、寝食を忘れて熱中し時間を空費する。賭け麻雀も行われ、戦争相手国の中国から伝来された「悪質遊戯」で「全国民上げてこれを国内から排撃したい」と訴えた。 3日後、反論の投書が掲載される。中国伝来が排撃の理由であるならば、「中国料理を食べてはいけない」というのと同じだ、娯楽として楽しむことを非難される理由はないと反発した。さらに、その3日後にも麻雀をやったからといって、亡国を想像するほど日本の現状は脆弱ではないと「排撃」に反対する投書が掲載され「もっと気を大きく広く豊かにもって、朗らかに聖戦3年目の春を迎えようではないか」と求めた。 しかし、数日後には麻雀は問題が多いという主張が紹介される。「わが帝国民は東洋の平和を確立」する大任を背負っているのだから、一日も早くこの悪質遊戯を排撃すべきだと訴える。この日の同欄の末尾には「麻雀是非論はこのほかたくさんありますが、本問題はこれで打ち切ります」との一文があった。 日常生活の「苦情」も取り上げられている。1939年9月の投書は、札幌の市電・バスが1時間遅れで到着したが満員で乗れず、さらに30~40分待たされると訴えた。その上で、ガソリン統制で一部を減便しているのは想像できるが、「(市電当局は)何か対策を講じているのか」と不満を募らせる。市電を巡っては前月の8月にも「夜間の本数が少なすぎる」との苦情の投書があった。市電側は同欄に「すべて現下非常時国策協力を第一に考え実行している」と理解を求める返答をしている。いわゆる指導者層への不満をにじませたものもある。1940年7月の投書は、時局講演会で「ガソリンは血の一滴」と語っていた本人が、徒歩か自転車で行ける場所にハイヤーを使っていると指摘。「それで時局を再認識せよなどと叫んでみたところでどれほどの効果を上げられるのか」と皮肉を込めて記した。1941年8月の投書を書いた女性は、地元の町長らの行状がひどいと訴える。盆踊りなど禁止しなくてもいいものが中止になり、「百害あって一利なしの宴会は相変わらず盛んというのも上に立つ方の身勝手の表れ」と批判していた。------------------------------私の意見-------------------------------今も原発再稼働せよと主張すると、かなりの確率でパッシングされる、放射能事故がおきないという保証はない、だったら東京都内につくれとか言う人達もいる。既に10基の原発が稼働しているのにもかかわらずだ。そして電気代の値上がりに関して電力会社を指弾する。岸田さんも成長と分配を主張したと思ったら節電要請(笑)節電というのは生産力を減らせになるから経済的には縮小均衡になっていく。まさに日本人のDNAは逆ブレしただけで本質は変わらない。武漢肺炎も、ようやく2類相当を見直すというそれでいて連日感染者数の報道、まだまだ大騒ぎでもし5類にしたら、それでまた大騒ぎになる。結局日本人というのは結局寄らば大樹の陰なんだろうと思う。国益を考えろなんだけどね。
2022.12.05
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戦時中帝国陸軍に女性だけの部隊があった。偶然ではあるが以下のサイトを見つけたので是非知って欲しい。戦時中、少女たちが憧れた「女性だけの陸軍部隊」。元隊員が見た「戦争」とは (buzzfeed.com)戦時中、陸軍に女性だけの部隊があったことはあまり知られていない。防空に携わる「女子通信隊」。女子たちの「憧れ」だったとも言われるその部隊では、どのような「戦争」が繰り広げられていたのだろうか。16歳で入隊した元隊員の証言を聞いた。「国を守っているという使命感、誇りがありましたね」そうBuzzFeed Newsの取材に語るのは、陸軍東部軍女子通信隊に所属していた外間加津子さん(91)だ。「女子通信隊」は男性の多くが戦地に送られるなか、人員不足を補うためにつくられた、女性だけの陸軍部隊だ。扱っていたのは軍事機密。それゆえ、記録はあまり残されていない。その設立は1942年12月。空襲警報を流すため、各地から集まった敵機の情報を司令室に伝える役割を担っていた。東部軍では、ひとつ100人の小隊4つで構成されていたという。イギリスの女子部隊をモデルにしたと言われている。カーキ色、将校と同じダブルボタンの制服は「贅沢は敵だ」の時代にあって、おしゃれ盛りの女子たちには憧れの存在だった。「男の人はみんな人を殺しに行くのだけれども、私は人を守るんだから。それだけ良いことをやっているのだから、という喜びは大きかったですよ」「給料もよかった。すべて父に渡していたんですが、『お前はえらいお前はえらい』と言ってくれてね。あの時代ですから、嬉しかったと思います。親孝行娘ですよね」そんな外間さんは、それまで「愛国心なんてない」ふつうの女学生だった、という。戦争の気配が色濃くなる前は、いまと変わらぬ普通の青春を謳歌していた。兵隊さんと文通も…1927(昭和2)年生まれ。自らのことを「昭和っ子です」という。当時は改元直後ということもあり、新しい時代への希望をうたう「昭和の子供」という曲が流行っていたそうだ。♪昭和 昭和 昭和の子供よ 僕達は 大きなのぞみあかるい心 空々空なら日本晴れ 行かうよ 行かう 足なみそろへて外間さんは、そんな「大正デモクラシー」の自由な雰囲気が残る東京で生まれ育った。しかし、時代はだんだんと明るさを失っていく。太平洋戦争に向かうひとつの転機ともなった陸軍青年将校によるクーデター未遂、二・二六事件(1936年)のときには、小学校で「早く帰りなさい」と言われたことを覚えている。麻布に移り住み、広尾の順心高等女学校(いまの広尾学園)に進学したころには、食料事情も逼迫しはじめていた。近所の食堂はおかゆしかなくなり、生活も徐々に厳しさを増した。それでも、楽しい日々には変わりはなかった。スポーツが大の得意で、クラスでは人気者。バレーや陸上、テニス……さまざまな部活に声をかけられたという。休日には、映画や舞台を友達と一緒に観に行くこともあった。学校のすぐ近くにある有栖川公園には、若い兵士たちがたむろしていたことを覚えている。「かっこよくて素敵な兵隊さんがいてね。部隊を聞いて、慰問袋を何回か送ったことがありました。みんなで千人針をつくって。何度か手紙のやり取りもしたんですよ」「それがばれても、父親は何も言いませんでした。兵隊さんだし、注意されたことがないですね。我々の時代ではね、アイドルではなく兵隊さんだったんですよ。みんな素敵に見えましたもんね」「お国のために」と言われて外間さんが青春時代を謳歌していた一方で、戦争はどんどんと日常を侵していく。4年生になった1943年春。教師から、こう言われた。「授業はできません、あなた方はお国のために何かをやりなさい」太平洋戦争がはじまってから、1年半ほどが経っていた。世の中は戦時一色。この年の6月には学生たちを戦時体制に組み込むための「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定されるなど、すでに学生が勉強に専念できる時代ではなかったのだ。「家にいるわけにいかない。国のためと言われているから何かやらないといけないですよね」職を探し始めた外間さんの目に留まったのが、女子通信隊のポスターだった。「生け花や茶道も習える」という謳い文句があったと、記憶している。「結婚前の花嫁修行をしようと入った人もいたんですよ」女学校卒業程度の学力、20歳前後の独身者が条件だった。立場は軍属ではあったが、当時16歳だった外間さんは、迷わずに入隊を決意した。「大好きな学校の仲間たちと別れるのはやっぱり嫌でした。でも、嬉しい気持ちもあった。かっこいいですからね。カーキ色の制服を着て帽子を斜めにかぶって。素敵でしょ、目立っていたと思いますよ」竹橋付近にあった司令部には、電車で通っていた。コンクリート造りの頑丈な建物で、職場は地下にあったことを覚えている。「門のところには人がいるから、敬礼して入りました。恥ずかしさもあったけれど、すごく気持ちよかったですね。それに、スポーツが好きだったから、軍隊式の敬礼や訓練などのキビキビした動きも自分に合っていたんです」作戦室から聞こえた怒鳴り声訓練を終えた外間さんたちに任された勤務は、各地の監視哨やレーダーで集められた敵機の情報を司令部に伝えることだった。ヘッドホンを通じて入った情報をすぐ操作盤のスイッチに反映させると、司令部の地図に光りが点り、それを元に作戦や空襲警報の指令を決める仕組みだ。「情報を耳で聞いて、口で復唱しながらスイッチを押すんです。敵機高度何千メートルなんというのを右手で入れて、左手で消していかないといけない。それが6時間。トイレにも行けませんでした。復唱するだけでクタクタですよ。間違えると作戦室から年中怒鳴る声が聞こえる。銚子の監視所は何をしているんだ、とかね」ちょうど、本土への空襲が活発になりはじめる時期だった。勤務は毎日6時間、24時間4交代制だ。外間さんの1日はこうだーー。朝9時に出勤して6時間の勤務を終えると、午後3時から6時間は待機する。その間に畳張りの部屋で仮眠をとったり、食事を食べたりし、夜9時からまた6時間の夜勤が待っている。そして、午前3時からまた6時間待機し。翌朝9時、明るいなかでようやく家路に着いた。地方から勤めた人たちは寮生活で、「生け花やお茶」をする時間もあったようだが、実家から通う外間さんにそんな「花嫁修行」の余裕はなかった。「警報がずっと鳴りっぱなしでしたから。私は夢中で勤務をしていたという感じですよ。家と職場の往復で、友達もできませんでした」そして街は、焼け野原になった待機していたときも、空襲があれば呼び出された。過酷な勤務のなか、夜食で出るあんパンが、いつも楽しみだったという。「甘いものがなくて、食べられない時代だから。少し残して、翌日家族に持って帰りました。喜ばれましたよ。それに、地方から来た人は宿舎に入っていますから、実家からお米を送ってきたりしますよね。そういうのをわけてもらったりしていました」戦況が悪化するにすれ、地方から働きに来ていた隊員たちは地元へと帰っていた。もはや東京は、安全に暮らすことのできる場所ではなくなっていたからだ。「東京が危ないのに、娘を置いておけないといって親が引き取りに来るんです。そうしてやめる方が非常に多かった。私の第3小隊には約100名いましたが、年中入れ替わりでしたね」1944年の後半になると、空襲はさらに苛烈さを増す。そのほとんどを、外間さんはじめじめとした空気の司令部の中で過ごした。「東京が空襲のときも、勤務していたんですよ。だから、怖い思いはしていない。音も何も聞こえませんでした。ただ、勤務が終わって帰るときには、街が焼け野原になっていたんです。防空壕をのぞくと真っ黒な死体が横たわっていたました。真っ黒になりながら抱き合った親子の姿も、忘れることはできません」空襲のあと、出勤しなかった同僚を探しに行け、と言われたことがある。生きているか、死んでいるかもわからない。彼女を見つけることは、できなかった。「勝つわけはないと思っていた」一度、遠くから空襲を眺めたことがある。「綺麗だった」と外間さんはいう。「あの明るさ。落ちる姿の綺麗さ。夜なんか綺麗ですごいですよ。落ちてくる火花、飛行機の音。家族みんなで夜、外に出て見ているんですよ。だって寝られませんもの。家は明かりつけられないから真っ暗で、外の方が明るいくらい」「なんとも言えない。怖さなんてないですね。逃げることもないですよね。防空壕なんてとんでもない。おっかなくて入れませんもの。だって扉は木でしょう。中に入ってそのまま死ぬの、いやですもの」のちの空襲で麻布の家も焼け出された。しかし家族とともに、そのあとどう暮らしていたのか、まったく覚えていない。勤務に忙殺されていたからだ。「いったいその時に何を着て、何を食べていたのか。あの焼ける暑いところを歩いて、靴下履いていたのかしら。靴下って買えたのかしら。下着は何をしているのかしら。歯を磨いたのかしら。歯ブラシって売ってたのかしら。覚えているのは司令室のことだけ。麻痺しているんです、記憶もぷつんと切れちゃって……」大量の敵機が毎日のように襲いかかるなか、外間さんはその情報を司令部に伝え続けた。殺気立った空気を肌で感じていたからこそ、「勝つわけはないと思っていました」という。「口に出さないだけのことで。だって、100機も来ているんですよ。高度もわからない、最後のほうには、数すらわからないこともあったんですから」「女性は男の格好をして逃げろ」1945年8月15日、日本は戦争に負けた。その前夜まで、本土各地は空襲を受けていた。いつものように通信隊に勤務していた外間さんは、玉音放送を聞いたあと、同僚たちとともに、すぐ近くの皇居・二重橋へと向かった。「すぐ、宮城にいきました。集まっていたみんなが泣いて、泣いて。泣き声だけですよね。私たちも泣いて。嬉しさなのか、寂しさなのか。でも、ほっとした気持ちもありました」司令部の兵隊たちにも動揺が走っていた。「女性は男の格好をして逃げろ」と言われ、制服のまま親戚の住む山梨県に疎開した。「死ななかったことが、今日まで生きてこれたことが、不思議ですよね」「最後の一兵」として戦後は、中学校で教鞭を執った。隊員たちとの交流も続けていたが、いまではそのほとんどが亡くなってしまったという。女子通信隊が所属していた「東部第1950部隊」の慰霊祭では、空襲や病に倒れた隊員たちを毎年弔ってきた。多い時で100人以上が参列していたが、いまでは外間さんひとりだけだ。それでも、外間さんは毎年開かれていた慰霊をやめるつもりはない。女子通信隊の存在を伝えるため。あの時代に身を粉にして働いた女子隊員たちの思いを後世に残すためだ。「最後の一兵 がんばれ」。仲間の隊員が亡くなる直前、年賀状に記していた言葉が、そんな外間さんの支えになっている。「あと何年生きられるかわからないけれど、もう一人だけなんだから。最後までがんばらないとね」そう語ると、「最後の一兵」は笑った。----------------------私の意見------------------------恥ずかしながら65年生きて来て、帝国陸軍に女性だけの部隊があったことを今まで知りませんでした。少女まで兵隊と駆り出さなければならないほど、日本軍は劣勢でいたのに何故1945年8月15日まで降伏をしなかったのか、とても悔やまれます。
2022.08.30
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世間的には8月15日を終戦記念日としている。私にすれば無条件降伏日で記念日でもなんでもない、敗戦の日、屈辱の日でしかない。私は満州国建立が全ての始まりかなと思っている。今のロシアと同じく満州国いわゆる中国東北部の利権を得ようと時の政官財の思惑だったと思う。結局満州国の利権を手に入れた後、国際連盟脱退、あほな日独伊三国同盟というただの互助会同盟全てここに帰結しまた中国の内政に干渉したからだ。朝鮮半島を併合したわけだから、何も中国大陸に足を延ばす必要はなく、むしろ満州国の利権を米英とシェアすることが当時の共産国であるソビエトへの防御になったわけだ、満州国の利権は米英に渡し対ソ防衛にあたらせた方が日本の国益になったわけだ、ここに大日本帝国の戦略ミスがある。これからは航空機による戦争が主流になると予測した大日本帝国は、重慶爆撃をする。重慶爆撃 - Wikipedia結果日本はABCD包囲網をかけられ、天皇陛下より開戦日米開戦となるABCD包囲網 - Wikipedia開戦の詔書今こそちゃんと読んで知りたい【開戦の詔書】全文・現代語訳 | SEの良心 (dajya-ranger.com)当初日本は互角に戦っていたが、ミッドウェイ海戦での敗北で制海権を奪われ米国本土への攻撃が事実上できなくなる。ただし風船爆弾という太平洋上のジェット気流を調査していた日本軍の攻撃を米軍は備えていた、あなどるなかれだった。ミッドウェー海戦 - Wikipediaそして1944年7月サイパン島陥落というか降伏よって東条首相責任をとって辞職。サイパンの戦い - Wikipedia結果帝国陸軍が設営したサイパン飛行場が米軍に撤収され、米軍の本土攻撃が可能となる。制海権のみならず制空権も奪われたわけだ、そこで大日本帝国が出した結論は本土決戦という錯乱したとしか思えない作戦、神風が吹くという精神論に帰結してしまった。そして神風特攻隊という究極の作戦へとなる。そして1日でも敵の攻撃を遅らせるという目的に代わり多くの若者の命を奪ってしまった。沖縄が見捨てられ、東京・大阪が焼け野原になり、2発の原爆を落とされ敗戦となったのだ。サイパン陥落の時点で日本には敵基地攻撃能力は最早なく、専守防衛しかできなかったのだ。もし東条さんが冷静な指導者なら、サイパン陥落の時に、打ち方止めろと全軍に指示をし、昭和天皇に降伏して下さいと進言していれば、恐らく上の惨劇は起こらなかったはずだ。東条首相の辞職という重い事実を受け止めた、この時点で降伏すべきだったと結論付ける。そうなれば1945年2月のヤルタ会談というのは存在せず、恐らく朝鮮半島・台湾・太平洋諸島の割譲だけですんだろうと、南樺太、千島列島全島は日本の領土であると、また日本軍は軍として米国に取り込まれた筈だ。南樺太・千島列島は対ソの基地となり、中国が分裂国家となれば沖縄の基地規模は小さくはシンガポールのような都市になっていたと思う。また中国は恐らくではあるが、分裂国家となっていたと思われる。ソ連の崩壊ももっと早くに崩壊していたと思う。中国共産党のチベット進攻ウィグルへの進攻もできなかったと思う。世界地図がかなり変わっていたと思うからだ。既に戦後77年経過したわけだ、故安倍さんの悲願だった戦後レジームからの脱却、私もそう思う憲法を改正し日本が普通の国になることが国益となるのだ。
2022.08.15
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私はこの歌が好きでカラオケでよく歌いました。李香蘭・山口淑子さんはお美しい惚れてまうやろ(笑)蘇州夜曲 - Wikipedia李香蘭 山口淑子さん映画支那の夜よりいろいろな人がカバーしてます。新妻聖子高畑充希 ととねぇちゃん歌うますぎ!!テレサテン上戸彩 李香蘭が日本人とわかっても中国人が大勢観に来てくれた、南京で日本軍は大虐殺したんじゃなかったの。それも上海でのコンサート、激しくバッシングされてもおかしくない南京大虐殺が真実なら。美空ひばり さすがです。霧島昇・渡辺はまこ蘇州の位置です。
2022.08.13
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韓国の文大統領がトランプ訪韓のさいに元慰安婦と対面させた、政権が脆弱ということを世界に示したものだろう。私の今まで集めた情報とかつて旧日本軍に従軍していた人から聞いた話を元に推察しまとめることにした。戦地慰安所が開設された1930年代朝鮮半島は日本の領土であり、江戸時代から続く売春宿と呼ばれる慰安所は朝鮮半島のみならず本土にも多数あった。また借金のかたに妻や娘を差し出すまたは女性を値踏みしていた。基幹産業が農業だったので干ばつや洪水などで不作になったら生きていくために身売りをしたというケースは朝鮮半島を含む日本国内でも多く見られた。特に朝鮮半島では1910年の日韓併合により平均寿命と死産の割合が劇的に改善され人口増となった。まだインフラ整備や雇用の場が少なかった朝鮮半島から本土へ職と豊かな生活を求めて本土にくるようになった。日本人も今でいう技術移転や教育のために朝鮮半島へ赴任することになる。1932年に満州国建国のさいに爆発的な人口増の受け皿として本土はもとより朝鮮半島からも多くの移民が満州国にわたった。当時は女性にとって不利な姦通罪とか、男の成功者のステータスとして妾を持つことはいわば当たり前の時代だった。また女性には参政権もなく、議会も含めて男性で占められていた。日中戦争が泥沼化したころ、日本軍の兵士による中国人女性へのわいせつ行為や暴行が問題になっていく、また蒋介石政権と対立し汪兆銘政権側についた日本軍ではあるがこのままでは全ての中国人を敵にまわすことになるから兵士の性欲を満たすため軍の管理下で慰安所を開設することになった。戦地なので本土や朝鮮半島よりも慰安婦の報酬を高くしないとなかなか慰安婦が集まらなかったが、他の赤線地帯と違い裏社会の介入がなく、親方日の丸なので慰安所を経営する者には人気の物件であり、いわゆる日本軍のニーズを満たした経営者は戦局の拡大とともに慰安所を増やしていった。日米開戦となってからは赤紙によって多数の日本人兵士が派遣され、当時の朝鮮人男性への赤紙はなく炭鉱労働者や土木建設業者の数が少なくなったので多くの朝鮮人男性が対馬海峡を渡った。朝鮮半島からの志願兵は倍々ゲームで増えていったちなみに1910年当時の朝鮮半島の人口は1313万人で最初の戦地慰安所ができた1932年では2004万人、1942年では2553万人なので、10年間で500万人人口が増えたのだから、強制連行なんかしなくても募集さえすればすぐ集まったと思われる。今回トランプ大統領と面会した元慰安婦の年齢は88歳1945年の終戦時16歳である。13歳か14歳で慰安所で働き始めたと思うが、ねつ造された経歴だと思う。人口が増えている朝鮮半島において強制連行なんかしなくても戦地慰安婦は集まったと思うから、わざわざ今の中学生を拉致して連れてくる方が高リスクだし管理している日本軍だって少女を慰安婦として働かせている経営者に対して許認可権をかさに改善を迫るとも思われる。当時の日本陸軍は絶大なる力を持っており、海軍との対立と陸軍内での激しい出世争いがあったから汚点を残すなになっていたはず。また当時の慰安婦は借金を返し終えたら帰郷も許されていたし、今と違って熟女というカテゴリーはなかったから対外三十路になれば慰安婦としての価値がなくなり、その後従軍看護婦に転身した人やそのまま慰安所の管理職となって経理や財務管理を担当したり、後進への教育係になった人もいた。勿論慰安婦の過去を消してカフェや百貨店等で働いていたことにして、水商売を始めたりお見合いし結婚した人もいるわけだから決して性奴隷なんかではない、日本人慰安婦が名乗り出ないのは高額な報酬をもらっていわゆる過去を消したからである。そしてほとんど生きていないと思う。私が思う慰安婦の最小年齢は92歳で終戦時24歳が一番多いと思うので、日本人・朝鮮人を問わず96歳以上になっていると思う。日本軍が管理している基地内には慰安所は一軒ではなく複数あり、いわゆる競争原理が働いていたので慰安所の料金や慰安婦の報酬について軍が管理し過剰な競争原理を防いでいたようである。また性病の防止について慰安婦本人は勿論、軍では兵士が感染すれば戦力の喪失、また経営者にとっては信用を失う結果となるので慰安婦の健康管理に日本軍が責任を持つのは当たり前のことである。今でいうアイドルのような慰安婦が入所した場合日本軍の兵士は並んだそうであり、実家が裕福な兵士は借金を肩代わりするから結婚してくれとプロポーズされた慰安婦もいたようである。また生きて帰れないと悟った兵士は全ての金銭を慰安婦に渡し戦地に出撃した者もいた。そして慰安所の料金は現代の価値でいうと3万円で。当時の兵士は衣食住はかからないので仕送りをしていない限り月に3回~4回は通よえたそうで、妻や許嫁がいる兵士は操を立てて利用しなかった兵士もいたそうである、日本兵が皆慰安所に通いつめたようではない。今もそうだが若い兵士の場合いわゆる手コキだけでいっちゃう者もいて一晩に何人も相手させられたとの証言があるが、一晩で5人も相手にしていたら身体が持たず働く動機は親や親族の借金返済だから身体を壊しちゃもともこうもないので慰安婦も経営側も無理がないようにシフトを組んだはず。手コキでいったからもう一人お客をとるかなというのはあったと思います。恐らく現在80代の慰安婦は朝鮮戦争時の慰安婦と思われ、戦地慰安婦というのはほとんど亡くなったと思われる。まさに反日プロパカンダでの作り上げた慰安婦でありねつ造事例だ。そもそも朝鮮人強制連行説が初めて登場したのは1964年の朴慶植によって徴用や募集・斡旋が強制連行になってしまった。アジアで初開催の東京オリンピックが行われ翌年1965年には日韓基本条約が締結され当時の北朝鮮と朝鮮総連は相当のあせりがあったと思うので、全て自由意志ではないが1944年からの国民徴用令もあり、また騙されて働いたとこがいわゆるタコ部屋で当時は労働基準法もなく、戦地にいった日本人男性労働者を補うために多くの朝鮮人男性が日本企業に行ったことを私は否定はしないし、また労働環境が劣悪なこともたしかだと思うが人口が増えており、しかも赤紙が来ない朝鮮半島ではむしろ職を求めて日本に来たというケースだろう、1940年に今の高校サッカー選手権で神戸三中を4-0で下したソウルの普成中が優勝した。現在92歳の賀川浩氏がこの試合を観戦したレポートを見たがいわゆる在日朝鮮人の人達が大応援をしており、優勝した時は歓喜にスタンドが沸いたと書かれていた。強制連行で日本に来た人たちではなく普通に日本に来て郷土を応援していたのであろう。またハンドルネームがチンダラコッチさんという方は今は北朝鮮の新義州の旧制中学を卒業されその方の書き込みでは日本人も朝鮮人も分け隔てなく学校で学び北朝鮮での同窓会が開催され参加された。創氏改名は家族まかせで半数の朝鮮人は変えなかったと書かれていた。またクリスチャンのために神社への参拝は本人の意思だったそうだ。またハンドルネームは失念したが平壌で生まれた人で親が商売をしていたそうで家には朝鮮人の娘さん達が働いていて、ある一人の娘さんが父親の借金のために慰安婦にならざる得ない環境になりその方の母親が何度も娘さんの父親に思い留まるよう説得したが聞いてもらえず、最後の勤務の日みんなで泣いて送り出したという記述があった。そして配給の時は朝鮮人日本人分け隔てなく並んだというのである。このお三方は思想的にはリベラルであった。恐らく賀川浩さん以外は尊命されていないと思うが、強制連行が頻繁に行われていたとは到底思えない。日韓基本条約の成立に危機感を覚えた当時の総連によって流布され、当時のサヨク勢力が助長していったのだろうと思う。その後強制連行が独り歩きし吉田清治によって慰安婦の強制連行となりまた朝日新聞の誤報によって泥沼の問題へと発展していく。また北朝鮮では日本人強制連行説が戦後30年経って北朝鮮でも流布され拉致事件へと繋がっていくわけだ、日本人が戦前朝鮮人を拉致したという論理展開になりその報復だと当時の金正日は日本人拉致を正当化したのだろう。うそも100回言えば本当になるとの諺があるが、100回うそを言えば100回否定すればいいのだ。10年で500万人の人口が増えたというのは10年で北海道が出現したことになる。水が下に向かって流れるように人は生活のため上に流れていく。だから強制連行なんてしなくても必然的に人が集まったのだろうと思う。日本だってちょっと前までは援助交際という名で売春が今も行われているし、また自由恋愛なんて言葉もあった。売春は合法非合法にかかわらず世界的規模で存在する。元慰安婦とトランプ大統領を会わせる文大統領の国際センスを疑わらざるおえない。結論から言って朝鮮半島とかかわるとろくなことがない。これを歴史の教訓とすべきだろう。35年間で1200万人も人口増やしてごめんなさいだろう、35年間で東京都が朝鮮半島に出現したわけだからそれじゃ食料も足りなくなるし電気も働くとこさえなくなるよね。そうだ日本に行って頑張ろうじゃないのかな。
2017.12.02
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