売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

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2022.09.12
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故郷の高齢者介護施設でお世話になっていたオフクロがコロナウイルス感染で亡くなってから1カ月、先日実家やお墓のことで弟・ 太田秀之 とスパイラルカフェで打ち合わせ。昔はよく近所の南青山の蕎麦屋で兄弟ランチをしたものです。オヤジが2001年に、妹が2018年、今夏母親と逝き、残るは兄弟二人だけになりました。

紺屋の息子だったオヤジはインパール作戦から無事帰還すると百貨店勤務を経てテーラーを開業、ほかに毛芯メーカーや百貨店の納入業者、東京の紳士服アパレルメーカー顧問デザイナーを務めるなど事業を拡大、出入りの生地屋さんには息子を二人とも継がせると話していたそうです。

私はオヤジが戦前に通っていた西新宿の日本洋服専門学校夜間コースに入れられダブルスクール、夏休みはパタンナーのプロに個人指導を受け、大学卒業後ロンドンのサビルロー修行を予定していたので英会話レッスン、とワンマンオヤジの構想通りでした。地元の大学に行く弟も同じ、無理やり大学の夜間コースに変更させられ、日中はうちの職人さんたちと共にオヤジの指導を受けて服づくり、普通の大学生のように遊び回る時間はなかったようです。

ところが、私は家業継承のためにロンドンで修行ではなく、自分のやりたいマーチャンダイジングを習得するためニューヨーク行きを主張、長男ながら「分家」となってテーラーを継がないことに。オヤジの期待は弟に向けられます。しかも手術時の輸血が原因で肝炎、肝硬変、肝臓癌になったオヤジは無理ができず、弟の助けが必要でした。最晩年、弟のお陰で仕事を続けられ、長生きできたとオヤジは弟に大変感謝していました。

1982年春、一時帰国した私を訪ねてオヤジが上京。高級テーラーの将来性をどう思う、と質問されました。弟を無理やり夜間大学に入れて家業を継がせ、いまさらこの質問はないでしょう、私はブチ切れました。それまで父親に「オヤジ」と言ったことが一度もなかった私は生まれて初めて、「オヤジ、今日からお前はうちの家長ではない。秀之のことは俺が秀之と相談して決める」と宣言しました。

将来家業の継承で苦労をさせたくない、私はすぐ故郷に帰って弟に上京を勧め、オヤジには一代限りでテーラーを廃業するつもりで仕事を続けてくれ、と頼みました。弟はこのとき28歳、テーラー修行10年でした。


(わが弟)

弟は大学1年から紳士服づくりを実践で学び、パターンメーキングも習得しています。私がバーニーズニューヨークの買い付け出張で知り合った東京のブランド企業にお願いするか、あるいはファッション専門学校に入って勉強をやり直すか、いろんな進路を考えましたが、結局デザイナー企業C社のお世話になることに。

C社を選んだ理由はとてもシンプル。他社がオーナーデザイナーのことを「先生」と呼び、我々外部の人間に対して「先生は外出なさっています」「先生はまだいらっしゃっておりません」と言いますが、C社だけは普通の企業のように「社長は外出しております」でした。ファッション業界は奇抜な服を扱っていても特殊な世界ではなく、午後出社しても「おはようございます」の業界ではありません。我々は一般生活の中で着る服をお客様に提供するビジネス、商品は個性的であっても職場はごく当たり前であって欲しいと考えてきました。

だから、商品は奇抜でも会社は普通なC社にお願いしたのです。後年オーナーデザイナーから「理由はそれだけ?」と訊かれたことがありますが、その通りなのです。入社直後、オーナーデザイナーから「太田くんは完璧に縫えるので助かる」と言われたことがありますが、オヤジと職人たちにしごかれた高級テーラーのプロなのです、腕がいいのは当たり前でした。

その生真面目な性格もあって生産工場では指導力を発揮、工場の人々に効率の良い縫い方、効率の良い生産システムを丁寧に教えてきたようです。大手商社マンが私に教えてくれました。「弟さんはプロ。縫製工場に行って作業しているスタッフを前から見る人はいますが、後ろからじっと眺めて工場長にラインの組み換えをアドバイスするのは弟さんしかしませんよ」と。生産ラインの修正、縫い方の指導をして1日当たりの生産性を上げ、その上で縫製工場と工賃交渉をしてきたようです。

C社がメンズの新ブランドを立ちあげた直後、弟は会社のパターンとサンプルを実家に持ち込み、パタンナーとして一流だったオヤジに相談してパターン修正をしていました。二人は実家のテーラー用の大きな裁断台に生地を広げ、パターンの微調整と縫製仕様の修正をやっていましたが、このときのオヤジの幸せそうな表情は忘れられません。家業はすでに廃業していましたが、息子が所属する会社のより良きものづくりのために一緒に作業する喜びをオヤジは感じていたのでしょう。私にはマネのできない親孝行でした。

一度東京駅の新幹線ホームで弟と遭遇したことがあります。三重県に行くというのでてっきり実家かと思ったら、「腕の良い縫製工場が松阪にあるのでこれから交渉に行くんや」。2年前に福島県のクオリティーに定評ある縫製工場と仕事を始めたばかり、なのに手仕事比率が高くもっとグレードの高い縫製工場を探し当て、交渉に出かけるという。さすがプロだと思いました。

私もいろんな場面で「C社の太田さん」の話を聞きました。C社から巣立って行った若きデザイナーや商社の繊維部隊の人々から「弟さんからものづくりを教わりました」とよく言われます。同じ世界で働いているのでお互い兄弟のことを他者から聞く場面は少なくありませんが、弟の評判を聞くたび私は嬉しかったですね。

子供の頃から私はぶきっちょ、弟はコツコツ型でした。テーラーの職場から多数の糸巻きが出ますが、それを使っておもちゃに仕上げるときに弟は上手くできるのに私は下手くそ、おもちゃにはなりませんでした。私がプラモデルを作れば必ず部品が数ピース余ってしまう、私以上に弟はオヤジの血をひいています。

その弟が引退すると聞いて私はすぐにコンタクト、再建途上のブランド企業Y社の社長を助けてやってくれないかと頼みました。C社とよく比較されるデザイナー企業、一度経営破綻しましたが、若き社長が外部の資本家たちの支持を得て一生懸命再建、その様子を見て私は陰ながら応援してきました。「お前が手伝ったらきっと原価率は大幅に改善されるだろうから」と社長に紹介、Y社のお手伝いをすることになったのです。

Y社で7年間どれだけ貢献できたのかは知りませんが、今春弟は「そろそろ引退するわ」、そして先月オフクロの急逝と同じタイミングでファッション業界から完全に手を引きました。弟の息子は私のススメでIFIビジネススクール全日制を卒業、インターンシップでチャンスをもらったデザイナーMさんの会社に就職しました。弟とは仕事の領域が違いますが、甥っ子が父親のように業界関係者から早く信頼されるよう期待しています。





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Last updated  2022.12.19 16:03:36
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