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昨年9月上海の「佐吉企業管理コンサルティング」創業者アーロン・ジン(金 時光)さんらが率いる訪日研修団でセミナーを頼まれて以来、私は中国ファッション流通業界人に講演する機会が急増しました。12月には杭州で、2月は上海、蘇州、広州で、そして今回は東京で訪日団へのセミナー、来る7月にも再び訪日団と中国出張でそれぞれセミナーの予定があります。今回ジンさんらが引率してきたのは主にアパレルメーカーの経営者。ヤング向けファッションブランドで成功している経営者、アパレル事業で上場企業の創業者、SPA企業幹部やテキスタイルのプロなど30人余が受講者でした。中国は人口多く市場規模が大きいのでかなりの売上を誇る会社の経営者や幹部が多かったようです。初日午前中のカリキュラムは私が担当した「東京コレクションの変遷」と「ブランドビジネスの成功条件」の2テーマ、午後はVMD指導の会社を経営している元部下Hくんのヴィジュアルマーチャンダイジングの基本。そのあと銀座で市場調査に同行したあと品川の焼肉店に。私はブランドビジネスには創業時から継承するDNAを守る姿勢、ブレないものづくりが重要であり、昨今DNAを軽視して失敗した欧米有力ブランドの事例を紹介しました。私のセミナー聴講3回目の大手ニットメーカー人事責任者Hくんが部下だった時代、私は社員にマーチャンダイジングの基本を教え、VMDにも大きく関わる「定数定量管理」をうるさく指導しましたが、Hくんは定数定量をおさえた上でいかに魅力的な商品陳列をするのが店頭では効果的かを丁寧に説明。社内MDゼミで教えたことをベースに、Hくん自らの経験から積み上げた方法論を紹介、非常にわかりやすかったです。研修2日目はミナペルホネンのデザイナー皆川明さんの講演。朝のラッシュアワー時に電車が事故で停止、通訳さんの到着が遅れるので日本で暮らした経験のあるジンさんのパートナーが冒頭の講演を通訳してくれました。皆川さんのものづくりの話はこれまで数回聞いたことありますが、いつ聞いても職人さんたちへの優しい目線、弱者への配慮を感じます。小さな機屋さんが安心してテキスタイルづくりができるよう、ミナペルホネンは原料の糸を事前購入して機屋さんに渡しているという話、感動します。トレンドが変わるたび、気持ちが変わるたびテキスタイル生産地をコロコロ変えるファッションブランドは少なくありませんが、ミナペルホネンは小規模な機屋さんに継続してロングランで同じような織物を注文しています。通訳を通してのスピーチですからどこまで正確に皆川さんの話が伝わったのかはわかりませんが、受講者には皆川さんのものづくりに込めた情熱、技術者への思いやりは十分伝わりました。皆さん、夕食の居酒屋でやや興奮気味に口を揃えて「皆川さんの話は感動しました」、と。2日目講師のミナペルホネン皆川明さん参加者の多くは翌日ミナペルホネンの南青山スパイラル5階のショップ「CALL」を視察、ミナペルホネンは中国市場で展開すればきっと現地消費者に受けると話していました。余談ですが、ひとつ面白い出来事が。通訳が遅れたために急きょ臨時通訳をしたジンさんのパートナー劉さんが、午後8時帰宅ラッシュで混雑するJR品川駅コンコースで皆川さんとばったり遭遇したのです。2日前に出会ったばかりの中国人とセミナーで講師を務めた日本人が雑踏の中でお互い認識できたというのはまさしくご縁です。2日目午後は皆川さんの母校文化服装学院の視察でした。受講者が学院長と面談している間、ジンさんとファッションビジネスにおける彼のパートナーで元アリババ幹部、ジンさんを私に紹介してくれたビジネススクール教え子の齋藤孝浩さんと私は京王プラザホテルで将来の人材育成プログラムの打ち合わせを行いました。かつて我々がIFIビジネススクールを立ち上げるまで、そのカリキュラムや育てたい人物像についてどれくらい時間をかけて議論したか(議論開始が1989年、試験的な夜間開講が1994年、全日制は1998年の開講)、齋藤さんたちが参加した夜間プロフラムで教え方やカリキュラムの実験を何度も繰り返したのちに全日制プログラムを開講できたことなど、人材育成は焦ってはいけないと説明しました。中国ではファッションビジネスが急速に成長、マネジメントできる人材の育成が急務なんだそうです。ほかにもツアー参加者はコンビニの業務革新をした経営者やショッピングモールの実務責任者、SPA型ブランドビジネスのマネージャーや新製品のネット通販セミナーを受け、6泊7日の東京研修を終えて帰国しました。セミナーに連日の打ち上げご飯、これとは別にジンさんらとの打ち合わせとちょっとハードなスケジュールだったのでさすがにタフな私も疲れがドッとでました。初日講義終了後に全員で記念撮影この先、秋までに再び別の訪日研修団の計画があり、中国に出張してセミナーの構想もあり、ジンさんとテキスタイルの達人と一緒に羊毛産地視察の話もあり、ジンさんは諸々の打ち合わせのため来月も来日します。中国ビジネスマンはセミナーで的を得た質問を連発、探求心は日本人に比べてすごいです。また、教わったことをすぐ実行するスピードは半端ない。こういう人たちに頼りにされるとついつい協力したくなります。利用価値がある間はどうぞ利用してくださいって心境です。講師のひとり元ワールド金田有弘さん(中)とジンさん(右)
2024.04.27
あれは1994年2月後半でした。パリコレ取材に出かける直前、毎日新聞社でファッションデザインやワインなどを担当していた市倉浩二郎編集委員が珍しくきちんとアポを取り、カメラマンを伴って南青山5丁目にあったCFD(東京ファッションデザイナー協議会)事務局に来たのは。毎日新聞社編集委員だった市倉浩二郎さんCFD事務局には正面口と玄関口の2つドアがあり、いつも彼は勝手口からチャイムも鳴らさず入ってきてキッチンの冷蔵庫をゴソゴソ、ビールを見つけると議長室のソファにドカッと座って勝手にビールを飲んでいました。が、その日は事前にアポを取り、カメラマン同伴の正式な取材、正面口からやって来ました。取材中は友人であっても丁寧な言葉遣い、ちゃんと取材者として一定の距離を保ってくれる本物のジャーナリストでしたが、この日もジャーナリストの顔でした。取材が終わって雑談になると言葉遣いはガラリ変わっていつも通り友達言葉に。これから出かけるパリコレを自分としては最後にしようと思う。今後パリコレ取材は後輩記者か外部の専門家に任せ、自分は国内繊維産地を回ってデザイナーの背後にいる技術者やテキスタイルメーカーを取材して本を書きたい。「おまえ詳しいだろうから手伝え」。長く編集委員の職にあり、一般記者と違って自由になんでも取材できる立場、書こうと思えば何冊も本を書けたはずなのにこれまでワインやスコッチ、日本酒の専門家に遠慮して本を一冊も書かなかった男、それがやっとファッションデザイナーの背後にいる技術者の本を書きたいと言うのです。私は快く「いいよ」と返しました。3月23日、毎日ファッション大賞選考委員長だった鯨岡阿美子さんのご主人でエッセイストの古波蔵保好さんが銀座のフレンチ有名店マキシム・ド・パリに大勢の仲間を招待、数え85歳のお誕生会を開いたとき(沖縄では長寿をお祝いされる側が好きな人を招いて大宴会するとご本人から伺いました)、市倉さん、私も招待されました。鯨岡さん急逝の1年後毎日ファッション大賞に鯨岡阿美子賞を設立するため奔走した二人だから招待されたのでしょう。このとき、市倉さんはちょっと疲れた表情でした。そして4月1日、CFD主催の東京コレクション開幕。初日最終ショーのユキトリイに行こうと西武百貨店渋谷店の脇を通りかかったら、間口の狭いカフェで市倉夫妻や帽子デザイナー平田暁夫夫妻らを見かけて合流。ここで私は当時ブームになりつつあった「有機栽培野菜スープ」の効能を説明、市倉さんにも「あんたも健康に注意しろ、野菜スープ飲め」と勧めたら「あんな不味いもの飲めるか」と一笑。私の勧めですぐ飲み始めた平田先生とは大違いの反応でした。みんなでカフェから歩いてショー会場へ移動しユキトリイの新作コレクションを拝見。あとでわかったことですが、このショー終了後に市倉さんは奥様に「ちょっと寒気がする」と漏らし、鳥居さんの打ち上げパーティーには参加せずそのまま帰宅したそうです。市倉さんと私翌4月2日羽田空港整備場でのコムデギャルソン、どういうわけか市倉さんは現れませんでした。パリコレですでにコムデギャルソンのコレクションを取材しているはず、都心から遠いので今日は来ないのかなと思いました。ところが、ちょうどその頃、市倉さんは意識不明で救急搬送されていたのです。4月4日、美登子夫人から電話がありました。市倉さんがパリコレ取材で書いてたはずの原稿が見当たらない、これからデザイナーをインタビューして書き上げなくてはならないタイアップ企画は誰かと交代しなくてはならない、もし新聞社から連絡があったら助けてあげてと頼まれました。容体に変化なく未だ意識不明とこの電話で初めて深刻な状態だと知りました。東コレ終了後の週明け、入院先の西国分寺にある府中病院に飛んで行きました。集中治療室の前には毎日新聞OBや同僚、仕事仲間が集まり、治療室から出てくる看護師に取材しては私たちに状況を教えてくれる方もいました。府中病院の中庭には立派な八重桜があり、私たちは喫煙所でその桜を眺めながら花が全部散る前になんとか眼を覚ましてほしいと願いました。4月23日、美登子夫人から許可が出たので私は初めて集中治療室に。鼻から口からたくさん管を入れられ全く動けない市倉さんを見てショックでしたが、彼の名前を連呼し、脚を摩って励ましました。すると市倉さんの目から涙が溢れ出ました。「おまえが来たことはわかってるぞ」というサインだったのでしょう。午前中に何か食べるものを差し入れし、夕方には病院に戻って奥様を励ます、連日このパターンを繰り返しました。そして4月25日、寿司屋で握ってもらった寿司を持って病院に到着するやいなや看護師から救急治療室に入るよう促されました。まるでドラマのワンシーンのように血圧計の数値が急降下、ゼロになったところでドクターからご臨終の宣告。人の死に立ち会ったのは生まれて初めて、ショックでした。今日であれからちょうど30年、早いです。2代目CFD議長を引き受けてくれた久田尚子さんと市倉さんパリコレ取材で疲れたからでしょうか風邪の菌がなぜか脳に入ってしまい、ドクターはその菌の特定がなかなかできないために処方できず、最後の最後まで原因不明のまま亡くなりました。山登りが趣味の頑丈な男があまりに呆気ない、享年52歳は若すぎます。やっと本を書こうと準備を始める寸前に倒れ、結局1冊の本を書く時間すら残されていなかった、誰にも人生にTHE ENDはあると教えてくれました。控え室で美登子夫人が言いました。「イッちゃんが、太田は本当はやりたいことがあるからやらせてあげたいといつも言ってたわ」と。ひとまわり年少の私を弟のようにかわいがってくれた友は私のことを心配してくれていたと奥様から聞いて嬉しかったです。そして、友の死で私は決断しました。やりたいことをやらずには死ねない、CFD議長を退任してアメリカで学んだマーチャンダイジングの仕事をやろう、と。縁あって百貨店でもアパレル企業でもマーチャンダイジングを指揮し、数百人の社員たちにゼミ形式でマーチャンダイジングを教えました。最近は中国のファッション業界人にマーチャンダイジングを講義する機会が増えました。学生時代からやりたかったマーチャンダイジングの仕事を30年間続けたきっかけは、大親友との別れで人生観が変わったからです。救急治療室で意識不明ながら涙を浮かべて応えてくれた友の姿、一生忘れられません。毎年やってくる4月25日、私にとっては特別な日。合掌。
2024.04.25
日本ファッションウイーク推進機構で3月開催されたRakuten Fashion Week Tokyoを総括する実行委員会が行われました。各委員が今シーズンの運営についてどのように感じたか、今後に向けて改善すべき点は何かを論じ合うミーティングでした。SOSHIOTSUKIコロナウイルスの3年間はショー形式で発表しにくい状況でしたが、2024年秋冬シーズンはショー形式で発表したブランドが増え、見応えのあるコレクションも多かったというのが大方の意見。もちろん反省点、今後に向けて検討すべき点はいくつか出ましたが、これらを受けて事務局は参加ブランド関係者と共にいろんなことにチャレンジしてしてくれると思います。委員の感想でもあり、私自身も気になっていたのは、開演時間の遅れ。開演まで40分も待たされる欧米コレクションと違って、東京は日本人気質なのか大幅な遅れはこれまであまりなかったと思います。が、今シーズンは大幅に遅れて(あるいは意図的に遅らせてか)開演するコレクションが少なくありませんでした。過密スケジュールでモデルのヘアメイクに時間がかかることも遅れの原因かもしれませんが、観客入場も開演時間ギリギリのショーが多かった。私が東京コレクションの運営責任者を務めていた頃、大幅にショーが遅れるとメディア関係者からきついクレームが寄せられたものです。事務局もなるべく開演時間を遅らせずに開演してほしいとブランド側に協力をお願いしたものです。近年は遅れるのが当たり前、時間通り始めないのが普通になってきたのではとちょっと心配。ブランドやそのプレス担当者、演出家にはなるべくオンタイムで開演してほしいですね。私が百貨店にいた頃、ニューヨークコレクションで人気のマークジェイコブスが1時間ほど開演が遅れ、主要メディアに批判記事を書かれたことがありました。翌シーズン、マークジェイコブスはなんと招待状にある開演時間オンタイムでショーをオープン、のんびり会場にやってきた多くの主要プレスやバイヤーはショーを観ることができなかったという事件がありました。オンタイムでやろうと思えばできないことはないという事例ですが、ショーに関わるみんながその気になればオンターム開演は実現可能です。開演予定時間通りとは言いませんが、ぜひ東京だけは大幅遅れだけは是正してもらいたいです。観客の入場整理についても再考すべきかもしれません。東京コレクションを始めた頃は"PRESS"と"BUYER"そして”STANDING"と当時のパリコレに習って入場を整理、雑誌編集長クラス、新聞編集委員クラスの主要プレス関係者がずっと行列で並ぶということはほとんどありませんでした。が、このところベテラン記者やメディアの役職者が行列で放置されたままという光景をよく見かけます。招待状の封筒につけた色別シールで分類、そのシールの色分けの意味が観客にはよくわからず、主要エディターも新人スタイリストもブランドのインフルエンサーも皆同じく長時間行列に並ぶというのは改善できないものかと思います。かつての入場者分類のように分けて、優先的に場内に案内して着席してもらういわばVIP扱いというのがあってもいいかもしれません。JUN ASHIDA数十年もファッションショーを続けてきたジュンアシダなどは1日3回大勢のお客様を招待しているにも関わらず、毎回会場入口が混雑することなくスムーズに入場整理されています。受付でカテゴリーごとにお客様をわけ、案内係がしっかり個別対応しているので混乱はまずありません。各国大使館関係者の出席も多く失礼があってはならないという配慮もあるでしょうが、毎回伺うたびにスムーズな会場案内に感心させられます。他のブランドにもあの方法を研究してほしいです。コレクションを観る側は人間ですから、なかなか入場できなかったり、長く待たされてよく見えない席に案内されたりすると主要メディアの関係者は内心穏やかではありません。本来ファッションショーは気分よく観ていただくもの、開演前から内心ムカムカ状態ではせっかくのコレクションがブランド側の意図通り伝わらず、結局それがブランドにば悪影響になることも。特にベテランのエディターさんはイライラさせないケアをショー会場ではすべきかな、と。一度ブランド側の担当やプレス会社スタッフ集めて、エントランスのケアや時間厳守について講習会をしてはどうでしょう。私も1970年代からたくさんのファッションショーを拝見してきました。入場の際に日本人に対する人種差別じゃないかと頭に来たこともあれば、プレス担当の横柄な態度にブチ切れてイヤイヤ取材したことも少なくありません。しかし、そんな入場対応で気分悪くてもショーはショー、感情移入してはいけないとコレクション評では絶賛したブランドも中にはありました。が、やっぱり人間ですから、穏やかな気分でファッションショーは観たいですね。
2024.04.23
今週は中国から来日したファッション業界人に向けたセミナー、連日の彼らとの食事会で深夜帰宅が続いて身体のケアが必要、久しぶりにリフレクソロジー(足裏マッサージ)店のお世話になりました。コロナ前までは週一度の頻度でよく通っていましたが、4年ぶりに施術してもらったら足は猛烈に痛かった。おかげで身体全体が軽くなり、あらためて足裏マッサージの効果を実感。再び病みつきになりそうです。中国業界人にセミナーをする前日の日曜日、故郷で桑名市立光風中学校の同窓会がありました。私が最後に参加したのはもう四半世紀前のこと、懐かしい同級生たちと楽しい時間を過ごしました。みんなじーさん、ばーさんになりましたが、面影は残っているのでほとんどの参加者は誰なのかすぐ判別できました。同窓会記念写真前日土曜日に桑名に入って桑名高校時代の友人とまず一献。たっぷり飲んで、ぐっすり寝て、翌朝一番に実家近くにあるお花屋さんへ。その作業場が私の実家のお隣なんですが、ここの娘さんはかつて文化服装学院流通専攻課程の教え子でした。故郷のお隣さんの娘さんを毎週東京の学校で教えるとはなんとも不思議なご縁でした。彼女は卒業後ヨーロッパに嫁いで桑名にはほとんど帰ってきません。我が家のお墓実家から目と鼻の先にあるうちの菩提寺。オヤジを2001年、オフクロを2022年に納骨したお墓に手を合わせ、なかなか墓参りできないことを詫び、元気に仕事していることを報告しました。オフクロが亡くなったのを機に兄弟相談して実家を処分しましたが、生まれ故郷に実家がないというのは正直ちょっと淋しいです。桑名市立益世小学校墓参りを済ませたら徒歩5分にある母校の桑名市立益世小学校を訪ねました。私たちの在学中は木造のオンボロ校舎、廊下の床板が抜けてところどころ穴がありましたが、その面影は全くありません。このグランドで友だちとドッジボールやハンドボール、野球、相撲をよくやりました。卒業時私は生徒会長でした。卒業式前日に卒業式運営責任の隣組担任M先生に確認したら、「おまえは何も用意しなくていい。卒業生の贈答品目録は校長先生に手渡すだけ、読まなくていいから」。ところが、司会者は「卒業生答辞」とアナウンス。私は誰かが在校生の送辞に応えるんだろうなと思っていたら、なんとM先生は私に「お前がやれ!」と目で合図するじゃありませんか。慌ててマイクの前に進んでアドリブで答辞らしきことを述べました。何の準備もしていないので何を喋ったか全く覚えていません。さらに、壇上の校長先生に卒業生贈答品目録を渡しにステージに上ったら、なんと校長先生は私にマイクを向ける想定外の行動を。M先生は目録を手渡すだけと言ってたのに話が違います。私は慌てて校長先生に手を振ってノーサインを出し、そそくさとステージを下りました。M先生は私が通っていた学習塾の先生でもあり、私をちょっと試したのかもしれません。謎のままです。次に小学校から徒歩10分の氏神さまにお詣り。大学受験直前にオヤジが倒れて大手術、毎夕氏神さまにお詣りしてオヤジの快復を祈念したことを思い出します。もしもオヤジがあのまま病死していたら私は東京の大学には行けず地元の南山大学しか選択肢はなかったし、その場合は全く違った人生を送っていたはず。桑名市立光風中学校氏神さまを抜けると母校桑名市立光風中学校。桑名市が決めた学区割りで益世小学校から光風中学校に進学した生徒はたった10%くらい、ほとんどの同級生はマラソンの瀬古利彦さんが卒業した市立明正中学校に進みました。なので光風中学校で私たちは完全な少数派、アウェー感覚は中学生活に微妙な影を落としました。もしも益世小学校出身者が多数派だったら私の中学生活は別のものだったでしょう。小学校のとき得意だったハンドボールの部活が光風中学にあったら良かったんですが、なかったので最初はバスケットボール部に入ったものの自分的にはつまらないのでサッカー部に転じ、以後高校終わるまでサッカー少年でした。また、試験管など揃え、薬局で塩酸、硫酸、硝酸など化学薬品を買い込んで化学実験したり火薬を作って悪戯していました。近所の薬局は面がわれるので遠くの薬局で過塩素酸カリを買うときその用途を質問され、まさか火薬作るとは言えないので「酸の摘出に」と訳わからないこと言いました。自家製黒色火薬とティッシュペーパーで長い導線を作り、空き缶を吹っ飛ばそうと何度も試みたのですが、いつも空き缶は花火状態で燃えるだけ、吹っ飛ばすことができません。これじゃつまらないので友人たちに火薬を全部進呈したら、一人は家業の中華料理店かまどに火薬を大量投入して眉毛やまつ毛の一部を焼失、もう一人は実家が火事になったのでまずいと思いましたが、火災原因は私の火薬ではなかったので安心した思い出があります。3年生最初の試験は6クラス約240人中15番の成績、勉強しないで化学実験と読書だけしていた割にはまずまずの成績でした。ところが卒業寸前の試験では97番、同級生は受験勉強しているのにいつも本ばかり読んでいたので取り残されました。年明けから短期間猛勉強、どうにか希望の県立桑名高校に入学することができました。成績急落には忘れられない思い出があります。担任のO先生は父兄面談のときオヤジの前で「成績がこんなに落ちたのは何か原因がある。太田、おまえ女いるのか?」と。帰宅してオヤジに「どこの女の子や?」と厳しく追及されました。言葉遣いの荒い三重県ですが、中学教師が父兄面談の場で生徒に「女いるのか?」はないでしょう。O先生とは卒業から亡くなるまでずっと年賀状のやりとりはありましたが、あの発言は納得いきません。母校の小学校と中学校を訪ねていろんなことを回想しながらのんびり同窓会場に向かいました。同級生とは「いまだから話せる秘話」などを披露し合いながら旧交を温め、翌日朝早くから中国業界人にセミナーがあるので二次会を早めに退出、お酒はほとんど口をつけず新幹線に飛び乗って帰りました。本当はもっといたかったのですが。久しぶりに故郷の学校や神社を巡り、同窓会に参加して同級生たちと懐かしい話をすると、自分の長い人生にはいろんなターニングポイントがあったんだと再認識、あのとき別の選択をしていたら自分はどんな人生を送っていたんだろうと思いました。オフクロは東京、ニューヨークに行ってしまった私に「桑名にいてくれたらなあ」とよく言っていましたから、もっと親孝行できたでしょうね。横浜から同窓会に参加したKくんは桑名で買った名物アサリのしぐれ煮や安永餅のことを同窓会LINEにコメントアップしていましたが、桑名の子はいつまでもどこで暮らしても桑名の味を忘れないんだなあと嬉しくなりました。実家を処分したので気持ち的には故郷は遠い存在になってしまいましたが、私もKくん同様いつまでも「桑名の子」、そのことをあらためて実感できた帰省でした。故郷があるって本当に素晴らしいな。
2024.04.20
あれは2010年のことでした。中国市場への進出をどう進めるかを考えていた私たちは、将来駐在オフィスを開設することも視野に入れ上海と北京の商業施設を回りました。北京の中心部にあった現地有力セレクトショップで手にしたジャパンブランドのアイコンTシャツ、現地価格を日本円換算すると15,000円でした。日本国内では5,700円の商品、「随分高いマークアップをとるんだなあ」とこのとき思いました。セレクト店内を歩いていると、見慣れた服をマネキンが着ている。なんと私たちの会社が作っている商品、中国の小売店にはまだ卸していなかったのでうまくできた偽物か、と。しかし、商品タグは我が社のもの、すぐ日本に電話してブランド責任者に説明を求めました。なんと米国の婦人服見本市に出品した際にこのセレクトショップから注文もらったので出荷。視察に同行した部下たちも私も中国の小売店に出荷していたとは知りませんでした。ブランド責任者に商品番号を伝え日本国内価格を報告してもらうと、日本で22,000円の加工物プルオーバーが中国ではなんと円換算61,000円、いくらなんでもこれは高すぎます。中国では消費税が内税(当時は価格の30%が加算されると聞きました)、それでも日本の小売価格のおよそ2.6〜2.7倍は現地小売店がマージンを取りすぎではないでしょうか。写真は3枚ともビッグブランドの中国ショップ1970年代パリのルイヴィトンやエルメスなど現地ラグジュアリーブランドに日本の並行輸入業者が列を作ってバッグ類を免税でたくさん購入していた時代がありました。輸入業者本人のみならず、現地で集めたアルバイトも動員、大量に免税購入して日本市場で転売したのでブランド側が日本パスポートの免税は一人当たりバッグ1個、財布1個と制限したことも。あの頃は内外価格差が大きく、現地で商品を店頭で買って日本で販売しても十分儲かったから転売はあとをたちませんでした。ところが、ブランド側が順次ジャパン社を設立して日本市場における小売価格をコントロールして内外価格差を抑制し始めると、それまで大儲けしていた並行輸入業社は従来のように高額で販売できなくなり、パリから「転売ヤー」は姿を消しました。あの頃は、JALパック団体旅行に参加する田舎のオヤジさんたちもパリのラグジュアリーブランド直営店で家族から頼まれたバッグ類を購入していました。まだクレジットカードが普及していなかったので、シャツの前ボタンを外して肌身に付けた防犯用腹巻からトラベラーズチェックや現金を取り出す光景を見かけたものです。ラグジュアリーブランドショップでシャツのボタンを外して腹巻から現金を取り出す、現地ショップ販売員にはかなり滑稽だったでしょう。オヤジさんたちが現金を取り出す間しらけた目線で支払いを待つ販売員の表情、シュールでしたよね。インバウンドが急増し、日本の消費経済に大きく貢献してくれる訪日外国人は流通業界にもブランドビジネスにもありがたい存在なのですが、中には中国と日本との内外価格差を利用して儲けようとする転売ヤーとそのアルバイトが売り場を連日奔走、大量に購入して中国で販売しています。内外価格差が大きければ、店頭で小売価格で購入しても十分儲かります。日本で50,000円の商品が2.5倍ならば中国では円換算125,000円、差益は75,000円とれます。一生懸命ものづくりしているブランド側は50,000円の小売価格から取引先の百貨店などのマージンと製造原価を差し引いたらせいぜい25,000円の粗利でしょうが、転売ヤーとそのアルバイトは50,000円で購入した商品を中国で仮に正規品小売価格よりも安い100,000円で販売しても差益は50,000円です。開店時間前から行列に並ぶ人たちが粗利50,000円、ものづくりしている人たちは粗利25,000円、ちょっとおかしくないでしょうか。転売ヤーが自国での販売で儲かる商品を集めるべく奔走しているのは、内外価格差が大きいからです。ジャパン社が設立される以前のラグジュアリーブランドがそうでした。だから、そろそろ抜本的に内外価格差を抑えて転売ヤーがものづくりする側よりも儲かる仕組みを改善すべき時期が着ているのではないでしょうか。いつまでも転売ヤーがわがもの顔で大きな差益を得ているおかしな構図を改めるべきだと思います。なぜそう思うかと言えば、今日某百貨店のジャパンブランドショップの前とその周辺に転売ヤーらしき人々の長い行列を目撃したからです。私も愛用しているこのブランド、某百貨店への商品デリバリーは毎週木曜日と聞いています。今日は金曜日なのに行列、我々一般消費者はショップに入って商品を手にすることもできません。転売ヤーのアルバイト要員が多すぎて長年のブランド顧客がショップに入れない、こんなことがずっと続いていることは異常です。ラグジュアリーブランドがジャパン社を設立して小売価格を自らコントロールしたように、日本のブランド(何もファッション商品に限らず家電製品も同じです)も転売ヤーが日本の売り場を走り回って利益を上げている構図に終止符を打つでき時期ではないでしょうか。コツコツものづくりする側よりも行列に並んで転売する側が利益が多いなんてどう考えてもおかしい!自らのブランド価値を守るためにも、国内顧客がごく普通にショッピングできるようにするためにも、海外市場のビジネス戦略やヨーロッパブランドの取り組みをもっと勉強してほしいですね。
2024.04.12
3月10日の週は東京コレクション(正式名称RAKUTEN FASHION WEEK TOKYO)でした。あいにくその直前の中国出張が、上海、蘇州、広州3都市それぞれでセミナー開催と少々ハードだったからか、私は体調を崩して連日薬で高熱を抑えながらファッションショーを視察。東コレ終了時にやっと熱が下がって普通に動けるようになりました。そこへ2月末の中国出張をアレンジしてくれた佐吉マネジメントコンサルティングの金 時光(アーロン・ジン)さんが来日、彼に日本の仲間たちを紹介し、今後の事業計画を議論するなどこれまた忙しい1週間を過ごしました。金さんは再び4月に企画している中国アパレル企業経営者たちの東京研修ツアー準備のため、研修旅行期間中に講演を依頼している日本の業界人数名と打ち合わせをしていきました。3月25日ブタ小屋での記念撮影上の写真は金さん最後の東京の夜、新宿歌舞伎町の裏通り「思い出の抜け道」(ゴールデン街のような通りが他にあるとは知りませんでした)にある居酒屋「ブタ小屋」での記念撮影。写真中央が金さん、右側がIFIビジネススクール教え子の齋藤孝浩さん(「ユニクロ vs ZARA」などの著者)。金さんは齋藤さんの著書を中国語に翻訳出版、人口の多さもあって日本の数倍も中国では売れているそうです。昨年9月、齋藤さんから突然連絡をもらい、私は金さんが昨秋企画した中国業界人の東京研修ツアーでセミナーを担当、このとき初めて金さんを紹介されました。翌10月には広州に拠点を置く製造小売業ゴエリア(ブログ前項で紹介)の来日社員研修でもセミナーを頼まれ、さらに12月には齋藤さんと一緒に杭州と寧波に出張、現地で売り場視察や経営者研修をさせていただきました。この現地経営者研修は9月の東京でのセミナーを企画した金さんが突然思いついたプランでした。2月蘇州での中国最大ニットメーカーの社員研修そして、12月杭州での経営者研修開催中に金さんは参加した経営者に働きかけ、齋藤さんと私をセットで招聘して2月に個別企業の社員研修をお膳立てしてくれました。上海では近郊のアパレル事業者たちを集めた無料セミナー(4月の東京研修ツアーをPRするためのプログラム)、続いて蘇州と広州ではそれぞれ現地有力企業向けのセミナーや幹部ミーティングがありました。以前にも触れましたが、金さんは大学卒業後豊田通商上海支店に新卒就職、そこで「トヨタかんばん方式」に触れ、この合理的なマネジメントを中国にもっと広めたいと28歳で独立、サプライチェーンマネジメントを中国企業に指導するコンサル会社を立ち上げました。クライアントの中には世界有数の監視カメラメーカーや中国空軍の戦闘機製造に関わるメーカーもいるそうです。つまり金さんの本業はファッション流通業ではありません。IFIビジネススクールに通っていた齋藤さんは当時総合商社トーメンの若手社員。のちにトーメンは豊田通商に吸収合併され、米国西海岸駐在から帰国した齋藤さんは独立して自身のコンサルティング会社を立ち上げました。旧トーメン出身でサプライチェーンなどを指導する齋藤さんと、豊田通商現地法人から独立してコンサル会社を立ち上げた金さんには恐らく何か接点があったのでしょう、金さんは齋藤さんの知見を中国ファッション業界にも広めようと各種セミナーや中国語版の出版などを手掛けてきたのです。金さんのファッション業界におけるパートナーとして元アリババ研修部門幹部の游 五洋さん(通称シージャンさん)がいます。シージャンさんは浙江省や広東省のアパレルメーカーや小売事業者の間で指導者的な存在、中国企業にマーケット動向やマネジメントを教えている方です。昨年9月の東京研修ツアー同様、今月の研修ツアーにもシージャンさんがまとめ役として同行し、講演者の話を最後にまとめる「塾長」のような役割をなさいます。右:金さんのパートナー游 五洋さん(通称シージャンさん)今回の東京研修ツアーにも上海、杭州、広州などのアパレル企業経営者や幹部が30余名参加し、日本のファッションデザイナー、ファッション専門学校代表、ビジュアルマーチャンダイジングのプロ、ショッピングセンター開発プランナー、コンビニ経営の経験者などいろんな人が講演、私も2つのタイトルでセミナーを依頼されています。講演のあとは売り場を案内しながら注目すべき視察ポイントを解説することにもなっています。右:金 時光(アーロン・ジン)さん金さんは36歳、私よりかなり若くバイタリティーもあります。お酒が入ると、いかに中国を良くしたいのか、何を日本から学ぶべきなのか、彼は熱く熱く語り始めます。しかも体力あるから飲み会はエンドレス、我々は彼のペースに完全に引き込まれます。彼を見ていると、32歳で東京コレクションの責任者を引き受けファッション流通業界のお偉いさんたちにストレートな意見を吐いて煙たがられた当時の自分を思い出します。若造の意見に真摯に耳を傾けてくれたお偉いさんは少数派、ほとんどは「このガキ、何言ってるんだ」と見下した冷たい目線ばかりでした。相容れない産業界の先輩たちを早く識別するため32歳でネクタイ着用を止めた私ですが、金さんはノータイどころかいつもTシャツ姿でどんな席にも出かけます。きっと中国にも「このガキ、何言ってるだ」と金さんのストレートな意見に耳を傾けない年長者は少なくないでしょうね。まるで自分の若い頃を見ているような感覚、しかも「中国をもっと良くしたい」という若者の熱い思いに刺激されて私も自然と元気が出てくるのです。もうすぐ金さん旋風の再到来です。
2024.04.06
3月11日にアップしたブログで触れましたが、広州市に拠点を置く製造小売ブランドGOELIA(ゴエリア)は今年で創業29年、広州出張初日がちょうど創業祭当日だったので私もそのイベントに参加、社員たちの盛り上がりは半端なかったです。ゴエリア本社の中庭でのミニコンサートゴエリア創業者ゴードン・ウーさんと初めて会ったのは昨年10月、東京でセミナーを頼まれたときでした。ウーさんは社員を連れて頻繁に来日しますが、このときは同行する本社幹部や各部門の責任者を相手にアパレル産業の課題、ブランドビジネスの難しさをレクチャー。下の集合写真はセミナー会場だった西新宿住友ビルで撮影したものです。それから2カ月後の昨年12月、杭州市で私たちのセミナーが開催されたときもウーさんは幹部社員を連れて参加してくれました。このときに広州本社での社員向けセミナーを依頼され、2月に広州を訪問しました。初日は本社見学と創業祭参加、2日目は市内の直営店を4店ほど視察してショップ運営についてアドバイス、3日目は幹部20名ほどとの意見交換、そのあと150人の社員にマーチャンダイジングの基本を講演しました。2月後半の広州訪問の寸前もウー社長は数名の社員を連れて来日、このときも銀座で会食しました。東京で珍しく積雪があった夜です。このとき私は皆川明さんのミナペルホネン南青山スパイラルCALLの視察を勧めました。路面でもないビルの5階にあるお店、普通に考えたら客足は見込めない場所なのにCALLはいつも賑わっている、ネット社会では情報発信力さえあれば裏通りでもビルの上層階でも集客することができることを実証する店舗、と説明しました。雪の翌日、ウーさんらはすぐCALLを視察したそうです。そしてまた3月、ウーさんは社員を多数連れて来日、私たちも会食に招待されました。芝公園のお豆腐レストランに入った瞬間、ちょっとびっくり。今回の同行社員は写真のように大半が若い女性でした。彼女たちはネットのインフルエンサーのような存在、それぞれがたくさんのファンを抱え、ネットでゴエリアの商品を紹介して個別に注文をとる、簡単に言えば実店舗でなくネット画面で商品を売る販売員なのです。今回の東京出張は成績上位者のご褒美旅行、日本文化に触れ、早咲きの桜並木を見物、都心でそれぞれ買い物を楽しみ、夕食はみんなで日本食を味わう。こんな機会をくれるんですから、ウーさんは彼女たちにとってありがたい経営者です。お豆腐レストランでの記念撮影写真上下ともミナペルホネンCALLそして、皆川明さんにお願いしてスパイラル開館前に5階ショップをあけてもらい、ウーさんたちは皆川さんから直接お店のコンセプトなどを伺うことができました。ゴエリアが創業29年ならミナペルホネンも同じ創業29年、ウーさんと皆川さんは話が弾んで予定よりも長く面談。ウーさんたちはきっとたくさんの刺激を持ち帰ったことでしょう。ファッションブランドの経営者のとき、私も現場の販売スタッフの人材育成や処遇改善には特に力を入れ取り組みました。販売最前線は貴重な戦力、なのにファッション業界の慣例として販売員のケアは十分ではありません。これはおかしい、なんとか改革しようといろんな手を打ったものです。ウーさんは我々よりももっと販売員をケアしています。店頭の販売スタッフやネットショッピングの販売スタッフに海外視察のチャンスを与え、彼らを刺激する。会食時に若い女性たちは異口同音「ずっとこの会社で働きたい」とコメントしていましたが、本社の社員のみならず販売部門のスタッフにもチャンスを与える経営者、社員から愛されますよね。社員に海外視察で刺激を与える、経費のことを考えると簡単ではありません。が、ゴエリアは何度も東京視察にやってきます。こういう会社の経営者、高く評価したいです。
2024.03.30
中国の上海、蘇州、広州各都市でそれぞれセミナーや研修をして帰国、休む暇なくすぐに東京コレクションが始まりました。中国出張の疲れからか珍しく発熱、前夜祭イベントは急きょ欠席、翌日からは熱と咳、鼻水に悩まされながらどうにかショーを視察しました。周囲の客席の方々に風邪をうつしてはいけないので客席では無口、熱が高いときは無理せずショーを欠席、今シーズンは最悪のコンディションでした。それでもそれなりの本数ショーを拝見、写真撮影できる席ではたくさん写真を撮ることができました。その中から自分なりに評価したいなと思った5つのコレクションをここにアップします。5つに共通するのは、あれもこれも見せようとする欲張りコレクションではなく、ひとつのディレクションを徹底して突き進む姿勢と服自体の完成度。あくまでも個人的な見解、メディアの方々とは視点が違うかもしれません。HIDESIGN(ハイドサイン) このようにオープニングからモデルが多数ステージに登場、迫力あるワークウエアでした。HARUNOBUMURATA(ハルノブムラタ) まだデビューして数年しか経過していないのに貫禄すら感じました。FETICO(フェティコ) デビューからずっとブレないディレクションが素晴らしい。MURRAL(ミューラル) 予想以上に見応えのあるコレクション、ショーを見ることができて良かった。SUPPORT SURFACE(サポートサーフェス) いつも細かいところまで目がいき届いた安心して見ていられるコレクション、今回もさすがでした。そして、RAKUTEN FASHION WEEK TOKYO公式スケジュールの翌日夕方に立教大学キャンパスで開催されたKEISUKEYOSHIDA(ケイスケヨシダ、写真下)も面白いコレクションでした。バッグ代わりにランドセルを持った無表情なモデルがちょっとシュールで可笑しかった。ほかにも気になるコレクションはいくつもありましたが、残念ながら撮影しにくい客席での撮影は諦めました。誰でも客席でビデオや写真をスマホ撮影できる時代ですから、やっぱりコレクションはランウェイに近いポジションで拝見できればありがたいですね。
2024.03.27
蘇州研修2日目は同行の齋藤孝浩さんが終日担当、私はひと足先に次の目的地広州へ向かいました。蘇州のホテルから上海虹橋空港までは佐吉コンサルティングの金さん運転で移動。虹橋空港で金さんは部下に車を手渡し、私たちはチェックインカウンターに。ところが金さんに電話が入り、彼は慌てて降車した場所に戻っていきました。何と蘇州から虹橋空港まで金さんは車のキーを差し込むことなく、スマホだけで運転してきたのです。部下のスマホでは車が動かない、金さんはリュックサックの奥にしまってある車のキーを渡しに行ったのです。この間たった5分くらいの出来事、しかし駐車違反の切符を切られました。キーなしでEV車を蘇州から長距離運転していたとは驚きです。広州空港では私を招聘してくれたアパレルメーカーの社員が大きな花束を持ってお出迎え、空港で花束なんて初めての経験、照れくさかったです。空港から市内に向かう道路は美しい花壇が続き、市内に入ると今度は道が狭く車線は描いていない凸凹の道、昔から交易で栄えた歴史ある町ですから昔の道路幅のままというのも少なくありません。創業祭では永続勤務表彰も行われたちょうどその日はアパレルメーカーの創業祭、社員たちは部署ごとにかくし芸を披露し、会社から臨時ボーナスや永続勤務の発表もあってかなり盛り上がりました。勤続20年の社員食堂コックさんにも感謝のハグと記念品が社長からプレゼントされましたが、ややもすると陰の存在になりがちな人にまでちゃんと大勢の社員の前で感謝する、いい会社ですね。翌朝は広州市内の店舗視察。同行する社長や幹部たち10名ほどに什器台数やその形状、マネキンに着せる服の飾り方から定数定量管理まで気がついたことを売り場で指導。ファッションビルやショッピングモールの大型ショップのほかに、歴史的建造物の小型ショップがユニークでした。地元の美術大学の学生にスペースを解放し彼らの作品展示をしたり、半世紀以上前はこの場所は有名な写真館だったそうで、若いお客様がレトロな雰囲気の中で記念撮影していました。古くからの繁華街の目抜き通りにある「北京路225ビル」その上層階にあるギャラリースペースかつては有名な写真館だったビルでブランド創業者とそして次の日の午前中は幹部と海外戦略に関する意見交換、午後は社員150名にセミナーでした。午前中の幹部たちとの意見交換では、創業から29年間取り組んできたことが説明され、海外戦略について社長から構想が発表あり、これについて私はどう思うか意見を述べました。海外展開でキチンと収益をあげるのはいかに大変か身にしみているので調子のいい話はせず慎重に進めた方が良いとアドバイス。一昔前と違い、ネットで通販も発信もできる時代ですから、海外主要都市の一等地に店を構える必要はなくなり、場合によっては家賃の安い裏通りでもビルの上層階でもビジネスはできるとも申し上げました。すでにオーストラリアやシンガポールに出店しているので海外出店を加速させたいのでしょうが、海外は簡単ではないので慎重に計画を立てる方がいいでしょう。午後は本社スタッフに向けてマーチャンダイジングの基本を説明。どういうお客様に向けて、どんな商品を企画し、これをどのように売るのか、そしていくつ販売するつもりなのか仮説を立てて仕事しましょう、とこれまで日本で教えてきたことを3時間ほど講演。最後は質疑応答でしたが、空間演出担当の若手社員と私とのやりとりに創業社長がイラつき、その社員に私が指摘した高すぎるハンガーラックを再検討するよう指示していました。什器の高さが高いのは什器製造メーカーに押し切られたらしく、社長はそんな仕事の仕方ではダメ、しっかり話し合って再考するよう命じました。セミナーの質疑応答で講師から指摘のあった問題点を社長自らすぐ現場に改善の指示を出す、このスピード感がいいですね。この会社は自社工場でアパレル製品を生産し、自分たちの直営店で社員が販売している製造小売業。もっと上質な商品を開発して海外に販路を広げたい意向ですが、社長と社員の間の距離が短く、幹部の意思決定はスピーディというところが業績を伸ばしてきた要因でしょうね。社長ら幹部は昨年10月東京での社員研修、12月の杭州市での業界セミナー、そして今回の広州本社での研修と意見交換と短期間で三度も私の話を聞いてくれました。やる気のある経営者の会社、当方もセミナーのやりがいがあります。
2024.03.11
初日上海での講演を終えると上海西方の蘇州市のホテルに移動、そこで最大手ニットメーカー「恒源祥」の新年祝賀会に参加しました。翌日は終日セミナーで私が、その翌日は今回も同行した齋藤孝浩さんが担当、丸2日間の長い研修でした。研修会場のHENGLI HOTELロビーかつては手芸用の毛糸を販売していた1927年創業の歴史ある会社、中国政府の解放政策によって民営化され元国営大企業です。フランチャイズ含め中国全土に約6000店の販売網、どんな家庭にも1枚はクローゼットに入っている有名ブランドと教えてもらいました。系列ニット工場や染色工場もたくさん傘下に有しているのでしょう、セミナー参加者は上海本社の社員のみならず、フランチャイズ店や系列工場の経営者も。新年早々こうした社内セミナーを開催とは、人材育成に力を入れている経営者です。私の講演タイトルは「マーチャンダイジングの基本」。顧客分類、商品分類、定数定量管理など長年日本の学校や社内MDスクールで教えてきた「誰に、何を、いくつ売るのか仮説を立てる」をお話しました。上の写真は、常日頃国内の研修で最初の講義で話している「マーチャンダイジングの語源であるマーチャンダイズ(=商品)を掌握するのが最も重要」と投影画像のMERCHANDISINGを指差しながら説明するシーンです。昨年12月杭州セミナーでお世話になった同時通訳の張さんが今回もサポートしてくれ、丁寧に翻訳してくれたようなので助かりました。張さんには国内のMDスクールで受講生に配布しているテキスト全編を事前に送ってあり、私が何を言おうとしているのか十分把握していました。海外セミナーはなんと言っても通訳さんの出来次第、日本語も上手な通訳さんでありがたいです。最後に「意図のある発注方法」と「全員が共有する販売計画」を説明して約6時間の講義は終了。するとリチャード・チン社長から受講者に提案がありました。1テーブルごとに全員で討論して質問を1つに絞り、私が評価する良い質問をした3つのグループには全員にご褒美を提供する、と。15分ほどの短い時間ですがテーブルごとに真剣に議論、各テーブルから1つずつ質問があがりました。顧客年齢が年々高くなるのに対してブランド側はどう対処すべきか。思い切って一気に若返りを目指すべきなのか、それとも現状を維持しながらゆっくり軌道修正すべきなのか。私が奨励するメリハリある発注をしたら売れ残りが出るリスクはないのか。フランチャイズ店(ブランド直営店よりフランチャイズ契約で販売してもらっている店舗の方が多い)の販売員人材に関する問題など、みなさん具体的な質問でした。私が良い質問だなと感心した3つのグループを社長に伝えましたが、果たしてどんなご褒美なのかちょっと気になります。日本視察研修という案も出ていましたから、実現したら素敵です。最後の最後にサプライヤーなのでしょう、家庭用洗濯機で洗えるカシミヤの特許を持つニット工場の若い社長さんから「自分たちが作ったカシミヤセーターを着てほしい」とプレゼントの申し出を受けました。齋藤さんはブラック、私はチャコールグレー、共にクルーネックをお願いしましたからもうすぐ日本に届くと思います。本社所在地は上海ですが蘇州は創業者が生まれた場所、目の前には景勝地でも有名な太湖がある高級ホテルで新年会も含めて3日間の合宿とはかなりの出費でしょう。そこに日本人講師を2人も招聘して研修するんですから素晴らしい試みです。3年後は記念すべき創業100年、ぜひまた来てみたいです。
2024.03.08
I.F.I.ビジネススクールの教え子齋藤孝浩さんの紹介で昨年9月に知り合った中国人コンサルティング金时光(Aaron Jin)さんが企画する2回目の中国研修の旅から戻りました。前回は杭州、寧波で5泊でしたが今回は上海、蘇州、そして飛行機で南に移動して広州で6泊、3都市でセミナーをしてきました。初日の日曜日、上海に到着してすぐ1927年創業の老舗ニットメーカー恒源祥(Heng Yuan Xiang)を訪問、日曜日にもかかわらず社員食堂の奥にある個室で社長ご夫妻らと夕食を共にしました。この会社は元は国営企業、中国のどの家庭にも1枚はセーターがあるはずと言われる最大手、中国オリンピック委員会公式サプライヤーとして選手や役員にユニホームなどを提供しています。Richard Chen社長(左)、齋藤孝浩さん(右)と記念撮影翌月曜日は上海とその周辺のアパレル関係者に向けたセミナー、金さんとパートナーが主催する無料イベントでした。午前中は私、午後は齋藤さんが担当。会場は上海郊外の幕張メッセのようなエリア、カシミヤやウールなど高級ニット糸を世界のトップブランドに供給する会社CONSINEEのショールームでした。ところが、春節休暇で2週間ビルは完全閉館していたので休暇明け初日4階吹き抜けショールームは暖房がなかなか行き渡らず、セミナー参加者はコートを着たまま、私はコートを脱いで講演しました。すると会場を提供してくれたニット糸メーカーの社長さんが自社カシミアマフラーを提供してくれ、さらに参加者のアパレルメーカー女性社長がわざわざダウンジャケットを会社から取り寄せてプレゼントしてくださいました。皆さん親切です。寒い会場でスピーチ開始カシミアマフラーの差し入れがありました寒いのでプレゼントされたダウンジャケット上海セミナーのタイトルは「アパレル産業の課題」上海のセミナーでは、景気が鈍化するとすぐに「原価を下げろ」と言う経営者がいるけれど、それは本当に正しいのだろうか。命令を受け現場スタッフは安い素材の調達に走るが、素材レベルを下げると商品のクオリティーは目に見えて下がる、素材のクオリティーを下げてはならない、素材以外の別のところでコストダウンを図れないか、と事例を出して説明。ミッキー・ドレクスラー氏がGAPグループに参加した当初、彼が指揮してGAPの商品が明らかに良くなってブランドイメージが上がった話、彼が創業者と対立して退任したあとGAPは日本製デニムを使用しなくなり徐々に商品に魅力がなくなったことなどを解説しました。一方、ドレクスラー氏が移籍したJ・クルーは俄然商品のレベルが上がり、日本製デニムを使用していたし復活したリーバイスもユニクロも日本製デニムを使っていると説明。さらに、日本の繊維産地でたびたびユニクロの素材を生産している場面に直面した経験と、ユニクロが良質素材を大量発注することでいかに原価を抑えているかをお話ししました。休憩時間、なんと参加者の上海ユニクロ本部で働く方が「私たちが知らないユニクロのお話が聞けて勉強になりました」、と声をかけてくれました。そうですよね、私たちは北陸産地でも尾州産地でも、そして特殊技術の撚糸工場でもユニクロが素材を調達しているのをこの目で見ていますから、海外のユニクロで働く従業員よりもユニクロのものづくりに詳しいかもしれません。在庫を減らすためには精度の高い発注業務が必要、そしてプロパー(正価販売)消化率をアップするためにアパレル企業は何をすべきか、さらにブランドのDNAを守り続けることがいかに重要なのかを具体的に事例をあげてお話ししました。大量在庫と低いプロパー消化率で消滅していった大手アパレル企業の事例、ブランドDNAを守らないデザイナーが自分の個性を発揮したがって結局ブランドそのものが廃止に至った事例、デザイナーが交代しようとブランドDNAを守り続けブランドを発展させてきたブランドの話も。私が担当する午前の部のあと受講者らとランチ、そのあと齋藤さんの部が始まると私はひと足先に車で蘇州のホテルに移動、前日会食したChen社長の会社の新年会に参加しました。恒源祥の新年会で人事部の責任者から「パンデミックの前に東京であなたの講演を聞きました」とその時の写真を見せてもらいました。2018、19年当時私は頻繁に中国の訪日視察団にセミナーを頼まれていましたが、彼女と同僚も私の講演を東京で聞いてくれたようです。そのときどんなテーマだったのかはもう忘れましたが、こうやって過去に東京で講演を聞いてくれた人と異国の地で再会できるというのは嬉しいですね。数年前に東京のセミナーで人事部責任者と撮影この新年会でちょっと日本では考えられないシーンがありました。会場には幹部社員と共に大株主、外部サプライヤー、業界団体責任者らが招かれていました。日本であれば会社の代表取締役からまず主催者挨拶や乾杯音頭があると思いますが、前身は国営企業だったからなのか新年会挨拶はこの会社に席のある「中国共産党」の女性一人のみでした。労働組合なのかと質問したら、そうではありません。大企業には中国共産党の人間が派遣されているのだそうです。党から派遣されている女性、参加者と同じくお酒も飲みますし我々と個々に乾杯もしてくれます。ごく普通のキャリア女性のようですが、経営陣でもない、労働組合でもない、私たち日本人ビジネスマンには正しく理解できない不思議な存在でした。政治体制も生活様式も日本と違いますからいろんな?マークを経験できて楽しかったです。
2024.03.05
先日、かつて同じ職場で働いた仲間で私が指導する社内研修の教え子、現在は諏訪湖の近くで会社を経営する小畑啓くんから会食のお誘いがありました。なんでも彼の叔父さんがイタリアの由緒あるワイン醸造村「カステッロ・ディ・ルッツァーノ」でワインをつくっていて、それを日本で輸入販売している人を紹介したいとのことでした。待ち合わせ場所は南青山4丁目にあるテーラーDrapper Hope、この店の代表でもある中野洋平さんを訪ねました。中野さんは神奈川県のサッカー高校としても有名な桐光学園の背番号10だったとか。製薬会社勤務を経て突然テーラーを起業したのは、サッカーで鍛えた身体にドンピシャサイズの既製服がなく、オーダーメイドは値段が高過ぎる、もっとリーズナブルなオーダー服をつくりたいという理由から。ファッションの世界での経験はゼロだった人がテーラーを開業とは驚きです。中野さんはご縁があって小畑くんの叔父さんがイタリアワインの販売も手がけることになりました。中野洋平さん(右)と小畑啓さん(中)とビストロで記念撮影南青山のテーラーから西麻布のビストロ「帝国食堂」に移動、美味しい料理と中野さんが持ち込んだワインをたっぷりいただきました。バランスの取れた私好みの白ワイン、早速知り合いのソムリエやレストラン事業者を紹介することに。ワインのことはこちらをのぞいてみてください。ほんとに美味しいです。www.castelloluzzano.itここでの本題はこのワインではありません。小畑くんのご両親のことです。2009年5月、当時私が社長をしていたアパレル企業の株主総会の夜、私は部長以上の幹部およそ20人を銀座7丁目のおでん屋「力」(りき)の2階座敷に集めました。そこそこお酒が入ったところで、「来年社長を退任するぞ」と宣言。業務革新が終わったら雇われマダムを退いて生え抜き社員にバトンタッチするつもりでした。社長就任当初、会議で「定数定量」と私が言えば下を向いてクスクス笑っていた社員たち、マーチャンダイジングの基礎を教え続けたら若手社員でさえ定数定量を意識して仕事をするようになりました。つまり私の役目はそろそろ終わりと思っていました。銀座おでん屋・力でも幹部たちは「冗談でしょ」と知らんぷりでした。が、翌年5月の株主総会の夜は同じ銀座の力で社長退任慰労会でした。前年の宣言通り私は社長退任し、生え抜き社員を後継に指名、総会で正式承認されて肩の荷が下りた楽しい宴席でした。いつも大人数でおしかける私たちをケアしてくれたのが小畑くんの母上。残念ながら数年前に急逝されたと先日聞きました。太平洋戦争の米軍空襲で東京は焦土と化したけれど、銀座はほんの一画だけ焼けずに建物が残りました。その燃えなかった古い1軒家を借りておでん屋をやっていたのが小畑くんの父上、小畑豊さんと奥様。関東風の濃い味ではなく、小畑さんのつくるおでんは昆布の出汁がきいた関西風の優しい味、関西圏生まれの私にはぴったりの味でした。だからことあるごとに利用させてもらいました。小畑豊さんのご先祖が慶應義塾の塾長だった小泉信三さんと関係が深かったことで、小畑さんは幼稚舎からの慶應ボーイ。ところが慶應義塾大学を中退して大阪の有名な料理人「㐂川」店主の上野修三さんに弟子入り、料理の道に転じました。㐂川育ちですから関西風の出汁だったのです。ちなみに啓くんはその頃大阪で生まれ、ご両親の転居で東京育ち、そして大学は私の後輩にあたります。力の小畑ご夫妻1995年、大親友の急逝に直面して私は本当にやりたい仕事をやろうと東京ファッションデザイナー協議会議長を退任。当時松屋社長だった古屋勝彦さんに誘われて百貨店に移籍、社員たちにマーチャンダイジングを教え始めました。外部の人間がそれなりの立場で老舗百貨店の組織に入って業務革新をやろうというのですから、社内にいろんな抵抗や軋轢が生まれます。このとき幹部社員たちとの飲み会に私を何度も誘って融和の機会を与えてくれたのが創業家一族の専務取締役古屋浩吉さんでした。古屋さんには銀座、浅草のお店を何軒も連れていってもらいましたが、そのうちの1軒が銀座の力。古屋浩吉さんはその後松屋社長に就任した後相談役のまま2018年に亡くなりましたが、私はいまも古屋さんに連れていってもらった焼き鳥屋、蕎麦屋、カウンターバーなどに通っています。実は力の小畑豊さんと古屋専務は慶応の同期、いわゆる竹馬の友。啓くんが松屋に就職したのもおそらく古屋専務の勧めがあったからでしょう。私は若手社員が力のご夫婦の息子だと最初は知りませんでしたが、力にお邪魔するたび小畑くんの母上は「うちの息子、ちゃんと仕事していますか?」と声をかけ、啓くんが退社して奥さんの実家の家業を継承するため諏訪に移住したら「ちっとも東京に帰って来ないんですよ」と漏らしていました。寡黙な料理人の父上、客あしらいのうまい明るい母上でした。先日中野さん、小畑くんとの雑談の中で面白いつながりがわかりました。イタリアでワインをつくっている叔父さんの奥様の旧姓を聞いてびっくり、神戸の灘地区で有名な珍しいファミリーネームでした。数年前、かつて古屋浩吉さんに連れて行ってもらった銀座のカウンターだけの小さなバーでのこと、松屋の歴代幹部をよくご存知のママさんと会話する中でお互い会社名を「М社」と言っていたら、隣席の男性客が「すみません。М社は銀座交差点に近い方ですか、それとも遠い方ですか。私のいとこが遠い方のМ社の....」と名刺交換。某大手食品メーカー役員Hさんでした。このHという姓名にピンときました。私をスカウトしてくれた古屋勝彦社長の奥様の母上の旧姓がHです。非常に珍しい姓名なので何代か遡れば小畑くんの叔母さんとは何か関係があるのかもしれません。叔母さんの父親は大手総合商社の元幹部、海外駐在も長く叔母さんは海外で育ったそうですから、きっと灘の富裕層でしょう。小畑くんの父上が慶應で仲良しだったのが古屋浩吉さん、母方の叔母さんの旧姓Hは古屋勝彦夫人の母上の旧姓と同じ、小畑くんによれば彼のご両親も古屋浩吉さんも恐らくご存知なかっただろう、と。ちなみにM社前社長は古屋勝彦夫人の弟である秋田正紀さん(現会長)、現社長の古屋毅彦さんは勝彦夫妻の長男です。さらに、小畑くんと仲良しの格闘家が所属する団体の会長はいろんな大臣を歴任した元代議士の深谷隆司さん、その甥っ子と結婚したのが古屋浩吉さんの次女です。また、小畑豊さんの料理の師匠上野修三さんの共著「酒肴 日本料理」(小畑豊さんが大事にしていた本)のパートナーはテレビでもおなじみ道場六三郎さん、道場さんの孫は私の息子たちの有機栽培農場で働いています。いろんなつながりがあるんです。たまたま元教え子の叔父さんが手がけるイタリアワインを飲むために集まったのですが、いろんな話をするうちに小畑家の「ファミリーヒストリー」(NHK番組)みたいになりました。不思議なつながり、世間はほんと狭いです。
2024.02.23
現在2024年秋冬ニューヨーク・ファッションウイークが開催中ですが、東京コレクション(正式名称Rakuten Fashion Week TOKYO)のスケジュールが昨日発表されました。詳細はこちらを。招待状などお問合せは各ブランドの広報または営業担当に直接お願いします。https://rakutenfashionweektokyo.com/jp/sp/index/月日時間ブランド会場3月10日17:00M A S U 渋谷ヒカリエ ホール A3月11日12:00HIDESIGN渋谷ヒカリエ ホール A 13:00pays des fées渋谷ヒカリエ ホール B 14:0008sircus オンライン配信 15:00IRENISAオンライン配信 16:30Chika Kisada招待状をご覧ください 18:00KAMIYA招待状をご覧ください 19:00SHINYAKOZUKA 渋谷ヒカリエ ホール A 20:30TANAKA招待状をご覧ください3月12日12:00FAF 渋谷ヒカリエ ホール A 13:30HOLO MARKETオンライン配信 15:00HOUGA表参道ヒルズ スペース オー 17:30HARUNOBUMURATA招待状をご覧ください 19:00Kota Gushiken 渋谷ヒカリエ ホール A 20:30VIVIANO招待状をご覧ください3月13日12:00tanakadaisuke 渋谷ヒカリエ ホール A 13:30YOHEI OHNO招待状をご覧ください 15:00JOTARO SAITO表参道ヒルズ スペース オー 16:00MIKAGE SHIN招待状をご覧ください 17:30FETICO招待状をご覧ください 19:00KANAKO SAKAI渋谷ヒカリエ ホール A 20:30WILDFRÄULEIN招待状をご覧ください3月14日12:00PHOTOCOPIEU 渋谷ヒカリエ ホール A 13:30WIZZARDオンライン配信 16:00TAE ASHIDA招待状をご覧ください 17:00AKIKOAOKI招待状をご覧ください 18:00MURRAL招待状をご覧ください 19:00Queen&Jack渋谷ヒカリエ ホール A 20:30MIKIO SAKABE招待状をご覧ください3月15日11:00mister it. 渋谷ヒカリエ ホール A 12:00HEōS渋谷ヒカリエ ホール B 15:00meagratia表参道ヒルズ スペース オー 17:30support surface渋谷ヒカリエ ホール A 19:00Marimekko (by R)招待状をご覧ください 20:00HYKEオンライン配信 21:00mintdesignsオンライン配信3月16日12:00HAENGNAE 渋谷ヒカリエ ホール A 13:00Global Fashion Collective 1 渋谷ヒカリエ ホール B 14:30CHONOオンライン配信 16:30DRESSEDUNDRESSEDオンライン配信 18:00Global Fashion Collective 2渋谷ヒカリエ ホール B 19:00SOSHIOTSUKI (TFA)渋谷ヒカリエ ホール AHARUNOBUMURATA 2024春夏コレクションよりSHINYAKOZUKA 2024春夏コレクションより
2024.02.16
私がニューヨークで取材活動をしていた頃、米国人気デザイナーブランド御三家はカルバンクライン、ラルフローレン、ペリーエリス(86年急逝。代わって自らのブランドを立ち上げたダナキャランがそのポジションに)でした。ネイビーブルー、チョコレートブラウン、バーガンディーなどシックな色調とミニマリズムを絵に描いたようなシンプルなデザインで、カルバンクラインは社会で成功するキャリアウーマンに絶対的に支持されるブランドでした。話題にもなったブルース・ウエバー撮影の広告そのコレクションもさることながら、カルバンクラインはデザイナージーンズでも、アンダーウエアでも大成功、フレグランスやセカンドラインのCKカルバンクラインのビジネスも軌道に乗せました。しかしながらコレクションブランドは数年前に販売中止、アンダーウエアなど一部ライセンスブランドだけが市場に残る形になってしまいました。寂しいことに、現在もデザイナーブランド市場で存在感を保っている御三家ブランドはラルフローレンのみです。私はニューヨーク在住時代から今日までずっとカルバンクラインの白無地クルーネックTシャツ(ライセンス商品)を愛用してきました。帰国して米国出張するたび、ブルーミングデールズ百貨店地下メンズウエア売り場で3枚入りパックを2,3個購入、出張に持参した古いTシャツはホテルのごみ箱に捨てて帰る、そんなパターンを四半世紀以上続けました。ところが新型コロナウイルスで出張不可、愛用するカルバンクラインTシャツを現地で新旧入れ替えることができず、仕方なしに日本でネット通販してみようと検索したら、入手できるのはVネックのみ、クルーネックは入手できません。大きなロゴの入ったデザインものクルーネックはありますが、長年愛用してきた白無地クルーネックは販売していないのです。お気に入りの白無地クルーネックTシャツ日本では夏のクールビズ対応でネクタイをせずにシャツの第一ボタンを外すビジネスマンが増えたからでしょうか、クルーネックは過去の遺物となり、Vネックだけの販売になってしまいました。白無地クルーネックを探すのはたぶんほんの一握り、私のようなおかしな消費者だけでしょう。個人的にTシャツには思い入れがあります。何度洗濯してもリブがピシッと元気なTシャツは好きでありません。日本製のTシャツには案外この手のしっかり品質が多い。何度も洗ううちにクルーネックのリブが弛んでちょっとヨレヨレになる感じ、あれが私のイメージする本来のTシャツ、カルバンクラインの白無地クルーネックはまさしくヨレヨレになるんです。だからずっとTシャツだけはカルバンクラインにこだわってきました。ほかのブランドに白無地クルーネックで微妙にヨレヨレになるものがあれば、別にカルバンクラインでなくてもいいんです。Vネックは嫌い、大きなロゴ入りも嫌い、仕方なく米国ネットブランドEVERLANEで白無地クルーネックTシャツを購入しました。が、リブの感じもボディーの素材もしっかりしていて私好みではありません。言い換えれば、その質感が長年愛用してきたカルバンクラインより良過ぎてヨレヨレになりそうもありません。個人的に大きな柄入りクルーネックは要りませんそんな話を数日前Facebookにあげたところ、たまたまビジネススクールの元教え子で元部下がニューヨーク出張中だったので、ブルーミングデールズで例の3枚入りを2パック買ってきてくれました。手に取ったらまさしく30年余着続けてきた触感、本当にありがたいです。数年前までカルバンクライン白無地クルーネック3枚入りパックは30ドルほど、当時の為替レートでは1枚1200円程度でしたが、原料高騰と為替変動で1枚2300円になってしまいました。ほかのブランドでは得られない満足感ですから、決して高いとは思いません。値段のことより、ファッションブランドの関係者にお願いしたいのは、改良に改良を重ねてブランドの顔になった「安心の定番商品」はずっと作り続けてもらえないか、です。色を加え、ロゴ入りデザインを増やし、襟の形も変え、フィット感と素材などにも変化をつけたい生産者側のお気持ちはわかりますが、消費者が信頼する永遠の定番商品があってもいいのではないでしょうか。クルーネックのごく普通の白無地Tシャツ、ロングセラー商品として永遠の定番扱いにしてもらいたいですよね。考えてみれば、春先にラルフローレンのお店に行けば必ずチノパンがあり、夏には無地ポロシャツが多色ずらり、秋になればチェックのネルシャツが並びます。毎年すべて同じ色、同じ柄、同じ素材、同じ寸法ではなく、色に微妙な変化もあれば、サイズに数ミリの違いはあります。が、それでも消費者からすれば必ず店頭に登場する定番アイテムがの安心感があります。もちろん変化がないとマンネリに感じる人も中にはいるでしょうが、この安心感があるからこそラルフローレンは半世紀以上も米国を代表するブランドとして長く続けてこれたのではないでしょうか。これもブルース・ウエバーによる広告デザイナー系ブランドにとってシーズンごとに新しい何かを提案するのは重要なことですが、同時に顧客に長く愛される定番商品を微妙な修正を感じさせずに維持することもブランドビジネスには重要なことだと思います。元シャネル日本法人社長だったリシャール・コラスさんから聞いたことがあります。シャネルの永遠のヒット香水「シャネル5番」(発売から100年以上経過)、時代の流れに沿って少しずつボトルデザインを変化させているけれど、恐らく多くのお客様はその変化に気がついていない、と。フレグランスの世界でシャネル5番は特別な存在ですが、大きなモデルチェンジをせずに来たから保てたポジションと言えるのではないでしょうか。たかがTシャツ1枚のことなんですが、ブランドビジネスにとって重要なこと。どこにでもありそうな白無地クルーネックTシャツ、カルバンクライン社がシャネル5番のように注意深くケアして永遠の定番にポジショニングしていたら、創業デザイナーがまだ存命なのにコレクション市場からこんなに早く消えるようなことはなかったのではと私は思います。ど定番のTシャツ、ライセンス商品であっても大事に継続して欲しいです。
2024.02.10
昔から、これと決めたブランドとはかなり長く付き合い、同じブランドのものをずっと買い続けてきました。アンダーウエア(カルバンクライン)や靴下(ラルフローレン)からカーディガン(プレイまたはオム・コムデギャルソン)、コート(ジルサンダー)、カジュアルパンツ(バナナリパブリック)、バッグ(プラダのナイロン製)、靴(トッズ)、四半世紀ほぼ同じブランドで通してきました。セットアップとシャツは1980年代から長らくコムデギャルソン・オムを愛用してきましたが、ブランド側のシルエット変更(丸くゆったりだったのがタイトフィットになった)があってからギブアップせざるを得なくなり、セットアップとシャツは自分用のものを特別に誂えるようになりました。だから、自分の服を新しく買うためにブラブラ紳士服売り場を歩くなんてことはほとんどありません。売り場に行くときはマイブランドの売り場に行って必要なアイテムを買ってすぐ帰ります。マーケティングのためレディース関連の売り場は頻繁に歩きますが、正直言ってメンズ売り場をウインドーショッピングすることははほとんどありませんでした。4半世紀以上浮気することなく靴はずっとトッズでしたが、adidasスニーカーを履くようになってその快適さにいまごろ目覚め、スニーカーと調和が取れる服を探す必要に迫られ、最近はまめにメンズ売り場を回るようになりました。スニーカーもadidas以外のブランドにもチャレンジしてみようと手を広げ、初めてNIKEをネットで購入。一消費者の目線でメンズ売り場を歩いて気がついたこと、「値段が随分上がってるなあ」です。先月某百貨店メンズ館で気になったジャパンブランドのシャツ、お値段が58,000円の表記に「高いっ」と思いましたが、よく見るとこれはピンク色値札、つまり秋冬セール価格。プロパー価格を見てさらにびっくり仰天、なんと繊細な細番手素材でもないのに97,000円でした。複数の素材を縫い合わせているデザインですが、数年前ならこの種のシャツは50,000円未満だったはず、それがプロパー価格97,000円とはあまりに高すぎます。セールでも私には高すぎる、試着する気力もなくなり売り場を離れました。ジャパンブランドがこんなに高騰してるのであれば、円安の影響を受ける海外人気ブランドのシャツはどうなっているんだろうと某イタリアブランドのネット通販サイトを調べると「フリンジ付きプリントコットンシャツ」がなんと638,000円。正直、こんな値段のシャツを誰が買うんだろう、です。私には値段と価値のバランスが異常としか言いようがありません。円安の影響もあるんでしょうが、この価格をつけて日本市場で売り出すジャパン社の勇気(あるいは自惚れ)、すごいですねえ。考えてみれば、海外ラグジュアリーブランドのキャンバスバッグでさえ円安影響を受けて昨年からとんでもない価格に設定されています。レザーじゃなくブランドロゴが入ったキャンバスバッグがほぼ50万円。顔見知りのイタリアブランドの販売スタッフがこんなことを漏らしていました。「キャンバスですよ◯◯さん(フランスのブランド名)、このお値段で販売していいんだろうかと正直思います。でも、うちもそこまで高くはありませんが、もうエントランス価格とは言えないお値段なんですよ」、と。しかしながら、とんでもない価格になろうが海外ラグジュアリーブランドは順調に売上を伸ばしています。コロナ禍で減少していたインバウンドの売上はほぼコロナ以前に戻り、インバウンド客の旺盛な消費もあって価格高騰は特に問題視されていません。果たしてこの上り調子はしばらく続くのでしょうか。海外ラグジュアリーブランドの小型バッグ、若い消費者のために20万円を切るエントランス商品を用意していた数年前が懐かしいですね。中国景気が悪いと言われていますが、中国からの若年層インバウンドは有名ブランドの大きなショッパーを抱えて歩いています。今日も銀座の歩行者天国の主役は完全に中国系の若いお客様、本格的な春節(今年は2月10日)バカンスはこれからですから、中国は報道の通り本当に不景気なのかどうか今日の銀座を見ると疑問に思います。日本ではこの1年生活必需品が相当高騰していますが、ファッション商品の価格の上昇はそれ以上に値上がり、ジャパンブランドであれ外資ブランドであれちょっと異常レベルではないでしょうか。2020年新型コロナウイルス騒動の前のほぼ2倍になった商品は少なくありませんから。「売れてるからいいんじゃないの」と言われそうですが、本当にこの状態でいいのかどうか。ここは、価格高騰についてこれない消費者にはユニクロもGUも無印良品もあると理解すべきなんでしょうかね。私、最近履きやすいスニーカーに目覚めて結果的には良かったのかもしれません。普通のadidasならトッズの値段で5足以上買えますから。(写真は全て2023年12月中国杭州、寧波で撮影)
2024.02.03
円安の影響はかなりあるのでしょう、物価の上昇が止まりません。春物商品が並び始めた売り場を歩いて感じるのは「随分高くなったなあ」。コロナ禍以前インポートブランドのナイロン地やキャンバス地小型バッグは20万円程度、若年層にはちょっと背伸びすれば手が届くエントランス価格でした。が、いまやエントランスは30万円、ブランドロゴが入ったキャンバストートはちょっと信じられない高価格になりました。 スーパーマーケットでもこの1年間食料品値上げラッシュ、誰もが物価高を実感する世の中。数年前までデフレ脱却は経済政策のキーワードでしたが、今度は一転してインフレ抑制が重要なテーマに。政府は企業側に賃上げを呼びかけ、経済団体はこれにある程度応じる構え、労働組合は今春闘は強気な姿勢。果たして物価上昇を上回る賃上げは実現するのでしょうか。 何度もSNSやこのブログで指摘してきましたが、日本のアニメ漫画は世界で高く評価されているものの、儲けは日本側に入らず海外勢が儲けるだけ、いつまでたっても制作現場は低賃金と不当な残業で「ブラック」です。日本側がしっかり権利主張して儲けを取り戻し、制作現場の処遇改善を進めてブラック企業からの脱却を実現して初めて「クールジャパン」と言えるのであって、海外勢を儲けさせるだけではいくらコンテンツが高付加価値でもクールじゃないです。 C F D(東京ファッションデザイナー協議会)の事務局を預かってファッション流通業界にいろんな提言をしているとき、デザインの盗用問題と共に販売員の処遇改善の呼びかけには力を入れました。ちょうど「夜霧のハウスマヌカン」というファッションブランドの販売員の日常を皮肉った歌がヒット、これにはものすごい抵抗がありました。真面目に働く販売員がいっぱいいるのに彼らをからかう歌、業界人の一人として腹がたちましたが、同時にその原因は業界側にもあると思いました。 このブログを書き始めた頃、ある大手アパレル企業で息子が働いているという女性から突然メールを頂戴しました。都内有名私立大学を卒業して大手企業に就職、これでやっと親の仕送りを終えることができると思ったら、社会人1年生の息子から仕送り継続を頼まれたとか。息子に状況確認したら、最初は店頭で販売職からスタート、試着販売のため会社から支給されるユニホーム用以外に自社商品を購入せねばならず、給料から天引きされると毎月手取りはほとんどゼロ。試着販売の服を買わせて社員の手取りがほとんどないなんてブラック企業ではないでしょうか、そんな内容のメールでした。 私は「そうですね」と同意するしかありませんでした。これが、私の関係する企業に対するご批判であれば、しっかり反論しました。なぜなら、われわれは試着販売の服を社員に負担させないようルールを改善、総合職と販売職の給与格差の是正に取り組んでいましたから。他社のことは内情をよく知らずに説明できませんので、曖昧な返信を差し上げたと記憶しています。おそらくファッション企業で子供が働く親御さん、同じ思いの方はいまも多いのではないでしょうか 一般的にファッション流通企業では総合職と販売職をわけ、処遇の差も明確に提示して新卒採用します。入社時から両者の給与格差は明白なのでしょうが、どうして総合職の方が初任給は多いのでしょうか。総合職と販売職を分けることさえ私は意味があるとは思えないのです。 自分が責任者のとき、総合職採用も1年程度は全員が店頭での販売業務(これが嫌ならどうぞ他社を受験してくださいという姿勢)、また本社M Dや販促担当などは販売経験のある社員をどんどん抜擢する仕組みに改善しました。だから総合職と販売職の給与をわける意味がありません。財源が必要なので時間はかかりましたが、給与体系一本化に向けてみんなで努力したものです。(その後のことはわかりません) 販売員にはよく言いました。「自動販売機でも販売はできる」と。ファッション販売のプロとなって発注に責任を持ち、マーチャンダイジングの知識を持って仕事してくださいとも言いました。店長に発注権を渡したのも、マーチャンダイジングをゼミ形式で丁寧に教えたのも、販売の仕事を変えたかったから。精度の高い発注ができて店頭で良いチームを作れる店長はプロ、それなりに処遇するのは企業として当然と幹部たちには言い続けました。だから他の会社に比べると販売職の研修は充実、素晴らしい発注をさらりとやってのける店長が増え、高いプロパー消化率を維持できました。 百貨店に復帰してお取引先の店長さんにマーチャンダイジング講座を開いたとき、あるファッションブランドの店長さんからこんなことを言われました。「◯◯◯(私が所属した会社)のショップはどこか違うと感じていましたが、講座に参加してその理由がわかりました」、と。「どこか違う」と感じていた競合ブランド店長さんがいたと知ってものすごく嬉しかったですね。 そもそも総合職って何なんでしょう。近年は売り場をほとんど回らず、デスクのパソコンをパチパチしてるのか会議ばかりしてる人が増えたと感じます。アパレルメーカーの営業担当と売り場で出会う機会は極端に減りました。幹部の大半が営業部門の総合職という企業はいまも多いでしょうが、それでは時代が読めず世界のブランドと戦えないのではないでしょうか。改めて思うのです、総合職と販売職をわけて採用すること自体そろそろ再考してみては、と。でないとずっと本社や営業所のデスクにいて売り場に関心持たない社員が増えるのではないでしょうか。加えて、人口減少の中、社員の定年延長も真剣に考える時期ではと思います。ミナペルホネンが高齢者を新たに販売員採用して話題になりましたが、経験豊富な販売員は相当な戦力になるはずです。欧米のようにキャリアの長い販売員が売り場にいるとショップ全体に安心感が生まれると思います。ミナペルホネンに続く会社が現れるといいんですが。
2024.01.29
今日はファッション流通業に関することではなく、ガキの頃に私を導いてくれたありがたい恩師のことを書きます。私は三重県桑名市で生まれ、育ちました。桑名市立益世小学校で4人、桑名市立光風小学校で2人、県立桑名高等学校で2人の担任の先生にお世話になり、それぞれ卒業時の担任の3人の先生とは長らく年賀状のやり取りが続いています。残念ながら数年前光風中学3年生の担任だった小黒哲郎先生はお亡くなりになりました。桑名市立益世小学校益世小学校に入学して最初の2年間は女性の饗庭渚(あいば・なぎさ)先生が担任でした。先生には私と同年齢の娘さんがいて、のちに彼女とは高校で同じクラスになり、同時期に上京し、私がニューヨークに住んでいた頃は航空会社CAさん、ニューヨーク便業務の際はわが愛煙ショートホープを買ってきてもらう仲でした。わが人生で後にも先にも一番素晴らしい成績表をもらったのが小学2年生3学期。2年間お世話になった饗庭先生から成績表を手渡されたとき「太田くん、放課後残ってください」と言われました。成績評価に大満足だったのに、教室にただ一人残されて先生からしばしお説教。「将来あなたはこの学校のリーダーにならなきゃいけない子なのに、自覚が足りず悪戯ばかりしている。3年生になったら行動を改めなさい」、と。確かに私は悪戯をしては叱られ、教室の後方に何度も立たされていましたから。このときから先生が言った「リーダー」という言葉を意識するようになりました。それ以降3年生から6年生まで一学期に学級委員、加えて卒業時は生徒会長として答辞を即興で述べ(生徒会長が担当するとは事前に聞いていなかった)、饗庭先生にも褒められました。もしも2年生修了の放課後に先生から説教されなかったら、リーダーなんて意識することなくずっと悪戯少年のままだったでしょうし、生徒会長にはなれなかったでしょう。大人になってからこれまでまがりなりにもいろんな組織で取りまとめ役、リーダー役を演じてこれたのは、饗庭先生の説教が原点にあります。なので私を導いてくれた最初の恩師は小学1、2年の担任でした。仲良しの娘さんからは母上はご健在と聞いていますが、先生には元気で長生きして欲しいです。三重県立桑名高等学校つぎに、人生で最も迷惑をかけた恩師は桑名高校2年と3年の担任だった小林明男先生、恐らく先生の教員人生で最も手を焼いた悪ガキは私です。高校1年生英語リーダーの授業はほかのクラス担任だった若い小林先生でした。教科書に登場する旧約聖書の巨人兵士「ゴリアテ」の発音記号は「グァライアス」、しかし英語教育が有名な名古屋の名門南山大学英文科出身のはずがなぜか「ゴリアテ」と発音する。英語リーダー担当教員は発音記号に忠実な読み方をすべき、だからついたあだ名はゴリアテでした。1年生の授業中、ゴリアテは「キミら、こんな歌知ってるか?」と突然英語で歌いだしました。1960年代反戦フォークソングを世界に広めたPPM(ピーター、ポール&マリー)の「500マイル」。なぜゴリアテがこれを突然歌いだしたのか理由はわかりません。英語に自信があった私は下手くそな発音の英語教師をなめていましたが、ゴリアテの歌とPPMの話には素直に感動、下校時に街のレコードショップに寄り道してLPレコードを購入しました。高校3年間レコードがすり減るくらい聞いたのは「500マイル」「花はどこへ行った」「悲惨な戦争」「風に吹かれて」が入ったこのアルバムでした。恩師に感化され初めて買ったPPMのレコード2年生になるとクラス担任はゴリアテに。このとき私と学年主任(古典のF先生)との騒動が続きました。修学旅行前の中間試験のとき、F先生が私の席までやってきてこう言いました。F:「キミ、(制服の)帽子はどうした?」私:「今日は忘れました」(本当にこの日だけ忘れたんです)F:「なんだ、この上履きは?」 (私の上履きは学校の購買部で買ったピンクとグレーのギンガムチェック) 私:「購買部で売ってた」F:「男子がこんな(ピンク)の履いて良いのか?」私:「男子用、女子用と書いてなかった。文句あるなら購買部に言ってよ」 (返事に困ったF先生が去った後すぐゴリアテが血相変えて登場)G:「太田、F先生に謝って来い」私:「なんでや。購買部で買ったスリッパに文句言ったのはFだぞ」G:「とにかく謝って来い」私:「謝る理由がない。俺は絶対に謝らない」 (ゴリアテは諦めて職員室に戻っていきました)数日後の全校朝礼、学年主任は「本校で制帽をかぶらず通学していたのはたった1名だけ。みんなは規則を守っているので安心しました」と嫌味な発言。翌年大学受験直前の全国共通模擬テストで奇跡の好成績をとるまでF先生と私のバトルは続きました。大学受験時に文系私立大学志望の私は英語と世界史は満点狙い、古典を含む国語は0点でも合格できそうな採点配分の大学を受験しました。F先生が教える古典は一切勉強せず、大学受験は国語放棄での合格作戦でした。上履き事件の後九州への修学旅行に。うざいことにF先生はじっと私のそばで私の行動を監視です。全15クラス(総勢750人の大移動)の担任の中でゴリアテは最年少教師だからでしょう、わがクラスの男子生徒だけは大阪港から別府港までの関西汽船の船中で部屋はなく、食堂を片して床にゴザを敷く船員以下の待遇でした。私たちは反発、提供された枕と毛布は瀬戸内海に放り投げました。そして、別府港に到着した初日もちょっとした事件があって我々男子生徒はゴリアテから謹慎を宣告され、現地で私服を着てはならないとなりました。ゴリアテはほかの先輩教師の手前私たちに謹慎処分を発するしかなかったのでしょう。当然私たちは抵抗します。わがクラスのバスガイドが「右手に見えますのは」と説明すれば、女子生徒も含めクラス全員が左方向を見ます。「合唱しましょう」とガイドに言われれば、誰も歌わない。最後にバスガイドが泣き出しました。観光バスが信号停車するたび、「私は桑名高校教諭の小林明男です。生徒に拉致されているので助けてください」と書いたビラを窓から多数ばらまきました。その夜私たちの部屋に来て「太田、仲直りしようやないか」と言うので、「私服禁止の謹慎処分を解除してくれたら」とゴリアテに条件提示。地元警察にビラが届いて宿泊先に問い合わせが入ったと聞いたのは修学旅行の後、ゴリアテは「親、呼んで来い」でした。もちろん「親には関係ない」と拒否しました。3年生になるとき、仲間で私だけが担任はゴリアテのまま。目を離すとかえって面倒と思ったのか、リーダーシップに少しは期待してくれたのかはわかりません。5月のゴールデンウイーク明け、私は名古屋の栄公園でおまわりさんに補導されました。タバコ所持です。三重県と愛知県、県警が違うと処分はどうなるかわからないと交番で脅され、翌日ゴリアテに「昨日タバコで補導された」と報告。「お前には期待してたんだがな。親に言うしかない」。私はオヤジが怖かったのでそれだけは勘弁してくれと頼みましたが、このときだけは聞き入れてもらえませんでした。翌日から卒業するまでの数か月、朝の点呼のあと連日「太田、職員室に来い」。ゴリアテはうまそうにタバコを吸いながら私に煙をかけて「もう吸ってないやろな」。私は補導された日から卒業まで禁煙、でも疑ってたのでしょう、連日こうやってチェックされました。高校時代はサッカーに夢中、ほとんど勉強をしたことがなかった私の成績は低レベル、とてもじゃないけど名だたる大学に行ける出来ではありません。が、10月にオヤジが病で倒れ、ことによると翌年浪人する余裕がなくなるかもしれないと思って突如ガリ勉くんに変身。それまでずっと最後方だった自分の席を先生の眼前の席に移しました。いつも授業中寝てるか悪戯していた私が急に勉強し始めたのですからクラスメイトは驚いていました。大学入学試験の願書提出が迫ったとき、ゴリアテの個人面談がありました。G:「太田、滑り止めを受験せんとあかんやないか」私:「南山大学を2つも受験する」G:「おまえの成績では南山は滑り止めにはならん」私:「いまはちゃんと勉強してるから大丈夫」 (問題児が滑り止めに母校を選ぶなんて許せなかったでしょうね)G:「早稲田と明治を受験するなんて、東京6大学やぞ。無理っちゃうか」私:「東京6大学は野球の話や、受験には関係ないわ」名古屋の大学を卒業して三重県北部の高校に赴任、東京の大学事情なんてほとんど知らない田舎の高校教師の助言は無視でした。その頃、全国大学入試模擬テストでどういうわけか国語がなんと学校で1番、国語0点作戦の私ですからもちろんマグレ。が、職員室で遭遇した宿敵F先生は「太田くん、最近頑張ってるねえ」と。「ちょっと成績が上がるとこんなに態度変わるんか」と返してやりたかったけど、またまたゴリアテに迷惑かけそうなのでやめました。同窓会で挨拶する小林明男先生運良く南山大学の2学部と明治も合格、ゴリアテはすごく喜んでくれました。そして卒業から今日まで律儀に年賀状をくれます。25年ぶりに地元で同窓会があったとき、私が送った新著を会場に持参して教え子たちに「太田が本を書いたんや」。同級生たちは「先生、みんな持ってるよ」と大笑いでした。私がサッカーゴール後方の校舎窓ガラスを割ったこともあったので、卒業後サッカーゴールと校舎の間には大きな金網が設置されました。生意気な私を取り囲んだ上級生を威嚇するため、ヤンキー丸出しの長ーい学ランを着た名古屋のちょいワル高校生(サッカー仲間ら)をわが校に呼んだこともあり、卒業後に他校生徒の出入りは全面禁止になったそうです。軟式と硬式野球部にソフトボール部、陸上部があるため運動場が狭いからとサッカー部でなく(近隣高校に何度も勝利して弱くはないのに)同好会のままだったので校長先生に抗議したら、卒業後正式にサッカー部にしてくれました。こういうとき若いゴリアテは学年主任や校長からたびたび嫌味を言われていたでしょうね。出来の悪い生徒ほどかわいいという説がありますが、強烈な印象だけは残っているはず。饗庭先生、小林先生だけでなく、小中高校と私は多くの先生方に守られ育ちました。本当にありがたいことです。
2024.01.27
2018年伊勢神宮で行われた「建築学生ワークショップ2018」以来、19年出雲大社、20年東大寺、21年明治神宮(コロナの影響で延期22年春実施)、22年厳島神社、23年仁和寺とお手伝いしてきたイベント、今年は京都の醍醐寺での開催です。将来建築家を目指している学生さんにはぜひエントリーして欲しいです。現在参加申し込みを受け付けていますので詳細はこちらをご覧ください。 https://ws.aaf.ac/開催地のことをチームで徹底的に調べ、自分たちの設計テーマ、コンセプトを決め、小さな建築物を実際に現地で制作して講評者に見てもらうユニークな実践教育。毎回参加するたびファッションデザインの世界でも同じような実践教育イベントができたらいいなあと思います。
2024.01.25
能登半島の余震、なかなかおさまりません。連日テレビ画面上部に地震速報のテロップが現れるたび、東京で揺れは感じませんがドキッとします。地元中学生の集団疎開、勉強できる環境を求めて参加した生徒もいれば、地元から離れたくないと避難所に残った生徒もいて、中学生社会の分断に心が痛みます。震災後自分たちは何ができるのか、やれることをやってみようと動いたことが過去二度あります。1995年の阪神淡路大震災、東京ファッションデザイナー協議会議長としての最後の仕事は有料チャリティーファッションショーを企画して収益と募金を被災地に贈ることでした。デザイナーの皆さんはそれぞれの個性を表現しにくいジョイントショーは大嫌い、でも今回だけは黙って参加してくださいと呼びかけてどうにか実現しました。東日本大震災直後救済イベントのビジュアル2011年百貨店に復帰した直後の東日本大震災、被災地のためにみんなで被災地救済チャリティーを企画、地震の1カ月後に全館あげての救済イベントを実施しました。正面ウインドーに貼った全社員の被災地に向けた多数のメッセージカードを写メしながら涙を流すお客様、東北の食材を買い物カゴに入れながら「被災地のためになるのよね」と涙を浮かべながらお買い物されるお客様には心打たれました。このときルイヴィトンのマーク・ジェイコブスさん、靴デザインのクリスチャン・ルブタンさん、日本では山本耀司さんなど世界各国デザイナーがチャリティーオークションに協力してくれました。イベントのことをネットで知った南相馬の避難所暮らしの女性から感謝のメッセージをいただき、社員からは「この会社で働いていることを誇りに思います」と泣けてくるメールをもらい、私も感動させてもらいました。「百貨店にはまだやれることがある」とチャリティーイベントの模様を長年のライバル店幹部に伝え、一緒にファッションイベントを始めたのも大震災直後の救済チャリティーがきっかけでした。GINZA FASHION WEEKのウインドー能登半島の惨状を見るにつけ、ファッション流通業界は何ができるんだろうと考えさせられます。被災地には世界に誇る繊維産業がありますし、ハイレベルな衣食住関連商品を長年作ってきた工房や工場も多数。生地を織れなくなった繊維会社、醸造が困難になった蔵元、津波で魚市場や水産加工所が被害にあって魚介類を全国に送れなくなった漁業組合、彼らのため我々にできることは何なのか、みんなで考えたいですね。 * * * * * 昨年12月の杭州でのセミナーさて、12月杭州で中国ファッション業界の経営者たちに向けてセミナーをやらせてもらいましたが、それがご縁で2月下旬に上海と広州を訪問することになりました。2月中旬はお正月にあたる春節、中国企業のほとんどはお休みになり、多くの中国人は旅行に出ます。なのでセミナー時に投影するテキストを早めに制作して春節前に現地通訳さんに翻訳してもらわねばなりません。ここ数日はその資料作りに没頭、やっと完成したのでセミナー主催者にメール送信しました。今回は普段日本で指導している「マーチャンダイジングの基礎」を中心に講演します。誰に、何を、どのように、いくつ販売するつもりなのか仮説を立て、販売計画をみんなで話し合って能動的販売を心がけましょうというストーリー。前回杭州でお世話になった素晴らしい通訳さんが再度手伝ってくださると伺ってますので、前回以上に私の意図を理解して訳してくれるはず。海外セミナーは通訳さんの出来不出来で成果は決まりますから心強いです。先日お会いしたテキスタイル業界の重鎮と中国ファッション企業の経営者たちのことが話題になりました。プレミアムテキスタイル展ベストニットセレクション展これまで日本でもたくさんセミナーや社内研修を引き受けてきましたが、概して日本では最後の質疑応答は形式的、経営者は「いいお話を伺いました」とは言ってくれますが次のアクションはほとんど何もありません。一方の中国は質疑応答は司会者が止めなければ延々と続き、その場にいた経営者は「もっと教えてもらえませんか」、「今度はわが社の社員に研修してくれませんか」と積極的。このリアクションの差はなんでしょう、という話になりました。創業10年足らずの新興ベンチャー企業数社がしのぎを削って電気自動車を一気に普及させた中国に対し、日本では電気自動車の普及は大幅に遅れている。経営者の改善しようとする情熱、探求心あるいは時代を読む力の違いでしょうか。先月杭州での講演と同じ話をもしも日本でやったとしても、中国のようにその続きを講演依頼する会社は恐らく現れないでしょう。来月の中国出張ではバージョンアップした次のレベルの話をせねばと、前回以上に一生懸命テキストを作りました。仮に来月の講義が及第点ならばそのまた次の要請が来るでしょうし、彼らの胸に刺さらなければ次の話は全くないと思います。言い方を換えれば、中国は「いいお話を伺いました」で終わる社会ではなく、ビジネス講演でさえ真剣勝負、スピーチする側には緊迫感がつきものなんでしょう。大学卒業後渡米してから私は組織人でなく一匹オオカミとして仕事をしてきたので、案外中国社会とは肌が合うかもしれません。振り返ってみれば、これまで日本では「空約束」を何度も経験しました。お会いするたび「今度ぜひお話を伺いたい」や「今度ぜひ一献」と言ってくださる企業や組織の幹部は多いんですが、その大半は実現しないまま。もちろん中にはそういう挨拶を交わした翌日すぐ連絡があって研修の依頼や会食アポが入ったケースはありましたが、あいさつ代わりに言っただけというケースはかなり多かった。帰国してデザイナー協議会を始めた頃は私も若かったので、そのお誘い言葉は単なる社交辞令、その気はさらさらないとは知りませんでした。大人たちの空約束や、こちらがあまりに若過ぎてアポのお偉いさんがしらけた顔をするケースが頻繁だったので、私はあえてネクタイの着用を止め年中ノータイスタイルになりました。若造がノータイで面会の場に現れるとムッとした表情になるお偉いさんたち、彼らにあれこれ説明したり協力要請するのは時間の無駄、こういう人ならさっさと面談を切り上げたものです。当時は若かったので相手にされないのも無理ありませんが、ベテランになってからも空約束や社交辞令は続きましたから日本のビジネス界の習慣なんでしょう。ポリエステルメーカーの工場前述のテキスタイル業界の重鎮に申し上げました。中国にはもっと日本の素材を起用して上質なファッション商品を作ってみたいと考える経営者もいます。彼らに日本素材の起用を促す具体的な仕掛けを業界全体で考えるべき時期に来ている。市場規模を考えても、日本企業の将来性を考えても、やる気のある中国企業に本気で売り込む体制作りに早く取り組むべき、と。セミナーのあとのリアクションのスピードを見ればやる気のある中国企業と向き合う方がテキスタイルメーカーにはプラスです。能登地震被災地は世界にその技術を誇る合繊生産拠点も含まれます。被災地支援のためにも、海外バイヤー招聘予算を持っている公的機関、テキスタイル展やニット展示会の運営関係者には、リアクションのスピードが速く市場規模の大きな国への訴求策を具体的に考えて欲しいです。
2024.01.20
前項「社員のお母さん」が1970年に自宅で起業したのは30歳になるかならないか、会社経営を学校で学んだわけでもないし、当時はまだ男性社会で苦労も多かったはず。しかも創業の翌年早くも三宅一生さんはニューヨークでデビュー、73年にはパリコレ進出、きっと資金繰りも大変だったでしょう。出産前の大きなお腹を抱えて資金調達に関西出張した話を小室さんから伺いました。いつの時代もいかなるジャンルでも先駆者はお手本がないので苦労の連続です。小室知子さん(ソルトンセサミお仲間のブログから引用)ソルトンセサミのお仲間と。右から2番目が小室さん。CFD(東京ファッションデザイナー協議会)を設立してちょうど1年経過した頃、私がニューヨークのパーソンズ(PARSONS SCHOOLF DESIGN)夜間バイヤー養成プログラムで学んだことを日本の若者にも伝えようと、個人的な勉強会「月曜会」を開講しました。ここで一番伝えたかったことは、「売り場を歩いて時代の変化に敏感になる」でした。パーソンズで「敵情視察」(2つの店を調べて比較分析、改善点を考える訓練)の宿題が一番きつかったし、同時に人生で最も役に立った講義、これを日本でも教えようと私塾を始めたのです。月曜会の授業料は無料、週一度講義があり、宿題もたっぷり出す。外部講師への謝金は私が業界セミナーで得た講演料でカバー、会場はCFD会議室を使用するので無料。受講生は一般公募、その告知は夏休み期間中に繊研新聞に記事掲載してもらいました。普通に募集すれば職場や学校で記事が目に留まることもあるでしょうが、夏休みならば自宅購読していないと気がつきません。せめて専門紙の1つくらいは自宅で読んでいるやる気のある若者を集めたかったので、あえて夏休みに募集しました。選抜レポートで応募者の中から参加者を決めましたが、正直に言えば毎回1枠だけ例外がありました。CFDの運営で何かと私の力になってくれる小室知子さんの推薦枠、小室さんが指名したイッセイグループの若者が毎回1人参加していました。当時主にショップデザインを担当していた吉岡徳仁さん、滝沢直己さんのイッセイミヤケで雑貨デザインを担当した小此木達也さん、独立後バッグブランドMagnu(マヌー)を手掛けた伊藤卓哉さん、彼らは特別枠での参加でした。吉岡徳仁さんはユニークな存在でした。宿題とは別に毎回全受講生には感想文を提出してもらうんですが、彼だけは毎回文章の代わりに詩を書いてきました。外部講師の話に対して自分なりに感じたことを詩に書く、それがなかなかマトを得ていて説得力あるものでした。昨秋の毎日ファッション大賞授賞式で彼とは久しぶりに会いましたが(同賞トロフィーは吉岡さんデザイン)、「太田さんの顔を見たら月曜会を思い出しました。楽しかったですよね」、と。彼の詩に「楽しい」の文字は見たことなかったですが、懐かしそうに声をかけてくれて嬉しかったです。もうひとりバオバオイッセイミヤケのバッグを考案した松村光さんも参加者でした。彼はすでに三宅デザイン事務所に在籍して小室さんの推薦だったのか、それともまだ武蔵野美術大学大学院生で自主応募だったのか忘れましたが、彼も月曜会の塾生でした。デザイナーのほかにも素材メーカーや小売店勤務、ショーのプロデュース会社やデザイナーアパレルで中核メンバーとして活躍している教え子もいます。CFD事務局で開催する無料の私塾、会員企業の従業員が参加してもいいんですが、CFDのほかの会員企業は興味がなかったようで頼まれることはありませんでした。また、私たちが設立に奔走したIFIビジネススクール(1994年秋開講)の夜間プロフェッショナルコースにも、イッセイグループ社員(エイネット含む)が毎回参加していました。こちらは授業料有料、参加のための審査はありません。小室さんはこういう場で若い社員が刺激を受け、他社の人たちと交流して視野を広げることが重要とお考えだったのでしょう。ビジネススクールに毎回若手社員を送ってきたブランド企業はイッセイミヤケグループだけでした。山中IFI理事長(中央)の背後にイッセイグループ社員主だったファッションブランドは年2回はコレクション発表(メンズ、レディース両方を展開するブランドは年4回)があり、コレクション発表直前と展示会準備で企画部門も営業部門も残業が当たり前、中にはタイムカードなしのサービス残業をさせるブラック企業も少なくありません。だから従業員は自己啓発の機会が少ない。これでは視野の広い人材、人脈ネットワークのある人材はなかなか育ちません。サービス残業はもってのほか、ブランド企業幹部は残業をやめさせ、社員を時間通りに解放して自己啓発や他社との交流の時間を与えるべきだと思います。せっかくファッション流通業界の人材育成のためにビジネススクールを作っても(設立に奔走していた私は当時CFD議長)、ファッションブランド企業からの受講生はほとんどなく、イッセイグループの社員たちだけが参加者でした。世界的に知名度の高いブランド企業の創業者が若い従業員を私設勉強会やビジネススクールに送り込んで経験を積ませる、ブランド企業の幹部にはぜひ考えて欲しいことです。本来、企業はヒト、モノ、カネの順。近年はカネ、モノ、ヒトの順と考える経営者は決して少なくないように感じますし、クリエーションが重要なブランド企業はまず最初にモノありきかもしれません。が、いくらアトリエのクリエーションが秀逸でも、ヒトを育てないことには企業の発展はありません。小室さんはグループのお母さんとして多くの子供たちにチャンスを与えてきました。加えて、自宅に若い社員たちを呼んでは社員たちの忌憚のない意見をよく聞いていましたし、グループから独立した社員たちが開く展示会には頻繁に足を運んで励まし、応援のために個人発注もされていました。もちろんグループの発展には歴史に名を残すカリスマデザイナーの存在が大きかったし、ほかに優れたテキスタイルデザイナーや熟練パタンナーの存在もありましたが、人材育成に熱心だった創業マネージャーの存在も大きかったと思います。グループ卒業生がファッション業界でたくさん活躍しているのも、ヒトに学ぶチャンスを与えてきたからではないでしょうか。
2024.01.14
能登半島地震の被害者の皆様の労苦をニュースで見るたび心が痛みます。いまも強い余震が続き、断水に停電、道路は遮断されて救援物資は届かず、かなり厳しい状況に変わりありません。1日も早い復旧をお祈りします。年明け早々写真家篠山紀信さんの訃報が届きました。そして、篠山紀信さんの名前を聞くと反射的に思い出す方がいます。三宅一生さん(1938年ー2022年)の創業パートナー小室知子さん。このブログ「交友録40」でも少し触れましたが、私が尊敬するファッション業界人のお一人。イッセイミヤケグループの「落穂拾い」を自認、グループの扇の要であり、社員たちにはお母さんのような存在です。(右)小室知子さん(中)資生堂池田守男さん 1997年撮影まだ米国まで直行便が飛んでいなかった時代、小室さんはメーキャップアーチストを目指して米国西海岸に留学するはずでした。ところがいまで言う留学詐欺に引っ掛かり、現地入りするも目指す学校には入学できなかったそうです。せっかく米国に渡ったのだから1年くらいは住んでみようと遊学を決め、帰国して講談社の女性誌編集長と出会ってファッションページを担当する仕事に。その頃多摩美術大学を卒業してフリーランスだったパリ留学前の三宅一生さんと出会います。帰国後小室さんが関わった女性誌表紙アンアン、ノンノが発行されていなかった頃の女性誌は巻頭カラーの数ページをファッションにあてていました。婦人服メーカーや小売店、ファッションデザイナーの作品を紹介する巻頭ページに大学を卒業したばかりの三宅さんに声をかけましたが、個人で服を作っている青年にはサンプルを制作する十分な資金がありません。企業やすでに活躍しているデザイナーから撮影用サンプルを無償提供されるのが当たり前だった時代、「制作費はどうなるんですか」の三宅さんの質問にはハッとしたそうです。このやりとりで小室さんにははっきり記憶に残るデザイナーとなりました。その後、三宅さんは鯨岡阿美子さんらに勧められてパリのオートクチュール協会が主宰するモード学校に留学、オートクチュールメゾンのジバンシイやギラロッシュでアシスタントとして働きます。1968年三宅さんはパリ五月革命に遭遇して「特権階級のためのオートクチュールでなく、一般市民のための既製服を作ろう」と時代の変化を感じてニューヨークに移り、米国トップデザイナーのジェフリービーンで既製服作りを体験して帰国しました。一方の小室さんは雑誌の世界からスタイリストとして広告業界に身を置きます。天才CM作家としていまでも語られる杉山登志さん(1936年〜1973年。「リッチでないのに リッチな世界などわかりません ハッピーでないのに ハッピーな世界などわかりません」という遺書を残して自殺)や、カメラマンの横須賀功光さん(1937年ー2003年)と組んで資生堂などのTVコマーシャルや広告写真撮影に携わっていました。ちなみに「貼っても貼ってもすぐ盗まれるポスター」第1号は前田美波里がモデルとなった資生堂のポスター(写真下)、そのスチールは横須賀さん、映像は杉山さん、スタイリストは小室さんでした。前田美波里を起用した資生堂ポスター(撮影:横須賀功光)そして、湘南海岸で運命の再会。湘南に遊びに行った小室さんは、あの青年デザイナーとバッタリ遭遇します。いずれ日本でデザイン会社を作りたいと三宅さんから抱負を聞いた小室さんは、仕事仲間だったカメラマンたちに出資協力を呼びかけ、下落合の自宅マンションを登記所在地に1970年株式会社三宅デザイン事務所を設立します。このとき小室さんは弱冠30歳寸前、新進気鋭の写真家だった横須賀功光さんや篠山紀信さんよりも若い女性、思い切った決断でした。もうひとつエピソードを。杉山登志さんと共に旭化成のCM撮影地で小室さんは宣伝部の女性社員から「どうやったらスタイリストになれますか?」と声をかけられます。それから数年後小室さんが彼女の姿を再び見かけたのは、最初に三宅デザイン事務所がオフィスを構えた赤坂の小さなマンションでした。なんと上層階であのときの女性は一足早くファッションブランドを立ち上げていたのです。誰だかもうおわかりですよね。世界の次世代デザイナーたちに多大な影響を与えたジャパンブランド2つは偶然にも同じマンションにオフィスがありました。1970年に創業、翌年にはニューヨークでコレクション発表、1973年にはパリコレに参加してイッセイミヤケの名前はあっという間に世界で知られるようになりました。三宅デザイン事務所には多くのデザイナーやパタンナー、テキスタイルデザイナーが集まり、巣立って行きましたが、グループを卒業した後も小室さんはずっと目をかけていました。なので退職して時間が経過しても卒業生たちにはお母さんのままでした。1985年東京ファッションデザイナー協議会が発足、このとき事務所探しはじめいろんな相談に乗ってくれたのが小室さんでした。協議会事務局を預かる私のところにはたくさんのデザイナーやアパレル企業幹部が契約解消や新ブランド立ち上げの相談にやってきました。このとき私が「これをテキストと思って読んでください」と渡していたのが、三宅デザイン事務所創業15年の85年に旺文社から出版された「一生たち」、小室さんの思いが詰まった本でした。旺文社「一生たち」この本は三宅さんのクリエーションではなく、デザイン事務所で働く全員のインタビューが収録され、いろんな立場の人がそれぞれ役割を担っていることがよくわかる解説書、言い換えればデザイン会社の企業秘密を公開したような内容でした。デザイナー個人の才能だけではブランドビジネスは成立しない、チームとしての組織力が成功には不可欠と教えてくれるバイブル、だから私は訪ねてくる若いデザイナーたちにこれを配りました。1985年当時はバブル時代のど真ん中、簡単にブランドビジネスできると勘違いしていた若者や企業が多く、業界全体が浮き足立っていましたから。協議会の運営方針やメディア対応などで三宅さんと私が意見衝突すると、三宅さんのパートナーである小室さんは私の主張を入れてよく三宅さんを説得してくれました。時には副社長辞任を申し出て部外者の私をかばってくれました。デザイナー企業では創業デザイナーのイエスマン幹部がほとんどでしたが、小室さんのおかげで三宅さんとは衝突してもすぐ和解できました。だから私は長きにわたり年長の三宅さんと遠慮なく話せる関係でいられたのです。三宅さんと小室さんは、天才ミュージシャンとバックステージの敏腕マネージャーのような関係だったと思います。「三宅の夢を実現するために私たちは働いています」、このフレーズを何度も聞きましたが、小室さんは黒子に徹してご自身はほとんど表には出てきません。だからマスコミ関係者はイッセイグループにおける小室さんの役割、存在価値をほとんど知らなかったのではないでしょうか。すでに三宅さんはこの世になく、創業当時からブランドが世界で認知されるまでのプロセスは小室さんしかわかりません。ファッション業界全体のためにも、黎明期のデザイナービジネスの扇の要がお元気なうちにどなたかインタビューして1冊にまとめてくれないでしょうか。大切な秘話がいっぱい出てくると思いますが....。
2024.01.06
謹賀新年2024本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。年が明けていきなり能登半島を襲った震度7の大地震。多くの家屋が倒壊、道路は遮断され、断水、停電、犠牲者は少なくなく、あらためて日本は地震に弱い国だと実感しました。余震のニュース速報が流れる中、今度は羽田空港で被災地に救援物資を届けるために離陸予定だった海上保安庁の飛行機と着陸してきた日本航空機が衝突する大事故、正月から胸が痛みます。与党の裏金問題で政権は不安定、増税前のわずかな減税に国民はしらけ、円安と物価上昇で生活は苦しくなるばかり、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」だったはずがいつの間にかテクノロジーではどんどん遅れをとって元気度では先進7カ国でビリになり、この先日本はどうなるんだろうとちょっと不安になります。いま日本が世界に誇れるのはドジャースに移籍した大谷翔平ら日本人メジャーリーガー、ヨーロッパ各国リーグで活躍する三苫薫らサッカー選手、世界陸上選手権女子やり投げ金メダルの北口榛花選手など若きスポーツ選手だけでしょうか。昨年末久しぶりに中国出張して、中国の進化スピードに驚かされました。電気自動車の普及はハンパない、すでに電機メーカーが自動車販売を開始、名刺交換は紙でなく大半がスマホ、駐車場の決済はスマホQRコード、すぐに車がやってくる配車アプリ、日本より1歩も2歩も進んでいました。多分日本はもう中国に追い付けないところにいるんでしょう。ただひとつだけ、まだ虎の子「クリエーション」があるかもとは思いました。昨年秋から中国の業界人には何度も「クリエーションとビジネスの関係」をお話ししてきました。2月中国でのセミナーでも、クリエーションをどう育てるのか、よりクリエイティブな商品をどうつくるのかをお話しする予定です。日本がものづくりでのクリエーションとクラフトマンシップを失ったら、もう残るものはありません。マンガ、アニメもそうですが、創作自体はハイレベルでもこれらで稼ぐのは外国企業では話になりません。パリコレに参加しようがプルミエールヴィジョンやミラノサローネに出品しようが、クリエーションする側が外国企業を儲けさせるだけでは意味ありません。クリエーションとクラフトマンシップで日本が簡単におまけしないでしっかり稼ぐ、これこそが本当の意味での「クールジャパン」だと思います。頑張りましょう。
2024.01.03
今日は地下鉄銀座線も日本橋、銀座の通りも百貨店の地上階もアジア系外国人でいっぱい、耳に入ってくる言葉は日本語ではありません。人気ラグジュアリーブランドの路面店やインショップではインバウンド客の行列が当たり前、ものすごい購買欲です。インバウンド客にとっては円安天国、買い物しても高級レストランで食事してもいまは値段の安さを実感するでしょう。かつて1ドル80円台の時代、私たちはニューヨークでもパリでも強い日本円の恩恵を受けましたが、いまはその逆です。シャネル路面店の行列インショップのシャネルにも行列ルイヴィトンもラグジュアリーはインバウンド人気ロンドンのハロッズはロシア系と中東系のお金持ちが多く、売り場ではほとんど英会話は耳に入ってこなかったことがありました。ニューヨークのサックスでは巻き舌スパニッシュアクセントの日焼けした奥様たちが高級婦人靴売り場のソファに腰を下ろし、クリスチャンルブタンやロジェヴィヴィエの靴箱をどんどん積み上げていく光景を何度も目撃しました。パリのギャラリーラファイエットは中国人観光客の団体さんがブランドショップの前で行列、ここは本当にフランスなのかという空気でした。なので東京の中心部で日本語以上に外国の言葉が耳に入ってくるのはごく普通の光景と言うべきでしょう。恐らく世界の主要都市の中心部にある商業施設は売上の半分あるいはそれ以上がインバウンド客ではないでしょうか。地元のお客様であろうがインバウンド客であろうが、お客様であることに変わりありません。都心部でインバウンドが増えたらいけないという考え方はどうなんでしょう、私はもっと増えてもいい、この先もっと増えると思っています。もちろん昔からの常連のお客様を大切にケアするのは当然ですが。銀座4丁目松屋通りの元ランバン路面店のあった場所に面白いポップアップがありました。オニツカタイガーと鉄腕アトムの期間限定コラボショップです。聞けば2週間前に立ち上がり、6週間ほど営業だそうです。手塚治虫さんの鉄腕アトムとほぼ同じ時代にオニツカタイガーは誕生、期間限定にしないで積極的に世界市場に送り込めば良いのにと思いました。このイベント用のショッパー「私の台湾の友人が熱烈な鉄腕アトムファンなんです」、販売スタッフとそんな会話しながらTシャツを購入しました。律儀に毎年春節にギフトを台湾から贈ってくださるので、今年はいいお返しができました。まだ1日残っておりますが、今日私は仕事納め。皆様1年間お世話になりました。コロナウイルスで海外出張ままならず3年間じっと我慢しましたが、今年は10月に台湾の台北、12月に中国の杭州と寧波に出張することができました。招聘してくださった台湾及び中国の皆様、ありがとうございます。来年もどうぞよろしくお願いします。
2023.12.30
昨日目にとまったニュース。今年中国は日本を抜いて自動車輸出国ナンバーワンに躍り出た話、ショッキングです。いずれはそうなるだろうと予想していましたが、もうその時が来てしまいました。しかも輸出は日本が遅れているEV車(電気自動車)、簡単に言えばモーターで走る大型電気製品なんです。中国ではEV車のナンバープレートは薄い緑色、一般ガソリン車の青色プレートとは区別されているので誰でも判別できます。今回お邪魔した浙江省の杭州市と寧波市の中心部ではEV車比率が40%くらいに達するのではないかというくらい頻繁にEV車を見かけました。そんな光景は想像していなかったので驚きました。ネット検索してみたら、各国のEV車比率は以下です。日本がこの分野でいかに遅れているかよくわかります。 ノルウェー 88% スウェーデン 54% デンマーク 39% オランダ 35% 中国 29% ドイツ 31% イギリス 23% フランス 21% イタリア 9% アメリカ 7.7% 日本 3%2022年世界のEV車総販売台数は1020万台(前年より60%増)、前年までに販売されたものと合わせると世界中で約2600万台が走っていることになります。そのうち中国の昨年度EV車販売台数は590万台ですから世界全体の約60%を占め、既存のものと合わせると中国製は約1380万台、世界のEV車のなんと2台に1台は中国生産。日本は昨年経ったの10.2万台ですから世界のEV車シェア1%、かなり遅れをとっているのは明らかです。上の2枚の写真は杭州市中心街のショッピングモールにショップを構える通信機器大手メーカーHUAWEI、スマートホンと一緒にEV車を販売していました。同社は昨年から電気自動車の販売を開始しています。私は米国アップルや英国ダイソンが自動車専業メーカーよりもカッコいいEV車を近未来発売すると期待していましたが、HUAWEIはすでにEV車販売に着手、中国はやることが早いです。10年前に北京出張したとき、黄砂の影響もあってかものすごい空気汚染にびっくりしました。高度経済成長の中国では環境問題にあまり関心がないのかなと思いましたが、どうやら私の間違いでした。一部の中国人は環境問題への関心高く、ガソリン車から電気自動車に切り替えているんです。そして気がつけば中国製EV車は輸出の重要品目、ついに今年日本を抜いて自動車輸出ナンバーワンの国になりました。Li Auto社「理想L7」NIO社「es8」杭州市の中心街では電気自動車のショールームが目につきました。写真のLi AutoとNIOに加えXpengが急成長3企業と言われているようですが、いずれも創業してまだ10年足らずの新興企業、既存の自動車メーカーではありません。急成長中の会社ですから資金面はまだ盤石ではないでしょうが、彼らは国内市場のみならず世界市場に打って出ている。こういう新興企業の台頭で中国は日本車の輸出台数を上回る、すごいことだと思います。小泉純一郎政権後半、私たちは政府のコンテンツ戦略会議に招集され、そこで担当官から「電気ではもう外貨を稼げなくなる」と衝撃的な説明を受けました。まだシャープの亀山工場製の薄型液晶テレビが世界中で人気だった頃、信じがたい説明でした。その議論から6年後に国の方針としてクールジャパン政策が打ち出され、それまで政府に軽視されてきた柔らかジャンルの産業を強化されることになり、私自身もその政策のお手伝いをしました。担当官の発言通り日本製電気製品のポジションは著しく低下してシャープはすでに台湾企業に買収され、日本の国際競争力は著しく下がりました。そして、今度は自動車輸出まで中国に追い抜かれてしまいました。日本の自動車産業、電気と同じ道を辿らなければ良いんですが....。
2023.12.27
今回杭州セミナーを企画してくれた金さん(英語表記Aaron Jin)の名刺をもう一度よーく見たら、会社名は「佐吉企业管理咨询(上海)有限公司」とありました。創業者の豊田佐吉氏金さんは大学卒業後豊田通商上海支店に就職、28歳のときに独立。社名「佐吉」はトヨタグループ創業者の豊田佐吉に由来しているのかもしれないと思って金さんにメールで問い合わせたところ、やはりそうでした。豊田佐吉の名前を知っている中国人がどれくらいいるのかわかりませんが、金さんは佐吉翁に敬意を込めてその名前を社名に引用したかったのでしょう。我々が大学で経営学をかじった頃はまだ米国自動車フォードのヘンリー・フォードが生み出した「フォード生産管理方式」が製造業経営のお手本でした。少品種大量生産こそが近代経営の成功事例、と。しかし、必要な物を必要な時に必要な量だけ作るトヨタ自動車の「トヨタかんばん方式」が効率的経営と評価されるようになり、20世紀の末にはフォード生産管理方式は主役の座から滑り落ちます。金さんは豊田通商在籍中にトヨタかんばん方式を先輩たちから、あるいは書物から学んだのでしょう。独立してサプライチェーンマネジメントのコンサル会社を上海で立ち上げていろんな分野の生産ライン改善を契約企業にアドバイスしてきました。「良い工場は美しい。汚い工場はダメです」、金さんの言葉は繊維工場にも当てはまることです。大野耐一副社長商品の生産に関する合理的な考え方はグループ創業者の佐吉翁から子息でトヨタ自動車を起こした豊田喜一郎氏に受け継がれ、そしてのちに副社長の大野耐一氏によって体系化されたと言われ、大野副社長はその功績により日本自動車殿堂と米国自動車殿堂の両方で殿堂入りを果たしています。先日金さんと会食した際にこの大野耐一副社長の話で随分盛り上がりました。それは私のオヤジから聞いたエピソードでした。オヤジは激戦のインパール作戦から帰還すると最初は名古屋の松坂屋百貨店紳士服部に就職、高級注文紳士服のパタンメーカーとして勤務しました。私が生まれた年にオヤジは独立して名古屋市の隣の三重県桑名市でテーラーを開業しました。ところが松坂屋のお客様の中にはオヤジがカッティングした洋服でなければ満足できないという方が何人もいて、テーラーを経営しつつ松坂屋の納入業者にもなりました。常連のお客様が友人を紹介してくださるうちにいつの間にか桑名市のテーラーながらお客様のほとんどが愛知県の大手企業幹部やお医者様など富裕層に広がりました。その中のお一人が当時トヨタ自動車副社長だった大野さんでした。洋服が完成するとオヤジは愛知県刈谷市のご自宅に洋服を納品しに行きますが、大野さんからは「太田さん、我が家にトヨタ以外の車でやってくるのは君だけだよ」と笑われたそうです。オヤジの車はずっと日産でしたから。ご自宅にお邪魔して出来上がった洋服のフィッティングを確認すると、大野さんはいつもお土産をくださいました。いまでも覚えているオヤジのセリフ、「トヨタの副社長さんは食べてるバナナもものが違うわ」。納品から戻ったオヤジから手渡される大野家のバナナを手に取ると、確かにバナナは重く大きく立派、甘さもたっぷりでした。大野耐一氏講演の様子オヤジにいつも洋服を注文してくださる大野副社長が果たしてトヨタかんばん方式を世に広めた大野耐一氏かどうか私には正確なことはわかりませんが、1960年代後半にトヨタ自動車工業(まだトヨタ自動車販売と分かれていた)副社長で刈谷市在住の大野さんは多分この方ではないかと思います。だからネットや書籍で大野さんの写真を見るたび、このスーツは我が家で作ったものに違いないと勝手に思っています。トヨタかんばん方式を世に広めた功労者であろう方の洋服を作っていたテーラーの倅が、その考え方に触れてサプライチェーンマネジメントのコンサル会社を中国で立ち上げた中国人の若者に招聘され、中国の経営者たちにトヨタ車の写真を何枚も見せながらものづくりの最重要ポイント、ブランディングの難しさやブランドDNAの継承を講義する。なんとも不思議な筋書きじゃないか、と金さんたちと盛り上がりました。経営学のバイブルだったフォード生産管理方式が時代の変化と共に徐々に評価されなくなったように、トヨタかんばん方式がいつまでもサプライチェーンマネジメントのバイブルであり続けるとは思えません。生産管理システムそのものはまだ当分通用するかもしれませんが、自動車というマーチャンダイズ(=商品)のマーチャンダイジングやブランディング戦略の点ではヨーロッパの自動車メーカーと比べて優位性があるとは思えませんよね。また、今回の中国出張でEV車開発では日本は中国メーカーよりもかなり遅れていると実感しました。トヨタかんばん方式の考え方は素晴らしいんでしょうが、この先日本の自動車メーカーはどうなるんだろう、ちょっと不安になりました。中国語版「大野耐一的現場管理」
2023.12.23
月曜日夕刻上海浦東空港から車で杭州に入り、火曜日と水曜日は終日セミナーでした。木曜日は主催者の計らいで杭州の観光地「西湖」湖畔でのんびり。そして金曜日は車で寧波に移動、阪急百貨店の視察、大手アパレルの1つであるYOUNGOR(ヤンガー)本社を訪ねました。まるで政府機関のような本社ビル企画や営業のワンフロア私の右側白いニットの女性が社長出迎えてくれた女性はモンクレールのキルティングジャケットを着ていました。モンクレールは中国でも人気があるとおしゃべりした女性がなんと社長でした。彼女は20余年前に新卒採用され、まず本社の中にある縫製工場で働き、その後直営店で販売を経験、本社に異動になってブランドのマネージメントなどいろんな現場を歩いてきた叩き上げ社員、創業一族の縁故関係ではありませんでした。ヤンガーグループは不動産業などいろんなジャンルに進出、現在アパレルの売上比率はかなり低くなったとは言えまだ円換算で約2700億円売上の大企業、叩き上げのしかも女性社員を経営トップに抜擢した親会社の幹部は素晴らしい。新興企業によくある、海外の有名大学に留学してMBAを修得後帰国する優等生をヘッドハンティング経由でスカウトではありません。経営者として然るべき業績を期待したいです。本社ビルの中にある広い縫製工場基幹ブランド「ヤンガー」のショールーム上級ブランド「メイヤー」はロロピアーナなど高級素材使用米国ブランドも扱うヤンガーは一貫生産を大事にしています。全部の素材ではないにしても、綿花や麻を自家栽培、それを紡績して布を製造、自家工場でアパエル製品に仕上げています。そのためいろんな品質検査機関も社内なので本社には白衣を着た技術者がたくさん働いています。内製化することで品質への安心は得られるでしょうが、人件費を含めそれなりに経費は増え、売上の割に支出の多い企業体質かもしれません。工場の流れを見える化しているので現時点で生産ラインのどのポイントが渋滞しているかは誰にもわかります。また、全国約2000の店頭と本社を結んで瞬時に会社全体の売上合計が表示されます。ネット通信とコンピュータを駆使して数値管理は徹底していますが、生産ラインの改善、商品のクリエーションにはもっと手を加えてもいいのでは、と正直思いました。本社内には立派なホテルがあり、そこで夕食をご馳走になりました。せっかく工場を案内してもらったのでマーチャンダイジングの基本を備え付けのクローゼットのハンガーラックを使いながら説明。社長とマーケティングディレクター(こちらは外資ブランドから転職したばかりの女性)は定数定量管理の考え方を聴いてくれました。杭州セミナーに参加してくださったアパレルメーカーやSPA企業幹部はヤンガーの女性社長とほぼ同世代、日本に比べると概して経営陣は若く熱心、問題意識もお持ちです。だからまだまだ伸び代があるように感じました。
2023.12.22
齋藤孝浩さんの紹介で、今年9月に訪日中国人アパレル関係者に「クリエーションとビジネスの関係」と題する講演をしました。コロナウイルス前後の日本の消費変容、デザイナー解任劇多発の問題点、ブランドDNA継承の重要性などを話しました。このとき訪日ツアーを企画した金さん(英語ではAaron Jinさん)から、今度は中国に出張してファッション業界に向けてセミナーをやってもらえないかと頼まれ、今回の師弟研修旅行が実現しました。初日夕刻、上海浦東空港で我々を出迎えてくれた金さんと杭州市中心街のレストランで打ち合わせがてら食事をしていたら「これまで食べた中で印象に残る中華料理はありますか」と質問され、私は初めて香港出張したときに潮州料理店で食べた上海蟹味噌を麺とあえたカルボナーラのようなヌードルと答えました。初日のセミナー翌日、セミナー第1部が終わって昼休み、会場すぐ隣の杭州料理店で数人のアパレルメーカー経営者らとランチをしましたが、なんと上海蟹がドーンと大皿に並んで登場したのです。前夜の私の発言を受けてすぐ上海蟹の元締めに連絡して特別に用意してもらった、と。金さんは「私たちの本業はサプライチェーンマネジメントのコンサルタントですから、何事もスピーディーに動きます」と笑っていました。気遣いには感謝しつつも、決して安価なものではなく、前夜余計なこと言わなきゃ良かったと反省でした。が、なんと翌日ランチも上海蟹は登場しました。初日の講師は私、2日目の齋藤孝浩さんの講演が終わって3日目、杭州市郊外のセミナー会場近くのホテルから何故か観光客に人気がある西湖の「西湖山荘」に引っ越しました。ここはたくさんの木々に囲まれ、鳥のさえずりが聞こえる優雅なリゾートホテル、のんびりするには最高です。西湖の周辺に移動と聞いて我々は湖畔のショッピングセンターでお店を見て回るつもりでしたが、チェックイン手続きを終えると金さんは湖畔の緑地に連れ出し、「仕事ばかりではつまらない。1日くらいはのんびりしてください」と遊覧船にも乗せてくれました。息子のような若者がこの気遣いでした。格式ある西湖山荘の正面入口で西湖の緑地を散歩火が沈む頃の緑地は観光客でいっぱい日没後は売り場歩きそれぞれ終日セミナーを担当したので金さんなりの慰労の意味だったのでしょう。が、中国に来たからには売り場をたくさん見て回らなきゃと我々はショッピングモール視察を持ちかけ、やっと日が暮れてから中心街のモールや路面店を視察できました。せっかちな我々は湖畔の散歩よりも売り場視察の方がお似合いだと思いますが、この日は金さんの計らいでのんびりと過ごすことができました。会食中、金さんは私に「私は中国をもっと良くしたいと思って28歳で会社を立ち上げました」、と熱く語ってくれました。その目は真剣そのもの。そして、彼はいつもプロジェクトの背後にいて、一般的なセミナー主催者挨拶のような場面は作らず表には出てきません。記念写真も我々講師ツーショットや通訳さんとの撮影は何枚もありますが、金さんとの写真は今回私の手元に1枚もないことに帰国して気がつきました。私のPCには9月セミナー後に西新宿のレストラン前で撮影したものがたった1枚あるだけです。起業して8年の36歳、契約している大手精密機器などにサプライチェーンマネジメントをアドバイスしている人物とは思えない若者、東京コレクションを始めた頃の生意気な私をちょっと彷彿させます。私の左が金さん、右が齋藤さん金さんは「せっかく中国に来ていただくんですから、企業トップが出てこないような会社の参加申し込みは受けません」と強気でこのセミナー企画を業界に訴求したと聞きます。そして会場では各地から集まった経営者らと話をしながら、今度は我々2人による個別社内研修を勧め、上海に拠点を置く老舗大手ニットメーカーと広州に拠点を置く成長著しい新興製造小売業と話をまとめたのです。西湖の休養の翌々日、ちょうど私のフライトが成田空港に到着したタイミングで金さんから連絡が入り、春節後の2月下旬の個別社内研修の日程が決まりました。行動力とそのスピード、半端ないです。こういう熱い青年実業家が中国急成長の原動力なんでしょうね。これまで私は国内でたくさん講演させてもらいました。日本の経営者はセミナー後に「良いお話を伺いました」と声をかけてくれますが、セミナーで指摘した問題点を解決に向けてすぐアクションというのは見たことがありません。ここが中国との大きな違いでしょうか。9月に訪日団に講演した後すでに東京で中国SPA企業の研修が1つあり、そして今回の杭州があり、来年2月には個別企業の社内研修が組み込まれました。短期間にどんどんセミナーが企画されていく、「中国をもっと良くしたい」と熱く語る金さんならではなんでしょう。彼に刺激され、これから中国講演出張や訪日団セミナーが一気に増えそうです。
2023.12.19
2021年春の寧波阪急開業時開業時のロジェヴィヴィエの様子前職の官民投資ファンドで浙江省寧波市の未開発地に新しく阪急百貨店のショッピングセンターを建設するプロジェクトに投資する話があり、2014年に建設予定地を訪問しました。当時はまだ周囲にほとんどビルはなく広大なサラ地、地下に完成予定の地下鉄2線の駅も姿かたちもありませんでした。寧波は聖徳太子の時代に小野妹子ら遣隋使が辿り着いた港町、その後も日本から遣唐使が何度も寄港、ここから千キロも離れた長安(現在の西安)に歩いて挨拶に行ったそうです。唐招提寺を建立した中国のお坊さん鑑真はこの港から日本に渡りました。なので日本とはとても縁のある古い都市、しかも上海、シンガポールに次ぐ主要港をいまも有する経済拠点でもあります。市内を走るポルシェの台数は当時上海や北京以上だったので、高いポテンシャルをここで予感しました。寧波阪急百貨店我々の投資も決まって着工、建物そのものは予定通り完成しました。しかし、出店交渉していたヨーロッパの有力ラグジュアリーブランドから正式な回答がなかなか得られず延期に次ぐ延期、結局構想よりも3年ほど大幅に遅れて開業(このとき私はすでに社長を退任)しました。野党議員の一部から開業の遅れを国会の委員会でさんざん批判されたと聞いています。そして開業時はコロナウイルスの真っ最中、どうなるのか心配した阪急寧波店はオープン直後から絶好調、初年度と比べて予算比の倍以上を記録しました。ところが、ラグジュアリーブランドの売上が素晴らしいと伝わってまたもや野党議員の一部から「どこがクールジャパンなんだ」とご批判。おっしゃることは分からないでもないんですが、知名度抜群の有名ブランドをある程度揃えなければ館全体の集客は望めません。まずは集客ありき、そして常連さんを増やし日本の美味しいやカッコイイをゆっくり浸透させていく、これが当初から考えた日本の生活文化を広めるビジネス策でした。現地で知名度のない日本企業が店を構え立って現地の一般住民は見向きもしないでしょうから、我々の考えは絶対に間違っていません。1階の裏口で記念撮影1階ヨウジヤマモト中国で人気の無印良品は大きな売り場デパ地下にはサントリー山崎はじめ日本のウイスキー獺祭、梵など日本の吟醸酒もズラリ揃っているスタジオジブリのキャラクターグッズ店スーパーマリオ人形がセットされた任天堂コーナーデパ地下は系列のスーパーイズミヤ投資には関わりましたが、完成した百貨店を見るのは今回が初めて。噂では初年度は想定したよりも2倍の売上を記録したので社員に臨時ボーナスが支給されたとか、良かったです。我々が訪問したのは平日の午前中だったからか館内は思ったより静かでしたが、デパ地下はそれなりに賑わっていました。デパ地下は現地ですでに実績のあったスーパーイズミヤ(現在は阪急グループの系列企業)が日本の食品などをたくさん扱っていました。日本の百貨店らしくお客様サービスも開店が遅れて批判、開店したらまた批判の先生方、視察ツアーを組んで一度は中国の主要百貨店やショッピングセンターにお出かけください。ラグジュアリーブランドをしっかり導入できないと集客はままならないことを肌でお感じいただけるでしょうし、日本の化粧品、ファッション、雑貨や玩具、そして日本食材や料理はまだまだ伸ばせるポテンシャルがあることがお分かりいただけるでしょう。開業前に心配した点、やはり売り場では少々気になりました。もしもまだ私が投資側のトップのままなら課題の改善を阪急百貨店にお願いしていたでしょうね。課題はどこかはここでは言いませんが、とにかく早い出資の回収を期待です。
2023.12.17
I.F.I.ビジネススクールで1994年から実験的に始めた夜間プロフェショナルコース、主にファッション流通業界で働く若者に向けた6ヶ月間毎週夕方開講のプログラムでした。2000年まで私はコースディレクターを務め、自分自身が講義するときもあれば外部講師にお願いして講義には立ち会うこともあり、指導した受講生は数百人います。その中の一人が当時大手総合商社勤務の齋藤孝浩さん。その後会社を辞めて自分のマーケティング会社を立ち上げ、「ユニクロvsZARA」や「アパレル・サバイバル」などの著書もある人です。今年9月齋藤さんから頼まれて訪日ビジネス研修の中国経営者たちに3時間ほどレクチャーをさせてもらいました。このときツアーの主催者だった中国コンサル会社を経営するKさんから求められ、5日間浙江省の杭州と寧波に出張してセミナーやアパレル会社訪問をしてきました。杭州は主に婦人服アパレル、寧波は紳士服アパレルメーカーが多い都市、今回は杭州市の郊外のアパレルメーカーのショップやショールームが集積する「E FASHION TOWN」と表記があった一画のファッションメーカー本社でアパレルメーカーやSPA企業の幹部ら約80名に齋藤孝浩さんと共に講演しました。杭州市がファッションメーカーを集積したエリア(写真上2枚)教え子でもある齋藤孝浩さんと会場の模様自動車を例にブランディングを語る私齋藤孝浩さんの講義杭州市は人口およそ1300万人の歴史ある都市。かつて浙江省から多くの中国人が海外に進出、華僑と呼ばれるようになりました。この都市の代表的な企業はネット販売最大手のアリババです。中心街の一つは観光地である西湖のそばにありますが、ルイヴィトン、グッチ、アディダス、ナイキ、アップルなどが大型店を構えています。世界の大都市の中心街と変わらぬ顔ぶれ、いまやどの国に行っても都会の中心街の表情はみな同じですね。そんな中で私が一番びっくりしたのは、女性副社長が政治的にカナダで逮捕されて一躍日本でも有名になった電気のHUWWEI(ハーウェイ)の店舗です。なんとスマホと共にここで電気自動車を販売しているではありませんか。ダイソンやアップルがどんな電気自動車を発表するのか楽しみにしていましたが、すでにハーウェイは昨年からEV車を販売。自動車事情に疎いので私は知りませんでした。いよいよ自動車メーカー以外のジャンルからEV車をつくる会社が出てくる世の中です。ショッピングモールの路面HUAWEI店スマホの横にはHUAWEIが製造販売するEV車中国ではEV車のナンバープレートは薄い緑色、道路を走っている自動車のおよそ4割(実際にはもう少し少ないかもしれませんが)はEV用ナンバープレートでしたからかなり進んでいます。自動車メーカーのみならず電気メーカーまでもがもうEV車を手掛け始めたのですから、この分野では日本企業よりも地球環境のことを考えていると言えます。中国ドライバーの運転は荒っぽいけれど自動車産業はサステイナブルです。繁華街では巨大なスクリーが目立つルイヴィトンなどラグジュアリー店がズラリモールの1階内側上海、北京、深圳、広州、重慶の中国GDP五大都市でもない杭州(2021年データでは8位)でも中心街は世界のラグジュアリーブランドがメガストアを独占、しかもどの店舗も競うように明るい照明をつけて華やかでした。中国人がどれくらいクリスマスに関心があるのかしれませんが、夜間も中心街は賑やか、景気低迷のニュースは本当なんだろうかと思いました。5日間の浙江省出張の詳細はこれから順次まとめます。
2023.12.17
来週中国アパレル事業者へのセミナーのため浙江省杭州に出かけます。上海の左側、人口1030万人です。主催者の配慮で近郊の寧波(760万人)にも立ち寄ります。寧波には前職投資ファンドで莫大な投資を行った阪急百貨店があり、開店以来絶好調なのでその様子も見てきます。現地では恐らく売り場を歩き回るでしょうから、いつも履いているトッズの革靴はやめて楽なスニーカーにしようと考えています。近年ラグジュアリー系ブランドもたくさんスニーカーを販売強化していますし、スポーツ系ブランドは消費者の生活シーンごとにいろんなタイプのスニーカーを出しています。革靴はトッズと決めている(個人的に履いて楽なのがその要因)私ですが、スニーカーもアディダスと決めています。短期間で急成長したナイキも、大谷翔平選手がCM出演して注目されているニューバランスも、技術的には素晴らしい日本のオニツカタイガーもありますが、どうしても私はアディダスなのです。思春期にサッカーに夢中だった私の愛読書はサッカーマガジン、自分のスーパースターはバイエルミュンヘンのゲルト・ミュラー選手、そしてあこがれのサッカーシューズはアディダスでした。でも、アディダスはほかのメーカーよりもやや高価、ガキの小遣いではとても手が届かない代物でした。なので私にとってアディダスは特別な憧れブランドなのです。今日オフィスの近くのアディダス直営店で杭州出張用のスニーカーを買いました。手元にある黒地に白い3本線のものと同じ形のライトグレーにしました。ABCマートにでも行ってほかのブランドを見ればもっとカッコイイあるいは履き心地いいスニーカーはあるのでしょうが、私は頑固にマイブランドのアディダス。バカじゃないかと言われそうですが....。昔から私はこれと決めたブランドを長く使い続けてきました。アンダーウエア、Tシャツのカルバンクラインもそうです。ブランドが生まれたときからずっと一途にカルバンクラインのアンダーウエア、米国写真家ブルース・ウエバーが撮影した広告写真(写真下)はあまりに有名です。ブルース・ウエバー撮影の広告カルバンクライン定番だったクルーネックTシャツおよそ30年間、米国出張のたび郊外のブルーミングデールズ百貨店やアウトレットモールでカルバンクラインを大量に買い、持参した古い下着を現地ホテルで捨ててきました。ところがコロナウイルスで米国出張がなくなり、近年カルバンクラインのTシャツはVネックばかり、私のお気に入り無地ロゴなしクルーネックは入手困難に。ド定番なのにどうしてクルーネックがないのか、そして広告写真にあるアンダーウエアがないのか、私には理由がわかりません。ネット通販で探してみたものの、通販サイトにあるTシャツはロゴ入りやVネックばかり、アンダーウエアもトランクス型がほとんど、これではあきらめるしかありません。そこで、先日ネットアパレルのEVERLANEの無地クルーネックを購入しました。長年愛用してきたカルバンクラインのような肌触りで安心、ついにマイブランドとはお別れすることになりました。今日購入したアディダスシューズのトッズもこれまで海外出張中のたび毎回2、3足購入するうちトータルで100足以上になりました。トッズ傘下のロジェヴィヴィエ導入交渉のとき、パリ展示会でお会いしたトッズのオーナー会長に「日本でトッズの一番のお客さんは私です」と言ったほど、私はずっとトッズを履いてきました。が、最近アディダスを履き始めたら心が揺れ動きました。スニーカーは本当に楽、頑張って革靴を履く必要があるんだろうかと思うようになったのです。最近はトッズとアディダスのスニーカーを履き分けていますが、たぶん近未来靴は全部アディダスのスニーカーになるんだろうな、と。ソックスもマイブランドはナイガイ製造のポロ・ラルフローレンでしたが、最近はお気に入りのデザインが少なく、ポロ以外のソックスも買うようになりました。ずっと同じブランドを愛用したいんですが、ソックスもアンダーウエアもブランド側の方向性で同じものを買えなくなりました。ブランド側はいつもと同じ顧客を相手にしていては成長はないのかもしれませんが、顧客に安心感を提供するのが本来のブランドの姿勢ではないでしょうか。トレンドが変わろうが人気が低迷しようが、同じブランドを長く愛用できるのがマイブランド。楽なのでスニーカーを履く頻度はこれから高くなりそうですが、しばらく私のマイブランドはアディダスのままでしょうね。
2023.12.10
新型コロナウイルスで訪日観光客の姿は少なかった過去3年、全国の繁華街にはいつもの師走の賑わいはありませんでした。が、やっとコロナ規制がなくなり、海外から観光客が戻ってきて紅葉の行楽地や繁華街は外国人でいっぱい。先日訪れた広島市も外国人観光客が目立ちましたし、ニュースによれば京都はオーバーツーリズム、地元住民が迷惑しているとか。外国人が激減すれば困るし、増えすぎても困る、悩ましい状況が続きます。ここ東京銀座も外国からの買い物客で相当賑わっています。肌感覚ではコロナウイルス直前と比べて現在の方がインバウンドはかなり増えているのではないでしょうか。コロナ禍前のいつものクリスマスが戻った銀座、しかも急に寒さがやってきて生活者の冬支度は本気モードになり、ここからクリスマスイブまでレストランもお店も今年はかなり期待できそうです。かつては銀行、キャラクターグッズ店、銀行、薬局があった銀座2丁目交差点の角、現在はルイヴィトン、シャネル、カルティエ、ブルガリの大型店が並び、日本で一番ラグジュアリーなコーナーになりました。4店舗ともリッチな会社ですからクリスマス装飾に工夫を凝らし、ここを通る人々の多くは写真撮影のために足を止めます。特に夜はイルミネーションが綺麗でテンション上がります。ルイヴィトンシャネルカルティエブルガリ今年も松屋銀座は青森の女流ねぶた師北村麻子さんとのコラボレーション。日本の伝統美と西洋のクリスマスモードが不思議とマッチして面白い空気を醸し出しています。松屋銀座正面ウインドー1階エントランスのサンタさん地下1階地下小型ウインドー吹き抜け空間に吊るされたサンタさん北村さんのねぶた作品の展示は今年で3回目。松屋の吹き抜けやウインドーの色鮮やかなねぶたを撮影するお客様の姿が今年も目立ちます。
2023.12.05
香川県丸亀市猪熊弦一郎美術館で開催されているテキスタイルデザイナー須藤玲子さん「nunoの布づくり」展覧会を拝見しました。須藤さんとは毎日ファッション大賞の関係で年に数回しかお目にかかりませんが、改めて彼女のものづくりの発想、クリエーションの源泉がよくわかる素晴らしい展覧会でした。また、ものづくり現場の映像から、須藤さんらを陰で支える各地の繊維産地の職人さんたちの根気強い姿勢と、どうやって丁寧に布を生産しているのかもよく理解できました。布づくりに関わる全ての人のテキスタイルへの愛情に触れ、一人の消費者としてもうちょっと大切に服を着なければならない、と。ファッションビジネスに携わる全ての人に見て欲しい展覧会、12月10日まで。高松空港から丸亀駅までバス運行、美術館は丸亀駅のすぐ前にあります。追加情報ですが、県庁所在地の高松市はシャッター街が増える全国地方都市の中で例外的に地元商店街がとても元気、第三セクターによる地方都市整備のモデルケースになっています。その商店街の名称も「丸亀町商店街」と言いますが、ルイヴィトンやティファニーもあれば、センスのいい地元セレクトショップや美味しい飲食店が多数あります。
2023.11.28
投資ファンドを退任する頃、お世話になっている方から頼まれて日本での視察研修にやってきた中国ファッション流通業界の経営者たちに講演をしました。するとどういう経路でその講演のことが中国業界に広まったのか、次から次へと訪日中国視察団向けセミナーの依頼が増え、さらには個別の企業の社員研修も依頼されて毎月中国ビジネスマン向け講演レジュメを作成していました。2020年新型コロナウイルスの影響で訪日自体が不可となり、中国人対象の研修依頼はなくなりました。が、この秋口に中国の渡航規制が緩和され、再び訪日研修ツアーが増え、私のところにもいろんなルートから講演打診が届くようになりました。9月中旬ファッション系経営者グループに「クリエーションとビジネスの関係」を講演させていただきました。9月の講演昨今のデザイナー退任劇の急増から、ブランドDNAの継承がいかに難しいか各国の失敗事例をあげながら解説。参加者の中には世界的に有名なネット通販会社で研修を担ってきた幹部がいて、セミナー後にその方のSNSにアップする動画収録もありました。このインフルエンサーのSNSの影響なのか、伸び盛りの製造小売業の社員研修団に対するレクチャーを頼まれ、さらには中国に出張して業界関係者に終日研修する話まで持ち上がり、このところ中国向けに何パターンかのレジュメ制作に追われています。セミナー後インフルエンサーSNSのためインタビュー収録先日講演した製造小売業の研修団は創業者、幹部、店頭指導の専門職ら約20名が5日間日本の工場や売り場を回り、VMD研修を受けるプログラムでした。創業社長が多数の幹部を連れて海外研修する、素晴らしい企画だと思います。私が所属した百貨店も積極的に社員海外研修を毎年実施、社員たちは現地でいろんな刺激を得て自分の仕事に活かしていました。生きたお金の遣い方です。私の講義に参加してくれた中国人には、米国を代表する製造小売ブランドG社が1980年代前半どん底からどのように立ち直ったのか、そして急成長時はどんなに素晴らしいマーチャンダイジングを我々に見せてくれたのか、続けて創業家と経営者の確執から始まった下降線の経緯を説明。製造小売業のものづくり姿勢はどうあるべきなのか私見をお伝えしました。特に素材クオリティーに対する考え方がブランドの方向性に大きく影響する、と。また、この中国企業は新興成長企業なので、これからものづくりで考えなければならないことはブランド十八番(おはこ)をどう作るのか、さらにブランドDNA、アイデンティティーの重要性を説きました。皆さん熱心に聴いてくださって質疑応答は長く、時間を大幅延長して講演は終わりました。来月私が中国に出張して現地セミナーに登壇することをご存知で、創業者は幹部を連れて参加するとおっしゃってました。ありがたいことです。企業研修後の記念撮影(社名はぼかしました)最近はクリエーションとビジネスのあるべき関係をよく話します。例にするのがオランダの画家ヴィンセント・フォン・ゴッホと画商だったテオ・フォン・ゴッホの関係。ゴッホは生涯たった1枚の絵しか売れませんでしたが、実弟テオは兄の才能を信じて支援を続け、テオ家には大量のゴッホ作品が蓄積、それがのちにゴッホの価値を高めました。画商はデザインマネジメントを担う人間、クリエーションを受け止める力量がなければなりません。売れる、売れないだけを論じていてはクリエーションの価値は見えてきませんから。ブランドDNA継承の重要性もよく話します。外部から招聘した人気デザイナーが名門ブランド企業のディレクションを滅茶苦茶にしてしまった事例、その果てにブランドそのものが市場から消滅してしまった最悪の事例、逆に経営陣とクリエイターが事前に方向性を十分話し合って成功した好事例や創業者のクリエーションを後継デザイナーたちがいかにして守ってきたかも写真を紹介しながらお話しします。写真を見せれば言語が違っても誰もが理解してくれます。さらに、ファッション以外の分野でも日本製品には「顔がない」という事例を写真を紹介しながら説明します。これも言語が違ってもこちらが何を言いたいのか 写真から簡単に理解してもらえます。ブランディングについては自動車やパソコン、日本酒を例にします。日本酒では海外のワインに比べてどうして価格が安いのか、どうして日本酒ボトルは貧弱なのか、どうしてヨーロッパのシャトーのように宿泊や食事ができないのか、ブランドとは中身だけではなく外見もサービスも含めた文化を売るもの、と説明します。もう一点、日本のアニメは世界で高く評価されてはいますが、日本のアニメで実際に儲けたのは誰でしょうか、どうして日本のアニメ制作現場はブラックのままなのでしょうか、儲けているのはコンテンツ開発した日本の会社ではありませんという話、外国人ビジネスマンには理解してもらえる事例です。これまでずっと教えてきたマーチャンダイジングの基本、誰に、何を、どのように、いくつ売るのか仮説を立てましょうという話、これは世界共通ネタですから皆さんうなずいてくれます。マーチャンダイジングは長年教え続けてきたこと、いろんな例を引っ張り出しながら講演しています。来月中国で開催されるセミナーは、丸1日3部構成でクリエーションとビジネスの関係についてお話する予定。参加者の中にはこれまで私の講演を来日時に聴いたことある方やその同僚、部下もいるでしょうから、同じ内容、同じ事例で話しては新鮮味がありません。レジュメを何度も何度も書き直しながら、皆さんに新鮮に感じていただけるよう準備しております。
2023.11.12
いまから10年以上前、東北大震災の前後のことだったと思います。部下Nくんが「会ってやって欲しい人がいます」と銀座のレストランに2人の若者を連れてきました。大学卒業後単身バングラデッシュに渡って「最貧国の人々を救いたい」と現地でバッグのサンプルをいっぱい作って帰国、25歳でマザーハウスを起業した山口絵理子さんと、彼女のゼミの先輩で大手ゴールドマンサックスを退職して助っ人になった副社長の山崎大祐さん。Nくんによれば、山口さんはTBS「情熱大陸」をはじめメディアでスポットを浴びる話題の人ということでした。人口が多く貧しいバングラディッシュでコストカットのためにアパレル製品を生産する話はよく聞きますが、貧しい国の人たちに仕事を与えて助けたい、途上国から世界に通用するブランドを作りたいなんてセリフ、このとき私は初めて聞きました。慶應義塾大学のあの竹中平蔵ゼミ出身、山崎さんのように外資系金融機関に就職するのは想像できますが、ものづくり経験が全くないど素人が技術的にはまだ未熟で貧しい途上国でバッグの製造を始めるなんて無茶な話、私にはちょっと想像できません。凄いこと発想する若者がいるもんだと驚きました。山口さんはファッションの専門家に自分たちが作った洋服サンプルを見せ、感想を聞きたかったのでしょう。バングラデッシュのバッグの次は同じく途上国ネパールで洋服を作って貧しい人々に仕事を提供したい、気持ちはわかりますがサンプルを見る限り時期尚早でした。「洋服はバッグよりも在庫になりやすいからリスキー。いまはやるべきじゃないよ」と助言しました。ネパールならまずストールの生産だけに絞ってみてはとアドバイス、洋服の生産はこの段階では諦めてネパール産ストールがマザーハウス店頭に並びました。山口絵理子さんこのとき以来、私の教え子でもないのに山口さんからは時々メールが着てアドバイスを求められます。そして4年ほど前、マザーハウスの主要メンバーにマーチャンダイジングの基本を教えてもらえないかと頼まれました。これまで企業研修では顧客分類、商品分類、定数定量管理、発注の心得、販売計画など10数コマを宿題を与えながら数か月かけて教えてきましたが、カリキュラムを短縮してコンパクトな内容で社員教育を引き受けました。カリキュラム短縮には理由があります。私の元部下でかつてマーチャンダイジングの基本を教えたHくんが外資ブランドを経て独立、VMD指導の会社を立ち上げマザーハウスを手伝っていたからです。Hくんが教えているのであれば重複しそうな部分はカット、私がテクニカルなことまで教える必要がありません。こうして関西地方や海外拠点スタッフのリモート参加を含め、マザーハウスの主要メンバーにマーチャンダイジングの基本を伝授しました。何と言っても定数定量の概念をショップスタッフにも本社スタッフにも植え付ける、これに重点を置きましたが、やる気満々の社員たちは飲み込みが早く教えがいがありました。その成果は店頭を見ればわかりますし、細かいことはHくんがついているので大丈夫です。松屋通り沿いの銀座3丁目店昭和通りを渡った角にある東銀座店そして今日たまたま通りかかった2つの店舗を覗いて安心しました。Hくんが何度も定数定量を守るようスタッフを指導したのでしょう、商品は見やすい展開になっていました。店舗数は増え、海外出店も始まり、ビジネスは軌道に乗ってマザーハウスは次のステージに行こうとしています。そこで再びアドバイスをしました。これまでは途上国での生産にこだわってきたマザーハウスですが、この先そのことが「売り」ではブランドとしての市場ポジショニングは確立できない。途上国生産そのものは続けつつ、もはやそれだけが「売り」ではブランドの成長は見込めない。そろそろマザーハウスの十八番(おはこ)、ブランドの世界観をしっかり打ち出すべき時が来ている、と。言い方を変えれば、経営者でなくクリエイター山口絵理子の世界観を商品ではっきり表現する、製造拠点のストーリーではなく商品そのものの魅力で勝負する、これが次のステージではないでしょうかと言いました。そして、彼女なりの答えのひとつが洋服をしっかり作ろう、でした。「太田さんには叱られそうですが、洋服を作りました」と連絡が入り、初めてのファッションショーにお邪魔しました。修正したらいい点はいくつもあるでしょうが、山口さんは洋服づくりをずっと我慢してきたのです、思う存分やればいいと思います。もちろん在庫量には配慮しながら。初めてショーで見せた2023年秋冬コレクション同メンズウエア以前、山口さんに技術力のある某生地メーカーを勧めました。来月バングラデッシュの工場長が来日するのを機に、その本社工場を見学できるよう先方にお願いしているところです。途上国の縫製工場はここ数年技術はかなり向上していますから、生地のバリエーションが増えればもっと面白い商品が作れると期待しています。日本の素材テクノロジーと職人気質をリンクさせたら、現地の技術者は刺激を受けてさらに商品はレベルアップするでしょうね。成長を期待したいです。
2023.11.11
コロナウイルス騒動が一段落し、3年続いた入場規制もなくなり通常開催された文化服装学院の文化祭に昨日お邪魔しました。恒例のファッションショーは例年よりもステージが低くて大変見やすく、IT技術革新もあって映像、照明や音響など演出面はものすごい進歩、プロ顔負けの中身の濃いファッションショーでした。協賛企業の素材や資材提供もあり、学生たちのものづくりは数年前に比べるとかなり進化、パワフルで見応えのある作品は少なくありません。「最近の若者はこんなものを作りたいのか」、そんな思いでショーを拝見しましたが、今年は特に手の込んだ楽しい作品が例年より多かったのではないでしょうか。個人的に最も評価したのは下の写真(右)の赤いドレス。ひとつずつ丁寧に花を成形しそれらをつなげてドレスに仕上げた作品、プロの技術者が揃うアトリエでもそう簡単にこのレベルはできるものではありません。先生がたのお手伝い抜きで学生たちの力だけで完成させたのであれば「あっぱれ!」です。会場で学校関係者がおっしゃっていました。日本全体の人口減少で先々ファッション専門学校を志望する若者は減少することが予想されるのでファッション業界に夢がないことには、と。夢や希望がなければ若者たちはほかのジャンルに進みます。ファッション業界全体にエネルギーが満ちていないと若者は集まってきませんから、当然ファッション系専門学校の募集に影響が出ます。学校が満足な教育を維持できるかどうかは産業界の肩にかかっています。今回の学生コレクション、(誰がどういう場面で着るかどうかはちょっとおいておいて)いま現在自分たちが作ってみたかったものを思い切り作ってみましたという力作が例年よりも多かった。言い換えれば妥協がなかった、これが素晴らしいと私は思います。今後も専門学校が人を集め、いい教育を続けるためには産業界そのものに魅力がないといけませんが、こういう文化祭のようなイベントにもっと協力し、学生クリエーションの具体化を支えてあげるのも産業界の使命ではないでしょうか。
2023.11.04
日本ファッションウイーク推進機構の実行委員をお願いしているユナイテッドアローズ取締役常務執行役員の田中和安さんに誘っていただき、彼らの文化服装学院時代の恩師曽根美知江先生ご自宅での宴会にお邪魔しました。曽根先生はすでに退職、私は約30年ぶりにお会いしましたが、現役時代と全く変わらず昔のまんま、びっくりするくらいお元気でした。曽根先生は1960年代パリオートクチュール協会が主宰する学校に留学、帰国後はずっと文化服装学院でパリ仕込みの立体裁断やマーチャンダイジングを指導されていました。パリ留学時代、隣のクラスには三宅一生さんら数名の日本の若者が学んでいたそうです。また、この頃パリでは文化服装学院OBの高田賢三さんがデザインを現地メゾンや企画会社に売り込み、写真家の吉田大朋さんがファッション雑誌ELLEの専属フォトグラファーとして活躍していました。曽根美知江先生を囲んで記念撮影私と曽根先生のご縁は東京コレクションの責任者をしていた1990年代前半に始まります。当時ファッションデザイナーとアパレル企業の協業ブランドがどんどん生まれてはどんどん消滅していました。せっかく専門学校や美大が才能ある若者を世に出しても、企業がデザイナーたちをうまく活かせない。日本にプロのマーチャンダイザーやバイヤーを育てるポストグラデュエートの教育機関があれば欧米のように協業ブランドは長続きするかもしれない、とIFIビジネススクールの立ち上げに向けて私は奔走していました。ところが、文化服装学院の大沼淳理事長から、「新しく産業界が学校を作る必要があるのか。現在の専門学校に対して業界はもっと支援して欲しい。教育は自分たちに任せてくれないか」と言われました。我々の構想は既存のファッション専門学校とは敵対しない人材育成機関、高校生新卒者は採用せず企業で働く若者たちにより専門性の高い実践的カルキュラムで指導しようというもの、決して既存の専門学校を否定するものではありません。ビジネススクール設立首謀者の一人だった私は文化服装学院に協力的な姿勢を見せないと誤解されるかもしれないと考え、文化服装学院ビジネス学科系の流通専攻課程3年生(担当は林泉先生)と曽根先生が指導なさっていたマーチャンダイジング科3年生を別のカリキュラムで毎週1回教えることになったのです。専門学校に敵対する人材育成機関を作るのではない、と専門学校界のリーダーだった大沼理事長にわかったもらうためにはこれしかありませんでした。毎週1回別々のカリキュラムを考え、その準備をし、学生には宿題を与え、成績評価もしなければなりません。しかも本業である東京ファッションデザイナー協議会議長の仕事も、IFIビジネススクールの準備もありましたから、週2回の文化服装学院通いはめちゃくちゃ大変でした。そもそも文化服装学院とのご縁はニューヨークから帰国した1985年、先生たちの勉強会「火曜会」でパーソンズ流の実践教育の事例を紹介したときから始まりました。総勢200人くらいの先生たちに、ニューヨークのパーソンズ(PARSONS SCHOOL OF DESIGN)のバイヤー講座で私はどのように教わったのか、それが自分にどれほど役に立ったのかをお話しました。大沼理事長の相澤秘書からの要請だったと思います。以来、流通専攻課程3年生を指導するようになり、そのクラスから多くの若者を自分が所属する企業にスカウトして部下にしました。曽根邸前庭でバーベキュー幹事役のUA田中和安さん(右端)あいにく母上ご逝去で今回は参加できなかった佐藤繊維の佐藤正樹社長(現在文化服装学院同窓会長)はじめ、数ヶ月前の文化創立100周年記念イベントで素晴らしい祝辞をされたTSIホールディングス下地毅社長、前述ユナイテッドアローズ田中常務など、曽根先生の教え子の中には現在の日本のファッション業界を牽引している人が少なくありません。何年も前に卒業した彼らがいつまでも曽根先生のご恩を忘れず定期的に集まる、なんとも微笑ましい光景でした。私は卒業生ではありませんが、皆さんのご厚意で参加させていただき、楽しい時間を過ごすことができました。考えてみれば私も文化服装学院など専門学校や一般的大学、IFIビジネススクールで、あるいは所属企業でたくさんの若者にマーケティングやマーチャンダイジングを教えてきました。その数は数千人にのぼると思います。受講生と頻繁に深夜まで酒を酌み交わして議論しましたし、IFIビジネススクールの教え子たちは今年も誕生日を祝ってくれました。若者を教えた側の人間にとって、教え子たちが集って意見交換する瞬間は至福のとき。教え子との懇談、もっと大事にしたいですね。
2023.10.31
初めて台湾を訪問したのは1989年、台湾から世界に輸出する繊維製品のクオータ管理をしていた「中華民国紡績業拓展会」(通称TTF)に講演を依頼されての訪台でした。桃園国際空港に到着するや背広姿の男性群に囲まれ、パスポートを手渡すと入国審査と税関はフリーパス、そのままあっという間にハイヤーに乗せられました。あとでビザ(当時はまだビザが必要)をよく見たら「国賓」のスタンプ、フリーパスの理由がわかりました。降ろされたのは老舗中華料理店、大きな円形テーブルには台湾繊維業界の幹部がズラリ着席。中にはその日の朝に中国本土から戻ったばかりのニットメーカー社長も。「メインランドと自由に往来できるんですか」と質問したら、「対立しているのは政治の世界、経済界は普通に交流している」と聞いてびっくりでした。その中に紅一点、中興百貨店(サンライズデパート)の女性オーナーだったバオさん、エルメスのケリーにジャンポールゴルティエのジャケットが板についた素敵な方でした。ランチが始まり、最初に出てきた大皿はこれまで見たことがない形状の肉、聞けば食べたことがない食用カエル。しかも取り分けられた小皿の肉にはかすかに血、正直ビビりました。台湾で最初に口にしたのが食用カエル、生涯忘れられない1皿です。このあと中興百貨店を案内され、当時日本の百貨店でも珍しかったヨーロッパのラグジュアリーブランド直輸入ショップ、そして別のフロアに台湾デザイナー売り場もありました。バオ社長は「私たちが応援しなければ台湾のデザイナ-は育たない。たとえ儲からなくてもやらなければならない」、使命感に満ちた発言に感動したものです。あれから台湾の百貨店を手助けする日本の百貨店マンとして、台湾で多店舗展開する日本ブランドの経営者として、クールジャパン政策を推進したい投資ファンドとして何度も台湾を訪問しましたが、初めて訪台したときが一番印象深いです。血のついた食用カエルもバオさんの言葉も。2019年台北ファッションウイーク(中央女性がチェン文化部長)さて、4年前にも台北ファッションウイーク(写真上)に招聘されました。そのオープニングセレモニーは着席ディナー形式、お隣はソルボンヌ大学卒業のチェン文化部長(部長は日本の大臣にあたる)。これまで自分たちが日本の若手デザイナー支援プログラムをどれだけ試みたかを説明、台湾でも若手インキュベーションが重要ではありませんかと話したら、文化部次長(事務次官)に話してくれませんか、と。翌々日文化部を訪ねて文化部次長とミーティング、日本とのファッション文化交流促進を話し合いました。このあと新型コロナウイルス、両国の交流促進はしばらくお預けとなりました。が、コロナが収束して今年再び文化交流の話を再開することに。台湾ファッション業界でも活躍する台湾イトキン多田社長を通じて話し合いが始まり、今回台北ファッションウイークに招かれました。4年前ファッションウイークの現場運営は台湾ELLEが担当でしたが、今回は台湾VOGUEが仕切り。リュウ発行人からは人事異動で交代したばかりの文化部次長ワンさんとの個別会談も依頼されました。眼鏡の男性が台湾VOGUE発行人、右は多田夫妻台湾VOGUEリュウ発行人と台湾イトキン多田社長のアレンジで今回多くの方々と意見交換する機会をいただきました。文化部次長をはじめ、台湾ファッション業界にたくさんの人材を輩出する大学の学院長、テキスタイル業界の重鎮、台湾在住ファッション流通業界日本人会の代表、いまや台湾百貨店業界をリードする存在となった新光三越の方、デザイナーの海外売り込みをサポートするTTF幹部ら皆さん親切、日本のファッション業界のこれまでの歩みや私が感じた台湾デザイナーの課題などに耳を傾けてくださいました。文化部ワン次長と記念撮影ホテルロビーのライブラリーで話し合い日本と違って台湾は進んでるなあと思ったことがいくつもあります。文化部次長との会談はファッションウイーク公式会場近くの誠品書店が経営するEslite Hotelと聞いてはいましたが、なんとホテル内会議室ではなくロビーのライブラリーの長いテーブル、誰からも見られるオープンスペースでの会談。そこへ現れたワン次長はダボっとしたストライプ入りジャージーパンツにスニーカー。会談のあとはホテル内ラウンジで日本のメディア関係者に私との会談の一部を発表でしたが、日本の文化庁の官僚トップがこんなスタイルで国際交流の話し合いや記者懇談の場に現れる日は来るんでしょうか。台湾市場再構築のヨウジヤマモトは8月にこちらを開店ショップ運営でも感動がありました。かつてアパレル時代に台湾のパートナーだった会社に社員教育でマーチャンダイジングの基本やVMDの考え方を伝授しましたが、彼らはさらに店舗を増やし、美しく店頭を維持していました。彼らには何度も「定数定量」の重要性を話しましたが、本部に模擬店舗を構えていまも訓練している。伝授したことを台湾でしっかり守っていてくれる、こんなにうれしいことはありません。ブランド多数揃えるSOGOのすぐ隣に新施設が数日前にオープンその新商業施設にA BATHING APEが出店新しい商業施設がどんどんオープン、ラグジュアリーブランドの大型店はさらに増え、台湾の経済力を実感しました。ブランドを多数揃えたビルの近くに新しい商業施設ができてブランドショップが開店、数年後にまたその横に新しいビルが誕生して綺麗なブランドショップが多数入居、まるでオセロゲームのような様相です。半導体はじめ台湾の景気はものすごく良くて一般消費者の購買力は半端ないんでしょう。物価上昇と円安の我が国からすれば羨ましい限り。こんなに元気な国ですから、日本に来てショッピングする台湾人はもっと増えるのではないか、と期待してしまいます。5泊6日の短い滞在でしたが、台湾から学ぶ点はいくつもありました。日本からとても近い国、コロナも終わったのでこれからは頻繁に出かけたいです。
2023.10.21
1994年秋まだCFD議長だった頃、全日制の本格的なクラスを開講する前に試験的に社会人向け夜間プログラムをやってみようとIFIビジネススクールで「プロフェッショナルコース」を始めました。全日制「マスターコース」がスタートしたのは1998年4月、それまでの3年半夜間プロフェッショナルコースのディレクターとしてお手伝いしました。最後は月曜日から木曜日まで毎夜違ったカリキュラムを4つ、ほぼ連日両国国技館前の仮校舎に通ったものです。そのプロフェッショナルコースの受講生の中に総合商社繊維事業部門で働くSくんがいました。IFIビジネススクールで半年間学んだあと米国西海岸の駐在オフィスに転勤、帰国してまもなく会社から独立して自分のオフィスを構えました。マーケティング会社を運営し、ビジネス書としてはベストセラーの部類に入る本も何冊か上梓、メディア露出の多い人です。久しぶりにそのSくんから連絡がありました。なんでも彼が懇意にしている中国のビジネスマンたちが来日してファッション流通業の視察と研修をする、そこで講演してくれないかとのことでした。コロナウイルス直前まで、私は来日する中国ビジネスマン(女性も大勢)たちにブランドビジネスやマーチャンダイジングの話をよくさせていただきましたが、コロナウイルスで渡航禁止、この3年間は機会がありませんでした。なので3年半ぶりの訪日団向けセミナー、しかもほとんどは伸び盛りの会社経営者と聞いて「クリエーションvsビジネス」を題材に約3時間半お話しました。私は彼らにブランドDNA継承の重要性をわかってもらおうと継承成功事例と失敗事例の要因を説明しました。受講者の多くは経営者ですから、もし外部からデザイナーをスカウトする場合、まず今後のブランドの方向性をデザイナーとマネジメント側は十分話し合うべき、そこを曖昧なまま新任デザイナーが自由奔放にクリエーションするとブランドが守ってきた世界観は崩れ、大切なお客様が離れていってしまい、結局デザイナー解任という不幸なストーリーになりかねない、と。利害の異なる両者の話し合いが十分だったのか疑問に感じる事例として取り上げたのは、サンローランとカルバンクライン。エディ・スリマンのサンローランとそれ以前のサンローラン、ラフ・シモンズのカルバンクラインとカルバン自身が作り上げたカルバンクラインの写真を見せながら疑問に思うことを説明。一方DNAがきっちり継承されている成功例として、ココ・シャネル、カール・ラガーフェルド、そして現在のヴィルジニー・ヴィアール3代に渡るシャネルを紹介しました。3人のシャネル、どれもシャネルと誰もが判別できるデザインでしたが、ブランドDNAの継承がいかに重要かわかってもらえたと思います。研修ツアーに同行する日本在住のビジネスマンから後日メールが来ました。私の講演のあと各地を視察しながら受講者たちはブランドDNAのことをずっと話し合っています、と。私の話は彼らにとって大きな問題提起だったようです。こういうストレートな反応、講演した側には嬉しいです。さらに、このビジネスマンから、近々来日する予定の中国企業の幹部にも講演してもらえないかと依頼があり、加えて中国側でこのツアーの世話役だった実業家からはSくんと一緒に中国で講演をしてもらえないかと打診がありました。かつての教え子と一緒にビジネス講習のために海外出張するなんて、IFIビジネススクールで教えていた頃には想像だにしませんでした。実現したらありがたいですね。というわけで、ここ数日は中国ファッション流通業者の方々に次回東京で、そして中国で、それぞれお話する内容をあれこれ考え、2つのパワポ資料を作成しました。特にファッション業界以外の事例をひも解くうちに「どうして日本企業のつくる製品には顔がないんだろう」と改めて疑問に感じ、このままだと電機が世界市場で減速したように近未来日本の自動車も世界で売れなくなると思わずにいられません。ひとつ例をあげるならば、MINIにはちゃんと顔があります。目の前を通過した瞬間、その車のロゴを見なくても車に全く興味のない私にだって一目瞭然MINIだと判別できます。しかし、ダイハツ、スズキ、三菱自動車など日本の軽自動車はどうでしょう。フロントについている会社マーク、後方についているブランドロゴを見なければ、よほど自動車に詳しい人でないと車種や社名は判別できません。セダンも同じ、メルセデスやBMWはロゴを見なくても通過した瞬間なんとなくどっちの車かわかりますが、日本のセダンは一般人にはわかりにくいでしょう。つまりマーチャンダイズに顔がありません。顔のないマーチャンダイズと中途半端な顧客分類でも、印象的なCMを流せばなんとかなるだろういう旧式戦略ではもう世界市場で通用しない世の中になっている。服であろうが、バッグや靴であろうが、自動車や電機製品であろうが、顔のないマーチャンダイズでは勝負できないという話を中国業界人にしようと考えています。コロナウイルス前もそうでしたが、中国ビジネス研修団は真剣に質問してくれます。疑問を感じた点はとことん質問してくれますから講演のやりがいがあります。Sくんはすでに何回も現地セミナーをした経験があるそうですが私は初心者マーク、刺激的な話をわかりやすく伝えたいです。
2023.10.07
ただでさえ暑い京都、炎天下屋外に設置されたプレゼン会場で「建築学生ワークショップ2023仁和寺」が開催されました。あまりの暑さにシャツを袖捲りしたら腕が日焼けして真っ赤になり、意識的に飲んだミネラルウォーターはボトル4本、なんとか熱中症にならず参加できました。仁和寺の正門宇多天皇が退位したのち門跡になったことから長く天皇家との結びつきが強く、寺院としては別格の仁和寺。こんな聖地のような場所で学生たちは合宿し、自分たちが創作したフォリーを境内に建てられる、普通に考えたら無理な話でしょう。が、建築学生ワークショップはこれまで伊勢神宮、出雲大社、明治神宮、延暦寺、東大寺、厳島神社などで開催してきたので仁和寺も支援してくださったようです。正門をくぐってまず現れたのが多数の風船を浮かせたフォリー、風にそよいでまるで龍が暴れているようでユニークでした。150個の風船を浮かせたタイトル「こゆるり」(第3位)境内五重塔の前にセットしたフォリーは通行者が中を通過する際に踏む床が振動を与えて木と木がぶつかり木琴のような音が出る仕掛け。音を発するフォリー、発想自体は面白かった。こちらが2位の優秀賞です。床を踏むと音が出るタイトル「さとる」(第2位)そして、最優秀賞に選ばれたのは、中間発表時点で得点ゼロの最下位からの大逆転、見事です。ポリエステル綿を自分たちで絞りながら縄状にして木に巻きつけたフォリー、建築資材として綿の起用は新鮮。仁和寺固有の御室桜(背丈が低く、300年ほど長い寿命だそうです)が群生する場所の前に設置した点も講評者の皆さんに響いたようです。ちなみに昨年の厳島神社で最優秀賞だったのは蝋で組み立てたフォリーでしたが、建築資材として当たり前のものではない点が2年連続評価されたと思います。綿を使っタイトル「わ」が最優秀賞仁和寺という開催地のことを調べてどういうタイトル(テーマ)をつけるのか、そのタイトルに相応しい場所は敷地内のどこなのか、どういう資材(費用の上限あり)を使って、組み合わせて、どんなデザインのフォリーを創作するのか、大学対抗ではなく無作為に編成されたチームで作業します。コンセプトが決まったら小さな模型を作り、中間審査があり、専門家の先生方からもらったアドバイスをもとに変更箇所を議論し、現場で合宿してフォリーを組み立てます。多くのチームは現地入りしてから変更に変更を重ね、時間が足りずほぼ徹夜。発表時点ではもうぶっ倒れそうな状態。実際、最優秀賞のチームは6人のうち4人がステージに、2人は体調不良でダウンでした。最優秀賞チームは6人でした10組の参加学生、専門家として制作サポートした京都の建築関連企業の皆さん、そしてなによりこのイベントを主催運営したAAFの学生の皆さん、ご苦労様でした。例年のことながら皆さんの熱意には感動します。このワークショップを体験した若者の中から将来プリツカー賞を受賞するような世界的建築家が出てきて欲しいです。講評者は自分が選ぶ3チームにのみ加点(私は50点、30点、20点としました)、その合計点で順位が決まる仕組みですが、私が選んだ3チームは1つも表彰されませんでした。建築のプロの方々とは審査の視点が違うからでしょうね。某大学教授も点数つけたチームは全部外れたと聞いてちょっと安心しました。最後の全体講評で建築の専門家数人がおっしゃっていましたが、表彰されなかった7チームと受賞3チームとの差はほとんどありません。大切なのは、チーム編成されてからプレゼンまでどれだけ濃密な時間を過ごしたか、そしてこの経験を将来に繋げることでしょう。以下に他の7チームのフォリーをアップします。皆さんならどれをイチオシにしますか。建築学生ワークショップは主催者AAF(NPO法人アートアンドアーキテクトフェスタ)の運営も学生さんたち、フォリー創作も学生さん、それを建築家の平沼孝啓さんや全国の大学の先生方らが背後でバックアップし、フォリー設置は専門家が各チーム数人協力しています。来年は今年同様京都のお寺さん、醍醐寺開催です。来年は涼しいといいんですが。多数の関係者がフォリーを見て回るイベント(五重塔の前)
2023.09.18
毎日新聞社が主催する「毎日ファッション大賞」本年度各部門受賞者が発表されました。まずは受賞された皆様とその背後で支えていらっしゃる皆様、おめでとうございます。今年も委員の一人(18回目)として選考会に参加させていただきました。すんなり決まった部門もあれば、決選投票をやり直すほど激戦の部門もあり、改めて個人の受け止め方が異なるクリエーションを人が評価する難しさを実感しました。が、選考委員としてこの結果には満足しております。各部門の受賞者は次の通り。(敬称略)ファッション大賞:黒河内真衣子 Mame Kurogouchiデザイナー新人賞・資生堂奨励賞:川崎和也 Synflux代表取締役CEO スペキュラティヴ・ファッションデザイナー鯨岡阿美子賞:栗野宏文 ユナイテッドアローズ上級顧問話題賞:グランドセイコー話題賞:のん 俳優・アーティスト特別賞:文化学園 Mame Kurogouchi 2023 AWコレクション詳しくは以下のサイトをご覧ください。https://macs.mainichi.co.jp/fashion/win41/index.html
2023.09.12
数ヶ月前、新型コロナウイルスの影響で休止状態だった訪日中国業界人に向けたセミナーをさせてもらいました。コロナ前はかなりの数を受け持ちましたが、中国人セミナーは久しぶりでした。このときもう一人ゲストスピーカーがいました。中国人デザイナーのヴィヴィアーノ・スーさん(ブランド名はVIVIANO)です。メディアに出ている彼のプロフィールでは、中国出身米国育ち、2008年来日、文化ファッション大学院大学を修了して2015年ブランド設立とあります。が、中国のどの地方で生まれ、米国のどこで育ち、なぜニューヨークのパーソンズデザイン学校でなく日本の専門教育機関を選んだのか、詳しいことは書いてありません。中国人セミナーではこれまでのコレクション写真を紹介しながら通訳なしで話していたので、中国語がわからない私には何を話しているのかさっぱり。しかし、自分のクリエーションを熱っぽく語る姿は印象的でした。ヴィヴィアーノの特徴の一つはそのパンチのきいた色彩。日本人デザイナーはここまでヴィヴィッドな色はほとんど使いませんから、鮮やかな色彩は目を惹きます。レッドカーペットを歩くエレガントなイブニングガウンでありながら、どこかカジュアル感をプラスしてコンテンポラリーに仕上げています。残念ながら、ハリウッドやブロードウェイのようなハレの場がほとんどない日本、東京よりもニューヨークコレクションで発表したらもっとメディアに取り上げられるかも、と思います。中国の強い色彩、米国の華やかなパーティー感覚、日本のカジュアル感がミックスされたコレクション、なかなかの迫力でした。ヴィヴィアーノをまとった若いファンたち、カッコ良かった点も印象に残りました。
2023.09.10
欧米の主要都市とは違って、東京のファッションリーダーはずっと若者。団塊世代のみゆき族に始まり、DCブーム、カラス族、渋谷や裏原宿のストリートカジュアルも、東京ファッションを牽引してきたのは常に若者でした。だから東京コレクションでも、音量を最大限に上げてロックをガンガン、日常性の高い服を着たモデルが足早に歩くショーはこれまでたくさんありました。生活にゆとりのある大人が主役のパリ、ミラノ、ニューヨークとの大きな違いでしょう。でも、シックな大人服をつくるデザイナーが日本にいないわけではありませんし、そのニーズは市場にあります。さりげないデザインの服、静かな音楽、ゆっくり歩くモデル、時にはそんなショーも心地よいし、その場にいるとホッとします。SUPPORT SURFACE(サポートサーフェス、研壁宣男さん)もそのひとつ、モデルが目の前を通過したあと背中に流れる優しい余韻には毎回癒されます。まだCFD議長だったころ、ある大手新聞社のファッションイベントにロメオジリとイッセイミヤケのジョイントショーを提案したことがありました。トレンドには関係ない、言い方変えればトレンドを超越したクリエーション、しかも個性は対照的、この2ブランドを読者に見せてはどうでしょう、と。あのころのロメオジリはポスト3G(アルマーニ、ヴェルサーチ、フェレ)の一人としてミラノコレクションでも光り輝いていました。光沢のありシルク、なんとも不思議な色彩、中世の貴族を彷彿させるシルエットは独特の世界観でした。そのロメオ・ジリさんに師事し、ミラノの名店10コルソコモでデザイナーとして活躍したあと帰国してブランドを立ち上げた研壁さん、東京コレクションでは特別な存在だと思います。バイタリティー溢れるストリートカジュアルもいいけれど、こういう丁寧な仕事にも注目したいですね。
2023.09.09
昨年「JFWネクストブランドアワード」に選ばれてデビューショーを開いたFETICO(フェティコ、舟山瑛美さん)の3シーズン目。女性の造形美をストレートに強調する思い切りの良さ、デビューからブレずに徹底して女性の身体をあらわにする姿勢、とても3シーズン目の新人デザイナーとは思えない貫禄さえ感じさせます。ショーを見ながら、ふとパリのシャンタル・トーマスを思い出しました。1970年代初頭、パリコレがオートクチュールからプレタポルテに代わろうとしていた時代、ケンゾー、ドロテビスらと共にプレタポルテで一世を風靡した女性デザイナー、アンダーウエアとアウターウエアの古典的境界線を飛び越えたデザインで人気がありました。あのシャンタルの官能美を彷彿させる凄みをフェティコにも感じました。自らの信じる道を真っ直ぐ突き進む姿勢、拍手を贈りたいです。東京都とJFWが合同開催する「東京ファッションアワード」(パリでの合同展示会支援)にも選ばれ、果たしてパリで海外バイヤーたちからどのような評価を得ることができるのか。パリでの厳しい目を経験し、さらなる大化けを期待したいデザイナーの一人です。
2023.09.05
8月28日月曜日から始まった2024年春夏東京コレクション(Rakuten Fashion Week Tokyo)、今年の8月は最高気温30度以下が一度もない記録的暑さ、会場移動で1日平均12,000歩、さすがに水分補強に気をつけないと危険です。昨日までの5日間暑い中をよく歩いたのでふくらはぎはパンパン、今朝近所の整骨院で高周波治療を受けてきました。今日が正式日程の最終日、あと1日ぶっ倒れないよう気をつけなければ。今シーズンはここまで3ブランドが屋外でのファッションショー、雨が降らなくて良かったです。数字上では猛暑続きですが、屋外の心地良さを感じながら見るファッションショーは気分がいいです。国立博物館法隆寺宝物館の池のまわりで開催したのはHARUNOBUMURATA(ハルノブムラタ、村田晴信さん)。ジルサンダーで修行した若者、今回が3回目ですがシーズンごとに進化していますね。前回のミニマルなコレクションを見て個人的にはイチオシの若手デザイナーですが、春夏シーズンということもあって今回はそれに軽さが加わり、ご自身の世界観が広がりました。この軽さ、次回秋冬でも見せて欲しいです。(以上3枚ともハルノブムラタ)千駄ヶ谷の東京都体育館エントランスの広場で開催したのがSHINYAKOZUKA(シンヤコヅカ、小塚信哉さん)。ブランドプロフィールに「絵に描いたような情景をコンセプトに」とありますが、月明かりの下を遠くから歩いてくるモデルたちがなんとも叙情的でした。観客の多くはこのショーのことをしばらく忘れることはないでしょう。言い過ぎかもしれませんが、東コレにまた一人新しい主役が登場ですね。服も演出もヴィジュアルアートも隅々まで気を遣ってこのショーを作り上げたことが十分伝わりました。年に一度のスーパーブルームーンがこの二日後だったので惜しかったです。(以上3枚シンヤコヅカ)そして昨日は竹橋の毎日新聞東京本社があるパレスサイドビル屋上で開催したmeanswhile(ミーンズワイル、藤崎尚大さん)。「日常着である以上、服は衣装ではなく道具である」をコンセプトに、アウトドアやワークウエアの要素を取り入れたカジュアルを提案するデザイナーの姿勢が屋外の空気によく似合っていました。クリエーションだ、アートだではなく、あえて「道具」と割り切っていますが、かっこいいアイテムがいくつかあって個人的には欲しいものが数点ありました。日常のクリエーション、私は好きです。(以上3枚ミーンズワイル)お天気が良ければ、屋外ショーはなんとも気持ちいいもんですね。3つとも雨降らず、暑すぎることもなく好印象コレクションでした。
2023.09.02
東北大震災の翌年3月、三越銀座店と松屋が力を合わせ銀座歩行者天国で「ジャパンデニム」をテーマに青空ファッションショーを開いたとき、開催許可が警視庁からなかなか下りず準備の時間はなく、大手広告代理店に協力をお願いする間もありませんでした。百貨店2社で協賛金を集め、十分な予算がないままどうにか全長100メートルのランウェイでショーを決行。代理店抜きなのでイベント申請も、銀座中央通りの警備も、VIPのご案内係も大規模イベント経験がない社員が担当しました。歩行者天国でのファッションショーしかも当日はあいにく朝から雨、座席をタオルで何度も拭き、雨カッパや傘の用意、想定外の大人数の観客整理に社員はてんてこ舞い。フィナーレの瞬間頭上に太陽が現れたのが救いでした。イベント終了後営業本部長が「次回から代理店に頼みましょうよ」、さすがにみんな疲れましたから。代理店にお願いしていたら両社の社員がへとへとになることはなかったでしょう。東京オリンピックに絡んで元電通幹部やADK現職経営陣、さらに賄賂を贈ったとされるカドカワやアオキの経営者まで逮捕され、大きな社会問題になっています。裁判でこの五輪スキャンダルは最終的にどう収束するのか、また関係した大手広告代理店はいつになったらこれまで通りコンペに入札参加できるのか、私の仲間にも代理店関係者が少なくないので関心があります。事件のあと代理店のことをSNSで痛烈に批判する人はたくさんいますが、私のまわりにいた代理店関係者は一生懸命サポートしてくれた誠意ある人が多かったので、ボロクソ書き込みを読むたび反論コメントを書きたくなります。ファッションというソフトなジャンルだから代理店でも優しいスタッフが助けてくれたのかもしれませんが。私の背景が300坪の特設テント現場の責任者として東京コレクションを始めた1985年、主催団体の東京ファッションデザイナー協議会は単なる「みなし法人」、社団法人や協同組合ではありませんでした。さらに自主運営をうたって組織化されたので協賛金の類いは一切なく、運営経費はすべて参加ブランドが負担。つまり十分な資金がないので、現場を取り仕切ってくれるプロデュース会社や代理店に仕事を頼む経済的ゆとりはありませんでした。その上責任者の私はのど素人、それまではショーを取材して原稿を書いていた人間、何が会場設備として必要なのか、運営自体に何が必要なのか全くの無知でした。300坪の大型テントを建てたらそこにはコンセントがついていて、場内で使用する一般電気機器くらいはコンセントに差し込めば利用できると思っていましたが、テントに電源を引いてこないと場内非常灯すら使えません。作業員の昼、夕、夜食の弁当手配も事務局が手配すべきとはショーが始まったあとに知ったので、舞台美術の現場責任者が気を利かせて弁当の手配をしていました。仮設ショー会場ですから仮設トイレや水道も用意しなくてはならないし、作業員、モデル、演出関係者、観客の人数が半端ないので仮設トイレを大量に設置しないとパンクする、そんなことにも気が回らない私ですから、イベントを熟知する代理店にお願いすれば万事スムーズだったでしょう。補助金、協賛金があればそうしたはずです。第1回東京コレクション、300坪の別注色テントの製作と建設に提示した私の予算は440万円。当時普通のテント業者にこの大きさのテントを頼めばおよそ1000万円が相場、それを半額以下で請け負ってくれる会社を探して「将来私と付き合ったおかげで元がとれたという状況が来るよう努力しますから」と頭を下げました。ところが、建設初日からあいにくの雨、鉄パイプは滑るので作業は難航、予定よりも組み立てに時間がかかります。作業するトビの人数を数え、作業日数をかけたらそれだけで予算オーバーする、ど素人の私でもそれくらいはわかりました。傘をさしながら「この雨で赤字ですよね」と業者のSさんに訊いたら「はい、赤字です」、でも予算をプラスする余裕はありませんでした。テント完成時に「これでトビに酒でも飲ませてやって」となんとかひねり出した20万円を手渡ししました。実はこの数シーズン後には若いトビが鉄パイプから落下して打ちどころが悪く亡くなる事故がありました。このときも少し多めの香典を包むのが精一杯でした。舞台美術もしかり。300坪の床をさら地から組み上げ、その上にステージを作り、多目的ホールのようにイベントができる状態に仕上げてもらう予算は850万円、こちらも相場の半分でした。夜のテントはかなり冷え込むので仮設トイレとパンチカーペットを追加で敷いてもらいました。夜中の作業中に電卓をたたいて支払えるギリギリの予算を提示したのが深夜1時頃、約250坪のパンチカーペットは朝の9時には会場に届きました。私には想像できない機動力でした。コレクションが全て終わり、特設テントを撤収したあと責任者Oさんに「後学のために実際の見積もりを出してもらえませんか」とお願いしたら、「びっくりしますよ」と言われました。それでも本当の相場を知りたかったのでお願いしたら、出血大サービスで1700万円の明細が届きました。もちろん支払ったのは当初提示した850万円プラス追加してもらった仮設トイレ、パンチカーペット代のみ。テント業者同様手持ち資金はありませんから出世払いを約束するしかありませんでした。テントの設置場所はNHKのすぐ横、さっそくNHKから大河ドラマイベント用の大型テントの注文が入りました。また3000人は収容できる超大型ライブハウス「汐留PIT」(いろんなミュージシャンがライブ開催)の数億円の注文も入り、テント及び舞台美術業者はすぐに元がとれました。東コレはNHKニュースで取り上げられ、大型テントが何度も放送されたおかげで、業者に対して肩身の狭かった私は救われました。10年間東京コレクションの運営に携わりましたが、会場整理のバイト手配も、作業員の弁当手配も、私が調理する150人前の夜食材料費も、会場設営業者への支払いもすべて協議会事務局マター、プロデュース会社や代理店を通したことは一度もありません。もしも補助金、協賛金収入があって資金に余裕があれば、事故や破損のリスクのことを考え外部のプロに委託したでしょう。その方が絶対安心ですから。自主運営の東コレは数人の事務局スタッフでどうにか回せましたが、これ以外のイベントは代理店に入ってもらいました。若手支援策としてはじめた私たちの自主企画「東京コレクションANNEX」、これは外部スポンサーを集めて実施したプログラムでしたが、お願いした博報堂が社内のトヨタ担当チームと連携し、トヨタの協賛だけでなく当時CMに出演していた作家の村上龍さんを口説き、キューバのバンド共々村上さん自身も参加してくれました。資金集めも村上龍さんの参加も我々だけではとても実現しない、さすが大手代理店と思いました。このとき村上さんを連れてきた博報堂トヨタ担当の方とはいまも年賀状のやり取りがあります。東京国際モードフェスティバルのポスター東京都、東京商工会議所、東京ファッション協会、デザイナー協議会の4団体がパリ市とフランスオートクチュール協会の依頼を受けて開催した「東京国際モードフェスティバル」は電通が身を粉にして動いてくれました。昭和天皇のご容体が悪く一度延期する場面もあり、延期による出費超過がわかっていても電通の責任者らが献身的に動いてくれ、どうにか実現しました。結果的に採算割れになってしまいましたが、このとき電通のK常務は延期の相談をしたとき腹が座っていました。サラリーマン体質の人では延期の根回しはできなかったでしょう。京都、大阪、神戸の京阪神3県、3都市、3商工会議所とトータルファッション協会の10組織が合同で主催した「ワールド・ファッション・フェア89」への協力を大阪、京都の商工会議所の両会頭に頼まれたときは、3都市で企画する数々のイベントを大きく2つに分割、電通と博報堂にそれぞれ制作と協賛金集めをお願いし、両社には競争しつつ協力してもらってはと実行委員長に提案しました。公的機関が絡んでいるので一般的なテレビ番組制作による協賛金集めができないというハンデがあり、両社とも儲けはほとんどありませんでした。このときの両社スタッフの頑張りも忘れられません。Rakuten Fashion Week Tokyoメイン会場渋谷ヒカリエデザイナー協議会が20年間運営した東京コレクションは経産省主導で発足した日本ファッションウイーク推進機構に移管されました。最初の3年間は国の補助金がありましたが、これですべて賄えるわけではありません。数シーズンは電通が赤字覚悟で参画してくれました。このとき東コレというコンテンツで協賛を多数集められるかどうか電通社内で検討、協賛集めは難しいかもしれないと最初は積極的姿勢ではなかったと聞いています。が、電通の経営幹部はそれでもサポートを約束、まとまった資金をギャランティーしてくれました。もしも最初に電通の協力がなかったら現在の東コレは成立していなかったかもしれません。私たちは東京コレクション以外のイベントは代理店にあれこれお願いし、その資金力、ネットワーク、フットワークを実感しました。代理店幹部やスタッフもよく働いてくれたので、大手代理店批判が出るたび違和感を感じます。東京五輪の裏側で何があったのか知りませんが、ファッションイベントに力を貸してくれた人々の多くはナイスガイでした。
2023.08.27
今年もマーチャンダイジングの基本を教える「MDゼミ」がスタート。昨日は第4回目「マーチャンダイジングとは」を講義、「顧客分類→商品分類→展開分類→定数定量管理」の順番を守って仮説を立てることの重要性を説明しました。百貨店社員に向けて研修するときニューヨーク五番街にあるBERGDORF GOODMAN(バーグドルフグッドマン)がいかにして再生し、たった1店舗しかないデパートでありながら世界のベンダーから尊敬される存在になったのかをまず詳しく話すことにしています。DVD「ニューヨーク バーグドルフ 魔法のデパート」五番街で最も地価の高いコーナーは57丁目。現在その東側の北角には大型ルイヴィトン、南角にはずっと変わらずティファニー本店(オードリーヘップバーンの映画「ティファニーで朝食を」の舞台)、西側の南角にはブルガリが1階テナントに入るビル、そして北角にあるのがバーグドルフです。かつてティファニーを取り囲む形のビルで営業していたのが高級百貨店BONWIT TELLER(ボンウィットテラー。現在ここは建て替えられ、五番街側にトランプタワー、東57丁目通り側にナイキタウン)でした。カーター政権下景気後退で舵取りが難しい時代、ボンウィットテラーは商品分類はチグハグで売り場に魅力がなくなり、顧客はどんどん高齢化、ただ古臭い老舗店という印象でした。そしてチャプターイレブンを申請し事実上倒産しました。目の前のバーグドルフもボンウィット同様顧客の高齢化は顕著で古臭いイメージは拭えず、このままであれば近未来ボンウィットのように消滅するかもしれないと我々は見ていました。このとき郊外にあった支店を売却して資金を作り、2年半ほどかけて全館リニューアルに着手しました。当時百貨店の商品分類は、回転率の高い雑貨や化粧品は1階、ファッションは2階から上で展開が常識でしたが、新生バーグドルフは1階の中央部にジャンポールゴルティエ、イッセイミヤケの小型ショップを設置したのです。パリコレ赤マル人気上昇中ブランドとは言え売り場効率を考えればバッグやアクセサリー売り場が王道でしょうが、バーグドルフは「ファッション強化」のメッセージを放ったのです。Ira Neimark(アイラ・ニーマーク会長)Dawn Mello(ドーン・メロー社長)ストアイメージを劇的に変える大リニューアル、その後の発展には二人の功労者がいます。ファッションのプロとして指揮したドーン・メロー社長(のちにどん底だったグッチの再建を手がけて再びバーグドルフに復帰した方)と彼女をうまく機能させた経営者アイラ・ニーマーク会長(倒産したボンウィットテラーの下働きから業界キャリアをスタートした方)です。ニーマーク会長のリーダーシップとメロー社長らバイイング部門の目利き力がなければジャンポールドルティエ、イッセイミヤケの1階ショップ展開は実現しなかったでしょう。しかし、この大きな賭けは世界のデザイナーやハイエンドブランドの関係者の心に響きました。あの頃ニューヨークファッションで人気絶大だったペリー・エリスは私にこう話してくれました。サックスフィフスアベニュー(五番街49丁目に本店がある高級百貨店)は多店舗なので発注量はかなり多いけれど、別注企画を引き受けるならバーグドルフ。なぜならバーグドルフはスペシャルなストアだから、と。人気デザイナーが多店舗のサックスよりもたった1店舗のバーグドルフへの思い入れの方が強い、これこそ小売店の「品格」なのでしょう。ティファニー側から見たバーグドルフグッドマン3階インターナショナルデザイナーフロアボンウィットテラーは小手先のブランド入れ替えを続けて売り場はどんどん陳腐化、最後は倒産しました。抜本的な改革に着手しなかった経営幹部の責任は大きい。一方、同じような古臭さがあったバーグドルフは社運を賭けた全館リニューアルが功を奏して生き残り、世界のブランド企業から尊敬される存在になりました。高齢の顧客が販売員に「昔のバーグドルフはこんな店じゃなかった」と食ってかかるシーンに遭遇したことありますが、だからこそバーグドルフは「魔法のデパート」としてその存在感を高めたと言えます。経営陣の危機意識の差です。流通業にもナンバーワンかそれともオンリーワンかという議論はよくありますが、バーグドルフはまさしくオンリーワンの存在感を消費者にも世界のベンダーにも示しました。当時ニューヨークに住んでいた私は劇的に変わるプロセスを間近で見ていたので、その後もずっとバーグドルフを教科書のつもりで視察、ニューヨーク研修旅行では参加する部下たちにバーグドルフだけは滞在中何度も足を運んで細かく調べるよう指示してきました。今年のMDゼミでも、バーグドルフの再生の経緯を冒頭に触れ、マーチャンダイジングの基本中の基本をしっかり守りましょうと毎週受講生に伝えています。彼らもゼミが完了したらバーグドルフ視察に行けるといいですね。
2023.08.25
私たちよりちょっと年長の世代には高校、大学時代にVANでおしゃれを学んだアイビー族がたくさんいます。先輩たちほど私たちはアイビールックやアメリカントラディショナルに熱烈ではありませんが、ニューヨーク視察で気になるショップはどういうわけかトラディショナル、プレッピー系が多かったです。マジソン街のラルフローレンメンズ旗艦店マーチャンダイジングの新解釈としてカッコいいなあといつも思っていたのはソーホーのウエストブロードウェイにあった「ポロスポーツ」。長めのハンガーラックにラルフローレン・パープルレーベル(ほぼ手縫い)、同ブラックレーベル、ポロスポーツ、R R L、セカンドラインのラルフ、さらにはリーバイスやリーのヴィンテージをごちゃ混ぜに並べ、それぞれのラックが一つの世界観を発し、ラルフローレンの全ブランドをあたかも因数分解したような印象でした。当時は簡単そうでなかなかできない構成、さすがでした。(写真たくさん撮影したはずなのに、なぜか手元に1枚もありません)マジソンアベニュー東72丁目ラルフローレン本店は品格があっていかにもトップブランドのラグジュアリー旗艦店、デザイナーのセンスの良さがストレートに伝わるいい店です。が、私はソーホーのポロスポーツでたくさんビジネスヒントをもらいました。2枚ともRUGBY(ラグビー)ラルフローレンでもう一つお気に入りだったのは、ユニバシティープレイスの「ラグビー」。学生たちも多く行き来するグリニッチヴィレッジ地区に安価なラルフローレン・テーストのカジュアルショップ。狭くていつもごちゃごちゃしててお客さんが多く、「何か買わなきゃ」って気持ちにさせる不思議なお店でした。しばらく日本での展開がなかったので日本人観光客をしょっちゅう見かけました。もうラグビーは廃止されてしまったので覚えている人は少ないかもしれません。結構売れてたのになあ、経営方針の変更でもあったのでしょうか。もう一つ気になったお店はトライベッカにあったJ・クルーの特別バージョン「リカーショップ」。ホコリが被っているような古いリカーショップ(酒屋)を居抜きで引き取り、そこにジーンズカジュアルをドーンと並べた、J・クルーにしてはお値段そこそこのジーンズショップです。昔のリカーショップにはちょっとしたバーカウンターがあり、お客さんはそこで一杯やれました。そのバーカウンターもお酒を並べる棚もそのまんま、ヴィンテージっぽい加工ジーンズが無造作に積んでありました。古着屋のような雰囲気あるお店でしたね。2枚ともLIQOUR SHOP(リカーショップ)東北大震災の1年後、私たちが銀座中央通り歩行者天国で「ジャパンデニム」のファッションショーを開催したとき、テレビ局は全局夕方のニュースで報道してくれましたが、NHKだけはニューヨーク支局の現地取材映像をプラスしてオンエアー。その映像は、このリカーショップ販売員がジーンズを紹介しながら「日本のデニムは最高」とコメントしてくれました。残念ながらJ・クルーは2020年新型コロナウイルス感染の影響で会社更生法を申請、どうやらその前後にこのショップは消滅したはず。いまニューヨーク視察に出かけたら、バーグドルフグッドマンなどハイエンドな店は別として、見なければならないたくさんヒントくれそうなお店はどこなんでしょう。久しくニューヨーク行ってない、行きたい。
2023.08.22
(前項からのつづき)1985年3月初めて西麻布の割烹店でご馳走になってから、三宅一生さんとは何度も会食しました。数人でのディナーもありました。そのほとんどはマスコミ関係者との懇親会。感情の激しい天才肌クリエイター、マスコミに創作意図が伝わらない、あるいは誤解されて批評されると直接ジャーナリストに電話して怒りをぶちまけることもありましたから、よく仲介役を引き受けました。信頼していた三宅デザイン事務所副社長の小室知子さんには「俺はおたくのプレスみたいや」とぼやいたものです。ジャーナリストとの懇談会、右端横顔が私二人だけで出かけることはもっと多かった。メディアに頻繁に登場する世界的デザイナー、しかもサントリーのTVコマーシャルにも出演したので顔は売れている、どこに行っても三宅さんは目立ちます。知らない人から飲食店で声をかけられたり握手を求められたりするたび、その直後に表情が曇りました。有名人扱されることがとっても嫌いでしたから。ファッション業界人がたくさんいる青山、麻布、六本木の飲食店ではすぐに誰かと遭遇するので、私たちは港区以外のお店を利用するようになりました。当時はファッション業界人をあまり見かけなかった日本橋人形町、神楽坂、荒木町、港区でもサラリーマンの街新橋にもよく出かけ、青山界隈で利用したのは青山通りにあったブラッセリーDだけ。ここは支配人が三宅さんのケアが格別だったので。三宅さんはいかにも政財界人が利用しそうな料亭風やハイソなレストランが大嫌い、庶民的な雰囲気のお店の隅っこのテーブル、カウンターの端っこが好きでした。パリでも有名シェフの星付きレストランではなく、いつも家庭的な料理を出してくれるビストロやカジュアルなブラッセリー。あまりお酒を飲まないグルメ、好みはいたって庶民的、そういう人柄でした。パリコレやニューヨークのファッションウイークでは、多くのファッションエディター、バイヤーはその日にコレクション発表を予定している有力デザイナーの服を着てショーに出かける、あるいは有力デザイナーが2人の場合は一度着替えに戻ってショー会場に行くくらい気をつかいます。デザイナーの気持ちを考えれば、自分たちのブランドを着用して会場に来てくれたら嬉しいに決まっていますから。ましてデザイナーとディナーするならもっと気をつかいます。が、どんなデザイナーさんと食事するときも、申し訳ないんですが私はいつも愛用している服を着て出かけます。当時の私は1年365日コムデギャルソン(オムとプリュス)、舐めない媚びないが生き方モットーですから、相手のデザイナーさんの服を着て食事することはありません。何度も飲食を共にした三宅さんは毎回コムデギャルソンの私にきっとおもしろくなかったと思います。そんな私も一度だけ気をつかったことがあります。突然電話をもらい、「倉本聰さんのステージを観に行きませんか」と誘われた日、私はたまたまプリュス(メンズのコレクションライン)の目立つ服を着ていました。さすがにこのまま劇場に行ったら気分悪くなるだろう、でもオフィスから徒歩3分のイッセイミヤケ直営店で購入すればバレるに決まっている。そこで部下に「イッセイミヤケ店で俺が着てもおかしくないようなカーディガンを買ってきてくれないか」と頼みました。部下が買ってきてくれたカーディガンは前から見れば黒無地、背中には白い横線が2本入ったプレーンなものでした。私はこれを着て劇場に出かけ、観劇の後一緒に食事に行きました。しかし、三宅さんは気がつかなかったのか、カーディガンのコメントはなかったです。あれは1998年のことだったでしょうか、二人で食後の一杯をしていたら突然「僕はイッセイミヤケのデザイナーを辞めて別の仕事をやろうと思っているんです」。びっくりしました。さらに「あとは滝沢(直己)にやってもらいます」、これにもまたびっくり。毛利巨男さんが去ったあとのイッセイミヤケを支えたのが小野塚秋良さん、その次の世代はプリーツ開発で貢献した滝沢直己さん、この時点で後継指名されるのは別会社でズッカを手掛けている小野塚さんだと思っていました。バトンを渡された滝沢直己さん飲んでいるテーブル席の周辺にもしマスコミ関係者がいたら「三宅一生、退任」とすぐにスクープされそうな重要な話。それだけ外部の私を信頼してくれた証かもしれませんが、とにかくびっくり仰天でした。前述ジャーナルドゥテキスタイル紙のランキングでもまだ上位にいる人気も実力もあるデザイナーが、自分から退任して後継者にバトンたちするなんて前代未聞。オーナーデザイナーの交代劇は、人気が急落してブランドのブラッシュアップが必要と判断された場合、もしくはご本人の急逝による交代はありますが、現役バリバリのままバトンタッチなんて聞いたことありません。パリコレ参加のトップデザイナーは、6カ月ごとコンスタントに世界的ヒット曲を出さなければならないミュージシャンのようは存在。デビューして25年、婦人服だけでも50回はコレクション発表をしてきたデザイナーには、6カ月ごとのハイペースではなくもっとじっくり腰を落ち着けて創作活動をしたいと思うところがあったのでしょう。自身が立ち上げたイッセイミヤケはバトンタッチするもののクリエーション活動そのものは生涯ずっと続ける、すなわちデザイナー引退ではないという気持ちでだったでしょう。ところが、パリコレ開催期間に現地でデザイナー交代を発表したら、日本の新聞社が「引退」と記事にしました。事前にプレスリリースを受け取っていた私でさえ、きっと誤解するメディアが現れるぞと心配する書き方でしたから。案の定、引退報道が出て現地でも日本でも大騒ぎになりました。過去に同じような交代劇の事例があるならば、コレクションブランドのデザイナー交代であってもデザイナーとしての引退ではないと想像つきますが、そんな事例はこれまでないんですから引退スクープは仕方がなかった。三宅さんは還暦を機に滝沢さんに基幹ブランドをバトンバトンタッチ、その後も精力的にA-POCや1325.イッセイミヤケのデザインを続け、我が子のようにプリーツプリーズの企画監修を行い、これとは別に東京ミッドタウンに作った21_21デザインサイトの企画に従事、クリエイターとして多忙な日々を過ごしました。DNAを感じさせる現在のイッセイミヤケ三宅さんからバトンを受けた滝沢さんのあと、藤原大さん、宮前義之さんとデザイナー交代は続き、現在5代目の近藤悟史さんがパリコレで発表しています。5代目になると創業デザイナーの臭いは薄くなるものですが、DNAがしっかりしているので現在のところブレはないように感じます。
2023.08.19
(前項からのつづき)長い間私たち流通業界関係者が現時点のブランドポジションを調べる上で目安としてきたのが、フランスの業界新聞「ジャーナル・ドゥ・テキスタイル」です。ミラノ、パリコレが終了後、各国の主要バイヤーとジャーナリストにそのシーズンのコレクションの評価を投票してもらい、半年後のパリコレ会期中に紙面で投票結果の詳細を発表します。年2回あり、カテゴリーはバイヤー選出部門とジャーナリスト選出部門に分かれています。参考にしてきたジャーナルドゥテキスタイル紙バイヤー部門は、自店が独占販売していたり特別プロジェクトで関わっているブランドに投票しがち、ちょっと偏っています。たとえば、サンジェルマンにあったオンワード樫山フランス法人セレクトショップのバスストップは、いかなるシーズンも自社が発掘して育てたジャンポールゴルティエの名を第1位に推挙します。伊勢丹パリオフィスは当時ライセンス提携していたカールラガーフェルド(シャネル、フェンディではなくカール自身のブランド)を上位に。どの小売店がどのブランドに投票したのか細かく実名掲載されるので、業界通なら投票者の贔屓目も頭に入れて結果を受け止めます。一方のジャーナリスト部門は、インターナショナルヘラルドトリビューン、ルモンド、フィガロや名だたるフランス雑誌の記者が投票、バイヤー部門よりも信ぴょう性が高く、ブランド人気のバロメーターとして参考になります。概してバイヤー部門はクリエーションだけでなくビジネスとしてどうなのかも加味しての判断、ジャーナリスト部門は斬新さに投票のウェイトがおかれているように感じます。私も百貨店としてブランド導入を検討する際、このブランドランキングのジャーナリスト部門の結果をバロメーターとして活用させてもらいました。このランキングが誕生した頃、パリコレではケンゾー、クロエ(カールラガーフェルドがデザイン)、イヴサンローランがしのぎを削っていました。その後は彗星のごとく現れたジャンポールゴルティエがほとんどのシーズン第1位を独占。日本のビッグスリーが上位を占拠した時期があり、その次はマルタンマルジェラやドリスヴァンノッテンらアントワープ勢のランキングが上昇、ロンドン育ちのジョンガリアーノ、アレキサンダーマックイーンが手掛けるブランドが脚光を浴び、さらにプラダ、トムフォードのグッチなどミラノブランドがパリ以上の評価を受けるなど、時代と共にコロコロ主役は変わりました。1998年パリコレ出張のあと百貨店の大きなリニューアルを計画するきっかけとなったのは、このフランス業界紙ランキング表でした。この時点で上位20傑に入っているブランドのうち、新宿伊勢丹が13ブランド、池袋東武百貨店が7ブランド導入しているのに対し、銀座のわが社が導入していたのは1つだけ、しかもそれは日本のイッセイミャケでした。世界のジャーナリストが評価している旬のファッションブランドのトップ20のうち、インポートはゼロ、日本のビッグスリーは1つ、ランキング表と都内百貨店の導入実績を調べて愕然としました。売れる売れないのものさしだけでは百貨店の存在価値はない、銀座のワンブロックを占有する百貨店ならば、世界が認めるブランドをある程度揃えるべきでしょう。当時の社長に訴え、大きな改装とブランドの入れ替えを計画、一気にランキング上位ブランドを導入できました。ルイヴィトン、ディオール、セリーヌやヨウジヤマモトを導入したのはこのときでした。ところで、1970年代前半イッセイミヤケがパリコレに登場して以来、三宅一生さんは多くのクリエイターに影響を与え、世界のメディアや小売店に高く評価され続けました。このランキング表に初めて名前が記載されてからイッセイミヤケのデザイナー交代までランキング外になったことはないのではないでしょうか。初めて記載されたデザイナーが現役の間はずっと高く評価され続けた例、ほかにいないかもしれません。多くは全盛期とは比べものにならないくらいランキングが落ちてからのバトンタッチ、もしくは創業者の逝去でデザイナー交代が普通です。人気上位ポジションをずっと維持し続けるのは難しい、それが時代と共存するファッション界の宿命だと思います。絶賛された1992年春夏作品は本の表紙にこのランキング表でもう一点触れておきたいのは、ヨウジヤマモト、コムデギャルソン、イッセイミヤケの日本ビッグスリーはそれぞれ1回ずつフランスの人気者ジャンポールゴルティエを抑えてランキング1位になっていること。私の記憶違いでなかったら。そして、イッセイミヤケが第1位になったシーズンは、ウイリアムフォーサイスのダンスチームがモデルとしてパリコレに登場、ステージいっぱいにいろんな種類のプリーツ服を着たダンサーたちが笑顔で踊りまくった1992年春夏ショーでした。ダンサーが跳ねるたびにビョンビョン上下に動くプリーツの重ね着の美しさと楽しさ、いまもはっきり記憶に残るパリのベストコレクションだと思います。パリコレ初参加が1973年ですから、第1位になるまでおよそ20年。デビュー直後からその考え方やデザインが高く評価され、常に人気上位20傑を維持し、後年に再び評価をあげてトップになる。音楽や映画の世界でもなかなかできることではありません。よく意見交換しましたその2年ほど前、三宅さんを誘って小さなカウンターバーに行きました。イッセイミヤケが高圧高熱で加工したプリーツのコレクションに力を入れ始めて数シーズン経過、一部のメディアの間でプリーツ加工物に「ちょっと飽きたね」という声が陰で出始め、友人として耳には入れておこうと誘いました。お酒がまわってそろそろしゃべってもいいかなというタイミング、ここで三宅さんがハンカチを折り曲げながら「ここがプリーツでうまく表現できなかったので次は絶対に成功させたいんです」、と。業界の陰の声を伝えようとした瞬間、逆にプリーツにはまだやれることがあるとハンカチで説明し始める三宅さん、ものづくりのものすごい執念を感じました。ブレずにとことん突き詰めるクリエイターの姿勢に余計なことを言ってはいけない、と私は黙って帰りました。その数シーズン後のことです、着る人の動きによってビョンビョン上下に動くシワ加工商品も、インダストリアルデザインとして面白い新ブランド「プリーツプリーツ・イッセイミヤケ」も、縦にも横にも伸びるストレッチプリーツの「ミー・イッセイミヤケ」も発表されたのは。前項で触れたバルセロナオリンピックのリトアニア選手団ユニホームもプリーツでした。元々私たちの中にあったイッセイミヤケは意匠性の高いテキスタイル、ナチュラルカラー系、ゆったりオーバーサイズ、一枚の布がイメージでしたが、いつの間にか「プリーツ=イッセイミヤケ」になりました。パリのポンピドゥーセンターが「ビッグバン 20世紀アートの破壊と創造展」(20世紀の建築、インテリア、家具、アートなどを総括する展覧会)を2005年に開催したとき、ファッション分野で展示されたのはシャネルでもディオールでもサンローランでもなく、なんとプリーツプリーズのみでした。同展の学芸員は歴代クチュリエではなく、デザイナー服を一般大衆に解放した日本人クリエイターの工業製品的作品をあえて選択したのです。学芸員の見識も素晴らしい、その気にさせた三宅さんの衣服への情熱、考え方もまた素晴らしい。私は若いデザイナーさんによく言います、「あなたの十八番(おはこ)を作ってください」と。ブレることなくとことん追求するクリエイターの執念、それがブランドDNAとして後継者に受け継がれていく。大デザイナーから教わったことです。若手デザイナーにテキストとして薦めてきた本
2023.08.17
(前項からのつづき)あれは1988年秋、代々木上原のおでん屋のカウンターだったと思います。三宅一生さんと二人で食事をしていたら突然相談されました。総合スーパーのダイエーがプロ野球南海ホークスを買収、新しい球団(福岡ダイエーホークス)を立ち上げるので中内功さんからユニホームデザインを頼まれている。しかし恩のある堤清二さん(西武セゾングループ代表)の手前受けるべきかどうか迷っている。どう思いますか、と。西武ライオンズのオーナーは西武鉄道の堤義明さん、セゾンの堤清二さんとの兄弟仲はよくなさそうなので引き受けてはどうでしょう、と答えました。その心配よりも野球のことよく知っていますか、試合中にユニホームが窮屈で選手がエラーしたなんてことになったらマズイです、とも言いました。翌日東京コレクションの施工事業者で東京ドームの指定業者でもあるシミズ舞台工芸に連絡、たまたま近日中に開催される予定だった日米野球のチケットを2枚手配してもらいました。日本のプロ野球全球団と米国メジャーリーグのほとんどの球団ユニホームを一堂に見ることができ、ユニホームデザインの参考になればと思ったからです。三宅デザイン事務所小室知子副社長に「日米野球のチケットを取り寄せたのでどうぞ」と電話を入れました。小室さんは「お願いだから東京ドームに連れていってよ」。チケットは用意しましたが、日曜日に仕事の延長のようにデザイナーさんと行動を共にするつもりはありません。しかし、日頃何かとお世話になっている小室さんに頼まれると断れず、私は三宅さんと一緒に日米野球の観戦に出かけることに。その前日私は別の会食があって強度の二日酔い、胃はムカムカ身体はだるく最悪のコンディション。そんなこと知らない気遣いの三宅さんはドリンクやデッカいドームアイス最中を注文。お気持ちはありがたいけれど二日酔いの身にはこたえました。このとき日米どのチームのユニホームがかっこいいかという話になり、シンプルでスッキリしたニューヨークヤンキースが一番いいねと意見は一致しました。東京ドームでニューヨークヤンキースのピンストライプが一番かっこいいと盛り上がったんですが、完成した福岡ダイエーホークスのユニホームはヤンキースとは対極のユーモアあるデザイン、当時のプロ野球には珍しくコミカルなものでした。三宅デザイン事務所のデザイナーの間でコンペ、その中から三宅さんが選んだデザインに手を加えたものだったと記憶しています。特にホークス(鷹)の目を可愛くあしらったヘルメットが印象的でしたが、世間ではこれが賛否両論、中には批判的メディアもありました。賛否両論だった福岡ダイエーホークスのユニホーム特にコミカルだったヘルメット余談があります。堤義明さんがオーナーの西武ライオンズは堤清二さんとは直接関係ないので請け負っても大丈夫と私は思っていました。が、堤清二さんの西武セゾングループは総合スーパーの西友ストアを傘下に持ち、ダイエーと西友ストアは売上でしのぎを削り、商人の中内さんと文化人の堤さんは肌が合わない。盟友がライバルの球団ユニホームをデザインするなんて堤清二さんには面白くなかった、と後日西武セゾングループ幹部から伺いました。私の大きな勘違いでした。ユニホームといえばほかにも思い出があります。某大手金融機関のユニホームコンペです。1995年東京ファッションデザイナー協議会を退任して百貨店に移籍してすぐ、全国の窓口業務の女性ユニホームを新調するコンペがあると情報が入りました。どうやら我が社はコンペに出遅れたらしく、芦田淳さんや稲葉賀恵さんにデザイン委託して参加した百貨店もあり、三宅一生さんに頼んでもらえないかと幹部から相談がありました。選にもれるかもしれないコンペ参戦を世界で活躍するデザイナーにお願いするのは失礼でしょう。でも、聞くだけは聞いてみようと三宅さんに相談しました。毎日着用するユニホーム、プリーツプリーズではどうでしょうと提案したら、三宅さんはそれは面白いかもしれない、やってみましょうと快諾してくれました。10年間デザイナー組織の運営ご苦労様という意味もありました。私は出来上がったサンプルを持って実際に着用する女性スタッフが審査員を務めるコンペ会場に。いろんな組み合わせが可能、シワにもならず、自宅洗濯機で簡単に洗えてすぐ乾く、デザインはシンプルでも特徴がはっきりしている点を丁寧に説明しました。審査員の女性たちは興味ありそうな表情、私はそれなりの手応えを感じました。ところが、最終的にコンペを勝ち取ったのはどのデザイナー作でもなく、応募の中で最も平凡なデザイン、ユニホーム専業メーカーの既製品カタログに載っていそうな代物でした。こんな平凡な服が選ばれるなら何もコンペをしなくてもいいのに、釈然としませんでした。後日談として、コンペの評価基準はどうやらデザインではなく別の事情があったのではないか、コンペに敗れたほかの百貨店の間でもそんな噂がありました。もうひとつユニホームで思い出すのは、1992年バルセロナ夏季オリンピックでソ連から独立したばかりのリトアニア選手団のために三宅さんが無償でデザインしたユニホーム。1991年9月ソ連からようやく独立できたリトアニア共和国は翌92年2月のアルベールビル冬季オリンピックで国名リトアニアとして開会式に参加。入場行進はたった数名、ユニホームを制作する時間も資金もなく個人バラバラの装いでした。このとき全米に実況中継していたNBCテレビはCMを入れリトアニア選手団の行進シーンはカット、やっとソ連から独立できたリトアニア人念願の国名プラカードはオンエアーされませんでした。祖国名がオンエアーされず悔しい思いをしたリトアニア人の在米医師でイッセイミヤケメンのお客様は、この開会式のあと三宅さんに手紙を送りました。世界的クリエイターがリトアニア選手団のユニホームをデザインしてくれたら、次のバルセロナ夏季オリンピックで入場行進がカットされることはない、協力してもらえないだろうか、と。手紙を受け取った三宅さんはさっそく石津謙介さんに相談、石津さんの働きかけもあってミズノが制作納品することで話はまとまり、たった数ヶ月の準備期間でプリーツ加工した面白いユニホームが完成。もちろん実況中継でリトアニアの行進はカットされることはなく、その斬新なユニホームは大きな話題となりました。リトアニア選手団ユニホーム(故・石津謙介先生サイトより)問題はここからです。ニューヨークタイムズ紙東京特派員から東京ファッションデザイナー協議会に電話取材が入りました。「三宅一生氏がデザインしたリトアニア選手団のユニホームはかなり話題になっているが、日本選手団のユニホームは話題になっていない。これについてあなたの見解は」、「あなた自身は日本選手団ユニホームをどう評価するのか」、「どうして三宅一生氏は日本ではなくリトアニアに協力するのか」。私にそれを訊きますか、と逆に質問したくなる質問の連続でした。大相撲のハワイ出身大関小錦に外国人力士への差別問題をコメントさせて報道した記者(この記事で小錦さんは窮地に陥ったことがある)、質問はかなり執拗、私になんとか問題発言をさせニュースにする意図が見え見えでした。この記者が誘導質問を並べて私に言わせたかったことは想像つきます。当時の私はどのデザイナーとも等距離でいなければならない立場。このとき日本選手団のユニホームデザインを委託されたのは別の有名デザイナー、しかもデザイナー協議会メンバーでもあります。協議会を預かる私がこの記者の誘導質問に引っかか流わけにはいきません。正直なところ、あのプリーツユニホームは技術的にも視覚的にもオリンピック開会式の歴史に残るデザインの1つだったと思います。いまだったら取材に答えられるんですが....。
2023.08.15
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