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1年に2回開催されるJFWプレミアムテキスタイルジャパン展がいつもの有楽町国際フォーラムで今週開催されました。エントランスを入ってすぐ元経済産業省繊維課長だったKさんと久しぶりに再会、しばし中国業界のことなどお話ししました。Kさんはこれまで4回もパリ駐在を経験、役人人生の半分以上はパリという珍しいお役人、頭が柔らかい人です。私がクールジャパン政策を推進していたときはJETROパリ所長、投資先のファッションブランド45Rのパリショップ開店時に奥様ともども来てくださったことを思い出します。現在はJETRO本部の大幹部、その国際経験を活かして日本の優れもの、美味しいもの、カッコいいものをもっとたくさん世界各国に売り込んで欲しいですね。会場でKさんや業界関係者に中国事情をお話ししたのは、日本素材はこれからいったい誰に売るのかをマーケティングし直す時期が来たのではないかと伝えるためでした。プレミアムテキスタイル展の回数を重ねるうちに業界事情は大きく変化、市場環境も変わりました。そろそろどういうバイヤーを戦略ターゲットに売り込む素材見本市にするべきなのか再検討する時期に来ていると思うからです。長い間、ファッションデザインの世界ではパリコレや同時期開催の見本市参加がブランド側の大きな目標でした。テキスタイルの世界ではプルミエールヴィジョン展あるいはインターストッフ展への参加が世界への扉だったでしょう。こうした日本のヨーロッパ重視の構図はいまも変わらないのでしょうが、私たちは中国市場の規模の大きさやファッション事業化に目覚めた中国新興アパレルの成長力、そして彼らのものづくりにおける上昇志向つまりもっといいものを作って世界市場に攻めたいという思いを注視すべきではないでしょうか。消費市場でも、ロンドン、パリ、ミラノ、ニューヨークのラグジュアリーブランド直営店やハイエンド百貨店で大量のブランド商品を購入しているのはアジア系ツーリスト、彼らの購買力は現地消費者以上にすごいものがあります。日本でもコロナ禍が終わって復活したインバウンド消費が国内景気に大いに貢献し、都心部の消費回復は彼らの存在が大きいと言えます。この数か月の動向を見るとアジア系はなにも中国本土からの旅行者のみならず、香港、台湾、韓国からの旅行者の消費パワーは大きい。でも、依然日本は欧米偏重のまま、アジアを低く見ていますよね。果たして今後もこれでいいのでしょうか。(以上4枚、プレミアムテキスタイルジャパン展)中国の業界事情も変わりつつあります。この数か月交流してきた中国アパレルメーカーの経営者たちの中には、もっと上質な素材を起用して付加価値性の高い商品を開発、将来的には欧米市場や日本にも販路を広げたいと考える経営者は少なくありません。また、私がセミナーでよく口にする「ブランドDNA」を真剣に受け止め、その糸口を見つけたいと何度も質問する経営者が何人もいます。彼らは安いものをたくさん作ってただ売上を狙うだけの経営者タイプではありません。もっと魅力的な商品を開発して将来世界に打って出たいと考える中国アパレルの経営者たち、実は案外日本素材の素晴らしさをきちんと認知していません。もし彼らが日本国内の素材見本市に参加するテキスタイルやニットメーカーの製品に触れたら理解は早いでしょうし、どこに行けばそういうものを手にすることができるのか情報提供すれば喜ぶのではないでしょうか。昨年後半から再び中国業界首脳の訪日研修団が急増していますが、彼らに日本製素材の情報を伝えたら、訪日スケジュールを素材見本市に合わせて組むことだって可能でしょう。(広州発祥の婦人服ブランドは海外進出を積極的に推進)欧米のラグジュアリーブランドは日本製素材をたくさん使っています。ヨーロッパの素材見本市で依頼のあったサンプル生地をたくさん渡す(中にはサンプル収集だけで注文に至らない例はたくさんあるでしょうが)のも悪くはありませんが、ものづくりに前向きな中国アパレルの経営者や企画責任者を日本の素材展にどうしたら迎えることができるのか、具体的アクションを起こすべき時期が来ているのではと思います。このところ中国人ビジネスマン相手に東京で、中国でセミナーを続け、彼らと意見交換する機会が増えたので、そろそろ日本は欧米偏重からアジア強化にシフトすべきタイミングでは、と考えるようになりました。人口多いからマーケット規模は相当大きく、経営者は結構真面目で研究熱心な人が多いんです。セミナーだって質問は量も質も日本企業の比ではありません。いかがでしょう、中国市場に日本素材を思い切り売り込んでは....。
2024.05.11
昨年9月上海の「佐吉企業管理コンサルティング」創業者アーロン・ジン(金 時光)さんらが率いる訪日研修団でセミナーを頼まれて以来、私は中国ファッション流通業界人に講演する機会が急増しました。12月には杭州で、2月は上海、蘇州、広州で、そして今回は東京で訪日団へのセミナー、来る7月にも再び訪日団と中国出張でそれぞれセミナーの予定があります。今回ジンさんらが引率してきたのは主にアパレルメーカーの経営者。ヤング向けファッションブランドで成功している経営者、アパレル事業で上場企業の創業者、SPA企業幹部やテキスタイルのプロなど30人余が受講者でした。中国は人口多く市場規模が大きいのでかなりの売上を誇る会社の経営者や幹部が多かったようです。初日午前中のカリキュラムは私が担当した「東京コレクションの変遷」と「ブランドビジネスの成功条件」の2テーマ、午後はVMD指導の会社を経営している元部下Hくんのヴィジュアルマーチャンダイジングの基本。そのあと銀座で市場調査に同行したあと品川の焼肉店に。私はブランドビジネスには創業時から継承するDNAを守る姿勢、ブレないものづくりが重要であり、昨今DNAを軽視して失敗した欧米有力ブランドの事例を紹介しました。私のセミナー聴講3回目の大手ニットメーカー人事責任者Hくんが部下だった時代、私は社員にマーチャンダイジングの基本を教え、VMDにも大きく関わる「定数定量管理」をうるさく指導しましたが、Hくんは定数定量をおさえた上でいかに魅力的な商品陳列をするのが店頭では効果的かを丁寧に説明。社内MDゼミで教えたことをベースに、Hくん自らの経験から積み上げた方法論を紹介、非常にわかりやすかったです。研修2日目はミナペルホネンのデザイナー皆川明さんの講演。朝のラッシュアワー時に電車が事故で停止、通訳さんの到着が遅れるので日本で暮らした経験のあるジンさんのパートナーが冒頭の講演を通訳してくれました。皆川さんのものづくりの話はこれまで数回聞いたことありますが、いつ聞いても職人さんたちへの優しい目線、弱者への配慮を感じます。小さな機屋さんが安心してテキスタイルづくりができるよう、ミナペルホネンは原料の糸を事前購入して機屋さんに渡しているという話、感動します。トレンドが変わるたび、気持ちが変わるたびテキスタイル生産地をコロコロ変えるファッションブランドは少なくありませんが、ミナペルホネンは小規模な機屋さんに継続してロングランで同じような織物を注文しています。通訳を通してのスピーチですからどこまで正確に皆川さんの話が伝わったのかはわかりませんが、受講者には皆川さんのものづくりに込めた情熱、技術者への思いやりは十分伝わりました。皆さん、夕食の居酒屋でやや興奮気味に口を揃えて「皆川さんの話は感動しました」、と。2日目講師のミナペルホネン皆川明さん参加者の多くは翌日ミナペルホネンの南青山スパイラル5階のショップ「CALL」を視察、ミナペルホネンは中国市場で展開すればきっと現地消費者に受けると話していました。余談ですが、ひとつ面白い出来事が。通訳が遅れたために急きょ臨時通訳をしたジンさんのパートナー劉さんが、午後8時帰宅ラッシュで混雑するJR品川駅コンコースで皆川さんとばったり遭遇したのです。2日前に出会ったばかりの中国人とセミナーで講師を務めた日本人が雑踏の中でお互い認識できたというのはまさしくご縁です。2日目午後は皆川さんの母校文化服装学院の視察でした。受講者が学院長と面談している間、ジンさんとファッションビジネスにおける彼のパートナーで元アリババ幹部、ジンさんを私に紹介してくれたビジネススクール教え子の齋藤孝浩さんと私は京王プラザホテルで将来の人材育成プログラムの打ち合わせを行いました。かつて我々がIFIビジネススクールを立ち上げるまで、そのカリキュラムや育てたい人物像についてどれくらい時間をかけて議論したか(議論開始が1989年、試験的な夜間開講が1994年、全日制は1998年の開講)、齋藤さんたちが参加した夜間プロフラムで教え方やカリキュラムの実験を何度も繰り返したのちに全日制プログラムを開講できたことなど、人材育成は焦ってはいけないと説明しました。中国ではファッションビジネスが急速に成長、マネジメントできる人材の育成が急務なんだそうです。ほかにもツアー参加者はコンビニの業務革新をした経営者やショッピングモールの実務責任者、SPA型ブランドビジネスのマネージャーや新製品のネット通販セミナーを受け、6泊7日の東京研修を終えて帰国しました。セミナーに連日の打ち上げご飯、これとは別にジンさんらとの打ち合わせとちょっとハードなスケジュールだったのでさすがにタフな私も疲れがドッとでました。初日講義終了後に全員で記念撮影この先、秋までに再び別の訪日研修団の計画があり、中国に出張してセミナーの構想もあり、ジンさんとテキスタイルの達人と一緒に羊毛産地視察の話もあり、ジンさんは諸々の打ち合わせのため来月も来日します。中国ビジネスマンはセミナーで的を得た質問を連発、探求心は日本人に比べてすごいです。また、教わったことをすぐ実行するスピードは半端ない。こういう人たちに頼りにされるとついつい協力したくなります。利用価値がある間はどうぞ利用してくださいって心境です。講師のひとり元ワールド金田有弘さん(中)とジンさん(右)
2024.04.27
あれは1994年2月後半でした。パリコレ取材に出かける直前、毎日新聞社でファッションデザインやワインなどを担当していた市倉浩二郎編集委員が珍しくきちんとアポを取り、カメラマンを伴って南青山5丁目にあったCFD(東京ファッションデザイナー協議会)事務局に来たのは。毎日新聞社編集委員だった市倉浩二郎さんCFD事務局には正面口と玄関口の2つドアがあり、いつも彼は勝手口からチャイムも鳴らさず入ってきてキッチンの冷蔵庫をゴソゴソ、ビールを見つけると議長室のソファにドカッと座って勝手にビールを飲んでいました。が、その日は事前にアポを取り、カメラマン同伴の正式な取材、正面口からやって来ました。取材中は友人であっても丁寧な言葉遣い、ちゃんと取材者として一定の距離を保ってくれる本物のジャーナリストでしたが、この日もジャーナリストの顔でした。取材が終わって雑談になると言葉遣いはガラリ変わっていつも通り友達言葉に。これから出かけるパリコレを自分としては最後にしようと思う。今後パリコレ取材は後輩記者か外部の専門家に任せ、自分は国内繊維産地を回ってデザイナーの背後にいる技術者やテキスタイルメーカーを取材して本を書きたい。「おまえ詳しいだろうから手伝え」。長く編集委員の職にあり、一般記者と違って自由になんでも取材できる立場、書こうと思えば何冊も本を書けたはずなのにこれまでワインやスコッチ、日本酒の専門家に遠慮して本を一冊も書かなかった男、それがやっとファッションデザイナーの背後にいる技術者の本を書きたいと言うのです。私は快く「いいよ」と返しました。3月23日、毎日ファッション大賞選考委員長だった鯨岡阿美子さんのご主人でエッセイストの古波蔵保好さんが銀座のフレンチ有名店マキシム・ド・パリに大勢の仲間を招待、数え85歳のお誕生会を開いたとき(沖縄では長寿をお祝いされる側が好きな人を招いて大宴会するとご本人から伺いました)、市倉さん、私も招待されました。鯨岡さん急逝の1年後毎日ファッション大賞に鯨岡阿美子賞を設立するため奔走した二人だから招待されたのでしょう。このとき、市倉さんはちょっと疲れた表情でした。そして4月1日、CFD主催の東京コレクション開幕。初日最終ショーのユキトリイに行こうと西武百貨店渋谷店の脇を通りかかったら、間口の狭いカフェで市倉夫妻や帽子デザイナー平田暁夫夫妻らを見かけて合流。ここで私は当時ブームになりつつあった「有機栽培野菜スープ」の効能を説明、市倉さんにも「あんたも健康に注意しろ、野菜スープ飲め」と勧めたら「あんな不味いもの飲めるか」と一笑。私の勧めですぐ飲み始めた平田先生とは大違いの反応でした。みんなでカフェから歩いてショー会場へ移動しユキトリイの新作コレクションを拝見。あとでわかったことですが、このショー終了後に市倉さんは奥様に「ちょっと寒気がする」と漏らし、鳥居さんの打ち上げパーティーには参加せずそのまま帰宅したそうです。市倉さんと私翌4月2日羽田空港整備場でのコムデギャルソン、どういうわけか市倉さんは現れませんでした。パリコレですでにコムデギャルソンのコレクションを取材しているはず、都心から遠いので今日は来ないのかなと思いました。ところが、ちょうどその頃、市倉さんは意識不明で救急搬送されていたのです。4月4日、美登子夫人から電話がありました。市倉さんがパリコレ取材で書いてたはずの原稿が見当たらない、これからデザイナーをインタビューして書き上げなくてはならないタイアップ企画は誰かと交代しなくてはならない、もし新聞社から連絡があったら助けてあげてと頼まれました。容体に変化なく未だ意識不明とこの電話で初めて深刻な状態だと知りました。東コレ終了後の週明け、入院先の西国分寺にある府中病院に飛んで行きました。集中治療室の前には毎日新聞OBや同僚、仕事仲間が集まり、治療室から出てくる看護師に取材しては私たちに状況を教えてくれる方もいました。府中病院の中庭には立派な八重桜があり、私たちは喫煙所でその桜を眺めながら花が全部散る前になんとか眼を覚ましてほしいと願いました。4月23日、美登子夫人から許可が出たので私は初めて集中治療室に。鼻から口からたくさん管を入れられ全く動けない市倉さんを見てショックでしたが、彼の名前を連呼し、脚を摩って励ましました。すると市倉さんの目から涙が溢れ出ました。「おまえが来たことはわかってるぞ」というサインだったのでしょう。午前中に何か食べるものを差し入れし、夕方には病院に戻って奥様を励ます、連日このパターンを繰り返しました。そして4月25日、寿司屋で握ってもらった寿司を持って病院に到着するやいなや看護師から救急治療室に入るよう促されました。まるでドラマのワンシーンのように血圧計の数値が急降下、ゼロになったところでドクターからご臨終の宣告。人の死に立ち会ったのは生まれて初めて、ショックでした。今日であれからちょうど30年、早いです。2代目CFD議長を引き受けてくれた久田尚子さんと市倉さんパリコレ取材で疲れたからでしょうか風邪の菌がなぜか脳に入ってしまい、ドクターはその菌の特定がなかなかできないために処方できず、最後の最後まで原因不明のまま亡くなりました。山登りが趣味の頑丈な男があまりに呆気ない、享年52歳は若すぎます。やっと本を書こうと準備を始める寸前に倒れ、結局1冊の本を書く時間すら残されていなかった、誰にも人生にTHE ENDはあると教えてくれました。控え室で美登子夫人が言いました。「イッちゃんが、太田は本当はやりたいことがあるからやらせてあげたいといつも言ってたわ」と。ひとまわり年少の私を弟のようにかわいがってくれた友は私のことを心配してくれていたと奥様から聞いて嬉しかったです。そして、友の死で私は決断しました。やりたいことをやらずには死ねない、CFD議長を退任してアメリカで学んだマーチャンダイジングの仕事をやろう、と。縁あって百貨店でもアパレル企業でもマーチャンダイジングを指揮し、数百人の社員たちにゼミ形式でマーチャンダイジングを教えました。最近は中国のファッション業界人にマーチャンダイジングを講義する機会が増えました。学生時代からやりたかったマーチャンダイジングの仕事を30年間続けたきっかけは、大親友との別れで人生観が変わったからです。救急治療室で意識不明ながら涙を浮かべて応えてくれた友の姿、一生忘れられません。毎年やってくる4月25日、私にとっては特別な日。合掌。
2024.04.25
日本ファッションウイーク推進機構で3月開催されたRakuten Fashion Week Tokyoを総括する実行委員会が行われました。各委員が今シーズンの運営についてどのように感じたか、今後に向けて改善すべき点は何かを論じ合うミーティングでした。SOSHIOTSUKIコロナウイルスの3年間はショー形式で発表しにくい状況でしたが、2024年秋冬シーズンはショー形式で発表したブランドが増え、見応えのあるコレクションも多かったというのが大方の意見。もちろん反省点、今後に向けて検討すべき点はいくつか出ましたが、これらを受けて事務局は参加ブランド関係者と共にいろんなことにチャレンジしてしてくれると思います。委員の感想でもあり、私自身も気になっていたのは、開演時間の遅れ。開演まで40分も待たされる欧米コレクションと違って、東京は日本人気質なのか大幅な遅れはこれまであまりなかったと思います。が、今シーズンは大幅に遅れて(あるいは意図的に遅らせてか)開演するコレクションが少なくありませんでした。過密スケジュールでモデルのヘアメイクに時間がかかることも遅れの原因かもしれませんが、観客入場も開演時間ギリギリのショーが多かった。私が東京コレクションの運営責任者を務めていた頃、大幅にショーが遅れるとメディア関係者からきついクレームが寄せられたものです。事務局もなるべく開演時間を遅らせずに開演してほしいとブランド側に協力をお願いしたものです。近年は遅れるのが当たり前、時間通り始めないのが普通になってきたのではとちょっと心配。ブランドやそのプレス担当者、演出家にはなるべくオンタイムで開演してほしいですね。私が百貨店にいた頃、ニューヨークコレクションで人気のマークジェイコブスが1時間ほど開演が遅れ、主要メディアに批判記事を書かれたことがありました。翌シーズン、マークジェイコブスはなんと招待状にある開演時間オンタイムでショーをオープン、のんびり会場にやってきた多くの主要プレスやバイヤーはショーを観ることができなかったという事件がありました。オンタイムでやろうと思えばできないことはないという事例ですが、ショーに関わるみんながその気になればオンターム開演は実現可能です。開演予定時間通りとは言いませんが、ぜひ東京だけは大幅遅れだけは是正してもらいたいです。観客の入場整理についても再考すべきかもしれません。東京コレクションを始めた頃は"PRESS"と"BUYER"そして”STANDING"と当時のパリコレに習って入場を整理、雑誌編集長クラス、新聞編集委員クラスの主要プレス関係者がずっと行列で並ぶということはほとんどありませんでした。が、このところベテラン記者やメディアの役職者が行列で放置されたままという光景をよく見かけます。招待状の封筒につけた色別シールで分類、そのシールの色分けの意味が観客にはよくわからず、主要エディターも新人スタイリストもブランドのインフルエンサーも皆同じく長時間行列に並ぶというのは改善できないものかと思います。かつての入場者分類のように分けて、優先的に場内に案内して着席してもらういわばVIP扱いというのがあってもいいかもしれません。JUN ASHIDA数十年もファッションショーを続けてきたジュンアシダなどは1日3回大勢のお客様を招待しているにも関わらず、毎回会場入口が混雑することなくスムーズに入場整理されています。受付でカテゴリーごとにお客様をわけ、案内係がしっかり個別対応しているので混乱はまずありません。各国大使館関係者の出席も多く失礼があってはならないという配慮もあるでしょうが、毎回伺うたびにスムーズな会場案内に感心させられます。他のブランドにもあの方法を研究してほしいです。コレクションを観る側は人間ですから、なかなか入場できなかったり、長く待たされてよく見えない席に案内されたりすると主要メディアの関係者は内心穏やかではありません。本来ファッションショーは気分よく観ていただくもの、開演前から内心ムカムカ状態ではせっかくのコレクションがブランド側の意図通り伝わらず、結局それがブランドにば悪影響になることも。特にベテランのエディターさんはイライラさせないケアをショー会場ではすべきかな、と。一度ブランド側の担当やプレス会社スタッフ集めて、エントランスのケアや時間厳守について講習会をしてはどうでしょう。私も1970年代からたくさんのファッションショーを拝見してきました。入場の際に日本人に対する人種差別じゃないかと頭に来たこともあれば、プレス担当の横柄な態度にブチ切れてイヤイヤ取材したことも少なくありません。しかし、そんな入場対応で気分悪くてもショーはショー、感情移入してはいけないとコレクション評では絶賛したブランドも中にはありました。が、やっぱり人間ですから、穏やかな気分でファッションショーは観たいですね。
2024.04.23
あれは2010年のことでした。中国市場への進出をどう進めるかを考えていた私たちは、将来駐在オフィスを開設することも視野に入れ上海と北京の商業施設を回りました。北京の中心部にあった現地有力セレクトショップで手にしたジャパンブランドのアイコンTシャツ、現地価格を日本円換算すると15,000円でした。日本国内では5,700円の商品、「随分高いマークアップをとるんだなあ」とこのとき思いました。セレクト店内を歩いていると、見慣れた服をマネキンが着ている。なんと私たちの会社が作っている商品、中国の小売店にはまだ卸していなかったのでうまくできた偽物か、と。しかし、商品タグは我が社のもの、すぐ日本に電話してブランド責任者に説明を求めました。なんと米国の婦人服見本市に出品した際にこのセレクトショップから注文もらったので出荷。視察に同行した部下たちも私も中国の小売店に出荷していたとは知りませんでした。ブランド責任者に商品番号を伝え日本国内価格を報告してもらうと、日本で22,000円の加工物プルオーバーが中国ではなんと円換算61,000円、いくらなんでもこれは高すぎます。中国では消費税が内税(当時は価格の30%が加算されると聞きました)、それでも日本の小売価格のおよそ2.6〜2.7倍は現地小売店がマージンを取りすぎではないでしょうか。写真は3枚ともビッグブランドの中国ショップ1970年代パリのルイヴィトンやエルメスなど現地ラグジュアリーブランドに日本の並行輸入業者が列を作ってバッグ類を免税でたくさん購入していた時代がありました。輸入業者本人のみならず、現地で集めたアルバイトも動員、大量に免税購入して日本市場で転売したのでブランド側が日本パスポートの免税は一人当たりバッグ1個、財布1個と制限したことも。あの頃は内外価格差が大きく、現地で商品を店頭で買って日本で販売しても十分儲かったから転売はあとをたちませんでした。ところが、ブランド側が順次ジャパン社を設立して日本市場における小売価格をコントロールして内外価格差を抑制し始めると、それまで大儲けしていた並行輸入業社は従来のように高額で販売できなくなり、パリから「転売ヤー」は姿を消しました。あの頃は、JALパック団体旅行に参加する田舎のオヤジさんたちもパリのラグジュアリーブランド直営店で家族から頼まれたバッグ類を購入していました。まだクレジットカードが普及していなかったので、シャツの前ボタンを外して肌身に付けた防犯用腹巻からトラベラーズチェックや現金を取り出す光景を見かけたものです。ラグジュアリーブランドショップでシャツのボタンを外して腹巻から現金を取り出す、現地ショップ販売員にはかなり滑稽だったでしょう。オヤジさんたちが現金を取り出す間しらけた目線で支払いを待つ販売員の表情、シュールでしたよね。インバウンドが急増し、日本の消費経済に大きく貢献してくれる訪日外国人は流通業界にもブランドビジネスにもありがたい存在なのですが、中には中国と日本との内外価格差を利用して儲けようとする転売ヤーとそのアルバイトが売り場を連日奔走、大量に購入して中国で販売しています。内外価格差が大きければ、店頭で小売価格で購入しても十分儲かります。日本で50,000円の商品が2.5倍ならば中国では円換算125,000円、差益は75,000円とれます。一生懸命ものづくりしているブランド側は50,000円の小売価格から取引先の百貨店などのマージンと製造原価を差し引いたらせいぜい25,000円の粗利でしょうが、転売ヤーとそのアルバイトは50,000円で購入した商品を中国で仮に正規品小売価格よりも安い100,000円で販売しても差益は50,000円です。開店時間前から行列に並ぶ人たちが粗利50,000円、ものづくりしている人たちは粗利25,000円、ちょっとおかしくないでしょうか。転売ヤーが自国での販売で儲かる商品を集めるべく奔走しているのは、内外価格差が大きいからです。ジャパン社が設立される以前のラグジュアリーブランドがそうでした。だから、そろそろ抜本的に内外価格差を抑えて転売ヤーがものづくりする側よりも儲かる仕組みを改善すべき時期が着ているのではないでしょうか。いつまでも転売ヤーがわがもの顔で大きな差益を得ているおかしな構図を改めるべきだと思います。なぜそう思うかと言えば、今日某百貨店のジャパンブランドショップの前とその周辺に転売ヤーらしき人々の長い行列を目撃したからです。私も愛用しているこのブランド、某百貨店への商品デリバリーは毎週木曜日と聞いています。今日は金曜日なのに行列、我々一般消費者はショップに入って商品を手にすることもできません。転売ヤーのアルバイト要員が多すぎて長年のブランド顧客がショップに入れない、こんなことがずっと続いていることは異常です。ラグジュアリーブランドがジャパン社を設立して小売価格を自らコントロールしたように、日本のブランド(何もファッション商品に限らず家電製品も同じです)も転売ヤーが日本の売り場を走り回って利益を上げている構図に終止符を打つでき時期ではないでしょうか。コツコツものづくりする側よりも行列に並んで転売する側が利益が多いなんてどう考えてもおかしい!自らのブランド価値を守るためにも、国内顧客がごく普通にショッピングできるようにするためにも、海外市場のビジネス戦略やヨーロッパブランドの取り組みをもっと勉強してほしいですね。
2024.04.12
3月10日の週は東京コレクション(正式名称RAKUTEN FASHION WEEK TOKYO)でした。あいにくその直前の中国出張が、上海、蘇州、広州3都市それぞれでセミナー開催と少々ハードだったからか、私は体調を崩して連日薬で高熱を抑えながらファッションショーを視察。東コレ終了時にやっと熱が下がって普通に動けるようになりました。そこへ2月末の中国出張をアレンジしてくれた佐吉マネジメントコンサルティングの金 時光(アーロン・ジン)さんが来日、彼に日本の仲間たちを紹介し、今後の事業計画を議論するなどこれまた忙しい1週間を過ごしました。金さんは再び4月に企画している中国アパレル企業経営者たちの東京研修ツアー準備のため、研修旅行期間中に講演を依頼している日本の業界人数名と打ち合わせをしていきました。3月25日ブタ小屋での記念撮影上の写真は金さん最後の東京の夜、新宿歌舞伎町の裏通り「思い出の抜け道」(ゴールデン街のような通りが他にあるとは知りませんでした)にある居酒屋「ブタ小屋」での記念撮影。写真中央が金さん、右側がIFIビジネススクール教え子の齋藤孝浩さん(「ユニクロ vs ZARA」などの著者)。金さんは齋藤さんの著書を中国語に翻訳出版、人口の多さもあって日本の数倍も中国では売れているそうです。昨年9月、齋藤さんから突然連絡をもらい、私は金さんが昨秋企画した中国業界人の東京研修ツアーでセミナーを担当、このとき初めて金さんを紹介されました。翌10月には広州に拠点を置く製造小売業ゴエリア(ブログ前項で紹介)の来日社員研修でもセミナーを頼まれ、さらに12月には齋藤さんと一緒に杭州と寧波に出張、現地で売り場視察や経営者研修をさせていただきました。この現地経営者研修は9月の東京でのセミナーを企画した金さんが突然思いついたプランでした。2月蘇州での中国最大ニットメーカーの社員研修そして、12月杭州での経営者研修開催中に金さんは参加した経営者に働きかけ、齋藤さんと私をセットで招聘して2月に個別企業の社員研修をお膳立てしてくれました。上海では近郊のアパレル事業者たちを集めた無料セミナー(4月の東京研修ツアーをPRするためのプログラム)、続いて蘇州と広州ではそれぞれ現地有力企業向けのセミナーや幹部ミーティングがありました。以前にも触れましたが、金さんは大学卒業後豊田通商上海支店に新卒就職、そこで「トヨタかんばん方式」に触れ、この合理的なマネジメントを中国にもっと広めたいと28歳で独立、サプライチェーンマネジメントを中国企業に指導するコンサル会社を立ち上げました。クライアントの中には世界有数の監視カメラメーカーや中国空軍の戦闘機製造に関わるメーカーもいるそうです。つまり金さんの本業はファッション流通業ではありません。IFIビジネススクールに通っていた齋藤さんは当時総合商社トーメンの若手社員。のちにトーメンは豊田通商に吸収合併され、米国西海岸駐在から帰国した齋藤さんは独立して自身のコンサルティング会社を立ち上げました。旧トーメン出身でサプライチェーンなどを指導する齋藤さんと、豊田通商現地法人から独立してコンサル会社を立ち上げた金さんには恐らく何か接点があったのでしょう、金さんは齋藤さんの知見を中国ファッション業界にも広めようと各種セミナーや中国語版の出版などを手掛けてきたのです。金さんのファッション業界におけるパートナーとして元アリババ研修部門幹部の游 五洋さん(通称シージャンさん)がいます。シージャンさんは浙江省や広東省のアパレルメーカーや小売事業者の間で指導者的な存在、中国企業にマーケット動向やマネジメントを教えている方です。昨年9月の東京研修ツアー同様、今月の研修ツアーにもシージャンさんがまとめ役として同行し、講演者の話を最後にまとめる「塾長」のような役割をなさいます。右:金さんのパートナー游 五洋さん(通称シージャンさん)今回の東京研修ツアーにも上海、杭州、広州などのアパレル企業経営者や幹部が30余名参加し、日本のファッションデザイナー、ファッション専門学校代表、ビジュアルマーチャンダイジングのプロ、ショッピングセンター開発プランナー、コンビニ経営の経験者などいろんな人が講演、私も2つのタイトルでセミナーを依頼されています。講演のあとは売り場を案内しながら注目すべき視察ポイントを解説することにもなっています。右:金 時光(アーロン・ジン)さん金さんは36歳、私よりかなり若くバイタリティーもあります。お酒が入ると、いかに中国を良くしたいのか、何を日本から学ぶべきなのか、彼は熱く熱く語り始めます。しかも体力あるから飲み会はエンドレス、我々は彼のペースに完全に引き込まれます。彼を見ていると、32歳で東京コレクションの責任者を引き受けファッション流通業界のお偉いさんたちにストレートな意見を吐いて煙たがられた当時の自分を思い出します。若造の意見に真摯に耳を傾けてくれたお偉いさんは少数派、ほとんどは「このガキ、何言ってるんだ」と見下した冷たい目線ばかりでした。相容れない産業界の先輩たちを早く識別するため32歳でネクタイ着用を止めた私ですが、金さんはノータイどころかいつもTシャツ姿でどんな席にも出かけます。きっと中国にも「このガキ、何言ってるだ」と金さんのストレートな意見に耳を傾けない年長者は少なくないでしょうね。まるで自分の若い頃を見ているような感覚、しかも「中国をもっと良くしたい」という若者の熱い思いに刺激されて私も自然と元気が出てくるのです。もうすぐ金さん旋風の再到来です。
2024.04.06
3月11日にアップしたブログで触れましたが、広州市に拠点を置く製造小売ブランドGOELIA(ゴエリア)は今年で創業29年、広州出張初日がちょうど創業祭当日だったので私もそのイベントに参加、社員たちの盛り上がりは半端なかったです。ゴエリア本社の中庭でのミニコンサートゴエリア創業者ゴードン・ウーさんと初めて会ったのは昨年10月、東京でセミナーを頼まれたときでした。ウーさんは社員を連れて頻繁に来日しますが、このときは同行する本社幹部や各部門の責任者を相手にアパレル産業の課題、ブランドビジネスの難しさをレクチャー。下の集合写真はセミナー会場だった西新宿住友ビルで撮影したものです。それから2カ月後の昨年12月、杭州市で私たちのセミナーが開催されたときもウーさんは幹部社員を連れて参加してくれました。このときに広州本社での社員向けセミナーを依頼され、2月に広州を訪問しました。初日は本社見学と創業祭参加、2日目は市内の直営店を4店ほど視察してショップ運営についてアドバイス、3日目は幹部20名ほどとの意見交換、そのあと150人の社員にマーチャンダイジングの基本を講演しました。2月後半の広州訪問の寸前もウー社長は数名の社員を連れて来日、このときも銀座で会食しました。東京で珍しく積雪があった夜です。このとき私は皆川明さんのミナペルホネン南青山スパイラルCALLの視察を勧めました。路面でもないビルの5階にあるお店、普通に考えたら客足は見込めない場所なのにCALLはいつも賑わっている、ネット社会では情報発信力さえあれば裏通りでもビルの上層階でも集客することができることを実証する店舗、と説明しました。雪の翌日、ウーさんらはすぐCALLを視察したそうです。そしてまた3月、ウーさんは社員を多数連れて来日、私たちも会食に招待されました。芝公園のお豆腐レストランに入った瞬間、ちょっとびっくり。今回の同行社員は写真のように大半が若い女性でした。彼女たちはネットのインフルエンサーのような存在、それぞれがたくさんのファンを抱え、ネットでゴエリアの商品を紹介して個別に注文をとる、簡単に言えば実店舗でなくネット画面で商品を売る販売員なのです。今回の東京出張は成績上位者のご褒美旅行、日本文化に触れ、早咲きの桜並木を見物、都心でそれぞれ買い物を楽しみ、夕食はみんなで日本食を味わう。こんな機会をくれるんですから、ウーさんは彼女たちにとってありがたい経営者です。お豆腐レストランでの記念撮影写真上下ともミナペルホネンCALLそして、皆川明さんにお願いしてスパイラル開館前に5階ショップをあけてもらい、ウーさんたちは皆川さんから直接お店のコンセプトなどを伺うことができました。ゴエリアが創業29年ならミナペルホネンも同じ創業29年、ウーさんと皆川さんは話が弾んで予定よりも長く面談。ウーさんたちはきっとたくさんの刺激を持ち帰ったことでしょう。ファッションブランドの経営者のとき、私も現場の販売スタッフの人材育成や処遇改善には特に力を入れ取り組みました。販売最前線は貴重な戦力、なのにファッション業界の慣例として販売員のケアは十分ではありません。これはおかしい、なんとか改革しようといろんな手を打ったものです。ウーさんは我々よりももっと販売員をケアしています。店頭の販売スタッフやネットショッピングの販売スタッフに海外視察のチャンスを与え、彼らを刺激する。会食時に若い女性たちは異口同音「ずっとこの会社で働きたい」とコメントしていましたが、本社の社員のみならず販売部門のスタッフにもチャンスを与える経営者、社員から愛されますよね。社員に海外視察で刺激を与える、経費のことを考えると簡単ではありません。が、ゴエリアは何度も東京視察にやってきます。こういう会社の経営者、高く評価したいです。
2024.03.30
初日上海での講演を終えると上海西方の蘇州市のホテルに移動、そこで最大手ニットメーカー「恒源祥」の新年祝賀会に参加しました。翌日は終日セミナーで私が、その翌日は今回も同行した齋藤孝浩さんが担当、丸2日間の長い研修でした。研修会場のHENGLI HOTELロビーかつては手芸用の毛糸を販売していた1927年創業の歴史ある会社、中国政府の解放政策によって民営化され元国営大企業です。フランチャイズ含め中国全土に約6000店の販売網、どんな家庭にも1枚はクローゼットに入っている有名ブランドと教えてもらいました。系列ニット工場や染色工場もたくさん傘下に有しているのでしょう、セミナー参加者は上海本社の社員のみならず、フランチャイズ店や系列工場の経営者も。新年早々こうした社内セミナーを開催とは、人材育成に力を入れている経営者です。私の講演タイトルは「マーチャンダイジングの基本」。顧客分類、商品分類、定数定量管理など長年日本の学校や社内MDスクールで教えてきた「誰に、何を、いくつ売るのか仮説を立てる」をお話しました。上の写真は、常日頃国内の研修で最初の講義で話している「マーチャンダイジングの語源であるマーチャンダイズ(=商品)を掌握するのが最も重要」と投影画像のMERCHANDISINGを指差しながら説明するシーンです。昨年12月杭州セミナーでお世話になった同時通訳の張さんが今回もサポートしてくれ、丁寧に翻訳してくれたようなので助かりました。張さんには国内のMDスクールで受講生に配布しているテキスト全編を事前に送ってあり、私が何を言おうとしているのか十分把握していました。海外セミナーはなんと言っても通訳さんの出来次第、日本語も上手な通訳さんでありがたいです。最後に「意図のある発注方法」と「全員が共有する販売計画」を説明して約6時間の講義は終了。するとリチャード・チン社長から受講者に提案がありました。1テーブルごとに全員で討論して質問を1つに絞り、私が評価する良い質問をした3つのグループには全員にご褒美を提供する、と。15分ほどの短い時間ですがテーブルごとに真剣に議論、各テーブルから1つずつ質問があがりました。顧客年齢が年々高くなるのに対してブランド側はどう対処すべきか。思い切って一気に若返りを目指すべきなのか、それとも現状を維持しながらゆっくり軌道修正すべきなのか。私が奨励するメリハリある発注をしたら売れ残りが出るリスクはないのか。フランチャイズ店(ブランド直営店よりフランチャイズ契約で販売してもらっている店舗の方が多い)の販売員人材に関する問題など、みなさん具体的な質問でした。私が良い質問だなと感心した3つのグループを社長に伝えましたが、果たしてどんなご褒美なのかちょっと気になります。日本視察研修という案も出ていましたから、実現したら素敵です。最後の最後にサプライヤーなのでしょう、家庭用洗濯機で洗えるカシミヤの特許を持つニット工場の若い社長さんから「自分たちが作ったカシミヤセーターを着てほしい」とプレゼントの申し出を受けました。齋藤さんはブラック、私はチャコールグレー、共にクルーネックをお願いしましたからもうすぐ日本に届くと思います。本社所在地は上海ですが蘇州は創業者が生まれた場所、目の前には景勝地でも有名な太湖がある高級ホテルで新年会も含めて3日間の合宿とはかなりの出費でしょう。そこに日本人講師を2人も招聘して研修するんですから素晴らしい試みです。3年後は記念すべき創業100年、ぜひまた来てみたいです。
2024.03.08
I.F.I.ビジネススクールの教え子齋藤孝浩さんの紹介で昨年9月に知り合った中国人コンサルティング金时光(Aaron Jin)さんが企画する2回目の中国研修の旅から戻りました。前回は杭州、寧波で5泊でしたが今回は上海、蘇州、そして飛行機で南に移動して広州で6泊、3都市でセミナーをしてきました。初日の日曜日、上海に到着してすぐ1927年創業の老舗ニットメーカー恒源祥(Heng Yuan Xiang)を訪問、日曜日にもかかわらず社員食堂の奥にある個室で社長ご夫妻らと夕食を共にしました。この会社は元は国営企業、中国のどの家庭にも1枚はセーターがあるはずと言われる最大手、中国オリンピック委員会公式サプライヤーとして選手や役員にユニホームなどを提供しています。Richard Chen社長(左)、齋藤孝浩さん(右)と記念撮影翌月曜日は上海とその周辺のアパレル関係者に向けたセミナー、金さんとパートナーが主催する無料イベントでした。午前中は私、午後は齋藤さんが担当。会場は上海郊外の幕張メッセのようなエリア、カシミヤやウールなど高級ニット糸を世界のトップブランドに供給する会社CONSINEEのショールームでした。ところが、春節休暇で2週間ビルは完全閉館していたので休暇明け初日4階吹き抜けショールームは暖房がなかなか行き渡らず、セミナー参加者はコートを着たまま、私はコートを脱いで講演しました。すると会場を提供してくれたニット糸メーカーの社長さんが自社カシミアマフラーを提供してくれ、さらに参加者のアパレルメーカー女性社長がわざわざダウンジャケットを会社から取り寄せてプレゼントしてくださいました。皆さん親切です。寒い会場でスピーチ開始カシミアマフラーの差し入れがありました寒いのでプレゼントされたダウンジャケット上海セミナーのタイトルは「アパレル産業の課題」上海のセミナーでは、景気が鈍化するとすぐに「原価を下げろ」と言う経営者がいるけれど、それは本当に正しいのだろうか。命令を受け現場スタッフは安い素材の調達に走るが、素材レベルを下げると商品のクオリティーは目に見えて下がる、素材のクオリティーを下げてはならない、素材以外の別のところでコストダウンを図れないか、と事例を出して説明。ミッキー・ドレクスラー氏がGAPグループに参加した当初、彼が指揮してGAPの商品が明らかに良くなってブランドイメージが上がった話、彼が創業者と対立して退任したあとGAPは日本製デニムを使用しなくなり徐々に商品に魅力がなくなったことなどを解説しました。一方、ドレクスラー氏が移籍したJ・クルーは俄然商品のレベルが上がり、日本製デニムを使用していたし復活したリーバイスもユニクロも日本製デニムを使っていると説明。さらに、日本の繊維産地でたびたびユニクロの素材を生産している場面に直面した経験と、ユニクロが良質素材を大量発注することでいかに原価を抑えているかをお話ししました。休憩時間、なんと参加者の上海ユニクロ本部で働く方が「私たちが知らないユニクロのお話が聞けて勉強になりました」、と声をかけてくれました。そうですよね、私たちは北陸産地でも尾州産地でも、そして特殊技術の撚糸工場でもユニクロが素材を調達しているのをこの目で見ていますから、海外のユニクロで働く従業員よりもユニクロのものづくりに詳しいかもしれません。在庫を減らすためには精度の高い発注業務が必要、そしてプロパー(正価販売)消化率をアップするためにアパレル企業は何をすべきか、さらにブランドのDNAを守り続けることがいかに重要なのかを具体的に事例をあげてお話ししました。大量在庫と低いプロパー消化率で消滅していった大手アパレル企業の事例、ブランドDNAを守らないデザイナーが自分の個性を発揮したがって結局ブランドそのものが廃止に至った事例、デザイナーが交代しようとブランドDNAを守り続けブランドを発展させてきたブランドの話も。私が担当する午前の部のあと受講者らとランチ、そのあと齋藤さんの部が始まると私はひと足先に車で蘇州のホテルに移動、前日会食したChen社長の会社の新年会に参加しました。恒源祥の新年会で人事部の責任者から「パンデミックの前に東京であなたの講演を聞きました」とその時の写真を見せてもらいました。2018、19年当時私は頻繁に中国の訪日視察団にセミナーを頼まれていましたが、彼女と同僚も私の講演を東京で聞いてくれたようです。そのときどんなテーマだったのかはもう忘れましたが、こうやって過去に東京で講演を聞いてくれた人と異国の地で再会できるというのは嬉しいですね。数年前に東京のセミナーで人事部責任者と撮影この新年会でちょっと日本では考えられないシーンがありました。会場には幹部社員と共に大株主、外部サプライヤー、業界団体責任者らが招かれていました。日本であれば会社の代表取締役からまず主催者挨拶や乾杯音頭があると思いますが、前身は国営企業だったからなのか新年会挨拶はこの会社に席のある「中国共産党」の女性一人のみでした。労働組合なのかと質問したら、そうではありません。大企業には中国共産党の人間が派遣されているのだそうです。党から派遣されている女性、参加者と同じくお酒も飲みますし我々と個々に乾杯もしてくれます。ごく普通のキャリア女性のようですが、経営陣でもない、労働組合でもない、私たち日本人ビジネスマンには正しく理解できない不思議な存在でした。政治体制も生活様式も日本と違いますからいろんな?マークを経験できて楽しかったです。
2024.03.05
先日、かつて同じ職場で働いた仲間で私が指導する社内研修の教え子、現在は諏訪湖の近くで会社を経営する小畑啓くんから会食のお誘いがありました。なんでも彼の叔父さんがイタリアの由緒あるワイン醸造村「カステッロ・ディ・ルッツァーノ」でワインをつくっていて、それを日本で輸入販売している人を紹介したいとのことでした。待ち合わせ場所は南青山4丁目にあるテーラーDrapper Hope、この店の代表でもある中野洋平さんを訪ねました。中野さんは神奈川県のサッカー高校としても有名な桐光学園の背番号10だったとか。製薬会社勤務を経て突然テーラーを起業したのは、サッカーで鍛えた身体にドンピシャサイズの既製服がなく、オーダーメイドは値段が高過ぎる、もっとリーズナブルなオーダー服をつくりたいという理由から。ファッションの世界での経験はゼロだった人がテーラーを開業とは驚きです。中野さんはご縁があって小畑くんの叔父さんがイタリアワインの販売も手がけることになりました。中野洋平さん(右)と小畑啓さん(中)とビストロで記念撮影南青山のテーラーから西麻布のビストロ「帝国食堂」に移動、美味しい料理と中野さんが持ち込んだワインをたっぷりいただきました。バランスの取れた私好みの白ワイン、早速知り合いのソムリエやレストラン事業者を紹介することに。ワインのことはこちらをのぞいてみてください。ほんとに美味しいです。www.castelloluzzano.itここでの本題はこのワインではありません。小畑くんのご両親のことです。2009年5月、当時私が社長をしていたアパレル企業の株主総会の夜、私は部長以上の幹部およそ20人を銀座7丁目のおでん屋「力」(りき)の2階座敷に集めました。そこそこお酒が入ったところで、「来年社長を退任するぞ」と宣言。業務革新が終わったら雇われマダムを退いて生え抜き社員にバトンタッチするつもりでした。社長就任当初、会議で「定数定量」と私が言えば下を向いてクスクス笑っていた社員たち、マーチャンダイジングの基礎を教え続けたら若手社員でさえ定数定量を意識して仕事をするようになりました。つまり私の役目はそろそろ終わりと思っていました。銀座おでん屋・力でも幹部たちは「冗談でしょ」と知らんぷりでした。が、翌年5月の株主総会の夜は同じ銀座の力で社長退任慰労会でした。前年の宣言通り私は社長退任し、生え抜き社員を後継に指名、総会で正式承認されて肩の荷が下りた楽しい宴席でした。いつも大人数でおしかける私たちをケアしてくれたのが小畑くんの母上。残念ながら数年前に急逝されたと先日聞きました。太平洋戦争の米軍空襲で東京は焦土と化したけれど、銀座はほんの一画だけ焼けずに建物が残りました。その燃えなかった古い1軒家を借りておでん屋をやっていたのが小畑くんの父上、小畑豊さんと奥様。関東風の濃い味ではなく、小畑さんのつくるおでんは昆布の出汁がきいた関西風の優しい味、関西圏生まれの私にはぴったりの味でした。だからことあるごとに利用させてもらいました。小畑豊さんのご先祖が慶應義塾の塾長だった小泉信三さんと関係が深かったことで、小畑さんは幼稚舎からの慶應ボーイ。ところが慶應義塾大学を中退して大阪の有名な料理人「㐂川」店主の上野修三さんに弟子入り、料理の道に転じました。㐂川育ちですから関西風の出汁だったのです。ちなみに啓くんはその頃大阪で生まれ、ご両親の転居で東京育ち、そして大学は私の後輩にあたります。力の小畑ご夫妻1995年、大親友の急逝に直面して私は本当にやりたい仕事をやろうと東京ファッションデザイナー協議会議長を退任。当時松屋社長だった古屋勝彦さんに誘われて百貨店に移籍、社員たちにマーチャンダイジングを教え始めました。外部の人間がそれなりの立場で老舗百貨店の組織に入って業務革新をやろうというのですから、社内にいろんな抵抗や軋轢が生まれます。このとき幹部社員たちとの飲み会に私を何度も誘って融和の機会を与えてくれたのが創業家一族の専務取締役古屋浩吉さんでした。古屋さんには銀座、浅草のお店を何軒も連れていってもらいましたが、そのうちの1軒が銀座の力。古屋浩吉さんはその後松屋社長に就任した後相談役のまま2018年に亡くなりましたが、私はいまも古屋さんに連れていってもらった焼き鳥屋、蕎麦屋、カウンターバーなどに通っています。実は力の小畑豊さんと古屋専務は慶応の同期、いわゆる竹馬の友。啓くんが松屋に就職したのもおそらく古屋専務の勧めがあったからでしょう。私は若手社員が力のご夫婦の息子だと最初は知りませんでしたが、力にお邪魔するたび小畑くんの母上は「うちの息子、ちゃんと仕事していますか?」と声をかけ、啓くんが退社して奥さんの実家の家業を継承するため諏訪に移住したら「ちっとも東京に帰って来ないんですよ」と漏らしていました。寡黙な料理人の父上、客あしらいのうまい明るい母上でした。先日中野さん、小畑くんとの雑談の中で面白いつながりがわかりました。イタリアでワインをつくっている叔父さんの奥様の旧姓を聞いてびっくり、神戸の灘地区で有名な珍しいファミリーネームでした。数年前、かつて古屋浩吉さんに連れて行ってもらった銀座のカウンターだけの小さなバーでのこと、松屋の歴代幹部をよくご存知のママさんと会話する中でお互い会社名を「М社」と言っていたら、隣席の男性客が「すみません。М社は銀座交差点に近い方ですか、それとも遠い方ですか。私のいとこが遠い方のМ社の....」と名刺交換。某大手食品メーカー役員Hさんでした。このHという姓名にピンときました。私をスカウトしてくれた古屋勝彦社長の奥様の母上の旧姓がHです。非常に珍しい姓名なので何代か遡れば小畑くんの叔母さんとは何か関係があるのかもしれません。叔母さんの父親は大手総合商社の元幹部、海外駐在も長く叔母さんは海外で育ったそうですから、きっと灘の富裕層でしょう。小畑くんの父上が慶應で仲良しだったのが古屋浩吉さん、母方の叔母さんの旧姓Hは古屋勝彦夫人の母上の旧姓と同じ、小畑くんによれば彼のご両親も古屋浩吉さんも恐らくご存知なかっただろう、と。ちなみにM社前社長は古屋勝彦夫人の弟である秋田正紀さん(現会長)、現社長の古屋毅彦さんは勝彦夫妻の長男です。さらに、小畑くんと仲良しの格闘家が所属する団体の会長はいろんな大臣を歴任した元代議士の深谷隆司さん、その甥っ子と結婚したのが古屋浩吉さんの次女です。また、小畑豊さんの料理の師匠上野修三さんの共著「酒肴 日本料理」(小畑豊さんが大事にしていた本)のパートナーはテレビでもおなじみ道場六三郎さん、道場さんの孫は私の息子たちの有機栽培農場で働いています。いろんなつながりがあるんです。たまたま元教え子の叔父さんが手がけるイタリアワインを飲むために集まったのですが、いろんな話をするうちに小畑家の「ファミリーヒストリー」(NHK番組)みたいになりました。不思議なつながり、世間はほんと狭いです。
2024.02.23
私がニューヨークで取材活動をしていた頃、米国人気デザイナーブランド御三家はカルバンクライン、ラルフローレン、ペリーエリス(86年急逝。代わって自らのブランドを立ち上げたダナキャランがそのポジションに)でした。ネイビーブルー、チョコレートブラウン、バーガンディーなどシックな色調とミニマリズムを絵に描いたようなシンプルなデザインで、カルバンクラインは社会で成功するキャリアウーマンに絶対的に支持されるブランドでした。話題にもなったブルース・ウエバー撮影の広告そのコレクションもさることながら、カルバンクラインはデザイナージーンズでも、アンダーウエアでも大成功、フレグランスやセカンドラインのCKカルバンクラインのビジネスも軌道に乗せました。しかしながらコレクションブランドは数年前に販売中止、アンダーウエアなど一部ライセンスブランドだけが市場に残る形になってしまいました。寂しいことに、現在もデザイナーブランド市場で存在感を保っている御三家ブランドはラルフローレンのみです。私はニューヨーク在住時代から今日までずっとカルバンクラインの白無地クルーネックTシャツ(ライセンス商品)を愛用してきました。帰国して米国出張するたび、ブルーミングデールズ百貨店地下メンズウエア売り場で3枚入りパックを2,3個購入、出張に持参した古いTシャツはホテルのごみ箱に捨てて帰る、そんなパターンを四半世紀以上続けました。ところが新型コロナウイルスで出張不可、愛用するカルバンクラインTシャツを現地で新旧入れ替えることができず、仕方なしに日本でネット通販してみようと検索したら、入手できるのはVネックのみ、クルーネックは入手できません。大きなロゴの入ったデザインものクルーネックはありますが、長年愛用してきた白無地クルーネックは販売していないのです。お気に入りの白無地クルーネックTシャツ日本では夏のクールビズ対応でネクタイをせずにシャツの第一ボタンを外すビジネスマンが増えたからでしょうか、クルーネックは過去の遺物となり、Vネックだけの販売になってしまいました。白無地クルーネックを探すのはたぶんほんの一握り、私のようなおかしな消費者だけでしょう。個人的にTシャツには思い入れがあります。何度洗濯してもリブがピシッと元気なTシャツは好きでありません。日本製のTシャツには案外この手のしっかり品質が多い。何度も洗ううちにクルーネックのリブが弛んでちょっとヨレヨレになる感じ、あれが私のイメージする本来のTシャツ、カルバンクラインの白無地クルーネックはまさしくヨレヨレになるんです。だからずっとTシャツだけはカルバンクラインにこだわってきました。ほかのブランドに白無地クルーネックで微妙にヨレヨレになるものがあれば、別にカルバンクラインでなくてもいいんです。Vネックは嫌い、大きなロゴ入りも嫌い、仕方なく米国ネットブランドEVERLANEで白無地クルーネックTシャツを購入しました。が、リブの感じもボディーの素材もしっかりしていて私好みではありません。言い換えれば、その質感が長年愛用してきたカルバンクラインより良過ぎてヨレヨレになりそうもありません。個人的に大きな柄入りクルーネックは要りませんそんな話を数日前Facebookにあげたところ、たまたまビジネススクールの元教え子で元部下がニューヨーク出張中だったので、ブルーミングデールズで例の3枚入りを2パック買ってきてくれました。手に取ったらまさしく30年余着続けてきた触感、本当にありがたいです。数年前までカルバンクライン白無地クルーネック3枚入りパックは30ドルほど、当時の為替レートでは1枚1200円程度でしたが、原料高騰と為替変動で1枚2300円になってしまいました。ほかのブランドでは得られない満足感ですから、決して高いとは思いません。値段のことより、ファッションブランドの関係者にお願いしたいのは、改良に改良を重ねてブランドの顔になった「安心の定番商品」はずっと作り続けてもらえないか、です。色を加え、ロゴ入りデザインを増やし、襟の形も変え、フィット感と素材などにも変化をつけたい生産者側のお気持ちはわかりますが、消費者が信頼する永遠の定番商品があってもいいのではないでしょうか。クルーネックのごく普通の白無地Tシャツ、ロングセラー商品として永遠の定番扱いにしてもらいたいですよね。考えてみれば、春先にラルフローレンのお店に行けば必ずチノパンがあり、夏には無地ポロシャツが多色ずらり、秋になればチェックのネルシャツが並びます。毎年すべて同じ色、同じ柄、同じ素材、同じ寸法ではなく、色に微妙な変化もあれば、サイズに数ミリの違いはあります。が、それでも消費者からすれば必ず店頭に登場する定番アイテムがの安心感があります。もちろん変化がないとマンネリに感じる人も中にはいるでしょうが、この安心感があるからこそラルフローレンは半世紀以上も米国を代表するブランドとして長く続けてこれたのではないでしょうか。これもブルース・ウエバーによる広告デザイナー系ブランドにとってシーズンごとに新しい何かを提案するのは重要なことですが、同時に顧客に長く愛される定番商品を微妙な修正を感じさせずに維持することもブランドビジネスには重要なことだと思います。元シャネル日本法人社長だったリシャール・コラスさんから聞いたことがあります。シャネルの永遠のヒット香水「シャネル5番」(発売から100年以上経過)、時代の流れに沿って少しずつボトルデザインを変化させているけれど、恐らく多くのお客様はその変化に気がついていない、と。フレグランスの世界でシャネル5番は特別な存在ですが、大きなモデルチェンジをせずに来たから保てたポジションと言えるのではないでしょうか。たかがTシャツ1枚のことなんですが、ブランドビジネスにとって重要なこと。どこにでもありそうな白無地クルーネックTシャツ、カルバンクライン社がシャネル5番のように注意深くケアして永遠の定番にポジショニングしていたら、創業デザイナーがまだ存命なのにコレクション市場からこんなに早く消えるようなことはなかったのではと私は思います。ど定番のTシャツ、ライセンス商品であっても大事に継続して欲しいです。
2024.02.10
昔から、これと決めたブランドとはかなり長く付き合い、同じブランドのものをずっと買い続けてきました。アンダーウエア(カルバンクライン)や靴下(ラルフローレン)からカーディガン(プレイまたはオム・コムデギャルソン)、コート(ジルサンダー)、カジュアルパンツ(バナナリパブリック)、バッグ(プラダのナイロン製)、靴(トッズ)、四半世紀ほぼ同じブランドで通してきました。セットアップとシャツは1980年代から長らくコムデギャルソン・オムを愛用してきましたが、ブランド側のシルエット変更(丸くゆったりだったのがタイトフィットになった)があってからギブアップせざるを得なくなり、セットアップとシャツは自分用のものを特別に誂えるようになりました。だから、自分の服を新しく買うためにブラブラ紳士服売り場を歩くなんてことはほとんどありません。売り場に行くときはマイブランドの売り場に行って必要なアイテムを買ってすぐ帰ります。マーケティングのためレディース関連の売り場は頻繁に歩きますが、正直言ってメンズ売り場をウインドーショッピングすることははほとんどありませんでした。4半世紀以上浮気することなく靴はずっとトッズでしたが、adidasスニーカーを履くようになってその快適さにいまごろ目覚め、スニーカーと調和が取れる服を探す必要に迫られ、最近はまめにメンズ売り場を回るようになりました。スニーカーもadidas以外のブランドにもチャレンジしてみようと手を広げ、初めてNIKEをネットで購入。一消費者の目線でメンズ売り場を歩いて気がついたこと、「値段が随分上がってるなあ」です。先月某百貨店メンズ館で気になったジャパンブランドのシャツ、お値段が58,000円の表記に「高いっ」と思いましたが、よく見るとこれはピンク色値札、つまり秋冬セール価格。プロパー価格を見てさらにびっくり仰天、なんと繊細な細番手素材でもないのに97,000円でした。複数の素材を縫い合わせているデザインですが、数年前ならこの種のシャツは50,000円未満だったはず、それがプロパー価格97,000円とはあまりに高すぎます。セールでも私には高すぎる、試着する気力もなくなり売り場を離れました。ジャパンブランドがこんなに高騰してるのであれば、円安の影響を受ける海外人気ブランドのシャツはどうなっているんだろうと某イタリアブランドのネット通販サイトを調べると「フリンジ付きプリントコットンシャツ」がなんと638,000円。正直、こんな値段のシャツを誰が買うんだろう、です。私には値段と価値のバランスが異常としか言いようがありません。円安の影響もあるんでしょうが、この価格をつけて日本市場で売り出すジャパン社の勇気(あるいは自惚れ)、すごいですねえ。考えてみれば、海外ラグジュアリーブランドのキャンバスバッグでさえ円安影響を受けて昨年からとんでもない価格に設定されています。レザーじゃなくブランドロゴが入ったキャンバスバッグがほぼ50万円。顔見知りのイタリアブランドの販売スタッフがこんなことを漏らしていました。「キャンバスですよ◯◯さん(フランスのブランド名)、このお値段で販売していいんだろうかと正直思います。でも、うちもそこまで高くはありませんが、もうエントランス価格とは言えないお値段なんですよ」、と。しかしながら、とんでもない価格になろうが海外ラグジュアリーブランドは順調に売上を伸ばしています。コロナ禍で減少していたインバウンドの売上はほぼコロナ以前に戻り、インバウンド客の旺盛な消費もあって価格高騰は特に問題視されていません。果たしてこの上り調子はしばらく続くのでしょうか。海外ラグジュアリーブランドの小型バッグ、若い消費者のために20万円を切るエントランス商品を用意していた数年前が懐かしいですね。中国景気が悪いと言われていますが、中国からの若年層インバウンドは有名ブランドの大きなショッパーを抱えて歩いています。今日も銀座の歩行者天国の主役は完全に中国系の若いお客様、本格的な春節(今年は2月10日)バカンスはこれからですから、中国は報道の通り本当に不景気なのかどうか今日の銀座を見ると疑問に思います。日本ではこの1年生活必需品が相当高騰していますが、ファッション商品の価格の上昇はそれ以上に値上がり、ジャパンブランドであれ外資ブランドであれちょっと異常レベルではないでしょうか。2020年新型コロナウイルス騒動の前のほぼ2倍になった商品は少なくありませんから。「売れてるからいいんじゃないの」と言われそうですが、本当にこの状態でいいのかどうか。ここは、価格高騰についてこれない消費者にはユニクロもGUも無印良品もあると理解すべきなんでしょうかね。私、最近履きやすいスニーカーに目覚めて結果的には良かったのかもしれません。普通のadidasならトッズの値段で5足以上買えますから。(写真は全て2023年12月中国杭州、寧波で撮影)
2024.02.03
円安の影響はかなりあるのでしょう、物価の上昇が止まりません。春物商品が並び始めた売り場を歩いて感じるのは「随分高くなったなあ」。コロナ禍以前インポートブランドのナイロン地やキャンバス地小型バッグは20万円程度、若年層にはちょっと背伸びすれば手が届くエントランス価格でした。が、いまやエントランスは30万円、ブランドロゴが入ったキャンバストートはちょっと信じられない高価格になりました。 スーパーマーケットでもこの1年間食料品値上げラッシュ、誰もが物価高を実感する世の中。数年前までデフレ脱却は経済政策のキーワードでしたが、今度は一転してインフレ抑制が重要なテーマに。政府は企業側に賃上げを呼びかけ、経済団体はこれにある程度応じる構え、労働組合は今春闘は強気な姿勢。果たして物価上昇を上回る賃上げは実現するのでしょうか。 何度もSNSやこのブログで指摘してきましたが、日本のアニメ漫画は世界で高く評価されているものの、儲けは日本側に入らず海外勢が儲けるだけ、いつまでたっても制作現場は低賃金と不当な残業で「ブラック」です。日本側がしっかり権利主張して儲けを取り戻し、制作現場の処遇改善を進めてブラック企業からの脱却を実現して初めて「クールジャパン」と言えるのであって、海外勢を儲けさせるだけではいくらコンテンツが高付加価値でもクールじゃないです。 C F D(東京ファッションデザイナー協議会)の事務局を預かってファッション流通業界にいろんな提言をしているとき、デザインの盗用問題と共に販売員の処遇改善の呼びかけには力を入れました。ちょうど「夜霧のハウスマヌカン」というファッションブランドの販売員の日常を皮肉った歌がヒット、これにはものすごい抵抗がありました。真面目に働く販売員がいっぱいいるのに彼らをからかう歌、業界人の一人として腹がたちましたが、同時にその原因は業界側にもあると思いました。 このブログを書き始めた頃、ある大手アパレル企業で息子が働いているという女性から突然メールを頂戴しました。都内有名私立大学を卒業して大手企業に就職、これでやっと親の仕送りを終えることができると思ったら、社会人1年生の息子から仕送り継続を頼まれたとか。息子に状況確認したら、最初は店頭で販売職からスタート、試着販売のため会社から支給されるユニホーム用以外に自社商品を購入せねばならず、給料から天引きされると毎月手取りはほとんどゼロ。試着販売の服を買わせて社員の手取りがほとんどないなんてブラック企業ではないでしょうか、そんな内容のメールでした。 私は「そうですね」と同意するしかありませんでした。これが、私の関係する企業に対するご批判であれば、しっかり反論しました。なぜなら、われわれは試着販売の服を社員に負担させないようルールを改善、総合職と販売職の給与格差の是正に取り組んでいましたから。他社のことは内情をよく知らずに説明できませんので、曖昧な返信を差し上げたと記憶しています。おそらくファッション企業で子供が働く親御さん、同じ思いの方はいまも多いのではないでしょうか 一般的にファッション流通企業では総合職と販売職をわけ、処遇の差も明確に提示して新卒採用します。入社時から両者の給与格差は明白なのでしょうが、どうして総合職の方が初任給は多いのでしょうか。総合職と販売職を分けることさえ私は意味があるとは思えないのです。 自分が責任者のとき、総合職採用も1年程度は全員が店頭での販売業務(これが嫌ならどうぞ他社を受験してくださいという姿勢)、また本社M Dや販促担当などは販売経験のある社員をどんどん抜擢する仕組みに改善しました。だから総合職と販売職の給与をわける意味がありません。財源が必要なので時間はかかりましたが、給与体系一本化に向けてみんなで努力したものです。(その後のことはわかりません) 販売員にはよく言いました。「自動販売機でも販売はできる」と。ファッション販売のプロとなって発注に責任を持ち、マーチャンダイジングの知識を持って仕事してくださいとも言いました。店長に発注権を渡したのも、マーチャンダイジングをゼミ形式で丁寧に教えたのも、販売の仕事を変えたかったから。精度の高い発注ができて店頭で良いチームを作れる店長はプロ、それなりに処遇するのは企業として当然と幹部たちには言い続けました。だから他の会社に比べると販売職の研修は充実、素晴らしい発注をさらりとやってのける店長が増え、高いプロパー消化率を維持できました。 百貨店に復帰してお取引先の店長さんにマーチャンダイジング講座を開いたとき、あるファッションブランドの店長さんからこんなことを言われました。「◯◯◯(私が所属した会社)のショップはどこか違うと感じていましたが、講座に参加してその理由がわかりました」、と。「どこか違う」と感じていた競合ブランド店長さんがいたと知ってものすごく嬉しかったですね。 そもそも総合職って何なんでしょう。近年は売り場をほとんど回らず、デスクのパソコンをパチパチしてるのか会議ばかりしてる人が増えたと感じます。アパレルメーカーの営業担当と売り場で出会う機会は極端に減りました。幹部の大半が営業部門の総合職という企業はいまも多いでしょうが、それでは時代が読めず世界のブランドと戦えないのではないでしょうか。改めて思うのです、総合職と販売職をわけて採用すること自体そろそろ再考してみては、と。でないとずっと本社や営業所のデスクにいて売り場に関心持たない社員が増えるのではないでしょうか。加えて、人口減少の中、社員の定年延長も真剣に考える時期ではと思います。ミナペルホネンが高齢者を新たに販売員採用して話題になりましたが、経験豊富な販売員は相当な戦力になるはずです。欧米のようにキャリアの長い販売員が売り場にいるとショップ全体に安心感が生まれると思います。ミナペルホネンに続く会社が現れるといいんですが。
2024.01.29
能登半島の余震、なかなかおさまりません。連日テレビ画面上部に地震速報のテロップが現れるたび、東京で揺れは感じませんがドキッとします。地元中学生の集団疎開、勉強できる環境を求めて参加した生徒もいれば、地元から離れたくないと避難所に残った生徒もいて、中学生社会の分断に心が痛みます。震災後自分たちは何ができるのか、やれることをやってみようと動いたことが過去二度あります。1995年の阪神淡路大震災、東京ファッションデザイナー協議会議長としての最後の仕事は有料チャリティーファッションショーを企画して収益と募金を被災地に贈ることでした。デザイナーの皆さんはそれぞれの個性を表現しにくいジョイントショーは大嫌い、でも今回だけは黙って参加してくださいと呼びかけてどうにか実現しました。東日本大震災直後救済イベントのビジュアル2011年百貨店に復帰した直後の東日本大震災、被災地のためにみんなで被災地救済チャリティーを企画、地震の1カ月後に全館あげての救済イベントを実施しました。正面ウインドーに貼った全社員の被災地に向けた多数のメッセージカードを写メしながら涙を流すお客様、東北の食材を買い物カゴに入れながら「被災地のためになるのよね」と涙を浮かべながらお買い物されるお客様には心打たれました。このときルイヴィトンのマーク・ジェイコブスさん、靴デザインのクリスチャン・ルブタンさん、日本では山本耀司さんなど世界各国デザイナーがチャリティーオークションに協力してくれました。イベントのことをネットで知った南相馬の避難所暮らしの女性から感謝のメッセージをいただき、社員からは「この会社で働いていることを誇りに思います」と泣けてくるメールをもらい、私も感動させてもらいました。「百貨店にはまだやれることがある」とチャリティーイベントの模様を長年のライバル店幹部に伝え、一緒にファッションイベントを始めたのも大震災直後の救済チャリティーがきっかけでした。GINZA FASHION WEEKのウインドー能登半島の惨状を見るにつけ、ファッション流通業界は何ができるんだろうと考えさせられます。被災地には世界に誇る繊維産業がありますし、ハイレベルな衣食住関連商品を長年作ってきた工房や工場も多数。生地を織れなくなった繊維会社、醸造が困難になった蔵元、津波で魚市場や水産加工所が被害にあって魚介類を全国に送れなくなった漁業組合、彼らのため我々にできることは何なのか、みんなで考えたいですね。 * * * * * 昨年12月の杭州でのセミナーさて、12月杭州で中国ファッション業界の経営者たちに向けてセミナーをやらせてもらいましたが、それがご縁で2月下旬に上海と広州を訪問することになりました。2月中旬はお正月にあたる春節、中国企業のほとんどはお休みになり、多くの中国人は旅行に出ます。なのでセミナー時に投影するテキストを早めに制作して春節前に現地通訳さんに翻訳してもらわねばなりません。ここ数日はその資料作りに没頭、やっと完成したのでセミナー主催者にメール送信しました。今回は普段日本で指導している「マーチャンダイジングの基礎」を中心に講演します。誰に、何を、どのように、いくつ販売するつもりなのか仮説を立て、販売計画をみんなで話し合って能動的販売を心がけましょうというストーリー。前回杭州でお世話になった素晴らしい通訳さんが再度手伝ってくださると伺ってますので、前回以上に私の意図を理解して訳してくれるはず。海外セミナーは通訳さんの出来不出来で成果は決まりますから心強いです。先日お会いしたテキスタイル業界の重鎮と中国ファッション企業の経営者たちのことが話題になりました。プレミアムテキスタイル展ベストニットセレクション展これまで日本でもたくさんセミナーや社内研修を引き受けてきましたが、概して日本では最後の質疑応答は形式的、経営者は「いいお話を伺いました」とは言ってくれますが次のアクションはほとんど何もありません。一方の中国は質疑応答は司会者が止めなければ延々と続き、その場にいた経営者は「もっと教えてもらえませんか」、「今度はわが社の社員に研修してくれませんか」と積極的。このリアクションの差はなんでしょう、という話になりました。創業10年足らずの新興ベンチャー企業数社がしのぎを削って電気自動車を一気に普及させた中国に対し、日本では電気自動車の普及は大幅に遅れている。経営者の改善しようとする情熱、探求心あるいは時代を読む力の違いでしょうか。先月杭州での講演と同じ話をもしも日本でやったとしても、中国のようにその続きを講演依頼する会社は恐らく現れないでしょう。来月の中国出張ではバージョンアップした次のレベルの話をせねばと、前回以上に一生懸命テキストを作りました。仮に来月の講義が及第点ならばそのまた次の要請が来るでしょうし、彼らの胸に刺さらなければ次の話は全くないと思います。言い方を換えれば、中国は「いいお話を伺いました」で終わる社会ではなく、ビジネス講演でさえ真剣勝負、スピーチする側には緊迫感がつきものなんでしょう。大学卒業後渡米してから私は組織人でなく一匹オオカミとして仕事をしてきたので、案外中国社会とは肌が合うかもしれません。振り返ってみれば、これまで日本では「空約束」を何度も経験しました。お会いするたび「今度ぜひお話を伺いたい」や「今度ぜひ一献」と言ってくださる企業や組織の幹部は多いんですが、その大半は実現しないまま。もちろん中にはそういう挨拶を交わした翌日すぐ連絡があって研修の依頼や会食アポが入ったケースはありましたが、あいさつ代わりに言っただけというケースはかなり多かった。帰国してデザイナー協議会を始めた頃は私も若かったので、そのお誘い言葉は単なる社交辞令、その気はさらさらないとは知りませんでした。大人たちの空約束や、こちらがあまりに若過ぎてアポのお偉いさんがしらけた顔をするケースが頻繁だったので、私はあえてネクタイの着用を止め年中ノータイスタイルになりました。若造がノータイで面会の場に現れるとムッとした表情になるお偉いさんたち、彼らにあれこれ説明したり協力要請するのは時間の無駄、こういう人ならさっさと面談を切り上げたものです。当時は若かったので相手にされないのも無理ありませんが、ベテランになってからも空約束や社交辞令は続きましたから日本のビジネス界の習慣なんでしょう。ポリエステルメーカーの工場前述のテキスタイル業界の重鎮に申し上げました。中国にはもっと日本の素材を起用して上質なファッション商品を作ってみたいと考える経営者もいます。彼らに日本素材の起用を促す具体的な仕掛けを業界全体で考えるべき時期に来ている。市場規模を考えても、日本企業の将来性を考えても、やる気のある中国企業に本気で売り込む体制作りに早く取り組むべき、と。セミナーのあとのリアクションのスピードを見ればやる気のある中国企業と向き合う方がテキスタイルメーカーにはプラスです。能登地震被災地は世界にその技術を誇る合繊生産拠点も含まれます。被災地支援のためにも、海外バイヤー招聘予算を持っている公的機関、テキスタイル展やニット展示会の運営関係者には、リアクションのスピードが速く市場規模の大きな国への訴求策を具体的に考えて欲しいです。
2024.01.20
前項「社員のお母さん」が1970年に自宅で起業したのは30歳になるかならないか、会社経営を学校で学んだわけでもないし、当時はまだ男性社会で苦労も多かったはず。しかも創業の翌年早くも三宅一生さんはニューヨークでデビュー、73年にはパリコレ進出、きっと資金繰りも大変だったでしょう。出産前の大きなお腹を抱えて資金調達に関西出張した話を小室さんから伺いました。いつの時代もいかなるジャンルでも先駆者はお手本がないので苦労の連続です。小室知子さん(ソルトンセサミお仲間のブログから引用)ソルトンセサミのお仲間と。右から2番目が小室さん。CFD(東京ファッションデザイナー協議会)を設立してちょうど1年経過した頃、私がニューヨークのパーソンズ(PARSONS SCHOOLF DESIGN)夜間バイヤー養成プログラムで学んだことを日本の若者にも伝えようと、個人的な勉強会「月曜会」を開講しました。ここで一番伝えたかったことは、「売り場を歩いて時代の変化に敏感になる」でした。パーソンズで「敵情視察」(2つの店を調べて比較分析、改善点を考える訓練)の宿題が一番きつかったし、同時に人生で最も役に立った講義、これを日本でも教えようと私塾を始めたのです。月曜会の授業料は無料、週一度講義があり、宿題もたっぷり出す。外部講師への謝金は私が業界セミナーで得た講演料でカバー、会場はCFD会議室を使用するので無料。受講生は一般公募、その告知は夏休み期間中に繊研新聞に記事掲載してもらいました。普通に募集すれば職場や学校で記事が目に留まることもあるでしょうが、夏休みならば自宅購読していないと気がつきません。せめて専門紙の1つくらいは自宅で読んでいるやる気のある若者を集めたかったので、あえて夏休みに募集しました。選抜レポートで応募者の中から参加者を決めましたが、正直に言えば毎回1枠だけ例外がありました。CFDの運営で何かと私の力になってくれる小室知子さんの推薦枠、小室さんが指名したイッセイグループの若者が毎回1人参加していました。当時主にショップデザインを担当していた吉岡徳仁さん、滝沢直己さんのイッセイミヤケで雑貨デザインを担当した小此木達也さん、独立後バッグブランドMagnu(マヌー)を手掛けた伊藤卓哉さん、彼らは特別枠での参加でした。吉岡徳仁さんはユニークな存在でした。宿題とは別に毎回全受講生には感想文を提出してもらうんですが、彼だけは毎回文章の代わりに詩を書いてきました。外部講師の話に対して自分なりに感じたことを詩に書く、それがなかなかマトを得ていて説得力あるものでした。昨秋の毎日ファッション大賞授賞式で彼とは久しぶりに会いましたが(同賞トロフィーは吉岡さんデザイン)、「太田さんの顔を見たら月曜会を思い出しました。楽しかったですよね」、と。彼の詩に「楽しい」の文字は見たことなかったですが、懐かしそうに声をかけてくれて嬉しかったです。もうひとりバオバオイッセイミヤケのバッグを考案した松村光さんも参加者でした。彼はすでに三宅デザイン事務所に在籍して小室さんの推薦だったのか、それともまだ武蔵野美術大学大学院生で自主応募だったのか忘れましたが、彼も月曜会の塾生でした。デザイナーのほかにも素材メーカーや小売店勤務、ショーのプロデュース会社やデザイナーアパレルで中核メンバーとして活躍している教え子もいます。CFD事務局で開催する無料の私塾、会員企業の従業員が参加してもいいんですが、CFDのほかの会員企業は興味がなかったようで頼まれることはありませんでした。また、私たちが設立に奔走したIFIビジネススクール(1994年秋開講)の夜間プロフェッショナルコースにも、イッセイグループ社員(エイネット含む)が毎回参加していました。こちらは授業料有料、参加のための審査はありません。小室さんはこういう場で若い社員が刺激を受け、他社の人たちと交流して視野を広げることが重要とお考えだったのでしょう。ビジネススクールに毎回若手社員を送ってきたブランド企業はイッセイミヤケグループだけでした。山中IFI理事長(中央)の背後にイッセイグループ社員主だったファッションブランドは年2回はコレクション発表(メンズ、レディース両方を展開するブランドは年4回)があり、コレクション発表直前と展示会準備で企画部門も営業部門も残業が当たり前、中にはタイムカードなしのサービス残業をさせるブラック企業も少なくありません。だから従業員は自己啓発の機会が少ない。これでは視野の広い人材、人脈ネットワークのある人材はなかなか育ちません。サービス残業はもってのほか、ブランド企業幹部は残業をやめさせ、社員を時間通りに解放して自己啓発や他社との交流の時間を与えるべきだと思います。せっかくファッション流通業界の人材育成のためにビジネススクールを作っても(設立に奔走していた私は当時CFD議長)、ファッションブランド企業からの受講生はほとんどなく、イッセイグループの社員たちだけが参加者でした。世界的に知名度の高いブランド企業の創業者が若い従業員を私設勉強会やビジネススクールに送り込んで経験を積ませる、ブランド企業の幹部にはぜひ考えて欲しいことです。本来、企業はヒト、モノ、カネの順。近年はカネ、モノ、ヒトの順と考える経営者は決して少なくないように感じますし、クリエーションが重要なブランド企業はまず最初にモノありきかもしれません。が、いくらアトリエのクリエーションが秀逸でも、ヒトを育てないことには企業の発展はありません。小室さんはグループのお母さんとして多くの子供たちにチャンスを与えてきました。加えて、自宅に若い社員たちを呼んでは社員たちの忌憚のない意見をよく聞いていましたし、グループから独立した社員たちが開く展示会には頻繁に足を運んで励まし、応援のために個人発注もされていました。もちろんグループの発展には歴史に名を残すカリスマデザイナーの存在が大きかったし、ほかに優れたテキスタイルデザイナーや熟練パタンナーの存在もありましたが、人材育成に熱心だった創業マネージャーの存在も大きかったと思います。グループ卒業生がファッション業界でたくさん活躍しているのも、ヒトに学ぶチャンスを与えてきたからではないでしょうか。
2024.01.14
能登半島地震の被害者の皆様の労苦をニュースで見るたび心が痛みます。いまも強い余震が続き、断水に停電、道路は遮断されて救援物資は届かず、かなり厳しい状況に変わりありません。1日も早い復旧をお祈りします。年明け早々写真家篠山紀信さんの訃報が届きました。そして、篠山紀信さんの名前を聞くと反射的に思い出す方がいます。三宅一生さん(1938年ー2022年)の創業パートナー小室知子さん。このブログ「交友録40」でも少し触れましたが、私が尊敬するファッション業界人のお一人。イッセイミヤケグループの「落穂拾い」を自認、グループの扇の要であり、社員たちにはお母さんのような存在です。(右)小室知子さん(中)資生堂池田守男さん 1997年撮影まだ米国まで直行便が飛んでいなかった時代、小室さんはメーキャップアーチストを目指して米国西海岸に留学するはずでした。ところがいまで言う留学詐欺に引っ掛かり、現地入りするも目指す学校には入学できなかったそうです。せっかく米国に渡ったのだから1年くらいは住んでみようと遊学を決め、帰国して講談社の女性誌編集長と出会ってファッションページを担当する仕事に。その頃多摩美術大学を卒業してフリーランスだったパリ留学前の三宅一生さんと出会います。帰国後小室さんが関わった女性誌表紙アンアン、ノンノが発行されていなかった頃の女性誌は巻頭カラーの数ページをファッションにあてていました。婦人服メーカーや小売店、ファッションデザイナーの作品を紹介する巻頭ページに大学を卒業したばかりの三宅さんに声をかけましたが、個人で服を作っている青年にはサンプルを制作する十分な資金がありません。企業やすでに活躍しているデザイナーから撮影用サンプルを無償提供されるのが当たり前だった時代、「制作費はどうなるんですか」の三宅さんの質問にはハッとしたそうです。このやりとりで小室さんにははっきり記憶に残るデザイナーとなりました。その後、三宅さんは鯨岡阿美子さんらに勧められてパリのオートクチュール協会が主宰するモード学校に留学、オートクチュールメゾンのジバンシイやギラロッシュでアシスタントとして働きます。1968年三宅さんはパリ五月革命に遭遇して「特権階級のためのオートクチュールでなく、一般市民のための既製服を作ろう」と時代の変化を感じてニューヨークに移り、米国トップデザイナーのジェフリービーンで既製服作りを体験して帰国しました。一方の小室さんは雑誌の世界からスタイリストとして広告業界に身を置きます。天才CM作家としていまでも語られる杉山登志さん(1936年〜1973年。「リッチでないのに リッチな世界などわかりません ハッピーでないのに ハッピーな世界などわかりません」という遺書を残して自殺)や、カメラマンの横須賀功光さん(1937年ー2003年)と組んで資生堂などのTVコマーシャルや広告写真撮影に携わっていました。ちなみに「貼っても貼ってもすぐ盗まれるポスター」第1号は前田美波里がモデルとなった資生堂のポスター(写真下)、そのスチールは横須賀さん、映像は杉山さん、スタイリストは小室さんでした。前田美波里を起用した資生堂ポスター(撮影:横須賀功光)そして、湘南海岸で運命の再会。湘南に遊びに行った小室さんは、あの青年デザイナーとバッタリ遭遇します。いずれ日本でデザイン会社を作りたいと三宅さんから抱負を聞いた小室さんは、仕事仲間だったカメラマンたちに出資協力を呼びかけ、下落合の自宅マンションを登記所在地に1970年株式会社三宅デザイン事務所を設立します。このとき小室さんは弱冠30歳寸前、新進気鋭の写真家だった横須賀功光さんや篠山紀信さんよりも若い女性、思い切った決断でした。もうひとつエピソードを。杉山登志さんと共に旭化成のCM撮影地で小室さんは宣伝部の女性社員から「どうやったらスタイリストになれますか?」と声をかけられます。それから数年後小室さんが彼女の姿を再び見かけたのは、最初に三宅デザイン事務所がオフィスを構えた赤坂の小さなマンションでした。なんと上層階であのときの女性は一足早くファッションブランドを立ち上げていたのです。誰だかもうおわかりですよね。世界の次世代デザイナーたちに多大な影響を与えたジャパンブランド2つは偶然にも同じマンションにオフィスがありました。1970年に創業、翌年にはニューヨークでコレクション発表、1973年にはパリコレに参加してイッセイミヤケの名前はあっという間に世界で知られるようになりました。三宅デザイン事務所には多くのデザイナーやパタンナー、テキスタイルデザイナーが集まり、巣立って行きましたが、グループを卒業した後も小室さんはずっと目をかけていました。なので退職して時間が経過しても卒業生たちにはお母さんのままでした。1985年東京ファッションデザイナー協議会が発足、このとき事務所探しはじめいろんな相談に乗ってくれたのが小室さんでした。協議会事務局を預かる私のところにはたくさんのデザイナーやアパレル企業幹部が契約解消や新ブランド立ち上げの相談にやってきました。このとき私が「これをテキストと思って読んでください」と渡していたのが、三宅デザイン事務所創業15年の85年に旺文社から出版された「一生たち」、小室さんの思いが詰まった本でした。旺文社「一生たち」この本は三宅さんのクリエーションではなく、デザイン事務所で働く全員のインタビューが収録され、いろんな立場の人がそれぞれ役割を担っていることがよくわかる解説書、言い換えればデザイン会社の企業秘密を公開したような内容でした。デザイナー個人の才能だけではブランドビジネスは成立しない、チームとしての組織力が成功には不可欠と教えてくれるバイブル、だから私は訪ねてくる若いデザイナーたちにこれを配りました。1985年当時はバブル時代のど真ん中、簡単にブランドビジネスできると勘違いしていた若者や企業が多く、業界全体が浮き足立っていましたから。協議会の運営方針やメディア対応などで三宅さんと私が意見衝突すると、三宅さんのパートナーである小室さんは私の主張を入れてよく三宅さんを説得してくれました。時には副社長辞任を申し出て部外者の私をかばってくれました。デザイナー企業では創業デザイナーのイエスマン幹部がほとんどでしたが、小室さんのおかげで三宅さんとは衝突してもすぐ和解できました。だから私は長きにわたり年長の三宅さんと遠慮なく話せる関係でいられたのです。三宅さんと小室さんは、天才ミュージシャンとバックステージの敏腕マネージャーのような関係だったと思います。「三宅の夢を実現するために私たちは働いています」、このフレーズを何度も聞きましたが、小室さんは黒子に徹してご自身はほとんど表には出てきません。だからマスコミ関係者はイッセイグループにおける小室さんの役割、存在価値をほとんど知らなかったのではないでしょうか。すでに三宅さんはこの世になく、創業当時からブランドが世界で認知されるまでのプロセスは小室さんしかわかりません。ファッション業界全体のためにも、黎明期のデザイナービジネスの扇の要がお元気なうちにどなたかインタビューして1冊にまとめてくれないでしょうか。大切な秘話がいっぱい出てくると思いますが....。
2024.01.06
今日は地下鉄銀座線も日本橋、銀座の通りも百貨店の地上階もアジア系外国人でいっぱい、耳に入ってくる言葉は日本語ではありません。人気ラグジュアリーブランドの路面店やインショップではインバウンド客の行列が当たり前、ものすごい購買欲です。インバウンド客にとっては円安天国、買い物しても高級レストランで食事してもいまは値段の安さを実感するでしょう。かつて1ドル80円台の時代、私たちはニューヨークでもパリでも強い日本円の恩恵を受けましたが、いまはその逆です。シャネル路面店の行列インショップのシャネルにも行列ルイヴィトンもラグジュアリーはインバウンド人気ロンドンのハロッズはロシア系と中東系のお金持ちが多く、売り場ではほとんど英会話は耳に入ってこなかったことがありました。ニューヨークのサックスでは巻き舌スパニッシュアクセントの日焼けした奥様たちが高級婦人靴売り場のソファに腰を下ろし、クリスチャンルブタンやロジェヴィヴィエの靴箱をどんどん積み上げていく光景を何度も目撃しました。パリのギャラリーラファイエットは中国人観光客の団体さんがブランドショップの前で行列、ここは本当にフランスなのかという空気でした。なので東京の中心部で日本語以上に外国の言葉が耳に入ってくるのはごく普通の光景と言うべきでしょう。恐らく世界の主要都市の中心部にある商業施設は売上の半分あるいはそれ以上がインバウンド客ではないでしょうか。地元のお客様であろうがインバウンド客であろうが、お客様であることに変わりありません。都心部でインバウンドが増えたらいけないという考え方はどうなんでしょう、私はもっと増えてもいい、この先もっと増えると思っています。もちろん昔からの常連のお客様を大切にケアするのは当然ですが。銀座4丁目松屋通りの元ランバン路面店のあった場所に面白いポップアップがありました。オニツカタイガーと鉄腕アトムの期間限定コラボショップです。聞けば2週間前に立ち上がり、6週間ほど営業だそうです。手塚治虫さんの鉄腕アトムとほぼ同じ時代にオニツカタイガーは誕生、期間限定にしないで積極的に世界市場に送り込めば良いのにと思いました。このイベント用のショッパー「私の台湾の友人が熱烈な鉄腕アトムファンなんです」、販売スタッフとそんな会話しながらTシャツを購入しました。律儀に毎年春節にギフトを台湾から贈ってくださるので、今年はいいお返しができました。まだ1日残っておりますが、今日私は仕事納め。皆様1年間お世話になりました。コロナウイルスで海外出張ままならず3年間じっと我慢しましたが、今年は10月に台湾の台北、12月に中国の杭州と寧波に出張することができました。招聘してくださった台湾及び中国の皆様、ありがとうございます。来年もどうぞよろしくお願いします。
2023.12.30
昨日目にとまったニュース。今年中国は日本を抜いて自動車輸出国ナンバーワンに躍り出た話、ショッキングです。いずれはそうなるだろうと予想していましたが、もうその時が来てしまいました。しかも輸出は日本が遅れているEV車(電気自動車)、簡単に言えばモーターで走る大型電気製品なんです。中国ではEV車のナンバープレートは薄い緑色、一般ガソリン車の青色プレートとは区別されているので誰でも判別できます。今回お邪魔した浙江省の杭州市と寧波市の中心部ではEV車比率が40%くらいに達するのではないかというくらい頻繁にEV車を見かけました。そんな光景は想像していなかったので驚きました。ネット検索してみたら、各国のEV車比率は以下です。日本がこの分野でいかに遅れているかよくわかります。 ノルウェー 88% スウェーデン 54% デンマーク 39% オランダ 35% 中国 29% ドイツ 31% イギリス 23% フランス 21% イタリア 9% アメリカ 7.7% 日本 3%2022年世界のEV車総販売台数は1020万台(前年より60%増)、前年までに販売されたものと合わせると世界中で約2600万台が走っていることになります。そのうち中国の昨年度EV車販売台数は590万台ですから世界全体の約60%を占め、既存のものと合わせると中国製は約1380万台、世界のEV車のなんと2台に1台は中国生産。日本は昨年経ったの10.2万台ですから世界のEV車シェア1%、かなり遅れをとっているのは明らかです。上の2枚の写真は杭州市中心街のショッピングモールにショップを構える通信機器大手メーカーHUAWEI、スマートホンと一緒にEV車を販売していました。同社は昨年から電気自動車の販売を開始しています。私は米国アップルや英国ダイソンが自動車専業メーカーよりもカッコいいEV車を近未来発売すると期待していましたが、HUAWEIはすでにEV車販売に着手、中国はやることが早いです。10年前に北京出張したとき、黄砂の影響もあってかものすごい空気汚染にびっくりしました。高度経済成長の中国では環境問題にあまり関心がないのかなと思いましたが、どうやら私の間違いでした。一部の中国人は環境問題への関心高く、ガソリン車から電気自動車に切り替えているんです。そして気がつけば中国製EV車は輸出の重要品目、ついに今年日本を抜いて自動車輸出ナンバーワンの国になりました。Li Auto社「理想L7」NIO社「es8」杭州市の中心街では電気自動車のショールームが目につきました。写真のLi AutoとNIOに加えXpengが急成長3企業と言われているようですが、いずれも創業してまだ10年足らずの新興企業、既存の自動車メーカーではありません。急成長中の会社ですから資金面はまだ盤石ではないでしょうが、彼らは国内市場のみならず世界市場に打って出ている。こういう新興企業の台頭で中国は日本車の輸出台数を上回る、すごいことだと思います。小泉純一郎政権後半、私たちは政府のコンテンツ戦略会議に招集され、そこで担当官から「電気ではもう外貨を稼げなくなる」と衝撃的な説明を受けました。まだシャープの亀山工場製の薄型液晶テレビが世界中で人気だった頃、信じがたい説明でした。その議論から6年後に国の方針としてクールジャパン政策が打ち出され、それまで政府に軽視されてきた柔らかジャンルの産業を強化されることになり、私自身もその政策のお手伝いをしました。担当官の発言通り日本製電気製品のポジションは著しく低下してシャープはすでに台湾企業に買収され、日本の国際競争力は著しく下がりました。そして、今度は自動車輸出まで中国に追い抜かれてしまいました。日本の自動車産業、電気と同じ道を辿らなければ良いんですが....。
2023.12.27
今回杭州セミナーを企画してくれた金さん(英語表記Aaron Jin)の名刺をもう一度よーく見たら、会社名は「佐吉企业管理咨询(上海)有限公司」とありました。創業者の豊田佐吉氏金さんは大学卒業後豊田通商上海支店に就職、28歳のときに独立。社名「佐吉」はトヨタグループ創業者の豊田佐吉に由来しているのかもしれないと思って金さんにメールで問い合わせたところ、やはりそうでした。豊田佐吉の名前を知っている中国人がどれくらいいるのかわかりませんが、金さんは佐吉翁に敬意を込めてその名前を社名に引用したかったのでしょう。我々が大学で経営学をかじった頃はまだ米国自動車フォードのヘンリー・フォードが生み出した「フォード生産管理方式」が製造業経営のお手本でした。少品種大量生産こそが近代経営の成功事例、と。しかし、必要な物を必要な時に必要な量だけ作るトヨタ自動車の「トヨタかんばん方式」が効率的経営と評価されるようになり、20世紀の末にはフォード生産管理方式は主役の座から滑り落ちます。金さんは豊田通商在籍中にトヨタかんばん方式を先輩たちから、あるいは書物から学んだのでしょう。独立してサプライチェーンマネジメントのコンサル会社を上海で立ち上げていろんな分野の生産ライン改善を契約企業にアドバイスしてきました。「良い工場は美しい。汚い工場はダメです」、金さんの言葉は繊維工場にも当てはまることです。大野耐一副社長商品の生産に関する合理的な考え方はグループ創業者の佐吉翁から子息でトヨタ自動車を起こした豊田喜一郎氏に受け継がれ、そしてのちに副社長の大野耐一氏によって体系化されたと言われ、大野副社長はその功績により日本自動車殿堂と米国自動車殿堂の両方で殿堂入りを果たしています。先日金さんと会食した際にこの大野耐一副社長の話で随分盛り上がりました。それは私のオヤジから聞いたエピソードでした。オヤジは激戦のインパール作戦から帰還すると最初は名古屋の松坂屋百貨店紳士服部に就職、高級注文紳士服のパタンメーカーとして勤務しました。私が生まれた年にオヤジは独立して名古屋市の隣の三重県桑名市でテーラーを開業しました。ところが松坂屋のお客様の中にはオヤジがカッティングした洋服でなければ満足できないという方が何人もいて、テーラーを経営しつつ松坂屋の納入業者にもなりました。常連のお客様が友人を紹介してくださるうちにいつの間にか桑名市のテーラーながらお客様のほとんどが愛知県の大手企業幹部やお医者様など富裕層に広がりました。その中のお一人が当時トヨタ自動車副社長だった大野さんでした。洋服が完成するとオヤジは愛知県刈谷市のご自宅に洋服を納品しに行きますが、大野さんからは「太田さん、我が家にトヨタ以外の車でやってくるのは君だけだよ」と笑われたそうです。オヤジの車はずっと日産でしたから。ご自宅にお邪魔して出来上がった洋服のフィッティングを確認すると、大野さんはいつもお土産をくださいました。いまでも覚えているオヤジのセリフ、「トヨタの副社長さんは食べてるバナナもものが違うわ」。納品から戻ったオヤジから手渡される大野家のバナナを手に取ると、確かにバナナは重く大きく立派、甘さもたっぷりでした。大野耐一氏講演の様子オヤジにいつも洋服を注文してくださる大野副社長が果たしてトヨタかんばん方式を世に広めた大野耐一氏かどうか私には正確なことはわかりませんが、1960年代後半にトヨタ自動車工業(まだトヨタ自動車販売と分かれていた)副社長で刈谷市在住の大野さんは多分この方ではないかと思います。だからネットや書籍で大野さんの写真を見るたび、このスーツは我が家で作ったものに違いないと勝手に思っています。トヨタかんばん方式を世に広めた功労者であろう方の洋服を作っていたテーラーの倅が、その考え方に触れてサプライチェーンマネジメントのコンサル会社を中国で立ち上げた中国人の若者に招聘され、中国の経営者たちにトヨタ車の写真を何枚も見せながらものづくりの最重要ポイント、ブランディングの難しさやブランドDNAの継承を講義する。なんとも不思議な筋書きじゃないか、と金さんたちと盛り上がりました。経営学のバイブルだったフォード生産管理方式が時代の変化と共に徐々に評価されなくなったように、トヨタかんばん方式がいつまでもサプライチェーンマネジメントのバイブルであり続けるとは思えません。生産管理システムそのものはまだ当分通用するかもしれませんが、自動車というマーチャンダイズ(=商品)のマーチャンダイジングやブランディング戦略の点ではヨーロッパの自動車メーカーと比べて優位性があるとは思えませんよね。また、今回の中国出張でEV車開発では日本は中国メーカーよりもかなり遅れていると実感しました。トヨタかんばん方式の考え方は素晴らしいんでしょうが、この先日本の自動車メーカーはどうなるんだろう、ちょっと不安になりました。中国語版「大野耐一的現場管理」
2023.12.23
月曜日夕刻上海浦東空港から車で杭州に入り、火曜日と水曜日は終日セミナーでした。木曜日は主催者の計らいで杭州の観光地「西湖」湖畔でのんびり。そして金曜日は車で寧波に移動、阪急百貨店の視察、大手アパレルの1つであるYOUNGOR(ヤンガー)本社を訪ねました。まるで政府機関のような本社ビル企画や営業のワンフロア私の右側白いニットの女性が社長出迎えてくれた女性はモンクレールのキルティングジャケットを着ていました。モンクレールは中国でも人気があるとおしゃべりした女性がなんと社長でした。彼女は20余年前に新卒採用され、まず本社の中にある縫製工場で働き、その後直営店で販売を経験、本社に異動になってブランドのマネージメントなどいろんな現場を歩いてきた叩き上げ社員、創業一族の縁故関係ではありませんでした。ヤンガーグループは不動産業などいろんなジャンルに進出、現在アパレルの売上比率はかなり低くなったとは言えまだ円換算で約2700億円売上の大企業、叩き上げのしかも女性社員を経営トップに抜擢した親会社の幹部は素晴らしい。新興企業によくある、海外の有名大学に留学してMBAを修得後帰国する優等生をヘッドハンティング経由でスカウトではありません。経営者として然るべき業績を期待したいです。本社ビルの中にある広い縫製工場基幹ブランド「ヤンガー」のショールーム上級ブランド「メイヤー」はロロピアーナなど高級素材使用米国ブランドも扱うヤンガーは一貫生産を大事にしています。全部の素材ではないにしても、綿花や麻を自家栽培、それを紡績して布を製造、自家工場でアパエル製品に仕上げています。そのためいろんな品質検査機関も社内なので本社には白衣を着た技術者がたくさん働いています。内製化することで品質への安心は得られるでしょうが、人件費を含めそれなりに経費は増え、売上の割に支出の多い企業体質かもしれません。工場の流れを見える化しているので現時点で生産ラインのどのポイントが渋滞しているかは誰にもわかります。また、全国約2000の店頭と本社を結んで瞬時に会社全体の売上合計が表示されます。ネット通信とコンピュータを駆使して数値管理は徹底していますが、生産ラインの改善、商品のクリエーションにはもっと手を加えてもいいのでは、と正直思いました。本社内には立派なホテルがあり、そこで夕食をご馳走になりました。せっかく工場を案内してもらったのでマーチャンダイジングの基本を備え付けのクローゼットのハンガーラックを使いながら説明。社長とマーケティングディレクター(こちらは外資ブランドから転職したばかりの女性)は定数定量管理の考え方を聴いてくれました。杭州セミナーに参加してくださったアパレルメーカーやSPA企業幹部はヤンガーの女性社長とほぼ同世代、日本に比べると概して経営陣は若く熱心、問題意識もお持ちです。だからまだまだ伸び代があるように感じました。
2023.12.22
齋藤孝浩さんの紹介で、今年9月に訪日中国人アパレル関係者に「クリエーションとビジネスの関係」と題する講演をしました。コロナウイルス前後の日本の消費変容、デザイナー解任劇多発の問題点、ブランドDNA継承の重要性などを話しました。このとき訪日ツアーを企画した金さん(英語ではAaron Jinさん)から、今度は中国に出張してファッション業界に向けてセミナーをやってもらえないかと頼まれ、今回の師弟研修旅行が実現しました。初日夕刻、上海浦東空港で我々を出迎えてくれた金さんと杭州市中心街のレストランで打ち合わせがてら食事をしていたら「これまで食べた中で印象に残る中華料理はありますか」と質問され、私は初めて香港出張したときに潮州料理店で食べた上海蟹味噌を麺とあえたカルボナーラのようなヌードルと答えました。初日のセミナー翌日、セミナー第1部が終わって昼休み、会場すぐ隣の杭州料理店で数人のアパレルメーカー経営者らとランチをしましたが、なんと上海蟹がドーンと大皿に並んで登場したのです。前夜の私の発言を受けてすぐ上海蟹の元締めに連絡して特別に用意してもらった、と。金さんは「私たちの本業はサプライチェーンマネジメントのコンサルタントですから、何事もスピーディーに動きます」と笑っていました。気遣いには感謝しつつも、決して安価なものではなく、前夜余計なこと言わなきゃ良かったと反省でした。が、なんと翌日ランチも上海蟹は登場しました。初日の講師は私、2日目の齋藤孝浩さんの講演が終わって3日目、杭州市郊外のセミナー会場近くのホテルから何故か観光客に人気がある西湖の「西湖山荘」に引っ越しました。ここはたくさんの木々に囲まれ、鳥のさえずりが聞こえる優雅なリゾートホテル、のんびりするには最高です。西湖の周辺に移動と聞いて我々は湖畔のショッピングセンターでお店を見て回るつもりでしたが、チェックイン手続きを終えると金さんは湖畔の緑地に連れ出し、「仕事ばかりではつまらない。1日くらいはのんびりしてください」と遊覧船にも乗せてくれました。息子のような若者がこの気遣いでした。格式ある西湖山荘の正面入口で西湖の緑地を散歩火が沈む頃の緑地は観光客でいっぱい日没後は売り場歩きそれぞれ終日セミナーを担当したので金さんなりの慰労の意味だったのでしょう。が、中国に来たからには売り場をたくさん見て回らなきゃと我々はショッピングモール視察を持ちかけ、やっと日が暮れてから中心街のモールや路面店を視察できました。せっかちな我々は湖畔の散歩よりも売り場視察の方がお似合いだと思いますが、この日は金さんの計らいでのんびりと過ごすことができました。会食中、金さんは私に「私は中国をもっと良くしたいと思って28歳で会社を立ち上げました」、と熱く語ってくれました。その目は真剣そのもの。そして、彼はいつもプロジェクトの背後にいて、一般的なセミナー主催者挨拶のような場面は作らず表には出てきません。記念写真も我々講師ツーショットや通訳さんとの撮影は何枚もありますが、金さんとの写真は今回私の手元に1枚もないことに帰国して気がつきました。私のPCには9月セミナー後に西新宿のレストラン前で撮影したものがたった1枚あるだけです。起業して8年の36歳、契約している大手精密機器などにサプライチェーンマネジメントをアドバイスしている人物とは思えない若者、東京コレクションを始めた頃の生意気な私をちょっと彷彿させます。私の左が金さん、右が齋藤さん金さんは「せっかく中国に来ていただくんですから、企業トップが出てこないような会社の参加申し込みは受けません」と強気でこのセミナー企画を業界に訴求したと聞きます。そして会場では各地から集まった経営者らと話をしながら、今度は我々2人による個別社内研修を勧め、上海に拠点を置く老舗大手ニットメーカーと広州に拠点を置く成長著しい新興製造小売業と話をまとめたのです。西湖の休養の翌々日、ちょうど私のフライトが成田空港に到着したタイミングで金さんから連絡が入り、春節後の2月下旬の個別社内研修の日程が決まりました。行動力とそのスピード、半端ないです。こういう熱い青年実業家が中国急成長の原動力なんでしょうね。これまで私は国内でたくさん講演させてもらいました。日本の経営者はセミナー後に「良いお話を伺いました」と声をかけてくれますが、セミナーで指摘した問題点を解決に向けてすぐアクションというのは見たことがありません。ここが中国との大きな違いでしょうか。9月に訪日団に講演した後すでに東京で中国SPA企業の研修が1つあり、そして今回の杭州があり、来年2月には個別企業の社内研修が組み込まれました。短期間にどんどんセミナーが企画されていく、「中国をもっと良くしたい」と熱く語る金さんならではなんでしょう。彼に刺激され、これから中国講演出張や訪日団セミナーが一気に増えそうです。
2023.12.19
2021年春の寧波阪急開業時開業時のロジェヴィヴィエの様子前職の官民投資ファンドで浙江省寧波市の未開発地に新しく阪急百貨店のショッピングセンターを建設するプロジェクトに投資する話があり、2014年に建設予定地を訪問しました。当時はまだ周囲にほとんどビルはなく広大なサラ地、地下に完成予定の地下鉄2線の駅も姿かたちもありませんでした。寧波は聖徳太子の時代に小野妹子ら遣隋使が辿り着いた港町、その後も日本から遣唐使が何度も寄港、ここから千キロも離れた長安(現在の西安)に歩いて挨拶に行ったそうです。唐招提寺を建立した中国のお坊さん鑑真はこの港から日本に渡りました。なので日本とはとても縁のある古い都市、しかも上海、シンガポールに次ぐ主要港をいまも有する経済拠点でもあります。市内を走るポルシェの台数は当時上海や北京以上だったので、高いポテンシャルをここで予感しました。寧波阪急百貨店我々の投資も決まって着工、建物そのものは予定通り完成しました。しかし、出店交渉していたヨーロッパの有力ラグジュアリーブランドから正式な回答がなかなか得られず延期に次ぐ延期、結局構想よりも3年ほど大幅に遅れて開業(このとき私はすでに社長を退任)しました。野党議員の一部から開業の遅れを国会の委員会でさんざん批判されたと聞いています。そして開業時はコロナウイルスの真っ最中、どうなるのか心配した阪急寧波店はオープン直後から絶好調、初年度と比べて予算比の倍以上を記録しました。ところが、ラグジュアリーブランドの売上が素晴らしいと伝わってまたもや野党議員の一部から「どこがクールジャパンなんだ」とご批判。おっしゃることは分からないでもないんですが、知名度抜群の有名ブランドをある程度揃えなければ館全体の集客は望めません。まずは集客ありき、そして常連さんを増やし日本の美味しいやカッコイイをゆっくり浸透させていく、これが当初から考えた日本の生活文化を広めるビジネス策でした。現地で知名度のない日本企業が店を構え立って現地の一般住民は見向きもしないでしょうから、我々の考えは絶対に間違っていません。1階の裏口で記念撮影1階ヨウジヤマモト中国で人気の無印良品は大きな売り場デパ地下にはサントリー山崎はじめ日本のウイスキー獺祭、梵など日本の吟醸酒もズラリ揃っているスタジオジブリのキャラクターグッズ店スーパーマリオ人形がセットされた任天堂コーナーデパ地下は系列のスーパーイズミヤ投資には関わりましたが、完成した百貨店を見るのは今回が初めて。噂では初年度は想定したよりも2倍の売上を記録したので社員に臨時ボーナスが支給されたとか、良かったです。我々が訪問したのは平日の午前中だったからか館内は思ったより静かでしたが、デパ地下はそれなりに賑わっていました。デパ地下は現地ですでに実績のあったスーパーイズミヤ(現在は阪急グループの系列企業)が日本の食品などをたくさん扱っていました。日本の百貨店らしくお客様サービスも開店が遅れて批判、開店したらまた批判の先生方、視察ツアーを組んで一度は中国の主要百貨店やショッピングセンターにお出かけください。ラグジュアリーブランドをしっかり導入できないと集客はままならないことを肌でお感じいただけるでしょうし、日本の化粧品、ファッション、雑貨や玩具、そして日本食材や料理はまだまだ伸ばせるポテンシャルがあることがお分かりいただけるでしょう。開業前に心配した点、やはり売り場では少々気になりました。もしもまだ私が投資側のトップのままなら課題の改善を阪急百貨店にお願いしていたでしょうね。課題はどこかはここでは言いませんが、とにかく早い出資の回収を期待です。
2023.12.17
I.F.I.ビジネススクールで1994年から実験的に始めた夜間プロフェショナルコース、主にファッション流通業界で働く若者に向けた6ヶ月間毎週夕方開講のプログラムでした。2000年まで私はコースディレクターを務め、自分自身が講義するときもあれば外部講師にお願いして講義には立ち会うこともあり、指導した受講生は数百人います。その中の一人が当時大手総合商社勤務の齋藤孝浩さん。その後会社を辞めて自分のマーケティング会社を立ち上げ、「ユニクロvsZARA」や「アパレル・サバイバル」などの著書もある人です。今年9月齋藤さんから頼まれて訪日ビジネス研修の中国経営者たちに3時間ほどレクチャーをさせてもらいました。このときツアーの主催者だった中国コンサル会社を経営するKさんから求められ、5日間浙江省の杭州と寧波に出張してセミナーやアパレル会社訪問をしてきました。杭州は主に婦人服アパレル、寧波は紳士服アパレルメーカーが多い都市、今回は杭州市の郊外のアパレルメーカーのショップやショールームが集積する「E FASHION TOWN」と表記があった一画のファッションメーカー本社でアパレルメーカーやSPA企業の幹部ら約80名に齋藤孝浩さんと共に講演しました。杭州市がファッションメーカーを集積したエリア(写真上2枚)教え子でもある齋藤孝浩さんと会場の模様自動車を例にブランディングを語る私齋藤孝浩さんの講義杭州市は人口およそ1300万人の歴史ある都市。かつて浙江省から多くの中国人が海外に進出、華僑と呼ばれるようになりました。この都市の代表的な企業はネット販売最大手のアリババです。中心街の一つは観光地である西湖のそばにありますが、ルイヴィトン、グッチ、アディダス、ナイキ、アップルなどが大型店を構えています。世界の大都市の中心街と変わらぬ顔ぶれ、いまやどの国に行っても都会の中心街の表情はみな同じですね。そんな中で私が一番びっくりしたのは、女性副社長が政治的にカナダで逮捕されて一躍日本でも有名になった電気のHUWWEI(ハーウェイ)の店舗です。なんとスマホと共にここで電気自動車を販売しているではありませんか。ダイソンやアップルがどんな電気自動車を発表するのか楽しみにしていましたが、すでにハーウェイは昨年からEV車を販売。自動車事情に疎いので私は知りませんでした。いよいよ自動車メーカー以外のジャンルからEV車をつくる会社が出てくる世の中です。ショッピングモールの路面HUAWEI店スマホの横にはHUAWEIが製造販売するEV車中国ではEV車のナンバープレートは薄い緑色、道路を走っている自動車のおよそ4割(実際にはもう少し少ないかもしれませんが)はEV用ナンバープレートでしたからかなり進んでいます。自動車メーカーのみならず電気メーカーまでもがもうEV車を手掛け始めたのですから、この分野では日本企業よりも地球環境のことを考えていると言えます。中国ドライバーの運転は荒っぽいけれど自動車産業はサステイナブルです。繁華街では巨大なスクリーが目立つルイヴィトンなどラグジュアリー店がズラリモールの1階内側上海、北京、深圳、広州、重慶の中国GDP五大都市でもない杭州(2021年データでは8位)でも中心街は世界のラグジュアリーブランドがメガストアを独占、しかもどの店舗も競うように明るい照明をつけて華やかでした。中国人がどれくらいクリスマスに関心があるのかしれませんが、夜間も中心街は賑やか、景気低迷のニュースは本当なんだろうかと思いました。5日間の浙江省出張の詳細はこれから順次まとめます。
2023.12.17
新型コロナウイルスで訪日観光客の姿は少なかった過去3年、全国の繁華街にはいつもの師走の賑わいはありませんでした。が、やっとコロナ規制がなくなり、海外から観光客が戻ってきて紅葉の行楽地や繁華街は外国人でいっぱい。先日訪れた広島市も外国人観光客が目立ちましたし、ニュースによれば京都はオーバーツーリズム、地元住民が迷惑しているとか。外国人が激減すれば困るし、増えすぎても困る、悩ましい状況が続きます。ここ東京銀座も外国からの買い物客で相当賑わっています。肌感覚ではコロナウイルス直前と比べて現在の方がインバウンドはかなり増えているのではないでしょうか。コロナ禍前のいつものクリスマスが戻った銀座、しかも急に寒さがやってきて生活者の冬支度は本気モードになり、ここからクリスマスイブまでレストランもお店も今年はかなり期待できそうです。かつては銀行、キャラクターグッズ店、銀行、薬局があった銀座2丁目交差点の角、現在はルイヴィトン、シャネル、カルティエ、ブルガリの大型店が並び、日本で一番ラグジュアリーなコーナーになりました。4店舗ともリッチな会社ですからクリスマス装飾に工夫を凝らし、ここを通る人々の多くは写真撮影のために足を止めます。特に夜はイルミネーションが綺麗でテンション上がります。ルイヴィトンシャネルカルティエブルガリ今年も松屋銀座は青森の女流ねぶた師北村麻子さんとのコラボレーション。日本の伝統美と西洋のクリスマスモードが不思議とマッチして面白い空気を醸し出しています。松屋銀座正面ウインドー1階エントランスのサンタさん地下1階地下小型ウインドー吹き抜け空間に吊るされたサンタさん北村さんのねぶた作品の展示は今年で3回目。松屋の吹き抜けやウインドーの色鮮やかなねぶたを撮影するお客様の姿が今年も目立ちます。
2023.12.05
投資ファンドを退任する頃、お世話になっている方から頼まれて日本での視察研修にやってきた中国ファッション流通業界の経営者たちに講演をしました。するとどういう経路でその講演のことが中国業界に広まったのか、次から次へと訪日中国視察団向けセミナーの依頼が増え、さらには個別の企業の社員研修も依頼されて毎月中国ビジネスマン向け講演レジュメを作成していました。2020年新型コロナウイルスの影響で訪日自体が不可となり、中国人対象の研修依頼はなくなりました。が、この秋口に中国の渡航規制が緩和され、再び訪日研修ツアーが増え、私のところにもいろんなルートから講演打診が届くようになりました。9月中旬ファッション系経営者グループに「クリエーションとビジネスの関係」を講演させていただきました。9月の講演昨今のデザイナー退任劇の急増から、ブランドDNAの継承がいかに難しいか各国の失敗事例をあげながら解説。参加者の中には世界的に有名なネット通販会社で研修を担ってきた幹部がいて、セミナー後にその方のSNSにアップする動画収録もありました。このインフルエンサーのSNSの影響なのか、伸び盛りの製造小売業の社員研修団に対するレクチャーを頼まれ、さらには中国に出張して業界関係者に終日研修する話まで持ち上がり、このところ中国向けに何パターンかのレジュメ制作に追われています。セミナー後インフルエンサーSNSのためインタビュー収録先日講演した製造小売業の研修団は創業者、幹部、店頭指導の専門職ら約20名が5日間日本の工場や売り場を回り、VMD研修を受けるプログラムでした。創業社長が多数の幹部を連れて海外研修する、素晴らしい企画だと思います。私が所属した百貨店も積極的に社員海外研修を毎年実施、社員たちは現地でいろんな刺激を得て自分の仕事に活かしていました。生きたお金の遣い方です。私の講義に参加してくれた中国人には、米国を代表する製造小売ブランドG社が1980年代前半どん底からどのように立ち直ったのか、そして急成長時はどんなに素晴らしいマーチャンダイジングを我々に見せてくれたのか、続けて創業家と経営者の確執から始まった下降線の経緯を説明。製造小売業のものづくり姿勢はどうあるべきなのか私見をお伝えしました。特に素材クオリティーに対する考え方がブランドの方向性に大きく影響する、と。また、この中国企業は新興成長企業なので、これからものづくりで考えなければならないことはブランド十八番(おはこ)をどう作るのか、さらにブランドDNA、アイデンティティーの重要性を説きました。皆さん熱心に聴いてくださって質疑応答は長く、時間を大幅延長して講演は終わりました。来月私が中国に出張して現地セミナーに登壇することをご存知で、創業者は幹部を連れて参加するとおっしゃってました。ありがたいことです。企業研修後の記念撮影(社名はぼかしました)最近はクリエーションとビジネスのあるべき関係をよく話します。例にするのがオランダの画家ヴィンセント・フォン・ゴッホと画商だったテオ・フォン・ゴッホの関係。ゴッホは生涯たった1枚の絵しか売れませんでしたが、実弟テオは兄の才能を信じて支援を続け、テオ家には大量のゴッホ作品が蓄積、それがのちにゴッホの価値を高めました。画商はデザインマネジメントを担う人間、クリエーションを受け止める力量がなければなりません。売れる、売れないだけを論じていてはクリエーションの価値は見えてきませんから。ブランドDNA継承の重要性もよく話します。外部から招聘した人気デザイナーが名門ブランド企業のディレクションを滅茶苦茶にしてしまった事例、その果てにブランドそのものが市場から消滅してしまった最悪の事例、逆に経営陣とクリエイターが事前に方向性を十分話し合って成功した好事例や創業者のクリエーションを後継デザイナーたちがいかにして守ってきたかも写真を紹介しながらお話しします。写真を見せれば言語が違っても誰もが理解してくれます。さらに、ファッション以外の分野でも日本製品には「顔がない」という事例を写真を紹介しながら説明します。これも言語が違ってもこちらが何を言いたいのか 写真から簡単に理解してもらえます。ブランディングについては自動車やパソコン、日本酒を例にします。日本酒では海外のワインに比べてどうして価格が安いのか、どうして日本酒ボトルは貧弱なのか、どうしてヨーロッパのシャトーのように宿泊や食事ができないのか、ブランドとは中身だけではなく外見もサービスも含めた文化を売るもの、と説明します。もう一点、日本のアニメは世界で高く評価されてはいますが、日本のアニメで実際に儲けたのは誰でしょうか、どうして日本のアニメ制作現場はブラックのままなのでしょうか、儲けているのはコンテンツ開発した日本の会社ではありませんという話、外国人ビジネスマンには理解してもらえる事例です。これまでずっと教えてきたマーチャンダイジングの基本、誰に、何を、どのように、いくつ売るのか仮説を立てましょうという話、これは世界共通ネタですから皆さんうなずいてくれます。マーチャンダイジングは長年教え続けてきたこと、いろんな例を引っ張り出しながら講演しています。来月中国で開催されるセミナーは、丸1日3部構成でクリエーションとビジネスの関係についてお話する予定。参加者の中にはこれまで私の講演を来日時に聴いたことある方やその同僚、部下もいるでしょうから、同じ内容、同じ事例で話しては新鮮味がありません。レジュメを何度も何度も書き直しながら、皆さんに新鮮に感じていただけるよう準備しております。
2023.11.12
いまから10年以上前、東北大震災の前後のことだったと思います。部下Nくんが「会ってやって欲しい人がいます」と銀座のレストランに2人の若者を連れてきました。大学卒業後単身バングラデッシュに渡って「最貧国の人々を救いたい」と現地でバッグのサンプルをいっぱい作って帰国、25歳でマザーハウスを起業した山口絵理子さんと、彼女のゼミの先輩で大手ゴールドマンサックスを退職して助っ人になった副社長の山崎大祐さん。Nくんによれば、山口さんはTBS「情熱大陸」をはじめメディアでスポットを浴びる話題の人ということでした。人口が多く貧しいバングラディッシュでコストカットのためにアパレル製品を生産する話はよく聞きますが、貧しい国の人たちに仕事を与えて助けたい、途上国から世界に通用するブランドを作りたいなんてセリフ、このとき私は初めて聞きました。慶應義塾大学のあの竹中平蔵ゼミ出身、山崎さんのように外資系金融機関に就職するのは想像できますが、ものづくり経験が全くないど素人が技術的にはまだ未熟で貧しい途上国でバッグの製造を始めるなんて無茶な話、私にはちょっと想像できません。凄いこと発想する若者がいるもんだと驚きました。山口さんはファッションの専門家に自分たちが作った洋服サンプルを見せ、感想を聞きたかったのでしょう。バングラデッシュのバッグの次は同じく途上国ネパールで洋服を作って貧しい人々に仕事を提供したい、気持ちはわかりますがサンプルを見る限り時期尚早でした。「洋服はバッグよりも在庫になりやすいからリスキー。いまはやるべきじゃないよ」と助言しました。ネパールならまずストールの生産だけに絞ってみてはとアドバイス、洋服の生産はこの段階では諦めてネパール産ストールがマザーハウス店頭に並びました。山口絵理子さんこのとき以来、私の教え子でもないのに山口さんからは時々メールが着てアドバイスを求められます。そして4年ほど前、マザーハウスの主要メンバーにマーチャンダイジングの基本を教えてもらえないかと頼まれました。これまで企業研修では顧客分類、商品分類、定数定量管理、発注の心得、販売計画など10数コマを宿題を与えながら数か月かけて教えてきましたが、カリキュラムを短縮してコンパクトな内容で社員教育を引き受けました。カリキュラム短縮には理由があります。私の元部下でかつてマーチャンダイジングの基本を教えたHくんが外資ブランドを経て独立、VMD指導の会社を立ち上げマザーハウスを手伝っていたからです。Hくんが教えているのであれば重複しそうな部分はカット、私がテクニカルなことまで教える必要がありません。こうして関西地方や海外拠点スタッフのリモート参加を含め、マザーハウスの主要メンバーにマーチャンダイジングの基本を伝授しました。何と言っても定数定量の概念をショップスタッフにも本社スタッフにも植え付ける、これに重点を置きましたが、やる気満々の社員たちは飲み込みが早く教えがいがありました。その成果は店頭を見ればわかりますし、細かいことはHくんがついているので大丈夫です。松屋通り沿いの銀座3丁目店昭和通りを渡った角にある東銀座店そして今日たまたま通りかかった2つの店舗を覗いて安心しました。Hくんが何度も定数定量を守るようスタッフを指導したのでしょう、商品は見やすい展開になっていました。店舗数は増え、海外出店も始まり、ビジネスは軌道に乗ってマザーハウスは次のステージに行こうとしています。そこで再びアドバイスをしました。これまでは途上国での生産にこだわってきたマザーハウスですが、この先そのことが「売り」ではブランドとしての市場ポジショニングは確立できない。途上国生産そのものは続けつつ、もはやそれだけが「売り」ではブランドの成長は見込めない。そろそろマザーハウスの十八番(おはこ)、ブランドの世界観をしっかり打ち出すべき時が来ている、と。言い方を変えれば、経営者でなくクリエイター山口絵理子の世界観を商品ではっきり表現する、製造拠点のストーリーではなく商品そのものの魅力で勝負する、これが次のステージではないでしょうかと言いました。そして、彼女なりの答えのひとつが洋服をしっかり作ろう、でした。「太田さんには叱られそうですが、洋服を作りました」と連絡が入り、初めてのファッションショーにお邪魔しました。修正したらいい点はいくつもあるでしょうが、山口さんは洋服づくりをずっと我慢してきたのです、思う存分やればいいと思います。もちろん在庫量には配慮しながら。初めてショーで見せた2023年秋冬コレクション同メンズウエア以前、山口さんに技術力のある某生地メーカーを勧めました。来月バングラデッシュの工場長が来日するのを機に、その本社工場を見学できるよう先方にお願いしているところです。途上国の縫製工場はここ数年技術はかなり向上していますから、生地のバリエーションが増えればもっと面白い商品が作れると期待しています。日本の素材テクノロジーと職人気質をリンクさせたら、現地の技術者は刺激を受けてさらに商品はレベルアップするでしょうね。成長を期待したいです。
2023.11.11
日本ファッションウイーク推進機構の実行委員をお願いしているユナイテッドアローズ取締役常務執行役員の田中和安さんに誘っていただき、彼らの文化服装学院時代の恩師曽根美知江先生ご自宅での宴会にお邪魔しました。曽根先生はすでに退職、私は約30年ぶりにお会いしましたが、現役時代と全く変わらず昔のまんま、びっくりするくらいお元気でした。曽根先生は1960年代パリオートクチュール協会が主宰する学校に留学、帰国後はずっと文化服装学院でパリ仕込みの立体裁断やマーチャンダイジングを指導されていました。パリ留学時代、隣のクラスには三宅一生さんら数名の日本の若者が学んでいたそうです。また、この頃パリでは文化服装学院OBの高田賢三さんがデザインを現地メゾンや企画会社に売り込み、写真家の吉田大朋さんがファッション雑誌ELLEの専属フォトグラファーとして活躍していました。曽根美知江先生を囲んで記念撮影私と曽根先生のご縁は東京コレクションの責任者をしていた1990年代前半に始まります。当時ファッションデザイナーとアパレル企業の協業ブランドがどんどん生まれてはどんどん消滅していました。せっかく専門学校や美大が才能ある若者を世に出しても、企業がデザイナーたちをうまく活かせない。日本にプロのマーチャンダイザーやバイヤーを育てるポストグラデュエートの教育機関があれば欧米のように協業ブランドは長続きするかもしれない、とIFIビジネススクールの立ち上げに向けて私は奔走していました。ところが、文化服装学院の大沼淳理事長から、「新しく産業界が学校を作る必要があるのか。現在の専門学校に対して業界はもっと支援して欲しい。教育は自分たちに任せてくれないか」と言われました。我々の構想は既存のファッション専門学校とは敵対しない人材育成機関、高校生新卒者は採用せず企業で働く若者たちにより専門性の高い実践的カルキュラムで指導しようというもの、決して既存の専門学校を否定するものではありません。ビジネススクール設立首謀者の一人だった私は文化服装学院に協力的な姿勢を見せないと誤解されるかもしれないと考え、文化服装学院ビジネス学科系の流通専攻課程3年生(担当は林泉先生)と曽根先生が指導なさっていたマーチャンダイジング科3年生を別のカリキュラムで毎週1回教えることになったのです。専門学校に敵対する人材育成機関を作るのではない、と専門学校界のリーダーだった大沼理事長にわかったもらうためにはこれしかありませんでした。毎週1回別々のカリキュラムを考え、その準備をし、学生には宿題を与え、成績評価もしなければなりません。しかも本業である東京ファッションデザイナー協議会議長の仕事も、IFIビジネススクールの準備もありましたから、週2回の文化服装学院通いはめちゃくちゃ大変でした。そもそも文化服装学院とのご縁はニューヨークから帰国した1985年、先生たちの勉強会「火曜会」でパーソンズ流の実践教育の事例を紹介したときから始まりました。総勢200人くらいの先生たちに、ニューヨークのパーソンズ(PARSONS SCHOOL OF DESIGN)のバイヤー講座で私はどのように教わったのか、それが自分にどれほど役に立ったのかをお話しました。大沼理事長の相澤秘書からの要請だったと思います。以来、流通専攻課程3年生を指導するようになり、そのクラスから多くの若者を自分が所属する企業にスカウトして部下にしました。曽根邸前庭でバーベキュー幹事役のUA田中和安さん(右端)あいにく母上ご逝去で今回は参加できなかった佐藤繊維の佐藤正樹社長(現在文化服装学院同窓会長)はじめ、数ヶ月前の文化創立100周年記念イベントで素晴らしい祝辞をされたTSIホールディングス下地毅社長、前述ユナイテッドアローズ田中常務など、曽根先生の教え子の中には現在の日本のファッション業界を牽引している人が少なくありません。何年も前に卒業した彼らがいつまでも曽根先生のご恩を忘れず定期的に集まる、なんとも微笑ましい光景でした。私は卒業生ではありませんが、皆さんのご厚意で参加させていただき、楽しい時間を過ごすことができました。考えてみれば私も文化服装学院など専門学校や一般的大学、IFIビジネススクールで、あるいは所属企業でたくさんの若者にマーケティングやマーチャンダイジングを教えてきました。その数は数千人にのぼると思います。受講生と頻繁に深夜まで酒を酌み交わして議論しましたし、IFIビジネススクールの教え子たちは今年も誕生日を祝ってくれました。若者を教えた側の人間にとって、教え子たちが集って意見交換する瞬間は至福のとき。教え子との懇談、もっと大事にしたいですね。
2023.10.31
初めて台湾を訪問したのは1989年、台湾から世界に輸出する繊維製品のクオータ管理をしていた「中華民国紡績業拓展会」(通称TTF)に講演を依頼されての訪台でした。桃園国際空港に到着するや背広姿の男性群に囲まれ、パスポートを手渡すと入国審査と税関はフリーパス、そのままあっという間にハイヤーに乗せられました。あとでビザ(当時はまだビザが必要)をよく見たら「国賓」のスタンプ、フリーパスの理由がわかりました。降ろされたのは老舗中華料理店、大きな円形テーブルには台湾繊維業界の幹部がズラリ着席。中にはその日の朝に中国本土から戻ったばかりのニットメーカー社長も。「メインランドと自由に往来できるんですか」と質問したら、「対立しているのは政治の世界、経済界は普通に交流している」と聞いてびっくりでした。その中に紅一点、中興百貨店(サンライズデパート)の女性オーナーだったバオさん、エルメスのケリーにジャンポールゴルティエのジャケットが板についた素敵な方でした。ランチが始まり、最初に出てきた大皿はこれまで見たことがない形状の肉、聞けば食べたことがない食用カエル。しかも取り分けられた小皿の肉にはかすかに血、正直ビビりました。台湾で最初に口にしたのが食用カエル、生涯忘れられない1皿です。このあと中興百貨店を案内され、当時日本の百貨店でも珍しかったヨーロッパのラグジュアリーブランド直輸入ショップ、そして別のフロアに台湾デザイナー売り場もありました。バオ社長は「私たちが応援しなければ台湾のデザイナ-は育たない。たとえ儲からなくてもやらなければならない」、使命感に満ちた発言に感動したものです。あれから台湾の百貨店を手助けする日本の百貨店マンとして、台湾で多店舗展開する日本ブランドの経営者として、クールジャパン政策を推進したい投資ファンドとして何度も台湾を訪問しましたが、初めて訪台したときが一番印象深いです。血のついた食用カエルもバオさんの言葉も。2019年台北ファッションウイーク(中央女性がチェン文化部長)さて、4年前にも台北ファッションウイーク(写真上)に招聘されました。そのオープニングセレモニーは着席ディナー形式、お隣はソルボンヌ大学卒業のチェン文化部長(部長は日本の大臣にあたる)。これまで自分たちが日本の若手デザイナー支援プログラムをどれだけ試みたかを説明、台湾でも若手インキュベーションが重要ではありませんかと話したら、文化部次長(事務次官)に話してくれませんか、と。翌々日文化部を訪ねて文化部次長とミーティング、日本とのファッション文化交流促進を話し合いました。このあと新型コロナウイルス、両国の交流促進はしばらくお預けとなりました。が、コロナが収束して今年再び文化交流の話を再開することに。台湾ファッション業界でも活躍する台湾イトキン多田社長を通じて話し合いが始まり、今回台北ファッションウイークに招かれました。4年前ファッションウイークの現場運営は台湾ELLEが担当でしたが、今回は台湾VOGUEが仕切り。リュウ発行人からは人事異動で交代したばかりの文化部次長ワンさんとの個別会談も依頼されました。眼鏡の男性が台湾VOGUE発行人、右は多田夫妻台湾VOGUEリュウ発行人と台湾イトキン多田社長のアレンジで今回多くの方々と意見交換する機会をいただきました。文化部次長をはじめ、台湾ファッション業界にたくさんの人材を輩出する大学の学院長、テキスタイル業界の重鎮、台湾在住ファッション流通業界日本人会の代表、いまや台湾百貨店業界をリードする存在となった新光三越の方、デザイナーの海外売り込みをサポートするTTF幹部ら皆さん親切、日本のファッション業界のこれまでの歩みや私が感じた台湾デザイナーの課題などに耳を傾けてくださいました。文化部ワン次長と記念撮影ホテルロビーのライブラリーで話し合い日本と違って台湾は進んでるなあと思ったことがいくつもあります。文化部次長との会談はファッションウイーク公式会場近くの誠品書店が経営するEslite Hotelと聞いてはいましたが、なんとホテル内会議室ではなくロビーのライブラリーの長いテーブル、誰からも見られるオープンスペースでの会談。そこへ現れたワン次長はダボっとしたストライプ入りジャージーパンツにスニーカー。会談のあとはホテル内ラウンジで日本のメディア関係者に私との会談の一部を発表でしたが、日本の文化庁の官僚トップがこんなスタイルで国際交流の話し合いや記者懇談の場に現れる日は来るんでしょうか。台湾市場再構築のヨウジヤマモトは8月にこちらを開店ショップ運営でも感動がありました。かつてアパレル時代に台湾のパートナーだった会社に社員教育でマーチャンダイジングの基本やVMDの考え方を伝授しましたが、彼らはさらに店舗を増やし、美しく店頭を維持していました。彼らには何度も「定数定量」の重要性を話しましたが、本部に模擬店舗を構えていまも訓練している。伝授したことを台湾でしっかり守っていてくれる、こんなにうれしいことはありません。ブランド多数揃えるSOGOのすぐ隣に新施設が数日前にオープンその新商業施設にA BATHING APEが出店新しい商業施設がどんどんオープン、ラグジュアリーブランドの大型店はさらに増え、台湾の経済力を実感しました。ブランドを多数揃えたビルの近くに新しい商業施設ができてブランドショップが開店、数年後にまたその横に新しいビルが誕生して綺麗なブランドショップが多数入居、まるでオセロゲームのような様相です。半導体はじめ台湾の景気はものすごく良くて一般消費者の購買力は半端ないんでしょう。物価上昇と円安の我が国からすれば羨ましい限り。こんなに元気な国ですから、日本に来てショッピングする台湾人はもっと増えるのではないか、と期待してしまいます。5泊6日の短い滞在でしたが、台湾から学ぶ点はいくつもありました。日本からとても近い国、コロナも終わったのでこれからは頻繁に出かけたいです。
2023.10.21
1994年秋まだCFD議長だった頃、全日制の本格的なクラスを開講する前に試験的に社会人向け夜間プログラムをやってみようとIFIビジネススクールで「プロフェッショナルコース」を始めました。全日制「マスターコース」がスタートしたのは1998年4月、それまでの3年半夜間プロフェッショナルコースのディレクターとしてお手伝いしました。最後は月曜日から木曜日まで毎夜違ったカリキュラムを4つ、ほぼ連日両国国技館前の仮校舎に通ったものです。そのプロフェッショナルコースの受講生の中に総合商社繊維事業部門で働くSくんがいました。IFIビジネススクールで半年間学んだあと米国西海岸の駐在オフィスに転勤、帰国してまもなく会社から独立して自分のオフィスを構えました。マーケティング会社を運営し、ビジネス書としてはベストセラーの部類に入る本も何冊か上梓、メディア露出の多い人です。久しぶりにそのSくんから連絡がありました。なんでも彼が懇意にしている中国のビジネスマンたちが来日してファッション流通業の視察と研修をする、そこで講演してくれないかとのことでした。コロナウイルス直前まで、私は来日する中国ビジネスマン(女性も大勢)たちにブランドビジネスやマーチャンダイジングの話をよくさせていただきましたが、コロナウイルスで渡航禁止、この3年間は機会がありませんでした。なので3年半ぶりの訪日団向けセミナー、しかもほとんどは伸び盛りの会社経営者と聞いて「クリエーションvsビジネス」を題材に約3時間半お話しました。私は彼らにブランドDNA継承の重要性をわかってもらおうと継承成功事例と失敗事例の要因を説明しました。受講者の多くは経営者ですから、もし外部からデザイナーをスカウトする場合、まず今後のブランドの方向性をデザイナーとマネジメント側は十分話し合うべき、そこを曖昧なまま新任デザイナーが自由奔放にクリエーションするとブランドが守ってきた世界観は崩れ、大切なお客様が離れていってしまい、結局デザイナー解任という不幸なストーリーになりかねない、と。利害の異なる両者の話し合いが十分だったのか疑問に感じる事例として取り上げたのは、サンローランとカルバンクライン。エディ・スリマンのサンローランとそれ以前のサンローラン、ラフ・シモンズのカルバンクラインとカルバン自身が作り上げたカルバンクラインの写真を見せながら疑問に思うことを説明。一方DNAがきっちり継承されている成功例として、ココ・シャネル、カール・ラガーフェルド、そして現在のヴィルジニー・ヴィアール3代に渡るシャネルを紹介しました。3人のシャネル、どれもシャネルと誰もが判別できるデザインでしたが、ブランドDNAの継承がいかに重要かわかってもらえたと思います。研修ツアーに同行する日本在住のビジネスマンから後日メールが来ました。私の講演のあと各地を視察しながら受講者たちはブランドDNAのことをずっと話し合っています、と。私の話は彼らにとって大きな問題提起だったようです。こういうストレートな反応、講演した側には嬉しいです。さらに、このビジネスマンから、近々来日する予定の中国企業の幹部にも講演してもらえないかと依頼があり、加えて中国側でこのツアーの世話役だった実業家からはSくんと一緒に中国で講演をしてもらえないかと打診がありました。かつての教え子と一緒にビジネス講習のために海外出張するなんて、IFIビジネススクールで教えていた頃には想像だにしませんでした。実現したらありがたいですね。というわけで、ここ数日は中国ファッション流通業者の方々に次回東京で、そして中国で、それぞれお話する内容をあれこれ考え、2つのパワポ資料を作成しました。特にファッション業界以外の事例をひも解くうちに「どうして日本企業のつくる製品には顔がないんだろう」と改めて疑問に感じ、このままだと電機が世界市場で減速したように近未来日本の自動車も世界で売れなくなると思わずにいられません。ひとつ例をあげるならば、MINIにはちゃんと顔があります。目の前を通過した瞬間、その車のロゴを見なくても車に全く興味のない私にだって一目瞭然MINIだと判別できます。しかし、ダイハツ、スズキ、三菱自動車など日本の軽自動車はどうでしょう。フロントについている会社マーク、後方についているブランドロゴを見なければ、よほど自動車に詳しい人でないと車種や社名は判別できません。セダンも同じ、メルセデスやBMWはロゴを見なくても通過した瞬間なんとなくどっちの車かわかりますが、日本のセダンは一般人にはわかりにくいでしょう。つまりマーチャンダイズに顔がありません。顔のないマーチャンダイズと中途半端な顧客分類でも、印象的なCMを流せばなんとかなるだろういう旧式戦略ではもう世界市場で通用しない世の中になっている。服であろうが、バッグや靴であろうが、自動車や電機製品であろうが、顔のないマーチャンダイズでは勝負できないという話を中国業界人にしようと考えています。コロナウイルス前もそうでしたが、中国ビジネス研修団は真剣に質問してくれます。疑問を感じた点はとことん質問してくれますから講演のやりがいがあります。Sくんはすでに何回も現地セミナーをした経験があるそうですが私は初心者マーク、刺激的な話をわかりやすく伝えたいです。
2023.10.07
東北大震災の翌年3月、三越銀座店と松屋が力を合わせ銀座歩行者天国で「ジャパンデニム」をテーマに青空ファッションショーを開いたとき、開催許可が警視庁からなかなか下りず準備の時間はなく、大手広告代理店に協力をお願いする間もありませんでした。百貨店2社で協賛金を集め、十分な予算がないままどうにか全長100メートルのランウェイでショーを決行。代理店抜きなのでイベント申請も、銀座中央通りの警備も、VIPのご案内係も大規模イベント経験がない社員が担当しました。歩行者天国でのファッションショーしかも当日はあいにく朝から雨、座席をタオルで何度も拭き、雨カッパや傘の用意、想定外の大人数の観客整理に社員はてんてこ舞い。フィナーレの瞬間頭上に太陽が現れたのが救いでした。イベント終了後営業本部長が「次回から代理店に頼みましょうよ」、さすがにみんな疲れましたから。代理店にお願いしていたら両社の社員がへとへとになることはなかったでしょう。東京オリンピックに絡んで元電通幹部やADK現職経営陣、さらに賄賂を贈ったとされるカドカワやアオキの経営者まで逮捕され、大きな社会問題になっています。裁判でこの五輪スキャンダルは最終的にどう収束するのか、また関係した大手広告代理店はいつになったらこれまで通りコンペに入札参加できるのか、私の仲間にも代理店関係者が少なくないので関心があります。事件のあと代理店のことをSNSで痛烈に批判する人はたくさんいますが、私のまわりにいた代理店関係者は一生懸命サポートしてくれた誠意ある人が多かったので、ボロクソ書き込みを読むたび反論コメントを書きたくなります。ファッションというソフトなジャンルだから代理店でも優しいスタッフが助けてくれたのかもしれませんが。私の背景が300坪の特設テント現場の責任者として東京コレクションを始めた1985年、主催団体の東京ファッションデザイナー協議会は単なる「みなし法人」、社団法人や協同組合ではありませんでした。さらに自主運営をうたって組織化されたので協賛金の類いは一切なく、運営経費はすべて参加ブランドが負担。つまり十分な資金がないので、現場を取り仕切ってくれるプロデュース会社や代理店に仕事を頼む経済的ゆとりはありませんでした。その上責任者の私はのど素人、それまではショーを取材して原稿を書いていた人間、何が会場設備として必要なのか、運営自体に何が必要なのか全くの無知でした。300坪の大型テントを建てたらそこにはコンセントがついていて、場内で使用する一般電気機器くらいはコンセントに差し込めば利用できると思っていましたが、テントに電源を引いてこないと場内非常灯すら使えません。作業員の昼、夕、夜食の弁当手配も事務局が手配すべきとはショーが始まったあとに知ったので、舞台美術の現場責任者が気を利かせて弁当の手配をしていました。仮設ショー会場ですから仮設トイレや水道も用意しなくてはならないし、作業員、モデル、演出関係者、観客の人数が半端ないので仮設トイレを大量に設置しないとパンクする、そんなことにも気が回らない私ですから、イベントを熟知する代理店にお願いすれば万事スムーズだったでしょう。補助金、協賛金があればそうしたはずです。第1回東京コレクション、300坪の別注色テントの製作と建設に提示した私の予算は440万円。当時普通のテント業者にこの大きさのテントを頼めばおよそ1000万円が相場、それを半額以下で請け負ってくれる会社を探して「将来私と付き合ったおかげで元がとれたという状況が来るよう努力しますから」と頭を下げました。ところが、建設初日からあいにくの雨、鉄パイプは滑るので作業は難航、予定よりも組み立てに時間がかかります。作業するトビの人数を数え、作業日数をかけたらそれだけで予算オーバーする、ど素人の私でもそれくらいはわかりました。傘をさしながら「この雨で赤字ですよね」と業者のSさんに訊いたら「はい、赤字です」、でも予算をプラスする余裕はありませんでした。テント完成時に「これでトビに酒でも飲ませてやって」となんとかひねり出した20万円を手渡ししました。実はこの数シーズン後には若いトビが鉄パイプから落下して打ちどころが悪く亡くなる事故がありました。このときも少し多めの香典を包むのが精一杯でした。舞台美術もしかり。300坪の床をさら地から組み上げ、その上にステージを作り、多目的ホールのようにイベントができる状態に仕上げてもらう予算は850万円、こちらも相場の半分でした。夜のテントはかなり冷え込むので仮設トイレとパンチカーペットを追加で敷いてもらいました。夜中の作業中に電卓をたたいて支払えるギリギリの予算を提示したのが深夜1時頃、約250坪のパンチカーペットは朝の9時には会場に届きました。私には想像できない機動力でした。コレクションが全て終わり、特設テントを撤収したあと責任者Oさんに「後学のために実際の見積もりを出してもらえませんか」とお願いしたら、「びっくりしますよ」と言われました。それでも本当の相場を知りたかったのでお願いしたら、出血大サービスで1700万円の明細が届きました。もちろん支払ったのは当初提示した850万円プラス追加してもらった仮設トイレ、パンチカーペット代のみ。テント業者同様手持ち資金はありませんから出世払いを約束するしかありませんでした。テントの設置場所はNHKのすぐ横、さっそくNHKから大河ドラマイベント用の大型テントの注文が入りました。また3000人は収容できる超大型ライブハウス「汐留PIT」(いろんなミュージシャンがライブ開催)の数億円の注文も入り、テント及び舞台美術業者はすぐに元がとれました。東コレはNHKニュースで取り上げられ、大型テントが何度も放送されたおかげで、業者に対して肩身の狭かった私は救われました。10年間東京コレクションの運営に携わりましたが、会場整理のバイト手配も、作業員の弁当手配も、私が調理する150人前の夜食材料費も、会場設営業者への支払いもすべて協議会事務局マター、プロデュース会社や代理店を通したことは一度もありません。もしも補助金、協賛金収入があって資金に余裕があれば、事故や破損のリスクのことを考え外部のプロに委託したでしょう。その方が絶対安心ですから。自主運営の東コレは数人の事務局スタッフでどうにか回せましたが、これ以外のイベントは代理店に入ってもらいました。若手支援策としてはじめた私たちの自主企画「東京コレクションANNEX」、これは外部スポンサーを集めて実施したプログラムでしたが、お願いした博報堂が社内のトヨタ担当チームと連携し、トヨタの協賛だけでなく当時CMに出演していた作家の村上龍さんを口説き、キューバのバンド共々村上さん自身も参加してくれました。資金集めも村上龍さんの参加も我々だけではとても実現しない、さすが大手代理店と思いました。このとき村上さんを連れてきた博報堂トヨタ担当の方とはいまも年賀状のやり取りがあります。東京国際モードフェスティバルのポスター東京都、東京商工会議所、東京ファッション協会、デザイナー協議会の4団体がパリ市とフランスオートクチュール協会の依頼を受けて開催した「東京国際モードフェスティバル」は電通が身を粉にして動いてくれました。昭和天皇のご容体が悪く一度延期する場面もあり、延期による出費超過がわかっていても電通の責任者らが献身的に動いてくれ、どうにか実現しました。結果的に採算割れになってしまいましたが、このとき電通のK常務は延期の相談をしたとき腹が座っていました。サラリーマン体質の人では延期の根回しはできなかったでしょう。京都、大阪、神戸の京阪神3県、3都市、3商工会議所とトータルファッション協会の10組織が合同で主催した「ワールド・ファッション・フェア89」への協力を大阪、京都の商工会議所の両会頭に頼まれたときは、3都市で企画する数々のイベントを大きく2つに分割、電通と博報堂にそれぞれ制作と協賛金集めをお願いし、両社には競争しつつ協力してもらってはと実行委員長に提案しました。公的機関が絡んでいるので一般的なテレビ番組制作による協賛金集めができないというハンデがあり、両社とも儲けはほとんどありませんでした。このときの両社スタッフの頑張りも忘れられません。Rakuten Fashion Week Tokyoメイン会場渋谷ヒカリエデザイナー協議会が20年間運営した東京コレクションは経産省主導で発足した日本ファッションウイーク推進機構に移管されました。最初の3年間は国の補助金がありましたが、これですべて賄えるわけではありません。数シーズンは電通が赤字覚悟で参画してくれました。このとき東コレというコンテンツで協賛を多数集められるかどうか電通社内で検討、協賛集めは難しいかもしれないと最初は積極的姿勢ではなかったと聞いています。が、電通の経営幹部はそれでもサポートを約束、まとまった資金をギャランティーしてくれました。もしも最初に電通の協力がなかったら現在の東コレは成立していなかったかもしれません。私たちは東京コレクション以外のイベントは代理店にあれこれお願いし、その資金力、ネットワーク、フットワークを実感しました。代理店幹部やスタッフもよく働いてくれたので、大手代理店批判が出るたび違和感を感じます。東京五輪の裏側で何があったのか知りませんが、ファッションイベントに力を貸してくれた人々の多くはナイスガイでした。
2023.08.27
今年もマーチャンダイジングの基本を教える「MDゼミ」がスタート。昨日は第4回目「マーチャンダイジングとは」を講義、「顧客分類→商品分類→展開分類→定数定量管理」の順番を守って仮説を立てることの重要性を説明しました。百貨店社員に向けて研修するときニューヨーク五番街にあるBERGDORF GOODMAN(バーグドルフグッドマン)がいかにして再生し、たった1店舗しかないデパートでありながら世界のベンダーから尊敬される存在になったのかをまず詳しく話すことにしています。DVD「ニューヨーク バーグドルフ 魔法のデパート」五番街で最も地価の高いコーナーは57丁目。現在その東側の北角には大型ルイヴィトン、南角にはずっと変わらずティファニー本店(オードリーヘップバーンの映画「ティファニーで朝食を」の舞台)、西側の南角にはブルガリが1階テナントに入るビル、そして北角にあるのがバーグドルフです。かつてティファニーを取り囲む形のビルで営業していたのが高級百貨店BONWIT TELLER(ボンウィットテラー。現在ここは建て替えられ、五番街側にトランプタワー、東57丁目通り側にナイキタウン)でした。カーター政権下景気後退で舵取りが難しい時代、ボンウィットテラーは商品分類はチグハグで売り場に魅力がなくなり、顧客はどんどん高齢化、ただ古臭い老舗店という印象でした。そしてチャプターイレブンを申請し事実上倒産しました。目の前のバーグドルフもボンウィット同様顧客の高齢化は顕著で古臭いイメージは拭えず、このままであれば近未来ボンウィットのように消滅するかもしれないと我々は見ていました。このとき郊外にあった支店を売却して資金を作り、2年半ほどかけて全館リニューアルに着手しました。当時百貨店の商品分類は、回転率の高い雑貨や化粧品は1階、ファッションは2階から上で展開が常識でしたが、新生バーグドルフは1階の中央部にジャンポールゴルティエ、イッセイミヤケの小型ショップを設置したのです。パリコレ赤マル人気上昇中ブランドとは言え売り場効率を考えればバッグやアクセサリー売り場が王道でしょうが、バーグドルフは「ファッション強化」のメッセージを放ったのです。Ira Neimark(アイラ・ニーマーク会長)Dawn Mello(ドーン・メロー社長)ストアイメージを劇的に変える大リニューアル、その後の発展には二人の功労者がいます。ファッションのプロとして指揮したドーン・メロー社長(のちにどん底だったグッチの再建を手がけて再びバーグドルフに復帰した方)と彼女をうまく機能させた経営者アイラ・ニーマーク会長(倒産したボンウィットテラーの下働きから業界キャリアをスタートした方)です。ニーマーク会長のリーダーシップとメロー社長らバイイング部門の目利き力がなければジャンポールドルティエ、イッセイミヤケの1階ショップ展開は実現しなかったでしょう。しかし、この大きな賭けは世界のデザイナーやハイエンドブランドの関係者の心に響きました。あの頃ニューヨークファッションで人気絶大だったペリー・エリスは私にこう話してくれました。サックスフィフスアベニュー(五番街49丁目に本店がある高級百貨店)は多店舗なので発注量はかなり多いけれど、別注企画を引き受けるならバーグドルフ。なぜならバーグドルフはスペシャルなストアだから、と。人気デザイナーが多店舗のサックスよりもたった1店舗のバーグドルフへの思い入れの方が強い、これこそ小売店の「品格」なのでしょう。ティファニー側から見たバーグドルフグッドマン3階インターナショナルデザイナーフロアボンウィットテラーは小手先のブランド入れ替えを続けて売り場はどんどん陳腐化、最後は倒産しました。抜本的な改革に着手しなかった経営幹部の責任は大きい。一方、同じような古臭さがあったバーグドルフは社運を賭けた全館リニューアルが功を奏して生き残り、世界のブランド企業から尊敬される存在になりました。高齢の顧客が販売員に「昔のバーグドルフはこんな店じゃなかった」と食ってかかるシーンに遭遇したことありますが、だからこそバーグドルフは「魔法のデパート」としてその存在感を高めたと言えます。経営陣の危機意識の差です。流通業にもナンバーワンかそれともオンリーワンかという議論はよくありますが、バーグドルフはまさしくオンリーワンの存在感を消費者にも世界のベンダーにも示しました。当時ニューヨークに住んでいた私は劇的に変わるプロセスを間近で見ていたので、その後もずっとバーグドルフを教科書のつもりで視察、ニューヨーク研修旅行では参加する部下たちにバーグドルフだけは滞在中何度も足を運んで細かく調べるよう指示してきました。今年のMDゼミでも、バーグドルフの再生の経緯を冒頭に触れ、マーチャンダイジングの基本中の基本をしっかり守りましょうと毎週受講生に伝えています。彼らもゼミが完了したらバーグドルフ視察に行けるといいですね。
2023.08.25
私たちよりちょっと年長の世代には高校、大学時代にVANでおしゃれを学んだアイビー族がたくさんいます。先輩たちほど私たちはアイビールックやアメリカントラディショナルに熱烈ではありませんが、ニューヨーク視察で気になるショップはどういうわけかトラディショナル、プレッピー系が多かったです。マジソン街のラルフローレンメンズ旗艦店マーチャンダイジングの新解釈としてカッコいいなあといつも思っていたのはソーホーのウエストブロードウェイにあった「ポロスポーツ」。長めのハンガーラックにラルフローレン・パープルレーベル(ほぼ手縫い)、同ブラックレーベル、ポロスポーツ、R R L、セカンドラインのラルフ、さらにはリーバイスやリーのヴィンテージをごちゃ混ぜに並べ、それぞれのラックが一つの世界観を発し、ラルフローレンの全ブランドをあたかも因数分解したような印象でした。当時は簡単そうでなかなかできない構成、さすがでした。(写真たくさん撮影したはずなのに、なぜか手元に1枚もありません)マジソンアベニュー東72丁目ラルフローレン本店は品格があっていかにもトップブランドのラグジュアリー旗艦店、デザイナーのセンスの良さがストレートに伝わるいい店です。が、私はソーホーのポロスポーツでたくさんビジネスヒントをもらいました。2枚ともRUGBY(ラグビー)ラルフローレンでもう一つお気に入りだったのは、ユニバシティープレイスの「ラグビー」。学生たちも多く行き来するグリニッチヴィレッジ地区に安価なラルフローレン・テーストのカジュアルショップ。狭くていつもごちゃごちゃしててお客さんが多く、「何か買わなきゃ」って気持ちにさせる不思議なお店でした。しばらく日本での展開がなかったので日本人観光客をしょっちゅう見かけました。もうラグビーは廃止されてしまったので覚えている人は少ないかもしれません。結構売れてたのになあ、経営方針の変更でもあったのでしょうか。もう一つ気になったお店はトライベッカにあったJ・クルーの特別バージョン「リカーショップ」。ホコリが被っているような古いリカーショップ(酒屋)を居抜きで引き取り、そこにジーンズカジュアルをドーンと並べた、J・クルーにしてはお値段そこそこのジーンズショップです。昔のリカーショップにはちょっとしたバーカウンターがあり、お客さんはそこで一杯やれました。そのバーカウンターもお酒を並べる棚もそのまんま、ヴィンテージっぽい加工ジーンズが無造作に積んでありました。古着屋のような雰囲気あるお店でしたね。2枚ともLIQOUR SHOP(リカーショップ)東北大震災の1年後、私たちが銀座中央通り歩行者天国で「ジャパンデニム」のファッションショーを開催したとき、テレビ局は全局夕方のニュースで報道してくれましたが、NHKだけはニューヨーク支局の現地取材映像をプラスしてオンエアー。その映像は、このリカーショップ販売員がジーンズを紹介しながら「日本のデニムは最高」とコメントしてくれました。残念ながらJ・クルーは2020年新型コロナウイルス感染の影響で会社更生法を申請、どうやらその前後にこのショップは消滅したはず。いまニューヨーク視察に出かけたら、バーグドルフグッドマンなどハイエンドな店は別として、見なければならないたくさんヒントくれそうなお店はどこなんでしょう。久しくニューヨーク行ってない、行きたい。
2023.08.22
今日これから本年度МDゼミ(マーチャンダイジング・ゼミナール)を開講します。1995年当時の社長に誘われて移籍してこのゼミを開きましたから、もう随分多くの社員が受講してくれたことになります。ここ数年教えていることは、マーチャンダイジングに奇策はない、基本に忠実に仕事しましょう、マーチャンダイジングの原理原則を守りましょう。誰に、何を、どのように、いくつ販売するつもりなのか、しっかり計画を立てて取り組む。簡単なことなんですが、これがなかなか守られない、そんなこと気にしたことがない小売店が世の中にはたくさんあります。他店はともかく自分たちは基本をちゃんと守りましょう、と教えてきました。マーチャンダイジングの基本とは別に必ず話すことがあります。企業は規模ではないということ。たくさん店舗を持っていなくても、世界のブランドとは普通に交渉できる、世界的ブランドは規模で判断するわけではなく、どういうビジネスをするつもりなのかその戦略と熱意を見てるから、と。若手社員に自信をもって世界と交渉してほしいので、毎回いくつか事例を出しながら説明することにしています。私が移籍した当時、インターナショナルブランドのオリジナルコレクションの扱いはゼロでした。当時あったものは、名前は欧米の有名ブランドでも日本のメーカーが提携して作ったライセンス商品(本物とは質もデザインも大きく違っていました)、あるいはオリジナルコレクションではなくセカンドライン(素材や縫製の質も価格もオリジナルより低いディフュージョンライン)だけでした。完璧に世界的ブランドのオリジナル商品はゼロ、でした。ルイヴィトンから始まった大改装だから、一気にお店を改装し、世界に感たるブランドのオリジナルコレクションをドーンと導入しようと経営幹部を説得、海外ブランド企業との交渉が始まりました。まず最初に交渉したブランドはルイヴィトン、日本で最も品揃えのいい大型店を一緒につくりませんか、と提案。本国の社長に打診したところすぐ来日してくれ、その数日後にはパリから店舗設計チームが模型をもって来日、仕事のスピード感に驚かされました。数か月後には大型店が完成、そのオープニングが読売ジャイアンツの優勝祝賀パレードと日にちが重なって銀座メインストリートは大混乱、危険なのでお客様には店内の階段に並んでいただき、行列最後のお客様をご案内できたのはなんと閉店時間直前でした。ルイヴィトンに続いて順次海外ブランドを導入、フェンディ、ディオール、セリーヌのほか、ドリスヴァンノッテン、マルタンマルジェラ、マルニ(3つともその後に退店)にも入ってもらいました。そのあとも改装は続き、サンローラン、バレンシアガ、クロエ、ステラマッカートニー、モンクレール、プラダ、ミュウミュウ、クリスチャンルブタン、ジミーチュウ、ロジェヴィヴィエ、ジルサンダー、マロノブラニクなどを展開、近年ではロエベ、グッチ、ジバンシーもショップができました。クリスチャンルブタン日本初のショップ親会社トッズの本社工場まで行って交渉したロジェヴィヴィエルイヴィトン開店時に導入したディオール長くフェンディは旗艦店でした1階と2階にショップがあるセリーヌプラダとミュウミュウは同時に導入モンクレールにも広いスペースアンダーソンになって人気上昇中のロエベ各国で復活基調のジルサンダー試着室内がかわいいステラマッカートニーステラもかつてデザイナーを務めたクロエ20世紀最後の年までオリジナルインポート商品はゼロだったなんて最近入社した若手社員はそんなこと知らないでしょうね。振り返れば、よくここまで集めたものだと思います。キミたちの先輩たちは外資企業との交渉頑張りました、とゼミ初日で説明します。
2023.08.03
東京ファッションデザイナー協議会(略称CFD)責任者として10年、CFDから東コレ運営を引き継いだ日本ファッションウイーク推進機構のコレクション担当理事として17年、合わせて27年も私は東コレに関わってきました。さらにアパレル企業の経営者として10年。これまで多くのファッションデザイナーと接してきましたが、「もっと売れるものを作って」とデザイナーに言ったことはありません。ファッションビジネス人としての信条だからです。シャネルは外部デザイナーとブランド協業のお手本バイヤーやマーチャンダイザー育成の勉強会ではよく受講生に話します。「せっかく作ったんだから販売が容易でないものもチャレンジすべき」、と。ブランドのファッションショー、次シーズンの売上はかなり行けそうと自信あるコレクションもあれば、売れないかもしれないと不安になるコレクションもあります。前者では、前年実績など気にせず行けると思う極限まで発注予算を上げて販売してみよう。後者では、前年以上は無理かもしれないけれど、ビジネスチームの力でなんとか前年並みは頑張ってみよう、決して「売れない」と諦めてはならない、販売スタッフやマーチャンダイザーにはよく言いました。パリコレのランウェイや展示会で商品を見ながら「前年比120%は行けそう」という好コレクションもあれば、「前年比80%は覚悟しなければならないかな」と悲観的なものもありました。発注時に前年比80%想定の発注をすれば実際には80%にも届かない、発注にメリハリをはっきり付けて例年以上に綿密な販売計画を立て、チーム全員で前年並みは頑張ろうとハッパをかけました。クロエも最近デザイナー短期交代が続くかつてパリコレや東コレでは、ショーに登場する服はぶっ飛んでておもしろいのに展示会に行くとその大半はボツ、生産する予定もないのにマネキンやハンガーラックに掛けて見せているというケースがたくさんありました。販売予定がない服を平気で掲載し、「参考商品」と表記するファッション雑誌も日本ではよく見かけたものです。これって極端な言い方すれば詐欺行為、あってはならないと言い続けてきました。その点、私がニューヨークに住んでいた頃の米国ファッション雑誌はしっかりしていました。「参考商品」なるものの掲載はしないどころか、雑誌の巻末に編集ページで取り上げたものは全米のどの小売店で販売予定か一覧表記してありました。つまりショーで見せるだけの服は読者に紹介しない編集方針が徹底されていたのです。バーニーズニューヨークの幹部と一緒に買い付けに来日したとき、ショーに登場した服はクリエイティブでおもしろいけれど展示会場では普通の服がズラリ並ぶ光景を何度も見ました。そんなブランドには「なんのためにファッションショーをしているんだろう」と大いに疑問を感じたものです。あの頃東京は時代錯誤のままでしたから、CFDを設立したときからずっと「ショーで見せたら売る、ボツにはしないで」、「参考商品は展示会で見せない、貸し出しをしない」と唱えてきました。フィービー・ファイロはセリーヌの価値を高めたデザイナーがつくるコレクションは、仮に100枚生産してほぼ完売が予測できるものもあれば、100枚作ったら10枚も売れないだろうというものも中にはあります。売れそうにないからとボツにしていてはチャレンジングな服の本当の評価はわかりませんから、100枚は難しくても2、30枚くらいは生産してお客様に訴求すべきでしょう。それでもプロパー消化率75%目標と現場には要求し続けました。せっかく生地屋さん、工場さん、パタンナーも含めてみんなで一生懸命作ってショーで実験服を見せるのです、簡単に量産ボツにしないでお客様の反応を見るべき、その代わりブランド全体で高いプロパー消化率ならそれでいいじゃないかと何度も繰り返し言い続け、結果的に難しそうなコレクションピースを生産しつつプロパー消化率70%以上(現場には常に目標75%消化を要求)を維持できました。この75%目標の話をアパレル企業の経営者たちとの宴席で話したら、「滅茶苦茶な数字を言うんだね」と笑われましたが、これは架空の話ではなく実際に達成してきた事実なのです。コムデギャルソン青山店バーニーズニューヨークの買い付けで初めてコムデギャルソンと出会ったときから、難しい服でもボツにはしない姿勢に共感してきました。80年代初めボロルックと揶揄された穴あきセーターやナイフで切り刻んだ服も、コムデギャルソンはボツにすることなくちゃんと市場に供給していました。その「見せたら売ってみる」強い意志、ブランドビジネスでは非常に重要なことだと思います。ニューヨーク時代、デザイナーとマーチャンダイザーはイコールパートナーと教わりました。どっちがポジション的に偉いかではなく、デザイナーはクリエーションに責任を持ち、マーチャンダイザー(あるいはブランド責任者)はビジネスに責任を持つ。ビジネス側はクリエーションに口を出さない、デザイナーは枚数配分や営業政策に口を出すべきではない。だからビジネス側は「もっと売れるものを作って」と言ってはならない、クリエーションを受け止めてそれをどう売るか考案するのはビジネス側の責任範疇です。ラフ・シモンズのディオール退任は早かったエディ・スリマンのサンローランも短命アレキサンダー・ワンのバレンシアガも短命最近海外有名ブランドのデザイナー交代劇が頻発、しかも在任期間があまりに短い解任が増えたように思います。コロナによる消費減速、原材料の高騰、過熱したショー演出の経費増などが関係しているかもしれませんが、一番の問題はデザイナー就任時の両者の話し合いが十分になされていないのが原因ではないでしょうか。クリエーションにビジネス側が口出しすれば、デザイナーはやる気を失います。売れる売れないはマネジメントの責任、デザイナーのせいにしてはならないでしょう。このところのデザイナー交代劇、概してビジネス側が勘違いしているのではと思えてなりません。デザイナーを外部からわざわざ招聘したら、デザイナーのクリエーションを信じた上でブランドはどういう路線で行くのか、主にどういう顧客ターゲットを狙うのか、どういう販路を強化するのかを十分話し合い、長くプロジェクトが続くようお互い努力すできでしょう。そうすれば2年足らずの短期間で解任なんてニュースは増えないはずですが。ロエベはレアケース人気が衰えないジョナサン・アンダーソンのロエベ、もうすぐ提携10年目になります。若手の外部デザイナーと老舗ブランドの協業では関係が長く続いている、いまとなってはレアケースです。既存の顧客だけに頼らずいろんな試み(例えばスタジオジブリとのコラボ)をして新規客の開拓をしていますが、デザイナーの挑戦をビジネス側がちゃんと受け止めている様子が目に浮かびます。こういうデザイナーとマネジメントの良好な関係がもっと増えるといいですね。
2023.07.29
古いパソコンの保存画像を整理していたら、10年前パリコレ出張したときにプランタン百貨店で撮影したCHLOÉ(クロエ)プロモーションの写真が出てきました。クロエは創業者ギャビー・アギョン(1921~2014年)から何人もクリエイティブディレクターが交代していますが、その割に世界観は大きく変わっていない珍しいブランドだな、と改めて思います。2013年春プランタン百貨店でのプロモーションそもそもクロエの服を私が初めて目にしたのは1974年、当時世界各国で活発なウール振興事業を展開していた国際羊毛事務局(ウールマーク)の業界人向けセミナーでした。このときパリで人気急上昇中と紹介されたカール・ラガーフェルドのクロエとケンゾー(高田賢三さん)の新作を初めて見せてもらい、大学生だった私は感動したことを覚えています。ブランド中興の祖であるカール・ラガーフェルド以外にこれまでどういうデザイナーがクロエに関わってきたのか、ネット検索をしてみました。1963年にカールがクリエイティブディレクターに就任して以来今日まで随分多くのデザイナーが関わってきたんですね。しかも、カール以外はほとんどが短期間務めて退任して(もしくは解任させられて)います。クロエ時代のカール・ラガーフェルド(クロエHPより)1952年 創業1963年 カール・ラガーフェルド1988年 マルティーヌ・シットボン1992年 カール・ラガーフェルド復帰1998年 ステラ・マッカートニー2002年 フィービー・ファイロ2008年 パウロ・メリム・アンダーソン2009年 ハンナ・マックギボン2011年 クレア・ワイト・ケラー2017年 ナターシャ・ラムゼイ・レヴィ2020年 ガブリエラ・ハースト2012年秋パリで開催されたクロエ回顧展そして、2020年からディレクターを務めるガブリエラ・ハーストの退任が先日発表されたばかり、またもや短命です。9月のパリコレ2024年春夏シーズンが彼女のクロエ最後のコレクションとなりますが、どうしてカール以外のデザイナーはみんなこうも短命なんでしょう。しかしながら、こんなにコロコロ交代しているのにクロエのフェミニンなブランド世界観はほとんど変わらず、歴代デザイナーによって引き継がれていますから、なんとも不思議なブランドと言えます。近年の人気ブランドの継承劇を見ていると、後継指名されたデザイナーは自分のカラーを打ち出すこととブランドDNAを守ることの狭間で揺れているケースが多いように感じます。ブランドによってはDNAは全否定、イメージチェンジを狙って既存のお客様から見放され、新規顧客を獲得する前にブランドを追われてしまうデザイナーは少なくありません。デザイナー交代ブランドを見るとき、いつも思うことがあります。既存ブランドを引き継ぐのであれば、後継デザイナーはブランドのこれまでの軌跡をしっかり検証し、ブランドDNAは最低限継承した上でクリエーションすべきではないか、と。それを無視して自分のキャラクターを前面に押し出したいのであれば、既存ブランドを継承せず、自らのブランドで自由にクリエーションすればいいのではないでしょうか。2013年春夏CHLOEコレクションかつてブランド継承劇を当事者として目の当たりにしたとき、私は後継デザイナーに「ブランド世界観の中であなたの信じるデザインをしてください。売れる売れないは考えなくていい、それはマーチャンダイジングを担う我々が考えることですから」と最初に話ししました。先駆者が築いたブランドDNAを守ることを前提に自分が信じるクリエーションをして欲しい、ショーで発表したものは必ず作って販売、売るのが難しそうなものでも絶対に生産中止にはしない、と約束しました。私はこれまで多くのデザイナーといろんなプロジェクトに関わり、若手たちにたくさんアドバイスもしてきましたが、「もっといい服を作って」と言うことはあっても、「もっと売れる服を作って」と言ったことはありません。ブランドビジネスではものづくりチームが納得いくクリエーションをすればいいし、ビジネスサイドがクリエーションに口を出すべきではない。しかしどの商品をどれだけ生産するかの判断はマーチャンダイザーの領域、デザイナーは口を挟むべきではないと私は考えます。販売スタッフにもよく言いました。「せっかく作ったのだから、売るのは難しいと簡単に諦めないでほしい。試着室にご案内してお客様の判断を伺ってみよう。結果的に売れなくても売る努力だけはしようよ」と呼びかけました。同時に高いプロパー消化率を勝ち取る発注術を指導、難しい商品をボツにしないでブランド全体の消化率を上げることは可能と伝えました。抜擢されたデザイナーとマネジメント側がブランドDNAをどうするのか最初に十分話し合い、合意してコレクション制作がスタートすれば解任トラブルは少なくなるでしょうし、カールとクロエやシャネル、フェンディのように蜜月関係は長く続くと思います。が、デザイナーとブランドのマネジメントとの不幸な別れが多いのは、最初にきちんと協議していないからではないでしょうか。このところ世界で名の通った欧米ブランドのデザイナー退任ニュースが次々発表されます。5年にも満たない、まるでお役所の人事異動のような交代続き、それぞれ事情はあるでしょうがあまりに早すぎます。ブランド側はしっかり話し合ってデザイナーがロングスパンでクリエーションできる環境を整え、デザイナー側はブランドDNAを受け止めてブレないコレクションを制作してほしいですね。
2023.07.15
銀座4丁目晴海通りにあるGAPフラッグシップ閉店のニュースには驚きました。これで東京都内には大型店がなくなります。これは日本市場撤退シグナルなのでしょうか。すでに低価格ブランドのオールドネイビーは日本撤退し、GAPとバナナリパブリックはこの先どうなるのか心配です。閉鎖が決まった銀座店大学卒業してすぐニューヨークに渡り、最初に私が買った服はポロシャツ2枚と綿パン1本、五番街西34丁目エンパイアステートビルの隣接ビル1階にあった小さなthe gapでした。値段は3点で50ドル程度、あの頃のthe gapはまだ100%オリジナル製造小売業態ではなく、リーバイスが品揃えの半分、ラングラー、リーなど他ブランドが約4分の1,残りが自社オリジナル商品、日本のカジュアル専門店となんら変わりないジーンズショップでした。日本に帰国して再びニューヨークを訪れた1989年、在住時代に見慣れたGAPは大変身を遂げ、お店の多くは大型化して店頭の品揃えは見応えあり、自社オリジナル商品は増え、ほんの一部にリーバイスという商品構成でした。翌年リーバイスとの取引を打ち切り、全商品自社オリジナルの製造小売業を標榜することになりますが、ニットやシャツなどの企画も充実していました。最初のロゴはthe gapでした出張から戻った私は、ニューヨーク三越駐在員だった友人の山縣憲一さんに「GAPがすごいことになっている」と興奮気味に話したら、山縣さんはそっけなく「ウソだろ」。そうですよね、GAPがカッコいいなんてそれ以前に米国駐在経験のある人なら想像つかないでしょうから。ジーンズにしてもチノパンにしても色展開やシルエット別展開、そしてサイズ展開とも豊富でしたが、一番感心したのはニットの企画でした。3色のコットン糸を使って3色のカラーブロック柄、2色ブロック柄、そして無地展開のプルオーバー、襟の形もクルーネック、Vネックがあり、レジの横にはこの3色を使ったソックスが並ぶ。色を絞ってニット糸の発注ロットをまとめ、3色をいろんな掛け合わせやデザイン、アイテムで使うので店頭はごちゃごちゃしない。VMD面でも整理整頓分類がしやすく、その分商品が綺麗に見えました。在住時代のthe gapでは見たことがなかった構図でした。2000年前後に私たちが百貨店の大規模リニューアルを進めていたとき、百貨店の経営層から若いバイヤーまでを連れて米国視察に頻繁に出かけました。このときGAPやバナナリパブリックのVMDや定数定量管理のみならず、広めの試着室や承りカウンター、通路の取り方までお手本にさせてもらいました。あの頃のバナナリパブリックの「トレンドをあえて外す」商品企画とプロモーションのワザには「すごいなあ」としびれました。キーカラーはグレー、差し色はレッド、グレーの濃淡でいろんな表情をお客様に提案する、これが当時のトレンドでした。が、トレンドに沿ってウインドーをグレーで飾る他店と違い、「カーキ」をキャッチコピーとして前面に打ち出し、カーキ、オリーブ、ダークブランのチノパンとニット商品をウインドーにも通販カタログの表紙にも起用したのです。このときのバナナリパブリックには勢いがありましたし、素材面でも質感のある日本製を多用していました。どん底だったGAPグループを外部からきて立て直した製造小売業のカリスマ経営者ミッキー・ドレクスラーCEOが退任して競合のJ・クルーに移籍すると、グループ全体が商品自体のことよりも価格主義、コスト削減に走り出しました。日本製素材は器用されなくなり、商品クオリティーはガクンと下がり、お手本にしてきた店頭のVMDや定数定量管理もずさんになってしまい、ついには同行出張者に「もう見なくていいよ」と視察対象リストから外したくらいです。発祥の地サンフランシスコの旗艦店かつてドレクスラーCEOがGAPに引き抜かれたとき、商品クオリティーがあまりに悪かったので社員に向かって「キミたちは自社商品を買いますか?」と質問、「自分たちが買いたくなるような商品を作ろう」と呼びかけ業務革新したと聞いています。が、カリスマ経営者が退場したあと、商品の魅力は大幅レベルダウン、結局再び視察のお手本にしたくなる小売店リストに戻ることはありませんでした。GAPが日本上陸した90年代半ば、日本ではGAPの商標は日本の某企業がすでに取得済み、GAPとの間で裁判になりました。この裁判で米国GAP側の証人として私は弁護士さんからサポートを頼まれ、某企業が商標登録した頃GAPがどの程度日本で知名度があったのか、またニューヨークから米国事情を業界紙に書いていた私がどの時点でどのような記事を書いたのかを記事コピーを提出してGAPを擁護しました。来日した創業一族のロバート・フィッシャー氏からお礼のディナーに呼ばれ、また米国視察の折にはニューヨークのお店を開店時間前に見学させてもらったこともあります。米国出張するたび何がしらかのヒントをくれたお手本、しかも商標裁判でサポートした思い入れのある会社がどんどん劣化し、ついにはフラッグシップ店を閉じるところまで来てしまいました。残念です。
2023.06.26
前述したIFIビジネススクールは1994年試験的な夜間プレスクールを開講、その後夜間プログラムを増やして98年には全日制2年間マスターコースがオープンしました。知識やノウハウを提供するのでなく、山中鏆理事長の言葉を借りるなら「実学で問題解決能力を身につけさせる」、これが建学精神でした。DCブランドブーム時代に人気があったアトリエサブの田中三郎社長から「息子を海外のどの学校に留学させたらいいだろう」と相談されたとき、数ヶ月後にビジネススクール全日制コースが始まるとIFI入学を勧め、また大学出たらファッションの道に進みたいと言い出した私の甥にもIFIを勧めました。実学で鍛える学校、なにも海外に行かなくても日本で教育できると信じていましたから。1986年私塾「月曜会」を始めたとき、自分なりの実践教育を日本でやってみようと考えました。そのベースとなったのは、私自身がかつて受講したパーソンズ(Parsons School of Design)夜間プログラムのバイヤー研修。売り場に並ぶ商品そのもの、品揃え、陳列方法が教材、毎回出される宿題は自ら売り場に行って考えなければならないものばかり、特に「敵情視察」はキツい、でも最も役に立った授業でした。業界の中心地7番街西40丁目角のParsons校舎1994年2月、IFIに委託されてニューヨークに出張、パーソンズの関係者にヒアリングして同校の実践教育をレポートしました。このときその教育方針を詳しく教えてくれたのは、名物学部長だったフランク・リゾーさん(交友録32で紹介)、マーケティング担当だったディーン・ステイドルさん、デザインの歴史を指導するジューン・ウィアーさん、多くの米国デザイナーを育て「ゴッドハンド(神の手)」と称されたパタンメーキングの名手ツヤコ・ナミキ先生でした。中央:ジューン・ウィアーさん、右:ディーン・ステイドルさん私がニューヨークコレクションの取材を開始した70年代後半、ジューン・ウィアーさんは専門媒体WWD紙の編集長でした。パリ五月革命に遭遇して「オートクチュールに未来はない」と渡米を決断した若き三宅一生さんが最初にポートフォリオを見せに行ったのがウィアー編集長。彼女は三宅さんのポートフォリオを見るなり当時人気デザイナーだったジェフリー・ビーン氏に電話をかけ、「ジェフリー、いま私の目の前にあなたにぴったりの若者がいるの。そちらに行かせるから会ってあげて」。こうして三宅さんはジェフリービーン社でアシスタントデザイナーを務め、のちに日本に帰国しました。「あの日のことはいまもよく覚えているわ。イッセイのポートフォリオを見た瞬間、ジェフリーに紹介しなきゃと思ったの」。上の写真撮影のときにウィアーさんから直接伺った話です。彼女はWWD編集長の後ニューヨークタイムズ紙日曜版エディターになり、退職してパーソンズで教鞭をとり、大手流通企業の社員研修でもファッションデザインと時代との関係を教えていました。ジューン・ウィアーさん概して、ファッションショーの最前列に陣取る主要媒体のベテランエディターや編集長は眉間にシワを寄せ、眼光鋭く登場する新作をチェック、きつーい性格なんだろうなという女性が少なくありませんでした。が、彼女は珍しく温和で人当たりの優しい方、多くのデザイナーに愛されました。この人の存在を日本に伝えたいと思った私は原宿クエストビルが主催するフォーラムの特別講師に彼女を招聘、企業研修用の貴重な写真とともにモードの変遷を解説してもらいました。ツヤコ・ナミキさんは以前このブログで触れた原口理恵基金「ミモザ賞」の受賞者のお一人。ペリーエリスのアシスタントデザイナーだったアイザック・ミズラヒ氏が独立して自分のブランドをスタートするとき、パーソンズの恩師だった並木先生にパタンメーキングをお願いし、学校で指導しながらアイザック社のチーフパタンナー兼務でした。ゴッドハンドの並木ツヤ子さん以下はミモザ賞10周年記念本に寄せられた教え子デザイナーたちのコメント。「花には太陽があるように、我々には並木ツヤ子がいる。彼女は太陽のように力強く、何も言わず、キラキラ輝きながら、至極当然のように創造を可能にする。」 (アイザック・ミズラヒさん)「誰しも生きる上で、アドバイザーや教師、すなわち自分を親身になって支え、励ましてくれる人を求めるものです。生徒が自分の創造性を模索する途上で経験する色々なこと(良いことも悪いことも)を常に温かく見守り、理解を示してくださる師、それが並木さんでした。先生はいつも公私両面で私を支えてくださいました。彼女はまさに時間や年齢を超えた存在です。」 (ダナ・キャランさん)「並木ツヤコ子さんは私にとって奇跡のような存在です。先生、アドバイザー、セラピスト、何でも話せる母親、魔術師、友人としての側面をすべて兼ね備えているからです。こうした面を持つ並木さんはこの地球に存在する最高の人間であり、私は常に敬愛申し上げております。」 (ジェフリー・バンクスさん)3デザイナーのコメントからも並木さんがいかに慕われていたかわかるでしょう。会食している間は失礼ながらごく普通の優しいおばさん、しかし話題がこと人材育成になると急に目がキリッと鋭くなって別人の表情に豹変、並木さんは根っからの教育者でした。パーソンズ退官後帰国され、目白ファッション&アートカレッジ(小嶋校長がパーソンズ出身)で指導されていました。恐らくもう引退されていると思いますが。パーソンズ流実学を最もわかりやすく解説してくれたのがディーン・ステイドルさん。私がニューヨークで取材活動をしていた頃ファッションショー会場でよく見かけたマーケティング専門家です。彼の授業の教材はニューヨークタイムズ紙の記事、いわゆる教科書の類いではありません。例えばパリコレの記事を読んで、書いたエディターの意見を自分自身はどう思うのか学生に発表させます。インターン研修でデザイナーブランドに配属されると、学生は売り場に行ってブランドの想定ターゲット、コレクションの特徴、市場競争力を考察、アシスタントデザイナーになったつもりでデザインします。そのためのマーケティングの目をステイドル先生は鍛えますが、ここにはアカデミックな「マーケテイング論」や「マネジメント論」は存在しません。学生から慕われていたステイドル先生90年代前半からニューヨーク出張のたびステイドルさんの講座で私は特別講義を担当しました。「もっと米国以外のブランドにも目を向けるべき」と発言したら、米国有力ブランドからの誘いを振り切ってヨーロッパに渡った学生が数人いて、「あなたの影響で優秀学生はヨーロッパに行ってしまったよ」と言われました。年間最優秀学生の一人は「どうしても日本で働きたい」と熱望、卒業後私は彼女の来日を根回ししたこともありました。特別講義の最後に私は必ずこのセリフを言いました。「いま私が教えたことは、かつて私がこの教室で教えてもらったことです」と。パーソンズの夜間プログラムで売り場の見方を鍛えられた日本人が後年同じ教室で学生にそれを伝授する、一種の高揚感がありました。出張のたびステイドルさんとはよく意見交換しましたが、ある日彼から1つ頼み事をされました。ウィスコンシン大学時代に学生寮のルームメイトだった日本人を探して欲しい、と。自宅が火事で学生時代のものは全て消失、記憶にあるのはルームメイトのニックネーム「ベン」、彼の実家は「ティーカンパニー」、「エンペラー(天皇陛下)と交流があるようだ」の3点でした。帰国して3つのヒントをもとに日本茶専門紙などに当たってもらいましたが、ベンはなかなか発見できません。ところが読売新聞社の生活家庭部の若い記者さんが「ひょっとしたら」と有力候補を教えてくれたのです。記者さんからもらった番号に電話して、奥様に「ご主人は若い頃ウィスコンシン大学に留学されていましたか」と訊ねたら、まさにステイドルさんのルームメイトでした。有名な日本茶会社の経営者、天皇陛下(現在の上皇様)のご学友、ファーストネームはBで始まる名前なのでニックネームは「ベン」。ステイドルさんは30余年ぶりにベンさんと日本で再会できました。しかもベンさんは私を松屋にスカウトしてくれた古屋勝彦社長をよく知る先輩、なんとも不思議なご縁でした。私流の実学はパーソンズの先生方との交流でヒントをたくさんもらい、何度も教え方に改善を加えて作ってきたものですが、一番見習ったことは、学生に対する厳しい姿勢と同時に優しい目線でした。人を育てるコツはなんといっても愛情ですから。
2023.06.06
このハッピーな表情の写真は、私の誕生日を祝福するために集まってくれた久々の同窓会で元教え子が撮影してくれたものです。今日はそこに至るまでの話を。1985年5月ニューヨークのファッションウイーク終了直後、繊研新聞社主催ニューヨークセミナーのために通常の短期帰国した私は、ファッションデザイナーの団体を組織化することになり、結局そのままずっと東京に滞在して設立準備。復路の航空券は期限切れ、再びニューヨークに行けたのは4年後の1989年でした。85年7月CFD(東京ファッションデザイナー協議会)が正式に発足、11月に初の東京コレクションを開催。その直後、通商産業省(現在の経済産業省)生活産業局繊維製品課の課長以下数人がCFDオフィスに。FCC(ファッションコミュニティーセンター)とWFF(ワールドファッションフェア)構想の具体化のための検討委員会に委員として参加するよう求められました。ハコモノと大型イベントに全く興味はなくお断りしましたが、いろんな方に説得されて最終的には引き受けることに。弱冠32歳でした。検討委員会に参加すると、30代はおろか40代の委員さえいない完全なアウェイ、発言の順番は年齢からか最後の最後でした。業界ベテラン識者たちの非現実的な意見を長々聞いていた私は我慢ならず、委員会終了後渡辺光男課長に「年功序列で発言の順番が回ってくるなら時間の無駄、次からは挙手で発言させてください。でなければ委員を辞めます」と申し上げました。全国各地にFCCという名のハコモノを建設して情報発信しようという構想自体に無理があり(結局は建設されたものの情報発信拠点として機能している例は皆無、ほとんどは赤字)、どう考えても無駄なこと。それよりもファッション流通業界は人材育成をもっと強化すべき、仏壇つくる話よりも中に入れる仏様の話を優先すべきじゃないでしょうか、と。このとき若手官僚が「いったい誰が人材育成できるんですか」と質問、「やる気のある人が学びたい若者を集めてやればいいじゃないですか。なんなら私がやってみましょうか」という話になり、CFDオフィスで毎週1回月曜日夜に開講する受講料無料の「月曜会」を始めました。定員は会議室におさまる25人、新聞告知で募集しました。1986年秋のことです。ちなみに月曜会の参加者は、インテリアやプロダクトデザインで活躍している吉岡徳仁くん、バオバオイッセイミヤケを大ヒットさせた松村光くん、ワールドのアンタイトル企画にも携わったオブジェスタンダール森健くん、ショープロデュースのドラムカンを起こした田村幸司くん、ほかにも小売店、テキスタイル、アパレルメーカー若手社員や業界を目指す学生たちでした。開講して4年目、墨田区役所職員が月曜会を見学、ファッションビジネスの人材育成機関を墨田区役所移転後の敷地(両国)に建てるFCCに作って欲しいと頼まれました。区役所の方々にも「ハコモノよりも中身が重要」と言ったからです。こうして墨田区役所でファッション産業人材育成戦略会議が発足、繊研新聞社編集局長松尾武幸さんに座長をお願いし、コルクルーム安達市三さん、オンワード樫山廣内武さん、ジュンコシマダ岡田茂樹さん、京都服飾文化研究財団キュレーター深井晃子さんらで議論を開始、構想がほぼまとまった時点で松屋の社長を退任したばかりの山中鏆会長(このあと東武百貨店社長に就任)を迎えました。夜間プログラム初回の講師は山中理事長その後人材育成機関の構想は紆余曲折あって墨田区役所の手を離れて通商産業省マターとなり、最終的には財団法人の形でファッション産業人材育成機構(通称IFI)が発足。東京都が10億円、墨田区が20億円、産業界が20億円出捐して産官協同50億円規模の財団法人としてスタート、山中さんは理事長兼学長でした。1994年9月にはみんなで議論したカリキュラムや指導方法をテストしてみようとアパレルマーチャンダイジングとリテールマーチャンダイジングの2クラスの夜間プレスクール(6カ月間週1回)を開講、前者は岡田茂樹さんが、後者は私が主任講師としてそれぞれのクラスを半年間運営しました。翌95年からは「デザインの知識」や「商品知識」などマーチャンダイジング以外のクラスを増やし、私は夜間プログラム全体の責任者として4つのクラスを統括することに。このとき私はCFD議長を退任して松屋の東京生活研究所専務所長でしたが、山中理事長と松屋の古屋勝彦社長の合意で兼務となり、ほぼ毎日銀座の松屋と両国国技館前のプレハブ仮教室を行き来しました。当時の授業風景念願の全日制クラスが始まったのは1998年。朝から夕方まで講義があり、一般学生は2年間、出捐企業からの派遣生は1年間学びました。私は月曜日から木曜日までの夜間プログラムに加え、全日制でも2つの講座の授業を担当、多くの若者を教えました。授業が終わると両国駅前のちゃんこ料理店や寿司屋で深夜まで付き合い、夜間クラスと全日制を合わせるとのべ数百人の若者と濃密な交流をしました。ところが、2000年に百貨店とアパレル企業の2社兼務になってしまい、しかも両社とも大きな業務改革を予定していたので学校での指導は時間的にも肉体的にも難しく、IFIビジネススクールからは完全に手を引くことに。IFIビジネススクール全日制1期生たちに祝福されてそのIFIビジネススクール全日制1期生の有志が久しぶりに集まり、私の誕生日を祝ってくれました。彼らの入学は1998年4月、一般学生の卒業は2000年3月ですから、ほぼ4半世紀ぶりの再会という人もいました。飲み放題のイタリアンレストランなのに4時間半もワイワイガヤガヤ、時には真面目に今後のファッションビジネスや海外展開戦略の話なども飛び出しました。こうした教え子たちとの飲み会は本当にハッピー、こういうのを「教師冥利につきる」と言うのでしょうね。売り場の生きた教材を使って教える実学、これまでIFIビジネススクール以外にも専門学校や所属企業でも週1回ペースで指導してきました。85年に帰国してこれまで合計すれば数千人にマーチャンダイジングや売り場の見方を伝えてきましたから、ファッション流通業界にはたくさんの教え子がいます。彼らにはもっともっと活躍して欲しいです。
2023.06.03
バレエシューズの名門Repetto(レペット)ジャンマルク・ゴシェ社長の訃報を知らせてくれたのは、元八木通商の馬場宗俊さんでした。今日は長い付き合いの馬場さんとのつながりを。私がニューヨークに渡った1977年春、一人の新人ファッションデザイナーがセブンスアベニュー(多くのショールームが集まる地区、ファッションアベニューとも呼ばれる)でデビューしました。以前この交友録で触れたペリー・エリスです。前列中央がペリー・エリス本人Perry Ellisのコレクション八木通商は当時阪急百貨店のためにニューヨークのデザイナーブランドとの提携を探っていて、どのデザイナーに期待できるか意見を求められました。私はデビューして間がないペリー・エリスの将来性に賭けるべきでは、とニューヨーク出張中の八木雄三さん(現社長)に推薦しました。「本当に伸びると思う?」と何度も念を押されたので、「絶対に伸びます」と答え、「ペリーのところにはすでに6社の日本企業からオファーがあり、サブライセンシー(商品製造するアパレル企業)が見つかるまで契約できないなんてことでは遅すぎます」と言いました。東48丁目の寿司屋初花でのこんなやりとりがあって八木さんは決断、サブライセンシーが決まる前にペリーと契約を結びました。その2年後にはもうカルバンクライン、ラルフローレンと並ぶ「ビッグ3」にペリーエリスブランドは成長していましたから(ダナキャランブランドはまだ登場していない)、「絶対に伸びます」と断言した私は間違っていませんでした。馬場宗俊さん提携後八木通商本社サイドでペリーエリスブランド担当として現れたのが馬場宗俊さんでした。長く経理部門にいた馬場さん、商社マンには珍しく海外駐在経験ゼロでした。担当したペリーエリスはシーズンごとに急成長を続け、国内市場では阪急百貨店のPBながら他の百貨店からでも展開。婦人服製造を担当したレナウンは米国側と同じ生地をヨーロッパから輸入して本気のものづくり、しかもペリーエリスとジーンズ最大手リーバイスがタグを組んだペリーエリスアメリカ(のちにグッチを牽引したトム・フォードはここにいた)には日本製テキスタイルを売り込む。担当だった馬場さんはものすごく忙しかったと思います。私が帰国してCFDで東京コレクションの運営を始めた頃、馬場さんはペリーエリス事業を離れ、英国の新興ブランド「マルベリー」の担当になり、六本木から西麻布に抜ける星条旗通りに路面店をオープンしました。ちょうどこのころ松屋社長だった山中さんから創業120周年記念の改装計画を伺い、私は百貨店経営の神様にリニューアルにおいて百貨店がやるべきことを申し上げました。売上をとるために海外有力ブランド導入も悪くはないけれど、同時にまだ一般消費者の間では無名のブランドを導入して売り場で育てる覚悟を持たないといけないのでは、と。山中さんは「そんなブランド、どこにあるんだ!」。私は「あくまで例えばの一例ですよ」と前置きしてマルベリーの名をあげました。まだ世間ではほとんど知られていないブランド、毎シーズンコンセプトにブレはない、インポート商品のデリバリーに不安はなさそう、この3つの必要条件を満たしているブランドだからと例に出しました。翌日、年末の忙しい時期にもかかわらず山中さんは星条旗通りのショップに現れ、「太田くんが行けというから来たんだよ」と馬場さんにおっしゃったそうです。馬場さんからすぐに電話があり、「山中さんが突然いらっしゃったのでびっくりしました」。翌日には山中さんからも電話があり、「マルベリーに行ってきたよ。キミが言う意味がよくわかった」、神様はとにかく行動がスピーディーでしたが、馬場さんはじめ現場にいたスタッフたちは何が起こるのか心配だったかもしれません。コートの織りネームそして翌年、当時まだ無名だったマルベリーのショップが松屋銀座1階に誕生したのです。ほぼ同時期に英国の創業者ロジャー・ソール氏は馬場さんを引き抜いて八木通商から独立、星条旗通りから南青山5丁目スパイラルビルの裏にショップを移転、新たな日本のパートナーを探し始めました。このとき出資者として登場したのが、元松屋ファッションコーディネーター西山栄子さんのご主人でテキスタイルコンバーターの社長だった奥井新一さんでした。マルベリーの新店舗兼オフィスはCFDの事務所から徒歩5分、よく馬場さんを訪ねました。話はちょっとそれますが、英国王室アン王女が来日してマルベリーショップを視察の際、青山通りからショップまでの数十メートルに赤い絨毯、さすがに特別なおもてなしでした。その後馬場さんはマルベリージャパンを離れてフリーのコンサルタントになって伊藤忠商事の海外ブランド事業部を手伝っていたとき、ハンティングワールドを担当していた細見研介さん(現ファミリーマート社長)を紹介されました。このとき私も転職して百貨店で売り場改装に携わっていたので、ハンティングワールドの展開オファーを受け入れました。次に馬場さんがサポートを始めたブランドがイタリアのカジュアル系バッグ「マンダリナダック」。このとき紹介されたのが有力コンサル会社からマンダリナ幹部に転じたマルコ・ビッザーリさん、のちにステラマッカートニー、ボッテガヴェネタのCEOを経て現在グッチ本社のCEOです。マンダリナ時代からユーモアがあって鋭い洞察力、ほかの幹部とはちょっと違った存在でした。振り返ってみれば、顔の広い馬場さんからは内外のたくさんの業界関係者を紹介されました。レペットのゴシュさん、マルベリー創業者のソールさんや現グッチCEOのビッザーリさん、伊藤忠商事の細見さん以外にも、三喜商事社長の堀田康彦さん、サンモトヤマ茂登山長市郎さん親子、この交友録64で触れた元神戸大丸の宝永広重さん、ミントデザインズの勝井さんら、ほかにも大手アパレルの取締役たち、若手テキスタイルプランナー、ジャッキー・チェンが日本のお母さんと慕った小料理屋の女将やジャッキーの国際弁護士までいろんな方を紹介されました。また、私の元部下たちの中には馬場さんに仕事を斡旋してもらったり、ものづくりのネットワークを教えてもらったりとお世話になった者も少なくありません。私にとってはありがたい仲間です。
2023.05.30
連日売り場視察を終えて集合古い写真を整理していたら1995年10月ニューヨーク研修時に撮影したものが出てきました。場所はセントラルパークに面した西59丁目と6番街角にあったサンモリッツホテルのスイートルーム(人事部が研修事務局部屋としてキープ)、椅子に座って若手バイヤーに向けて何か説明しているのが私です。日中は休みなく売り場を歩き回って夕方この部屋に集合、それぞれ視察した小売店の良い点悪い点を若手社員が発表します。コメントに対して私が意見を述べる現地研修、参加者は1日2万歩ほど歩くので恐らく疲れと時差でかなり眠かったはずです。が、みんな真剣でした。私が引率するニューヨーク研修の第1回目、なんと8泊10日、同じマンハッタンに滞在という非常に贅沢で中身の濃いツアーでした。せっかくニューヨークに来たんだから、夜はブロードウェイに行くもよし、ヤンキース野球観戦もよし、いろんな体験をすべきというおおらかな研修でもありました。みんなで徹底的に歩いてニューヨークの売り場に学び、日々のマーチャンダイジング、あるいはのちの店舗リニューアルに役立てたいという狙いでした。夕方のミーティングの後ディナーや劇場に出かけ、事務局部屋に戻って深夜3時頃まで酒盛りしながら意見交換、歓談がなかなか終わらないのでこの部屋で寝る人事部スタッフは連日寝不足、大量のドリンクや氷の買い出しも引き受け、最終日はクタクタで気の毒でした。生きた教材として何度も通ったBERGDORF GOODMAN参加者には最低でも滞在中2回はバーグドルフグッドマン視察に行くよう勧めました。ホテルからワンブロック徒歩5分、参加者は徹底分析するため何度もバーグドルフに通いました。古くて商品に新鮮味のなかった老舗百貨店が支店を売却して資金を作って大改装、世界の主要デザイナーやブランド企業から「最も取引したい小売店」に変身したのですから、バーグドルフは最高の生きた教材でした。「将来バーグドルフのような大改革できたらいいね」、毎回ニューヨーク研修でみんなに言い続けました。「若手だけでなく中間管理職、幹部もニューヨークに連れて行ってくれないか」と社長に言われ、若手が8泊10日で回った同じコースを多忙な部課長たちは4泊6日のハードスケジュール、とにかくみんなで同じ店舗を回って情報共有、若手から経営トップまでが同じベクトルで大改装プランを立てました。そして6年後の2001年、1980年代初頭にバーグドルフグッドマンが敢行したような大規模リニューアルが実現、お店のイメージは大きく変わりました。まさしく人材育成の賜物でした。海外研修も含め人材育成を重要課題として取り組んできた歴代経営者でなければ、人材育成は簡単に経費カットされていたでしょう。人材あっての企業、人材育成と真剣に取り組まない企業に明日はないと言っても過言ではありません。「先輩の背中を見てノウハウ盗め」なんていい加減なO.J.T.(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)はそろそろやめないと....。
2023.05.16
昨夜友人の馬場宗俊さんから仰天メールが届きました。フランス名門バレエシューズブランドRepetto(レペット)社長ジャンマルク・ゴシェさんの訃報です。馬場さんは「数日前も電話でジャンマルクと普通に話したばかりなのでびっくりしました」、と。どうやら突然のことだったようです。レペットを買収したジャンマルク・ゴシェさんジャンマルクは湾岸戦争のとき戦地で取材していた戦場ジャーナリスト。通常の給与のほかに危険手当が支給されても戦地では一切お金を遣う場面がなく、かなりお金が貯まったそうです。戦争で身の危険を感じて停戦後に転職、リーボックフランス法人の幹部だったところ業績不振でレペットが売りに出されていたので買収、1999年ブランドビジネスの舵取りを始めました。その資金は戦場記者時代の預金だったとか。レペット(1947年創業)のバレエシューズは世界のバレリーナのみならず、フランスのスーパースターだったセルジュ・ゲンスブールやブリジット・バルドーが普段の生活に愛用したことで60年代に認知度が上がったブランドでしたが、20世紀末には「ホコリの被ったブランド」と化していたようです。レペットのサイトよりジャンマルクがレペットを買収して1年後、馬場さんにジャンマルクを紹介された私はバレエシューズの技術を使って「履いて痛くない婦人靴」のコラボレーションをお願いしました。私もブランド企業の経営者になったばかり、雑貨の強化が大きなテーマでした。すぐに担当者をレペットのフランス工場に送り、「レペットの技術を活かしたデザインを考案してくれ」と命じました。レペットにとっては初めてのファッション企業とのコラボレーション、ジャンマルクは機能最優先のバレエシューズの世界とは違うデザイン優先の世界に着目、レペットの新しい方向性はバレエシューズの技術を活かした婦人靴ビジネスと決め、ボンマルシェはじめ大手小売店の婦人靴売り場で販路を拡大、市場での存在感は一気に高まりました。以来、有名デザイナーブランドとのコラボを次々手掛け、婦人靴売上を拡大、フランス経済界の優秀経営者賞を受賞しました。私は最初の扉を開いただけですが、コラボ以降律儀にずっと恩義を感じてくれ、付き合いはその後も続きました。私が復帰した百貨店はレペットの東京路面店から至近距離、日本の提携企業にレペット導入をお願いしても話はなかなか進みません。そこで、私は直接ジャンマルクに出店要請、しかもそのオープニングにはミナペルホネン(皆川明さん)のテキスタイルを使った特別商品の製造を頼みました。プランタン百貨店地下婦人靴売り場のレペット百貨店インショップのオープニング日、ミナペルホネンのファンがレペット特別商品目指して開店時間前から行列、あっという間に売り切れてしまいました。皆川さんはデビュー時に八王子での合同展示会でたまたま見つけた新人デザイナーだった人、レペットは初めてコラボを引き受けてくれたフランスブランド、格別思い入れがある2ブランドが取り組んでくれたコラボが即完売、嬉しかったです。私がクールジャパンの仕事を始めたとき、ジャンマルクにある提案を投げかけました。バレリーナやその予備軍にとってレペットは特別なブランド、トレーニングや舞台で汗をかいた彼女たちに向けて日本の高品質タオル商品を開発してみてはどうか、と。今治のタオルメーカーにレペットのバレエシューズと同じ薄いピンクのタオルにわざわざロゴを刺繍してもらい、来日したジャンマルクにプレゼンしました。その時点ではタオルよりも先に強化したい商品カテゴリーがあるというので、しばらく時間をおいて再びオリジナルタオルの商品化をアドバイスするつもりでした。しかし、残念ながらジャンマルクの急逝で日本製タオルの話はもうできなくなりました。最初に井戸を掘った者をずっと大事にしてくれた律儀なフランス男にただただ感謝です。R.I.P.
2023.05.12
前項で触れたバーニーズニューヨークの日本買い付けチームの定宿はホテルオークラでした。ちょうどオークラの向かい側のマンションには赤峰幸生さんが企画ディレクターを務めるグレンオーヴァーのオフィスがあり、私はジーン・プレスマン副社長に「アメリカントラディショナルを作っている会社だから発注はしないと思うけど、セイハローだけはしよう」と言って赤峰さんを訪ねました。 以前はアメトラを標榜するアパレル企業マクベスの企画担当だった赤峰さん、グレンオーヴァーのショールームにお邪魔するとマネキンにはダッフルコートが飾ってあり、いかにもアメリカントラディショナルという雰囲気。バーニーズにとっては自国で見慣れたアメトラですから最初は関心を示しませんでした。 ところが、グレンオーヴァーの親会社テキスタイルコンバーターのシャツスワッチを多数見せてもらうとジーンの目の色が変わりました。グレンオーヴァーの縫製は丁寧で質感があり、親会社が素材を安く提供してくれたらバーニーズオリジナルのブラウスを製造できる。アメトラの代表格ラルフローレンよりも素材、縫製仕様が上質で価格が半額なら競争力ある、さっそく特別注文することになったのです。後日バーニーズはデザインをグレンオーヴァーに送り、スワッチ台帳から素材を選び、クオリティーは高いがリーズナブルなブラウスが出来上がりました。アメトラのグレンオーヴァーのオリジナル商品そのものには興味を示さず、その代わりシャツのスワッチからバーニーズP B商品の生産を思い付く、ジーンは目利きの商売人でした。 私が赤峰幸生さんと最初に会ったのは、彼がマクベスの企画責任者だった頃です。マクベスは服飾評論家の伊藤紫朗さん兄弟が経営する会社、胸にMBのロゴが入ったスタジアムジャンパー(写真下)がヒットアイテムでした。トラッドファンに人気があったマクベスのスタジャンマクベスをはじめ多くのアメトラブランドに1978年大きな転機が訪れます。日本のメンズファッションを牽引してきたVAN JACKET(ヴァンヂャケット)が思いがけず倒産、日本のアメトラ市場にポッカリ空白ができたのです。日本には本国アメリカ以上にアイビールックを熱狂的に愛する消費者が多く、リーディングカンパニーVANが消滅したことでアパレルメーカーは一斉にアメトラ強化に走りました。大同毛織はアメトラの元祖とも言える「ブルックスブラザーズ」を、紳士服専門店三峰はブルックスのマジソンアベニュー本店の並びに店を構える「ポールスチュアート」を、大手アパレル企業オンワード樫山はブルックスの向かい側「J・プレス」を導入してそれぞれアメトラを強化、マクベスはJ・プレスの横にあるCHIPP(チップ)と提携して販路拡大を狙いました。私がニューヨークに渡って記事を書くこと以外に最初に携わったビジネスプロジェクトは、マクベスとマジソンアベニュー東44丁目のチップとの提携でした。加えてマクベスはチップの米国内リソースから商品直輸入を計画、私がニューヨークでベンダー各社との交渉を担当しました。 20世紀初頭コネチカット州ニューヘイブンで開業したJ・プレスの従業員が独立してトラッド激戦区のマンハッタン東44丁目にオープンしたのがチップ。2代目ポール・ウインストン氏と交渉してチップの日本展開が決まりました。また、マクベスはポロシャツ専門の老舗キューナート社、アメトラ路線のバッグやベルトのトラファルガー社、紳士傘のアメリカンアンブレラ社などから直輸入を始め、マクベスアメリカとしてトラッドショップに販売しました。 私はポールに頼んでチップの地下倉庫の中にマクベスとの連絡用テレックス(当時はまだファックスもネット通信もなかった)を設置してもらい、発注フォローや出荷情報をマクベスに送っていました。そのときチップの視察と買い付けのためニューヨークに来たのが赤峰さんでした。かつてのグレンオーヴァーを着る赤峰幸生さん(繊研新聞より)グレンオーヴァーの織りネーム数シーズン後チップの契約とマクベスアメリカの直輸入は私の手から離れ、赤峰さんはマクベスを去ってグレンオーヴァーに参画、そしてマクベスの倒産、日本でチップがどのような足跡を残したのか詳しくは知りません。が、赤峰さんとは個人的にやり取りが続き、前述のようにバーニーズPB商品で再び繋がりました。PBのブラウスはクオリティーと価格のバランスがよく、バーニーズのお客様には好評でしたが、全て赤峰さんらのお陰です。CFD設立のため1985年に私が帰国すると、どういう流れでそうなったのかはわかりませんが、アメトラの申し子だった赤峰さんはクラシコイタリアの伝道師になっていました。出張先はニューヨークでなくフィレンツェ、イタリアの職人的ものづくりに惚れ込み、アメリカのことよりもイタリアのデザインや伝統文化、テキスタイルや縫製技術のことを熱っぽく語る赤峰さんにはびっくりでした。イタリア大使館との繋がりもあったのか、当時都内で人気のイタリアンレストランのアドバイザーも務め、イタリア人従業員の労働許可の世話までしていましたから。1994年にIFIビジネススクールの授業が始まり、夜間プログラム「プロフェッショナルコース」ディレクターだった私は赤峰さんに指導協力をお願いしたので、赤峰さんのものづくりの話に強く感化された受講生はたくさんいます。現在もコンサルティングあるいは顧問デザイナーとして活躍されていますが、生涯現役でファッションの楽しさ、奥深さを若者たちに伝え続けて欲しいです。
2023.05.11
セブン&アイホールディングスのそごう西武売却の話は仕切り直しになったままですが、同じセブン&アイ傘下にあったバーニーズジャパンはあっさりと中国系資本のラオックスに売却されました。こちらはほとんど話題にもならず、そごう西武のように売却に異論を唱える人はいませんが、ラグジュアリーブランドをたくさん扱う小売店の売り先がラオックスで良かったのでしょうか。数年以内に消滅なんてことにならなければいいのですが....。創業の地7番街西17丁目に再出店した後倒産バーニーズN.Y.はニューヨーク在住時代にサポートしたことがあるので、個人的には特別な思い入れがあります。しかも、伊勢丹が出資して最初にバーニーズジャパンを立ち上げたときの社長が田代俊明さん(のちにグッチジャパン社長)、その部下が現在エルメスジャポン社長の有賀昌男さんや参議院議員のまま亡くなった藤巻幸夫さんら仲の良い人が多く、ラオックスにはバーニーズの名をしっかり守って欲しいです。日本は不思議な市場。本国アメリカで消滅してもずっと日本で元気に活動している事例がいくつもあります。良質素材で洗練されたメンズブランドとしておしゃれなゲイたちに人気のあった「ピンキー&ダイアン」は、ブランド解散後どういうわけか日本でボディコンブランドの代表格としてバブル期に一世を風靡しました。米国でメンズとして人気あったものが消滅後日本で「ピンダイ現象」とまで言われて婦人服市場をリード、彼女らの全盛期を知る者としては不思議でした。スターバックス同様ワシントン州シアトル生まれの「タリーズコーヒー」、1992年創業の比較的新しい企業でしたが、数年前に倒産してもう米国に店舗はありません。しかし、日本のパートナー伊藤園はしっかりビジネスを拡大、本国では消えたブランドを日本市場で発展させています。多くの消費者はすでに米国では倒産して店舗がないことを知らないでしょうが。ニューヨーク出張のたびに立ち寄ったソーホー地区ブロードウェイ沿いの高級スーパー「ディーン&デルカ」もタリーズと同じ。多店舗化ののちに会社をタイ資本に売却、その後買収企業が経営破綻して米国市場でディーン&デルカは消滅しましたが、日本では権利を買い取った日本企業ウェルカムがカフェ事業を中心に立派に多店舗展開しています。本国の市場から消えても日本では消費者から支持を集めビジネスが継続する例はありますから、二度のチャプターイレブン(連邦破産法)で小売店としては消滅したバーニーズN.Y.が日本市場では生き残って消費者に人気のあるファッションストアとして存在し続けて欲しいものです。さて、そもそも私がバーニーズN.Y.と関わりを持ったのは1981年2月のことでした。ミラノ、パリのメンズファッションウイークからバイヤーたちが戻ってきた頃、バーニーズN.Y.副社長でありカジュアルブランド「BASCO(バスコ)」共同デザイナーだったジーン・プレスマン氏から電話をもらいました。私のアパートからは数ブロック先のバーニーズ事務館に出かけると、ジーンはこう切り出しました。3代目社長ジーン・プレスマン氏ヨーロッパのトレンドが販売しにくいビッグショルダー、バイヤーは仕入れ予算を使い切ることができずに帰国する。仕入れが減少するとその分売上も減少するので我々は新たなリソースを開拓しなければならないが、その候補として日本のデザイナーに可能性はないだろうか。日本はイッセイミヤケやカンサイヤマモトだけではない、ほかにもっといるだろう。日本でのリソース開拓に力を貸してくれないか。イッセイミヤケはすでに世界で高い評価を得て米国有力各店でも商品展開されているブランド。カンサイヤマモトはちょうど前年に動物柄のニットが百貨店でもセレクトショップでもベストセラーになったばかり、ヨーロッパブランドの行き過ぎたビッグショルダーに苦慮していた米国バイヤーたちは揃って日本の次のデザイナーの可能性をリサーチし始めたタイミングでした。ジーンと面談した数日後にはバーニーズN.Y.最大のライバルだったシャリバリのジョン・ワイザー氏からも同じ協力要請を受けたくらいですから、ヨーロッパから帰国した小売店各社はかなり焦っていたのでしょう。仲が良かったジョン・ワイザーのシャリバリよりも先に頼まれたので私はジーンのバーニーズN.Y.に協力を約束、1981年4月上旬ジーンとメンズバイヤーのマイケル(のちにバーニーズジャパン新宿店オープン時に駐在指導員として来日)、レディースバイヤーのキャロルと一緒に東京に来ました。7番街西17丁目のお店(当時はここ1店舗だけだった)にメンズ、レディースそれぞれのフロアに「TOKYO」という名の売り場を設立する計画でした。ところが、ここで予期せぬことが。米国のようにショーのあとバイヤーは発注できないのです。3週間ほど先の展示会での発注が当時は日本流ビジネスでした。ショーと展示会の間に3週間以上あるなんて欧米では考えられないこと、私たちには不思議でした。仕方なくファッションショーを見て、パルコやラフォーレ原宿を視察して米国に戻り、5月に再来日して発注するしか選択肢はありませんでした。さらに、輸出に全く経験のないブランドばかり(コムデギャルソンでさえまだ輸出未経験)、決済方法のレター・オブ・クレジットやプロフォーマ・インボイスの意味、仕組みを各展示会場で細かく説明しなくてはなりませんし、そもそも多くの日本人は知らなかったバーニーズN.Y.そのものの説明をしなくては発注作業には入れませんでした。二度の来日でどうにかコムデギャルソン、ニコル、メンズビギ(菊池武夫さん時代)、入江末男さんのスタジオV、細川伸さんのパシュなどを買い付け、同年9月「TOKYO」はオープン、東57丁目にあった三越の地下レストランで有力雑誌の編集長や新聞社のファッション担当記者を招いてプレスショーを開催しました。このとき、日頃ニューヨークコレクションの会場で顔を合わせる米国人記者たちから私にも直接電話が入り、「レイ・カワクボは男性、それとも女性?」、「スタジオ・ファイブ(ヴィではなく)のデザイナーはどんな人?」、「メンズビージーはメンズだけなの?」などの問いに答えました。それまで私はニューヨークコレクションのデザイナーを取材するのが主たる仕事、日本のデザイナーとの個人的接点はなく、誰と誰が仲良しあるいは仲が悪いなんてことは全く知らず、デザイナー周辺のビジネス事情にも無知でした。この4年後、私は日本のデザイナー諸氏に声をかけられて帰国、CFD(東京ファッションデザイナー協議会)の設立に奔走、東京から発信することになるのですが、1981年春の時点でそんなことは全く想像すらできませんでした。激戦地区アッパーマジソンに進出(写真上2枚とも)ジーンはお金持ちファミリーのやんちゃなボンボンでした。祖父バーニー・プレスマンが設立した紳士服専門店はダウンタウンの大衆店、それを2代目フレッド・プレスマンがバージョンアップ、かつてイタリアの有力ブランドだったニノ・セルッティやデビュー直後のジョルジオ・アルマーニを独占販売で導入、ストアイメージを上げました。さらに、デザイナーブランドを一気に増やし、メンズのみならず婦人服まで拡大、ファッション専門大店のハイエンドなイメージを確立したのはフレッドの息子ジーンでした。性格は明るく一緒にいて楽しい男、時代を読む力もデザイナーや商品の目利きセンスもある特別なボンボンでした。しかし、伊勢丹との米国での合弁事業で多額の資金を手にしてダウンタウン本店のみならず家賃が飛び切り高いアッパーマジソンやシカゴ、ビバリーヒルズ、サンフランシスコなどの一等地にも次々出店、その後経営破綻しました。長く1店舗で運営してきた高感度セレクトショップが一気に多店舗化すればどんな国でも経営は難しくなります。もしあのままニューヨークだけでバーニーズを営業していたら、違った展開があったかもししれません。バーニーズN.Y.のTOKYOブティックのお陰で私は日本のデザイナーたちと知り合い、帰国してファッションビジネスで長く活動できたのですから、ジーンは恩人の一人であることに変わりありません。プレスマン一族が継承してきたバーニーズN.Y.、日本だけでもカッコよく事業を続けて欲しいです。
2023.05.06
官民投資ファンドの社長就任直後、真っ先に講演に呼んでくれたのは富山県高岡市でした。当時ここで商業活性化を専門家としてサポートしていたのが宝永広重さん、神戸の旧居留地にいくつも大型ブランドショップを招致した大丸神戸店の実務責任者だった方です。そして地元経営者として宝永さんと一緒に活動していたのが、私の教え子だった松田英昭くんです。前列左から4人目の私の後方が松田くん1994年秋、ファッション産業人材育成機構(通称IFIビジネススクール)夜間テストプログラムが始まり、アパレルマーチャンダイジングのクラス担当がジュンコシマダを軌道に乗せた岡田茂樹さん、リテールマーチャンダイジングのクラス担当は私、まだ東京ファッションデザイナー協議会議長でした。それぞれのクラス25人を週一度半年間教え、カリキュラムや指導方法の点検という意味もありました。94年から2000年まで夜間プロフェッショナルコースで教えた受講生はのべ数百人、その中で特に気になる受講生の一人が出身地富山県高岡市に戻ってセレクトショップを開業した松田英昭くんです。IFI受講当時は日本橋馬喰町界隈の製品問屋の代表格エトワール海渡の社員でした。彼が地元に戻って初めてもらった年賀状に「地元で小さなセレクトショップを開業しました」とあり、地方都市の駅の地下街でセレクトショップなんて果たして続けられるのだろうかと心配しました。ところが、松田くんの会社「ブルーコムブルー」は地下街の小さなショップから高岡市と富山市に店舗を広げ、ダウンコートのモンクレールなど高額インポート商品も販売、ネット通販でも売上を伸ばして地元で注目される小売店になりました。2枚ともブルーコムブルー路面店松田くんが経営する路面セレクトショップは写真のように規模も大きく、高岡や富山のおしゃれな生活者に支持されています。また、楽天市場のテナントとしても実績はかなりあるようです。ショップを案内されたときは先生風を吹かせて店内の定数定量やVPの改善すべき点をあれこれ伝え、松田くんは緊張した面持ちで聞いていました。ショップスタッフにすればボスの対応を見て「このおじさん、いったい何者なの」だったでしょうね。富山県の伝統技術や優れものを集めたイベントでの講演、その合間を縫って高岡の誇るブランド「能作」の工場見学に出かけ、能作克治社長の案内で錫(すず)製品が完成するまでを見せてもらいました。美大やデザイン学校を卒業した若い社員がベテラン社員にまじってものづくりする光景にまず驚きました。繊維であろうが金属であろうが、地方都市の元気な工場はどこも若手社員が嬉々としてものづくりしているのが共通点ですが、能作も全く同じでした。能作社長に聞けば、当初仏具など金属加工業だった能作はご多分に漏れず「地方」「下請け」「赤字」の三重苦、このままでは将来がないと考え、産元商社や問屋を経由せず自社ブランドを作って自分たちで販売してみようと自主生産自主販売プロジェクトを立ち上げたそうです。下請けの工場が自社で商品を企画生産し、直営店や百貨店インショップで直接消費者に販売する、恐らく最初はかなり反対意見もあったでしょう。が、NOUSAKUはいまや海外でもリビング雑貨関連業界では認知されています。松屋銀座地下ウインドーの能作錫のカゴは柔らかく自由自在に形を変えられる実は、私も海外出張のお土産に能作の錫製品のカゴ(写真上)を利用しています。なんと言っても軽量でかさばらずトランクに簡単に収納できるのがありがたい。外国人に手渡し、目の前で箱を開けてもらって自由自在に曲がて形を変えられるカゴの使い方を説明すると、みなさん必ず大喜びします。大手町のパレスホテル地下ショップを訪ねた海外旅行者が、「このままミラノにショップを作らせて欲しい」と申し出たこともあったと聞いていますが、日本の伝統技術と現代的デザインが融合したリビング雑貨、「これぞクールジャパン」と言える品物です。現在松屋銀座の1階正面ウインドーと地下ウインドー数箇所は能作がズラリ、銀座地区でも急増している訪日観光客に注目され、7階能作ショップ(写真上)はきっと平常時よりも賑わうでしょう。立山の麓で始まったIWA5プロジェクトもう一人富山で忘れてはならない人物がいます。満寿泉を醸造販売する「桝田酒造店」桝田隆一郎さん、江戸末期から明治にかけて北前船の中継拠点として栄えた富山港界隈の岩瀬地区をかつてのような美しい街並みに整備する運動を指揮している方です。同時に桝田さんはドンペリニヨン最高醸造責任者だったリシャール・ラフロア氏が立ち上げた日本酒「IWA5」プロジェクトを支えています。このプロジェクトは蔵元で長期宿泊できて美味しい食事も楽しめるフランスワインのシャトーのようなラグジュアリービジネスを目指していますが、桝田さんの協力なしには実現しなかったプロジェクトです。日本酒ビジネスはボルドーやブルゴーニュのワイン醸造と違って蔵元は酒米を外部の生産者から仕入れるのでワインのように酒をじっくり寝かせる、つまり古酒として長く保存することが経済的理由でなかなかできません。醸造した日本酒を早く出荷して現金化し、秋には翌年販売するお酒のための酒米を購入しなくてはならないからです(ほんの一部の蔵元は自社の田んぼで酒米を栽培してはいますが)。しかし桝田酒造はワインのように古酒を毎年大量に保存、熟成したお酒も販売しています。他県にも古酒を販売する蔵元はありますが、経済的に余裕がない蔵元でないと古酒を大量保存することはできません。富山市には全国的に有名な寿司店「鮨人(すしじん」がありますが、この名店で店主が胸を張って提供している日本酒は満寿泉とIWA5です。長年懇意にしている霞ヶ関のお役人が数年前富山県庁に出向と聞いて、私はブルーコムブルー、能作、桝田酒造店の会社見学と鮨人での食事を勧めました。太平洋側の人間にとって富山県はちょっと縁遠い地味なイメージの県でしょうが、富山湾の美味しい魚介類だけでなく元気印の会社がいくつもあってこれから成長が見込める県の1つだと思います。
2023.04.30
4月25日は親友だった市倉浩二郎の命日です。毎年この日は最後の瞬間を思い出すのでどうしても気分はブルーになります。毎日新聞編集委員だった市倉浩二郎さん西国分寺駅からちょっと離れた場所にある都立府中病院(=当時)ICUの控室にいた私たちはドクターからすぐICUに入るよう促され、その数分後市倉さんは目の前で絶命。病室の心拍測定器の数値がどんどん降下して「ーーー」に、よくテレビドラマで見る悲しいシーンそのものでした。1994年4月2日東京コレクション2日目夕方コムデギャルソンのショー会場は羽田空港駐機場、なぜか市倉さんは取材に来ませんでした。緊急の取材でも入ったのかな、とそのときは思いました。しかし週明け奥様からの電話で体調不良と入院を知らされ、びっくり仰天でした。前日の東コレ初日最終回ユキトリイのショー直前、西武百貨店渋谷店裏の細い路地のカフェの前をたまたま通りかかったら、市倉夫妻、帽子デザイナー平田暁夫さんご夫妻らがお茶してたので私も合流。海外出張中ストレスが原因でお尻に大きな腫れ物ができて手術したばかりの私は「健康のためにあんたも有機栽培野菜スープを飲め」と言ったら、市倉さんは「あんな不味いもの飲めるか」、と。奥様に後日野菜スープの作り方をお知らせすると約束し、みんな一緒にユキトリイのショー会場まで歩きました。結果的にはこの野菜スープのやりとりが最期の会話になってしまいました。ショー終了後「寒気がする」と美登子夫人(文化出版局編集者)にもらし、市倉夫妻は鳥居さの打ち上げには出ずに帰宅、近所の医院で診察してもらったそうです。ところが、翌日夜羽田空港でのショーが終わった頃に容態急変、府中病院に救急搬送されました。医院で処方された抗生剤を飲んだことでウイルスが変容、ドクターは脳に入ったウイルスをなかなか特定できず、適格な治療ができませんでした。私にできることは快復を祈ることとICU控室で奥様の話し相手になるくらい、何の役にも立ちませんが居ても立っても居られずアポはキャンセルして出勤前と夕方府中病院に顔を出しました。4月23日だったでしょうか、ドクターにICU入室許可をもらって脚をさすりながら「イッチャン」と何度も呼びかけると、意識不明で動けない市倉さんの目から涙が溢れ、反応してくれました。溢れる涙に微かな期待を抱きましたが、ずっと意識不明のまま一度も目を覚ますことなく亡くなりました。いろんな検査でも意識不明の原因はわからず、新聞記者だった本人が一番自分の死因を知りたいだろうからと解剖を勧めました。でも、残念ながら最後まで死因はわかりませんでした。ICU控室で美登子夫人が「イッチャンは太田はデザイナー協議会辞めてやりたい仕事があるんだ。早くやらせてやりたいってよく言ってたわ」と話してくれました。市倉さんと飲んだとき、マーチャンダイジングのプロになりたくて大学卒業後就職せずニューヨークに渡ったのでいつかはデザイナー協議会を退任してマーチャンダイジングを指揮したいと話したことがあり、市倉さんは気にかけてくれていたようです。解剖直前の病院霊安室、ご遺体に手を合わせて「俺、デザイナー協議会を辞めて自分のやりたいことをやるわ」と誓いました。誰にも人生のジ・エンドはある、やりたいことをやらずにジ・エンドを迎えてはならない、と年長の親友は教えてくれたのだと思います。葬儀が終わると私はすぐ退任に向けて準備を始め、幸いにも1年後には百貨店経営者にチャンスをもらって念願のマーチャンダイジング指導に着手しました。親友の逝去が人生の転換点になったので、4月25日は私にとって特別な日なのです。合掌。市倉さんの仲間から指名されて1年後に私が編集した本
2023.04.25
ファッションデザイナー堀畑裕之さんと関口真希子さんのブランド「matohu」のものづくり姿勢を丁寧に追ったドキュメンタリーフィルム「うつろいの時をまとう」が現在シアターイメージフォーラム(渋谷区渋谷2-10-2)で上映中。これからファッションの世界を目指す若者たちにはぜひ観て欲しいフィルムです。この映画で八王子の織物会社みやしんを率いた宮本英治さんが登場します。現在も元気にものづくりされている姿を見て安心しました。数年前、宮本さんから突然電話をいただき、廃業を知らされました。若いデザイナーがみやしんに来て、デザインや素材そのもののことより価格のことしか言わない世の中になったことに失望しての廃業とうかがいました。若いデザイナーなのか、それともデザイナーブランドで働く若いアシスタントなのかはわかりませんが、価格の話ばかりする彼らが宮本さんに廃業を決意させたとはショックでした。廃業の決意を聞いた瞬間、まさか元部下たちが廃業原因ではと心配でしたが....。幸い、文化服装学院などを運営する文化学園の大沼淳理事長(当時)がみやしんの工場設備をそのまま学園のものづくり研究施設として残してくれたことで、みやしんの設備は廃棄されずにすみました。matohuはみやしん廃業後も宮本さんに素材作りを手伝ってもらっているようですが、映画の中での堀畑さん、関口さんと宮本さんとのやりとりシーンが興味深い。クリエーションとクラフトマンシップの共創、ここに日本のファッションデザインの強みがあると改めて実感させらるシーンなんです。その宮本英治さんが全国の心ある素材メーカーに呼びかけて始めた小規模合同展示会「テキスタイルネットワークジャパン」は現在も継続開催されています。今回の2024年春夏展はこれまでよりも足の便が良い原宿駅前WITH HARAJUKUホール(渋谷区神宮前1-14-30)にて4月11日と12日の2日間開催。デザイナー系ブランドの企画や生産部門で働く人、ブランドを始めたばかりの新人・若手デザイナー、セレクトショップの企画部門の人たちにはぜひ日本の優れたものづくりに触れて欲しいです。参加は以下のサイトから申し込んでください。https://www.textilenetworkjapan.com/2024ss
2023.04.10
セブン&アイのそごう西武売却の話が再び延期されたニュースに驚いています。売却予定先の投資グループが傘下のヨドバシカメラ出店を池袋西武に計画していることに対し、豊島区長らが猛反対、ビルの地主である西武鉄道も反対表明、セブン&アイは簡単に売却できそうにないようです。が、長期政権だった高野区長が先日急逝し、この先売却の話はどう進むのかわからなくなりました。業界の若手の方はご存知ないでしょうが、1970年代からヨーロッパのトップブランドをライセンス提携の日本製でなく直輸入オリジナル品を販売していたのは西武百貨店だけ、ほかの百貨店はロゴをつけた日本製ライセンス商品でした。エルメス、サンローラン、ソニアリキエル、ミッソーニ、アルマーニ、ジャンフランコフェレ、ウォルターアルビニ、池袋西武にはオリジナル品の人気ブランドショップがズラリ、当然価格は飛び切り高く、私のような豊島区在住の一般人にはちょっと高嶺の花でした。いまは本国が日本法人を直轄経営していますが、日本上陸当初は西武百貨店がジャパン社設立をサポート、エルメスジャポン社はじめ西武の関係者が日本法人の代表を務めていました。だから西武百貨店はまさしく日本のファッションリーダーだったのです。その西武百貨店の売り場の複数階にドーンとヨドバシカメラが入る、区長でなくてもちょっと抵抗があります。豊島区民として私もこの話には反対です。アムステルダムの中心地ダム広場にあるバイエンコルフ投資ファンドが売りに出ていた百貨店を買収するケースは欧米ではたくさんあります。かつてニューヨーク五番街サックスフィフスアベニューはバーレーンの石油系投資会社、ロンドンのハロッズは同じく中東カタール投資庁が現在も所有しています。投資ファンドが買収して大改革を進めたら滅茶苦茶な状態になった事例も少なくなく、その典型的な事例がオランダ首都アムステルダムのバイエンコルフです。投資の世界では有名な米国投資ファンド(そごう西武売却のニュースの際にも売り先候補として名前があがった会社)がバイエンコルフを買収、人員整理も含め徹底的にコストカットを進めた結果、従業員のやる気は失せ、お客様の信頼はなくなり、ブランド側は取引をやめ、見るも無残な状態に陥ったとオランダ人の元従業員たちに聞きました。買収した投資ファンドは恐らく百貨店を早くブラッシュアップして高く売却するつもりで買収したのでしょうが。そのボロボロのバイエンコルフを引き継いだのが、英国セルフリッジ百貨店を傘下に持つ資本でした。かつて古臭い大衆店だったセルフリッジをファッションに強いおしゃれな百貨店へと再建したグループが登場したことで、バイエンコルフは見事に立ち直り、いまではヨーロッパの主要ブランドをズラリ並べる高級百貨店として繁栄、アムステルダムに進出してきた北米の巨人ハドソンベイを駆逐しました。ドリスヴァンノッテン、バレンシアガなど展開する婦人服フロアサカイの名前もありました気持ち良いフードコートのフロア壁面にはLED栽培の野菜も池袋駅にあった小さな百貨店を受け継いだオーナー社長の堤清二さんは文字通り日本の流通業の革命児でした。他社がライセンス商品を販売している中でオリジナル商品を直輸入して西武百貨店の地位を固め、「おいしい生活」をはじめ多くのシンボリックな広告を打ち出し、パルコを創設して若者文化を牽引、西友ストアでは無印良品を誕生させ、WAVEやLOFTのような新業態にも着手、セゾンカードを大きく伸ばし、セゾングループは一大流通企業に成長しました。しかし、いろんな不幸が重なり、西武セゾングループはあっけなく崩壊しました。グループの中核そごう西武はセブン&アイに引き取られましたが、セブン&アイの物言う株主の圧力で再び売却されることになり、投資ファンドが登場することになったのでしょう。日本の生活文化をリードしてきた企業がいつの間にかマネーゲームの中で道具のように扱われ、セゾングループの功績には全く興味なさそうなゲームプレイヤーたちが走り回る。従業員やベンダー、テナントの人々はどんな思いでいるかは軽視、無視なんでしょうね。なぜそごう西武の売却が再度延期されたのかは知りません。最終的にどういうグループの手に渡るのかはわかりません。が、世界には小売業に愛着のないファンドが参入してボロボロになった、あるいは消滅した事例が少なくないことを訴えたいです。バイエンコルフがよみがえったように、西武百貨店を再び光り輝く小売店にしてくれるホワイトナイトの登場、ひとりの豊島区民として期待したいです。
2023.04.01
今日3月11日は東北大震災のあった忘れられない日です。2011年3月1日私は正式に百貨店に復帰、営業本部にデスクをもらってすぐの出来事でした。お店の裏のお客様駐車場を歩いていたら突然トタン屋根がガタガタと音を立てる。なんかおかしいなと思いながら駐車場を抜けたら、出口付近に停車していた佐川急便のトラックが大きく揺れているのを見て大きな地震だと気がつきました。オフィスに戻るとキャビネットの中から書類が飛び出して床に散乱。売り場に出たらディスプレイ用のマネキンは倒れたまま。そのあとも余震が続き、建物が揺れるたびにお客様の悲鳴が聞こえました。ちょうどその日は前職ファッションブランド企業の銀座路面店がワンブロック先にオープンでした。かつてニューヨークで大型路面店をオープンする予定だったのがあの911テロ事件当日でしたが、またしても11日新店オープン日に不測の事態が起きてしまいました。地震で公共交通機関はストップ、直営店で働くスタッフは百貨店と違って食べるものも休憩所もなく、しばらく帰宅できません。私は弁当を買って元部下たちに差し入れしようと思ってデパ地下に。しかし、帰宅できない近隣オフィスの方が多かったのでしょう、弁当はすべて売り切れ。焼きたてのフランスパンがあったので生ハム類とバゲットを大量に買って新しい路面店へ行き、近隣の百貨店ショップで働くスタッフにも声をかけて地下鉄が動き出すのをみんなと待ちました。私が利用する地下鉄有楽町線は午後11時過ぎ運航再開、同じ方向に帰るスタッフらと帰宅できましたが、数人はそのまま朝までショップで待機でした。震災後すぐに支援を呼びかけたラルフローレン1週間後の3月18日午後、4月に予定していたファッションイベントを開催するか否かを議論する社内会議がありました。会議の直前、銀座の老舗専門店サンモトヤマ(日本で最初にグッチやエルメスを直輸入販売した店)でのアートと家具の展示イベントに出かけました。そこで私は真っ赤なハート型のアクリル樹脂オブジェに釘付けに。作家は遠山由美さん、スープストックトーキョー遠山正道社長の奥様でした。作品Heart Sutra、真っ赤なハートの中には「般若心経」の解体文字、その創作意図を伺ってびっくりしました。遠山由美さんに注目した米国大手航空会社ユナイテッド航空は2001年9月号の機内誌で彼女にスポットを当て、その表紙には遠山さんの作品、中面の特集欄でも大きく取り上げました。911同時多発テロでペンシルベニア州で墜落した飛行機もワールドトレードセンターに突っ込んだ飛行機もユナイテッド航空、その座席には遠山作品が表紙を飾った機内誌、巻き添え食った乗客たちはその表紙を眺めながら最期の瞬間を迎えたかもしれません。「アートで人の命を救えなかった」、ショックを受けた遠山さんは犠牲者のことを思うと新たな作品に取り組むことができず、しばらく創作活動を中断しました。アーティストとしては複雑な思い、さぞ悔しかったでしょう。そして約1年後に鎮魂の願いを込めて般若心経を解体文字に、それを真っ赤なハート型アクリル樹脂のオブジェに入れた作品を創作した、とご本人から伺いました。テロ犠牲者への鎮魂作品と聞いて、私は恐る恐る遠山さんに質問しました。「この作品を貸していただけませんか」、と。4月20日に予定している春のファッションイベントを仮に計画通り実現するのであれば、そのキービジュアルにぜひこの作品を使わせていただきたい、そしてキービジュアルを使ったTシャツやハンカチなどをチャリティーグッズとして作らせて欲しいとお願いしました。オフィスに戻って営業本部長以下幹部に遠山由美さんの作品のこと、それが生まれた背景を説明、これをキービジュアルに被災地で苦しむ皆さんのために予定していたファッションイベントを全館あげてのチャリティーイベントに変更実施してはどうでしょうと提案、社長の賛同も得ました。Heart Sutraはあくまでもアートピース、これをキービジュアル化するには専門のアートディレクターの力を借りなくてはなりません。日本デザインコミッティーの幹事である佐藤卓さんにお願いしたのが以下のビジュアルです。遠山由美さんの作品を佐藤卓さんがキービジュアルにこのビジュアルで急ぎポスター、チラシ、はがきなど印刷物を作り、Tシャツやマグカップなどチャリティーグッズも用意しなくてはなりません。世界からオークションに出していただく特別な品物も集めます。震災から1週間後の3月18日土曜日にイベント決行が社内で決まり、佐藤卓さんに事情説明できたのが週明け20日月曜日、キービジュアル完成がその翌週、開催日4月20日までに印刷物やチャリティーグッズを作るハードスケジュールでしたが、どうにか間に合いました。アートピースをお借りしてからイベント当日まで、担当者は何度も遠山由美さんと打ち合わせでしたが、そのたび彼女は事務所のある代官山から自転車で銀座に駆けつけてくれました。有名社長の奥様なんですが、毎回乗り物はハイヤーでもたくしーでもなく自転車、お人柄がよくわかりました。4月に入るとチャリティーオークションに出品していただく品物が続々届きました。パリコレを終えたばかりでまだパリに滞在していたルイヴィトンのマーク・ジェイコブスさんは2011年秋冬パリコレで披露したばかりの1点ものルイヴィトンバッグにサインを入れ、さらにニューヨークに戻ってからは自身のブランドであるマークジェイコブスのバッグにもサインを入れて送ってくれました。シューズデザイナーのクリスチャン・ルブタンさんも、トレードマークの赤い靴底ハイヒールに励ましのメッセージとサインを添えて送ってくれました。ほかにも山本耀司さんやカルバンクラインはじめデザイナーや有名アートディレクター、女優さんたちからもオークション品がたくさん届きました。当日お買い物されたお客様にはレシートと共にキービジュアルのはがきをお渡ししました。高額バッグであれお弁当であれ、すべてのレシートにはがき1枚の手渡し、1枚につき50円を寄付金に上乗せする仕組みでした。また、そのはがきには館内で働くすべての従業員が被災地に向けたメッセージを書き、それを正面ウインドーや柱まわりにズラリ掲示。下の写真のように、はがきのメッセージを読む、あるいは写メするお客様が大勢、涙を流しながらメッセージを読む方は少なくありませんでした。被災地に向けたメッセージ入りはがきをご覧になる方食品部は東北地方で収集可能な食材、食品をできるだけ集めて販売、ファッション関連部署はお取引先と交渉して特注商品を多数確保、販促部は俳優の渡辺謙さんらが中心となってアメリカで制作した映像「KIZUNA311」の館内上映を交渉しました。1階イベントスペースでは本格的なオークションを開催、4月20日はイベント自粛期間中とは思えないほど活気がありました。こうして被災地救済チャリティーは短い準備期間ながら成功裡におわりました。避難所暮らしの被災者からはSNS経由で感謝のメッセージが届き、読みながら涙があふれ出たことを覚えています。電力不足のためウインドーや館内照明を落とし、エレベーターやエスカレーターは一部停止、イベントは自粛という流れの中、プロモーションの趣旨は変われど全館イベントを敢行できたのは911鎮魂アートピースと出会ったからでした。もしも出会っていなかったら、自粛ムードの中ですから私たちは全員イベント敢行を諦めていたでしょう。そして、「百貨店にはまだできることがある」、小さなアートピースがみんなに勇気を与えてくれました。東北大震災から12年、いまだ行方不明の方がいらっしゃいます。いまだ原子力汚染で自宅に戻れない方もいらっしゃいます。いまだ心の傷が癒えない方もいらっしゃいます。そのことを私たちは忘れません。黙祷。<遠山由美さんのサイトより抜粋>東京都生まれ。西洋のカリグラフィと東洋の書を土台に1990年代、日本語と英語どちらにも読める両面文字 Dual Letter をつくる。それは日本人も外国人も理解する文字が存在するかを確かめようとする試みでもある。手で書く実践をとおして言葉の意味を超えた相互理解の可能性をさぐる。
2023.03.11
昨秋、松屋銀座店5階にPOLO RALPH LAURENのメンズとレディースを同じ空間で展開する併設ショップが誕生しました。POLO RALPH LAURENメンズのエリア同レディースのエリアラルフローレンのメンズ中軸ブランドはデビュー以来POLO by RALPH LAURENです。一方、後発の婦人服を手がけてからずっとレディースはPOLOをつけずRALPH LAURENとして展開してきました。婦人服にPOLOをつけたのは最近です。本国アメリカでも百貨店ではメンズとレディースの売り場は基本的にフロアを分けて展開してきましたから(直営の大型路面店では併設はありました)、昨秋オープンしたときは紳士、婦人服併設ショップは珍しいと思いました。そして、これまで4階で婦人服、5階で紳士服を展開してきたマーガレットハウエルが5階に拡大統合ショップ、3階で婦人服展開してきたズッカは紳士服を導入して5階マーガレットハウエル横に移設。ほかにもこの一画にはメンズとレディースを一緒に展開するブランドが集まり、カップルのお客様が同じショップ内で同時にショッピングできる形になりました。MARGARET HOWELLレディースのエリアショップ中央ウインドー右側がメンズエリアかつて7階にあった雑貨も同じスペースで展開従来のカテゴリー分類では、男性用商品はメンズフロア、女性用商品はレディースフロアで展開するのが一般的でした。しかし、各国の多くの人気ブランドはメンズ、レディース両方を販売するようになり、百貨店の売り場構成は商品軸の「デパートメント」からブランド軸の「ショップ」に変わりました。すでに百貨店からはブラウス売り場、セーター売り場、コート売り場などいわゆる「平場」が姿を消し、それぞれのアイテム平場に商品供給してきたアイテム専業メーカーは次々に廃業してしまいました。平場が消えてブランドショップがズラリ並ぶフロアが増え、百貨店はテナント集積のファッションビルや駅ビルと見た目はほとんど変わらない状態になり、従来の百貨店のカテゴリー分類ではお客様ニーズに合わなくなってきたかもしれません。メンズ、レディース併設ショップはカップルでショッピングされるお客様には恐らく便利でしょう。が、問題は一人でショッピングなさるお客様、特に女性客はどう感じるかでしょう。販売員の接客を受けながらフィッティングルームで何度も着替える女性客にとって、同じ空間の中にいるよその男性の目が気にならないかどうか、そこだけが心配です。通路にセットされたZUCCa男、女服ディスプレイZUCCaの左側はレディースエリア同右側にメンズを導入メンズ、レディース併設ショップが全てのお客様にすぐ受け入れられるとは思えません。しばらく時間はかかるでしょう。が、平場や単品メーカーが消滅した時代変化を考えると、併設ショップは実験してみる価値はあるのではないでしょうか。お客様の声にしっかり耳を傾け、焦らずじっくり構えて運営できるといいですね。もしも多くのお客様の反応がNOであれば、また別の分類方法を考えれば良いのですから....。
2023.03.05
銀座百店会が毎月発行するタウン誌「銀座百点」3月号の巻頭座談会に参加させていただきました。今月は銀座も含めて都内各地で「東京クリエイティブサロン」が開催されますが、それに絡めての座談会です。資生堂ファッションディレクター呉佳子さん、ファッションジャーナリスト宮田理江さんと共に「ファッションと銀座」についてお話しさせていただきました。銀座百店会に加盟しているカフェ、菓子店、レストランや小売店で無料配布されています。詳しくは次のサイトをご確認ください。https://www.hyakuten.or.jp/tenmei/tenmei.html
2023.03.01
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