売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

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2022.09.15
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バーニーズニューヨーク2代目社長フレッド・プレスマン氏の長男ジーンに呼び出され、日本のデザイナーブランド買い付け協力を頼まれたのが 1981 年秋冬パリコレ直後でした。ミュグレーやモンタナのビッグショルダー逆三角形シルエットがこの頃のファッショントレンド、バーニーズのバイヤーはパリ、ミラノで買い付け予算を消化しきれず帰国しました。発注減ですからこのままでは秋冬シーズンの売上増は見込めない、早急に新たなリソースを見つけなければなりませんでした。

その前年、カンサイヤマモトのアニマル柄ニットがニューヨークの百貨店やセレクトショップで爆発的にヒットしたことも大きな要因でしょうが、「日本にはイッセイミヤケやカンサイヤマモト以外にも優れたデザイナーがいるのではないか」、ジーンはヨーロッパの発注不足分を日本で補えるかどうかを私に質問したのです。そして4月上旬、ジーン・プレスマン副社長とメンズ、ウイメンズのバイヤーと一緒に私は東京を訪れました。

このときいくつかファッションショーを視察できましたが、どの会社も展示会はショー後3週間ほど先の開催、すぐに発注できないことがわかって一旦ニューヨークに戻りました。ショーそのものも調整機関がないから 5 月後半まで約2ヶ月に渡って日程はバラバラ、これでは東京が世界とビジネスすることはできません。ショーの短期集中開催、ショーの翌日から発注ができる体制を早く作ることが日本の課題、と思いました。これが、 1985 年の CFD( 東京ファッションデザイナー協議会 ) 設立の伏線でもあります。

4月下旬再び来日したバーニーズ、でもスムーズに発注できたわけではありません。当時ほとんどのブランド企業はバーニーズニューヨークの存在を知りません。まずバーニーズがどういうポジションの小売店なのか、どこにお店があるのか、現在どういう欧米ブランドを扱っているのかを詳しく説明しないと発注にたどり着けません。

次に L/C 決済(レター・オブ・クレジット)がいかにブランド側に安全なのかを説明しました。あの頃 L/C 決済のことも対米繊維製品輸出のクオータがあることもみなさんご存知なかったので。上代表記(欧米の展示会では下代表記)のどれくらいの掛け率で取引するかも交渉せねばならず、東京でのバイイングはものすごく時間がかかる、1日に4ブランド程度しか回れずストレスが溜まりました。


(長く私の部屋に飾っていた Yohji Yamamoto


いくつかのブランド企業を回ってワイズ(まだこの頃はヨウジヤマモトではなかった)の展示会に立ち寄りました。サンプルを見ていざ発注しようとしたところ、接客してくれた 林五一 専務は「パリの展示会でシャリバリに独占販売を約束したので今シーズンは注文を受けらない」。ワイズは3月にパリで受注会を開催し、バーニーズにとっては最大のライバルだったセレクトショップに1シーズンだけニューヨークエリアの独占販売権を渡したと言うのです。私たちはワイズの発注を諦めました。

82 年春夏シーズン、再び東京に買い付けに来たバーニーズはワイズの展示会に。このとき海外向け商品は確か「ワイズ・ヨウジヤマモト」の表記になっていたと思います。そして別のハンガーラックには国内市場向けの「ワイズ」のサンプルがありました。ジーンとバイヤーは海外向け商品に加えて国内向けワイズも発注したいと言い出しました。

ところが、国内向けワイズは既にシャリバリに独占販売を約束したのでニューヨークの他店に売ることはできない、と林専務が言うのです。またかよ、当然ながらジーンやバイヤーは不機嫌になりました。シャリバリのおよそ3倍の買い付け予算を提示しても林さんは全く興味を示さない、私たちは国内向けワイズを諦めて引き上げました。

次の展示会場に行く道中、私はジーンにこう言いました。(店舗の規模から言って)大量発注したとは思えないシャリバリとの約束を守るなんて馬鹿げているけれど、見方を変えれば林さんは律儀で信用できる男じゃないか、味方につけると頼もしい、と。不機嫌だったジーンは「確かに」と納得でした。

米国ファッションビジネスでは、口約束は守らないのが当たり前、納品された商品の代金だって簡単には支払ってくれません。特に市場でのポジショニングが高い有力店ほどあれこれ理由をつけてなかなか払わない。独占販売の口約束を破棄する例はいくつもあります。悪く言えば「騙し合い」が普通の世界なんです。シャリバリとの独占販売を生真面目に守る林さんの姿勢、米国ユダヤ系ビジネスマンには想定外だったかもしれません。

1985
年4月読売新聞社主催の東京プレタポルテ・コレクション前夜祭の夜、会場(現在の都庁の場所に建てられた大型特設テント)すぐ近くの中華レストランで御三家デザイナーと食事をすることになりました。そのとき林さんも一緒でした。話は東京にもパリやニューヨークのようにデザイナー組織を作って東京コレクションを自主運営しようとなりましたが、林さんは黙ってみんなの意見を聞いていました。私もびっくりしましたが、同席した林さんもまさかこんな話が出るとは思いもしなかったでしょう。

そして5月、新組織発足に向けて動き出したとき、林さんから電話をもらいました。「みんな仲が良いわけではないからね。そこは頭に入れておいた方がいいよ」、とそれまでニューヨークにいて日本の業界事情を知らない私にアドバイスしてくれました。

7月に発足した新組織 CFD 、そのオフィス探しを担当してくれた林五一さんと三宅デザイン事務所小室知子さんは、会社の業務そっちのけで物凄い数の物件をリサーチしてくれました。その献身的な姿勢に、シャリバリとの約束を守った人らしいなとしみじみ思いました。

林五一さんは小学校高学年から慶應義塾大学卒業までずっと山本耀司さんの同級生。慶應卒業後スカンジナビア航空に就職しましたが、成田空港開業を機に営業所が羽田から成田に移転と決まり、幼馴染の山本さんの誘いを受けて畑違いのファッションの世界に転職。転職当時は予想したほどに個性的な商品は売れず、山本さんのクリエーションとは別の売りやすい商品を「ワイズ・ドール」(確かこんなブランド名だったと聞いたことあります。私は見たことありませんが)として販売したそうです。幼馴染だから創業デザイナーに言えた施策、普通のビジネスパートナーなら喧嘩になっていたでしょうね。

こうしてワイズは徐々に国内市場で地盤を固め、 1981 年ついに海外セリングをスタート、当初ブランド名の「ワイズ」が「ワイズ・ヨウジヤマモト」になり、さらに現在の「ヨウジヤマモト」となり、「黒の衝撃」でコムデギャルソンと共に一躍世界的ブランドになりました。


(ワイズフォーリビング)


その後林さんはヨウジヤマモトとは距離をおいて「ワイズフォーリビング」を起し、現在もその経営をなさっています。






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Last updated  2023.08.27 14:18:46
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