8月急逝したオフクロの納骨を控え、郷里の実家から運んであった古いアルバムや大量の記念切手の整理を始めました。古い写真に混じってどういうわけか山中鏆さんの訃報記事の切り抜きが出てきました。 23
年前の新聞記事をご本人の命日に発見とは、あまりのタイミングにびっくりです。
1994
年 4
月に盟友イッチャン(毎日新聞編集委員の市倉浩二郎)が亡くなり、人生の短さを実感した私は「本当にやりたいことをやらずには死ねない」と、 CFD
(東京ファッションデザイナー協議会)退任を決意、自分の仲間や CFD
関係者に伝えました。 IFI
(ファッション産業人材育成機構)ビジネススクールの実験講座がちょうど始まるときだったので IFI
理事長の山中さん(このときは東武百貨店社長)にも決意を伝えたら、「どこに行くか決める前に相談に来い」、「量販店だけは絶対に許さんからな」、 IFI
のあった両国の寿司店でそう言われました。
IFI
で指導するファッションマーチャンダイジングをこの手でやりたい、希望通りやらせてくれる企業を見つける前に、まず後任 CFD
議長を探さなくてはなりません。引き受けてくれそうな人を探しましたが、デザイナー周辺事情を熟知している人でないと後継者に余計な苦労をさせてしまうことになる。ここは CFD
顧問でもある文化出版局の 久田尚子
さんしかない。しかも翌年彼女は定年で区切りを迎えるドンピシャのタイミング、選択肢はほかにありませんでした。
(左:久田尚子さん、右:コシノヒロコさん)
「ノー」と言わせない場面をどう作るか。 CFD
顧問でもあるファッションプロデューサー大出一博さんに「一緒に頭下げてくれませんか」と攻略作戦の協力をお願いしました。大出さんの SUN
デザイン研究所葉山合宿所に久田さんを呼び出してまずは宴会、酔っぱらった頃を見計らって土下座して頼む、これが作戦でした。相手は業界有数の酒豪、半端な酒量ではなかったけれど、二人でお願いしたら最後は「わかったわよ」とどうにか了解してくれました。
本人の気持ちが変わらないうちにと、文化出版局の親組織である学校法人文化学園の大沼淳理事長を訪ね、「久田さんの CFD
議長就任を認めてください」とお願いしました。その場で大沼さんの承認を得て、ようやく私は CFD
と東京コレクションの運営から解放され、念願だったファッションマーチャンダイジングをやらせてくれる企業を探すことができたのです。
久田さんとは初対面からいろいろ行き違いがありました。デザイナー組織を新たに作る話に半信半疑で帰国した私には面倒な手続きが待っていました。まず、直前に開催された読売新聞社主催東京プレタポルテコレクションのアドバイザーだった方々との面談が待っていました。帰国して真っ先に文化出版局の久田さんを訪ね、どういう経緯で新組織を作る話に発展したのかを説明しました。
「本来私たちがやらなければならないことを(海外にいる)あなたがやるわけね」と皮肉っぽく言われたので、「久田さんがおやりになってはいかがですか。わざわざ僕がニューヨークから帰ってきてやらなくてはいけないことじゃないでしょう」と正直に思いを返しました。恐らくこのセリフで久田さんはカチンときたのでしょう、年少の若造( 19
年の差があります)が生意気なこと言うんじゃないわよとばかり表情が険しくなり、とても協力してもらえそうな空気ではありませんでした。
次に久田さんとあるパーティーで会ったときは「あなたは(帰国を勧めた)三人組の犬よね」とさらに強烈なことを言われ、「ごく最近初めて会ったばかりなので三宅一生さんのことはよくわかりません。山本耀司さんとはサシで話をしたこともありません。仲良しと言われる関係ではありませんから」と反論しました。ほかにも身に覚えのないことをたっぷり言われ、どうして自分がデザイナー新組織設立のために奔走しなくてはならないんだろうと挫けそうになりました。
こんなチグハグな会話は CFD
設立まで連日続き、正式発足後 CFD
顧問になってもらってからもしばらくは理解し合えない関係のままでした。本来自分たちが担うべき仕事を海外在住の見知らぬ男にやらせたいとデザイナー諸氏は言う。でも現時点で編集者の仕事があるのでは自分は身動き取れない。しかも何ともクソ生意気な若造が目の前に、相当悔しかったのでしょうね。
CFD
発足からおよそ1年後、久田さんは出勤途中にアポなしで事務局に立ち寄り、「これからはあなたを応援するから何でも言ってちょうだい」、と思いもよらぬ優しいことをわざわざ言いに来たのです。正直言って俄に信じられない、また何か仕掛けられたのかと戸惑いました。が、今度はセリフそのままでした。以来、久田さんは親身になってあれこれ私をサポートしてくれました。
住み慣れた南青山のマンションから世田谷代田の一軒家に引っ越した直後、イッチャンと私は新居に招待され、大変ご馳走になりました。まるで小料理店のようなカウンターの中には料理人の久田さん、カウンター席には私たち、次から次へと手料理とお酒が供され、切れることのないおしゃべりが続き、ディナーが終わった時点でキッチンの洗い物は完了、実に見事なプロの段取りでした。仕事一途で家事なんてしない人だと想像していましたが、とんでもなく器用に家事をこなす人でした。
このとき1部屋つぶしたウォークインクローゼットに案内され、「
ねーねー、見てよ。これ、私の宝物なの。パリ支局勤務のときにお給料貯めて作った最初で最後のオートクチュール、全盛期のイヴ・サンローランよ」、嬉しそうにオートクチュール服を見せる
久田さんはまるで小娘が恋を語るような表情、本当にファッションとデザイナーのことが大好きな編集者なんだと改めて思いました。
私が 10
年、そして久田さんが 10
年 CFD
と自主運営の東京コレクションを守りましたが、ここで経済産業省が東京コレクション支援を打ち出し、状況は一変しました。私は久田さんと二人だけで会食、せっかく国が支援してくれると言うんだから提案を受け入れるべきだし CFD
議長退任のグッドタイミング、引き際を間違えないでください」と言いました。お互い 10
年ずつ組織運営で苦労した者同士だからわかり合える、久田さんは議長退任を決めました。
CFD設立20周年、前列中央が久田さん
久田さんは愛知県常滑市の出身、私は伊勢湾を挟んだ三重県桑名市の出身、郷里は目と鼻の先です。晩年病で倒れリハビリ介護施設に移った久田さんは残念ながらこの施設で亡くなりましたが、そこはなんと私の自宅から徒歩数分の施設、何とも不思議なご縁です。
久田邸でご馳走になったとき次から次へと出てくる手料理は常滑焼きのお皿で、贈ってくださる日本酒はいつも常滑の「白老」、郷土愛が強い人でもありました。私のオヤジみたいな松尾武幸さん(繊研新聞社取締役編集局長)の名古屋大学学生寮のルームメイトが偶然にも高校時代の恩師、左翼的思想を教え子たちに注入したインテリ先生だったと久田さんから伺いました。これも不思議なご縁。
一緒に飲むたび酔っ払って大声で「バッキャーロウ」を連呼しながら私たちの肩や太腿を強く引っ叩く、元気過ぎて口の悪いおばちゃんでもありました。いま頃あの世でイッチャンやシゲルさんを引っ叩きながら大酒飲んでいるでしょうね。
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