売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

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2022.10.11
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そもそも私はマーチャンダイジングのプロになりたくて大学卒業後就職しないでニューヨークに渡りました。ニューヨークでの取材活動も、パーソンズ・スクール・オブ・デザイン夜間コースでバイヤー講座に参加したのも、バーニーズニューヨークの TOKYO ブティック開設に協力したのも、すべてマーチャンダイジングの知見を得るためでした。

8年間いろんな仕事をしたことで米国式マーチャンダイジングを習得、そろそろ帰国しようかなと考えていたタイミングで デザイナー組織設立の話が飛び込んできました。自分がイエスと言えば、日本にもファッションデザイナーの組織ができ、短期集中型東京コレクションの自主運営が可能になるかもしれないと考え世話役を引き受けました。どのメディアや企業にも頼らず東京コレクションの自主運営が軌道に乗ったらマーチャンダイジングの仕事にと考えていましたが、なかなか退任できる状況にはなりませんでした。

しかし、 CFD 設立9年に盟友・市倉浩二郎の急逝で目が覚めました。今度はなにがなんでも CFD を辞めて念願の仕事をと決意、退任したい気持ちを伝えるために長文レポートをまとめ、 CFD 幹事団とアドバイザーや親しい友人たちに配りました。この退任決意レポートを配った友人の一人が当時松屋の東京生活研究所取締役ファッションディレクターだった 杉本明子 さん、ニューヨーク時代からの友人です。このことが私の人生を大きく変えました。

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右から杉本明子さん、石津祥介さん、私

杉本さんはまだ海外留学生が少なかった 1960 年代後半、英会話習得のため米国西海岸に渡りました。現地の図書館でニューヨーク州立ファッション工科大学(通称 FIT )の存在を知り、入学願書を取り寄せてニューヨークに引っ越し、 FIT 4年制コースを卒業。就職したのが旭化成の米国法人でした。

その後一旦帰国して旭化成本社に。頭を短く刈り上げ、ポルカドットに部分染めして帰国したそうですから、当時の旭化成の社員はさぞびっくりしたことでしょう。当時はかなり目立ったと思います。職場の上司だったのがこのブログ「交友録6」で触れた原口理恵さん(旭化成のあと伊勢丹研究所に迎えられたファッションディレクター)です。

しかし、男性社会の当時の日本、米国で教育を受けた杉本さんには窮屈だったのでしょうね、ストレスから胃潰瘍になり、結局ニューヨークに戻ったと聞いています。

私が杉本さんのことを初めて知ったのは、 1980 年代初頭に伊勢丹がニューヨーク駐在オフィスを開いた頃です。伊勢丹のバイヤーやコーディネイターを連れてニューヨークコレクション会場でよく見かけ、ブルーミングデールズなど売り場でもたびたび遭遇しました。月、火曜日は旭化成勤務、水、木、金曜日は伊勢丹の掛け持ちとパワフルに活躍、ニューヨークのキャリアウーマンのように颯爽と歩く姿は怖そうなお姉さんそのものでした。しかも噂では男性社員を叱り飛ばすことで有名だった伊勢丹研究所のKさんを説教して泣かしたそうですから、私は常に一定の距離を保っていました。

が、ある日伊勢丹一行を連れた杉本さんが狭い日本食レストランに現れました。先に食事していた私がカウンター席を立たないと杉本さんらは奥の席に進めませんから無視することもできず、ここで初めて名刺を渡して「今度ゆっくりお食事でも」とご挨拶。その数日後に「今度っていつですか?」と連絡がありました。会食したら意外や怖そうなお姉さんではありませんでした。以来、親交を深め、杉本さんやその友人らとの情報交換の会食が増えました。

伊勢丹はトップデザイナーだったカルバンクラインとライセンス契約を結んでプライベートレーベルとして国内販売、その生産をオンワード樫山が担っていました。そのカルバンクライン社からクレーム、米国ではシルクで展開している商品をどうして日本ではポリエステルに置き換えているのか、と。伊勢丹のバイヤーとオンワード樫山の責任者は恐る恐るショールームを訪ねました。

このとき人気絶頂のカルバン・クライン氏に数枚の生地サンプルを差し出し、「どれがシルクか当ててください」と言ったのが杉本さん。カルバンがシルクとして選んだ生地、実はポリエステル 100 %でした。「日本製ポリエステルのクオリティ-は高いのよ」と杉本さんに言われたカルバンは何も言えず、恐る恐る出かけたバイヤーたちは「杉本さんのお陰で助かった」。のちのオンワード樫山T副社長から聞いた話です。

私が帰国したのち、杉本さんは旭化成、伊勢丹を辞め、東海岸メイン州の海岸線をのんびり旅行、途中休憩で立ち寄った小さな島には「 FOR SALE 」の表記、島ごと売りに出ていたので思い切って購入したそうです。ちょうどこの頃、ニューヨーク出張に出かける松屋の山中社長(=当時)を紹介したのは。日本に戻る前夜に山中社長が杉本さんのアパートを訪ね、松屋顧問に迎えたいと言った話はこのブログ「交友録 16 」に書きました。

1990
年山中さんは東武百貨店社長に就任、そして私たちと一緒にファッション産業人材育成機構(略称 IFI )の設立に尽力しました。そのとき杉本さんから、家庭の事情で帰国することになった、と連絡がありました。米国での経験豊富な杉本さんには IFI の指導者にもなってもらいたい、山中理事長と私は同じ思いでしたが、山中さんは社長就任したばかりの東武百貨店にも欲しいと言い出しました。



一方、杉本さん自身は山中社長時代に顧問契約した松屋で仕事がしたいと意見が分かれ、結局私が間に入って 1991 年最終的に松屋の東京生活研究所取締役ファッションディレクターに就任しました。杉本さんが旭化成本社勤務の際に上司だった原口理恵さんが設立準備をした研究所、ご縁ですね。

IFI
設立後最初のファッションマーチャンダイジングのカリキュラムは、東京生活研究所杉本さん、彼女の友人で伊勢丹研究所ディレクターだった田辺慈子さんと私の3人が相談しながら作りました。そのカリキュラム、
現在も私は マーチャンダイジングの基本を教える講義で使っています。


杉本明子さんが東京生活研究所に入って3年後、私の CFD 議長退任決意レポートは杉本さんから松屋の古屋勝彦社長(=当時)の手に渡ります。レポートを読んだ古屋社長からすぐ連絡が入り、二人きりで面談し、松屋入りを誘われました。もしも杉本さんが古屋社長に私のレポートを渡さなかったら、私は別のファッション流通業でマーチャンダイジングの仕事をやっていたかもしれません。

杉本さんは私を松屋に誘ったことで幾分気が楽になったのでしょう、妹さんが病死した後松屋のことは私に託して再びアメリカに戻りました。暑い季節はメイン州の一軒家、寒くなったらフロリダ州のマンション、なんとも優雅な暮らしをしています。


(残念ながら、杉本さんの写真が手元にありません)






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Last updated  2023.08.27 14:24:30
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