売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

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2022.11.15
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1994年3月下旬、故・鯨岡阿美子さんのご主人古波蔵保好さん(元毎日新聞論説委員)が85歳の誕生会を銀座ソニービルにあったマキシム・ド・パリで開催されました。沖縄生まれの古波蔵さんによれば、85歳の誕生日を迎える側が好きな人を呼んでご馳走するのが沖縄流だそうで、鯨岡阿美子賞創設で奔走した毎日新聞市倉浩二郎編集委員、鯨岡さんの会社アミコファッションズで毎シーズン講義していたスタイリスト原由美子さんと共に招待されました。

その直前に開催された1994年秋冬物パリコレはルーブル博物館地下にファッションショーのシアターが完成した最初のシーズン、会場間移動は以前より便利になったので取材陣はかなり楽だったはずでした。しかし、誕生会に現れた市倉さんはどこか疲れた表情でした。そして4月初旬に始まった東京コレクション初日の夜、彼は体調不良でダウン、翌日には意識不明の重体、3週間後に入院先の府中病院で亡くなりました。古波蔵さんから「今度三人で沖縄にいらっしゃい」と誘われていたのに実現できませんでした。

パリコレ出張から戻って特集記事を入稿というタイミングでの編集委員の意識不明、編集局もタイアップ記事を仕込んでいた事業局も大慌てに。そこで仲が良かったからという理由で私に協力要請がありましたが、パリコレに行っていない私にコレクション記事は書けませんし、タイアップ企画のデザイナー取材も中立な立場のデザイナー協議会議長としては受けられません。

適任者が一人いました。市倉さんの仲間、パリ在住フリーランスのファッションジャーナリスト村上新子さんです。ちょうど帰国したところだったので、私から毎日新聞事業局長だった堤哲さん(のちに拙著「ファッションビジネスの魔力」発行に尽力してくれた人)に紹介、市倉さんが書くはずだった企画は村上さんが引き受けてくれました。


(2013年12月、私の壮行会に来てくれた村上新子さんと)

市倉さんが「パリでおもしろい女性を見つけたよ」、帰国中の村上さんを伴って飲み会に現れたのはその数年前のことです。数少ないファッション専門テレビ番組「ファッション通信」を制作するインファスの元パリ支局長、現在はフリーランスジャーナリストと紹介されました。年齢不詳、お酒は飲まないのに飲食の造詣深く、フランス語は極めて流暢、はっきりブランド名がわかるような服は着ない、人に媚びない姿勢の人でした。父親が元朝日新聞社記者、その血をひいてかジャーナリスト魂がある人でしたが、村上さんの出身校も卒業後の足取りも私生活も全く不明、謎の多い不思議な人でした。

私がパリ出張すると必ずフレンチディナーを予約、ファッション業界動向のみならずパリ生活文化の最新情報を提供してくれる貴重な情報源でした。有名レストランから若いシェフが独立して開店したばかりのレストランや、人気急上昇の新しいレストラン、伝統的家庭料理のビストロなど、ニュース性のあるフレンチによく連れて行ってくれました。

あれは1997年10月のパリコレ出張、「今日お連れした店は最近ニュースになったばかりなの。どうして話題になったのか当ててみて」と村上さんはおかしなことを言う。内装はごく普通のビストロ、創業は1912年と古く決して高級レストランではなさそう、こんなありきたりの店がどうしてニュースになるんだろう。想像つかないので「まさかダイアナ妃?」と答えたら、「その通りなの、よくわかったわね」でした。

ダイアナ妃はこのごく普通のビストロがお気に入り、あの事故の晩も予約を入れていたそうです。が、ホテルの周りに多数のパパラッチ、お店に迷惑をかけるといけないので予約キャンセル、リッツホテル内レストランで食事され、その後事故死。その話が拡散されて「ブノワ」は一躍有名になったとか。

大きなトレイに剥製のように動かない3種類の野鳥が運ばれ、その中から私はウズラを選び、飲まない村上さんの分までシャンパンを一人で一本あけたことを覚えています。のちにアランデュカスに買収されるまでブノアには頻繁に通いました。私のスマホのアドレス帳パリ欄にある飲食店のほとんどが村上さんに連れて行ってもらったお店、どれも美味しいけれど決してバカ高くはなくリーズナブル、そこに彼女の人柄を感じます。


(ギャラリーラファイエットの屋外大規模ショー)

東北大震災があった2011年秋、村上さんからメールが届きました。ギャラリーラファイエット百貨店が屋外に大きなランウェイを設置、750人の素人モデルを登場させた大規模な秋物ファッションイベントを開催した、と。「太田さんもこれくらいのことを仕掛けては」と村上さんからハッパかけられているようなメールと添付写真でした。このとき私は百貨店に復帰した直後だったので、パリの百貨店にできて東京にできないわけがないと思いました。

その頃、長年のライバル三越銀座と初の共同プロモーション「銀座ファッションウイーク」を被災地のために企画、三越伊勢丹幹部とは「銀座通りで屋外ファッションショーをやれたらいいね」と話していたところでした。さっそく部下の販売促進課長に村上さんから届いたギャラリーラファイエットのイベント写真を持たせ警視庁に送りました。第一打は空振り、警視庁の担当部署には笑われました。

東京都が主催する東京マラソンだって企画段階から最終的に認可するまで7年を要したんだぞ、と急な申請に対して警視庁担当官から叱られたとか。戻ってきた課長に言いました。「東京マラソン42.195キロが7年だろ、こっちはたった100メートルのランウェイなんだ、7年もかからない。もう一度交渉に行ってくれ」と部下の背中を押し、経済産業省クールジャパン推進室の課長に協力をお願いしました。

さすがお役人、六法全書を抱えてわが部下を応援するため警視庁に同行、「六法全書には歩行者天国の禁止事項とは書いてない」と抵抗してくれました。しかし、それでも警視庁は首を縦に振らず、なかなか許可が出ません。最後の頼みは同課長から勧められた経済産業大臣への直訴でした。「補助金欲しいと言っているのではありません。節電のための自粛で元気がない銀座のため、疲弊する地方の繊維産地のためにも許可して欲しいんです」、私は大臣に訴えました。

大臣が直々に警察トップを説得してくれ、歩行者天国の銀座中央通りで「ジャパンデニム」をタイトルに屋外ファッションショーを開催することが認められました。デニム生地で作ってもらったランウェイは100メートル、モデルには東北被災地のちびっ子、銀座泰明小学校の生徒、協力してくれた経済産業大臣ご本人、ブロードウェイ進出寸前だった女優の米倉涼子さんたちが登場してくれ「ギンザランウェイ」は数千人の観客を集めました。2012年3月、東北大震災から1年後のことです。


(2012年3月ギンザランウェイ)

その模様はテレビニュースや一般紙1面でも大きく取り上げられましたが、ファッション業界の出来事が全紙1面でしかも写真付きで大きく報道されたのはこのギンザランウェイが初めて。パリのギャラリーラファイエットのイベント写真が村上さんから届いていなかったら、おそらく私たちも警視庁の拒否に対して簡単に諦めていたでしょう。あの写真があったからこそ交渉できたのです。

すでに村上さんは鬼籍、謎の多い不思議な人のまま私の前から消えました。屋外ファッションショーを見るたびハッパをかけてくれた彼女のことを思い出します。





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Last updated  2022.12.30 11:25:46
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