殖栗昭子さんと私
この殖栗さんの退職、少なからず私も関係していました。松屋再建のあと東武百貨店社長に就任した山中さんとの会話の中から飛び出した構想だったのです。
山中さんに「顧問になってくれ」と言われて以来、たびたび会食やミーティングの場に駆り出された私は、依然男性社会の百貨店業界は女性幹部をもっと採用しなければ変化は起こらない、思い切って優秀な女性を役員クラスに登用すべきでは、と進言していました。「優秀な女性っていったいどこにいるんだ」と百貨店経営の神様はおっしゃるので、「身近にもいるじゃないですか。たとえば殖栗昭子さんなんてどうです、伊勢丹時代からよくご存知でしょ」と名前をあげました。
数日後、殖栗さんから電話がありました。「あなた、山中さんに変なこと言ったでしょ。さっき山中さんから電話がかかってきて食事に誘われたわ。あなたも同席してちょうだい」、強い口調で命じられました。しかし、「知らない仲じゃないんだから、お二人でどうぞ」と断りました。
かつて、三越から西武百貨店社長に転じた(のちに三越に復帰)坂倉芳明さん、東急百貨店三浦守さん、松屋山中さん、3人の密室宴席がありました。部屋を提供していたのは帝国ホテル犬丸一郎社長、某大手アパレルメーカー大幹部K氏が費用を負担、数名のアパレルメーカー経営者が差し入れの酒を持参する席だったそうです。これに付き合わされた「華」の一人が伊勢丹研究所出身の殖栗さん、山中さんとは入魂でした。だから私が二人の間に入って紹介する必要はありません、同席は遠慮しました。
山中さんが東武百貨店社長に就任した直後、「殖栗くんはパリコレに出張中だが滞在先がわからないんだ。キミ、探して伝言してくれないか。東武の根回しは終わったと」、と電話がありました。二人の間で話は進んでいたのです。
その数カ月後、殖栗さんは東武百貨店マーチャンダイジング部門担当の常務になりました。インポートブランドの集積では同業他社に先駆け圧倒的に強かった西武池袋本店ですが、当時人気急上昇中だったプラダやジルサンダーのショップは東武にオープン。殖栗ネットワークであることは言うまでもありません。パリコレ時に発表される人気ブランド上位20傑のうち東武は7つ導入、西武池袋の目の前でこれはあっぱれでした。
初めて殖栗昭子さんと会ったのはニューヨークコレクション会場、ショーでたまに見かける「いつもクールな表情の滅多に笑わない姉御」、そんな印象でした。どういうわけか当時から私はひと回りほど年長の姉御たちに可愛がられる「おばんキラー」でした。生意気な意見を言っても叱られない、殖栗さんとも自然に交流が始まりました。
ニューヨークを引き上げ東京コレクションの運営を始めた私は、パリコレ初日木曜日コムデギャルソン、ヨウジヤマモトのコレクション終了後ミラノでまだ展示会まわりをしている彼女に電話を入れ、コレクションの感想などを報告しました。
いつだったか「今晩、あなた空いてない」と電話がありました。来日中の英国セレクトショップのブラウンズロンドン女性経営者バーンスタインさん、コムデギャルソン川久保玲さんと今晩食事をするので英語を話す男性を加えたい、と急なご指名でした。毎回、突然こんな調子で電話をもらってはディナーを付き合いました。
バーンスタインさんと川久保さんがお帰りになった後二人でグラッパを飲んでいたとき、何の話がきっかけだったかは忘れましたが、「ババア、うるせー」と私、「ババアとはなんだ」と姉御、「年長の女性はみんなババアだ」と言い返す私と、他人が聴いたらびっくりする場面になったこともありました。でも数日後ケロッと「今晩、付き合いなさいよ」と電話、決して悪い関係ではなかったと思います。
ある大手アパレルメーカーの幹部に頼まれて今度は私が彼女を紹介する席をセットしたら、後日電話で「アパレルのおじさんたちは楽しくないわね。今後アパレルメーカーの人は紹介しないでちょうだい」とピシャリ。お互い正直に思ったことを言える仲でした。
滅多に笑わない、人を褒めない、ストレートな言い方をするベテラン女性が商品政策の責任者として外部から入ってくる、百貨店の男性社員の中には面白くない人も少なくなかったでしょう。陰でコソコソ動く男性たちが気に障ったのか、時には会議で小型レコーダーをセットして「文句があるならここではっきり言いなさい。録音を山中社長に聴いてもらいますから」とやったそうです。こういう行動はかえって火に油を注ぐようなもの、次第に批判的な声が私にも聞こえてきました。正直、危ないぞと思いました。
そして、山中さんが病死された後は居心地が悪かったのでしょう、彼女は東武百貨店を退任してトッズジャパンに移りました。私は熱烈トッズ愛用者ですが、彼女がトッズにいた間は表参道の直営店に出かけたことがありません。なぜなら、私が同業他社の百貨店に転職して以降、蜜月関係は一気に冷えたのです。同業者になったのがよほど気に入らなかったのでしょう、パリコレ会場で遭遇しても完全にシカトされました。
結局疎遠になったまま彼女は亡くなり、二度と会食するチャンスはありませんでした。
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