売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

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2022.12.10
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​1985年5月ゴールデンウイーク最終日に一時帰国した私は、通信員契約をしていた繊研新聞社のニューヨークセミナーで解説したり、終わったばかりのニューヨークコレクション(当時秋冬物は4月後半の2週間開催だった)の総括記事を書く一方、突然構想が持ち上がった東京ファッションデザイナー協議会設立の準備に追われていました。参加を呼びかけるデザイナーのリストアップ、会則や規約づくりなど、発起人デザイナーやその実務責任者と連日打ち合わせ、事務所探しは三宅デザイン事務所の小室知子さんとワイズの林五一さんが引き受けてくれました。

7月8日、日比谷のプレスセンターで設立総会、記者会見、設立記念パーティーがあり、いよいよ東京コレクション自主開催に走り出しました。しかし、いい事務所物件がなかなか見つからず、小室さんの勧めでしばらく六本木にあった三宅デザイン事務所の別館スペースを借りて業務開始でした。このとき第1号アルバイトとして仮事務所でサポートしてくれたのが、玉川大学の学生だった欧子ちゃん、帽子デザイナー平田暁夫さんのお嬢さんでした。

平田さんは1955年帽子デザイナーとして事業をスタート、日本ファッションエディターズクラブ賞を受賞した翌年パリに渡り、オートクチュールと共に発展してきたフランス流帽子づくりのワザを身につけたと聞いています。欧州滞在中に生まれたお子さんに「欧子」という名前をつけました。帰国後、縁あって皇太子妃美智子さま(現在の上皇后さま)の帽子も担当するようになり、上品な小さな帽子は女性誌グラビアなどで何度も取り上げられました。



1994年4月25日、仲良しだった市倉浩二郎さんが急逝したとき、彼の先輩記者から「毎日新聞から一人出すのでファッション業界からも一人弔辞を読む人を出してくれ。あんたがやるのが一番良いんだが」と言われました。が、声を詰まらせることなく弔辞を読む自信のない私は、故人と親交のあった平田さんに弔辞をお願いしました。このとき奥様から「(心臓の病気だった)平田を殺す気」と𠮟られました。「あなたがおやりなさい」という意味だったのかもしれません。

告別式の遺影に選んだ写真は、鳥居ユキさんのファッションショーで市倉さんが平田さんをエスコートしてモデルとしてステージにあがったときのもの、照れくさそうに笑う写真がその人柄をよく表していました。実際の写真は市倉さんの横に平田さんも写っていますから写真の説明もして「ここはぜひ平田先生にお願いしたいんです」と奥様を説得、平田さんは引き受けてくださいました。

平田さんは心臓を患っていてたくさんお薬を服用されていると伺いました。私は強い薬の副作用の心配から、当時巷で流行し始めた有機栽培の根菜などを煮た「野菜スープ」を勧め、そのレシピコピー奥様にをお渡ししました。2カ月後、平田さんのトレードマークであった白い顎髭が段々黒くなってきた、と喜んでくださいました。確かに、それまで真っ白だった髭に少し黒いものが混じっていました。

盟友の死から約1年後、私はそれまで務めたデザイナー協議会を退職、松屋のシンクタンク東京生活研究所に転職、あるパーティーで平田さんと三宅一生さんから「せっかく百貨店に入ったんだから暴れてください。面白いこと一緒にやりましょう」と激励されました。

その直後でした。三宅さんのプリーツプリーズ春物展示会、会場には鮮やかな春色商品がズラリ、思わず私は「Spring has comeですね」、と。そして直感的にイベントを思いつき、「先日、面白いことをやれとおっしゃったですよね。展示会終わったらサンプルを平田先生のところに送ってくれませんか。コラボイベントやりましょう」と三宅さんに提案しました。

オフィスに戻って今度は平田さんに電話を。「近日中に三宅さんのところからプリーツプリーズのサンプルが届くと思います。それをご覧になった瞬間の気分を帽子にしていただけませんか。テーマは"春が来た"、松屋一階のSOG(Space of Ginza。天井までオープンスペース)で面白いことしましょう」。

こうして半年後AKIO HIRATA X PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKEイベント開催。SOGの大きな壁面いっぱいに円形パイプを設置、カラフルなプリーツTシャツのハンガーをパイプに取り付けて観覧車のような展示を行い、フロアでは平田さんの帽子とプリーツ服を並べて販売、期待以上によく売れました。

このとき大手アパレル大幹部が「こういうのって松屋らしくていいねえ。売れる、売れないじゃないんだよ。お客さんに楽しいこと、面白いことを提供するのが百貨店の使命。こういうのどんどんやってよ」と激励されました。普段は売上のことしか言わない大手企業の人にもわかってもらえてうれしかったです。

コラボイベントのあと、ご協力いただいた平田さんと三宅さんにお礼をしなければと、専務営業本部長が銀座のイタリアンレストランで一席セットしたとき、奥様が席を立たれるたびに平田さんはワインを私に所望なさるのです。恐らくドクターからお酒を控えるよう助言あり、奥様からは禁止されていたのかもしれません。でも、奥様の目を盗んでいたずらっ子のような目でワイングラスを差し出す姿、とてもおかしかったです。

お会いするたび、「今度飲もうよ」とよく声をかけてくださり、年末になると特別に蔵元から取り寄せた出来立てほやほや濁り酒の一升瓶を2本わざわざ持参してくださいました。これも「飲もうよ」のシグナルだったかもしれません。



2011年東北大震災のあと、南青山スパイラルガーデンでnendo佐藤オオキさんが空間演出した「ヒラタノボウシ展」がありました。インスタレーションのための白い不織布帽子(=写真)を制作するのに手が足りない、どこか専門学校の学生さんに手伝いをお願いできないだろうかと相談され、私は指導していた目白デザイン専門学校の先生方に協力をお願いし、助っ人を動員しました。この展覧会は高く評価され、その年の毎日ファッション大賞に選ばれました。

平田暁夫さんは2014年に亡くなりましたが、欧子ちゃん(本名は石田欧子)が「平田欧子」を襲名、父上の後を継いで帽子デザイナーとして活躍、二人のお子さんも若者向け帽子ブランドを手掛けています。

2016年、南青山のギャラリーで欧子さんの小さな展覧会にお邪魔したら、そこに美智子皇后がいらっしゃいました。私たち一般人は進路の邪魔にならぬよう部屋の隅っこに立っていたら、どういうわけか皇后さまが私にも声をかけられました。どんな有名人から声をかけられてもあがったことはありませんが、このときだけは頭の中が真っ白になり、ご質問に対して何を答えたのかはっきり覚えていません。

皇室の方々のために服や帽子をデザインするのってものすごく神経すり減らすのでは、とこのとき初めて思いました。オートクチュールのような帽子を身につける人は現代社会において多くはないでしょうが、誰かが継承しないとこれまで培われてきた伝統技術、職人技は消えてなくなります。フランス以上にフランスっぽい帽子を創作した平田さんのクリエーションとクラフトマンシップ、欧子さんやお孫さんがしっかり守ってさらに発展させて欲しいです。​





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Last updated  2022.12.30 11:20:32
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