売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

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2023.02.02
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大学2年生の冬に父の同業仲間を訪ねたとき、オフィス応接室に置いてあった見知らぬ新聞が「繊研新聞」でした。「何これ」と手に取って電話番号をひかえて翌日電話し、数日後に購読を開始しました。以来、繊研新聞とは長い付き合いが続いています。購読初期はわからない単語だらけ、記事に赤線をひいてはあとで調べ、興味ある記事は切り抜いてスクラップ、私には最良のテキストでした。

大学生のファッション研究団体を立ち上げ、いろんな媒体の取材を受けるようになり、若者市場に関するマーケティングレポートを寄稿する中で繊研新聞の取材も何度か受けました。このブログの交友録20に登場する松尾武幸さん(当時は編集部デスク)が取材に連れてきたのが、直属部下の織田晃記者と営業部の古旗達夫さんでした。


織田晃さん(故人)

そして、大学卒業が迫ったタイミングで織田さんに呼び出され、「卒業したらうちに来ないか」と誘われました。が、私はどうしてもマーチャンダイジングを収得のためニューヨークに行きたかったのでお断りしました。その後渡米して1年経過、松尾さんが特約通信員に誘ってくれ、私はニューヨークのデザイナーコレクション評や業界動向を繊研新聞に書くようになりました。

1983年3月、パリコレとはどんなものか一度見てみたいと思い、コレクション担当記者だった織田さんに招待状の追加申請をお願いしたら快く引き受けてくれました。宿泊は織田さんがあの頃パリ出張時に使っていた凱旋門にほど近い安ホテル、凱旋門からホテルまで歩道には派手な化粧のコールガールが並ぶなんとも薄気味悪いエリアでした。いまでは想像できない1ドル230円の円安時代、日本からの出張者は安ホテルで我慢するしかありませんでした。

コレクション期間中チケットが複数枚届いたメゾンのショーは織田さんに同行、多くのコレクションを見せてもらいました。働く女性たちにとっての実用的な服が大半を占めるニューヨークと違い、パリコレは「誰がいつ着るの」と問いたくなる奇抜なデザインも多く、ショーの演出は楽しく、華やかさは明らかに違いました。

連日最終時間のショーが終わると、織田さんにくっついて日本からの取材陣と合流して遅めのディナー。一般紙の記者、女性誌や専門誌の編集者、フリージャーナリストやパリ在住の関係者、ブランド広報の人たちとちょっとした打ち上げ宴会のようでした。朝から夜までほぼ1時間おきのショー取材、しかも大半の方はミラノに続いてパリコレですから相当きつかったでしょうが、それでも皆さんとても元気でした。

織田さんのほかには服飾評論家の大内順子さん、毎日新聞の田中宏さん、集英社の愛甲照子さん、モードエモードの大塚陽子さん、ほかにパリ在住フリーのジャーナリストやカメラマンらがよくサントノーレ通りの中華料理店に集まっていました。残念ながら多くの方はすでに亡くなっていますが....。

いまでもそうかもしれませんが、当時ファッションショーの招待状は同業者の間で奪い合いでした。宿泊しているホテルのコンシュルジュが間違ってショーの招待状を赤の他人に渡そうものならまず戻ってはきませんし、会場で指定された座席番号には先着した他社の記者が知らん顔して座っていることも日常茶飯事、自分の席に座るまで安心できません。


(シャネル 2013年春夏パリコレ)

新聞雑誌の正社員記者が初めてパリコレに来ると、それまでパリコレレポートを寄稿していたパリ駐在特派員や外部のフリーランスジャーナリストに招待状が届くものの「新参者」には届かないといったケースがよくありました。初めて取材に来た若手記者が確認のためにオートクチュール協会のオフィスを訪ねたら、協会側の登録媒体リストに自分の名前はなく、自社の欄には登録手続きをお願いした人の名前しかなかったという怖い話も。

先輩ジャーナリストやパリ在住フリーランスの人たちに虐められ、初回のパリコレ取材で「もうパリコレには来たくない」と嘆く記者もいましたが、私は織田さんがちゃんと招待状を渡してくれ、織田さんにくっついて行動していたので初回パリコレでも惨めな思いを全くせずに済みました。

あれは私にとって2回目のパリコレ、1985年3月のことでした。織田さんからマリ・クリスティーヌさんを紹介されました。女優や番組司会で活躍していたマリさんはいろんな国で生活した経験とその語学力を活かしてファッションレポートにも意欲を燃やし、85年秋冬パリコレ取材に来ていました。パリコレ取材は新人同然、先輩取材陣の洗礼を受けてちょっと悩んでいる様子。織田さんから「太田くん、面倒見てやってよ」と言われ、現地であれこれアドバイスすることになったのです。

マリさんは先輩取材陣から冷たくされたのか、「いったい誰を信じたらいいのでしょう」とストレートな質問。私はニューヨークがホームグラウンド、パリコレは2回目で誰が信用できるなんて軽々に答えられません。「織田さんは裏のない人、彼の背中に隠れていればいいよ」と助言しました。

彼女にはもう一点、「あくまでもタレントとして消費者目線でファッション情報を視聴者や読者に伝えることに徹してみてはどうかな。あなたがファッションの専門家を目指すとなれば、報道陣の中には警戒する人が出るかもしれない」。先輩の紹介だったのでじっくり相談に乗りましたが、その後しばらくして彼女はファッションの世界を諦めたのかショー会場で姿を見ることはなくなりました。

後輩たちや若いデザイナーの面倒見も良かったが、織田さんは学生の頃から反骨精神の持ち主、ビッグネームのコレクションにも忖度なしで辛口批評を書き、時々ブランド広報やデザイナー本人と口論になることもありました。織田さんの記事に怒り心頭だったデザイナーに上司の松尾編集局長共々呼び付けられて胸ぐらを掴まれたこともあったそうです。

反骨精神の記者から見れば、日本の主だったファッションデザイナーが組織したCFD(東京ファッションデザイナー協議会)はひとつの権威団体、その事務局長に就任した弟分の私(織田さんほどではないけれど忖度抜きの私の記事に対するクレームが繊研新聞に来ることがたびたびありました)は「裏切り者」だったのかもしれません。CFD設立してからは何かにつけCFDや東京コレクションに批判的、私とは距離を置くようになりました。反骨のジャーナリストにとって、取材対象であるデザイナーを守る側に行ってしまった後輩が許せなかったのかもしれません。





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Last updated  2023.02.04 23:29:16
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