売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

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2023.02.18
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世界で通用するプロのビジネス人材を育てる人材育成機関を日本にも作ろう、と IFI ビジネススクール設立に奔走していた頃、特別に配慮しなければならなかったのが、多くのファッションデザイナーを輩出してきたファッション専門学校でした。

中でもリーダー格だった文化学園(文化服装学院や文化女子大学を有する学校法人)大沼淳理事長には、専門学校のライバル機関を作るつもりはなく、共存共栄できる存在と理解していただく必要がありました。 IFI山中 理事長はじめ理事の大手企業経営者と共に文化服装学院の見学に出かけたのも、おかしな軋轢を回避するためでした。



私は大沼理事長から「業界が学校を作ろうなんて考えず、教育は私たちに任せてくれ。欧米のように企業はもっと学校を支援して欲しい」と言われ、「専門学校生の中には高校時代の偏差値が高く国立大学に入学できそうな学生も少なくないんだよ」と極秘扱いの高校成績が記載された学生一覧表を見せてもらったこともありました。

官民協同の「大学院」のような人材育成機関は作って欲しくない、大沼さんのお気持ちはよくわかっていましたが、それでも専門学校とは競合しない形で官民一体となった人材育成機関を作る意味は大きい、と私たちは考えていました。
だから、 IFI ビジネススクールはファッションデザイナー育成の部門は作らない、入学資格者は専門学校または一般大学を卒業している者に限定する、とみんなで決めました。

さらに既存の専門学校に協力する姿勢を見せるためにも、私は文化服装学院の商品企画系3年生のクラス(曽根美知江先生)と流通系3年生のクラス(林泉先生)を外部講師として指導することになったのです。

東京ファッションデザイナー協議会から松屋の東京生活研究所に移籍する前後、本業とは別に IFI ビジネススクールの講義があり、さらに文化服装学院ではそれぞれのクラスを週1回担当するのですからかなりの負担でしたが、誤解されないためにもやらざるを得ませんでした。

その後2000 年に私は2つの企業の重責を担うことになってしまい、 IFI ビジネススクールでも文化服装学院やほかの専門学校でも後進を育てる時間的余裕がなく、しばらく教育現場からは離れました。単発の特別講義ではなくレギュラー講師として教育現場に復帰したのは、官民投資ファンドの社長退任後、文化服装学院流通過程に初めてできた4年生(以前は3年生まで)のクラスでした。



文化服装学院ファッション流通科の卒業ショー
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さて、今日の本題はビジネススクールや専門学校のことではありません。文化服装学院で教えた若者たちの中から、私の部下になった人たちの話です。

文化服装学院で2つのクラスを週1回教え始めた頃、流通専攻科の林泉先生から、「太田先生の下で働きたいという学生が二人いるの。せめて面接だけでもしてやってもらえないかしら」と頼まれました。採用する気もないのに面接するのは学生さんに失礼ですから、私は会社に戻って人事担当と相談し、もしも能力がありそうならば専門職採用する方向で面接することになりました。

私が講義でよくコムデギャルソンの話をしたからでしょう、二人の女子学生はバリバリのコムデギャルソンを着て面接にやってきました。一人はファッションセンスが良い、もう一人は論理的でマーケティングに向いている、二人を足して2で割ったらファッションコーディネイターとして使えるかもしれない。が、採用枠は一人のみ、絞れませんでした。

窓口だった流通専攻科の副担任に「残念ながら採用できない」と連絡、「クラスにはほかに一人優秀な子がいるでしょ。その子も面接したい」と伝えました。私の講義で、当時数寄屋橋にオープンしたばかりのギャップ日本一号店と改装直後の西武百貨店渋谷店の両方を自主的に視察し、その感想を要領よく発表した一人の女子学生(両方の店を自主的に視察したのはクラスでたった一人)のことが気になっていました。

ところが、副担任は「あの子はダメです。既にS社の内定が出ていますから」。S社はこれまで販売職でも大学生だけを採用、専門学校生を採用したことがない敷居の高い企業でした。その女子学生が応募したら販売職で内定、これまで縁のなかったS社とのパイプが初めてできたので先生たちは喜んでいました。

担任の林先生に頼まれて新卒採用の枠を設けた私としては、大勢の学生の中で特に気になっていた学生を面接してみたい、副担任に「ファッションコーディネイターとして育ててみたいので面接させてくれ」と頼みました。

そして、その女子学生は私の下で働きたいと言ってくれました。彼女に内定を出していたS社は私が転職直前にあれこれアドバイスしたことがあり、騒動を避けたいので「家庭の都合で就職しない」と内定辞退するよう勧めました。が、真面目な学生は正直に私に声をかけられたのでキャンセルしたいと伝え、 S社は納得

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IFIビジネススクール全日制1期生山本雅範と関口奈々と昨年末に

こうして新卒の関口奈々は東京生活研究所とファッションコーディネイター契約を結びました。しかし彼女と私との間を取り持った副担任は先輩の先生方から厳重注意されました。学校と初めてパイプができそうだったS社の内定を学生の方からキャンセル、やってはいけないことだったようです。

関口は性格もセンスも良く、コーディネイターとして優秀でした。我々も彼女を IFI ビジネススクール夜間コースに出して勉強させ、ニューヨーク視察にも連れて行き、いろんな経験をさせました。米国に戻った杉本明子さんの後任ファッションディレクター関本美弥子(私が大手アパレルから引き抜いた)も、のみ込みがはやい関口をしっかり指導しました。

​それから数年後、関口は家庭の事情で退職(のちにファッション企業に強い広告代理店コスモコミュニケーションズに就職)しました。現在も同じ代理店で活躍しています。


ファッションディレクター関本美弥子(右)と岡野涼子(左)


2000年3月卒業シーズンのある夜、たまたま千駄ヶ谷界隈をタクシーで通行中に関口の内定辞退で迷惑をかけた文化服装学院の木本晴美先生から「歌舞伎町で謝恩会の二次会をやっています。時間あれば寄ってください」と電話がありました。
二次会の会場に到着してすぐ、私のテーブルに 1 年間の講義で一番前の座席で熱心に話を聞いていた学生が現れたので、「キミはどこに就職するの?」と質問。学院OBが経営するB社と聞いて、「そっちを辞めてウチに来ないか」と誘いました。その場にいた木本先生は「やめてください。関口のときは大変だったんだから」と言われましたが、学生は入社1週間でB社に辞表を出しました。

文化を卒業して 1 ヶ月後、岡野涼子は関口奈々の後任として東京生活研究所ファッションコーディネイターに就任。ちょうど大きなリニューアルの構想を練り始めたタイミング、 社員たちから上がってくる売り場プランは当たり前すぎて私には面白くありません。入社したばかりの岡野に「どんな売り場にすれば面白いと思う?」と質問すると、彼女の答えは「化粧品メーカーの美容部員に接することなく買い物できるセルフのコスメ売り場が百貨店にあってもいいのではないでしょうか。テスターをいっぱい置いて、時間を潰せたら若いお客様は楽しいと思います」でした。

私は「それで進めてみろ」と。
こうして学校を卒業したばかりの新米コーディネイターが発案した広いセルフコスメゾーンが松屋2階の目玉売り場として誕生しました。コーディネイターとして岡野も優秀でしたが、ダンナが関西方面に転勤するため研究所を退職、現在は関西の商業施設で仕事をしています。

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大規模改装前(上)と改装後(下)の外観



関口と岡野の恩師である木本先生からはのちにもう一人教え子を紹介してもらいました。文化を卒業してロンドンに渡り、帰国した高橋史佳です。彼女も松屋のコーディネイターとして活躍、出産を機に退職しました。余談ですが、ダンナは松屋の社員です。 今日、その高橋から久しぶりにメールが届きました。今春お子さんが保育園に入るので自分は社会復帰、某百貨店とコーディネイター契約を結びましたとわざわざ知らせてきたのです。律儀な子です。

実は、関口の前にも東京生活研究所は文化服装学院流通専攻科から新卒を採用しています。研究所ファッションディレクターで友人の杉本明子さんに頼まれ、私が教えていた学院3年生のクラスからセンスのいい子を紹介しました。渋谷陽子は卒業後東京生活研究所に採用され、杉本さんにコーディネイターの仕事をみっちり叩き込まれ、研究所卒業後は森ビルのテナントリーシングに携わっています。

私の部下にはもう一人、文化服装学院流通専攻科出身者がいます。私の特別講義に刺激され、どうしても部下にしてくれとデザイナー協議会を訪ねてきた田中英樹です。協議会で新卒採用して東京コレクションの運営を経験、私が東京生活研究所長になった翌年には田中も移籍して研究所のメンズ部門ファッションコーディネイターに。数年後にはアパレル企業や学校でも指導するプロになりました。彼は私にとって文化服装出身の弟子第1号、いまは独立して独自の商品企画、ものづくりをしています。

1985年ニューヨークから戻った直後、私は文化服装学院の小池千枝学院長に声をかけられ学院の「火曜会」という先生方の勉強会で講演、米国式実践教育をお話ししました。文化服装学院と私のご縁はこのときから始まり、気がつけばここで紹介した元部下以外にもアパレルメーカー時代に多くの若者を新卒採用しました。

今日たまたま元部下高橋から社会復帰報告メールをもらい、文化出身の部下たちに恵まれたなあと振り返った次第です。


<追記>
1995年10月14日に私が文化服装学院の当時副担任だった木本晴美先生に送ったファックス、ご本人からコピーが送られてきました。返信はニューヨークの滞在ホテルのファックス番号までとお願いしているのでおそらく若手バイヤーの海外研修引率したときのものでしょう。木本先生、よく保管していましたね。






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Last updated  2023.02.25 10:34:17
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