売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

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2023.05.06
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セブン&アイホールディングスのそごう西武売却の話は仕切り直しになったままですが、同じセブン&アイ傘下にあったバーニーズジャパンはあっさりと中国系資本のラオックスに売却されました。こちらはほとんど話題にもならず、そごう西武のように売却に異論を唱える人はいませんが、ラグジュアリーブランドをたくさん扱う小売店の売り先がラオックスで良かったのでしょうか。数年以内に消滅なんてことにならなければいいのですが....。


創業の地7番街西17丁目に再出店した後倒産

バーニーズN.Y.はニューヨーク在住時代にサポートしたことがあるので、個人的には特別な思い入れがあります。しかも、伊勢丹が出資して最初にバーニーズジャパンを立ち上げたときの社長が田代俊明さん(のちにグッチジャパン社長)、その部下が現在エルメスジャポン社長の有賀昌男さんや参議院議員のまま亡くなった藤巻幸夫さんら仲の良い人が多く、ラオックスにはバーニーズの名をしっかり守って欲しいです。

日本は不思議な市場。本国アメリカで消滅してもずっと日本で元気に活動している事例がいくつもあります。良質素材で洗練されたメンズブランドとしておしゃれなゲイたちに人気のあった「ピンキー&ダイアン」は、ブランド解散後どういうわけか日本でボディコンブランドの代表格としてバブル期に一世を風靡しました。米国でメンズとして人気あったものが消滅後日本で「ピンダイ現象」とまで言われて婦人服市場をリード、彼女らの全盛期を知る者としては不思議でした。

スターバックス同様ワシントン州シアトル生まれの「タリーズコーヒー」、1992年創業の比較的新しい企業でしたが、数年前に倒産してもう米国に店舗はありません。しかし、日本のパートナー伊藤園はしっかりビジネスを拡大、本国では消えたブランドを日本市場で発展させています。多くの消費者はすでに米国では倒産して店舗がないことを知らないでしょうが。

ニューヨーク出張のたびに立ち寄ったソーホー地区ブロードウェイ沿いの高級スーパー「ディーン&デルカ」もタリーズと同じ。多店舗化ののちに会社をタイ資本に売却、その後買収企業が経営破綻して米国市場でディーン&デルカは消滅しましたが、日本では権利を買い取った日本企業ウェルカムがカフェ事業を中心に立派に多店舗展開しています。

本国の市場から消えても日本では消費者から支持を集めビジネスが継続する例はありますから、二度のチャプターイレブン(連邦破産法)で小売店としては消滅したバーニーズN.Y.が日本市場では生き残って消費者に人気のあるファッションストアとして存在し続けて欲しいものです。

さて、そもそも私がバーニーズN.Y.と関わりを持ったのは1981年2月のことでした。ミラノ、パリのメンズファッションウイークからバイヤーたちが戻ってきた頃、バーニーズN.Y.副社長でありカジュアルブランド「BASCO(バスコ)」共同デザイナーだったジーン・プレスマン氏から電話をもらいました。私のアパートからは数ブロック先のバーニーズ事務館に出かけると、ジーンはこう切り出しました。


3代目社長ジーン・プレスマン氏

ヨーロッパのトレンドが販売しにくいビッグショルダー、バイヤーは仕入れ予算を使い切ることができずに帰国する。仕入れが減少するとその分売上も減少するので我々は新たなリソースを開拓しなければならないが、その候補として日本のデザイナーに可能性はないだろうか。日本はイッセイミヤケやカンサイヤマモトだけではない、ほかにもっといるだろう。日本でのリソース開拓に力を貸してくれないか。

イッセイミヤケはすでに世界で高い評価を得て米国有力各店でも商品展開されているブランド。カンサイヤマモトはちょうど前年に動物柄のニットが百貨店でもセレクトショップでも​ベストセラーになったばかり、ヨーロッパブランドの行き過ぎたビッグショルダーに苦慮していた米国バイヤーたちは揃って日本の次のデザイナーの可能性をリサーチし始めたタイミングでした。ジーンと面談した数日後にはバーニーズN.Y.最大のライバルだったシャリバリのジョン・ワイザー氏からも同じ協力要請を受けたくらいですから、ヨーロッパから帰国した小売店各社はかなり焦っていたのでしょう。

仲が良かったジョン・ワイザーのシャリバリよりも先に頼まれたので私はジーンのバーニーズN.Y.に協力を約束、1981年4月上旬ジーンとメンズバイヤーのマイケル(のちにバーニーズジャパン新宿店オープン時に駐在指導員として来日)、レディースバイヤーのキャロルと一緒に東京に来ました。7番街西17丁目のお店(当時はここ1店舗だけだった)にメンズ、レディースそれぞれのフロアに「TOKYO」という名の売り場を設立する計画でした。

ところが、ここで予期せぬことが。米国のようにショーのあとバイヤーは発注できないのです。3週間ほど先の展示会での発注が当時は日本流ビジネスでした。ショーと展示会の間に3週間以上あるなんて欧米では考えられないこと、私たちには不思議でした。仕方なくファッションショーを見て、パルコやラフォーレ原宿を視察して米国に戻り、5月に再来日して発注するしか選択肢はありませんでした。

さらに、輸出に全く経験のないブランドばかり(コムデギャルソンでさえまだ輸出未経験)、決済方法のレター・オブ・クレジットやプロフォーマ・インボイスの意味、仕組みを各展示会場で細かく説明しなくてはなりませんし、そもそも多くの日本人は知らなかったバーニーズN.Y.そのものの説明をしなくては発注作業には入れませんでした。

二度の来日でどうにかコムデギャルソン、ニコル、メンズビギ(菊池武夫さん時代)、入江末男さんのスタジオV、細川伸さんのパシュなどを買い付け、同年9月「TOKYO」はオープン、東57丁目にあった三越の地下レストランで有力雑誌の編集長や新聞社のファッション担当記者を招いてプレスショーを開催しました。このとき、日頃ニューヨークコレクションの会場で顔を合わせる米国人記者たちから私にも直接電話が入り、「レイ・カワクボは男性、それとも女性?」、「スタジオ・ファイブ(ヴィではなく)のデザイナーはどんな人?」、「メンズビージーはメンズだけなの?」などの問いに答えました。

それまで私はニューヨークコレクションのデザイナーを取材するのが主たる仕事、日本のデザイナーとの個人的接点はなく、誰と誰が仲良しあるいは仲が悪いなんてことは全く知らず、デザイナー周辺のビジネス事情にも無知でした。この4年後、私は日本のデザイナー諸氏に声をかけられて帰国、CFD(東京ファッションデザイナー協議会)の設立に奔走、東京から発信することになるのですが、1981年春の時点でそんなことは全く想像すらできませんでした。




激戦地区アッパーマジソンに進出(写真上2枚とも)

ジーンはお金持ちファミリーのやんちゃなボンボンでした。祖父バーニー・プレスマンが設立した紳士服専門店はダウンタウンの大衆店、それを2代目フレッド・プレスマンがバージョンアップ、かつてイタリアの有力ブランドだったニノ・セルッティやデビュー直後のジョルジオ・アルマーニを独占販売で導入、ストアイメージを上げました。

さらに、デザイナーブランドを一気に増やし、メンズのみならず婦人服まで拡大、ファッション専門大店のハイエンドなイメージを確立したのはフレッドの息子ジーンでした。性格は明るく一緒にいて楽しい男、時代を読む力もデザイナーや商品の目利きセンスもある特別なボンボンでした。

しかし、伊勢丹との米国での合弁事業で多額の資金を手にしてダウンタウン本店のみならず家賃が飛び切り高いアッパーマジソンやシカゴ、ビバリーヒルズ、サンフランシスコなどの一等地にも次々出店、その後経営破綻しました。長く1店舗で運営してきた高感度セレクトショップが一気に多店舗化すればどんな国でも経営は難しくなります。もしあのままニューヨークだけでバーニーズを営業していたら、違った展開があったかもししれません。

バーニーズN.Y.のTOKYOブティックのお陰で私は日本のデザイナーたちと知り合い、帰国してファッションビジネスで長く活動できたのですから、ジーンは恩人の一人であることに変わりありません。プレスマン一族が継承してきたバーニーズN.Y.、日本だけでもカッコよく事業を続けて欲しいです。





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Last updated  2023.05.08 11:27:06
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