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5月に引き続き、東の旅第2弾。10月2日~10日まで出掛けて来ます。今回はちょっと観光やら温泉も入ってて、創作活動の中休みと言いますか、充電と言いますか^^ ブロ友さんにお会いするのも楽しみです。帰って来たら秋祭り。今年は当番に当たっているので、本格的な再開は月の後半からになります。間に合うかなあなんて言ってられませんので必死で頑張るしかないのです、はい。では皆さま、10月末までごきげんよう!
2017年09月29日
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夜中、水戸を発って栃木を横切り群馬に入りました。群馬県は初めて足を踏み入れる場所です(残す未踏の地は青森、岩手のみ)。 翌日11時過ぎに奥さんの学生時代の友達夫妻と落ち合い、約10時間に及ぶダべリング! 奥さんの友人の中で最強の変人だというので期待していたんだけど思ったほど強烈でなかったです。我々とどっこいどっこいかな(笑) でもここまでちぐはぐな夫婦なのに仲好さそうというのは、うちと似ているかも^^; 今回の旅行で会う予定をしていた人とはこれで全て会えました。あとは帰るだけ。 翌日は富岡製糸場もこんにゃくパークもパスして、一路軽井沢へ。帰り道には違いありませんがちょっと寄り道したくって。今年1月から3月にかけて放送されたドラマ「カルテット」の舞台の一つ、レストラン「ノクターン」でランチしようとなったのです。 ドアを開けてびっくり! 弦楽四重奏団が居並ぶステージどころかピアノを置くスペースも無いではありませんか! そう、ここはレストランには違いありませんが、燻製を売り物にしたお店なんです。ハム、ソーセージはもとより、醤油もナッツも雛あられでさえも冷燻製してしまうという凄い工房が隣にあります。 美味しい料理とコーヒーをいただきながら、お店のママさんとマスターから、社長こだわりの石造り建築の秘話やらカルテットの裏話をいろいろ聞かせていただきました。 カルテット出演者の色紙の「大人の恋はやっかいだ」のキャッチコピーの上に松たか子さんが書かれた「くんせいばかりでやっかいだ」の言葉に吹き出してしまいました。右上の黒い文字。 小道具「ノクターン」の看板。処分してくれと言われ、お店が記念に貰って裏看板にしています(笑) ガラスケースが反射しています^^; 燻製のお店「煙事」の外観。ドラマで使われたのはこのテラスからこちら側だけ。ロケ中は雪に覆われていました。 手前が燻製工房。外壁内壁を飾る石はわざわざイタリアから取り寄せたものだそうです。 軽井沢を後にして名古屋方面に向かいますが、急遽ここでもう一人会いたい人(豊川市在住)がいたので一泊して次の日、ノンアポで会うことに成功。 かくして十人と歓談した長旅はぶじ終わり、日常に戻ってきました。 完
2017年05月28日
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次の日は横浜で二年前に再会したあの人ともう一度会いました。私の近所の状況も最近大きく変化してきましたので、それらの報告と妻の紹介を兼ねてです。81歳の彼とはおそらくもう会うことがないかもしれませんが、楽しいひと時が持てて良かったです。お元気でと手を振って、向かった先は茨城県水戸市。 水戸市に着いてホテル探しをするのかと思いきや、「きらクラ」ヘビーリスナーの我々は夕食も取らずに市内のネットカフェに飛び込むのでした(笑) 私はテキトーに投稿を済ませ、コミックの背表紙を順に眺めながら時間を潰していました。実はネットカフェに入るのは二度目。初体験は札幌。書き上げたばかりの短編小説「同行二人」をプリントアウトするためでした。奥さんがブースから出てきたのはもう日付が変わってから。彼女の執念おそるべし! 次に会いに行ったのは奇しくも前日と同じ81歳のお爺さん。長年親しくしてきた音楽仲間です。去年脳梗塞で倒れた後、施設で暮らしておられます。今回の東の旅の一番の目的はこの人に会うためでした。どうせそんな遠くまで行くのなら、ついでにと言っちゃ他の方々に悪いですが、欲張って何人もの人に会おうとなったわけです。この方とは水戸駅周辺で何時間も駄弁りました^^ 水戸の御老公は元人形劇団ひとみ座の座員でひょっこりひょうたん島で主にトラヒゲを担当されていた方。最近までプロの語り部として活躍されていました。今も施設内で朗読会をしたいという夢をお持ちでした。ぜひ夢が叶うといいですね。 つづく
2017年05月24日
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翌日の日曜は奥さんの小中の友達とお茶の水でランチ。この日は神田祭や湯島天神のお祭りだったんですね。待ち合わせた場所にも法被姿のいなせな兄さん姐さん可愛い子どもたちがぞろぞろ。お蔭でトイレも長~い行列。(←そこ?) いつも思うけど江戸っ子ってのはやはり何をしてもシュッとしたはりますなあ。粋を大事にする江戸と笑いに重きをおく上方^^ 話を戻して、奥さんの女子会トークの合間を縫って、今は関東に住む道産子二人を相手にサービス過剰な大阪のベタギャグ連発、東の方々は笑いの沸点が低いです(笑) もっとゆっくりお喋りしてたかったけど、どうしても行きたかった所があったので名残を惜しみながら彼女らと別れ一路渋谷へ。 その車中、ラジオをつけたら「きらクラ」やってて、たまたま奥さんの投稿が採用されて万歳三唱^^ いいことばかりは続かないもので、私はトイレに行きたくなって悶絶(笑) 会場近くにやっと満車でない駐車場見つけてコンビニに飛び込めば街の真ん中の店にはトイレなんかない! ううっ! そのまま会場の建物に駆け込み何とかセーフ! 当日券を求めると、立ち見になる可能性もあるとのこと。すぐ後から来る家内は身障者で…と言ったら特別に便宜を図ってくれました。プレトーク中の薄暗い会場、スタッフの案内で後方隅っこに座れることに。奥さんを先に奥に通し、三席並んだ真ん中にリュックを置こうとした時、奥さんがワッと叫び、見ると席の向こうで尻餅ついているではありませんか! 心臓が止まりそうになりました。転べば即骨折というぐらい骨の弱い人なんです。周りのお客さんやスタッフも内心驚いたに違いありません。ゆっくり起こすと何とか椅子に座れました。奇跡としか言いようがありませんが、打っていない腰に痛みが集中しただけで大事には至りませんでした。一つ間違えれば救急車を呼ぶような惨事になっていた可能性は充分にあります。 さてそんな目をしてまで観たかったお目当てのものとは何か? ブロ友さん推奨の若手講談師、神田松之丞さんでした。行った甲斐がありました! (当記事一部脚色あり^^;) つづく
2017年05月22日
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いやあ、一週間以上の長旅、疲れましたと言いたいところですが、なんのなんの楽しくて実り多い旅行でした。腰痛も大丈夫でした^^ほとんど写真は撮らなかったけれど、たまに撮ったのを入れながら簡潔に報告しておこうと思っています。一日目は知人が横浜まで運転代行してくれました。このお蔭で長旅であったにもかかわらず奥さんの疲労が限界に達しなくて随分助かりました。新東名の遠州森町PA。お、森の石松の故郷、「遠州は森の生まれよ」は本当にあったんだってんで、一枚パチリ^^知人とは横浜でいったん別れ、夜は奥さんの娘と会って遅い夕食。翌日の夜は横浜の知人ともう一人、やはり音楽仲間と四人で会って6時間以上喋りっぱなし。晴れていれば夜景の綺麗な20階のお店。私ら夫婦の分身シバわんこが雨の東京を眺めています。 つづく
2017年05月20日
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明日から一週間ほどかけて関東方面に遠征します。観光ではなく今のうちに会っておきたい人に会うためです。私の恩人、奥さんの旧友、二人共通の友人知人などなど。埼玉、神奈川、東京、茨城、群馬を訪れます。私は関東の地理には全く疎く(地元大阪の地理もよく解ってないけど)、どの県がどの県とどういう具合に接しているのか全然把握できていません。だからすべて運転手とナビ君任せ(苦笑)奥さんも運転で疲れるでしょうが私も腰痛が出ないかちょっと心配しております。なんせ乗り心地の悪い狭い軽自動車での長距離移動ですから。でも、初対面の人も含めて計10人弱の人に会えるので今から楽しみです^^
2017年05月11日
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前回の更新からもう一ヶ月が経ってしまいました。 毎日執筆に勤しんでいるなら大したものですが、人生そんな甘いものではありません(笑)私の人生に関わってくれた、かつての友人や知人に会って懐かしく昔話を交わすことも大事な創作活動の一環です。そういう意味では順調に進んでおります。 ところで、この土日月はまたまた徳島の方に遊びに行っておりました。新旧取り混ぜた音楽仲間と会食したり、あるお宅に訪問して鑑賞会をしその足で皆でコンサートに出向いたり。 肩の凝らないその音楽会では、お楽しみコーナーとして、ある曲の冒頭2秒だけ聴いて曲名を当てるなんてクイズもありました。というよりズバリそのクイズ目当てにはるばる徳島まで出掛けたような訳でして^^; 去年は仲間がずらり横一列に並んで一斉に手を挙げたものだから、その一角だけ異様な空気が漂い、指名者は却って目を逸らすということがあったので、今回は分散して座りました。私の挙手がいち早く指名者(指揮者)の目に入ったようで回答権を得ることが出来、みごと正解しました。ちなみに出題曲はメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲でした。 賞品は同曲の入ったCDやら色紙やらエコバッグ等々 ↓ その会場で仲間たちとは解散して、山中にある月ヶ谷温泉という所に向かいました。バリアフリーの部屋に泊まり、食事も温泉も満喫できました。
2017年02月07日
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先週は徳島までプチ旅行に出かけてました。木曜日は友人が合唱団で歌う某音楽祭が徳島市内であり、応援に駆けつけました。それを聴いた翌日、去年断念した大歩危・小歩危・祖谷(おおぼけ・こぼけ・いや)方面に向かいました。紅葉にはまだ早かったのが残念!これは祖谷のかずら橋。大人のアスレチックという感じ?! 足元の隙間から下方に渓流が見えます。足を踏み外したところで落下することはないとは解っているのですが、揺れるとやはり怖いです。奥さんは高所恐怖症(でなくても普通に歩けない身障者には無理でしょう)なので、吊り橋と平行して作られた頑丈な橋から私が怖々渡っているのを傍観しておりました。 上は祖谷の平家屋敷からの展望。まだまだ紅葉ってないのでした。ここの看板犬、ナナちゃん(奥)とカエデちゃんと遊びました。大歩危での宿泊は老舗ホテル「ま○なか」。日頃清貧に甘んじている我々にとっては大いなる贅沢な一泊でした。ここでは奥さんも意を決して温泉に入りました(いくつもの条件が揃わないことには温泉にも入れないのです)。私だけ追加注文でお肉も食べれたし(←そこ?) 下は部屋からの写真 一夜明けて遊覧船で大歩危溪谷周遊。ここでも奥さんは、船までの距離があまりに遠くて、諦めざるを得ませんでした。揺れる船も怖いのだとか。いろんな意味で今回の旅行は思い出に残る(覚えていればの話だけど)有意義なものとなりました。
2016年11月09日
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春休み恒例、孫の乗り鉄に付き合って来ました。彼の要望で南海高野線を使って高野山へ。ケーブルを降りるとそこは高野山駅、バスかタクシーに乗らなければ世界遺産は見られません。「車酔いするからタイヤの付いた乗り物には乗りたくない」とごねる孫。「じゃこのまま帰るしかないな」と言うと、暫く考えてから折れてくれました。いろいろ困ったちゃんなのですが、根は純で可愛いんです^^ さすが世界遺産、外国人観光客の多いこと! とは言っても平日ですから混み合ってはいませんでした。この日はフランス人が目立ちました。ぶらぶら散歩気分で古い建造物を鑑賞しながら孫との楽しいひと時を過ごしました。
2016年04月08日
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先週末から今週頭にかけて四国に渡っておりました。 映画「バルトの楽園」で有名になった?「ドイツ兵ハンゼンの徳島オーケストラ100周年記念演奏会」を聴くためです。徳島大学校内のホールを借りて、演奏会以外にも展示や講演などの催しがありました。このイベントは篤志家やボランティア、アマチュアオケの皆さんの相当な熱意がなければ実現しないような地味なものではありますが、その意義は計り知れないものがあると思います。 徳島に行ったついでに阿波の人形浄瑠璃を観、ロープウェイで眉山にも登って来ました。これらはイベントの前日、知人らと。 最終日せっかくだから紅葉も見ようというので、四国霊場第66番札所雲辺寺まで足を延ばしました。奥さんは眉山でロープウェイ・デヴューを果たしたので、ここでももちろんロープウェイ! 風が吹いて雨が降って霧が立ち込めてます。ここは標高一千メートルの県境。霧のお陰でいい写真が撮れました^^
2015年11月12日
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月曜の深夜、ぶじ札幌から帰ってまいりました。札幌も暑かったけど、大阪は地獄の釜の傍にいるような熱さですなあ。 義息の引越し(家賃滞納で追い出される)と就活のアドバイス&指示のための渡道でしたが、私はもちろん一切口出しせず。本人に会ったら怒鳴ってしまいそうなので、顔を見ることもしませんでした。 結論だけ言うと、引越し先は付き合ってる彼女の実家に転がり込むということで一応決着、就活の方はハローワークで一件だけいいのがあり書類審査は通過。面接に遅れず行けたかどうか。この連絡待ちなんですが、またしても連絡不通。 以前しばらくこの義息の面倒を見てもらっていた義母(血は繋がってます)が、同じ屋根の下で暮らしていると心身に悪影響が出ると言い出し、最後は我々が無理やり押し付けたと濡れ衣を着せて逐電しておりましたが、今回うまく探し出せ、母娘和解の運びとなりました。もちろん孫を再度引き取るなんてホームドラマのようには行きませんが。 そうそう、母娘と私とで最後の晩餐になるやもしれない夕食を終えて義母を送り届ける途中で、本州ではほとんど見られなかったという部分月食を三人いっしょに見ることができました。ドラマチック! 滞在中に小説をぶじ脱稿しましたので一人で富良野へでもと思ったのですが、七月に入らないと交通の便も悪いらしく、またラベンダーも見頃でないというので諦め、郊外の百合が原公園に行くことにしました。遅めに出かけたので、名物のリリートレインには乗れず。歩いて園内を廻りました。 いま芍薬の花が満開でした。実は、私がまだ小さかった頃、我が家は離れた所に水田も持っていましたが、家のすぐ前が畑で、家で消費する季節の野菜と、業者に卸す芍薬を作っておりました。 だから私はいつも堅い真ん丸の蕾の芍薬しか見たことがなかったのです。大人になって、絵や生け花の芍薬にはお目にかかったことがありますが、群生しているのは今回が初めてだったので、特に感動を覚えました。 次の日、久しぶりに花粉症の症状が出て苦しみました(^^)
2010年06月28日
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よく行くスーパーの入口付近のもみぢった蔦(作り物ではありません) 明日からしばらくの間留守にします。 海外旅行 in Tokushima ! 本当は旅行ではなく、公用と私用の中間くらいのちょっとした野暮用です。 来週の水曜日には帰って来ます。ごきげんよろしゅうに。
2006年11月23日
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先日ネネさんが東北を旅行され、その写真をアップされました。なかなか凝ったアルバムに仕上がっていますので、ぜひ一度ご覧になってみて下さい。 さて、私も独身時代同じような場所(松島、平泉、立石寺など)を一人旅したことがあります。旅の主要な目的は、「奥の細道」の授業で使えるスライドの写真と8ミリ映像を撮りに行くこと。 「松島は扶桑第一の好風にして、およそ洞庭・西湖を恥じず」と始まる松島の章は「奥の細道」の白眉と言えるでしょう。私は男子ばかりの工業高校でこの部分を教える時は、訳や注釈はほどほどにして、何よりもまず音読に力を注ぎました。大きな声ですらすら詰まらずに読めた時、彼らは理屈ぬきに、良いものに出会ったことへの喜びを素直に感じることが出来たようです。 湾内遊覧で感じた松島の印象は、300年の歳月を経てもそれほど損なわれてはいないということでした。それはさておき、恥ずかしい別の思い出話をしなければなりません。 平泉は中尊寺に行ったときのこと、目当てはもちろん金色堂。広大な境内の表示に従って、金色堂の鞘堂に向かう私の胸は高鳴っておりました。人の思いこみというものは堅固なもので、「鞘堂」と言いながらも、私の理性は依然として未だ何の疑念も生じず、写真集で見た金色堂の伽藍の内部が頭の中で再現されていました。 拝観料を払って鞘堂の中へ。胸の高鳴りは期待のそれではなく、ようやくにして、予想外の真相が明かされる時のパニックを伴うそれに変わりつつあったのです。ガラスケースの中にそれはありました。私はめまいがして倒れそうになりました。黄金の輝きに目がくらんだのではありません。頭の中で何かが、いや、何かがではなく私が勝手に創り上げていた間違った金色堂のイメージが、音を立てて崩れていくのがはっきりと実感できたのです。 もうおわかりでしょうが、私は写真集(正確には小学館の「原色日本の美術」)の見開きページに載った伽藍の内陣の壮麗さに圧倒され、詳しい説明も読まずにそのまま京都や奈良にある大伽藍のイメージとだぶらせていたのです。それだけなら被害は少なかったでしょうが、私は授業で私の錯覚のまま生徒に得々と喋ってしまっていたのです。 京に都があった平安時代、東北の藤原氏は都にも負けないぐらいの栄華を誇っていた、とまあここまではいいでしょう。この黒檀の柱、それに施された螺鈿の華麗な装飾、天蓋の黄金。都でもこんなに贅沢なお寺はなかったでしょう! などと、写真を示しながら見てきたような嘘を言う教師。 実際の金色堂は、確かに精巧かつ緻密に創られているとは言え、文化祭の出し物としてクラス皆で作ったお寺の模型が教室の真ん中に置いてあるといった風情。 でもこの旅行のお陰で、それからの授業では正しい金色堂の説明がなされるとともに、私の恥ずかしい失敗談も披露されることになったのです。授業で習ったことも一度は疑ってみるべし(笑)
2006年10月08日
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周期的に作家ごっこをしたくなる病気が私にはあります。ただ原稿用紙やワープロに向かって言葉を紡ぐだけというようなお金のかからない真似事なら可愛いものですが、やれ取材旅行だ、やれ避暑地での缶詰・監禁状態での徹夜執筆だ、と家族があれば迷惑がるに決まっている本格的なものです。 5年前の夏、ほとんど家庭崩壊状態だったのであまり誰にも迷惑をかけずに、信州は白馬の地に宿をとって或る作品を完成させるべく籠城した時のことです。私は、白馬(山ではなく避暑地として)が好きで、夏に家族を連れて何度も行ったことがあります。 前半の宿でまず2泊したのですが、この宿が面白かった。共済の補助が出たので、2泊素泊まりで払った代金はたったの4500円。そう、夏は客が少ないから食事も風呂も用意できないというのです。私は仕事さえ出来れば、外出するのはかえって気分転換になるだろうと思って了解しました。 ペンションのオーナーは中年のおばさん、管理人は雇いの、私と同世代の男性でした。書き物するのだと言ったら、おばさんは親切に文机とスタンドを用意してくれ、私は小説が好きなのよ、作品が出来上がったらコピー送ってねなどと言い、下界の自宅に帰って行きました。 夕方、湯屋と食事に出掛けようとしたら、管理人が近づいて来て、俺ちょっと遊んでくる、朝まで戻らんから。客はおたくだけだからと言って、鍵を私に預けて車でどこかへ出掛けてしまいました。私は俄か管理人にされてしまったのでした。んなあほな! 食事から戻ってくると、ペンションは真っ暗。明かりのスイッチを探し出して屋内に足を踏み入れると、何やら気色悪い気配が・・・そりゃあ今さっきやって来たばかりで、自分の部屋さえどこにあるのか定かでない状態の私。しかも誰もいないペンションとくりゃあ、気味悪いのも当然で。 廊下の突き当りが私の部屋と見当つけて歩き出したら、途中横合いから真っ黒のモノが! ギャア~~~!! 誰も人がいないのをいいことに、思い切り大声で叫んでしまいました。何? 何? 何? 今のん何? これを確かめずに自分の部屋に戻って、仕事をするなんて出来ますかいな、寝れますかいな。心臓ばくばく状態のまま廊下を折れ曲がって、そろりそろり。 すぐにそ奴の正体は判明しました。そのペンションで飼っていると思しき黒猫だったのです。ところがどっこい、私は犬派であって、猫は苦手なんですぅ。しかも、黒い猫って、魔女の何とかじゃないの? ポーの「黒猫」なんかも思い出してしまって、「クロよ、クロちゃん」と呼びかけながらも、私の怯えた内心を悟られてしまっているようで、私は明日の朝、オーナーのおばさんか管理人のおじさんに冷たくなったむくろを発見される運命にあるのではなかろうかなどと震えながら眠ったのでありました。
2006年09月25日
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私が、親や友人の兄に連れられてではなく、自主的に友人と行った初めての旅行は、高校3年生になる手前の春休みのことでした。 この年の3月14日は、あの歴史的な大阪万国博覧会の開会日です。私は府立高校の生徒でしたから、周囲の連中はこぞって万博に出掛ける計画を立てていました。どこにでも、猫にも杓子にもなりたがらぬ天邪鬼はいるもので、そういうアンチ万博派は高校最後の春休みを独自の旅行(そう言えばその頃はまだ卒業旅行などというものは一般的ではなかったですね)などで飾ろうとしておりました。 天邪鬼でありながらいわゆる不良っぽい連中とも一線を画していた我々のグループの中で、親の許可を得ることの出来た3人だけ(前回書いた馬籠グループのうち一人だけ別)がこの2泊3日の四国旅行を決行したのでした。小中の間あれほどまでに過干渉で禁止事項を山ほど作っていた母は、私が高校生になると、(女の子が絡んでさえいなければ)人が変わったみたいに自由にさせてくれました。 今となっては松山の道後温泉に行ったことと帰りの航行のことしかよく覚えていませんが、それというのも、そこで印象深い出来事があったからです。 またもや時代を感じさせる話です。宿屋を出て有名な道後の本館まで来ました。するといかにも胡散臭そうな男がするすると我々に近づいて来て、「兄ちゃん、見ていけへんか、西日本唯一やで」と声をかけました。初め何のことかわかりませんでしたが、男の雰囲気でそれがあるショーへの勧誘だとわかり、気分を害してその場を離れました。一人は好奇心半分、一人は興味津々行きたそう、その頃の私は特にそういうのが苦手で(今でもそうです)嫌悪感しか湧かず、結局その男の言葉は、大阪の高校生のギャグとなって果てたのです。(他の誰も真相を知らないこの西日本唯一が友人二人によってクラスの一部で流行語として一人歩きしたのです/笑) ところで出発時、私のこの旅行でのいでたちを見て二人の友人は驚き呆れました。奇抜な恰好ではないですよ、けっして。伊豆の踊り子の青年よろしく、詰襟の学生服(当時は制服でした)に黒のコートを引っ掛け、靴は運動靴。「遊びに行くんやぞ」と笑われました。通学時、運動靴を履いている生徒も稀でしたが、私は3年間それで通しました。いろんな面でかなりの変わり者と思われていたようです。 我々の出立は3月15日。その翌日は私の17歳の誕生日でしたので、宿屋で二人が祝ってくれました(もちろん酒抜きです。真面目やねえ!って恥ずかしげもなく自分で言うなってか)。仲居さんが、「あら、おいくつ」と訊いたのに友人が答えて「満25歳」。「お若いのね」。これ皮肉でも何でもなく、浴衣の上に丹前重ねた私は、それぐらい老けて見えていたのです。因みに大学の時は30歳で通りましたから。若い時老け顔の人は歳取ってから老けないというのは事実のようです さて、帰りは大変でした。台風が近づいていたのでしょうか、海が荒れていて、予定の船が欠航だというのです。家に電話して「どうなるかわからない。もう一泊するにはお金がぎりぎり」と告げて間もなく、小さな連絡船が一艘だけ出ることに。悩んだあげく便乗させてもらうことにしました。船客は野菜や海産物を運ぶ地元の老人だけ。「まあ沈んだら沈んだ時のこっちゃ」「西日本唯一見といたら良かったな」などと馬鹿なことを言いながら大揺れの船に乗り込みます。 木の葉のように波に揉まれ、という比喩がありますが、まさにそれ。客室にいると5分ももちそうになかったので、甲板へ。雨は霧雨、横殴りの風がひどい。船酔い防止に大声で歌い続けました。波頭と波の底の高低差はどれくらいあったでしょうか。デッキの欄干を必死で握って、その恐怖にも耐えました。服はびしょ濡れ、喉はガラガラ、怖くて吐いてる暇もないといった状況。 今こうやって書いていることからもわかる通り、無事とはとても言えなかったけれど、命からがら生きて本州の土を再び踏むことができたのでした。 (補足)万博は故あって、会期中に2度行きました。
2006年09月15日
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旅に出ると必ず一つぐらいは面白おかしい出来事に遭遇するものです。そういう体験をシリーズで書いてみようと思います(そんなにたくさんネタがあったかしらん)。 20代の独身時代、高校からの親友3人して馬籠・妻籠の旅に出ました。その馬籠での話。 泊まった所は馬籠の本陣跡(島崎藤村の生家で藤村記念館がある)のすぐ近くの小さな民宿。夕食後、隣の部屋の女の子たちにトランプでもしない?と持ちかけ、振られた我々三人組、気分直しに外に星でも観に行こうということになり、近くの駐車場まで行きました。地面に寝っ転がって星を眺めながら、あれこれ将来のことなど語り合ったんだわさ。青春やね~♪ 夜中に宿屋に戻って来ると、あらたいへん、入口に鍵がかかっているではありませんか そんなあほな! 我々の部屋は二階です。戸を小さくノックしたり、声を掛けたりしておりましたが、誰も出て来てくれません。「野宿なんていややがな」とか「壁伝いに二階にのぼる方法ないやろか」とか思いつく限りの冗談を言った後(大阪人の特徴ですな)、もしやと玄関脇の窓に手を掛けると、これが有り難いことに鍵がかかっておりません おっ、助かったと喜び勇んで窓によじ登り、上半身部屋に入ったところで、「こらあ、お前ら何じゃ!」とすぐ目の下の暗闇から怒鳴り声! 宿屋の主人がソファーで寝ていたのでありました。事情を説明して玄関の戸を開けてもらい一件落着。この話には後日談があります。 翌朝、朝げの場面、民宿のこととて長テーブルについて他の客、つまり昨晩われわれに恥をかかせてくれたあの女性陣のいる所で、宿屋の主人がいらぬ一言。「ゆうべは夜遅うまでお楽しみやったのう」 まるでいかがわしい所に出掛けて午前様になったかのような言い草にムッとした私は、言わずもがなのことを口走っていました、「ちょっと星を観に行ってただけなんです」。 いい歳した若いもんが三人、清く美しく宇宙のロマンを語り合っていただけだと!とでも言いたげな主人の含み笑いが気に障りました。でもそれ以上に、女の子たちが口にご飯を詰め込んだまま笑いをこらえているのが、シャイな我々の心をより深く傷つけましたとさ
2006年09月07日
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気持ちよく寝込んでいたところ、突然、ドドドドッ、グゥオー、ドッドッド、ドドドド… 道路工事か?! 携帯で時間を確かめると04:32早起きの方ならそろそろ起き出す時間かもしれませんが、こちとら生粋の宵っ張りでぇい。何すんねんなぁとぼやきながらもひたすら夢の続きを見る努力をする私。轟音の中から作業員の罵声や命令までが飛び交って、次第にその努力も空しくなりかけた時、ふと隣のベッドで寝ていた妻の存在を思い出しました。凄いね、明日も続くようだったら宿替えようかと大阪弁で言うと、我が妻は、私はあんまり気にならないから、ですと。それにこの辺りの宿屋(ホテル)で明日空室のあるのはここだけだったと言うのです。確かにそうでした。 私は騒音の出どころを確かめるべく窓を開けてみました。おおっ、そうだったのか、そうだった!強烈な照明のもと、巨大な機械類を持ち込んで行なわれている工事は、保線工事でありました。駅のプラットホームのすぐ横。そうなんです、私たちは駅前の宿舎だったもので。夜が更ければは通らないとタカをくくっておりましたが、こんなイベントがあったとは。 幸い工事は30分ほどで終わりました。でも、そこからが眠れず、私はあの騒音が気にならないという妻についていろいろ考えを巡らしていったのです。妻は常時耳鳴りがあるらしく、自分でも少し耳が遠いと言ってます。そのため私の鼾も気にならないらしいのです。はっきり断っておきますが、私は人と比べて決して高鼾の方ではありません。 ところが元妻にはうるさかったらしいのです。神経質という程でもなかったのですが何せ不眠症だったもので、子供たちがそれぞれ自分の部屋を持つようになってからは、寝る時はずっと別室でした。だから二人で旅行する時は悲惨でした。夜中に鼻をつままれて起こされたり、押入れの中やロビーのソファーで寝かされたり。こんなんDVやん。 もちろんそれが離婚の原因では断じてありませんが、この種の不可抗力な理由でもっていさかいが絶えんなんてご夫婦もけっこうおられるのでは? そういうことから考えても、夜の騒音が気にならぬという今の妻、私にとっては何か前世からの深い縁で結ばれているように思えて来て(なんか強引やなあ)、ありがたいなと思いつつ再寝のまどろみに突入していったわけであります。今回求めた海亀?の土鈴。日和佐とはどこにも書いていないのが怪しい。追記:日和佐の地名は町村合併のため今月限りで消滅します。何とも惜しいことではあります。
2006年03月11日
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やっと車での旅?から戻ってまいりました。四国の東岸を何度行ったり来たりしたことでしょう。 さて、今回も日和佐駅前のビジネスホテルを利用しました。ホテルらしくないホテルにしたかったという御主人の意向どおりの一味違った趣のホテルです。室内はビジネスとは思えないゆったりとした広さを持ち、照明は明るく、おまけに(化粧用控え室にあるような)据付けの長い台がとても便利。荷物を置いたり、食事をしたり、本を読んだりが、いちいち片付けなくても一どきにできてしまうのです。 特筆すべきは、そこのベッド。かつて経験したことの無い寝心地の良さ! 深く眠れるし、目が覚めてももっと寝ていたいと思う気持ちの良さはいったい何なんでしょう。帰り際、ご主人にそのベッドのことを聞こうとしたらお出掛けで聞けず。我々もそろそろベッドにせねばと思っている昨今ですので、近いうちに電話で伺ってみる事にしましょう。 とういわけで、ぐっすり眠っていた真夜中、とんでもない騒音に叩き起こされるハメに。そして私は夫婦の縁というものについて深く考えさせられることにもなったのですが、それは次回のお楽しみ。画像は薬王寺の瑜祇塔。30年前は夕方薬王寺に着いたので途中の観音様しか拝めなかったのですが、今回は塔まで行き戒壇巡りもしてきました。拝観料百円とは今時安い。
2006年03月09日
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火曜日午後の便で帰阪しましたが、飛行機の窓から富士山があまりにきれいに見えましたので、思わずパチリ。 飛行機が大の苦手という知人が何人か居ります。また乗るには乗るが、ひたすら眠る、もしくは機内放送で音楽を聴いて恐怖心を紛らせるという人も知っています。 私は、外が明るければ窓の外の雲や下界の景色を、暗ければ発着時の夜景を見るのが好きです。上から見ると、山間部、平野、都会などが一目瞭然。海上なら航跡を残しながら進む船舶を探すのも面白いです。鳥になったような気持ちであちこち目を走らせていると、次々と想像力が掻き立てられてきて飽きることがありません。
2005年11月30日
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北海道は本州から新しく入植した人たちによって拓かれた場所ですね。初期のころは協力共同の精神なくしてはやっていけなかったに違いなく、その気風は今でもいたるところに見え隠れしています。知らない人にでもいきなり声を掛けてくる人がいるのも北海道らしいとか。(大阪のおばちゃんもその点に関しては決して負けてませんけど) 封建主義的な「家」中心の生き方に嫌気がさしていた人々もこぞって新天地を求めたことでしょう。だから、北海道の人はあまり家の跡継ぎがどうのとか言わないようです。早くから結婚式が会費制(実行委員会形式)だったというのもその影響かもしれません。 雪が多いので家の形も独特です。瓦が無く急勾配の屋根なのですね(最近は平らな無落雪屋根らしい)。また土地が広いからでしょうか、垣根や石垣でやしきを囲んで自分の地所をことさらにアッピールしている家はほとんどありません。これは本州の人間にはとても衝撃的です。 美瑛の駅付近は最近きれいに開発されたのでしょう。まるでヨーロッパに来たかのような印象を受けます。北海道の広々とした農地にはヨーロッパ風の建物がよく似合います(写真)。うっとりするような景色でした。
2005年10月08日
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上の写真は美瑛に接する上富良野のかんのファームのお花畑。無料で楽しめます。残念ながらラベンダーの季節は終わっており、紫色の花はラベンダーではありません。こういうカラフルな花の帯、実際に自分の目で確かめてみたかったんです。 この近くにはトリック・アート美術館という、いやに人目を引く建物が建っていまして、元来トリックだのパロディものが好きな我々は高い入場料を払って入ることにしました。触れてよし、撮影もよしを売りものにしている美術館も珍しい。ここは一人1300円也の価値ありました。 帰りはジェットコースターの路というのを駆け抜けました。最高に気持ち良かったですぅ!
2005年10月07日
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小説にしろ映画にしろ、いい作品は何度でも楽しめます。人生のどの時点で出会うかによってさまざまな迫り方をしてくるからです。 そういう点からも「北の国から」は実によくできたドラマだと思います。若い者が観ても面白いし、ある程度人生経験を積んだ者が観てもやはり面白い。人物や人間関係が実にうまく描けています。 私はあのドラマから、人生失敗したっていいんだということを学びました。みっともなくても、教科書通りでなくても、人間幸せに生きるとはどういうことなのかを泣き笑いの中で描いてみせた傑作だと思います。 ところで、麓郷には五郎さんの住んでいたとされる「拾って来た家」と「石の家」(写真)が一般公開されています。見学料を払えば中に入れてもらえるのですが、いつもの伝で私は無料で見れる所から遠望しておりました。私にはそれで充分。「石の家」を見るには階段で小高い所まで登らねばならなかったので、私一人で見に行きました。そのかん妻は車の中で休憩していたのですが、大阪ナンバーに気付いた若者達に取り巻かれ驚き呆れられていたのだそうです。たいていの観光客はレンタカーですものね。
2005年10月05日
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「北の国から」のファンとしては(と言っても去年やっと全部通して観た新米です)、やはり富良野に行かなくては話にならないというので行ってまいりました。実は妻の父親が富良野の出なのです。で、子供時代、娘時代に行った祖父母の家が今どうなっているのか確かめたいというので、山部の村はずれを行ったり来たりしました。 結局、あれがそうかな程度に終わったのでしたが、私は観光地でない富良野を満喫することができました。今はタマネギの収穫の時季で、採ったタマネギの長蛇の列(上の写真)や上部に青いシートを掛けたコンテナ(ぎっしり詰まっているのが外から見える)が積み重ねられている光景がそこここの畑に見られました。とにかく広い、だだっ広いの一言です。農家の人はたいへんでしょうね。頭が下がります。冬の厳しさも言語に絶するものでしょう。離農して廃屋になった家も散見しました。 つづく
2005年10月04日
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生まれて初めて小樽に行きました。 歌謡曲では「小樽のひとよ」(鶴岡雅義と東京ロマンチカ)と「小樽運河」(都はるみ)が有名ですね。文学者では、石川啄木、小林多喜ニ、伊藤整ですか。イラストレーターの永田萠さんの仕事場があるのも確かこの地でしたよね。 有名な北一硝子の各建物は修学旅行生や観光客でごったがえしておりました。私はどういうものか、光り物が好きです。宝石、クリスタル、メタリック・カラーの甲虫や車体などなど。どれもこれも見ていると欲しくなります。でもぐっと我慢して買わないようにします。 お金が惜しいからというよりも、より相応しい人が買ったほうがいいと思うからです。私が買って帰っても、どうせ一年もすれば埃をかぶって忘れ去られてしまうのだもの。 私は決していつもケチケチしているわけではありません。先日の万華鏡のように、人様から見たら無駄遣いと思われるかもしれない買物も時にはします。あの場合は私が買ってあげるのがあの作品にとって幸せに違いないと思ったからです。 お金を遣わなかったということで言えば、世界一の万華鏡ギャラリーを持つオタルカンが最も素晴らしく楽しめました。暗くなってからは旭展望台に車で登り街の夜景を愉しみました。もちろんこれもタダ。
2005年10月03日
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「北の国から」のCDを流しながら富良野をあちこち回りました。「優しい時間」の森の時計でケーキセットを頼みました。明日は美瑛です。
2005年09月26日
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こどものころ、「田舎のねずみと町のねずみ」というお話を読んだことがあります。絵本だったような。結末はどうなっていたんでしたっけ。最近、用事で兵庫県や岡山県に行くことが何度かありました。兵庫県と言っても神戸のような都会ではなく、見渡すかぎり田畑と山ばかりのいわゆる「いなか」です。きのうは淡路島の南端まで出かけたので、海も見ることができました。広々としたのどかな風景や、人工的なものを寄せつけない大自然の造作がむき出しになったものを前にすると、いやなことも忘れ開放的な気分になりますよね。 今日は大阪でも特に人の多い難波をうろうろしてきたのですが、やはり疲れます。これは歳のせいだけではなく、都会には何か人のストレスを高める物質が充満しているのではないかとさえ思えてきます。それでも秋が深まってもう少ししのぎやすくなったら、全体にイライラ・カリカリすることもましにはなるのでしょう。
2005年09月02日
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