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昨夜は満月であったのですな。ベランダに出て見ると月が空高く皓々と光を放っていました。今月20日が金環食とのことですが、これは太陽が主役、月は脇役、文字通りの黒子ですな。 しかし、和歌の世界にあっては、「雪月花」や「花鳥風月」にて月こそ主役、太陽はものの数ではないのでありますな。 「寄物陳思」、物に寄せて思ひを陳べる歌というのは、相聞、騎旅などと共に、歌集の部立ての一つにて、万葉集にても既に見られるものであります。古来、日本人は月に寄せて多くの歌を詠んで来ました。 月の歌あまたある中で、本日は万葉ではなく、西行の月の歌を書き出してみることと致します。桜と月の歌人、西行。西行一人に絞ってみても月の歌は数限りなくあります。拾い出しているだけで疲れてしまいますが、字数制限内で書き出せるだけ書き出してみることと致しましょう(笑)。(2012年5月5日の月)ゆくへなく 月に心の すみすみて 果てはいかにか ならむとすらむなげけとて 月やはものを おもはする かこち顔なる わが涙かなこととなく 君恋ひわたる 橋の上(へ)に あらそふものは 月の影のみ弓張の 月に外れて 見し影の 優しかりしは いつか忘れむおもかげの 忘らるまじき 別れかな 名残りをひとの 月にとどめてしきわたす 月のこほりを 疑ひて ひびの手まはる あぢのむら雲影さえて まことに月の あかき夜は 心も空に 浮かれてぞすむ心をば 見る人ごとに 苦しめて 何かは月の とりどころなるさのみやは 袂に影を 宿すべき 弱し心よ 月な眺めそ月に恥ぢて さし出でられぬ 心かな 眺むる袖に 影の宿れる露けさは 憂き身の袖の 癖なるを 月見る咎に 負ふせつるかな月の夜や 友とをなりて いづくにも 人しらざらむ 住みか教へよひとりすむ 片山かげの 友なれや 嵐に晴るる 冬の夜の月月ならで さし入る影の なきままに 暮るるうれしき 秋の山里眺むるに 慰むことは なけれども 月を友にて 明かす頃かなひとりすむ 庵に月の さしこずは 何か山べの 友にならましあはれなる 心の奥を 尋(と)めゆけば 月ぞおもひの 根にはなりける憂き世いとふ 山の奥にも したひきて 月ぞ住みかの あはれをぞ知る憂き身こそ いとひながらも あはれなれ 月を眺めて 年の経ぬれば世の中の 憂きをも知らで すむ月の 影はわが身の 心地こそすれ隠れなく 藻にすむ虫は 見ゆれども われから曇る 秋の夜の月さらぬだに 浮かれてものを おもふ身の 心をさそふ 秋の夜の月真木の屋に しぐれの音を 聞く袖に 月の洩り来て 宿りぬるかないつかわれ この世の空を 隔たらむ あはれあはれと 月をおもひていかでわれ 心の雲に 塵すゑで 見る甲斐ありて 月を眺めむ眺めをりて 月の影にぞ 世をば見る すむもすまぬも さなりけりとは雲はれて 身に憂へなき 人のみぞ さやかに月の 影は見るべき来む世にも かかる月をし 見るべくは 命を惜しむ 人なからましこの世にて 眺め馴れぬる 月なれば 迷はむ闇も 照らさざらめや来む世には 心のうちに あらはさむ 飽かでやみぬる 月の光を鷲の山 おもひやるこそ 遠けれど 心にすむは 有明の月鷲の山 くもる心の なかりせば 誰も見るべき 有明の月鷲の山 月を入りぬと 見る人は 暗きに迷ふ 心なりけり鷲の山 誰かは月を 見ざるべき 心にかかる 雲しはれなば悟りえし 心の月の あらはれて 鷲の高嶺に すむにぞありける雲はるる 鷲のみ山の 月影を 心すみてや 君ながむらむ分け入りし 雪のみ山の つもりには いちじるかりし 有明の月見ればけに 心もそれに なりにけり 枯野のすすき 有明の月あらはさぬ わが心をぞ 怨むべき 月やはうとき をばすての山あま雲の 晴るるみ空の 月影に 恨みなぐさむ をばすての山くまもなき 月の光を 眺むれば まづをばすての 山ぞ恋ひしきをばすては 信濃ならねど いづくにも 月すむ峰の 名にこそありけれ花におく 露に宿りし 影よりも 枯野の月は あはれなりけり冬枯れの すさまじげなる 山里に 月のすむこそ あはれなりけれ霜さゆる 庭の木の葉を 踏み分けて 月は見るやと とふ人もがないづくとて あはれならずは なけれども 荒れたる宿ぞ 月はさびしき山おろしの 月に木の葉を 吹きかけて 光にまがふ 影を見るかな山深み まきの葉わくる 月影は はげしきものの すごきなりけり神路山(かみぢやま) 月さやかなる 誓ひありて 天(あめ)が下をば 照らすなりけりこれや見し 昔すみけむ 跡ならし 蓬が露に 月の宿れる月すみし 宿も昔の 宿ならで わが身もあらぬ わが身なりけり雲の上や ふるき都に なりにけり すむらむ月の 影は変らで何ごとも 変りのみゆく 世の中に 同じ影にて すめる月かな涙のみ かきくらさるる 旅なれや さやかに見よと 月は澄めども眺めつつ 月に心ぞ 老いにける 今いくたびか 春にあふべき山の端に かくるる月を 眺むれば われも心の 西に入るかな闇はれて 心の空に すむ月は 西の山べや 近くなるらむ(同上) ざっと57首列挙できました。さて、皆さまのお心に共鳴音を響かせた歌はどれでありましたでしょうか。<参考>元永元年(1118年)佐藤義清誕生。 保延 6年(1140年)出家。法名円位、西行と号す。 保元元年(1156年)鳥羽院崩御、保元の乱。 治承 4年(1180年)6月福原遷都。8月頼朝挙兵。 建久元年(1190年)2月16日河内の弘川寺にて入寂。
2012.05.06
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(承前) 2日の日記「御勝山から舎利寺へ」の続きです。舎利尊勝寺の南に隣接してあるのが生野神社。既にひろみちゃん氏のブログでその写真を見ているので、初訪問という気がしない。 舎利尊勝寺の門前の道は桑津街道である。その南隣の生野神社の前で東からの道と交差し、ここで少し東にずれて神社を背にする形で桑津街道は更に南へと続く。(生野神社)(同上) 桑津街道は生野神社から500m余でアーケードのある商店街の通りにぶつかり、その先70m位南、薬師地蔵尊のある辻の付近で立ち消えになっている。仁徳さんもこれでは桑津神社の髪長媛さんのお住まいに辿り着く前に迷子になってしまいますな。 アーケード商店街に入る手前に生野八坂神社がある。(生野八坂神社)(同上)(同上・由緒略記) 神社の由緒は上の略記で十分だと思いますが、もっと詳しく、というお方は下の写真をくりっくして、拡大写真でお読み下さい。拝殿前に文鎮に押さえられて置かれていた紙片に詳しい由来などが記されていましたが、1枚きりしかなく、持ち帰るのは憚られたので写真撮影しました。(同上・由緒書) この境内にもヤブラン、万葉風には山菅がありました。「かなし妹がいづち行かめと山菅の・・」の歌は前の日記末尾に記載しましたので、この歌とセットで覚えて置くべき歌を下記して置きます。吾背子を いづち行かめと さき竹の 背向に宿しく 今し悔しも (万葉集巻7-1412) で、ヤブランの別の歌も1首記載して置きましょう。咲く花は 移ろふ時あり あしひきの 山菅の根し 長くはあるけり (大伴家持 万葉集巻20-4484)(此処にもヤブラン) 桑津街道も行き止まりにつき引き返すことに。御勝山まで戻り、今度は桑津街道を北へと探索してみる。先ず出くわしたのが西俊徳地蔵。もっともこれは街道から少し東に入った処にある。(西俊徳地蔵) 地蔵堂に書かれた由来書の写真がピンボケ不鮮明なので、掲載に代えて、その文章を下に転載して置きます。文字使いなどに些か妙な処がありますが、原文のまま転記しました。「此の地蔵尊は宝暦時代(1750年頃)、約230年前より祀られていたと思われます。石仏で等身大で蓮華上の座像でございます。御堂の前の道は俊徳街道で、平野川に架けられた石橋の傍らにありましたので、清い流れと共に景色も良かったので、河内高安の長者の嗣子の俊徳丸が四天王寺へお参りの際には休憩されたものと、古老より言い伝へられております。東地蔵尊と共に当地の西の守り仏として、昔より住民の皆様より大変親しまれて、朝夕はお線香の断へたことがない有難いお地蔵尊でご座います。」 上の説明ではよくは分かりませんが、能「弱法師」の話です。追い出した息子の俊徳丸が盲目の乞食となっているのに、父の高安通俊が四天王寺西門で巡り会う。父子は手を取り合って名乗り、共に故郷の高安村へと帰ることとなるが、その際に彼らが休息したのがこの地蔵堂であるとの言い伝えがあるということであります。(生野八坂神社御旅所) 次に出会ったのが生野八坂神社御旅所。此処も亦、仁徳さん所縁の地にて、御弓場(的殿)跡と伝えられる。その跡地に村人たちが産土神を祀り御館神社となるが、大正2年(1913年)4月に生野八坂神社に合祀されて、同神社の御旅所となったとか。 奥に御館神社跡の碑がある。 (御館神社跡碑) 桑津街道が通称「疎開道路」と交差する手前を東に入った処に「つるのはし跡碑」がある。鶴橋という馴染みの名前の源の地である。此処も亦、仁徳さんです。仁徳さんがわが国で最初となる橋を川に架けたのが此処。で、この地を小橋と言うようになった。前の日記の折口信夫歌碑の歌の「小橋過ぎ~」は此処のことである。<参考>日本書紀・仁徳天皇14年冬11月の条 「猪甘津(ゐかひのつ)に橋為(わた)す。即ち其の処を号(なづ)け て、小橋(をばし)と曰ふ。」(つるのはし跡)(同上) 詳しいことは下の写真をクリックして拡大画面でご覧下さい。 碑の後ろには小野小町の歌碑もありました。(小野小町歌碑)忍ぶれど 人はそれぞと 御津の浦に 渡りそめにし 猪甘津の橋 (小野小町) 以上で桑津街道探索を切り上げ、帰途に。 今里ナントカというマンションの向かいに真田幸村公資料館というのがありました。資料館のある建物がホワイハウスというから、何やらこの資料館も冗談っぽく見えて来る(笑)。 入館は有料で事前予約制と扉に書いてある。今回の銀輪散歩の出だしの写真が大坂の陣で徳川方が陣を張った御勝山であったから、最後は真田幸村公資料館というのも始末相整いてよろしきことに見え申し候、ということで、今回の銀輪散歩完結とさせて戴きます。(真田幸村公資料館)
2014.09.04
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今日は節分、明日は立春。 いよよ春にしなるにやあらむ・・ですが、昨日までの暖かさは去って、今週は再び厳しい寒さが戻って来るとか。どちら様もおん身お大切に。 良寛さんの歌にこんなのがあります。なにとなく 心さやぎて いねられず あしたは春の はじめとおもへば (良寛) この歌は立春の前日の歌ですから、今日の歌に相応しい歌でもあります。昔の人の感覚では立春が1年の始まりであったのですから、今日の我々の大晦日の感覚に近いと言うべきか。 さて、立春の前日は節分。冬と春との境目の日。「鬼は外~」の豆まき、年齢の数だけの豆を喰う。恵方巻にかぶりつく。人それぞれに今日の日を過ごされるのであるでしょうが、満年齢1296歳のヤカモチにとっての難関は何と言っても豆を喰うことであります。まあ、昔は数え年で年齢を数えていましたから、1297個も豆を食べなくてはならないということになる。 鬼(邪気)を払い、火で炒った豆は福豆となる。それを食することは、その豆の「福」を身内に取り込み、この1年も健康で幸せにありますようにと願う行為、儀式ということになる。であれば、胡麻ではやはり誤魔化せないのでありますな(笑)。 大豆には悪玉コレステロールを低下させる効用が顕著にあるとのことなので、もう長生きを願う年齢にはあらねど、生きている限りは健康にてありたきものと、ヤカモチも人並みにやはり大豆を食うのであります。 さて、昨日(2月2日)は月例の墓参をして参りましたが、その折に通る寺の門前に掲示されていた言葉は次のようなもの。(今日の言葉) 鬼は内にぞある。或いは、鬼を作り出すのはわが心なりけり、でありますかな。鬼と神は裏腹の関係。内なる鬼を神にぞ変へむと豆をまくべし、豆を食ふべし、なのであります。(ロウバイ)朝の雨 止みぬる道は 蝋梅の かほりほのかに 流れ来るかも (偐家持) 上の写真は2日の墓参の道の辺に咲いていたものですが、友人・蝶麻呂氏との1月31日の銀輪散歩で立ち寄った緑ヶ丘公園の梅林でも咲き匂っていました。梅は春告げの花と称されるが、今や蝋梅がひと足早くそれを告げる花となっているようで、その所為かあらぬか、近頃の梅は春を告げられてから咲くという、春告げられ花、になり下がってもいるような(笑)。 明後日から、白内障の手術のため暫し入院します。通常、白内障の手術は通院のみで済ませるようだが、小生の病院は入院して貰うことになっていると言う。是非に及ばずで、止むなく5日から12日まで入院です。銀輪散歩もお休みとなりますが、個室なのでパソコンを持ち込み、掲載遅れとなっている宝塚・伊丹銀輪散歩の道中記でもアップ致しますれば、ブログの方は開店営業中であります(笑)。
2014.02.03
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なげけとて 月やはものを おもはする かこち顔なる わが涙かな (小倉百人一首 86)(「なげけ」と言って月が私にもの思いをさせるのだろうか。そんなこともあるまいに、月を眺めていると、「この月のせいで」と、いかにも月のせいであるかのように、涙がこぼれることだ。) 昨日、智麻呂邸を訪ねて、色々とお話していたら、凡鬼氏の俳句の話になり、季語の「木の葉髪」の話から何故か上の西行の和歌に話が及び、恒郎女様が、「先日テレビを見ていたら、或る方が「かこち顔」をうまく使った歌を作っておられるのを見て感心した。」として、自分も「かこつ」、「かこち」を使って俳句か和歌を作ろうとするのだが、なかなかうまくまとまらない、というようなことを仰っていました。 何か心に響くというか、感じるところのある「言葉」に出会ったら、それを使った歌や句を作ってみようという気になる、というのは小生にも時にあることなれば、よく分かる話です。そう言えば、凡鬼氏も「気に入った季語を見つけると、それを使って俳句を作ることがある。」と仰っていたことがありました。 これは「言葉」の持つ「イメージ喚起力」という奴ですな。言霊信仰というのがありますが、これが「言霊」の正体であるのだ、と感じた次第。 因みに「かこち顔」とは、うらめしそうな顔。「かこつ」というのは、「〇〇にかこつけて」というように、「〇〇を口実にして」というような意味で、「託つ」と書く。これから派生して「嘆いて言う、愚痴を言う、恨んで言う」という意味もあり、上記の「かこち顔」は後者の意味によるものですな。 恒郎女様のお話に「かこつけて」ブログの記事を書き上げました。これは前者の意味ですな(笑)。 当日、智麻呂氏の新作絵画9点を撮影しました。偐家持美術館は早々と年末休館に入りましたので、これらの公開は来年のお楽しみということになります。 本日は先日の留学生懇親パーティーについてのS先生からのお礼のメールが届きました。留学生諸君のお世話ご苦労さまです。S先生のご健勝お祈り申し上げます。 また、花万葉のカレンダーが届きました。あらたしき 年もかくあれ 花万葉 訪ねゆかむや 銀輪の道 (偐家持)
2008.12.15
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(承前) 前記事の続編です。曽束大橋を渡って対岸の道に入ったところで、前記事が終わりましたので、そこから始めます。<参考>曽束大橋を渡った左岸の道から天ケ瀬ダムまでの記事 瀬田川・宇治川銀輪散歩(わが庵は都のたつみ) 2014.3.13. 地図で見ると曽束大橋手前1kmほどの地点から喜撰山大橋の手前800mほどの地点までは、瀬田川が滋賀県と京都府との境界になっているようです。 従って、曽束大橋は右岸京都府と左岸滋賀県との間をつないでいる橋ということになります。右岸の道は曽束大橋を渡る手前1km付近から京都府の府道3号になっていて、橋を渡った先の左岸の道は再び滋賀県の県道3号ということになる。 曽束大橋を渡ってしばらく行くと、上の<参考>記事に掲載の写真にあるように、眼を射るような鮮やかな黄色のトラトラの道が展開するのであったが、それは10年前のことで、今回目にしたのは、それらの塗装が褪色して目立たぬくすんだ色に変化し、加えて所々摩耗したり剥がれたりもしているという、何ということもない道になってしまっていました。 写真に撮って現在の姿と10年前の光景とを比較してみれば面白かったかもしれないのだが、撮影せぬままやり過ごしてしまったので、後の祭りであります。(瀬田川左岸の道) 宇治11km、天ケ瀬ダム9kmという標識のある地点までやって来ました。この先喜撰山大橋の先から、瀬田川は宇治川と名を変えるようです。(コース地図4・喜撰山大橋からJR宇治駅まで) 喜撰山というのは、喜撰法師に由来する名称。 喜撰法師は六歌仙の一人とされるが、伝記など不詳の御仁。 紀貫之の変名という説などもあり、正体不明。 古今集仮名序に「宇治山の僧喜撰は、ことばかすかにしてはじめをはりたしかならず。いはば、秋の月を見るに暁の雲にあへるがごとし」とその歌風が評されている歌人であるが、紀貫之の変名であるなら自分で自分を評したことになり、愉快と言うほかない。わが庵いほは 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり (喜撰法師 古今集983、小倉百人一首8)<参考>喜撰・Wikipedia しかし、喜撰山大橋もその下流側にある吊り橋、大峰橋も今回は撮影していない。上記<参考>の10年前の記事に写真を掲載していますので、ご参照ください。 ということで、次の写真は、宇治川に左側から流れ込んでいる田原川に架かる宵待橋になります。(宵待橋) 宵待橋を渡ったところで振り返って撮ったのが上の写真。 宇治川左岸の道からこの田原川の道に入り、つまり上の写真に即して言うと、画面の奥・左手からこの橋にやって来て、こちら岸の道を画面左手に進み、再び宇治川左岸を川下へと進むのが正しいコース。 ここで、タバコ休憩をしていると、右手から例のカナダ人二人組が現れたのである。 この橋をこちらに渡り右折して、写真画面左手に行くべきところ、彼らは左折して、写真画面右手に、つまり反対方向に進んでしまったようです。 こちら岸の道は、この橋から左が府道3号、右が府道62号。彼らは府道62号を田原川沿いに上流へと進んでしまったようです。府道62号は国道307号に突き当たり、国道307号は京田辺から枚方方面へと通じている道である。どの付近で道を間違えたと気づいたのだろう。 少しばかり言葉を交わし、彼らを見送ってからゆっくりとヤカモチも出発であります。(天ケ瀬ダム) ほどなく、天ケ瀬ダムが見えて来ました。 10年前はダムを見学しましたが、今回はパスして、坂道を走り下る。 宇治の市街へと入ったところで、源氏物語宇治十帖宿木之古蹟という碑がありました。この碑については前回10年前の銀輪散歩の折にこれを撮影した記憶があったので、今回は撮影しないで置きました。帰宅後調べてみると確かにその写真がPCに残っていました。 ということで、その10年前の写真を掲載して置きます。(源氏物語・宇治十帖・宿木之古蹟)(同上・副碑) 近くにあったマンホールは撮影しましたが、この図柄のマンホールは既にマンホールシリーズ記事にて紹介済みでありました。(宇治市のマンホール) マンホールのことはさて置き、宇治十帖古蹟の碑は10年前に撮影したものが他にもあるので、ついでに掲載して置きます。(源氏物語・宇治十帖・総角之古蹟)(同上・早蕨之古蹟)(同上・椎本之古蹟)(同上・副碑)<参考>宇治十帖・Wikipedia 全10ヶ所が揃ったところで記事にアップしようとでも考えて、これまでブログに掲載しないまま、写真を保存していたものと思われるが、10年を経過しても一向に進展しなかったということは、その気にならなかったということでしょうから、現状あるままの在庫で記事掲載ということにいたします。<参考>蛍塚から宇治神社までの記事 瀬田川・宇治川銀輪散歩(もののふの八十宇治川の) 2014.3.14.(宇治散策案内図) はい、宇治川の中洲の島、塔の島に架かる喜撰橋の前に出ました。 中洲の島は二つあって上流側が塔の島、下流側が橘島である。 塔の島は喜撰橋によって左岸とつながり、橘島は橘橋によって左岸と、朝霧橋によって右岸とつながっている。(喜撰橋) この辺りから10年前の銀輪散歩とは異なるコース取りとなります。 前回は、橘橋を渡って、中洲の島・橘島に渡り、宇治神社、宇治上神社を経て仏徳山(大吉山)展望台まで登り、下山して宇治彼方神社、菟道稚郎子墓、下居神社と巡ってJR宇治駅ゴールというコース取りであったが、今回は島には渡らず、宇治川左岸の土手道を直進でありました。<参考>宇治上神社からJR宇治駅までの記事 瀬田川・宇治川銀輪散歩(秋の野のみ草刈り葺き) 2014.3.15. 前回は、宇治の万葉歌碑を巡るというテーマがあっての散策でしたが、今回はそういったものはなく、平等院も時刻からみて入場できる筈もないので、何という当てもないそぞろ歩きである。(宇治川 対岸左手の山が仏徳山<大吉山>である。) 土手道から細い路地を抜けて、平等院参道に出る。 さすがに参道は大勢の観光客。店の前の空間に椅子席やテーブル席を備えた店が目にとまる。ここなら押して歩いている愛車トレンクルを駐輪する場所もある。そこで抹茶ソフトを食べている観光客の姿につられでもしたか、ヤカモチもこれを買い求め、店先の椅子席でこれをいただくこととする。 参道を出ると宇治橋。 その一角は、宇治十帖に因み「夢浮橋ひろば」と名付けられているようです。(夢浮橋ひろば) そこにあるのが紫式部の像。(紫式部像)(同上・副碑) そして、夢浮橋之古蹟の碑。(源氏物語・宇治十帖・夢浮橋之古蹟)(同上・副碑) 以上、紫式部、夢浮橋之古蹟碑、宇治橋の3点セットの写真がこれであります。(3点セット写真)(明治天皇御駐輦之地碑) 紫式部像や夢浮橋之古蹟碑に取り囲まれる形で、これらとはいかにも不似合いな感じで明治天皇御駐輦之地碑が建っている。この碑が先にあって、源氏物語関係の像や碑がその後に設置されたということなんだろう。(宇治橋)(同上・説明碑) 宇治橋を渡り、右岸へ。 宇治橋を渡る頃には、もう午後5時になろうかという時刻。(宇治橋から橘島に架かる朝霧橋<左>、橘橋<右>を望む) 京阪宇治駅の左奥にあるのが、大河ドラマ館。 入館料などは必要とせず自由に入館できる施設のようだが、既に午後5時を過ぎていて、営業終了、閉館していました。(光る君へ・大河ドラマ館) 大河ドラマ館の裏手にあるのが、菟道稚郎子の墓。 彼は、応神天皇の皇子。仁徳天皇の異母弟である。 応神天皇没後の、菟道稚郎子・仁徳天皇・大山守三者の関係などは、上記<参考>の過去記事「瀬田川・宇治川銀輪散歩(秋の野のみ草刈り葺き)」または下記<参考>の「菟道稚郎子・Wikipedia」をご覧ください。(菟道稚郎子尊宇治墓)<参考>菟道稚郎子・Wikipedia妹らがり 今木(いまき)の嶺に 茂り立つ 妻松(つままつ)の木は 古人(ふるひと)見けむ (柿本人麻呂歌集 万葉集巻9-1795)(<妹らがり>今木の嶺に茂り立つ妻を待つという松の木は、昔の人も見たであろう。)(注)古人=今は亡き菟道稚郎子を指す。 これは、「宇治若郎子の宮所の歌一首」という題詞と共に万葉集巻九の挽歌の部に収められている歌であるが、この歌の歌碑は、宇治神社の背後の山、仏徳山(大吉山)の展望台にある。今回はとても展望台まで登る元気も時間的余裕もないのであるが、上記<参考>過去記事にはその歌碑の写真も掲載していますので、ご覧ください。(同上) 菟道稚郎子墓に隣接する場所に浮舟宮跡という石碑が建てられている。 源氏物語・宇治十帖の浮舟の君を祀った古社が、かつてこの付近にあったらしい。(浮舟宮跡碑)(同上)(史跡 宇治川太閤堤跡碑) 宇治川太閤堤跡の碑と大河ドラマ館の間をトレンクルで走り抜けて宇治橋に戻り、JR宇治駅へと向かう。(JR宇治駅前、茶壷型の郵便ポスト) はい、JR宇治駅前広場のユニークな茶壷型郵便ポストに迎えられて、今回の銀輪散歩は終了であります。(完)<参考>過去の銀輪万葉・京都府・滋賀県篇は下記参照 銀輪万葉・京都府・滋賀県篇(その1) 2007年7月~2019年3月銀輪万葉・京都府・滋賀県篇(その2) 2019年7月~
2024.03.21
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今日2月9日は「肉の日」とのこと。 ならば、野菜の日は8月31日だろうと調べると、果たしてその通りでありました(笑)。 このような語呂合わせによる「〇〇の日」というのは他にも色々あるようですが、かつて「数字変換可能短歌」というのを作って記事にしたことがあります。これと同じ語呂合わせ遊びですな。<参考>数字変換可能短歌・俳句 2012.4.1. 数字変換が可能な文字は下記の通りであるから、これらの文字のみで、歌や俳句を作るという「言葉遊び」である。 い(1)、お(0)、く(9)、こ・ご(5)、さ・ざ(3)、し(4)、じ・ぢ(2又は4)、つ(2)、と・ど(10)、な(7)、に(2)、は・ば・ぱ(8)、ひ・び・ぴ(1)、ふ・ぶ・ぷ(2)、み(3)、む(6)、や(8)、よ(4)、れ(0)、ろ(6)、いち(1)、ふた(2)、さん・ざん(3)、よん(4)、ろく(6)、はち(8)、きゅう・ぎゅう(9)、じゅう(10)、とほ(10)、みそ(30)、よそ(40)、いそ(50)、むそ(60)、ななそ(70)、やそ(80)、くそ(90)、もも(100)、ち・せん(1000)、まん(10000)、てん(10)等 さて、話(874)は変わって、前頁の記事で、カイツブリかとカメラを向けたらカモのようでガッカリしたと書きましたが、そのカモらしき鳥の写真がこれであります。(カモ?) カモであるカモしれないし、別の種類の鳥カモしれない(笑)。 カモにも色々な種類がいて、その区別はヤカモチには容易ではないのであるが、少なくとも、マガモとかカルガモとかいった馴染みのカモではないことだけは確かであるカモ。 ここは、花園中央公園の遊水池。カモやサギはよく見かける。(カモ) こちらは、間違いなくカモである。 こんな風に池の中州と言うか、葦辺の干潟のようになっている場所に上がり、群れて休憩している。(カモたち) カメラをもう少しひいてみると、こんな感じです。(同上) この遊水池の東側、水門を隔てて恩智川が南から北へと流れている。 従って、この遊水池に飛来する鳥たちは、恩智川づたいにやって来るのであろう。(恩智川を泳ぐカモ) カモの泳ぐ傍らの中州に、アオサギが立ち尽くしていました。 まあ、座り込んでいるサギなんぞは見たことないが。(アオサギ) 寒風に吹かれて、胸の飾り羽がそよぎ、翻り、揺れる。 時に、思索に耽る哲学者のような雰囲気を醸すアオサギであるが、このアオサギ君は、何やらもの寂しく、落ちぶれて尾羽打ち枯らした感じがするのは、風でヒラヒラしている胸の飾り羽の所為でもあるか。(同上) 再び、遊水池に戻って・・・オオバンも泳いでいました。 このオオバンについては、ヤカモチはながらく水掻きがない水鳥であると誤解をしていました。 昔、新潟県の福島潟に銀輪散歩した際に、野鳥監視員だというお方に出会い、立話、歩き話でありますが、色々と野鳥保護についてのお話を伺ったことがありました。その折に、バンとオオバンについても説明を受けたのですが、監視員の方は、バンについて、水掻きがないので、首を振って泳ぎ、それによって推進力を補っている、というような説明をされたのだろうと思います。 これを、バン、オオバンに共通のことと誤解して、オオバンにも水掻きがないと誤解してしまったのでありました。 最近になってネットでの説明を見て、オオバンには、指間をつなぐ弁膜のような完全な水掻きではないが、木の葉形状の水掻き(弁足)があること、従って、水掻きがないバンに比べると泳ぎは上手いということを知ったのでありました。<参考>オオバン・Wikipedia バン・Wikipedia(オオバン) バンもオオバンもクイナの仲間。 ツル目クイナ科バン属、ツル目クイナ科オオバン属、というのがそれぞれの生物分類上の位置づけとなります。 嘴の延長のような額板が特徴で、白いのがオオバン、赤いのがバン。 このような顕著な特徴を持つ鳥は、見わけも容易なので、ヤカモチもすぐにその名前を覚えたという次第。 バンは漢字では鷭。オオバンは大鷭。 まあ、大伴家持はオオバン・ヤカモチとも読めますから、それで覚えたとも言えますかね(笑)。 してみると、オオバンからバンが派生し、それは淳和天皇の時代のことであったということにもなりますかね。 オオバン「そんなことにはなりません。」(同上) しかし、このように後ろを向かれてしまうと、オオバンとは分からないのでありますから、ヤカモチの知識もいい加減なものであります。(同上) 水中に頭を突っ込んだかと思うと、何やら黒っぽいものを口に咥えたようで、嘴の間に黒い丸いものが写っている。(同上) さて、話(874)変わって、陸上の黒い鳥と言えば、カラスのクロスケ或いはカラスのカンタローであります。(カラス) 石のベンチに座っているヤカモチの目の前を、カラスはひょっこひょっこと歩いて通り過ぎて行きました。万葉歌の「瞼腫れて」という、そのままの顔で。 コイツは人畜無害と、どうやらカラスからも見くびられたようだ。(同上) 少し、離れた場所を歩き回り、何をついばんでいるのか、時々地面をつついたりしている。 カラスをからかいついでに、カラスの万葉歌でもご鑑賞下さい。暁(あかとき)と 夜烏(よがらす)鳴けど この森の 木末(こぬれ)が上(うへ)は いまだ静けし (万葉集巻7-1263)朝烏 早くな鳴きそ わが背子が 朝明(あさけ)の姿 見れば悲しも (同上巻12-3095)烏とふ 大(おほ)をそ鳥の まさでにも 来(き)まさぬ君を ころくとそ鳴く (同上巻14-3521)婆羅門(ばらもん)の 作れる小田(をだ)を 食(は)む烏 瞼(まなぶた)腫れて 幡桙(はたほこ)にをり (高宮王 同上巻16-3856)(同上) カラスが高い木の上とか屋根の上とかに止まって、カァ~と鳴いているのはよく見かけるが、このカラス、地べたを歩き回りながら、時折、カァ~と鳴く。 コチラをからかっているのか、それとも威嚇しているのか。 まあ、カラスの勝手でしょ、ということでもあれば、無意味な詮索は止しにしましょう。 逆光での撮影であったので、写真写りはイマイチであったが、下の写真はその表情も撮れていて、まずまずの出来である。 この写真で見る限り、ヤカモチへの敵意はないようでありますが、さりとて親愛の表情でもない。 カラス「お前もそんな顔をしとる。」(同上) 今日は、銀輪散歩で見かけた鳥たちの記事でありました。<参考>鳥関連過去記事はコチラ。
2021.02.09
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長らくブログ更新を怠っていましたが、久々の更新です。 2月17日、大阪市内に出掛けるついでがあったので、久しぶりに生国魂神社に立ち寄ってみました。(生国魂神社・拝殿)<参考>生國魂神社・Wikipedia 生国魂神社はこれまで何度となく立ち寄っているが、直近では2019年7月17日のようですから、5年半ぶりの立ち寄りです。 尤も、昨年10月18日にも神社前の公園で小休止しているようなので、これも立ち寄りと考えるなら4ヶ月ぶりに過ぎないこととなるが、この時は鳥居の外側から拝殿を遠望しただけで、境内には立ち入ってはいないので「立ち寄り」とは言えないのでしょう。 拝殿右側の裏手に回ると、先ず目にとまったのは芭蕉の句碑。(芭蕉句碑) 菊に出て 奈良と難波は 宵月夜 (芭蕉)(同上・副碑) そして、織田作之助の像。(織田作之助像) 今回、撮影した芭蕉句碑も織田作之助像も既に2019年7月18日記事に写真を掲載済みでありますので、下記<参考>記事を併せご覧いただくこととし、説明などは省略させていただきます。<参考>旧友との昼食会で難波まで 2019.7.18. 次は、井原西鶴像。(井原西鶴像) 井原西鶴像は過去記事で写真を掲載した筈と調べると、2010年7月5日記事がそれでした。<参考>生国魂神社 2010.7.5. 生国魂神社を出て谷町筋を北に入ると、藤次寺である。 この寺も以前立ち寄ったことがあると過去記事を調べてみると、2014年6月26日の記事がそれでした。 従って、10年7ヶ月余ぶりの再訪ということになる。<参考>薄田隼人正兼相の墓 2014.6.26.(藤次寺略縁起) 本堂の写真は、今回撮らなかったようですが、上記<参考>記事にはその写真が掲載されています。 以前の訪問の時には存在しなかった、地蔵大仏が本堂に向かって右側のお堂(地蔵院)の中に鎮座されておはしました。(地蔵大仏) お堂の窓ガラス越しにお姿を撮影させていただきました。(同上・説明ポスター) 藤次寺開創1200年を記念しての地蔵大仏とのことですが、詳しくは上のポスターの写真をクリックして大きいサイズの写真でお読みください。 表門を出た谷町筋沿いの塀の壁面に貼ってあったものを撮影しました。(阿波野青畝句碑) この句碑は前回訪問の記事(上掲<参考>)にも写真掲載済みです。 動く大阪 うこく大阪 文化の日 (青畝)<参考>近隣散歩関連過去記事は下記です。 近隣散歩(その1) 2009~2013 近隣散歩(その2) 2014~
2025.02.20
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偐山頭火さんとの「2009.10.31.銀輪万葉<安福寺~錦織公園>」の続編です。 錦織公園からの帰途は石川に出て来る時とは反対に右岸の自転車道を走ることとした。高速のロードバイクが我々を追いぬいてゆく。それは別にどうということはないのだが、我々を追い抜き既にかなり離れて遠く前を行くバイクに追いつこうという気にふとなって、ペダルをガムシャラに漕ぎ、速度を上げる。少しずつ後ろ姿が大きくなる。もう少しで追いつくという段になって、相手は坂を登り切った場所で一般道へコースアウト。抜き返すことを逸しました。 まあ、そんな子供じみたことをする気になるのも、好い天気と広々とした自転車道の所為でありますな。 途中で「西行絵巻」の標識板が目に入ったので、道から外れて休憩を兼ねて立ち寄ってみると、ちょっとした広場に西行の生涯を陶板絵にしたプレートがズラリ並んでいました。この東にある弘川寺に西行さんの墓があることから、このようなものが公園の一角を飾っているのでもあるんでしょう。 西行の俗名は佐藤義清(のりきよ)である。鳥羽上皇の御所を警護する北面の武士であった。北面の武士はイケメン?いや、これは冗談ではなく、北面の武士に選ばれる条件は、武芸に優れていること、教養を身につけていることに加えて、美貌であることである。上皇の寵愛を受けるためには美貌が不可欠なのである。 今宵こそ 思ひ知らるれ 浅からぬ 君に契りの ある身なりけり これは、上皇崩御に際して西行が詠んだ歌である。西行23歳。この年に西行は出家する。出家の理由は諸説あって定かではない。そもそも人が何か行動を起こす時の心根は色んなものが複合してあるのだから、単純にこれだと決められないのが当たり前のこと。定説をみないということは正常なことだ。 西行が恋したのは鳥羽上皇の后、待賢門院璋子との説もあるが・・ 吉野山 こずゑの花を 見し日より 心は身にも そはずなりにき「秋はまたのがれて、この暮れに出家障りなく遂げさせ給へと、三宝に祈請申して宿へ帰りゆく程に、年来さりがたくいとほしかりける女子、生年四歳になるが、縁に出でむかひて、父御前の来たれるがうれしといひて袖に取りつきたるを、いとほしさたぐひなく、目もくれて覚えけれども、これこそ煩悩の絆よと思ひとり、縁より下へ蹴おとしたりければ、泣き悲しみたることも耳にも聞き入れずして、うちに入りて、今夜ばかりの仮りの宿ぞかしと思ふに、涙にむせびてぞあはれに覚えける。」(「西行物語」より) さびしさに 堪へたる人の またもあれな 庵ならべむ 冬の山里 西行が出家したのは1140年。京都西山連峰の小塩山の麓、大原野にある勝持寺に於いてである。 世捨て人となっても、歌を作るということは、他者の目を意識し、表現者として他者と関わろうとする心の働きがあるということだろうから、「世を捨てきれぬ世捨て人」というのが西行であるのかも。 世をいとふ 名をだにもさは とどめおきて 数ならぬ身の 思ひ出にせむ こととなく 君恋ひわたる 橋の上(へ)に あらそふものは 月の影のみ あはれ知る 涙の露ぞ こぼれける 草の庵を 結ぶ契りは わがものと 秋の梢を おもふかな 小倉の里に 家居せしより あくがるる 心はさても 山桜 散りなむ後や 身にかへるべき 吉野山 花の散りにし 木の下に 留めし心は われを待つらん 松山の 波のけしきは 変らじを 形なく君は なりましにけり なげけとて 月やはものを おもはする かこち顔なる わが涙かな 伊勢、熊野、みちのく、西国など諸国を巡歴して、後世の芭蕉もその跡を辿ることとなるが、晩年、西行はここ河内の弘川寺に庵を結び、この地で死を迎える。 願はくば 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ 仏には 桜の花を たてまつれ わが後の世を 人とぶらはば 石川河川敷公園の「西行絵巻」に西行の歌を添えてみました。西行さんのことはよくは存じませぬが、文覚を殴りつけるなどの逸話もあって、なかなかに面白い、一筋縄ではゆかぬ人物でありますな。
2009.11.01
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「ぬばたま・の」・・・ぬばたまは、射干(ヒアフギ)の実であって、其色は、極めて黒いものだから、くろの枕詞とした。それが轉じて夜・月・夢・寝(い)・樞(クル)などにもつづける。(折口信夫「萬葉集辞典」より)ヒオウギが咲いていた。この花の実が「ぬばたま」である。 万葉集から「ぬばたま」の出てくる歌を拾い出すと・・・居明かして 君をば待たむ ぬばたまの 我が黒髪に 霜は降るとも (巻2-89 磐姫皇后)あかねさす 日は照らせれど ぬばたまの 夜渡る月の 隠らく惜しも(巻2-169 柿本人麻呂) 子らが家道 やや間遠きを ぬばたまの 夜渡る月に 競ひあへむかも(巻3-302 阿倍廣庭)ぬばたまの その夜の梅を た忘れて 折らず来にけり 思ひしものを(巻3-392 大伴百代) 佐保川の 小石踏み渡り ぬばたまの 黒馬の来る夜は 年にもあらぬか(巻4-525 大伴坂上郎女)ぬばたまの 黒髪変り 白けても 痛き恋には 逢ふ時ありけり(巻4-573 大伴旅人)我が背子が かく恋ふれこそ ぬばたまの 夢に見えつつ 寐ねらえずけれ(巻4-639)ぬばたまの その夜の月夜 今日までに 我れは忘れず 間なくし思へば(巻4-702 河内百枝娘子)ぬばたまの 昨夜は帰しつ 今夜さへ 我れを帰すな 道の長手を(巻4-781 大伴家持) うつつには 逢ふよしもなし ぬばたまの 夜の夢にを 継ぎて見えこそ(巻5-807 大伴旅人) ぬばたまの 夜の更けゆけば 久木生ふる 清き川原に 千鳥しば鳴く(巻6-925 山部赤人)ぬばたまの 夜霧の立ちて おほほしく 照れる月夜の 見れば悲しさ(巻6-982 大伴坂上郎女) ぬばたまの 夜渡る月を 留めむに 西の山辺に 関もあらぬかも(巻7-1077)ぬばたまの 夜渡る月を おもしろみ 我が居る袖に 露ぞ置きにける(巻7-1081)ぬばたまの 夜さり来れば 巻向の 川音高しも あらしかも疾き(巻7-1101 柿本人麻呂)ぬばたまの 我が黒髪に 降りなづむ 天の露霜 取れば消につつ(巻7-1116)ぬばたまの 黒髪山を 朝越えて 山下露に 濡れにけるかも(巻7-1241) ぬばたまの 今夜の雪に いざ濡れな 明けむ朝に 消なば惜しけむ(巻8-1646 小治田東麻呂) ぬばたまの 夜霧は立ちぬ 衣手を 高屋の上に たなびくまでに(巻9-1706 舎人皇子)天の原 雲なき宵に ぬばたまの 夜渡る月の 入らまく惜しも(巻9-1712)いにしへに 妹と我が見し ぬばたまの 黒牛潟を 見れば寂しも(巻9-1798) ぬばたまの 夜霧に隠り 遠くとも 妹が伝へは 早く告げこそ(巻10-2008)年にありて 今か巻くらむ ぬばたまの 夜霧隠れる 遠妻の手を(巻10-2035)天の川 瀬を早みかも ぬばたまの 夜は更けにつつ 逢はぬ彦星(巻10-2076)ぬばたまの 夜渡る雁は おほほしく 幾夜を経てか おのが名を告る(巻10-2139) ぬばたまの この夜な明けそ 赤らひく 朝行く君を 待たば苦しも(巻11-2389)ぬばたまの 黒髪山の 山菅に 小雨降りしき しくしく思ほゆ(巻11-2456)おほならば 誰が見むとかも ぬばたまの 我が黒髪を 靡けて居らむ(巻11-2532)ぬばたまの 妹が黒髪 今夜もか 我がなき床に 靡けて寝らむ(巻11-2564)思ふらむ その人なれや ぬばたまの 夜ごとに君が 夢にし見ゆる(巻11-2569)相思はず 君はあるらし ぬばたまの 夢にも見えず うけひて寝れど(巻11-2589)ぬばたまの 我が黒髪を 引きぬらし 乱れてさらに 恋ひわたるかも(巻11-2610)ぬばたまの 黒髪敷きて 長き夜を 手枕の上に 妹待つらむか(巻11-2631)ぬばたまの 夜渡る月の ゆつりなば さらにや妹に 我が恋ひ居らむ(巻11-2673) ぬばたまの その夢にだに 見え継ぐや 袖干る日なく 我れは恋ふるを(巻12-2849)ぬばたまの 寐ねてし宵の 物思ひに 裂けにし胸は やむ時もなし(巻12-2878)ぬばたまの 夜を長みかも 我が背子が 夢に夢にし 見えかへるらむ(巻12-2890)思ひつつ 居れば苦しも ぬばたまの 夜に至らば 我れこそ行かめ(巻12-2931)あらたまの 年月かねて ぬばたまの 夢に見えけり 君が姿は(巻12-2956)白栲の 袖離れて寝る ぬばたまの 今夜は早も 明けば明けなむ(巻12-2962)ぬばたまの 夜渡る月の さやけくは よく見てましを 君が姿を(巻12-3007)うつせみの 人目繁くは ぬばたまの 夜の夢にを 継ぎて見えこそ(巻12-3108) 帰りにし 人を思ふと ぬばたまの その夜は我れ も寐も寝かねてき(巻13-3269)川の瀬の 石踏み渡り ぬばたまの 黒馬の来る夜は 常にあらぬかも(巻13-3313) ぬばたまの 夜は明けぬらし 玉の浦に あさりする鶴 鳴き渡るなり(巻15-3598)我妹子が いかに思へか ぬばたまの 一夜もおちず 夢にし見ゆる(巻15-3647)ぬばたまの 夜渡る月は 早も出でぬかも 海原の 八十島の上ゆ 妹があたり見む(巻15-3651)ぬばたまの 夜渡る月に あらませば 家なる妹に 逢ひて来ましを(巻15-3671)ぬばたまの 妹が干すべく あらなくに 我が衣手を 濡れていかにせむ(巻15-3712)ぬばたまの 夜明かしも船は 漕ぎ行かな 御津の浜松 待ち恋ひぬらむ(巻15-3721)あかねさす 昼は物思ひ ぬばたまの 夜はすがらに 音のみし泣かゆ(巻15-3732 中臣宅守)思ひつつ 寝ればかもとな ぬばたまの 一夜もおちず 夢にし見ゆる(巻15-3738 中臣宅守)ぬばたまの 夜見し君を 明くる朝 逢はずまにして 今ぞ悔しき(巻15-3769 狭野茅上娘子) ぬばたまの 黒髪濡れて 沫雪の 降るにや来ます ここだ恋ふれば(巻16-3805)ぬばたまの 斐太の大黒 見るごとに 巨勢の小黒し 思ほゆるかも(巻16-3844) かくのみや 我が恋ひ居らむ ぬばたまの 夜の紐だに 解き放けずして(巻17-3938 平群女郎)ぬばたまの 夜は更けぬらし 玉櫛笥 二上山に 月かたぶきぬ(巻17-3955 土師道良)ぬばたまの 夢にはもとな 相見れど 直にあらねば 恋ひ止まずけり(巻17-3980 大伴家持)ぬばたまの 月に向ひて ほととぎす 鳴く音遥けし 里遠みかも(巻17-3988 大伴家持) ぬばたまの 夜渡る月を 幾夜経と 数みつつ妹は 吾待つらむぞ(巻18-4072 大伴家持) あかねさす 昼は田賜びて ぬばたまの 夜のいとまに 摘める芹これ(巻20-4455 葛城王)うち靡く 春を近みか ぬばたまの 今夜の月夜 霞みたるらむ(巻20-4489 甘南備伊香眞人) こんなにも「ぬばたま」という語を使った歌があるのに、すべて枕詞として使われていて、ぬばたま(ヒオウギ)そのものを歌った歌がない。可憐で美しい花だと思うのだが、万葉人は、この花そのものを、どうして歌わなかったのでしょうね。
2008.08.27
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今年も、昨日(1/10)邂逅展に行って来ました。 このところはこれが毎年初恒例の行動になっている。 毎年年末近くになると、友人の画家・家近健二氏からご案内の葉書を頂戴するからである。 自宅をトレンクル(軽量小型折りたたみ自転車)で出発。近鉄奈良線瓢箪山駅でトレンクルを輪行バッグに収納し、電車で奈良駅まで。 奈良、駅前の喫茶店シャンブルで昼食を済ませてから、会場の「アートスペース上三条」へトレンクルを走らせる。 やすらぎの道に出て、これを左折、南へ。 東西に走る三条通りと交差する地点が上三条町交差点。 この交差点の南東角にあるのが覚王山フルーツ大福弁才天JR奈良三条店。 手土産にとフルーツ大福を買い求める。 これもこのところのお決まりの行動。 因みに、フルーツ大福は、古都華(いちご)、いちご、温州みかん、柿、シャインマスカット、不知火(みかん)、パイン、マンゴー、キウイ、マスクメロンの10種類が売られて居り、この10種類各1個を買い求めたという次第。(アートスペース上三条) はい、会場に到着です。 やすらぎの道を上三条町交差点から南に下って、一つ目の路地を左に入った処にあるのが、アートスペース上三条(下図参照)です。(アートスペース上三条位置図) 路地の入口には「←アートスペース上三条」と書かれた看板が設置されているが、目的もなくぶらり入って行くような気にはならない路地であり、通りがかりにちょっと立ち寄るというようなことは期待できない立地かと思うが、1階が喫茶店になっているので、お近くにお越しの際には、どうぞお立ち寄りください。 さて、邂逅展は今回で、8回目になるらしい。 20人の作家による共同開催個展である。(邂逅展出展作家) 1階は喫茶店で、展示スペースは2階。(2階受付前の絵画)(同上) ドア越しに喫茶店の店内を覗いてみたが、家近さんの姿はなし。 2階へと階段を上る。 先ず、目に飛び込んで来たのは上の絵。 アオイヒカリ・神谷順子とあるが、上掲の出展作家の中には無いお名前。 受付で記帳を済ませて会場に入る。 家近さんの姿は2階にもなし。(展示風景・家近健二コーナー) 先ずは家近さんの絵。 いつもながら、赤が印象的。(同上)(同上)(展示風景・近藤美代子&森澤麗子&谷口勇コーナー)(展示風景・森澤麗子コーナー)(展示風景・近藤美代子コーナー)(展示風景・谷口勇コーナー)(展示風景・木村静コーナー)(展示風景・後藤祐介コーナー)(展示風景・中浦眞一コーナー)(展示風景・北口久人コーナー)(展示風景・松枝道政コーナー)(展示風景・竹籔和コーナー)(展示風景・三澤俊文コーナー)(展示風景・出村幸代コーナー)(展示風景・坂田豊コーナー)(展示風景・近藤美代子コーナー2)(展示風景・市川和正コーナー)(展示風景・「夢原(MUGEN)」)(展示風景・高畑雅一コーナー) ひと通り拝見させていただいて、階下の喫茶店へ。 珈琲休憩です。(喫茶店店内、入口ドア脇の壁のトンボのオブジェ) 結局、家近氏とはお会いできなかったので、持参の手土産を店のお方に託して帰途につくこととする。 会場には「自由にお持ち帰りください」という形で、各出展作家がご自身の作品の写真を印刷して作成された案内葉書が置かれていた。これをアトランダムに貰って帰りましたのでそれらの写真を以下に紹介して置きます。<近藤美代子「羽衣の松・天人」&「羽衣の松・漁夫」(水墨画)><後藤祐介「種果一体」(空想鉛筆画)><斎藤孝「ハイビスカス」(顔料・墨)><三澤俊文「海・香る」油彩><出村幸代「唐招提寺の秋」油彩><小林和弘「田舎の山」油彩><松枝道政・抽象画(アクリル)><森澤麗子作品・草木染め・藍染><谷口勇「雲にのる」油彩><中浦眞一「観音さま」アクリル画><北口久人「空中遊泳」油彩><北籔和「NO110」鉛筆画> 喫茶店を出て、道路向かいにある率川神社南側の路地を西へとトレンクルを走らせる。 三条池跡記念碑のある三条会館南側の小さな公園で煙草休憩。 煙分補給であります(笑)。 昼食後一度も煙草を喫っていなかったのでした。 JR奈良駅から平城宮趾公園を通り抜けて西大寺駅まで走ってみるつもりでいましたが、雪がちらつき始めたので、近鉄奈良駅方向にひき返すこととする。 来た道を引き返し、率川神社の南側路地からやすらぎの道に出て、左折、北へと向かう。 上三条町交差点まで来たところで、家近氏から声を掛けられ、思わぬところで同氏と遭遇でありました。ヤカモチと入れ違いに会場に顔を出されたようです。お見掛けしたところ、同氏も既に帰宅モードのご様子。短い立ち話のみで別れることに。 近鉄奈良駅からは電車で。 生駒駅付近では雪の降り方が激しくなって、視界不良。 石切駅で下車、同駅から自宅までは再びトレンクル走行。 ということで、久々の記事更新ですが、今年2回目の記事。 そして、通算では、3333回目の記事ということで、何やらめでたい気もしないではないという次第(笑)。 <参考>家近健二展関連の過去記事はコチラ。
2025.01.11
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言葉遊び・人名篇(だったら特集) 久々に言葉遊びと参ります。 本日は作家の名前がこんな風に違っていたら、作品名もこんな風に変っていたのではないか、という「駄洒落遊び」。やってみると、上手く収まるものもあるが、なかなか上手くゆかないものが多い。短すぎるタイトルも長過ぎるタイトルも言い換えが難しい。 皆さんで、もっと面白い「作品名」を考えて、コメントに書いて戴くと有難いですな(笑)。夏目漱石が「夏目葬式」であったら吾輩は犬死にである(吾輩は猫である)、坊んさん(坊っちゃん)、北枕(草枕)、葬殮から(それから)、香典(行人)、友人葬(虞美人草)、戦死郎(三四郎)、弔問(門)、供養塔(倫敦塔)、冥暗(明暗)太宰治が「ダサい治」であったら止れメジロ(走れメロス)、社用(斜陽)、人間ドック(人間失格)、晩酌(晩年)、手軽(津軽)、不覚借金(富嶽百景)、バッテラの箱(パンドラの匣)、咳き込み医者へ(駆け込み訴へ)江戸川乱歩が「江戸川乱暴」であったら偐山頭火(二銭銅貨)、N坂の殺虫剤事件(D坂の殺人事件)、野次馬の参考書(屋根裏の散歩者)、パラノイア妄想談(パノラマ島奇談)、押し売りの足袋売る男(押絵と旅する男)、玄人が怪我(黒蜥蜴)、世間評(人間豹)、会席二十品目(怪人二十面相)宮沢賢治が「宮沢変治」であったら日銀が手伝うのよ(銀河鉄道の夜)、風邪で寝三郎(風の又三郎)、十文は高い料理店(注文の多い料理店)安部公房が「壁工房」であったら壁の女(砂の女)、壁男(箱男)、他人の壁(他人の顔)、塗り過ぎた壁(燃えつきた地図)、壁の耳(石の眼)、壊されし壁の欠片に(終わりし道の標に)、赤い壁(赤い繭) 別役実が「脇役実」であったらナッツ売りの初老(マッチ売りの少女)、くよくよ族の反省(そよそよ族の反乱)、ガンバルー(カンガルー)、不思議の国のアキス(不思議の国のアリス)、ボスと演説(椅子と伝説)、死人も出る不景気(死体のある風景)、あー惜しかった、二位だった(あーぶくたった、にぃたった)、クリ剥くさむらい(にしむくさむらい)、まだ息のある死体(雰囲気のある死体)、筵の正面ど~っち(うしろの正面だあれ)、そのひと歯がありません(そのひとではありません)、珍しい大阪菜(淋しいおさかな)、丘の上の人でなしの家(丘の上の人殺しの家) 堀田善衛が「堀田世末」であったら老婆の孤独死(広場の孤独)、最後の審判(審判)、若き死人たちの病歴(若き詩人たちの肖像)坂口安吾が「無駄口安吾」であったら駄洒落論(堕落論)、赤恥(白痴)、ソロリの男(ジロリの女)、長話姫と寝耳男(夜長姫と耳男)志賀直哉が「志賀何哉」であったら木の先に似て(城の崎にて)、なんじゃこれ(暗夜行路)、誤解(和解)、五升の呑み様(小僧の神様)川端康成が「炉端康成」であったらいつも踊子(伊豆の踊子)、指ぐねっ(雪国)、さんま釣る(千羽鶴)、邪魔な音(山の音)、糊塗(古都)丸谷才一が「角谷才一」であったら広場の角を避けて(エホバの顔を避けて)、逆まつ毛(笹まくら)、たった一人の錯乱(たった一人の反乱)、横軸ずれ(横しぐれ)、カナダへ(彼方へ)、今年も居残り(年の残り)、裏口から入れ君だけは(裏声で歌へ君が代)石原慎太郎が「石原疹太郎」であったら大病の季節(太陽の季節)、困った老疾(狂った果実)、完全に病気(完全な遊戯)、胆石の森(化石の森)、気絶(亀裂)伊藤左千夫が「伊藤右千夫」であったらお菊の皿(野菊の墓)、怒鳴る嫁(隣の嫁)、猿の鵜匠(春の潮)大江健三郎が「大江変三郎」であったら珍妙な寝言(奇妙な仕事)、愚者の侮り(死者の驕り)、姪の汁粉餅(芽むしり仔撃ち)、豆の木(雨の木)、万年青年のゲートボール(万延元年のフットボール)、河童に睨まれる(河馬に噛まれる)北杜夫が「南杜夫」であったらどくとく麻婆公開記(どくとるマンボウ航海紀)、似るだけの人々(楡家の人々)、白き玉子焼きなんか見ねえ(白きたおやかな峰)、小田まことが「小田まねごと」であったら何でも見てからやろ(何でも見てやろう)、大抵塩漬けを焼く鱈の子(大地と星輝く天の子)、難波の紫蘇(難死の思想)野間宏が「野呂間宏」であったら長い柄(暗い絵)、支払遅滞(真空地帯)、わざとそこに立つな(わが塔はそこに立つ)、年金の罠(青年の環)井上光晴が「井上光雨」であったら旅行のクーポン(虚構のクレーン)、代休(階級)、医者の時計(死者の時)、胃のもたれ(地の群れ)、無理にコジツケはしないがええ(胸の木槌にしたがえ)、黄色い河馬(黄色い河口)、開高健が「閉口健」であったら麻疹の王様(裸の王様)、二本三円オマケ(日本三文オペラ)、夏の嫌味(夏の闇)、蚊が焼ける網(輝ける闇)浅田次郎が「深田次郎」であったら送金の詰まり(蒼穹の昴)、中元の鰊(中原の虹)、佃煮泥鰌(月島慕情)、皆詐欺師伝(壬生義士伝)、監獄までの百マイル(天国までの百マイル)村上春樹が「村上夏樹」であったら1灸84(1Q84)、世界の終りのハードスポイルド・ナンダーカンダー(世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド)、イリアイの森(ノルウェイの森)、国政の乱れ、対応の不備(国境の南、太陽の西)、日陰をへめぐる銀輪(羊をめぐる冒険)、寝て起きて風呂に入る(ねじまき鳥クロニクル)、スープとニクと胡椒(スプートニクの恋人)、売り時の株価(海辺のカフカ) 角田光代が「角田蝉代」であったらよう噛めん蝉(八日目の蝉)松尾芭蕉が「松尾座長」であったらお気に入りの細麺(奥の細道)、憂さ晴らし奇行(野ざらし紀行)、ざる蕎麦(猿蓑)、老いの繰り言(笈の小文)、ざらにある紀行(更科紀行)、厳重暗記(幻住庵記)滝沢馬琴が「滝沢牛琴」であったら南総里芋発見伝(南総里見八犬伝)式亭三馬が「式亭三鹿」であったら浮気男(浮世床)、浮き袋(浮世風呂)十返舎一九が「一返舎十九」であったら窃盗恐喝ひったくり毛(東海道中膝栗毛)上田秋成が「下田秋成」であったら迂闊物語(雨月物語)
2013.04.01
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一昨夜(9日)は赤い訪問者の、昨夜(10日)は黒い訪問者の、訪問を受けました。 赤い訪問者は体長が4mm程度、黒い訪問者は10mm程度と、どちらも小さな虫である。(キウイヒメヨコバイの♂) 赤い訪問者はキウイヒメヨコバイという虫。 書斎の窓の網戸の網目を容易にすり抜けることのできる体のサイズ。 パソコンの横のメモ用紙の上にとまっているのに気づきました。 勿論、名前などは分からなかったのでネットで調べたのであるが、この手の虫は、ウンカ、ヨコバイ、キジラミなどであるから、調べる手がかりがあるというもの。ということで、撮影して写真をPCに取り込んでから、名前を調べて、キウイヒメヨコバイに到達したという次第。(同上) 爪楊枝(使用済みのものを偶々メモ用紙の上に放置していた)の先にとまらせてみると、上のような写真に。その体がいかに小さいのかお分かりいただけると思うが、それだけに撮影はなかなかうまく行かず大変でした。(同上) 何とか撮れたのが、これらの写真であるが、鮮やかな紅色の翅、パンダみたいな目の部分の黒い丸、なかなか可愛らしい虫だ。 胸部背面に3対の黒い紋があるようだが、紅色の翅に隠れてよくは見えない。しかし、上の写真では、うっすらとその黒い斑紋が透けて見える。 もし、これがセミくらいのサイズだったら、子どもたちの人気を集める虫になっていたかもしれない。 この虫は、キウイの葉を吸汁する害虫らしいが、日本人が発見した新種のヨコバイだそうな。 ネットでこんな説明文を見つけたので、それを転載して置きます。東京都病害虫防除所 発生予察情報特殊報 平成7年度第2号より抜粋(1)学名:Alebrasca actinidiae HAYASHI et OKADA (2)和名:キウイヒメヨコバイ(仮称) (3)形態:成虫は体長3~4mm、雌は黄白色、雄は前翅の基方3分の2が緋紅色で日時を経て濃色になる。後翅は翅脈のみが赤い。チャノミドリヒメヨコバイに似る。幼虫は、体長1~3mm、ふ化当初は白色で後に黄白色になる。胸部背面に3対の黒色紋があり、大きくなると目立つ。 (4)生態:神奈川県病害虫防除所の調査によれば、成虫は5月から11月に見られ、年4回程度の発生経過をたどる。卵は葉裏の葉脈内に産み付けられ、ふ化した幼虫は葉裏で直ちに吸汁・食害をはじめる。幼虫は、非常に活発に運動するが、他の葉への移動は少なく、そのため幼虫が多発すると被害が激しくなる。成虫も動きは活発で、主に葉裏に寄生し吸汁加害する。落葉とともに園から見られなくなる。越冬は卵で行われ、枝の芽基部に産み付けられる。翌年4月頃から幼虫は発芽して展葉まもない葉上に現れる。 (5)寄主植物:キウイフルーツに寄生し、それ以外の植物では寄生は確認されていない。 最近は、庭でキウイフルーツの木を植えて居られるお宅もよく見かけるようになったので、この虫も増えて来ているのかもしれないが、こんな赤いヨコバイを見るのは初めてである。 普通よく見るウンカやヨコバイは黄緑色である。 キウイヒメヨコバイもメスや成熟する前のオスは薄い黄褐色だそうだが、オスは成熟するに伴って、翅がこのように濃い紅色に変色するのだという。(同上) 撮影が終わった後、何処かへ飛んで行ってしまったので、行方不明となりました。何しろ小さいので、目を離すともう行方知れずなのである。 次の黒い訪問者は、翅を持った黒いアリである。 これは、体長が10mm程度のやや大きい目のアリであるから、網戸の網目をすり抜けて部屋に侵入することは出来ないはず。どこの隙間から侵入したものか。 激しく動き回るのと、翅で飛んで行ってしまうことも懸念されたので、捕獲してティシュに包み込んで、しばらくその中の狭い空間でおとなしくしていてもらうことにする。PCでの作業を30分ほどしてから、そっとティッシュを開くと、アリさんはおとなしくなっていました。 撮影開始。(翅蟻 クロオオアリ) 白い世界に包まれて混乱したのも束の間、今はもうすっかり落ち着いたようで、ティッシュの凸凹を探りつつ、ゆっくりと動き回る。 アリも色々な種類が居るが、これはクロオオアリだろうと思う。(同上) ティッシュがいいアングルを作ってくれるので、面白い写真が撮れる。(同上) 翅があるアリは女王アリと女王アリと交尾するためのオスのアリだと思うが、オスのアリは交尾すると間もなく死ぬそうだから、これは女王アリで、何処かで新しい巣を地中に作り、卵を産むつもりで、飛び回っていたのかもしれない。(同上) うろうろ動き回るものの、翅で飛び立つ気配がないから、そろそろ卵を産める場所を探す段階に来ているのかもしれない。 しかし、ティッシュは彼女の辞書にはないだろうから、「ここは一体なんなの。」と少し慌てているのかも。(同上) 余りアリをからかうのも、いい趣味とは言えないから、撮影終了。ベランダから外に向かって、ティッシュに「フーッ」と強く息を吹きかける。 アリさんは吹き飛ばされて、暗い庭の地面へと消えて行きました。 着地した我が庭先で新居の巣を構えられても困るというものであるが、考えてみれば、左程に困るということでもないから、彼女の意のままに任せましょう(笑)。(同上) 赤い虫がオスで、黒い虫がメス。 何だか逆のような色具合でしたが、赤と黒の彼らは今頃は何処でどうしているのやら。 わが庭にはキウイの木はないのであるが、赤いキウイヒメヨコバイはオスだから、卵を産むべき木がなくても関係ないか。 クロオオアリの女王は雨で濡れた庭の土を掘り返して、地中深くに卵を産んでもいるか。 されば、アリにとってもヒトにとっても、この後、余り雨が降り過ぎないのが一番、そのことを祈りましょう。
2020.07.11
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智麻呂絵画展などで当ブログではお馴染みであった智麻呂氏がお亡くなりになったのは三年前の2022年2月15日ですから、早くも丸三年が経過したことになる。 去る2月23日、今年も夫人の恒郎女さんのご招待で、そのお墓参りをご親族の皆さまとご一緒させていただくことになりました。 午前10時10分には若草ホールを車で出発し、はびきの中央霊園に向かうから、それに間に合うように来て欲しいということであったので、マイCB(クロスバイク)で若草ホールへと向かう。 途中、馴染みの果物屋さんに立ち寄ってお供えに果物を何か買い求めるつもりでいたが、時間が早過ぎた所為か、生憎と店はシャッターが降りたまま。 仕方がないので、これまた馴染みの和菓子屋さんに向かい、菓子折りを買い求めることとしました。 若草ホール到着は午前9時45分。 既に、長女の今日郎女さんとそのご主人の藤麻呂氏が到着されていましたが、まだ少し時間に余裕があるということで、珈琲をご馳走になりながら、暫しの雑談。 定刻の10時10分前後に、藤麻呂氏の車に同乗させていただいて、恒郎女さん、今日郎女さん、ヤカモチの4名で、はびきの中央霊園に向けて出発です。 霊園到着は午前10時50分 霊園集合予定時刻は午前11時だったので、丁度良い時間の到着でありましたが、次女のめぐの郎女さんとそのご主人・松麻呂氏及びそのご長女であるナナちゃん、三女のかほりの郎女さんとそのご主人・原麻呂氏の5名は既に到着されていて、「お墓の掃除も済ませました」とのことで、お墓の前に集合して居られました。(霊園背後の山、鉢伏山)(日本基督教団小阪教会墓) 故智麻呂氏のご遺骨は、この小阪教会共同墓に納骨されているので、お墓参りはこのお墓に参ることになるという次第。 全員墓前にて黙祷の後、讃美歌496番「うるわしの白百合」と同405番「かみともにいまして」を皆で合唱。 前者は智麻呂氏が最も愛した讃美歌、そして後者は若草読書会終了後の別れ際に皆でよく歌った曲であるが、恒郎女さんによると、智麻呂氏が生前最後に歌ったのがこの「かみともにいまして」だとのこと。(墓前に讃美歌斉唱)(墓前の祈り) 讃美歌の後、各自が墓前に進み一人ずつ黙祷。(はびきの中央霊園休憩所のデッキからの眺め)(同上) 霊園は小高い丘の上に展開しているので、眺望は頗るよい。 休憩所にて暫し休憩してから、飛鳥川にほど近い橿原市縄手町の「仙の豆」に移動。 <参考>仙の豆・橿原/和食 昼の宴席であります。 「仙の豆」へは、ヤカモチは三女のかほりの郎女さんのご主人の原麻呂氏の運転される車に同乗させていただくこととなりました。 昼席の候補はいくつかの店があったようですが、最近、胃の調子がイマイチの恒郎女さんのご希望でこの店に決まったらしい。 かほりの郎女さんがよく利用されている店とのことで、予約などの手配は彼女がしてくださったとのこと。(仙の豆) 「仙の豆」の駐車場から北方向を眺めやると耳成山が見えていました。(耳成山) 中央の電柱が邪魔をしていますが、民家の背後に見える小山が耳成山です。 右(東)方向には藤原宮跡があり、左(西)方向に行くとすぐに飛鳥川の流れに出会う。 この付近はヤカモチにとっては、何度となく銀輪で走っているが、「仙の豆」の前の道はこれまで走ったことがなく、この店は初見である。 帰途は、再び藤麻呂氏運転の車に同乗させていただき、若草ホールへ。 若草ホールで少し休憩させていただき、午後3時半頃においとまして、マイCBで自宅へ。 遅ればせですが、故智麻呂氏没後3年の墓参の記事でありました。<参考>過去の若草読書会関連記事はコチラ。
2025.02.25
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言葉遊び(動物篇・魚篇・虫篇・その他篇・地名篇)動物篇鼠寝ざめが悪くてもネズミ、ネズミの刺青、張り切る針ネズミ牛不審なウシ、孔子読む仔牛、公私混同のウシ、格子の中の仔牛、風の谷のナウシカ・風邪を引いた牝牛か虎トラのトラブル、たそがれたトラが駅でスプレーしてる・トワイライトエクスプレス兎ふざけ過ぎてもウサギ竜立つなタツ、酒断つタツ 泡立つとタツも立った、タツの竜田揚げ、うだつ上がらぬタツ、タツの解脱、坐ってもタツ、タツノオトシゴを煮ているとタツの落し物に似て来るヘビ身から出たヘビ、恵比寿顔・ヘビの素顔・へびす顔、へばったヘビ馬生れたウマ、踏まれたウマ、白馬でないのに吐く馬、ヒツジヒツジュン間違えてヒツジシュン、ヒツジの出自、七時のヒツジ猿ザルを持ったサル、橇とはそりが合わないサル、樽は知るも足るを知らざるサル鳥トリの踊り、おとりのトリ、取り違えたトリ、太り過ぎたトリ、取り敢えずトリ、コトリとも音立てぬトリ、雌鶏が媚を売ったらコケットリー、ニトリの裏のサントリー、焼き鳥はいいが焼け太りはいかん、チリも積もれば山鳥になる(チリトリ)、しゃっくりしたトリ借金トリ、トリの尻餅トリ餅、最後に来たトリ尻取り、トリがこけトリます、となりのトトロと隣のトトリは似トリます。犬アイヌの飼いイヌ河馬カバがガバっと口を開けた、カバはかばうものではないアヒル或る日のアヒル、呆れるアヒル、ハイヒール履いたアヒル、水浴びるアヒル、詫びるアヒル亀紙芝居亀芝居、亀のおつむに紙おむつ、亀とライオンでカメレオン、カメラの前ではカメらもポーズ、カネを失くしたカメ、ガメついカメ、モグラ八重歯のモグラ八重葎イタチ失敗したのに褒められてイタチ痒しです、ついたちイタチが衝立に手をついたで魚篇鯖さらば青春さらばサバ サバがいないからサバンナ、サハラ砂漠でサバ食った、サバが威張るとサバイバル鰤うたグリ深いブリ、勘ぐる寒ブリ、はぶりのいいブリ、身ぶり・手ぶり・寒ブリ、素振り・空振り・寒ブリ、ゴキブリしごくブリ、ブリュッセルからブリ失せる、ブリの銀行貸し渋り、ブリを蒸したらブラームス、ブリの中のブリがドンブリで鈍臭いブリがドングリ鮒不仲のフナ、不慣れなフナ、へなへなすなフナ、ヒマなフナ、ヘマをしたフナ、ハナ垂れのフナ、丈夫なフナ、フナは選ぶなヒラメは選べ鰆サハラ砂漠のサワラ、さらわれたサワラ鱶フカの部下、ブカブカのフカ、吹っ掛けられたフカ、府下のフカ、深く反省するフカ、不快なフカ、フカの不覚(注) (注) サバの錯覚アジ味覚、カンパチ恥かくヒラメの比較、 タイの体格アマゴと互角、イワナの医学はイワシの死角、 イトウ当確アンコウ降格、フグの風格ドジョウと同格、 カレイの価格キス企画、スズキは規格でハモ破格、 マグロ満額タコ多角、チョウザメ聴覚銀ダラ伎楽、 鮭の計画サンマ参画イカ威嚇、シャチの飛車角クジラの苦学鮃比良の風吹くとヒラメが風邪引くセイウチ瀬戸内のセイウチ鰐輪になるワニ、庭にワニ、膠にワニ、ワニにもにわか雨、にわかにワニかね虫篇コガネ虫メガネしててもコガネムシ、子が無えコガネムシ蝶丁々発止とチョウチョの抜歯百足ムカムカするでこのムカデ、こちらがカエデならむこうはムカデ、ユカで寐てるでムカデ、ユカタのムカデがイカダで行くデ、となりのトトロ・向かいのムカデ・裏のボウフラ蜘蛛曇りガラスにクモがいて、行くも帰るもクモなれば、苦も無くクモ行く雲の如蟻山に城あり家に白アリ、ありありと見えるアリ、むりむりと言うアリ、バリバリ頑張るアリ、何でもカリカリ噛むアリばかり、アリの婆さんアリババ、遅刻したアリ蟻地獄、有り難い有り難い・アリ合体、アリューシャン列島でアリ仰山ゲット、アリのアリバイはアルバイトその他篇想定内のソーセージ、ハム噛むサム、はにかむハム三日坊主のサッカーボール、花鳥風月・課長低血圧・蛾蝶分別まどろむ馬丁風情とマダムバタフライ手にするボール・テニスボール、どっちもドッジボール馬鹿・盗人(ぬすっと)・坊主縮めてバスケットボール、まっさらサラダボウル真っ赤なウソつく真っ白ウサギペガサス魔が差す、ペガサス日が射す、ペガサス探さす、嫌気がさすペガサス、ペガサス怪我さす、蚊が刺すペガサス、家探しするペガサス、顔がさすペガサス、ペガサスヒマだす、ヘソ出すペガサス、ペガサスのがさず、ガサガサするペガサス地名篇ヒタヒタと来た日田、ウツラウツラの宇都宮先輩・後輩・上海、球根・蓮根・香港「寅さんの旅綴り方教室」いつもは出雲、たまに多摩、時々土岐で、滅多に神田、たいがい胎内、稀に円山、正月庄内、暮には呉で、盆は盆梅長浜に、朝は浅間で、昼日田に、夕べ夕張、夜与論、起きたら沖縄、寝て寝屋川、走って網走、歩いて有田、座れば諏訪で、こけたら苔寺、笑って日暮里、泣いたら鳴門、怒って鬼怒川、勇んで伊勢へ、ひるみ平塚、怯えて帯広、嬉し嬉野、来た喜多方、上り登別、下れば下田、渡る十和田も、叶わぬ金沢、会津で会うも、別れは別府、追って追分、また来て北野、復路福島、往路の大阪、困って熊野は、見えぬ三重、此処は加茂かも、駄目もと熊本、道は遠野で、さっぱり札幌、知って知床、知らぬは知覧、迷えば道も稚内、友も来るまい苫小牧、やつれ八代、困って小牧、足も潮来で大分伊丹、帰る滋賀ない、葛飾帰ろ。鹿嶋の貸間、柏の菓子屋、寄こせ寄こさぬ横須賀、よくもまあ横浜千葉の工場は町場の工場、立場考えた千葉の人、千葉の芝犬オヤジのオジヤは小千谷のオジヤ、甲斐の粥とはちとちがゆ、飯田の飯も青森大盛、盛岡過ぎて、食いも倶知安、食い秋田願って新潟、叶わぬ神奈川、たまげた山形、言わで岩手の宮城の土産ショウナイ、ショウナイ、止むなし庄内そうかい、そうかい、なるほど鳥海山納豆納得合点月山・尾羽打ち唐津哀れお歯黒羽黒山「一人芝居動物園」 ※絵を付けると絵本になりますかな(笑) トンボトボトボひとりボッチ、チョウはチョビチョビひとり酒。セミはシメシメひとり占め。アリはアリャアリャひとりで合点。クワガタガタガタひとりじゃ怖い。サメはサメザメひとり泣き、フカはプカプカひとりでタバコ、フナはフニャフニャひとりで寝言。ワニはワナワナひとりで震え、カワウソコソコソひとりで隠れ、キノコノコノコひとりで来たよ。タケノコノコッタノコッタひとりで相撲。アザラシはワザワザひとりアラサガシ。カバはガバガバひとりで儲け、サイはサイサイちょんぼでひとり負け。タヌキウキウキひとりで浮かれ、キツネ常々ひとりは嫌で、オオカミガミガミひとりで怒り、ウシはウジウジひとりで拗ねて、シカはシカジカひとりで弁解。テンはてんでにひとりで逃げて、ウマもウマウマひとりで逃げて、ラッコもスタコラひとりで逃げて、ウサギもお先とひとりで逃げた。イタチタチマチひとり立ち。サギは先々ひとりが心配。ツルはツルツルひとりでうどん。キリンキリキリひとりで舞って、ゾウはひとりどうぞと遠慮がち、チータがチータカタッタとひとりで行けば、トラはトロトロひとりで昼寝、ライオンオラオラひとり我がもの顔で、ヒョウは飄々離れてひとり、ハイエナハイハイひとりでくすね、ゴリラゴリゴリひとりで押して、ムーはムムムムとひとりは苦手、スカンククスクスひとりでおなら。イヌはケンケンひとりでケンパ、ネコはニコニコひとりで四個。(梅)
2013.02.08
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11月1日、友人の草麻呂氏と健麻呂氏とヤカモチの3人で山の辺の道を歩いてきましたので、これを2~3回に分けて記事アップします。 元々は、鯨麻呂氏、蝶麻呂氏を加えた5人組ウオークとして10月25日実施で計画していましたが、雨天にて11月1日に順延となったもの。 ヤカモチにとっては、高校時代に初めて歩いて以来、桜井~天理の南コースも天理~奈良の北コースも、単独で、友人と、家族で、若草読書会の仲間たちと、徒歩で、銀輪散歩でと、色々な形で何度となく歩いている、或は走っている道であり、当ブログでも既に記事にしているので、ブログ的には「今更」というものであるが、鯨麻呂氏の要望で「今更に」歩くことにしたもの。 しかし、順延したこともあって、当の鯨麻呂氏は他用が入って参加できず、また蝶麻呂氏も、風邪で体調不良とかで前日に酷い声で「今回は辞退させていただく」との電話があって不参加。 ということで、5人組ではなく3人組のウオークとなってしまいました。 それはともかく、歩いたコースは以下の通りです。桜井駅前集合→泊瀬川(大和川)・仏教伝来碑→海石榴市観音→金屋石仏→崇神天皇磯城瑞籬宮趾→三輪山平等寺→大神神社→狭井神社→龗神神社→玄賓庵→桧原社→箸墓古墳→景行天皇陵→崇神天皇陵→柳本駅 これを地図で示せば以下の通り。〇下(南)から上(北)に向かって歩きました。 元々の計画は、天理駅まで歩くというものでしたが、歩く速度が思ったよりも遅かったのか、立ち寄り先での時間が思った以上に要した所為か、想定以上に時間をくって、崇神天皇陵に着いた時には午後4時近くになって居り、このペースだと天理駅前到着は5時を過ぎてしまうことになるので、途中切り上げとして柳本駅へとコース変更をしました。 残りの部分は、このコースを希望された鯨麻呂氏のために「歩き残して置こう」というのが3人の総意であったという次第。 なお、帰宅してから気付いたことですが、立ち寄り先の写真を余り撮って居ません。既に過去記事で取り上げていることもあって、撮影は歌碑が中心となっています。関連の過去記事のリンクを末尾に貼って置きますので、併せご参照下さい。 さて、それでは桜井駅前から始めます。 桜井駅10時18分到着の急行に乗るというのが申し合わせ事項となっていたので、西大寺発9時51分の急行に乗るべしで自宅を出ました。西大寺駅ホームで健麻呂氏と合流。当該急行に乗車、車内で草麻呂氏と合流。八木駅乗り換えで、予定通り10時18分近鉄桜井駅到着でした。 青空の広がる秋晴れの好天気。 暑くなりそうなので上着を脱いで腕まくり。 泊瀬川(大和川)畔に出て、大向寺橋で左岸から右岸に渡る。 渡ったところで出会った万葉歌碑がこれ。(万葉歌碑・巻13-3331)こもりくの 泊瀬(はつせ)の山 青旗(あをはた)の 忍坂(おさか)の山は 走(はし)り出(で)の 宜(よろ)しき山の 出(い)で立ちの くはしき山ぞ あたらしき 山の 荒れまく惜(を)しも (万葉集巻13-3331)(<こもりくの>泊瀬山、<青旗の>忍坂山は、裾を長く引いた好ましい山で、高く際立った美しい山だ。愛すべきこの山の荒れているのが惜しいことだ。) この碑のある場所から南東方向を見やると、忍坂山がいかにも「出で立ちのくはしき山」の姿そのままに、先ず目にとまるのである。 大和川はこの付近の流れについては、泊瀬川(初瀬川)とも三輪川とも呼ばれる。 その右岸の道を上流へ。仏教伝来之地碑に先ずご挨拶をして行くことに。(仏教伝来之地碑) 仏教公伝は「仏は午後に(552)百済から」と覚えたものだが、最近は538年伝来説が有力なようで「百済の仏にご参拝(538)」と覚えるのだそうな。 日本書紀には、欽明天皇13年(552年)冬10月に百済の聖明王からの使者が仏像、経典などを献上したという記述があるのに対して、上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起では、欽明天皇7年戊午のこととしている。しかし、欽明天皇7年の干支は戊午ではない。欽明天皇の在位は540年~571年で、この期間に干支が戊午に該当する年はなく、これに先立つ直近の戊午の年は宣化天皇3年(538年)になる。よって、538年に伝来という訳である。この時期については、安閑・宣化朝と欽明朝とが並立していたとする説もあってややこしい。 なお、548年説もあるそうだ。知らぬが仏。伝来年については「知らぬ」ことにして置こう。伝来が何年であるかを論じても余り意味がない。 伝来地碑の傍らにあった万葉歌碑はこれ。(万葉歌碑・巻10-2222)夕さらず かはづ鳴くなる 三輪川の 清き瀬の音を 聞かくし良しも (万葉集巻10-2222)(夕方になるごとに蛙が鳴く三輪川の清い瀬の音を聞くのはいいものだ。)(三輪川<大和川>と馬井手橋 奥に見えるのは大向寺橋) さて、山の辺の道へと入ります。 先ずは海石榴市観音へ。 海石榴市観音への入口となる辻にある万葉歌碑がこれ。 今東光氏揮毫の歌碑である。(万葉歌碑・巻12-3101)紫は 灰さすものそ 海石榴市(つばいち)の 八十(やそ)の衢(ちまた)に 逢へる児(こ)や誰(たれ) (万葉集巻12-3101)(紫に染めるには灰をさす、その灰を取る椿の海石榴市の辻で出会ったお嬢さん、あなたは誰ですか。)(注)紫草の根で布を染める際には椿の木を燃やした灰を媒染剤として使う。市には目印となる木が植えられていたようで、椿の木が目印とされていた市が立っていたので海石榴市(椿市)という地名になったと見られる。「紫は灰さすものそ」は「海石榴市」を導くための序詞である。 この歌碑は、直近では友人の偐山頭火氏との銀輪散歩の時に撮影したのではないか、と過去記事を探してみるも見当たらず。撮ったつもりで撮らなかったのか。海石榴市観音堂にもその折に立ち寄った筈なのだが、記事が見つからない。どうも人間の記憶というものはかくも不確かなものであるか。 歌碑の場所から細い路地を入って行くと観音堂に突き当たる。(海石榴市観音像) 堂内、左手には2体のお地蔵さんらしき像があり、少し離れて観音像と思しき座像が鎮座。(海石榴市観音説明碑) 説明碑にある通り、歌碑の歌は男性側の歌で、これに対する返しの女性側の歌は、「母が呼ぶ名を申し上げようと思うけれど、通りすがりの誰とも分からぬお方には申し上げることはできません。」と男の申し出を軽く拒絶している。歌垣でこのような歌を交換し合って場の雰囲気を盛り上げていったということであるのでしょう。 古代にあっては女性に名を尋ねることは求婚を意味し、女性がその名を告げることは求婚を受け容れることを意味する。 男女間の相聞歌にあっては、男が先ず誘いの歌を贈り、女はこれをやんわりと拒絶するというのがお決まりの型であるから、女はいきなりOK回答をしてはいけないのである。従って、男の方も、最初に断られたからといって、断念し、再度誘わないというのはルール違反である。拒絶されても再度チャレンジしなければならないのである。 それでも断られたらどうするのか。この頃はストーカー規制法はないから法令違反を問われることはなかったでしょうが、ケースバイケースで相手の心根・本心を忖度して適切な行動をとることが求められるというもの。あっさり諦めてもいけない、しつこく迫ってもいけない、その機微が分からぬ男は古代に於いてもやはり「野暮なお人」ということであったろう。 次は金屋の石仏。鎌倉時代かもっと古い時代のものとされる、レリーフの石仏像が2体建屋内に納められている。<参考>金屋の石仏の写真は下記の過去記事に掲載しています。山の辺の道銀輪散歩・桜井から長柄まで(その1) 2013.3.16. 次に立ち寄ったのは、崇神天皇磯城瑞籬宮趾。 山の辺の道から外れて、左に少し坂を下った処にある。 志貴御県坐神社境内にその碑が建てられている。(崇神天皇磯城瑞籬宮趾の碑)(同上・説明副碑)<参考>日本書紀崇神天皇三年秋九月の条「三年の秋九月に、都を磯城に遷す。是を瑞籬宮と謂ふ。」 山の辺の道に戻るべく、下って来た坂道を上る。 木立の茂る土の道。樹の下隠りに行く薄暗い細道である。日の照る道を歩いて来た身体をひんやりした空気が包み、心地よい。「山邊道」という小林秀雄筆の石標(写真は前記参考の2013年3月16日記事に掲載)が細道に入ってすぐの左手にある。同じ石標がこの先、玄賓庵から桧原社へと行く山道にもあったかと思う。 小さな川に出て、これを渡ると正面に石段がある。これを上ると三輪山平等寺の赤門である。平等寺の境内を通り抜けて行くことにする。(平等寺・本堂)<参考>平等寺・Wikipedia 聖徳太子開基とも弘法大師開基とも伝承される古刹。かつては大神神社の神宮寺でもあった。 前回立ち寄った時は、本堂の基壇に猫が一匹寝そべっていたのを思い出したりもしたが、今回は猫も見当たらず、人の気配もなし、である。 境内には聖徳太子の立像がありましたが、弘法大師の像がなかったのは、この寺が現在は曹洞宗の寺となっているという事情によるのでしょう。(同上・由緒) 平等寺の境内にあった万葉歌碑はこれ。(万葉歌碑・巻7-1094)我(あ)が衣(ころも) 色どり染めむ うまさけの 三室(みむろ)の山は 黄葉(もみち)しにけり (柿本人麻呂歌集 万葉集巻7-1094)(私の衣をその色で染めよう。<うまさけの>三輪山はすっかり色づいたことだ。) 平等寺を出ると程なく大神神社である。 大神神社の領域に入ると急に人影が増える。(大神神社・拝殿)(同上・祈祷殿) 祈祷殿の向かい、つまり上の写真で言えば、その撮影位置の背後にあった歌碑はこれ。3基が並んでいる。(万葉歌碑・巻8ー1517)うまさけ 三輪の社(やしろ)の 山照らす 秋の黄葉(もみち)の 散らまく惜しも (長屋王 万葉集巻8-1517)(<うまさけ>三輪の神の領域である三輪山の黄葉の散るのは惜しいことだ。) (古事記歌謡歌碑)やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる やまとしうるはし (倭建命 景行記)(大和は国の中でも高くひいでているところ。重なり合った青い垣の山々の中にこもっている大和は美しい。)(日本書紀歌謡・崇神天皇八年冬十二月の条)此の神酒みきは 我が神酒みきならず 倭やまと成なす 大物主おほものぬしの 醸かみし神酒みき 幾久いくひさ 幾久いくひさ (日本書紀崇神天皇8年冬12月の条)(この神酒は私の神酒ではない。大和の国をお造りになった大物主神がお作りになった神酒である。幾代まで久しく栄えよ、栄えよ。) 大神神社から「くすり坂」と名付けられた坂道を上って、狭井神社へと向かう。道の両脇には薬草となる草や木が植えられている。上り口の右手にあったのは「メグスリノキ」でした。 坂を上り切ってすぐのところにあったのは薬の神様を祀る祠。「色んな薬草を試して、結局は神頼みか」などと思いつつ狭井神社へ。まだ、結構な人の数が行き交う。 狭井神社にご挨拶して行く。ここは、昨年の3月に三輪山登拝の折に来ているから、記憶に新しい神社である。三輪山を登拝しようという人は、午後2時までにこの神社で受付を済まさなくてはならないのである。<参考>三輪山登拝・大神神社から多神社まで 2018.3.27. 狭井神社から山の辺の道に戻り、玄賓庵へと向かう。 途中にうっかりすると見落としてしまうような小さな川を渡る。 狭井川(佐韋河)である。 狭井川を過ぎてすぐのところにある歌碑がこれ。 神武天皇の妻(イスケヨリヒメ、日本書紀ではヒメタタライスズヒメ)の歌である。(古事記歌謡歌碑・神武記)佐韋河(さゐがは)よ 雲立ち渡り 畝火山 木(こ)の葉騒(さや)ぎぬ 風吹かむとす (伊須気余理比売 古事記神武記)(狭井川より雲が立ち渡り、畝傍山では木の葉がざわめいて、嵐が吹こうとしている。)(注)この歌の背景事情については、末尾記載の参考記事「山の辺の道銀輪散歩・桜井から長柄まで(その2)」をご参照下さい。 この歌碑から少し行った処にある万葉歌碑がこれ。(万葉歌碑・巻1-17~18)味酒(うまさけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山 山のまに い隠(かく)るまで 道の隈 い積(つ)もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放(みさ)けむ山を 心なく 雲の 隠(かく)さふべしや (額田王 万葉集巻1-17) 反歌三輪山を 然(しか)も隠(かく)すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや (同上 同巻1-18)(<うまさけ>三輪山よ、<あをによし>奈良の山の、山と山の間に隠れてしまうまで、いくたびも道を曲がって行くまで、しげしげと見つつ行きたいのに、何度も何度も見やり眺めていたい山なのに、つれもなく雲が隠していいものか。) これは、有名な歌。 明日香から大津京へと都が移転したことに伴い、明日香を去って近江の国へ下って行く時に、額田王が詠んだ歌である。 我々も、三輪山を、道の隈、何度もふりさけ見つつ、山の辺の道を辿ることとしよう。 何時頃かと健麻呂氏に尋ねると12時20分だという返事。 お弁当タイムの時間である。 道から少し脇に入った小高い所に小さな鳥居があったので行ってみると、そこは池の堤になっていた。奥には何やら祠のようなものがある。地図では、翠生苑本部と記されているが、拝殿には龗神神社とあり、龍神と弁財天を祀っているようであった。(龗神神社) 前後しました。 池を廻って龗神神社に行ったのは、昼食後のことでした。池の堤の桜の古木の下に陣取り、各自持参のお弁当で昼食。 昼食も済みこれより午後の部となりますが、記事はひとまずこの辺で小休止とし、午後の部はページをあらためることとします。(つづく)<参考>当記事内容と関連する過去記事は下記の通りです。 山辺の道 2009.2.28. (平等寺、玉列神社、阿弥陀堂、仏教伝来之地碑、大和川) 山の辺の道銀輪散歩・桜井から長柄まで(その1)2013.3.16. (近鉄桜井駅、仏教伝来之地碑、磯城瑞籬宮趾、小林秀雄筆石標、平等寺) 山の辺の道銀輪散歩・桜井から長柄まで(その2)2013.3.17. (大神神社境内歌碑、狭井神社、狭井川歌碑、額田王歌碑) 三輪山登拝・大神神社から多神社まで 2018.3.27. (狭井神社、久延彦神社、大神神社鳥居)
2019.11.04
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ノゲシとノボロギクは、両者を並べてみると、その違いは一目瞭然なのであるが、草花というものはそう都合よく並んでは咲いていない。 多くは、別々の場所で、時を異にしてこれらの植物を目撃することになる。そして、植物にたいして特別な関心を持っている人は別として、我々は花や葉の形がどうとか、その付き方がどうとか、細部を見るのではなく、全体としての姿・形を漠と眺め、漠とした印象でこれを認識するというのが普通である。 ということで、ノゲシとノボロギクを同一の植物と見誤るということも起こりうることとなる。先般、ブロ友のふろう閑人氏がノゲシをノボロギクだと間違ってブログに掲載されるということがありました。かく言うヤカモチも、同じような間違いをしていました。過去のブログ記事の中でノボロギクをノゲシと間違って掲載していたのでした。それは2011年4月21日の古い記事であったのですが、今回のふろう閑人氏の間違い記事に関連して、自身のノゲシの記事をチェックしていたら、この記事に出くわし、間違いに気がついたという次第。(注) そもそも、ふろう閑人氏の誤解は当ブログの下記記事に関連して生じたもののようなので、ヤカモチとしても少し気になっていたのでありました。<参考>ぼろは着てても こころの錦 2020.4.8) 小生もブログを始めた頃は、草花などの知識も貧困で、名の知らぬ草花は勿論のこと、名前を間違って覚えている草花なども多くありで、ブログに花写真を掲載しては失敗が頻出で、今もそれは続いているのですが、花に詳しい友人からご指摘・ご教示をいただいたり、自身でもネット検索などで調べたりするうちに、すこしずつ名前を知る花の数も増えて来て、昔に比べればかなりその点は改善されつつあります。しかし、それ以上に知らぬ草花や近縁種などの似た植物が次々と立ち現れて来るので、相変わらずの感は拭えないというのが正直なところであります。 それはさて置き、先日、銀輪散歩で恩智川べりを走っていたら、そのノゲシとノボロギクが並んで咲いているのに出くわしました。 これは両者の違いを説明するのに丁度良い取り合わせではないかと、自転車を停止し、ただちにカメラを向けた次第。それが下掲の画像であります。 両者の違いが、イマイチよくはわからないと仰っていた、ふろう閑人氏もこの画像をご覧になったなら、容易にその区別がお出来になるのではないかと思うのですが(笑)。(ノゲシとノボロギク) 左側の大きい方がノゲシで右側の小さいのがノボロギクです。 両者は大きさも違いますが、葉の付き方や形も全然違います。 この写真ではノゲシの花はまだ蕾状態のようですが、開花するとノゲシはタンポポによく似た花を咲かせます。これに対して、ノボロギクの方は上の写真の状態で成熟した花ということになり、この形のままで推移します。普通一般の花のように開花するということがありません。(注) キク科の花は多数の花が集まって一つの花のように見えている。これを頭状花序という。花序とは枝上の花の配列状態を区分するための言葉である。一定の配列状態にある花の集団を花序という。個々の花の配列形態や咲く順序などによって色々な花序に分類される。頭状花序というのはその一つである。 頭状花序を形成している個々の花のことを小花という。小花には筒状花(管状花ともいう)と舌状花とがある。タンポポなどは舌状花の集団であるが、筒状花のみの集団やヒマワリなどのように周辺部が舌状花、中心部が筒状花という構造のものもある。 筒状花は花弁らしきものが筒状で短いため目立たない。舌状花はその文字通り、1枚の花弁が舌状に大きく発達するので1枚の花ビラというように見える。<追記/参考>タンポポの舌状花を、先ほどの銀輪散歩で撮影して来ましたので、下に掲載して置きます。 すなわち、これを要するに、ノゲシの花序は舌状花の集まりであり、ノボロギクの花序は筒状花の集まりなのだということである。 キク科の花などは、正確にはこれを花序と言うべきであるが、我々は視覚的には花序を以って一個の花と認識し、そう呼ぶのが普通であるから、当記事に於いても花序とは言わず、花と呼ぶことにする。 ノゲシの花や蕾は一部垂れているのもありますが、多くは上を向いています。これに対して、ノボロギクの方は花の多くが下向きにうなだれています。内部で種子が成長し綿毛・絮が形成される時期になるとようやく上向きになるようで、やがて弾けて綿毛(冠毛)が顔を出します。その姿が襤褸をひっかぶっているようだというのが襤褸菊という名の由来だとする説がありますが、この姿を見るとそれも頷ける気がするというもの。(ノボロギク)(同上)<参考>ノゲシ・Wikipedia ノボロギク・Wikipedia 花がうなだれるかどうかで似たもの同士を区別する草花としては、ハルジオンとヒメジョオンも同様である。(ハルジオン) 上の写真のように蕾がうなだれているのがハルジオン。 ハルジオンの茎は中が空洞になっているので蕾の重さでうなだれてしまうのでしょう。茎がしっかり成長すればそういうこともなくなるので、花が咲く頃には上を向くものも出てくることになる。中には花が咲いても下を向いたままというのもありますが。 これに対して、ヒメジョオンの茎は中に芯があるのでこういうことはなく、蕾の段階から上を向いている。 まあ、花の向きがどうのこうの言っているより、茎を一本折ってみれば簡単に区別できるので、その方が手っ取り早いということでもありますが、これは乱暴狼藉、花からすれば「おやめくだされ、ご無体な。」でしょうから、お薦めできません(笑)。 両者のその他の点での違いは、ヒメジョオンの方が草丈が高い。ハルジオンの花弁が糸状に細いのに対して、ヒメジョオンのそれは糸状ではなく少し幅のあるきわめて細長い花弁の形状をしている、などがあげられる。(スギナとハルジオン) 少しピンクかかった色の花であれば、ハルジオンと考えて間違いはないですが、花が成熟するとピンク色は消えて白色になるので、成熟した花同士では、色だけで区別は難しいことになる。 まあ、言葉で言うと、まどろっこしくわかりにくいが、上のノゲシとノボロギクのように並んで咲いている写真があれば、簡単明瞭。しかし、ヒメジョオンはハルジオンより花の時期が少し遅いので、両者が並んで咲いている写真を撮るのはそう簡単なことではない。<参考>ハルジオン・Wikipedia ヒメジョオン・Wikipedia 今日は、似た花の見分け方講座(笑)・基礎編でした。
2020.04.18
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花園中央公園の池にはカイツブリが生息している。 時々見かけるのであるがこれまで撮影に成功していない。 今日、銀輪散歩の帰り、その池の前を通った時に、それらしき鳥と見えたので、池のヘリに立って、カメラを向けてみた。 ズームアップすると、カイツブリらしくない。カモのようでガッカリ。 それでも何枚か写真に撮って、ふと足元を見ると、ヌートリアが岸に上がって、ちょこちょこと歩いて行く。 恩智川で見かけたヌートリアに比べると少し小型のようだが、まだ子どもなんだろうか。(ヌートリアA) 草の芽などを食べているのか、何やらムシャムシャとやっている。(同上) 後ろ足が随分大きい。(同上) 多少、当方を意識してもいるようだが、さほど警戒する風でもなく、行ったり来たりする。 すると、もう一匹、別のヌートリアBが居ました。こちらの方は警戒心がより強いらしく、カメラを向けて近づくと、水の中に入って、ヌートリアAの方へ泳いで行き、上陸して、ABが仲良く並んだ。(ヌートリアAB) ヌートリアのツーショットは初めて。人もなき 国もあらぬか わが二人 寄り添ひありて たぐひて居らむ (ヌーヤカモチ)(同上) <参考>ヌートリア・Wikipedia この池は遊水池にて、恩智川と水門でつながっている。 恩智川をねぐらとしていた、三六橋下のヌートリアSとどういう関係なのか不明であるが、ヌートリアSよりもヌートリアA、Bは小型のように見えるから、A、BはSの子どもである可能性もある。もしそうなら、繁殖していることになり、ネズミ算式に急増するということもあり得ることになる。 こんな巨大なネズミが大きく増えたら困る気もするが、近くで見るAとBは猫よりも少し小型で可愛らしく、このままそっとして置いてあげたいとも思う(笑)。<参考>ヌートリアの過去記事 ヌートリア現れる 2020.5.9. 再びヌートリア 2020.11.30.
2021.02.05
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義を見てせざるは勇無きなり。 ご隠居ヤカモチとなって以来、この言葉に当てはまるような状況に直面することは先ず無いヤカモチ。実を見て撮らざるは情無きなり。 このように言い換えれば、銀輪散歩・銀輪徘徊の場面でのヤカモチにも当てはまる言葉となるかもしれない。 この季節、実を見ると自ずからに情趣おぼえてカメラ向け、これを写真に撮るというヤカモチであります。 そんなことで、実の写真もかなり溜まっている。 ということで、実はあるが実のない話、或いは「身も蓋もない」実の話となってしまうことを予感しつつの、実の記事であります。 先ずは、ヤナギバシャリントウ。(ヤナギバシャリントウ) 中国原産の植物。バラ科シャリントウ属。 学名:Cotoneaster salicifolius 道に沿った土手の斜面を覆うように横に広がっていた背の低い木。 赤い実が生っていたが、何という名の木なのかわからなかった。 ネットで色々調べてみて、ヤナギバシャリントウ(柳葉車輪桃)という植物であることを知った。(同上) 「改良された園芸品種、オータム・ファイアーは地面を這う性質を持ち、都市緑化に利用される。」とあり、この木も地を這うように横に広がっているから、そのオータムファイアーであるのかもしれない。(同上)<参考>ヤナギバシャリントウ・松江の花図鑑 小さな赤い実が日に照らされて美しい。秋の日の 傾く時に いざ行かな 車輪桃(しゃりんたう)の実の 赤く照る見む (銀輪家持)(本歌)この雪の 消残(けのこ)る時に いざ行かな 山(やま)橘(たちばな)の 実の照るも見む (大伴家持 万葉集巻19-4226) 次も赤い実。(カマツカ<鎌柄>の実) この木も当初、名前不明であったが、ネット検索でカマツカの実であることが判明。 バラ科カマツカ属。 カマツカ(鎌柄)という名称は、その材を鎌の柄に用いたことによる。 別名、ウシゴロシ(牛殺し)などという穏やかならざる名前。 学名、Pourthiaea villosa(同上)われはもや 鎌柄見たり 皆人の 見過ぐし行ける 鎌柄見たり (藤原鎌柄)(本歌)われはもや 安見児得たり 皆人の 得がてにすとふ 安見児得たり (藤原鎌足 万葉集巻2-95) カマツカ(鎌柄)とカマタリ(鎌足)とで遊んでみた戯れ歌です。 鎌足はカタマリとかカマボコとか遊びやすい名前である(笑)。 次も、赤い実でヒメリンゴ。 正式な和名はイヌリンゴと言うようだ。(イヌリンゴ 別名ヒメリンゴ)<参考>イヌリンゴ・Wikipedia 昨年の秋にもこの実を見ていて、ヒメリンゴのようだと思ったのだが、確信が持てず、不明としていたが、やはりヒメリンゴだろうというのが今回の結論。 サクランボくらいの小さな実。齧ってみたら、酸っぱいリンゴの味。 勿論、美味しくはない。しかし、ヒメリンゴと結論付けるには十分な味でありました。 バラ科リンゴ属のイヌリンゴ。別名、ヒメリンゴ。 学名:Malus prunifolia犬とあらば かじらなくあり 姫林檎 姫とありこそ かじりもぞする (犬家持)姫とありて 齧りみたるも 食へる実に あらずありけり 犬なる林檎 (猿家持) イヌとかサルとかヘビとかが名に付されていると、齧るのもいささか躊躇されるが、ヒメと付いているとちょっと齧ってもみるかという気になるから、面白い。 名前による印象で、人の行動も左右されるようであります。(同上) さて、赤い実が続き、目が充血してしまったかもしれないお方の「箸休め」ならぬ「目休め」にこんな実のような花はどうでしょうか。(ヒマラヤスギの雄花)<参考>ヒマラヤスギ・Wikipedia マツ科ヒマラヤスギ属の常緑針葉樹。 学名:Cedrus deodara 当初、実かと思ったが、そうではなく、これは雄花の蕾のようです。 ヒマラヤスギの花期は10月~11月だそうだから、季節的にも合致する。 花ではなく実であったとしても、さすがのヤカモチもこれを齧ってみようとは思わない。 ヒマラヤスギではなくヒメラヤスギという名であっても、同じである。 雄花は熟すと茶色になって開き、黄色の花粉を風に飛散させ、やがてポトリと落下する。 この木はヒンドゥー教では聖なる木とされているようだが、白っぽい薄緑色の雄花が幾つも並んでいる姿は、物静かで、何か爽やかな感じがする。ヒマラヤの 杉の雄花の 涼しかり 音無く風に 少し揺れける (杉家持)(同上) 再び、実の話に戻りましょう。 カリンの実です。(カリン<花梨>の実)<参考>カリン・Wikipedia これはお馴染みのカリン。その名を調べるまでもない。 バラ科カリン属の落葉高木。 学名:Pseudocydonia sinensis 果実は何やら間の抜けた顔立ちであるが、花は可愛い顔をしている。それ花は 可憐なれども 花梨の実 何処吹く風の 間抜け面して (実家持) 次は、クロガネモチの実。(クロガネモチ)<参考>クロガネモチ・Wikipedia モチノキ科モチノキ属の常緑中高木、クロガネモチ。 黒金餅、黒鉄黐が漢字表記。 別名、フクラシバ、フクラモチ。 学名:Ilex rotunda 庭木としてもよく植えられているが、それはクロガネモチが金持ちに通じるからだそうな。しかし、クロガネモチであってオオガネモチではないのだから、大金持ちになれるという訳ではない。熟して赤くなった実を沢山つけている姿は美しいものがあるから、それが愛されて庭木としての人気があるのでしょう。 写真の実は10月15日撮影のもので、まだ赤く熟する前の実であるが、今は濃い赤色になっていることだろう。先月の クロガネモチの 実のごとや まだ色浅き ヤカモチわれは (白金持)(同上) クロガネモチつながりで、次は黒い実。 同じ、モチノキの仲間では、ネズミモチは黒い実である。ネズミモチの写真は、過去記事の何処かに掲載されていると思うが、手許のブログ未掲載写真の中にそれはないので、クスノキの実の写真にします。(クスノキの実)<参考>クスノキ・Wikipedia クスノキ科ニッケイ属の常緑高木、クスノキ。別名、クス。 漢字表記は、楠または樟。 尤も、中国では、クスノキは樟で、楠は、タブノキのことだという。 学名:cinnamomum camphora アボカド、ニッケイ(シナモン)、タブノキなどはクスノキの近縁種。 近縁種のタブノキは、万葉では「つまま(都万麻)」と呼ばれて万葉植物の一角を張っているが、クスノキは登場しない。クスノキの 実の黒づけば 吹く風も 秋深からし 葉陰(はかげ)にそよぐ (偐樟持)(本歌)磯の上の 都万麻(つまま)を見れば 根を延(は)へて 年深からし 神(かむ)さびにけり (大伴家持 万葉集巻19-4159)(同上) 次はランタナの実。ランタナの実も黒い実である。(ランタナの実) 黒い実というのは美味しそうに見えない。 黒い実の植物は、実を小鳥に食べてもらって、種子を遠くへ運んでもらうということを期待していないのではないかと思ったりもしたが、そうでもないようで、鳥はこのような黒い実も食べるようです。 ランタナの種子にはランタニンという有毒成分が含まれているらしい。 しかし、鳥は実を丸呑みするだけで噛むということをしないから、問題ないが、哺乳類などは嚙み砕くので、危険と説明しているものもあれば、種子だけでなく実にも有毒成分があると説明するものや、その毒性は大したものではなくこれを摂取した殆どの人は無症状であり、一部の人に嘔吐の症状が出ただけなどと説明しているものもあったりで、よくはわからない。 まあ、ヤカモチもランタナの実は齧らないようにしよう(笑)。 勿論、丸呑みするということもしませんが。(ランタナの実)<参考>ランタナ・Wikipedia クマツヅラ科ランタナ属の常緑小低木。ランタナ。 和名は、シチヘンゲ(七変化)。 学名:Lantana camara 中南米原産。(同上) 黒い実と言えば、黒い実であるが、クスノキの実の黒とは違って、ランタナの実は、暗紫色と言うか、やや青味がかっているようです。ランタナの その実な食ひそ 毒ありと 言へる人あり 虚実知らねど (曲家持)
2021.11.14
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宿泊を伴う場合のヤカモチの銀輪散歩は、ホテルに宅配便で軽量折りたたみ自転車・トレンクルを送って置き、それをホテルで受け取って走るというのが最近のスタイルである。 以前は、電車移動であれ、飛行機移動であれ、自転車を輪行バッグに収納して持ってゆくということをしていたが、宅配便で送ることが可能であることを知ってからは、これを利用することが多い。 先般、新潟から山形方面を銀輪散歩しようと、宅配便でこれを送ったところ、受け取ってみると、折りたたみハンドルの「折りたたみ連結部」の台座部分が割れて、ストッパー金具が脱落してしまって用をなさない状況になっているという不運に見舞われ、銀輪散歩を断念するという最悪の旅になってしまったのでした。 帰阪して、昨日、そのトレンクルを馴染みにしている自転車屋さんに持ち込み、入院させて来ました。 このトレンクルは、もうメーカーが生産を中止しているので、修理部品が調達できるのか、不明。自転車屋さんも明確なことは言えないようで、追って連絡するとのこと。(トレンクル、折りたたんだ状態)(折りたたんでいないトレンクル) 上の写真の〇部分がハンドル連結部。 ストッパー金具を下げて、ハンドルを折りたたむと、台座が現れる。(台座部分) 割れて脱落した台座破損部分とストッパー金具をはめ込んで撮ったのが上の写真。破損部分を取り外したのが下の写真。(台座破損部分を取り除いた状態) ストッパー金具が、今にも外れ落ちそうになっている。 勿論、この状態ではなく、輪行バッグから取り出した時には、ストッパー金具と台座破損部分が外れて、バッグの底に落ちてしまっていたので、下のような状態でした。(台座破損部分とストッパー金具が外れ落ちた状態) これでは、ハンドルを立てても上下を固定することができず、2枚目の写真の「折りたたんでいないトレンクル」のようにはなりませんから、自転車としての用をなさない。(台座破損部分の欠片とストッパー金具) まあ、人間で言えば、膝のお皿が割れ、上肢と下肢を連結する筋肉が断裂してしまって、足が立たないようなものか。 このような事故は以前にも起こしている。その時は、宅配便の輸送中ではなく、直江津から糸魚川への銀輪散歩で、糸魚川のホテルに到着して、自転車を折りたたもうとしたら、台座が割れていて、ストッパー金具が脱落したことで、そのことに気づいたのであるから、走行中の何処かで、台座が破損していたのであった。 その時にも写真撮影して、ブログにそのことを掲載しているので、同じような割れ方であることが分かる。<参考>直江津から糸魚川へ(その1) 2010.11.14.(上の参考記事掲載写真) 写真を比べてみると、よく似た割れ方をしている。 今回は、以前の割れ方に比べて、台座中央の切れ込み部分のより浅い部分から割れているので、破損欠片は少し小さめである。 いずれにせよ、この部分が割れやすいということを示している。 そんなこともあって、宅配便で送る時は、この部分を保護するクッション材で防護して、「ワレモノ」という区分指定をして送っているのであるが、今回は、「ワレモノ」指定はしたものの、クッション材での防護をしないまま送ってしまったのでありました。 輸送中に、この部分に何らかの強い衝撃が加わり、割れたということが考えられるが、長らくの使用で金属疲労を起こしていた可能性も否定できない。
2022.09.11
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本日、トレンクル退院。 昨日、自転車屋さんから電話があり、トレンクルの修理が完了したとのことであったので、今日、引き取りに行って来ました。 9月10日の入院でしたから、9日間の入院でありました。 入院治療費は3万5千円でした。<参考>トレンクル入院 2022.9.11.(退院して来たトレンクル) 故障部位は、ハンドルの折りたたみ部位の台座でありましたが、台座だけの交換というのではなく、ハンドルそのものの取り換えということになりました。台座、連結部ストッパー金具、ハンドルは一つのセットになっているようで、ハンドルの交換という「治療」になったようです。(故障部位) 〇印部が故障部位。ストッパー金具を下げてハンドルを折りたたむと台座が現れます(下掲写真)。ご覧のように新しい台座に交換されています。(台座部分) 写真では、台座側面にひび割れのような黒い筋がありますが、これは左側が少し高くなっている関係でその影が光線の具合で黒い筋のように写り込んだもので、ここにひび割れがある訳ではありません。<参考>自転車関連の過去記事はコチラ。We stand with Ukrainians.
2022.09.19
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(承前) ザビエル記念聖堂を出て、亀山公園へと向かいます。 聖堂の前庭から亀山山頂へと上る階段を上ると亀山公園・パークロードへと下る道に出る。 其処にあったのがこの石碑。(大内義長の裁許状の碑)<参考>大内義長・Wikipedia 大内義長は、毛利元就によって滅ぼされる大内氏最後の当主。(同上・副碑) 大内義長がキリスト教会建立を許可した裁許状の碑。 此処に山口カトリック教会、ザビエル記念聖堂が存在するのは、この大内義長の裁許状があってのものということになるか。日本最初のキリスト教会だという。 亀山山頂へは更に階段を上らなければならないが、山頂は遠慮して下り道を選択。誘ふとて 何か上らん 亀山に 見れば下りの 道もこそあり (偐家持)(本歌)誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ (大内義長辞世の歌) 下り道の入り口にあったのが、国木田独歩の碑。(国木田独歩文学碑)<参考>国木田独歩・Wikipedia 山林に自由存す 国木田独歩 国木田独歩も少年期を山口で過ごしているのでしたか。 彼が通った今道小学校というのは、現在の白石小学校で、熊野神社から山口市役所前へと走って来た道の左側にあった小学校である。そして、山口中学校(現・県立山口高校)に進学している。中原中也も山口中学に進学しているから、独歩は中也の中学の先輩ということになる。 年齢差が36歳もあるから先輩・後輩と言っても余り関係はないか。それに二人とも中途退学している。独歩は、学制改革もあって、親の反対を押し切って、東京専門学校(現・早稲田大学)に入学し、中也は、成績上位で入学するも、その後の学業成績が悪くて落第、外聞が悪いとして、親によって京都の立命館中学校に転校させられている。 36歳差ということは、干支が同じということである。 両者共に未(ひつじ)である。 ヤカモチが入社した頃、当時の仕事始めは、社長の年頭の挨拶で始まる立食パーティー形式の新年互例会だけで解散で、実質的な仕事はなしで退社というのが恒例。その互例会の準備、運営、後片付けは総務部が担当していた。本社総務部に配属されていたヤカモチはそういう仕事も行っていた。 互例会終了後は、本社各部に戻りそれぞれのやり方で新年を祝って、適宜に退社という形になるのだが、総務部は、それぞれの部署が皆引き上げるまでは居残っていることになる。 社長室でも、社長を囲んで、役員や部長などが入れ替わりつつの歓談となるのが恒例となっていたが、総務部は役員秘書業務も担当していたので、秘書担当の社員がそのお世話係として同席するほかに担当外の若手社員や女子社員も同席することが多くあった。 或る年の新年互例会の日のこと、社長室でのその新年の歓談にヤカモチも同席していたことがあって、干支の話になり、社長がヤカモチと同じ干支であることを知り、「同じ干支ですね。」と申し上げたところ、「おお、君もそうか。ふた回り違いということだね。」と社長。「そうなりますね。」とヤカモチ。そう言ったものの「??」。「いや、違いますよ、社長。三まわりです。」と訂正したところ、同席の別の役員が「社長、歳を12もサバを読んだらあきまへんで。」とか何とか突っ込みを入れて、「笑い」というような場面のあったことを思い出すが、ひょっとすると、社長はわざと「ふた回り」とジョークを言ったのかもと思ったりもしている。 それはさて置き、36歳の年齢差がどんな感じのものかを、若き日のヤカモチと当時の社長との比較に於いて体感しているヤカモチであります。(同上・副碑) 山に沿ってジグザグに下って行くスロープの道は、ジグとザグとのつなぎ目が必ず階段になっているという中途半端な構造。 これは、自転車で走り下ることを防止するための意図された設計なのか、斜度が急過ぎることから階段を取り入れざるを得ないという立地上の問題なのかは不明。 そんなことで、折角の下り坂にもかかわらず、走り下ることはできず、トレンクルを押したり、手に提げたりしての移動でありました。 後で地図で見ると、反対方向に行けば、自転車に乗ったままで博物館前に下れたようです。 下り切ったところは、博物館と県立美術館との中間くらいの亀山公園の森の中。 亀山公園を横断する広い道路はパークロード。 ケヤキが黄葉して美しい。(パークロード)(同上)(亀山公園) この近くに、独歩や中也が通った山口中学(現・県立山口高校)の跡地がある筈なのだが、その痕跡を見つけることができませんでした。まあ、パークロードに沿って走っただけで、余り熱心に探した訳でもないので、仕方ないか。 ということで、今回の銀輪散歩の予定には入れていなかった瑠璃光寺に向かうこととする。 瑠璃光寺への坂道を上って行くと、瑠璃光寺の手前にあったのが洞春寺の山門。(洞春寺山門)<参考>洞春寺・山口県観光サイト 洞春寺・周防山口館【大内庭園】 洞春寺は、毛利元就の菩提寺。 元々は、大内盛見の菩提寺・国清寺があった場所。 瑠璃光寺からの帰りに立ち寄ってみようと、山門だけを撮ってやり過ごしたが、帰途はそのことを忘れて立ち寄らぬままに帰ってしまったので、洞春寺については、上記<参考>のサイトをご覧ください。(同上・説明碑) 瑠璃光寺到着。 瑠璃光寺五重塔は、予ねてその名は知っていたが初めての訪問。 一帯は香山公園となっていて、瑠璃光寺境内と公園との境目がよく分からない・・と言うか、境内そのものが公園と呼ばれているのでもあるか。(瑠璃光寺・五重塔)<参考>瑠璃光寺・Wikipedia 瑠璃光寺は、大内氏25代当主・大内義弘がこの地に建立した香積寺が始まり。五重塔は、義弘を弔うため、弟の26代当主・大内盛見が建設を始めたものとのこと。 大内氏が毛利元就によって滅亡した後も香積寺は毛利氏の庇護のもと存続するが、関ヶ原の戦で毛利輝元が西軍総大将となったことから、毛利の版図は周防・長門の2ヶ国に減封となり、輝元は萩城に移る。この時、香積寺も萩に移転する。元禄3年(1690年)になって、その跡地に移転して来たのが山口市仁保高野にあった瑠璃光寺(元々は、陶弘房を弔うために夫人が建立した安養寺で、のちに瑠璃光寺と改称)で、これが現在の瑠璃光寺だとのこと。(同上) 塔の上にひとひらの白雲。と来れば・・。ゆく秋の 長門の国の 瑠璃光寺の 塔の上なる 一片の雲 (偐信綱)(本歌)ゆく秋の 大和の国の 薬師寺の 塔の上なる 一ひらの雲 (佐々木信綱) 寺の本堂に向かおうとすると、中門前に人の群れ。 黒い霊柩車らしき車が参道に停車している。(同上・告別式?)(同上) 大勢のお坊様が立ち並び始めました。 お葬式の感じでもない雰囲気。(同上)<参考>晋山結制法要解説 見ると、「保寧山瑠璃光寺四十八世晋山結制式」と書かれている。 黒い車が霊柩車かと、早とちりしてお葬式を連想してしまったが、そうではなかった。 晋山結制式というのは、その寺の住職の就任式のようです。 お坊さんが立ち並んで居られるのは、晋山結制式が無事に終了し、その最終段階のプログラムである記念写真を撮るためのもののようです。 まあ、何にしても、まさにお取込み中。寺院の拝観はできそうもないので公園内をブラブラ。(同上・大内弘世公像)<参考>大内弘世・Wikipedia 寺の前にあったのは大内氏24代当主・大内弘世の騎馬像。 弘世は前述の義弘、盛見らの父親である。 台座の説明碑によると、山口を、京都に倣った都市計画に基づく市街整備を行い、後の大内文化に繋がる基礎を築いたとして、此処に像が建立されたのであろう。 しかし、近年の発掘調査では、弘世の時期は、山口市の現在の市街地からは南東に外れた大内御堀地区に本拠地を置いたままであったようで、山口市の都市化を示す遺物で弘世期まで遡るものは見つかっていないとのこと。 尤も、前頁で触れた白狐伝説が現れたのは弘世公の時代のこととされているらしい。(同上・説明板) 公園のベンチで一休み。 正面に五重塔が見える。(香山公園) 左に視線を移動させると、背後の山、香山の山頂、稜線が見える。 万葉集では、香具山を香山と表記するものもあったように記憶するが、ここの香山は「こうざん」と読むようです。 であれば、枕草子の「香炉峰の雪やいかに・・」なども思い出されるのであるが、雪も簾もなき公園のベンチ。遺愛寺ならぬ瑠璃光寺の鐘も鳴る気配がないから、千切れ雲のひとつ、ふたつ流れゆくも見む、であります。(香山) 振り返るとこんな建物がありました。(枕流亭) 説明碑を読むと、薩長連合の密議がこの建物の2階で重ねられたのだということらしい。 この場所にあったのではなく、山口市内道場門前の一の坂川の流れにのぞむ河畔にあったのが何度か移築され、昭和35年(1960年)に此処に移築されたもの。(同上・説明碑) 漱石枕流の枕流であるが、夏目漱石は漱石を採用し、薩長連合は枕流を採用したのであるか。 尤も、枕流亭は、山口の旧家、安部家の離れであったそうだから、安部家の当主の命名であるのかも。間違いを指摘されてもそれを認めず屁理屈こねてでも言い返すというのは、政治家には不可欠の資質のようだから、薩長連合の密議には相応しい名前かも。そう言えば、安部と安倍で一字異なるが、安倍ナントカという元首相もその資質は十分にありましたね。(同上・1階内部) 内部には自由に入れるよう。 1階の部屋には、薩摩の大久保利通や長州の木戸孝允など、密議を重ねたという面々の写真が並べられている。(同上・2階内部) 2階に上がってみると、二間続きの部屋。 部屋からは、正面に五重塔が見える。 五重塔を眺めながら話を進めていたのか、と一瞬思ったが、この建物は当時はここに建っていたのではないことに気付き苦笑。(同上・2階からは正面に五重塔) 五重塔のある入口近くの、ボランティアガイドの皆さんの待機所テントの近くにトレンクルを駐輪させていただいていたので、其処に戻って、銀輪散歩再開であります。 トレンクルで下り坂道を快走。その所為もあったか、洞春寺を通り過ぎてしまう。 国道9号に出て右折、南西に進むと山口県庁の前に出た。(山口県庁) クラシックな建物が目に入ったので、門の中まで少し入って外観だけ撮影です。説明碑をよく見ると一般に公開されているようだったが、その時はそれに気付かず、中也銀輪散歩という自縛もあったか、内部見学ということまで考えが及ばずでありました。(同上・旧県庁舎と県会議事堂説明碑) こちらは、旧県庁舎。(同上・旧県庁舎) こちらは、旧県会議事堂。(同上・旧県会議事堂) 県庁舎から南西に更に進むと旧山口藩庁の門。(山口藩庁門)(同上・説明碑) 道なりに進むと、山口歴史民俗資料館の建物の前に出る。 これが46年前に訪れた、中也展が開催されていた建物かとしばらく眺めてみたが・・。 道路からエントランスまでの距離がかなりあり、立派な建物である。道路脇スグのところに建物があって、建物ももっとチャチな感じであったように記憶するので、やはり、ここではないなというのが、その時の結論でした。帰宅して、その時の展示目録を見つけたことで、歴史資料館での開催であったことに間違いないことが判明したので、今は記憶の方を修正にかかっているのであるが、漱石枕流よろしく、歴史民俗資料館の建物は建て替えられたのではないのか、と自身の記憶が間違いではないことの理屈を考えてもいるので、往生際が悪いのであります。 県庁西門口交差点を南に下ると、ザビエル記念聖堂進入口の前の道路である。 そこで、山口大学教育学部付属中学校という標識が目に入ったので、その方向に道を入ってみる。実は「中学校」を「小学校」と見間違っていたのである。(山口大学教育学部付属中学校) 先に述べたように、中也は下野令小学校から山口師範付属小学校に転校している。それは現在の山口大学教育学部付属小学校のことである。 山口師範付属小学校の跡地ということを示すものを撮影できなかったので、その後身である小学校の写真でも撮って置くかと思っての寄り道であったのだが、門の前に立って、中学校であることに気付き、またも苦笑である。山口大学教育学部付属小学校は既に通り過ぎていて、坂の上である。 ということで、引き返すことはせず、でありましたので、ウィキペディアの写真を転載させていただきます。(山口大学教育学部付属小学校 ウイキペディアより転載) 山口市役所前から、国木田独歩が通っていたという小学校の後身である白石小学校の横を通り、錦川通りへ繋がる、往路の道(「権現通り」というらしい。)を帰ることとする。 中原中也の詩碑と山頭火の句碑が並んでいる地点の少し手前、防長苑という旅館のある角で、広い通り(「ふれあい北通り」というらしい。)を左折、南東に進むと湯田温泉1丁目交差点。交差点を渡り(交差点を渡った先からは「ふれあい南通り」と名が変わる。)、150mほど行くと右側に湯田幼稚園がある。此処が下野令小学校跡地だとのこと。中也が山口師範付属小学校に転校するまで通っていた小学校である。 その後身である現在の湯田小学校は、この道を「ふれあい北通り」の方へ500mほど戻ったところにある。(湯田幼稚園 旧下野令小学校跡地) 下野令小学校のあったこの場所は、中也の生家である中也記念館の場所からは、5~600mくらいであるから、子どもの足でも徒歩7~8分の距離である。 本日の中也銀輪散歩はここまで。 続きは明日です。(つづく)<参考>銀輪万葉・中国、四国篇はコチラ。
2022.11.17
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友人の岬麻呂さんから今年初めての旅便りが届きました。 岬麻呂氏ご夫妻の今年の初旅は、沖縄本島。 「寒緋桜のお花見が目的の夫婦旅」とのことであります。 その詳細は下掲の「旅、岬巡り報告337」やその添付写真をご覧いただければ、それに尽きるというものでありますが、それでは、ヤカモチとしてのブログ記事とは言えないだろうと、蛇足を承知で適宜の横槍文章を付すなどの編集を加えつつ、併せ別途にお送りいただいたそれぞれの写真も添えて、旅のご様子を紹介させていただきます。(↑旅、岬巡り報告337・沖縄本島、寒緋桜)※画像をクリックしていただくとフォト蔵の大きいサイズの画像が別窓で開きますので、それでお読みいただくと読み易いかと存じます。(↑添付写真1) (↑添付写真2)(↑添付写真3)(↑添付写真4)(↑添付写真5) では、以下、旅程に従い、メール送信いただいた写真をご紹介します。1月21日関西空港→那覇空港→(レンタカー)→八重瀬公園→漫湖公園→残波岬灯台→グランドメルキュール沖縄残波岬リゾートホテル(3連泊) 那覇空港からレンタカーで南下、島尻郡八重瀬町にある八重瀬公園へ。(八重瀬公園の寒緋桜) 八重瀬公園の寒緋桜は咲き始めたところ。 これは「想定内」と書かれていますが、寒緋桜はソメイヨシノと違って、「標高の高い所から低い方に咲き、また北から南に向かって桜前線が進む。」とのことですから、これより北に北上すれば、より開花の進んだ寒緋桜が見られる筈。 しかし、北上した那覇市内の漫湖公園では「開花直前」であったそうで、写真はありません。南北の位置要因と標高の高低要因とが絡むので、ことはそう単純でもないようです。 国道58号を北上し、読谷村の残波岬へと向かいます。(残波岬灯台)(夕照の残波ビーチ) 宿泊のホテルは残波岬にあるようですから、これはホテルの窓から撮影されたものでしょうか。夕照の 残波の浜に 寄す波の 音しめやかに うら悲しかり (夕家持) 残波岬、残波ビーチは夕日、夕照が似合う。 これは、「残波」が「残照」という言葉を連想させ、「残照」が「夕照」や「夕日」を導くからでしょう。1月22日本部町・八重岳→今帰仁城址→海洋博公園・沖縄美ら海水族館・熱帯ドリームセンター→今帰仁城址→ワルミ大橋→屋我地島(→古宇利大橋→古宇利島)→名護市・名護城址→嘉手納町→ホテル この日は、先ず国頭郡本部町の八重岳へ。<参考>八重岳・もとぶ町観光協会(八重岳の寒緋桜1) 本部町は、沖縄本島のやや北寄りにあるので、寒緋桜は丁度見頃です。 個別には、満開直前もあれば、咲き始めたばかりというのもあったようですから、これはクローンであるソメイヨシノとは違って個体の遺伝子がそれぞれに異なっていることから来る個体差というもので、ソメイヨシノのような明確な桜前線は成立しえないということなんでしょう。(同上2) 八重岳は、沖縄本島では2番目に標高の高い山とのこと。 と言っても、453.4mですが、車で山頂付近まで行け、展望台からの眺望が素晴らしいこと、頂上までの約4kmの上り道には7000本以上の桜並木が続くということで、観光客には人気の場所らしいです。(同上3) まあ、何にしても寒緋桜のお花見という旅の目的は達成です。 八重岳から美ら海水族館、熱帯ドリームセンターへ。<参考>美ら海水族館・もとぶ町観光協会 熱帯ドリームセンター・海洋博公園(ジンベイザメの食事風景・美ら海水族館) 美ら海水族館は外国人観光客で大混雑だったようですが、熱帯ドリームセンターは、団体客の姿はなく、ゆっくりと落ち着いた気分で見学できたようです。(バンダ<着生ラン>・熱帯ドリームセンター) 着生ランですか。 ヤドリギのように寄生しているのではなく、単にくっついて生きているに過ぎないということは、くっついた相手から養分を奪い取っている訳ではないということであります。 まあ、こんな風にくっついて自分を華やかに飾ってくれるなら、くっつかれた樹の方も悪い気はしない筈。相互に自立した平和的共存関係であります。(遠見台・熱帯ドリームセンター) 遠見台は、何やらバベルの塔を思わせるデザインですが、この程度の高さなら、神様も人間の言葉が互いに通じ合わないようにする必要もなかったことでしょう。(ムラサキシキブ・熱帯ドリームセンター) スイレンにもムラサキシキブという名のものがありましたか。 ヤカモチも初見、初耳です。めぐりあひて みしや睡蓮 名を問へば これ初耳の 紫式部 (紫家持)(本歌)めぐりあひて みしやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな (紫式部 小倉百人一首57、新古今集1497)(注)但し、新古今集では第5句が「夜はの月かげ」である。廻り逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜はの月かげ その詞書には「早くより童ともだちにて侍りける人の、年頃経て行き逢ひたる、ほのかにて、七月十日の頃、月にきほひて歸り侍りければ」とある。 そして、今帰仁城址経由ワルミ大橋を渡って屋我地島へ。(今帰仁の桜) これは、今帰仁城址から国道505号に出る道での写真かと思いましたが、海の向こうに島が見えること、左側から日が射していること、撮影時刻が午後2時47分であることなどから、そうではなくて、ワルミ大橋に至る前の何処か別の道での撮影だろうと結論したものの、それがどの辺りのことであるかは不明です。(古宇利大橋<ワルミ大橋から撮影>) ワルミ大橋を渡って屋我地島に入り、古宇利大橋を渡って古宇利島に行かれたと思われますが、「古宇利島(外国団体客で大混雑)」という情報があるのみです(笑)。(フェリーいへや) このフェリーの写真は古宇利大橋通過中の撮影かも。 名護市街まで南下し、名護城址の寒緋桜です。(名護城址の寒緋桜) 名護から更に南下し、嘉手納基地近くを通過する頃にはすっかり日も暮れていました。(嘉手納の航空機着陸の灯り) 夜間の訓練飛行なのか、何か別の使命を帯びての飛行なのかは分かりませんが、次々に航空機が基地に着陸して行く、その灯りが3個写っています。1月23日国頭村・オクマビーチ→辺戸岬→うるま市・海中道路→知念岬→ニライカナイ橋→喜屋武岬→那覇市街経由→ホテル 旅の三日目は、国頭村のオクマビーチから、沖縄本島の北端・辺戸岬を目指します。(オクマビーチ)(辺戸岬) 沖縄本島最北端の辺戸岬から取って返して、次は最南端の喜屋武岬を目指します。 これは翌24日が天気予報では「雨」ということで、予定を繰り上げたものであります。(知念岬) 途中、眺めよし、の知念岬公園にも立ち寄り、国道331号から右手に見えるお馴染みのニライカナイ橋を写真に収め・・・南へと急ぐ。(ニライカナイ橋) はい、最南端の喜屋武岬到着です。(喜屋武岬) 沖縄本島、最北端から最南端まで一気に縦断ドライブでありました。1月24日識名園→豊崎海浜公園→那覇空港→関西空港 最終日は、予報通りの雨も早くに上がり、薄日の射すお天気に。 那覇市内の識名園と豊見城市の豊崎海浜公園を巡ります。(識名園1)<参考>識名園・那覇市公式ホームページ(同上2)(豊崎海浜公園)<参考>豊崎海浜公園・豊崎美らSUNビーチ・豊見城市役所公式ホームページ 以上、沖縄本島寒緋桜お花見ドライブの旅でありました。<参考> 過去の岬麻呂旅便り記事はコチラ。 フォト蔵アルバム・岬麻呂写真集はコチラ。<訂正注記:2025.2.2.15:41>上記、紫式部の歌「めぐりあひて・・」について、新古今集での歌番号は1457ではなく1497であったのでこれを訂正し、併せ詞書などの注記を追加記入しました。
2025.02.01
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2月17日に生国魂神社で井原西鶴の像に再会したことは前頁記事に記載の通りであるが、帰宅して調べてみると、西鶴の墓が誓願寺にあるとの情報を得た。そこで、早速、銀輪散歩のついでにとその誓願寺を訪ねてみることにした。(誓願寺・表門)(門前の碑<右側>) 門前の左右の石碑には「井原西鶴先生墓」、「井原西鶴墓所」と刻されています。(同上<左側>) 門を入ると、左手にこんな碑も。(武田麟太郎文学碑・「井原西鶴」より) 武田麟太郎の「井原西鶴」は読んでいないが、その一節を抜粋した文学碑である。 碑の文中にある「蓮池」というのは、生国魂神社の前(東側)にある現在の生玉公園のことだろうと思う。 今は埋め立てられて公園になっているが、昔は蓮池であったらしい。(誓願寺・本堂) 表門から奥に入って行くと、右手に本堂らしき建物が南向きに建っていて、本堂建物の左手が墓地になっている。 本堂と墓地とは背の低い土塀で仕切られていて、中央に入口があり、左右にこんな説明碑が掲示されている。(墓地入口右側の碑・西鶴墓などの説明碑)(墓地入口左側の碑・懐徳堂中井家・並河家墓地部分布図) 懐徳堂というのは、江戸時代に大坂の商人たちによって創設された学問所であるが、緒方洪庵の適塾と共にわが母校の大阪大学の前身とされている。<参考>適塾・Wikipedia 懐徳堂・Wikipedia(墓地) 墓地入口から正面奥にのびている通路の突き当りに西鶴の墓がある。(西鶴墓)<参考>井原西鶴・Wikipedia はい、これが西鶴の墓です。(西鶴句碑) 鯛ハ花ハ見ぬ里もあり今日の月 西鶴 墓の右脇に建っているのは西鶴の句碑。(誓願寺・井原西鶴墓・位置図) 参考までに、誓願寺と西鶴墓の位置を地図上に示して置きます。 さて、誓願寺を出て上町筋を北上します。 難波宮跡、大阪城公園へと向かうことに。(難波宮跡) 難波宮跡の奥の方では、今月24日に実施される大阪マラソンのTV中継の準備でしょうか、中継車や中継オートバイなどの機材をチェックされているNHK関係者とみられる一団の人々の姿がありました。(同上・遺跡の概要と関係略年表)(同上・案内板) NHK大阪のビルを左手に見つつ、大阪城公園に入る。(大阪城公園・外堀東側玉造口方向)(同上・外堀西側方向)(同上・外堀パノラマ撮影) 玉造口から梅林に行ってみようというのが、大阪城公園にやって来た理由であります。(大阪城公園梅林) 梅林だか梅園だか正式名は存じ上げないが、梅林に到着。 自転車での乗り入れは勿論、手押しであっても自転車は進入禁止。 入口前の駐輪場に駐輪して、入場です。(同上)(同上・梅の木の根元の水仙)(同上・天守閣と白梅)(同上・天守閣と蝋梅)(同上・梅林全景パノラマ撮影) 京橋口から囲碁例会の折によく走る公園道路に出て、天満橋経由、滝川公園経由で大阪天満宮へ。(大阪天満宮)(同上・さざれ石の碑) 以上、西鶴&梅林銀輪散歩でありました。<参考>近隣散歩関連過去記事は下記です。 近隣散歩(その1) 2009~2013 近隣散歩(その2) 2014~
2025.02.22
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第212回智麻呂絵画展 昨日、智麻呂邸を訪問、新作7点を仕入れて参りましたので、智麻呂絵画展開催といたします。<参考>過去の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ フォト蔵の智麻呂絵画集アルバムはコチラ。 今回は、絵の題材がなくて、恒郎女さん曰く「ひろみちゃんに助けられて、何とか作品数が揃いました。」とのこと。新作・全7点のうち4点がひろみの郎女さんがお持ち下さった花などを題材にした絵であったからです。 他の3点のうち2点は偐山頭火さん関係、1点は智麻呂家の冷蔵庫にあった野菜たちの絵と言う次第。 では、まず、ちょっと智麻呂絵画らしからぬ絵から。(こうやくん) これは、偐山頭火さんのお土産。 高野山開創1200年と銘打たれたクリアファイル左下部に描かれていたこうやくんの挿画を少しアレンジして模写されました。 まず、ゆるキャラで和んでいただいて、素直な心で当絵画展をご覧いただこうというヤカモチ館長の戦略であります。 同じく、偐山頭火さん提供の睡蓮の写真を写生されたのが次の絵です。(睡蓮)モネの真似 してもみよとか 睡蓮の 写真を置きて 偐頭火去り (山頭水) 偐山頭火さんの意図のほどは存じ上げぬが、睡蓮はモネという単細胞ヤカモチ館長の駄洒落的推量であります。 で、次は、いよいよ題材が底をついたので、奥方の恒郎女さんが冷蔵庫から適当に引っぱり出して来た野菜たちの絵です。(野菜たち) パプリカ、トマト、サツマイモ、キュウリが動員されてモデルとなりましたが、何やら楽しい雰囲気を醸しています。 さて、以下がひろみの郎女さん関連の絵になります。 先ずは、上の野菜との関連で、ゴーヤから。(ゴーヤ) 次は、ザクロ。(ザクロ) そして、ガイラルディア。 キク科の花であるが、こういう名前では、歌にはなりにくいから、何か適切な和名があった方がいいと思うのだが、どんなものでしょう。 名前にも、学名、和名、園芸種名、商品名と色々なレベルがあるが、歴史的由来、文化的由来などが伴わない名前、またはそのような由来を有していてもそれを知らないという名前は、地名などもそうであるが、何かよそよそしくて馴染めない感じがするとと共に、その名を覚えても、いつの間にかすっかり忘れてしまっているということが多いように思う。(ガイラルディア) この花、ガイラルディア・アリゾナ・アプリコットという名前のようだが、これは園芸品種名なのか商品名なのか。まあ、どちらであれ、とても覚える気にはならない、と言うか、何日か後にはきっと忘れていると思う(笑)。 次はルドベキア。 この花は野生化していて、道端などでも、最近はよく見かける花であるが、絵ではちょっと印象の違う花姿になっている。従って、ルドベキアではない可能性も否定できないが、絵画展は花図鑑ではないので、単に「花」であってもいい訳でアルベキア。(ルドベキア) このルドベキアもそうであるが、上の睡蓮など、今回は些かピントの甘い写真になっていて、大きいサイズの写真で見ると、少しぼやけた感じになってしまっているものがあります。 この点は、ヤカモチ館長の撮影手腕が拙劣であることを示すものにて、ご寛恕のほどお願い申し上げます。追って撮影し直す機会がありましたら、もう少し鮮明なものに貼り替えることも検討します。
2019.09.07
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本日は月例の墓参。 墓参の道で目にとまった花などをご紹介します。 先ずは、ロウバイの実。(蝋梅の実) ロウバイの実は以前のブログ記事にも掲載して居りますので、再登場ということになります。<参考>ロウバイの実 2011.6.4.(同上) そして、いつものお寺の門前の今日の言葉はこれ。 比較のないところには嫉妬はないーーフランシス・ベーコン 比較というのは、何らかの特定の価値基準に基づく評価をして自他の優劣を判断する行為であるから、それは必ずしも絶対的なものではない。しかし、それを絶対的なものと考えてしまうことによって、そこに優越感や嫉妬心が生まれる可能性があるということになる。そのような相対的・一面的評価に振り回されないことが大切である、或はそもそもそのような比較をしないのが肝要ということですかな。(今日の門前の言葉) 花たちはそのような「比較」とは無縁にて、それぞれが自分なりに美しく、いや、美しいかどうかも気にすることなく、咲いている。 ザクロの花です。(柘榴の花) 更に墓地への坂道を上ったところにある民家の石垣を覆うように生えている多肉植物、オボロヅキが花を付けていました。(朧月の花) 多肉植物の花は、概ねこのような花であることが多いですな。(同上・部分拡大) 墓地に到着。 墓周辺の草を引き、花と線香を供えてお参り。 線香を供えるのは、線香の煙が死者の食べ物と考えられてのことだそうだが、多くの人はそんな意識もなく習慣として、線香を上げているのでしょうな。小生も然りである。(野蒜の花) 墓地の奥にノビルが花を咲かせていました。(同上) ノビルとニラは似たような花を付けるが、写真のようにムカゴが出来るのがノビルである。ニラにはムカゴは出来ない。 ノビルもニラも万葉集に詠われているので万葉植物である。 古代人は臭気のある植物はその臭気によって荒ぶる神に対抗する呪力があると考えていたようである。これらを食することによって、その呪力を身体に取り込むことが出来ると考えていた。 ハーブの起源はこのようなところにあるのかも知れない。<参考>ノビル・Wikipedia ニラ・Wikipedia(同上)
2018.06.02
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(承前) 一昨日(23日)の日記の続きです。第6回ナナ万葉の会の記事をアップした関係で、一日とんでの続編記事となりました。前記事でも今井町に立ち寄ったことは少し触れましたが、その今井町で撮った写真がいくつかありますので、それを掲載することとします。 今井町はこれまでに何度も訪れている。若草読書会の人たちとも訪れたことがあるし、その他の友人や家族とも一緒に立ち寄ったりもありましたが、飛鳥川べりの自転車道を銀輪で走ると、必ずこの町の前を通るので、ふらり一人で立ち寄るというようなこともよくあります。そんな今井町であるが、ブログにはこれまで何故か取り上げたことがないようです。(今井町)(今井町イラストマップ) 今井町は戦国時代、天文年間(1532~1555)に、一向宗門徒によって開設された今井御坊(称念寺)を中心に建設された環濠の寺内町。全国最大規模の重要伝統的建造物保存地区として、夙に有名。重要文化財に指定された多くの建物を中心に、江戸時代さながらの町並み景観が維持保存されている、見て歩くに楽しい町である。詳しくは下記参考をご覧下さい。 <参考>今井町・Wikipedia 今井町町並み保存会ホームページ(高木家住宅)(河合家住宅)(豊太閤本陣跡)(中橋家住宅) マンホール蓋の図柄も町並み景観をあしらっていますな。(今井町のマンホール)(称念寺)(同上・山門)(同上・客殿)(信長本陣跡伝承地)(環濠) 最後に春日神社に立ち寄り申し上げ候。(春日神社)(同上・旧常福寺表門)(同上・拝殿)(同上・本殿)(同上・旧常福寺観音堂)(同上・摂社、左から八幡宮、天満宮、人丸神社)(同上・摂社、左から恵比寿神社、厳島神社) 観音堂の裏に小さな地蔵堂。(同上・叶地蔵)(同上) 万葉歌碑撮影の帰途のついでの立ち寄りにてもあれば、こんな処で失礼仕り候。いにしへの ひともみてしか かなしきは いまゐのそらの あきのしらくも (銀輪家持)あきかぜの たびのわれなり いまゐまち つばらつばらに みつつもゆかむ (銀輪家持)
2014.09.25
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ちょっと日付は前後しますが、5日と6日の銀輪散歩で見つけた白い茸と白い花を掲載することにします。 先ず、花園中央公園で見つけた白い茸ですが、名前は分りません。(雪ん子茸?) キノコというのは色も形も色々あるが、総じて何となくユーモラスな風情がある。「雨後のタケノコ」ではないが、台風の長雨の所為で、キノコも「雨後のキノコ」となったのであろうか、公園の芝生の上のをちこちにひょっこり顔を出していました。 上のキノコが一等美しく、白雪茸、雪ん子茸、なんぞと勝手な名を付けたりして居りました。(芝の上のポニョ) そして、上のキノコは、ちょっと古い喩えになりますが「崖の上のポニョ」ならぬ「芝の上のポニョ」であります。 下のキノコは一列縦隊。散歩にお出掛けであるのか、それともお引っ越しであるのか、キノコに聞いても答えてはくれませなんだ。 それはさて置き、このキノコ達は何という名?食べられるのか、それとも毒キノコなのか? (茸の散歩) 白いキノコの次は、白い花。 カラスウリと名前に「カラス」が付いているのに、花は真っ白であります。それに形が面白い。実の「瓜」の方は剽軽なイメージであるが、花は見ようによっては妖艶でもある。まあ、河童の頭に見えなくもありませんがね。(カラスウリの花)(同上)(同上) 恩智川の川辺にて白く咲く花は何かとカメラを向けたら、そこにベニシジミが止まっていました。眠り込んでいるのかカメラを近づけても逃げない。(ベニシジミのまどろみ) 花よ蝶よ、と云うけれど、花はとりどりに歌に詠まれているが、万葉集には蝶の歌は登場しない。花鳥風月と云う通り、「チョウ」は「鳥」であって「蝶」ではないのである。花札の「猪鹿蝶」とは違うのであります。 しかし、蝶が居なかった訳はないのでありまして、大伴旅人邸で催された梅花の宴で詠まれた歌32首(巻5-815~846)の序の中に「・・庭には新しき蝶舞ひ、空にはもとつ雁帰る。・・」と、蝶が登場している。(まだ寝ている) 万葉には蝶の歌はないが「シジミ」の歌ならある。と言っても「ベニシジミ」では勿論ない。住吉の粉浜の蜆の「シジミ」である。 住吉(すみのえ)の 粉浜(こはま)の四時美(しじみ) 開(あ)けも見ず 隠(こも)りてのみや 恋ひわたりなむ (巻6-997)(住吉の粉浜の蜆のように、殻を閉じて開けようともせず、ずっと心に秘めて恋い続けるのでしょうか。) ということで、偐家持はベニシジミの歌を詠んで、万葉の足らざるを補うことと致しましょう(笑)。べにしじみ 恩智の岸辺 起きもせず 眠りてのみや 恋忘れなむ (偐蝶麻呂) そう言えば、宝塚の蝶麻呂氏とはご無沙汰していますなあ。いかにかお過ごしにてあるらむ。 <追記・注>縦長写真(「茸の散歩」2枚と「ベニシジミのまどろみ」)が横倒しになった歪んだ画像になってしまっていたので、2020年10月29日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.09.08
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10日から2泊3日で富山県高岡に銀輪散歩に行ってまして、昨日帰って来ました。 今回の旅は、友人オガクニマン氏が10日からJR北陸旅で金沢方面へ行くとブログに書いて居られたのと、ネットで「富山庄川小矢部自転車線」というサイクリングロードの存在を知ったこと、天気予報を見るとお天気の好さそうなのは12日頃までで、以後は梅雨に入るようで雨が続くと見込まれたこと、などから思い立って出掛けることにしたものです。 オ氏は午後3時過ぎ京都発のサンダーバードで行くと言っておられましたが、それでは初日のサイクリングは無理なので、小生は一足早く京都9時10分発サンダーバード7号で高岡に向いました。 高岡着11時45分。高岡へは何回も来ているが、直近は2007年10月のことなので、2年半ぶりの訪問である。駅改札を出ると先ず出迎えてくれるのは大伴家持の像と「もののふの八十をとめらが汲みまがふ寺井の上のかたかごの花」の家持の歌である。(駅前の大伴家持像) 大伴家持は天平18年(746年)6月21日に越中守となり、天平勝宝3年(751年)7月17日少納言となって8月5日に京への旅に発っていますから、約5年間(29歳から34歳まで)この地に暮らしている。家持にとっては初めての地方赴任でもあり、越の国の風物に大いに刺激を受けたのでもあろう、多くの歌をこの地にのこしている。 駅前で昼食を済ませ、二上山を目指す。二上山は伏木の方からはこれまでに3回登っているが、反対の守山側からは登ったことがないので、今回はこれを行くことにする。 高岡鋳物発祥の地、金屋町の格子の家並みを通って、小矢部川を目指す。(金屋町) 石畳は自転車にはガタガタしてもひとつであるが、千本格子の家並とマッチしてなかなか風情のある景観を醸している。一角には鋳物資料館があり、ウラが緑地公園となっていて鋳物発祥の碑が建っている。 慶長14年(1609年)前田利長が高岡城築城の際に城下の産業発展のため砺波郡西部金屋に住んでいた鋳物師7人衆を呼び寄せたのが金屋町の始まりとか。この鋳物師達は河内国丹南郡狭山郷日置庄(現堺市美原区)に住んでいた鋳物師の流れを汲む鋳物師であった、ということで鋳物発祥の地、河内と繋がるのである。(金屋緑地公園)(高岡鋳物発祥地の碑) (キューポラ) (有礒八幡の鋳物関連碑)(有礒八幡宮) 金屋緑地公園を出ると小矢部川の支流、千保川。千保川沿いに行くと小矢部川に出る。(千保川)(小矢部川)(二上橋から見る二上山) 「射水川 い行き廻れる たまくしげ 二上山は 春花の 咲ける盛りに 秋の葉の 匂へるときに・・(大伴家持・巻17-3985)」と歌われている射水川はこの小矢部川のことである。小矢部川の岸辺に立って二上山を眺めると万葉の世界が彷彿として来るようでもある。 二上大橋・守山大橋を渡って二上山万葉ラインの坂道にとりかかる。登り切ると守山城(二上城)本丸跡で、頂上から越中平野が一望できる。(守山城跡から高岡市街を望む。)(守山城跡から小矢部川を望む。手前の橋が守山大橋。) 山頂で休憩しているとバスがやって来て沢山の方が降りて来られました。バスには「八幡中学3年4組同窓会」の表示。運転手さんに声を掛けると、岐阜県からとのこと。 城跡から二上山頂下の家持像までは概ね下りで一気に行ける。城跡までの登りの苦しさが嘘のような快適さ。2年半ぶりに家持殿との再会である。 (大伴家持像) 家持像の脇から山道を少し登ると二上山頂。日吉社の小さな祠がある。少し休憩して下山していると、先程、守山城跡でお目にかかったご夫婦連れにまたお会いする。 男性「この上は何かあるのですか?」 小生「小さな祠と山頂を示す標識だけです。」 男性「眺めはいいのかね?」 小生「いや、木で眺望は殆どききません。」 男性は少し躊躇って居られたが登って行かれました。小生が自転車で登って来ているので、地元の人間と思って居られたようだが、大阪からと聞いて驚いて居られました。そして、何とご夫妻は高岡の方でありました。初めて二上山に登って来たとのことですが、地元の人に大阪の人間が二上山頂の様子を教えているのだから面白い(笑)。(二上山頂、標高274米とある。) 家持像にお別れして、伏木の勝興寺へと万葉ラインを下る。この道は何度走っても爽快である。ホトトギスも鳴いている。(二上山万葉ラインから氷見市方面を望む。)(万葉歌碑) ちょっと写りが悪いが、中腹の二上山郷土資料館前の歌碑である。山頂の家持像台座裏の歌と同じ、二上山之賦の反歌である。多麻久之気 敷多我美也麻尓 鳴鳥能 許恵乃弧悲思吉 登岐波伎尓家里 玉くしげ 二上山(ふたかみやま)に 鳴く鳥の 声の恋しき ときは来にけり (巻17-3987 大伴家持) 二上山万葉ラインを下り切ると越中国庁跡の勝興寺である。現在工事中にてちょっと雰囲気を損っているが、そういうものはなるべく見ないようにすればよろしい(笑)。(勝興寺本堂) (国庁跡碑) (裏面の歌碑)安之比奇能 夜麻能許奴礼能 保与等理天 可射之都良久波 知等世保久等曽あしひきの 山の木末(こぬれ)の ほよ取りて かざしつらくは 千年(ちとせ)寿(ほ)ぐとぞ (巻18-4136 大伴家持) (つづく)
2010.06.13
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昨日は、第468回大槻能楽堂自主公演能ナイトシアターに行ってまいりました。 演目は狂言が「長光」、能が「天鼓」。 前シテ・後シテの浅井文義先生は、小生の謡曲の師匠H先生の師匠であるということもあって、H先生と小生と一緒に謡曲を稽古しているB氏の3人で観能せむとて、出掛けたもの。早くに着き過ぎたので、難波宮址など周辺を少し散策してから、大槻能楽堂へ。H先生とB氏はすでに来て居られて、会場にて合流。<大槻能楽堂ホームページ> 能・天鼓は、後漢時代の中国の話をもとに世阿弥元清が創作した曲にて、そのあらすじは次の通り。 後漢の世に、天から降り下った鼓を持つ天鼓という少年がいた。彼が見事に打ち鳴らす鼓の評判を聞きつけた帝はその鼓を召し上げようとする。少年はそれを拒み、鼓を持って山中に逃げるが、探し出されて呂水の江に沈められてしまう。 かくて帝は鼓を手に入れるが、誰が打っても音が出ない。そこで、天鼓の父親の王伯に打たせてみようと、勅使を遣わせる。王伯は己れの嘆き悲しみを述べるが、勅使に促されて鼓を打つと、妙なる音が鳴った。その音を聞き哀れを催した帝は、涙しつつ、管弦講で天鼓の霊を慰めると約束して、王伯を家に帰す。 呂水の堤に鼓を置き、供養を始めると、天鼓の霊が現れ、供養に感謝し、鼓を打ちながら、舞楽を奏するが、夜明けに消えてゆく。この天鼓の霊の舞が見もの。笛が盤渉(ばんしき)調という常より高い調子となり、シテは橋掛を使ったり、鼓を打ったりして、鼓を愛しむ心が強調される。なお、盤渉は水に関係ある場合に用いられる調子とのこと。(大槻能楽堂・能舞台)(パンフレット)(難波宮址) 難波宮は、大化改新の後、孝徳天皇が営んだ長柄豊崎宮と聖武天皇の難波宮があるが、その二つが重なって発掘されている。 孝徳天皇が、中大兄皇子と対立し、皇后の間人皇女ほか役人を引き連れ中大兄が明日香に帰ってしまい、一人取り残されることとなり、憤怒と悲嘆の余り病死してしまったのも、この宮であったのですな。彼の死がその息子、有間皇子の悲劇に繋がり、万葉集の名歌も生まれることとなったのではある。 鉗(かなぎ)着け 吾が飼ふ駒は 引出(ひきで)せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか (日本書紀孝徳天皇4年7月条) この宮跡と大槻能楽堂の間の道を東に行くと、史蹟・越中井がある。昔、ここには細川越中守忠興の屋敷があり、その屋敷の台所の井戸を今に遺すと伝えられ、徳富蘇峰筆の碑が立っている。細川ガラシャ夫人が自らの命を絶った最後の地でもある。これまた悲劇の女性につながる場所でありました。(越中井)散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ (細川ガラシャ辞世の歌) 帰宅する頃は夜も更けて、雲間に月が美しく。<参考> 難波宮址 細川ガラシャ夫人
2009.06.06
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本日は栃木県佐野市に来ています。万葉集に詠われている三毳山(みかもやま)などを巡ってみようという銀輪万葉の旅であります。下野(しもつけの) 三毳(みかも)の山の こ楢のす まぐはし兒ろは 誰(た)が笥(け)か持たむ (万葉集巻14-3424)<下つ毛野の 三毳山のコナラのように愛らしいあの娘は誰の器を持つのだろうか。> (注)三毳山=JR両毛線の佐野駅と岩舟駅とのほぼ中間、南側に広がる山。県営 公園が広がり、三毳神社里宮境内にはこの歌碑がある。 こ楢=コナラのこと。ナラ(ミズナラ)も含むかも知れない。 ハハソともいう。 なら(万葉集巻12-3048) ははそ(同巻9-1730、巻19-4164、巻20-4408) 古今集でもハハソとして登場。 秋霧は けさはなたちそ さほ山の ははそのもみぢ よそにても見む (古今集266) 高崎で新幹線から両毛線に乗り換え、佐野駅下車。ホテルに荷物を預け、銀輪散歩出発。先ず、佐野駅北側の城山公園に立ち寄る。(佐野城跡)(同上説明板) 万葉の里城山記念館というのが公園内にあるので、立ち寄ってみたのだが、万葉とは関係ないようなので、パス。(万葉の里城山記念館) 県道67号を東へと自転車を走らせていて目についた「耳うどん」に惹かれて、この店で昼食。耳うどん、なるものを初めて食べました。(野村屋本店・耳うどん) 耳うどんを食べた後は「目」をしっかり使って、三毳山へと銀輪を走らせる。浅沼町交差点で右折、県道16号を南下。途中で適当に左折、東方向へと走る。もう三毳山が見えているので、その山影を目指して走るだけ。(鐙塚公園) 途中立ち寄った公園には星田妙見宮を連想させる名の星宮神社があった。栃木県内には星宮神社が散見されるという。 (星宮神社)<参考>星宮神社 星宮神社とは はい、三毳山です。 <参考>三毳山・Wikipedia(三毳山・西側からの眺め) 山麓の公園に立ち寄るが、自転車乗り入れ禁止。(三毳山公園)<参考>みかも山公園(同上・万葉亭) 園内の万葉亭は無料休憩所。ロードトレインが園内を周回していましたが、乗客の姿はなく、寂しそうです。 (同上)(三毳山・北西側、東北自動車道佐野IC付近からの眺め) 山麓をぐるりと北側に回り込んだ北麓にあるのがかたくりの里公園。下調べではそこに万葉歌碑があるとのことであったので、それを目指す。 <参考>万葉自然公園かたくりの里(三毳山北麓のかたくりの里公園・管理センター) センター建物の裏手に万葉歌碑はありました。(かたくりの里公園・万葉歌碑) 歌碑を撮影していると雨がぱらつき出しました。 ザックから雨具を取り出し、上下共に着用、完全防備のスタイルで、今度は三毳山の南麓、反対側にある三毳神社里宮を目指す。そこにもこの歌の歌碑があるからです。 東北自動車道に沿うように走る道を南へと走る。雨は本降りになって来ました。 国道50号に出て東へ。三毳神社里宮は「道の駅みかも」の少し先にある。国道はすぐに栃木市へと入る。道の駅も三毳神社里宮も佐野市ではなく隣の栃木市の市域にあるのでした。三毳山付近には古代には東山道「三鴨の駅家」があったそうだが、今は道の駅である。(三毳神社・里宮)(境内地の万葉歌碑) 帰途は国道ではなく一つ北側の間道を走りましたので、道の駅の敷地の北西隅にこのような可愛い少女の石像があることに気付きました。 台座には本日の万葉歌が刻されていて「こなら娘像」とある。雨中の酔狂な銀輪散歩をねぎらってくれでもするように、ご登場遊ばされました。(道の駅みかもの北西隅にある「こなら娘像」) 三毳山万葉歌碑が三つ登場で、この日の銀輪散歩は切り上げることとしました。 明日は、安蘇の川原の万葉歌碑やその安蘇の川の候補地である秋山川や旗川を訪ね、また、もう一つの万葉歌(赤見山の万葉歌)の「赤見山」の候補地である、東山、赤見町萱場の山を撮影して来ようと思って居ります。では、皆さま、おやすみなさいませ。(つづく)
2015.11.18
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本日は若草読書会の新年会でありました。 出席者は智麻呂・恒郎女ご夫妻、凡鬼・景郎女ご夫妻、謙麻呂氏、小万知氏、祥麻呂氏、和麻呂氏、和郎女氏、りち女氏と偐家持、それに「れんげ亭」のママ・M女氏(M女氏のことは、今後、当ブログでは万葉風に「れんげの郎女(いらつめ)」とお呼びすることとします。)の12名。 れんげの郎女さんは、今回が初参加ということで、近鉄瓢箪山駅改札口まで小生がお迎えに上がり、会場の智麻呂邸までご案内する段取り。10時34分着の電車で来られることとなったので、その時間に合せて、改札口前でお待ちしていると、小万知さん、和麻呂さん、和郎女さんがやって来られ、続いてれんげの郎女さんがご登場。彼女を皆さんにご紹介申し上げて、一緒に語らいながら智麻呂邸に向かいました。 謙麻呂さんと祥麻呂さんは既にご到着。遅れて凡鬼さんとリチ女さんがご来場。景郎女さんは東花園で受け持って居られる講座があり、その講義が終わってからということで、昼食後の午後1時半頃からのご参加でした。 今回のスピーカーは偐家持が担当。テーマは「山部赤人」。赤人の時代背景、万葉での位置づけ、山部氏の系譜、赤人伝説のあれこれ、赤人歌の鑑賞など、予め用意した資料に基づき1時間程度お話申し上げました。 その後は昼食となり、寿司や恒郎女さんがご用意下さったお雑煮や参加者持ち込みの食べ物をいただき、また参加者や今回欠席の偐山頭火さん提供のお酒などをいただきました。れんげの郎女さんからも城崎旅行のお土産やお菓子やおつまみ・お酒を頂戴し、楽しい語らいの時間を過ごしました。れんげの郎女さんと和郎女さんとは所用ありで途中で退席されましたが、他のメンバーは午後5時過ぎまで、各自が今回のために作った短歌や俳句の披露、百人一首での歌留多取り、あれやこれやの雑談を楽しみました。 歌留多会では、Aグループ、Bグループの2組に分れて実施。両組通じて最多の札を獲得された景郎女さんが優勝。偐家持が任意に引いた札の歌と同じ歌の札を取っていた人に与えられる「ヤカモチ賞」は、恒郎女さんとリチ女さんのジャンケンとなり、ジャンケンに勝った恒郎女さんがヤカモチ賞、リチ女さんは残念賞となりました。 偐家持は、毎年、歌を詠み上げる役回りで競技には参加して居りません。参加しても景郎女さんや凡鬼さんらには及ぶべくもなく優勝は「かたかり」でしょうから、この役回りは似合いで、気に入っています(笑)。 また、参加者全員に偐山頭火さん提供の「河内温泉大学のタオル」が配られました。 最後に、恒例の、和郎女さん制作の押し絵のその他色々の作品の抽選となり、それぞれ抽選で引いた番号順に気に入った作品を貰うという催しで、盛り上がりました。和郎女さんのこれらの作品は写真に撮っていますので、追って当ブログでもご紹介申し上げます。 なお、上記の「持ち寄りの短歌・俳句」は、「若草歌壇」としてまとめるのが偐家持の任務なのですが、昨年の分も放置したままの不精をかこっている始末。いつになるかは明言致しかねますが、昨年の分と今回の分などをとりまとめた歌集にて、そう遠くない時期に河内温泉大学図書館の方でネット公開させて戴く所存です。 で、ここでは、偐家持の戯れ歌だけをご紹介させて戴くこととします。 偐家持が作れる歌1首併せ短歌5首和歌メール そこそこ来れば 仕方無み 数首戯れ歌 作るやわれも 河内辺宿祢黒人、若草読書会に臨みし歌1首併せ短歌雨雪の 降れる時にも いとはずて 暑き寒きも なにやせむ 生駒高嶺を 天の原 ふりさけ見つつ 通ふ日の 日数(ひかず)も知らず 経(ふ)る月も 年(とし)も知らざり 若草の 道ふみ平(な)らし 時じくに どちは来にける 語りつぎ 言ひつぎ行かむ 若草ホールは 反歌若草の ホールの鏡 のぞき見れば 混じる白髪(しらが)ぞ 年はとりける(山部赤人「望不盡山歌」の歌碑) ※この写真は、2011年5月の銀輪散歩で田子の浦港富士埠頭に在ったのを撮影し たものだが、現在は田子の浦海岸「ふじのくに田子の浦みなと公園」に移設さ れている。 河内辺宿祢黒人、すみれも摘まず作れる歌1首読書会の 資料作らむと せしわれぞ 手間ひま惜しみ 三夜(みや)はさぼれり(山部赤人「すみれの歌」歌碑) 赤人の鳥、とりどりに詠める黒人の歌1首赤人の 和歌の浦には 鶴(たづ)鳴きて 辛荷(からに)島は鵜 吉野は千鳥 歌人の花それぞれを詠める黒人の歌1首赤人は すみれ人麻呂 浜木綿か 家持撫子 花はそれぞれ
2016.02.07
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第16回和郎女作品展 本日は、久々の和郎女作品展であります。前回の第15回展は昨年の2月2日。最近は年1回ペースになっているようです。 今回は、ピントの合っていない写真もあって、ちと申し訳ございませぬが、ヤカモチが未熟なるカメラワークのことゆゑと、どちら様にもヒラにご容赦、オン願ひ申し上げ奉りまする。 <参考>過去の和郎女作品展はコチラからどうぞ。 先ずは連獅子と牡丹の豪華な屏風であります。 この連獅子の赤い方の子獅子は第170回智麻呂絵画展の冒頭を飾った絵のモデルにもなりましたので、ご記憶のお方もあるかと存じますが、その全貌はこのようなものでありました。(連獅子屏風) それぞれのパーツを拡大してご覧に入れると・・。(中央部分)それ牡丹は百花の王にして 獅子は百獣の王とかや桃李にまさる牡丹花の 今を盛りに咲き満ちて虎豹に劣らぬ連獅子の 戯れ遊ぶ石の橋是ぞ文殊の在します その名も高き清涼山峰を仰げば千丈の 漲る瀧は雲より落ち谷を望めば千尋の底 流れに響く松の風見渡す橋は夕陽の 雨後に映ずる虹に似て虚空を渡るが如くなりかかる険阻の山頭より 強臆ためす親獅子の恵みも深き谷間へ 蹴落す子獅子は転ころころ・・(連獅子) 第13回展にも、連獅子をテーマにした作品がありますが、このように親子獅子・牡丹花と揃ったものは初登場であります。 (左部分) (右部分) さて、お次は、毎回の新年会恒例の干支をテーマにした押し絵であります。(桃と猿) 上の「連獅子」の言によれば、牡丹に劣る桃のようですが、それは「花」のハナシにて「実」のことには非ず、と桃太郎猿は申して居ります。(柿と猿) 猿にはやはり柿ですな。勿論、牡蠣では駄目。子規だって、牡蠣を食ったら「うまい」と言うだけで句の一つも作らなんだので、法隆寺の鐘も鳴らなかった。 子規の場合は鐘が鳴ったが、漱石の場合は銀杏が散っただけ。猿の場合は、この後「猿蟹合戦」というドタバタ劇となるのであるが、今日は蟹がサボっていて出て来ないので、ご覧のように平和な景色。(親子猿) 猿は獅子のように我が子を谷に突き落とすなどという荒っぽい育て方はしないのである。百獣の王なんぞという称号に何の意味も感じないところは猿もさるものなのである。(打出の小槌と猿) しかし、猿は猿真似。ヒト様の真似をして「鐘」ならぬ「カネ」がいいと打出の小槌なんぞを引っ張り出したりもするところがまだまだでごザル。 (開運招福の猿) (三猿) まあ、そんなお猿も今年1年は主役。運を開くのも幸せを招くのも猿がままに、なのであります。 そんなヒト様の手前勝手なお願いの数々に嫌気がさしたか、見ザル、言わザル、聞かザルを決め込んで居るサルも居ます。こうして置けば、嗅いで食うことだけに専念できるという次第。 以下は、小物集。 懐紙入れは、財布にもなりますかな。(懐紙入れ) (同上) (同上)(同上) それを小さくした名刺入れ。 (名刺入れ)(ストラップ) 以上、2月7日の若草読書会新年会にお持ち下さった作品の一部を撮影して作品展を開かせて戴いた次第であります。(お猿の籠屋) 上は、智麻呂邸にあった和郎女未発表作品「お猿の籠屋」。 カネをばらまきながら行く景気のよい籠屋さんであります。日銀総裁のご親戚でしょうカネ。このバラまかれたカネを拾っても使い方を知らぬサル世界にあっては、それも猿芝居、一人芝居にて、エ~サ、エ~サ、エッサホイ、サッサなのであります。 ということで、新年らしきおめでたい作品展となりました。 展示解説に、謹賀新年らしからぬ一部不適切な「猿回し」いえ、「言い回し」のありましたこと、謹んでお詫び申し上げます。謹詫新年。 本日も、ご来場、ご覧下さり、ありがとうございました。
2016.02.11
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大伴家持は養老2年(718年)の生まれなので、今年が生誕1300年に当たる。尤も、養老元年(717年)生まれという説もあるが、当ブログは養老2年説であります。 718年の干支は戊午(つちのえうま)であるから、大伴家持さんはウマ年の生まれである。因みに、偐家持は戊子(つちのえね)の年の生まれ、つまりネズミ年の生まれである。今年は戊戌(つちのえいぬ)で、イヌ年ですから、両者共に十二支で言うところの、所謂「年男」ということにはならない。しかし、「干」の方は「戊」で今年と一致しているから、十干で言えば「年男」とも言える。特に大伴家持さんの方は、生誕1300年という節目の年であるから、こちらは「年男」と言うのが相応しいのではないか。 ということで、今年の若草読書会は「大伴家持の女性関係」というテーマで話をすることになっている。目下、その資料作りをして居りますが、下記の年表もその一つ。何かの参考になるかとブログ記事にアップして置くこととします。大伴家持関連年表718年(養老2)家持1歳 家持誕生。父・旅人54歳 藤原不比等、養老律令撰進719年(養老3)家持2歳 首皇子朝政に参画720年(養老4)家持3歳 日本書紀成る。 右大臣藤原不比等死去。724年(神亀元)家持7歳 首皇子即位(聖武天皇)726年または727年(神亀4)家持9歳または10歳 旅人、大宰府長官(大宰帥)拝命、赴任 (この時家持も同行したか。) この当時、山上憶良は筑前守であった。(筑紫歌壇)728年(神亀5)家持11歳 旅人の妻、大伴郎女死去。 夫(大伴宿奈麻呂)を亡くしていた坂上郎女は、 娘の坂上大嬢(7~9歳)を連れて大宰府に下向。729年(天平元)家持12歳 長屋王事件 10月7日旅人、藤原房前に手紙を添え、琴を贈る。 (巻5-810~2)730年(天平2)家持13歳 1月13日梅花の宴(巻5-815~846) 6月旅人重病 10月旅人、大納言に昇進、大宰帥の任を解かれ帰京。 家持も共に帰京。731年(天平3)家持14歳 7月25日旅人死去。732年(天平4)家持15歳 処女作の歌(巻8-1441)733年(天平5)家持16歳 家持、この頃から仕官したと見られる 初月の歌(巻6-994) 坂上大嬢との歌の贈答始まる。 笠女郎との恋愛 山上憶良死去。734年(天平6)家持17歳 坂上大嬢との仲は中断、その他の女性との歌の贈答始まる。737年(天平9)家持20歳 天然痘の大流行。藤原4兄弟相次ぎ死去。 橘諸兄、右大臣に就任。738年(天平10)家持21歳 内舎人任官(養老元年生誕説では737年とする。) 10月17日橘奈良麻呂の宴席で内舎人として歌を詠む(巻8-1591)。739年(天平11)家持22歳 蔭位により正六位下に初叙? 6月亡妾悲傷の歌(巻3-462、464~74) 坂上大嬢との歌の贈答再開(大伴家持と坂上大嬢の像)※この像は高岡市万葉歴史館にあるもの。 写真はブロ友のあすかのそらさんの ブログ記事に掲載の写真を転用させ ていただきました。740年(天平12)家持23歳 9月3日藤原広嗣の乱 10月23日広嗣捕縛。斬首(11月1日) 10月29日聖武天皇、東国行幸(彷徨の5年が始まる。) 家持も内舎人としてこれに従う。 11月伊勢国河口行宮(巻6-1029) 狭殘行宮(巻6-1032~3) 美濃国多藝行宮(巻6-1035) 不破行宮(巻6-1036) 12月15日恭仁京造営開始743年(天平15)家持26歳 7月26日聖武天皇紫香楽離宮に行幸。 家持は供奉せず、恭仁京にとどまっていた。 8月16日恭仁京讃歌(巻6-1037) 橘諸兄、左大臣に就任。 大仏造立の詔、墾田永代私有令発布。744年(天平16)家持27歳 1月11日家持、活道岡で市原王と宴(巻6-1043) 閏1月安積皇子急死。 家持、安積皇子の薨去を悼む歌を詠む(巻3-475~7、478~80)。 難波京が皇都と決まる。745年(天平17)家持28歳 平城京遷都。 1月7日家持、従五位下に叙される。746年(天平18)家持29歳 1月元正上皇の宴に参席、応詔歌を詠む(巻17-3926) 3月10日家持、宮内少輔に就任 6月21日家持、越中守に転任。 8月7日家持、越中での最初の宴席。(巻17-3943~55) 9月25日弟・書持死去。家持、挽歌を作る。(巻17-3957~9)747年(天平19)家持30歳 家持、病臥。(巻17-3962) 3月30日二上山之賦(巻17-3985~7) 4月24日布勢水海遊覧の賦(巻17-3991~2) 4月27日立山之賦(巻17-4000~2) 5月家持、税帳使として上京748年(天平20)家持31歳 1月29日「あゆの風」連作4首(巻17-4017~20) 2月出挙のため越中諸郡を巡行。(巻17-4021~9) 3月23日橘諸兄の使者・田辺福麻呂が来越、宴席(巻18-4032~55) 4月21日元正上皇崩御。749年(天平勝宝元)家持32歳 2月22日陸奥国より黄金貢上。 4月1日聖武天皇、東大寺に行幸、廬舎那仏に黄金出土の報告。 この折に、大伴・佐伯両氏を「内の兵」と称賛。 同族と共に家持も昇叙され、従五位上となる。 4月14日天平感宝に改元。 5月5日東大寺の占墾地使の僧・平栄らを迎えて宴席。(巻18-4085) 5月12日陸奥国出金詔書を賀く歌(巻18-4094~7) 5月15日尾張少咋を教え諭す歌(巻18-4106~9) 6月1日雨乞いの歌(巻18-4122~3) 6月4日降雨を賀く歌(巻18-4124) 7月2日安倍皇女天皇に即位(孝謙天皇)、天平勝宝に改元。 藤原仲麻呂、大納言に就任。紫微中台を創設。 家持、秋(7月)に大帳使として上京し、 初冬(10月)に坂上大嬢を伴って帰任。750年(天平勝宝2)家持33歳 1月2日ほよの歌(巻18-4136) 2月18日墾田検察の時の歌(巻18-4138) 3月1日から三日間で「越中秀吟12首」を詠む(巻19-4139~50) 3月9日憶良の歌に和する歌(巻19-4165) 3月27日大宰府の梅花宴に追和する歌(巻19-4174)751年(天平勝宝3)家持34歳 7月17日家持、少納言に任ぜらる。 8月5日京に旅立つ。旅中、諸兄を言祝ぐ歌を詠む(巻19-4256) 11月懐風藻成る。752年(天平勝宝4)家持35歳 4月9日東大寺大仏開眼会 11月8日聖武上皇、橘諸兄邸にて宴(巻9-4269~72)753年(天平勝宝5)家持36歳 2月23日・25日春愁絶唱3首(巻19-4290~2) 8月大伴池主、中臣清麻呂と高円山に遊ぶ(巻20-4297)754年(天平勝宝6)37歳 4月5日家持、兵部少輔転任。 11月1日山陰道巡察使就任。755年(天平勝宝7)家持38歳 2月家持、防人閲兵のため難波に赴く。 防人歌採集し、これに和する歌作る。 (巻20-4331~6、4360~2、4398~4401) 10~12月橘諸兄、上皇誹謗と謀反の意図ありと密告される。756年(天平勝宝8)家持39歳 2月諸兄辞職 3月家持、聖武上皇の堀江行幸に従駕。 5月2日聖武上皇崩御、遺詔により道祖王立太子。 6月大伴古慈斐出雲守解任 6月17日家持、一族を諭す歌を詠む(巻20-4465~7)757年(天平宝字元)家持40歳 1月6日橘諸兄死去。 4月大炊王立太子。 6月16日家持、兵部大輔に昇任。 6月23日家持、三形王宅での宴席で歌を詠む(巻20-4483) 7月4日橘奈良麻呂の変 12月18日家持、再び三形王宅の宴席で歌を詠む(巻20-4490)758年(天平宝字2)家持41歳 6月16日家持、因幡守に転任。 7月5日大原今城が家持のため自邸で餞の宴を開く。 家持、別れの歌を詠む(巻20-4515) 8月1日大炊王即位(淳仁天皇)759年(天平宝字3)家持42歳 1月1日家持、因幡国庁での新年の歌(巻20-4516)762年(天平宝字6)家持45歳 1月9日家持、信部(中務)大輔に転任。間もなく帰京。763年(天平宝字7)家持46歳 3月または4月藤原良継の乱。家持、乱に連座、現職解任。 京外追放となるが、 良継が自分一人でやったと言い張ったので、 間もなく放免となる。764年(天平宝字8)家持47歳 1月21日家持、薩摩守転任(左遷)。 9月11日藤原仲麻呂の乱 10月9日淳仁廃帝、称徳天皇重祚。道鏡を重用。765年(天平神護元)家持48歳 2月5日家持、薩摩守解任?その後2年間の消息不明。767年(神護景雲元)家持50歳 8月29日家持、大宰少弐就任。770年(宝亀元)家持53歳 6月16日家持、民部少輔転任。 8月4日称徳天皇崩御、道鏡失脚。 9月16日家持、左中辨兼中務大輔転任。 10月1日白壁王即位(光仁天皇) 家持、正五位下に叙位、749年以来21年振りの昇叙。771年(宝亀2)家持54歳 11月25日家持従四位下に叙位。二階級特進。772年(宝亀3)家持55歳 2月16日家持、左中辨兼式部員外大輔に転任。774年(宝亀5)家持57歳 3月5日家持、相模守に転任。 9月4日家持、左京大夫兼上総守に転任。775年(宝亀6)家持58歳 11月27日家持、衛門督(宮廷守護の要職)に転任。776年(宝亀7)家持59歳 3月6日家持、伊勢守に転任。777年(宝亀8)家持60歳 1月7日家持、従四位上に叙位。778年(宝亀9)家持61歳 1月16日家持、正四位下に叙位。780年(宝亀11)家持63歳 2月1日家持、参議昇任、議政官の一員となる。 2月9日家持、右大辨兼任781年(天応元)家持64歳 4月3日山部王即位(桓武天皇) 4月4日早良親王立太子。 4月14日家持、右京大夫兼春宮大夫に転任。 4月15日家持、正四位上に叙位。 5月7日家持、左大辨に転任(春宮大夫兼務のまま)。 8月8日家持、母の喪により解任されていた職に復任。 11月15日家持、従三位に叙位 12月23日光仁上皇崩御。 家持、山作司(山陵を造る官司)に任命さる。782年(延暦元)家持65歳 閏1月19日家持、氷上川継の謀反に連座して解任、京外追放。 5月17日家持、参議従三位兼春宮大夫に復任。 6月17日家持、春宮大夫兼陸奥按察使鎮守将軍に転任、 ほどなく多賀城に向かう。783年(延暦2)家持66歳 7月19日家持、陸奥駐在のまま中納言就任(春宮大夫兼任)。784年(延暦3)家持67歳 1月17日家持、持節征東将軍兼任 11月11日長岡京遷都785年(延暦4)家持68歳 8月28日家持、死去(785年10月5日)。 9月23日藤原種継暗殺される。 9月24日種継暗殺事件の首謀者として、家持の生前の官位剥奪。 9月28日早良皇太子、廃太子となり、淡路へと流される途中で死去。794年(延暦13) 10月22日平安京遷都800年(延暦19) 7月19日早良親王に崇道天皇号を追贈し、 井上内親王を皇后位に復位、 その墓を山稜とする。806年(延暦25) 3月17日桓武天皇崩御、 病床にて、 天皇が種継暗殺事件関係者を本位に復する詔を発し、 家持も従三位に復する。 以上の年表は、2009年に「大伴家持の生涯」というテーマでお話をした時に作成したものがPCのマイドキュメントに残されていたので、これを再編集すればよく、比較的簡単に行きました。 今回は、大伴家持さんの女性関係がテーマであるから、彼と歌をやり取りした女性をとり上げなくてはならない。万葉集から知ることのできるそれらの女性は、名前が判明する女性が10名(追記注参照)、妾とのみ記されている女性1名、その他「娘子(をとめ)」とか「童女(をとめ)」と記されている女性が数名あり、家持が彼女らに贈った歌や彼女らが家持に贈った歌を全て書き出すとなると結構面倒な作業である。(追記注:2018.1.11.)10名というのは間違いで、数えてみると、正妻の坂上大嬢を含めて12名でした。坂上大嬢、笠女郎、巫部麻蘇娘子、日置長枝娘子、山口女王、大神女郎、中臣女郎、河内百枝娘子、粟田女娘子、紀女郎、安倍女郎、平群女郎。 目下、その作業中であるが、気が向いた都度の作業にて、なかなかはかどらない。いつ完成するのやら(笑)。まあ、今月27日が読書会の日であるから、まだ十分な日数はある。
2018.01.06
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(承前) 仙台、多賀城、塩竃、松島の銀輪散歩を終えて、今日(4月27日)は仙台空港から伊丹空港へと帰阪であります。 早めに空港にやって来て昼食を空港で済ませて土産物などを買って、まだ時間が随分あるので、空港周辺を散策してみることに。 空港のコインロッカーに荷物を預けて徒歩で出掛ける。 空港へのアクセス道路を貞山堀に沿って南へと行く。先ず目に入ったのは、ポツンと2軒だけ取り残されている建物。「うなぎ・天ぷら ふじ乃」という看板の店と「和食・すし まこと寿し」という看板の店。何れも廃屋と言うか廃業して打ち棄てられた感じである。津波とその後の周辺一帯の立ち退きで店を廃業したということであるのだろう。(廃業した店の建物、右奥に見えるのが仙台空港) 工場やレンタカーの店・事務所などがポツン、ポツンとあるものの、周辺には住居なるものが一切ないので、店を再開しても成り立たないことは素人目にも分かるというものである。 貞山堀の向こう側にある千年希望の丘公園を少しばかり見てみようというのが散策の目的である。 千年希望の丘については下記<参考>をご参照下さい。<参考>千年希望の丘とは 相の釜橋という橋で貞山堀を渡り、対岸へ。(貞山堀<南貞山運河>相の釜橋上から北方向を望む。左奥が仙台空港) 貞山堀は阿武隈川河口の岩沼市納屋から松島湾の塩竃市牛生まで続く全長33kmの人工運河。近世初頭(1600年)から明治22年(1889年)にかけて工事が行われたもので、北部、中部、南部の3区間に区分される。である 最初に開通したのがこの南部水路で、南は阿武隈川河口の岩沼市納屋から北は名取川河口の名取市閖上までをつなぐ全長15kmの運河である。 貞山堀(貞山運河)という名は、伊達政宗の法号貞山公に因んで、全水路が完成した明治になって名付けられたものだそうな。<参考>貞山堀(神社) 公園入口に神社があった。 これはもう神社と言うしかない神社。相野釜地区にあった神社を全て此処に集めたという感じである。(同上) 鹿島神社、稲荷神社、古峰神社それに蓬莱山と書いてあるのだろうかナントカ山大権現という石漂が並んでいる。 先ず、目の前の丘に行ってみる。2号丘と表示されている。(第2号丘) 丘の標高は海抜11m。 頂上へは、階段でも上れるし、らせん状のスロープでも上れる。 階段の中ほどに先の震災での津波の襲来高さ8mの線が表示されていて、この高さより下が水没したことを教えている。(同上) 丘の頂上には、この相野釜地区に於ける千年希望の丘公園の見取り図が嵌め込まれた石が設置されている。写真をクリックして大きいサイズの写真でご覧下さい。(以下、同様です。)(付近見取図) 仙台空港の被災状況と、ポンプ車を集中投入して早期復旧に取り組んだことなどを紹介したパネルを嵌めた碑や相野釜地区の被災前の航空写真に現在の公園の位置図を重ね合わせたパネルを嵌めた碑もある。(仙台空港を早期再生の碑)(相野釜地区被災前の写真と千年希望の丘の碑) 被災前の相野釜地区の様子は上の航空写真でよく分かるが、多くの民家や田畑があったことが見て取れる。今は公園が広がっているばかりである。人影も殆どない。 住民は内陸部へ集団移住して、貞山堀から先の海側は人の居住してはならない区域となっているようです。(第2号丘からの眺め)(同上) 震災慰霊碑に合掌。 亡くなられた方の氏名が刻まれている。 左端に建っている石碑は、天皇皇后両陛下行幸啓記念碑である。(東日本大震災慰霊碑)(多目的広場) 空港に引き返し、コインロッカーから荷物を取り出し、搭乗手続き。と言っても保安検査場を通過するだけのことであるのだが。 定刻通りに仙台を離陸、伊丹に到着です。 4月18日から到着ロビーが中央に集中され、従来と異なる動線となっていたので、少し戸惑いましたが、バス停へ。 バスを待っていて見上げると、モノレールの線路をチキンラーメンが走って行きました(笑)。(チキンラーメンが行く) 以上で、銀輪散歩完結ですが、最後に今回見かけた花たちをご紹介して置きます。写真をクリックしていただき、大きいサイズの写真でご覧いただくと、一層美しいかと思います。 先ずは、マムシグサです。(マムシグサ 多賀城廃寺跡公園の林の中にて) 次は、ドウダンツツジ。(ドウダンツツジ 多賀城廃寺跡にて)(同上) そして、珍しい桜、ギョイコウ(御衣黄)です。(御衣黄桜 鹽竈神社にて)(同上) 次は、既に紹介済みですが、別の写真によるウワミズザクラ。(ウワミズザクラ 東塩釜駅手前の路上にて)(同上) そして、ヒメスミレ。 これは多分そうだろうと言うもので、間違っているかもしれません。(ヒメヒスミレ 双観山展望台への道にて) とても、とても、小さい花です。(同上) 他にも色々な花を見掛けましたが、撮影したのは以上です。 本日もご覧下さり、ありがとうございました。(完)
2018.05.07
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(承前) 雨が降ったり止んだり。 覚悟を決めて、上衣もズボンも雨装束に身を固め、ショルダーバッグタイプの運搬袋にトレンクルを収納し、小浜駅へと向かう。 8時15分発敦賀行きに乗車。(小浜駅1番ホーム) 東小浜→新平野→若狭有田→上中→藤井→三方→気山、小浜駅から7つ目の駅・気山駅に到着、9時2分。無人駅。駅前にあるのは自動販売機とトイレだけ。人影はなし。トレンクルを組立て、出発。 駅の東側の高い場所を国道27号が通っている。その国道と並行してその下を通っている道を南に行き、踏切を渡って線路の西側に出る。(気山駅ホーム) 踏切を渡って広い道を北へ。 この道は県道244号、直進すると久々子湖の南西岸をかすめてレインボーライン自動車道を越えて日向湖へと通じている。 久々子湖の湖岸沿いの道を走って、その先でこの県道244号に出るべしで、右に入る道、若狭梅街道を行く。(若狭梅街道入口) 久々子湖に到着。「くぐしこ」と訓みます。(久々子湖) 梅街道は下の写真の建物が写っている側の湖岸を通っているのであるが、今回は、極力短い距離で三方五湖を巡るという計画なので、これを行かず、南岸沿いの細道を辿ることとする。(同上)(同上) ところが、この先辺りから舗装が無くなり、悪路となる。(同上) 天気が好ければ、道も乾いていて、デコボコ道も平気なのだが、折からの雨で道はぬかるみ、道全体が水没しているようなところまである。止む無く自転車を降りて、あぜ道に上がったりしてこれを回避するなど、悪戦苦闘の連続である。で、湖岸沿いの道は諦め、湖岸から奥に入った、今少しましな道を行く。 湖岸を離れて暫く行くうちに、広い舗装道路に出たが、既に方向感覚が狂ってしまっていたと見え、これが出発当初に走った県道244号で気山駅南側踏切に通じている道だとは気がつかず、右に行くべきところ、左に行ってしまう。(宇波西神社) そこで出会ったのが宇波西神社。 これで「うわせ」とは、万葉仮名風である。(同上・由緒)<参考>宇波西神社・Wikipedia ウガヤフキアエズ・Wikipedia 宇波西神社の祭神はウガヤフキアエズノミコト。山幸彦の子にして、神武天皇の父親である。 4月8日の例祭では、県の無形文化財である「王の舞」などが奉納されるとのこと。(王の舞の像) 持参の地図を確認。 逆方向に走って来てしまったことに気付き、引き返す。 引き返す前に目にとまった石碑。道を挟んで神社の反対側にあった。 何の碑かと見ると、行方久兵衛翁頌徳碑とある。(行方久兵衛翁顕彰碑)(同上・副碑) 行方久兵衛(なめかたきゅうべえ)は、水月湖と久々子湖をつなぐ浦見川を開削した人物で、この結果、三方湖や水月湖が大雨などで増水しても久々子湖経由で若狭湾へと流れ出ることが可能となり、周辺の村々が水没するなどの水害がなくなったとのこと。 わが河内で言えば、大和川の付け替え工事をした中甚兵衛さんのような人物である。 この後、その浦見川沿いを走って水月湖へと出るのが予定コースであってみれば、「この碑を見て置け。」という天の声であったか。右でなく左に来てしまった「逆走」も天の声に従ったまでということになる(笑)。 県道244号を北へと走る。 やがて右手に久々子湖が見え、その浦見川に架かる橋を越えると1kmほどで、レインボーラインの入口料金所である。これを左に見てレインボーラインを越える。越えてすぐに左折。レインボーラインに沿った北側の道を行くと日向湖畔に出る。 ネット地図でコース取りを検討した際に、湖畔に出る地点に喫茶店の表示があったので、ここで珈琲をとも考えていたが、店仕舞いをされたのか、人の気配がなくクローズ。(日向湖) これまでの写真でもお分かりのように、カメラのレンズに雨滴がついたりして、写真が点々とぼやけて写るという状態。時々、ティッシュやハンカチで拭うのだが、完全には拭えないので、写りの悪い写真になっています。 これも「雨」の感じが出て、一興という風に考えることとします。(同上) 雨天なのに、多くの船影。釣り船であるか。 雨なのに物好きなことだ・・と思ったが、雨なのに自転車で走っているヤカモチの方が余程に物好きであるということに気が付く(笑)。 ネットからの地図を印刷してコース地図なるものを準備してやって来たのだが、何度かこれを取り出して見ているうちに、雨に濡れ、ところどころ滲んで判読不能になりつつあるほか、紙と紙がくっついて、何やら雑巾か何かのような得体の知れない代物に変化しつつある。 どうやら、この先、地図に頼ることが不可能となるのは時間の問題のようである。 日向湖から来た道を浦見川へと引き返す。 浦見川沿いの道は渓谷の道を行く雰囲気である。 かなりの上りがあって、下りに入る。道は勿論舗装なしで、川側には転落防止用の柵などもないので、余り川側に寄り過ぎて崖下に転落しないよう要注意である。かなりの高低差であるから落下したら大怪我だろう。(浦見川) 水月湖に出る手前の橋の上から浦見川を撮る。 まるで自然の深い渓谷のような水路。とても人工のものとは思えない。 久兵衛さんが指揮を取った開削工事が、さぞかしの難工事であったことが自ずからに理解される。(同上・水月湖側 上部開けた先が水月湖である。) 水月湖畔に到着。 湖畔に旅館だか料亭だかそれらしき建物があるのだが、もう廃業されているのか、休業中なのか、何やら打ち捨てられた感じで、人の気配がありません。(水月湖) 相変わらず雨が降り続いている。(同上) 水月湖から菅湖への道は、暫し湖岸を離れての、畑や木立の中の道となる。南へと下って行くと、右手に菅湖が見えて来た。(菅湖) 菅湖は奥で水月湖とつながっているので、上の写真で言えば、左右の山影が切れている中央部分の奥は水月湖である。(同上) 上の写真の奥の山の向こう側が水月湖。ヤカモチはこの山の向こう側から右手の山沿いの道を湖岸沿いにこちらへと銀輪を走らせて来たことになる。(野鳥観察舎) 野鳥観察舎なるものが目にとまる。どんなものかと立ち寄ってみた。 利用する人も居ないのか、放置されている感じの丸太小屋。2階部分への木組みの階段には、狸か熊か野生動物のものと思われる糞が点々とある。それらを踏まぬように注意しながら、観察ルームに入ると、糞は更にも酷い状態で、とても足を踏み入れる気にはならない。 それに観察用の窓部分は、ビニールかプラスチック製の透明素材を貼り付けたものであるのだが、汚れていて余りよく見通せない。野鳥観察のためなら、これは無い方がいい。雨や雪が舞い込むかも知れないが、ケモノたちの糞の状況から見ても、冬の積雪期にこの小屋に来て野鳥を観察しようというような人は居ないのだろうと思う。 どうであれ、適切な維持管理ができないのなら、こんなものは造らない方がいい。不衛生極まりない気持ちの悪い物を見てしまって興醒めもいいところである。 これを過ぎたところで道は直進と右折の二股道になる。(菅湖から三方湖への道 ―線:予定のコース ー線:実際のコース) この先で道を間違うのであるが、その経緯を説明するのが難しいので、上の略地図で説明します。 A地点が野鳥観察舎のある場所。 これを南下すると道はカーブして東向きとなる。ここで東に直進する道と南へ右折する道とに分岐する。 右折する道を行く。ここまでは地図の予定コース通り。 B地点が問題の地点。 ここで―線のように直進なのであるが、―線のように左折してしまったのでした。 何故このような間違いをしたかと言うと、―線のような道はなく、道としては左カーブの一本道の形状をしていたからである。少しばかり左にカーブしてまた右にカーブして南に向くのだろうと思いながら走っていた次第。 ところが一向に右に入る道が無く、そのうちに頭の中で方角に混乱が生じて来て、どちらを向いて走っているのかが怪しくなって来た。 手許の地図は濡れて滲んでぐちゃぐちゃになっているから、確かめようもない。そうこうしているうちにC地点に出た。もう、方向感覚が狂ってしまっているから、右に行くべきか、左に行くべきかが分からない。すると運の悪いことは重なるもので、サイクリングロードと書かれた矢印の表示板があって、その矢印が「左折方向」を示していた。 で、D地点まで行ってしまう羽目に。ここで、何やら記憶にある景色となり、出発地点の気山駅の踏切近くまで戻って来てしまっていることに気付く。 こうなると、もう元の正しいコースに立ち返ることは困難。その気力もない(笑)。仕方がないので、国道27号を走って、三方駅まで行き、そこから三方湖に回ろうと、D地点から高い場所にある国道27号に出るためE地点に向かって坂道を上る。 ところが、国道27号は歩道が無く、折からの雨もあって、猛スピードで走る車が跳ね上げる水しぶき、特に大型トラックのそれなどを目にすると、とても車と並走して車道を走る気にはなれない。 D地点に引き返し、C地点経由でJR線沿いの道を南へ、F地点方向へと進み、三方駅を目指すこととする。 ネット地図で下調べをした―線の道は、舗装のされていない、久々子湖沿いのぬかるみ道のような道であったのかもしれない。B地点でその道の入口を見落としてしまうような細道であったのかも。図上作戦の限界という奴である。 そろそろ、昼食のことも考えなくてはならないのであるが、何処にもそのような店が無い。喫茶店などそれらしき店もあったが、どれも休業中なのか廃業したのか、店は閉じたままである。 三方まで行けば何とかなるだろうと南へと走る。 やがて、三方石観音という表示のある交差点に出る。ここの参道には万葉歌碑があることを下調べによって知り、三方五湖を巡った後に立ち寄る計画でいたので、道を間違って順番が狂うことになるが、三方湖よりも先にこれに立ち寄ることとする。 交差点を左折し、東へと坂道を上る。JR線(小浜線)の踏切を渡って、国道27号に出ると、道の向かい側に石観音の参道と駐車場への入口の表示があった。ここから上って行くようである。 さて、突然ですが、書くのに疲れました。 ここで、小休止とします(笑)。 続きは明日にします。(つづく)
2019.05.06
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年賀状は今年を限りとさせていただきます、という趣旨の記された年賀状が何年か前から届くようになり、今年も、そのような賀状が3枚ありました。 また、年賀状ではなく年賀メール送信に切り替えている友人もいる。 そんなことで、年賀状を出す数も、僅かずつではあるが毎年減少して来ているのであるが、未だかなりの数になるので、宛名も文面も全てPCからの印刷で済ませている。 頂戴した年賀状の中でも手書きの書き込みのあるものやご自身の絵などが掲載されているものなどは、やはり目をひくこととなる。 そのような年賀状の一部を紹介させていただきます。 一種の絵画展であります。(琵琶湖・比良山)(飛鳥II タイムスリップ母港横浜)(万葉酒・令和の春)(二月堂・裏参道) 以下は絵の部分のみトリミングして掲載します。(ウイーン・分離派会館) 最後は、智麻呂絵画です。(凡鬼さんの蕪)<参考>似たテーマの過去記事 年賀状 2009.1.4.(注)掲載の絵画の著作権は制作者に属しますので、これらの無断転載はお断り申し上げます。
2020.01.06
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先日(9日)に邂逅展に出掛けたことは同日付の記事「2020邂逅展」にて紹介申し上げた通りですが、その記事でも触れた通り、二つ手前の西大寺駅から会場までの往復をトレンクルで銀輪散歩いたしました。 その折に撮った写真もありますので、これを記事にまとめてみます。 近鉄・大和西大寺駅南口で自転車トレンクルを組み立てて出発。秋篠川を渡って、平城宮趾公園に入り、朱雀門方向へと走る。(★平城宮趾公園) 朱雀門から少し東へ行ったところに、大きなクヌギの木がありました。(★同上) 奥に若草山が見えている。 往路で撮った写真はこれだけ。 今回、ブログに写真をアップするに際して気が付いたことは、この折の写真の何枚かは、フォト蔵に登録していないのでした。 フォト蔵に登録すると、元の写真を500×375程度のサイズに縮小してPCのマイアルバムに一時保存し、ブログに掲載した後はこれをPCのアルバムから削除するというのが、ヤカモチのお決まりのやりかたであるところ、うち何枚かは登録未了であるのに登録済みと勘違いしてブログ掲載用にダウンサイズしてしまったよう。 従って、大きいサイズのフォト蔵写真というのが、これらの写真には存在しない。手元のPCにはサイズ縮小の写真に上書き変更されてしまっているものが残っているだけ。今からフォト蔵に登録してもブログ掲載サイズのものしか登録できないので意味がない。 という訳で、フォト蔵写真とリンクされていない写真が当記事には混在します。それらには★印を付して置きます。 復路は新大宮駅前の喫茶店で昼食をとってから、奈良ロイヤルホテルの前経由で東院庭園の脇から平城宮趾公園に入りました。(阿倍野仲麻呂の歌碑) 奈良ロイヤルホテルの前に、以前はこのような歌碑はなかったように思うが、いつ頃建立されたのだろうか。天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも (安倍仲麿 古今集406 小倉百人一首7) 東院庭園を柵の外から覗き見て、平城宮趾公園内へ。(東院庭園) 公園内を走っていて目についた叢林に近寄ってみたが、ただ林が残されているだけで、何もない。遠目には神社か古墳か何かの遺跡かと見えたのだが、山茶花が咲いているだけ。(★平城宮趾公園) この時期は、山茶花の花が目立つ。 大極殿裏の道脇の垣根も「サザンカ、サザンカ、咲いた道」の風情。(平城宮趾公園・大極殿北側道路脇の山茶花) 大極殿の裏側(北側)の道路はバス通りのようで、「佐紀町大極殿」というバス停がある。(大極殿前のバス停) バス停も平城宮風の建屋になっている。 ここで、ふと思い出したのが隆光大僧正の墓のこと。 奈良時代とは無関係な江戸時代の坊主の墓のことでありました。 数年前、源氏三代墓に立ち寄った際に、彼の墓を見掛け、佐紀にも彼の墓があると知って、そのうちに訪ねてみようと思っていたことを思い出したのでありました。<参考>銀輪散歩・彼方の赤土の小屋に 2014.3.3. 調べてみると、それは2014年3月のこと。その時のブログ記事(上記参照)には「彼の生地である奈良市二条町にある超昇寺跡にある本墓も似たりよったりの墓らしいが、機会があれば訪ねてみましょう。」と書いているが、それを果たさぬままに来た次第。思い立ったが何とやらで、その墓があると記憶する場所に向かう。 場所は佐紀神社の向かいにある幼稚園の裏手で、少しわかりにくいのであるが、進入路の道脇にこんな表示板があるので、それが目印である。(隆光大僧正の墓石の碑) その進入路はこんな風なので、この表示板が無ければ、ちょっと気が付かないだろう。(超昇寺跡・隆光墓進入路) 参考までに地図でその場所を示して置きます。(隆光墓位置図) 隆光というと、生類憐みの令を発令することを将軍綱吉に勧めた坊主というイメージであったが、最近の研究では、この政策が始まったのは貞享2年(1685年)以前と考えられており、隆光が将軍綱吉の帰依を得る契機となった筑波山知足院の住職についたのが貞享3年(1686年)のことであるから、彼がこの政策を将軍に勧めたのではないだろうという訳である。(隆光墓) 墓石は写真奥の花が供されている方の石がそれである。 手前の標石が目立ち過ぎるので、これが墓石かと思ってしまう。 隆光の墓石のほかにも何基かの墓石があるが、由縁のほどは存知せずであります。(隆光墓のある場所の他の墓) 数基ある墓石の中で隆光のそれが一番質素なのが面白い。 そんなこともあってか、標石の方にお参りする人も多いようで、お賽銭が標石の前に沢山置かれている。 墓守をする方がこれらを回収し、供花の購入費の一部に充てているのかもしれない。(標石裏面の碑文)<参考>隆光・Wikipedia 奈良県下の銀輪散歩過去記事は下記です。 銀輪万葉・奈良県篇(その1) 銀輪万葉・奈良県篇(その2)
2020.01.13
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昨日、今日といい天気です。 梅雨が明けた、と言ってもいい位な感じなのだが、前線の配置状態や太平洋高気圧の張り出し方など天気図的には、まだ梅雨明け宣言するのは早いというのが、今日の大阪ということでしょうか。(2020年7月18日午後3時半頃の水走公園の空) 上は、昨日の水走公園の空の写真である。 今日の空は、昨日よりも少し雲が多い印象を受けるが、青い空に白い雲という好天気にて、もう梅雨明けの空という風情である。 話が少し逸れるが、一昨日(17日)あたりから背中が重苦しく痛い感じがあって、肩でも凝っているのかと、昨日(18日)銀輪散歩で立ち寄ったこの水走公園で体を反らしたり、腕や肩をグルグル回したりの体操を、かなり入念にやってみたら、却って痛みが酷くなったようで、帰宅した夕刻からはズキズキと疼くような具合となり、咳をしたり、体をひねったりすると少し強い痛みが走るようになった。 で、ネットで「背中が痛くなる病気」で調べたら、狭心症、心筋梗塞、肺塞栓症、椎間板ヘルニア、十二指腸潰瘍、急性大動脈解離、膵炎、膵臓癌、腎炎、腎結石、尿管結石、胆嚢炎、脊髄腫瘍、骨粗鬆症による圧迫骨折、などが見つかった。 背中の痛む部位で病気は異なるが、背中の中ほどだと大動脈解離、心筋梗塞、肺塞栓症などが該当することとなる。 十数年前(2004年)に自転車の事故で背中の肋骨を5本折ったことがあった。その時の激痛は息もできない位のものであったが、そのような激しい痛みになる前の状態か幾分治癒軽快した段階の背中の痛みに感じが似ている。もし、骨折ならその部分に圧力を加えると強い痛みが走る筈だが、そういう風でもない。 こうしてPCに向かっていても、姿勢を伸ばしたり、変えたりすると背中に痛みが走る。これ以上、痛みが強くなると困るし、何か悪い病気であっても困るということで、救急医療病院でもある馴染みの病院へ電話を入れて、症状を説明の上、日曜日だが診察して貰えるかを照会すると、OKの返事。 一応、診察していただいた。問診と簡単な触診のみであったが、内臓関係の病気、動脈解離や心筋梗塞など重大な病気の可能性は低いと認められるので、筋肉の炎症の可能性が高いという診断。 明日、月曜日に整形外科を受診してみて下さい。痛みが激しくなったり、痛む場所に変化が見られるなどがあれば、すみやかに連絡して下さい、というのが医者の指示。湿布薬をもらった。が、これは貼っていない。この暑い時期に貼ると皮膚が荒れて激しい痒みに襲われるということを何度か経験しているので、使わないで様子を見ることとする。 結論は、明日以降に持ち越しであります。 さて、脱線話が長すぎました。本論に戻します。 昨日、水走公園で珍しい虫を見ました。(アオメアブ) トンボのような細長い胴体で、翅はアブやハチのような折りたたみ型という面白い姿。 調べると、ムシヒキアブ科に属するアブで、複眼が緑色なのがアオメアブといい、黒色なのがシオヤアブというらしい。 これは美しい緑色の眼球であるから、アオメアブである。(同上)<参考>アオメアブ シオヤアブ 頑強そうな逞しい脚、最強のハンターと呼ばれるそうだが、いかにもそんな風貌の虫である。(同上)(同上) この公園では、青い目の白猫にも出会いましたが、それはまた別の機会にご紹介申し上げましょう。猫は虫ではないので。 で、アオの付く蝶の写真を掲載して置きます。この蝶も水走公園の同じ広場で舞い遊んでいました。(アオスジアゲハ) 寝転がっていた木製ベンチから立ち上がって帰ろうとしていたら、こいつがのこのこやってきました。 アオクサカメムシです。アオカメムシの一種ですが、こいつも「アオ」が付くので、ここに参加する資格アリであります(笑)。(アオクサカメムシ) よく見ると、外翅の一部が欠損しています。 天敵に襲われたところを辛うじて逃げることができたということか。 カメムシの世界もなかなか過酷なようです。(同上) 右外翅は下部が欠けているだけですが、左外翅は付け根部分から全部無くなってしまっています。(同上) 外翅は、言わば翅の格納庫の扉みたいなもので、それが欠けても、生命にはすぐさまの影響はないようです。元気に動き回っています。 今日は銀輪虫散歩・青編といったところでした。<参考>虫関連の過去記事はコチラ。
2020.07.19
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近畿地方も今日から梅雨入り。例年より21日も早い梅雨入り。 観測史上最も早い梅雨入りだそうな。 銀輪散歩には有り難くない季節ということになる。 昨日は、銀輪散歩で立ち寄った加納緑地の木立の間に見えたのがこれ。 「京都」がズラリと並んでいました。(和束運輸株式会社のトラック) 赤い大きな文字で「京都」、「京都」。 ここは大阪なのに京都がズラリ。 チラリと見えた当初は何かの看板かと思ったので、何事かと近づいてみると、運送会社の駐車場に駐車中のトラックでありました。 和束運輸株式会社という側面の社名を見て納得。 和束町は京都府にある町である。 何度か銀輪散歩その他で訪れている町であり、馴染みの喫茶店「ペリカンの家」の店主のももの郎女さんのご出身地でもある。<参考>茶源郷「和束」・安積皇子墓 2014.11.26. 和束茶源郷まつりに行って来ました。 2017.11.5. 和束の地には安積皇子の墓があり、万葉にゆかりのある地。 茶畑の景色が美しい町である。 その辺のところは、上記の<参考>記事をご覧ください。<参考地図>(加納緑地位置図)(和束町周辺図)
2021.05.16
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銀輪散歩で見かけた虫の写真もそこそこの数になりましたので、今日は銀輪虫散歩であります。 先ずは、蛾から。 偐山頭火氏との銀輪散歩で見かけた珍しい蛾、ホタルガです。 奈良県河合町にある廣瀬神社の手水舎のコンクリートの地面に居るのを見つけました。珍しい蛾だと偐山頭火氏にも見せようとしましたが、同氏は蛾などは苦手なのか、明らかな拒絶反応(笑)。(ホタルガ) 手水鉢の近くの地面にじっとしているので、死んでいるのかと思ったが、近寄ってよく見ると触角を動かしているから、生きていることが見てとれました。参拝の人が手を清めるため手水鉢の前に立ったりした場合に踏まれてしまう危険がある。どこか安全な木の葉か草地に移動させようと手を伸ばすと、ひらひらと飛び立ち、参道反対側の木の葉にとまりました。 ヤカモチの心のうちを読み取って、自力で移動したのは感心な行動であります(笑)。移動後の姿が下の写真です。(同上) ホタルガはチョウ目マダラガ科ホタルガ亜科の蛾。 その名が示すようにホタルによく似た体色である。 ホタルガがホタルに擬態したのか、ホタルがホタルガに擬態したのかは知らぬが、両者のような擬態の関係をミューラー型擬態と言うらしい。<参考>ミューラー型擬態・Wikipedia ホタルは悪臭を持つものが多い。マダラガにも悪臭を持つものがいる。 従って、黒い体色で頭部のみが赤いというホタルのようなデザインは捕食者に対して「私は臭くて不味いですよ。」という警告メッセージとなる。このように臭いとか有毒であるとかいった食べるのに適していない似た者同士がお互いの姿に似せることによって、擬態の警告信号のメッセージ性が高まり、結果として両者の種としての生存率が高くなるという効果が期待できるという訳である。このような擬態様式の存在を初めて提唱したのがドイツの博物学者フリッツ・ミューラーであることから、ミューラー型擬態と呼ばれるとのこと。 このホタルガが人間にとって実際に臭いのかどうかは触っていないので何とも言えないが、ホタルもホタルガもヤカモチは食べる気がないからどうでもいいことであります(笑)。 それはともかく、ホタルガの幼虫は、サカキやヒサカキの葉を食べるらしいから、この蛾が神社に居たことは理に叶っているのである。 次は、花園中央公園のトイレの手洗い場にいた蛾、カギモンヤガです。 鍵の紋がある夜蛾ということでカギモンヤガであります。(カギモンヤガ) チョウ目ヤガ科モンヤガ亜科の蛾である。 チョウ目はガ目とも言い、鱗翅目とも言う。 蛾にしてみれば、「チョウ目」ではなく「ガ目」と言うべきだとクレームを付けたくなることでしょうから「鱗翅目」と言うのが公平かもしれませんが、そんなことに「目くじら」を立てるなというのがヤカモチの立場ですから、このページでは一応「チョウ目」ということにして置きます。 次は、我が家の庭のナンテンの木にとまっていた名前不詳の蛾です。(名前不詳の蛾) ナンテンの木の近くのサツキの植え込みから飛び立ってナンテンの木に移動しました。それで気が付いたのですが、枯れ葉や木にじっとしていたら完全な保護色、それと気づかず見過ごすことでしょう。 少し前までは、そのサツキの葉にいくつかの毛虫が居ましたが、そのうちのどれかが、ひょっとするとこいつの幼虫であったかもしれません。(毛虫A)(毛虫B) 毛虫Bは毛がないから青虫と呼ぶべきかもしれませんが、体色が青ではなく黒なので、黒虫。しかし、黒虫では他者には伝わらない。芋虫というのも何かしっくり来ない。適切な別の呼び名があれば教えていただきたいものであります(笑)。 蛾が苦手な偐山頭火氏を辟易させたところで、次は蝶です。(ゴマダラチョウ) これは八尾市の心合寺山古墳で見かけた蝶。 目の前をスイ~スイ~と飛ぶミスジチョウを撮影しようと追っかけていて、見失ってしまいました。そこへこの蝶が飛んできて目の前の木の幹にとまりました。 「撮ってェ~」と言ったようなので撮りました。 翅を広げるのをしばらく待ちましたが、一向に広げる気配がない。 「撮ってェ~」というのはヤカモチの聞き違いであったようです。 チョウ目タテハチョウ科のゴマダラチョウだと思います。 普通のゴマダラチョウはもっと黒っぽいが、これは白っぽい種類か。(セマダラコガネ) これは庭先で死んでいたセマダラコガネ。 体長が1cm程度の小型のコガネムシ。(同上) コウチュウ目(鞘翅目)コガネムシ科の虫である。 広葉樹など様々な植物の葉や花を食べる草食昆虫なので、農作物にとっては害虫ということになる。 そして、次は更にも小さいコガネムシ。 名前は不明であるが、体長5mmあるかないかの超小型のコガネムシである。銀輪で走っている時に右目の視界中央にぼんやりとした虫の姿が現出しました。ヤカモチは眼鏡を着用しているので、眼鏡のレンズの外側に虫がとまったのかと指で払うも手応えなし。 自転車をとめて眼鏡を外すと、レンズの内側に米粒よりも小さな緑色に光るコガネムシが居ました。 そこで、近くにあった東屋に入って、これを撮影することに。(眼鏡のレンズにとまった超小型コガネムシ) ヤカモチの眼鏡の大きさと比べていただくと、この虫の小ささがお分かりいただけるかと。(同上) どうして、レンズの内側面に入り込んだのか。 最もあり得るケースとしては、走行中のヤカモチのマスクに先ずとまり、マスクの上部から眼鏡の枠をつたってレンズ内側に侵入したのではないか、というのがヤカモチの見解です。 コガネムシ君も妙なところに迷い込み、「飛んでいたら、とんだことになってしまった」とパニックに陥っていたのかもしれないので、ヤカモチも「とんでもない奴だ」とは思わず、優しく接することといたしました。(同上) レンズ表面は滑りやすいだろうから、足取りも何やらおぼつかないようにも見える。 真上から撮るとこんな感じ。 左側中肢を失ってしまって、5本肢のようです。(同上) 最後は、手にとまらせて、近くの木の枝に逃がしてあげました。 一期一会。 二度と会うことはないでしょうが、風邪をひかずに達者で暮らせ、という次第であります。 ここまではすべて昆虫。 普通に「虫」と言うと昆虫を想起し、蜘蛛やムカデなど多足類の虫なども虫とすることに異論をはさむ人はないであろうが、トカゲやカエルとなると虫の範囲に収めるべきかどうかいささかの躊躇を伴う。 しかし、カエル(蛙)もトカゲ(蜥蜴)も虫篇なので、虫のうちでいいだろう。カタツムリ(蝸牛)も「牛」がつくものの虫偏だから虫である。 ということで、次はカタツムリ。(カタツムリ) これは、藤原宮跡の小さな緑地のコンクリート標石に居ました。 カタツムリとアマガエルとアジサイは梅雨の三大風物かも。 で、次はアマガエル。 駅のホームの片隅にちょこんと居ました。(アマガエル) コンクリートの上での暮らしが長くなったか、黄緑色の体色が薄茶と黒褐色のまだら模様に変色し始めている。 草地など緑色の多い環境に居ると全身が緑色の「ペンキ塗りたて」の「青蛙」となるが、駅のホームではそのペンキも剥がれて行くようです。(同上)ぬりたての ペンキはがれて 青蛙 駅のホームも 住めば都と (青家持)(参考)青蛙 おのれもペンキ ぬりたてか (芥川龍之介) 青とかげ-ペンキ塗り立て、ご用心 (ジュール・ルナール) ということで、最後は、青とかげならぬ二ホントカゲです。(二ホントカゲ) これは、春日大社の参道脇の杉の巨木の根方に居たトカゲ。 ヤカモチが小学生の頃、校門脇の空き地の草むらにトカゲが大量発生。 手掴みでいくらでも捕獲できる。 10匹余を捕まえて家に持ち帰り、何個かの木箱に金網を取り付け、これに分散して入れ、飼育してみようとしたことがあった。 自身の机の抽斗にその木箱を隠していたところ、数日後に母がこれを発見、虫嫌いの母が悲鳴を上げるという事件となり、すぐに捨てさせられたということがありました。 あゝそのような日もありき・・であります。
2021.06.29
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(承前) 10月19日の記事「萩の寺・東光院」の続編記事です。 境内に正岡子規他の句碑が沢山ある。 記事構成の都合上、これら句碑は前記事では割愛したので、以下これを紹介します。 先ず、山門前、左手にあるのが高浜虚子の句碑である。(高浜虚子の句碑)<参考>高浜虚子・Wikipediaおもひおもひに坐りこそすれ萩の縁<参考>萩の縁おもひおもひに坐りたる(年代順虚子俳句全集第3巻所収)我のみの菊日和とはゆめ思はじ(同上・副碑) 山門を入ってスグのところ、右手にあるのが永尾宋斤の句碑。(永尾宗斤の句碑)<参考>早春 俳人永尾宋斤 記事一覧 永尾宋斤とは-コトバンク早春や 枯れたるものに 光あり(同上・副碑) 東照閣仏舎利殿の東側、総門脇にあるのが、桜坡子と大橋晄の句碑。(桜坡子・大橋晄の句碑)ぬれ色に萩の雪洞しづみ居り 桜坡子歳月を積みてや萩の枝垂れやう 晄(同上・副碑) 大橋晄氏は、東光院の子規忌へちま供養などへの投稿句の選者を務めて居られることが、寺参拝の際に頂戴した「萩まつり道了祭の栞」からうかがえる。同栞に掲載の「第119回子規忌へちま供養入選句のお知らせ」に「選者 雨月 大橋晄主宰」として、その名が見える。<参考>子規忌へちま供養 本堂へと向かう小径の左側、大書院前に並んでいる石碑が2基あって、次に正岡子規の句碑となる。(川谷尚亭の寿碑<鈴木翠軒 書丹>)<参考>安芸市歴史民俗資料館・川谷尚亭(同上・副碑)(福良竹亭の寿碑<徳富蘇峰 筆>)(同上・副碑) そして、ようやくに目当ての子規の句碑である。(正岡子規の句碑)<参考>正岡子規・Wikipediaほろほろと 石にこぼれぬ 萩の露 句碑に向き合う位置にベンチが置かれているので、そこでしばらく腰を下ろして休憩。よろよろと 椅子に坐りて 萩の句碑であります(笑)。(同上・副碑)(青木月斗の句碑)<参考>青木月斗・Wikipedia門前すでに 丈余の萩 盛りかな(同上・副碑)(田村木国の句碑)<参考>田村木国・Wikipedia狩くらは 大月夜なり 寝るとせん(同上・副碑) 萩の庭・萩露園には入れないが、奥に句碑らしきものが見えるので、ズームアップして撮ってみた。(小路紫峡・智壽子連理の句碑)萩むらに 仏のごとく 句碑坐る 紫峡伏流の 高き調べや 九輪草 智壽子 小路ご夫妻の句碑ですな。 小路紫峡氏は、神戸市に拠点を置く俳句結社「ひいらぎ」の主宰者。 同氏亡き後は夫人の智壽子氏が主宰者となって居られる。<参考>俳誌・ひいらぎ(相島虚吼の句碑)<参考>相島堪次郎・Wikipedia雛の座に カチカチ山の 屛風哉登山口 道に画きて 教えけり放屁虫 貯へもなく 放ちけり飼い犬を 甘ったらかす 火燵かな(同上・副碑) さて、東光院山門を出て、延命橋を渡り、萩の寺公園を通り抜けて、阪急曽根駅前へ。 集会に参加する前に何処かで夕食を取らなくてはならないので、適当な店はないかと探しつつ行くと、会場の市立文化芸術センターの道路向かいにあるヴァイキングビル1階に喫茶店があった。 ここがよかろうと決めて、南へ更に行く。 坂道を下り、阪急電車の高架下を潜ると大きな公園があった。 「てしまこうえん」とある。どんな漢字なのか、その時は分からなかったが、帰宅して地図を見ると「豊島公園」とあった。(東光院、市立文化芸術センター、豊島公園位置図) 豊島公園をブラブラと散策。(豊島公園) 野球場やテニスコートなどもある。 休日とあって、遊具のあるゾーンでは子どもを遊ばせている若いお母さんやお父さんの姿も多い。(同上)(同上 右手が野球場 公園南入口付近から) 野球場に沿って、ぐるり一周。(ジンジャー) ジンジャーの花では、虫が花蜜を吸っている。 シラカシの実もたわわ。(シラカシの実) 実の帽子が横縞模様になっているのがシラカシと聞いたように思うので、シラカシと言いましたが、別の種類のカシかもしれない。 しかし、公園裏手の小さな橋にはシラサギもいるから、シラカシでなくてはならないのである(笑)。(公園南東隅の橋) 喫煙処という札を入口に掲示の喫茶店で珈琲休憩したりしつつ、徘徊を続け、目星をつけて置いた喫茶店で夕食を済ませ、集会の会場となっている市立文化芸術センターへ・・ということで銀輪なしの無輪散歩終了となりました。(完)<参考>銀輪万葉・大阪府篇の過去記事は下記をご覧ください。 銀輪万葉・大阪府篇(その1) 銀輪万葉・大阪府篇(その2)
2021.10.20
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今年も今日をいれてアト2日。 まこと「流れてはやき月日なりけり」であります。 そんな中、友人の家近健二氏から絵画展の案内状が届きましたのでご紹介して置きます。(2022邂逅展) 毎年、年初に奈良で開催される邂逅展。 今年は、1月8日に、昨年は1月9日に見に行かせて戴いたが、来年もトレンクル持参の銀輪散歩を兼ねて、出かけてみるかと思っている。<参考>2021邂逅展 2021.1.10. 2020邂逅展 2020.1.9. 話は変わりますが、今日は、東京から帰阪した妹と石切に住む妹の二人がお墓参りをするというので、その付き添いという訳ではないが、一緒にお墓参りでありました。今月は3回もお墓参りをしたことになる。 墓参のアト妹たちと昼食。 もう一つ、余談です。 今年は、我が家の東側、北側、西側の古いブロック塀を取り壊し、金属製のフェンスに改装しました。(塀の改築工事 12月4日現在) 古いブロック塀の状態を撮って置くべきでしたが、取り壊されてからそのことに気づいた次第でアトの祭。金属製フェンスを取り付ける基礎部分が出来上がった状態が上の写真です。(同上完成後・12月24日) フェンスを取り付け、基礎部分の塗装も終わった完成状態がこれ。(同上) 少しばかり気分一新でお正月を迎えます。
2021.12.30
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今日届いた寒中見舞いの葉書2枚。 その1枚は、中学時代の同級生であった嶌郎女さんのご逝去を知らせるものでありました。 彼女は、中学卒業後も連絡を取り合い、時に集まったりもしている仲間の一員であったが、彼女への年賀状に対する、寒中見舞いの葉書が彼女のご主人から今日届いたのでありました。 それには「妻〇〇は昨年十一月に永眠いたしました」と書かれてあり、驚いたという次第。 彼女とは、2019年5月12日中学時代の恩師井〇先生の17回忌の折にお会いしたのが最後でありましたから、もう5年8ヶ月も前のことになる。 彼女はヤカモチと中学3年間ずっと井〇学級で一緒であった唯一の人でもありました。 今更ですが、彼女のご冥福をお祈り申し上げます。妻逝きしは 去年(こぞ)霜月の ことなりと 寒中見舞ひに 書かれてありき悲しかも 妹やはいづち もみぢ葉の 散りのまがひに かくれにけるか(もみぢ葉の・・) ミニクラス会と称しての集まりで、佐保川畔や大宇陀かぎろひの丘などを一緒に歩いたことも懐かしく思い出されます。思ほえば 面影立ちて 悲しかり 春の佐保川 秋の大宇陀ありし日の こと思ほえば 水仙の 花もかなしけ 心ぞ痛き(水仙の・・) 在りし日の彼女を偲びつつ・・合掌。<参考>中学同期関連記事はコチラ。
2025.01.20
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今日は、若草読書会の新年会の集いがありました。 新年会では、ヤカモチが万葉に関連した講話をするというのが、いつの頃よりか恒例になっている。今回も12月末までに誰か別の人が別のテーマでお話をして貰えないかと、そのお申し出を待って居りましたが、予想された通り、そのようなお申し出はなく、今回もヤカモチの講話となりました。 ということで、前回の読書会での「もみぢの万葉歌」の講話と同様に、過去のブログ記事をチェックしたところ、2012年12月28日の記事に「新年向けの万葉歌」というのがあることを発見。 これをコピーし、取り上げた万葉歌33首に現代語訳を付したり、関連の万葉歌碑の写真を挿入したり、注記を補足するなどの編集を加えて、レジメを作成することに。 そんな歌の中でヤカモチが好きな歌の一つでもあるのがこれ。石走る垂水の上のさわらび萌え出づる春になりにけるかも (志貴皇子・巻8-1418) この歌については、印象深いエピソードもあったので、志貴皇子関係の資料とブロ友の「くまんパパ」さんのブログ「うたのおけいこ 短歌の領分」の2013年11月11日の記事のコピーをレジメ付録とさせていただきました。<参考>新年向けの万葉歌 2012.12.28. くまんパパさんのブログ2013年11月11日記事。(万葉講話レジメ) 出席者は、若草ホールの亭主たる恒郎女さん、凡鬼さん、景郎女さん、利衣郎女さん、ひろみの郎女さん(「ひろみちゃん8021」さん)、めぐの郎女さん、順郎女さん、槇麻呂さん及びヤカモチの9名。但し、槇麻呂さんは午後3時前後、第2部の歌留多会の終わりかけ頃からの遅れての参加で、順郎女さんは今回が初参加でありました。 午前11時定刻の開会、正午までが万葉講話。 レジメ記載の33首全てを取り上げるのは無理なので、思いつくまま適宜にいくつかの歌について、それらにまつわるヤカモチの思い出話なども交えつつ、適当に話をさせていただきました。 正午を過ぎたので講話を打ち切り、昼食タイム。 昼食は、予め頼んで置いたお寿司屋さんのテイクアウトの握り寿司セットと恒郎女さんがご用意くださったお雑煮でした。 寿司の予約をされていなかった、凡鬼さんと景郎女さんは自前でご持参のお弁当での昼食でありました。 昼食後は第2部の百人一首の歌留多会ですが、これに先立って、ヤカモチの誕生日が3日後に控えているということで、ひろみの郎女さんがご用意くださったバースデイケーキと花束の贈呈を受けるというサプライズがありましたが、実のところ二日前だったかひろみの郎女さんと別件で電話でお話するという機会があり、その折にバースデイケーキのことをチラリと告げられていたので、「サプライズ」までは行かず、「二プライズ」位でした。<訂正注記>花束は恒郎女さんとめぐの郎女さんからの贈り物でした。(2025.1.29.23:56)(バースデイケーキ)(同上) さて、歌留多会ですが、本来の歌留多会の前に「坊主めくり」で肩慣らしをします。 これは凡鬼さんが優勝。優勝賞品とは別に、坊主めくりの部にも「偐家持賞」の賞品を用意していたので、もう1回行い、2回目はひろみの郎女さんが優勝となったので、偐家持賞を獲得されました。<訂正注記>2回目の坊主めくり優勝者は利衣郎女さんのようなので、訂正します。利衣郎女さんからのメールがあり、その文面から偐家持賞を受け取られたことが判明。ヤカモチの思い違いでありました。(2025.1.29.9:05) そして本番の歌留多会。 これは、景郎女さんが優勝。 優勝者が任意に引いた絵札と自身が取った札が一致していた場合はその人(但し、引いた札が優勝者自身が取った札であるときは、再度別の札を引き直すこととし、優勝者以外の者の取り札に合致するまでこれを続ける。)を偐家持賞当選者とするというのがルールのところ、1回目で恒郎女さんがこれに該当することとなりました。 槇麻呂さんはこの歌留多会の終盤にやって来られたので彼はこれに参加せずでありました。 その後はお菓子や珈琲、お茶などをいただきながら自由歓談。 ひと足先に退出されたひろみの郎女さんと順郎女さんを除き、我々他のメンバーは午後5時まで歓談し、若草ホールを後にしました。 まことに、楽しいひとときでありました。 恒郎女さん、お雑煮ご馳走様でした。 ひろみの郎女さん、ケーキと花束、ありがとう。 順郎女さん、初参加ありがとうございます。これからもどうぞお気軽にご参加ください。 凡鬼さん、景郎女さん、サプライズのご出席嬉しいことでした。 めぐの郎女さん、順郎女さんや利衣郎女さんの送迎、ありがとうございました。新しき 年の初めの 若草に どちとし集へば 嬉しくもあるか (読書会王) 次回は、お花見になりますが、3月30日(日)を予定しています。<参考>若草読書会関係の過去記事はコチラ。
2025.01.26
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昨日・2月5日は今年初めての囲碁例会。 本来は先月・1月8日に今年最初の例会開催の予定であったのだが、前日だったかに村〇氏から欠席する旨のメールが入り、続いて平〇氏からも欠席させて欲しい旨の電話がヤカモチに入った。となると、福麻呂氏がご欠席ならヤカモチ一人となることから会は成立しない。 ということで、福麻呂氏に電話を入れ、「我々二人だけになるが、どうされますか?」と尋ねたところ、「じゃあ、休会にするか。」との返事。そんなことで、休会にしたのだが、当日の午後2時過ぎになって青◎氏から「今日は集まりはないんでしょうか?」というメッセージがスマホに届く。このところ欠席続きだった青◎氏はそのことをご存じなかったので、会場の方に来られていたのでした。 慌てて、折り返しの電話を入れて、青◎氏に出欠の意向を確認せず、勝手に欠席と決めつけて、連絡を入れなかったことをお詫び申し上げたのでした。 青◎氏がご出席なら、ヤカモチも当然出掛けたし、福麻呂氏も足を運ばれたに違いない。ヤカモチの思い込みで例会を流れさせてしまい、青◎氏には無駄足を踏ませてしまうこととなり、まことに申し訳なきことでありました。 まあ、そんなことで、昨日が今年最初の例会になったという次第。 出席者は村〇氏と福麻呂氏とヤカモチの3人だけ。 平〇氏からは前夜に欠席する旨の電話を頂戴していたし、青◎氏からは前記の電話で「2月は出席できない」ということをお聞きしていたので、これは想定内でありました。 さて、囲碁例会はいつもの通り銀輪散歩を兼ねて、東大阪市の自宅からスカイビルまでCB(クロスバイク)で向かいます。 この日の大阪は、予報では最高気温5℃、雪がちらつくかもということで、防寒対策も十分にして家を出る。風が冷たい。 中央大通りを西へと走るのだが、西風強く向かい風、いつもよりペダルが重いというか、速度が出ない。(大阪城公園・森ノ宮入口) 漸く大阪城公園に到着。(大阪城公園の菜の花) 左右の進入道路の中央部分に菜の花が咲いている。 小さき春の笑みといった風情。しかし、奥に進むと堀端のメタセコイアも銀杏並木もすっかり葉を落としての冬景色にて、寒風に耐えているばかりなのであります。 大阪城公園の堀端のいつもの決まった場所にテーブル・椅子を持ち込んで、屋外麻雀を楽しんでいる男たちの姿も、この日は流石に見当たらないのであります。 一気に大阪城公園を走り抜ける。 息がハァーハァーとすこし荒くなる。 天満橋を渡った先の滝川公園の藤棚下のベンチで小休止。(門前の言葉) 滝川公園の西側、道路を挟んであるお寺の門前の言葉はこれ。 いろんな 幸せが 降りつもる 一年に なります ように 囲碁例会の前にこの寺の門前に掲示された言葉を写真に撮るのが最近の習慣になっているヤカモチ。この日もパチリ。新あらたしき 年の始はじめの 初春の 今日降る雪の いや重しけ吉よ事ごと(大伴家持 巻20-4516)<新しい年の初めの正月の今日降る雪のように、ますます重なってくれ、良い事が。> 既に2月ではあるが、旧暦では節分を過ぎたばかりの新年正月ということになるから、門前の言葉はこの大伴家持の歌を連想させる。 梅田スカイビル到着は11時45分頃。 CBを駐輪場に預け、全席喫煙席の店、カフェ・ピアッツァ・ポポロで昼食。昼食を済ませて会場の部屋に行くとヤカモチの一番乗り。 絵画サークルの人たちが数人歓談して居られたので、ご挨拶。午前中の集まりが終わったばかりのよう。 その皆さんが帰られたのと入れ違いに村〇氏がやって来られたので同氏とお手合わせ。これはヤカモチの完敗。 次にやって来られた福麻呂氏とお手合わせ。半目差という僅差ながら、これもヤカモチの負けで、今年は2戦2敗の振るわない開幕スタートとなりました。 メンバーチェンジして最後は福麻呂氏vs村〇戦で、ヤカモチは観戦。 結果は、福麻呂氏が10目差の勝ち。ということで、この日は、福麻呂氏が2勝、村〇氏が1勝1敗、ヤカモチが2敗でありました。 午後3時半頃に例会を終えて、帰途に。 再び銀輪の人である。(大阪天満宮) 帰途は、南門の辺りから大阪天満宮にご挨拶でありました。 大川べりの公園に立ち寄り、ベンチで煙草休憩。(淀川三十石舩舟歌碑) 近くには淀川三十石舩舟歌碑がありました。 天満橋を渡り、大阪城公園を走り抜け、中央大通りを東へ。 午後5時過ぎの帰宅。 出かける前は、大阪城の梅林の開花状況がどんな具合か見て行くか、と考えたりもしていたのだが、寒い中を走っていると、思考は消極的な方にぶれるようで、「まあ、いいか。次回にしよう。」と立ち寄らず仕舞い。 ということで、別の場所の梅の花の写真で代用です。(梅の花)(同上) これは一昨日2月4日、石切生喜病院を受診した際に、同病院の庭に咲いていたのを撮影したもの。 以上です。<参考>囲碁関連の過去記事は下記参照。 囲碁関係(その1) 2008年~2019年6月 囲碁関係(その2) 2019年7月~
2025.02.06
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昨日(2月7日)は月例の墓参でありました。 と言っても、毎年、年末近くに墓参をする関係で、明けての新年1月については墓参を割愛しているので、2月がその年の最初の墓参になります。 墓地へと至る坂道を上り始めた民家の庭先にあるのがロウバイの木。(坂の上り口近くのロウバイ)(同上) 気温が低い所為か、自分の鼻が詰まっているのか、ロウバイの花の香りが殆ど感じられない。 目でそれを楽しみつつ、坂を上って行く。 そして、恒例の門前の言葉。(門前の言葉)これから が これまで を 決める ― 藤代總麿 過去の事実そのものは変えられないが、今後どう生きるかで過去の事実の持つ意味や価値は変えられるということであるのだろう。 さあ、どうするヤカモチ(笑)。 この日の墓参は昨年末近くの墓参と同様にCB(クロスバイク)が相棒であります。(マイCB) かつて墓地のシンボルツリーであったクスノキの木です。(墓地のクスノキ) このまま枯れてしまうのか、奇跡の復活再生があるのか。 墓参を済ませて、西方向を眺めると・・。(墓地から大阪市内方向の眺め) 中央やや右寄り奥に見える茶色のビルは東大阪市庁舎。 その左手前にあるのが、花園ラグビー場。 ドーム型の白い屋根の建物はプラネタリウムのあるドリーム21の建物 これらの施設のある一帯が花園中央公園です。 帰途はCBで坂道を一気に走り下るだけ。 と言っても急坂なので、ブレーキを掛けて速度を調節しつつです。<参考>墓参関連の過去記事はコチラ。 昼食後は、生駒駅近くの病院に入院している叔母を見舞に。 担当医の先生に面談、ようやく明日9日に退院と決まったので、また付き添いで明日午後には病院に出向かなくてはなりません。 1月24日入院であったから、17日間の入院でしたが、彼女には子どもがいないので、こういう事態になると、甥であるヤカモチが息子代わりになって面倒を見るしかないという次第。 さて、話は変わりますが、先日(2月5日)の囲碁例会から帰宅して受け取った寒中見舞いの葉書のこと。 それには「母 丸〇〇子は昨年九月に他界いたしました。」とあった。 差出人は「長女 〇〇〇」とありました。 丸〇〇子というのは、ヤカモチと大学同期の友人で、当ブログでは丸〇さんとか丸〇女史とか、その旧姓から江〇女史などとして登場している人物でもあります。 先日、中学時代の級友であった女性の死去の知らせを、同じく寒中見舞いの葉書で知ったばかりなので、「丸郎女、お前もか。」と些かのショックを受けました。 彼女とは卒業後は年賀状を交換するだけの付き合いが長らく続いていましたが、2018年7月14日の阪大OB・OG九条の会で再会することとなり、その年の11月16日開催の同期会(夕々の会)に遠路東京から紅一点の参加をいただいたことなどから旧交が復活したのでありました。<参考>三人会と九条の会 2018.7.15. 夕々の会2018年秋例会 2018.11.17. その後2019年4月に友人の画家・家近健二氏が銀座で個展を開催するということがあり、それに日程を合わせてヤカモチも上京することとしたところ、同期の素老人君、楽老君と共に丸郎女さんも一緒に昼食会の場を持ってくださったのでした。 その足で家近氏の個展にもご一緒していただけたのでした。 彼女と直にお会いしたのはそれが最後ですから、もう6年近くも前のことになります。<参考>再び、家近健二展へ 2019.4.19. 在りし日の彼女のことを偲びつつ、そのご冥福をお祈り申し上げます。若き日の思ひ出ひとつはがれゆく ことでもあるか友の死思ふ (偐家持) 同期の友人の死というのは、自身の死のことにも思いが行くということで、何か特別感があるのだが、それはまた、若い頃に共有した体験のあれやこれやの思い出を、もうその友人とは直には語り合えないということでもあり、それら思い出の一部が剥がれ落ちてゆくかのような感覚がなくもないのである。
2025.02.08
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昨日(18日)は恩智川沿いを南に走り、八尾市、柏原市、藤井寺市、羽曳野市と銀輪散歩して参りました。 何処に行くという目的もなく、気儘にと言うか、適当にと言うか、地図も持たず出鱈目に道を走りましたので、もう一度同じ道を走れと言われても、無理かも知れません。 大和川に出て、新大和橋を渡り石川沿いの道に入って直ぐに斜め右に入る道があり、そこを行くと国府八幡神社に突き当たる。神社の後が応神天皇の皇后である仲津媛の御陵である。そこを左折すると広い道(府道12号・堺大和高田線)に出る。それを右折し西へ。近鉄南大阪線の土師ノ里駅の前で左折、国道170号旧道を南へ。そこから先をどう走ったのか思い出せない。途中から路地に入ってジグザグに廻っているうちに方向も怪しくなってしまったからである。 途中、路地の奥でザクロを写真に撮りましたが、そこは近鉄南大阪線の古市駅のスグ裏でした。そして白鳥神社の前に出た。(上を向いてなっている柘榴) 柘榴は下を向いてなっているものですが、この柘榴は何故か上を向いています。隣の柘榴は横を向いている。まあ、どちらを向こうと柘榴の勝手ですから、文句はないのですが、何だか妙な気分です。(近鉄南大阪線・古市駅) 古市駅は近鉄南大阪線から長野線に乗り換えの駅でもある。近鉄長野線は古市駅から富田林、河内長野へとつながっている。 初めてこの駅で乗り換えた時、「長野」行きという表示の電車に妙な感じがしたものだが、大阪府にも長野(河内長野)があったことに気付き腑に落ちた次第。(白鳥神社)(同上) 白鳥神社は、偐山頭火さんとの銀輪散歩で4年前に訪れているので、その記事と下の説明板をご参照戴くこととし、コメントは省略です。 <参考>「藤井寺界隈」2009.11.22.(同上・説明板)(東高野街道<旧道>に面してある白鳥神社の一の鳥居) この鳥居を撮影している時にポツリと雨が落ちて来た。空を見上げると雨雲らしきものも見える。結局雨は降らなかったのであるが、引き返すこととしました。 東高野街道を北へと走る。(東高野街道の道標)(同上・古い道標) 道は誉田八幡宮の前を通るので立ち寄ることに。ここも、上掲・参考の「藤井寺界隈」をご参照下さい。(誉田八幡宮・拝殿)(同上・本殿)(同上・南大門) 今回初めて気付いたのがこれ。古戦場址碑。(誉田林合戦址碑)(同上副碑・説明板) 南北朝の頃から大阪夏の陣までしばしばこの辺りは戦場となったのですな。千早赤坂の方から流れて来る石川と大和から流れて来る大和川との合流点であり、古代の国道1号線とも言える竹内街道が通っていることなども考え合せると、それも納得されるというものである。 神社の北側は巨大な応神天皇陵古墳であるが立ち寄らず行く。 (注)応神天皇陵は「古市古墳群めぐり」2009.7.31.の記事参照 更に北へと走ると道明寺である。神仏分離で道明寺と道明寺天満宮に分れているが元々は一つのもの。今回は東側の道明寺天満宮にのみ立ち寄る。(道明寺天満宮・拝殿)(同上・本殿<裏の梅林から>)(小林一茶の句碑) 境内に小林一茶の句碑があった。これも今回初めて気付いたもの。特徴のある字は榊莫山揮毫によるもの。青梅や 餓鬼大将が 肌ぬいで (一茶) これは、寛政7年(1795年)西国行脚の途中に道明寺に立ち寄った一茶が詠んだ句。一茶がこの時に詠んだもう一つの句がこれ。暁や 鳥なき里の ほととぎす (一茶) 道明寺には菅原道真の叔母の覚寿尼が住んでいた。大宰府に左遷されて西国へと向かう途上、道真は道明寺を訪れ、叔母との別れを惜しむ。 別れに際して道真は「鳴けばこそ 別れも憂けれ 鶏の音の なからん里の 暁もがな」と詠んで旅立つ。以来、道明寺では鶏を飼わない習わしとなっているそうな。 一茶の上の句の「鳥なき里」はこの故事を踏まえたものである。(修羅<復元>) 境内には復元した修羅も展示されている。修羅は古代の運搬具であるが、詳しいことは下の説明板をご参照下さい。(修羅説明板) もう一つ境内に珍しいものがありました。楷の木。(楷の木) 説明板によると、孔子廟の前に弟子の子貢が植えた木の末裔のようである。 <参考>子貢・Wikipedia カイノキ・Wikipedia 楷の木の歴史(同上説明板) 道明寺の商店街を抜けると道明寺駅である。(近鉄・道明寺駅) 駅前で右折。踏切を渡って東に行くと玉手橋付近の石川畔に出る。石川自転車道に入って北へ。新大和橋を渡って恩智川沿いの道に戻り、来た道を帰る。花園中央公園に着いた頃は5時少し前。公園を暫し銀輪散歩したる後、家路に。(黄昏迫る花園中央公園と生駒山)
2013.10.19
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第2回和郎女作品展 ― 恒郎女コレクションより 友人、和郎女(かずのいらつめ)さんの作品展第二弾です。第1回目は智麻呂絵画展に併設しましたので、興味ある方は下記にてご覧下さい。 <第1回作品展> 今回は作者もご了解して戴いての作品展であります。もっとも、今回掲載の作品も昨日智麻呂邸訪問の際に、奥様の恒郎女様に撮影させて戴いたものであります。よって、恒郎女コレクションより、という副題にしました。(正月・牛と梅)飛び梅も 明けて咲くらむ 牛の歳 (筆蕪蕉)(節分)(2月・節分)春立つを 鬼も待つらむ 豆炒る香 (筆蕪蕉)(3月・ひな祭り)香具山の うらに雛壇 桃の苑 (筆蕪蕉)(4月・牡丹)長谷寺の 牡丹見て来よ 雨ぽつり (筆蕪蕉)(5月・菖蒲と鯉のぼり)蝶の来て あやめの風に 鯉のぼり (筆蕪蕉)(6月・紫陽花)紫陽花の 色それぞれの 雨は降り (筆蕪蕉)(7月・朝顔)朝顔に 消(け)のこる露も 空の色 (筆蕪蕉)
2009.02.16
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