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まだ40年しか生きていませんが、こんな風に思い返してみると、上手くいっていた時よりも、自分探しに押し潰されてしまいそうだった時や、これ以上先に進めず立ち尽くしてしまった時の、寒い冬の夜に新聞を配りながら見上げた星空や、恥ずかしい思いや情けない思いをたくさんしていた頃の自分の方が思い出深いですし、愛おしいです。自分のことを済ませ、自分自身になっていく中で、どうでもよくなることがたくさんありました。それまでこだわっていたこと、それがないと自分を感じられなかったもの、周りの方々の言動や癖、人の目、常識、世間体、法律、ルール、マナー、その他にも様々なことがどうでもよくなりました。『どうでもいい』と云う意味は、要らないと云うことではなく、自分に影響を与えないと云う意味です。自分が自分自身であればよくて、ルールやマナーといった倫理感や道徳心と云うものは、人間力の向上と共に言われなくても自然に身についてきます。それは、相手(自分)の気持ちがより理解出来るようになると云うカタチで現れてきます。それが『寄り添う』と云うことだと思います。タオの対極図のように黒が白に寄り添い、白が黒に寄り添うこと。あなたのことをまるで私のことのように感じられるようになるには、また、世の中の“他人事”が少しでも減っていくには、まず自分自身になることが大切だと思います。成功も、地位や名誉も、そして、今言われているような幸せや豊かさのカタチでさえも、人間に与えられた役割の本質からみれば、意味のあることではあるにせよ、さほど重要ではありません。真実の宇宙は心の方向にあると云うこと。まず、自分自身になること。大切なことは自分自身に向かうことだと思います。自分の中の不安や恐怖に向き合ってみる。自分の目の前(人生)から逃げない。自分の人生を“お役所仕事”にしない。決して相手次第の人任せにしないこと。自分で考えて、本気で生きてみる。威風堂々と地に足を付けて生きて行く。タオの対極図のように黒が黒になること、白が白になることが大切なのであって、決してグレーになることではありません。素直になること。それは、自分が自分自身になることです。自分の中の不安や恐怖と対峙する時、その時初めて地に足が付いてくるのではないでしょうか。
2008.03.31
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カウンセラーをやられてる方のカウンセリングをよくします。分かりやすいと大好評です。いま、人間関係で困ってらっしゃる方、ウツが酷い方、生きずづらくて仕方ない方、もう終わってしまおうと思われている方・・・また、ダイエットやアレルギー、病院へ行っても良くならない症状など・・・誰に相談しても手応えを感じられない方。お気軽にご相談ください。詳しくは、メッセージを入れてださい。
2008.03.30
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『気持ちを澄ます』と云うことは、出来ないと思い込んでいた自分に向き合い、不安や恐怖と言った気持ちを自ら超えていくこと。言い換えれば、そのままの自分を認めること、受け入れることでもありました。成りたい自分になり、随分変わったように思えていた自分と云うのは、実は、より素直な自分だったり、“判断”や、それによって“評価”しなくなった自分だったり、“評論家”ではなくなった自分だったりと、それまで気付かずにかけていた色メガネを外した自分でした。好きでこだわっていたことも、自分の中では意味はあってもさほど重要ではなくなり、どんどん手放せるようになりました。自分が自分でありさえすればいい。何者になる必要もなく、何者でもない自分が一番自由で、一番心地のいい自分でした。自分を大切にすると云うことは、このまま(個のまま)でいいことに、また、そのまま(素のまま)でいいと云うことに気付くこと。ありのままに表現して、あるがままに受け取る。まだ40年しか生きていませんが、こんな風に思い返してみると、上手くいっていた時よりも、自分探しに押し潰されてしまいそうだった時や、これ以上先に進めず立ち尽くしてしまった時の、寒い冬の夜に新聞を配りながら見上げた星空や、恥ずかしい思いや情けない思いをたくさんしていた頃の自分の方が思い出深いですし、愛おしいです。
2008.03.24
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2回目、3回目と施術を重ねていく内に、どこをどれだけ強く揉んでも気持ちいいくらいでしかなかった体が少しずつ弛みだし、次第に痛みを感じるようになってきました。腰の痛みはかなり楽になり、おりものも少なくなりはじめました。お尻の筋肉がかなり凝っていました。腰とお尻は御申杖もしっかりやり、入念にほぐしていき、リンパにも時間をかけて流しました。ホントに気持ち良さそうです。あれだけ大変そうだった子宮脱でしたが、ひと月ほどで子宮が落ち着いてきて、ふた月ほどすると、なんと子宮を中から持ち上げていたリングを外すことができました。リングが外れた後は、足やお尻のリンパを流すとダイレクトに子宮に響くようになり、子宮がブルブル震えながら上がっていくようで、本人もビックリされていました。その頃になると、あんなに痛かったのが不思議なくらい足裏の反射区も痛くなくなっていました。
2008.03.20
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『11月の終わりにもう一度検査をして、手術することになりそうなんだけど、私手術したくないの』 去年の9月に、子宮脱で大変だった女性を紹介され、それから3ヶ月間、毎週日曜日に出張施術に行かせて頂くことになりました。 その女性は、商売をされていて勢いもあり、とても楽しいかたでしたが、体はトコトン錆びていました。体を観ていくと、首や肩や腰がパンパンに張っていて、まるで鉄板のようです。『肩は年中凝っていて、いつも朝起きると腰が痛くて、数十分ほどゆっくり動かしてからじゃないと起きあがれないの』と言われる通り、この肩と腰だとそうだろうと納得できます。確認の為に足裏の反射区も観てみました。どこの反射区も少し触れるだけで痛くて、もう片方の足で私の手が蹴られてしまうほどでした。食事内容を聞いてみると、油のバランスも悪く、病気になって当たり前のようなメニューでした。とりあえず、酸化した体を還元するように、出来ることから改善して頂くようにしました。マ・ゴ・ワ・ヤ・サ・シ・イを中心にしたメニュー。マゴワヤサシイとは、豆・胡麻・ワカメ・野菜・魚・椎茸・芋の頭文字で、分子栄養学に基づく体質改善メニューです。このメニューは、私自身が2001年に2ヶ月で26kgものダイエットをし、体のあらゆる不具合が改善していったメニューです。その上に、マグネシウムをリンゴ酢で吸収しやすくしたもの180種類以上の栄養素の入ったノニジュースあらゆる炎症を鎮める亜麻仁油強力な還元力や細胞を修復する力があり、ガン細胞の細胞膜に穴を開け白血球が入れるようにして、ガン細胞をも消滅させてしまう孟宗竹の抽出液 その抽出液で作った自然塩・・・なんかを足して頂き、体の中から強力に還元していきました。外からの施術では、まず御申杖(ごしんじょう)療法を全身に施していきます。御申杖とは、純金でできた鍛造こしらえの10センチ程の棒状の鍼です。御申杖で少し擦るだけで、体がどのくらい錆びているのか直ぐに分かります。その御申杖を使って、体の中に溜まった余分な電磁気エネルギーを抜き、全身を一気に還元していきます。御申杖と平行して按摩、指圧、マッサージ、リンパドレナージュ等を施していき、最期に足裏の反射区から刺激を入れていきました。鉄板のような凝りは、そのまま揉みほぐしてもなかなかほぐれませんが、御申杖をしながらだとほぐれていきます。しかし、ここまで硬くなった筋肉はほぐれるというより、破壊されていくように弛んでいきます。私は握力がかなりある方で、どんな凝りもほぐしていくのですが、どこをどれだけ強く揉んでも『気持ちいい』というくらい凝っていました。詰まり気味だったリンパもどんどん流していき、御申杖で滞らないように抑えていきます。腰や足、また子宮に近いところはとくに流れていませんでした。足裏の反射区は、少し触れただけでも痛く、子宮の反射区は特に痛そうでしたから、刺激を入れるというよりとことん揉みほぐしていきました。最後に整体で骨を整えます。うつ伏せ、仰向け両面で約2時間。1回目の施術で、あんなに酷かった朝の腰痛がかなりマシになったようで、楽になったととても喜んで下さいました。それでも、まだ大量のおりものがあり、トイレでは子宮が降りてきていました。・・・明日へつづく
2008.03.19
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自分がやりたかったことで出来なかったことは一つもありませんでした。あんなに難しく思えていた『この道一筋』の職人技も、やり始めればまるで自分と隣り合わせになっていたかのように近くにあって、次第に何でも出来るようになっていきました。また、技術を得るのに、一般に言われる程の時間はかかりませんでした。社長の技術を抜いて自分にお客さんがついてくると『独立したらどう?』なんて言う声が聞こえてくるようになります。好きなことではありますが、独立をしてやり続けていく先に自分の求めているものってあるのかな?・・・とイメージしてみても何もありませんでした。『今やりたいことをする』、『好きなことを趣味のままにしないで、実際に仕事として真剣に取り組んでみる』・・・そう思ってやっては来ましたが、その先に何かあるのかな・・・?。その頃はそんな風に考えるようになっていました。そして、『成りたい自分』にもいつの間にか成っていました。『成りたい自分』それは、何でも出来る便利な自分。また、いつでもその用意がある自分でした。『もう充分』自分のことが分からなくて、手探りで生きて来ましたが、色んな気持ちを済ませてくると、自分の為に生きるのはもう充分なような気がしてきました。自分が求めるより、誰かに求められるままに生きてみてもいいのかな・・・。人の為に生きてみてもいいんじゃないだろうか。そんな風に思えてきました。気持ちが済んでくると心が澄みます。そして、耳を澄まして心の声を聴くことが出来るようになります。こんな便利な自分は誰かの為に役に立つのではないだろうか・・・そう思うようになっていました。父が許してくれるなら、今の自分で改めて父の仕事を手伝ってみようと思いました。育っていなかった情緒をもう一度自分で育て直してみて、今の自分は父にどれだけ通用するのか、本当に親離れ出来ているのか、自分の実力はどの程度なのか試してみたくなったのでした。その頃には、世間様に『親の七光り』と言われても、『そうなんです、ホントに有り難いことなんです』と素直に言えるようになっていました。
2008.03.18
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皆に迷惑をかけ、独り立ち尽くしながら、それでも小田さんの詩の世界をそのまま生きてみました。詩の世界(理想)と現実とを区別せずに生きてしまいました。やり残したことを済ませ、今やりたいことをしてみる。感じるままに、思いのままに。評論家になって人の作品の批評ばかりする前に、自分を見つめて自分の作品(自分自身)を作ってみる。自分のやりたいことをしようとする時、『素人なんか使えない』・・・そう言って断られることが何度もありました。ある会社で雇って頂くのに、半年間、断られても断られてもお願いに行ったこともあります。半年後に社長はOKを出してくれました。動かない『人の心』はないのではないでしょうか。一人前になるまでに何年もかかるような職人技にも素人から何度も挑戦してみました。畑違いのこともやってみました。いつもド素人からでした。失敗するのも叱られるのも次第に慣れてきました。叱られていたことは、後になってとても大切なことだったんだと気づきます。叱られればいい。叱られている内が華でした。
2008.03.17
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1980年、中学2年生の時に出会ったオフコース。どこまでも伸びる澄みきった声と、誇り高い小田さんの生き方が大好きでした。以来ずっと聴き続けて来たオフコース。小田さんの詩の世界が生き方のお手本でした。曲の中で小田さんは、◆自分の感じたものを信じて、それが自分だから◆素直になって心の声に耳を澄ませて◆今あるものを例え全部失っても◆最後まで愛の行方を見届けて◆例え独りぼっちになったとしても◆誰かが見てるから、きっと誰かが見ていてくれるから大丈夫◆今は何も心配しないで◆だから素直になって・・・こんな風に歌ってるように感じました。小田さんはそう言うけど、現実にはとても耐えられないなぁ・・・。『素直になれ』と言うけど、実際に素直になると大変だなぁ・・・。周りの同級生達を見ていると、結婚して子供が出来、いい車を買い、家を建て始めてる人もいました。クラス会や同窓会に行ってもみんな立派になっていました。自分は離婚をし、会社を辞め、学生時代の彼女に突然会いに行ってプロポーズをして振られ、今は独り新聞配達をしながら毎日缶コーヒーを一本買うのが精一杯。今からではとても追い付けないだろうな・・・。何もかもが遅すぎたのかな・・・。そんな風に思いました。お金もないのに小田さんのコンサートへ独り行きました。夏の終りの野外コンサートでは、小田さんの高い声がたそがれ空に突き抜けていくようです。ステージの上で歌う小田さんを見つめながら、『小田さんの言う通りに生きてみたけど、辛くてたまらない・・・』そう思うと涙が止まりませんでした。家に帰るとまた新聞配達の日々が続きます。
2008.03.16
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でも働かないと食べて行けません。父の会社をあんなカタチで辞めたことで、世間では『親不幸者』で通っていました。ある時、それまでよく行っていた店に独りでご飯を食べに行きました。父の会社にいた頃はチヤホヤされていましたが、辞めてからは店主は目も合わさず、相手にしてくれませんでした。親が言っていた『世間』ってこう云うものか…とその時思いました。新聞配達をすることにしました。どこへ働き口を求めても『あの会社の息子』だと云うことで余りいい顔をされないので、皆が寝ている時間に働くのが迷惑にならないと思い、新聞配達にしました。配達だけでは食べていけないので、チラシも入れ、集金にも行きました。配達先は目いっぱい増やしました。配達はホントに速かったので、全国的に見ても相当配っていたと思います。チラシを入れるのもトコトン速かったです。速くしないと配れませんから。集金に行ってくると、その場で現金で集金代を貰えます。それが有り難くてよく行ってたのですが、集金に行くと、父の会社にいて偉そうな顔をしていた当時に喧嘩をしたり殴ったりした相手の家だったりして、穴があったら入りたいような思いを何度もすることになりました。配達先に同級生達の立派な新築の家があったりして、いい車が停まっています。自分は何をしてるんだろう・・・。集金に行って貰った少しのお金で野菜を買ってきて、独りで鍋をして食べていると、知らずに涙が溢れていました。頬を伝う涙に気がついて、拭いながらそれを見ると余計に哀しくて泣けてきます。真冬の新聞配達の途中、真夜中のピーンと張り詰めた空気の中、自動販売機の前で、新聞を満載してスパイクタイヤをはめて頂いた冬仕様のカブを停めてエンジンを切ると、シーンとしてホントに静かでした。毎日一本だけ買うことが出来る缶コーヒー。それ以上は赤字です。暖かい缶コーヒーを飲みながら満天の星空を見上げては、『自分はこのままどうなってしまうのかな…』と、いつもそんな思いに押し潰されそうになっていました。そんな時、頭の中ではいつも小田和正の歌が繰り返されていました。
2008.03.15
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『気持ちを済ます』またあの声が聞こえたような気がして、苛なまれながらも、まず、やり残したことを済ませてみよう…そう思いました。彼女への思いも澄んだわけだから、済ませて行けば進めるんじゃないか・・・。そう思って、『今さらこんなこと…』と思うようなことも自分で自分を裁かずに思い切ってやってみることにしました。恥ずかしいことも、情けないことも、もしかして迷惑をかけることになってしまうかも知れないようなことも全部です。 落書き帳を用意して、何をやり残しているのか、今すぐに出来ることは何なのか等、片っ端から書き出して行きました。そして、一つずつやってみることにしました。書き出したことを実際にやってみると気が済んでしまい、どうでもよくなることがたくさんありました。でも働かないと食べて行けません。父の会社をあんなカタチで辞めたことで、世間では『親不幸者』で通っていました。
2008.03.14
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『今』を感じれるようにはなったものの、嘘の上に築き上げてきた自分は、素直になってみると何もありませんでした。まさしく『自分がない』状態です。今は、『自分探し』なんて云う言葉もかなり一般的に理解されるようになりましたが、90年代の前半にそんな話しをしても世の中はバブル景気に湧いていて、私が知らなかっただけかも知れませんが、周りはそれどころではないような状況でした。『自分を探すより土地を探した方がいいんじゃない?』みたいなノリで、『素直に生きる』ことなんて受け入れられるような状況ではありませんでした。 素直になってみたものの、世の中から独り取り残されたような自分は、何をしていいのか分からなくなっていました。そして、何もない自分・・・。詰まらない生き方・・・。そんな自分に向き合うことになってしまったのでした。素直になったとは言え現実が見えてくると、離婚などと云うとんでもないことをしてしまい、本当に申し訳ないことをしてしまったと毎日のように苛まれました。 詰まらない自分が皆に迷惑をかけて来ただけの人生。何の価値もない自分。自分のしてきたことが滑稽で情けなくて、そんな思いに押し潰されてしまいそうで、失くなってしまいたいばかりでした。何がやりたいのかも分からないまま仕事も辞めた為にしばらくプー太郎の日々が続くことになり、そんな状況もたまりませんでした。
2008.03.13
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次の日、不思議なことが起きました。“あの頃”のままずっと動かなかった心が、彼女と別れてから昨日までの10年弱の年数分一気に動き出しました。まるで走馬灯のように、“あの頃”が当時の本来ある記憶の位置までバックしていきます。頭の中で何が起こっているのか分からないくらい、『うわ~…』って思うくらいに過去が過去になって行きます。何という感覚でしょうか。昨日まであんなに懐かしかったあの曲を聴いても今はもう涙が出て来ません。懐かしささえどこかへ行ってしまったようにおぼろ気になってしまいました。『・・・気持ちを済ます・・・』・・・ふと自分の中から声が聞こえたような気がしました。気が済むってこう云うことを言うんだ・・・。これが『今』なんだ・・・。やっと『今』を感じれるようになったんだ・・・。本当にそう思いました。そして、それは確かな感覚として実感を伴うものでした。
2008.03.12
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プロポーズをしました。もうすぐ結婚する相手がいるから受けられない・・・と言われました。でも、いま独りなら・・・とも言ってくれました。嘘だとしても嬉しかったです。あっという間に時は過ぎて、別れる時間が来てしまいました。手紙を渡すのは止めようと思いましたが彼女が『見つかったらどうしよう…でも欲しい』と言ってくれたので渡すことにしました。『捨てられない…』とも言ってくれました。彼女を見送った後、とても爽やかな気分でした。これで終わった・・・。ホントにそう思えました。次の日、不思議なことが起きました。
2008.03.11
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彼女が出ました。随分声が低くなってるように感じました。『久しぶり』と挨拶をした後、すぐに本題に入りました。そして、会ってくれることになりました。ちょうど彼女も結婚をする前だったので、もしかしたら彼女にとってもいい時期だったのかも知れません。久しぶりに会う彼女は随分変わっているように感じました。時間が余りないようだったので、伝えたいことは手紙にしておきました。彼女としか出来ない“あの頃”の話し。二人で過ごした思い出の日々。そんなことを時間を忘れて話しました。当時のことを意外と彼女の方が覚えてくれてたりして嬉しくなりました。付き合ってる当時に私が作ったオフコースのカセットテープを、私が書いたインデックスカードのまま車の中に置いてあったりして、改めてそのテープを二人で聴きました。何年ぶりかに再会するあの頃の自分の字と、当時一生懸命に録音したカセットテープの音。本当に懐かしい…。嬉しいことに、彼女は私が一番好きな曲も覚えていてくれていました。プロポーズをしました・・・。
2008.03.10
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友達に、彼女が今どこで何をしてるのか探して貰いました。それまでは、こんな話題(今でも彼女のことが好きなこと)を友達に話すことさえ出来なかったのですが、正直に打ち明けました。しばらくして連絡先が分かりました。彼女の職場の電話番号でした。当時は携帯がありません。分かったもののイザ電話をかけるとなるととても時間がかかりました。電話をかける手が震えます。『やっぱり止めようかな…』何度もそう思いました。でも、『ここを通らないと自分は先に進めない』『“あの頃”のまま止まってしまった心が一生動き出さない…』そう何度も思い直して、とうとうかけることにしました。彼女が出ました。
2008.03.09
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離婚となるともちろん親は反対しました。また、会社を辞めるとなると親戚中が心配しました。当たり前ですし、とても有り難いことだと思います。何度も説得されました。『結婚てそんなもの』『親の七光りで車のことしか知らない、何の実力もないお前が会社を辞めてどうする?』『通用すると思う?』『皆がお前と同じように好きなことをしたらどうなると思う』『誰しも我慢をして生きてるものだよ』色んなことを言われました。また、たくさんの方々が『今の生活を維持する為には、また、今の人間関係を維持する為には、ある程度の妥協は仕方がないだろう…』と20代の若い私に言って下さいました。そんな優しい思いを振り切って『彼女さえいればいい』『このまま嘘をつき通すよりマシだ』…そう思って、それまでのすべてを投げ出す覚悟で離婚届を提出し、彼女に会いに行きました。自分の意見に賛成なのは自分だけだったので、この先どうなってしまうのか不安で不安でたまりませんでしたが、当時はもう戻ることさえ出来なくなっていました。
2008.03.08
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ずっと素直じゃなかった自分。大好きだった“あの頃の彼女”と、ずっと一緒にいたかっただけの自分。本当はただそれだけでよくて、それ以外には何も望んでいませんでした。その素直な自分の気持ちをごまかす為だけに作り上げてしまった外側の世界。嘘ばかりで本当に自分勝手で我が儘な生き方でした。でも、当時の自分にはどうしていいか分からなかったのです。『結婚て、人生ってこんなもの…』でももう、それも限界で、これ以上自分に嘘をつき通せなくなっていました。『このまま一生自分に嘘をつき通せない…』本当にそう思いました。今ならまだやり直せるんじゃないか…。そう思い、それまでの自分をここで一度ご破算にすることにしました。離婚をして会社を辞めて…。思ってはみたものの20代の自分にとっては簡単なことではありませんでした。『自分は取り返しのつかないことをしようとしてるんじゃないだろうか…』『こんな自分勝手なことが許されるるんだろうか…』『親が悲しむことになりはしないか…』『このまま人生の落伍者になってしまうのではないだろうか…』そんなことばかり考えてしまい怖くて怖くてとても決心出来ませんでした。 『このまま自分さえ我慢していれば全部丸く収まる…』『ワザワザ蒸し返さなくてもこのまま当たり障りなく過ごして行った方がいいのでは…』恐怖を前にするとそんな思いも自然に湧いてきます。しかし、どうしてもごまかし切れなくなり、とうとうその時はやって来ました。
2008.03.07
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高校生の頃から自分のことが分からなくなり、好きな気持ちもまるで中途半端なままに結婚までしてしまいました。してしまった以上、簡単に別れられないのが『結婚』で、何とか楽しいことを見つけてはやり過ごし、何故かいつもイライラしている自分をごまかしながら、都合のいいプラス思考で“その場しのぎ”ばかりの結婚生活だったように思います。もちろん楽しいこともたくさんありましたが、どんどん楽しめなくなっていきました。仕事がある日はいいのですが、休みの日が辛く感じるようになりました。休みの日は二人で何かをしたいわけではなく、自分一人の時間として使いたい。一人の時間がないと余計に色々やりたくなったりして、休日を二人で過ごすのがとても億劫になりました。仕事の日も自分をごまかすので精一杯で、毎日ヘトヘトに疲れてしまい、休日は昼になっても起きられなくて、しかし、それでは嫌味や文句を聞くことになり、それが嫌で、二人で何かしたいことがあるわけでもないのに無理をして起きたり、詰まらない休日の終わり方をすると情けない男のように思えてきたりして、何をやっても気持ちの辻褄が合わなくなっていました。当時、『そろそろ子供は?』と周りからよく聞かれました。しかし、親離れも出来ていない自分がまだまだ子供で、子供が子供を育てられないと思い、とても作ることが出来ませんでした。大好きだった彼女と過ごした“あの頃”のままで止まってしまった心の時計。“あの頃”を思い出させてくれるようなものに触れるととても懐かしくて、その瞬間だけは生き生きしていた頃の自分に会えるような気がして嬉しくて、いつまで経っても“あの頃”から何も成長していない自分がいました。そんな自分に気づかれたくなくて、当時は誰に対しても必死に隠していました。自分の本心に向き合ってしまうと、作り上げた『今』が壊れてしまいそうで怖くて、外に敵を作っては評論家気取りで文句ばかり言うようになっていました。父は商売をしていますが、その商売のやり方や考え方が嫌で、父に批判的な社員と一緒になって文句を言ったりしていました。そして、いつの間にか政治や世界情勢まで評論してしまう始末でした。
2008.03.06
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同じ時期、父の車を無免許で夜中に持ち出し、160km/h近いスピードでカーブを曲がり切れずに10m程の土手からガードレールを突き破って飛び出してしまい、そのまま30m以上車ごとダイビングしてしまう事故を起こしてしまいました。車はスクラップになりましたが、奇跡的に体は無事でした。多感な17歳の自分に、虐めと失恋と死にかけた交通事故は荷が重くて、簡単に自分のことが壊れてしまいました。気が付けば何も決められない自分、どうしていいか分からない自分になっていました。こう云う状態を“優柔不断”だと云うことに気が付くまでに壊れてしまった17歳には随分時間がかかりました。好きなものがあんなにハッキリしていた自分。何を観ても、何を聴いてもキラキラ輝いていた頃が懐かしいと感じてしまう高校生。17歳にして自分の人生が終わってしまったようでした。何も決められなくなった自分は、いつの間にか自分の気持ちを相手に合わせるようになっていました。『これが面白い』と言われれば自分も面白いフリをして話しを合わせ、誰かが『こっちがいい』と言えばそちらを選んで、哀しくても、寂しくても何も感じないフリをして強がって、本当は人に頼りたいし甘えたいのに平気なフリをして、何でも自分でやるようになっていました。生き生きとした自分を感じることが出来なくて、今の自分を平静に保つことで精一杯で、当時の自分にはこれ以上どうしていいか分からなくて、自分をごまかすことばかりが得意になっていきました。20代の始めに一度目の結婚をしました。当時の私は何もかもが中途半端で、結婚についても同じだったと思います。あの時、誤解が解けずに別れてしまった彼女のことが忘れられなくて、でももう二度と誰かのことをあんなに好きになれることはないだろうな…と諦めていました。結婚した彼女のことは好きでした。でも、あの時の彼女ほどではなく、それでもその時の自分には、その程度の『好き』と云う気持ちが精一杯でした。
2008.03.05
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自分の素直な気持ちにずっと嘘をついてきてしまい、とても生きにくかった20代の中頃、それ以上先に進めなくなり、一度目の離婚をして父の会社を辞めました。ここで、これまでの人生をご破産にしてリセットしようと思ったのです。中学生の時に初めて付き合った彼女がいました。同じクラスで同じ班、隣の席で名簿の順番まで同じで、何もかもが当時の自分にはピッタリでした。彼女のご両親に反対されて、二人を別れさせる為に、彼女は高校は遠く他府県の学校へ親戚の家から通うことになり、高校生でいきなり遠距離恋愛になってしまいました。 私は高校を卒業して彼女と早く結婚したかったので、すぐに就職出来るように技術を身につけようと工業高校へ進み、大好きだった自動車の勉強をすることにしました。高校に入ってしばらくして、私は虐められるようになりました。それまで友達も多く、どちらかと言えば何でも先頭を切ってやっていたような自分がまさか虐められるなんて思いもしなくて、どんどん自分のことが分からなくなりました。毎回昼休みに寄ってたかってはボコボコにされます。午後から授業に出られないくらいでした。友達が一人、また一人と減っていきます。いつの間にか忘れ物をしても借りる友達もいなくなってしまいました。 当時は金八先生の時代で、全国的に校内暴力が問題になっていて、今のように生徒間の虐めはまだ取り上げられていませんでした。時を同じくして彼女とも別れることになりました。遠距離で誤解が解けなくなった為でした。大好きなまま別れてしまいました。
2008.03.04
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2008.03.03今日からブログを書いてみることにしました。もう7年も前のことになります。2001年にある人の紹介で毛髪分析のカウンセリングを受けました。そのとき『分子栄養学』というそれまで聞いた事もないような知識を紹介され、何故か素直に受け入れ、その内容をとりあえず実践してみたところ、2ヶ月で26kgもの減量が出来てしまい、自分のことながら驚いてしまったことがあります。気が付くと、80kgあった体重があっという間に54kgになり、3Lだった服のサイズがMに、91cmあったウエストが71cmになりました。余りの激変ぶりに自分でも何がなんだか分からなかったのですが、1週間ほどすると、毎朝ズボンを履く時にベルトのバックル部の方をバラし、約1cmずつ詰めていくのが日課となりました。周囲からは癌か糖尿かと疑われるほどの変化で、よく太っている人が一気に痩せた時に皮膚がたるんだりするそうですが、そんなこともなく、また途中で止まることもなく、そのまま一気にマイナス26kgまで見事に落ちていってしまいました。始めのうちはウエストの変化ばかりが気になっていたのですが、毎日入るお風呂の中でふと気が付くと、肌が透き通るように綺麗になっているのが分かりりました。『なんて綺麗なんだろう』・・・お風呂に入る度に男ながらに手をかざして見とれていました。変化はあらゆるところに及びました。体重、肌、爪、髪の毛、体毛、体臭、口臭、汗、便・・・等が見る見る変化していきます。体重は落ち続け、肌は透き通り、爪はしっかりして、体毛が減り、髪の毛が一気に増え、知覚過敏が治り、歯はガチガチになり、花粉症やアトピーといったアレルギーもなくなり、体臭や口臭がしなくなり、いくら汗をかいてもワイシャツの襟元が汚れなくなりました。大便時に紙がほとんどいらなくなるほどにスムーズに出て切れ味もよく(笑)、あんなに酷かった花粉症や水虫が治り、全力疾走をしても息が上がらなくなり、自分は一体何歳なんだ?と思うくらい一気に若返ってしまいました。たった2ヶ月での出来事だったので周囲が信じられないのはもちろんですが、自分自身でも本当に信じられませんでした。2ヶ月くらい会わない知り合いのかたなんて普通にいて、この前会った時には丸々していたのが、次に会った時にはもやしのようになっているわけですから、変な病気と勘違いされ、会った途端に後ずさりしていくかたも実際におられました。また、私自身ダイエットをしたかったわけではなく、ただ元気になりたかっただけだったので、日に日に落ちていく体重に自分でも何かの病気じゃないか・・・と思ったくらいでした。一気に落ちたにも関わらず、よく言われるような皺やたるみになることもなく、それどころか肌は透き通り、走り回っても息一つ切れなくなり、古傷まで気にならなくなった体はとても軽くて心地よく、食事というのは身体や心にこれほどまでに影響を与えるものなんだ・・・と心底感心させられました。
2008.03.03
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