1
12月19日のシングルスの初敗戦で気を落としたのか、12月20日(金)から翌年1月5日(土)までの17日間、日記には一切何も書かれておりません・・・・・・というのは嘘で、実は1月14日の週から期末試験が始まるまでの間、大学が冬休みに入ったのでワシントンDCに遊びに行っておりました。ところが、会おうと思っていた人が、ペルーの日本大使館人質事件が発生したため急遽、長期間不在に。ボストンーワシントンDCの格安往復航空券を買っていたこともあり、その日程は動かせず、17日間をDCで一人で過ごすことになりました。一応、ファイナル試験用にノートや教科書を持っていきましたが、その期間勉強をした記憶がありません。きっとボストンに戻ってから試験勉強をすればいいや、と思っていたに相違ないのです。で、その代わり何をしたかというと、モールに行っては映画を見ておりました。当時、私が見たと記憶している映画は、次の通りです。The Englis PatientEvitaShall We Dance?Shine最初のイングリッシュ・ペイシェントは確かアカデミー作品賞を取った作品でしたね。イギリス出身のクリスティン・スコット・トーマスの演技が光りました。日本公開は翌年。二つ目のエヴィータは、マドンナ主演。歌は本当にうまいです。三つ目は、役所広司主演・周防正行監督による1995年の邦画ですが、アメリカでは96年暮れに上映されて好評を博しておりました。この邦画のように、外国の映画をよく上映する名画座のような映画館がデュポン・サークルのそばにありました。まさか、その建物のアパートで、のちに暮らすようになるとは、その時は想像もしておりませんでした。それはまた別の話です。四つ目は、実在の天才ピアニスト、デイヴィッド・ヘルフゴットの半生を描いた映画。ほかにも何か観に行ったような気がしますが、よく覚えておりません。こうして一人寂しくクリスマスを過ごし、新年を迎えた私は、おそらく「17日の空白期間」である最終日の1月5日(日)に、ファイナル試験が待ち受けるボストン(正確にいうとケネディスクールがあるのはマサチューセッツ州ケインブリッジ。私が住んでいた寮は、ビジネススクールのある、チャールズ川を隔てたボストン市のソルジャーズ・フィールド・パークにありました)のハーバード大学に戻りました。(続く)
2024.11.26
閲覧総数 25
2
知人が祖父らから聞いたという皆神山の「神様の話」に近いことを言っているのが、新宗教「大本」(大本教)の二大教祖の一人出口王仁三郎です。王仁三郎は1898年、京都府亀岡市の高熊山で修行をしている時に神懸かりとなり、富士山と皆神山に霊体で連れて来られたのだそうです。その後も王仁三郎は、皆神山で言語を絶するような崇厳な神秘体験をして、皆神山の真の意味を悟ったようです。皆神山について王仁三郎は、「信濃の国松代町の郊外にある皆神山は尊い神山であつて、地質学上世界の山脈十字形をなせる地であり、世界の中心地点である。四囲は山が十重二十重にとりかこんで、綾部、亀岡の地勢と些(すこ)しも違はぬ蓮華台である」と、『月鏡』に書いています。大変な持ち上げようですね。蓮華台とは蓮華座のことで、蓮華の形に作った仏・菩薩の像の座のことです。まさに世界の中心の神の座の意味があります。で、この『月鏡』を読むと、なぜ陸軍参謀本部が大本営を皆神山に遷(うつ)そうとしたかの理由がなんとなくわかってくるんですね。王仁三郎は次のようにも書いています。「大石凝真素美(おおいしごりますみ)翁は、此地に帝都をおかれたなら万代不易の松の代を現出することが出来ると主張し、世界中心遷都論を唱へて囹圄(れいご:牢屋のこと)の人となつた事実がある。真素美翁ばかりでなく外にもさういふ説を唱へた人があるが、最近飛行機が盛になるにつれて東京は安全の地でないと云ふ見地から、信州遷都論が一時或有志によつて伝へられた事があるが、全く此皆神山は蓮華の心に当つて居るのだから、四方の山々に砲台を据ゑつけてさへ置けば、如何なる飛行機をもつてしても襲ふ事は出来ぬ安全地帯である。こんな要害のよい所は、世界中外にない。霊界物語にある地教山は此山である」大本教は弾圧されましたが、海軍だけでなく陸軍にも大本教のシンパは大勢いたと思うんですね。だからこそ、陸軍参謀本部は皆神山を大本営の移転先に選んだのではないでしょうか。また、大本教の説明によると、皆神山については次のように書かれています。「無限絶対無始無終の真神から、霊系の厳霊大神(げんれいおほかみ)と体系の瑞霊大神(ずいれいおほかみ)が鳴り出でられましてより数十億年、厳霊大神の経綸の中心地の一つが天教山(富士山)となり、瑞霊大神の経綸の中心地の一つが地教山、すなわち世界ではヒマラヤ山、日本では信州の皆神山となりました」出てきましたね「霊系の厳霊」と「体系の瑞霊」。厳霊と瑞霊が何かを定義するのは難しいのですが、厳霊が神霊界や精神世界で働く「素材」や「力」だとしたら、瑞霊はこの世とか物質世界で働く「素材」や「力」であると考えてもいいのではないかと思っています。このように、出口王仁三郎によると、富士山が霊系の厳霊大神が働く中心地で、皆神山は体系の瑞霊大神が働く中心地であることになります。何か似ていますよね、前日のブログに書いた、私の知人の話と。ただし、富士山ではなく位山になっていました。神様が霊体として降臨した中心の場所が位山で、物質的なモノを作ろうとした中心の場所が皆神山でしたね。やはり皆神山には、物質界で働く何かがあるんです。(続く)
2015.09.10
閲覧総数 6270
3
実は黒又山は、1990年代の調査によって、あと一歩で人工的な山であったことが立証されかけた山でもあるんですね。1980年代にも一時期、古代日本にピラミッドとも呼べる人工山や加工山があったのではないかというブームが起こりました。これには私も、火付け役として一役買っております。その後、日本のピラミッドブームは下火になったのですが、それでも黒又山に関しては、当時同志社大学教授だった小川光陽氏が会長を務める環太平洋学会が中心となって、「ピラミッド型の古代神殿ではないか」という仮説を唱えて、90年代に本格的な学術調査を開始したんですね。その結果わかったのが、黒又山には階段構造があることと、頂上付近の地下に立方体型の空洞があることです。その際、周辺の神社の位置関係も調査され、黒又山の真東と真西の東西の麓にそれぞれ神社があることが指摘されていました。それが新著225ページの図5-5に記されている「根一の神社」と「風張の神社」です。当時の調査担当者も黒又山と周辺神社の配置には、太陽信仰など何か関連性があるのではないかと考えていました。だけれども、明確な結論は出ませんでした。今回、私なりに明確な答えを出しています。神社は、間違いなく黒又山を中心とする測量ライン上の重要な三角点、あるいは「聖地」として残された可能性が高い、ということです。その議論を始める前に知っておかなければならない事実は、「根一の神社(出羽神社)」と「風張の神社(愛宕神社)」の緯度が北緯40度16分51秒と秒数まで一致する緯線上にあるように、縄文遺跡である伊勢堂岱遺跡と御所野遺跡の緯度が、同一緯線上にあるということです。前者の中心は北緯40度12分04秒、後者の中心は北緯40度11分52秒と12秒ほどズレがありますが、伊勢堂岱遺跡の南部分と御所野遺跡の北部分は完全に緯度が一致します。しかも、それは82キロの距離の完璧な東西線となるわけですね。面白い測量の痕跡はそれだけではありません。この二つの縄文遺跡は黒又山からほぼ等距離にあります。ということは、二つの縄文遺跡と黒又山を結ぶと、82キロの緯線を底辺とする巨大な二等辺三角形が出来上がるというわけです。もう一つの考え方として、伊勢堂岱遺跡と御所野遺跡のそれぞれの中心と黒又山の間にも測量の痕跡が残っているのではないかと見ることもできます。それが225ページで紹介している図5-5です。二つの縄文遺跡の中心と黒又山を結ぶと、御所野遺跡のほうが1キロほど距離が長いんですね。だけど、もし、完璧な測量ができる技術集団が縄文時代にいたとしたら、伊勢堂岱遺跡と御所野遺跡の中心からピッタリ等距離になる場所になんらかの痕跡を残した可能性があると私は考えました。それが図5-5の点Pです。黒又山と御所野遺跡の中心を結んだ直線上にあり、かつ伊勢堂岱、御所野の両遺跡から完璧に等距離になる点です。そのような点Pに本当に何か意味があるのか、と訝る方もいると思います。ところが驚いたことに、まったく意図せずに純粋に測量上の点として設定した点Pと伊勢堂岱遺跡を結ぶと、その直線に沿うようにして、わずか600メートルほどの区間に4つの神社が並んでいたんですね。そしてさらにその直線を点Pから北東方向に延ばして行くと、根一の神社があるわけです。しかも、点Pから根一の神社までの距離は、点Pと黒又山までの距離、それに黒又山から風張の神社までの距離とまったく等しくなります。ということは、黒又山の周辺にある神社はすべて、意味のある測量線上に設置された重要な測量点、もしくは聖地であったと考えることができるわけです。これらのことから推論できることは、黒又山を「神殿」として加工・建造した縄文時代の古代人は、42キロの距離を正確に測れただけでなく、82キロの正確な緯線を引くことができる、極めて高度な測量土木技術を持っていた可能性が高いということです。(続く)
2015.08.10
閲覧総数 682
4
記紀神話とギリシャ神話では、同じ物語が共有されているだけではありません。登場人物も極めて似かよっているんですね。よく言われるのが、イザナギとイザナミから生まれたという「三貴子」と、ゼウス、ポセイドン、ハデスの三神です。三貴子(さんきし)は「みはしらのうずのみこ」とも読ませますが、『古事記』で黄泉の国から帰ってきたイザナギが黄泉の汚れを落としたときに最後に生まれ落ちたアマテラス、スサノオ、ツキヨミという三柱の神々のことです。イザナギ自身が自らの生んだ諸神の中で最も貴いとしたところから名づけられました。三貴神(さんきしん)とも呼ばれます。で、この三貴神は、父神のイザナギによって統治する場所が決められます。イザナギの左目から生まれたアマテラスは、太陽神として高天原を治めることになります。イザナギの右目から生まれたツクヨミは、夜の世界を統治する月神となります。そして、イザナギの鼻から生まれたスサノオは、海原を統治する神となるんですね。一方、ギリシャ神話では、「オリュンポス神族」が「ティタン神族」との闘争に勝って、オリュンポス政権が樹立されたときに、何とくじ引きで、ゼウスが天界、ポセイドンは海洋、ハデスは冥界を統治するということが決められたというんですね。冥界は夜の世界、すなわち月神に通じます。つまりツキヨミはハデス、スサノオはポセイドンであることになります。でも、ゼウスとアマテラスでは何かしっくりきませんね。ところが、天界とはどこか、ということをよく考えてみてください。記紀神話では「高天原」のことですよね。で、その高天原を統治していたのが、既にご紹介したタカミムスビこと高木神です。記紀神話ではうまく隠されていますが、読む人が読めば、実質的にアマテラスの夫である高木神が天界の統治者であることがわかります。そう、高木神こそゼウスなんですね。『古事記』で高木神が高天原から下界の葦原中国を眺める描写などは、天界(オリュンポスの山)から下界を見下ろすゼウスの描写にそっくりです。では、アマテラスがギリシャ神話の誰に相当するかというと、それはヘラと、「岩戸隠れ」のときに紹介したデメテルです。なぜアマテラスが二人もいるのか、という疑問を持たれるかもしれませんが、これにも理由があります。高木神の妻としてのアマテラスがヘラで、スサノオと政略結婚したアマテラスがデメテルであると解釈することができるんです。(続く)
2015.05.24
閲覧総数 4849
5
金字に赤色の立った獅子というスコットランドの国章と並ぶシンボルにクロスがあります。それがこちら。扇風機ではありません。天上からぶら下がっていた巨大なクロスです。とにかくクロスといったら、スコットランド。そしてそのクロスが象徴するのは、こちらです。先日紹介した国章の下に描かれていたもので、キリストの十二使徒の一人でスコットランドの守護聖人であるセント・アンドリュー(聖アンデレ)を象徴しています。聖アンドレは、ギリシアのアカイア地方でX字型の十字架で処刑され、殉教したことになっています。その聖アンドレの十字架とスコットランドの関係は何かというと、9世紀にスコットランド系ピクト族の王フングスがイングランド系のウェスト・サクソン王アセルスタンに攻められたとき、援軍に駆けつけたスコットランド王アカイウスが戦いの前夜、光り輝く聖アンデレ十字の夢を見たことに由来するそうです。夢の翌日の戦いでスコットランド側は大勝利。このことに感謝し、フングスはセント・アンドリューの寺院を建立すると共に、セント・アンドリュー・クロスを自らの象徴としました。またアカイウスも、セント・アンドリューに因んだ勲章(後にスコットランド最高勲章となるシッスル勲章)を制定したとのことです。ゴルフの全英オープンでよく使われる同名のゴルフコース「セント・アンドリューズ」も聖アンドレに因んだ地名から取っています。アンドリューズと複数形になっているのは、「アンドリュー」の子孫という意味に由来します。
2016.03.05
閲覧総数 81
6
さて、今回の「位山に呼ばれた(ような気がした)」ので急きょ旅立った飛騨の高山ツアー。その目的の一つは、「皆神山ばかりに行っておらんで、たまには位山に顔を見せんかい」ということで、位山をご神体とする水無神社に参拝・報告に伺ったわけです。これが、その水無神社。境内もとてもすがすがしいです。位山に登るときは必ず立ち寄る神社です。報告と同時に、「七宝の宝」をいただいたことに、改めて感謝の意を伝えます。「七宝の宝」については『異次元ワールドとの遭遇』の第三章をお読みください。今回はあまり天気がよくなかったので、位山には登りませんでしたが、近くまで行ってごあいさつします。確か祭壇石は左側の7~8本目かのリフト塔のそばにあり、ちょうど霧で隠れている辺りに鎮座していると思います。位山への報告が終わった後、御旅山と船山の取材をしました。「前に位山に登った時の事を思い出せ」と言われた(ような気がした)ので、思い出した場所に出かけたわけです。そしてもう一つ思い出したのが、崇教真光です。私は信者でも関係者でもありませんが、約32年前に富山の尖山を最初に案内していくれた人が、「竹内文書」について詳しい崇教真光の方でした。これが崇教真光の「神殿」です。鼎談本『正統竹内文書の日本史「超」アンダーグラウンド1』(ヒカルランド刊)の203~207ページにも、真光系教団の教祖岡田光玉氏が竹内睦泰氏の母方の祖父や秩父宮親王らと陸軍士官学校第34期生の同期であったことなどが紹介されています。確かに「神殿」は、竹内氏が言うように「かっこいい」ですね。最後は高山市の「宮川の朝市」。ここでお漬物とリンゴを買うのが習慣化してきています。さて、これで11月19~21日の高山取材旅行の報告は終わりです。次回からは「縄文の旅」に戻りましょう。
2015.12.01
閲覧総数 955
7
今回の取材旅行では、賀茂一族の神社を中心にお参りしてきました。京都の上賀茂、下鴨。大和の高鴨(上鴨)、中鴨、下鴨。この京都の賀茂(鴨)氏と大和の鴨氏は、元々は一緒に住んでおりました。で、基本的にご祭神も同じなのですが、それぞれ別々の名前で呼んでおります。京都では賀茂氏の祖神は八咫烏ことカモタケツノミ(鴨建角身)。大和では鴨氏の祖神はカモノオオミカミ(迦毛大御神)ことアヂスキタカヒコネです。だから京都の人にアヂスキタカヒコネの話をしても、誰のことだかわからない、という状態になります。逆に、大和の人にタケツノミの話をしても、ピンと来ないという状態になります。これはどうしてかというと、自分と瓜二つのアメノワカヒコの喪屋を切り倒したときに、アヂスキタカヒコネが出雲族の自分と決別したからなんですね。アヂスキタカヒコネと言えば、オオナムヂとタギリヒメの間に生まれた子ですから、出雲族のスサノオと日向族のアマテラスの両方の直系であるわけです。そのアヂスキタカヒコネが出雲族を見限り、日向族側についたことを示唆しています。『古事記』ではそれを非常に文学的な表現で、出雲族側に付いたアメノワカヒコの喪屋を切り倒して蹴飛ばしたと語り伝えているわけです。喪屋を切り倒すなんて尋常ではありませんよね。それほどの決意であったことを示しているんです。出雲族(アメノワカヒコ)と決別したアヂスキタカヒコネがその後どうなったかというと、大和の葛木山を拠点にしてアヂスキタカヒコネという本名を保ちつつ、タケツノミ(八咫烏)になったわけです。その後の活躍は、日向族の神武東遷を助けた八咫烏として記紀に描かれていますね。『新撰姓氏録』でも、タケツノミは大和の葛木山に降臨した八咫烏のことであると書かれていますから、葛木山の神社(高鴨、中鴨、下鴨)で祖神として崇められているアヂスキタカヒコネはどう考えても八咫烏です。でも大和では、アヂスキタカヒコネと八咫烏は分けて考えられています。それでいいんです。喪屋切りによって、出雲のアヂスキタカヒコネと決別、別人の八咫烏になったからです。別人となったアヂスキタカヒコネことタケツノミの賀茂一族は、後に京都・山城の地に集団で移り住み、賀茂氏の祖神として下鴨神社のご祭神となっているわけです。ところで、アヂスキタカヒコネが蹴飛ばした喪屋が落ちたところが、岐阜県・美濃加茂の喪山です。大和にいた賀茂一族が、後に集団で移住した先が美濃加茂。きっと、アヂスキタカヒコネの出雲族との決別を象徴する喪屋の話を残すために、地元の山に喪山という名前を付けたんでしょうね。地名というのは、このように歴史を紐解くヒントを残してくれているわけです。
2017.03.20
閲覧総数 9238
8
正統竹内家の口伝継承者である竹内氏が古代エジプトと古代日本を結ぶもう一つの「証拠」として挙げているのが、古代出雲大社とクフ王のピラミッドの内部構造が「同じである」ことだと言います。確かにクフ王のピラミッドの内部構造を見ると、「王の間」に向かっていく大回廊は、その角度や長さを含めて出雲大社の本殿へと続く長い階段に似ています。「王の間」は出雲大社の本殿のご神体を安置する場所でしょうか。「王の間」の上に築かれた「重力軽減の間」と呼ばれる構造物は、その屋根の形を含めて出雲大社の本殿の造りを彷彿とされる構造をしているように見えます。で、昨日指摘した「平三斗(ひらみつと)」ですが、出雲大社などの大社造りではあまり使われることはなく、むしろ法隆寺など仏教伝来後の寺院に多くみられることがわかりました。ただ、6世紀ごろの古代日本の建築家がもし「ピラミッド」という建造物がエジプトにあるのだという話を聞いたら、「大きくて重い屋根を支えることができるよう、屋根の重量を分散して支える組物『平三斗』を使った建築物のことだ」と思ったであろうことは間違いないでしょうね。それはともかくとして、仮に竹内氏が継承した口伝が正しいとすると、大国主の「出雲の国譲り神話」が俄然面白くなってくるのも確かです。というのも、オオナムヂこと大国主は日向族の軍隊に攻撃され「国譲り」を迫られたときに、「自分のために高天原で天津神が住むのと同じくらい壮大な宮殿を建てること」を降伏条件にして服属を約束したからです。その壮大な宮殿が古代出雲大社であったことは疑う余地はありません。竹内氏によると、かつてのスメル族である日向族には「ミケイリノ」という世襲名を持つ建設大臣がいて、古代エジプトでピラミッドを建造する技術をもっていたことになっています。すると、もしオオナムヂがそのことを知っていたなら、「君たちはあの古代エジプト(高天原)で壮大な宮殿ともいえるピラミッドを造った人たちだよね。だったら僕のためにもそんな宮殿を造ってよ。そしたらさ、この国譲るから」と言った可能性も出てきます。ではなぜオオナムヂがスメル族にそのような建築技術があることを知っていたかというと、オオナムヂが実は古代ユダヤ人で、大昔にはメソポタミアでスメル族と一緒に暮らしていた民族出身者(アブラハムの子孫)であったからではないか、との推理もできるわけです。オオナムヂが古代ユダヤ人であったなどとすると、皆さんはそれこそ笑い話に思われるでしょうね。ではなぜ、同じスメル族の一派とみられる出雲族のスサノオが、娘のスセリビメの紹介で初めてオオナムヂに会ったにもかかわらず、一目見るなり「そいつ(オオナムヂ)はアシハラノシコヲだ」と見抜いたのでしょうか。アシハラノシコヲとは「葦原色許男」と書きます。「葦原」と言えば、そう、メソポタミアにシュメル人が築いた多神教文明の地をシュメル人たちは「葦原主国」と呼んでいましたよね。だとすれば、「葦原色許男」はメソポタミアにいた部族の子孫という意味だったかもしれません。多分想像するに、オオナムヂは一目で古代ユダヤ人、つまりヘブライ人とわかるような出で立ちや容姿をしていた、だから一目で「葦原色許男」であるとわかったのだと解釈できるわけです。逆にそう解釈しないと、「葦原色許男」は意味不明の名前になってしまうんですね。正統竹内家の口伝がどれだけ真実なのかはわかりません。でも、『古事記』の中の意味不明な記述を口伝で読み解くと、妙に辻褄が合ってしまうところが面白いところです。(続く)
2015.05.17
閲覧総数 2299
9
私を含め龍好きな方が多いようなので(拙著『不思議な世界の歩き方』も龍神の話から始まります)、今日は「本物の龍」の写真!?を紹介します。ヒマラヤ上空を飛んでいる飛行機から撮った写真を現像したら写っていたそうです。撮った人は普通のアマチュア写真家。確かに大きな雲の下に、龍らしき顔とくねくねうねった胴体らしきものが見えますね。もちろん、心眼で見ないと見えませんよ! 普通に見たら、ただの薄い雲になってしまいますからね。詳しくは次のサイトを参照してください。二匹いると書かれていますので、右の雲みたいなのも龍なのでしょうか。もし心眼で二匹とも見えた方がいらっしゃいましたら、教えてください。
2005.08.11
閲覧総数 4673
10
昨日紹介した「学生によるコース評価(Studen Course Evaluations)」ですが、その現物がこちら。色褪せしていますが、もっと黄色でした。一年前に履修した学生が評価した「先生とコースの通信簿」みたいなものです。毎年コースが終わると学生が先生とコースを評価しますから、それをまとめたものが冊子の形で翌年の学生に渡されるわけです。使い方が書いてあります。それぞれのコース評価がこちら。上はAPIー200の統計学のコースです。全体のコース評価が4・40で、ライト先生に対する評価は4・75と非常に高いことがわかります。この高評価につられて私も履修しましたが、確かに本当にわかりやすい授業でした。学期期間中、三回試験がありますが、数学の問題が主なので、数学の得意の私にはちょうどいいコースでした。私は三回の試験の平均が89・5点くらいで惜しくもAは逃しましたが、Aマイナスを取りました。基本的に90点以上がAで、80~89はAマイナス、70~79はBプラス、60~69がBで、ここまでが合格です。60点未満だと単位を落とすということですね。下はAPIー101Aのミクロ経済です。ミクロ経済のコースはAからEまで5クラスに分かれていますが、Aは微積分を使うコースです。高校では数ⅡBまでしかとっていませんでしたが、あえて挑戦。コース評価が4・67、先生に対する評価が4・87と非常に高かったからです。確かに授業は難しいところもありましたが、面白かったです。悪戦苦闘しながら試験の平均約79点と、これも1点足らずでAマイナスを取れず、Bプラスでした。今となっては懐かしい思い出です。(続く)
2024.10.30
閲覧総数 18
11
空白だらけの日記帳を見ていくと、8月10日の「オペラ座の怪人」の後に出てくるのは、8月13日の謎の数字です。そこには2-66-44-6と書かれています。何かの暗号でしょうか・・・。でも、私のブログをいつも読んでくださる方ならすぐにおわかりですね。これはテニスのスコアです。夏期講習が始まって一カ月半。たぶん本当に久しぶりにテニスをしたのだと思われます。だれとテニスしたかはまったく覚えていませんが、同じ夏期講習に参加した腕に覚えがある人たちとハーバード大学のテニスコートでやったにちがいありません。結構、競った試合になっていますね。多分4人でダブルスをやったのではないでしょうか。同じハーバードのテニスコートで約10カ月後にもテニスをした記憶があります。そうしたら私のプレイを見ていた学生がつかつかとやってきて、テニス部に入らないかと誘われました。つまり大学を代表して試合に出ないかというわけです。ちょっと一年ほど誘われるのが遅かったですね。実は私のコースは一年で修士号が取れるミッドキャリアのコースでしたから、もう卒業間近でした。卒業生が大学を代表してテニスをすることはできません。このテニスのスコア以降、ほぼ一か月にわたって空白が続きます。おそらく新学期が始まるので、忙しかったのでしょう。次に記載があるのは、学期が始まる直前の9月12日。このように記されておりました。 Chris J. (Pro)6-32-1また、数字の暗号ですね(笑)。(続く)
2024.11.05
閲覧総数 37
12
数学は得意だったとはいえ、いかんせん私がやったのは数ⅡBまでで、数Ⅲを取っていないこともあり、正直ジム・ハインズの授業は苦戦しました。それでも何とかA-くらいはとれるかなと密かに期待していたのですが、ファイナル試験でミス。計算したらわずか5点不足して、B+の成績に転落してしまいました。しかし、あのように学生から絶大な評価を得て、非常に面白い授業をしてくれたハインズ准教授でしたが、結局ハーバードでの終身教授の職(Tenure)にはつけず、この年度を最後にハーバード大学を去ることになりました。一説によると、教え方がうまくて学生の間で評判がよくても、論文を出していないことがマイナス要因になったのではないかということでした。ハインズ准教授は97年度から別の大学に移ることになりました。ハーバードの同僚で国際金融論を教えている奥様のドミンゲス准教授も一緒に移籍するとのことでした。私は両方のクラスを履修していたこともあり、ラウンジにいた二人と話をする機会がありました。「どちらの大学で教えることになったのですか」と私が聞くと、ミシガン大学との答えが返ってきました。「ちょっと寒そうですね」と言うと、「まあ、ボストンで寒さには慣れているから、大丈夫」と二人で話していました。ハインズ氏はミシガン大学で終身教授職につけたようで、その後同大学で税制と経済の専門とする教授としていくつもの論文を出しています。ローレンス・サマーズとの共同論文も書いていますね。また後でご紹介しますが、奥さまもミシガン大学を中心にして活躍されたようです。(続く)
2024.11.13
閲覧総数 25
13
Marvin Kalb(マーヴィン・カルブ)のメディア論の授業でグループ分けしたのは、そのグループ内で一週間で起きたニュースの中のトップニュースを選ぶという作業をやらせたからです。人種も年齢も国籍も社会的地位も違う人たちが1つのトップニュースを選ぶわけですから、もう大変。「船頭多くして船山に登る」といった状態になります。グループとしてトップユースが決まったら、それを理由とともにクラスで発表し、また議論します。他の人たちが何に興味を持って、何を考えているかがわかって、結構面白かったです。 説明がおくれましたが、マーヴィン・カルブが何者かについて説明しましょう。CBSニュースとNBCニュースの記者を30年間務めたジャーアリストで、有名報道番組「Meet the Press」のホスト(司会・進行役)としても活躍しました。ハーバード大学院に創設されたメディア論の研究センター(Joan Shorestein Center on th Press, Politics and Public Policy)の初代センター長でもあります。その看板授業が、私が履修した「Press, Politics and Public Policy」だったわけです。政治とメディアについて研究しているThomas Patterson(トマス・パターソン)教授とともにこの授業を担当しておりました。二人とも授業はとても面白かったです。そして何よりも、宿題に出されるリーディングアサインメントの内容が秀逸で最高でした。毎週、論文を中心にして重要部分の抜粋を120ページほど読まされるのですが、どれも本当に充実しており、ためになりました。アメリカ人の学生もリーディング資料の面白さに感嘆しておりました。クラスにおけるグループ発表と、二つの小論文、そして最後の比較的長い論文でグレードを付けられるのですが、私は最後の論文を残した時点(60%分)でB+くらいの評価でした。まあB+でもいいかと半ばあきらめていたのですが、最後の論文でAを取り、A-に滑り込んだと記憶しています。そのAがハーバードでもらった最初のAの論文でした。(続く)
2024.11.11
閲覧総数 22