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そうこうしているうちに、フェリーがロクランザの港に入ってきました。最初のころは緊張しましたが、しょっちゅうフェリーに乗り込んでいますから、ずいぶん慣れてきました。乗り込むとすぐに出航。といっても対岸のキンタイア半島は見えています。すぐそこですね。30分で対岸に到着します。上の写真では、左がアラン島で、右がキンタイア半島です。船から南を見ています。海峡の名は、キルブラナン海峡(Kilbrannan Sound)。間もなくキンタイア半島に上陸します。(続く)
2024.06.19
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神武天皇の父・ウガヤフキアエズことクマノクスヒがスサノオの息子だとしたら、一体誰なのかという問題の続きです。 私には二人の候補がいるように思われます。 一人は大和の王となった四男のオオドシ(ニギハヤヒ)ですが、熊野は地政学的に遠いように思われます。それにオオドシと神武天皇が親子になってしまうと、神武東征の物語が破綻してしまいますね。 そこで考えられるもう一人の候補は、紀伊国(木の国)の王となったイタケル、別名オオヤビコです。 オオヤビコは八十神に命を狙われた大国主を助けて、スサノオに助けを乞うようアドバイスしています。ところがその後のオオヤビコの消息は記紀には記されていません。 長い空白期間の後、次に実質的な紀伊国の王としてアメノカグヤマ(別名高倉下)が登場します。アメノカグヤマはニギハヤヒとアメノミチヒメ(おそらくタカテルヒメ)との間に生まれた王子です。つまり、オオヤビコとアメノカグヤマは叔父と甥の関係となるわけですね。オオヤビコに後継者がいなかったのだとしたら、アメノカグヤマが紀伊国の王を継承したのかもしれません。 また、竹内氏が海運王(海軍大将)だと表現しているウガヤフキアエズとアメノカグヤマは、同じ熊野に拠点を置いている点も注目に値します。かなり近しい関係であったのは間違いないでしょう。 つまり地政学的にみて浮上してきたのが、イタケル=ウガヤフキアエズ説というわけなのです。誓約で生まれたとされる五柱の男神の末子は、後に熊野の王となったスサノオの長男(あるいは次男)とみられるイタケルであった可能性は十分にあると思います。 さらに私がこの謎を解くカギとして着目しているのは、『先代旧事本紀』にウガヤフキアエズの五番目の子、もしくは弟として登場するタケクライオキ(武位起)です。アメノカグヤマとホヤヒメが結婚して生まれた子の名前はイタテ(五多底)。クライオキ(位起)は「イタテ」とも読めますから、同一人物もしくは世襲名「イタテ」の後継者とも考えられることもできます。 同一人物でかつウガヤフキアエズの子だとしたら、ウガヤフキアエズの正体はアメノカグヤマということになりますが、誓約の場面でスサノオの孫が出てくるのはやはりおかしいです。 一方で、ウガヤフキアエズがオオドシ(ニギハヤヒ)だとすると、クライオキ(イタテ)はアメノカグヤマとなります。 神武の父親ウガヤフキアエズ(クマノクスヒ)が本当にスサノオの息子なのかはわかりませんが、少なくともイタケルやアメノカグヤマと非常に近い人物であったことは間違いないと思われます。
2021.07.31
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さて、出雲国(葦原中国)の正統な王位継承者はスサノオの末子のスセリビメであるはずなのに、なぜスサノオの四男の大年が神器を持っていたのかという問題があります。おかしいですよね。本当だったら、スセリビメに渡るはずの神器です。その前になぜ大年に神器が渡ったことがわかるのか、という話をしなければなりません。理由の一つ目は、さすがの記紀編纂者もそれだけは認めざるを得なかったらしく、ちゃんとニギハヤヒが神器「十種神宝」を持っていたと明記していることです。二つ目はニギハヤヒの正式名称が天照国照彦天火明櫛玉饒速日命となっていることです。天照、国照という祭祀王の称号だけでなく、「櫛」「玉」「火」などの神器が渡っていることがすぐにわかる名前になっています。なぜ大年がニギハヤヒと同一人物であるかは既に説明しましたが、『古事記』に御諸山(三輪山)の神である大物主が大年であることが明確にわかるように書かれているからですね。当時、大和地方の王になった人物と言えば、ニギハヤヒしかいませんから、大物主はニギハヤヒであることがわかるわけです。ではなぜ神器が渡ったのか。私は何か大きな理由があるのだと思って、正統竹内家の口伝継承者である竹内氏に聞いてみました。すると答えは「スサノオと大年の間で大げんかがあったからだ」というものでした。これが本当だとすると、親子喧嘩の果てに大年が神器を持って大和地方に”家出”してしまったことになりますね。親子で袂を分ったわけです。何とも複雑なスサノオ家の実情です。大年が持って行ってしまったから、正統な王位継承者であったスセリビメには神器がなかったことになります。しかし、いつ神器が大年の手に渡ったかについては、次のようなケースも考えられます。大年ことニギハヤヒは一度、スセリビメの婿養子である大国主ことオオナムヂを助けたことがあるんですね。ナガスネヒコ軍に追い詰められたナムヂを窮地から救ったのが大年でした。ナムヂを補佐していたスサノオの兄とみられるスクナヒコナは、どうやらナガスネヒコとの戦闘で命を失ったようです。で、大年はナムヂを助ける条件として三輪山に祝い祀ることを挙げています。「三輪山に祝い祀る」とは、ナムヂが神器を大年に渡した上に、大年を正式に大和の王と認め、従えということだったのかもしれませんね。このことを知っていると、『古事記』の出雲神話がよく理解できるようになります。今の話を念頭に置いて、もう一度よく『古事記』を読んでみてください。
2015.12.21
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オオナムジが古代イスラエルのガド族出身で、弓月の君がセブルン族ら失われた古代イスラエル10支族の末裔であったとすると、どうして賀茂氏と秦氏が強く結びつき、かつ出雲大社や諏訪大社、それに秦氏や賀茂氏に由来するとされる神社で開催される儀式や祭が、古代イスラエルの儀式や風習・歴史と酷似しているかがはっきりしてきます。出雲大社と諏訪大社は説明しましたから、京都の由緒ある神社を一つ一つ見ていきましょう。最初は、秦氏が8世紀に建立したとされる伏見稲荷神社(京都市伏見区)。全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本社です。こんなにも有名な稲荷神社の総本社であるのに、その御祭神は結構、謎に包まれています。ご祭神は稲荷大神。主祭神・宇迦之御魂大神(うかのみたまおおかみ)ほか4柱の総称であるとされています。他の四柱の神とは、佐田彦大神、大宮能売大神(おおみやのめおおかみ)、田中大神(たなかのおおかみ)、四大神(しのおおかみ)です。その主祭神である宇迦之御魂大神は、「お稲荷さん」とも呼ばれる穀物の神様ですね。『古事記』によると、スサノオと大山津見の娘・カムオオイチヒメとの間にできた息子です。オオトシことニギハヤヒの弟ということになっています。佐田彦大神は、記紀神話に登場する猿田彦のことだと言われています。大宮能売(オオミヤノメ)は、宮殿の平安を守る女神であると考えられています。しかしながら、わからないのは田中大神と四大神です。稲荷神と何らかの深いかかわりのある神であると言われていますが、由緒がわかっていません。田中大神は文字通り「田の神」と思われますが、オオナムジ、猿田彦、タケツノミ説もあるようです。四大神に至っては、一柱の神名なのか四柱の神の総称なのかもわかっていません。穀物神・オオゲツヒメの御子神である若年神、夏高津日神、秋比売神、久久年神の四柱の神で、四季を表す神ではないかとの説もあるようです。こうした神々をどうして秦氏が祀ろうとしたのでしょうか。(続く)
2018.10.03
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天孫高族の流れでは、高木神から娘のアマテラス、その娘のタギリに「高」が継承されたのはほぼ間違いないと思われます。アマテラスの別名タクハタチヂヒメの「タ」とタギリヒメの「タ」はおそらく「高」から来ています。そしてタギリヒメの子供がタカヒコとタカヒメですから、明確に高族であることがわかります。さて、問題の宗像三女神の末子タギツヒメことタカツヒメ(高津姫)ですが、タギリヒメと同様にスサノオとアマテラスの子であれば、当然「高族」の血統なのですが、竹内氏の『帝皇日嗣』によると、高津姫ことタギツヒメは、実はスセリビメであることになります。というのも、『帝皇日嗣』ではカムヤタテヒメはスセリビメであると伝わっているからです。カムヤタテヒメがスセリビメであるという証拠は、ほかにもあります。それが「ヤ(屋)」です。カムヤタテヒメの「ヤ」は娘タカテルヒメの別名「ヤオトメ(屋乎止女)」に引き継がれています。ヤオトメは「八乎止女」とも書きますね。神に奉仕する八人の巫女を指します。スセリビメの母親は、八つの川の頭領(越の八岐大蛇)を束ねていた祭祀女王「ヌナカワヒメ」でした。その娘のスセリビメがそこから「ヤ(屋)」をもらって、「カムヤタテヒメ(神屋楯姫)」となったと推察することができるわけです。カムヤタテヒメは事代主の母親ですが、『先代旧事本紀』では高津姫であると書かれています。そして国宝の「海部氏系図」にはカムヤタテヒメとはタギツヒメのことであるとしています。それらを総合すると、スセリビメ=カムヤタテヒメ=タギツヒメ=タカツヒメとなります。すると当然、スセリビメはスサノオの連れ子であって、アマテラスの子ではありませんから、高族の直系ではないことになります。高木神からすると、義理の孫です。その義理の孫に「高」という称号が付いたことが面白いんですね。「高」がスセリビメに渡った理由は、おそらくニギハヤヒことオオドシが天火明として天孫日向族の系図に組み込まれた理由と同じです。出雲神族の正統な後継者を天孫日向族の系図に入れておかないと、自分たちの正統性を主張することができなかったのではないかとみます。クマノクスヒのケースと似ていますね。タカテルヒメの「高」は、タカテルヒメ(別名ヤオトメ、アメノミチヒメ)とニギハヤヒの間に生まれたアマノカグヤマに受け継がれます。アマノカグヤマの別名は、『帝皇日嗣』に書かれているように「タカクラジ(高倉下)」であることから、それがわかります。タギツヒメの系統から継承された「高」は、タカヒコネ(高鴨)やタカヒメからどこに受け継がれたのでしょうか。おそらくタケツノミの「タケ(タカ)」、タギツヒコの「タギ(タカ)」として継がれ、タマヨリヒメの「タ」への流れになったのではないでしょうか。三女神のうち残るイチキシマヒメの別名とみられるミホツヒメ(高木神の実孫)から、ホツ(フツ)や玉として「高」が継承された可能性もあります。そのイチキシマヒメとニギハヤヒが結婚して生まれたのが、後にタマヨリヒメと結婚してヒメタタライスズヒメを儲けた「朱塗り矢」ことオオヤマクイです。タタラは蹈鞴のこととされていますが、意外と「タカラ(宝)」とか「高良」のことではないかと思っています。
2021.08.08
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なぜ私が仰天したかというと、一つは神屋楯比賣こそ事代主神の母親だからです。つまり竹内氏の言っていることが正しいとすると、事代主神の母親はスセリビメということになるんですね。確かにそう考えないと、「出雲の国譲り」のとき、大国主が「まず事代主神に出雲国を天孫(日向)族に譲っていいかどうか聞いてくれ」とタケミカヅチに言った理由の説明がつきませんね。事代主神が正統な出雲国の王位継承者だからです。それは当然、スセリビメの子であることを意味しています。 では、タケミナカタの母である沼河姫の正体はどういうことになるのでしょうか。沼河姫も実はスセリビメの可能性が極めて高いです。そんなことを言っても、『古事記』に出てくる大国主の妻問いの物語では、越の沼河姫とスセリビメは別人のように描かれているではないかと疑問に思う方もいるでしょう。 そう、別人の可能性はなくもありません。でも前回説明したように、「沼河姫」は越国の「巫女王」を示す世襲名です。八俣大蛇を退治したときに、スサノオと越の巫女王が政略結婚したのであれば、当然「沼河姫」の世襲名は出雲国の王統を継ぐスセリビメに継承されたはずです。 スサノオが越の巫女王と結婚したのではない場合でも、スセリビメを差し置いて、越国の巫女王と政略結婚をしたとなると大問題になります。スセリビメが亡くなった後、越国の巫女王と再婚したのなら話は別ですが。 そこでヒントになるのは、竹内氏の次の言葉です。「長男がタテミナカタで、末子が事代主であった」そう、出雲国では末子相続なので、最初にタテミナカタが生まれて、後で生まれた事代主が王位(祭祀王)継承者になったと見ることができるわけです。おそらく長子のタテミナカタは統治王か軍事王を引き継いだはずです。つまり状況的にみても、二人ともスセリビメの子であるとしたほうが、真実に近いように思えるんですね。 事代主が確実にスセリビメの子で、タテミナカタももしかしたらスセリビメの子であるとわかったことも大きな衝撃なのですが、実は本当に驚かなくてはならないのはここからです。 『先代旧事本紀』によると、事代主神の母親は宗像三女神の末子タギツ(高津)姫であるとしているからです。ということは、スセリビメは宗像三女神の末子ということになってしまうんですね。「そりゃ、ないでしょ」と思いませんか。だって、宗像三女神はスサノオとアマテラスの政略結婚で生まれた娘だったはずでしょ、って。(続く)
2020.05.23
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「神」「天」「大」のほかに出てくる「高」についても書いておきましょう。高はタカミムスビこと高木神の「高」です。その娘がアマテラス(天照大御神)ことヨロズハタトヨアキツシヒメ、またの名タクハタチヂヒメです。アマテラスはアメノオシホミミと結婚して、ニニギを儲けました。ただし、竹内氏の『帝皇日嗣』によると、次男ニニギのほかに、長男アメノホヒ、三男ヒコホホデミ、四男ウガヤフキアエズを儲けているそうです。このアマテラスの夫と四人の子供の五柱の男神が、誓約で誕生したことになっています。ここまでが『帝皇日嗣』で明らかになったことです。で、この「高」という名がどのように世襲されたかと言うと、最初に登場するのは、タカヒコネ(アヂスキタカヒコネ)とタカヒメです。大国主と宗像三女神の長女タギリヒメの間に生まれた息子と娘ですね。つまり高木神の「高」は、娘に「タク」として伝わり、その孫に「高」として継承されたことがわかります。ところがここで問題が起こります。そのタカヒメと結婚したアメノワカヒコが高木神を裏切って出雲神族側についてしまったんですね。怒った高木神はアメノワカヒコを射殺します。残されたタカヒコネは、出雲神族と天孫日向族の板挟みになります。そして「こんなのやってらんない!」とばかりに、アメノワカヒコの喪屋をけ飛ばして逃走します。このときオオドシを頼って大和の葛城山に拠点を置いたのだと思われます。その証拠に葛城山麓の奈良県御所市には、全国のカモ(鴨、賀茂、加茂)神社の総本社とされる高鴨神社があるでしょ。ご祭神は、アヂスキタカヒコネ。高木神の「高」族であったことがわかります。同時に賀茂(鴨)氏の祖神であることもわかるわけです。つまりタケツノミですね。その高鴨神社から葛城山を仰ぎみると、中腹に高天彦(たかまひこ)神社があります。そのご祭神が、アヂスキタカヒコネの祖父・高木神とその孫イチキシマヒメになっています。高族の痕跡が残っているんですね。ではなぜ、高木神とともに孫のイチキシマヒメが祀られているかというと、それは宗像三女神の次女であるイチキシマヒメとスサノオの四男であるオオドシが政略結婚したからです。「大」が「高」の二人(タカヒコネとイチキシマヒメ)を受け入れて、ある程度の協力関係を築いたと解釈できるわけです。そのことは『日本書紀』にもそれとなく書かれています。高木神が大物主神ことオオドシに対して「わが娘のミホツヒメをお前に娶らせて妻とさせたい。八十万の神たちを引き連れて、長く皇孫のために守ってほしい」と頼んでいますね。この「わが娘ミホツヒメ」が高木神の孫イチキシマヒメである可能性は高いとみます。またの名をアメチカルミズヒメと言います。しかし、ここに問題があります。それがタカテルヒメなんですね。母は高津姫。「高」族の正統な後継者のような名前を持っています。だけどこの高津姫の正体は宗像三女神の三女タギツヒメなんですね。次回は、タギツヒメから始まる「高」の秘密について論じてみましょう。天孫高族の正体?
2021.08.06
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向かった港は、アラン島に来るときに使ったブロディックの港ではなく、北のはずれにあるロクランザの港です。アラン島の北側は初めてだったのですが、自然が豊かできれいなところでした。45分ほどのドライブで、ロクランザに到着。フェリーの出発時間(午前10時45分)までにはまだ一時間以上あります。すでに先着の車が4台ほどあったので、その後ろに駐車します。時間があるので、車を置いてロクランザを散策。のんびりした小さな港町です。ロクランザ城。元々は13世紀に建造されたお城で、王家の狩りのための宿泊所だったとか。残存している建物は16世紀のものだと書かれています。港には小さいボート用の桟橋もあります。湾の対岸から来た老夫婦が、ボートで戻って行きます。「スコットランはいつもこんな天気だよ」と冗談を言っておりました。すぐそばには、マガモ君が泳いでおりました。(続く)
2024.06.18
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記紀に隠された”暗号”のような「古代日本の王たちの系図」を読み解くために覚えておくべきことは何か。実は非常に簡単です。その系図の秘密を読み解くカギは、スサノオの直系であることがいかに隠されているかを知ることです。既に一部は『竹内文書の謎を解く2』や『誰も知らない世界の御親国日本』で書きましたが、スサノオの息子であるオオトシは、三輪山の神、オオモノヌシ、櫛玉(奇魂)、ニギハヤヒ、天火明という名前に変えられて、スサノオの直系であることが隠されました。同じくスサノオの(宗像三女神の)直系であるアヂスキタカヒコネは、喪屋を切り倒して姿を消した後、タケツノミ、八咫烏に名前を変えて再登場します。オオヤマクイも同じです。オオヤマクイという名前を使うとスサノオの直系であることがバレてしまうからです。スセリビメはカムヤタテヒメに変えられた上に、実子コトシロヌシがヤエコトシロヌシにすり替わりました。スサノオはその神名すら変えられています。ではなぜスサノオの直系を隠さねばならなかったのか。簡単に言ってしまうと、高天原を追放されるようなことをした「大逆人」だったからです。大逆人と言っても、あくまでもアマテラスの属する日向族にとって大逆人であったという意味です。記紀を読むと、おそらく日向族の巫女を手籠めにして、政略結婚によって娶ったアマテラスを激怒させたという理由が高天原追放の理由です。アマテラスの前夫・天忍骨命を殺害した許せぬ仇・敵でもありますから、まあ大逆人と言えば大逆人ですね。もちろんその背景には、政略結婚によって男の子が生まれなかったということもあります。生まれたのは女の子ばかりの宗像三女神。「誓約」で負けたのは果たしてどちらだったのか。次の本では、こうした古代日本の王たちの系図を可能な限り詳らかにします。オオヤマクイは何と言う名前の神に変えられたか。その子の名前は何か。オオタタネコとは何者か。これらの謎を解くヒントはすべて、記紀と、神社の由緒や古い社名に書かれています。今日はちょっとだけ次の本のさわりをご紹介しました。
2017.02.17
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奈良盆地にある大和三山(天香久山、耳成山、畝傍山)を一枚の写真の中に入れるのは、結構大変です。おそらく二上山や葛城山など大きな山に登らなければ写真撮影できないのではないかと思われますが、今回は比較的小さな山から、大和三山を一枚の写真に入れることができました。これが大和三山です。写真中央が畝傍山、その右にあるのが耳成山、そしてちょっとわかりづらいかもしれませんが、左の竹林の右側にある平たい山が天香久山です。上の写真でもう一つ大事な点は、耳成山と畝傍山の間にある遠くの山が葛城山であるということでしょうか。なぜ大事かと言うと、大和三山は実は人工の山の可能性が強いからです。まさかと思われるかもしれませんが、英エイヴベリーの巨大ストーンサークルのそばにあるシルベリーヒルが先史時代における欧州最大の人工マウンドなら、大和三山も十分に人工の山でありえるんですよね。その決定的な根拠は、大和三山の配置がどう考えても夏至の日の日の出を考慮して造られたとしか思われない点です。簡単に説明しましょう。畝傍山は葛城山と三輪山を結んだライン上にあります。これが夏至の日の出のライン。このラインの左右両側のほぼ等距離に耳成山と天香久山が配置されているんですね。つまり三輪山から畝傍山を結んだラインはこの両翼の二山と結ぶことによって葛城山を指す綺麗な矢印の形になるんですね。その矢印は、夏至の日の日の出を葛城山から見た場合、三輪山の上方から昇る日の出の光のラインと一致するわけです。かなり高度な測量技術と土木技術があったとみられます。この技術集団は、ほかにもいくつか仕掛けをしているようです。三輪山と耳成山を結んだライン上に大神神社と狭井神社を配置しているんですね。ということは、耳成山も天香久山も何かの目印として配置された可能性が高くなります。暦として使ったのか、何か祭り事として使ったのかはわかりませんが、製造者の意図を感じますね。耳成山と天香久山を結んだ線上にも何かあるのかもしれません。一応、地図上で調べてみましたが、丹後半島と熊野がラインの両端にあるようでした。そのほか、二上山と三輪山を結んだ東西線、二上山と葛城山を結んだ南北線は、当然のことながら直角三角形を作ります。ではいったい誰が人工の三山を造ったか、という問題ですが、言えることは神武が東征したときにはすでに天香久山も畝傍山も耳成山も存在したということです。神武以前に存在した技術集団が造ったのはまず間違いないと思われますが、その記録は残念ながら残っていません。唯一それが推測できる記録は記紀ぐらいですが、『古事記』の出雲神話には、スセリビメと結婚したアシハラノシコオ(大国主)や、スクナビコナといった、薬草や治水、農業技術に秀でた人たちが登場します。彼らは特殊な技術をもった集団の一員だったのではないかと私はにらんでいます。正統竹内文書的には、イシキリヒコやイスズヒコ(サルタビコ)といったユダヤ系技術集団も登場します。上の写真を撮った場所は、三輪山麓にある久延彦神社です。クエビコは、ご存じない方が多いと思いますが、出雲神話に出てくる知識豊富な案山子(かかし)さんです。どうやら足が不自由だったのでこう呼ばれたようですが、言葉の通じないスクナビコナの出自を言い当てた知恵の神でもあります。今では受験の神様として慕われているようです。彼もまた、技術集団の一員として、この場所から測量に携わったのでしょうか。下の写真は、欧州最大の人工マウンドとされるシルベリーヒルです。
2011.09.17
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白山菊理姫は、多くの謎に包まれた神です。記紀神話でも、『日本書紀』に一度出てくるだけで、『古事記』にはいっさい登場しません。それに『日本書紀』に出てくるといっても、イザナギ、イザナミの神話の一書(別伝)として、何の説明もなく唐突に現われます。イザナギは、死んだ妻のイザナミを黄泉(よみ)の国まで追いかけて行くのですが、見てはならないイザナミの姿を見たために、揉め事になってしまうんですね。イザナギとイザナミが泉(よもつ)平坂(ひらさか)で言い争いになったときのことは次のように書かれています。伊奘諾(いざなぎの)尊(みこと)がいわれるのに、「はじめあなたを悲しみ慕ったのは、私が弱虫だった」と。このとき泉(よも)守(つち)道者(もりびと)が申し上げていうのに、「伊奘冉(いざなみの)尊(みこと)のお言葉がありまして、『私はあなたともう国を生みました。どうして更にこの上生むことを求めましょうか。私はこの国にとどまって、ご一緒には参りません』と」このとき菊理媛(くくりひめの)神(かみ)が申し上げられることがあった。伊奘諾尊はこれをお聞きになり、ほめられた。ただし自ら黄泉(よみ)の国を見られた。これが不祥であった。それでそのけがらわしいものをすすぎ洗おうと思って、出かけて阿波の水門(みと)と速吸(はやすい)名門(なと)をごらんになった。ところがこの二つの海峡は、潮流がはなはだ速かった。それで橘の小門(おと)(日向)に帰られて、払いすすぎをなさった。菊理姫について記されているのはこれだけです。日本書紀の編纂者にとってはよほど都合の悪い言葉だったとみられ、おそらくは「検閲」され、「菊理媛神」がこのとき何と言ったのかは皆目検討がつきませんね。ただ菊理媛神は、イザナギとイザナミの夫婦喧嘩を仲裁してしまうぐらいですから、かなり上位の神ではないかとの説もあります。文献などの資料がほとんどないため菊理姫に関する定説はありませんが、古代東北アジアのシャーマンの系統ではないかとの説が有力です。民俗学者の中山太郎は、菊理媛神こそ「幽冥の境にある魂の言を、この世の人に伝える霊媒者」であり、日本最初の巫女ではなかったかとしています。鳥の羽根や翼を付けたシャーマンだったのでしょうか。そうならば、白山伊勢ラインがなぜ鳥ラインなのかも説明できそうです。古代アジアのツングース系民族の「白山部」という氏族の中で生まれた「白頭山信仰」や「太白山信仰」が海を渡ったとの説もあります。菊理姫のククリとは「結ぶ」の意味で、天と地、男女、恋人、夫婦の不和、対人関係のトラブルの解消に大きな御利益があるとされていますが、「くくる」は「水くくる」で禊の意との解釈もあります。ネパール語の「ククリ」(刀)と関係があるのではないかとの指摘もあります。『日本書紀』垂仁紀に、新羅の王子、天之(あめの)日(ひ)矛(ほこ)が渡来、帰化した記録が残っていることから、天之日矛の出身地である朝鮮半島の聖山「太白山」になぞらえたのではないかとの説もあります。また、「白」は東北地方の「オシラサマ」(一説に火事や地震など不吉な事が起こる前兆を知らせる神様)信仰にも通じることから、シャーマン的な山岳信仰と結びついていたことも考えられますね。やはり、菊理姫が巫女的な存在であったことを示しているのかもしれません。この白山神社が非農耕民系の村に多いことにも触れておきましょう。つまり、農耕民系の弥生人ではなく縄文人の信仰と深く結びついていることが推察されるわけですね。神道家の金井南龍(故人)が『神々の黙示録』(徳間書店)の中で「天皇家が白山一族を滅ぼして奴隷にした」と指摘しているように、現在白山神社がある場所に住み、白山を信仰していた非農耕民系の人々は、ちょうど両面宿儺の伝説と同じように「逆賊」として、大和朝廷に滅ばされて奴隷にされたのではないかとも思えてきます。そして原日本人(石器時代から縄文時代後期までに日本に渡来、もしくはすでに住んでいた人々)の歴史は改ざんされ、もしくは抹殺されたのではないでしょうか。東京の東村山市教育委員会が出版した『白山神社と太陽信仰の研究』の中でも、「(白山神社に祀られている神が)東日本では多く、今日は被差別部落の神」となっているとし、「白山神社に関する上古史は、大きな力によって消滅させられているようで、加賀白山本宮の古文献を収めた一〇〇〇余頁を超える『白山比め神社叢書』の中に、白山の上古史をうかがわせるものは皆無である」と書かれています。そう考えると、白山神社が被征服者の信仰と密接に結びついていた可能性が強いです。菊理媛神が大和朝廷にとって都合の悪い神として記紀神話から事実上、抹殺されたとしても不思議ではありませんね。(続く)
2010.10.08
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5月19日。窓から見た朝の風景。海岸には犬の散歩をしている人が見えます。曇っていますが、まずまずの天気ですね。雲間から日が差し込んできました。出発する前にちょっと散歩をします。すると、すっかり晴れてきました。 赤い縁取りの屋根の建物が、宿泊したゲストハウスです。白い車が借りたレンタカー。田舎では路上に駐車します。この日は移動日です。アラン島からキンタイア半島にフェリーでわたり、北のオーバンという港町を目指します。(続く)
2024.06.17
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昨日、北海道の縄文遺跡の取材から戻って来ました。その取材の詳細は、後日お知らせするとして、羽根ラインに話を戻しましょう。東経137度11分の南北の羽根ラインと北緯35度23分の東西の羽根ラインがあることを前回紹介しました。で、今回の新著でさらに明らかとなるのは、岐阜県河合村の羽根と富山県婦中町の羽根の秘密です。どちらも東経137度11分の羽根ラインから少し外れていますが、何らかの関連性があるのではないかということはずいぶん前からわかっていました。とくに位山や天柱石と関係がありそうだと考えられました。そこで「竹内文書」に出てくる「聖地」を地図上で正確に結んだところ、一つの事実が分かったんですね。その聖地とはどこかというと、アメノニニギノスメラミコトの神殿跡であるとされる富山県横江の尖山、武内宿禰の墓があるとされる富山県高岡市の二上山、モーゼの三つ子塚があるという石川県の宝達山、天神第5代天一天柱主大神を祀った富山県平村天柱石、それに上古の神々が降臨したという位山です。本当にそういう「聖地」であったのかはここでは議論しません。大事なのは、「竹内文書」にそれらの場所が大事な場所、すなわち「聖地」として「記録」されているということです。そして今回、古代測量技術集団が使った三角測量点が羽根という地名として残った可能性が強いということがわかりました。つまり、こういうことです。婦中町の羽根は、天柱石と富山市の羽根を結んだ直線と、尖山と宝達山を結んだ直線が交差する、まさにその点にあるんですね。一方、河合村の羽根は、宝達山と位山を結んだ直線と、二上山、富山市の羽根、尖山の三点を結んだ直線に対して尖山から引いた垂線との交点にあります。この時、尖山と河合村の羽根を結んだ直線は、天柱石と婦中町の羽根と富山の羽根を結んだ直線と平行線にもなります。さらに言えば、河合村の羽根は位山からも白山からも等距離にある地点に正確に置かれた点でもあります。このような点は偶然であるはずはなく、古代測量技術集団が意図的に置いた測量点である、ということができるわけです。また、このとき浮かび上がる幾何学図形や垂線の引き方が、イギリスのストーンヘンジ、エイヴベリーの両複合体遺跡とその地域の最高峰を結んだ時にできる幾何学図形の描き方に非常によく似ていることがわかります。29ページの図1-2と62ページの図2-2ですね。似ているからと言って、同じグループがやったとは言えません。だけど、どうやら我々の知らない古代において、同じような測量技術や知識を持つ古代人が世界中にいたのではないかと推論することができるんです。ただしいつの時代かはわかりません。ブリテン諸島でラインを引いた人たちが、今から約5000年前の時代の人たちであることはわかっています。でも、羽根ラインを作った人たちがいつの時代の人たちなのかはまったくわかりませんね。越王オロチが日本を統治していた時代より前だとは思いますが、確たる証拠はありません。そこで、ちょっと発想を変えてみました。もし、5000年前の古代において地球規模の文明が既に繁栄していたのだとすれば、日本の縄文時代の遺跡にもその測量技術の痕跡が見いだせるはずではないかと考えたわけです。それが第五章に書かれている「縄文遺跡群と神秘の測量」です。高度な測量土木技術を持つ「縄文文明」が古代の日本にはあったのではないか、と。その手がかりが北東北と北海道の縄文遺跡にあったんですね。(続く)
2015.08.07
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アラン島に着いたのが午後1時半で、オウケンカールの立石とマクリー・ムーアの巨石群を見たら、もう午後3時半か4時ごろになっていたと思います。この時間から次にどこの遺跡に向かうかです。事前に下調べしてあった巨石群は、次のように地図に書き込んでおきました。本当は、最近ほぼ完ぺきな形で見つかった、西海岸のドラマドゥーンの遺跡群もみたかったのですが、この時間からでは行っている余裕はなさそうです。大幅に割愛して、島の南東の遺跡群を目指しました。その途中で立ち寄ったのが、この立石。キルドナンの立石(Kildonan standing stone)です。お結びというか、三角形の立石ですね。なぜこのような形になっているかというと、その答えは、上の写真の中央の水平線にあります。三角形の島が見えますよね。おそらくこの島の形を模したのだと思われます。富士山を模した富士塚のようなものですね。アルサクレイグ島(Ailsa Craig)という名前の、自動灯台のある無人島で、カーリングで使用されるストーンの原材料・ブルーホーン花崗岩は、この島で採石されるそうです。再び東海岸に戻ってくると、ホーリー島が現れます。この日はこの島が見える海岸のゲストハウスに宿泊しました。部屋からは目の前に海が見えます。(続く)
2024.06.16
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アマテラスとスサノオの政略結婚により、統一王朝への足掛かりができたのですが、問題もありました。実はアマテラスにもスサノオにも連れ子がいたんですね。スサノオには、クシナダヒメとの間に8人の王子と娘のスセリヒメがおりました。牛頭天王(ゴズテンノウ=スサノオ)と八人の王子の話は、八王子という地名の由来にもなっていますね。一方のアマテラスには、タカミムスビという審神者(さにわ)長との間にオシホミミという王子がおりました。そして実は、アマテラスとスサノオの間にも、宗像3神で知られる3人の娘(タキリ、イチキシ、タギツ)が生まれます。これだけ子供が多いと、当然のことながら統一王朝の人事問題が勃発します。祭司王は宗像3神から選ばれることが決まりました。アマテラスの連れ子であるオシホミミは政治王になることが決まります。そして、スサノオの連れ子であるニギハヤヒが軍事王兼統一王となり、近畿の地に統一王朝を築くことが決まったんですね。このとき、どちらかと言うと臆病なオシホミミは、政治王の称号を辞退。宗像3神も若かったので、ニギハヤヒがすべての王を兼務して統一王朝の初代天皇「天照国照彦天火明櫛玉ニギハヤヒノミコト」となったわけです。これに憤慨したのは、日向族でした。統一王朝における日向族の重要ポストがほとんどなくなってしまったからです。とくに祭司王の称号である「天照」まで事実上出雲族に取られてしまった(「天の岩戸隠れ」)ので、大変です。何とか巻き返しを図るため、「天照」強奪作戦を練るんですね。作戦参謀はオモイカネ。中東系女スパイ、アメノウズメを送り込み、色仕掛けで出雲族の神器である「草薙の剣」の所在を探り出します。アメノウズメは、腕の立つタヂカラオらを宮中に手引きしてまんまと草薙の剣を奪い取る(「草薙の剣の献上」)と同時にアマテラスを奪還、さらには祭司王の候補である宗像3神のうちイチキシとタギツを半ば拉致して、日向族の支配地域へ強引に連れ出すことに成功します。このアマテラス強奪事件によって統一王朝の基盤は揺ぎますが、日向族にはまだまだ、統一王朝を打ち破るだけの力はありません。そこで日向族のニニギは、父オシホミミから王の位を譲り受けると、統一王朝を打倒するため軍備増強を進めるなど戦闘準備を着々と整えていきます。まずニニギが着手したのは、出雲王国の攻略でした。当時の出雲王国は、スサノオの末娘であるスセリヒメを娶った大国主が王となっていました。大国主は、医術・薬草の豊富な知識や才能を生かして難問を次々と解決して出世(「根の国神話」「国作り神話」)したユダヤ人でした。ニニギは何度か密偵を送って出雲王国の転覆を図りますが、うまく行きません。業を煮やしたニニギは、タケミカヅチを将軍とする水軍で出雲に奇襲攻撃をしかけます。そして大国主とその息子の事代主を降伏させ、最後まで手向かったもう一人の息子タケミナカタの軍勢を打ち破ります(「国譲り神話」)。これにより出雲王国は日向族の事実上の支配下に置かれ、大和にある統一王朝を支援することができなくなりました。(続く)
2011.04.30
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「ザ・パン」と呼ばれる最も古くて特別な部族が乗り込んだ船団は、沈没したパン大陸の一部であった日本に漂着し、失われたパンの文明と精神を継承したーー『オアスペ』が伝える超古代の歴史は、そう語っています。これは日本語に訳しているので、それほど奇異に響かないかもしれませんが、英語の原文で読むと大変なことになります。だってそうでしょ。スペルこそ「ZHA」と「JA」で違いますが、「ザ・パン」が漂着した、かつての「パン」大陸の一部は現在の「ジャ・パン」と呼ばれている国である、と読めるからです。「パン」と「ザパン」、それに「ジャパン」じゃ、まるでオヤジギャクですよね。こんなオヤジギャクのような物語を信じることはできない、と多くの人が思っても、それは無理からぬことです。ニューブラウフに啓示を与えた「天使さん」には悪いですが、私も最初にその話を聞いたときは正直「勘弁してくれよ」と思いました。ここで『オアスペ』を偽書として放っておいてもよかったわけです。だけどそうではないかもしれない可能性もあったんですね。その点は「竹内文書」も同じです。ではどうして『オアスペ』を真面目に取り上げようと思ったかというと、私の取材先であり、何冊かの本の共著者でもある秋山眞人氏が、かつて退行催眠を受けた際に見た「前世」において、実際に「パン」という大陸が出て来たからです。秋山氏は催眠中に「パンは海に囲まれた巨大な島」であり、「ある特定の場所から太陽が昇る時期においては、この島全体を『神とその座』という意味で、レムリアと呼ぶ」と語っているんですね。レムリアの「レ」は土地とか座という意味で、「ム」は神、そして「リア」はそこで一致するという意味であるとも秋山氏は催眠中に言っています。とは言っても、そのような退行催眠中に話したことなんか信用できないと考えるのも、無理からぬことです。実は私も退行催眠を試しに受けてみて、自分の「前世」に遡る実験をしたことがあります。退行催眠といっても、リラックスして潜在意識に浮かぶ映像を見るだけの話なんですが、その映像が本当に「前世の自分が見たり感じたりしたもの」なのかどうかなんてわからないんですね。でも、とにかく私は催眠中に見た映像を施術者に語りながら説明し、それを自分が持ち込んだテープに取ったわけです。その数週間後だったでしょうか、その内容を全く明らかにしないまま、秋山氏の事務所を訪ね、私の「前世」をリーディング(霊的な能力で読み取ること)してもらいました。すると私が催眠中に見た「前世の映像」など全く知らないはずなのに、秋山氏が読み取った「私の前世」は、細部にわたるまでほぼ完璧に一致してしまったんですね。この詳細は拙著『異次元ワールドとの遭遇』(成甲書房刊)に詳しいですから、興味のある方はお読みください。ここに至ってとうとう私も、秋山氏には何か我々の知らない、潜在意識とか集合無意識の情報を読み取る能力があるのではないかと確信するようになったんですね。で、その秋山氏の前世に「パン大陸」が登場し、ジョン・ニューブラウフというアメリカの歯医者の「啓示」にも「パン大陸」が出てくるのなら、人類の集合無意識が持つ情報の中に、「パン大陸」の歴史が眠っているとも考えられるわけですね。今日の写真は、伊豆半島の下田富士。鋭角なピラミッドの形をしています。これも日本に残るパン文明の痕跡でしょうか。(続く)
2015.08.23
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日向族の「特殊部隊」による出雲襲撃事件、すなわち記紀に記された「国譲り神話」の話をする前に、当時の日向族、出雲族がどのような系図になっていたかについて紹介しておきましょう。日向族には、アマテラスと高木神の間に5人の王子が生まれたことは既に述べました。そのアマテラス、もしくはアマテラスの娘とスサノオの間には3人の王女(宗像3女神)が生まれました。では、出雲族のスサノオの子供は何人いたのでしょうか。その答えは、8人の王子、八王子です。実はスサノオの8王子は巧妙に隠されています。現在、八王子神社に行くと、八王子とは宗像三女神とアマテラスの五王子のことであると説明されている場合もあります。だけど八王子がそのように解釈されるのようになったのは、明治維新以降なんですね。神仏分離の際、牛頭天王の八王子が、スサノオと天照大神との誓約(うけい)で化生した五男三女神に意図的に変えられたというのが真相です。もうご存知のように、『古事記』を正しく読めば、そのオシホミミら五人の王子は高木神の子供であり、決してスサノオの子ではありません。たまたま数は合っていますが、そもそも五人の王子と三人の王女を足して八王子とするのは乱暴です。七人の王子と一人の王女を八王子にするぐらいならまだ許せますが、まあ明治政府の方針であり仕方のない面もあったのでしょう。明治政府自体が新しい体制をつくるために真実を隠すことに血眼になっていましたから、ある意味当然の結果でした。では牛頭天王とは誰か。仏教におけるインドの祇園精舎の守護神であるとも、薬師如来の垂迹(すいじゃく:仏・菩薩が衆生済度のために仮の姿をとって現れること)とも言われる防疫神です。もともとは出雲の祖神であるスサノオが仏教伝来後、牛頭天王と習合したと考えられています。つまり牛頭天王は、元はスサノオであった可能性が高いんですね。そのスサノオの8王子を祀ったのが本来の八王子神社と思われます。『古事記』編纂者にとって、この八王子は出雲国の正統な継承者でもありますから、あまり大々的に取り上げたくなかったと推察されます。それはそうですよね。日向族の神武(のちの大和王朝)にとっては敵の一族ですから。だけど記紀でも八王子に触れないわけにはいかなかった。そのため丹念に読み解くと、スサノオの八王子が誰であったかが浮かび上がって来ます。ます、長男はオオヤヒコことイソタケルです。(続く)
2015.02.27
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今日は遅くなったので写真だけ。1月27日撮影した紅梅です。陽当たりの良い場所の梅は満開に近づいていました。
2022.02.01
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サッカー監督イビチャ・オシムが生まれたのは、後に紛争の中心地となるボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボ、多民族が混在するグルバビツァ地区でした。生年月日は、1941年5月6日ですから、蛇年生まれですね。「魂」と「環境」に、掘り下げる性質を示す6があります。先祖からは自由の運命を与えられ、「人生全体」のテーマとして運命は1の指導力でした。 6を二つ持っていることもあり、非常に哲学的で、物事を掘り下げて行く集中力のある人です。実際に彼は東欧の名門サラエボ大学の理数学部数学科に入り、大学では研究職に就くことを勧められたそうですが、経済的な理由でプロサッカー選手の道を歩んだようです。 彼はユーゴスラビア代表として1964年の東京オリンピックに出場するなどサッカー選手として成功しましたが、世界的に有名になるのは監督になってからです。まさに指導者としての運命を持っていたからだと言えますね。ユーゴスラビア代表監督として各民族の対立を超えたチームの団結を掲げ、1990年のワールドカップイタリア大会でベスト8に進み、指導者として不動の地位を築きます。しかし、92年にユーゴスラビア軍がサラエボに侵攻すると、抗議の意味を込めて監督を辞任しました。 その後も先祖からもたらされた自由の運命通りに、ギリシャ、オーストリア、日本のクラブチームの監督に就任。2006年には日本代表監督になり、日本のサッカーに哲学的な意識改革をもたらしました。彼が唱えた「考えて走るサッカー」は、まさに6を2つもつ指導者らしいサッカーであったように思われます。 旧ユーゴスラビア出身で、テニス界で活躍している選手も多いです。 一番有名なのは、言わずと知れたノバク・ジョコビッチ選手。セルビア・ベオグラードの出身です。父親の家系のルーツはモンテネグロ人で、母親の家系はクロアチア人。父親は元プロスキー選手で、サッカー選手でもあったそうです。ノバク・ジョコビッチの生年月日は、1987年5月22日の卯年生まれ。震(4)、巽(5)、坎(6)、艮(7)と八卦のうち異なる4つの卦の性質を持っています。 個人の魂としては人間関係を重視し、先祖からは自由をもらい、環境はテニスの達人になることを求めさせたといえるでしょうか。人生全体の運命は持続力をあらわす艮ですから、記録をドンドンと積み上げて行くことを示しています。ATPマスターズ1000の歴代最多優勝37回、世界ランキング1位通算在位歴代1位の359週など数々の歴代記録を持つプレイヤーになったのも、この艮の性質を表わしています。 ゴラン・シムン・イワニセビッチも記憶に残るユーゴスラビア出身選手です。2001年のウィンブルドン選手権男子シングルスで優勝しました。クロアチア出身。生年月日は、1971年9月13日の亥年生まれ。震(4)、乾(1)、巽(5)、乾(1)を持っています。 ジョコビッチ選手と同様に、個人の魂としては人間関係を重視し、環境は自由にふるまうことを許し、先祖からのサポートを受けて人生全体ではリーダーシップをとることを運命づけられています。高速サーブを武器にした選手としても優れていましたが、同邦のマリン・チリッチを2014年の全米オープン男子シングルス優勝に導いたテニス指導者として有名です。2019年6月からはジョコビッチのコーチにも従事しています。乾を二つ持っているだけのことはありますね。 さて、ユーゴスラビアの歴史を振り返ったので、ギリシャを目指した旅の話が中断しておりましたが、先に進みましょう。 (続く)
2022.04.24
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ユーゴスラビアの首都ベオグラード行きの夜行列車で出会ったボーイスカウト・ガールスカウト風の少年少女たちは、真夜中になる前に、どこかの駅で皆降りて行きました。コンパートメントの中は再びガラガラです。ですから、再び足を伸ばして眠ることができるわけです。その後、ほとんど誰にも邪魔されることなく、眠りに就くことができました。 夜が明けて、3月31日の朝がやってきました。車窓からはユーゴスラビアの風景が見えています。と言っても、どのような風景だったかは全く記憶からなくなっています。 やがて列車は、ユーゴスラビアの首都ベオグラードに到着しました。ここで列車を乗り換えて、ギリシャのアテネ行きの列車に乗らなければなりません。しかも、ベオグラードーアテネ間の乗車時間は19時間以上あります。かなりハードな長旅になりますね。 時刻表を見たら、アテネ行きの発車時間まで二時間ありました。そこで、その時間を有効に使って、気分転換を兼ねてベオグラードの町を見て歩くことにしました。途中下車休憩みたいなものですね。 ベオグラードは、ヨーロッパ最古の都市の一つです。考古学的には紀元前6千年紀には人が居住していたことがわかっているそうです。ドナウ川とサヴァ川が合流する丘陵地帯にあり、古くから西洋と東洋を繋ぐ主要な交易路の上にありました。 駅の改札口を出た私は、駅舎内にある地図を探して、大体の駅の場所や地形を確認すると、サヴァ川に向かって歩いてみることにしました。北東の方向に15分ほど歩くと、川辺に出ました。そこに架かる橋を渡ったかどうか覚えていませんが、川のそばにパン屋さんか喫茶店のようなお店があったので、朝食を採ろうとそこに入ってみることにしました。 ところが店に入るや否や、よそ者を半ば敵視するような冷たい視線を受けます。おそらく当時は、ベオグラードに来るアジア人などほとんど見かけなかったのでしょうね。「お呼びではない」という感じでした。ちょうどその年の1月1日にボルドーのユースホステルの炊事場で、港湾労働者風の人たちから浴びた視線によく似ていました。ユーゴスラビアで私を歓迎してくれたのは、前日の列車の中の少年、少女たちだけだったようです。 居心地が悪かったので、その店では何も買わず、駅に戻って、駅の売店で食料を調達することにしました。かくして散歩は4、50分ほどの「冒険」で終わりました。逆算すると、ベオグラード発午前10時ごろのアテネ行き列車だったと思います。その列車に乗り込むと、19時間を超える長旅が再開されました。 (続く)
2022.04.25
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4月18日の土曜日。まだ日にち的に余裕があると勘違いしていた私は、この日もブルターニュ地方に滞在することにします。目指したのはサン・マロ(St. Malo)。同地方でも有数の海辺のリゾート地です。かつては海賊たちの基地であり、城壁を巡らせた要塞港としても使われ、第二次世界大戦中はドイツ軍によって重要拠点として占拠されていました。 そのサン・マロまでのラニヨンからの移動距離と時間は、電車で107キロ、3時間半ほどでした。一度レンヌまで南下して、それから北上しなければならなかったからですね。 ルート地図はこちら。 サン・マロから東に35キロほど離れたところには、有名なモンサンミシェルがあります。 イギリスを含めた地図はこちら。 ブルターニュ地方がイギリスのすぐ近くであることがわかりますね。 サン・マロはとてもいいところだったように思います。 その時は写真を撮りませんでしたが、30年近く経った2010年11月14日にサン・マロを再訪したとき、写真を撮影したので、そちらをご紹介しましょう。 綺麗な風景ですね。 遠くには要塞都市サン・マロが見えます。 やはりユースホステルに泊まったと記憶しています。 (続く)
2022.05.24
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遠く海を隔てた東と西の島国の少年と少女が8年間の文通を経て、23歳の若者となり、イギリスで邂逅したという話は、ジュリーの父親が務める新聞社の記事となりました。後日その掲載記事をジュリーが送ってくれました。今ではその掲載紙はどこかに紛れて見つかりませんが、何はともあれ、イギリスの一地方紙に私の名前が刻まれたことになります。たぶん、8月1日付けのThe East Anglian Daily Timesではないかと思っています。 その掲載紙を探す過程で、ローヤル・ウェディングのことを報じた1981年7月29日付けの夕刊紙『イヴニング・プレス』が見つかりましたので、ご紹介しておきましょう。月日が経っているので、もうボロボロです。記念になると思って、とっておいたんですね。 さて、これでイギリス留学に付随するミッションも完了です。 7月31日の金曜日、ジュリーたちに感謝の言葉と別れを告げて、電車に乗り込み、ロンドンに向かいました。スーツケースを取りに行ったと思います。重たい荷物はどこかに預けていたと思うんですね。ケント大学のダーウィン・カレッジの可能性が一つ。もう一つの可能性は、NCB(文化放送)留学委員会のロンドン事務所に預けたかもしれません。 いずれにしても、荷物を受け取って、ロンドン市内か、ガトウィック空港の近くで一泊か二泊したと思います。帰りの便が何日だったかははっきりしませんが、8月1日か2日の便で同空港から成田空港へと飛び立ったはずです。 前にも話したと思いますが、当時の格安チケットはソ連のアエロフロート航空か、香港のキャセイパシフィック航空しかありません。私が購入したのは、南周りのキャセイパシフィックでした。安いだけあって、本当に不便で窮屈なフライトだった記憶があります。それも南周りですから、あっちに停まったかと思ったら、今度はこっちに停まるというように、ほとんど空の各駅停車。たくさんの空港を見学する破目になりました。もう後半になると、疲れて空港のロビーに立ち寄ることもなく、畿内で休んでおりました。 30時間以上の飛行時間でようやく成田に辿り着くわけですが、もう二度と南周りの便には乗りたくないと、心底思いました。それでも後の人生でギリシャの島に行ったときは、どうしても南周りとなり、片道30時間を超える旅になっていますけどね。 結構きつい旅になることは、時々あります。 何はともあれ、無事に留学先から日本に戻ることができました。でも、のんびり休んではいられないんですね。これからすぐに就職活動を開始しなければなりません。もう4年生の後半ですから、後がありません。そして卒論もあります。まさに「ピンチ!」な状況です。 (続く)
2022.07.12
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一日空きましたが、卒論の和文抄訳の続きです。いよいよベケットの演劇の核心であるルールとパターンの分析に入ります。 (和文抄訳)パート2 それぞれにゲームにルールとパターンがあるように、ベケットの劇のそれぞれにもルールとパターンがある。ここではベケットの劇全体に共通するルールとパターンについて考えてみる。 まずルールに関しては、ゲームに規則書があるように、劇には脚本がある。ベケットは実に厳格に、俳優たちに脚本通りに演じることを要求している。プレイやゲームというものは、ルールを厳守することなしには成り立たないからだ。実際ベケットは、俳優が何歩歩かねばならないかを規定することもある。 したがって俳優たちは、能役者(能楽師)やクラシックバレーのダンサー(舞踊家)たちがしなければならないような厳密さを強いられることになる。というのは、ベケットが目指しているのは、制限のない自由奔放な混沌を舞台上に表現するというのではなく、限られた舞台の空間で、限られた動きにより幾何学的な美しい形を表現することなのだから。 チェスを例にとればよくわかる。ルールがチェスの駒の動きを規定するからこそ、混沌の中に、あの幾何学的で美しい軌跡が、盤上という限られた空間の仲で表現されうるのだ。 そのため、舞台というものは、ベケットの演劇において極めて重要になってくる。チェスというゲームがチェス盤なしではできないのと同様である。同時にチェスの駒と同様、ベケットの演劇の登場人物たちは舞台を離れることができない。その例の最たるものは、『言葉なき行為』である。登場人物の男は、舞台から離れようとするたびに、舞台上に投げ返されてしまう。 ここでベケットが言おうとしていることは、チェスの駒にしろ、俳優にしろ、私たちにしろ、それぞれの舞台から離れてしまっては、もうプレイすることができないということである。人生という舞台の外は『勝負の終わり』のクロヴが言うように「ゼロ(無)」である。ベケットの「生きるためのゲーム」という言葉の意味はそこにあるのだ。 次にパターンに関しては、主要なものが三つある。第一に、光と闇の関係が挙げられる。ベケットの劇の登場人物たちは、光が自分たちを照らし出しているうちはプレイをし続ける、あるいはし続けなければならない。それは私たちの人生をも象徴している。昼の間、私たちは『ゴドーを待って』のヴラディミールやエストラゴンのように話をしたり冗談を言ったりして時を過ごしている。そして夜になれば眠りに就き、「芝居(プレイ)」における男優や女優たちが、スポットライトが消えると黙り込むのと同様に、静かになるのだ。 さらにもっと人生を宇宙的時間の中で捉えれば、私たちの人生など一瞬の閃きにしか過ぎない。それはベケットの30秒劇『息』や、『ゴドーを待って』のポゾ―の次の言葉によって表現されている。「女たちは墓穴に跨って子を産み落とす。昼の光が一瞬閃き、そして再び夜である」と。 第二のパターンは、ベケットの劇の登場人物たちは、同じことを繰り返したり、言ったりしなければならないことだ。エストラゴンにしろ、ヴラディミールにしろ、クロヴやハムにしろ、皆同じことを繰り返している。『芝居』においては、全く同じことを始めから終わりまで二度演じている。 そこには、来る日も来る日も興行が終わるまで、同じことを何度も演じなければならない俳優たちの生活が投影されているだけでなく、私たちの人生も表現されている。朝起きて、食事をして、人と話をして、夜になると寝てしまう。私たちの人生は、毎日毎日がこの繰り返しである。ベケットの演劇は、この繰り返しゆえに、円のイメージを形成する。ベケットが興味を持っているのは、まさにこの単純で幾何学的な形である。第三のパターンは、衰退である。ベケットの劇においては、すべたが衰微してゆく。その兆候として、登場人物たちは自分たちの所有していたものを、ちょうどチェスをする人が自分の駒を次から次へと取り去られていくように、失っていく。無くしてゆくものは、パイプや懐中時計のような物質的なものとは限らない。視力、声、肉体の動き、時の概念、記憶など、あらゆるものを失ってゆく。そして限りなくゼロに近づいてゆくのだ。 ベケットの演劇の構成自体にも同じことが言える。『ゴドーを待って』の第二幕は第一幕より上演時間が短く、『芝居』における二度目の繰り返しは、一度目よりも光を弱めて、そして声も小さくして演ぜられるし、ベケットの戯曲作品自体も、最近の作品になればなるほど、時間が短く、そして抽象的になってゆくのだ。 この三つのパターンからもわかるように、いろいろな意味において、ゲームは人生の縮図である。私たちの人生は、サッカーの夜間試合のようなものである。照明に照らし出されて間はプレイをし、そしてボールを蹴ったり、パスをもらったり、同じことを何度も何度も繰り返す。やがて、シェイクスピアの『マクベス』で主人公が独白するように、初めはあんなに元気で顔を輝かせていたプレイヤーも、次第に体力を消耗し、集中力を失い、衰微してゆく中で、ゲームは終わってしまう。後には、人気がなくなり暗くなった競技場があるだけなのである。 (続く)
2022.07.21
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翌12月14日に、モルジヌのスキー場でスキーを楽しんだときの写真もありました。影を見ればわかるように、ストックを傍らに置いて写真撮影していますね。たぶんカメラをナップサックに入れて、スキーをしながら写真を撮ったのだと思います。余裕ですね。下にはモルジヌの町が見えています。こちらはもう夕暮れ時のスキー場。冬ですから午後4時ごろだと思います。日が暮れるまでスキーを楽しんだのでしょうね。さて翌15日の月曜日。モルジヌを出発したときの写真です。たぶんヒッチハイクした場所の写真だと思います。次の写真も同じ。ヒッチハイクをする場所ごとに、写真を撮っていました。(続く)
2022.08.18
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1980年12月のフランス半周ヒッチハイクの旅の写真は、次の四枚で終わります。上の写真は昨日紹介したアヴィニョン付近の景色ですね。次は南仏のどこかの夕日。綺麗な夕景ですが、どこで撮影したか全く覚えていません。そして、最後はこちら。道路に雪が積もっていますから、何年振りかで南仏で大雪が降った後に撮影されたものだとしかわかりません。風景から判断すると、ヒッチハイクしている最中に撮影したのだと思われます。洗濯物が干してありますね。なぜ撮影したかもわからない不思議な写真です。(続く)
2022.09.04
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2022年10月10日は、非常に空が騒がしい日でした。その時の夕景。よく見ると、右側に頂上だけ写っている富士山に笠雲がかかっています。こちらがそのか笠雲。富士山の真上に出ています。いつも見ている人でないと富士山だとわからないくらい、雲が中腹を覆っていました。芦ノ湖では近すぎて、たぶん笠雲は見えなかったと思います。本当に不思議な空でした。
2022.10.24
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これも夏の花ですね。百日紅です。鮮やかですね。
2023.08.06
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今回のイギリスの旅で私が使った車はこちらです。チェコのシュコダ(Skoda)の車です。フォルクスワーゲン傘下で再生したチェコの伝統ある車メーカーとのことです。走り心地はなかなか良かったです。こちらは農場の駐車場からスコットランドの方角を見た時の風景。夕日が沈むのをここから何度も見ました。この日(26日)は生憎の小雨模様でしたが、予定通り西のダンフリーズからの海岸線をドライブすることにしました。海岸線をドライブしている途中、遠くに晴れ間が見えたので、viewpointに車を停めて撮影。持っていた広角カメラでも撮影します。この日はずっとこんな感じの天気でした。ニュートン・スチュワートに到着。ここでちょっと休憩しました。(続く)
2023.11.17
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秋と冬のせめぎ合いのようですね。今回野沢温泉を訪れたのは、姉とその姪夫婦とその子供に会うためでした。ニュージーランドからはるばる日本にやってきたので、合流しました。湯沢神社そばの階段を歩いているのが、姪夫妻とその赤ちゃんです。写真からはわからないと思いますが、旦那さんが赤ちゃんを抱えています。湯煙の中の紅葉がきれいでした。野沢湯沢の源泉の一つ麻釜(おがま)。オオナムヂが湯釜を守っているようですね。ヌナカワヒメと政略結婚し越の国の王になりましたから、当然といえば当然ですね。こちらは猫。お店を守っておりました。(続く)
2023.12.14
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泊まった旅館。いかにも温泉宿という感じですね。翌日はスキー場まで散歩。結構、雪が積もっていました。スキー場のリフトとロープウェイの試運転が始まろうとしているところでした。待ちきれない外国人スキー客の中には、歩いて登って、スキーやスノーボードを楽しんでいる人もいました。上の写真の標識を見るとわかりますが、ここには日本スキー博物館があります。私は子供のころからスキーをしていたので、懐かしいスキーが展示されておりました。このような金具がついたスキーを使っていました。竹のスキーを履いていたこともあります。始めたのが5歳くらいだったので、最初は大人についていくのが大変でしたが、8歳くらいになったら、もうかなり自由に滑れるようになっておりました。(続く)
2023.12.15
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晩秋シリーズもこれが最後です。9日後の12月10日に撮影した写真です。すっかり葉が落ちてしまった木が目立つようになりました。枯葉ロード。その分、空が広くなります。最後の紅葉。そして、今年最後の赤いバラ。次回はこの時期の伊豆半島をご紹介しましょう。
2023.12.23
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正月三が日も明けて、今日は休み明けの買い出しに。思ったよりも混んでいませんでしたが、歩き回ったので結構疲れました。羽根ライン関連のブログは多分明日アップします。
2024.01.05
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カンタベリー大聖堂を訪問したその日一番の不思議な出来事は次のようなものでした。私が聖堂内の聖トマスの聖所を写真撮影した直後(カメラの記録によると2分後)、furafuranさんが近くの柱と柱の間に、青とピンクの光が閃光のように走ったというんですね。私がそちらのほうを見たときには、もうそのような光は見えませんでした。だれかがカメラのフラッシュを焚いたのかもしれないと思って、柱の反対側も見ましたが、そのあたりにはだれも人はいませんでした。何だったのだろうといぶかりつつも見学を続けていると、今度は彼女が、鹿が描かれた壁画が気になるので写真を撮ってほしいと突然私に言います。言われたとおりに写真を撮って確認すると、何と鹿の頭のそばにオーブらしきものが写っています。こちらの写真ですね。私はフラッシュの反射だと思われるのが嫌だったので、間髪を入れずに同じ条件で同じ壁画を撮影しました。それがこちら。同じ条件なのに、上の写真には写っていません。最初の一枚には、写るはずがない光が写っていたわけです。では、その写っていたオーブを拡大してみましょう。このオーブとみられる光には構造があることがわかりますね。中核にある明るい丸い光体を包むように、より薄い光がシールドのように覆っているのが見えます。オーブのオーラでしょうか。また、カメラのフラッシュの反射と違って光は拡散されておらず、感覚的には鈍くその中空にとどまっている感じを受けます。つまり反射でなく、自らが光源となって輝いている可能性が高いことがわかるんですね。furafuranさんが鹿の絵のところに何か居るのを感じ取って、私に撮影させたことも注目すべき点です。今から思うと、furafuranさんが見た「青とピンクの光の閃光」は、オーブを写させるために、私たちを誘導する光だったのではないでしょうか。昨日取れた正体不明の物質化した光もよく見ると、青とピンク色に見えますから、偶然ではなかったようです。オーブは、明らかに意図的に鹿の絵を撮影させています。で、その鹿の頭の部分をよく見ると、角と角の間に妖精のような生き物が描かれていることに気づきますね。秋山氏によると、これは森の女神のような存在で、鹿はその女神の使いであるといいます。女神をみて驚いている人間と、その視線の先の女神との間にオーブが写り込むことによって、自分(オーブ)が神霊界と物質界をつなぐ案内役であることを暗に示しているのではないか、とのことでした。鹿の壁画にオーブとみられる光が写る前までは、furafuranさんの肩は何かにずっしりと上から押されているように重かったのだそうです。ところがあの写真を撮った後は、重さが消えて、すっきりしたのだと彼女は言います。自分の存在に気づいてくれたので、この日の目的を達したオーブはとりあえず離れていったのだと解釈できます。(続く)
2024.02.16
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昨日は、お花見。咲いている桜の花の数より、花見客の数のほうがはるかに多かったです。まるでお人見?第四章を爆進中。
2024.04.01
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オウケンカールの立石の後は、以前にも立ち寄ったマクリー・ムーアの巨石群を見に行きました。車を駐車場に止めて、ゲートを超えて「羊の王国」に入っていきます。どこまでも羊の牧草地。そこを永延と歩きます。振り返ると、遠くにキンタイア半島が見えています。アップダウンが比較的少ないので、ハイキングや犬の散歩コースになっています。(続く)
2024.06.10
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昨日、新刊『万物の霊性と共鳴する日本人の呪力』(河出書房新社)の見本が送られてきました。14日に届いたということは、13日にはもう出来上がっていたということですね。昨日は早速、秋山氏がYouTube「新刊紹介・日本人の呪力」で紹介しておりました。約100冊分の本の情報と、秋山氏の体験と哲学が詰まっていますから、かなり読みごたえのある本になっていると思います。是非、お手に取ってお読みください。発売は今月25日の予定です。
2024.06.15
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