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毎年1月17日には震災について、阪神・淡路大震災について書いてきたが、今年は書かずにいた。朝から、近くの公園の慰霊碑、復活した市民追悼式、メモリアルウォーク、HAT神戸、三宮センター街の絵画展、東遊園地などを巡った。そして ヴィッセル神戸の『25周年特設サイト』で小川慶治朗選手のコメントが。ツイッターでリツイートしましたが、2月になってどうやら特設サイトの掲載がなくなったようで・・・ここに記録のために再掲します。(このブログは2月9日、記です)「1995年1月17日、僕は2歳でした。・・ヴィッセル神戸に加入してからは毎年震災とヴィッセルの繋がりを映像で観せてもらってヴィッセルとはどういったチームかを毎年心に刻んでいました。」・・・の部分は ツイッター掲載のため短文化し割愛したのだが 両親からその時の様子、避難の大変だったこと、みなが助け合ったことなど、さまざま折に触れ聞いてきたし、小学校では道徳の授業などでも知った という要旨でした。慶治朗くんは やはり ウチの子、KOBEの子!だと。そして こうして、よき選手を育てたよきチームが「俺たちのこの街」に生まれたことに感謝。その「あの日」を・・・。
2020.01.17
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「あの日」から一夜明け 18日の朝テレビ見ていたら こんなニュースが。心強い!前夜1月17日は 震災の記憶の風化が課題だと 盛んに報じられていたから・・。これからは 震災経験が極、幼い時か、まったく無い 先生たちが 同じように経験ない親御さんたちをもつ生徒さんたちへ 伝え、備える 事になる。まさに 真の伝承の始まりかと。 震災の経験伝え 備える動き 01月18日 06時35分 6434人が亡くなった阪神・淡路大震災から17日で23年となりました。 各地で追悼の行事などが行われ、震災を知らない世代が増える中、当時の教訓や経験を伝え、新たな災害への備えに結びつけようという動きは着実に広がりを見せています。 阪神・淡路大震災から23年となった17日、大きな被害を受けた地域では犠牲者を追悼する行事が行われました。 このうち、神戸市中央区の「東遊園地」で行われた追悼のつどいでは、あの日の出来事を世代や場所を越えて、いつまでも伝え続けたいという思いを込めて、灯ろうで「伝」という文字が形づくられました。 会場の一角では、ボランティアの学生たちが、当時を撮影した写真や映像を受け取り、デジタルデータにして後世に残そうという取り組みが初めて行われ、大勢の人たちが関心を寄せていました。 神戸市の市民グループのまとめでは、兵庫県内で1月17日前後に追悼行事や避難訓練などを計画した学校や幼稚園は1449と、去年より103か所増え、増加傾向にあります。 震災から23年がたち、当時を知らない世代が増える中、教訓や経験を伝え、南海トラフの巨大地震をはじめとする新たな災害への備えに結びつけようという動きは着実に広がりを見せています。
2018.01.19
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遅ればせに 今年の1月17日の記事を書きましたが後で 午後2時46分には 東を向いて 東日本大震災の被災地へ向かって犠牲者、被災者の方々への黙祷があったことを知ったそれは東北から神戸の黙祷に参加した人のツイッターで<早朝から大変なのに、午後 その時間になると ほんとうに沢山の人がわらわらと どこで仮眠をしていたのかと不思議なくらい 集まってきてくれて東北の被災地のために・・・>という趣旨がつぶやかれていたが反対に東北 石巻では 5時46分に 神戸、阪神・淡路の被災地のための黙祷が 行われていたことも知った石ノ森萬画館前広場で同じように 灯火を並べ東北の震災の風化が言われるたびに KOBEは、KOBEの子供たちは(そう「神戸賛歌」を歌う我々ヴィッセルサポーも含めて)東北を忘れません!と言っていたが東北が KOBEを 阪神・淡路大震災を 忘れないのだと また 胸が熱くなった
2016.02.20
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阪神・淡路大震災 21年のこの日各地の追悼行事が 20年の昨年と比べて半減という報道もあったがわが街の 公園では 公式な追悼行事こそなかったが 同じように「絆」という字が刻まれた記念碑の前に 多くの花が供えられていた。記帳ノートの中には この公園すぐ近くでお子さんを亡くした知り合いの方の名前も・・そして 昨年に引き続き当時小学生2年生だった娘と一緒に 午後5時46分の 東遊園地の黙祷に(つまり早朝でなく夕方の部)たしかに昨年よりは人は少なかったと思うが同じように 祈る人たちことしは 文字で「未来」が加わっていたたしかに次世代に 未来への記憶へつなげていく必要がある・・・震災の記憶を(なおこの稿 2月20に書いています。遅ればせに・・・。)
2016.01.17
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本日は兵庫県考古博物館主催のウォーク参加遺跡と災害についてめぐり 住吉から岩屋までなおツイッターはじめ サッカーも含め以下でつぶやいてますhttps://twitter.com/vissel19950117ブログは更新遅れ、写真も貼り付けままならずで・・・。ヴィッセル 本日対ガンバ0-0。浦和戦でも ともかく相手の優勝を目の前でみるのは阻止を!
2015.06.07
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(2月1日にこの項を書いています)遅ればせながら・・・阪神・淡路大震災 発災の 1995年1月17日から20年後の この日兵庫県メモリアルウォークに参加し HAT神戸、追悼式、人と防災未来センター、兵庫県美術館での震災関連展示を巡り、ヴィッセル神戸チャリティーマッチに 娘とかみさんと一緒に。20年後の「あの日」に こうした催しがあって それに参加するなど 思いもしなかった。20年を実感する。そして「神戸讃歌」・・・1月17日に聖地で歌う『神戸讃歌』であるこうやって 伝えていけるのなら、繋がっていけるのなら サッカーというスポーツ文化の素晴らしさを 再認識します。復興について どう伝えるかを 神戸大名誉教授の室崎先生は「スポーツも含めた文化のちから」、「災害文化」による継承の大切さを発信しているが『しあわせ運べるように』とならんで ヴィッセルという「あの日生まれた」チームとサポーターに歌い継がれていくであろう この『神戸讃歌』はそうしたものの一つではないだろうか。発起人の吉田アンバサダーの「1.17は絶対に忘れない。3.11も忘れてはならない」という言葉に、ふたたび このヴィッセル神戸というチームを誇りに思う。そして そのサポータの一人であることも 誇りに思いました。その後 娘と東遊園地の追悼式へ。夕方5時46分の黙祷に。チャリティーマッチに誘ったら「お父さん その後 東遊園地に行くん?・・・ことしは行こうかな」と。この項を書くため 昨年の自分のブログを読んでいたら・・以下の記事が1995年1月17日「あの日」については 人それぞれ様々な受けとめがあると19年経った今 つくづく感じました。身近なことでいうと 当時小学校3年生で 同級生の男の子をなくした下の娘は バレンタインデーには毎年お宅に行きますが、「あの日」には行けないと(ことし初めて知りました。)そして「来年20年かあ・・、来年は(東遊園地の)追悼式行ってみようかな・・、行けるかな」と。そうか 1年前から考えていたのかと。ところで この時 当時小学校3年と書いたが 1月17日は、 正確には小学校2年の3学期。その4月に3年生になったのだ。いずれにしても 彼女には彼女の 震災20年があったのだと つくづく思った次第。父親は 何かの仇をとるような気持ちで 様々なイベント、シンポ等に参加したきたし 「絶対忘れさせてやらへんど」みたいな気持ちもあっての20年。ついには50歳過ぎて ユニ着てフラッグ持って スタジアムに行くオヤジになり(それまでサッカー見たことなかったくせに とよく家族に言われてます)たまたま隣になった親子連れのボクに 思わず「帰ったらあかん。神戸讃歌 歌わな。選手も一緒に歌うから」と言って お連れのお父さんにも不審な顔されたりしてます・・・が、そういう なにがなんでも震災じゃあ、とイキってきた20年もあれば ずっと行けなかったところへ行く そういう20年も・・・。
2015.01.17
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(記録のために)次世代へ歌い継ぐ語り継ぐ 市民のつどいに寄せて(神戸文化ホール)へのメッセージ転載次世代へ伝えたいこと、被災者の方々への激励など、よろしければメッセージをお書き添えください『震災の時の文字通り老若男女、世代性別、住む所、そして勿論国籍を越えた助け合いは当時30台後半だった私にとって その後の20年間の支えでした。厳しいときも「人間捨てたもんじゃない」「しんどいときはお互い様」「必ず救援は来る」と信ずることができましたから。東北の皆さん、うれしいことの何倍も 悔しいことがあるでしょうが、皆さんのために復興を祈っています。』
2015.01.15
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すでに節分も過ぎていますが・・・覚えのために。ややこしいことですいません。阪神・淡路大震災から19年のこの日兵庫メモリアルウォークに参加してHAT神戸まで「がんばろう東北」のジャンパーを着た年配の方が私の前を歩いていらした。3年前なら思いもしなかっただろう。昨年夏まで職場が京都で 2年間 「この日」に神戸に駆けつけることができなかった。2年前は夕方の5時46分黙祷には 駆けつけたのだったか?この項続きます・・・
2014.01.17
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また「あの日」1995年1月17日 阪神・淡路大震災発生の日が来ます。「また あの日やね」「あの日が近づいてきたね」という会話がわがやでも使われるようになり。いつもは 可能な限り 早朝か夕方の追悼式にかけつけるのですが、今年は京都を離れられず・・どうするかなと考えていましたが法然院で「兵庫県南部地震の被災地に向けて追悼と希望の鐘をならす」行事があり、仕事の合間にかけつけました。「兵庫県南部地震19回忌物故衆生追悼法要」の後行われ、その後には追悼演奏があるのですがともかく 鐘だけはつかせてもらおうと・・。よく京都の会合で会うご同業の知り合いも来ていて、きくと神戸で被災し、友人をなくされていたと。「いつもは神戸に行くのですが、今年はどうしても行けないので どうしようかと思っていたら京都でこんな催しがあるとは・・それでともかく駆けつけました」と。同感。その後 互いに仕事に戻り・・。鐘をついたあとお堂にもどりながら「今日は、『あの日』の前の日の・・今日と 同じようにそんなに寒くなくて こんな日やったなあ。成人の日の振り替え休日で。」とまだ青空ののこる空を見上げながらいう方が。この今日は1995年1月16日。わたしもいきなりタイムスリップしました。「あの日」をめぐって 前の日 いまくらいから いつも不思議な時間の流れになると感じています。黄昏時から夜、深夜 日が変わって・・・そして5時46分。夜明けまえから 夜が明けていき。物理的時間は前に進むのに こころの時間は戻る・・・というか、どこかで いったん1995年1月16日にリセットされて そこから再び「あの日」にむかって進みはじめる。もどるというよりも 前にすすむのに体はうしろにすいこまれて しかし前に進んでいく感覚というと 言いすぎ? あすは神戸は、阪神間は、一日中祈りにつつまれるのでしょうね。 京都東山山麓の鐘楼から 神戸の方をむき みなさんと合掌。神戸の祈りの輪の中に少しでも入れたような気がしました。
2013.01.16
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翌日3月11日は 東日本大震災から1年。現在の職場のある京都では 京都マラソンが初開催。最初 日付をきいたとき『おいおい、なにもこの日にせんでも・・』と思いましたが 被災地枠をもうけて 300人近い人に 被災地から参加してもらい いっしょに走ってもらうことになり・・。わたしは午前中 宇治で用事があったため沿道での応援に参加できませんでしたが、職場の同僚には走った者も数人いて、かつ何人かは当然応援にも行き 初のフルマラソンということで盛り上がり、各所で「東北がんばれ!」のエールがとんでいたそうです。沿道のお寺では「心は東北と共に在る」という横幕をお坊さんたちが持って声援も。まさしく トモニイコウ。みなさんが走り出した同じときに、大文字山に子供たちが登って 東北へのメッセージを書いた紙と布で「白い大文字」を作り 14時56分に黙祷と 東北へのエールを。同時刻、マラソンにゴールした人たちも黙祷。1年経ったとはいえ、阪神・淡路大震災の経験からしても なかなか復興は進みません。しかも、報道でみる現地の状況は かつての神戸・阪神間より ずっと復興の歩みが遅い・・と感じます。余計に みなさん焦りと無力感がつのっていくのでは無いでしょうか。『被災地の外と内では「ものの見方」と「ものの感じ方」が違う』と 今回の震災を受けて かつて神戸で被災したお医者さんが書いていました。そのギャップがまた被災者を傷つけることも・・。ですが 支援の第一歩は「決して忘れない」ことであり、被災地の思いは 「忘れてほしくない」ことだと 阪神での17年間の経験からも思っています。
2012.03.12
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阪神・淡路大震災から17年たち、また1月17日。18年目の1月17日を迎えました。職場のある京都から、夕方やはり神戸、三ノ宮 東遊園地へ。午後5時46分の黙祷に なんとか間に合い。その後、交流テントへ。しばらくぶりにお会いする方々。小生が京都にいることを知っている人もいれば、「やあ東京から、わざわざ。」と3年前の東京での単身赴任以降 お会いしていたはずだが・・、やはりご無沙汰していたのか。岩手県宮古市から来られた遺族を紹介されたましたが・・・ご両親や奥様ほか家族5人をなくされたときかされ こっちは最初その意味 にわかに飲み込めず「みなさんとは長いおつきあいです」と どぎまぎして言うのみ。東遊園地の1.17の灯りこれも存続について色々な話はありましたが今年は東北からも被災した方が来られここに 18年経っても これだけの人が集まることに勇気づけられた いう声があり続いてよかった と つくづく。KOBEの記憶は風化しません東北に引き継がれて 決して 風化しないと。南の慰霊のメモリアルで献花してから、また 1・17の竹筒をめぐり北側の ことし作られた 3.11の灯りへまさか去年は ここに もうひとつの日付の竹が並ぶとだれも想像しなかった3.11の竹灯りの向こうに「夢」の行灯交流テントで会った旧知のかたに 「是非 北側見てください。『夢』がとてもきれいですよ」 と。そのとおりでした。3.11から 夢に向かって・・。その後は 灘区民ホールでの震災の詩の朗読会へ。ずっと行こうと思っていましたが、果たせず 今回をもって神戸での開催は最後になり東北での開催になると知り どうしても行っておこうと。朗読は竹下景子さん。詩は 東北大震災を悼むものでした。ことし3月11日は仙台で行われるそうです。以下に 神戸新聞の記事を<竹下景子さん犠牲者を悼む朗読 最後の神戸開催> 神戸で最後の開催。「特別な思いでこの日を迎えました」と、心を込めて詩を朗読する竹下景子さん。=灘区民ホール(撮影・飯室逸平) 阪神・淡路大震災を題材にした詩を公募し、女優の竹下景子さんが朗読する「1・17メモリアルコンサート」が17日、神戸市灘区の灘区民ホールで開かれた。東日本大震災を受けて来年から舞台を仙台に移すため、神戸開催は最後となった。竹下さんは東日本の犠牲者を悼む詩を朗読、二つの被災地の心をつないだ。 コンサートは市民有志の企画で1999年に始まり、毎年この日に開催して14回を重ねた。今後は仙台に引き継がれる。 神戸最後のステージには約450人が集まった。全国から応募があった158編から選ばれた入賞作5編が、ピアニストの林晶彦さんらの演奏とともに朗読された。 「愛した人のことが忘れられず/この場所に来ては 思い出を語る」「時は流れても 涙が流せても/歌が勇気づけてくれても ただ立ちつくしている」(松本市・伊藤寿彦さん「勇気」)。 子を失った親にも心を寄せた。「母親は小さなシャベルで/瓦礫を掻いた/朝から昼へ 昼から晩へ」(東京都・平石裕一さん「2台の幼稚園バス」) 「言葉には力があり、真の気持ちがある。私はそれを運んできただけ」と竹下さん。 「亡くなった人をしのび、思いを共にして歩んで行こうとの気持ちで朗読してきました。今の気持ちのまま仙台へ行きます。心一つになるステージを応援してくれた人たちに感謝します」と話した。(仲井雅史)さて、うちに帰って 娘たちと 長田、大正筋のお茶屋さんが 南三陸町の商店街復興のため通ってアドバイスしているという「阪神・淡路の後悔をいかして」という番組を見て・・このお茶屋さんと知り合いでもあり「おっちゃんえらいねん。長田から深夜バスか車で通って」というと 娘が「すごい!大変じゃない このお年で」「そうや 半端な気持ちでないよ。いうたら 仇討ちやな・・。阪神・淡路と 南三陸(志津川)で商店街の代表やったかな その人と防災のことで知り合いになてって その人は津波にのまれて・・その友人のひとの」災害の記憶の継承は 悔しさの継承でもあり たしかに 仇討ちだな と。(おもわず仇討ちと言ってしまって 娘にはぴんと来なかったようですが・・・)ことし東遊園地に二つの日付ができてそして 受け継がれていくものが ちゃんとあると 信じているし信じていいようでありなにより 忘れない トモニ
2012.01.17
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明けましておめでとう御座います。京都に来て半年。新年を迎えました。正確には大晦日、元旦は 阪神間の自宅でしたので4日の仕事始めから京都です。みなさん 宜しくい願いします。ヴィッセル応援は勿論ですが、京都も天皇杯準優勝で J2ながら目が離せません。ことしは 西京極へ行ってみようかと。(たしかJ1は日曜日に固定されるということも聞きましたし)さて 京都に来て 下賀茂神社で 方丈記800年関連の催しがあり昨年参加。ことしが 方丈記が書かれて800年の節目と知りました。「行く河の流れ・・」で有名ですが、実は 作者の鴨長明は京都で 大火、大風、地震というすさまじい災害体験をしていて方丈記の前半は そのルポであったということを 知りました。3.11以降 急速に読まれ方が変わってきた書物でもあります。単なる無常感 季節のうつろいを はかなく思うようなものでなく生死をかけた すさまじい体験からのエッセイだと。しかも記載内容が、かなり実録であることも。方丈記800年委員会の試作ポスターが新聞に載っていましたが焼け野原 灰燼に帰した 街に 立ちすくす長明と もう一人の人物(藤原定家らしい。同時代人です)の構図でした。日本文学史上の 重要人物二人が 実は 灰燼に帰した わが街を(ふるさとを)見ていたという単純な事実を いま かみしめています。
2012.01.05
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いつも この時期に 16年前の 最初のルミナリエのことを思い出します。いつも書いていて恐縮ですが・・・最初のルミナリエのときは 三宮、元町の商店街まだ 真っ暗でした。被災した街のなかに 突然出現した 光の回廊!家族で うれしくなって 何度も何度も 行ったり来たりしてました。(今みたいに一方通行でなくて)たしかに復興の光でした。年数が経つにつれ 資金面も大変で 存続論議も毎年出てきていました。わたしの身近な人のなかにも「もう いいのじゃないか」「お金かかりすぎで・・・震災のことを記憶する行事なら ほかのやりかたもあるし」という声も。「そもそも、震災復興の明かりだなんて もう ほとんどの人は忘れていますよ。神戸の年中行事だと思ってますから」という なんともきつい声も。しかし・・・ことしは 新たな被災地から来た こどもたちに勇気を与えられたようで・・!神戸新聞の記事みなから <みろ!やめなくて ほんとうに よかったじゃないか>と一人で 気張っています。いまは 京都から 神戸の夜空を思いながらですが。記事は以下にルミナリエ心を照らす 被災小中学生を招待 <東日本大震災で被災し、仮設住宅などで暮らす宮城県名取市の小中学生が10日、神戸市を訪れ、開催中の「神戸ルミナリエ」を観賞した。阪神・淡路大震災を経験した神戸市職員OBらでつくるNPO法人「神戸の絆2005」が招待。温かな光に包まれた子どもたちは「癒やされる」などと歓声を上げていた。 同法人が、被災地の子どもたちを励まそうと企画した「こども夢プロジェクト」の一環。小中学生44人が10日から1泊2日の日程で神戸市に滞在し、この日は鉄人28号のモニュメントのある同市長田区も訪れた。 東遊園地に集まった子どもたちは光の芸術を背景に記念撮影をした。 自宅が津波で流され、祖母と曽祖母を亡くしたという閖上小5年の佐藤杏香さん(11)は「おばあちゃんたちのことは忘れられないけど、家族はちょっと明るくなってきた」。復興した神戸に驚いたといい「東日本もいつか、こんなに明るいまちになってほしい」と電飾を見つめた。 また、三木市内の若者らでつくる「ボランティアクラブ365」の招待を受けた宮城県石巻市の小中学生9人も10日、ルミナリエの光の中を歩いた。>なお小生たまたまですが、先の仙台とのヴィッセル最終戦のとき閖上地区を通ってからスタジアムへ行きましたから・・あの瓦礫のままの いや何もない 傷ついた街からきた 小学生に 神戸の明りが 役立ったとすれば こんなうれしいことはないと。
2011.12.12
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毎年 京都 清水寺の管主さんが書く漢字一文字ことしは やはり 「絆」この文字をユニフォームの背番号の上に背負ってヴィッセル戦士たちも 1年戦いました。小生 知らなかったのですが この漢字は一般公募?らしくて1位が絆、2位は たしか災??だったそうです。なお、16年目の 神戸ルミナリエ 本日が最終日。京都に職場が移った関係で・・ことしは 行けない公算大ですが被災地東北から 修学旅行生がやってきて 復興の希望の光になっているというニュースもあり。存続について 何回かあれこれありましたが、続いていて ほんとうに良かった。
2011.12.12
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ひまわりが、とても 頑張ってました。16年前と同じ様に。二枚目は、石ノ森漫画館で。
2011.08.08
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あすは セレッソ戦!ですが またまたホムスタに行けません・・。いいかげん勝たないと またボトム三兄弟入りしてしまうのでは?!京都に来て 暑さに驚いています。夜もまだ暑いです。アスファルトの道路、さわっても分かる熱さが、夜もあります。温さが残っているのです。阪神間のように風が通りません・・。その暑さの中で 祇園祭です。前夜祭にあたる宵山。14日から16日の3日間あって、17日の巡行を迎えるようです。(写真が どうもキャパ満杯で掲載できませんが)ごく普通の通りであったところが、鉾や山(山車ですね)が建ちいわば 街中に祠が建って・・次に 夜店が立ち並び、数日前の普通の街中が お祭りの縁日に 変身します。この町の変幻自在も 魅力かもと。そして、ことしの祇園祭は ちょっと違うようです。そもそも 祇園祭の大元の祭りは 貞観11年(869年)に始まったそうです。疫病退散で知られる祭りですが、そもそもは 打ち続く自然災害と疫病を鎮めるための国家的な(国民的?当時は そういう概念はなかったにしても 万民が万民のためにという意味では あったでしょう)祭りではじまったそうです。祇園祭の淵源となった 貞観11年は 1100年前の東北大震災があった年として ことしクローズアップされた年です。ことしの大震災、大津波のような3連動だった可能性が指摘されだしました。奇しくもと言うべきなのか。祇園祭を支える人々も 京都市も その起こりについて 再認識されたようです・・復興を願って 8月の仙台七夕祭りに 祇園祭のお囃子の人々がことし駆けつけるそうです祇園祭の淵源であった鎮魂の式は、地震から10日後。準備自体は事態はそれ以前から行われていたにしても、駅使で5日以内で報告が入るので、当然 当時も被災地への祈りが加えられたでしょうから・・なにより あいつぐ天変地異(よくぞ地が異なると表現したものだと)に対して 当時の日本国66カ国の柱をたて 鎮護の式をしたことその柱が いまは鉾や山になっていることそういった はじまりの精神を 京都の人たちが 長く祭りを支えてきた人たちが 今年 あらためて あつく思って祭りに臨んでいることが 阪神間から来たわたしとしては ぐっとくるものもあり奇しくも・・ 因縁というべきか小生 そんな1100年前を思いながら 宵山の町を歩き回っています三代実録という文書の貞観地震の記録から~五月廿六日癸未、陸奥国、地 大いに震動、人民叫呼、伏して起つこと不能、或いは屋タオレテ壓死、或いは地裂けて埋れ殪(し)にき。海口哮吼、雷霆(いかづち)に似たり。驚濤(さかまくなみ)涌潮(うしおわきあが)り、徊り膨張して、忽ち城下に至り、海を去ること數十百里、浩々として其の涯諸(はて)を辨(わきま)へず原野も道路も惣て滄溟(うみ)と爲り、船に乗るに遑(いとま)あらず。山に登るも及び難くして、溺れ死ぬる者千許、資産(たから)も苗稼(なえ)も殆んどひとつも遺るもの無かりき。
2011.07.15
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神戸祭り、昨日の神戸新聞で知った「神戸で感じて 復興願う味」の笹かまを求めて長田の会場へ。鉄人広場で 様々なパフォーマンス。ほんと、この鉄人 東北へ「びゅーんと飛んで」瓦礫を片づけてくれないだろうか・・・いや、鉄人は正太郎が、人間が動かしているから私たちの力で きっと動くのだろう(ほんとうは もう動いているのかな・・・。リモコンは みんなの心の中にあって 被災地への思いと元気がその原動力ですから。 長田の鉄人の前に来ると いつも アタマがあまり理性的でなくなります。うーん)お目当ての笹かまは見事に完売宮城は女川にある かまぼこ会社の若社長が16年前 学生さんのとき阪神・淡路大震災でボランティアに駆けつけたという因縁・・・岩手、福島の県人会による物品即売もあり何でも3つで千円ということで 南部せんべい、麹なんばん(唐辛子、茎ワカメ、大根など細かく刻んだ味噌漬け)、ほろほろ漬け(醤油漬け)を。テントの奥に「東北の復興を!長田の鉄人28号も応援しているよ」の横断幕がありました。会場で旧知のお茶屋さん(大正筋商店街でヴィッセルサポ)も出店されていて、ご主人にお会いできました。防災研修で 南三陸町(かつての志津川町)の商店街リーダーと交流があり今回の大震災がおこった直後、(そのリーダーと)連絡がとれないと心配されていましたが・・・息子さんを残して ご一家4人が亡くなられていたそうです(リーダーの方と奥様、リーダーの御父君、母君。つまり息子さんは ご両親と祖父母をいっぺんになくされた)。今月末には 南三陸へ行って 長田の「そばめし」を作って食べてもらおうと計画されているそうです。帰りがけに(笹かまの替わりではないですが)鉄人をあしらった チャリティTシャツを買って帰りました。帰宅すると 珍しく 娘たちが(わたしの買ったものの)デザインを誉めてくれました。
2011.05.14
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再開したとはいえ、薄暗く 食堂もなく 売店も出店がひとつ歩いて飛行機にという状況の仙台空港。搭乗入り口の前の待合いスペースは椅子も限られて かつ寒かったのですが・・・ホットになるこんな「ひまわり」の数々なお時計は動いていません。横のボードも。どうやら 津波が来たときの状態のままなのかも・・??(でも構内は綺麗ですし、機械類も一新したと思うのでたまたま この時間にしてあるのかもしれません)あの震災の後にも 実際 ひまわりが雄々しく育って花を上に向け咲き復興のシンボルにもなりましたどなたが考えたか分かりませんがここにも「ひまわり」が咲いていましたみなさんの心のこもったメッセージが花びらになっていましたここにもKOBEからのメッセージがありました花巻空港に5月4日に入り、遠野経由で 5日は陸前高田市、6日は大槌町から釜石市へ出てから内陸の北上市宿泊(つまり岩手県南部)本日7日 宮城県・仙台市へ移動して 仙台空港から伊丹へと 戻りました。それぞれの被災地が 規模や災害の表情といったものが違い戸惑いが続きました。津波で平野部が壊滅した陸前高田、津波とともに火災がおこった大槌。いずれも 建っている建物はほとんどなく 阪神・淡路のような倒壊家屋がずっと並ぶという風景ではありません。もとの風景を もとの街の姿を知らないと 何がどうなっているか 瓦礫の山だけが続く「瓦礫の砂漠」の真ん中で 佇むだけでした。同行した者が もとの姿を知らないから『くやしいなあ』と。あるいは東京から来たオッチャンが『ほんと、津波はわけがわかんねえな。何がおこったんだよ、まったく』と運転しながら、怒鳴るように・・。かつての 16年前の震災のとき大火災があった長田の風景がどこまでも続く・・というのが近いのかも知れませんがしかし違うことがありますそもそも 目の前にある瓦礫は 元からここにあった家屋のものではありません。目の前の傘やラジカセは どこか違うところから流されて来たもので 基礎だけが元のおうちのものなのです(その基礎すら無い場合もありました)。瓦礫の砂漠の中で わずかに残る家屋(倒壊したりしています)の後(言葉を選ばなければ・・残骸ということになります)も、場所は自分の家だが どこからか流されてきたもの つまり他の方の失われた家の残骸や一部が 自分の家の跡に山のように溜まっている訳です。・・・自分の家の跡に戻っても ご自身や家族を思い出すもの 生活を続けてきた思いでの品は全く残っていないという状態です。無論、全てが燃やされ 失われてしまった長田の惨状と その点では同じですが・・なんというか掘り出すことも あるいは燃えて残ったが 姿がこんなに変わったが 何か偲ぶものがある ということにならないので もとの家の跡にもう行かないという方が何人かいらっしゃいました。(多分それでけでなく 同じように家を失い家族を失った ほかの方の思いでの品や家の一部が そこにある、ということも辛いのではないかと・・これは私の推測です)釜石では、商店街に濁流がおしよせ 道路も埋まったのですが 道路部分の瓦礫や自動車の撤去が進み、ビル群が残っています。外壁の一部は破壊されても全体は残っているので フト見ると 内部を洗浄すれば復興も早いかと思うのですが中も破壊され 半壊というか 建て直さないとだめのようで「解体してください」という張り紙がされています。そして仙台の海岸部では ほんとうに何もありません。海に近い 感じのよい住宅地だったのだ と言われなければ瓦礫が散乱する 埋め立て地のような相貌でした生活の痕跡を残さない 津波災害の酷さ、残酷さ、 喪失感 というものでしょうか。 ただ ただ 駆け足でしたから 偉そうなことは言えません。(数えてみれば中2日、被災地にいたのはわずか3日間)ですが、避難所でお会いした方々は(支援者としての私たちの前だったからかも知れませんが)お元気でした。高田では足湯、大槌では(被災した方の発案に、ボランティアが集まって始まった)簡易青空食堂という場でお会いしたからだとは思いますが。いや・・ みなさん 気丈に元気になろうとされていました。16年前の我が身を(いささか口幅たくも)省みれば そう思います。そうでないと すべてが おのが身の 内側から 支えとなる全てが折れて、すべてが足もとから崩れ 中空に投げ出されそうだからです。(実際には 足下が崩れて 見知らぬ世界に 予測できない日々に いきなり投げ出されさあ、戦え!と言われている状態なのですが)帰ってくればわがヴィッセルが勝利の知らせホムスタに「神戸讃歌」が響いたことと!きっと東北の空にも わずかでも しかし確実に届いてほしいという気持ちです被災地も 阪神・淡路大震災の日に生まれ トモニ闘ったヴィッセルも 一歩前に・・・と感じています。
2011.05.07
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2011.05.05
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色々考えたあげく…やはり東北に来ました。家族も後押ししてくれたもので。ボランティアバスで15時間乗ってというのは、自信がなく 飛行機で。(私より年上の方が運転手してたりするのに、根性ないなあ…)空港に着いた途端に、このポスター。16年前の あの気持ちがよみがえったきました。明日からは、微力ながら…。(荷物に、ヴィッセルのタオマフとウインドウブレーカー入れて。それに勇気を託しています。何も出来ないが、きっとあの日生まれた、わがチームが そしてサポーターのみなさん の顔を思い。きっと凄まじい現実に圧倒されるかも知れませんが、しかし!)
2011.05.04
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自治体での 支援物資受付が始まったので、地元の役所に届けて来ました。窓口では 石巻市向けに 飲料水/粉ミルク/哺乳瓶/紙おむつ(幼児用・大人用)/ウエットティッシュ/生理用品 を受け付けてもらえるというので、「買占めと見られないように」という家族の声を気にしつつ ミネラルウォーターと紙オムツを購い・・それと うちにあったウエットティッシュを娘が提供。しかし、3週間たっても まだ水が出ない、ミネラルウォーターが必要とは。16年前 たしかに水道の復旧は まだだったかもしれませんが、あちこちで水を貰いにいけたし(給水場?あるいは 水道管が破裂したところに並んでいたのか??)とにかく 毎日水汲みが日課でしたが。そうそう井戸水も開放されて 貰いに行きました。(山手の方で避難所になっていて学校では 早めに水が出たような記憶も。記憶違いかもしれませんが・・)しかし、津波で町全体が泥に埋まり、家屋が流されてきて どこが井戸だか 水道だかまったく分からないのでしょう・・被災地では 復旧がとても困難な状況だと。いわば いまだ救援の時期。「救援、次に復旧、そして復興」と言われますが この時間のかかりかたは被災した方々にはとてもつらいだろうと、そして一層の負担がかかるでしょうから・・・。(ただ 16年前の震災でも ひと月経って・・という時期には、結局 何の目処もたちませんでした。この気持ちのもっていきかた 結構 しんどいものです。でも、必ず春は来ます!)16年前は 翌日から 救援物資を満載した車が2号線と43号線に列をつくり(43号線は高速が倒壊して 片側走行だったような記憶でしたが)、避難所にモノがあふれ 無駄になった・・という反省から、今回は「モノを送らない」「行かない」「がまんする」と言われました。しかしやっぱり モノと人が圧倒的に不足!お金があっても モノがない モノが買えない。薬も足りない。それで 命が助かったお年寄りが避難所で亡くなる。災害は ほんとうに 毎回違った貌で現れる・・。なんとも言えない無力感と せめて、何かを という気持ちでいます。きっと 多くの方がそうなのでしょうが。それにしても これだけ集まった 集まりつつある義援金その配分が 被害が確定してから配分される というのは<公平に>という基本から 仕方ないとは言えなーんだか お役所仕事的だなあと 感じてしまいます。一刻も早く、かつ有効に 役立ってほしい と思うのですが。
2011.04.03
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今回の 東北関東大地震(東日本大地震)について、なかなか ブログにできるきっかけが なく、今日まで。小生は、あの日会議で東京に出張し 高層階で揺れに遭遇しました。夜には 公衆電話に列をつくる人々に16年前の記憶が重なり。そして宿でテレビ画面をほぼ徹夜で見続け・・(素面で見ていられなくて 申し訳ないと思いながら、何度も缶ビールを自販機に買いにいき)夜明け近くに そのまま寝込み。翌日、神戸空港行きのスカイマークが小生の予約便だけ欠航なので、山手線と地下鉄と京浜東北線を乗り継いで 結局 うろうろして(タクシーも長蛇の列で乗れず)、2時間かかって品川駅にたどりつき ようやく新幹線のぞみに。という私の しょうもない話はどうでもいいのですが。あまりの被害の大きさと惨状に 関西に居て切歯扼腕。なんというか 悔しさというか。どうして 自然はこういう酷いことをしてくれるのか、あのとき 阪神・淡路の震災の時にも感じた天も地も 誠に無情なり地も裂け、その大地にいる人々の上にまた天が無情に雨を降らせる(今回は、被災地に雪を降らせる無情)かみさんや ほとけさんは どこにいて なにをしてるんや!・・・結局 人を助けるのは人しかいない という思い。ですが、阪神・淡路に比してあまりに モノが不足。届かない。そして 絶対的に人が不足。阪神・淡路の教訓で被災地外の人間は 無闇に行くと被災地側が混乱するから「行かない」「送らない」「がまんする」というのが原則と 当初盛んに言われました。だから無闇にモノを送っても 無駄になるし、救援物資を届けに行くことで交通渋滞がおこるし、救援に行ったつもりが 寝るところの確保ができていなかたり、被災地の乏しい食料を分けてもらうことになって かえって迷惑になるから 我慢する。<結局は現金が役に立つ>というのが 阪神・淡路と中越の教訓でした。たしかに 当事者だった わたしもそうでしたが 一方でしかし!わたしは わたしたち家族は、あのとき「来てもらって」「送ってもらって」「元気」がでました今回の東北では1週間、10日経っても まだ水が必要な避難所です。阪神・淡路のときは 水の確保だけはかなり早くできたと記憶しています。いまだに着るものが必要!毛布も足りない。あすで2週間なのに。せめて使い捨てカイロでもあれば!やっぱり まずモノだ!しかし、どうやらそれを届ける手段が十分ではない。もちろんプロフェッショナルや、阪神・淡路の経験から立ち上がったNPOの人たちもいままでの教訓を最大限いかすべく 駆けつけています。わたしの知り合いも すでに被災地に入り炊き出ししてまた 阪神・淡路のご遺族で わたしより年配の方が 行って戻ってきました。しかし、やはり まだまだ人手が足りない。つまり「行かない」「送らない」「我慢する」ではなくて(これは いささか 羮に懲りて膾を吹くではと)「我慢せずに」「行く 手だてを考える」「送りたいものが 届くようにする」その手だてを 考え、情報を集めるではないかと。とはいえ、そう 早々には 小生も行けませんが・・・なお、存じのように義捐金は すぐには役立てられなくて あと数ヶ月後の復興時期になって自治体に分配され それから ようやく被災した人たちに配分され役立つものです。勿論 だから 無駄ではないのですが。広域被災ということが 阪神・淡路と大いに違うのだと思います。規模としては紀伊半島から大阪、神戸、淡路、姫路まで そして高知、徳島まで被害が広がっている(まさしく想定される 南海大地震・・)それゆえ まったく違う災害の相貌を見せています。ということで、これからの支援方法についての愚考は、また書かせていただきます。さてきのう、甲子園で仕事があったので思い切ってセンバツの開会式に行ってきました。がんばろう!日本が 今回のモットーその甲子園の開会式で高野連会長が サッカーの言葉だがとひいて<YOU WILL NEVER WALK ALONE>と。そして選手宣誓ここに 全文を「宣誓。私たちは16年前、阪神淡路大震災の年に生まれました。今、東日本大震災で多くの尊い命が奪われ、私たちの心は悲しみでいっぱいです。被災地では すべての方々が一丸となり、仲間とトモニ頑張っておられます。人は仲間に支えられることで大きな困難を乗り越えることができると 信じています。私たちに今できることそれはこの大会いっぱい元気を出して戦うことです。がんばろう!日本生かされている命に感謝し、全身全霊で正々堂々とプレーすることを誓います」宣誓した 創志学園の野山主将 見事でした。小生、これを聞きながらそうなんや、あのとき あの年生まれた子供達がいま ここにいて はるか東の被災地を思っているということに ぐっと来ていましたそして、あす25日は能登半島地震から4年です。
2011.03.24
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夜明け 未だしの時刻・・・何年ぶりの再会だろうかと
2011.01.17
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東遊園地の1.17の灯り 竹灯篭です。絆という文字は ありふれているけれど被災地で「あの日」生まれた絆忘れてはならない絆あるいはKOBE、淡路・阪神間と すべての被災地との絆すなわち未来の被災地との絆そして・・「あの日」生まれたヴィッセルKOBEとサポーターの絆さまざまで しかし 同じ方向を向いている「絆」だと思いながら 写真を撮りましたこの「絆」を撮った16時間後 翌日の10時に「はるかのひまわり」のお母さん加藤満子さんが亡くなり2日後 19日の夜に お通夜に行くとは思いもしませでした
2011.01.17
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この日、震災の起こった「あの日」1月17日を今年は 早朝の5時46分 淡路島、北淡震災記念公園の黙祷で迎えました。この公園で、長田の「神戸の壁」に再会。<ここに おったんかいなあ!>と思わずつぶやきました。そのまま高速バスと電車で大阪の職場に出勤。朝の会議には間に合わせ・・・この日東京から仕事の来客があり また夜は別の打ち合わせもあるため、今年は『夕方の黙祷は行けないかな』と思っていたのですが、紆余曲折の末 東京から仕事で大阪の職場に この日からまるまる1週間詰めることになった人を<東遊園地>の夕方の黙祷に誘って連れていきました。この人は(私より年配の方です)別の仕事で 震災の前の年まで神戸市役所に行くことがあったそうで、中間でつぶれた市役所の建物をテレビで見て以来 ずっと行きたかったが遠慮もあった 自分のような部外者が今ごろ行っても・・という思いがあったそうです。5時20分に東遊園地着。いっしょに慰霊のモニュメントを巡り、献花して地下へ降りて銘板の意味を説明し今回は1.17希望の灯りの清掃を10年以上続けた近くの居酒屋のご主人が去年亡くなり「モニュメントをお世話してくださった方」という新しい形で銘板に加わったなども話して1.17の竹灯籠の前で 午後5時46分に黙祷・・・ローソクで火を灯しました。短い滞在でしたが 何かを分かち合えたとしたらと・・思います。 東遊園地だけでなく、神戸・阪神間の各地で この日は鎮魂の祀り・祈りの空間ができていや街角でも手を合わせる方もいて 街が1日が祈りの時空となる日でした。鎮魂の祈りが 10年経っても15年経っても 決してすたれず いや むしろ しっかりと受け継がれているのが 心強く思えます。小生は1月17日が来てようやく区切りがついた気が毎年します(お正月では まだ新年という気がしなくて・・)。新たな年を迎えた。震災17年目の新年を また生きていくのだと少々口幅ったいのですが そう思って 神戸をあとにしました。(それから また夜は大阪で打ち合わせ。こんどは酩酊して再度、神戸に向かって電車に乗り自宅へ。この日は被災地と大阪を都合2往復・・われながら いささか・・ですが これも1年に1回の意地かなと)
2011.01.17
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テーマイメージは 防災の「砦」噴水公園 交流テント横のLEDで作る「記憶のモニュメント」目標は 6434の灯び・・・だそうです屋台の並ぶ一角で・・・静寂な空間も1週間前に 会場で壁掛けカレンダーをもとめたら「13日から発売です」といわれて・・・カレンダーを買いにルミナリエに再び光のサークル(広場での飾りで スパッリエーラというらしいです)の今年のイメージテーマ「砦」がよく分かりました。災害から 光の砦で 中にいる人々の幸せな顔を守っているみたいだな・・・と思うと ちょっと人混みのなかで 勝手にひとりで グットきました。ことしはこの光のサークル、東遊園地、南の噴水公園で「鎮魂と絆のゾーン」となっているようです広場から南へ抜けると噴水公園には神戸工芸大の学生さん達による<みんなで灯す「記憶」のモニュメント>1週間前に来たときと比べるとずいぶん多く LEDの光が増えていました。1コ300円で さしていきます。神戸新聞で 目標は6434(犠牲者の数と同じです)ですが10日まで1500 というので、出かけました。このモニュメントは来年1月17日の慰霊の式典でも展示されるそうです。帰りがけ屋台の並んだなかにふと 美しい風景 静かな一角をみつけました
2010.12.11
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ルミナリエ会場から南へ交流テントが↓「1.17希望の灯り」から分灯したキャンドル残留決定!のファン感謝祭には小生も いささか 埼玉で消耗ならぬ燃え尽き症候群?で 遠慮しました・・(それは それは残念だったのですが)で、替わりではないですが献金とグッズ購入もあり 夜からルミナリエへ東遊園地の 光のサークル(今年は 災害から人々を守る「砦」をイメージしたそうです)を南へ過ぎて 噴水公園まで行くと交流テントが出来ています若い人の歌や演奏と 震災遺族の語り部などが・・・交流テントに行く途中には当然 慰霊と復興のモニュメントがありルミナリエの期間 夜間開放ことしも・・・多くのひとが色々な思いで・・・誰かと<会い>に来ている様々な 姿を 目の当たりにしました(いま これを書いているのは5日後の10日なので名板を見てみなさんが発した言葉を正確には思い出せないのですが・・) 若いお父さんとお母さんが 小学生らしい二人の子供さんを連れて来て名板をさがし お父さんが 「○行やから ここやろ」と言いながらどうやら 見つかったらしく若いお母さんが「○○さんとこや」お子さんが「誰?」というとお母さんは ちょっときつい言葉で「☆☆ちゃんの お母さんのお母さんやんか」と若いお父さんが「なんで みんな同じ名字やねん?」お母さんは「だから、一家で・・・」そう呟いたまま黙ってしまい 名板から 目をそらしてむしろ うつむいて時には 名板の壁を 背にして決して立ち去らずにいてしかし直立不動というわけでなくブーツを何度か なんていうのでしょうかなかなか来ない 待ち人を ずっと待ち続けてじれているときの様に何度か 軽く 地面に 打ち付ける仕草を繰り返し(深読みすれば 悔しさも・・・でも怒りよりなんていうか 必ず来るはずの親しい友人を待ち続けるように)こどもたちも ちょっと不思議そうにも・・・でも お母さんの様子に 何かを感じたか黙っていて (もう行こうよ)とは言わず若いお母さんは また 唇を噛んで顔をあげて でも その名板には 視点をあわせないが何かを耐えているそうこうするうち年配のご婦人が 別方向から3,4人で来られましたすぐに その名板は見つかったようで「あった。あった。」「○○のあれやんか・・。」「ああ あの・・そうやな。○○さんとこのな。」そして 沈黙。背後では 別の人たちが別の名板を見ての会話が 聞こえてきます「その日に たまたま 実家に帰って・・」「泊まって・・か・・。そうか。そんなこともあんねんな」と社会学者が不思議な 擬似的宗教的空間と言ったこともありましたが決して不思議でも 疑似でもなく生きている者が いまはいない人を 思うまさしく そういう 空間です
2010.12.05
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風の郷公園から 歩道脇の湧水水路 そして都賀川へ都賀川から再び六甲道駅へ その途中に 小さな祠が神戸の学生さんと留学生が、なくなっているそうです。5年ぶりかの、再訪です。みなさん 手を合わせていました。祠の中に神戸新聞の記事があり 同行した若い記者が熱心に読んでいましたわたしは思わず「あなたたちの先輩の記事だ・・。こうして伝えないと・・(事実も)伝えないと(あったことが)無くなってしまうから」と言いました。参加した方も「そうや、伝えとかんと・・」と。
2010.09.26
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JR六甲道集合で都賀川まで行き、また六甲道へ。写真は 今回モニュメントウォークを主催しているNPO「11.7希望の灯り」で作製したTシャツです。わたしも参加者の一人として貰って着て、歩きました。みんなでこれ着て歩いていると・・・なにかの宗教?とかに思われないか?とふと思いましたが、参加者が 実に多彩で穏やかでお子さんから、若い人、おじさん、年配のご婦人といて別に 隊列を組んで何かを叫ぶのでもないので、大丈夫だったようです。「1.17希望の灯り」ブログでの記事は<こちら>
2010.09.26
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きょう 9月1日は防災の日みなさんご存じのように1923年 大正12年 いまから90年近く前の この日は関東大震災があった日です。阪神・淡路大震災がおこるまでは)関東大震災は近代になって最大の都市型災害であったので 「防災の日」となったと 聞いています。(関東大震災は火災の規模が あまりに大きく 死者・行方不明10万人以上。その意味では いまだ最大規模の災害です。)9月は、いわゆる二百十日の台風シーズンにも入るので 制定されたようです。若い頃? 少なくとも あの震災の前 この時期になると いや この日は たいていテレビで 大地震が来ると高層ビルからガラスが一斉に落下する とか地下鉄も安全でなく 水道管の破裂で水没するとか(記憶が曖昧です)そういう危機を映像でもって警鐘をならしていたのを見ていやあ 東京は大変だ。ビルの下を歩かないようにしなくては。と遠い国の 遠い話と 見ていた記憶があります。東京に住んで 二人の娘が生まれても 早く関西に戻るからまあ 大丈夫やと。また、自分で震災を少しでも体験した後には逆に この時期の「防災」談義が 結局は 陸の上の水練、あるいは 人知を越えた自然災害の前では(たいてい 災害がおこるのは想定外だからです。つまり 常に人知を越えている) どのような予防策も 蟷螂の斧のような気もして・・・やはり 遠い国の遠い話に 見えていました。だいたい <箪笥の位置で生死が別れた>と言っても 箪笥のすぐ横に寝ていたが、箪笥がうまいこと八の字で重なって その空間で助かった人もいれば 逆に 離れていたのに遠心力で 角が直撃してしまった人もいて・・・<水の確保><食糧の備蓄>といっても どこにその水があるか 家 ぺしゃんこになったら 捜すのが一苦労。どこにいったか 分かるかいな。そもそも どうやら自分だけはとにかく助かりたいという気持ちの透けて見える<防災の知恵>というのは どうにも うさんくさい。と感じていたのですが・・・去年くらいから なんとなく 気持ちの傾きが変わってきました少なくとも 87年前の昨日 8月31日には 翌日も 今日と同じ日が続くと思っていた 多くの人がいた という 当たり前のことに思い当たりそうして 1日で人生が一変した人たちの無念を あの阪神・淡路大震災と同じように 受け止めていくのが この日ではと 思う余裕??(という言葉は使いたくないのですが・・)が出てきたのかも知れません。そのための 経験と知恵を継承するのが この日なら 1月17日の鎮魂・慰霊とは ちょっと趣は違うが根っこは同じそう考えると防災とは<自分だけの命>を守るのでなく、自分の命を守るのは 生き残って、出来る範囲でいいから必ず<他の人の命>を守るためであり・・・・その時には出来なくても 避難先で 水を運ぶとか 毛布を持ってくるとかそうすれば 最初は自分のためが いつか 誰かのために 自然になっているだろうしひとの命を守るため、役立つため 自分の命を守る守った命(守られた命)を 次には 別の命を救うために役立てるその前提があって 話が進むそのことを この日に もう一度確認する日なのかなと。あの大震災を経験してみると(つくづく感じるのは・・・人間というのは結構大したもので)自分ひとりの命だけを大切にした人はいなくて(ま 余裕がないとか 茫然自失という人はいましたが・・。すごーく イイ話と ものすごーく ショウモナイ話が 隣り合わせで次々に起こったのも 確かでした。言い出すと切りがありません)ほとんどの人が 自然に 自分のことを後回しにして近隣を救った・・・そのことを思うにつれ防災の基本とは「自分を救うことは 他人を、みんなを救うことだ」と実感しています。 防災グッズとか 帰宅ルート確認とか 水の作り方とか 耐震とか シェルター とか そういう 防災ノウハウ 防災談義のなかでふと(私だけかも 杞憂でしょうが)忘れがちなので・・あらためて。
2010.09.01
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縮小掲載しても なぜか横向きです・・それで再度(でも上の映像が削除できないので そのままですいません)決して広くはなく 昭和初期?の落ち着いた構えの 木造のお屋敷でした。老齢の ご婦人二人が 崩れたおうちから お人形を集めて 3月の雛祭りの頃 瓦礫の傍らで 大事そうに並べていらした事が…昨日の様に いつも思い出す場所です。
2010.07.31
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今日は 人と防災未来センターで学生さん達の「震災写真 調べ学習 プロジェクト」の報告会がありました。http://home.kobe-u.com/sinsai/ほとんどが関係者でしたが 一市民として参加。我が家のすぐ近く、隣町での張り紙を写した写真 「一枚の張り紙」(女性一人 家屋の下にいます)をめぐっての報告もあってびっくりしました。学生さんたちが この写真を選んだ理由にも驚きがあり。http://home.kobe-u.com/sinsai/photo05.htmlいずれにしても 語り伝えていく担い手がいることが何か頼もしさと 嬉しさを 感じて 会場を後にしました。(言葉を選ばずに言えばです。 悲惨なことを伝えるので・・・ふさわしく無いとも思うのですが)この稿また書きます
2010.05.09
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ことしも また お花見でした。毎年の日程を ふと忘れていて電話が かかってきて 駆けつけました。
2010.04.04
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昨日23日は兵庫県立美術館で 17日からはじまった震災の絵展(30日まで)に行き同じ美術館の トトロの背景画の男鹿和雄展の かけもちを考えていましたが男鹿和雄展は1時間以上の列のため・・・またの日に震災の絵展のギャラリーにシンサイミライノハナが咲いていました柏崎から寄せられたメッセージ!に ぐっと来ました中越沖地震の柏崎からのメッセージありがとうございます!と思わず・・小さなボクもお母さんといっしょに来てました大きくなったら震災を忘れずに伝えてくれるかな?いや 同感です忘れなければ たとえ来ても 前の教訓で同じ被害にはあいませんし 救える命も増えますしかし、それでも想定外のものは 来ますその時は また みんな助け合って!負けずに!ハイチでは11万を越える犠牲者・・・帰りにはBBプラザでの震災から15年、神戸を想う阪神大震災 鎮魂の画譜 吉見敏治原画展に震災の絵展に続いてはシンドイかなと思いましたがこの際!と会場にはご本人がいらして長田で被災、全壊。火は300メートル前で止まったとキャンパスを実際に 長田の荒野と化した街にもって行き現場で ほぼ仕上げたそうです「描くことについて ずいぶん悩みましたが いまとなっては」とギャラリーを占める 白黒の画面みて「いや 描いておかないと 残りませんから」と申し上げた「あの日」については 話はつきない・・・・
2010.01.24
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いままで、新聞で あの時間 5時46分に公園で追悼式があって ご遺族とともに黙祷していると知っていましたが 行く機会が無く広場には 焚き火がかつて公園周辺の住居でお子さんを亡くされた遺族の方も来られ震災後 生まれた娘さんが大きくなっていて びっくり当然なのですが その歳月があれば焚き火で ご年配の方が「思い出すな・・」とこの正面の方でなく、材木をくべている左側の方が思わず呟かれたのですが・・わたしも 思い出しましたこうして 焚き火で暖をとりながら「おたくは?」と互いの被害状況やどこにどういう物資があるかとか復旧状況や さまざまな情報を話合っていたことを街灯はなく 夜の暗闇の中で火は 暖かいから 人が集まるのでなくこうして 話し合って次の日の生きる糧 知恵を 互いに得るから 集まるのだだから 暖かいのだと すら思えました
2010.01.17
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ところで 今日はヴィッセル新加入選手のお披露目がウイングであったのですね・・残念ながら行けませんでした。そうそう、このシンサイミライノハナの花びらコメント募集は 前にヴィッセルの試合前にウイングでもやったいたものです。さて 南京町でもこのお花畑をやっている というので 早めの夕食がてら 大丸から南京町へパンダのまわりも植え込みのまわりもそしてメッセージは13歳のメッセージ中学生かないやあ 同感なので 撮りました・・早めの夕食をとり 家路にいろいろな思いをもって・・・ 近づく 間近の 「あの日」を迎えます1995年1月17日 いつのまにか 発災の5時46分まで 3時間余りたいてい 前の晩は 眠れないままですが どうやら 今年も
2010.01.16
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遅ればせながら 謹賀新年ですみなさん ことしも宜しくお願いします「あの日」を前に 神戸では(きのうから らしいですが)シンサイミライノハナ(震災 未来の花)の 花畑が各所に大丸に行く前に・・・旧居留地で
2010.01.16
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この時期になると、東遊園地に行く機会があります。1月17日にむけて さまざまな行事もあり。きょうは、慰霊と復興のモニュメントの地下に犠牲になられた方の名板(銘板)を加えるということがありました。<毎日新聞> <神戸新聞>(我が家のすぐ近くの方も また今年銘板に加わられたことを知りました)わたしは その行事には参加しませんでしたが、その後「望年会」(忘年会でなく・・・1月17日が来ないと年が明けないという思いと 忘れないということから こう名付けられた様です)へ向かうとき水のカーテンのモニュメントに遭遇モニュメントが 時々こうして 水が出ているのはしりませんでした。水が出ているのは初めて見ましたので、地下の空間に降りて 上を見上げてみました・・・そうかあ こうなってんのかあ水がしぶきを上げて、水面を打ち水音が激しく 低く 響いていました。神戸市のHPを見ると こうして水が出ているのが正式?なのかも。
2009.12.20
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ヴィッセル最終戦は、大阪で用事があり参戦できないままでした。それでは 何となくおさまらず 夕方からその足で ルミナリエにたしか 昨年も 最終戦からルミナリエに行った様な記憶も。いずれしても この季節です・・・神戸・阪神間の市民にとって クリスマスも大切ですがルミナリエは また あの季節 「あの日」に近づいて来るそういう 季語めいた ものが あるような。光の中の歓喜で思い出す あの1年の記憶と絶望と希望というものでしょうかということで 昨年は家族に怒られたのでちゃんと家族分と愛犬の5人分の100円寄付しました。それとカレンダーなど協賛グッズを買って。まあ今年が最後にするわけにはいかんわなあ。明日は会社にピンバッジ着けていくかな。(昨年は 東京で単身赴任だったので ルミナリエで買って 意地で会社につけていき・・飲むときに 心優しい同僚が気づいてくれました)いつもは 1月17日に献花する慰霊のモニュメントこの日は 水面一面の花がなくて はじめて下のプレートが貼られたところを 水面通して見ました下に行って気づいたのですが みなさんが見ているのはお母様が息子さんへ手紙とともに お花を供えているところだからです。「○○君 1月にまた来るね」と 書かれていましたそうやって またこの光を見返すとほんとうに 暖かい光だなあと 感じつつ人混みとトモニ 駅へ向かいました
2009.12.05
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10月17日版の 長岡訪問の続きで 洋風カツ丼に触れましたがその後、色々調べるとこういうブログに遭遇しました。「ながおか食の陣」こちらの10月20日の項に、<「ながおか食の陣」は震災後、「食」による震災復興と地域の活性化を目的として立ち上がった市民活動です。>と。そういえば 神戸長田のそばめし、ドロソース、ぼっかけも 震災をきっかけに むしろ全国展開したものでしたね。 ドロソースは、老舗のソース屋さんが(たしか工場は兵庫区)震災で工場とタンクもろともやられて、タンクの底に残っていた「泥」と業界用語で言っていた一部で業務用に使われていたものしか売れなくなって えいやっと一般販売はじめたら 人気が出た という 嘘のような本当の話(もちろん、そう話は単純ではないですが 大筋は間違ってません)そこの若社長が「つまづく石を踏みしめて」今があると どこかで書いてました。長岡のB級グルメ、全国区になるといいですね。どこかで また 長岡洋風カツ丼に遭遇したいと!
2009.11.01
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長岡は 後一週間で 中越地震から5年。その5年前の11月23日(訂正→10月23日です)はウ゛ィッセルの試合に行ってました。対広島戦。引き分け試合でしたが、試合の途中かで 新潟で地震という知らせが どっかからあった記憶が。調べてみたら まだ2ステージ制だった時!ユニホームも白と黒のマグパイ?というのしたっけ?(英国プレミアリーグのニューカッスルと同じ)の頃ですか??イルハンが着た年・・つまり私がイルハン目当ての娘に促され はじめてサッカーの試合のチケット買って スタジアム観戦はじめた年でもあります。以上余談および個人的懐旧です。それと 街中は 直江兼続が溢れてます。
2009.10.15
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出石皿そばの後 駅近くの長田大丸二階の 懐かしい昭和のくらし展に(プラティさんのHPに詳しく出ています 写真も)ここにも 鉄人!会場前に 鉄人28号のあの 懐かしい!映像が。ビューンと飛んでく鉄人~28号ゥー小さな子も 大人も 見入り、「見てたんやで 私ら」と言う声「ああ、こんなんやったなあ」それに対して「えー、白黒やん!」という声(そうです、テレビは白黒だったんです・・・)一方 「鉄人てなに?飛ぶのん?」と言う素朴な疑問の小さなお子さんの声。「ロボットやんか。知らんの。お母さんも これは見てないけどな」等・・。放送は昭和38年から40年の二年間だったと 今回知りました。それと 冒頭に「グリコ劇場」と出て そうか そういえばグリコのおまけ に鉄人あったかなあ 等懐かしの昭和にひたりましたこの鉄人プロジェクトの話を聞いたとき、震災で壊滅状態になった長田の街に何故「ビルの街に ガオー」でビルを壊すような怪力の鉄人か?と思っていましたが(壊すのは悪いロボットですが、鉄人も悪者にリモコン奪われるといけないんですよね。あー どんどん あの時代に・・)懐かしの会場を回りながら ふとあのとき 鉄人がいてくれたら火災の前にに立ちはだかって救える命もあったかもひょいとビルを持ち上げて・・など 急に白昼夢のように思って一人でグットきてしまいましたふたたび 鉄人の前に・・・この公園に まだ仮設住宅があったことを思い出し大正筋・味萬のご主人と話した時そのことを言うと「そうなんです」とおっしゃり しばし 時の経過を思う表情でした鉄人が 長田の KOBEの阪神・淡路大震災の復興のシンボルになれば いですね鉄人 がんばれ 長田 がんばれそして神戸 すべての被災地に深読み鉄人:鉄腕アトムと人気を二分する鉄人28号でしたが、リモコンを悪者に奪われると悪の手先になるというのが(当たり前だが)ミソでした。でも、金田正太郎のリモコン手さばきも うまくいかない時もあったような。妨害電波とか。その意味で意志のない鉄人の不気味さと誠実さが アトムと違う魅力だったような気がします。一言で言えば、ハードボイルドタッチというのでしょうか。いずれにしても 巨大な力は 正義にも悪にも利用されるということを 子ども心に感じていました。(そもそも日本陸軍の最終兵器として開発されたのが 鉄人でしたから)そして 圧倒的な力には 実は 正義も悪もない というような・・・その意味で、地震は 正義も悪も(神も仏も!)ない 強大な力。しかし その後の ひとびとが力をあわせた時 それこそ立ち上がる鉄人のような、だれもリモコンをもっていないのに みんなの心に感応した鉄人のような(悪者にリモコンを奪われたのに 正太郎の声に感応し破壊を止めた 鉄人・・そんな巻があったような)不可思議な力が あふれていた時も 確かに!ありました。一方、都市計画など行政の圧倒的力で、住民の総意が充分くみとられないまま、街の形が歪み・・それこそ ガオーと言いたいような事態も(話 複雑になるので 止めますが)。長田の復興の歩みも それこそ住民と怪力との戦いだった時も(他の地区もそうでしたが)あったと。しかし あれやこれや 全部 のみこんで 来年震災15年ガオー! 鉄人は きっと 雄々しく立っています。そして どこに向かって 叫ぶのか ・・・すいません どこまでも鉄人 引っ張ってしまいました・・・
2009.10.10
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連休中 かみさんと中国へ行ってました。テレビでは「不忘 5.12」あるいは「我不能忘記」(中国語分かりませんが 四川地震の映像の合間に字幕が出るので意味は十分にくみとれました)というスポットが流れていました。私『そうか!四川の地震や』かみさん『そうなんやね。ひとの災害は 忘れてしまうね。(忘れたらあかんのに)。この時期やったんや』と。『ほんまやなあ。四川どうなんかなあ。まだ一年やからなあ』互いに顔見合せていました。無論 何もできないが。
2009.05.12
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イタリアの古都で地震。中世のふるーい街並みが残っているので、そのあたり耐震補強できてなかったのかなあ?しかし たしか イタリアも火山多くて地震国ときいていたが、石造りは 結構 もろいのかな?等と いたましい思いで 報道を見ながら 考えていたのですが・・・むしろ 逆で 現代の建物がもろかった とは!やはり 被害拡大には人災の側面が あるようで。『おまえもか ブルータス』では ありませんが、かの四川といい(遠くは阪神・淡路大震災の被害拡大の ある面も) 天災以上に 人間が被害を拡大していることが・・・。一層 いたましいと感じます。 イタリア中部地震、甘い建築基準に怒りの声2009年04月09日 11:41 発信地:ラクイラ/イタリア 【4月9日 AFP】イタリア中部で6日未明(日本時間同日午前)に発生した大地震で、震源に近いアブルツォ(Abruzzo)州の州都ラクイラ(L'aquila)では、中世の建物が残る一方で現代の建物が軒並み倒壊し、建築基準の甘さへの怒りが噴出している。 地震では、数年前に建てられたばかりの病院が倒壊するという事例もあった。検察当局は、こうした被災地域の一部について、建築安全基準に関する聞き取り調査を開始した。 イタリアの当局は、違法な建築が行われている実態を、長年放置してきた。建築基準を順守しないことで知られるマフィア・ビジネスが、1980年に死者2500人以上を出したナポリ(Naples)の大地震の時のように、被災地の再開発事業に乗り出してくる可能性を懸念する声もある。 地震による死者は、8日夜までに272人に達している。(c)AFP/Dario Thuburn
2009.04.09
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かつての村営農場。火山灰土に覆われ・・かつての看板 農場がかなり大きな規模で放牧場があったことが分かります。農場の地図の横に加わった立ち入り禁止の看板が 無情というか島内の立ち入り制限を示す看板坪田地区(4月1日現在で 唯一残った立ち入り制限地区)火山ガスで山の木が枯れ、土砂崩れがおこっている。噴火から9年。帰島開始から4年。そのまま 建っている家屋もあれば・・・・1日4時間程度 帰宅できるので、この日も何人かの人が帰宅して家の手入れなど(ペンキ塗る人もいました)されていました。「もう 悲しむのはやめ。きょうから 前向き」と ペンキだらけの手をみせながら 話されたことが印象的でした。早く火山ガスが収まって 帰宅できる日がくることを祈ります。そして 山に緑も もどる日を。しかし 時間がかかるかもしれない。20年に一回は噴火する三宅島だそうですが、やはり故郷だから島の人たちは 戻ってくる。人が もどってこその 復興。阪神・淡路大震災があったからといって 「(いつか)地震がくるから神戸にはもう住まへん」とは思わないものなあ。
2009.03.30
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東遊園地から三ノ宮駅へもどる花時計のところから地下鉄にのり駒ヶ林で降りるそこから北へ歩いて、長田 大正筋商店街にたどり着いたのは午後2時をまわっておりヴィッセルのイベントは影も形もなく・・・この日記27日に書いていますので(なんと10日後だ)ヴィッセルの お守りがどんなものだったか プラティさんたちのブログで分かりますがそのときは どんなもんだったのかなあ うーん しょうがないかなと 子どもように思いつつ 旧知のお茶屋さんへ。(なおイベントの様子は 大正筋のHPで後日掲載されました。30分で豚汁もお守りも完売?!では仕方ないか・・・)このお店もあの日の火事で全焼した。露天で再開したお店の写真を前 みせてもらったことがあります。再開発ビルのテナント料が今年から かなりの負担になるようです。こういうブログでは 政治向きのことは 余り書きたくありませんが、あの地震の後 行政がたてた復興計画(区画整理や再開発)で 住民が結果的に苦しんだことこれは 何度強調しても強調しすぎることはないのです。(わが地区は ふってわいた区画整理で苦しめられました。これ以上書きませんが・・・)莫大な予算を注ぎ込んで 被災者をかえって苦しめ かつ 行政自身も莫大な負債を背負い込んでいます。復興計画をたてることはもちろん必要ですが その手法です、問題は。それと規模。長田の高層ビル群を見るにつけ住民目線の計画でなかったことだけは確か。ま、こういう話しはおいといてお茶屋さん(ご存じの方も多いですが・・ヴィッセルファンです。神戸讃歌で泣いてしまうという お一人です)とこに行く「出遅れました」という。会社の知り合いで 前に長田に住んでいて いま東京勤務のI君は お子さんと奥さんをつれて午前中に来たらしい。きっと お守りをゲットしているだろう・・。話しをはじめてすぐに その晩の川島愛コンサートに参加するため 山口県から来たグループがお店に。けっこう年配の方もいて その熱心さに驚く・・・。長田の駅へ行く途中で 震災の写真パネル展をみて。次の日 高知の宿で手にした デイリースポーツの記事から阪神・真弓新監督がコンサートに参加したこと。阪神が優勝したら被災地だった長田でパレードやりたいとエールを送ったこと。彼自身が被災体験があること。など知りました。ちょっと おかしな言い方ですが またここにも地震と被災の<絆>が あったのだと 遠く高知で 記事を読み ひとりで 心の中で反芻していました。以下 記事抜粋です (真弓新監督)自身も神戸市内の自宅で被災した。 「寝ていて揺れで起こされたからまともな判断はできなかった。揺れながら“これで野球できないな”と思った。きっと関東の揺れが関西までこれだけ揺れてきているんだから、今年は野球なんてできないだろうって思った」 新築2年目の自宅は半壊に近い状態。阪神高速が倒れ、交通網は寸断された。キャンプの荷物出しのために原付を購入し甲子園まで駆けつけた。途中、変わり果てた街並みに「とんでもないことになった」と言葉を失った。ライブの行われた長田区も大きな被害を受けた場所のひとつだった。通勤は無理と判断し、このシーズンは鳴尾浜の虎風荘で寝泊まりした。結局、この年限りで引退。「影響がなくはないね」。今だからこそ笑って話すが、野球人生に大きな影響を与えたことは間違いない。 この年、神戸を本拠地にするオリックスが“がんばろう神戸”の合言葉の下、優勝した。「うらやましい気になった。タイガースは強くない時期だったからね」。復興を目指す被災者の力になれない自分に歯がゆさを感じた。 あれから14年がたち、監督としてチームを指揮する立場になった。チームを見渡せば常勝と呼ばれるまで力を付けた。今ならあのとき果たせなかった優勝の歓喜を神戸に届けることができる。 長田区での優勝パレードについて問われると「できたらいいね。ここだけのためじゃないけど」。続く言葉はのみ込んだ。長田区はもちろん、愛する神戸、そして被災したみんなを元気づけ、勇気づけたい。今度は笑顔の花を優勝パレードのオープンカーから見渡したい。熱い思いを胸に09年のシーズンへと臨む
2009.01.17
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昼間ですが 何人もの人が献灯。東遊園地の メモリアル施設。ここでも 幼い子を連れたお母さんが・・。この水の下に 亡くなった方の名前を刻んだ名板があります。このボクも、小さい頃 花を浮かべ 手をあわせたことを きっと憶えていてくれるだろうなと 思いました。東遊園地では 時々(ほんとうに時々)お手伝いに行っている「1.17希望の灯り」のみなさんと会う。みなさんは 東遊園地の「1.17」の形に竹筒を並べ火を灯す準備で夜明かしである。この準備に いままで関わっていないことが申し訳ない。(みなさん わたしより年上です)交流テントで少し話す。もう5年以上 おつきあいしているが、ある遺族の方から今回はじめて聞くお話もあった。ご自分からお話しされ 話しが続く。いつもなら すぐ おだやかに口をつぐみ笑う 基本的にシャイな方だから、驚きも・・。この日は やはり 特別な日 なのだと あらためて思う。花時計までもどり 地下鉄で長田へプラティさんのブログで知った ヴィッセルの催しのある大正筋商店街めざし。膝は痛いが もう こうなったら・・・とことん。
2009.01.17
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HAT神戸での 式典は献花にうつっていきました。小生、メモリアルウォーク中から痛み出した膝をかかえ・・この日には 高知に飛び、翌日 仕事で 山間部を歩くかもしれずここは いったん家に早めに帰って湿布して養生して などと気弱なことも考えつつ 阪神・岩屋の駅へ歩いているとなんと 信号待ちの時 会社の若い同僚が隣で声をかけてきた。(ここで会ったが 百年目だったなあ。)彼は神戸勤務経験あり、昨日 小学生とまだもっと幼い娘さんをつれて神戸に入っていた。朝に こどもたち連れて東遊園地で黙祷後、東遊園地の近くのホテルに お子さんを留守番させてウォークに参加(子どもたちは朝起きで しんどいこともあり、下の子は まだ乳母車だし。)このままリタイアするのは 根性がなさすぎと言われそうだし、なにより 東遊園地へ 彼は戻ると言うし、こいつといっしょに歩いたらがんばれそうだし。「急ぎませんから、いっしょに行きましょう」「おまえさんと いっしょなら あるけそうや」トモニイコウではないが 足をゆっくり ひきずりつつ、いっしょに歩き・・・そして 東遊園地へ たどりつきました。
2009.01.17
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ことしの 1.17ひょうごメモリアルウォークは 芦屋・川西運動場からの10キロコースに参加しました。8時30分出発。土曜日なので 参加者が多い。運動不足がたたり 住吉川あたりで膝が痛みはじめ都賀川では 大休止をとる。しかし リタイアしてはなるものかと・・・道中、参加者に 親子連れの方が目立ちました。歩き始めた途端に、「あの日寒かったねえ。」「あのとき どうしてたん?」「あの日 どこどこで泊まってたから ○○さんは助かったけど、あの人は あかんかった・・」など あの日からの話しが 歩きながら あちこちではじまる。声の洪水のような中を 歩きました。「あれは震災の次の年やったなあ」「結局なくなりはったんやったな。あのときは助かったがなあ」「え、息子のヨメ避難所で知りおうたんやて?しらんかったで。先を歩いてる?孫も生まれた!」「家潰れたけど ヨメがきてくらたから よかったような・・」「いやあ そらめでたい 二次災害か」「おいおい」「そうや、よめはんには二次災害やで」お子さんの手をひきながら お母さんが「○○のジイジと △△のバアバおるやろ。○○のジイジのおうち ぺっしゃんこになってな・・」「え?どこのジイジ?」「○○のジイジやんか。そうか あんたに ゆうてなかったか」ゴールHAT神戸には、11時50分。昼の式典の 黙祷に間に合う。ゴールしてもらえるバッチをつけてあげるお父さん。記憶の風化がいわれますが、確実に 次世代に引き継がれていくのでは ないだろうかと思えました。若いお父さんお母さんたちは あの日を15歳前後で迎えていたのでしょうか。
2009.01.17
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この稿 20日に書いています。16日東京から長崎、その晩に神戸にもどり17日 14年目の「あの日」を迎え 夕方高知へ飛び高知泊、18日高知から東京という日程でしたので 今になりました。すでに みなさんの1月17日のブログ拝見しています。1995年1月17日の 阪神・淡路大震災から14年が経ちました。何日目というのは 当日を1日目 その年を1年目に数えるのが正確なそうで、そうなると 2009年1月17日は 15年目の「あの日」になりますが震災から14年で やはり14年目の「あの日」というのが しっくりきます。毎年 あの時 5時46分(わがやの時計は46分の後、ゆれで落ちて止まっていたので 針は47分をさしていて つい今でも47分だと思ってしまいます。実際 発生直後には そういう報道もあったような・・)を色々なかたちで迎えますが~1年目のときは 寝れなくて徹夜だったような覚えが~ことしは 5時20分に目がさめ そのままテレビをつけて 東遊園地での黙祷を待ちました。とても厳粛な時なのに 今年はというべきか 今年も 「まもなく午後(午前でなく午後!)5時46分になります」という時報の声が会場に流れる。よくは知らないが行政側の担当者が事前に録音しておくそうで、震災9年の時ははなじらんだ覚えがあり 震災10年では改善されて ちゃんと「午前」になっていましたが・・・。つまり担当者が その時刻に起きて録音するか どうかということでないだろうか?ご存じの方 教えてください。午後ではあきらかに違和感あるし、全国に手抜きを知らせているような気がするが・・・。各地で黙祷。テレビに出ない 各所でも。わがやの近く、2号線を渡った公園でも行われていたようです。思い立って 外へ出る。あの時 あの瞬間が 不気味に静かだったと多くの人がいうし 小生もそういう記憶がある。そもそも この時間に物音しないのでないかと?ふと思い。しかし この日は JRの踏切の音、国道を行く車の音、遠く高速をいくらしいトラックの音が 聞こえた。たしかに あの時は 奇妙で 不気味でな静寂だったなと。ふつうなら 車も通るし 列車も通っていたはずが すべての動きが止まっていた。もちろん その後は まったく違ってくるのだが。
2009.01.17
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