シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2006年02月14日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 前回までに、神秘学の人間の成長のコーヒーブレイクとして、アトランティス人の特徴をまとめた。アトランティスの前のレムリア人の特徴もまとめたいところだが、元にもどして、人間の成長を以前に続けて書くことにしたい。

 人間は前世から、いわば自我と、アストラル体のエッセンス、エーテル体のエッセンス、肉体のエッセンスをもって、この世に生まれてくるとされる。それはまるで、植物がその種子のなかに、これから地で芽生え、成長し、花を咲かせる生命力を有している印象をそっくり与えるものであろう。

 実際人間もそのようないわば植物の種子で生まれてくるといってよいのだという。しかし、植物と異なるのは、自我とアストラル体は植物の場合、この世にはないという。エーテル体と物質体が、この世であるのみである。

 自我を除いて、植物がこの世で展開する生命力は、いわば、人間の幼児期の肉体形成、子供期のエーテル体形成に相当するように思われる。植物が、同種の花を咲かせるように、種子から成長するように、人間は、前世のエッセンスから、子供期までに、それを展開させるのである。子供期にどのような植物でいう、花を咲かせるかが、その人間の性格を形作るといってよいだろう。

 青年期になると、今度はアストラル体を発展させる時期となるという。人間が携えてくるアストラル的な特性を、アストラル母胎が包んでいて、アストラル的な特性は、まずアストラル母胎のなかで形成されるという。そして、性的に成熟するときに、人間ははじめて自由なアストラル体をもって世界に向かい、そのときに、判断、批判、概念が形成されるという。

 それ以前の年齢で、判断や概念を形成するのは早すぎるという。それ以前に、信念をもつべきではなく、信念はアストラル体が生まれたときに初めて形成されるので、それ以前は、信念を持つ人を見上げて、自分が信じるべきものをその人から受け取るべきだという。

 いうなれば、エーテル体と肉体のみの植物に、判断や批判や概念を求めることになり、植物に話しかける人間は笑われるのと同じであろう。植物のなかに、そのような、いうなれば自然法則を逸脱した動物的な植物が、ときどき見られるが、それは毒をもつ存在であるという。自然のなかの進化の法則はしっかりしたプロセスがあり、植物にはそのような権限はいまだ与えられていないという。植物のなかに動物になろうとするものがあれば、それは、邪道に走った、悪魔的なものであり、それ故に、いずれ滅び行く運命にあるという。

 その器にないものがその地位につくと、災いを生み滅ぶ

 だからして、アストラル体が形成されない子供のうちに、信念を植えつけてはならないのである。それは植物が、宇宙の星を見て憧れ、花を咲かせるように、子供には、立派な大人の存在をもって、憧れの対象として、育てるのであるという。

 植物自らが花を咲かせる前に、他から花を与えてはならない。

 人間は性的に成熟して、人間が人間に向かい合う大事な時期となり、個人への愛が次第に目覚め、周囲への個人的関係に初めて目覚める。それ以前は、一般的な人間関係しかない。「自分自身の判断」と「周囲と自分自身との関係」が初めて現れる。

 そのときに、アストラル体のなかに、前世から携えてきた土台が現れ、自由に展開できるという。高い理想、美しい人生の希望、人生の期待が、もたらされるという。自分が携えてきた素質を、次第に取り出していった人は、正しく成長するという。

 理想は外にあるのではなく、私たちが理想をもっているという。

 この時期に、努力を促す力が青年のなかで活動し、人生の希望と期待という力がニ十歳までにないと、後年にとって、最悪の事態となるという。

 なぜなら、人生の希望と期待は、現実的な力であるからなのだという。

 アストラル体、いわゆるこころを浄化させるのは、この人生への希望と期待から発し、努力を促す力なのであると思われる。

 霊学では、アストラル体を、魂と呼んでいるが、人生の目的は、この魂の浄化にあるとされる。魂を洗う気のない者に魂を洗えないように、この時期の人生の希望と期待は、真事に大きな事と言わざるを得ない。このような大きな時期に、昨今のように、自殺願望をもつ若者が多いというのは、正に大人の教育の配慮が欠けている証拠でもあり、残念なことだといえる。

 このような社会では、いずれ、魂の浄化の修行場としては適さないものとして、日本社会そのものが、この世から滅んでいくだろう。魂の浄化の目的は、霊(神々)を照らすことであり、霊と交信することにあるのだから。太古の日本人は、神道により、歴史を振り返ると、これを良く心得ていたことを感じさせる。だから成人式という人生への希望と期待を込める儀式が制定されているのである。

 太古では成人式は、人生への希望と期待と、その理想の精神で、輝くものとされたのであろう。

 人間は霊長類といわれる、霊の申し子、つまり神の子なのである。

 それは、「我思う故に我在り」とある哲学者が言った言葉に深い意味がある。思考とは正しく霊(神々)の仕業であり、単なる魂存在では出来得ない芸当なのである。

 つまり、「思考できる魂は、霊と受胎している。だから、人間という存在がここにある。」ということを表明していることなのである。

 人生はまさにその思考ともいうべき自由な土台、舞台なのである。そこは自由なる思考、霊との交信で、本来、希望溢れるものなのである。

 いくら稼いだとか、楽な暮らしをしたとか、贅沢をし着飾ったとか、そんなことは人間のやることではなく、人間のやることは、いかに精神を磨き、神々と交信したか、人間として理想を追求したか、神々の名のもとに、多くの人を助けたかが、問われるのであろう。

 そしてなにより、人間として独立し、自由な思考を身に着けたかが問われる。神々と対等に理想について、語りあえたか?なのである。

 現代では、それが錯誤と幻滅と、大人の無情観を植えつける説教になってしまっているし、その大人が平然とモラル破壊に勤しんでいるのだから始末に負えない。真事に世も末であろう。

 恥知らずも極まると、恥を感じなくなるようであろう。

 神々は死んでいない、人間の精神が死んでいるのである。

 次回は、大人について神秘学から述べたい。





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Last updated  2006年02月14日 23時03分04秒
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