シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2016年01月30日
XML
カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 巷はマイナス金利という得体の知れない劇薬投入で、抗ガン剤のようにガン細胞もろとも正常細胞が打ち砕かれ、体力となる労働意欲を失い、市場が乱高下し、この国のガンともいえるジミンの汚職塗れのアホノミクズ内閣のアホバカぶりが勢いよく増殖中だが、アホバカ息子つながりで、尖閣売国奴の息子ノビテルが次の経済大臣に決まったというから、もはや末期も末期で、ケアが不可能なターミナルケアの段階に突入である。

 「20世紀少年」で話題になったオトモダチ内閣が腹痛で解消したように、アホノミクズ内閣が、オウムのような怪しい似非宗教団体で、おしゃかになりそうな話をお馴染みのサイトでみつけたので紹介する。

 ★         ★         ★ 

アホノミクス最終章
http://my.shadowcity.jp/2016/01/post-8717.html

 文春が次に目を付けているのがノビテルだそうで、首獲りの準備に入ったようでw ノビテルのネタは、色々あるらしい。ありすぎて、どれが本命なのかはまだ不明w コイツも親父譲りで、カネには汚そうだw そもそも、文春はアベシンゾーの悪口ばかり書いていたので睨まれて、編集長が春画で三ヶ月間の謹慎を仰せつかったわけです。江戸時代みたいな話だw その三ヶ月間に、文春はアベシンゾーに一太刀浴びせようと、ネタを暖めていた。マスコミの人間というのは、性格は悪いが、頭は良いです。

ただ、甘利氏の後任に石原伸晃元環境相が選ばれたことについて、与党内は当惑気味だ

 石原氏は党幹事長や政調会長などの要職を歴任し、26年9月まで閣僚を務めており、「身体検査に時間を割く必要がなく、『政治とカネ』の心配がない」(政府関係者)という事情があるが、失言も目立つためだ。環境相時代には、東京電力福島第1原発事故に伴う汚染土などを保管する中間貯蔵施設の建設をめぐり、「最後は金目でしょ」と発言。

 福島県議会の抗議を受け、撤回した経緯がある。また、TPP交渉にもかかわっていないことから、党国対幹部は「TPP関連の調整や政策立案に携わった経験に乏しい。関連法案の審議に耐えられるだろうか」と不安視している。

 まぁ、甘利だって「お友だち」で大臣になったんだから、大差ないです。 馬鹿の世襲どうしで仲が良いらしい

 ★         ★         ★

 「三人寄れば文殊の知恵」という諺があるが、高校のときの数学の先生が、どんなに知恵者がいても、アホバカなゼロ(0)が仲間にいれば、ゼロ(0)を掛けてしまって、全てがゼロになるから、頭がいい人が何人いても、そのアホバカ1人のために全てが台無しの無に帰すると、掛け算で説明していた話を思い出させる。

 インチキ大臣の次はパッパラパーのアホバカ息子大臣というわけで、全てが無に帰するというよりも、マイナス金利のように、果てしないマイナスの領域に突入するというわけなのだろう。

 やることなすこと総てがマイナスというのは、全く頼りにならない、信頼性の乏しい、混沌とした無秩序状態に突入するということなんである。つまり天変地異がいつ起こっても不思議ではないカタストロフィー状態に陥ることを意味する。

 要するに責任放棄である。だから経済は無秩序状態に陥るわけで、不安定で、昨日デフレと思いきや、今日はインフレなんてのも有り得てくる。全く予測がつかない無法則の動きをすることになるだろう。

 悪法も法なりと毒杯を飲んだソクラテスは、法を守るのが道徳と身をもって示したが、この国では、法を守らずに、法を改正しようとする無法や非道が罷り通っている。

 で、法とはなにかといえば、平和に暮らすための秩序やルールである。それは明文化されてなくても、法則として現存する。

 道徳が失われれば、法は無法となる。人間の生活は不安定で破局をむかえていくことになるだろう。

 昨日金持ちだった人が、今日には貧困に陥ることもあり、その逆もある。

 地上での物質的生活には秩序が失われるが、カルマの法則は実存するので、輪廻転生の法則が今まで以上に意味をもつことになるだろう。

 というわけで、シュタイナーの輪廻転生の話の紹介を続ける。

 ★         ★         ★


 -弟子のクッテネルがお送りします。

http://kumaneru.blog100.fc2.com/blog-entry-842.html

≪輪廻転生(16)≫

 記憶の第二期(7歳~14歳)

 「第二期」の7~15・6歳になると、ようやく「エーテル体」が《莢》から抜け出て来ます。エーテル体の成長には、単なる模倣でなく、子どもにとって英雄(ヒーロー、ヒロイン)的な「具体的に価値のある手本」が必要とされます。

 何故なら、この時期にはまだ「アストラル体」は《莢》の中にあり、正義とか道徳といった抽象的な概念で行動する能力は、まだ発現されておらず、具体的な行動で、それらを体現する人物に「秩序(法則)」を感じて従うからです。

 (前回の図を参照のこと。)

 西平直『シュタイナー入門』p129《講談社現代新書》より転載

 また「エーテル体」の発育に伴い、その時期の子ども達は、特定の気質や習慣を持つようになります。仮にそれが誤っている場合、警告を発しても「アストラル体」が発現されていないので、感情で受け止めることが出来ません。

 そうした場合には、物語や比喩を用いて、間違った考え方や行動をした人物が、現実にどんな目に遭うのか、具体的に示してやることが必要に思います。

 「思考の本当の姿である、抽象概念による魂内の営みは、第二期の子どもには、まだ控えなければならない。外から強制などで影響されて行われてはならず、内から自然に自らで生じなければならない。

 7歳から思春期に至る時期の魂は、人生や神秘な自然を比喩やイメージなどを通して受け入れる。この時期の思考は、抽象的な思考以外の、具体性をもった諸体験の中で、次第に成長していかなければならない。

 そのような具体的な体験から、判断力を次第に成熟させ、思春期を過ぎた頃になって、生命や認識について、自立した自分の意見が持てる様にならなければならない。」

 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクションI(子どもの教育)』p61 《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載

 そして、この時期に何よりも優先して育成すべきものは「記憶力」です。

 この時期には、たとえ「知的に理解できないもの」でも、「記憶」を優先させるべきです。

 例えば、詩的な文章などは、理解できなくとも、その語彙の持つ響きやアクセントなどから記憶に刻み、また掛け算の九九のようなものも、計算を理解するより先に暗記すべき時期なのです。

 「この時期の子どもは、文法などの規則を知的に理解しなくても、言語を自由に話せるようになるので、同様に、後にならなければ、概念的に理解できないような事柄も、記憶力を働かせて予め学んでおく必要がある。

 それどころか、純粋に記憶だけで身につけたものこそ、後になって最も良い形で、概念的に把握できる。

 …理解できないものを記憶させるのは良くないというような非難は、唯物論的な偏見に過ぎない。…後になって、概念によって把握できるように、予め記憶として記録しておく事が、この時期の子どもにとっては大切なのである。」

 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクションI (子どもの教育)』pp54-55《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載

真の意味での成・人・式

 思春期を迎える「第三期(14歳~21歳」では、「アストラル体」が《莢》から抜け出て来ます。この時期になって初めて、これまで学んで来た事柄について、自分で判断を下せるようになります。

 「あまりに早い時期から、自主的な判断をさせようとするくらい悪い影響を与えるものは無い。

 まず、自分の中に、判断や比較のための材料を十分に貯えた時、初めて判断を下せるのである。

 十分に貯える前に自主的な判断をしようとしても、そのための基礎知識が欠けているからである。

 (…中略…)

 それ故、思春期前の子どもは、どんな理論からも守られていなければならない。

 そして、日々の様々な体験を魂の中に受け入れることに、主眼が置かれなければならない。
  …………………………………………………………………………

 模倣の存在だった7歳までは、物質体の中に必要な力を貯えました。第二期になると、その力によって、具体的な体験から共感、反感という道徳力が育ってきました。

 そして、第三期の子どもはのびのびと個性を生かしながら、つまり自分の知性で道徳的な判断が下せるようになるのです。ちょうど太陽光の季節ごとの照射に応じて植物が花を開き、実を結ぶのと同じように。

 第一期の《物質体》と第二期の《エーテル体》の中で、第三期の道徳的な判断のために準備されたものが、植物の実がみのるのと同じように、人生を自由に生きるために目覚めるのです。」

 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション I (子どもの教育)』《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載

 こうして、物質体、エーテル体、アストラル体という、3つの構成体を生育させた、20歳前後に、《自我》を脱皮させ、文字通り《成人》となるのです。現代の20歳での《成人式》はシュタイナーから見れば、まさしく理にかなった儀式といえるでしょう。

 ここから、4つの体が全て機能した成人としての人生を歩み始めることになるのです。

 無論、それまでに若くして夭折した魂もあります。しかし、それらの魂は、成人後に死の門をくぐった魂よりも、其々の構成体が霊界でより多くの霊力へと変換され、来世で大きな仕事を成し遂げる能力に変わるとも、シュタイナーは述べています。

老化と4つの体(改変)

 さて、前回紹介した西平直氏のサイクル図が示すように、人生の後半に差し掛かると、再び4つの体が順番にこれまでの成長とは逆の老化を始める、といいます。

 「ところが、20歳が過ぎた頃から、シュタイナーの話では、《発達》の視点がぼやけてきて、成人期・老年期に当たる時期の説明がない。

 ごくわずか、《人生の後半生は、前半生を遡るようにたどり直す》とか、或いは、《前半とは逆の順序で、アストラル体がエーテル体から(体験の)養分をとり始め、次いでエーテル体が物質体から(体験の)養分を取るようになり、それらが、老年期の物質体の衰えと関連する》という程度である。

 西平直『シュタイナー入門』p131《講談社現代新書》より転載

 (このホームページの管理者は、このように考えているようだが、シュタイナーは20歳以降も詳細に他の講演を翻訳された書籍等のなかで説明している。例えば、ニーチェなどを例に出して、エーテル体が、物質体から離れはじめ、霊界に帰る準備を始めると述べている。

 また、27歳を過ぎるまでは、社会にはできるだけ出ない方が望ましいとも述べている。特に現代のように、物質欲や宣伝、洗脳などの社会悪が跋扈している環境だと、道徳的判断力を失う危険があると述べている。

 ただ単に、西平直氏の勉強不足である。)

 西平氏の図にもあるように、成人期以降の4つの体について、僅かに述べられているのは、まず《アストラル体》が《エーテル体》の(体験の)養分を奪い、その後《エーテル体》が《物質体》の養分を奪うということぐらいです。

 しかし、これだけでも、人間の《老化》について、随分興味深いことが語られているように感じますので、以下、小生の独断による考察を加えてみようと思います。

 まず、第二期に《アストラル体》が《エーテル体》に与えた成長力を、27歳以降に取り返すように書かれています。

 小生は、この力こそ、第136夜でお話しした《感情》の元になる力ではないかと思います。つまり、死の門をくぐった後の、霊界での生活のために準備を始めるのです。

 そして、その代償として《エーテル体》の能力が奪われます。その主たるものは、《新しい環境への適応力》と《新しい事柄の記憶力》でしょう。

 まさに精神活動の《老化》の始まりを示すものです。

 次いで、第一期に《肉体》の成長をサポートしてきた《エーテル体》が、《肉体》に与えた成長力を、同じように取り返すと書かれています。

 これが、第135夜でお話しした《思考》の素となるべき力と《肉体の活力》ではないかと小生は思います。この時点で肉体的な《老化》と、思考を持続させる力の喪失が始まるわけです。

 こうして、それぞれの構成体は、誕生前の、霊界でそれぞれ独立していた状態に還ってゆくべく、死の門をくぐる準備を始めてゆくのだと、小生は思います。まさに見事な《4つの体のサイクル》がこうして完成するのです。

 さて、次回第147夜からは、シュタイナーのキリスト観へと話を進める予定です。

 ★         ★         ★

 法を司る能力は道徳であり、愛である。

 さて、毎度訪問させていただいている「渾沌堂主人雑記{旧・播州武侯祠遍照院}」さんのサイトに道徳と法の話が載っていたのに触発されて、上述の話を紹介したので、以下にリンク先を紹介する。

 ★         ★         ★

そもそも学校って狂ってます。法と道徳に区別もない。
http://tyuubukou.blog.shinobi.jp/%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%90%91%E3%81%91/%E3%81%9D%E3%82%82%E3%81%9D%E3%82%82%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%A3%E3%81%A6%E7%8B%82%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82%E6%B3%95%E3%81%A8%E9%81%93%E5%BE%B3%E3%81%AB%E5%8C%BA%E5%88%A5%E3%82%82%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%82

 ★         ★         ★

 上述のリンク先の話は、組体操の事故を教材にして道徳教育を行うことへの疑問をなげかけた話だが、シュタイナーの話から考えてみるのも面白いと思う。

 この教材は「小学校5・6年生用」とのことだから、日本の小学校は6歳で入学なので、11歳、12歳の子供の教育教材になる。

 シュタイナーによると、7歳から14歳までは、エーテル体の成長期にあたるので、記憶力を高める時期ということになる。上に紹介したように「子どもにとって英雄(ヒーロー、ヒロイン)的な「具体的に価値のある手本」が必要とされます。」ということから、この時期には、英雄や正義の物語が必要ということがわかる。

 そこで、この「具体的に価値のある手本」に、「組体操の事故」が、その物語として相応しいかどうかということになるが、私見では、相応しくないものに思える。

 というのは、事故を未然に防ぐのが正義と考えられるからである。確かに組体操を全員でやり遂げるという目標は素晴らしく、努力に価するものだが、それが事故を誘発し、生命を危険にさらした時点で、不正になるからである。

 幸い軽い骨折で済んだからよかったが、もし亡くなっていたらどうだろうか?

 また昨今の組体操ブームにも問題があり、高校生ならまだしも、小学生の段階で組体操をするのは肉体的にも問題である。もし小学生に組体操を教えるのなら、教員たちが実際に見本としてやってみせるべきであろう。

 つまり、小学生の組体操ではなく、体育教員たちが、事故につながらないような組体操をしてみせるべきである。小学生の心に記憶としてスケッチさせるのである。

 だから、大人たちが正しい組体操の方法を練習のときから、見本としてみせるならば、よい道徳の教材となるだろう。体操選手がテーピングしながら怪我を防止し努力する姿勢をみせるのもよいだろう。

 そもそも学校で教える体育や武道はスポーツのような見世物ではない。ここにもGHQの3S洗脳が垣間見える。

 武道がなぜ受け身から教えるか、このような事故を道徳教材とするアホバカにはわからないだろう。事故や怪我を避けるのが第一で、正義だからである。事故や怪我につながる暴力はいかなる場合も厳禁である。

 生命を失っては元も子もない。武道は身を守るものであって、身を危険に曝すものではないからだ。

 組体操時にバランスを失った場合の下にかかる負荷がいくらになるかを計算すべきであり、前もってシュミレーションすべきである。そういう準備がなく、ぶっつけ本番でやるアホバカは教員たる資格はない。

 体育は数学でもあり物理でもある。あらかじめ全てを予測できてはじめて教師になれる。事故を起こしたら全てが台無しなのである。

 だからしっかりと受け身ができない人には武は教えられない。

 そして、法理論については、小学生段階ではまだ抽象的な思考は早く、判断力がないので、法について教えるのはやってはならない。法の教育をやるとしたら、大人たちが法を守っている態度や姿勢を、子供に記憶させることである。法を守る大切さを大人たちが実践してみせることである。

 それが法の愛であり、芸術だと思われる。再度紹介するが、法とは事故や怪我を未然に防ぐルールで、道徳はそのルールを守る姿勢である。

 アホバカ教育にしてアホバカ内閣からアホバカが増殖中である。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2016年01月30日 17時57分10秒
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: