シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2017年09月08日
XML
カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
この国のなかで、西郷さんほど伝説化されている人物はいないだろう。次に坂本龍馬、近年では乃木希典だが、その実像をしればそこらへんの一般人と代わりがないことに気づかされる。

 英雄も単なる普通の人物だといえば、歴史家から総スカンを食らうだろうが、英雄も人の子というのが最も真実に近いと思われるので、あえて紹介する。

 というのも、戦争高揚のためにまたぞろ歴史人物英雄化美化が巷に巻き起こってきたからである。先日、みかけたサピオの西郷隆盛像は、つくられたイメージそのものだったからである。西郷は聖人でもなければ人格者でもない。それは以下に紹介する話からわかる。

 過去にも何度も紹介したが、被差別民出身サンカ作家の八切止夫氏の作品である。

 この国の歴史詐術の酷さが、この作品から明らかになる。以下にリンクを張っておく。

http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/shintyaku.htm

花の西郷隆盛
http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/saigou.htm

 さて、上のリンク先の話から、サピオに載っていた西郷伝説を覆す真相がわかる。以下に一つづつ紹介していくが、その前に、坂本龍馬、本名は才谷梅太郎の暗殺の黒幕も、この話に載っているからついでに紹介する。

 通俗史の「坂本龍馬」の暗殺の黒幕は、大久保一蔵と岩倉具視であろう。この二人は坂本だけでなく、孝明帝も暗殺しているし、暗殺の常習者で、それは西郷も同じである。

 当時の薩摩も長州も、朝廷から征夷大将軍の勅命をもらい、自国(薩摩、長州)を独立国として他国を支配することを考えていたわけで、幕府とは自国の都合から敵味方になっていただけにすぎない。徳川家に表向きは臣従する振りをしていたにすぎない。

 だから、薩摩と長州がとりあえず幕府を倒すために手を組んだだけで、実際に討幕した後も、どっちが主導権を握るかでやりあっていたことがわかる。

 だから、慶喜が大政奉還したのには、薩摩も長州もいきりたったのは当然で、武力闘争で、味方につけたい土佐藩を恫喝するために、坂本を暗殺したことがわかる。その話を載せる。

 ★       ★       ★

 「岩山八郎太の娘いとと祝言せい」と、慶応元年一月二十八日39才の西郷は新郎にされた。
 「今度が三度の上の目か」未体験のおごじょの嫁を、いとおしむよう優しく扱かって、「おいどんの上へ跨がるがよか」といった。

 久しぶりに新婚気分を味わっているのに、「京へ来ちょくれ」と大久保がいってきた。「長州が割拠というて独立ばすると、高杉とか桂らが騒いどる、また長州征伐だそうな」物騒な知らせが入ってきた。西郷はすぐ、「おはん長州へ行け」と黒田了介をだした。

 その結果が、松平容保を親任されていた孝明帝の急死となった。少年の帝がたたれた。

 「今でごわす。出京して九州独立のため京坂を国境にして、長州に守らせたらよかでごわそ」大久保に言われた通りを久光へ報告した。「念願のハヤト国か」島津は開戦をきめた。なのに坂本竜馬の進言で、土佐山内容堂が、徳川慶喜に大政奉還させてしまった。

「ふらちなやつだ、殺したれ」大久保は怒り、西郷には内緒で刺客をむける算段をさせた 。が、和平気分が京の御所を支配しだした。「弱り、もうした」西郷も首ひねってしまった。

 (西郷は後に大久保の仕業と気づき、今井信郎ら下手人を解放する。おそらく暗殺したのは土佐藩士の谷干城あたり。土佐藩の会合として呼び出して、中岡とともに暗殺したものと思われる。その証拠として薩摩藩邸に差し出して、土佐藩も討幕に傾く。)

 「長州へ落ちのび今では九州大宰府の三条卿以下の復位。正式に岩倉具視の処分解除」そして、その日 新帝の母方の中山忠能卿は、土佐の陸援隊へ高野山を占拠するため出動させて、御三家の紀州藩の牽制をさせていた。薩摩の大久保から、「御玉音で、勅許がおりた」と発表された。だからして大村益次郎のごとき単細胞は、「・・・・まったく訳が分らん。御国(長州)はどないになるんじゃろ」眉をいかめ考えた。

 12月9日。徹夜の会議がすんで徳川慶喜が退出した後、岩倉具視が参内して、はっきりと、「王政復古」を奏請した。帝はまだ幼少。

 朝までは和平会議だったが、恐い顔をした岩倉具視に奏上されると、脅えたように、「あッ、そう」とだけ言われたという。

 大阪から御所へ参内した徳川慶喜は、なんとかして平和的にと会議している間に、薩摩の大久保と岩倉がどんどん戦争の用意をした。

 「まるで平行線じゃ。どうなるんじゃろうな」大村益次郎も双方の情報をきき迷っていた。
 しかし岩倉と大久保は三井に命じて銀の有るだけを出させ、土佐だけでなく安芸の広島から尾張、越前といったインフレで困惑している雄藩に、みな金のクツワをかませた。

 よく、義理と人情をハカリでかけりゃ、義理が重たい男の世界と唄にまでされている。が義理とは困った時に金を貰ったり、その金で助かることである。人情とは単なる感情である。つまり感情より勘定の方が重いというのである。雄藩連合が三井の銀で成功した。

 小栗上野介の信任をえて弾左ヱ門家や徳川家の一切合財を押さえていた三野村利左ヱ門を迎えて番頭にした三井は、その金を逆に岩倉へ廻し討幕資金にし鴻池を蹴落した。それも現銀でなく為替紙を発行してあてた。

 「 土佐の山内容堂侯は内ゲバせんとなんとかまとめようとしたというが、西郷が凄い目つきで、文句があるなら徳川より土佐を先に血祭りにあげると脅かした 。海援隊はあっても坂本が死んでは何も期待できんし、陸援隊も中岡なき後は薩摩の傭兵化して中山卿についている。土佐も仕方なくうなづいたそうだ。いったい、どうなっとるぞなもし・・・・」

 「西郷や大久保といった薩摩っぽは恐わい。どこまで彼らはやるか見当もつかんでいかん」せっかく兵庫まできたが、大村にはどうしようもなかった。桂小五郎も同じだったろう。なにしろ御所でも、大騒ぎだったから。

 いつの世でも黒幕の力はもの凄いもの。京の二条城に会津桑名の兵と共に一万の精鋭はいたが、徳川慶喜はやむなく京を引き払い大阪城へ入った。もはや京には幕軍の手の者は新撰組すら伏見へ追われていなかった。

 「このまま、もたついては如何でごわすか」西郷吉之助はすぐさま江戸へ薩摩屋敷にいた千葉門下の相楽総三に早飛脚をたてた。

 「すぐさまに事をおこせ」との命令である。親の金で同士を集めていた相楽は直ちに、「よし、やっちゃる」と庄内藩の支藩屋敷へ鉄砲をうちこんで挑発。酒井の侍どもは勢揃した。そこですぐ、「もう我慢ならん」と25日に三田薩摩屋敷へ焼討ちをかけた。28日に大阪へ急報された。

 「もう我慢の緒がきれた。薩摩討つべし」と大阪城に集結した旗本や諸兵隊、それに会津や桑名の兵は激してしまい、慶喜は、「討薩表」をかかせ大目付滝川土佐にもたせて島津忠義へ詰問使をだすことにした。まんまと西郷大久保岩倉ラインにのせられた。

 「高杉は世の中に恐いのは西郷隆盛じゃ言うて、いくら逢おうと求められても嫌がって、逃げていらしたのにああした恐かおひとについて戦ばするのは、どうでしょうな」あまり気の進まぬ大村益次郎は、「わしゃ出んでもよかでしょう」と口にした。

 「大村さん・・・・とうとう来るところまできたぞな。ああたは三兵塾で育てた士官らに歴戦の諸隊の兵を、薩摩の言いなりに出して味方してつかあさい。それしかあかへんぜ」顔をしかめつつも、桂小五郎は口にした。

 「うん、しかしそうせなお国の長州が、後で西郷や大久保にどない目に逢うか分らん。まあ品川弥次郎が来とるけん。あれに指揮させて、薩摩の尻にくっついて行くしか、他には何もあり申さん」と桂小五郎は神経質に目をまたたかせ、ぶすっとした大村を諫めた。その頃、岩倉具視も大久保一蔵や西郷へ

 「おはんらの薩摩の殿さまが、○に十の字の旗をたてて天下統一したら、公家は一体全体どうなるんじゃ」とやはり危惧していった。

 「まあ、そのことなら西郷どんに任せて貰わな、いかんでごわしょう」と大久保は薄笑いを浮かべて、ぬらりくらりとしてみせた。「すると次のえらい様は徳川に代わって、薩摩の殿さまが天下をとり、鹿児島がお江戸にとってかわるんですかのう」ずんぐりした身体を折りまげるようにして率直に大村は尋ねた。しかし桂小五郎は蒼い顔で無言だった。当の西郷も、ただ笑って大きくうなずき、「よかしますでごわしょう」力強くいった。

 「なら一国一城は貰えるな」岩倉も答えた。しかし島津の殿さまは、二百五十年続いてきた主従関係をあくまで信じきって疑いをもとうとはしていなかった「西郷や大久保は世が世なら目見得以下の下賎な者らであるが、このたびの天下創業の働きはアッパレじゃなかか」と口にして、笑った。

 「天下平定のあかつきには西郷には10万石大久保には5万石ほどの城持ち大名に取立てやるに、ヤブさかではない」といった。「有難き仕合せ・・・・」小松は平伏して答えた。

 慶応四年1月3日。討薩表をもって島津の本陣へ向かおうとした滝川土佐守は、鳥羽伏見で薩長兵に阻止された。随行の旗本共は、「将軍家に対し奉って非礼である」と息まき実力で強行突破しようとした。が、「ババーン、ババーン」と伏せの構えをしていた散兵線の餌食にされてしまった。侍どもは

 「イモや長州の木こりに負けるな」と先祖伝来の槍のサヤをとって突入したが、近づく前にバタバタみな撃ち倒されてしまった。なにしろ薩長兵は三千余りでも、銃は南北戦争でグラント将軍が押収した南軍の元込エーゲー銃。硝石も新しい払い下げ火薬である。てんで戦いにもなにもならず滝川土佐は「かくなる上は斬りこめ」と叫ぶのみだった。

 処が滝川土佐についていった旗本共が持っていたのは江戸から担いで来た火縄銃。火薬は大阪天満に積んであった寛永時代からの湿気をおびたもの。撃っても鉛玉が転がるだけ、まるで小石をぶっつけているみたい。

 鳥羽伏見での敗戦が伝わってきても、「味方は三万から四万」「敵は僅か数千なり」大阪城内にあふれた幕兵はいきまいた。しかし徳川慶喜は、硝石が古くて不発と呑みこむと、夜にまぎれ小姓に化けて乗船。

 「追手に帆かけてシュラシュッシュ」とは、蒸気船ゆえ言わずだったろうが品川へ帰航。もちろん表向きは火薬で勝負にならぬ故とは発表せず、恭順のためと引きこもった。

 12月18日になると桂小五郎は「徴士」の名で上洛を求められ、総裁局顧問を拝命した。
 薩摩は、島津の殿さまの命令なりと、「徳川慶喜を死罪」と強硬に西郷は主張。「ならば現在の八百万石を全額没収すべし」と大久保は言いはったが、桂小五郎は、「それは酷である。せめて百万石」と主張。

 しかし薩摩派は、島津の殿さまを棚上げすることを桂に認めさせる事によって妥協した。

 つまり長州も殿さま抜きで桂藩となり、西郷藩みたいな薩州と、黒幕の岩倉や大久保の指示で動いた。大村益次郎は呆れ返った。「新撰組が陣地にしたから大半が焼けとる」ご親兵士官にするために、伏見奉行所で各藩よりの徴兵教育をいいつけられた大村はくさっていた。当人としては桂小五郎がもうちょっと良い役をつけてくれても可といった不満はあった。しかし5月に入ると桂から、トウケイと改名された江戸へと急使がきた。なんだろうと単身品川へゆけば、「上野の山に浮浪がたてこもっとる。おまさんが退治するようとの桂さんの意でごわす」迎えにきていた者から突然もち出された。

 小男の大村益次郎は肉体的に圧迫感を催おすのか西郷をさけていた。話もせずだった。

 西郷は金持息子の相楽総三に人集めさせて御用盗に使い・・・薩摩屋敷焼討ちの際の生き残りは東山道軍の尖兵にし、信州で旧悪発覚と、皆殺した冷酷無惨な男と怖れていたのだ。

 「いくら、勝海舟が芸妓だった女房の前の旦那から借りた金で、安くに旗本屋敷をみな買い叩いているから総攻撃はせんでくれと頼んできとっても、一戦もせんでは不可でごわす」 西郷はわざと上野に旧幕臣共をあつめさせ、「ゴミば溜まったら焼く」と戦線布告した

 西郷一人にやらせたら後で長州の立場がのうなると桂は京から、大村を至急よばせた。死んだ高杉同様に西郷嫌いの大村益次郎は、「ハヤト国独立の手伝いなど・・・・」と、いやがるので桂が西郷と交渉し彼を司令官にした。それでも大村はむっつりし不愛想だった。雨の中でワラジがけで出陣する西郷を見送ろうともせず、大村は江戸城の中にいて、「薩摩苦戦・・・」と伝わってくるとニヤリとし、

 「鍋島のアームストロング砲ばうたせえ」と命令し一瞬にして上野を焼野原にした。西郷の面目は丸つぶれにしてしまった。「東北の総司令も長州側となった」と、桂は喜び大村益次郎の手を握りしめた。西郷は面白くない。

 そこで、有村俊斉こと海江田信義は やがて京三条小路の大村益次郎を襲撃させた。下手人共が粟田口刑場で斬られる寸前、「弾正台より御命令だ」と彼らを逃がしたのだ。

 大村暗殺の一月前の明治二年六月に二千石。ついで西郷は功により正三位。四年には、政府参議翌年七月には薩軍元帥近衛都督に昇進。

 「西郷や大久保めは代々の君恩を忘れ吾が島津の、国力を利用し、独立するとわしを乗せだましくさって立身した」と久光は激怒した。が西郷は出世し威張っていたのではない。

 「日本がだめなら朝鮮半島に○に十の旗を」と、前殿さまの久光に進言、慰撫していた。しかし同じ加治屋町生れの大久保利通が、「今さら旧主のための征韓論でもあるまい」てんで相手にせずまっこうから反対した。

 かねて新政府にあきたらぬ土佐の板垣や後藤それに佐賀の江藤新平も共に辞任した。薩摩出身の昔気質の者は、旧主の為に、身を殉じて帰る西郷についてぞろぞろ帰郷した。鹿児島の北の寺山の丘に塾をたて、ついで西郷は私学校を作り各地に分校を設けた。

 木梨精一郎、とよぶ男がいる。黒駒の勝蔵をつつき甲府城占領させようとした西郷腹心で東征軍の参謀に昇進していた。が戦は、巧くない。だから東北遠征は、大村益次郎の長州に指導権を奪われた。

 「口惜しい」と私学校生徒も彼が煽動したのだ。

ハヤト族は大和ちゅうとは、民族が違う。ひとまず薩摩ば独立させ、やがて九州を割拠し日本から分離させるしかないと大山格之進は鹿児島県令として、集めた税金を中央政府へは送らず私学校へ提供。別府晋介、辺見十郎太、村田三介ら旧陸軍少佐を区長に任命した

 「ハヤト国」として文武帝の頃に独立していた薩摩隼人の中にも、明治になると大久保利通のごとく新政府の実権を握って旧島津を思わぬ者もいた。川路の正之進もハヤトなのに逆に密偵を次々と送りこみ、火薬や武器を、大阪へ明治10年1月29日輸送替えしようとした。

 「大村益次郎はとうに殺したる。もう恐いものはなか」と私学校生徒へ演説。

 「虫よ・・・・・・・、虫よ、五ふし草の、根を絶つな。絶たば己も共、に死なん」と一万三千の薩摩健児は出陣した。さて、明治10年2月15日、熊本へ、宮崎とう天の兄の指揮する市民軍も参加し進軍。が、谷千城は必死になって熊本城を守った。

 「敬天愛人」の西郷の、遺墨から温厚な大人物に仕立てて、私学校の若者に坦がれやむをえず大久保新政府に対して出陣したと今はする。

 しかし 皇国史観による教育用西郷論である 己の写真や肖像画の一切も焼きすてて、「サツマの為に」とハヤトとして出陣した。西郷軍政下に薩摩国は、独立した

 そうなると明治7年2月の江藤新平の乱に組し佐賀県から逃げてきた者や明治9年の神風連残党も熊本から逃げこんできた。そして鹿児島は、「易世革命は西南から」と今の山口県までを含む新国家創立の意気に燃えていた。

 「樺山三円は、西郷の幼時からの友ゆえ熊本鎮台参謀長にせい」西郷の実弟従道をば、陸軍郷代理にした大久保はガンジガラメにし西郷を苦しめた。

 孫が丸紅専務になって棘腕をふるうだけあって大久保は、薩人を、みな敵にする愚は避け有栖川宮を征討総督。第一旅団長 野津鎮雄。第二旅団参謀 野津道貫。別働第一旅団長 高島鞆之助。別働第二旅団長 黒田清隆。別働第三旅団長 川路利良。別働第五旅団長 大山巌。みな薩人のみを選んだ。

 熊本城攻撃に敗れ田原坂で戦い三万の若者をなくし城山へ戻っても、まだ西郷隆盛は、「革命は最後まで死力つくすべきでごわす」と花々しく陣頭にたっていた。通俗史では、「東方に向かい頭を下げ切腹した」とする。実際は最後まで薩摩を守ろうと地元優先。桐野利秋、村田新八が倒れた後、腹と股を撃たれ別所晋介に肩をかり戦い、討死したのである。

 ★       ★       ★

 以上のように、坂本暗殺は、大久保と岩倉で、孝明帝も、更には慶喜の首まで狙っていたが、勝海舟も狙われていたと思う。

 さて、サピオの西郷伝説1は、「西郷は完全無欠の人格者だった」だが、これは丸っきりの嘘で、皇国史観による教育用西郷論である。

 奇兵隊の高杉、大村が西郷を恐れたように、情け容赦のない人物なのがわかる。その部分を再度抜き出す。

 ★       ★       ★

「このまま、もたついては如何でごわすか」西郷吉之助はすぐさま江戸へ薩摩屋敷にいた千葉門下の相楽総三に早飛脚をたてた。

 「すぐさまに事をおこせ」との命令である。親の金で同士を集めていた相楽は直ちに、「よし、やっちゃる」と庄内藩の支藩屋敷へ鉄砲をうちこんで挑発。酒井の侍どもは勢揃した。そこですぐ、「もう我慢ならん」と25日に三田薩摩屋敷へ焼討ちをかけた。28日に大阪へ急報された。

 「もう我慢の緒がきれた。薩摩討つべし」と大阪城に集結した旗本や諸兵隊、それに会津や桑名の兵は激してしまい、慶喜は、「討薩表」をかかせ大目付滝川土佐にもたせて島津忠義へ詰問使をだすことにした。まんまと西郷大久保岩倉ラインにのせられた。

 「高杉は世の中に恐いのは西郷隆盛じゃ言うて、いくら逢おうと求められても嫌がって、逃げていらしたのにああした恐かおひとについて戦ばするのは、どうでしょうな」あまり気の進まぬ大村益次郎は、「わしゃ出んでもよかでしょう」と口にした。

 ★       ★       ★

 人格者どころが極悪非道人に近い。

 西郷伝説2「大の写真嫌いだった。」

 暗殺を恐れて写真を撮らなかったという通説があるが、写真を撮らなかったのではなく、撮った写真は手当たり次第、焼き捨てて、極悪非道人の西郷のイメージを消したのである。以下に再掲する。

 ★       ★       ★

 己の写真や肖像画の一切も焼きすてて、「サツマの為に」とハヤトとして出陣した。西郷軍政下に薩摩国は、独立した。

 ★       ★       ★

 朝鮮に侵攻した際に、明治政府から写真が手配書として出回るのを恐れたのだろう。長州の元は朝鮮なので、朝鮮明治政府と朝鮮が組まれると薩摩には分が悪い。実際に日韓併合された。

 西郷伝説3「江戸無血開城はイギリスの意向だった。」

 ★       ★       ★

 西郷は金持息子の相楽総三に人集めさせて御用盗に使い・・・薩摩屋敷焼討ちの際の生き残りは東山道軍の尖兵にし、信州で旧悪発覚と、皆殺した冷酷無惨な男と怖れていたのだ。

 「いくら、勝海舟が芸妓だった女房の前の旦那から借りた金で、安くに旗本屋敷をみな買い叩いているから総攻撃はせんでくれと頼んできとっても、一戦もせんでは不可でごわす」 西郷はわざと上野に旧幕臣共をあつめさせ、「ゴミば溜まったら焼く」と戦線布告した

 ★       ★       ★ 

 慶喜は既に恭順を示していて、第一、江戸城にはほとんど登城していない。問題が大奥にあることがわかるが、明日には江戸城総攻撃となった際、ほとんどの住人は疎開していたらしい。だから、勝が旗本屋敷を安く買い叩いていたのである。

 それを知った西郷は、それなら、上野に旧幕臣共をあつめれば、慶喜の首は赦すと勝に厳命したものと思われる。勝は、大久保に進言し、大阪遷都を東京遷都にして明治帝を迎え、大儲けした金銭で、明治帝に寄進し、徳川家を存続させ、家康伝説をつくる。

 無血開城ではなく、戦地になるので、お逃げくださいと、大奥を追い出したようである。決戦は上野でと幕軍を集め、官軍に受け渡した。それが品川で行われた西郷と勝の会談のようである。

 イギリスは江戸が焼け野原になると、横浜から貿易で商売ができないので、官軍侵攻には反対したようだが、あくまで金銭の問題のようである。勝が金銭の算段をしたようである。

 西郷伝説4「征韓論は朝鮮征伐が目的だった。」

 ★       ★       ★ 

 西郷軍政下に薩摩国は、独立した。

 ★       ★       ★

 薩摩の独立を外国に認めさせるため。古代中国人の藤原氏の朝廷から独立した倭人による国家をつくりたかったようである。いまは日本人とひとまとめにいわれているが、他民族国家なのはY染色体アダム説からもわかる。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2017年09月08日 00時04分44秒
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: