シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2026年04月17日
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カテゴリ: 神秘体験空間
神は自らを映す美しい心を眺めたいために人間をつくった
相変わらず巷のおバカ偏向メディアは、以前紹介したゾロアスター教の善神アフラマズダのオルムズを語源にするホルムズ海峡を喧々諤々で偏向報道し、無知蒙昧口から出まかせのコメンテーターの人種差別発言が飛び出すなど、地獄行きの左翼活動員が左翼広報活動に明け暮れている日々なのだが、お馴染みのスパイチャンネルでは、もはやホルムズ海峡よりも先に進んでいるので、以下に紹介する。

#978 ホルムズ海峡 - YouTube


善神の名に由来するのに、石油タンカーには、いまや渡るも地獄渡らぬも地獄ともなっている、いわば三途の川のようなホルムズ海峡なのだが、地獄といえば、先日、「マツコの知らない世界」で、地獄の特集をしていた。

マツコの知らない世界| TBS テレビ

この番組は、マツコ氏のMCぶりが面白いので、毎週みているのだが、特にマツコ氏と有吉氏のやり取りの「かりそめ天国」は、この番組以上に、最高に笑えるのだが、最近テロ朝ならぬテレ朝が左翼独特の不祥事を起こして巷を賑わせているが、テロ朝がなくなっても、この番組だけは続けてほしいと密かに想っているマイベストワン番組なのである。

マツコ & 有吉 かりそめ天国 - Wikipedia

それはともかくとして、マツコ絡みの番組で、恐らく、かりそめの笑いを提供という意味で勝手に解釈しているのだが、「かりそめ天国」と、「知らない世界」で、地獄(特集だが)を地上波で一応一通りみたわけなのだが、本物の天国、もしくは地獄なのか?と問うのなら、「かりそめの笑い」は確かに笑える心境にないと笑えないから、いかにも、最高に笑えた一瞬のなかに、「かりそめの天国」を感じる心地はするかもしれないが、地獄の特集は、地獄といっても、あの世ではなく、この世の伝承に基づいた唯物論的価値観での地獄の解説だったので。地獄の恐ろしさというよりも、かえってコミカルで笑えるので、ツッコみどころ満載の天国でもあった。

そこで、現代人が、天国と地獄のイメージをどうもつのか、AIの回答で出してみたのが以下である。

天国と地獄について

AIアシスタント

『死後の世界のことを考えると、天国や地獄について一度整理してみたくなりますよね。

🌏 いろいろな宗教の天国と地獄
キリスト教の場合
キリスト教では、死後に神の裁きがあり、神に救われた人は神と共に喜びのうちに生きる場が天国、神から離れ罪の結果として苦しみを負う場が地獄と語られます。最後の審判で人々が天国と地獄に分けられるというイメージは、西洋絵画や説教を通じて広まりました。(cac-net.ne.jp)

仏教の場合
仏教の「地獄」は、悪い行いの結果として生まれ変わる苦しみの世界の一つで、さまざまな種類があります。永遠ではなく、一定の期間を経て別の世界へ生まれ変わると理解されることが多い点が、キリスト教との大きな違いです。(rid2840.jp)

「天国」に近いイメージとしては、阿弥陀仏のいる極楽浄土など、苦しみから離れた安らぎの世界が語られますが、日本ではこれもまとめて「天国」と呼ばれることが多いです。(shotoku.ac.jp)

🧠 死後の世界のイメージの役割
生き方へのメッセージ
天国と地獄の話は、「どう生きるか」へのメッセージとして用いられてきました。
善い行いと他者への思いやりを重んじるための教えとして、天国は希望、地獄は「人を傷つける生き方への警告」として描かれます。(note.com)

心の中の天国と地獄
日本の教育現場では、「同じ場でも、自分と相手への向き合い方でそこが天国にも地獄にもなる」というワークが行われることがあります。協力し合うと豊かさが生まれ、奪い合うと苦しみが生まれるという話で、心のあり方を考えさせるねらいがあります。(komajo.ac.jp)

🤔 実在するかどうかという問い
天国や地獄が「本当にあるかどうか」については、宗教や個人の信念によって答えが変わります。
ある教会は、具体的な天国・地獄の存在を強く語り、信じることによる救いを説きますし、(tengokujigoku.info)
一方で、比喩的に「人の心や社会の状態」を天国・地獄と読む立場もあります。(shizuoka-eiwa.ac.jp)

🪜 これから考えるヒント
自分にとっての天国・地獄を考えるときには、次のような視点があります。

死後の世界としてどうイメージするか
いまの生き方を考えるための「たとえ」としてどう受け止めるか
不安を和らげるよりどころとして、どの考え方がしっくりくるか』

このように死後の世界を想定していながら、カリユガからの唯物論の影響を受けて、現代人が前世を忘れているのと、グノーシスの教えを理解できずに書き換えてしまったキリスト教カトリックの間違った教えの影響のせいで、輪廻転生が否定されて、あの世からの転生を知らないために、天国や地獄がこの世で間違って伝承されてきたのを反映しているのがわかる。

この「マツコの知らない世界」番組で特集された地獄は、仏教徒の源信の往生要集を基に解説しているので、寛和元年(985年)に編集されているが、現代語訳で解釈されているので、恐らく唯物論的に、この世の物質界で伝承されているので、間違って伝承されている面が多いいと考えられる。

往生要集 - Wikipedia


上の往生要集のウイキ解説では、徳川家康の旗印でもあった「厭離穢土 欣求浄土」を解説しているが、『その意味は、「 現実の世の中は、穢れた世界であるから、この世界を厭い離れ、次生において清浄な仏の国土に生まれることを願い求めること 」とされる』となっている。

この「厭離穢土 欣求浄土」のなかに、すでに地獄と天国のイメージがあるのがわかる。すなわち、地獄とは、現実の穢れた世界で、天国とは、清浄な仏の国土の世界なのである。だから、厭離穢土とは、現代風にするなら、地獄(金銭欲や名誉欲や虚栄心)を卑しんで離れ、欣求浄土とは、心を清浄にして霊光に満ちる天国を祈願する、という意味になるかもしれない。つまり、簡単に言えば、地獄は闇で、天国は光なのである。それらは勿論、物質では表現できないものなので、いわば心の世界で、現代科学でいうなら、パラレルワールドのことである。

死後の世界といわれるが、誰もが天国や地獄に近い体験をしている。それは睡眠中の潜在意識でみる夢の世界である。それらは物質界での粗い波動では表現できないので、起きた後にわずかに物質界での体験からそのイメージを辿れるが、それはあくまで氷山の一角の覚醒意識での表現なので、近似のイメージでしかない。

それでも、地獄といえば、怖く恐ろしい世界に行ってきた感覚が残っているはずで、起きたときに、そこから脱出できて良かったと思えるわけである。また逆に、天国といえば、心地よく平安で美しい世界に行ってきた感覚が残っていて、起きた時にまだそこにとどまりたかった感覚が残っている経験が誰にでもあるだろう。

自分の怖い夢の経験は、何か怖いものに追っかけられて絶えず逃げまくるとか、こちらから話しても誰も相手にしてくれないとか、高いところを浮遊しながら登ると今度は降りてこられなくなる恐怖感とかの、いわば地獄の体験をしたことがある。

ほとんどが地獄の職場と感じた現世での焼きまわしという感じでもあった。つまり、現世で体験した切迫感や自虐観、みじめな想いや羞恥心などを、そのまま夢のなかでも経験したような感覚だった。

対照的に、天国かのような楽しい夢の経験は、巨大で豪華な邸宅に住み、流れている音楽も心地よく、なぜか美人の結婚相手がいて、外は南国の楽園のような優美で快適な、いるだけで気分がよい楽園の、いわゆる天国の夢の体験をしたことがある。

つまり、現世での天にも上るような気持ちの経験がそのまま夢のなかで楽しい気分の世界になっているのかもしれない。だから、よくこのブログで紹介する、快川和尚の「心頭滅却すれば火もまた涼し」というのは、地獄の世界でも、心を転換すれば、天国に変わるという意味なのかもしれない。

つまり、地獄を経験してはじめて天国の有難さがわかるのかもしれない。だからまずは、誰しもがこの世界で地獄を経験するのかもしれない。ちなみに、快川和尚の「心頭滅却すれば火もまた涼し」のAIの回答は以下である。



『「心頭滅却すれば火もまた涼し」は、中国宋代の詩「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼」に由来し、日本では戦国期に武田信玄ゆかりの禅僧・快川紹喜が織田軍に焼き討ちされる際の辞世として唱えた言葉とされます。心を無にすれば、外界の苦痛さえ動じないという禅的境地を表します。(excite.co.jp)

成り立ちと原典
原型は中国・宋代の詩句
「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼」という句に由来します。(excite.co.jp)
「静かな修行には山水は必須でない。心の妄念を滅すれば、火も自然と涼しく感じられる」という意味です。(excite.co.jp)

日本での由来と快川紹喜
戦国時代の臨済宗の高僧・快川紹喜(かいせん じょうき)が広めたとされます。(music.amazon.co.jp)
彼は武田信玄の保護を受け、甲斐の恵林寺住職でした。(hotokami.jp)
天正10年、織田軍により恵林寺が焼き討ちされた際、炎の中でこの句を唱えたという伝承があります。(music.amazon.co.jp)

本来の意味と現代的な解釈
本来は 「心の迷いを断ち切れば、どんな苦難も苦難でなくなる」 という禅語です。(excite.co.jp)
現代では「気の持ちようで辛さも和らぐ」といった意味で、暑さや困難を我慢する比喩として広く使われています。(chigau-mikata.club)
関連する場所・文化的な広がり
山梨県甲州市の恵林寺は、この言葉の寺として知られ、山門などに句が掲げられています。(hotokami.jp)
岐阜県笠松町では、快川紹喜を郷土の偉人として紹介し、この言葉の由来を解説しています。(town.kasamatsu.gifu.jp)
小説・漫画・ドラマ、さらには楽曲や商品コピーなどにも頻繁に引用され、日常語として定着しています。(ynu.ac.jp)

注意点と誤解されやすい点
実際に「火が涼しくなる」わけではなく、心の在り方を説く比喩表現です。(ynu.ac.jp)
快川紹喜が本当に炎の中でこの句を唱えたかは、史実というより後世の脚色を含む可能性があります。(excite.co.jp)
「我慢を強いる標語」として乱用されることもありますが、本来は主体的な心の修行を指す言葉です。(ynu.ac.jp)』

このように、 「心の迷いを断ち切れば、どんな苦難も苦難でなくなる」 という仏教の世界では、地獄とは簡単にいえば、現世なのである。といっても、現世での物質界ではなく、その物質を映し操作している、現世での心の世界のことなのである。

神智学では、自分の肉体をつくっている、つまり映し出しているのが、松果体の物質部分といわれ、松果体は、この物質部分と霊的な部分に分かれ、霊的部分をアストラルセンターと呼び、別名、第三の目とも呼ばれ、霊魂が、このアストラルセンターを通じて、霊界、心界、四次元界、物界の4つの世界を、地上に表現していると解き明かしている。

そして、この物質部分を古代ヘブライの神秘派では不壊不滅の骨と呼び、キリスト教では、種子とか、白骨とか呼んでいる。古代では、この松果体の不滅の骨を、四界の地上での表現として、十字架で示し、そしてその能力を卍で示したようである。

キリスト教のお墓が白い石の十字架なのは、この不滅の骨を表していて、ヨハネの黙示録により、最後の審判のときには、この不滅の骨から、キリストのように、死者が蘇ると伝承されている。この不滅の骨がキリストの白い鳩であり、別名フェニックスと呼ばれ、人智学では、人間の将来の肉体の生殖器となる喉頭と預言されている。そのような話を最近お馴染みの「人智学らぼ」が動画で解説しているので以下に紹介する。

フーゴー・ヴォルフの朗唱性とシュタイナーの霊学的進化論 / オイリュトミー


というのも、人間が現世でどれだけ心を浄化したかで、この不滅骨から、肉体が再現されるからである。以前紹介したホログラフィー理論でいう、ホログラムと考えればわかるかもしれない。


さて、心の迷いとは、現世で生まれる執着心に他ならないといったのが、お釈迦さんだが、それはこの世で生まれる金銭欲や名誉欲や虚栄心などの欲望を捨てるために生まれてきたのに、かえってそれに囚われるから、ますます迷ってしまうわけなのである。

例えば、二日酔いの酔っぱらいがもう酒はやめようと決心したのに、次の日にまた飲んで酔っ払ってしまうのが、その地獄の世界を端的に表現した、つまり、後悔先に立たずなのである。このような欲望に囚われてしまうとついには、そこから離れなくなってしまう。このような心のいわば停滞というか、泥沼の状況を無間地獄と呼んでいるのかもしれない。自分で自分を痛めつけるのがやめられない状態といえるかもしれない。

このような仏教の心の話からもわかるが、唯物論では間違って伝承されているので、先に紹介した番組の、源信の往生要集から解説した地獄の話を、オカルトの知識から、間違った解釈を少し訂正して紹介する。

この番組でもほとんどの人が地獄に行くと解説していたが、これはオカルトの知識からも正しく、アデプトやアバターやマスターなどの、既に現世を卒業した霊魂、仏教では仏様と呼んでいるが、それ以外に修行が必要な霊魂は、死後に地獄に行って、現世での執着によるトラウマ体験を、つまり穢れた霊魂を洗い流す必要があるからである。

人智学では、欲界とか、カマローカとかと呼んでいる。というのも、肉体を失ったら味わえない五感を味わいたい欲望が残っているからである。例えば、生前に好んだ食べ物が、食べたいのに、食べられないわけで、だから食べたいと思うほど、食べられないから苦しむわけなのである。だから逆に生前に食べなくても生きられた霊魂は、そもそも食欲がないので、死後、ここをすんなり通過できるわけなのである。

ちなみに、あの世には時間がなく、例えば、この世では時間によって、進退などが区分けされるが、あの世では、逆で、霊魂の成長などの進退の度合いによって、時間が区分けされているという。だから霊魂の成長度合いで、共有することになるので、似た霊魂同士が集まって類魂になっているらしい。この似た者同士が集まるのを、霊魂の結婚と呼んでいるようである。

現世でも、肉体の外見で結ばれるのではなく、霊魂の成長度合いで結ばれるのは、ある意味、霊魂の結婚ともいえるが、そもそも霊魂は両性具有なので、性差がないから、性差の反映である肉体を求めるはずがなく、地上での結婚は意味をなさない。

つまり、霊魂の結婚とは、純粋な意味で、霊魂の成長を共にする仲間のような関係で、それを地上の関係に適用したのが、フリーメーソンの友愛の関係といえるかもしれない。ただしメーソンリーは肉体の上で男性に拘る点で、地上的に偏向している。勘違いしやすいのが昨今の退廃的な同性愛的な友愛だが、そもそも両性具有が正常なので、一方の性にだけに執着するのだから異常といえるし、悪魔的崇拝である。

男女の異性に拘らない精神的な友愛は正しいが、肉体関係や片方の異性だけに拘るのは異常なのである。そもそも地上での結婚を求めるのは両性具有への回帰のための修行ならわかるが、一方の性への執着であるなら、相手の精神的自由を拘束するわけで、倒錯の欲望にすぎない。

とりあえず地獄の話に戻すと、執着心を持つ霊魂のほとんどが、死後に欲界と呼ばれる地獄に行く。霊魂は天国の光を求めるために、自らの執着心となっている闇を取り払わないと気持ちが悪い。医学では博士課程を足の先についた米粒と喩える話があるが、そんなようななんか気持ちが悪いというか、とるのが当たり前のような、つまり有体に言えば、バランスを失っている状態にある。

先に紹介した番組の地獄の話では、双六のように解説していたが、まず死後に三人組の鬼が迎えにくると紹介されていたが、これは人智学でいうところの肉体と、エーテル体と、アストラル体が奪われるのを表現したものだろう。

人智学では肉体の死後に、肉体から、エーテル体やアストラル体や自我が離れ、特にエーテル体が肉体から離れるときに、死から誕生にむかって逆向きに走馬灯のように生前の人生を振り返るという。このエーテル体による人生の逆向きの映像をみることで、自分の霊魂の成長を振り返り、他の霊魂との再会や別れとやりとりを振り返るわけである。この過程を地上に表現したのが通夜と葬式であろう。通夜は肉体との別れで、葬式はエーテル体との別れといえるだろう。

先の番組の解説では、極悪人には火の車での迎いがくると紹介されていたが、それは特別執着心が強く、欲望の強い霊魂は、その欲望は自らを焼く火になるので、肉体を失うときに、あまりに霊魂の感覚が肉体に近いので、特に唯物論などの無神論に陥った霊魂には、闇に囚われているので、闇のなかで、肉体を失うので、まるで皮膚を剥がされたような物質的感覚から、自らの欲望に焼かれる感覚が生まれると考えられる。特に物質的感覚で人を傷つけたような霊魂は、この闇のなかの火で焼かれるようになるだろう。例えば、金銭を貯めるのが何より好んだ人などはそれが失われるので、物質的な感覚から、絶望の淵に追いやられるわけである。

対照的に、聖人君子のような人は、天国からお迎えがくると解説されていたが、これは本来地球で修行する必要のなく、いわば教師として天国から派遣されたアデプトやアバター、そしてマスターなどの霊魂で、そもそも肉体の欲望や執着心がないので、地獄に行って禊をする必要がないから、天国に帰って次の任務に向かうものと、オカルト知識で、解釈される。このような観点から、以前紹介したが、ローゼンクロイツと仏陀が相談して、仏陀が火星人を指導するために火星に派遣されたわけなのである。その話の動画が以下である。

ブッダの火星への派遣・クリスチャン・ローゼンクロイツの宇宙戦略 - YouTube


さて、死後に、エーテル体の映写機で走馬灯の人生映画をみたあとで、今度は、アストラル体の感覚映画をみる。それは、先の番組では、死出の山と呼ばれる、いわば岩が剣のように突き立ったムシロの山を登ることになるのだが、これは譬えで、人智学では、人生で自分が他人に与えた苦しみなどを、その他人になりかわって、つまり主客逆転して、その感覚を体験すると解き明かされている。自分の欲望故に他人に与えた苦痛や苦悩などを、他人に成り代わって体験するので、しかもその感覚は、肉体とエーテル体を失っているので、その三倍増しで体験するという。

だから虐待などをすれば、それが三倍増しで、この死後にかえってくるわけで、半沢直樹の倍返しどころではない三倍返しのブーメランなのである。それぐらいの苦痛を味わわないと霊魂が学べないからである。先の番組では、お葬式での草鞋や足袋や食べ物をお供えするための線香の供養などにより、この三倍返しの地獄の苦痛が和らぐと解説していたが、それは方便で、それは死者が生前に他者に対して与えた愛情など親切心も返ってくるのをそのように表現したと考えられる。

大抵の人は他者に愛情や親切などより悪口などの苦痛を与えているので、死出の山というわけなのである。なお自分が死後にこのような感覚を味わいたいからわざわざお仕着せの親切など偽善行為をすれば、それらは見透かされているので、相手から有難迷惑の感覚でかえってくるわけである。

それから先の番組では、三途の川を渡るのを解説していたが、それは善人、悪人、普通人の三つの橋を渡るもので、六文銭を必要と紹介していた。これが恐らく、人智学でいうところの、アストラル体での、感覚魂、悟性魂、意識魂のことで、それらのアストラル体をどれだけ成長させ開発させたかで、善人は3つ、普通人は2つ、悪人は1つという意味と考えられる。六文銭が何を意味するのかオカルト知識では今のところ定かではないが、恐らく六芒星を表わすのかもしれない。

というのも六芒星はアストラル体の象徴図だからである。「ろくぼうせい」が、「ろくもんせん」に誤って伝わった可能性がある。六芒星は別名ソロモンの紋章で、悪霊を退散させる封印図なのである。六文銭は真田家で有名だが、六芒星が間違って伝承されたのだろう。いずれにしろ、六芒星はアストラル体、つまり心の世界を表し、それは六次元で表わせられる。

六次元のアストラル心界を渡りきると、先の番組では、いよいよ死後の裁判が紹介されていたが、人智学により、これは前世からの全ての人生についての自我の裁判と解される。7×7=49日で、俗に49日と仏教では呼ばれているが、この日は時間の日にちではなく、神のデウスの「日」である。だから、7柱と7柱の49柱の神々により裁判を受けると考えられる。

神智学では現代人の霊魂は約一万回の輪廻転生をしてきたと考えられるので、一万回に際しての前世からのカルマの解消具合などが審査されるわけだろう。先の番組では、閻魔大王にあらかじめお参りして通行手形をもらい、過去の行いを懺悔すれば、裁判で地獄に堕ちるのが赦される裏技を紹介していたが、これらは勿論、現世で訪問しても何の御利益もなく無意味で、かえって罰が当たるはずだが、このオカルト的な意味は、閻魔大王とは、過去の全ての前世からのカルマにより生じた自らの霊魂の生き写しなので、別名ドッペルゲンガーと呼ばれている。

つまり、この閻魔大王とは、自分の過去の醜い心が残してきた過去の清算すべきツケの総体なのである。だから、自分がもつネガティヴな想念の総体なのである。自分の悪魔的な心で、執着心の総体ともいえる。この閻魔大王を千手観音のように変化させるのが、現世の課題なのである。

バカリズム氏がタイムリープもので、「ブラッシュアップライフ」というドラマをつくったが、この徳を積むやり直しが、人生のそっくりそのままのやり直しではなく、徳の積み具合に応じて、舞台をいわばリセットして人物をコンバートして新しい転生でやり直すわけなのである。勿論前世の記憶も失ってである。

だから閻魔大王は自分がした罪の生き写しなのである。この閻魔大王をみて、次の転生先が、つまりどのパラレルワールドに行くか、自分で決めるのである。地球でやり直しするか、地球を卒業して、金星に行くかは、貴方次第の、閻魔大王の過去の罪をみて、感じるか、感じないかなのである。閻魔大王が菩薩や如来のような美しい心になるかどうかは貴方次第なのである。





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Last updated  2026年04月17日 04時57分16秒
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