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この前、彼女の実家の山形県まで行ってきました。初めてご両親に挨拶に。彼女のお父さんはお寺の住職。住職しながら市議会議員もやってる大変お偉いかたです。お父さんが市議会議員をやってるということで、山形へ行く前に鶴岡の情報をなるべく得ておこうと思い、市のHPを見ました。山形って藤沢修平の出身地だったんだね。武士の一分を見ておかないとな。なんて思いながらHP見てたら、なんと、お父さんが議会で市長に物申している動画を発見してしまった。。。ああ、こんな立派な方に挨拶に行くのか~って、前日からかなり緊張した。日帰りなので、新幹線で朝早くから山形へ。今年は暖冬のせいか、一月の山形だというのに雪がまったく積ってなかった。異常気象の影響かしら。正午、駅降りてすぐに、ご両親登場!迎えに来てたなんて聞いてないっすよ~TTかなり、不意打ちでした。ぎこちなくも簡単に挨拶して、お父さんの車に乗り込む。昼食は名物の三元豚を食べさせてやるということで、豚カツ屋へ。緊張してたけれども、三元豚は肉が柔らかくてジューシーでした。昼食後、たまたまお祭りがやってるというので、商店街の方へ。寒ブリのお祭りだそうで、寒ブリの味噌汁をおいしく頂きました。しばらくお祭りを回ったあと、いよいよ彼女の実家へ向かう。ほんとにお寺だし。。。居間に通され、世間話をしつつ、家で飼われてる肥満ビーグルと戯れつつ、いよいよ本題へ。・結婚を考えてるということ・子を授かったということ・どんな事情にしろ、新しく生まれてくる命を喜びをもって迎えてあげたいということ以上3点を伝えました。・二人は大人なわけだし、特に親がとやかく口を出す必要はない。・最初は大変だろうけど、応援するから頑張れ。・交通費は心配しなくていいからちょくちょく山形には来てほしいという言葉を賜りました。お父さんしばらくしたら、トイレに立って10分くらい戻りませんでした。娘曰く、お父さん泣いてたようですね^^;二人姉妹の姉は昨年結婚し、娘はいきなり来た男に結婚させてくれと言われれば、そりゃあね^^;その後、お義父さんにお寺を見せてもらいましました。なんだか、禅宗のお坊さんっていいなあって思ってしまいました。跡継ぎが居ないらしいし。弓禅一致というしね。でも副業がないと生活できなさそうな。。。ま、坊さんはともかく、最初は緊張したけど、いざ面と向かうと開き直れるもんですな。最終的には彼女の両親に(犬にも)理解を頂けたようでした。帰りは安心したせいか、一気に疲れて、帰りの新幹線はしばらく放心してました。。。
2007.01.29
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そんなわけで、年明けから、ここしばらくかなりバタバタです。彼女の両親に挨拶に山形行ったり、引越しの準備をしたり、婚姻届を書いたり、新たに生まれてきてくれる生命の名前を考えたり。。。そんなわけなんです^^;どうかお察しくださいませ~。本当に、ほんとうに、母も子も元気でありますように。そんな祈るような気持ちでいっぱいな今日この頃です。
2007.01.28
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「生命の報告」「私が生きる」ということは、単純に「私」という個体が存在するということではなく、私が生きているという事実を、私も他人も了解している、そのような非対称的な相互了解の〈場所〉を生きている、ということだ。「哲学」というものが、「いま生きている」ということの報告(レポート)であるとするならば、それは、この個体としての「私」が於いてある〈場所〉についてを報告することになると思う。「私が私として生きている」という自覚が、「私が〈場所〉として生きている」という自覚の変遷を報告することなのだと思う。例えば、弓を引くことの目的、弓道習練の目的は、「私が弓を引く」という自覚から、「〈場所〉に於いて矢が放たれる(離れる)」という自覚へと発展することなのだと思う。「私」という作為的主体が、弓や、的や、身体や、射法や、道場や、他者の視線や、自分の中っ気をも含み込んだ〈場所〉へと邂合すること。そこにしか〈離れ〉は生じないんだろう。〈離れ〉は矢が射手から「離れる」ことや、弦から手が「離れる」ことではあるのだけど、ほとんどの弓道経験者なら「私が私から〈離れる〉」という読み方をすることは困難ではないはずだ。これはまったく神秘的な体験などではなくて、事実の報告である。ただそれが科学論的・唯物論的な報告ではなく、哲学的な報告であるということだけは留意してもらいたい。私が私から離れるということは、私が私自身をも含み込んだ〈場所〉として自己了解(自覚)をすることだ。周囲の期待を背負いながら、自分自身の中っ気を捨て切れないのは、まだまだ場所的な自覚が不十分だからだ。周囲の期待を了解すればするほど、「私」の個人的欲望は〈場所〉へと普遍化(昇華)していくはずだ。中っ気は、弓を引くことへの自己了解の不十分から生じる葛藤だ。〈場所〉を了解するということは、自らの欲動、想いがどこからやってくるのかを明確にする。それが私個人に於ける、主観的な思い込みの欲望に過ぎないのか、客観的に場所的な把握をした上での使命感であるのか。「頭が良い」とは、「場違いでない」とは、「現実を良く解っている」ということは〈場所〉な了解ができているという事だ。私という生命が、私一人寄がりでないということだ。いや、本当は私という場所は他人の場所に直接アクセスすることはできないし、人間の生命は十分に一人寄がりなのだけど、その「一人寄がり」という言葉の意味を逆説的にも含み込んだ言語ゲームの成立する事実が、この〈場所〉を一人寄がりにはさせてない。
2007.01.08
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いやあ、お正月グータラしてたらもう4日ですなあ。早っ。皆さんは今年の目標や予定を立てて、今年も頑張ろうという初心を抱いたことと思います。でも、この「初心」というやつ、なかなか持続が難しいんだよなあ。このお正月の「初心」と同じくらい力強い気持ちが、一年365日持続したら誰でも自分の夢が叶っちゃうんだろうね。初心を忘れない為に、年末に買ったばかりの新しい手帳に夢(初心)を書き込んで、それを日々開くことで初心に抱いた強い気持ちを思い出す、ってのはこの時期やってる方多いんでしょうな。昨年の自分もそうでやんした。でも、その「毎日手帳を開く」ってことが、昨年は半年くらいまでしか続かなかったなあ。忙しさにかまけて、手帳の使い方がだんだんとルーズになってしまっていた。。。手帳が使えなくなったのは、「仕事用」と、「プライベート用」とで二冊も手帳を使っていたからだろうな。スケジュール写すのがかなりめんどかった。(そしてスケジュール分刻みで埋まるほどの仕事もなかったし。。。)齋藤孝が、「手帳を見ているとけっこう精神衛生にいい。追い込まれていても、手帳を見ることで整理できる。もし手帳なしで生活していたら、脳が混乱して、ものすごいストレスに陥っていただろう」(ちくま文庫『段取り力』227P)と述べている。齋藤孝は手帳がなければストレスになる生活を送ってるんですな。それは、この人が忙しすぎて、自分の頭だけで管理できるようなスケジュールを生活してないからなんだろうな。まあ、凄まじい勢いで年に何冊も本出しまくってるしね。時間に追われてキリキリ、イライラ生活するのは嫌だ。時間(スケジュール)を追っかけながら、どこかに余裕の眼差しをもって生活にあたりたい、ってのは多くの人が考えることじゃないだろうか。「手帳を見ているとけっこう精神衛生にいい」ってのは本当にその通りで、スケジューリングができて、自分の思うとおりに生活できてるって実感が得られるのもそうだし、やはり最初に述べた、「夢」とか「初心」ってのを思い出せるからなんだよねえ。これは精神衛生上良いと思う。「スケジュール」や「夢」を管理できる手帳を持つ、ということはどうゆうことかをここで考えてみる。「時間」というのは、よく「意思」とか「意識」とか「主観」の形式に読み替えられる。人間の意識は時間的にできている。過去と未来とが現在という矛盾点にて現在している。だから時間というのは、カレンダーや時計のように数字だけで表現できる客観的な時間だけでは成り立たない。時間の本来とは、現在にテーマ性や意味を付与する。それが意思と呼ばれたり、意識と呼ばれたり、人格と呼ばれたりする。例えば、一週間のスケジュールを考えるとする。仕事の後に2時間の自由時間が生じたとする。その時間を読書に充てるとする。そして、その時間に読書をした。時間管理というのは、これだけでは十分ではないと思う。スケジュールを消化することに満足するのではなく、時間を濃密な質で過ごすというところに満足しなければいけない。これでは数字的な管理であって、意思の管理、意識の管理ではないと思う。数字の管理の前には、やはりそれをするための目的や理念が必要になってくる。でなければロボットになってしまう。例えば何時から何時の間に読書をすると決めておいても、意識にテーマ性がなければ、その本から得られるものは少ないのではないだろうか。テーマ性を持った読書というのは、そこで得る情報を具体的に「この仕事に活かす」とか「この論文で使う」とかいう意識のことだ。仕事をした直後になかなか哲学の本は頭に入ってこない。それはテーマの切り替え、人格の切り替えがうまくいっていないからだと思う。疲れてたりすると、ボーっとテレビに見入っていたり、漫画を読んでたりしてしまう。ボーっとするのはまあ仕方のないことだし、生活に最低限必要なことだ。でもせっかく我々は手帳という凄いアイテムを持ってるんだから、ボーっとするのは最低限にして、なるべく能動的に生きていきたい。だから、「睡眠時間は何時間で、何時から何時まで本をよんで」というように単純に数字でぶった切るような時間管理をする前に、まずは生活のテーマを明確に持ちたい。仕事、勉強、遊び、人付き合い等、様々なテーマが我々の生活に複合的に走っているはずだ。そして、それら複合的に絡み合うテーマのラインは、辿っていくとどこかで大きな共通点に繋がっているはず。だから、その共通点を見つけること、そしてそれぞれ時間的に複雑に絡み合うのテーマの比重と、メリハリを手帳でハッキリとさせる必要がある。手帳を開き、生活を俯瞰するということは、非常に哲学的な行為であると思う。「私」を超えて〈私〉を考えること「意識」を超えて〈意識〉を考えること。「時間」を超えて〈時間〉を考えること。「生活」を超えて〈生活〉を考えること。手帳を携えて生活することは、哲学を携えているようなものじゃあないか。今年から僕のサラリーマン生活が本格化します。手帳で何とか哲学と仕事を結び付けられますように。仕事をすること、哲学をすること、弓を引くこと、生きることが一つのことでありますように。
2007.01.04
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