四方山話に夜が更ける

四方山話に夜が更ける

June 19, 2008
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カテゴリ: 恋愛小説

 新宿の街は横浜とはずいぶん違う。高いビルが並ぶオフィス街とデパートなどの商業

 施設と歓楽街が微妙な距離でひとつの大きな街を造っている。スーツ姿のサラリーマン

 やOLたちも、買い物に来た主婦たちも、流行のファッションに身を包んだ人たちも、

 そのほとんどがこの街以外のほかの街から新宿という不思議な街に吸い寄せられて

 やってくる。歌舞伎町付近を歩きながら、信号が青になると大きな交差点を渡る数え

 切れない人たちの波は、いったいどこからやってきてどこへ消えていくのだろうかと

 思う。

  人の溢れる通りから、小さな路地に一歩曲がると、住宅地は街の賑わいから取り

 残されたように古い家やアパートが目に付くことがある。私が住むことになったアパート

 もそんな場所にあって、築30年以上は経っていると聞いた。モルタルで塗られた二階

 建ての安アパートには、予想外に私と同年代の人が多く住んでいて、古めかしい外観と

 合わないほど厳ついジャケットに重そうなシルバーのアクセサリーを身につけた青年が

 住んでいることも知った。アパートの周辺にある夜の店は、新宿の繁華街にある

 きらびやかなネオンで人を呼び込む店とは違う。ひと目を避けるように灯りを点し、

 木製扉の飲み屋は横浜のドルチェよりさらに胡散臭く感じられた。

  繁華街の中で、カフェやレストランや居酒屋のチェーン店にアルバイト先を求めては

 みたが、明るく元気に振舞う店員たちの顔をみると、そこで働く決心がつかなかった。

 いくら安いアパートに入ったからといっても、アルバイトなしでは私の生活は成り立た

 ない。新宿に越してほどなく、私は横浜ののどかな雰囲気が恋しくなった。

  けれど、何もないところから始めた新しい生活は、私にとっては悪いことばかりでは

 ない。制服を脱ぎ捨てると、何かに縛られていた感覚は嘘のようになくなり、自由に

 なった私は、孤独と隣り合わせの雑踏の街でひとりの時間の楽しみ方を覚えていった。

 初めは、この街では人々はいったいどんな風に暮らしているのだろうと不思議に

 感じたりもしたが、慣れてくれば近くの八百屋がやっている惣菜の店や肉屋のコロッケ

 がとても美味しいと言うことを覚えた。街を行く人も、道端で汗を流して働いている人も、

 幾分急いでいるようにも思えたが、一度そのスピードの波から一歩離れて眺める方法を

 覚えると、雑踏は遠くで聞こえる波のように感じられるようになったし、近所の人たちとの

 挨拶も抵抗なく交わせるようになった。

  そして、程なく私は新しい居場所を見つけた。古いマンションの一階部分にあるその

 小さな写真館だった。表のウインドウに子供の七五三の写真や成人式の振袖姿の女性

 の写真が飾られている。新宿駅から少し離れた場所にあるその写真館は、いくらか

 東京の下町的な感じがするが、私がそこを新しい居場所にしたいと思ったのはその

 外観を見たからではなく、ガラス窓から店内に置かれている家具たちが見えたからだ。

 入り口に二脚置かれた椅子のひとつは深緑、もうひとつは茶色の皮が施されたデスク

 チェアで、別々のデザインだったけれど、どちらも年季が入っていて美しい。奥の

 スクリーンの前にセットされたアンティーク風のベンチも、背もたれが控えめにカーブを

 描いた上品なシルエットを描いていた。アルバイトの募集はしていなかったけれど、

 ドルチェで前島に声をかけた時と同じように、店内に進んで歳のいったひとりの女性に

 声をかけた。

 「すみません。私、ここで働かせていただけませんか」

 白髪の女性は私の顔をしげしげと見つめている。

 「急に入ってきて働きたいだなんて。うちは人を雇うほど忙しい店じゃないのよ」

 「仕事は何でもいいんです。電話番でも、お客さんの応対でも」

 「そう言われてもねぇ。あなた学生さん?」

 「はい、4月から写真を勉強します」

 「あらいやだ。ここじゃ、なんにも学べないわよ」

 「いえ、そうじゃなくて・・・。ここで働けたらいいなって思って・・・」

 「ふーん、変わった子ねぇ。そうね、一応といっては何だけど、履歴書は見させてもらおうかしら」

                                                 つづく






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Last updated  June 19, 2008 11:51:36 AM
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