全27件 (27件中 1-27件目)
1
映画「碁盤斬り」を観た。最初は藤沢周平の原作かと思ったが違った。しかし、凛とした武士、人情あふれる町人など、かなり藤沢作品の雰囲気に似ている。江戸時代に賭け碁がそんなにさかんに行われていたのだろうかとか、浪人が篆刻などでそう簡単に暮らせたのだろうかとか、いろいろと疑問はあるのだが、時代劇としてはなかなかの佳作だと思う。日本映画が外国で賞をとったというニュースも聞くが、こうした作品こそ外国に知られれば日本文化の理解の助けになるのではないか。ただ、難をいえば主人公は格好いいといえば恰好いいのだが、偏屈にしかみえず、いまいち心理がわかりにくい。碁盤を斬ったのは二度と碁を打たないという表現なのだが、なぜそうした決心をしたのかは様々に解釈できる。かっての仕官時代の行状についての迷いや旦那とのわだかまりなど、いろいろと考えられる。碁について全く知らなくても、映画を楽しむのには支障はない。また、映画の中にでてきた祭りの舞や吉原の狐舞などもなかなかの見もので、保存会があるのかと思い、エンドロールをみていたがそれらしいものはでてこなかった。過疎化がすすむとともに、全国のあちこちで祭りが消えているという。祭りが消えていくということは、その祭りにつきものの芸能もある。こうしたものについて、映像等で保存するという試みは必要なのかもしれない。もうすでに行われているのかもしれないけれども。
2024年05月31日
コメント(0)
世の中には言ってはいけないことがある。正確にはどこかでは言われているのだが、大きな声では言われていないということである。その一つ。人種によって知能の差があるという事実。人種によって脳容量に差異のあることは医学的に明らかになっているし、オリンピックやスポーツ国際大会を見れば人種によって運動能力に差のあることは多くの人が認める。それが知能となると、人種による差は大きな声では語られず、経済的背景や教育制度のせいになるのは不思議である。本書では、その「言ってはならない」人種による知能の差にかなりのスペースをさいている。内容はまあ、予想どおりなのだが、ただ、この人種の差というのは、あくまでも統計的な差異であるので、具体的に〇人種に属している誰かさんが△人種に属している誰かさんより、知的レベルが高いということはないのだし、数多くの天才的頭脳を輩出して学術の発展に貢献した民族があったとしても、その民族に属する任意の誰かさんが偉いということには全然ならないということはもちろんである。人種による知能の差があったとしても、それはヘイトを容認するものではない。次に男女による知能の差。これはどっちが優れているかではなく、一つは分散の違い、もう一つは分野の違いである。分散の違いというのは、あまり異論ないのではないか。要は極端なりこうとバカは男に多く、女は平均への集中が高いということである。ノーベル賞受賞者と犯罪者はいずれも男が多いが、これは女が差別されているわけでもなければ、男が差別されているわけでもない。また、男は空間的認知能力が高く、女は言語的能力が高いともいう。これも統計的傾向であり、個々人にそのままあてはまるわけではない。だから、理系に進む女性が少ないのをすべて昭和脳的偏見のせいにして、女子学生を入試で優遇するような動きはゆきすぎではないか。こうした人種による差異は知能だけではなくセトロニン濃度にもみられ、これが少ないほど真面目、几帳面、悲観的になりやすいという。東アジアでは、セトロニン濃度が遺伝的に低いという。もし、これが本当だとしたら、昨今、東アジアで特に少子化傾向が進んでいることも、これが背景にあるのかもしれない。悲観的かつ真面目だから教育熱心となり、教育費の負担も高く、受験競争も全員参加の激烈なものになりやすい。ケセラセラで愛する者同士一緒になって子供を無計画につくるなどもってのほか、きちんと結婚して良い子を生まないと家名の恥になる。こういう社会ではたしかに子供はなかなか生まれないだろう。
2024年05月29日
コメント(0)
酸っぱい葡萄や尻尾をなくした狐などイソップ童話には人間心理の機微をついたものが多い。そうした心理は心理学的にも定説になっているようだが、こんなのはどうだろうか。目の前に、まずそうな葡萄と小さい胡桃があったとする。まあ、ものの喩えなので、とりあえず葡萄と胡桃とする。狐は葡萄か胡桃を選ばなければならない。その葡萄はたしかにおいしくないのだが、胡桃も小さくてまずそうだ。食べたこともない胡桃よりは、まずくても我慢できる葡萄の方がましかもしれない。それに、その前に食べたりんごは全くの不良品だったし、それを思えば、この葡萄でもまあいいや…と思っていた。ところが狐はこの葡萄の隣に、さらに別に種類の同じようなまずそうな葡萄があるのに気付いた。ああ、似たようなまずそうな葡萄、どっちもどっちじゃないか、なぜ選ばなければならない。そう思ったとたんに、狐の目には、今まで選択外と思っていた小さな胡桃が魅力的に見えだす。これを心理学的に「どっちもどっち効果」という。積極的に選択したくないもの二つの選択を迫られた場合には、その二つとは異質な第三の選択肢が急に魅力的に見えてくる心理的効果。こうしたことってあるのだろうか。門外漢なのでよくわからないが…。
2024年05月28日
コメント(11)
「書道教授」を読んだ。題名にある書道教授というのは主人公の銀行員が書道を習っている女性であり、年増だが奥ゆかしい魅力をたたえている。主人公には見合いで結婚した妻がおり、古本屋の色っぽい女房も気になり、さらに、その古本屋の女房に似た雰囲気のホステスとも親しくなっていく。このホステスがとんでもない疫病神で、主人公にしがみつき、次々と金をねだり、しまいには妻の実家から金を出してもらうことまで要求をする。よくある火遊びのつもりが深みにはまっていくというパターンなのだが、窮地に陥っていくいく状況は哀れでこっけいでもある。結局のところ、これは成功したかにみえた完全犯罪が破綻を迎えるという物語なのだが、冒頭にでてきた流行っていない呉服店の謎も回収されており、ややご都合主義にも見える点も気にならない。主人公の銀行員はどこまでも平凡な人間であり、こうした平凡な人間の平凡な日常と、犯罪とが地続きになっている分、ちょっと怖さがある。主人公をとりまく女性で一番活躍するのは前半ではホステス、後半では妻で、題名になっている書道教授の女性の出番はさほど多くないのだが、この女性こそが最も不思議な魅力を放っているようにみえる。この小説は「松本清張傑作短編コレクション」に収録されているが、他に収録されている短編の中には以前に読んだものも、いくつかある。ただ、一度読んだものでも、全く記憶に残っていないものと、逆に強烈な印象を残すものとがあるのが面白い。「巻頭句の女」は薄幸な女が強烈な印象を残すのだが、「カルネアディスの舟板」は読んだはずなのだが、ほとんど記憶になかった。いずれも面白い小説であることには違いない。
2024年05月27日
コメント(2)
教員のわいせつ事件の公判で県教委の職員が傍聴席を埋め尽くしたことが問題視されている。県教委側は被害者のプライバシーを守るためと言っているという。もちろん言い訳であろう。教員の不祥事を知られたくないために、一般人が傍聴できないようにした。しかし、それをわいせつ事件の被害者側からみたらどうだろう。たしかに公判では被害者の氏名そのものはでてこないかもしれない。しかし、地域、状況、例えば〇〇部の顧問の△△がボール置き場で…とかなんちゃらと出てきたら、どこそこの何という中学校で被害者は何とか部の部員だったとかいったことくらいは推察される。被害者からすれば、そんな裁判が公開されて、不特定多数、中には暇をもてあましている噂好きで暇をもてあましている近所のおしゃべりおばさんもいるかもしれない…が傍聴すること自体悪夢ではないのだろうか。もしも、自分が被害者やその家族だったら、傍聴席を職員で埋め尽くした教委の判断には感謝こそすれ、恨む気持ちはまったくおきないだろう。裁判の公開と言うのは、権力者の不正や長い歴史のはてに裁判の公正性を保持するための大原則として確立したものだが、一方で被害者の人権を守ることも必要であろう。「被害者のプライバシー」が不祥事を隠ぺいしたい組織の言い訳になってしまう現状こそ、実は問題ではないか。
2024年05月26日
コメント(0)
ときどきしか見ていなかったのだが「地上の星」という人気番組があった。テーマの多くは戦後の復興を支えた技術者達を描いたものだ。戦争中、理系学生は徴兵を猶予されたという。地上の星達の中には、そうして戦場行きを免れた人々もいたのではないか。しかし、そうした人材の温存がなければ、戦後の復興はなかったし、ジャパンアズナンバーワンなどという時代も来なかった。また、製品や新技術の開発には多くの人々の協力がいる。並外れた頭脳が一人いればいいというわけではなく、その下には何人もの補助者がいる。ごく少数の一等星だけではなく、二等星以下の星も輝くから夜空は美しい。戦争中、理系学生には徴兵猶予の制度があり、それだけが理由ではないにしても、理系を目指す少年が多かったのではないか。戦争が終わった時には、日本には厚い技術系の人材層があった。奨学金の充実とか、少子化対策の一環として教育費支援という議論があるさ中、なぜか国立大学の授業料については値上げの動きがある。理解できないことだ。某私大の学長は負担できるところは負担してもらう…と言っているようだが、おそらくここで念頭においているのは学生本人ではなくて親と言うことだろう。成人の大学生の授業料の議論に親の収入を持ち出すおかしさをわかっていない。どうしても、国立大学の授業料を上げるのだとしても、理科系学部の授業料だけは据え置きにするか、できればもっと下げるべきではないのだろうか。国立大学の授業料を上げるなどは、国力を衰退させる愚策としか思えない。
2024年05月24日
コメント(16)
小田急線の下北沢から一駅のところに世田谷代田の駅がある。繁華街下北沢の隣の小さな駅と言う印象しかなかったのだが、所用があって行って見ると、このあたりの線路は地下化され、立派な地下駅となっていたので驚いた。さらに、駅前に出てみると、ここはちょうど西に開けた高台になっていて見晴らしがよいのに驚く。東京で富士山というと、今では高層ビルの展望室でしか見られないとおもっていたが、ここからなら普通に富士山を望むことができる。そのせいだろうけど、環状七号線をまたぐ陸橋は冨士見橋といい、北沢八幡には富士塚がある。もっともこの富士塚は登ることはできないのだが、富士山の溶岩をもってきており、傍には富士山が見えるというスポットもある。このあたりには戦前から多くの文士が移り住んでおり、北沢川を暗渠とした後の緑道は文学の小路という名称がついている。文士を引き寄せたのは小田急の開業だったのだろうけど、武蔵野の面影と富士山や丹沢の山々を望む高台の眺望も魅力的だったのだろう。世田谷代田は、今でも、かなりの高級住宅街のようであるが、やはりところどころ空き地となっているところもある。たぶん今の金持ちは閑静な住宅街で一戸建ての豪邸に住むよりは、何かと便利なタワマンの方を好むのではないか。なお、世田谷代田の代田という地名はダイダラボッチの伝説に由来するという説もあるらしい。今の建物に覆われた光景からは想像しにくいが、かつてはこのあたりは武蔵野の野で地形の凹凸はいまよりもはるかに意識されていた。目立つ形の窪地があればそれを巨人の足跡と考えるのは自然な発想なのだろう。
2024年05月23日
コメント(2)
夜間飛行黎明期を舞台にした中編小説で、小説というよりも散文詩のような印象である。夜間飛行と言うのは今でいえば宇宙飛行に似ている。未踏の空間での絶対孤独の世界と言う意味で。そしてそこで目にする地上の光景や星や月も、今まで普通の人間が見ることができなかったものであることも共通している。飛行機の窓際に座り、はるか下で街が煌めくのを見たらきっと思い出す小説だろう。それにしても、現代では夜間飛行どころか宇宙に行った人も何人もいる。こうした人々の中で、文章と言う形で宇宙を伝えた人というのはどのくらいいるのだろうか。
2024年05月23日
コメント(0)
だいぶ前の話なのだが、職場で昼休みの雑談をしていた時、教育費に税金を使い過ぎだと憤っている人がいた。その人に言わせれば教科書などもともと親が負担するものでなんで税金で出すのかということである。その人には子供がなく、子供のいない人にとっては、たしかに自分たちの税金がそんなところにつかわれるのに不合理なものを感じるのかもしれない。今では、有権者の中での子育て世帯はさほど高い比率ではなく、その一方で生涯独身者というのも少数派でなくなれば、その票も少なからず影響力を有することになる。シルバー民主主義といわれるほどに、数の上でも投票率の上でも有力な高齢者の票であるが、その中身は、未成年の孫や曾孫のいる高齢者よりも、そうでない高齢者の票が次第に多くなっていく。よいとか悪いとかの問題ではなく、子育て支援というのは次第に票にならなくなっているのではないのだろうか。いつの時代も有権者の中でawokeと言われる層はわずかだ。それはリベラル系だけではなく、国家の将来を憂え日本国の少子化に危惧をいだく憂国系も同様だ。子供のいない層であれば、次の世代のことはあまり考えず、自分一代だけはどうにか逃げ切れればよいと考えても不思議はない。そして政治家という職業は当選してナンボであって、当選するためには票がいる。くりかえすがよいとか悪いとかの問題ではなく、民主主義とはそういうものなのだが、シングル民主主義というのもあるのではないか。
2024年05月21日
コメント(2)
徳島の人が京都に住み始めた頃、こんなことを言っていたという。京都では祇園祭が近づいても街の雰囲気はあまり変わらないので驚いた、これが徳島だったら阿波踊りが近づくと雰囲気が変わるのに…と。これを聞いていた東京の人は驚いて言う。祭りが近づくと街の雰囲気がかわることなんてあるのかい?東京にずっと住んでいるのだが、東京の有名な祭りと言うのは行ったことがない。有名な祭りといえば神田祭りなのだが、神田は電車に乗らなければいけないところだし、本当の地元だったらやはり雰囲気がかわるのかもしれないけど、けれども、あの大変な人ごみをみただけで行こうという気にはならない。神輿とかいっても、なにか珍しいものがあるというわけでもなさそうだし。朝のテレビでその神田祭りを報道していた。やはり場所柄だろうか外国人観光客も多く、神輿担ぎにも外国人が参加していた。こういうところ排他的でないことも日本の文化の特徴だろう。外国の宗教的色彩のある祭りに観光客が参加するのはちょっと考えにくい。そのうち、有償で祭り用浴衣やハチマキ、草履などを貸すか売るかする商売もでてくるだろう。いや、もうあるのかもしれないけど。珍しいものや美しいものを見るというよりも、担ぎ手と見物がいっしょになって、一体感を楽しむというのがこうしたお祭りの特徴で、為政者から見れば、民衆のエネルギー発散という効果もあったのかもしれない。パンとサーカスのサーカスである。昔、いや、戦前くらいまでは、こうした祭りには武士や中産階級は参加しなかったと思われる。戦前の本を読んでいた時、日本にクリスマスが普及しだしたのは中産階級からで、それは盆踊りなど庶民のようなバカ騒ぎ?の場は中産階級にはなかったことが背景だったという記述をみたことがある。そんなものだったのかもしれない。
2024年05月20日
コメント(0)
大阪の府知事がゼロ歳児も含めて子供にも選挙権を与えるべきだという主張をしているらしい。もちろん子供が自ら投票できるわけではないので、これは、事実上、子供の数に応じて選挙権に重みを付けるということになる。つまり独身者は一票であるのに対して、四人の子供がいれば夫婦で六票の選挙権を有し、その重さは独身者の三倍になるわけである。これは、まさに選挙権の平等原則に反するわけで、高額納税者の票と低所得者の票とに重みに差をつけるのと変わらない。もちろん弁護士でもある府知事が本気でこんな主張をしているとも思えず一種の釣り発言であろう。ただ、これをシルバー民主主義に対する感想と見れば別の見方もできてくる。子育て世帯の割合で検索をしてみると、2023年の資料で、全世帯に占める割合は18.3%で初めて20%を切ったという。今や核家族世帯だの母子世帯だのと言っても、成人した子供が老親と住んでいる世帯の方が多いわけだ。そこから考えれば、有権者の中でも、子育て中という人は少数派であろう。有権者のかなりの部分は独身者や子供がいるが、成人していて孫もいないという人々なのではないか。近年、子供の騒音に対する苦情がやたら増えているが、背景は同じであろう。かわいい子供や孫のいる人は、子供の声を騒音とは思わないものだから。マスコミにでるような立派な言論では少子化を憂え、子育て支援の充実をさけぶものがほとんである。国政選挙でもほとんどの政党は少子化対策をテーマの一つに掲げることだろう。しかし、地方知事ではどうであろうか。住民サービスと直結する地方自治では有権者のある種の本音がむきだしになる。高齢者の無料パスや施設利用券など高齢者優遇を前面に出す候補Aと子供の医療費や教育費無償化、子供向けの施設の充実など子育て支援を前面に出す候補Bがいたら、さて、選挙に勝つのはどちらだろう。子育て世帯の中には、子育て支援の充実している自治体を選んで引っ越すという話がある。一種の足による投票である。そうなれば近所の公園にも子供の騒音が響き、ボールは飛んでくるし、ラジオ体操やゲートボールの場所はとられる…子育て支援などとんでもない。そしてまた、子育て支援のしわ寄せで高齢者無料パスがなくなるのは許せない。こんな有権者がいたって不思議ではない。知事が、子供にも選挙権などということをいう背景には、自治体首長として、こうしたことに対する憂慮があるのかもしれない…以上妄想でした。
2024年05月19日
コメント(2)
もう一度品川神社に行ってきた。この前は登らなかった富士塚にぜひ登りたかったからである。この富士塚、京浜急行の窓からも良く見える。コンクリート造りで歴史はそれほど感じないのだが、その分、普通に階段となっていて歩きやすい。登山気分という意味では鳩森神社の富士塚の方が上なのだが、こちらの富士塚は山頂からの展望が素晴らしい。高台にあるにもかかわらず、神社境内の展望は特にないのだが、その分、富士塚山頂は高く突き出ているのでなかなかの絶景である。電車の窓からよく見えるということは、逆にこちらからもよく見えるということだ。そして下山した後には富士塚横にちゃんと浅間神社があるので、そちらにもお参りし、次に本殿に参拝する。ところで、本殿の横にはいくつも赤い鳥居が連なったお稲荷様もあってこちらもなかなか…。そしてこちらの方も参拝をすませると、別方向にも赤い鳥居が連なっている。降りる道かと思いきや、また別のお稲荷様の神社があり、こちらは屋根まである上に、泉に小さなザルが置いてある。鎌倉の銭洗い弁天のようにお金を洗うと増えるという。そして品川神社の奥には板垣退助夫妻の墓所がある。
2024年05月18日
コメント(2)
タワマン殺人事件については真逆の見方があるようにみえる。一つは職業的な接待に妄想を募らせた中年男のストーカー殺人という見方。こういう見方をすれば、これは何年か前にあった耳かき店員殺人事件とよく似た事件となる。耳かき店員が風俗に当たるか否かはともかくとして、指名料もあったというから、指名してもらうために愛想をふりまいただろうし、それを客の側では一方的に好意と受け取るのもありそうなことである。淋しい人ほどそういう妄想にとりつかれやすいのかもしれない。そしてもう一つの見方は、実質的には詐欺被害者が加害者にキレた事件であり、警察に訴えても放置されたことが怒りを倍加させたとみる見方である。いただき女子も詐欺罪になるのであれば、本件で、もし女性が結婚を約束し、条件として金銭を要求していたのなら、詐欺になるのだろう。男は自分のアイデンティティでもある自動車やバイクを手放した上、金がなくなるとストーカー扱いされればそりゃ怒るだろう。はたして真相やいかに…。ただ、過去の耳かき店員殺害事件では男が店員に貢いだという事実はないが、この事件では無一文どころか借金を負ってまで女に貢いでいる。印象であるが、耳かき店員の事件とは性格の違う事件のようにみえる。それにしても、殺害された女性の写真は、なんというか…やりすぎた整形手術というのも一種の自傷行為としか思えない。
2024年05月17日
コメント(24)
読みやすく面白い本である。そして随所に著者の博識があふれている。その博識というのは教養になりそうな知識ということではなく、同時代の人だったら知っているような、へえ、そうだったのか…という話である。もちろん著者はそんな時代に生まれていないのだが、そうしたことを知識として知っているだけでもなかなかのものであろう。世相、政治、国債情勢について縦横無尽に書いているのだが、別に右とか左とか上とか下とかの立場で書いているわけではない。そういう柔軟性がよい。一例をあげると柳田邦夫はベーシックインカムが好きという項目がある。ベーシックインカムは遠野物語の柳田邦夫とは結び付きそうもないのだが、著者によれば、日本人が我慢できる最低生活の水準の確定こそ柳田学の初動の志だという。農政官僚と民俗学はすぐに結び付きがたいが、そういう関心ももしかしたら多少はあったのかもしれない。現在のところは、あちこちで人手不足が叫ばれているが、今後は様々な分野で人間の仕事が機械に置き換えられていくのかもしれない。その結果、生まれる山のような失業者は、窮乏生活を求められ、ベーシックインカムで暮らすという未来図があるかもしれないという。著者はそんな未来を期待しているわけではないが、配達はドローン、タクシーは自動運転、事務はAIという時代になればそういう未来も本当にあるのかもしれない。一読して損はない本だと思う。
2024年05月16日
コメント(0)
旧人類のせいかネット上で金が動くのが気持ち悪い。ネット通販を利用することはあるのだが、身に覚えのないところで金が動いているのではないかとか、どうしても不安になって毎月送られてくる金の明細書は必ずチェックする。人によっては、そうした通販などの払い込みに使う通帳は分けているというが、いまさらそれをやるのも面倒くさい。世の中にはそうした不安をもっている人がいるせいか、毎日のように、そうした不安につけこんだネット詐欺メールがくる。ネット通販サイトを騙って第三者が貴方のサイトにログインしているとか、欲しくもないような商品の写真がでていてこの商品を誰かが注文しているとかいった類である。そして情報を再入力するように求めてくる。電話によるオレオレ詐欺の注意喚起は広報車を走らせてまでやっているのに、こうしたネット詐欺やスマホを使ったショートメール詐欺についての注意喚起は少ないように思う。固定電話に比べるとパソコンやスマホは詐欺にかかりにくい人々が使っているという固定観念があるのかもしれないが、決してそんなことはない。通販サイトやクレジット会社を騙るものだけではなく、手口も非常に多様化している。警視庁からのメールとあるので何かと思ったら、お宅の息子が窃盗で逮捕されたが、示談金を下記のところに振り込むと助かるとか、あなたの〇〇動画が流出していて、消したければ下記のところに連絡しろとかといった類である。騙される方もどうかと思うのだが、こんなものは元手いらず、危険なしなので、千に一つでもひっかかってくればもうけものなのだろう。そういえば、最近はないのだが、スマホに三億円が宝くじで当たったのだが、使い道に困っているのでお分けしたいというメールが何度も来たことがあった。
2024年05月15日
コメント(0)
NHKの朝ドラでは、戦前を舞台にして、当時の女性差別や家父長意識と戦うヒロインの姿が共感をよんでいるという。いまなお日本には女性差別があり、家父長的意識が根強く残っているという人もいる。そういう人に言わせると、憲法にはその第14条で平等をうたっているのにまだまだ日本には女性差別が…はて?戦前の日本には師範学校など女子に開かれていた教育の場はあったし、高等師範のような高等教育の場もあった。そして世界でも珍しい女子医大も戦前からの歴史を誇る。弁護士や医師の試験は難関ではあったが、試験自体は平等公平であった。そういえば子供の頃にも女医さんというのはたまにいた。たしかに戦前には女性に門を閉ざしている世界は多かったし、志ある女性にとっては不本意な面もあったであろう。しかし、同時に兵役は男性だけであり、人口ピラミッドでみると、しばらく前までは、戦争に行った男性のところだけが大きくへこんでいた。戦場で死んだり、傷害を負った男性は多かったわけである。さらに、現代では、女子に門を閉ざしている世界というものはほとんどない。女子に最初から門を閉ざしている世界はないし、ある私立医大で女子を不利に扱ったと言えば大変な社会問題になったのは記憶に新しい。そしてその一方では、国立の理系の入試で女子を優遇する動きもあり、こんな男子差別のやり方はさしたる議論もなく広がりつつある。どこかの県で公立高校が男女別になっているのは問題視されているが、女子限定の国立大学の存在は議論にもなっていないのも奇異だ。能力を活かせないといういみでの女性差別というものはいまではほとんどなくなっているのではないか。ただ、だからといって別の問題がないわけではない。犯罪被害者に対する人権侵害のような報道が野放しになっているところや、望まぬ妊娠をした女性に対する支援機関や相談機関が不十分な点である。しかしこうした女性差別の被害者たちの声は、世の中であまり大きくならないようである。
2024年05月14日
コメント(2)
少女小説のお手本のような小説である。舞台は戦前。嵐の日に生まれ取り違えられた二人の赤ん坊。一人は大金持ちの家の令嬢として育ち、一人は貧しい漁師の家の娘として育つ。取違物語はドラマにもよくあるのだが、現実にも赤ちゃん取違というのはないわけではない。物語ではたいてい貧しく育った方が主人公になっているので、こうした物語は主人公が貴種でありながら苦難の道を辿るという一種の貴種流離譚ともいえる。主人公が貧しい育ちにもかかわらず、気品があり美しく賢く、誰にも愛されるというのも貴種である故か。戦前は酷い格差社会であるので、こうした設定になるのだろう。金持ちの娘として育った側は最初こそ意地悪なのだが、これも、根っからの悪役と言うわけでもなく、登場人物全体に「いい人」が多く、その分、大団円に向けてすんなりと物語はすすむ。文体は非常に読みやすく、一気に読める。面白いのはサイドストーリーの温泉採掘の部分である。舞台は明らかに伊豆半島なのだが、温泉発掘に人生をかける親子がでてくる。家産を傾けても温泉発掘に打ち込む父と、その父の死後は模範青年のような息子が学業を辞めて遺志を継ぐ。伊豆半島には昔から知られた温泉もあるが最近発見された温泉もあり、その中にはこうした温泉発掘にまつわるドラマもあるのかもしれない。のも実際にいたわけであろう。
2024年05月13日
コメント(0)
人手不足と言うことが盛んに言われているが、これと同時に省力化もかなり進んでいると思う。近所のオフィスビルでもつい最近まで朝ともなればモップを動かし掃除をしている人がいたのだが、これが最近では掃除ロボットに変わっている。店でも自動レジやタッチパネルが急速に普及し、映画館でも窓口での券発売は少なくなっている。タッチパネルなど、やり方がわからずにきれている人も時々見かけるが、こうしたものも現在の自動改札と同様にあたりまえの光景になっていくのだろう。そういえば、昔は駅の改札には必ず駅員がおり、ATM普及前の銀行には大勢の窓口職員がいた。デパートのエレベーターにもエレベーターガールがいたので、そんな時代に比べれば、今だってずいぶん省力化されている。省力化できるところは省力化し、その一方で、多少の不便は甘受するようになれば、人手不足の問題は多少解決するのではないのだろうか。少し前までは、注文したものがすぐには届かないなどということはあたりまえの光景だった。そしてまた、人手不足の問題となると必ず出てくる外国人導入の議論であるが、この是非を言うまでに留意しなければならないことがある。一つは人口減少は日本だけではなく、周辺国でも起きているということである。送り出す側は細り、受け入れる需要は増えてくるということか。もちろん地球規模で見るとアフリカのように人口爆発が続いているところもあるのだが、日本に多くのアフリカ人労働者が働くという未来図は、地理的文化的距離からして、ちょっと考えにくい。もう一つは、人材導入を行う国は日本だけではない。円安が続けば、就労に行く国として日本の魅力はそれだけ薄れることになる。これも忘れてはならない点であろう。
2024年05月12日
コメント(7)
新宿のタワマン刺殺事件は不思議なことばかりだ。25歳でガールズバー経営タワマン居住と言うのも驚きなら、犯人の方のレアなスポーツカー所有というのも驚き。世の中お金のあるところにはあるのだが、報道されない裏の話もあるのかもしれない。それにしてもこの犯人は、淋しい中年男の典型のような人なのだろう。ガールズバーに行けば営業用でも暖かく接してくれる。そしてうまいこともいうだろう。淋しい人ほどカモにされやすいのだが、カモにされた側から見れば、唯一の生きがいであり、よりどころでもあるのだから、一方的な妄想に発展しやすい。男の方は本気で結婚などを考えていたのかもしれない。不思議なのは、この男が貢ぐほどのお金をどうやって得たのかである。両親と同居していたようなのだが、いくら給料のほとんどを自分のために使うことができても、あれほどの高級車はなかなか手に入らない。現在は職業不詳ということなのだが、過去はどうだったのだろうか。果物ナイフで傷だらけにしてやると思い女性を襲ったと言っているそうだが、果物ナイフで人が殺せるのかと普通は思う。きっと殺人ではなく傷害致死を主張するつもりなのだろう。まあ、無理だと思うけど…。もう一つ、ワイドショーのネタになる事件で那須の夫婦殺人事件がある。こちらの方も主犯とされる娘の内縁夫はかなりやり手のようだったが、本気で乗っ取りを考えていたのだろうか。店に入る前の職歴などはどうなっているのだろう。こちらの方も気になる。
2024年05月10日
コメント(3)
「菊枕 ぬい女略歴」を読んだ。短編なのだが、読んでいて非常に重苦しい。女主人公ぬいに実在のモデルがいるということだけでなく、俳句の世界ということを別にしても、主人公の苦悩が、非常にありそうなものに思えるからである。ぬいはお茶の水女子高等師範付属女学校を卒業した才媛で、男並みの長身という女性にとっての難点を別にすれば際立っての美貌と文才にも恵まれていた。実際にモデルとなった女流俳人の写真をみても相当な美貌である。そして彼女は降るような縁談の中から美術学校出の青年を結婚相手に選ぶ。彼女が結婚相手に期待したのは「芸術家」であった。しかし、夫は田舎の中学校の美術教師になり、それで満足している。そういう結婚についての錯誤、夫への不満というのは、男から見ると身勝手であっても女性には時折ある。結婚前は男は自分の才能や将来性について多少盛ることがある。ぬいの夫も結婚前はもっともらしい芸術論をはき、それをぬいはうっとりと聞いていたのではないか。ぬいも後年俳人になるくらいなので、芸術的志向はある。田舎の美術教師の妻となったぬいは俳句を始め、頭角を現すことで、彼女にも新しい世界が開けるようにみえた。しかし、雑誌に自分の句が掲載されたところで、それだけで収入になるものでもない。俳人の多くは別に社会的地位のある職業についたり、そうした者の妻であったりする。俳句関係の交友が増えるにつれ、ぬいはますます「田舎の中学教師の妻」という身分に引け目を感じるようになる。今はそうしたことがどの程度あるのか知れないが、当時は夫の地位イコール妻の地位であった。ぬいが俳檀の巨匠にストーカーのようにつきまとったのも、巨匠を通じて自分に大きな世界が開けることを期待したのかもしれないが、それも拒絶される。表題の菊枕は菊の花をつめた枕を使うと無病長寿であるとされ、ぬいが師匠のために心をこめて菊枕を作るというエピソードによる。その後、ぬいは句作も衰え、精神を病んでなくなるのだが、このあたりはどこまでがモデルの実像で、どこまでが創作なのだろうか。ぬいは句想を得るために英彦山によく登っていたというのであるが、絵や写真と違い、俳句には元になるものがない。いくら山をみても山の俳句が浮かぶわけはない。一度、俳句で名声を得た人がそれを維持するというのはかなり大変なことのように思う。さて、一読してみると、この小説の主人公はぬいの夫の圭介ではないのか。俳句の会や旅行に行くぬいを経済的に支え、家事を行わないことにも文句もいわず、最後にぬいが夫のための菊枕を作ると、ようやくぬいが自分の下に戻ってきたとよろこぶ。妻の期待するような芸術家になれなかった夫の負い目かもしれないし、一種の嗜虐的な喜びかもしれない。こういう夫婦も世間のどこかにはいるのだろうか。
2024年05月09日
コメント(4)
少子化についてはあちこちで語られているが、少子化によって人口が減るとともに複数の人間によって構成される家族自体が激減するかもしれないという。家族類型を比率でみると、一番多いものは現在でも単身世帯であり、夫婦と子の世帯、夫婦のみの世帯がこれに次ぐ。夫婦と子の世帯といってもかなりの部分は老夫婦と成人した子供の世帯である。絵にかいたような夫婦と未成熟な子供という標準世帯は少ない。老夫婦と成人した子の世帯はいずれは一人親と子世帯となり、次には単身世帯となる。将来的には、中年独身単身世帯と高齢単身世帯が社会の多くを占めるという時代になるのだろう。さて、そうなると、理想の住居も変わって来る。昔、郊外の閑静な住宅街で一戸建てに住むのが幸福のシンボルのように思われた時期があった。芝生のある庭とマイカーは人生成功の証であるかのように。専業主婦がいれば買い物の心配はないし、子供が小さければ遊べる庭や家族で乗れる自動車があった方が良い。けれどもこれからの時代はそうはいかない。考えてみれば閑静な住宅街など不便この上ない。近くに店もないし、周囲も高齢化して人通りもなければ治安上の不安もある。ネット上で集められたグループによる強盗殺人もこんな場所で起きる。これからは、セキュリティもしっかりして、鍵一つで戸締りもでき、周囲に店や医療機関のあるようなところが好まれるのではないか。住居もさることながら先立つものの問題もある。様々な場で省力化が進む一方で、高齢者の就労に対する意識も変わって来る。この間、ニュースサイトをみていたら元大企業の管理職がコンビニでアルバイトをしているということをさも悲劇であるように書いているものがあって驚いた。こういうのも、これからはごく普通のことになると思うし、健康で社会とのつながりを持てることが何よりも幸せという考え方も広がっていくことだろう。
2024年05月08日
コメント(16)
森鴎外の三男を主人公にした評伝小説「類」に主人公は松本清張の小倉日記をテーマにした小説を読んで、その圧倒的な文才の差異に衝撃を受ける場面がある。これが評伝小説作家の創作なのかどうかはわからないが、いかにもありそうに思う。松本清張の短編傑作コレクションのうち、「支払い過ぎた縁談」、「死せるパスカル」、「骨壺の風景」を読んだ。最初の「支払い過ぎた縁談」というのは、アイディア自体は雑談の中からでも生まれてきそうなのだが、普通はこんなに面白い小説にはできない。昭和32年という当時の世相などまで想像させるし、登場人物の若い研究者にはなんとなく作者自身が投影されているような気がする。つっこみどころはあるのだが、ぐいぐいと読ませるのは作者の力量だろう。「死せるパスカル」も推理小説あるいは犯罪小説のようであるが、トリックについては、これだけのものでよくも…と思う。登場人物にはさほど共感できるタイプはいないし、主人公の画家は、佐藤愛子の「血脈」の佐藤紅緑を視点を移せばこうなるのかと思わせるほどである。けれどもこれも、先がきになり読ませる小説となっている。「骨壺の風景」は内容はほぼ作者の身辺に起きたことで創作の要素はない。祖母の骨壺を探すとともに、祖母や父母の人生を回想した内容である。似たような経験のある人はいるのかもしれないが、それを読ませる小説にできる人は稀有である。三作ともタイトルの妙ということで、並べられた小説なのだが、いずれも作者の読ませる文章の才というのを見せつけた小説のように思う。奇抜なトリックや特異な事件は扱っていないのに先が気になって頁を繰る手がとまらない。読ませると言えば、ときどきでてくる生き方指南のとうな新書も似たようなものだろう。自分ではまず買わないのだが、借りて読むことはある。知的生き方、幸福になる生き方、健康の秘訣などなどについてつづったものなのだが、多くは、それができれば苦労はないよといった内容で、読んだ後は時間を無駄にしたと思う。いってしまえば、金持ちになるには無駄遣いをしないことだとか、試験に合格するには一点でも多くとることといった類であろう。ただ、こうしたものがなぜ売れるのかと言えば、それは多くの場合、読ませる文章で書いてあるからだろう。文章というものは音色であり、内容というものは旋律のようなものなのかもしれない。音色がよければ心地よく最後まで聴ける。
2024年05月07日
コメント(0)
最近、子供の体験格差ということが言われている。都市と地方、親が高所得か低所得かで、習い事、クラブ活動、家族旅行などについて大きな体験格差があることを問題視するものである。しかし、子供というものは全生活が体験であり、そうしたものの中から、将来の糧となるものを積み重ねて大人になっていく。山間部に生まれて自然の中で駆け回り、虫取りや魚釣りに興じたことも体験なら、貧しい家庭に生まれて母親と一緒に家計簿を計算しながら節約の知恵を出しあったことも体験である。幼い弟妹の世話をし、祖父母の介護を手伝って、その死を看取ることも、また体験であろう。体験格差の議論で取り上げている体験が、習い事、クラブ活動、家族旅行を指しているのであるなら、それは体験格差ではなく、習い事格差、クラブ活動格差、家族旅行格差とかいわないと正確ではない。しかし、子供というものは小学校の中学年くらいになると、親と一緒の行動は好まないし、親と一緒のところを友人に見られるのも嫌がるものである。だから、家族旅行よりも、友人と一緒にちょっと自転車で遠出する方がずっと楽しいし、思い出に残る。家に金がなく家族旅行ができないから、習い事ができないから、かわいそうね、支援しましょうとなると、ちょっと違うのではないかと思う。将来の糧という意味でも金をかけて何かしてもらったという体験よりも、誰かに何かしてあげたという体験の方が案外と重要なように思う。もちろんこうは書いても「体験格差」が全く問題ないというつもりはない。好きなスポーツを金銭的な事情で出来ないというのは残念だろうし、親も辛い。そうしたものについては、道具のリサイクルとか、無料貸し出しとかで対処する方策が考えられるし、もしかしたら、そうしたことは、すでに実践されているのかもしれない。※政治ネタを書くつもりはないし、この日記テーマも政治ネタと関連するとは思っていない。だからこういうものを書いたからといって、例の格差の問題についてどうこうと言ったつもりはない。子供の貧困はもちろん大人の貧困の結果としてでてくるものなのだが、本人にとっての意味合いは異なる。大人の貧困は本人の不運、努力、能力資質のベクトルの結果なのだが、子供にとっては親という別人格者の貧困の結果である。貧困は連鎖することもあるが、貧困を糧にして伸びていく子供もいる。なんでもかんでも親の経済力と子供の状況を統計的に比較して、親が貧乏な子供は可哀そう、支援しましょうというのは、なんか少し違うように思う。
2024年05月05日
コメント(2)
もうすぐ都知事選がある。小池に対抗する候補については人選がすすんでいるようであるが、小池知事の再選への意向は明確になっていない。もし、現職が不出馬と言うことになれば、選挙戦の様相はずいぶんと変わってくる。最初に言っておくが、決して自分は小池を支持するものではない。ただ、素人目には別に都知事がカイロ大をでていようがいまいが、そしてアラビア語を話せようが話せまいがそんなことどうでもよいように思う。都知事の職でアラビア語を必要とする状況など皆無であり、もし卒業が事実であっても、アラビア語を話せないということもあるかもしれない。例えば駅伝で出てきた外国人留学生など、4年間日本にいたとしても、陸上練習漬けの毎日だろうし、大学生が読むような普通の日本語の本を読めるようになっていたとも思えないではないか。しかし、ネットでみると、政治家の学歴詐称は大きな問題であり、これで辞任した政治家も過去に複数いるという。公職選挙法で罰則まで定めているのだからそういうものであろう。そうなると、現都知事も、この学歴疑惑がおさまらない限りは、辞任とまではいかないが、再選を諦めるという可能性はかなりある。重ねていうが、小池を支持するわけでもないし、投票したこともない。ただ、今までの都知事に比べると、小池知事にはさしたる難はないようにみえる。だいたい以前の都知事の中には何を勘違いしたのか、都市外交にせいをだしていた知事がいた。二重外交は弊害しかないし、それにそのための税金は都民のために使われるものではないか。豪勢なホテルに泊まって美術館巡りなどは嘆息しかでないし、会議費で家族旅行となるとお笑いの世界である。カイロ大の学歴詐称でエジプト政府に弱みを握られる云々という議論もあるようだが、少なくとも小池都知事は別に「外交」はやっていない。まあ、制度についていえば、そろそろ公職選挙法で学歴を必要的記載事項とすることを見直し、あえて虚偽の記載をした場合だけを違反にすればよいのではないか。例えば、短期間の外国滞在であっても、〇〇大留学と書けばセーフで卒業とかけば違反になるのだが、選挙民にとっては同じようなものである。しかも、今では大学の数も増えているし、有力政治家の二世といえば優遇して入学させるところもあるかもしれない。いったいどうなるのだろうか…次の都知事選。
2024年05月04日
コメント(2)
戦国時代を舞台にした歴史小説である。ただ目新しいのは主人公を武士ではなく、石垣や鉄砲を作る職人としたことであろう。石垣が盾なら鉄砲は矛…この矛盾の解決の先に泰平の世が開ける。職人もまたそう信じて己の技術を磨いていく。歴史小説にはいろいろなタイプがあって、実際にあったかもしれない歴史的事実に即したものから、想像を飛躍させたファンタジー色の強いものまである。前者の中には頻繁に出展や根拠を説明しているものがあるが、はたして本作はどちらだろうか。作中で紹介されている石垣の技術や鉄砲の技術が、どの程度、歴史的な事実をふまえたものかどうかが気になる。そしてまた、この小説のように、殿が領民を守るために領民までが城に籠るなどということがどの程度あったのだろうか。領民、特に職人は、戦国時代の戦いの勝者にとっても金の卵を産む鶏のようなものであろう。関ヶ原の戦いでは農民たちは弁当をもって見物していたという話を聞いたことがあるが、おそらくそちらの方が事実に近かったのではないか。また、この小説では石垣を盾に見立てているが、実際の籠城戦では狙うのは建物本体であって、石垣を盾とするのは無理があるように思うし、砲を防ぐために即席で石垣を作るということも、本当にそんなことが可能だったのかとも思う。もっとも、どこまでが歴史的にありうることかなどと固いことは抜きにして、小説として読む限りでは面白い。歴史小説には、別の読み方もあり、現代に投影して読むという読み方もある。大津城の城主の京極高次は武将としては無能だが、部下を愛し愛される性格で、それが結果的に強さとなっている。戦国時代にこういうタイプがいたかどうかはともかくとして、現代のリーダーには、もしかしてこんなのもいるかもしれない。新機軸の歴史小説としては、読んでみても良いかもしれない。ただ、これは個人の感想で、人によって違うのかもしれないが、すいすいと読めるタイプの文体ではないようで、いっきに読めるという小説ではない。
2024年05月03日
コメント(0)
那須町で発見された夫婦遺体殺人事件の関係で元俳優の若者が逮捕されたという。最初20歳で元俳優と聞いた時、自称俳優の誤りではないかと思った。演劇はプロとアマの境界の曖昧な世界で、舞台に立ちながら生計のほとんどはアルバイトでまかなっているという人も珍しくない。しかし、この容疑者は、そうした自称俳優ではなく、正真正銘の元俳優の有名子役だったと知ってびっくりした。知人にも子供の頃劇団に入っていたという人がいた。子供に積極性や対人関係能力を身に着けさせるために劇団に入れるというのは多いという。別に劇団に入れる親が皆が皆我が子の芸能界入りを願っているわけではない。そうした劇団の子供たちの中でも、ドラマや舞台に起用される子は頭のよい子が多いのではないか。台詞を覚え、大人の指示を的確に理解できる子といってもよい。だから意外に、劇団にいて多少舞台やドラマにでていたような子供の中には、その後、普通の社会人として成功している人は多いのではないかと思う。子供の頃劇団にいたという知人も世間的にはエリートに分類される人生を歩んでいた。それだけに、元子役という人が犯罪集団にいたという報道には、いったいどういう経緯でこうした集団にかかわることになったのか不思議でならない。知名度のある芸能人やスポーツ選手にはうさんくさい有象無象がよってくることはよくあることなのかもしれないが、子役時代の映像をみるかぎりは頭の良いしっかりした子という印象しかない。売れっ子子役でもその後の人生は様々で、中には子連れ狼の大五郎役のように犯罪者になった例もある。しかし、これは相当の年月がたってからの話で、今回のように20歳というのはあまりにも若すぎる。普通なら人生本番にも達しない年齢なので、まだまだやり直せるとは思うのだが…。なお、この元子役が出演した大河ドラマは今も配信中でそのゆくえを気にする人も多いらしい。しかし、出演者の中に犯罪者がいたからといって、すべてお蔵入りさせるようなことはやめた方がよいのではないか。その昔、テレビアニメの黎明期に「鉄腕アトム」と人気を二分した作品に「エイトマン」があった。ところが原作を描いていた漫画家が銃刀法違反で逮捕され、さらに主題歌を歌っていた歌手がその後殺人事件を起こしたために、今ではアニメそのものを見ることができない。正義の味方を主人公にしたアニメなのに、ここまで不運なのも珍しい。
2024年05月02日
コメント(2)
昔、鬼太郎の漫画の中で鬼太郎誕生のくだりを見たことがある。鬼太郎というのは、幽霊族最後の生き残りで、墓場で生まれたところを、会社員の水木という男に発見され、その時、父親の死体から目玉だけが飛び出したという。週刊誌による漫画が全盛となる以前は貸本漫画というのが流行っていて鬼太郎は最初は貸本漫画に登場したという。貸本漫画はあまり記憶にないが、床屋などに置いてあることもあり、週刊誌漫画に比べると、おどろおどろしいタッチのものが多かったように思う。鬼太郎誕生のエピソードも絵柄が不気味で赤ん坊の鬼太郎もあまり可愛くなく、貸本屋時代の面影を残したものだったのかもしれない。貸本版はわからないが、週刊誌漫画では、鬼太郎誕生についてこれ以上詳しくは書いていない。そもそも幽霊族はどういうもので、死体になる前の鬼太郎の父はどういう姿で、そもそも会社員の水木と鬼太郎の親はどんな関係にあったかなど、不明である。この映画では、そのあたりを描いたもので、会社員水木が犬神家の一族を思わせる田舎の旧家に行き、鬼太郎の父に出あうという物語になっている。設定は昭和30年で水木には戦争体験がある。この時代の大人は普通に戦争体験があったのだが、多くは体験を語りたがらず、だから子供達は戦争というのははるか昔のことのように思っていた。当時は路といえば土道が普通で、田舎から東京ははるかに遠く、東京と聞くと、男の子は川上の試合を見たかと聞き、女の子は銀座のフルーツパーラーに行って見たいという。そんな時代の風景がアニメならではの技術で描かれ、鬼太郎父も、風呂好きであるところや後の時代を目でみてみたいというあたり、後の目玉だけで茶碗風呂に入っているのを彷彿とさせて面白い。まあ、後半は子供向けのアニメになっているのだが、結局のところ怖いのは妖怪よりも人間なんだなあ…と思う。部下に死を命じながら自分は生き延びようとする上官や、薬品を使って社員を猛烈に働かせようとする会社幹部の姿に、戦前の軍国主義や強欲資本主義批判をみるのは深読みなのかもしれないけど。
2024年05月01日
コメント(5)
全27件 (27件中 1-27件目)
1