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今日は憲法記念日である。この憲法については改正論議が絶えない。最もよく言われるのは、現憲法はGHQの間接統治下にできたもので、草案は少数のGHQのスタッフが制作したもので、いわゆる「押しつけ」であるというものだ。たしかに、現憲法の条文には「学問の自由はこれを…」みたいな日本語になっていない文章がある。ただ、草案はともかくとして、その後は大日本帝国憲法の改正手続きを経て制定され、25条の生存権のように帝国議会の審議で入った条文もある。そして新憲法が発布されたとき、国民は総じて大歓迎であった。戦争はもうこりごりだという気分が蔓延しており、戦後民主主義がまぶしくみえた時代であった。これに比べて大日本帝国憲法はどうであったのだろうか。夏島の別荘に伊藤博文ら当時の最高レベルの四人が集まり草案を検討した。食事を運んだり世話をしたりする女中はいたが、彼女には議論の内容はわからない。国民には内容は一切知らせずに制定された憲法であり、お祭り騒ぎはあったのだが、その内容を知るものはなく絹布の法被が付与されると思っていた人もいたという都市伝説もある。大日本帝国憲法と日本国憲法を国民目線でみたときに、はたして押しつけはどっちなのだろうか。押しつけ以外の憲法の議論については、9条についてのものが一番大きいのであるが、それ以外にも環境権の記載がないとか、刑事被告人の権利は何条にもわたって書いてあるのに被害者の権利がないとか、地方自治についての記載がないとかも議論になっている。しかし、環境の問題、被害者の権利の問題は、現行の人権規定で読むことができる。9条の改正論についても、改正によってどこがどう変わるのかを明確にする必要がある。単に自衛隊の存在の憲法上の議論があるので、自衛隊を憲法上明記するが、現行の法制度や運用はなんら変わるものではないというのであれば、なぜ今憲法改正なのかと思う。憲法9条があるから平和だとか、9条があるからミサイルが飛んでこないとかいうふうには思わないが、憲法9条があるから、政府としてはやりたくてもできないというものがあるのではないか。それを知りたい。
2026年05月03日
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日本史を通じて天皇は権威の源泉であり、権威と権力とを分離したことが日本の統治機構の知恵であったということをいう人も多い。江戸時代でも、将軍などの位は天皇が授け、朝廷方の例幣使が東照宮を参詣することが徳川幕府の権威づけに貢献していたのも事実だろう。京都には皇室だけでなく、それを支える公家達もいて、天皇側の官僚機構は明治になるまで続いていた。ただ権威の源泉であった天皇が不可侵であったかというとどうもそうではないようにみえる。源義経は間接的とはいえ安徳天皇を死においやっているが、義経は一貫して人気の高い人物だった。そして平家にしてからが、徳子を中宮にし、安徳天皇が即位したからといって安泰であったというわけでなく、屋島、壇之浦と追い詰められていく。崇徳上皇や後鳥羽上皇のように流罪になった上皇もいるし、後醍醐天皇のように現役の天皇でも流罪にされた例もある。ただ、綸旨など天皇の命令には権威があったし、歴史の節目にはこの綸旨や勅令がよくでてくる。それがあったからこそ、朝敵になるのはさけたいという意識も働く。鎌倉時代半ばに天皇は南朝と北朝が交互に即位するということになっていたが、鎌倉幕府滅亡後、足利尊氏が後醍醐天皇と対立すると北朝の天皇を擁立し、同時に天皇が二人いるという事態になり南北朝時代になる。やがて、南朝が先細りになると、南北朝合一となるが、その際の交互に天皇を出すという約束は反故にされ、その後は北朝の天皇が続くことになる。今の天皇が北朝方というのは誰もが知っている。明治以降、それまでも人気があったとはいえ、南朝の忠臣の楠木正成が英雄視されるようになる。彼の像が皇居前に建てられ、湊川神社も創建された。今の天皇は北朝なのにとも思うのだが、いまさら南朝も北朝もないというのかもしれない。南北朝時代は皇室との関係でタブー視されているという話もあり、たしかに大河ドラマでも一度しか扱われていない。最近ではアニメ「逃げ上手の若君」もあって、この時代への関心も高まっているのかもしれないが。権威の源泉である天皇も二人いるだけではなく、禅宗と既成の宗派との対立など宗教的権威もゆらいでいる。「太平記」(四)を読んでいるが、この時代は読めば読むほどカオスのような面白い時代に見える。
2026年05月02日
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旭川市で妻の遺体を焼却したとして動物園職員が逮捕されたという。動物園にあったという死体焼却装置をつかったというのだが、こんな事件があったら、連休前にイメージダウンもはなはだしい。普段からこの職員は妻を脅かしており、妻はそのことを実家に話したりしていたというのだが、この内実はどういうものだったのだろうか。殺人事件の半数以上は親族間で起きるという。ある意味逃げようのない親子と違って、夫婦間の場合には最悪の事態に至る前になんとかならなかったのかとも思う。家庭の内部は他人からはうかがい知れないところがあるが、一見何の問題もない夫婦間でも殺人は起きる。古くは医師夫婦の殺人事件やつくばのやはり医師による妻子殺人事件があった。今度の事件でも、容疑者は好青年風で、おそらく動物園の数々の広報に登場していたのだろう。動物園は人気の就職先だというし、この人も狭き門をくぐって念願の動物園職員になったのかもしれないのに。ここで想像をしてしまう。もしこの夫がもっと早くに妻の行方不明届けを出していたらどうなったのだろうか。妻の親族らは疑いをもつだろうし、警察も任意でも家の中を捜索するかもしれない。もちろん遺体は出てこない。妻の事情は報道されていないが、夫婦げんかのはてに家出して、自殺のおそれもある案件というのは珍しくない。行方不明者の中には、こうした事件の被害者というのも相当数いるのかもしれない。
2026年05月01日
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「太平記」(三)を読んだ。いったん九州に逃れた足利尊氏は勢力を盛り返していく。楠木正成は戦死し、後醍醐天皇はふたたび比叡山に逃れる。足利尊氏方は公明天皇を践祚させ、南北朝時代が始まる。佐々木道誉の偽計もあって補給を絶たれた後醍醐天皇方はやむなく京都に戻るが、そこで待っていたのは北朝方による軟禁であった。新田義貞は後醍醐天皇の皇子を擁して北陸に逃れ、後醍醐天皇は軟禁状態から脱出して吉野に朝廷を置く。それから先は新田義貞や北畠顕家らの戦死、後醍醐天皇の崩御と次第に南朝の勢力は弱まっていき、かわりに北朝方の幕府内部での対立が目立っていく。この時代でよくわからないのは、土地の利権の所在だ。平安時代には国司、郡司、受領といったものがあり、こうした地方官の中には土地に土着して財をなすものもいた。このほか、荘園もあり、これは一種の独立勢力でもあったので、その警察権や徴税権を支えるには当然にそれを支える武力がいる。寺社も広大な荘園を持っていたので、僧兵も必須であった。鎌倉時代には、守護や地頭もおかれたが、この守護と国司の関係が分かりにくい。守護は幕府が任命したと思っていたが、後醍醐天皇も守護職の任命を行っている。かといって南北朝時代には国司が形骸化していたというわけでもなく、国司が称号になったのはもっと後の話だ。この分かりにくさが太平記の分かりにくさなのだろう。だいたい、足利尊氏にしても、すぐに、出家しようとしたり、自害しようとしたり、やや頼りない人物として描かれている。何を目指していたのかもどうもよくわからない。ただ、弟をはじめ、高師直などのブレーンがいるし、護良親王殺害や南朝方の皇子の毒殺などはむしろ弟が主導している。足利尊氏も新田義貞も祖先は源義家にさかのぼり、その孫の代でわかれている。足利将軍家に近い系統では今川や吉良といった江戸時代の高家につながる系統があるし、新田義貞の系統には世良田があり、これは事実かどうかは別として徳川家康の先祖とされている。世良田に東照宮があるのもこのためである。
2026年04月29日
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こんな記事を見た。日本では親ガチャに外れても個人の努力や才能で人生を逆転できる。それは充実した公教育と医療保険制度があるから…という趣旨の記事である。https://news.yahoo.co.jp/articles/88dd7261432d75cd5679bb1086abddcedc1916f9これには多くの方がコメントをしており、そのほとんどが自分は家は貧しかったが、それを克服して今はこうやっているという体験談である。自慢の中には貧乏自慢というのがあり、裏を返せば貧乏なのに自分はここまでやれた、もっと家に金があったらここまでできたはずだといった能力自慢だろう。芸能人などの「壮絶な生い立ち」の話もよく目にする。それはそれでよいのだが、親ガチャというのは、親の貧乏とか暴力とかもっぱら親側の事情をいうらしい。だから「親ガチャ」なのだろう。この親ガチャは外れても個人の努力や才能で逆転できるというのが趣旨で、それが共感を集めているようなのだが、個人の能力とか才能というのも、考えてみれば「ガチャ」ではないか。そしてまた、努力も才能や能力と密接に関連している。努力して成果がでるからこそさらに努力するという好循環である。公教育が充実しており、公立の小中学校から公立の進学校に進んでも、それなりに教育の成果があるというのは、冒頭に紹介した文章のとおりであり、現実には、才能ガチャ、能力ガチャの影響の方がはるかに大きい。それなのに、こちらのガチャについてはあまりいわれないのはなぜなのだろうか。親ガチャは当たりでも能力ガチャ外れなら、無駄にエリート家庭の重圧と金持ち家庭の甘やかしがあいまって、引きこもり、親子間殺傷などの酷い事件もある。親は貧乏で親ガチャ外れなんてことを声を大にして言う人はいても、俺は能力ガチャ外れなんてことは大きな声にならないということなのだろう。しかし現実には能力ガチャはあり、これに運、努力といったベクトルも相まって、困窮に陥る人はいる。困窮に陥るのは皆本人の努力が足りないからだという一種の努力信仰が蔓延しているが、これは一歩間違えると困窮層にものすごく冷たい社会になるのかもしれない。定期的に起きる生活保護バッシングや生活保護を恥とみる風潮は、過てる努力信仰の副作用なのかもしれない。
2026年04月27日
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ちょっと興味深い記事をみつけた。米国の人種差別研究の権威とされるケンディという学者が、いまから20年後、世界の大半の地域が、レイシストの独裁政権下にある可能性が厳然としてあると警鐘をならしているという。そしてその背景には「グレート・リプレイスメント(大置換)」論という陰謀論があるという。つまり、権力を握るエリート層が白人の住民を有色人種で「置き換え」ようとしており、その主な手法が移民であるという見方だという。そしてケンディは、この陰謀論の真の目的は「世界各地に権威主義的な政権を発足させるための地ならしだ」と指摘している。本当だろうか。エリート層が白人の住民を有色人種で「置き換え」ようとしているのだとしたら陰謀なのだけれども、置き換えたところで白人の住民が消えてなくなるわけではない。それにそうしたものが、陰謀論が独裁や民主主義の崩壊につながるというのだが、民主主義を支える支える選挙制度がなくならない限り、そうした「置き換え」なるものが行われたとしても、それもやはり民意なのではないのだろうか。上記の陰謀論をこう言ってみたらどうなのだろうか。権力を握るエリートをグローバル資本と読み替えるのである。グローバル資本は自国民ではまかないにくい低待遇の労働力を開発途上国の単純労働者で「置き換え」ようとしていると。本来なら起きるはずの待遇向上が起きず、もともと単純労働についていた国民は失業や低待遇のままにすえおかれる。こうしてみれば、陰謀論は陰謀論でもなんでもなく、現在進行中のことを言っているだけのことになるのであろう。これに関連して反移民政策をとる政党をよくマスコミは極右と呼ぶのだが、相当の支持、それも比較的恵まれない層の支持を得ている政党を極右というように極を冠して呼ぶのはおかしい。また、こうした勢力はかつてのナチスのように自国民や自民族に対する崇拝を核としているわけでもないので「右」というのもどうなのだろうか。結局のところ、背景には国内における格差があり、外国人単純労働力の流入に脅威を感じている庶民層の支持する政党をグローバル資本やマスコミエリートが極右とか排外主義とよんでいるだけのようにみえる。「右」とか「左」とかといった分類もそろそろあまり意味がなくなっているのではないのだろうか。
2026年04月22日
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「太平記」(二)を読んだ。瞬時といってもよいほどの鎌倉幕府の滅亡と東勝寺での北条高時以下多くの人々の切腹、中先代の乱など北条残党の蜂起と建武の新政の失敗、新田義貞と足利尊氏の対立を経て、足利尊氏が九州に退くまでである。前回の日記でこの時代にはパラダイムがないと書いた。しかし、しいてパラダイムをあげるとすれば、それは勝ち馬にのって生き残るということなのだろう。寝返りはマイナスイメージなのだが、当時はそれがあたりまえだったのではないか。バサラ大名の佐々木道誉など、一度新田方についてから、何食わぬ様子で足利方に戻っている。いったん優勢だと判断されると、軍勢は膨れ上がるし、逆だとあっという間に離れていく。平家物語でも、落ち目の平家には反旗を翻す勢力が多かったという記述があるが、太平記はもっとそれがダイナミックだ。平家物語に比べて太平記が読みにくいのは、名前を見ただけでは、幕府か天皇、新田か足利、どっちの側なのかがよくわからないことだろう。それは注がないと本当にわかりにくい。ただいくら優勢な方につくといっても、建武の新政は人心を失っている。建武の新政を維持するのではなく、それにかわる武家政権を作っていく勢力に次第に武家の支持は集まっていくのも自然の流れなのだろう。誇張もあるのだろうけど、建武の新政期の公私混同や寵妃や寵臣のやりたい放題、そして公平を欠く恩賞などは酷かった。討幕に功績があったのは、赤松円心、護良親王、楠木正成、新田義貞、足利尊氏なのだが、赤松円心は所領を削られ、護良親王は寵妃の讒言で鎌倉に幽閉されて殺害されている。最終的に後醍醐天皇方が先細りになっていったのも仕方ないように見える。
2026年04月20日
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「太平記」(一)を読んだ。討幕の謀反計画が漏れたりして次第に世の中が騒がしくなっていき、後醍醐天皇が笠置山に臨幸したことで、ついに幕府軍との戦闘が起きる。天皇の方の戦力は笠置寺の僧兵をはじめとする近国の兵とある。この時代の戦闘というのは形勢有利とみると、どっと兵力が集まってくるし、逆の場合にはあっという間に寝返っていく。寺院も僧兵という兵力をもっていたし、野伏といった農民と武士の中間のような人々もいた。その一方で、武士たちは名を惜しむといいながら、実に簡単に切腹をする。戦闘というと、上から岩を落としたり、難所におびき出して崖から落としたりと、実に多くの人が死んでいく。今でも古戦場と思われるところから多くの人の骨がでることがあるが、南北朝時代のものが多いように見える。笠置山が落ちると、天皇は捕らえられ、隠岐に流されるのだが、脱出する。天皇方の楠木正成は籠城ゲリラ戦で幕府軍を翻弄するし、兵庫の赤松円心も蜂起する。新田義貞も討幕の志を持ち、綸旨を手に入れる。六波羅軍は赤松の軍を撃退し、小康を得たようにも見えるが、六波羅軍による神社仏閣の炎上を記し、幕府の崩壊も間近いことが暗示される。混沌とした時代の様々な生き方を描いた太平記は本当に面白い。
2026年04月17日
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京都府の男子児童死体遺棄事件は最初から不可解だった。卒業式の日で、大勢の子供がいるのにも関わらず、行方不明になったとされる朝の学校付近で児童を見た人がいない。見ず知らずの人の中で行方不明になったのではなく、ほとんどが児童を見知っている中でである。そんな中で誰も見ていないのであれば、児童は最初から車を降りていない、あるいは車に乗っていなかったと思うしかない。ただ、一方で、児童を乗せていない、あるいは降ろしていない車が学校の駐車場まで来て、そのまま戻ったとしたらそれはそれで目につくようにも思う。そんな不審な車の動きを見た人ももしかしたらいるのかもしれない。この事件では、リュック、靴、そして遺体が見つかったことで、急展開している。しかし、もし、遺体を自宅に隠していたらどうなっていたのだろうか。車から降りた児童を誰も見ていないというだけで家宅捜索ができるのだろうか。また、本事件では継父が供述をしているようであるが、もし、黙秘を続けたらどうなるのだろうか。正確な死亡日時も死因も不明であるし、家族であれば互いに毛髪などが付くのは普通のことである。かえって決定的な物証は得にくいのかもしれない。行方不明事案は多いし、中には神隠しのようなものもある。そうした事案の中には、家の中に遺体を隠し、家族は口をつぐんでいるものもあるのかもしれない。そんな不気味な想像をしてしまう。今回の事件では思春期目前の児童がいきなり継父と親子になったこと自体に無理があったように思う。少年は11歳だったというし、あと、数年すれば、一人暮らしの出来る年齢になる。祖母と暮らすなどの選択はできなかったのだろうか。最後にこんなことを書くのもなんなのだが、子供の頃に「教育虐待」を受けたからと言って駅構内で刃物を振り回した40代、アニメを見るのを邪魔されたといって親を殺害した60代といった大人子供みたいなオッサンの事件に比べると、この容疑者などは18歳で働き始め、結婚して子供をもうける、離婚後再度結婚し連れ後の養父になるなど、犯罪は別にすると実にまともにみえる。昔はこういうのがあたりまえだった。
2026年04月16日
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米国の国勢調査によるとチャン、リウ、ワンといったアジア系の姓が急増しているという。背景にはもちろんアジア系移民の増加があるのだが、そのうちのかなりが中国系だろう。移民ではなく、留学でも中国系は多く、大陸中国の高官でも子弟を米国に留学させている人は多いという。よく米中対立とか米中のライバル関係とかいわれるが、米国は移民国家であり、現在も中国から多くの人々が留学や移民として流入している状況で「対立」などはあるのだろうか。かつての米ソ対立といわれた時代には、ソ連からアメリカへの移民は亡命者くらいしかいなかったのとは大違いである。そしてまた、米国の白人が認めたがらない不都合な真実なのだが、中国系の方が白人よりもIQが高いという。最近、カナダに行ってきた人から聞いた話なのだが、バンクーバーはアジア系の多い町なのだが、それがその地域の名門大学に行ってみるとアジア系はさらに多いという。米国でも似たような状況なのではないか。米国の中で、大陸中国に多くの親族がいて、大陸中国の政府を嫌っているわけでもない移民が大勢いて、その人々が高度な教育を受けて、それぞれの地位についていく。それでいったいなぜ米中対立なのだろうか。もし、対立があったとしても、それは敵対というよりもライバルといったものなのではないか。
2026年04月15日
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「太平記」を読んでいる。これで三回目になる。日記で調べてみると二回目は2024年の夏に読んでいるので、あれからまだ二年もたっていない。その間、中先代の乱を扱った「逃げ上手の若君」などが話題となり、何回読んでもいまいちわからないこの時代の歴史物語を再度読みたくなったということがある。日本史には動乱の時代というのは他にもあるのだが、この時代がわかりにくいのはなぜなのだろうか。源平合戦の治承・寿永の乱は、史実はともかくとして、源氏が奢る平家を倒したという物語がある。幕末から明治に至る時期は、これも史実はともかくとして、官軍である薩長が旧弊な徳川幕府を倒したという物語がある。戦国時代には戦乱の世を終わらせて太平の世を築くという物語がある。もちろん史実は別として。ところが、鎌倉幕府から室町初期の時代には、そうしたものが見えない。後醍醐天皇には武士の世を終わらせて天皇親政の時代を再び作るという理想があったのだが、それが実態に合わないことはすぐに明らかになるし、建武の新政は最初から危うい。そして後醍醐天皇は理想的な聖天子のように描かれた箇所もあるが、美女を寵愛し公私混同の政治を行った個所もある。足利尊氏は英雄というよりも、すぐに自害したがる頼りない面もあるし、新田義貞は武芸抜群で部下想いの理想的武人のようだが、あまり頭がよくない。楠木正成の天皇に対する忠義は光っているが、天皇はもう一人いる。登場人物の多くがひたすら勝ち馬に乗ろうとする時代だ。佐々木道誉のように勝ち馬に乗り続け、贅沢をして天寿を全うした人もいる。様々な人間の様々な人生が描かれているのが太平記の面白さだろう。高校生の時、太平記を読み始めたが、全体の量の多さにおそれをなして、最初の笠置の戦闘のあたりでやめた。ようやく通読したのは、大人になってからだ。三度目の太平記は、まあ、のんびりと読んでいきたいと思う。
2026年04月14日
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この間、九段の方に出かけたらちょうど卒業式の日にあたっていたらしく駅はスーツや袴の若者でごったがえしていた。華やかな雰囲気はよいのだが、女子大生の卒業式の袴というのはいつから始まったのだろうか。昭和初期くらいまで旧制女学校の生徒が袴で登校したというのは有名なのだが、それは昔の風俗であり、旧制女学校は今でいえば高校なので、大学の卒業式というのともあわない。気になって調べてみると、1987年に流行った「はいからさんが通る」という実写映画がきっかけだという。たしかに卒業式の袴が目立ち始めたのもそのあたりだったように思う。ただ、「はいからさん…」は大正期の女性を主人公にした漫画で、女学生時代に袴を着ているのは当然で、それがなぜ、現代の大学の卒業式での袴着用になるのかよくわからない。おそらく振袖を着るというのは昔からあって、それは晴れ着というものはそうしたものなので当然だろう。振袖は数回くらいは着る機会があるのだろうけれども、一度しか着ない袴というのは不経済ではないか。おそらくはレンタルが普通なのだろうけれども、卒業式は時期が重なりやすく、調達するのは結構大変ではないかと思う。この卒業式の袴と並んで、就職活動の黒ずくめのスーツもいつ始まったのか不思議だ。これも調べてみると2001年にあっという間に広まったものだという。就職活動では型をはみだして失点したくないという心理が働くのでこうした急速な普及もあるのだろう。袴の話に戻るが、最近では小学校の卒業式で袴を着る女子がいるという。子供服なんてせいぜい親戚に挨拶にいくときの「よそゆき」しか知らない世代には信じられない話だ。子供が減っているにもかかわらず、中学受験は大変な加熱だというし、小学校低学年からの塾通いは珍しくないらしい。子育てに金がかかるというよりも、金をかけているというのが実態なのではないか。一説によると素質の影響は、学力については年齢が進むほど大きくなるという。塾づけで中学受験までは突破できても、その後進学校の深海魚になってしまうのがその子供にとっての幸福なのだろうかもよく考える必要がある。子育て支援の名目で多くの支援が現在も行われているのだが、こうした勝ち組に金をばらまく政策よりも、今後、深刻になってくるであろう氷河期世代で十分なキャリアを積めなかった人々に対する支援の方がより切実な政策課題になってゆくような気がする。
2026年04月13日
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「散華~紫式部の生涯」を読んだ。紫式部といえば最近大河ドラマでも取り上げられていた。男の声で街中の店で和歌を代筆し、身分を隠して道長にであうなどまさかの韓流ドラマ的展開、宋人との恋や清少納言との親交といった少女漫画チックな物語もそれはそれでよいと思うし、ある意味、大河ドラマに新風を吹き込んだように思う。一方、この小説は紫式部の生涯を追いながらも、当時の挿話も縦横に取り入れ、面白く読めるのだが、これをドラマにするのは難しいだろう。つまり当時の貴族の権力抗争にまつわる歴史は興味深いのだが、紫式部だけに絞ると冷静で聡明な女性が時代の様相をみながら物語を書き、彰子付きの女房として出仕したというだけの話になってしまう。もちろん小説なので、作者の想像の部分はある。和泉式部と紫式部が幼馴染の友人であったということや、少女時代に清少納言に会っているというあたりであるが、当時の貴族社会は狭く、こうしたこともあったのかもしれないと思わせる。男女を問わず和歌の才は愛でられたし、漢学の才も称賛されていた。才女同士では互いに意識することもあったであろう。また、この時代の大きな出来事として、藤原道隆家と道長家の権力争いがあるが、道長方の勝利の背景に皇太后藤原詮子の道隆夫人である高階貴子への反感があったとされている。これはありそうな話である。文献などでどの程度傍証があるのか知らないが、高階貴子は宮中に出仕し、漢学の才と女性の魅力で道隆夫人になった。有力貴族の出身でもないのに、時の権力者の夫人になったのだから、嫉妬や反感を抱く人がいても不思議はない。道隆全盛の頃は高階一族も優遇されたというので、これに対しても脅威を感じる人々がいたことだろう。そういえば、道隆一家について称賛している枕草子には中宮定子の母である高階貴子についての記述は一切ない。背景には反感というほどではないが、清少納言も彼女のことは書きたくなかったのかもしれない。漢学が好きで、漢籍の話をしたがる清少納言に対し、一瞬でも「あなたなどまだまだね」ということをにおわせたらよい気持ちはしなかっただろう。清少納言の生まれた清原家は和歌の名門ではあるが漢学が専門というほどでもない。幼いころから漢籍に囲まれて育った高階貴子からみれば差があったと思われる。小説では、あの論争の絶えない宇治十帖の記述についても、本編を完結させた後に、出仕している間に短期間で書いたとしている。背景には、政争に敗れて二人の娘の行く末を心配しながら亡くなった藤原伊周の最後に触発されたこともあったという。作中では、宮のうちに数えられない不遇の宇治の八宮は二人の姫の行く末を心配しながら亡くなっている。たしかに、本編が政争の勝者の物語なら宇治十帖は敗者側の物語にみえる。伊周は眉目秀麗で学才に秀でた光源氏のモデルともいわれる人物などだが、権力から遠ざけられたのちはむしろ八宮に近かったのかもしれない。本編と宇治十帖のどちらが傑作かというのは難しく最終的には好みの問題なのかもしれないのだが、宇治十帖は本編以上に近代小説に近く、千年前に書かれたものとは信じられない。本編のような華やかな描写はないが、性格描写や心理描写は本編にまさるとも劣らない。
2026年04月12日
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YouTube動画で往年の二枚目俳優の若いころの映像を集めたものがある。長谷川一夫とか三船敏郎などだが、こうした風貌をみていると今ならはたして人気を集めたのだろうかと思う。男性的でごつい印象の顔立ちは悪役以外にはあまり見られなくなっているし、眉が濃く全体に彫の深い顔立ちも、暑苦しくむさい印象をあたえる。今はジャニーズや少女漫画の影響もあるのかもしれないが、中性的な風貌が好まれるし、あまり彫の深くないタイプの方が爽やかだとして人気がある。いわゆる塩顔イケメンというタイプである。男女ともに美男美女の要件として整った顔立ちが好まれるのは時代を超えているのだろうけど、その中で、どういうタイプが人気を集めるかというのは時代によって違う。そういえば、美男については男前というのがほぼ死語になり、イケメンという言葉が全盛になったのも時代の好みと関係あるのかもしれない。以上述べたようなことは、少し前と今とを比較しただけの話で、はるか昔になるとまた違う。絶世の美男子といえば光源氏なのだが、これについては「女にして見奉らまほし」つまり解釈はいろいろあるようだが、女にして見てみたいという表現があり、また、手が黒い数珠に映えているというくらいに色が白いという描写もあるので、中性的な美貌だったと想像される。かつてな想像なのだが、戦争が続く時代には男性的な容姿が好まれ、平和な時代には中性的なタイプに人気が集まるのかもしれない。
2026年04月10日
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最近、youtubeのAI歌絵巻というチャンネルをよく見る。AIの進歩についてはいろいろ書かれているが、イラストや写真をもとにした実写イメージや曲調を指定しての作曲までできるというのには驚きだ。平家物語の冒頭を平徳子が平家一門の伴奏で演歌調に歌ったり、奥の細道の冒頭を芭蕉がポルカ調に歌う動画があり、こういうものを見れば古典の文章やイメージがすいすい頭に入りそうである。特に鴨長明が歌う方丈記などでは、突風災害など内容をほうふつとさせる映像もあってなかなか芸が細かい。ちなみに平家物語の歌では、笛の名手の敦盛が当然にフルートを担当している。古典だけではない。写真がのこっている近代になるともっとすごい。桂小五郎がムード歌謡風に都都逸を歌うものなど、顔がちゃんと写真どおりになっているし、宮沢賢治がギターで星巡りの歌を歌ったり、中原中也がサーカスを歌うものもある。いずれも、曲として聴けるものになっているだけでなく、詩の美しさもそのまま生かしているのがすごい。まさかこんな映像を見ることができる時代になるなんて…本当に良いときに生まれ合わせたものだ。
2026年04月08日
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紀州のドンファン事件というのがあるらしい。紀州の大富豪が覚せい剤の過剰摂取で死亡し、妻に殺人の疑いがかかったというものである。死亡当時大富豪は77歳で妻ははるかに年下で結婚期間は3年程度であった。こういう事件は普通に考えるとどうなのだろうか。一代で富を築いた老齢の男と娘どころか孫くらいの年齢の女性との結婚となると、男は人生の最後を若い女性と過ごしたいし、女性は金目当てといったところだろうか。富豪は海千山千で若い嫁など仮にかなりの女狐であったとしても、まあ、子ども扱いだったのではないか。覚せい剤の入手方法など別ルートで普通に知っていただろうし、嫁のいうがままに覚せい剤を過剰摂取したというのは無理がある。富豪が覚せい剤で死亡したとしても、単なる過誤だったという可能性が高い。妻はスマホで覚せい剤の入手方法や完全犯罪を検索していたということが状況証拠とされているが、指先一本で操作できるスマホなど、頭に浮かぶ言葉、興味を持った言葉をいくらでも検索できる。事故にみせかけた殺人といった言葉を検索したからといって、そうした殺人を計画していただろうといわれても困る。これも別の見方をすれば、覚せい剤の入手方法を検索していたということは、覚せい剤の入手方法も知らなかったくらいに覚せい剤に慣れていなかったということもいえよう。そして動機であるが、愛人ではなく、法律上の妻になったことによって、女性は富豪の財産を得る目的のほぼ大半は達成したようなものだろう。離婚は一方的にできるものではなく、合意するためには相当の慰謝料を支払う必要がある。富豪の方から離婚する意図があったとしても、それならそれ相応の金銭を要求することができる。また、富豪が万一の場合遺言で遺産が他に渡るようにしたとしても、妻には遺留分の権利がある。富豪の財産の遺留分となれば億単位である。要は、妻にしてみれば不貞行為など裁判上の離婚原因になるような行為をつつしめば億単位の金を手中にしたも同然なので、あえて殺人などという危ない橋を渡る理由などないではないか。第一審、第二審で無罪判決がでたにもかかわらず検察は上告をしたというのだが、事実審でもない最高裁でどんな判断がでるというのだろうか。無罪判決の確定を遅らせ検察官のキャリアを守りたいのかもしれないけど、そうしたことはいたずらに検察不信とその権威低下を招くだけのように思う。
2026年04月07日
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杉本苑子の「散華」(上)を読んだ。紫式部の伝記であるが、あの光る君のようなフィクション満載ではなく、当時の貴族の権力抗争や説話をおりまぜながら、父に伴って越前に下向する以前の紫式部の生涯を描いている。当時としては紫式部は大変な晩婚だったようである。父が交際範囲のさほど広くない学者だったこともあったのかもしれないが、抜きんでた学才と怖いほどの知性が敬遠されたのかもしれない。もっとも、女性の学才はマイナスイメージではなく、高階貴子のように宮仕えをしながら、学才をもてはやされ、藤原道隆夫人になったような例もあるが、紫式部はそうしたタイプではなかったのだろう。雨夜の品定めに男が逃げ出す学者の娘の挿話があるが、あれはけっこう自画像のようにも思われる。小説では紫式部と和泉式部が幼いころからの友人となっているが、これはもちろん史実ではない。しかし、都の貴族社会は狭く、血族や姻族の関係は入り組んでいる上、女性も物詣や説法などで外出の機会もあった。以外に誰と誰は顔見知りということもあったであろう。そしてこの小説にはもちろん清少納言もでてくるのだが、いくら紫式部が日記で悪口を書いているからと言って、ただの勝気なだけのじゃじゃ馬に描いているのはどうなのだろうか。下巻では描き方が変わるのかもしれないが、栄花物語には、定子サロンが道長の勢力に圧倒されてからも、清少納言が並みの女房よりも面白いということで、公達が集まってきたことが記述されている。宇治拾遺物語には清少納言の父の清原元輔が牛車から落ちて冠を落とした時、面白い演説をして人々をわかせた話があるが、清少納言もまた話し上手で魅力十分な人柄だったのではないか。それにまた、枕草子に見られる中宮定子らに対する惜しみない称賛は裏表のない人のよさを感じるし、紫式部よりは絶対に性格はよさそうである。平安朝のある時期には何人もの女性がものを書いて、その書いたものが貴族社会の中で読まれ、筆写されて広まっていった。紫式部もそうしたものに触発されて、物語を書いたのだろう。蜻蛉日記や枕草子には実在の人物がでてくるし、源氏物語にしても、執筆された当時は、あのモデルは誰それという読み方をされていたのかもしれない。そういえば、今はほとんど死語になっているのだが、女流文学という言葉があった。そうしたものの多くは自身の恋愛や離婚の体験を赤裸々に書いたものではないか。あまり読んだことはないのだが。こうした女流文学なるものは蜻蛉日記の遠い子孫なのかもしれない。一方、枕草子は、一頃流行った女子アナなどが身辺雑記をつづったエッセイ風のものが近いのだろうか。小説の下巻には書く女が何人も出てくるだろう。また、あらためて感想を書くことにする。
2026年04月06日
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マスコミには報道する自由とともに報道しない自由がある。激変する国際情勢の中で石油供給の途絶も懸念され、国によっては非常事態宣言をだしているところもあるという。危機を煽るのはよいとは思わないのだが、日本の報道はこうした懸念にあまり触れていないように見える。いくら石油の備蓄があるといっても限度はあるし、イラン戦争はここまで拡大すれば報復は報復を呼び、早期の収束はむずかしいのではないか。番組によって違うのかもしれないのだが、朝のニュース番組をみると、犬猫の話題や大リーグの話ばかりで違和感がある。 また、自衛官による中国大使館侵入事件も、意図的なのかどうか知らないが報道が少ない気がする。現職の自衛官でしかも幹部候補といってもよい人物が大使館に侵入したのなら大問題だろう。想像してみるとよい。もしこれが、米国大使館やフランス大使館への侵入事件であれば、政府はさっそくに謝罪コメントを出すのではないか。あまり想像したくもないのだが、相手が中国なので、謝罪をしないということは、まさかないのだろうね…。政府による謝罪がないことも、この事件の報道が少なめなことも気になる。 中国は好むと好まざるとにかかわらず世界のスーパーパワーとして台頭しつつある。人民服をきて自転車の洪水のように人々が移動していた永遠の途上国というイメージは過去のものだろう。いたずらな関係悪化は誰の利益にもならないように思う。
2026年04月05日
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「宇治拾遺物語」(下)を読んだ。鎌倉時代初期と推定される作者不詳の説話集である。一番最新と思われる話は後鳥羽上皇の時代に離宮にムササビが光ものとなって飛んできた話になっているので、作者もおそらくそれに近い時代の人だったように思う。内容は多彩で、壬申の乱や応天門の変のような歴史的大事件の物語もあれば、古代中国や印度の説話、舌切り雀や瘤取爺さんなど今に伝わるお伽話の原型のような話もある。その一方、下級の役人が大切にしていた魚の干物をごみとすり替えられて大恥を書いたといった卑近な噂話のようなものもあるので、作者は自分が面白いと思った話を分野にとらわれずに書き残したのだろう。宇治拾遺というが、拾遺のもととなった本は散逸しているくらいなので、元の本が失われても、ここに記録されていることにより、今日に残ったものも多いのかもしれない。吉備の真備と思われる人物(ひきのまき人)が、夢解きの女のところに行き、夢解きの用が終わった後に雑談などをしていると、国司の御曹司がお供を連れてやってくる。ひきのまき人が隣室で耳をそばだてていると、御曹司は大変な吉夢をみたようであった。ひきのまき人は夢解きの女を説得して御曹司の夢を買い取り、そのため、才覚を認められ、唐への留学も果たし、田舎者にもかかわらず大変な出世をしたという。異常な出世をした人物について、実はこうこうだったというのはよく語られることだったのだろう。高僧や信仰の利益の物語も多いが一方でインチキ坊主の話も多く、作者はシニカルな眼を持っていたように思う。そして最後の物語が孔子が大悪人に論破される話になっているのは象徴的である。孔子は欲望のままに悪事を重ねると最後はろくなことにならないというのに対し、大悪人は尭舜の子孫は今は一片の土地も所有していないし、伯夷、伯斉は餓死し、孔子の高弟の子路は戦死し、顔回は若くして窮死したというではないかと指摘する。そんな話である。
2026年04月02日
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桜の開花宣言が話題となっているが、これが季節が進み、秋から冬になると今度は富士山の初冠雪が話題になる。桜と富士山…この二つだけはどうやら特別の花であり、山であるということだろう。祭神は共通してともに日本神話上の最高の美神となっている。東京の桜には標本木というものがあり、靖国神社にある一本の樹で観測する。各地にもそれぞれの標本木があるのだろう。富士山の方はどうであろうか。山は360度方向からみることができ、こちらからは冠雪がみえても反対からは見えないということがある。調べてみると、これも、決まった地点があって、甲府地方気象台で観測するのだという。富士山といって思い浮かべる姿は生まれ育った地域によって違うといわれ、東京育ちだと丹沢の稜線上の富士山になる。ただ、それを離れて一般的な富士山というと、静岡側の海から見た富士山の写真や絵が多いようである。表富士、裏富士という言葉があり、これも一般には静岡側を表富士、山梨側を裏富士というらしい。もっとも山梨では特別な呼び方があるのかもしれないが。そう思うと初冠雪の観測地点が甲府地方気象台というのは意外な気がする。
2026年03月31日
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最近、女性天皇や女系天皇についての議論をよくみかける。ただ、いつも疑問に思うのは、世の中には愛子天皇を待望する声が圧倒的に多いというが、その根拠は何なのだろうか。おそらく女性天皇を認めるべきかという世論調査で肯定的な回答が多かったということがそれであろう。実際に、そうした世論調査なら何度も行われている。ただこれも質問文に誘導があって「安定的な皇位継承のためには」という語が入っている。安定的というなら皇位継承者の範囲は広い方がよい。そうなると、女性天皇も認めるという回答が多くなるのも当然だろう。この場合の女性天皇は皇位を継承する女性であって、今いる愛子様を指しているわけではない。そのつもりで回答した人もいれば、そうでない人もいるだろう。現在のところ、皇嗣殿下もいらっしゃるし、現行の皇室典範での皇位継承の可能性のある方の中には悠仁様もいる。女性天皇という場合には皇嗣殿下の娘の場合もあるし、悠仁親王の娘の場合もある。そうしたものを念頭において回答した人もいると思う。現行の皇室典範を改正して、皇位継承の順位を天皇の直系長子にするとしたら、その改正の理由が必要となる。現実に皇嗣殿下がいらして、その男子もいる中で、現天皇の直系長子を第一順位とする改正となると、どうしても現実の人間を比較する議論になってしまう。ネット上では、ある方を絶賛したり、逆にバッシングしたりするものがあふれているが、その絶賛の理由もバッシングの理由もよく見ると些細なものが多い。天皇制は日本の伝統というが、皇室外交や、妃が前面に出ることは、必ずしも伝統ではない。世襲制と能力主義はもともと相いれない。女系天皇についてはさらによくわからない。女性天皇が結婚して、その間の子供が天皇になるというのが、女系天皇なのであるが、皇族の女性方が今後どなたと結婚されるかなど誰にもわからない。天皇家や旧皇族かもしれないし、そうでないかもしれない。いずれにしても、誰と結婚するかによって、国民の側の受け止め方は違ってくるように思う。外国の王室にも女系継承はあるが、その場合の伴侶は他の国の王族や貴族など限られた相手になっているようにみうけられる。
2026年03月30日
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子供についてほしくない職業という調査がある。中学生の親200人に聞いたということでこの200人という数字、また、調査対象の選定など気になるところなのだが、とにかく、一位がyoutuberで以下、芸能人、自衛隊、政治家、介護士、医師、看護師という順になっている。https://dra-blo.hatenablog.com/entry/2022/03/29/195953このうちyoutuber、芸能人、政治家、医師、看護師については、なりたい職業、子供につかせたい職業でもランキングに入るので、本当に意味で子供につかせたくない職業というのは自衛隊と介護士ということなのだろう。介護士についてはなり手のいないことが喧伝され、外国人も奪い合いという状況らしい。しかし、なりたくない職業についた人が幸福とも思えないし、幸福でない人に介護される側もまた幸福ではないだろう。自衛隊について、つかせたくない理由を見ると、危ないとか自由がないということが挙げてある。消防士や警察官以上に自衛隊については「危ない」というイメージがあるのだろうか。また、自衛隊については退職の自由はないのであるが、こうしたことも世間一般には知られているのだろう。自衛隊法第40条(退職の承認)第四十条 第三十一条第一項の規定により隊員の退職について権限を有する者は、隊員が退職することを申し出た場合において、これを承認することが自衛隊の任務の遂行に著しい支障を及ぼすと認めるときは、その退職について政令で定める特別の事由がある場合を除いては、任用期間を定めて任用されている陸士長等、海士長等又は空士長等にあつてはその任用期間内において必要な期間、その他の隊員にあつては自衛隊の任務を遂行するため最少限度必要とされる期間その退職を承認しないことができる。ところでその危ないという理由であるが、自衛隊が戦場に行ったという例は戦後は例がない。中には自衛隊のいくところは戦場ではないというふざけたことを言った政治家もいたのだが、憲法が自衛隊の戦場派遣を防いだことは事実だろう。憲法には戦争を防ぐ力もないし、北からのミサイルを止める力もない。憲法9条があったから平和だというのは倒錯した議論としかいえないのだが、9条の存在が、自衛隊という集団が戦場に派遣されることを防いできたし、これからも防ぐ力があるのも事実だろう。そこのところはよく認識しておいた方がよい。
2026年03月27日
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昨日は高校無償化について書いたので、今日は国立理工系大学の女子枠について書いてみる。これは夫婦別姓と同様、関心ある人には関心あるが、多くの人にはどうでもよいことだろう。しかし、それにしても、どう考えても変な制度がじわじわと浸透しつつあるのはやはりおかしい。そもそも女子枠の導入の理由はなんなのだろうか。国連のジェンダー平等の指標になっている理工系大学における女子の割合が低いこと多様性を確保すること女子は理工系進学で不利となっているので優遇する必要があることこんなところだろうか。最初の国連におけるジェンダー平等であるが、文化も生活背景も全く異なる国を数値で順位づけるのでそれ自体それほどふりまわされるほどのものではないし、指標はあくまでも指標である。その指標を小手先でいじったところで本体の平等が変化するわけでないことは、温度計の目盛りを操作しても実際の温度が変わらないのと同様である。また、多様性であるが、多様性というとなぜ男女なのかという疑問はさておくにしても、理工系という分野において多様性というものはそれほど念頭におかなければならないものなのだろうか。今話題となっている買春の罰則の是非のような法制度の議論、あるいは製品開発やマーケティングでは女性の意見、感性というものも尊重すべきだろう。しかし、理工系については、考える人が男であろうが女であろうが、結論が変わることは決してない。最後に女子は理工系進学で不利というのだが、その不利がはたして地方在住の男子、貧困家庭の男子に比べてそれほど大きいものなのだろうか。女の子は数学ができると可愛くないよ…などという人はどこにでもいるのかもしれないけど、それで好きな数学の勉強をやめるなんていう人はいないのではないか。女子には向かないという思い込みで理科系の勉強をしないという人がいたとしても、それはもともとそうした勉強に向かなかったからだけのように思う。この国立理工系の女子枠導入は、どうも女性の側で望んだというよりも、別のところで導入が進められているように見える。ある種の男性にとっては、女性を優遇しようという議論は非常にかっこいいのではないか。俺は女性を優遇したところでそんなものを気にしない程度に優秀なんだぞ…というわけである。真面目な女子受験生は女子枠導入など望んでいない。別に合格後に女子枠で合格したといわれるのが嫌だなどというだけの理由ではない。入学試験などはしょせん通過点で、理工系難関大学は入ってからがむしろ大変である。それを考えると女子枠など百害あって一利なしのように思う。そしてまた、目をすべての学部学科に転じれば。外国語学部のように女子が多数のところもある。国立の外国語大学については男子枠導入という議論もあってもよいと思うのだが、なぜないのだろうか。さらに目を世間一般に広げると、フィジカルな分野でもないのに男性が占拠している分野がある。将棋界である。この世界も多様性を確保するために女子を入れれば、女性ならではの視点から新戦法や妙手が生まれるのだろうか。将棋界に女性がいないのは、女の子は将棋などするものではないという社会の思い込みがあるのだろうか。いずれもそんなわけないだろう。理工系分野も同じではないか。
2026年03月25日
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所得制限なしで高校授業料が実質無償化されるという。すでに実質無償化を行っている大阪府では公立校離れが加速しているという。全部が全部とはいわないが、私立の方が生徒集めに必死になっており、その分、公立校よりも魅力的なところが多いのだから、当然といえば当然だろう。だいたい今後、子供の数が減っていけば、幼稚園や塾産業同様に、私立高校も不況業種となり、ほっておけば多くの学校がつぶれる。うがった見方かもしれないけど、高校授業料無償化というのは、子育て支援というよりも、私立高校の救済策ではないのだろうか。公立高校が廃校になっても、教員や職員は別の部署に振り替えることができるし、多くは一等地にある学校の敷地は売却したり貸与したりすれば相当な収入になる。これに対して私立高校の廃校は教職員の再就職など問題が多い。そしてまた、大学ほどではないにしても、私立高校も役人の天下り先になっている。そんな私立高校も含めた高校授業料の無償化なのだが、結果的に公立校の廃校につながるとなればそれはそれで問題があるように思う。授業料そのものは無償化されても、私立校の場合は制服や校外学習などそれ以外の出費は公立校に比べて大きい。近くて安い公立校が消えれば結果的に教育費は増えるという家庭もでてくるだろう。子育て支援とは逆の結果になるわけである。そしてまた、商業高校、工業高校などの職業科は公立高校が中心なのだが、生徒が私立高校に流れることによって、こうした職業科公立高校の廃止の動きは加速していくのではないか。しかし、今後のインフラのメンテなどを担う技術者の需要を考えると、公立高校工業科の必要というものはやはり大きいのではないか。基本は工業科を出た技術者の待遇向上が重要であるにしても、社会を支える地味な技術職というものの存在をもっと考える必要がある。子育て支援といえば、なんでもとおるようにもみうけられるが、こと教育政策に関しては、社会全体としてどういう人材が必要であるかという視点からも考えなければならないのではないか。ちなみに高校授業料無償化だけではなく、三人以上の子供のいる場合の大学授業料の無償化というのも全くの愚策であると思う。
2026年03月24日
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今、話題の本で、あっという間に読み終えた。著者は医師なのだが、歩くといっても整形外科の本ではなく、終活の本といった方がよい。人は「おめでとう」と言われて生まれてきて、「ありがとう」と言って死んでいく。本書で紹介されているように、家族などの人とのつながりの中で死んでいく人は幸福なのだろう。そういえば映画「最高の人生の見つけ方」でも、余命いくばくもない富豪の救いは失われた家族の絆の再構築だった。まあ、それはそうなのだけれども、今後ますます人との縁の希薄な人が増えていく。宗教の役割には共同体の中での居場所提供ということがあるのだが、高齢社会、無縁社会の中でそうした宗教が伝統宗教も含めて特に活発化しているとも思えない。本書で紹介されたような幸福な終末ももしかしたら贅沢になってくるのかもしれない。棺桶まで歩くというタイトルは秀逸だが、考えてみれば歩くことは生活の基本だ。歩くのがおっくうになってくると消極的になり、付き合いも減り、認知症もすすんでいくのだろう。本書では、いつまでも元気で歩くためのノウハウが紹介されているわけではないのだが、いつまでも元気に歩こうという目標だけは持ちたいと思う。
2026年03月23日
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宇治拾遺物語を読んでいる。成立は鎌倉時代前期とされ、拾遺であるが本編の方は散逸している。お伽話、説話、伝説、艶笑話と多岐にわたっており、どの話も興味深い。ただ中にはなぜこういう話が説話として採取されたのか違和感のあるものもある。例えば、お寺で僧侶たちが餅を食べるのだが、稚児はすぐ起きてくると意地汚くみられるとおもって狸寝入りをする。そうすると僧侶たちは、子供を起こすのも気の毒だといって稚児には声をかけずに皆で餅を食べてしまうので、稚児もあわてて起きてきたという。僧侶たちは起きてきた稚児を見て大笑いしたとあるので、狸寝入りにはうすうす気づいていたのであろう。いずれにしても、これなどは日常的な話で説話としては普通のこらない。宇治拾遺物語の作者は不詳なのであるが、広く世に伝わる話にまぜて身近にあった話題となった出来事なども残したのかもしれない。収録された話の中には瘤取り爺さんや舌きり雀の原型のようなお伽話もあれば、芋粥、鼻、地獄変など芥川の小説の元になった話もある。ただ、以下のような話は怪異を見るのが特定の人(霊感のある人?)に限られ、その結果も日常で起こりうる幸福(身分に応じた幸福な結婚)となっているあたり、現代にも通じるような気がするがどうであろうか。蛇という動物報恩譚の部分を変えれば、今でもこういう話はあるのではないか。近き話とあるので、古くからの伝承というよりも、日常のコミュニティで語られていた怪談のようである。雲林院の菩提講に行く途中に石橋があり、ある女Aが石を踏み返したところ、その下に蛇がとぐろを巻いていた。蛇は女Aの後についていくのだが、女Aは気づく様子もない。後に行く女Bは蛇に気づき、気になって女Aと蛇の後をつける。女Aはそのまま講話を聴くのだが、蛇もその傍にとぐろを巻いている。不思議なことに蛇の姿は女B以外には見えないらしい。講話が終わると女Aは宿を借り、気になる女Bも同じ宿に泊まる。翌朝女Aは宿の主に不思議な夢を見たという。石を踏み返したおかげで石に押し付けられる苦痛から逃れた蛇が御礼を言おうとしてついていったところ、ありがたい法話まできくことになり、おかげで人間に生まれ変われそうだと言って、御礼に幸せを授けようとしているのだという。その話を聞いた女Bは自分の見た蛇の話をしたことによって、女Aとはよき友人になる。その後、女Aは身分の高い人の下家司の妻になって幸福を得たという。
2026年03月19日
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戦後の日本には戦死者はいないということになっている。ただ、現実には、朝鮮戦争下で日本に掃海舞台の派遣が要請され、元山での掃海作業中に一人が死亡し、18名が重軽傷を負っている。この事実は当時は秘匿されていたために、あまり知られていない事実ではないか。こうした掃海作業の危険性は現代でもあまり変わっていない。今回の首相訪米で機雷除去に対する協力要請が行われれば、その対応が気になるところである。ウクライナやガザだけではなく、米国のイラン攻撃、パキスタンのアフガニスタン空爆、イスラエルのレバノン侵攻など世界は騒がしさを増している。こうした中で石油の供給が滞ることによる壊滅的な影響など日本の経済にとっても不安定要因は多い。せめてあと十数年は平穏な時代が続いてほしい。大変な時代というがいつだって大変な時代…という言葉がある。そりゃそうだろう。上の世代は戦争とその後の社会の激変を経験しているし、その前の世代だって絶え間ない戦争があった。近代化に向けて邁進していったような印象のある明治の時代だって、地租改正反対、義務教育反対の農民一揆は何度も起きている。士族の反乱に比べてとりあげられていないだけだろう。コレラ、赤痢といった伝染病の脅威は大きく、結核やハンセン氏病も不治の病として十分人に畏れられていた。そういう世代に比べれば、去年なかった家電が今年は家にある、だんだん豊かになっていって肉も普通に食べられるようになった、右肩上がりが当たり前、みんながより豊かになっていくのが当たり前、そんな時代に子供時代、青年時代を過ごした世代はずっと幸運なのだろう。長い歴史の中でも珍しいくらいに。
2026年03月18日
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わけあって家族がネットフリックスに加入したので、期限が切れる来月まで視聴できることになった。ネットフリックスは話題のドラマも多いのだが、韓国の財閥令嬢と北朝鮮軍人のラブストーリーである「愛の不時着」はちょっと見る気がしない。11歳の子供が独立運動の百戦百勝の霊将だったという建国神話を持つ圧政国家の軍人が主人公というのもどうもね…とも思う。おそらくドラマとしてはすごくよくできているのだろうと思うのだが。「李泰院クラス」も面白そうなのだが、全16話というのがちょっと微妙で、もう少し短い方がよい。そこでやはり前々からみたかった「イカゲーム」を見ることにした。子供の遊びをしながら負ければ殺されるというリアルゲームものなのだが、ばかばかしさを通り越した人間ドラマが面白い。第一話で大人二人が地下鉄の駅でメンコ遊びをするのには笑えるが、見ているうちに、だんたんこの過酷なゲームが競争激しい現代社会を象徴しているように見えてくる。風刺、人間模様など単なるゲームの勝敗を超えたメッセージがあり、一話の時間があっという間に過ぎる。ギャンブル狂のダメ人間、病気持ちの独居老人、転落した元エリート、脱北者、外国人など、社会の中で阻害された人々が人生の一発逆転をゲームに託す。全話視聴したら再度感想を書いてみる。
2026年03月17日
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ホラー短編なのだが、ホラーの本質は様々である。「よもつひらさか」は実際にこんな場所があるのかもしれないという神話や伝承がないまぜになった土俗的恐怖で、民俗学博士が活躍するジャンルにもよくあるテーマだ。実際に、山陰には神話にでてくる現世と来世の境である黄泉平坂という場所があるという。「見知らぬあなた」は最後まで結末が予想できなかった。やはり一番怖いものは…なのかもしれない。「ささやく鏡」は鏡というものの神秘性は誰でも感じるもので、ホラー小説の小道具として鏡がでてくるうことは珍しくない。夜中などには鏡はあまりみたくないものである。そしてその鏡に未来、それも不吉な未来が写るとしたらそれはそれで怖いものだ。「双頭の影」は天井の影にまつわるホラーである。子供の頃、天井の染みを眺めながら怪物の形を想像することはよくある。それは大人になると、子供らしい空想で片づけてしまうのであるが、もしそれが空想ではなかったとすれば、どうなのだろうか。日常から少しはみ出したことなのだが、もしかしたら、そういうこともあるのかもしれないということが世の中にはある。気のせいだとか、一瞬の目の錯覚だとか、見間違いだとか、そういった形で合理化してしまうようなことを、膨らませて非日常的な物語を紡いでいく。そういうふうにしてホラーは生まれるのかもしれない。
2026年03月16日
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イラン情勢で目立つのは国連の存在感の低下ではないのだろうか。国連の安全保障理事会は11日、イランによる中東各国への攻撃を非難する決議を採択したというが、それ以前に小学校攻撃などを含む米国のイラン攻撃をなぜ非難しないのだろうか。今回の決議はその効果云々よりも国連に対する不信感を増したように思う。日本人は国連、オリンピック、ノーベル賞を過大評価しているなどという言葉もあるが、日本では国連の権威はまだまだ高い。戦後間もないころは国連加盟は日本外交の悲願だったというし、国連にさきがけて加盟を認められたユネスコについてはユネスコ村という施設までできて、小学校の遠足の定番になっていた。国連加盟の次は日本にも国連の機関を誘致しようということになり、国連大学の誘致のために猛烈な運動を行った。その国連であるが、米国は最近、国連に冷たく、計66の国際機関や条約から脱退すると表明しただけでなく、2025年分の分担金を支払っておらず、国連の財政悪化に拍車がかかっているという。そのうち、ニューヨークの国連本部についても移転の話が起きるのかもしれない。米国が国連本部の撤退を要求し、それに対して中国が破格の条件で国連本部を誘致する。そんな未来ももしかしたらあるのかも…。
2026年03月15日
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日本はいろいろな意味で減少局面に入っているなと感じること。ある川崎市の公的施設にいったのだが、そのパネルに川崎港の貨物量の推移があった。一瞬、左右を見間違えたのかと思ったのだが、そうではない。最近減少傾向にあるのだが、無意識のうちにそうしたグラフは自然と右肩上がりになっているものとばかり思っていたので、一瞬違和感があったのだった。何もかも増えて当たり前、上昇して当たり前という時代はとうに終わっている。結婚式場の広告はほとんどみないのに、葬儀の広告はどこに行っても目に付く。昔は葬儀の広告というのはなんとなくタブーのようなところもあったのに、テレビでも新聞でも小さなお葬式や樹木葬の広告ばかりだ。人口が減っているのだから、それに伴って様々な需要が減っていくのはごくごく当然のことだろう。世の中には商圏というものがあって、コンビニだと何世帯、デパートだと何世帯というのがあるらしい。地方都市の人口減少、それも、購買意欲の旺盛な年代層の減少によって、地方の賑わいの中心になっていたデパートがつぶれたといった話はよくきく。一戸建て志向の強い時代にできた瀟洒な住宅街も高齢化とともに、スーパーが撤退し、衰退に拍車がかかっているというのもよくみかける。老朽化にはまだ間のありそうな瀟洒な一戸建て群で空き家が目立つというのもたいていはこのパターンだ。そういうところではスーパーや店は撤退しているのに、介護センターとか医療機関はめだつ。そのうちそういうものもなくなったら、いよいよゴーストタウンになっていくのだろうか。これは地域にもよるのかと思うのだが、満員電車というのも随分と少なくなった。昔は山手線は混んでいる電車の代名詞で朝夕はぎゅうぎゅうだったが、昨今ではそうでもなく、区間にもよるが運が良ければ座れたりする。都内のマンションの値段だけは上昇が続いているというのだが、これも、人口減少や空き家の多さを考えるといつまで続く現象なのだろうかと思う。
2026年03月13日
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東日本大震災から15年がたった。大きく船が揺れるように地面が動き、ついに東京に大地震が襲ったのかと思い、建物が次々と崩れる情景を想像した。様子がわかるにつれ、東北地方の大震災で、津波被害が大きなことなどを知ったが、それでも、真偽不明の情報もあり、再度の地震の恐れもあった。交通機関が止まったので、歩いて帰ったのだが、同僚の中には20キロを歩きとおしたという人もいたという。道はそんな徒歩の人々の群れでいっぱいで中にはヘルメットをかぶっている人もいて、皆黙々と歩いているのが印象的だった。コンビニのパンや弁当類があっという間に消えていることと、途中の居酒屋がいやににぎわっていたのをよく覚えている。さすがに大声での談笑や笑い声はなく、静かだったように思ったが。家に帰ると耳慣れない電子音が聞こえる。何かと思ったら冷蔵庫のドアが揺れのはずみで開いたままになっていて、ピーピーと音をたてているのであった。揺れの方向によるのか。食器棚は幸い無事だったが、本棚の方が本が散乱していて、人間の力ではこれ以上散らかすのは無理だと思うほどで部屋中に本などが散らかっていた。被災地に比べると、比べるのも申し訳ないくらいの話だが、その日から震災後の日常が始まった。ティッシュなどの日用品の品薄と絶え間なく訪れる余震である。そして街からは外国人が消えた。今よりはずっと外国人は少なかったのだが、それでも、留学生の中には急遽帰国した人もいたし、大使館の中には臨時に関西に移ったところもあるという。今も、もしも大きな震災が起きれば。外国人はあっという間に姿を消すのだろう。その意味でも、外国人労働者なしでは社会が回らないような構造にしてしまうのは危険だと思う。長いようでも短い15年。あれほどの災害であっても、あの頃、暴動とか略奪とかいった災害の際によくあるニュースはきかなかった。だいたい暴動とか略奪などということを口にすること自体、被災地に失礼だろう。実際には被災地を狙った窃盗もあったという話も聞くのだが、大規模が窃盗団が大挙押し寄せたというものではなかった。震災などの自然災害はいつ襲ってくるかわからない。その場合に恐ろしいのは災害そのものの恐怖もさることながら、大規模な暴動の頻発などで社会そのものが崩壊していくことなのかもしれない。
2026年03月11日
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原田マハの「たゆたえども沈まず」を読んだ。ジャポニズムなど日本趣味が流行するとともに、絵画では印象派といった新しい流れが起こった時代。そんな時代を背景にゴッホ兄弟と日本人画商との交友を描いた小説である。かなりの部分はフィクションにしても、ゴッホの日本への憧れを思うと、実際にこうした交友があっても不思議ではない。ゴッホは浮世絵を収集しているだけでなく、浮世絵を油絵に移した絵も描いている。斬新な構図作りなど浮世絵の示唆された作品も多いのかもしれない。小説を読んでいると、ゴッホの作品を改めて見たくなる。それぞれの作品に物語がある。ゴッホに限らず、これからは絵を見るときには、画家の人生にも思いをはせるようになりそうである。ジャポニズムの流行の背景は小説には描かれていないが、文化の中で新しいものが求められていた時代であり、その要求は欧米ではないどこかの文化に対する関心になったのかもしれない。また、そうしたものに商機あるとして、日本の浮世絵などを積極的に売り込んでいったこの小説の主人公林忠正のような人物の貢献もあったのかもしれない。また、浮世絵には枕絵というジャンルもあり、有名な浮世絵師もこうしたものを描いていた。こういうものも、ジャポニズムの中で海外に流出していったのだろうか。江戸末期から明治期における日本の文化財の流出とそれが海外の文化に与えた影響というものはそれだけで大きなテーマになるのだろう。お薦めの小説である。
2026年03月10日
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時々言われることなのだが、小さく白い犬と大き黒い犬の喩がある。小さく白い犬は同情を引きやすく助けも受けやすいのだが、大きく黒い犬となると同情は得にくい。同じ弱者支援でも子供とか女性ならすぐに援助の手が差し伸べられても、男性、それも中年以上の男性となるとほっておかれるということだろう。よく子供の貧困ということが言われるが、子供は孤立して存在しているわけではなく、親が貧困だから子供が貧困ということだろう。そしてその背後には子供を持たない、あるいは持てない人々の貧困もある。それなのにことさら子供の貧困が言われるのは、貧困の自己責任論だけではなく、子供がまさに手をさしのべたくなる小さくて白い犬だからだろう。そういえば、アフリカ支援のポスターでも幼児や赤ん坊の写真がよく使われている。しかし、いくら社会の同情がなくても、中年以上の男性の貧困がないわけではない。年収が少なく、未婚で、雇用も不安定という層である。中年以上のさしたる技能を要しない職種の場合、女性の方が選好される傾向もあり、生活不安は男性の方がより深刻なのかもしれない。こうしたいわゆる弱者男性は社会の中で声を上げにくく、支援も得にくいために注目されることも少ないが、実はけっこうなクラスターである。ただ、こうした弱者男性は、弱者男性としてのカテゴリーで団結するというのは無理であろうし、そもそも自分を弱者男性と認識したくないという人もいる。だから弱者男性としての何らかの意見や要求が社会の表にでてくることは少ないし、社会の側からは見えにくいクラスターだともいえる。ただ、それでも、購買力は少なくても消費者であることには変わりないし、選挙の際には有権者でもある。こうした層が次第に中年期から高齢期にさしかかったとき、社会にどんなインパクトがあるのか、そんなことも考えさせられる。
2026年03月09日
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あまり現代作家の本は読まない方なのだが、薦められて「たゆたえども沈まず」を読み始めた。ジャポニズム流行のパリを舞台に日本人画商とゴッホ兄弟のかかわりを中心に描いた小説なのだが、背景の知識の豊富さと言い、文章の確かさと言い、こんな小説家が同時代にいたのには驚きを感じる。ジャポニズムというのは言葉では知っていても、その背景には日本美術を売り込んだ人々がいた。主人公の画商は実在の人物なのだが、明治の初期に、欧州に渡り、多くの文化人と交友関係を持ったのだが、こうした人物はもっと知られてもよい。当時の日本人にとって欧州は今よりもはるかに遠かった。ゴッホは特に好きだというわけではないし、はっきりいって万人受けする画家ではないだろう。だからこそ、生前にはなかなか世にでなかった。しかし、この小説を通じて、ゴッホとジャポニズムのかかわりを知るにつれ、ゴッホの絵を見たくなる。浮世絵の美人画を油彩にした絵もあれば、浮世絵の並んだ壁を背景に人のよさそうな親父を描いた絵もある。それだけではなく、浮世絵の斬新な構図が、風景画に影響を与えたことも考えられる。そのあたりも小説にはでてくるのかもしれない。3分の2ほどを読み終えたところなのだが、全部読み終えた後で、あらためて全体の感想をかいてみたい。余談なのだが、ゴッホと宮沢賢治は似ているという話もある。生前には認められなかったこと、36歳で亡くなったこと、世に出るために弟が尽力したこと。
2026年03月08日
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米国でトランプ大統領が当選したときには「アメリカファースト」ということがいわれた。これは、自国の経済を第一に考え、国際社会への関与を控えていこうということではなかったのだろうか。世界の警察官などはやめて、その資源を自分たちのために使ってほしい。そんな思いで多くの労働者らがトランプを支持したのではなかったのだろうか。いつの時代でも、どんな社会でも、戦争になれば最前線に行くのは恵まれない層である。イランへの軍事介入も長引けば米国の戦死者もでてきて、厭戦気分が蔓延することだろう。実際、米国ではトランプの息子をイランとの戦争に送り込めという声があがっているという。なんといっても世界を騒がしているのはイラン情勢なのだが、いつも見る朝のニュース番組では犬や猫の話題や、野球の練習風景、そして軽井沢に粉雪が舞うというニュースなど…わざとイラン情勢のニュースをさけているのかと思うほどだ。まさかとは思うけど。
2026年03月05日
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選挙で負けたからといって、あの選挙は推し活選挙だったの、人気投票感覚で投票しただのといった議論は散々聞いた。しかし、それだけにとどまらず、わざわざ街頭インタビューまで行って、深く考えずに投票をした人々を洗い出し、日本人は民主主義を血肉化していないと嘆くにいたってはどうなのだろうか。http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-11530.htmlありていにいえば、選挙に負けたのは愚民が多いからだということなのか。気持ちはわからんではないが、選挙とはそういうものではないのだろうか。愚民と見下している限りは共感は得られないし、選挙で勝つためにはその「愚民」に届くような訴えをするしかないのに。負けたということは、その訴えが届かなかっただけのことで、どうしても投票したい候補者がいれば、「何かやってくれそうだ」という気分で投票する対立候補などふっとんでしまう。各政党や候補者の政策を子細に検討し、熟慮の上で、投票する。こういう人は普段から政治に関心があり、それに関する情報にも深く接している人々であろう。そんな人はおそらくどこの国でも多数派ではない。それどころか国によっては字が読めない人々も相当数いるところもあるのだ。それでもどうしても「民主主義を血肉化したい」のであれば、選挙民に政治知識に対するテストでも行って制限選挙にすればよいのだが、それでは民主主義とは逆になってしまう。どうせ街頭インタビューをするのであれば、なぜ与党に投票したかではなく、なにを政治に望むのかという本音を子細に洗い出したらよい。夫婦別姓や同性婚は普通の国民にとっては関心事でないことも分かるだろう。選挙に惨敗したのは民主主義が血肉化していないからだという議論…どうもこんな古い諺を思い出す。 己の顔が醜いからとて鏡を責めてなんになる。
2026年03月04日
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先の選挙結果について推し活選挙と言って有権者がアイドルを選ぶような感覚で投票をしたように見る見方もある。また、初の女性総理だから「何かやってくれそうだ」という気分で投票をしたという有権者もいるという指摘もある。それを言うのなら、顔がよいとか、若いとか、新鮮だとか、人柄がよさそうだとかで投票行動が左右されることは昔からあった。細川総理、鳩山総理のように内閣発足直後に脅威的な支持率を得た総理はこうした要件にかなっていたのではないか。今に始まったことではない。それよりも、今回の選挙は、いわゆるリベラル勢力が惨敗消滅した選挙と位置づけた方がよい。推し活だのなんのと、有権者を愚民のように扱う言説は負けた側のリベラル勢力に目立つようなのだが、それよりもなぜ有権者の支持が離れたのかを分析しないと再生の見込みはない。もっとも、さっさと消えた方がよいと思っている有権者も多いのが現実なのだろうけど。リベラルの敗因はいろいろとあるのだろうけど、有権者の求めるものと主張するものとの乖離がめだってきたというのも大きいのだろう。そして最後の「ママ、戦争を止めてくるわ」という気持ちの悪いフレーズがとどめの一撃になった。選択的夫婦別姓や同性婚はあってもよいが、そもそも普通の国民にとってはどうでもよいテーマだ。こういうものを大問題と騒いでいるあたりで逆に不信感がわく。外国人の単純労働力の流入は西欧の現状を見ても、今後の日本社会の在り方を決める大きなテーマだと思うのだが、労働力流入の規制を唱える議論に対して、やみくもに差別反対だの共生だのと叫ぶリベラルさんには辟易とする。住環境の悪化や治安悪化に苦しむのは庶民である。そういえば、庶民派政治家というものについてもなにか勘違いがあるのではないか。庶民派政治家というのは庶民と同じような服を着て登院し、庶民並みのレベルの質問をすることをいうのではない。そういうのは、間違って国会議員になった単なる一般人であろう。庶民の生活感覚を理解し、庶民のための政策を提言する政治家こそを庶民派政治家という。リベラルは負けたけど、社会の中で不遇な人々の利益を代表する政治勢力が不要になったわけではない。リベラルのいう格差貧困をなくそうというのは選挙前の題目だけだったが、現実的にそのための提言を行う政治勢力はやはり必要であろう。そうしたものを必要とする層こそがまさにブルーオーシャンなのだろうけど。
2026年03月03日
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怪奇小説仕立ての推理小説ということであるが、それほど怖くもないし、推理小説としてもそれほどの出来とも思えない。もちろん個人の感想であるが…。ただし、怖くもないし、うならせるトリックがないとしても、この小説がつまらないというわけではない。三人の女性の視点で書かれているのだが、それぞれにキャラが立っているし、特にインド系で同性愛者、そして親と同居している刑事が魅力的である。この女性刑事を主人公にした連作ものもあるらしい。他の二人は才色兼備の学校教師と闊達なその娘である。それぞれの視点で語られる部分は原作でも文体を変えてあるのだろうけど、日本語の翻訳も極めて読みやすい。物語は学校教師の日記(もちろん紙の日記)に他人の書き込みがあり、それが一種の殺人予告になるのであるが、そもそもこれがわかりにくい。中高生の頃、日記をつけていて、それを家族に読まれないために苦労した経験がある。誰にも絶対に読まれたくないものが日記であるはずなのに、本書の学校教師は他人の書き込みのある日記を警察に提出までする。それを女性刑事が興味津々に読む…全く考えられないシチュエーションだ。しかし、日記を書いたのは学校教師。それが日本でいえばどんなポジションにあたるのかよくわからないが、特定の作家の研究をしていて、研究成果が出版されることもありうるという設定なので、日記もいずれは出版される可能性も考えて書いていたのかもしれない。そうであるならば、中学生がこそこそ書く日記とは違うものだろう。それがわからないと、日記に見知らぬ他人が書き込みを入れるとか、その日記を警察にそっくり渡すといったことに対する違和感は最後まで消えない。もっとも、日記に書き込みをするのが幽霊でない以上、実際に書き込みをすることのできる人間は限られるはずなので、本当はもっと早く犯人が分かってもよいのではないかというつっこみがどうしても最後までのこるのだが。
2026年03月02日
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国会である野党議員が、本当に戦争に巻き込まれた時、最前線に行くのは誰なんですかという質問をしたという。続けて、母親は子どもを戦争に行かせるために産んだんじゃないとも述べている。議員の方はまだお若い方のようなのだが、こういう質問を聞くと、昭和30年代や40年代の頃に世に蔓延していた戦争はこりごりだという感覚を思い出す。この方の質問を一言でいえばこういうことだろう。国のために死ぬのはまっぴらだ…と。別にこれは珍しいものではない。昭和30年代には、まあ、冷戦体制当時の仮想敵国は共産圏だったのだが、戦争になったら赤旗と白旗を同時にもって降参するといっていた知識人もいた。そして現実にそう思っている人も多かった。戦争で亡くなった人は犠牲者であり、貧乏くじを引いた人々だった。戦争を引き起こした財閥や指導層は戦後も肥え太って暮らしている。そんな論説もずっと昔に読んだことがある。なにしろ、中学校の頃、理科室の机の上には某政党の機関紙がいつも置いて、読書好きの子は結構読んでいたのだから。時代は移り、さすがに赤旗と白旗はないにしても、それでも、多くの人は戦争になったら国家のために命をかけるなんて思っていないだろう。その昔、中国の兵隊はとても弱くて、銃を支給されると、さっさと逃げ出して銃を金にかえてしまったという話がある。頭数だけそろえればよいというものではないということだ。そこまではいかなくても、少なくとも、幼児からの愛国教育をしていない限り、戦争のできる国になどならないものである。昔の逃亡兵は一族の恥、村の恥で袋叩きになったというが、今の日本社会であれば人殺しが嫌で軍隊から逃げ出した優しい人ということになるのではないか。そもそも軍人は国家のために命を懸けるとともに、高い名誉で遇される職業であり、単なる武器をもった公務員は軍人ではない。国家と特別の関係にあり、逃亡や不服従は軍刑法という苛烈な法規で処断され、最前線で逃げるのは最重要の犯罪となる。そんな軍人は日本にはいないし、さすがに現憲法の下では無理であろう。今の政府が戦争を目指しているとも思えないし、どっかの国から武器を買うために防衛費が増えることが戦争の危険につながるとも思えない。一方で、戦争は相手があることなので、防衛費を減らし、憲法九条があれば起きないというものではない。ただ、その場合でも、日本はこちらからは戦争を起こせない国だということは現政権だってよくわかっていると思う。子供が血まみれになるといった国会質問はやはり時間の無駄というものだろう。
2026年03月01日
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ジャンルでいえば巨悪追及法廷ドラマというのだろうか。司法試験を好成績で合格しながら、父親が死刑囚という境遇ゆえに出世コースを外れた弁護士に謎の女事務員、女性記者、刑事が協力する。しかし、この三人はいずれもそれぞれの形で父親の事件にも関係をしていて…という物語。ドラマとして面白いし、そしてまた、俳優の演技は皆非常に上手い。財界、軍隊、政治家という巨大な敵に立ち向かうというのは荒唐無稽だし、日本ではこういうものはあまりないのだが、退任後は大統領も逮捕されることがある韓国ならではの物語だろう。それにしても、事実は小説よりも奇なり。ユン前大統領の検事総長から大統領、そして逮捕死刑求刑となると、外国のニュースにしてもなにがなんだか分からない。もとはといえば、奥様が数十万のバッグをもらったことに端を発しているのだが、それってそんなに大問題なのだろうか。まさかずっと服役しているとも思えないが、ジェットコースター人生でこれもドラマを超えている。ドラマ「自白」の話に戻るが、財閥崩壊というのはよくあるのだが、軍の不正を扱ったというのは初めて見たように思う。欠陥のある軍用機を輸入したことにより、訓練中の事故死者も発生する。ドラマとは言え、軍の問題を扱うというのは問題視されないのだろうか。軍隊というのは、国家の名で、国民に名誉と引き換えの死を強制することだってある。けれども、その名誉も勲章を授ける大統領が退任後は囚人になったり、自殺したりというところでは、あまり実感がないのかもしれない。
2026年02月25日
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人間というものは情報を自分の願望通りに解釈するもののようだ。聞いた話であるが、先の大戦で米国のクリスマス風景の写真が「ゆるみきった米国社会」の実態として紹介され、日本国民の中には日本の勝利の確信した人もいたという。日本が物資窮乏していく中。敵国は豊かな生活を享受しているとなれば、こうした経済力の差異は総力戦においては軍事力の差異になってくることに不安を感じなければならなかったのに。同様に今回の選挙を推し活選挙だとか、高市人気に踊った民意と解している向きがあるようであるが、これも、同様に、自身の願望の投影なのではないのだろうか。なぜなら、こうした解釈は野党支持者に多いように見受けられるのだから。若い女性を中心に高市総理が人気でサナ活ブームなるものがあるというが、高市グッズで検索しても他の総理と同様に国会の売店で売っている歴代総理の似顔絵入り湯飲みくらいしかでてこない。さらに検索すると愛用の黒いトートバッグやピンクの多機能ペンが売れているというので、多少はそういう傾向があるのだろう。あちこちで山積みになっているとかならともかく、検索すればでてくるくらいのブームなら他の有名人でもあったのではないか。そしてまた、若い女性といっても多様である。どんな女性に人気になっているのか。その実態もよくわからないし、そもそもそうした人気があったとしても、選挙結果全体への影響はそれほど大きくないのではないか。これが小泉総理人気だというのならまだわかる。あのときは、マスコミが人気だ~といいながら人気に火を付け、純ちゃん写真集だとか主婦の追っかけだとかを記事にした。マスコミの影響力の強い時代でマスコミが人気を作ることが可能だったわけである。それに比べると今回の高市総理はマスコミがことさら人気を煽ったという形跡もない。やはり、今回の選挙結果は、旧立憲民主、共産、そしてれいわという既存の野党勢力に対する失望が背景にあるのだとしか思えない。そして底流にはやはり前回選挙の時と同様に、再現ない単純労働力収入によって日本も西欧並みの多人種社会になるのではないかという不安があるのだろう。憲法九条さえあれば戦争は起きないという信仰、そして自民党政権は戦争を目指しているという妄想にはもう辟易としている。それよりは財界主導の現政権の下で労働者の権利が一層縮小されていくであろう不安の方が現実的だ。総理はさっそく無制限の残業につながる裁量労働制の拡大を打ち出している。あの「ママ、戦争をとめてくる」という気持ち悪いコピーではなく、「ママ、過労死をとめてくる」だったら選挙の結果も少しは変わっていたのかも…。
2026年02月24日
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フィギュアスケートのエギジビジョンを見た。ロシアやベラルーシは五輪からしめだされているというのだが、選手にはロシア風の名前も多く、国境を越えた選手たちもけっこういるのかもしれない。よいとか悪いとかではなく、オリンピックも民族とか国家を超えたものになっているように思う。日本選手として活躍したリード姉弟の妹がジョージアの選手として出場していたし、フランスのシャオ選手は東洋系の風貌なのだが、祖父が中国出身でモーリシャスに生まれ、今はフランスで活躍しているという。そういえば日本女性でロシア国籍をとり、ロシアの選手として活動していた人もいたと思う。いまやプロスポーツは世界から人材が集まってきているし、プロではなくとも、オリンピックは世界最高の舞台として国境を越えて人材が集まっても不思議ではない。また、逆に、トップレベルの選手と言えなくても、小国に国籍を移してその国の選手として出るような人もでてくるだろう。また、女子シングルのアリサリウ選手は父が中国出身で、匿名の卵子提供者と代理母により生まれたという。父親は自分の子供は欲しかったのだろうけれども、身の危険等を感じて結婚することには躊躇したのかもしれない。卵子提供による出産も代理母による出産も日本では行われていないし、代理母など罰則をもって禁止しようとする議論さえもある。これもどっちがよいとか悪いとかではないのだが、アリサ選手のはじけるような明るい表情には、出産についても個人の選択の自由を幅広く認める懐の深さのようなものを感じた。
2026年02月23日
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先ほどの選挙の終盤近くになって「ママ、戦争を止めてくる」という言葉が突然バズったという。現総理や与党は戦争をやりたがっていて、それを防ぐには野党に投票すれば戦争を止めることになるという趣旨だと解するのだが、今の日本で戦争をやりたがっている政治家がどこにいるのだろう。そしてまた、戦争というものは、相手があって起きるものなので、自国の軍備の拡張を止めたからと言って、それで戦争が起こらなくなるというものでもない。現政権は軍事費を拡大している。だから現政権は戦争をやりたがっている。このまま現政権が続けば戦争になるに違いない。だからママがあなたのために戦争を止めてくるわね。こういうのは一部には共感されても、大多数はかえって首をかしげるというものである。止めたのは戦争ではなく、リベラルの息の根であった。戦争反対、九条守れ、沖縄の基地、原発反対という庶民の頭上高く打ち上げられる空中戦。そしてその一方でのジェンダー平等、夫婦別姓、LGBT差別反対、同性婚などなどの普通の庶民にとってはどうでもよい問題。こうしたリベラルが庶民の支持を得られるわけがない。今度の選挙は歴史的には自民圧勝と同時にリベラル消滅の選挙と位置付けられるのではないのだろうか。この結果に対して、選挙民は人気投票感覚で与党に投票したなどと選挙民を〇〇よばわりすればますます己の無知をさらけだすばかりだろう。ただ、消えたのはリベラルであって、経済的に弱い立場にある者たちを代表する政治勢力の存在価値がなくなったというわけではない。こうした勢力は、伝統的にはいわゆる左翼と呼ばれていたのであるが、マルクス主義の威光が消えた今では、伝統的な左翼の定義にそれほど意味があるとも思えない。かえって、極右といわれる勢力の外国人単純労働者流入の抑制論やある政党がよく主張していたような上からの給付の方が、経済的弱者の声には応えているのかもしれない。
2026年02月19日
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数年前に読んだ歌集「滑走路」を再び読んでいる。作者は1984年生まれであり、2017年に享年32歳で逝去している。中学から有名な進学校に通い、その後、長い時間かかって有名私大を卒業したものの、就職には失敗して非正規労働を続けてきたという。非正規の友よ、負けるな ぼくはただ書類の整理ばかりをしている屋上でコーヒーを飲む かろうじて俺にも職がある現在はあとがきにもあるように、作者は中学受験に成功したときには、前途洋々だと信じていたという。普通はそうだろう。そして私立中学に通うくらいなので経済的にも恵まれていたのだろう。そういう人でも、いったん就職がうまくいかないと、なかなか生活が安定しないのが今の社会なのかもしれない。歌集には恋をうたったものもある。ただどこか恋に恋しているようで具体性がない。半分は想像、半分は願望だったのかもしれない。非正規職の男性の場合、婚姻率は非常に低く、異性との交際からも阻害されている面がある。若者と呼ばれる年齢を卒業するころに死去しているのだが、もし生きていれば41歳になる。ロスジェネ世代の最後尾にあたる年代なのだが、今でも彼のような境遇の多くの人々がいる。
2026年02月18日
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一世を風靡した名曲ジンギスカンのボーカルの方がなくなったという。ディスコが流行っていた時代に人気になり、その後、日本では運動会の定番になって使われた曲なので、ほとんどの人が知っているだろう。この音楽グループはモンゴル政府からも勲章をもらったという。モンゴルではジンギスカン(チンギスハン)は英雄で、でっかい銅像まであるという。ところが、少し前まではそうではなかった。高校の頃にみた旅行ガイドの本に、モンゴル旅行でチンギスハンの話をするのはドイツに行ってヒットラーの話をするのと同じようなものだという注意があったのを覚えている。社会主義時代にはチンギスハンの侵略はモンゴル人にとっての黒歴史になっていたのだろう。しかし、本心ではそう思っていなかったことは、体制転換後にあっという間に民族の英雄として復権したことでもわかる。さすがにヒットラーが英雄視されることは未来永劫なさそうであるが、歴史的人物や事件の評価などは、その時々の時代によって変わっていく。歴史は勝者にとって書かれるというのも有名な言葉だ。負ければ大悪人で勝てば英雄というわけだ。ジンギスカンはモンゴルでは英雄として復権し、日本でも昔は偉人伝に掲載されていたりしたのだが、欧米では今でも悪人という印象の方が強いのではないか。黄禍論というのは今でも時々話題になるのだが、その源流は13世紀のモンゴルの席巻にあるという。
2026年02月16日
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リベラル政党の壊滅の背景について考えてみる。社民党はしばらく前から消滅同然だったし、共産党も除名騒ぎでイメージを大きく低下させた。この除名騒ぎに付随した批判について、共産党幹部は結社の自由がわかっていないと反論したという。頭脳明晰な人でも年月が経つと思考が硬直化していくものなのだろうか。そんな営業方法だと顧客が逃げてしまうよという意見に対し憲法の保障する営業の自由を持ち出すようなものである。別に除名が憲法違反だなんて誰も言っていませんよ。ただ、あの騒ぎをみると、ときどき共産党にも投票していたライトなシンパは離れるでしょう。また、れいわも、芸能界というところで長いこと生きてきた山本代表の嗅覚なのだろうか、大衆にとってどうでもよい選択的夫婦別姓などはあまりいわずに、誰もが生きていてよかったといえる社会を目指すという方向をうちだしていた。具体的な政策として消費税廃止しかいわなかったのは残念であるし、消費税廃止を一番先に主張したのは我が政党だといってみても、それは選挙民にはあまり訴えないものである。ただ今回の選挙で山本代表が表にでなくなってから、れいわも単なる劣化リベラルになってしまったように思う。何年もかけて積み上げてきたものがあっという間に壊れるのも残念である。次にリベラルの悪いところを書いてみたい。選択的夫婦別姓、ジェンダー平等、LGBT差別反対。言っていることは間違いないし反対はしない。けれどもそうしたさほど重要でないことを、大きな政治課題として扱っている政治勢力にはどうしても不信感を持つ。なんだこの人たち、普通の人のことをなんにもわかっていないじゃないというわけである。そもそも、夫婦別姓が大問題になるときというのはどういう場合だろうか。結婚を考えていて、なおかつ姓を変えることが不便だという場合である。そういう人が人口の何パーセントいるというのだろうか。少なくとも生活苦に喘いでいる未婚者からみればこんなものを問題視して騒いでいる人々に嫌悪感すらもつのではないか。LGBTについても、そうしたものが宗教的罪悪とみなされてきた文化圏とは違い、日本ではもともと寛容な風土がある。もちろん差別がよいわけではないし、同性婚もやりたければどうぞといったところだろうが、これを大きなテーマとするのはどうなのだろうか。そして九条護持、軍備の増大をすぐに戦争に結び付けるメンタリティにもついていけない。現政権だと戦争になるという人がいるが、じゃあ、どういう国とどういう戦争になるのと逆に聞きたい。「ママ、戦争を止めてくるね」という投稿が反響を呼んだのだが、軍備が増大しなければ戦争にならないというのならどこだってそうするだろう。庶民はどこの国だって戦争は嫌なものである。改憲をすべきだとか軍備を増大すべきだとは思わないが、軍事力の弱い国の国民であるというリスクはそれなりにあるものである。さらに外国人労働者の流入に対する考えもある。今のところ、単純労働者の流入が日本人の待遇を低下させているという確証はないのだが、低賃金で低待遇の職場に外国人を入れていると、いずれは社会が分断され、低待遇の職場で働かざるを得ない日本人も被害を受けるし、治安悪化という問題もある。ところがれいわを除く、いわゆるリベラル政党はこうした外国人労働力の流入を規制しようとする意見に対してやみくもに差別だの排外主義だと批判するばかりだ。グローバル資本と庶民…いったいこの人達はどっちを向いているのだろうか。あえてリベラルという言葉を使わないで左翼というのだが、左翼とは基本的に貧困のない平等な社会を志向する政治勢力をいうのではないか。ざっくりといってしまうとだが。さる方のブログにあったのだが、今の左翼は、貧乏な国民を助ける具体的政策を立案する能力がなく、その無能力をカムフラージュするために反戦だの反原発だのという、能力がなくても主張できることを主張しているだけではないのか。全くそのとおりだと思う。
2026年02月13日
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総選挙の結果についてさらに書いてみる。思えば思うほど中道というのは最初から勝つのは難しかったのではないか。支持率がいずれも低下傾向の立憲民主と公明なのだが、二つ合わせて合計以上の効果を得るのは新党効果の上澄みあってのことだろう。かつて新党みらいという選挙めあての急ごしらえの新党があったが、あれも軽い神輿には清新な印象の女性知事をもってきた。ところが中道は見慣れた立憲民主と公明の代表が二人並んでいるだけで、これでは全く新鮮味も何もない。逆に選挙目当てをみすかされて合計以下の結果になってしまった。敗者は中道だけではない。社会党は消滅、共産党は消滅寸前、れいわもまた壊滅といってもよい結果となった。リベラルの定義ははっきりとしないのだが、リベラルそのものが支持を失いつつあるのではないか。リベラルが主張する選択的夫婦別姓や同性婚、LGBT差別反対は正直一般人から見ればどうでもよい問題で、別段反対はしないが、なんでこれをこんなに大問題にするといったところが普通の感覚ではないか。ジェンダー平等も同様である。また、これは日本のリベラルだけが主張していることなのだが、憲法九条護持や非核原則固持も同様である。戦争や核兵器の恐ろしさは誰もが同様に感じている。だからといって、九条を護持さえすれば平和なのだとか核兵器については議論さえも封じれば核は降ってこないといった信仰のような感覚にはついてゆけない。戦争を止めるために投票するといったって、戦争は相手があって起きるもので、自国の軍備費用の膨張を食い止めたから起きなくなるというものではないだろう。そしてまた、リベラルと左翼の違いにもかかわることなのだが、リベラルと呼ばれる政治勢力は選挙の前になるとつけたりのように格差と闘うといってみたり、子ども食堂や大人食堂の前でアピールをしたりするのだが、現実に貧困の問題ととりくむための具体的な施策をなにひとつ提言していない。せいぜいが最低賃金の引き上げや富裕層への課税である。消費税減税はいまやどの党もいっている。このあたり、やはり政策提言できる人材の薄さの問題もあるのかもしれない。政策論争ができないので、誰でもできる戦争反対とか非核とかいった主張しかしないのだろう。
2026年02月12日
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選挙が終わった。結果は自民党の圧勝なのだが、過去の小泉の時などに比べると意外な気がする。よいとか悪いとかではなく、あの郵政選挙の時には、劇場型の郵政選挙、写真集まで出した小泉人気など、マスコミを巻き込んでの風は吹いていた。郵政選挙の自民圧勝だけではない。何度かあった新党ブームやマドンナブーム、そうしたものにもマスコミの影響がかなりあった。それに比べると、今回の自民党圧勝は必ずしもマスコミが風を起こしたというわけではない。都知事選の石丸現象、兵庫県知事選挙、そして参政党の躍進というように、最近ではどうもマスコミの関与しないところでの選挙民の動きがあるようだ。相対的にマスコミの選挙に対する影響力は低下したということなのだろう。それにしても中道がここまで壊滅するとは思わなかった。小選挙区制では地滑り的な結果が起きやすい。公明と立憲民主の票を単純にたせば自民党を上回る選挙区はあるし、これで雪でも降れば投票率は低下し、組織票を持つ野党はますます有利になる。与党は理由の不明確な解散というだけでも悪手の上、党首討論のドタキャンなどのマイナス材料もあった。投票日には、実際、雪が全国的に降ったのだが、それでも自民が圧勝した。今後の分析が出るのだろうけど、逃げた立憲民主の票というのはどこにいったのだろうか。それも不思議である。参政党が伸びたのは予想していたが、れいわは壊滅というか消滅というか、対照的な結果となった。参政党もれいわも政治に見捨てられたと感じていた層にショート動画で主張を浸透させたという面では似ている。参政党には前回は自民党の岩盤保守層の票が入ったともいわれるが、それにしてもこれほど差がでるものなのだろうか。心配なのは山本代表の病状である。多発性骨髄腫の一歩手前の病状というその一歩手前とはどういう意味なのだろうか。
2026年02月09日
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最近、気になる言葉にリベラルというのがある。リベラルはしばしば政治的立場としては左翼と混同されるが、それがそもそも間違いではないのだろうか。さらに、左翼とか右翼とかいう言葉も、あいまいな使い方をされているように思う。ここで整理を行ってみる。リベラルというのは伝統的価値観とか宗教からの自由というのが本来の意味で、もともとの右とか左とは関係ない。次に、右とは内と外を区分して民族主義、国家主義的な思想傾向を言い、左とは経済的立場で下と上とを区分して、下の立場から貧困を底上げし解消していこうという考えを言う。そうしてみると、必ずしも右の反対は左というわけではない。国家社会主義は内であり下という考えであり、一方、グローバル資本主義は、外であり上という考えである。ヨーロッパのネオナチは極右と言われるが、活動を担っている貧しい若者を動かしているのは、自民族至上主義というよりも、自分たちの待遇を劣化させ、生活環境を悪化させている低賃金外国人労働者の流入、そしてそれを推進しているグローバル資本主義に怒っているようにみえる。経済階層が下の立場からグローバル資本主義に抗い待遇向上を求めているわけであるので極右とよぶのが適切なのだろうか。そういえば、日本でも極右と呼ばれることもある参政党も行き過ぎた新自由主義の問題について言及していたように思う。さて、リベラルである。リベラルの主張するテーマのほんどは貧困とは何の関係もないもので、サンダースのいうまさに「労働者を見捨てたリベラル」という様相を呈している。日本のいわゆるリベラル政党の主張するテーマの多くを見ても、自分たちがawoke、つまり目覚めているつもりになって、選択的夫婦別姓、ジェンダー平等、LGBT差別反対を言っているが、そうしたものは一般の人々には響かないし、憲法九条を守り抜いていれば平和、非核を唱えていれば核爆弾は飛んでこないという考え方は一種の信仰にしかみえない。そして防衛費増額といえば戦争になるとか、移民を制限しようといえばサベツだの多様性尊重に反するだのという、そうしたワンパな思考にはうんざりする。考えれば考えるほど労働者を見捨てやリベラルは労働者に見捨てられるというサンダースの言葉は正鵠を射ている。もちろん核保有しろとか憲法を改正しろというつもりはないのだが、望まれるのはもっと地に足のついた議論ではないのだろうか。そしてなによりも、今の貧困の問題はやはり深刻であり、このままでは社会が荒廃していくこともありうるので、声高で空疎なリベラルではなく、本当の意味の左の政党が必要なのではないのだろうか。
2026年02月08日
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