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愛知県在住の中野真一郎さん(61歳)は、
7年前に看護師だった妻(享年54歳)をがんで亡くして以来、
自閉症の息子を一人で育ててきた。
突然の喪失とともに直面したのは、
「これから二人でどうやって生活していくのか」
という現実だった。
子どもの将来を見据えながら、
社会の中で孤立せずに障がい者を育てるには何が必要なのか。
中野さんの歩みを通して、その実態を追った。
――息子さんの自閉症がわかったのは、いつ頃ですか。 中野真一郎(以下、中野):結婚後、長い不妊治療の末に息子を授かりました。ただ、保育園に入る頃になっても言葉が出なくて、強いこだわりもあったので、「これは一度きちんと見てもらったほうがいい」と思い、診断を受けることに。最初は療育手帳B判定(中度〜軽度)だったんですが、2回目以降は再判定を受けてもA判定(重度)のままになっています。 成長するにつれて、言われていることは7割くらい理解できるようになりましたが、自分から言葉を発することが難しい。そのあたりが評価に影響しているようです。どうしても判定は「言葉でのコミュニケーションができるか」が大きな基準になってしまうので。
――奥様が入院された当時の状況を教えてください。
中野:当時、私はホテルに勤務し、妻は看護師として働いていました。朝、私が息子をスクールバスに乗せて出勤し、息子は学校のあと放課後等デイサービスへ。妻が先に帰宅して受け入れる、という生活でした。 それが2018年12月、妻の勤務先のヘルパーさんから「黄疸が出ているから、すぐ診察を受けて」と言われて病院へ行くことになり、私も急きょ仕事を休みました。翌日にはそのまま入院です。 医師からは「がんが胆管から肝臓に広がっていて手術はできない。抗がん剤が効いたとしても余命は半年、何もしなければ3か月」と告げられました。 その言葉を聞いて、これは本当にまずい状況なんだと現実が押し寄せてきて……。セカンドオピニオンを求めて一人でがんセンターにも行きましたが、結果は同じでした。帰り道、どうやって運転して帰ったのか覚えていないくらい、ショックを受けていました。
――急変した日常に、息子さんはどのような様子でしたか。
中野:状況がうまく理解できていない様子でしたね。病室で母親の姿を見ると、ベッドに潜り込んだり、手を引っ張って「帰ろうよ」と促したりして。そこで「お母さんはいま病気で、しばらく帰れないんだよ」と伝えると、渋々ながら帰る、という感じでした。 でも、だんだん病院に行けば会えることがわかってきたのか、次第に病院に行くのを楽しみにするようになりました。
――奥様が不在になられて、生活はどのように変わりましたか。
中野:もう毎日が綱渡りでした。
放課後等デイサービスを2か所、日中一時支援を2か所、
合計4か所の福祉サービスを使って、
「こっちが空いていなければあっち」というふうに、
何とかやりくりしていました。
利用回数は障がいの区分ごとに決まっていて、
受給者証に基づいて管理する必要があるのですが、
それまでは妻がすべてやっていたので、
最初は仕組み自体がまったくわからなくて。
利用回数を計算して翌月の予定を組み、
自分の仕事のシフトとすり合わせる、その繰り返しです。
慣れないうちはミスも多くて、
送迎を頼んだつもりで手配できていなかったり、
休みの日に利用を止めるのを忘れてしまったり……。
妻が手術を受けるときは立ち会いも必要でしたが、
開始時間が遅れると、息子が帰ってくる時間に間に合わない。
病院に息子の事情を伝えて、手術が終わる前に病院を出て、
迎えに行かざるを得ないこともありました。
――入院生活が続くなかで、奥様はご自身の最期も見据えた準備をされていたのでしょうか。
中野:妻は訪問看護の仕事で、患者さんの最期を数多く見てきた人でした。
なので、自分が亡くなったあと、
息子が成長の節目で寂しさを感じたときに、
少しでも支えになるものを残したいという思いがあったようです。
入院当初から「ビデオレターを撮っておきたい」と話していました。
ただ、私はすぐには受け入れられなくて。
撮るとなると現実を突きつけられるようで、
心の準備ができなかったんです。
妻も「まだ先でいいよ」と言っていましたが、
いよいよ最期が見えてきて、
緩和ケアに入ったタイミングで撮影することになりました。
18歳の誕生日までと、
小学校卒業・中学入学・中学卒業・高校入学・高校卒業、
それぞれの節目に向けたメッセージ計13本を、
2回に分けて撮りました。
1回目はまだ声も出ていたのですが、
2回目のときは体力的にもかなり厳しくて、
声もほとんど出ない状態で……。
その姿を見ながら撮影するのは本当に辛くて、
「もっと元気なうちに撮っておけばよかった」
と後悔しました。
そして、最後のビデオレターを撮り終えた2日後、
妻は亡くなりました。
――奥様が亡くなられたとき、息子さんはどのような様子でしたか。
中野:朝5時ごろ、病院から「脈拍が弱くなってきた」と連絡があり、息子を起こして一緒に向かいました。
病室には、妻と関わりのあったNPOの方々や、
息子が通っていた療育園の園長先生も駆けつけていて、
落ち着いていられない息子の相手をしてくれていました。
いよいよというときに息子も病室に入り、
最後は妻の手を握って、見送ることができました。
亡くなったあと、
私は医師と話をするために病室を離れたのですが、
あとでその場にいた方から
「息子さんが窓を開けようと必死になっていた」
と聞きました。
「お母さんの魂が出ていく道を開けてあげようとしていたんじゃないかな」
と言われて……。
息子なりに何かを感じ取っていたのかもしれません。
息子が母にもう会えないと心から実感したのだと感じたのは、
妻の死後、数日してからのことです。
息子が学校に行っている間に、
妻の部屋に簡単な祭壇を作ったのですが、
帰宅してそれを見た息子が、その後、
寝るまで嗚咽していて。
小学4年生の子どもがあそこまで嗚咽するのは、
なかなかないことだと思いました。
その後も毎年、
息子の誕生日に妻が残したビデオレターを一緒に観ていますが、
2年前に初めて涙を流したことがありました。
それまでは真剣に観てはいましたが泣いたことはなくて。
体とともに心も成長しているんだなと実感しました。
――亡くなられた時の喪失感は、どのようにして乗り越えていかれたのですか。
中野:息子は言葉でのやり取りができないので、
家庭の中に会話がなくなってしまったのが、
最初は本当に寂しかったですね。
それまで当たり前にあった夫婦の会話がなくなって、
食事も息子と黙々と食べるようになりました。
ただ、振り返ると、私は妻が残してくれた縁に
ずっと助けられてきたと感じます。
とてもじゃないけど、一人では乗り越えられなかったと思います。
それと、妻が亡くなってから関わることになった執筆活動にも、
救われた部分が大きかったですね。
妻は入院中、自身の体験や思いを
日記のようなかたちでノートに書き残していたんです。
もともと妻が
「自閉児を抱えた親が余命宣告されたら、
どのような事態が起きるのか」
を伝えたいと考え、
前著を通じてつながりのあった出版社に
企画を持ち込んでいました。
そうした経緯もあり、
妻が手書きで書いたノートの内容を、
私がパソコンで整理して出版社に送っていました。
妻が自分の思いを書き終えたところで、
出版社から
「この分量では書籍としては難しいので、
お父さんも書きませんか」
と言われて。、
当初は
「自分に文章なんて書けるのか」と思いましたが、
妻が残りわずかな時間の中で書き残したものを
何とか形にしたい思いから引き受けました。
そこから、息子と私の「残された側」の視点を書き足し、
共著という形で
『私がいなくなったら(のこされた自閉息子と父は……)』
(ぶどう社)
を出版することになりました。
文章にすることで気持ちが整理されて、
結果的にグリーフケアにつながったかもしれません。
出版後も、ブログ『わたしがいなくなってから…残された自閉息子と父の上を向いて歩こう』
で書き続けています。
それがきっかけでつながった人たちもいます。
同じように障がいのある子どもを育てる親の話を聞くと、
「自分だけじゃないんだな」
と感じる。
そうした交流が、喪失感を少しずつ埋めてくれているように思います。
――息子さんの将来を見据えて、意識されていることはありますか。
中野:障がいのある子どもを持つ親は、
「人に迷惑をかけたらいけない」
という気持ちがどうしても強くて、
家にこもりがちになることもあると思うんです。
でも、それだと社会性が育たない。
なので、私は本人の成長段階を見ながら、
できるだけ外で新しいことに
チャレンジする機会をつくるようにしています。
息子は今、高校2年生で、あと2年で卒業です。
その後、就労ができるのか、
障害年金で生活していけるのかなど、
考えることもだんだんと成人後の生活に移ってきています。
私が元気なうちは一緒に暮らして支えることができますが、
いずれはグループホームに入るなどして、
自分で生活していかなければならない。
そのときに困らないように、
今のうちから少しずつ自立する力を身につけていければと思い、
作業を学べる場に連れて行ったりもしています。
――障がい者の介護をめぐる痛ましい事件について、どのように受け止めていますか。
中野:国として、障がいのある人を地域で支えていこうという流れがありますよね。それ自体はいいことだと思うんですが、
受け入れる側の理解が追いついていないと、
どうしても孤立してしまう。
孤立する背景には、
社会の理解が十分でないことがあると思います。
障がいのある人のことをよく知らないがゆえに、
「怖い」と感じて距離を置いてしまうこともある。
でも実際には、
人混みや暑さなどで声が出てしまう子もいるなど、
それぞれに特性があるだけなんです。
そうしたことへの理解が、
もう少し広がっていけばいいなと思います。
私自身、ホテルの仕事を定年退職したあと、
福祉施設で働くようになり、
街中で支援を受けながら生活している人たちの姿が、
以前よりも意識的に目に入るようになりました。
そういう風景を当たり前に受け止められる人が
増えていけばいいなと思っています。
――同じように障がい者をケアしている家庭に、伝えたいことはありますか。
中野:やはり、一人で抱え込まないでほしいですね。
誰かとつながって、悩みを共有するだけでも、
気持ちは少し楽になると思うんです。
私自身、妻が亡くなってからの数年間は、
いろんなことを一人で考えすぎてしまって、
頭の中がパンパンになり、
潰れてしまいそうなときもありました。
「今の状況は夢なんじゃないか」
「目が覚めたら、妻が元気だった頃に戻っているんじゃないか」
と思うことも何度もあって……。
そういう思いは内に抱え込まず、
人との会話や文章で外に出すことが大事だと感じています。
それと、子どもの特性に合った学校や
環境を選ぶこともとても大事ですね。
うちの場合は、小学校へ進学する際、
試行錯誤の末に支援学校を選びましたが、
今はあの選択でよかったと思っています。
療育手帳についても、
いろんな考え方があると思いますが、
手帳があることで受けられる福祉サービスもあるので、
使える支援は使いながら、
できるだけ孤立しない環境をつくることが大事だと思います。
高齢化が進む中で、
年老いた親が障がいのある子どもを支える老障介護は、
これからも増えていくはずです。
そうした中で、自分が亡き後の子どもの将来を悲観して、
追い詰められてしまう状況も出てくる。
誰もそんな状況に陥りたいわけではないと思うんです。
そうした事態を防ぐためにも、
安心して頼れるセーフティーネットが、
もっと広がっていくことを願っています。
【秋山志緒】
大阪府出身。外資系金融機関で広報業務に従事した後に、
フリーのライター・編集者として独立。
マネー分野を得意としながらも、
ライフやエンタメなど幅広く執筆中。
ファイナンシャルプランナー(AFP)。

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