社会福祉 0
社会福祉のカリスマに会いたい 0
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「怪童」の異名をとった中西太さん。この中西さんの同世代の選手とはいったいどんな人たちだろう?と思い、中西さんと甲子園で対戦した選手を調べてみた。 高松一高時代、中西さんは甲子園に3回出場している。 1回目は昭和24年春。準々決勝で小倉北と対戦しスコア0-4で完封負けを喫した。小倉北(この年だけ小倉から校名を変更)には、前年夏の甲子園で5試合すべて完封し「無失点優勝」という大記録を達成したエース福嶋一雄(のちに早稲田大ー八幡製鉄)がいた。 2回目の同年夏は準決勝まで進むも、延長10回の熱戦の末、湘南にサヨナラ負けした。湘南には1年生でレフトを守る佐々木信也(のちに慶應義塾大ー高橋、大毎など)や、のちに高野連会長となる2番・三塁手の脇村春夫(慶応義塾大ー鐘紡)がいた。この大会では、創部4年目だった湘南が優勝し、初めて優勝旗が神奈川勢にもたらされた。監督の佐々木久男は信也の実父。高松 000 001 010 0 =2 湘南 000 110 000 1x=3 雨が降る中、湘南は一死後、3番・根本が二塁打で出塁、その後に安打と四球で一死満塁とすると6番・宝性が三遊間を抜ける適時打を放ち、2試合連続のサヨナラ勝ちを決めた。高松一はエース北村-小原の継投策も勝利につながらなかった。※なお、この大会から相田暢一さんが甲子園の審判員となり、2試合の球審を務めた。 3回目は昭和26年夏。戦時中に供出された甲子園球場の「鉄傘」が、アルミ製の銀傘で復活した。高松一は、初戦で秋山登(のちに明治大-大洋)と土井淳(のちに明治大-大洋)のバッテリーがいる岡山東(初出場)にスコア12-3で大勝した。岡山 100 020 000 = 3高松 007 400 10x =12 この試合、高松一打線は制球のままならない秋山を捕らえて序盤に大量得点し、7回には4番・中西が左中間にランニング本塁打を放ち、ダメ押しした。その後、福島商、芦屋を破り準決勝に駒を進めるも、平安にスコア3-4で惜敗した。
2023.07.09
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現役引退後はヤクルト、日本ハム、阪神、近鉄など数多くの球団で監督やコーチを歴任した中西太さん。その”熱血指導”ぶりは有名で「褒め上手」とも評された。 中西さんの指導法は、師と仰ぎかつ義父でもある三原脩が実践した”遠心力野球”の伝承と云われている。遠心力野球とは、三原の言葉を借りれば「選手は惑星である。それぞれが軌道を持ち、その上を走ってゆく。この惑星、気ままで、ときには軌道を踏みはずそうとする。その時発散するエネルギーは強大だ。遠心力野球とは、それを利用して極限まで発揮させる・・・」。 具体的には・・・、中西さんは言う。「簡単に言やぁ、人の長所を見て、合ったところで使うちゅう野球ね。それで自信を持たしてあげて、その中で短所を見つけてやれば、短所もスムーズに消えてゆく・・・」。 と言っても短所の改善が一番難しい。それは選手本人が自覚しているから。しかし短所について指導を請う選手に、短所から説明してはいけないと。「(そんな時は)じゃぁ、オマエ、何ができるか言うてみいと返す。で、コーチはそのあとに、なぜこれならできるのかちゅうことを説明できればいいわね」。 人は自分の得意なことや、何らかの気づきがあればグーンと伸びることがある。そんなときはコーチが放っといても、自らの推進力をもって成長するものだ。自分の”強み”を言葉にして伝えることが何より大切ということだろうか。 掛布雅之からは師と仰がれ、「中西さんは選手のいいところをどんどん引き出してくれてね。それで欠点を補っちゃうんだよ」と話したことがあった。 <参考/『伝説のプロ野球選手に会いに行く』(高橋安幸著、廣済堂文庫)>
2023.07.08
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1937年(昭和12年)9月11日、小石川砲兵工廠跡に近代設備を整えた後楽園スタディアムが開場した。これまでは交通の便の悪い上井草球場や、高汐になると水浸しになる洲崎球場が主な球場であったことから、やっと安定してリーグ戦を開催できる見通しがついた。そして、時期を同じくして新球団後楽園野球俱楽部イーグルスが誕生した。 そもそも後楽園球場の新設を目論んだのは、かつて職業野球の芝浦協会で失敗した河野安通志や押川清ら。「球場と所属野球チームは一体であるべし」が彼らの理想だったが、資金がないため球場建設は他の資本家に頼り、球団経営だけに閉じ込められた。
2023.06.20
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三原の「バット事件」は1938(昭和13年)11月27日、巨人と阪神の優勝決定戦で起きた。 第2戦、無死一・二塁の好機を得た巨人は三塁線に送りバントをするも、投手が三塁へ送球してアウトに。微妙なタイミングだったが、烈火のごとく怒ったのは巨人監督の藤本定義。審判団と揉み合うなど一時は退場の恐れもあったが、その場はいったん収まった。 しかし、試合後も怒りの収まらない藤本は、血相を変えて審判室へ向かい、「おーい、タイガースからいくら貰っているんだ」と叫んだ。それを知った三原脩が帰り支度のまま藤本の後を追ったが、連盟は藤本の言動を問題視して処分を下す。さらにたまたまノックバットを持っていた三原を指して「ノックバットをもって審判室へ殴り込んだ」という話になってしまい、三原も球団から処分をうけるハメになった。 「私はただ居合わせただけなのに、罰金と出場停止は納得できない」は三原の述懐。そして最も腹が立ったのは居合わせただけの三原をまったく庇おうとしなかったことだと。「もう辞めてやらあ」と愛想を尽かして、同年暮れには野球を辞めて報知新聞社に入社した。(写真)三原脩(右)と、左は水原茂。~『日本プロ野球偉人伝』(ベースボール・マガジン社)より。
2023.05.16
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1938(昭和13)年は、既存の8球団に加えて、秋のリーグ戦から南海が新加入した。注目は明治大から、東京倶楽部を経て入団した、「神主打法」の岩本義行だったが・・・、大和球士さんは、こう記した。「岩本は春季キャンプを終えるとすぐに軍隊へ召集されてしまったため、岩本を除いて魅力ある選手もなく、南海が好成績をあげられるわけがなかった」。試合数40、勝利数11、敗数26、引分け数3で勝率.297の不成績だった」。そして、「南海はスタートが不運であった。翌14年には法政大出身の大物鶴岡一人が入団したのだから、岩本、鶴岡と並べば、ゆうに優勝候補たるの実力を備えて、あるいは戦前に一度ぐらいは春か秋のリーグ戦の王座についていたろうに」と続けた。 岩本は2年間兵役に服し、青島にいた。球界に復帰すると、1942(昭和17)年7月に対名古屋軍戦で1試合3本塁打のプロ野球新記録を達成した。戦前に記録した唯一の選手である。(写真)真ん中のサングラスが岩本。~『東京六大学野球80年史』(ベースボール・マガジン社)より~
2023.05.14
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1940(昭和15年)、戦争の靴音が次第に高くなる中、”弾丸ライナー”という言葉がうまれた。打球を放ったのは巨人軍の4番・川上哲治、命名者は大和球士さんだった。 4月1日、後楽園球場。この年著しい飛躍をみせた名古屋軍と巨人軍の激突。9回裏、走者をひとり置きフルカウントから川上が剛速球を叩くと、左翼手の守備位置前に”弾丸ライナー”となって飛び、あまりに当たりが強すぎたためにワンバウンドした球が吉田のスパイクに当たり、ファールグラウンドへ飛んでいく二塁打となって、巨人軍がサヨナラ勝ちした。 大和さんは「川上の壮絶な弾丸ライナーは、いまだに筆者の眼底に焼き付いて離れない。打球が強すぎて野手がボールを一瞬見失い、スパイクに当てて高くハジクなどは稀有の出来事に属し、筆者の知る限りにおいては2回あるのみ」と記している。 写真は『激動の昭和スポーツ史 プロ野球(上)』(ベースボール・マガジン社)より。
2023.04.30
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1941年(昭和16年)、自身が監督をつとめる朝日軍が最下位だったが、その年の東西対抗戦の西軍監督に就いたのは竹内愛一。 この竹内は一種独特の人気を持っていた人物。大和球士さんがおっしゃるには、「かつて早大の投手時代に、大切な試合にマウンドを踏みながら、おりから上空を通過した飛行機に見とれて、しばしば投げることを忘却したり、ある夏地方の中学にコーチに招かれたとき、制服制帽の早大選手らしい服装をしていかず、夏羽織に角帯、白足袋、カンカン帽というお店の若旦那風の服装をして出かけて、出迎え人を唖然とさせた怪傑だった」。 そして「プロ球団の監督としてもスタンドのお客さんに愛嬌をふりまいたりしてサービスに努めたから、その人気は花形選手に匹敵するものがあった」。 世の中の常識といわれるものに縛られず、そしてファンへのサービス精神・・・、いま球界の話題をさらっているビッグボスを思い出してしまった。 (写真)社会人野球・全京都時代の竹内愛一。~『激動の昭和スポーツ史 社会人野球』(ベースボール・マガジン社)より。
2022.03.06
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1942年(昭和17年)は大物選手の応召が相次ぎ、各球団とも戦力の劣化は免れなかった。 大和球士さんは、こうおっしゃる。「戦地へ去った選手でチームをつくったほうが残存チームより強かろう、とさえうわさされるようになった」と。 そんな状況下、巨人が4年連続で優勝を果たした。この年、優勝へけん引したのは明治大から入団した豪速球投手・藤本英雄さんと、そして滝川二中から入団したばかりの青田昇さんの打棒だった。 青田昇さん。現役生活16年、通算の打率.278、本塁打265本。そして記録だけでなく、その奔放な言動から”じゃじゃ馬”と呼ばれるなど「記憶」にも残る選手だった。 以前、豊田泰光さんが日経紙にこんなコラムを寄せていた。青田さんと長嶋茂雄さんにまつわるエピソード。 身長170cmと小柄ながらポンポンと本塁打をかっ飛ばす青田さんに、ある時、不振に悩む若手選手が相談に訪れたことがあったという。場所は球場、相談者は若き日の「ミスター・ジャイアンツ」こと長嶋さん。 「どうやったら、もっと打てるようになるでしょうか?」長嶋さんが、恐る恐る先輩・青田さんに尋ねた。すると青田さん、何を思ったか何も答えずスタスタとゲージに入り、打撃投手の投げる球を次々にスタンドに打ち返してみせたという。その意図はわからないが、青田さんの打球に度肝を抜かれた長嶋さん。ますますしょんぼりして落ち込んでしまった・・・。あの陽気な長嶋さんが「しょんぼり」そして「落ち込んだ」というオチが面白いが、青田さんの奔放さは長嶋さんをはるかに凌いでいたようだ。 思ったことは迷わずに発言して、武勇伝もあまたある。ついつい煙たがられて5球団を渡り歩いた。もちろんボクは青田さんの現役時代を知らないけれど、野球の解説者として、また、テレビ番組『ミユキ野球教室』の歯切れのよい語りっぷりは、今はやりの「忖度」とは対極にあって痛快だった。
2021.12.13
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1943年(昭和18年)初め、日本野球連盟・鈴木龍二理事長が陸軍に呼ばれ、ボールやストライクを日本語に言い換えるよう要請された。連盟は賛否両論あったものの、野球存続のため要望を受け入れた。 当時、野球関係者たちは、「野球存続」が第一だった。どんな理不尽な軍部の要求であっても、それが「野球存続」につながるならば、それを受入れた。 2月13日、連盟は不本意ながらも各球団に通達を送った。「皇国二挺身シテ戦ウ野球戦士トシテ職域ノ誠ヲ尽スベシ」。 そして野球用語は、日本語に統一された。例えば、ストライクは「正球」、ボールは「悪球」、アウトは「無為」、セーフは「安全」、ファウルは「圏外」、フェアは「正打」。面白かったはファウルチップ、この言葉まで日本語にする必要があったのかと思うが、これを「擦打」と名付けたのは言い得て妙。 また、職業野球とは別に東京六大学野球連盟も日本語化を行っていて、ファウルチップは「即捕外圏打」(そくほがいけんだ?)と名付けたそう。日本語というよりもはや中国語に近い!(笑) ちなみにこの1943年(昭和18年)の最高殊勲選手は巨人中堅手の呉昌征だった。嘉義農林出身の「人間機関車」。(写真)呉昌征は中央、向かって右が白石敏男、左が須田博(スタルヒン)~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)より。
2020.05.11
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1944年(昭和19年)、プロ野球の運営は困難になった。戦局は緊迫していた。B29が日本を襲い、一億総武装を閣議で申し合わされるなど野球を続けることが絶望的になり、11月13日、職業野球の一時休止が発表された。 この年1月、職業野球を統括する日本野球連盟が「日本野球報国会」に名称変更し、選手は軍需工場で働き試合を土日だけにするなどして行き残りを謀ったが、結局叶わなかった。こうした不安定な状況に不安を感じた選手には退団する者もいた。 そんなことがあり、同年8月30日、甲子園球場の阪急対朝日戦が終わった時、各球団の選手は10人ぐらいまで減り、単独球団の試合はできなくなっていた。そのため「巨人と朝日」「阪急と近畿」「阪神と産業」で混成軍を作り、「日本野球総進軍」大会を9月9日から開いた。そして秋になりいよいよ試合を行うことが不可能になると、甲子園、後楽園、西宮の3球場で行った3つの大会を最後に試合を打ち切った。最後の試合が行われたのは同年9月26日だった。 驚くのは、このような激しさ増す戦時下にあって、甲子園、後楽園、西宮球場の9日間18試合に3万2658人もの観客が集まっていたという事実。よくぞこれだけの人が野球を見に球場へ行ったものだ。たぶん戦後の野球復興を後押ししたのも彼らなのだろう。 ちなみにこの19年の最高殊勲選手賞は、阪神の若林忠志投手がなった。戦前から戦後にかけて頭脳的ピッチングの第一人者。絶妙のコントロールが際立ち、「七色の変化球」が一世を風靡した。(写真)法政大時代の若林忠志 ~ 『日本プロ野球偉人伝』(ベースボール・マガジン社)より。野球教室 若林忠志・山本一人・別当薫 [DVD]若林忠志が見た夢 プロフェッショナルとい (単行本・ムック) / 内田 雅也 著
2020.05.10
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戦後プロ野球のスタートは1945年(昭和20年)11月23日、神宮球場で行われた東西対抗戦だった。 終戦からたった3か月後、東から西から握り飯を抱え、すし詰めの満員列車の通路に寝て、戦争を生き抜いてきた選手たちが集まった。バットやボールに触れたのは久しぶり、練習不足は否めないが、新鮮な息吹が感じられた。そこに登場したのが終戦とともに彗星の如く現われた ー 戦前には見ることのない、青空に白球が舞う華麗な打球を放つ打者 ー 大下弘だった。 この試合、まだプロ野球のセネタースに入団して間もない大下は東軍の5番打者で出場。6打数3安打、うち一本は右翼350フィート(約107メートル)のフェンスに直接ぶつけた三塁打だった。その後も行われた関西の東西対抗戦でも活躍し、この大会計4試合の本塁打賞、最優秀選手賞、殊勲賞をすべて一人占めして、鮮烈なデビューを飾った。 大和球士さんは、大下についてこう書いた。「五尺七寸(173cm)、すらりとした好男子ながら、手首の強靭さは稀れに見るところで、打球は大きく高く、大空から右翼スタンドに゛虹の橋”をかけわたした。虹のホームランであった」。そして、「戦後再開されたプロ野球は、大下の旋風的人気を中心にスタートを切ったといっても過言ではなかった。大下のホームラン見たさに観客は球場へ詰めかけた」。 大和さんは大下をべた褒めだったけれども、終戦後たった3か月で行われた東西対抗戦は、とても有意義なことだった。大和さんはこうも書いていた。「この試合には新鮮な息吹きが感じられた。プロ野球は復興する。復興の前奏曲であった。序曲でもあった。前日の雨はすっかり晴れ上がり、あくまで秋の空は澄みわたっていた。あたたかく、無風。絶好の野球日和であり、プロ野球の前途も、この日の大空のようであろうと思われた。大吉の占いが出たようであった。試合の内容など論じる必要はない。終戦後3か月で野球試合をやれたことに感謝しなければなるまい」。 また東西対抗戦については、大和さんは別の著書『真説・日本野球史』にも書いている。食べることさえままならない時であっても多くの人々が神宮球場に詰めかけた。いま新型コロナウイルス禍にあって野球を見ることは叶わなけれど、以下の大和さんの文章は、いつもボクの心にある。 「この試合(終戦から3か月後に行われた東西対抗戦)、終戦直後の大混乱期に開催されたにもかかわらず、4万5千人の大観衆が詰め掛けた。神宮球場で行われるのは1942年(昭和17年)以来5年ぶりではあったが、内野席を超満員にし、外野席も7割がたが埋まったという」 「一体どこから4万5千人もが集まってきたのであろうか。(中略)単純な野球愛というよりは、敗戦から立ち上がろうとする日本人の活力の発露と見る。野球人に強靭な精神力があったことは頼母しく、日本人に祖国再建の活力がみなぎっていたことはいよいよ頼母しい限りである。野球人、野球ファンが『ニ位一体』となって野球復活は快速調に進むことになる」 75年前と同様、いつか青空のもと、何万人もの人たちが晴れ晴れとした表情で球場に足を運ぶ日が来るでしょう。その日を夢見て、いまは辛抱ですね。 (写真)突如登場した白面の貴公子、大下弘 ~『激動の昭和スポーツ史 プロ野球』(ベースボール・マガジン社)より。【中古】 大下弘虹の生涯 / 辺見 じゅん / 新潮社 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】野球五十年(増補新版) / 大和球士 【中古】激動の昭和スポーツ史 1 プロ野球 上【中古】
2020.04.29
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戦後のプロ野球は、1946年(昭和21年)春のリーグ戦からスタートを切った。 戦前からあったチームは巨人、阪神、阪急、中日、近畿、太平、資本系統から新チームと見做されるのはセネタースと金星だった。このシーズンの成績は、監督兼4番・山本(鶴岡)一人の活躍で近畿(南海)が優勝。次いで1ゲーム差で2位巨人、3位阪神。そしてこのシーズン中15連敗を記録した中部日本(中日)は最下位に終わった、105試合42勝60敗3分。 この中日について、大和球士さんの書いたことがボクには面白かった。曰く、「怪傑竹内愛一は中日の監督に就任したが、鹿児島のキャンプ地で、桜島の噴火をながめながら鹿児島焼酎を呑みすぎたため球団幹部の不評を買い、7月中旬に退団を余儀なくされた」と。 調べてみると、wikipediaには「酒呑みのトラブルで選手からは反発され、7月に中日を更迭された」とあり、さらに「中日を更迭された同年、プロ野球加盟を目指す東京カッブスの監督に就任するが、早朝からの飲酒・放蕩の不行跡のため、またしても更迭された」と書かれ、散々な言われようだった。※東京カッブスとは、戦前早稲田大で活躍し゛鉄人”と呼ばれた河野安通志が代表を務め、プロ野球 加盟を目指した球団。しかし、巨人の市岡忠男代表の猛反発に遭い加盟は叶わなかった。 酒が原因で監督の座を追われた竹内愛一とは、いったいどんな人? むくむくと興味が湧き、それまでの経歴を調べてみた。 中日の監督に就任前、41年は朝日軍の監督兼投手、42年、43年は監督に専念した。不惑の年近くになってプロ入りしたためか現役生活は41年のわずか1年間のみ、登板数はたった1試合だった。通算イニング数は2回1/3、打者18、被安打3、与四死球6、奪三振2、暴投1、失点5、自責点1、防御率3.00。何が何だかハチャメチャな成績だったものの、監督としてはチームをAクラスに導くなど、それなりに手腕を発揮した。 そして、高校時代にさかのぼるとーーー、 京都一商時代は2度甲子園に出場した。1度目の1920年(大正9年)夏は4番・ライトで出場しベスト8へ。2度目は翌21年夏、竹内はエースとなり、エース藤本定義を擁する松山商を破るなどチームを準優勝に導く大活躍だった。残念ながら竹内は準決勝で負傷し、決勝戦では井口新次郎のいる和歌山中戦に登板できなかったことが敗因だったようだが、この甲子園大会の中心には竹内がいた。 早稲田大時代も勢いは衰えず。特筆すべきは25年(大正14年)秋、20年ぶりに復活した早慶戦の開幕試合の先発投手だったこと。落ち着いたマウンドさばきで慶應打線を封じ、9回に1本の安打を打たれるまではパーフェクトゲームを予感させる快投を演じた。面白いのは2戦目、早稲田の先発は、竹内が甲子園で破った藤本定義だったこと。そして早稲田打撃の中軸に、和歌山中出身の井口新次郎がいたこと。 実は、竹内は東京カッブスを追われたあと、熊谷組が球団経営をもくんだ熊谷ゴールデン・カイツの総監督に就任する予定だった。結局ゴールデン・カイツ計画はとん挫するのだが、監督就任予定だった浜崎真二は竹内が総監督と知るや、すぐさま熊谷に断りを入れた。その理由が面白い。「竹内と言えば、生家である京都の仏具店を吞み潰したことで知られる大酒呑み。それに対して俺は一滴も呑めん。そんな男と一緒に野球をやれて云われてもできっこないわ」。 野球選手と酒は、切っても切れない関係にありそうだ。代表例でいえば、昔近鉄にいた永淵洋三が大酒呑みで有名、漫画『あぶさん』のモデルになった。仰木彬元近鉄監督もそうだった。あまりに酒好きゆえコーチから監督になるまで10年以上を要したと言う人もいたほど。近年では長野久義が大酒呑みで有名、一晩で100万円などザラだったとか。(写真)社会人野球・全京都時代の竹内愛一。~『激動の昭和スポーツ史 社会人野球』(ベースボール・マガジン社)より。高校野球甲子園全出場校大事典/森岡浩【1000円以上送料無料】------------------------------------ 今から75年前、1945年(昭和20年)11月23日、終戦から3か月後、神宮球場でプロ野球東西対抗戦が復活しました。まだ、生きていくことや食べることさえままならない時であっても、やっと開幕した野球に触れたいと願う多くの人たちや、長期間におよぶ閉塞感から解放されたいと願う多くの人たちが神宮に集まりました。以下『真説・日本野球史』(大和球士著、ベースボール・マガジン社)より。 「この試合(終戦から3か月後に行われた東西対抗戦)、終戦直後の大混乱期に開催されたにもかかわらず、4万5千人の大観衆が詰め掛けた。神宮球場で行われるのは1942年(昭和17年)以来5年ぶりではあったが、内野席を超満員にし、外野席も7割がたが埋まったという」 「一体どこから4万5千人もが集まってきたのであろうか。(中略)単純な野球愛というよりは、敗戦から立ち上がろうとする日本人の活力の発露と見る。野球人に強靭な精神力があったことは頼母しく、日本人に祖国再建の活力がみなぎっていたことはいよいよ頼母しい限りである。野球人、野球ファンが『ニ位一体』となって野球復活は快速調に進むことになる」 今は新型コロナウイルス禍で野球を見ることが出来ませんが、75年前と同様、いつか晴れ晴れとした表情で球場に足を運ぶ日が来るでしょう。その日を夢見て、今は辛抱ですね。 在宅勤務など家で過ごすことの多い今だから、ゆっくりと靴でも磨いてみてはいかがでしょうか。 ストレスを解放して心を落ち着かせ、あらたな活力が湧く効果が期待できるそうです。『靴磨きの教科書』(毎日新聞出版)より。 究極コスパ サフィール シューケア スターターセット (ダブル) 送料無料 当店限定 靴磨きセット 入門用 7種10点 初心者 セット SAPHIR PA-SA30
2020.04.27
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資金難のセネタースは東京急行電鉄に身売りし、チーム名を東急フライヤーズに改めた。チームの人気者は、終戦直後に彗星のごとく登場した゛青バット”大下弘。そして白木儀一郎(慶應商工ー慶應大)も大下に負けず劣らずファンを沸かせるエースだった。 球速も制球力もある好投手。1946年(昭和21年)は防御率2.58で投手十傑の第4位を占め、さらに翌47年は26勝を挙げ、防御率1.74で十傑首位、最優秀投手にもなった。しかし、その一方で人の意表を衝きアッといわせる趣味もあった。実はこの゛趣味”が人気者になった秘訣だったのかもしれない。 初披露は47年の開幕戦のことだった。2回裏、相手金星スターズ(ロッテの前身)の攻撃で一死後、6番小前博文が投ゴロを打つと、白木が難なく打球を拾い上げたため、小前は一塁へ走るのを諦めた。すると白木は一塁ではなく捕手の熊耳(くまがみ)武彦に投げた。熊耳も驚いたが、小前はもっと驚き、慌てて一塁へ走り出した。熊耳は気づいて一塁へ転送し、アウトにした。ファンは白木のこの奇策にやんやの喝采をおくった。 これに気をよくしたか、白木はこの年、計19回も゛趣味”披露することになる。しかも捕った打球は必ずしも捕手に投げるとは限らず、ショートに投げることもあれば、二塁に投げたり、ときには三塁へ投げたりもした。またある時はボーリングのようにプレート上から一塁へコロコロとボールを転がしたこともあった(笑)。必然的にファンは白木の投ゴロから目を離せなくなる。このユニークなプレーについて記者から聞かれると、「ダブルプレーの練習」と、人を喰ったような答えかたをしたらしい。 白木はファンの目を自分に引き付ける術を知っていたのだろう。まるでエンターティナー。なるほど野球選手の枠に収まる人物ではなく、新興宗教に帰依すると引退後は政治家(参議院議員)に転じた。 なお47年、日本野球記者倶楽部では日本代表野球チームを次のように決定した。当時の代表的選手がよくわかる。投 別所毅彦(南海)同 真田重蔵(大陽)同 若林忠志(阪神)同 清水秀雄(中日)同 白木儀一郎(東急)捕 土井垣武(阪神)一 川上哲治(巨人)二 千葉茂(巨人)三 藤村富美男(阪神)遊 杉浦清(中日)外 大下弘(東急)同 坪内道典(金星)同 金田正泰(阪神)参考:『大下弘 虹の生涯』(辺見じゅん著、新潮社) (写真)1946年、東急フライヤーズの前身東京セネタース時代。下の〇印が白木。アゴに特徴があり、西本幸雄さんに似ている。チームメイトからは「ロング・ロング・アゴー」と呼ばれた。そして上の〇印は゛青バット”の大下。ちなみに後列右から2番目は、大下をプロ野球に導いた横沢三郎セネタース監督兼選手。~『激動の昭和スポーツ史 プロ野球』(ベースボール・マガジン社)より。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 今から75年前、1945年(昭和20年)11月23日、終戦から3か月後、神宮球場でプロ野球東西対抗戦が復活しました。まだ、生きていくことや食べることさえままならない時であっても、やっと開幕した野球に触れたいと願う多くの人たちや、長期間におよぶ閉塞感から解放されたいと願う多くの人たちが神宮に集まりました。以下『真説・日本野球史』(大和球士著、ベースボール・マガジン社)より。 「この試合(終戦から3か月後に行われた東西対抗戦)、終戦直後の大混乱期に開催されたにもかかわらず、4万5千人の大観衆が詰め掛けた。神宮球場で行われるのは1942年(昭和17年)以来5年ぶりではあったが、内野席を超満員にし、外野席も7割がたが埋まったという」 「一体どこから4万5千人もが集まってきたのであろうか。(中略)単純な野球愛というよりは、敗戦から立ち上がろうとする日本人の活力の発露と見る。野球人に強靭な精神力があったことは頼母しく、日本人に祖国再建の活力がみなぎっていたことはいよいよ頼母しい限りである。野球人、野球ファンが『ニ位一体』となって野球復活は快速調に進むことになる」 今は新型コロナウイルス禍で野球を見ることが出来ませんが、75年前と同様、いつか晴れ晴れとした表情で球場に足を運ぶ日が来るでしょう。その日を夢見て、今は辛抱ですね。激動の昭和スポーツ史 1 プロ野球 上【中古】【中古】 大下弘虹の生涯 / 辺見 じゅん / 新潮社 [単行本]【ネコポス発送】野球五十年(増補新版) / 大和球士 【中古】 在宅勤務など家で過ごすことの多い今だから、ゆっくりと靴でも磨いてみてはいかがでしょうか。 ストレスを解放して心を落ち着かせ、あらたな活力が湧く効果が期待できるそうです。『靴磨きの教科書』(毎日新聞出版)より。究極コスパ サフィール シューケア スターターセット (ダブル) 送料無料 当店限定 靴磨きセット 入門用 7種10点 初心者 セット SAPHIR PA-SA30
2020.04.25
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1948年(昭和23年)は、3組の強打コンビが誕生した。新人別当薫が藤村富美男と並ぶ阪神、合併で大下弘と小鶴誠が組む急映、川上哲治と阪急から復帰した青田昇が揃う巨人である。 とりわけ話題が集まったのは、慶大出の別当薫だった。(この名前を聞くとボクは「HOYAバリラックス2」という眼鏡のCMを思い出すけれども・・・)。この別当は、阪神監督の若林忠志に自ら志願して入団した変わりダネだった。そもそも別当は少年時代、阪神の長距離打者・景浦将の豪快なバッティングに魅せられたひとり。阪神に志願したのは、景浦への思慕でもあった。 景浦同様、別当の打撃も豪快だった。さっそく春のオープン戦9試合で6本塁打、46打数22安打の活躍を見せた。ファンも別当が打席に入るとホームランを期待する歓声が球場に溢れ、ヒットでは嘆息が漏れた。慶應ボーイらしいスマートで知的な印象、当時のスラッガーとして名を馳せた大下とは違うタイプで人気を二分した。 また、ボクは知らなかったけれど、投手もやる”二刀流”でもあった。慶應大卒業後に社会人野球「全大阪」に入団、47年の都市対抗に出場すると、投手としてチームをベスト4にけん引した。しかし準決勝では別当が温存され、その結果チームは敗れた。この敗戦の悔しさがプロに進むキッカケになったと言われる。(写真)社会人チーム「全大阪」時代の別当薫投手 ~『激動の昭和スポーツ史 社会人野球』(ベースボール・マガジン社) 木塚忠助も、48年に南海に入団し大いに注目された遊撃手。のちに当時南海自慢の”百万ドルの内野陣”を形成した。大和球士さんは木塚を”バカ肩”と評した。そして曰く「従来の遊撃手の守備範囲の常識をやぶり、左翼手の守備範囲とさえ思われる地点まで打球を追って拾い上げるや、バカ肩一センすると投球は一塁手のグローブにノーバウンドで達した」と。 さらに、「わがプロ野球が昭和11年に開始されて以来、これだけの超強肩遊撃手は出たことがなかった。比肩する選手さえいなかった」と言い、大和さんは最大級の賛辞を送った。wikipediaには、こんな記述があった。「三塁手の定位置を守っていた鶴岡一人の股間を抜けた打球を一塁に遠投して刺した」と。どれだけ凄い遊撃手だったか、この一文だけで分かろうと言うもの。ボクは個人的に思う、野球の花は遊撃手のプレーだと。そして遊撃手の花は、三遊間深くに飛んだゴロを一塁で刺すプレーなのだと。(写真)南海・木塚忠助 ~『激動の昭和スポーツ史 プロ野球』(ベースボールマガジン社)より。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー今から75年前、1945年(昭和20年)11月23日、終戦から3か月後、神宮球場でプロ野球が復活しました(東西対抗戦)。まだ、生きていくことや食べることさえままならない時であっても、やっと開幕した野球に触れたいと願う多くの人たちが集まりました。今は新型コロナウイルス禍で野球を見ることが出来ませんが、いつか75年前と同様、晴れ晴れとした表情で球場に足を運ぶ日が来るでしょう。その日を夢見て、今は辛抱ですね。 「この試合(終戦から3か月後に行われた東西対抗戦)、終戦直後の大混乱期に開催されたにもかかわらず、4万5千人の大観衆が詰め掛けた。神宮球場で行われるのは1942年(昭和17年)以来5年ぶりではあったが、内野席を超満員にし、外野席も7割がたが埋まったという」 「一体どこから4万5千人もが集まってきたのであろうか。(中略)単純な野球愛というよりは、敗戦から立ち上がろうとする日本人の活力の発露と見る。野球人に強靭な精神力があったことは頼母しく、日本人に祖国再建の活力がみなぎっていたことはいよいよ頼母しい限りである。野球人、野球ファンが『ニ位一体』となって野球復活は快速調に進むことになる」 (『真説・日本野球史』(大和球士著、ベースボール・マガジン社刊より) 激動の昭和スポーツ史 1 プロ野球 上【中古】在宅勤務など家で過ごすことの多い今だから、ゆっくりと靴でも磨いてみてはいかがでしょう。 ストレスを解放して心を落ち着かせ、あらたな活力が湧く効果が期待できます。
2020.04.21
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1949年(昭和24年)春、日本のプロ野球の生みの親・正力松太郎は「日本にも2リーグ制を作りたい。そのために現在の8球団に4球団を加え、12球団にしたい」と高らかに宣言した。東京六大学野球こそが日本の野球の象徴的存在であり、プロ野球は蔑まれていた時代。しかしここにきて正力らの尽力により、プロ野球もやっと人気が沸騰するに至り、前述の正力発言が生まれた。 そしてこの49年は、巨人にとっても様々な事件が起きた年だった。そのひとつは「別府引き抜き事件」。この事件の背景には、当時巨人の監督だった三原脩の、打倒南海の執念があった。それは・・・、 ちなみに前年の順位を紹介すると、優勝は南海。そして5ゲーム差で2位巨人、大きく離されて3位阪神(17ゲーム差)、4位阪急(20ゲーム差)と続く。つまり戦後優勝のない巨人にとって、南海を倒すことが至上命題。 そのため三原が企てた策は南海のエース・別所毅彦の引き抜きだった。あまりにも短絡的、単刀直入すぎる感があるけれども(笑)。以下は、三原が当時選手だった青田昇に語った内容で、以後脈々と続く巨人のトレード戦略の基盤とも言えて興味深い。 「別所が今シーズン、巨人で1勝もできなかったとしても、彼の(昨年の勝ち星の)26勝が南海から消えるだけで、ウチが優勝できるのだから」。(※1) 結局、別所は49年開幕から2か月間の出場停止処分を受けるけれども、別所をはさんで巨人と南海の感情はこじれこじれた。当たり前である。南海にとっては自チームのエースを勝手に奪い取られたのだから面白いはずがない。そんな両者が4月12日から後楽園球場で3連戦を戦った。険悪な空気が漂う遺恨試合とでも言おうか。 そして1勝1敗で迎えた第三戦目にとんでもない事件が起きた。世に言う「三原ポカリ事件」である。 興味のある方は、こちらの「三原ポカリ事件」をどうぞ。 (※1)『三原脩と西鉄ライオンズ 魔術師』(立石泰則著、小学館)より。2か月間の出場停止処分を受けていた別所投手は、6月5日、巨人のユニフォーム姿で現れた。~『激動の昭和スポーツ史 プロ野球』(ベースボール・マガジン社)より~野球五十年(増補新版) / 大和球士 【中古】魔術師 上 三原脩と西鉄ライオンズ(小学館文庫)【電子書籍】[ 立石泰則 ]魔術師 下 三原脩と西鉄ライオンズ(小学館文庫)【電子書籍】[ 立石泰則 ]激動の昭和スポーツ史 1 プロ野球 上【中古】【エントリーでポイント10倍!(4月16日01:59まで!)】【中古】スポーツ雑誌 全18巻 激動の昭和スポーツ史(2) プロ野球下 昭和40年〜平成元年
2020.04.18
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1949年(昭和24年)、前年優勝した南海の切り札投手別所を巨人が奪ってしまう事件が起きた。これが世に言う「別所引き抜き事件」。 南海側は奪われたとし、巨人側は別所が入団を希望したから入団させたと称した。もともと7年前、別所は巨人入り希望していたと言えばそれまでだが、当時は未完成の大器に過ぎなかった。だが、いまや南海を背負って立つ大立て者であった・・・。「別所引き抜き事件」をもっと知りたい方は、こちらをどうぞ。魔術師 上 三原脩と西鉄ライオンズ(小学館文庫)【電子書籍】[ 立石泰則 ]魔術師 下 三原脩と西鉄ライオンズ(小学館文庫)【電子書籍】[ 立石泰則 ]靴磨きの教科書 プロの技術はどこが違うのか別冊2nd 革靴自慢。 エイムック 【ムック】【M.モゥブレィ】 M.モゥブレィ ステインリムーバー300 300ml 【靴:靴ケア用品・アクセサリ:汚れ落とし】【M.MOWBRAY】
2020.04.16
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1950年の日本シリーズは、セ優勝の松竹ロビンスとパ優勝の毎日オリオンズが覇を競った。そして4勝2敗で優勝したのは毎日だった。監督は毎日新聞社から出向中した湯浅禎夫(米子中ー明治大)。日本シリーズ第1戦の勝利投手は”不惑の年齢”若林忠志(本牧中ー法政大)。打線は別当薫(甲陽中ー慶應大)、呉昌征(嘉義農林)、土井垣武(米子中)、本堂保次(日新商)らが活躍した。 実は毎日は、この年が球団創設1年目。シーズン、日本シリーズを通じて活躍したのは、毎日球団創設にあたり阪神から引き抜いた上記の選手たちだった。別当、呉、土井垣は打撃十傑の2、3、4位を占め、本堂も7位だった。いずれも阪神の主力選手だった彼らが、なぜ皆揃って毎日に移籍したのか?※これには、その直前の2リーグ分裂時に起きた阪神の”掌返し”の行動が、毎日の報復手段を招き、選手引き抜きにつながりました。そのへんの事情に興味ある方は、こちらをご覧ください。 さて、毎日は、阪神から選手を引き抜いて戦力アップをはかる一方で、強豪社会人チームの一本釣りにも成功した。別府星野組だ。その監督兼任の選手が、のちに近鉄バファローズ監督の西本幸雄だった。当時は会社の経営状態が悪化し、給料もろくにもれない状態。この頃にプロ野球参入を表明した毎日新聞社が全国のめぼしい選手の勧誘をすすめていた。西本は好むと好まざるとにかかわらず、交渉窓口をやらされる羽目になった。「俺は(指名されなかった他の選手も抱えておくことができんから)全部の選手を引き取ってくれるか?と言った。みんながそれほど安定した生活はしていないわけや。野球を頼りにして就職しているような選手ばかり。そしたら、毎日が了承してくれた。みんながみんな、プロに入れるような選手ばかりじゃなかったけどな」 「当時俺はもう29歳やったから、『いつまでも野球してられへんから毎日新聞で雇ってくれるか?』と言って、そういう約束ができた。選手を10人ほど連れて、毎日に入ることになったんや」 この時、西本と同時に別府星野組から毎日へ入団した選手に、左腕快速投手の荒巻淳(大分経専)がいた。この荒巻は1年目から大活躍し、新人ながら防御率2.06、投手十傑で堂々の首位になり、チームを日本一にけん引した。野球五十年(増補新版) / 大和球士 【中古】プロ野球伝説の名将 鶴岡一人/著 川上哲治/著 西本幸雄/著 稲尾和久/著コロンブス columbus 靴用汚れ落とし チューブ入り靴クリーナー 低臭 ツヤ革靴専用 汚れ落とし ミンクオイル配合 evid
2020.04.12
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プロ野球は前年(1950年)2リーグ制となり、球団数は15(セ=8、パ=7)に増えていた。しかし売り上げのパイを、従来の8球団から15球団で競うことになったものだから、どの球団も一様に経営が苦しくなった。特に窮した西日本パイレーツは所属するセ・リーグを脱退を決め、パ・リーグに所属する西鉄クリッパーズと合併するに至った。新球団名は西鉄ライオンズ。この合併の結果、セ・パともに7球団ずつになった。 今回ブログは、1950年末から翌51年2月までのことを。 西日本のセ・リーグ脱退により、旧西日本所属選手の所有権問題が絡み、両リーグ間に激しい引き抜き合戦が展開された。そして、巨人の監督をシベリア帰りの水原茂に譲り、実権のない総監督にいた三原脩は、51年から西鉄ライオンズ監督就任が決まり、巨人の3番打者・青田昇が三原を追って西鉄へ行こうとしたことで、争奪戦に反撃が加わり一層熾烈な争いとなった。 それは、その後続く三原脩と、球界の盟主を名乗る巨人との対決の第1ラウンドでもあった。結果は、巨人の一方的な勝利で終わった。青田を引き戻し、また、西日本パイレーツの攻守の中心だった南村不可止と平井三郎の引き抜きにも成功した。 このような経緯があって、51年(昭和26年)2月、三原は赴任地・博多に向けて関門海峡を渡った。本来ならば青田を連れて意気軒高に博多を訪れるはずだったが、三原の構想は最初から躓いてしまった。しかし闘争心はまったく萎えなかった。その思いの先には巨人、そして水原がいた。関門海峡を越えながら、心で叫んだ。「水原君、必ず君に挑戦する」。私は負けはしない。闘志があった。(中略)その想念の底にあるものは、掌(たなごころ)を返した巨人の首脳陣であり、いま順風の水原だった。(三原脩『風雲の軌跡』より)参考:『三原脩と西鉄ライオンズ』(立石泰則著)野球五十年(増補新版) / 大和球士 【中古】魔術師 上 三原脩と西鉄ライオンズ(小学館文庫)【電子書籍】[ 立石泰則 ]魔術師 下 三原脩と西鉄ライオンズ(小学館文庫)【電子書籍】[ 立石泰則 ]激動の昭和スポーツ史 1 プロ野球 上【中古】
2020.03.29
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高松一高時代は本塁打を量産し、中西太は”怪童”と呼ばれていた。今回のブログは、高校時代の甲子園の記録を振り返る。 1949年(昭和24年)センバツは三塁手として出場した。高松一のエースは北村勝、二塁手は玉木春雄(法政大中退-西鉄)。初戦で関西高を下すと、準々決勝では47年夏・48年夏に2連覇した小倉高のエース・福島一雄(早稲田大ー新日鉄)を前に完封負けを喫した。 同年夏も高松一は甲子園に出場した。2回戦で水戸商に勝利すると、準々決勝では芦屋高を零封。準決勝は湘南高と接戦を演じたが、スコア2-2で迎えた延長10回裏、一死満塁の場面でサヨナラ適時打を浴び敗れた。この時、湘南には、後に高野連会長となる脇村春夫二塁手(東京大ー鐘紡)や、まだ1年生ながらスタメン入りした佐々木信也左翼手(慶應大ー高橋ユニオンズ)がいた。湘南高の佐々木久男監督は信也の父。 そして2年後の51年(昭和26年)夏は、エース・荒井健(早稲田大ー近鉄)、中西は3番を打って出場した。初戦は秋山登ー土井淳(どちらも明治大ー大洋)のバッテリーがいる岡山東高に大勝すると、続く2回戦の福島商戦は中西のランニングホームランが出て勝利した。 そして準々決勝の芦屋高に完勝。準決勝はエース・清水宏員(毎日オリオンズ)を擁す平安高との対戦。スコア0-4と劣勢だったが9回裏中西の二塁打で反撃の狼煙をあげると、一挙に3点を奪い、さらに二死満塁とチャンスを広げた。しかしそこで万事休す、結局準決勝で敗退した。参考:『高校野球 甲子園全出場校 大事典』(森岡浩編、東京堂出版)西鉄ライオンズ獅子たちの「闘争」[本/雑誌] / 中西太/著スポーツの経営史 その多様なアプローチを目指して (K.G.りぶれっと)[本/雑誌] / 市川文彦/著 脇村春夫/著 廣田誠/著 田中彰/著 澤野雅彦/著 岡部芳彦/著 田中理惠/著「本番60秒前」の快感 /ベ-スボ-ル・マガジン社/佐々木信也(スポーツキャスター) / ベ−スボ−ル・マガジン社新書【中古】afb【新品】【本】高校野球甲子園全出場校大事典 森岡浩/編靴磨き ケント シリコンクロス 革 お手入れネル生地 綿100% 無漂白ネル 両面起毛 コットンネル 布 無地 国内紡績 国内織 生地幅:約92cm ジュランジェ | 手づくり 手作り ハンドメイド 手芸 布ナプキン ひまし油 湿布 靴磨き 磨きクロス 精密機械 反物 搬送 保護 ジュランジェ
2020.03.22
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”流線形打線”(※)が当時注目された西鉄ライオンズ。これは巨人を追われて福岡にわたった三原脩監督の作り上げたものだった。この肝である3番打者を担ったのが中西太。しかし、彼の入団裏には、毎日オリオンズとの激しい争奪戦があった。 それは1951年(昭和26年)に遡る。高松一高を卒業後は早稲田大進学を希望していた中西だったが家庭は貧しく、その進学費用に困っていた。そんな事情を聞きつけた三原さんは中西の早大進学費用を西鉄が負担する代わりに、卒業後は西鉄入りする約束を中西家としていたのである。 ところが、突然に毎日オリオンズが横ヤリを入れた。同年11月のことである。中西の兄を抱き込み、契約直前まで漕ぎつけたのだ。三原さんはすぐさま高松へ飛び、中西の母を三日三晩説得し続けた。母は女手ひとつで、行商をしながら8人の子供を育てていた。学費は西鉄が持つにしても生活費は家族が捻出する必要がある。家計が苦しいことは明らかだ。 毎日が参入したことで、早大で4年間過ごした後に西鉄入団といったプランは急速に現実味を失いつつあった。結果、三原さんは現金を手渡し、母そして兄に対し高卒後すぐ西鉄への入団を承諾させた。その場に居合わせた中西は大声をあげて泣いたという。早大進学、東京六大学野球で活躍したいという夢はこの瞬間、完全に打ち砕かれた。参考:『魔術師 三原脩と西鉄ライオンズ』(立石泰則著) (※)流線形打線。以下、wikipediaより引用。1950年代後半、西鉄ライオンズの強力打線の愛称。1番に一発もあるバッティングの巧い高倉輝幸、2番に強打者・豊田泰光で一気に得点を挙げ、3番は最強打者・中西太、4番・5番には確実性を備えた長距離打者の大下弘、関口清治を据えて大量点を奪うという、それまでの野球界の常識を覆す打線理論。魔術師 上 三原脩と西鉄ライオンズ(小学館文庫)【電子書籍】[ 立石泰則 ]魔術師 下 三原脩と西鉄ライオンズ(小学館文庫)【電子書籍】[ 立石泰則 ]NEWERA ニューエラ キャップ NPB CLASSIC 59FIFTY 日本プロ野球 クラシック フィフティーナインフィフティー 西鉄ライオンズ ブラック/ホワイト[11121863]【DVD】栄光の西鉄ライオンズ西鉄ライオンズ [KBCDVD-161]靴磨き 馬毛ブラシ コロンブス Boot Black ブートブラック コレクションズ 江戸屋ブラシ【馬毛ブラシ】送料無料 コロニル1909ファインポリッシングブラシ&シュプリームプロテクトスプレーセット山羊毛ブラシ 1909 コロニル/collonil 山羊の毛は馬毛より細く柔らかく、高密度! デリケートな革のお手入れにおすすめ!馬毛より柔らかい山羊毛ブラシ やぎの毛 メンテナンス 皮 新生活 入学
2020.03.22
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甲子園で活躍した超高校級の大物、高松一高の4番打者・中西太が西鉄に入団すると、ルーキーイヤーの1952年(昭和27年)オープン戦から、目を見張る活躍を見せた。 対大洋戦では、中西が放った打球は中堅への低いライナーだった。大洋の中堅手平山菊二が前進したところ、打球はぐんと伸びて頭上を越され、思わず万歳をしてしまった。しかもその打球は中堅後方の塀にノーバウンドで当たった。この一打で”怪童・中西の名が広がった。ただ、これはまだ序章に過ぎなかった。 その後の対阪神オープン戦でのこと。阪神の左翼手金田正泰が驚いて言った。中西の打球が遊撃手の頭上一尺(約30㎝)のあたりへ飛んできたので遊撃手がジャンプしたが、その上を越した。 「自分(金田)はそのライナーを捕球しようと前進したら、ライナーがブーンとうなって自分の頭上を越した。しまった、目測を誤ったかとクルリ振り向いて打球を追おうとしたら、なんとなんと、球が左翼スタンドへ飛び込んでホームランさ。あれは怪童だよ」。 中西はシーズンに入っても果敢に打ちまくり、本塁打12本、打率2割8分1厘をあげて新人王になった。 そして翌53年(昭和28年)8月29日、平和台球場の対大映戦。6回、二死後、中西が右打席に立つと、投手は大映の名投手林義一。内角球を鋭く振りぬくと、打球はぐんと伸びて中堅後方に大きく飛び、中堅スタンド後方のバックスクリーンの上空を場外に去った。平和台球場の中堅塀まで400フィート(約120m)、その上部に建てられたバックスクリーンの高さと、その上三尺のあたりを通過したことを考慮すると、推定530フィート(約160m)はあったろう。 この28年は打率3割1分4厘で打撃十傑の2位、本塁打は36本で本塁打王になった。大和さんは、「本塁打王になったから20年に一度の大物というのではない。わが日本球界未聞の大々本塁打を放ったからである」。西鉄ライオンズ獅子たちの「闘争」[本/雑誌] / 中西太/著BBM2000 センチュリーベストナイン コンビネーション No.T07 中西太&山内和弘(写真)中西太さん。近鉄バファローズ「10.19」25周年トーク&ライブにて(2013年10月19日、於東京新宿)(写真)1988年10月19日、対ロッテ最終戦。ホームインした故鈴木貴久は、中西太ヘッドコーチと抱き合い、グラウンド上を転げまわる。このシーンがボクにとって最高の思い出。【DVD】10.19近鉄バファローズの悲劇〜伝説の7時間33分〜大阪近鉄バファローズ [PCBE-53807]靴磨きの教科書 プロの技術はどこが違うのか/静孝一郎【1000円以上送料無料】
2020.03.21
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1953年(昭和28年)秋、ニューヨーク・ジャイアンツが来日した。第1戦の対巨人戦はスコア12-1で一蹴したが、5回表、三塁走者だったダリル・スペンサーがホームスチールを成功させ、見ている観客を驚かせたという。 ダリル・スペンサー。この時から11年後に阪急ブレーブスに入団し、メジャーのベースボールを日本に惜しげなく伝えた。阪急の選手といえば、リアルタイムで覚えているわけはないけれど、米田哲也、足立、梶本らの投手陣に女房役の岡村、そしてこのスペンサーの名を思い浮かべる。昭和の残り香とともに、と言うか・・・(笑) そして1965年(昭和40年)、南海・野村克也とシーズン終盤まで本塁打王を争ったが、10月2日、交通事故を起こして足を骨折し万事休す、野村が三冠王に輝いたことがあった。当時の球界では「外国人にタイトルを獲らせない」といった風潮があって、露骨な敬遠策もあった。(これは2001年、タフィー・ローズが55本の本塁打を放ちながらも、王貞治の本塁打記録を超えさせまいと勝負しなかった日本球界の策とダブって見える)。 スペンサーといえば、wikipediaによれば、”投手や捕手のクセを見抜く眼力”に優れていたらしい。そして野村は、後になって「日本の野球界を変えたのは、スペンサーとブレイザーだった」と述懐したという。米田哲也 2010 EPOCH OBクラブ 1977年編 直筆サインカード 80枚限定!(23/80)野球五十年(増補新版) / 大和球士 【中古】
2020.03.21
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1954年(昭和29年)の日本シリーズは、明治大の名捕手だった天知俊一監督が指揮する中部日本ドラゴンズ(以下、中日)と知将・三原脩監督が率いる西鉄ライオンズが戦った。西沢、児玉、杉山対中西、大下、関口の打線対決に注目が集まったが、シリーズを通して輝いたのは中日・杉下茂(帝京商ーいすゞ自動車ー明治大)だった。7戦中5試合に登板し(内4試合を完投)、中日を優勝に導いた。 大和球士さんは、杉下を絶賛する。「人差し指と中指の間にボールを挟んで投げるフォークボールは、そうとうなスピードをともなって投げこまれ、しかも急激にストンと落下し、それが右に揺れ落ち、左に揺れ落ちるので、打者にとってはすこぶる難物であり、魔球とさえ思える球種である。杉下はこのフォークボールを自由自在にストライク圏に投げ込み、それに胸元でホップする快速球を併用して西鉄打者をキリキリ舞いさせた」。そして、大和球士さんは「沢村栄治以来初めての大投手である」と最大級の賛辞を送った。 しかし”魔球”と称されたフォークボールだが、杉下自身はさほど重きを置いていなかったようだ。「ボクの現役時代を知らない人はフォークボールばかりを投げていたと思うかもしれないが、そうではない。1試合に数球だけだった」と否定する。そして「投手の価値は速球、変化球は衰えを補う『最後の手段』」と、あくまで速球ありき、が杉下のポリシーだったようだ。 余談だけど・・・、中日・天知監督は、杉下が帝京商高時代の監督でもある。高校野球の監督がのちにプロ野球の監督に就任するのは現在なら考えにくいが・・・。また、かつてテレビドラマ『非情のライセンス』に主演したニヒルな俳優・天知茂さんは、名古屋出身の中日ファンだった経緯があって、天知監督の”天知”と杉下茂の”茂”から拝借した芸名らしい。伝える(2) プロ野球努力の神様たち [ 杉下茂 ]【中古】明治大学野球部史 第1巻◎【ポスター】君は海を見たか天地茂【約B2サイズ】野球五十年(増補新版) / 大和球士 【中古】【中古】 栄光の背番号3長島茂雄 / 大和球士 / 恒文社 [新書]【宅配便出荷】
2020.03.17
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1951年(昭和26年)以降55年まで、巨人と日本シリーズで4度対戦するも全敗した南海。山本(のちに鶴岡)一人監督は「小型チームでは永久に巨人には勝てぬ」とばかりに、スケールの大きな長距離砲中心の獲得を目指した。 その結果、”業の南海”から”力の南海”への脱皮に成功した。 主な入団選手には、東都で3季連続首位打者を獲得した穴吹義雄(高松高ー中央大)、法政大の中心打者として活躍した長谷川繁雄(竹原高ー法政大)、濃人渉監督のいる日鉄二瀬に進み都市対抗で活躍した寺田陽介(博多工高)、東京六大学でベストナインに2度輝いた大沢啓二(神奈川県商工ー立教大)らがいた。 特に穴吹獲得は、各球団のすさまじい争奪戦が展開された。敗れた球団のスカウトはこの争奪戦を題材に『あなた買います』という小説を書き、それが評判になって映画化(佐田啓二主演)された。どの球団も選手強化に奔走したため、契約金はうなぎ上りに上り、契約金500万円以上の選手も珍しくなくなった。4年前に西鉄に入団した中西太でさえ推定契約金が70万円であったから、いきなり相場が10倍程度かそれ以上に値上がりしたと言えそうだ。 そして、この頃の問題は契約金の高騰だけではない。入団に際して二重契約した選手も複数現われた。のちに阪急で活躍し、通算登板試合数949(歴代2位)、通算勝利数350勝(歴代2位)など数々の記録を作った米田哲也(鳥取・境高)もそのひとり。初めは阪急に入団意思を示すも、阪神の練習にも参加。阪急と阪神の二重契約が発覚、コミッショナー裁定により、阪急に入団を決まった。 前々回のブログで紹介した畑隆幸(小倉高)もそう。西鉄と南海の間に二重契約が発覚、結局西鉄に入団した。「ケンカ八郎」こと山本八郎(浪商)も、二重契約の末に東映入りを決めた。 しかしこれらの問題は選手たちの、いわば悪意に依るものではなかったと思う。ドラフト制度のない自由競争の下、そういった齟齬が起きるのは、むしろ必然だったのかもしれない。 あの頃映画 松竹DVDコレクション あなた買います [DVD]プロ野球伝説の名将 (日経ビジネス人文庫) [ 鶴岡一人 ]BBM2019 ベースボールカード FUSION LEGENDARY PLAYER No.LP04 米田哲也BBM2009 プロ野球OBクラブオフィシャルカードセット プロモーションカード 大沢啓二激動の昭和スポーツ史 1 プロ野球 上【中古】【中古】スポーツ雑誌 全18巻 激動の昭和スポーツ史(2) プロ野球下 昭和40年〜平成元年
2020.03.15
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監督から大会中止を伝えられると、周囲をはばかることなく涙を流す部員もいた。それまで厳しい練習に耐えてきていたから、込み上げる気持ちを抑えきれなかったのだろう。ある選手は「監督から甲子園大会が中止になったという話を聞きました。私たちとしては、まず『どうして?』という気持ちです。中止という事実を聞かされても、すぐには受け止められませんでした」。 監督は中止を告げた後、間髪を入れずにこう言って檄をとばした。「また野球ができる日がきっとくる。だから絶対あきらめるな」。そして「いずれ甲子園はまたきっと再開される。だから今まで通り、練習を続けよう」と練習の継続を強い口調で指示し、落胆する部員たちを鼓舞した。 3月11日、今年のセンバツ中止が決定した。同日夕方、この決定が伝えられ、甲子園出場を決めていた選手たちには、涙を流すものも多かったという。 さて、冒頭に書いた監督と選手たちのやり取りは、実は今センバツではなく、昭和16年7月、徳島商であった1コマ。日中戦争が長引き、海戦か否かで日米交渉が緊迫する中で、文部省が甲子園大会の開催中止を決定。その通知が各校に届き、徳島商の稲原幸雄監督がグラウンドに部員たちを集合させ、伝えたのだった。 戦争と新型コロナウイルスの違いはあるけれど、どちらも選手たちは自分たちで解決しようがないだけに、よけいに悔しさが募る。稲原監督の話を聞いたある選手は、その時の気持ちを思い起こす。「あの時、稲原さんは甲子園が再開される見込みを本当に持っていたのか、あるいは、とりあえずそう言わないと部がバラバラになってしまうから、苦し紛れにそう口にしたのか」と言い、そして、「国家の命運をかけた非常時なんだという認識が私たちにも十分ありましたから、しょうがないと感じた部分もありました。しかし、それでもやっぱり悔しいと。どうしても悔しいと。そう思わずにいられなかったのも事実です」。 今大会では夏の大会で救済を求める声も多いが、7月から開催予定の東京五輪の開催も危ぶまれるなど、新型コロナウイルス禍がいつ終息するのか見えないことが、一層不安感を増幅させる。 それは戦時中も同じ。結局、4年後の昭和20年まで甲子園大会は中止された。ただ、昭和17年だけは文部省が「戦意高揚」「心身鍛錬」などを目的に、大阪朝日新聞社から権利を奪い大会を独自主催した(※)。この大会では、稲原監督率いる徳島商が予選を順当に勝ち抜き甲子園大会に出場、決勝に進出した。 そして平安中との決勝戦では延長11回の激闘の末、押し出し四球を得てサヨナラ勝ち。徳島県勢初の甲子園優勝を果たし、前年の無念を晴らすことができた。 (※)朝日新聞社主催ではなく文部省の主催だったため、高校野球の正史には記録されていない。引用(青い文字の箇所):『幻の甲子園 戦時下の球児たち』(早坂隆著、文藝春秋) 【中古】 幻の甲子園 昭和十七年の夏 / 早坂 隆 / 文藝春秋 [単行本]【宅配便出荷】報知高校野球 2020年 03月号 [雑誌]【新品】【本】高校野球100年を読む 小野祥之/著 『野球太郎』編集部/著【送料無料】 高校野球 甲子園全出場校大事典 / 森岡浩 【辞書・辞典】
2020.03.14
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のちに「神様仏様稲尾様」と崇められた稲尾和久が、西鉄ライオンズに入団したのは1956(昭和31年)だった。しかし入団当初、球団の稲尾へに対する期待はさほど大きくなかった。「素質は悪くないが、公式戦に出るには2、3年かかりそうだ」ぐらいにしか見られていなかった。 当時監督だった三原脩の証言もある。稲尾がまだ別府緑が丘高校3年生だった頃、稲尾をスカウトに引き合わされた時の感想。以下、立石泰則著『魔術師』より。「正直言って第一印象は、それほど「すごい」という感じはしなかった。コントロールがいいから打撃投手にも使える。ま、投手は、いくらいてもいい。そんな軽い気持ちだった。・・・もしあの時、虫の居所が悪かったら『たいしたことはないね。無理にとることもないよ』と言ったかもしれない」。 実はこの時、球団が最も期待していたルーキーは、畑隆幸という左腕だった。福岡の名門・小倉高では2年時から4季連続で甲子園出場。54年センバツでは決勝で「小さな大投手」光沢毅を要する飯田長姫高に敗れたものの、チームを準優勝に導いた。 入団前、高卒選手を集めた練習でも、球速や球質ともに稲尾との差は歴然だった。稲尾も投球を受ける捕手の捕球態度を見て、2人の差を認めざるを得なかった。「畑が投げるときはがっちり構えて両手で捕るのに、自分のときは片膝なんかついて、片手でヒョイヒョイと捕るわけです。何か鼻歌でも歌っているみたいで、本当に気楽に捕っているわけですよ。そのとき、『オレは、その程度のピッチャーなのか』と内心ガックリきたことを覚えています」。 大分高校球児ではトップ級のピッチャーと言われた稲尾も、全国レベルとなると高校球界屈指の左腕・畑と並んで投げれば、”タダの高卒ルーキー”に過ぎなかった。 畑の通算成績は、現役9年間、56勝50敗、防御率3.06。決して悪い数字ではないけれども、276勝した稲尾と比較すれば見劣りしてしまう。先日亡くなった野村克也さんといい、選手の能力や伸びしろ、そして運不運を見分けるのは難しい。(写真上)入団当時、西鉄ライオンズ寮の前で記念撮影。注目は畑で、稲尾(右)は脇役のよう。~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)(写真中)畑隆幸の投球フォーム。小倉高校の後輩・安田猛に似ている⁉~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボールマガジン社)(写真下)光沢毅。のちに高校野球の名解説者に。~『高校野球 忘れじのヒーロー』(ベースボール・マガジン社)
2020.03.08
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今年2月、野村克也さんが亡くなった。直後から様々な追悼番組が放送される中、「クイックモーション」「投手分業制」「野村再生工場」「ギャンブルスタート」などのノムさんが興した野球革命についてコンパクトにまとめられていた『スポーツ酒場 語り亭』(NHK)が一番面白かった。江夏、福本豊、小早川などのゲストも良かったし。 そして有名な語録「ONが太陽の下に咲くひまわりなら、俺は野に咲く月見草」があるように、ノムさんの見立てた長嶋・王評が新鮮だった。長嶋評「分析のしようがない、どっから見ても、天才であることは間違いない。バットスイングのスピードの速さにびっくりしましたね。球がミットに入る直前、あ、見逃すんだなと思ってミットを出そうとすると、そこからパーンとバットが出てくる」。このコメントは金田正一さんのコメントに通じるものがある。そして王は?王評「ある日、銀座のクラブで遊んでたんですよ。そこへ王選手が3人くらいで入ってきた。みんなで輪になってワイワイガヤガヤ野球談議の花を咲かせていた。そして夜9時過ぎ頃、王選手が私の耳元で、『ノムさん、悪いけど、お先に失礼します』って言うんですよ。まだ早いじゃないの?って言ったら、『いえ、荒川さんを待たせているんで』と。こんな時間からスイング行くの?と聞いたら、『はい、荒川さんと約束してるんで、お先に失礼します』って。その時には、いずれコイツ(王)に抜かれるという感じはしましたね、正直」。 ノムさんが現役だった当時、セ・パの人気の違いは雲泥の差だった。昭和40年、ノムさんが戦後初の三冠王を獲得した時でさえ、スポーツ新聞の一面は巨人だったとか。さらにプロ入りまでの経緯も違う。同じ学年の長嶋は東京六大学で本塁打記録を塗り替えたスター、一学年下の王だって甲子園の優勝だった。三顧の礼をもってプロに迎えられた2人と違って、自分はまったくの無名の京都・峰山高校からのテスト入団だった。「俺は月見草」とボヤきたくなる気持ちもわかる。(写真)昭和40年、ついに戦後初の三冠王を獲得する~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)~ 番組はそれ以上の深堀はしなかったけれど、ノムさんの高校卒業に際し、峰山高校野球部の顧問先生がプロ球団に「野村選手という凄い選手がいる」と推薦文を送り付け、それに反応したのが当時南海の監督だった鶴岡(旧姓山本)さんただ一人。西京極球場まで見に行き、”契約金0”ながら南海入団が決まった経緯がある。 その鶴岡さんは活躍しはじめた頃のノムさんを見て、こう褒めたことがある。「心がけのええ者は大成する、その見本が野村です。自分の才能を伸ばす機会を与えてくれているプロ野球に、野村は感謝しとります。この心掛けが尊いじゃないですか。努力もせんと、プロ野球に不平不満ばかり言うとるやつらにノム(野村)の爪の垢でも煎じて飲ましてやりたいですわ」。 かの大和球士さんもべた褒めだった。「野村は京都府下の峰山高校を出て、昭和29年春入団した全くの無名選手であった。監督鶴岡が、『体格がええから、採っておけば何か使い物になるかも判らん』と採用した程度だったが、無類の練習熱心から、めきめきバッティングに頭角を現し、32年度にホームラン王になったこともあった。しかし野村の長距離打者としての才能が開花したのは36年度であり、以後40年度に至るまで5年間連続してホームラン王の座を占めている。プロ野球立志伝を綴じれば、ナンバーワンは野村であろう」と。(写真)南海一筋23年、鶴岡一人監督~『スポーツ20世紀』(ベースボール・マガジン社)~ ノムさんが公式戦に初めてスタメン出場したのは、29年7月13日の対近鉄戦(於:大阪球場)。1(5)蔭山和夫、2(6)木塚忠助、3(9)岡本伊佐美、4(3)飯田徳治ら当時のスターたちとともに、8番・捕手として名を連ねた。先発投手は鹿児島出身で同期入団の野母得見(のも・とくみ)だった。 このブログを書きながら、ノムさんの足跡を追うと、数々の名選手の名前に出会える。懐かしさもあって、あちこち調べるうち、いったい今日は何を書こうとしていたのか分からなくなってしまった・・・(苦笑)。ただ、こうしてみると、ノムさんの存在そのものが、戦後プロ野球史だったのだなと、それだけは気づかされた次第。ご冥福をお祈りします。(写真)昭和40年、野村と最後まで本塁打王を争った阪急のダリル・スペンサー~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)~
2020.03.08
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1957(昭和32)年、長嶋茂雄がセ・リーグの巨人入りを決めた。 長嶋は佐倉一高から立大へ進んだ選手で、立大時代に神宮球場で8本のホームランを記録して、慶大の宮武三郎と早大の呉明捷が保持していた六大学野球リーグ戦の最多ホームラン記録7本を破ってからは、全プロ球団からマークされ続け、最後には南海と巨人が激しくせりあい、ついに巨人が射落とした大物選手であった(『野球百年』より)。 翌1958年、巨人の開幕戦は、4月5日、対国鉄(現ヤクルト)戦だった。長嶋は3番サードで先発出場した。相手投手は、のちに400勝投手となる金田正一。長嶋対金田、いまも語り継がれる名勝負である。去る10月6日に亡くなられた金田さんの追悼番組、NHKアーカイブ『この人・金田正一ショー』(1985年制作)には、2人がそれぞれこの場面を振り返るインタビューがあった。 まず長嶋。「1回裏、(1番の)ウォーリー与那嶺がタターンと三振する。(2番の)広岡さんがトトーンと斬られる。もう2アウト。あっという間に2アウトを取られて、自分の打席が回ってきました。自分は絶対に三振をしない、負けるものか!と打席に入ったのですが、結果は三振になりました。・・・初球はインサイド高めの球でした。その胸元高めにパッと入ってきた速さは、想像を絶するものでした。・・・バットを振れども振れども空を切ってしまいました。しかし、自分でも納得できた三振でした・・・」。 一方の金田も、長嶋の一打席目を振り返る。「金田は(長嶋に)打たれろ!と書き立てた世間様に、いい加減に腹が立っていましたから、いっぺん目にものを見せたろ!と思っていました。こんな速い球を見たことあるかい?と驚かせてやろうと思ってましたよ。1球目が(直球を)バーンと行って驚かせてから、2球目は内角低めにカーブを投げた。これを長嶋が見逃して2ストライク。普通なら2球目も直球で行ったほうが良いかもしれないが、あらゆる球種を見せておきたかった。2ストライクを取らないと三振を取れないからね、ピッチャーは。3球目は高めに外れたが、狙ったのではない。ストライクを取りに行ったら、球が伸びたの。155kmぐらいのスピードがあるとストライクを取るのが難しい(笑)」。 そして4球目は内角高めの直球。長嶋のバットは空を切り三振を喫した。「長嶋は難しいことを考えない選手。ただただホームベースの上に来た球を叩く、叩いたら飛ぶということしかないから、どんな球でも喰らいついてくる。そして信じて打ってくるから。振り幅の速いこと。空振りすると音が聞こえますよ、ビューンと。よくこんなに思い切って振れるものだ!と感心しました」。 「たられば」は禁物だけど、もしこの日に長嶋が1本でもヒットでも打っていれば、金田は後に国鉄から巨人に移籍しただろうか? 長嶋との対決を生涯望んだかもしれない。もしそうであれば400勝は果たしてできたか? 2人の対決の結果が違っていたら、球史も変わっていたかもしれない。妄想がどんどん膨らんでしまう。 今から60年も前の対決。今のプロ野球でいえばだれとだれの対決に例えられるのだろうか? ボクはまったく想像できないな。※この写真が、金田さんの最もお気に入りだったという。投げ終わった後、視線がしっかりと打者に向いている。NHKより。(LP)ミスターG 栄光の背番号 3/長島茂雄・その球跡 【中古】立川志らくの「男はつらいよ」全49作 面白掛け合い見どころガイド / 立川志らく 【本】大学野球2019秋季リーグ決算号 週刊ベースボール 2019年 12月 18日号増刊 / 週刊ベースボール編集部 【雑誌】
2019.12.14
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1958(昭和33)年5月31日、東映の土橋正幸投手が西鉄打線から16三振を奪い、プロ野球の三振奪取数の新記録(当時)を達成した。 相手は、のちに同年の日本一を果たす強豪・西鉄ライオンズ。この試合のスタメンを見れば打線の充実ぶりがよく分かる。土橋さんはこの打線を相手に16三振を奪い、さらに同時に9連続三振という大記録まで奪ってみせた。1(8)高倉照幸2(4)仰木 彬3(5)中西 太4(9)大下 弘5(7)関口清治6(3)田中久寿男7(1)稲尾和久8(2)和田博実9(6)滝内弥瑞生 土橋正幸。今から30~40年ほど前、『プロ野球ニュース』(フジテレビ)の解説者として、氏の現役時代を知らない層にまで知名度を高めた。当時、この番組の解説陣には西本幸雄、関根潤三、大矢明彦、矢沢健一らがいたけれど、土橋さんが最も喋りがうまかった。小気味よく軽妙な語り口は、上質な噺家さんの江戸落語を聞いているようでもあった。 実は、この土橋さんは、特異な経歴の持ち主。東京浅草の鮮魚店で生まれ育った生粋の江戸っ子で、高校卒業後に実家の鮮魚店で働く傍ら、浅草のストリップ劇場『フランス座』が保有する軟式野球チームに所属していた。そして軟式野球のとある大会で台東区大会に優勝すると、後楽園球場で行われた本選に出場。初戦で前年優勝した府中刑務所を破る大金星を挙げた。 ストリップが刑務所に勝つ、というのが何とも豪快で、昭和のニオイがプンプンして楽しい(笑) ともあれ、その勝利もきっかけになったのだろう、軟式出身でありながら土橋さんはプロの門を叩くことになった。12年間に及ぶ現役生活は、つまらぬ駆け引きをしない真っ向勝負の投球術を貫いた。通算成績は455試合、162勝135敗、防御率2.66。(写真)『スポーツ20世紀 プロ野球スーパーヒーロー伝説』(ベースボール・マガジン社)上 土橋正幸中 中西太下 稲尾和久※前回の【大和球士著『野球百年』を後ろから読む】は、1959年、初の天覧試合2012 日本プロ野球OBクラブセット−エースの系譜 プロモーションカード No.P-FMD 土橋正幸立川志らくの「男はつらいよ」全49作 面白掛け合い見どころガイド / 立川志らく 【本】大学野球2019秋季リーグ決算号 週刊ベースボール 2019年 12月 18日号増刊 / 週刊ベースボール編集部 【雑誌】
2019.12.07
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いま、夏の甲子園記録をまとめています。今回は「最多奪三振」という記録。これは言うまでもなく、1958年の徳島商・板東英二が達成した83個です。初戦(2回戦)は秋田商を17奪三振で1安打完封、スコア3-0。続く3回戦八女高戦は15奪三振で3-1、準々決勝は魚津高と対戦、25三振を奪うも、村椿輝雄投手との投げ合いで延長18回引き分けとなり、翌日も再試合で奪三振9、勝利を挙げた。準決勝は作新学院を14奪三振でスコア4-1、そして決勝の柳井高でついに力尽きた、スコア0-7、奪三振3。計83個。そもそも延長18回引き分け再試合というルールは、同年の春季四国大会がきっかけとなりました。当の板東が準決勝・高知商戦で16回を完投勝利し、翌々日の高松商との決勝でも延長25回をひとりで投げ抜き、一気に延長のルールを見直す機運が高まり、延長18回引き分け再試合のルールができました。と言っても、これはあまりに有名な話でわざわざ書く必要もないし・・・。というわけで、ここは板東英二の項ではありますが、ボクは当時の徳島商監督に注目することにします。名前は須本憲一。徳島商OBで、いわゆる「幻の甲子園」と云われる1942年の甲子園大会(この大会のみ文部省主催)で優勝した時の主将でした。書籍『幻の甲子園』(早坂隆著、文芸春秋)によれば、須本は「打ってほしいところで打つ男」とチームメイトから称賛され、徳島商打線の中でも随一の好打者だったそう。打順は3番、ポジションはショート。決勝の平安高戦では1点差を追う7回、一死満塁の場面で走者一掃の三塁打を放つなど活躍しました。その決勝戦は結局延長11回までもつれ、押し出し四球を得て徳島商のサヨナラ勝ち。創部以来32年目にして初の全国制覇、それは徳島県勢悲願の初優勝でもありました。須本さんは卒業後、明治大を経て東急フライヤーズに入団して2年間プレー。その後、1955年から母校の徳島商で商業簿記の教諭となり、野球部の監督に。厳しい指導により、春夏あわせて計7回も同校を甲子園に導きました。一方、惜しくも敗れた平安高の投手は富樫淳。あと1球で優勝というところまで徳島商を追い込みながらも、最後は連投による疲労で完全に握力を失い、押し出し四球を与えて敗戦しました。卒業後は法政大に進学するも召集されて兵役に。そして終戦後、父・興一が代表を務める大阪タイガースに入団しました。当初は投手登録でしたが、高校時代の肩の疲労もあってか野手に転向。プロには4年間在籍し、通算成績は169試合、516打数135安打、打率.262、打点48。引退後は母校平安高の野球部監督に就任しました。面白いのは「幻の甲子園」から14年間を経た1956年夏の甲子園。冨樫さんは鬼監督と呼ばれる熱血指導で、就任早々に平安高を甲子園に出場させるといきなり全国優勝を果たし、深紅の大優勝旗を手中に収めました。戦時中、優勝まであとワンストライクのところまで漕ぎつけながらも準優勝に終わった無念を、指導者として晴らしました。ちなみに、その時の甲子園1回戦の相手が「幻の甲子園」で決勝戦を戦った徳島商だったのは野球の神様のいたずらでしょうか。さらに皮肉なことに、その時の徳島商の監督は須本憲一さんでした。敗れた須本さんはどれほど悔しかったでしょうか。徳島商ベンチには、この時、背番号14をつけた控え投手・板東英二がいました。そしてその2年後、エースになった板東は前代未聞の連投で甲子園大会を勝ち進み、その結果、奪三振83の記録を樹立しました。須本vs冨樫、この2人の因縁が板東をして新記録を産ませた、そう言えるかもしれません。あ・うん / 高倉健 富司純子 板東英二 向田邦子【中古】<関連記事> 最多投球回数 早実・斎藤佑樹https://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201712220000/無失点優勝 海草中・嶋清一 https://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201712170000/ 無失点優勝 小倉高・福嶋一雄 https://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201712130000/ 夏第99回甲子園大会で生まれた大会記録 その2 https://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201708290000/ 夏第99回甲子園大会で生まれた大会記録 その1 https://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201708270000/ (写真)徳島商時代の板東英二。『高校野球 忘れじのヒーロー』(ベースボール・マガジン社)より・
2018.01.08
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いま夏の甲子園記録をまとめています。 今回は「(一大会あたりの)最多投球回数」という記録。2006年に早稲田実の斎藤佑樹が記録した69回が最多です。初戦の鶴崎工に13-0、2回戦も中田翔のいる大阪桐蔭に11-2で連続して大勝。続く3回戦は福井商を7-1、準々決勝・日大山形を5-2、準決勝・鹿児島工を5-0。決勝戦は駒大苫小牧と延長15回1-1の引き分け後、再戦して完投勝利(4-3)。鶴崎工戦以外はすべて斎藤が完投しました。ちなみに決勝で早実と対戦した駒大苫小牧・田中将大は52回と2/3。また、1969年に決勝を引き分け再試合した三沢・太田幸司は64回でした。その後、齊藤が早稲田大に進学し「ハンカチ王子」人気はさらに沸騰。ふだん野球に縁ないようなオバサマたちが大挙して神宮に押しかけました。さらに驚いたのは、メディアや評論家の「齊藤礼賛」記事やコメントのオンパレード。客観的な批評は見当たりません。一片の批判も許さないというか、とても異様な空気が斎藤の周辺に漂っていました。そんな状況下、「打倒、齊藤!」を公言して憚らない男がいました。九州国際大の4番打者がそれ。そして2007年の全日本大学野球選手権2回戦(於東京ドーム)の九州国際大対早稲田大戦で本領を発揮しました。スコア0-2の2点ビハインドで迎えた9回裏、九州国際大は二死一・三塁の好機を作ると、エース斎藤(当時1年)をマウンドに引っ張り出すことに成功。そして4番の男が打席に立ちました。カウント0-2と追い込まれた後の3球目、「斎藤、何するものぞ!」とばかりにバット振り切ると、打球は左翼フェンスを直撃する長打に。この一打で三塁走者は生還し、さらに一塁走者も長躯ホームを狙いました。が、これは間一髪アウト。試合は終わりました。ホームで憤死するシーンを二塁ベース付近で見ていた4番打者は、その場に立ちつくして号泣。ヘルメットをはぎ取ると地面に思い切りつけました。表情は悔しさに満ちていて、地面に当たったヘルメットはボールのように大きく跳ねていました。大学野球でこれほどまでに敗戦のくやしさをストレートに表現する選手は珍しい。当時「斎藤礼賛」報道ばかりに辟易していたボクは、この4番打者がとても清々しく見えたし、この男こそが次代のヒーローになってほしいと願ったものでした。で、その男は誰かお分かりですか?現在、広島で活躍する松山竜平なのです。【中古】 斎藤佑樹 脳内力 /張本勲【著】 【中古】afb<関連記事>無失点優勝 海草中・嶋清一https://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201712170000/無失点優勝 小倉高・福嶋一雄https://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201712130000/夏第99回甲子園大会で生まれた大会記録 その2 https://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201708290000/夏第99回甲子園大会で生まれた大会記録 その1 https://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201708270000/(写真)2006年夏、決勝再試合で早実が優勝を決める! ~sky Aより~
2017.12.22
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いま夏の甲子園記録をまとめています。今回も「無失点優勝」という記録。現在2人の投手がその記録保持者ですが、小倉高・福嶋一雄投手(第30回大会、1948年、5試合連続完封)のほかにもうひとり、和歌山・海草中(現向陽高)の嶋清一投手がいます。嶋投手は福嶋が達成する9年前に記録しています(1939年、第25回大会、5試合連続完封)。初戦の嘉義中を5-0、2回戦の京都商も5-0、続く3回戦は土井垣武(のちに阪神)のいる米子中を3-0。さらに準決勝・島田商戦を4四球17奪三振で9-0のノーヒットノーラン、決勝の下関商も2四球のみのノーヒットノーラン(8奪三振)で5-0の勝利、優勝しました。5試合で154人の打者に対して許したヒットはわずかに8本。準決勝決勝の2試合連続ノーヒットノーランは史上初、決勝戦のノーヒットノーランも1998年夏に横浜・松坂大輔が達成するまで史上唯一の記録でした。『高校野球 忘れじのヒーロー』(ベースボール・マガジン社)には嶋と海草中のチームメイトだった中堅手・古角俊郎の証言があります。「5試合で外野に飛んだのはわずか12本。私のところには2個だけ。特にドロップは鋭く、センターから見ていると、一度止まって、それが戻ってくるような感じだった」と。突然ですが、嶋清一と西本幸雄。ボクは初めて知りましたが、調べてみると2人は同郷で、よくよく縁があるようです。例えば嶋が甲子園優勝する2年前(1937年)、和歌山大会決勝戦で対戦したのが西本のいた和歌山中でした。結果は、嶋の海草中が勝利。※実は西本が和歌山中で野球をやったのはこの時の1年間だけ。それ以前はラグビー部に所属するラガーマンでした。その後、嶋は明治大に進み戦前最後の主将になると、西本も立教大の実質的な監督に(当時の立教大は監督不在のため)。そして1943年に文部省命令により東京六大学リーグが解散すると学徒出陣前の同年5月に明治と立教が対外試合を敢行し2人は対戦しましたが、その申し入れをしたのは西本だったと言われています。悲しいかな、嶋は終戦直前にベトナム沖で戦死しました(享年23歳)。が、もし存命ならば、2人の因縁は戦後も続いたかもしれません。職業野球の選手として、監督として。また、嶋は朝日新聞の記者を目指していたという報道もありますから、もし新聞記者として1960年日本シリーズの大毎のスクイズ失敗を見たら、他の評論家たちと同じように西本批判を繰り広げたでしょうか。ひょっとしたら、もっと違う視点の記事を書けていたかもしれない。ついそんなことを想像してしまいました。【中古】嶋清一 戦火に散った伝説の左腕 /彩流社/山本暢俊 (単行本)【新品】【本】プロ野球伝説の名将 鶴岡一人/著 川上哲治/著 西本幸雄/著 稲尾和久/著<関連記事>無失点優勝 小倉高・福嶋一雄 https://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201712130000/夏第99回甲子園大会で生まれた大会記録 その2 https://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201708290000/ 夏第99回甲子園大会で生まれた大会記録 その1 https://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201708270000/ (写真)海草中時代の嶋清一。~『高校野球 忘れじのヒーロー』(ベースボール・マガジン社)~
2017.12.17
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■久々の野球百年。今回は1959年(昭和34年)6月25日、後楽園球場で行われた天覧試合の巨人阪神戦。■大和球士さんは、この項の初っ端からハイテンションで筆を進めます。曰く「野球は楽しい、その野球の楽しさのすべてを一試合の中に圧縮したのがこの試合」であると言い、そして「戦前からの試合の数々を思い出しても、これほど野球の楽しさを満喫させてくれた試合は二つとない」と断言します。この試合は4-4の同点で迎えた9回裏、この回先頭の長嶋茂雄がレフトスタンドに本塁打を放ち、巨人がサヨナラ勝ちしました。が、大和さんが「二つとない」と絶賛する理由は、長嶋の本塁打が飛び出した感動的シーンのほかにもう一つあります。それは両軍の三遊間の守備のこと。この天覧試合の後、名人の阪神・三宅三塁手が不慮の災難にあい視力を弱めたため、もう二度と豪華けんらんの<阪神>三宅ー吉田、<巨人>長嶋ー広岡の見られなくなったので、天覧試合で見られた守備の名花四輪はとても貴重だったと書きます。■この「名花四輪」はどれだけ素晴らしかったか。大和さんは、後日その当事者のひとり長嶋から聞いた言葉をそのまま借用して広岡、吉田のすばらしさを表現します。まず広岡達朗について。「広岡さんのグラブさばきの秘密は実は今でも判らないのです。ボールを捕えようとする瞬間の僅か10センチのグラブさばきがどうしても呑込めません」。さらに吉田義男について。「阪神の吉田さんもまさに名人ですね、捕球してから投げるまでが、ワンモーションに見えるんですからたいしたものです。吉田さんの秘密は膝にあります。膝のお皿にあります。あの膝の使い方にワンモーションの原動力が隠されているとにらんでいます」。■ボクがリアルタイムでプレーを見たのは長嶋ひとりだけ。印象深いのは、有名な三遊間に飛んだゴロの捕球からスローイングまでの一連の流れでした。大和さんが絶賛するとおり、長嶋の守備は上手かった。でもですよ、広岡の後釜としてショートを守った黒江は長嶋をどう見ていたのでしょうか? フライを捕ろうとせず、黒江に任せきりだった長嶋。また、ショートに捕らせればイージーゴロにもかかわらずしゃしゃり出てサードゴロにしてしまう長嶋の横暴をどう見たか? 長嶋の守備が絶賛されるたび、ボクは黒江の心境を「忖度」したくなるのです。(写真)天覧試合でサヨナラ本塁打を放つ長嶋 ~『永遠のミスター 長嶋茂雄の世界』(報知新聞社)より~
2017.11.28
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■永田雅一、この名前を聞いて、皆さんはどんなイメージをされるでしょうか? 映画・大映のオーナーにしてプロ野球・大毎オリオンズのオーナーでもあった。「永田ラッパ」というニックネームで知られるように、ボクにはマイナスイメージしかありません。そもそも初めて永田さんを知ったきっかけもよくなかった。日本シリーズでスクイズのサインを出した西本幸雄監督に「バカヤロー」と叫んだ張本人として頭の中にインプットされたゆえ、オーナーであると理解しつつも、なんて傲慢な人なんだろうか!と思っておりました。■でも、本書を読み進むうち、これまで知らなかった永田さんの新たな一面を知ることになります。1967年(昭和42年)に完成した東京スタジアムは、永田さんが私財を投じて作り上げた思い入れたっぷりの球場であること。そしてハード面だけでなく、あらゆるリスクを負ったうえで、オリオンズをまるごと愛する情に深い好人物であることなど。■本書には、永田さん以外にもオリオンズを支えた懐かしい選手たちも登場します。山内一弘、榎本喜八、有藤通世、そして埼玉上尾の星・山崎裕之や、池辺巌、アルトマン、ロペス。さらに小山正明や、永田さんを親父と慕う成田文男、木樽正明らがいました。そういえば山内一弘と小山正明の「世紀のトレード」を仕掛けたのは永田さんだったのですね。また、当時日本で知らない人はいない世界的なスプリンター・飯島秀雄をプロ野球界に引っ張ったのが永田さんとは気づきませんでした。野球未経験であっても優秀なスプリンターを代走専門の選手として活用できないか、そう考えた永田さんがドラフト9位で指名して獲得した選手だったんですね。在籍期間の成績は決して芳しいものではありませんでしたが、当時ならば「世界的なスプリンターが盗塁したら成功確率は高いのでは!?」と発想するのは至極当然のこと。いまでこそダメと断言できる理屈はいろいろありますが、斬新でした。■その後、オリオンズは深刻な経営難に陥り、永田さんは1971年(昭和46年)に球団経営から離れざるを得ませんでした。そして1977年(昭和52年)には東京スタジアムそのものもなくなり、永田さんとプロ野球の縁は途切れます。が、しかし、永田さんは正力松太郎、鈴木龍二、仇敵?の高橋龍太郎らとともに戦後のプロ野球を復興発展させた功労者であったことに間違いありません。かつて永田さんと接点のあった人達は、当時を振り返ってどう思っているのだろう? そんな想像を掻き立てられました。高橋龍太郎さんは? バカヤローと言われた西本幸雄さんは? そして突然プロ野球界の代走屋としてデビューした飯島秀雄さんは?著者は飯島さんを見つけ、当時のことを振り返る感想を聞きます。飯島さんは答えました。・・・なるほど、やっぱり、そうだったかぁ・・・。
2017.11.21
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昨季「慶應・清水翔太に注目!」と記事を書きましたが、ついにこの秋、清水翔太(4年、桐蔭学園)が首位打者そしてMVPのタイトルを獲得しました。4番・岩見雅紀に注目が集まりがちでしたが、優勝した勝因はそのあとを打つ5番・清水の活躍にあったに違いありません。4番を引き立てるには、5番の役割は重要です。そうです、ボクが5番打者のしんどさに気づいたのは巨人V9の頃でした。末次、柳田、国松、黒江などONの後を打つ5番打者は本当にコロコロと変わりました。ちょっとやそっとでは5番の役目を果たせないのです。従い、清水の活躍は見事というほかありません。(写真)10月28日早慶1回戦。この直後に先制となる2点適時打を中前に放つ ~BS朝日~首位打者を獲った清水を契機に、かつての東京六大学の首位打者を調べてみました。清水の今季記録(打率.480)を超える打者は想像以上に多くいました。例えば5割超の主な打者では、昭和36春 榎本博明(慶) .517昭和47春 長崎慶-(法) .511平成8春 高橋由伸(慶) .512平成13秋 喜多隆志(慶) .535平成26秋茂木栄五郎(早) .514眺めていて慶應の選手が多いなぁと。歴代最高打率(.535)も慶應の喜多隆志。あの智辯和歌山卒でロッテに行った巧打者ですよね。そしてボクの目についた法政・長崎慶一は、昭和47年に首位打者s翌シーズンも2季連続で首位打者を獲得したことを知りました。長崎慶一さん(北陽ー法政大、のちに大洋、阪神)。ボクが思い出すのは彼の大洋時代のこと。昭和57年、田尾安志との首位打者争いは「敗退行為」と揶揄されるなどあって、とても後味の悪いものでした。長崎さんに何の責任もなかったのに。そして今から10数年前、都内のリトルシニアのチームを率いて、よく埼玉・大宮のグラウンドで指導されていた長崎さんの姿を思い出しました。(写真)法政大時代の長崎慶一さん ~『東京六大学野球80年史』(ベースボール・マガジン社)~そして長崎さんをwikipediaで調べていると、大洋時代の指導者は「青バット」の大下弘さんだったとか。大洋の同僚・山下大輔とともに大下さんから指導を受けていたそう。大下弘さん(高雄商ー明治大、のちにセネタース、西鉄など)。戦前は明治大の下級生だったため球拾いばかりで、東京六大学の公式戦に出場経験はない模様。戦後に復学した際、明大グラウンドで大飛球をポンポン打ち上げる大下に横沢三郎(戦前のセネタースで活躍した明治大の先輩)が目をつけて、大下さんを職業(プロ)野球の世界に導いた。昭和20年秋、戦後初のプロ野球「東西対抗戦」を控えて次々と元プロ選手たちが復員し練習のため大宮のグラウンドに集結する中、大下さんの長打力を見て目を丸くしたそう。「いったいあの打者は誰なんだ?」と。そして同年11月23日、神宮球場で東西対抗戦が開催され、東軍の5番打者として彗星のごとくデビューした大下さんは、後に日本の野球ファンに「ホームラン」の素晴らしさを伝える伝道師になることは、この時点で誰も気づいていませんでした。(写真)西鉄ライオンズへ移籍直後の大下弘さん ~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)~
2017.11.03
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1960年最後の記事は、11月6日~11月12日まで行われた「早慶6連戦」のこと。この秋のリーグ戦は慶應大が勝ち点4で8勝2敗、早稲田大が7勝3敗の勝ち点3で早慶戦へ。ここで早大が2勝1敗で4つ目の勝ち点を挙げると両校9勝4敗勝ち点4で並び、一日も空けることなく優勝決定戦へ。この優勝決定戦は1試合限り、勝者が優勝校となります。が、この時は延長11回日没再試合が2度続き、優勝決定戦3戦目(早慶戦3戦から数えて6戦目)にして早大が3-1で勝利、ようやく決着がつき早大が優勝を決めました。この早慶6連戦、大和球士さんが注目したのは早大のアンダースロー・安藤元博投手(坂出商)でした。以下、著書『野球百年』(時事通信社)より。「驚くべき記録が生まれた。早大の投手安藤元博(のちに東映ー巨人)が、ー5試合登板、4連投の荒業を完成した。第一戦に完投して勝利投手になり、第二戦こそ登板しなかったが、第三戦から決勝戦になった第六戦にいたるまで四連投の勇投をした。六試合に五試合登板、四連投の記録は、引き分け試合を含まない限り、今後も容易に破れない記録であろう」調べてみると、この時、安藤の投球数は5試合、49イニング、564球でした。今では考えられない酷使ぶりです。これは「精神野球」を掲げる早稲田野球、飛田穂洲イズムの影響もあったでしょう。でも、この伏線には意外な逸話がありました。実は早慶戦に先立つ対明治大戦で安藤は救援に失敗、大炎上して勝ち点を失う大失態を演じ、「安藤がたるんでいる」と声が上がったほど。困った石井連蔵監督は、当時顧問の飛田にお伺いを立てます。すると飛田から予想しなかった言葉が。「うーん、休ませたらどうだ。休むのも練習のうちだ」と。さぞ石井監督は驚いたことでしょうが、その結果ノースロー調整を続けたことで体調が戻り、安藤は早慶6連戦を投げ切ることができたのです。(記事参考および写真:『早慶戦110年史』ベースボール・マガジン社)この1960年、6月に安保条約をめぐり、全学連が国会突入をはかり警察官と衝突、東大生・樺美智子さんが死亡する事件が起きました。その後も浅沼社会党委員長刺殺事件、三井三池闘争など暗いニュースが続く一方で、池田首相が「所得倍増計画」をぶち上げるなど、まさに混とんとした年。洋画「チャップリンの独裁者」邦画「霧笛が俺を呼んでいる」が封切りし、映画館には多くの人が詰めかけました。普及を始めたカラーテレビからは「このまま死んでしまいたい~♪」のフレーズが印象的な、西田佐知子「アカシヤの雨が止むとき」が流れていたことでしょう。ちなみに、その前年から東京六大学にも背番号制が導入され、安藤が背負った「11」は早慶6連戦の活躍を称えられ、以降早大・右腕エースの背番号として受け継がれています。左腕エースは「18」。今季の選手を調べると、「11」は・・・「18」は・・・あらら、該当者はいませんでした。(写真)早大・安藤元博。敗れた慶大選手のコメント「安藤のフォームは型破り。しかもボールの回転も少なかったので打ちづらかった」。(写真)早慶6連戦の決着直後。のべ38万人の観客が神宮球場を訪れた。6連戦中は試合終了後すぐに切符売り場に行列ができ、多くのファンが夜を徹して並んだ。中には近くの青山墓地で薪木を集め、焚き火して暖をとった猛者もいたとか。
2017.05.04
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前回の続き。http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201603100000/ ■かくして三原脩率いる大洋がセ・リーグを制しましたが、開幕当初は6連敗を喫する不運に見舞われました。なぜか? その理由は「牧野バット放り投げ事件」と「秋山昏倒事件」にありました。それは開幕当日に起きました。試合前、大洋と対戦する中日のノッカー・牧野茂コーチが、大洋の選手たちにからかわれ、ふざけ半分に大洋ベンチへ放り投げたバットがクルクルと回転して、ベンチの最前列に腰かけていた秋山登の頭部を直撃したのです。(なんと!)ちょっと信じられない話ですが、これは本当の話。決して他意のない冗談(あそび)のはずでしたが、秋山は昏倒したまま救急車で病院に運ばれる憂き目に。 診断結果は「一週間の安静」でした。つまり大洋6連敗の原因はエース・秋山の不在であり、それだけ秋山は大黒柱的な存在でした。振り返れば三原さんは名将であったものの、エースの酷使で勝ち星を稼ぐタイプと言うこともできそうです。西鉄時代の稲尾和久もしかり。三原采配には、絶対的なエースの存在が欠かせません。■一方、パ・リーグを制したのは、西本幸雄監督の大毎でした。西本さんもこの年就任した新人監督。自慢の「ミサイル打線」が炸裂しての優勝ではありますが、他球団の弱体化という点も見逃せません。大和さんは言います。以下、『野球百年』(時事通信社)より。「(2年前の)昭和33年に優勝した西鉄は前半で脱落した。三原の後に川崎が監督として座ったが、三原の大洋行きの気持ちが一年前から球団内外に漏れていただけに、ナインの結束をはばんだようであり、34年度と同じように故障者が続出した。(前年の)34年優勝の南海は、阿修羅の活躍をして優勝をもたらした杉浦が二年続けて勇投したが孤立無援、杉浦をカバーする投手の台頭がなかった」。■セは大洋、パは大毎が制して、両チームによる日本シリーズが行われました。打撃に優れる大毎が有利と下馬評はありましたが、西本さんに悲劇が襲い、結果、大洋に軍配が上がりました。西本さんの悲劇、それは昭和54年の「石渡のスクイズ失敗」と重なる、西本さんにとって苦い経験でした。 <関連記事>近鉄・石渡茂のスクイズ失敗http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201304160000/ (写真)大毎オリオンズのミサイル打線。左から葛城隆雄、榎本喜八、田宮謙次郎、山内和弘、柳田利夫、矢頭高雄、八田正。~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)より。
2016.03.18
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いまプロ野球界は、野球賭博の話題で持ち切りであります。が、しかし、当ブログはそれをスルーさせていただき、【大和球士著『野球百年』を後ろから読む】シリーズを続け、どんどん時代を遡っていきたいと思います。前回が1961年でしたので、今回は1960年(昭和35)のことです。■この当時、世の中では「安保(反対)闘争」が吹き荒れました。東大生の樺美智子さんが警察隊と衝突して亡くなったのもこの年です。時の岸信介首相はデモを矮小化するため「野球場や映画館は満員」(つまり、国民の大多数はデモ隊とは関係なしに野球等に興じている)と発言、さらにNHKに対して「偏向報道」と警告して物議を醸しました。なんだか昨今の権力者の言動と酷似していますね。また、朝日訴訟について東京地裁による違憲判決があったのもこの年ですし、カラーテレビの本放送が開始され、歌謡界では西田佐知子の『アカシアの雨がやむ時』がヒットしました。♬アカシアの 雨に打たれて このまま 死んでしまいたい~♪ 西田佐知子はなぜ死にたかったのか、その歌詞までは覚えていませんが。■そんな混沌とした様相は、プロ野球界においても同様でした。昨年まで西鉄ライオンズを率いて数々の実績を作った三原脩が、万年最下位だった大洋の監督に就任するや、いきなりリーグ優勝、日本一を果たし、それまであった球界の序列をたった一年で覆してしまったのですから。大和球士さんは、尊敬の念を込めて三原さんを「教祖」と呼びます。そして、日本一に導いた勝因として2つの点を挙げます。ひとつは、実績十分の三原に対して選手たちは無条件心服であったこと。二つ目は、三原はその選手心理を利用して、教祖的な態度を貫いたこと。たとえば、大和さんは、こんな例を挙げています。以下、『野球百年』(時事通信社)より引用。「監督就任直後のキャンプの第一声は、『・・・こんなに優秀な選手が多くいるチームとはキャンプインまで知りませんでした。優勝する実力のあるチームです』。前年度までビリ専門だったチームを知っている記者たちは、当然疑問を抱く。ところが、三原教祖のご託宣はこう続く。『優勝チーム・・・と私が言うと諸君(記者)は疑うが、疑うほうがどうかしている。形は違うが秋山は稲尾級の勝星を挙げられる投手だし、近藤和、桑田の打力は豊田、中西に匹敵します。捕手土井に至っては西鉄に見当たらぬ好捕手ですよ・・・』。三原監督時代の西鉄捕手は和田博だったと思いますが、彼はこの発言をどう聞いたのでしょう?(笑)ま、それはさておき、活字になった三原談は、選手たちの長年の劣等感を吹き飛ばし、自信を植え付ける。マスコミを利用する技術では三原は抜群である。と同時に、三原は選手に催眠術をかけたのだ。 ■まさに三原魔術とでも言いましょうか。でも、大和さんの挙げる上記2点だけで日本一になれるはずもありません。大洋の改革には、まだまだ他の要素も、あちこちに散りばめられていました。球団常務という肩書をつけて大洋に乗り込み、まず三原の野球観を土井淳捕手を利用して他選手に徹底的に教え込んだことが挙げられます。そしてマスコミの関心を集める目的で、意図的に春季キャンプをどのチームよりも早く開始したこと(つまり、記者にとってネタ枯れの時期ゆえ、皆、大洋のキャンプを訪れる!)や、成績が伴わずに腐っていた投手を再生させる(権藤正利)、他球団で燻ぶっている選手を引き抜く(近鉄・鈴木武)などの戦術も見逃せません。ちなみに、優勝した昭和35年のベストオーダーは、下記のとおりです。1(8)渡辺清2(7)岩本堯3(3)近藤和彦4(5)桑田武5(9)黒木基康6(4)近藤昭仁7(6)鈴木武8(2)土井淳そしエースは、もちろん秋山登でした。(写真)日本一のチャンピオンフラッグを背に、三原脩監督(右)と中部謙吉オーナー。~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)より。
2016.03.10
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今回は、鶴岡一人さんについての最終回です。■鶴岡さんと言えば「グラウンドにはゼニが落ちている」が有名です。プロ野球人ならば、金を稼げ!そのためには人の2倍、3倍の練習をしろ!!と、選手を鼓舞するものでした。しかしご本人は、この言葉の独り歩きには弱った様子で、「多少誤解されているようだが、私自身、さほど金銭に執着したことはない」と、銭ゲバのごとき世間からの人物像をキッパリと否定し(笑)、その上で、金銭のことで球団にかみついたのはたった一度だけだったと述べています、それは南海の監督時代のことでした。「選手の契約更改交渉の席で、球団側が『監督でもこれだけだから、これで辛抱しろ』とやった時だ。監督がもっともらってくれたら・・・と選手たちに文句を言われてそれを知り、『正当な評価をもとに年俸を決めるべきものを、私のサラリーをダシにするとは卑怯』とねじ込んだものだった」。■さらに、南海入団時の契約金についてエピソードを明かします。もし兵役にとられて死んだらこの契約金を両親に送ってくださいと、大学生時代から公私ともに世話になった医師に預けたそうです。その後、鶴岡さんは予想通りに兵役にとられて戦場に赴くのですが、戦後になって会うと、その医師は契約金全額を満州重工業の株に投資して失敗、すべてを失くしてスッカラカンになっていたそう。ただただ平謝りする医師に対し、「心配しないでください。私は若いから、これから稼ぎます」と言って穏便に済ませたとか。「契約金の額は、大企業の部長クラスが住む家を一軒買える額」と、鶴岡さんは表現しています。具体的な額はわかりませんが、きっとすごい額???だったのでしょう。嘆いたり、怒ったり、訴えたり・・・、それが当たり前と思いますが、「無一文になったおかげで、かえってファイトがわいたのだ。わたしは決して先生(医師のこと)を恨んだりはしていない」と明るくキッパリ。「グラウンドにはゼニが落ちている=お金にがめつい鶴岡」の図式を、本人はよほど気にしていたのでしょう。そうではなく、むしろお金には無頓着だったことを懸命にPRするあたり、そういった内心を忖度してしまいます。■最後に少年期、青年期の交友記を・・・。鶴岡さんが少年時代を過ごした広島・呉には、一緒に草野球に興じ、ともに広島商で甲子園優勝した浜崎忠治がいた。浜崎はのちに中日を経てプロ野球審判員となり、有名な平和台事件(昭和27年)では主審を務めていた。浜崎の実兄・真二も阪急で活躍した元プロ野球選手。また、昭和6年に広島商で甲子園優勝した際のご褒美はアメリカ遠征だった。ノンプロやハイスクールを相手に30試合を戦い、28勝2敗の成果を収めた(本人の記載より)。相手チームには、後に親交を深めるキャピー原田がいたし、最後に立ち寄ったハワイのチームには、後に巨人で活躍するウオーリー与那嶺がいた。鶴岡さんの著書には与那嶺のことは書かれていないが、与那嶺は覚えている。自著『野球を変えた男』に「日本のチームに、ショートを守る大柄な男がいた。それが鶴岡だったと、後になってわかった」と。そして、法政大に進学すると、最上級生に七色の変化球で法政を六大学リーグ初優勝に導いた若林忠志がいた。また、少年時代にライバルだった藤村富美男に法政入学を勧め、入学する段取りが整っていた。しかし、鶴岡さんの『私の履歴書』によれば、「藤村のいる呉港中が神宮大会で上京した時は、法大グラウンドを練習場に提供した。藤村君の打球がフェンスを越え、通行中の老婦人にケガをさせたことがあったが、その治療費も法大がもった。それなのに、藤村君は阪神へ入団した」。う~ん、なぜだ?■さて、鶴岡一人さんについて、計5回に分けてブログに書きました。その間中、ボクの頭の中に聞こえていたのは、鶴岡さん独特のダミ声?(笑)です。その昔、NHKのプロ野球中継といえば、解説者は鶴岡さんであることが多かった。戦況や選手心理を冷静に伝えるも、時には突き放したような語り口に特徴があったと記憶しています。したがい、ボクにとっての鶴岡さんは南海の選手・監督としてではなく、NHKの解説者としての印象が強いです。このブログは今後もどんどん時代を遡っていきます。鶴岡さんのことに触れる機会がますます多くなると思いますので、途中でネタ切れせぬよう、このへんで一旦終了とします。 <まとめ>鶴岡一人さんが日経『私の履歴書』で語ったこと。(1)野村克也とのよき思い出と、憤りhttp://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201601280000/(2)穴吹義雄を得るも、長嶋茂雄、広岡達朗、稲尾和久を逃すhttp://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201602020000/(3)泣きっ面に蜂、別所引き抜き事件と三原ポカリ事件(上)http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201602180000/(3)泣きっ面に蜂、別所引き抜き事件と三原ポカリ事件(下)http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201602230000/※その他の関連記事として、「蔭山死して、鶴岡かえる」http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201502010000/(写真)法政大時代の鶴岡一人。~『私の履歴書ープロ野球伝説の名将』(日経ビジネス人文庫)より~
2016.03.04
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前回の続き。http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201602180000/ ■いわゆる「別所毅彦引き抜き事件」に対し、日本野球連盟が巨人ビイキの裁定をしたのは昭和24年3月のことでした。そして、その直後にこの年のプロ野球は開幕。4月12日からは、当事者である巨人と南海が3連戦を後楽園球場で行いました(注・当時は1リーグ制でした)。世間は別所引き抜き事件の「遺恨試合」と呼び、連日大入り満員の盛況ぶりでした。最近で言えば、「巨人・江川vs阪神・小林」(最近と言っても、結構旧い話題ですが笑)、もしくは「近鉄・デービスvs西武・東尾」みたいなものだったでしょうか(あ、これは全然違うな)。■一戦目は、巨人が川上哲治の逆転満塁本塁打で勝利し、続く二戦目は1点差で南海が雪辱、そして三戦目に「三原ポカリ事件」が起きました。それは9回表、南海攻撃中のことです。この回に1点差に追い上げた南海は、なおも走者一塁の場面で代打・岡村の打球は痛烈な一ゴロ。川上が捕球後にすぐさま二塁に放り、ショート白石が二塁ベースに入って、続けざまに一塁へ転送。誰しもが3-6-3の併殺と思いましたが・・・、どうしたわけか、一塁走者筒井の左手と白石の右手が触れたようで、白石は球を投げられませんでした。一塁はセーフ。悪質な守備妨害とみた白石は「何をしとるんなら!」と広島弁で怒鳴ると、筒井も負けずに「何を!」と言い返したため口論となり、両軍の選手たちが大挙して二塁ベース付近に飛び出す始末。そして、巨人ベンチから真っ先に飛び出した三原脩監督が筒井に近づくなり、いきなり殴りかかりました。監督が相手チームの選手を殴るなど前代未聞の出来事でした。■南海監督だった鶴岡一人さんは、この時のことを振り返ります。「ベンチから見た限り、それは併殺を防ぐための当たり前のプレーだった。この時、(巨人の)三原監督がベンチから飛び出して二塁へ向かった。審判に抗議でもするのかなと思ったら、いきなり(南海の)筒井の頭をポカリとやった。(巨人の)白石君は日頃おとなしい人。それが怒るのだから、悪いのは筒井と決めてかかったとしか思えない。結局、三原さんは退場となり、その後の連盟裁定でシーズン終了まで出場停止となった。しかし、その処分もなぜか、百日間で終わった」。そして、「三原さんも当時は若くて、血の気も多かったのだろう。それにしても、エースを引き抜かれた側がポカリとやられたのだから、これは遺恨というには、あまりにも珍妙というほかない」。鶴岡さんにとっては、まさに泣きっ面に蜂。別所を引き抜かれ、さらに自軍の選手を叩かれたのだから、怒りで振りあげた拳をいったいどこに下すか、さぞ苦悶したことでしょう。■ここで余談ながら。別所引き抜き事件では巨人に有利な裁定があり、さらに三原ポカリ事件も三原の1シーズン出場停止処分だったはずが百日間だけに短縮されるなど、この当時はなぜか巨人ビイキの裁定が続きました。南海鶴岡さんにとっては、腹立たしい裁定ばかりだったはずですが、この時のコミッショナーは、実は初代コミッショナーの正力松太郎さんだったのですね。いえ、だから巨人ビイキの裁定ばかりだったと短絡的に言うつもりは毛頭ありませんが、当時日本野球連盟の会長だった鈴木龍二さん(後にセ・リーグ会長)が著書『鈴木龍二回顧録』(ベースボール・マガジン社)で当時のことを述懐しています。「当時プロ野球は、機構の統制機関としての社団法人日本野球連盟と、営業を担当する株式会社日本野球連盟に分かれていて、社団法人の会長が鈴木惣太郎さん、株式会社のほうの会長をぼく(鈴木龍二)がやっていた」。どちらも日本野球連盟という名称で(株)か(社)の違いしかなく、さらに会長の名前も鈴木惣太郎と鈴木龍二の同姓でややこしいことこの上ないのですが(笑)■で、本題へ。別所引き抜き問題が起きた時、当時選手の契約問題を担当していたのは(社)日本野球連盟の鈴木惣太郎会長でした。以下も『鈴木龍二回顧録』より。「そこで惣太郎さんが別所を呼んで話を聞くと、別所の意思は相当に強硬だ(つまり、別所の意思は、南海を離れて巨人に行きたい!と)。巨人の別所に対する要望も強いことがわかった。では(読売新聞社常務の)武藤氏を呼んで聞こう、ということになって(中略)ボクが立ち会って、惣太郎さんと武藤氏が会って事情を聞いた。会った結果、とにかく一応裁定を出しますよ、と(惣太郎さんが)言うので、正力松太郎さんの意向も打診した結果出したのが『別所選手を自由選手として、元いた南海に2日間の優先交渉権を与える』というものだった」。「(南海の)松浦代表は別所を呼んで話し合ったが、別所の気持ちは動かず、優先交渉の期限が切れたところで、別所は巨人へ入団ということになった。松浦代表と別所の話し合いは昭和24年3月18日、19日のことである。これで3月27日、正式に(別所は)巨人に入団したのであるが、その原因を作ったのは巨人にある、と言うので巨人に罰金10万円、別所には2か月間の出場停止のペナルティが課せられた。そして巨人から南海に21万円のトレード・マネーが支払われた」。これで一件落着のようですが、実は当時の鈴木惣太郎は読売に雇われていた身であり、正力松太郎との個人的なつながりもあったため、巨人の請託を受けて別所問題を裁定したとの批判が相次ぎました。このような批判に対し、鈴木龍二さんはこう言い切って鈴木惣太郎さんを援護します。「惣太郎さんは、大リーグ方式の理解者で、そういうことをやる男ではない。(中略)この問題が解決してからも、たびたび『オレは公正にやった。それなのに巨人にひいきしたと言われるのはかなわん』という発言をしばしば耳にしたが、2日間の優先交渉権を与えたことは、惣太郎さんの誠意であったと、ぼくは今でも思っている」。事前に別所の強硬な意思を知り、たった2日間の南海との交渉期間を与えたからと言って、その間に別所の意思が翻る可能性が僅かでもあったのでしょうか? その2日間がはたして会長としての誠意と呼べる代物だったのか、ボクは疑問に思うところでありますが。さらに鈴木龍二さんは、三原ポカリ事件についてもこう述べています。「昭和24年4月14日に起きた事件。この事件の裁定をしたのも、正力さんの意向を受けた惣太郎さんであったが、三原監督にシーズン中出場停止という、現在では考えられないような厳しいものであった。7月21日解除されたが、正力コミッショナーの、公式の任務を果たした、公正な裁定であったと思う」。そして、「別所の引き抜きに、三原君が黒幕として関与したようにいわれているが、ぼくは三原君はそれほど関与したとは思っていない。別所問題も、三原事件も、裁定を下したのはコミッショナーの正力さんだった(後略)」。はてさて、これら鈴木龍二さんの回顧録をどう読むか??? それは、このブログに来ていただいた皆さま各々の判断に委ねたいと思います。<関連記事>正力松太郎 http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201601160000/鈴木龍二 http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201203300000/(写真)南海・鶴岡一人監督と巨人・三原脩監督の、仲直りの握手?~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)より~。この写真は昭和24年4月の「遺恨試合」といわれた南海vs巨人の一コマと推察します。表面的には仲直りした様子の2人ですが、この3か月後、この2人に不幸な出来事が同時に起きます。昭和24年7月、シベリアに抑留されていた水原茂が復員し、それがため後に三原は巨人監督を追われるきっかけとなりました。そして同じ7月(3日)、鶴岡にも不幸が訪れました。愛娘の長女・千鶴子が誤って南海電車の踏切に入り、電車にはねられて死亡する事故が起きました。この時、たまたま娘を連れていたのは鶴岡の実母でした。娘の死、そして自分が関わって孫を亡くした実母の無念は、察するに余りあります。
2016.02.23
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長い人生、なぜか不幸が続くときは続くようで。それは鶴岡一人さんであっても同様、球界の盟主・読売巨人軍にしてやられた不幸は数々。広岡達朗のケースもそうでしたが、今回取り上げるのは「別所引き抜き事件」と「三原ポカリ事件」。■まず、「別所引き抜き事件」。昭和21年、鶴岡さん率いる(選手兼任)近畿グレートリング(南海の前身)が巨人に1勝上回って初優勝しました。その立役者のひとりが、この年に19勝を挙げた別所毅彦投手です。以降も活躍を続けた別所は南海のエースの座を堅持し、投手王国・南海、南海に別所ありと呼ばれる時代が続きました。しかし、よき時代は長く続きません、悲しいかな、横やりが入りました。当時南海が別所に提供していた大阪の住宅があまりに貧相だったため、そこを衝き、南海とケタ違いの土地と住宅を提供すると云い、別所を誘惑する球団が現われたのです。その球団とは、言わずと知れた、三原脩率いる巨人軍、昭和23年のことでした。これは別所にとって魅力的なオファーでした。しかも別所には東京出身の婚約者がおり、なおさら東京の生活を望む事情がありました。そして紆余曲折があったものの、翌24年に別所の巨人入りが正式決定したことで決着を見ました。これがのちに語り継がれることになった「別所引き抜き事件」のあらましです。■鶴岡さんは言います。「昭和21年、23年と南海が優勝した時は各新聞とも、この南海の強さは当分続くと書いた。対戦するチームの人間とすれば、なんとかそれを崩したいと思うだろうが、その方法が問題だった。一部では南海も報復の引き抜きをやればいいという声があったが、よそを不幸にしてまで勝とうという気はなかった」。これは、鶴岡さんの将としての矜持というべきでしょうか。また、自著『御堂筋の凱歌』ではこんなことも言っています。「(南海の)別所と木塚を引き抜けば、巨人は強くなる一方、当面のライバルで あり、手のつけられないほど整備されていた南海は弱くなるのだから引き抜き は一石二鳥の効果をもっていたわけだ。俊敏な三原さんらしい狙いであった」。さらに、「別所の引き抜きは昭和24年度の勢力分野をいっきょに逆転した。26年以降の、いわゆる巨人の黄金時代は、これによって達せられたものであるといっても、いいすぎではないだろう。別所引き抜きに対して、南海が釈然たりえなかったのは当然であった」 ■さて、名指しで批判された、一方の巨人・三原脩監督は、この事件について、どのように考えていたのでしょうか。三原の愛弟子だった青田昇が、昭和24年当時に聞いた三原の発言を回想しています。以下、『三原脩と西鉄ライオンズ 魔術師』(立石泰則著、小学館)より。「べつに別所が出場できなくても、それはそれでいいんだ。たとえ、別所が今シー ズン、巨人で1勝もできなかったとしても、彼の(昨年の勝ち星の)26勝が南海から消えるだけで、ウチが優勝できるのだから・・・」。余談ながら、この『別所引き抜き事件』には諸説があって、三原が直接かかわって別所を引き抜いたという説と、三原はかかわっておらず当時読売新聞社常務だった武藤三徳が単独で別所に接触したという説があります。従い、本当のところ、三原がどの程度この事件にかかわっていたかは未だ判然としません。しかし、青田の証言や三原独特の合理的な思考、そして以下の三原自身の発言等を聞く限り、この件に三原が深く関わっていたと考えるのが自然だろうと、ボクは思っていますが・・・。以下、自著『私の新しい野球管理術』より。「一般ファンの職業野球に対する考え方は、いいプレーを見たいという事と面白い勝敗を見たいということにある。(中略)しかし巨人に対する一般ファンの考え方に関する限りはそうではないと思う。つまり巨人ならばどれ程勝ち越して一方的な試合になろうとも、ファンはそれで充分満足してくれるのである」つまり、巨人ファンはプロセスや手段などにはお構いなしであり、そんなことより結果として圧勝し続ければ喜ぶだから、 その期待に応えることが将としての務めであると。さすがに、この発言には巨人ファンが怒りだすかもしれませんが(笑)とまれ、「他者を不幸にしてまで勝利にこだわらない」とする発言が鶴岡さんの矜持とすれば、「ファンが喜ぶ勝利のために合理的な手段を尽くす」という考え方も三原の将としての矜持と言えます。どちらが正しいと言えるものではありませんが、そういった監督たちが戦う野球をリアルタイムで見たかったなと、今更ながらそんなことをボクは思っています。※今回、「三原ポカリ事件」も書く予定でしたが、次回に譲ることにします。<関連記事> 「別所引き抜き事件」 http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/200912060000/ (写真)別所さんが若い!(^^)! 昭和30年のオールスターで語り合う鶴岡一人と別所毅彦。~『私の履歴書』(日経ビジネス人文庫)より~
2016.02.18
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■清原某が覚せい剤を所持使用したカドで逮捕されました。この一件について様々な議論が起き、上下関係の厳しさや精神野球の強制など、学生野球の弊害だと指摘するものまで存在することを知り、ボクは明治時代の末期に突然勃発した『野球害毒論』を思い出しました。野球害毒論とは、明治44年、東京朝日新聞は当時人気が加熱気味だった野球に対し、ネガティブキャンペーンを展開し、「野球と其害毒」を全22回に亘り連載したもの。その内容は、野球という競技は学生の本分を忘れ精神を堕落させ、また、右手ばかりを使うため右手が肥大する病に侵されるなどなど。まったく支離滅裂な話ではありますが、いま清原某をめぐる議論の一部は、それと同じことに思えて仕方ありません。そういった理屈を明治時代に朝日が綴った『野球と其の害毒』(すなわち野球害毒論)風に書くと、こんな感じになるでしょうか。■「学生野球の弊害は第一に学生の大切な時間を浪費せしめる。第二に疲労の結果勉強を怠る。第三には上下の規律厳しく、先輩に対し否と言えず悪の道に入る契機となる。大切な時間を浪費し身体を疲労衰弱せしめるまでに至っている。野球選手が学科のできぬのはこの理由からである。そして学科不良になった後は、危険区域へ陥入しそうな恐れあり。否、むしろ堕落の道へ近づいてゆく。さらに学生の身分に過ぎぬのに一般学生とは隔離優遇され、一部の大人が甲子園を頂点とした大会を開催し、木戸銭を取り興行物的することはいかなる弁疏(べんそ。弁解と同義)を以てするも遊戯そのもの評価を第一に押し下げ、かつ遊戯者をいかにも賎劣に見えしむることは十目十指の定評の御座候。また、野球といふ競技は常に強い球を受けるために、その振動が腕より脳に伝わり学生の脳を刺激して、脳の作用を遅鈍ならしめ異状を呈しせるものである」。■と、まぁ、最後の一文は余計ですが(笑)。野球しか知らない選手を、俗に「野球バカ」と表現するムキもありますが、バカになれるくらい野球に徹することは決して弊害ばかりではないはず。将来にわたっての財産にもなるはずです、きっと。清原某事件の原因を探るのであれば、それは学生野球に求めるのではなく、プロ入り後の「清原某個人と環境の関わり合い」にこそ求めるべきでしょう。特に「環境」が重要です。ここには有象無象の組織や人物が蠢いているようで、その毒牙にかかれば抜け出すことが並大抵でない様子です。・・・と、ここまで書いて、先般の「野球賭博」に関わった巨人3選手を思い出しました。彼らも「環境」との絡みの中で人生の道を踏み外したのだと想像しますが、清原某の周辺にはもっともっと大きな黒い渦があるように思えます。とすれば、一見完了したはずの「野球賭博」はほんとに全面解決したのでしょうか。そんな疑問が湧いてきます。清原云々よりもそちらのほうが重要と思います。<関連記事>1)『野球害毒論』とは、http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201104030000/2)西鉄ライオンズの選手たちを襲った『黒い霧事件』http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201011200002/アマチュア時代は輝いていた! 永易将之投手と田中勉投手。~『激動の昭和スポーツ史 社会人野球』(ベースボール・マガジン社)
2016.02.08
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鶴岡一人さんの選手を見る眼力には定評がありました。他球団の新米スカウトには、鶴岡さんが訪ねた選手宅をあとから軒並み訪ね歩いたという逸話もあるほど。しかし、選別眼だけで選手を獲得できるほどプロ野球の世界は甘くない。昭和40年にドラフト制度が始まる以前は、現代よりさらに魑魅魍魎の世界であって、さすがの鶴岡さんでさえも、その競争に巻き込まれることが度々でした。■まず穴吹義雄の獲得。壮絶なスカウト合戦の様子を小説、映画化した『あなた買います』のモデルにして、のちに南海監督に上り詰める穴吹を最初に見出したのは、実は鶴岡さんでした。もともと東京農大の円子投手(後に南海入り)を見る用で神宮に行ったところ、そこで目についたのが中央大のサード穴吹。当時はまだ3年生でしたが、すぐに会う手はずを整え、以後も頻繁に接触を繰り返し、見事獲得に成功しました。この成功事例に、鶴岡さんは鼻高々に(笑)こう言いきります。「スカウト合戦の決め手として、その選手の進路決定に一番影響力をもつ人を探し当てるということがある。幸いわれわれは穴吹君の高松高、中大を通じて先輩の名を聞き出した。その人が大阪に住んでいたのもラッキーだった。私と富永マネージャーが頻繁に会って、いち早く入団を決めた。穴吹君が4年生になると、表面的には争奪戦が激化した形となり、各球団関係者が高松の親もとへ集まった。巨人は郷土の先輩の水原監督が出馬した。私もゼスチャーで高松へ乗り込んだが、実際は大阪で勝負がついていた」。■でも、良いことばかりではありません。次に、立教大・長嶋茂雄獲得にまつわる失敗談を。昭和30年秋、鶴岡さんは、大阪球場で行われた東京、関西六大学対抗戦で初めて長嶋を見ました。この時ももともと長嶋目的ではなく、立教大の2年先輩・大沢外野手がお目当てでしたが、長嶋の守備に惚れ、まだ2年生だったにもかかわらず、正式に南海入りを勧めるほどのスピード交渉でした。そして長嶋が4年生になると、長嶋からは「南海にお世話になります」という返事もあり、契約金の準備も済ませてこれで準備万端、と思ったのが大きな間違い。秋になると状況が一変。突然、長嶋の兄が「弟は南海へ行かないかもしれません」と言いだし、鶴岡さんは慌てて東京へ飛びました。「会ってみると、長嶋君は『すみません、すみません』と繰り返すばかりだった。なおも聞くと、長嶋君は涙を浮かべて『兄弟げんかはするな。二人でよく話し合えと、母が・・・』と言った。巨人が千葉の有力者や立大OBを動かして、長嶋家を揺さぶったらしいのだ。お父さんがいない家庭で、兄弟二人。その一人の身体が弱いとなれば、遠くに行くなということになるだろう。やむを得ないとあきらめた」。■そして、これも失敗談。早稲田大の広岡達朗。長嶋の獲得失敗に先立つ昭和28年のこと。鶴岡さんにとって広岡は、広島・呉の二河小学校の後輩にあたり(つまり出身地がご近所)、父君に挨拶に行くと海軍士官だった実直な人柄で、息子のことは本人まかせなので、どうぞよろしくと返事をいただいた。その勢いで東京に遠征に行くたびに会い、南海への入団を勧めました。本人の反応も良く、入団の内諾も得ました。ところが、これも途中から雲行きが怪しくなりました。広岡の婚約者が大阪行きを渋ったことが原因とか。『東京で育った女性は、どうして大阪へ行くのを嫌がるのだろうか』。鶴岡さん、巨人の攻勢が裏にあったことも匂わせましたが嘆くことしきり。これを痛恨の失敗だったと書きました。■最後に、別府緑ヶ丘高の稲尾和久のこと。「無名だった稲尾君を西鉄が発掘して育てたというのが定説になっている。しかし、本当は最初に目をつけたのは南海だった。当時、南海は肩や肘を痛めた投手を別府へ湯治に行かせていた。その一人が、いい捕手がいると知らせてきた。それが投手になる前の稲尾君だった」。鶴岡さん、急いで別府へ駆けつけ、神社の境内で稲尾のピッチングをテストしました。稀にみるほどの投手だったため、すぐに契約を試みるも、ここでも邪魔が入ります。「後援会と称する人たちがやってきて、暗に金を要求した。『あなたたちに差し上げるぐらいなら、稲尾君に上積みしてやる』とキッパリ断った。結局、そのあたりから情報が洩れ、稲尾君は西鉄入りした」。そして、鶴岡さんは、こう言います。「とかく批判のあるドラフト制だが、同制度実施以前には、この種の人間が群がって、我々を悩ませたものだった」。(写真)立教大時代の長嶋茂雄。~『永遠のミスター 長嶋茂雄の世界』(報知新聞社)より~
2016.02.02
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前回触れた鶴岡一人さんについて、もう少し掘り下げたいと思います。今回から数回に分けて。参考書籍は『私の履歴書ープロ野球伝説の名将』(日経ビジネス人文庫)。■鶴岡さんは『私の履歴書』に様々な思い出を語っています。中には野村克也さんのことも。そのタイトルは「野村克也とのことーハワイ遠征で合格」。(以下、敬称略)まだ海外キャンプが珍しかった昭和31年のオフ、鶴岡監督率いる南海の選手たちはハワイでキャンプを張りました。ケチ球団=南海のイメージを払拭する目的もあって、親会社は相当(財政的な)ムリしての敢行でしたが、親の心子知らずとでも言いましょうか、肝心の選手たちはまったくの観光気分。残念ながら目に見える成果はなし。ただ、たった一つ光明があったとすれば、それは野村克也捕手の成長でした。帰国後の記者会見で鶴岡は「野村がうまくなった。これは期待してくれ」と、これ、ばかりは胸を張ったのです。当時、南海には松井、小辻、筒井の3捕手がおり、この3人がハワイに帯同するはずでした。が、新たに誕生する高橋ユニオンズへの選手供出のため、南海から筒井を放出。その代役として参加したのが野村でした。入団後に肩を痛めブルペン捕手の傍ら、打撃を活かすために一塁を守っていた野村でしたが、ハワイの温暖な気候が幸いしてすっかり肩が治り、正捕手の座を奪うに至りました。鶴岡は言います。「野村の努力はもちろん大きかったが、人間の運というものについても考えざるを得ない。高橋ユニオンズの誕生、捕手放出、ハワイの暖かさ。どれ一つ欠けていても以後の野村の活躍はなかっただろう」と。■このように野村を高く評価した鶴岡も、その約20年後に野村に対して激昂する事件が起きます。それは昭和52年オフ、野村が南海監督を解任された時のこと。球団への不満が爆発した野村は、自分を解任した球団の指南役は鶴岡だ!と名指しで批判を始めたのです。これは鶴岡にとって青天の霹靂でした。「すでに球団を退いた私に監督人事の権限はない。球団オーナーや代表にもしばらくお目にかかっていない。野村発言の後、私はオーナーに直接会って厳重に抗議した。オーナーは私の言うことを理解して、謝罪してくれた。その後、野村も新聞紙上で『勘違いだった』と釈明していた。誰かに入れ知恵されて、私のことを誤解していたとしか思えない」。続けてこう記し、野村の章を締め括りました。「あれから野村とは会っていないが、元気で活躍しているようだ(※注・鶴岡の『私の履歴書』執筆は昭和59年)。 彼はあの時は解任のショックで、きっと寂しかったに違いない。京都峰山高校野球部(野村の母校)部長の手紙で野村を知り、その試合を西京極まで見に行ったのが、つい先日のような気がする」。
2016.01.28
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■この1961年(昭和36年)において、大和球士さんが特筆すべき選手として、3人の名前を挙げています。ひとりは、この年に42勝を挙げた西鉄・稲尾和久。そして、南海・野村克也と中日・権藤博。(稲尾については次回以降に譲るとして)野村と権藤についても手放しの誉めよう。まず野村。この年は、本塁打29本、打点89、打率.295で最高殊勲選手に推された。以下、『野球百年』(時事通信社)より。「監督鶴岡が、『体格がええから採っておけば何か使いものになるかも分からん』と採用した程度だったが、めきめき頭角を現し、この36年、ついに長距離打者としての才能が開花し、以後40年に至るまで5年間連続してホームラン王の座を占めた。プロ野球立志伝を綴じれば、ナンバーワンは野村であろう」。さらに、ご丁寧にも、大和さんは鶴岡一人監督のこんなコメントまで加えていますが、いかにも鶴岡さんが言いそうな話です。「心掛けのええ者は大成する、その見本が野村です。自分の才能を伸ばす機会を与えてくれているプロ野球に、野村は感謝しとります。この心掛けが尊いじゃないですか。努力もせんと、プロ野球に不平不満ばかり言うやつらにノム(野村)の爪の垢でもせんじて飲ましてやりたいですわ」。(写真)南海・野村克也のバッティング。~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)より~■一方の権藤。ルーキーイヤーのこの年には35勝を挙げ(防御率1.70)、新人王を獲得しましたた。大和さん曰く、「惜しいことに権藤の快刀乱麻の快速球の切れ味は一年限りで、2年目から早くも衰えを見せ始めたが、36年度リーグ戦における1年間の投球にのみ限定して批評すれば、プロ野球を飾る大投手、沢村、スタルヒン、野口二、藤本、別所、杉下、金田、稲尾、杉浦らの最盛期と互角のピッチングであったと断言できる」。さらに、「なぜ、大投手として球史に名を残すべき豊かな素質に恵まれた権藤が短期間に没落したであろうか。残念でならぬ」とまでおっしゃっています。ま、後に権藤の名前は、監督としてもちゃんと球史に刻まれましたけど・・・。(写真)中日・権藤博のピッチング。~『スポーツ20世紀 プロ野球スーパーヒーロー伝説』(ベースボール・マガジン社)より~■さて、大和さんの記事はここまでにして、野村と権藤のその後に目を転じましょう。現役時代はリーグが違い、この2人に直接の接点はなかったと思います。が、後に各々監督になってから、血が燃え滾るほどの舌戦を繰り広げることになります。いつのことか分かりますか?はい、その通り。さすが、管理人よりも読者のほうが賢明な『あま野球日記』ならでは。皆さん簡単にお判りだったでしょう(笑)。それは1998年(平成10年)のことです。「奔放野球」を標榜する横浜監督の権藤と、「野球は監督の采配如何で勝敗が決する」という持論を展開するヤクルト野村監督の場外乱闘?が勃発しました。これはつとに有名ですね。「何よりも野球は選手がやるもの。監督は、選手個々の考え方や才能を自由に発揮できる環境を作るだけ」と言う権藤に対して、野村は黙っていませんでした。 「権藤の采配スタイルやマシンガン打線を、勝手無礼な行儀の悪い野球」と評し、権藤や横浜選手の人格に至るような部分まで公然と批判を展開しました。権藤も負けていません。「ID野球なんてクソくらえ」と選手にハッパをかけ、「グラウンド上で詰め将棋など見たくもないでしょう」とマスコミやファンに呼びかけ、暗に野村への挑発もしました。そして気になる結果ですが、ー言わずとも知れたー、この年に限って言えば、横浜がセ・リーグを制し、権藤に軍配が上がったのです~~~(^^)/(以上、参考はwikipedia)。
2016.01.26
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野球殿堂入りが18日、東京都内の野球殿堂博物館で発表された。アマチュア球界からは法大で東京6大学リーグ史上最多の48勝を挙げた山中正竹氏(68)が特別表彰で選ばれた。山中氏が殿堂入りしたのも何かの縁だろう。野球が東京五輪の正式種目に採用されるか決まるのは8月。初めて正式種目となったバルセロナ五輪で銅メダルを獲得し、その監督を務めたのが山中氏だった。五輪監督としては2人目だが、法大の恩師・松永氏はロサンゼルスの公開競技だった。「金は宿命。日本野球のため力になれれば」と4年後を見詰める。金字塔は投手として、東京6大学での通算48勝。同リーグの最多勝記録として今後も不滅だろう。「この数字のおかげで、卒業後もやれるんだという誇りを持つことができた」と言う。敗戦処理の1イニングに始まり、優勝胴上げ投手の1イニングが最後のマウンドだった。 1年春の明大戦、0-6の8回裏に初登板。大学では1試合でいいからマウンドに立ちたいというのが夢だった。感激の涙でかすむ視界の中で投げ、最後の打者がDeNA高田GMで無失点に抑えた。その後は1年秋から4年秋まで、カード初戦の先発を1度も譲らなかった。(日刊スポーツ) ■学生野球、アマチュア野球の指導者、そしてプロ野球DeNAの専務取締役も務めた山中正竹氏が野球殿堂入りしました。殿堂入りに際し、なぜ48勝できたのかと聞かれ、「当時は東京六大学も群雄割拠の時代であり、第3戦までもつれることが多く、自ずと勝ち星が増えた」とのコメントもありました。この金字塔の記録達成は昭和44年、以降、この数字を破られていません。現在も東京六大学野球連盟の通算最多勝利記録であり、今後もこの記録が破られることはあり得ないでしょう。ちなみに斎藤佑樹は31勝。山中氏が学生だった群雄割拠の時代、どんな選手がいたのか。そのことにボクは興味を持ちました。さっそく調べてみると、のちにプロでも大いに活躍した選手たちがゾロゾロ・・・。まず山中氏のいた法政大には田淵幸一、山本浩司(のち浩二)、富田勝のいわゆる「三羽烏」が、そして江本孟紀もいました。明治大には高田繁、星野仙一。早稲田大には荒川堯、矢沢健一、八木沢荘六、三輪田勝利。そして立教大には槌田誠、小川亨、谷木恭平。山中氏の言葉どおり、こういった選手たちが同時代にいたからこその48勝と、言えるでしょう。(写真1)昭和42年秋、法政が優勝を決めて田淵幸一が山中正竹を抱き上げる。~『大学野球熱闘史』(ベースボール・マガジン社)より。写真2も同じ。 (写真2)同じく昭和42年秋、優勝決定後の記念写真。神宮にて。前列左から2人目が山中正竹。後列右端が山本浩司(のち浩二)、隣が田淵幸一、そして富田勝。 ■ただ、これまで山中氏の記録を超える投手は本当にいなかったのか、そんな疑問が湧いてきます。なぜ「怪物」と呼ばれた江川卓は、山中氏の記録を破れなかったのか、なぜ47勝で止まったのか。結論を先に言うと、江川は本当は新記録、いやせめてタイ記録を達成できたはずです。ところが、自らその可能性を閉ざしてしまったのです。その理由をこちらに書いていますので、興味のある方はどうぞ。http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201401160000/(写真3)作新学院時代の江川卓。いま、朝日新聞の連載記事『あの夏』では、昭和48年の作新学院ー銚子商の戦いが紹介されています。~『高校野球 熱闘の世紀』(ベースボール・マガジン社)より。 <関連記事>打倒江川! 銚子商、勝利への執念http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201307020000/
2016.01.21
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前回の続き。http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201601070000/■「大正力」こと正力松太郎がなぜ、初代コミッショナーに就任後、わずかな期間で慌ただしく解任されたのか? 『鈴木龍二回顧録』(ベースボール・マガジン社)によれば、コミッショナー就任が昭和24年2月5日、解任が翌25年5月2日。その理由は、GHQによる圧力があったからなんですね。このことを説明するためには、多少の補足を要します。 ■正力は開戦時に大政翼賛会総務だったため、A級戦犯の第三次戦犯指名となり逮捕、巣鴨プリズンに収容されて、公職追放処分を受けました。そして22年9月1日に出所するも、公職追放処分が解除されたわけではなく、また、巣鴨に収容されるまで社長を務めていた読売新聞社は2度にわたる読売争議で鈴木東民ら共産党員一派が支配し、古巣の読売の、正力に対する扱いは厳しかった、いや、冷たかった。そんな正力の姿を憂えたのが、当時日本野球連盟の会長だった鈴木龍二でした。「プロ野球生みの親の正力をこのままに放っておくわけにはいかぬ!」とばかりに鈴木惣太郎、野口務らと画策、正力を初代コミッショナーに推すことを決め、24年2月23日、丸の内の工業倶楽部に、社団法人日本野球連盟の役員が出席、GHQのマーカット少将立会いのもとに、コミッショナー制度が発足し、正力の初代コミッショナーに就任しました。■まだ国内にGHQの影響力が残る中、鈴木らの根回しも万全でした。キャピー原田(当時、マーカット少将の副官)を通じて、GHQ上層部の了承も取り付けていました。ところが、GHQ内に混乱があったのでしょうか、「正力がコミッショナーという重要な公職につくのは追放令違反」だとして問題視されるに至りました。つまり、正力の就任は認めぬ、と。その後、鈴木らはあれこれとGHQの判断を覆すべく動くのですが、反応は芳しくありません。「正力さんにはまことに気の毒なことをしたことになったわけだが、正力さんから『あまりぐずぐず言うのもどうか。面倒くさいからやめよう』と言いだして、コミッショナーを辞任しました。これが24年5月2日のことでした」。(『鈴木龍二回顧録』より)※辞任と書いてありますが、これは事実上「解任」でしょう。<関連記事>鈴木惣太郎 http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/20090705/キャピー原田 http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201006270000/
2016.01.16
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本題に入る前に、まずは新年のご挨拶を申し上げます。お蔭様で昨年末に当ブログの総アクセス数が230万件を突破することができました。今年も不定期ながらコツコツ更新を続けて参りますので、何卒変わらぬご支援の程、宜しくお願い申し上げます。 ■さて、半年ぶりに【大和球士著『野球百年』(時事通信社)を後ろから読む】企画を再開し、このブログも新年をスタートさせたいと思います。従い、時計の針を1962年(昭和37年)に戻すことにします。この年、内村祐之氏がプロ野球コミッショナーに就任しました。氏は後半生をキリスト教の伝道に捧げ、『求安録』などの著書もある内村鑑三のご子息ですが、父の反対を退けて野球生活を貫徹し、一高(現・東京大)野球部のエースかつ主軸を打つバッターでもありました。のちに東大医学部を卒業、東大医学部長になり、現代精神医学の泰斗としても知られています。大和球士さんは内村氏のプロフィールをいつものように淡々と記すのですが、途中でふと疑問をもちます。内村氏ははたして3代目のコミッショナーなのか、いや4代目なのか? と。それは正力松太郎を初代とするか、福井盛太を初代とするかで変わります。もし正力ならば内村氏は4代目、福井ならば3代目。その理由は、本来初代であるはずの正力がコミッショナーに就任した後、米国進駐軍の指示により、慌ただしく解任された経緯があったから。そのため正力を初代と認めないと見るムキもありますが、いったん筆を止めた大和さんは、暫し黙考した後、こう断言します。「丸の内の工業クラブで、進駐軍のマッカート少将、八球団代表、選手代表若林忠志らが出席して、正式のコミッショナー認証式が行われた記録が残っている以上、正力を初代コミッショナーと認めるのが妥当であろう」と。即ち、初代は昭和24年に就任した正力、2代目が26年に就任した福井、3代目が31年に就任した井上登であり、そして4代目が内村ーーー。■まぁ、プロ野球コミッショナーなんつうものは、所詮「飾り」みたいなもの、別に何代目だって構わないじゃないか!という声が聞こえてきそうですが、上記の正力vs.GHQの経緯については書籍『鈴木龍二回顧録』(ベースボール・マガジン社)に詳しいので、次回もう少しだけ書きたいと思います。 (写真)4代目のプロ野球コミッショナーに就任した内村祐之氏。~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)より
2016.01.07
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■マーリンズと再契約したイチロー外野手(42)が引退までの「終身雇用」を保障されていたことが分かった。代理人のジョン・ボグズ氏が9日、イチローの契約をまとめた際の秘話を明かした。同氏は「球団は、イチローがいたいだけいてほしいとのことだった。彼らはイチローを非常にリスペクトしている」と明かした。終身保障の考えを聞かされた同氏も感激し「イチローもチームメートにも球団にも満足している。願わくば、この先何年もマ軍でプレーを続けてほしいね」と笑顔で話した。(以上、日刊スポーツより)イチローを終身雇用、「いたいだけいてほしい」という言葉がいいですね。そもそも野球選手は雇用契約なのか、なんてくだらないことはおいといて、一般のサラリーマン社会でもあまり聞かなくなった「終身雇用」、昭和の響きがあって実にいい。■さて、「いたいだけいてほしい」と聞いて、思い出したのが「やりたければどうぞ」発言です。正確には「監督をおやりになりたければどうぞおやりなさい」。発言の主は西武ライオンズの堤義明オーナー、一方、言われたのは西武ライオンズの森祇晶監督(いずれも当時)。それは1989年のシーズンオフのことでした。常勝を誇った西武が惜しくも近鉄バファローズにリーグ優勝をさらわれ、その負け惜しみと観客数が増えない苛立ちを森監督に向けて発した言葉です。これは「いたいだけいてほしい」と言葉は似ていますが、その意味するところは180度違います。「森なんかに監督を続けてほしくないけれど、やりたいなら勝手にやればぁ。ほんとにイヤになっちゃうなぁ。もっとまわりの空気を読んでくれないかな、あ~ぁ(ため息)」といったところでしょう。「やりたければどうぞ」。森監督はそんな皮肉にもめげずに西武の指揮を執り続けますが、ことはこれだけで収まりませんでした。その5年後に、森監督を「悲劇」第二幕目が襲います。1994年の日本シリーズ、西武ー巨人第4戦の試合前のこと、会場となった東京ドームの電光掲示板にニュース速報が大々的に流れました。「西武・森監督、シリーズ後に辞任」今まさに日本一目指して戦おうという時、森監督の目の前でこのニュースが流れたのです。もちろん、西武球団と森監督の間では「そのシーズン限りで辞任する」という合意はありましたが、このことは日本シリーズ終了後にしかるべき段取りを踏んで公表されるはずでした。当時密月の関係にあった西武・堤オーナーと、森監督にとっての古巣・巨人(読売グループ)が仕組んだ罠とでもいいましょうか。この2度にわたる仕打ちを経て(本当はもっとあったでしょうが)、森監督は球界の表舞台から身を引くことになったのでした。(写真)西武、全盛のころ。胴上げされる森監督、左手前は工藤公康。~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)より。
2015.12.14
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読売の監督に就任した高橋由伸の心境やいかに?以下、すべてフィクションであります。■平成27年オフ、読売ジャイアンツの「天才」として君臨してきた高橋由伸は、自身の潮時が近づいてきたことを悟った。「そろそろ現役を引退しようか・・・」、内心そう思い始めた頃、読売の3選手による野球賭博関与事件が発覚した。その後、好むと好まざるとにかかわらず、高橋はこの大事件の渦に巻き込まれて行った。秘密裏に調査に当たっていた球団幹部によると、さらにほかにも灰色選手が出てくる可能性があるという事実を聞かされた。どこまで根の深い話なのか。「第二の黒い霧」に騒然とする中、原辰徳は優勝を逃した責任を取って、読売ジャイアンツの監督を辞した。そして直後、高橋は球団幹部の●●から呼び出しを受けた。用件は「(原の後任として)監督をやってくれないか」ということだった。この先、事件がどう拡大していくかわからない。火中の栗を拾う、というけれど、この場合、私は拾うべきものは何もなく、ただ火の中に飛び込むだけというのは目に見えていた。しかし球団には恩がある。「君しかおらんのだ」と言われると弱い。40歳。まだまだひよっ子もいいところだが、引き受けざるを得なかった。ただし、事件の行方については見定めておく必要がある。私は今回の事件について、どうしても確認しておきたかった。「事件はどうなっているのでしょう」。しかし、●●幹部の返答は楽観的だった。「それなら話はついている」と。3選手と弁護士を交えて話し合い、〇〇〇万円を支払ったというのである。「ちゃんと一札取ってあるから、問題ないよ」。要するに3選手以外に累が及ばぬよう口止め料を払ったというわけだ。3選手にそんな交渉の才があると思えず、誰かがバックにいると考えねばならなかった。「このままじゃ終わりませんよ。連中はまた金を要求してきます。私の聞いた話だと、3選手だけではないそうじゃありませんか」。 数日後、受話器の向こうから消え入りそうな●●幹部の声が聞こえた。「おまえの言うとおりだった」。私は事件が最悪のシナリオに沿って進行しつつあることがわかった。3選手のバックにいる人物がまた金を要求してきたのだ。こちらに灰色選手を抱えたままでは、ずっと相手の要求をのまされることになる。「絶対払ってはダメです」。相手はゆすりのプロだ。裏の取引でどうこうできるものではない。・・・(以下、略) ■上記文は、西鉄ライオンズに『黒い霧事件』が判明した直後に監督を引き受けた稲尾和久さんの心境を綴った文章(出典:『神様、仏様、稲尾様』日経ビジネス人文庫)に、個人名のみを差し替えたものです。(しつこいようですが)上記文はあくまでフィクションですが、高橋監督にこのようなことが起きないことを祈るのみです。「火中の栗を拾う、というけれど、この場合、私は拾うべきものは何もなく、ただ火の中に飛び込むだけというのは目に見えていた」という言葉は、重いです。原文はこちらで確認できます。http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201011200002/
2015.11.04
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