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お久しぶりです。この数日間、ちょいと仕事でバタバタしておりました。さて。先ほど「ニュース・ZERO」(日本テレビ系)を見ていた。レギュラー出演している長嶋一茂氏が、今日の特集「うつ病」を取り上げた際に自らの「うつ病(パニック障害)」の経験を語り、回避するためには「勇気をもって休むこと」とカメラ目線で力強く語っていた。そうかぁ。オヤジさんが偉大過ぎたがために、かかるプレッシャーは相当だったろう。精神的に疲れるのもわかる。いまネットで調べたら、パニック障害で、現役選手の頃にもバッターボックスに立てないことがあったそうだ。これまで、なんで報道番組に一茂氏が出ているのかわからなかったけど、今日はじめて氏の存在感を感じた。(フジTV系の「NEWS JAPAN」のミノワさんは、いまだに何のためにいるのかわからないけど)ま、わが家の場合。わが息子はオヤジに対して同種のプレッシャーは全くないだろ。そういう意味で、わが家は精神的には安泰だで、長嶋一茂氏。立教高(現・立教新座高)-立教大。(プロ入団以降は省略)83年夏。高校3年のとき、埼玉県大会準決勝まで勝ち進むが、その大会で優勝した所沢商高に敗れ、甲子園出場の夢を絶たれた。そして大学時代。立教大4年のときは主将、かつ4番打者をつとめた。また、春と秋のシーズンに、東京6大学のベストナインも獲得。父・茂雄氏の8本塁打を抜く11本塁打を神宮で放った。ボクは一茂氏の立教時代の姿を、神宮で見たことがある。三塁を守っている姿は、いかにも身体が固そうに見えた。特にヒザが固そうで、常に腰が高い姿勢だったように記憶している。長嶋一茂氏といえば、思い出すのは高校・大学時代を一年遅れで氏とともに過ごし、日本ハムに入団した矢作公一氏(浦和リトル-立教高-立教大)。中田亮二(明徳義塾大-亜細亜大)に似ているというか、元・近鉄の佐野重樹投手(松山商高-近畿大工学部)に似ているというか。矢作氏、いまは埼玉で「お好み焼きレストラン」を経営しているそうだ。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.02.28
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法政大が6本の安打を効率的に得点に結びつけ東大に連勝、3つ目の勝ち点を挙げた。 (法大vs東大2回戦)法大 010 000 130 =5立大 000 010 000 =1(法)○上野悠-三上、(東)前田-揚場-●和田-安原法政大は2回、4番・松本雅俊(4年、関西高)が右中間に三塁打を放つと、続く5番・佐々木陽(3年、作新学院高)の内野ゴロで松本が生還し先制点を挙げた。そして同点に追いつかれた後の7回、東大を突き放す。今井諒(3年、履正社高)が、代わったばかりの東大・3番手の和田響(2年、旭丘高)から球速128kmの直球をライトスタンドに放り込んで追加点。8回には四球と相手失策からチャンスをつかみ、6番・多木裕史(1年、坂出高)の右中間を越える二塁打などで3点を挙げ、勝利を決めた。守っては今季初登板の左腕・上野悠史(4年、平塚学園高)が持ち味の制球力を発揮、7回途中まで東大打線をほぼ完璧に抑えた。(上野の今日の成績)6回1/3、78球、打者22、被安打4、奪三振7、与四死球1、自責点1。----------------------------------------------------------------今井諒。この試合で決勝となる本塁打を放った今井、実は今季初めての出場だった。 ガッシリした体型で左打席に入る姿は、その昔、法政大の主軸だった西田真二(現・四国IL・香川監督、PL学園高)を思い出せる。身長178cm、体重80kgとデータにはあるけれど、体重がもっとありそうに見えるが・・・。◇西田真二の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「法政大時代の西田真二のこと」 (2008.3.2) → こちらへ。この今井諒、履正社高3年の時に、2006年センバツで甲子園に出場している。だが1回戦で強豪・横浜高と対戦し、スコア0-1で惜敗した。その試合、横浜の投手は川角謙(現・青山学院大3年)だった。◇川角謙の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「横浜高OB、大学野球で戦う!」 (2008.10.1) → こちらへ。 今日も1クリックお願いします
2009.05.10
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現在、東都4部はまだ1試合を残すものの、順位が確定しました。優勝は芝浦工大、2位は東京都市大、そして最下位(3位)は東京工大。今季、東工大の試合を2度観戦しました。どちらもエース・笛田斗眞(2年、佐賀・東明館)が先発した試合でしたが、両極端の結果となりました。■まず9月23日の対都市大戦、笛田の投球は圧巻でした。スライダーを駆使した緩急自在の投球術で、5-0の零封勝利。142球、与四死球3、奪三振6、被安打はわずか1本のみ。打っては4番・福田一石(4年、光陵)や6番・瀬古健太(3年、札幌北)の長打などで着実に加点しました。(9月23日 芝浦工大G)都市大 000 000 000 =0東工大 010 000 04X =5■しかし一方の対芝浦工大戦。笛田は序盤から球が浮き制球を乱すも、被安打は3番・笈川の中前安打1本のみで凌ぎます。しかし、この笈川との対戦が後々まで尾を引きました。2つの四球で二死二・三塁のピンチを作ると、ここで笈川に中前にはじき返されてついに2点を失いました。実は前の打席でも笈川は同じ直球を同じ中前に安打しており、今回はファールで粘り最後の最後に待っていた直球を仕留めたのです。さらに続く4回も一死二・三塁の場面で、三度(みたび)笈川に中前へ安打され、笛田はマウンドを降りました。分かっていても、勝負どころで笈川の魔術に操られたように笛田は同じ球を投げ、同じ中前にはじき返されました。この笛田ー笈川の対戦が勝敗を分ける決め手になりました。(10月8日 芝浦工大G)芝工大 002 400 200 =8東工大 000 000 000 =0東京工大も好機はありました。6点を失った直後の4回裏、この回先頭の2番・淵脇空輝(2年、湘南)がヘッドスライディングで内野安打を勝ち取ると、続く3番・瀬古健太が中前安打で出塁して中軸につなぐも、後続が凡退し好機は潰えました。東京工大、今季の成績は2勝6敗、勝ち点1となり、最下位(3位)に終わりました。主力打者たちが今季をもって引退しますが、来年こそ4部優勝を目指してほしいものです。(写真)エース笛田、9.23完封目前。(写真)堀内俊太郎。(写真)4年生投手、寺澤穂高。(写真)4番・福田一石。(写真)軽快な守備をみせたセカンド・谷村優斗。
2017.10.29
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2か月ぶりで見た富士見高・太田弾(3年)投手、その時よりもだいぶ大きく見えて、風格さえ漂って見えた。いい意味で、相手チームを見おろす感じがあった。大宮県営球場で行われた埼玉大会の4回戦、富士見高-秩父農工科学高。富士見 310 302 0 =9秩父農 000 000 0 =0(7回コールド)富士見高の太田。先発して6回まで投げ、秩父打線を無安打無失点に抑えた。先日の関東大会、対銚子商高戦で見た時はコースを丹念につくピッチングと書いたが、今日見てそれは違っているように思った。変則的に横から右腕が出てくるため、打者からは球が見ずらい。なおかつ、緩急をつけた配球は絶妙。打者にとっては相当に打ちずらいだろうなと、そんな印象を受けた。太田投手、今日の成績は完璧だった。6イニング、打者数18、被安打0、奪三振7、与四球1、失点0。7回も投げれば、参考記録ながらノーヒットノーランになるな!そう思って試合を見ていたが、残念ながら7回には背番号「10」をつけた内田綾祐(2年)投手が登板。野手の好守もあり、難なく1イニングを投げ抜き、ベスト16入りを決めた。 いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.07.21
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■今日(7月27日)、準決勝の第1試合・浦和学院高対聖望学園高戦を観戦した。(写真)スコア■「事実上の決勝戦」といわれたこの試合は、前評判どおりの熱戦が繰り広げられた。初回、浦和学院は1番・竹村春樹が右前に安打を放って出塁した。早々にチャンスをつかんだかに見えたが、2番・服部将光は送りバントを失敗。そしてカウントを追い込まれた後にヒットエンドランに作戦を変更するも、服部は空振り三振、さらに一塁走者の竹村までもが二塁で憤死してしまった。送りバントをできずにチャンスをつぶす・・・、初回の集中力が群を抜く浦和学院にとっては、「らしくない、チグハグな攻撃」だったといえる。続く3番・山根佑太が安打で出塁したため、よけいに浦和学院の攻撃がチグハグに見えた。そして、この初回のチャンスを逃したことが、浦和学院のその後の試合運びを窮屈なものにした。チャンスはそれなりにあったものの、またも送りバント失敗や併殺打などが続き、得点できない。 ■一方の聖望学園も初回、浦和学院のエース・小島和哉(2年)を攻めたてる。一死後、2番・笠原伸吾が右前安打で出塁し、3番・寺田和史が四球を選んで一死一・二塁のチャンスをつかんだが、小島に後続を断たれ、こちらもチャンスを活かせない。聖望学園は、その後もスコアリングポジションに走者を送るものの、持ち味の制球力を活かす小島に要所を締められ、無得点が続いた。(写真)浦和学院・小島和哉。9回を投げ、被安打5、奪三振6、与四死球3、自責点0。■どちらが勝ってもおかしくない - いや、もっと言えば、浦和学院が敗れてしまう可能性も十分にあった - この試合は、緊迫した空気の中、両チームともに0(ゼロ)行進のまま、9回まで進んだ。そして先に得点に成功したのは、やはり、浦和学院だった。9回表、この回先頭の3番・山根が左前安打で出塁する。そして、4番・高田涼太がきっちり送りバントを決め、次打者の凡退後、6番・斎藤良介が右中間越えの適時三塁打を放ち、山根が生還。浦和学院はやっと1点を挙げ、これが決勝点になった。斎藤は準々決勝(7月25日、対埼玉平成高戦)で最後の打者をライトゴロに仕留め、小島の完全試合を好アシストした選手。今日も決勝打を放ち、背番号「11」は浦和学院になくてはならないラッキーボーイとして、その存在感をさらに大きなものにした。(写真)浦和学院・斎藤良介。9回表、右中間越えの適時三塁打を放つ■一方の聖望学園。今日の試合を名勝負にした立役者は、エースの川畑諒太だろう。2回途中から登板し、強力な浦和学院打線を7回2/3、被安打3、奪三振2、与四死球4、自責点1に抑えた。最速は120km台半ばだったものの、巧みな投球術で相手打線を翻弄した。(写真)聖望学園・川畑諒太。 ■さて、明日の決勝戦は浦和学院と川越東が戦う。川越東は中軸を打ち、ショートを守る高梨公輔が中心のチーム。ボクは2回戦(7月12日、対武蔵越生高戦)しか見ていないので、詳しいことはわからない。ただ、その時の印象では、まさか川越東が決勝まで勝ち上がるチームとは思えなかった。きっと一戦ずつ戦ううちに力をつけてきたのだろう。ちなみに、昨年まで川越東の監督を務めた阿井英二郎氏は現在、日本ハムのヘッドコーチに就任している。また、現在早稲田大学で「二刀流」に挑戦し、春季リーグ戦で東京六大学史上3人目の完全試合(対東京大戦)を達成した高梨雄平も川越東の出身。高梨公輔は雄平の弟。決勝戦は明日(7月28日)10時~。(写真)川越東・高梨公輔。~対武蔵越生戦より~今日も1クリックお願いします
2013.07.27
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前回の続き。http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201602180000/ ■いわゆる「別所毅彦引き抜き事件」に対し、日本野球連盟が巨人ビイキの裁定をしたのは昭和24年3月のことでした。そして、その直後にこの年のプロ野球は開幕。4月12日からは、当事者である巨人と南海が3連戦を後楽園球場で行いました(注・当時は1リーグ制でした)。世間は別所引き抜き事件の「遺恨試合」と呼び、連日大入り満員の盛況ぶりでした。最近で言えば、「巨人・江川vs阪神・小林」(最近と言っても、結構旧い話題ですが笑)、もしくは「近鉄・デービスvs西武・東尾」みたいなものだったでしょうか(あ、これは全然違うな)。■一戦目は、巨人が川上哲治の逆転満塁本塁打で勝利し、続く二戦目は1点差で南海が雪辱、そして三戦目に「三原ポカリ事件」が起きました。それは9回表、南海攻撃中のことです。この回に1点差に追い上げた南海は、なおも走者一塁の場面で代打・岡村の打球は痛烈な一ゴロ。川上が捕球後にすぐさま二塁に放り、ショート白石が二塁ベースに入って、続けざまに一塁へ転送。誰しもが3-6-3の併殺と思いましたが・・・、どうしたわけか、一塁走者筒井の左手と白石の右手が触れたようで、白石は球を投げられませんでした。一塁はセーフ。悪質な守備妨害とみた白石は「何をしとるんなら!」と広島弁で怒鳴ると、筒井も負けずに「何を!」と言い返したため口論となり、両軍の選手たちが大挙して二塁ベース付近に飛び出す始末。そして、巨人ベンチから真っ先に飛び出した三原脩監督が筒井に近づくなり、いきなり殴りかかりました。監督が相手チームの選手を殴るなど前代未聞の出来事でした。■南海監督だった鶴岡一人さんは、この時のことを振り返ります。「ベンチから見た限り、それは併殺を防ぐための当たり前のプレーだった。この時、(巨人の)三原監督がベンチから飛び出して二塁へ向かった。審判に抗議でもするのかなと思ったら、いきなり(南海の)筒井の頭をポカリとやった。(巨人の)白石君は日頃おとなしい人。それが怒るのだから、悪いのは筒井と決めてかかったとしか思えない。結局、三原さんは退場となり、その後の連盟裁定でシーズン終了まで出場停止となった。しかし、その処分もなぜか、百日間で終わった」。そして、「三原さんも当時は若くて、血の気も多かったのだろう。それにしても、エースを引き抜かれた側がポカリとやられたのだから、これは遺恨というには、あまりにも珍妙というほかない」。鶴岡さんにとっては、まさに泣きっ面に蜂。別所を引き抜かれ、さらに自軍の選手を叩かれたのだから、怒りで振りあげた拳をいったいどこに下すか、さぞ苦悶したことでしょう。■ここで余談ながら。別所引き抜き事件では巨人に有利な裁定があり、さらに三原ポカリ事件も三原の1シーズン出場停止処分だったはずが百日間だけに短縮されるなど、この当時はなぜか巨人ビイキの裁定が続きました。南海鶴岡さんにとっては、腹立たしい裁定ばかりだったはずですが、この時のコミッショナーは、実は初代コミッショナーの正力松太郎さんだったのですね。いえ、だから巨人ビイキの裁定ばかりだったと短絡的に言うつもりは毛頭ありませんが、当時日本野球連盟の会長だった鈴木龍二さん(後にセ・リーグ会長)が著書『鈴木龍二回顧録』(ベースボール・マガジン社)で当時のことを述懐しています。「当時プロ野球は、機構の統制機関としての社団法人日本野球連盟と、営業を担当する株式会社日本野球連盟に分かれていて、社団法人の会長が鈴木惣太郎さん、株式会社のほうの会長をぼく(鈴木龍二)がやっていた」。どちらも日本野球連盟という名称で(株)か(社)の違いしかなく、さらに会長の名前も鈴木惣太郎と鈴木龍二の同姓でややこしいことこの上ないのですが(笑)■で、本題へ。別所引き抜き問題が起きた時、当時選手の契約問題を担当していたのは(社)日本野球連盟の鈴木惣太郎会長でした。以下も『鈴木龍二回顧録』より。「そこで惣太郎さんが別所を呼んで話を聞くと、別所の意思は相当に強硬だ(つまり、別所の意思は、南海を離れて巨人に行きたい!と)。巨人の別所に対する要望も強いことがわかった。では(読売新聞社常務の)武藤氏を呼んで聞こう、ということになって(中略)ボクが立ち会って、惣太郎さんと武藤氏が会って事情を聞いた。会った結果、とにかく一応裁定を出しますよ、と(惣太郎さんが)言うので、正力松太郎さんの意向も打診した結果出したのが『別所選手を自由選手として、元いた南海に2日間の優先交渉権を与える』というものだった」。「(南海の)松浦代表は別所を呼んで話し合ったが、別所の気持ちは動かず、優先交渉の期限が切れたところで、別所は巨人へ入団ということになった。松浦代表と別所の話し合いは昭和24年3月18日、19日のことである。これで3月27日、正式に(別所は)巨人に入団したのであるが、その原因を作ったのは巨人にある、と言うので巨人に罰金10万円、別所には2か月間の出場停止のペナルティが課せられた。そして巨人から南海に21万円のトレード・マネーが支払われた」。これで一件落着のようですが、実は当時の鈴木惣太郎は読売に雇われていた身であり、正力松太郎との個人的なつながりもあったため、巨人の請託を受けて別所問題を裁定したとの批判が相次ぎました。このような批判に対し、鈴木龍二さんはこう言い切って鈴木惣太郎さんを援護します。「惣太郎さんは、大リーグ方式の理解者で、そういうことをやる男ではない。(中略)この問題が解決してからも、たびたび『オレは公正にやった。それなのに巨人にひいきしたと言われるのはかなわん』という発言をしばしば耳にしたが、2日間の優先交渉権を与えたことは、惣太郎さんの誠意であったと、ぼくは今でも思っている」。事前に別所の強硬な意思を知り、たった2日間の南海との交渉期間を与えたからと言って、その間に別所の意思が翻る可能性が僅かでもあったのでしょうか? その2日間がはたして会長としての誠意と呼べる代物だったのか、ボクは疑問に思うところでありますが。さらに鈴木龍二さんは、三原ポカリ事件についてもこう述べています。「昭和24年4月14日に起きた事件。この事件の裁定をしたのも、正力さんの意向を受けた惣太郎さんであったが、三原監督にシーズン中出場停止という、現在では考えられないような厳しいものであった。7月21日解除されたが、正力コミッショナーの、公式の任務を果たした、公正な裁定であったと思う」。そして、「別所の引き抜きに、三原君が黒幕として関与したようにいわれているが、ぼくは三原君はそれほど関与したとは思っていない。別所問題も、三原事件も、裁定を下したのはコミッショナーの正力さんだった(後略)」。はてさて、これら鈴木龍二さんの回顧録をどう読むか??? それは、このブログに来ていただいた皆さま各々の判断に委ねたいと思います。<関連記事>正力松太郎 http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201601160000/鈴木龍二 http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201203300000/(写真)南海・鶴岡一人監督と巨人・三原脩監督の、仲直りの握手?~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)より~。この写真は昭和24年4月の「遺恨試合」といわれた南海vs巨人の一コマと推察します。表面的には仲直りした様子の2人ですが、この3か月後、この2人に不幸な出来事が同時に起きます。昭和24年7月、シベリアに抑留されていた水原茂が復員し、それがため後に三原は巨人監督を追われるきっかけとなりました。そして同じ7月(3日)、鶴岡にも不幸が訪れました。愛娘の長女・千鶴子が誤って南海電車の踏切に入り、電車にはねられて死亡する事故が起きました。この時、たまたま娘を連れていたのは鶴岡の実母でした。娘の死、そして自分が関わって孫を亡くした実母の無念は、察するに余りあります。
2016.02.23
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第80回都市対抗野球大会・準々決勝4試合が今日(8月30日)、東京ドームで行われている。第1試合はトヨタ自動車と東京ガスが対戦。トヨタが4-1で東京ガスを破り、準決勝進出を決めた。東京ガ 000 000 100 =1トヨタ自 020 200 00X =4(東)安達-坂上-鎌田-徳村、(ト)佐伯-大谷ボクが注目していたのは東京ガスの4番・佐々木大輔(日大三高-明治大)。だが、今日の試合は4打数無安打、しかも3三振と散々な出来。特に6回表、二死一・二塁のチャンスに見逃三振を喫したのは痛かった。(「流れ」を手繰り寄せる絶好機だったのに)8回はトヨタの2番手として登板した大谷智久(報徳学園高-早稲田大)と対戦。東京六大学リーグ時代もよく対戦した間柄だったが、まるで大谷の球にタイミングが合わず、佐々木はここでも三振に終わった。--------------------------------------------------------<試合の経過>トヨタは2回、走者を二・三塁に置き、野選とスクイズで2点を先制した。そして4回、この回先頭の田中幸長(宇和島東高-早稲田大)が左中間フェンス直撃の二塁打で出塁。そして三進後、7番・佐野比呂人(三重高-法政大)のライト線への二塁打を放ち3点目。二死後、9番・二葉祐貴(PL学園高)がレフトオーバーの二塁打で4点目を挙げ、勝利を決めた。-------------------------------------------------------◇佐々木大輔の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「東京六大学のスラッガー 」 (2008.2.14) → こちらへ。◇大谷智久の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「このチームは宮本のチームだから、最後は宮本に」 (2008.11.22) → こちらへ。◇田中幸長の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「社会人選手権、トヨタ優勝」 (2008.11.24) → こちらへ。今日も1クリックお願いします
2009.08.30
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1949年(昭和24年)の都市対抗野球では、別府星野組のエース・荒巻淳が注目を浴びた。なぜなら昨年も都市対抗で大活躍するも、準決勝で三塁打を放ち三塁に滑り込んだ際に肩の骨を骨折し、決勝戦を欠場することになり優勝を逃した。 そんな経緯もあり、今回は、別府星野組にとっても、荒巻にとっても”捲土重来”を期す大会だったが、試合を重ねるたびスピードを増す好投を見せた荒巻の星野組が優勝を果たした。荒巻のほか、台北工を出た関口清治が4番、その前を立教大出のプレーイング・マネージャー西本幸雄が打つ強豪星野組だったが、この優勝を最後に解散し、10人ほどの選手たちが揃ってプロ野球に移った。 この時の事情について、西本の証言がある。「別府星野組はトンネルを掘るのが得意な会社だったんだけど、時間が経つうちに規模が縮小された。給料の遅配もあったし、会社の経営状態が良くないのは分かっていた。ノンプロの場合は3~5年プレイしたら野球から離れることになる。会社の状態を考えたら、一緒に野球をやっている選手に『おまえらはここに残れ』とは言えないわけや。だから都市対抗の前に『頑張って、みんなで優勝しよう。優勝すればその時、働き場所ができるから』と、尻を叩いたね。あの頃、ノンプロで野球をやっている選手がそう簡単に転職できる状態ではなかった」。(※1) 星野組は見事に優勝した。そして選手たちのプロ新球団・毎日オリオンズへの移籍も実現した。これは都市対抗の陰で西本が窓口となって毎日と交渉を進めてきた成果。選手たちを路頭に迷わせることなく”転職”に成功した。選手の中には西本、関口のほか、32歳の今久留主淳や弟の功、そして荒巻らがいた。もっとも荒巻は元々プロから注目された投手であり、毎日が直接交渉した。 この経緯に興味のある方は、「西本幸雄、職業野球選手になった頃」をご覧ください。 さて、荒巻淳(あらまき・あつし)のこと。 大分商時代、1942年(昭和17年)夏、文部省が主催したいわゆる”幻の甲子園”大会に出場した。当時から注目された投手で「球が速いだけでなく、縦にストンと落ちる変化球」も評価が高く、細身の体から小躍りするようなフォームはファンを魅了、甲子園の活躍が大いに期待された。 ”幻の甲子園”に興味のある方は、”幻の甲子園”と呼ばれる、正史に記録されない大会があったをご覧ください。 しかし1回戦の仙台一中戦では投球が乱れ、スコア2-3でまさかの初戦敗退となった。「荒巻は、相手が格下の東北の学校ということでナメてかかり、試合前夜は夜更かしし、さらに上半身裸のまま寝たため完全に体調を崩していた」とチームメイトの証言もある。(※2) この失敗を教訓としたか、大分商卒業後、大分経済専門学校(現・大分大学)に進学、「全国専門学校野球大会」で優勝投手となり、社会人野球の強豪・別府星野組に入団した。この頃から、大リーグインディアンスのボブ・フェラーのニックネームにちなみ「和製火の玉投手」の異名をとった。 毎日に入団後は、1年目から大車輪の活躍。いきなり26勝8敗、防御率2.06という数字をあげ、新人王、最多勝、最優秀防御率のタイトルを獲得した。2年目以降もエースとして活躍し、プロ通算173勝の成績を残した。(※1)『悲運の闘将 西本幸雄』(ぴあ)(※2)『幻の甲子園』(早坂隆著、文藝春秋)------------------------------------------------------------------------------------------------------ 今から75年前、1945年(昭和20年)11月23日、終戦から3か月後、神宮球場でプロ野球が復活しました(東西対抗戦)。まだ生きていくこと、食べることさえままならない時であっても、ついに開幕した野球に触れたいと多くの人が集まりました。今は新型コロナウイルス禍で野球を見ることが出来ませんが、いつか晴れ晴れとした表情で球場に行くことが出来るでしょう。その日を夢見て今は辛抱ですね。「この試合、終戦直後の大混乱期に開催されたにもかかわらず、4万5千人の大観衆が詰め掛けた。神宮球場で行われるのは1942年(昭和17年)以来5年ぶりではあったが、内野席を超満員にし、外野席も7割がたが埋まったという」 「一体どこから4万5千人もが集まってきたのであろうか。(中略)単純な野球愛というよりは、敗戦から立ち上がろうとする日本人の活力の発露と見る。野球人に強靭な精神力があったことは頼母しく、日本人に祖国再建の活力がみなぎっていたことはいよいよ頼母しい限りである。野球人、野球ファンが『ニ位一体』となって野球復活は快速調に進むことになる」 (『真説・日本野球史』(大和球士著、ベースボール・マガジン社刊より) (写真)別府星野組時代の荒巻淳 ~『激動の昭和スポーツ史 社会人野球』(ベースボール・マガジン社)リンクなしリンクなし昭和十七年の夏 幻の甲子園 戦時下の球児たち【電子書籍】[ 早坂隆 ]在宅勤務など家で過ごすことの多い今だから、ゆっくりと靴でも磨いてみてはいかがでしょう。ストレスを解放して心を落ち着かせ、あらたな活力が湧く効果が期待できます。
2020.04.20
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前回の続き。 ■1974年のプロ野球界は、長嶋茂雄の引退で他のすべてのことが消し去られた。金田正一率いるロッテが日本一になったことも、ウォーリー与那嶺が川上哲治に14年越しのリベンジを果たしたことも。そして王貞治が二年連続三冠王を獲ったことも。また、この年は「セーブ記録」が初めて採用された年でもある。初代セーブ王は、セが現・楽天監督の星野仙一(中日)。このたび、楽天を日本シリーズ初出場に導いた。パは南海の佐藤道郎。この佐藤は好人物だったらしく、この後1977年、野村克也監督が江夏豊に抑え転向を承諾させた際、江夏が真っ先に野村に聞いたのは、それまで抑えだった佐藤の処遇だったという。ドラフトでは、夏の甲子園の優勝投手、銚子商・土屋正勝、鹿児島実・定岡正二、横浜高・永川英植、土浦日大高・工藤一彦の4投手が「高校ビッグ4」と呼ばれ注目を浴びた。そして、それ以上に話題を集めたのは松下電器・山口高志の去就だった。■なぜか一番クジだった近鉄は山口を指名せず、二番クジの阪急に奪われた。この山口が1年目から快投を見せつけ、翌75年に阪急を初優勝に導いたのだから皮肉なものである。しかし、それでも近鉄にはドラフトの成果があった。まず2位で村田辰美(三菱自動車川崎)を獲得したこと。「江夏の21球」も「10・19」も主戦で経験する息の長いサウスポーだった。4位に吹石徳一(日本新薬)。「10・19」第2試合で本塁打を放った。以前、吹石がスカウトしている頃、神宮(東京六大学リーグ)のネット裏でよく見かけた。そして5位で谷宏明(熊本一工高)を指名した。同年の近鉄は、阪急を5度リーグ優勝に導いた西本幸雄を監督に迎えて1年目だったが、残念ながら前期5位、後期4位でシーズンを終えた。体質の甘さを痛感した西本は、そのオフ、不動の4番・土井正博を放出し、選手たちに危機感を芽生えさせた。なおこの年、羽田耕一が4打席連続本塁打、鈴木啓示が150勝を記録。そして土井が300本塁打をマークするも、このシーズンを最後に近鉄を去った。■東京六大学リーグは、法政大に大きな動きがあった。有力な高校球児がこぞって入学したのである。いわゆる「花の昭和49年組」である。江川卓(作新学院高)、中林千年(松江商高)、佃正樹(広島商高)、袴田英利(静岡自動車工高)、金光興二(広島商高)、島本啓次郎(箕島高)、植松精一(静岡高)等。秋季リーグ戦では、江川が6勝、中林が4勝して、法政があっさりと優勝した。最後の明治大2回戦は出場12選手中、1年生がなんと6名も出場していた。江川の女房役・袴田は大学卒業後、ロッテに入団した。先日放送されたTVでは、村田兆治の剛速球と鋭く落ちるフォークを「ノーサインで捕球した捕手」として紹介されていた。また、この当時の江川のことが『東京六大学野球80年史』(ベースボール・マガジン社)に、こう記されている。慶大を熱望したが不合格でやむなく法大へ。このコースをたどった選手が何人かいて当時の法大には微妙な空気が流れていた。しかし、江川はその右腕で強い法大を作り上げ、その空気を吹き飛ばした。※ちなみに同年春季リーグ戦でベストナイン<外野手部門>には、後に「10・19」で活躍した近鉄・新井宏昌がいる。■甲子園は、センバツを制したのは報徳学園高。池田高を3-1で破った。夏はエース・土屋正勝を擁する銚子商高が、防府商高を7-0で零封して優勝した。夏の大会で忘れられないのは、定岡正二のいた鹿児島実業高。準々決勝で原辰徳のいる東海大相模高と対戦、延長15回の激闘の末に勝利。定岡は18三振を奪った。そして迎えた準決勝(防府商高戦)も定岡が先発したが、3回に負傷し降板。9回裏に外野手のエラーでサヨナラ負けを喫し、泣きじゃくるその外野手の肩に腕をまわして懸命に慰めていた。■同年の社会・世相。田中角栄首相が退陣を表明し、三木武夫内閣が誕生した。月刊文藝春秋の「田中角栄研究--その金脈と人脈」(立花隆)によって金権実像を暴露されたことが田中首相退陣のきっかけになった。また、小野田寛郎がフィリピン・ルパング島で30年ぶりに救出されたのも、この年。『カモメのジョナサン』『ノストラダムスの大予言』がベストセラーになり、『GORO』が創刊された。昨日、セブンイレブンでは『週刊プレイボーイ』が成人誌の棚に置かれていると聞いて驚いたが、今も『GORO』があったなら、間違いなく成人誌扱いなんだろうなぁ。芸能界では、ドリフターズの荒井注が脱退し、代わりに志村けんがメンバー入りした。歌謡曲・フォークは、『赤ちょうちん』『精霊流し』『結婚するって本当ですか』等が流行った。同年、生まれた野球選手には松井秀喜がいる。長嶋茂雄が現役引退した年に松井が生まれたのは、別趣の興味をそそる。今年、2人揃って国民栄誉賞を受賞した。写真は5月5日、東京ドームの風景。打者は長嶋、捕手は原辰徳、主審は安倍晋三。この写真に写っていないが、投手は松井。~『長嶋茂雄・松井秀喜の絆』展にて撮影~
2013.10.23
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不運だ、サーパス(オリックス二軍)の近藤一樹(日大三高)。昨日行われたウエスタンリーグ・サーパスvs広島。サーパス先発の近藤、9回二死まで広島打線を被安打0、与四死球0、失策0、自責点・失点0に抑え、「完全試合」まであと一人に迫っていた。いかに二軍戦であれ、完全試合など簡単にできるものではない。そして最後(になるはずの)打者への投球は、不運にも打者の頭部を直撃、危険球退場となってしまった。なんということだ!?当たった打者も痛いだろうが、近藤にとっても痛すぎる。完全試合まであと一人のはずが、完全試合どころか、ノーヒットノーランさえも吹っ飛んでしまった。慌てて救援に山口和男(広島・山陽高-広島電機大) が登板。次打者をなんなく抑え、チームは勝利したものの、近藤にとっては悔いの残る一球だったに違いない。※ちなみに広島の先発は、お父さんが「トラック野郎」のルーキー・前田健太(PL学園高)。このゲームは敗戦投手となった。近藤一樹。いうまでもなく01年夏、甲子園の優勝投手である。同年のセンバツも甲子園に出場し、2回戦で姫路工高と対戦、8-5で勝利した。姫路工高のエースは真田裕貴(現・読売)。続く3回戦は東福岡高に3-8で敗戦。その東福岡高、2年生ながら4番打者を務めていたのは吉村裕基(現・横浜)だった。この近藤、華やかだった高校時代と比べ、プロ入り後の成績はパッとしない。01年のドラフト7位で近鉄に入団。以後の通算成績は、19試合1勝0敗、防御率1.91。雑誌『野球小僧』(白夜書房刊)は、近藤にこんなコメントをしている。「昨年は右肩を痛め一軍登板なし。緩急を生かした投球が特徴。体が入団時と変わっていない。(体の)中から生まれるキレ、強さを作ってほしい」。さ、今年が勝負だ!いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.05.03
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昨日の第3試合、パナソニック(門真市)-伏木海陸運送(高岡市)は、手に汗握る好ゲームだった。門真 100 000 100 =2高岡 000 010 000 =1(門)與座、庄司、鈴木、小屋、北出(高)中村、内藤、後藤、佐々木 スコア1-1の同点で迎えた7回、伏木海運は一死三塁のピンチの場面で佐々木竜次(花巻東ー東京農大)をマウンドに送った。結果、1番・上田隼也(高知ー亜細亜大)にセンターへ犠飛を打たれて1点を失ったが、この一球以外は安定した投球を見せた。(写真)佐々木竜次投手。 後続の打者を空振り三振に仕留めると、続く8回、9回も2つずつ三振を奪う、まったく危なげない好投を見せた。2回2/3、44球、被安打2、与四死球0、奪三振5、自責点0。140km台半ばの直球と、切れ味鋭い変化球で相手打者を翻弄。チェンジアップを交えた緩急も効果的に見えた。 花巻東3年時の夏(2014年)、エースとしてチームを岩手県大会決勝に牽引するも松本裕樹(現・ソフトバンクホークス)を擁する盛岡大附に逆転負けし、甲子園出場は叶わなかった。東京農大時代は故障に泣き満足できる成績を残せなかったけれど、いま都市対抗という大舞台で実力の片鱗を披露できた。 今大会は補強選手としての出場。本来の所属は医薬品卸業のバイタルネット(新潟)、このチームの監督は元近鉄バファローズの加藤正樹さん(PL学園ー早稲田大)。 (写真)パナソニック・小屋裕投手(神戸国際大附ー大阪商大)。身長162cmと小柄ながら躍動感あふれる投球フォームと、投げるごとに吹っ飛ぶ帽子、そして気合の雄叫びで、見る人を釘付けにする。スピードがどうとか制球がどうとか以上に、気合で真っ向勝負して相手打者をねじ伏せるタイプ。 (写真)バイタルネット監督の加藤正樹さん。伝説の「10・19」(1988年)では2試合とも途中出場。第一試合では8回、村上の適時二塁打で貴重な同点のホームを踏んだ。~『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)より。
2020.11.27
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◇今日の時事ニュース◇・新車国内販売27%減、39年ぶりの低水準を記録・「麻生首相では戦えない」自民党内懸念。政権2か月で内閣支持率が失速状態・<流行語大賞>「アラフォー」「グ~!」「蟹工船」「後期高齢者」「上野の413球」ほか 今日の日刊ゲンダイ。先のドラフトで広島から2位指名を受けた中田廉(広陵高)のことを紹介していた。中田のプロフィールは、次のように記されていた。「1990年7月21日、大阪生まれの18歳。小4の時、叔父と行った西武キャンプでで松坂大輔(現・レッドソックス、横浜高-西武)を見て野球に開眼した。今夏の甲子園で大会最速148kmをマークし注目を浴びた」この叔父とは、近鉄や西武に在籍した村上隆行氏(現・関西独立リーグの大阪ゴールドビリケーンズ監督)のこと。中田廉の母・恵子さんの妹が村上氏と結婚したため、廉と村上氏は甥と叔父の関係にあたる廉の「野球つながり」は村上氏との関係だけではない。父親は野林大樹氏。近鉄ファンだった方なら記憶にある名前かもしれない。87年、大型内野手として期待され3位指名を受けて、近鉄に入団した選手だった。ただプロではさしたる実績を残せず広島-近鉄-ヤクルトを渡り歩き、引退後は生命保険会社の営業マンとして第2の人生をスタートさせた・・・はずだった。だが廉が小5の時、父である野林氏はいきなり音信不通になる。そんなことがあって離婚を決意した母・恵子さん、野球好きだった廉に言った。「野球選手になるなら、お父ちゃんを超えないかんで。父ちゃんみたいに逃げたらあかん」中田廉。今年夏の甲子園にエース格の投手として出場している。1回戦は高知高をスコア8-5で降したものの、2回戦で左腕・土屋健二(日本ハム・4位指名)を擁する横浜高に4-7で敗退した。チームメイトには、明治大進学予定の上本崇司がいた。※上本崇司・・・今秋のドラフトで阪神から3位指名を受けた早稲田大・上本博紀(広陵高)の実弟。-------------------------------------------------------------中田廉の母親の妹が村上隆行氏と結婚した、そう聞いて気づいたことがある。それは、村上氏の妹は中村紀洋(近鉄-オリックス-中日-楽天)と結婚していたはずで、中田廉と中村ノリは遠縁にあたるということだ。(なんだか頭が混乱してきた・・・) いずれにせよ、中田廉は野林大樹、村上隆行、中村紀洋ら近鉄バファローズのOBたちと縁のある選手といえる。これは応援するしかないと思うのだ。1日1クリックお願いします>>人気ブログランキング
2008.12.02
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甲子園の準決勝、元中日の佐野心氏が部長を務める常葉菊川高が勝利し、大垣日大高との東海勢どうしの決勝戦となるようだ。ちなみに昨秋の東海大会でも対戦し、常葉菊川高が4-0で勝利している。この準決勝、まったく見ていない。会社からの帰途、JR山手線の壁面についているテレビモニターに「常葉菊川、決勝進出。優勝すれば静岡県勢としては、浜松商高以来29年ぶり」と、たしか出ていたのを偶然に見て知った。ということは、78年センバツの浜松商高...?帰宅して、さっそく調べてみた。常葉菊川高の森下知幸監督もその時の浜松商のメンバーで、二塁手だったようだ。そしてボクの記憶にあるのはエースだった樽井徹投手。小柄な左腕投手だったと思うが、当時は優勝投手ということもあり、浜松商の樽井といえばかなり有名な投手だった。その後、法政大に進学し河合楽器に進んだ(ようだ)。大学時代には貴重な左腕として公式戦に出場し、当時の「法政黄金時代」の一翼を担った。昨日このブログに書いた「バンビ」こと坂本佳一投手(東邦高)と同級生だったと思う。樽井投手、今どうしているのだろう?ちなみに、この78年のセンバツは前橋高・松本稔投手が滋賀・比叡山高を相手に史上初の完全試合を達成した大会でもある。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.04.02
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まさか!? のことが起きた。 ■聖望学園高 8-9X(延長10回) 大井高■ 聖望 402 200 000 0 =8 大井 011 410 100 1X=9 センバツの準優勝、聖望学園高が伏兵・大井高に 初戦敗退した。序盤でつけた6点差を守りきることが できなかった。 聖望学園高の先発は、もちろん大塚椋司。 「気持ちが前に出過ぎて力んでしまった。球が上ずった」 岡本幹成監督、 「大塚はいい投球をしようとし過ぎた。 選手たちは頭では分かっていたが、内面では気持ちの 切り替えができていなかったかもしれない」 一方、勝利した大井高・丸山桂之介監督。 「相手が聖望と決まってから、練習では投手をマウンドの 3~4m前から投げさせ、大塚君の速い球に慣れる練習を 繰り返し、狙い球を直球に絞った」 (参考 朝日新聞・埼玉版) ----------------------------------------- 聖望学園高が敗れた場所は、所沢航空公園球場という とても小さな球場だ。最近新装をしたらしいけれど、 甲子園とはあまりに落差の大きな球場で、大塚椋司の 高校野球はあっけなく終わってしまった。 同じころ、ボクは川越初雁球場にいた。 正直言って聖望学園戦はノーマーク。 春の県大会で優勝した市立川越高と朝霞高の、 公立高どうしの戦いを観戦していた。 実はこの戦いも凄かった。 ■市立川越高 1-1(延長15回) 朝霞高■ 川越 000 000 100 000 000 =1 朝霞 001 000 000 000 000 =1 ボクは終盤からの観戦だったけど、押し気味だったのは 朝霞高のほう。8回、9回と無死で走者を出すものの、 ことごとく送りバントを失敗、決勝点を奪えずにいた。 一方の市立川越高。 相手・村山聖投手を攻めきれずにいたが、 15回表に一死満塁の最大のチャンスを迎える。 打席に立ったのは主将で5番・岡田真喜。 だが、投ゴロで1-2-3の併殺に終わってしまう。 一塁にヘッドスライディングを試み、悔し涙を流しながら 立ち上がれずにいた。 「まだ負けたわけじゃい」と、ナインが次々に励ましに 行き、この試合最後(規定により延長は15回まで)の 守備につく選手たちの姿が印象的だった。 再試合は今日、同じ川越初雁球場の第3試合に組み込まれた。 ひとりで15回を投げ切った朝霞高のエース・村山聖の 投球数は180球。はたして今日も先発でいくのだろうか? 1日1クリックお願いします>>人気ブログランキング
2008.07.13
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1940(昭和15年)、戦争の靴音が次第に高くなる中、”弾丸ライナー”という言葉がうまれた。打球を放ったのは巨人軍の4番・川上哲治、命名者は大和球士さんだった。 4月1日、後楽園球場。この年著しい飛躍をみせた名古屋軍と巨人軍の激突。9回裏、走者をひとり置きフルカウントから川上が剛速球を叩くと、左翼手の守備位置前に”弾丸ライナー”となって飛び、あまりに当たりが強すぎたためにワンバウンドした球が吉田のスパイクに当たり、ファールグラウンドへ飛んでいく二塁打となって、巨人軍がサヨナラ勝ちした。 大和さんは「川上の壮絶な弾丸ライナーは、いまだに筆者の眼底に焼き付いて離れない。打球が強すぎて野手がボールを一瞬見失い、スパイクに当てて高くハジクなどは稀有の出来事に属し、筆者の知る限りにおいては2回あるのみ」と記している。 写真は『激動の昭和スポーツ史 プロ野球(上)』(ベースボール・マガジン社)より。
2023.04.30
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先ほどの続き。テレビ「J-スポーツ」の録画中継で解説していたのは国際武道大の岩井美樹監督。岩井さんの解説の中で「そもそも明治時代、米国で言う『ファストボール』を日本で『直球』と訳したのはおかしい」というコメントがあって、ボクは興味をもった。岩井さん曰く、「これまで日本では、米国で言う『ファストボール』を『直球』という言葉に訳して使っていた。『直球』はただ真っ直ぐなだけで、打者からすれば打ちやすい(素直な)球である。『ファストボール』の米国で意味するところは『速球』であり、日本の投手は『速球』を覚えなければいけなかったし、今後世界に通用しない」「米国では『ストレート』は『棒球(ぼうだま)』という意味がある。それに対し、『ファストボール』は”ムーブメント”(揺れ動く)といった特徴があり、直球より有効な球である」「明治時代、『ファストボール』という言葉を輸入したとき、『ストレート』と同じ意味で『直球』と訳したのは間違いだった。『直球』と『速球』の違いを区分して訳すべきだった」(※多少、ボクの解釈を含め岩井さんのコメントを補足して記載しました)-------------------------------------------------------------- そうか、そうだったのか。では、明治時代に『ファストボール』を『直球』と訳した、いわば「犯人」は誰だったのか? ボクはさっそく調べてみた。すると、日本で「直球」という言葉を訳した人はすぐにわかった。その人は、かの俳人・正岡子規。wikipediaによると、正岡子規は「直球」だけでなく他にも「打者」「走者」「飛球」などの野球用語を訳していた。ただ、よ~く読んでみると、子規は「ストレート」を「直球」と訳したと書かれており、「ファストボール」を「直球」と訳した犯人とは断定できなかった・・・。とすると、真犯人は???※ちなみに「ベースボール」を「野球」と訳したのは子規ではないらしい。中馬庚(ちゅうまん・かなえ)が正解。子規は中馬より先に「野球」という言葉を使ったのは事実のようだが、本名「のぼる」を「の(野)」「ぼーる(球)」(つまり「野球」)とペンネームにして使っただけ。「ベースボール」を訳したわけではない。---------------------------------------------------------------この記事は『ボクにとっての日本野球史』の中で、次の期に属します。→ (第1期)「1872年、野球が日本に上陸した時代」に属します。(第1期)に属する他の記事は以下のとおり。◇「ボクにとっての日本野球史」 (2009.7.1) → こちらへ。「1872年、野球が日本に上陸した時代 」 (2009.6.30) → こちらへ。「ホーレス・ウィルソンと数々の偶然と」 (2009.7.2) → こちらへ。 「「野球」と訳した中馬 庚」 (2009.7.4) → こちらへ。今日も1クリックお願いします
2009.07.18
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■今日(7月20日)は、埼玉県大会4回戦、本庄第一高対鷲宮高戦を観戦した。(写真)スコアエラーは本当に怖いものだ。先ほど見た浦和学院対春日部もそうだったけれど、この試合でもつくづくそう思った。それは2回裏だった。本庄一は二死三塁のチャンスをつかみ、8番・日賀野彰磨が打席に立った。そして日賀野が放った打球はゴロで二塁キャンバス付近に飛んだ。ふつうならセンターに抜けている当たりである。ところがセカンドの戸草内洋平が逆シングルでこれを好捕。振り向きざまに一塁へ送球した。アウト! そう思ったが、送球が低くなり一塁手が落球してしまった。嗚呼・・・! その間に三塁走者が悠々と生還し、本庄一が先制、そしてこれが決勝点になった。鷲宮にとっては悔やんでも悔やみきれないプレーになった。高校野球は「流れ」がコロコロと変わるのが常。特にエラーは「流れ」を変える最大の要因だ。この試合、小柄なエース・大塚敏行が本庄一打線を抑えていただけに悔いが残った。(写真)再三にわたり好プレーを見せた戸草内洋平 (写真)鷲宮・大塚敏行は本庄一打線を5安打に抑えた■一方の本庄一は、浦和学院、花咲徳栄などとともにベスト16に勝ち上がった。エースの平良チアゴ(ブラジル出身)は最少得点を守り抜いた。また、本庄一の選手を見ていて平良のほかに2人の選手に注目した。(写真)本庄一・平良チアゴ。鷲宮打線を3安打に抑えたひとりは4番を打つ町田椋(2年)。身長192cm、体重96kgの巨漢で、バットに当たればどこまで打球が飛んでいくかわからないほどのパワーを感じた。今日の試合は4タコ(1三振)だったけれど、今後の成長を期待したい選手だった。この町田を見ていて、ボクは流通経済大時代の神戸拓光(こうべたくみ、現・ロッテ)を思い出した。(写真)本庄一・町田椋。計り知れないパワーを感じる打者だそしてもう一人はショートを守る伊藤ヴィットル(ブラジル出身)。捕球から送球への一連の動きが格好いい。特に捕球後に全身のバネを使い、さらにスナップスローで一塁へ送球するプレーは日本人では真似できない。(写真)埼玉の「牛若丸」、本庄一の伊藤ヴィットル。今日も1クリックお願いします
2013.07.20
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■マーリンズと再契約したイチロー外野手(42)が引退までの「終身雇用」を保障されていたことが分かった。代理人のジョン・ボグズ氏が9日、イチローの契約をまとめた際の秘話を明かした。同氏は「球団は、イチローがいたいだけいてほしいとのことだった。彼らはイチローを非常にリスペクトしている」と明かした。終身保障の考えを聞かされた同氏も感激し「イチローもチームメートにも球団にも満足している。願わくば、この先何年もマ軍でプレーを続けてほしいね」と笑顔で話した。(以上、日刊スポーツより)イチローを終身雇用、「いたいだけいてほしい」という言葉がいいですね。そもそも野球選手は雇用契約なのか、なんてくだらないことはおいといて、一般のサラリーマン社会でもあまり聞かなくなった「終身雇用」、昭和の響きがあって実にいい。■さて、「いたいだけいてほしい」と聞いて、思い出したのが「やりたければどうぞ」発言です。正確には「監督をおやりになりたければどうぞおやりなさい」。発言の主は西武ライオンズの堤義明オーナー、一方、言われたのは西武ライオンズの森祇晶監督(いずれも当時)。それは1989年のシーズンオフのことでした。常勝を誇った西武が惜しくも近鉄バファローズにリーグ優勝をさらわれ、その負け惜しみと観客数が増えない苛立ちを森監督に向けて発した言葉です。これは「いたいだけいてほしい」と言葉は似ていますが、その意味するところは180度違います。「森なんかに監督を続けてほしくないけれど、やりたいなら勝手にやればぁ。ほんとにイヤになっちゃうなぁ。もっとまわりの空気を読んでくれないかな、あ~ぁ(ため息)」といったところでしょう。「やりたければどうぞ」。森監督はそんな皮肉にもめげずに西武の指揮を執り続けますが、ことはこれだけで収まりませんでした。その5年後に、森監督を「悲劇」第二幕目が襲います。1994年の日本シリーズ、西武ー巨人第4戦の試合前のこと、会場となった東京ドームの電光掲示板にニュース速報が大々的に流れました。「西武・森監督、シリーズ後に辞任」今まさに日本一目指して戦おうという時、森監督の目の前でこのニュースが流れたのです。もちろん、西武球団と森監督の間では「そのシーズン限りで辞任する」という合意はありましたが、このことは日本シリーズ終了後にしかるべき段取りを踏んで公表されるはずでした。当時密月の関係にあった西武・堤オーナーと、森監督にとっての古巣・巨人(読売グループ)が仕組んだ罠とでもいいましょうか。この2度にわたる仕打ちを経て(本当はもっとあったでしょうが)、森監督は球界の表舞台から身を引くことになったのでした。(写真)西武、全盛のころ。胴上げされる森監督、左手前は工藤公康。~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)より。
2015.12.14
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2009年11月22日に行われた「セ、パ両リーグ誕生60周年記念試合・プロ選抜vs大学日本代表」のこと。■5回裏、大学日本代表の5番手としてマウンドに上がったのは近畿大・中後悠平(2年、近畿大新宮高)。実況の島村俊治さんは、いつもの名調子で中後を紹介した。「上・横・下から投げ分ける変則投法は『千手観音投法』と呼ばれています」プロ選抜の8番・中田翔(日本ハム、大阪桐蔭高)との対決がボクは面白かった。中後、変則投法ながらスピードは速い。5球すべて140km台半ばの速球を投げ込み、中田に真っ向勝負を挑んでいた。残念ながら、結果は左中間を破るヒットを打たれたものの、「やんちゃ」そうな風貌同様に、勝ち気な投球に好感がもてた。■ボクが初めて中後悠平という投手を知ったのは、今年(2009年)6月に行われた全日本大学野球選手権。準々決勝の近畿大対富士大戦(6月12日)だった。この試合で8回から登板した中後は、スコア4-4の同点で迎えた9回、満塁のピンチに、サヨナラとなる押し出しの死球を与えてしまったのだ。打者の目時大(4年、福岡高)は死球の痛みを我慢して、尻もちをつきながらガッツポーズをしていたシーンをボクはよく憶えている。サヨナラ勝ちで大喜びの富士大。一方の中後は帽子をはぎとり、ヒザに両手を当て唇を噛んでいた。※ちなみに、この試合を中継したJ-SPORTSの実況アナも島村俊治さんだった。今日も1クリックお願いします
2009.12.17
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■面白い番組を見ました、NHK『球辞苑』。野球にまつわるニッチをテーマにした番組で、今回は「ホームスチール」。この「ホームスチール」は単独スチール、ダブルスチール、スクイズ失敗などに分類されますが、めったに見られない絶滅種?のような、最も難しい単独スチール(即ち、サインでなく、三塁走者自身の判断で盗塁を敢行するもの)を番組は紹介・分析していました。※プロ野球における過去10年間で、単独スチールの成功例はたった一度だけ(横浜・佐伯)。■実に面白かった・・・そして番組を見ていて、昭和6年春の早慶戦にあった早稲田・三原脩のホームスチールを思い出しました。少し長くなりますが、以下に『魔術師』(立石泰則著、小学館文庫)より引用します。早慶2回戦、7回表、一死満塁の場面。三塁走者が三原。対する慶應の投手は、水原茂。「三塁走者の私は、ここでちょっとテストしてみた。水原君の第一球、モーションに合わせてベースを離れた。ざっと見て7、8mも出たろうか。その時の感触は実にしっくりしていた。ひょっとすると・・・。帰塁して深呼吸する。すべての雑念がかき消されていた。マウンドの水原君は、第一球にみせた私の擬走に鋭い眼光を投げつけた。が、それだけだった。第二球も、だから全く同じ投球動作で入ってきた。ぐるぐるとワインドアップを二度やる。リズムは違っていない。その二度目、腕が頭にあがろうとしたとき・・・私は本塁へ向かう”疾風”となった。(中略)頭から、私は跳んだ。ホームベースの3mも手前からである。小川年安捕手がミットにがっちり受け、タッチにきた。その右手よりひと呼吸速く、すでに私の指先はホームベースをはいていた。「セーフ!」・・・」。■三原のホームスチールは、重苦しかった早稲田ベンチの空気を一掃し、大いに士気を鼓舞して勝利をおさめました。歓喜に包まれた早稲田ナイン。しかし、早稲田OBの重鎮・飛田穂州だけは、三原を痛烈に批判しました。それは打者が左だったことが理由のようで、その夜、合宿所を尋ねると、「全く定石はずれの暴挙である。打者が右打者だったなら走者に有利だったろうが、弘世は左打者で、捕手から三原の動きは丸見えである。だから、三原のホームスチールに偶然成功したようなもので、成功したからいいようなものの、もし失敗したら、その軽挙は早大を深淵の底に叩き込んでいただろう」。■「軽挙」「深淵の底」、厳しい言葉が並びますが、当然、三原はこれに反駁します。「私の野球の原点がここにある。飛田さんの言う「意表に出る」「定法はずれ」がそれである。力があい拮抗し、こう着状態にある時、定石通りにやれば同じ結果しか求められない。意表をつくことが意外性をはらむ。人間、人のやらないことをやるのも、大切なことである」。三原が言いたいのは、自身の豊かな感性(センス)だからこそホームスチールを狙い、そして成功したのだと。他の選手ならともかく、自分にしか感知しえない相手の隙を読み、準備は万端であったし、そのことに対して他人(たとえ重鎮であっても)にとやかく言われる覚えはない、と。生涯にわたって強気な言動が目立った三原を思うと、たぶんそういった考えだったろうと予想します。■さて番組に話を戻すと、出演していたデータスタジアム・金沢慧さんはホームスチールを「三本間のエンターテインメントである」とまとめていました。言わんとするところは、ホームスチールは野球の”華”であり、それは選手個人の感性(センス)にすべてを委ねられるもの。即ち、誰がやってもよいものではなく、スター性のある限られた選手のみに許された特権的なプレーなのだと、ボクはそう理解しました。もしそうであれば、三原のホームスチールも、まさにエンターテインメント。本人の感性(センス)で相手の隙をつき、そして選手やファンを魅了するに十分なプレーでしたし、三原自身がスター性を具備していることを広く証明したプレーでしたから。余談になりますが、酷評された三原の悔しい思いは、飛田だけでなく早稲田野球部にも矛先を向けられます。「元来早大は天才教育のヘタな学校で、早大で名をなしたものは、その多くが無名の選手から鍛え上げられたものである。それは特色であり、誇りでもあるが、折角いい素質を持ちながら誤った練習方法で素質を枯らしてしまうこともある。人には総て各々長所がある。その長所を伸ばすように指導することこそ教育の本道である。それを一つの型にはめこんで指導者の主観のもとに導くのは、一を取って九を捨てることであり、これはまさしく早大野球部多年の積弊であった」。(写真)早稲田・三原脩のホームスチール。『早慶戦110年史』(ベースボール・マガジン社)より。<関連記事>三原脩と水原茂 http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201402010000/飛田穂州と野球害毒論 http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201104030000/告!当ブログは「野球ブログ瓦版」に参加しています。もしよろしければ、下記のサイトもご覧ください。こちら→ http://kawaraban.blog.jp/
2015.10.02
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■巨人軍をV9に導いた川上哲治・元監督と「禅」の関係は深い。読売新聞社社主だった正力松太郎氏の勧めがきっかけだったらしいが、著書には『禅と日本野球』(サンガ刊)というものまである。読んでみると川上さんの野球は「すべて禅に通じている」と自身が書いていた。「報恩感謝」「不二の妙道」など聞き慣れない難しい言葉が溢れ、「凡夫」の私にはいったい何のことやら・・・。■禅の話はさておき、その著書『禅と日本野球』には川上さんと金田正一さんの興味深い話が紹介されていた。それは昭和40年、国鉄スワローズ時代には「金田天皇」と呼ばれるほどの存在だった金田さんが巨人に移籍した時のエピソード。当時、巨人には長嶋茂雄、王貞治といった当代一流の選手が2人もいた。そこに「金田天皇」を迎えることは、下手をすれば、川上さんが最も大切にする「チームの和」を乱しかねないリスクを孕んでいた。金田さんを迎えるにあたり、川上さんは金田さんに何と言ったか? 川上さんの人となりから推測すれば、「金田君、君も大投手だが、長嶋君や王君も大選手だ。彼らとひとつになって、チームワークを崩さないよう注意しながら頑張ってほしい」などと想像するが、実際はまるで逆だった。「金田君、君はジャイアンツで400勝するんだ。誰も達成できなかった大目標に挑戦してもらいたい。君のような大投手が同じチームにいれば、他の選手のお手本になるはずだ。なんでも君の好きなよう、いいようにやってくれ。君がやることに悪いはずはない」と言い切った。金田さんは意外そうな表情を浮かべたが、本人にゲタを預けたことでトラブルが未然に防止され、反対に、金田さんのいい面を引き出すことに成功したそうだ。ふ~む、これも「禅」効果だろうか。■前出の『禅と・・・』には、「昭和44年、V5の優勝祝賀会で金田正一選手と」というキャプションとともに、川上さんと金田さんが祝杯をあげる写真が掲載されていた。写真をよく見ると、この2人の他にもう一人、巨人選手の笑顔があった。若き日の末次民夫さんだ。現役を引退後も巨人一筋、つい先頃までスカウト部長を務めていた。以前は神宮球場で大学野球を見ていると、ネット裏にいる姿をよく見かけたものだった。また数日前には中央大・澤村拓一に清武英利代表とともに挨拶に出向いた末次さんの姿を新聞で見つけた。巨人側が清武さんと末次さん。その2人に向き合うように中央大・高橋善正監督と澤村本人。説明するまでもなく、末次さんは中央大と巨人をつなぐ「超」がつくほどの重要人物だ。本人が中央大OBであるだけでなく、義父は中央大野球部・総監督の宮井勝成氏。さらに高橋監督も巨人OB(日本ハムから移籍)なわけで、ドラフト前、澤村は巨人熱望と言ったのも何だか出来レースって感じで・・・■いかんいかん、下衆の勘繰りは止めとこう。そんなことを書いていたら、禅でいう「根本煩悩」、「慢」「疑」「有身見」・・・なのだ。 今日も1クリックお願いします
2010.11.23
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「原監督決めた、ダルで開幕戦/WBC」<WBC:宮崎合宿>◇初日◇16日◇サンマリンスタジアムこれがサムライジャパンの必勝ローテだ! 3月5日に開幕するワールド・ベースボール・クラシック(WBC)第1ラウンドの先発ローテーションが、第1戦からダルビッシュ有投手(22=日本ハム)、松坂大輔投手(28=レッドソックス)、岩隈久志投手(27=楽天)の順番となることが16日、最有力になった。初戦の中国戦はダルビッシュで勢いづけ、韓国が有力な第2戦は松坂に託す。そして岩隈で1位通過を決めて、米国に乗り込む作戦だ。日本代表候補の強化合宿は、この日宮崎でスタートし22日まで続く。(日刊スポーツ) ダルビッシュ有。日本ハムに入団前はタバコやパチンコでやんちゃぶりを発揮、いったいこの先どうなるんだろう?なんてボクは思った時期もあった。また甲子園大会では、長打を放ち二塁へ駆け込みざま、息の上がっているダルビッシュの表情をテレビカメラが捉えたことがあって、それを見た評論家の中には、「ちゃんと基礎体力はできているのか?」と疑問を呈するムキもあった。ところが、今や日本代表の堂々たる「エース」格の投手に成長。後輩の選手たちを引っ張るリーダーシップも発揮しているから、不思議といえば不思議なものだ。---------------------------------------------------------------ボクが初めてダルビッシュをナマ観戦したのは、2004年10月に行われた埼玉国体だった。その2か月前(8月)の甲子園では3回戦でエース・松本啓二朗を擁する千葉経大付高に敗退したものの、ダルビッシュの人気は絶大。県営大宮球場には多くの女性ファンが詰めかけていた。県営大宮球場で多くの「追っかけ」軍団を見ることは稀。それに驚いたボクは、ブルペンで投げるダルビッシュの投げる球を見てさらに驚いた。腕を軽く振っているだけなのに、その球は地を這うような低さから捕手の手前で大きくホップしているように見えたから。人気だけでなく、ダルビッシュには十分な実力があることを、ボクはこの時初めて自分の目で確認できた。ダルビッシュ有。<東北高時代>2年時(2003年)の春・夏、3年時(04年)の春夏の計4回、甲子園に出場した。最も惜しかったのは03年夏。決勝に進出し「白河越え」にもう一歩まで迫ったが、坂克彦のいる常総学院高にスコア2-4で逆転負けを喫した。この試合、常総・木内幸男監督の引退試合でもあり、そのことでも記憶に残るになった。 ※尚、木内さんは07年、再び常総学院高の監督に復帰している。■チームメイト■サイドスロー投手の真壁賢守(ホンダ入社予定、東北福祉大)がいた。■宮城県内のライバル■2学年上には名取北高・岸孝之(現・西武、東北学院大)、3学年上には高井雄平(現・ヤクルト)がいた。また3学年下に仙台育英高の佐藤由規(現・ヤクルト)がいた。 ■甲子園のライバル■4度も甲子園に出場しているだけあって、ライバル選手は多い。(以下、ランダム)横浜高・涌井秀章(現・西武)、千葉経大付高・松本啓二朗(横浜入団、早稲田大)、同・井上雄介(楽天入団、青山学院大)。済美高・福井優也(早稲田大・新4年)、同・鵜久森敦志(現・日本ハム)。花咲徳栄高・福本真史(現・TDK千曲川、明治大)。熊本工高・岩見優輝(大阪ガス入社予定、亜細亜大) ほか ぜひ1クリックをお願いします
2009.02.17
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いよいよ夏の甲子園が始まりました。今日(8月8日)第三試合の津田学園ー藤枝明誠は劇的なサヨナラゲームでした。スコア6-6で迎えた延長11回裏、攻める津田学園は二死一・二塁のチャンスに打者は2番・宮木滉生(2年)。この時、NHK解説の廣瀬寛さんは、とても興味深いことを話しました。「前の打席で宮木は犠打(送りバント)をしているんですよ。犠打をしたバッターの次の打席というのは比較的目が良くついていて、ヒットがうまく出るケースが多いんですよね」廣瀬さんがそう言った直後、狙いすましたように宮木がフルスイングすると、打球はセンターの頭上を越えてサヨナラ打になりました。以前から思うのですが、廣瀬さんは語り口こそ地味なんですが、内容はキラッと光ることが多いですね。しかもコメントをはさむタイミングも絶妙です。これからも廣瀬さんの解説が楽しみです。さて、廣瀬寛さんってどんな人? 経歴は岐阜高ー立教大ー元トヨタ自動車監督。現在はトヨタ自動車野球部の部長。立教大時代は捕手。当時の記録を見つけることはできませんでしたが、立教のの同世代に野口裕美投手がいたので、2人はバッテリーを組んでいたかもしれません。ちなみに当時、東京六大学リーグのベストナイン(捕手)は法政大・木戸克彦さん(現・阪神球団本部付)でした。写真:NHK
2017.08.08
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ツインズは17日、ポスティングシステム(入札制度)で独占交渉権を得ていたロッテの西岡剛内野手(26)の入団を正式発表した。3年契約で年俸総額は900万ドル(約7億5600万円)。4年目は球団が選択権をもつ。 西岡は16日にミネアポリス入りし、17日までの2日間で身体検査を行い、正式に入団が決まった。入団会見は18日午後4時(日本時間19日午前7時)。ツインズのマイク・ラドクリフ副社長は、地元紙スター・トリビューンに「西岡に関してはこの4、5年間、注目していた。いずれはメジャーに入るという情報だったからね。特にこの2、3年は毎年2、3人のスカウトを日本に送った。スピードと運動能力が魅力だ」と語った。西岡は今季、打率3割4分6厘で首位打者に輝き、ロッテの日本一に貢献した。しかし、イチロー、松井秀喜以外の野手がメジャーでは思うような結果を残していないことを前提に、地元紙の西岡に対する評価は決して高くない。「肩が強くないので、遊撃より二塁の方が向いているのではないか。今季の打率がそのままメジャーの数字になるとは思えない。仮に打率・275前後で、出塁率もよく、評判通りの守備を見せてくれれば、ツインズはオールラウンドな選手を獲得したことになる」という。そうした米国側の見方は、西岡の耳にも入っており、「日本の選手でも遊撃手としてキチンとやっていけることを証明したい」と意気込んでいる。 (夕刊フジ)■西岡剛。俊足好打のトップバッター、現・ロッテ二軍監督の高橋慶彦を師と仰ぐ。ボクが西岡のプレーで一番よく憶えているのは、2006年WBCで見せたタッチアップ。その判定を巡っては物議を醸したけれど、その当時、テレビ『すぽると!』の解説者・高木豊さんは「あれは西岡の技術です。打球が上がったら一度前(右)足に重心をかけ、左翼手が捕球する直前に後ろ(左)足に重心を移し、捕球と同時にスタートを切っている。主審からは西岡の姿が正面から見えるため、スタートが早く見えたのでしょう」と、西岡の高い走塁スキルを讃えていた。ボクは野球をやる時、そして見る時、一番好きなポジションはショート・ストップ。前出の西岡や高橋慶彦も好きな選手だったし、小坂誠、水上善雄、山下大輔、大橋穣、藤田平らのプレーも記憶にある。近鉄勢では石渡茂、谷宏明、吹石徳一、真喜志康永・・・かな。■もともとボクがショートというポジションを好きになったキッカケ、それは巨人V9時代の黒江透修が好きだったことと大いに関係がある。V9の頃はON全盛時代だったから、長嶋茂雄や王貞治にスポットライトが当たることが多かった。だけど柴田勲、高田繁、土井正三、森昌彦らとともに、黒江はV9達成には欠かせない名脇役だった。■つい先日、CS放送「G+」で『ジャイアンツ・ヴィンテージ 激闘!巨人対阪神(川上監督編)』という番組が放送されていた。内容は1973年(昭和48年)10月10日と11日に後楽園球場で行われた首位攻防戦。10日の初戦は巨人圧勝ムードの中、田淵幸一の満塁本塁打が飛び出して阪神が大逆転。翌第2戦は序盤で阪神が7点をリードしていたものの、中盤から巨人が猛烈に追い上げ同点に追いつくなど、まさに激闘の試合だった。第2戦目には黒江が本塁打を打つシーンも放送されていた。懐かしかったなぁ現役時代、年間3割超の打率を残したことはなかったけれど、ここ!という大一番では必ず(と言っていいほど)快打を放った。そして日本シリーズのような大舞台になると決まって活躍した。そんな「勝負強さ」が黒江を好きだった理由のひとつ。まだある。2つ目の理由は親しみやすい体型と、その体型に似合わない守備の巧さだった。身長167cmの小柄、しかもお腹の当たりが突き出ていて、通称『豆タンク』。現代の野球では決してお目にかかることのできない「ショートらしくない」容姿だった。それなのに守備は機敏だった。当時、三塁手・長嶋茂雄のハデなプレーが話題に上ることが多かった。でも三遊間に飛んだ長嶋が捕れないゴロを、黒江が逆シングルで捕球。三遊間の最深部から思い切り右足を踏ん張って一塁に送球し、打者走者を刺したプレーだって何度もあった。ボクはそんなシーンを見るたび、黒江の守備の巧さに感嘆するとともに、「ショートって格好いいなぁ」と憧れたものだった。■黒江透修。V9時代、いつもスタメンに名を連ねていたものの、それは決してレギュラーを約束された「安定した立場」ではなかった。首脳陣から次々に新しい競争相手をぶつけられ、切磋琢磨する中で競争に勝ち、結果としてポジションを他の選手に渡さなかったというのが実状。その原動力になったのは「野球センスには恵まれなかったものの、その分を努力でカバーした」(川上哲治監督評)賜物だった。※黒江のポジションを脅かすライバルには、千田啓介、上田、河埜和幸らがいた。もちろん、常に競争にさらされていたのは黒江だけではなかった。森だって土井だって、柴田、高田、末次民夫らの外野陣だって状況は同じ。よくV9の要因は「ONをはじめとした豊富な戦力」と言われるけど、チーム内の高いレベルの競争が根底にあった。長嶋の代表的なキャッチフレーズに「栄光の背番号3」というのがある。だけどボクにとって「栄光の背番号」は「5」。 「栄光の背番号5 黒江透修」なのだ。今日も1クリックお願いします
2010.12.18
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前・日本ハム打撃コーチの淡口憲治氏(三田学園高)がヤクルト二軍の打撃コーチに就任が決まった。元ロッテ監督の八木沢壮六氏(作新学院高-早稲田大)も同時に二軍投手コーチに。まず八木沢さん、たしか社会人・東京ガスの投手コーチをされていた。今春発覚した西武裏金問題の主役にさせられた木村雄太投手(明桜高、旧称:秋田経法大付高)にはカーブを伝授し、一層に投手としての完成度を高めたと言われている。また過去、阪神コーチ時代には井川慶(水戸商高)にチェンジアップを教え、大黒柱に育てた。そして、淡口さん。たぶん今回の就任は、高田繁監督(浪商高-明治大)の引きによるものなんだろう。そもそも日本ハムのコーチに就任したのも、当時のGMだった高田氏の要請によるものだった。淡口さんの日本ハム時代のコーチとしての実績については、賛否両論がある模様。まっ、それはここでは省略して、ボクには忘れられないことが2つある。≪その1≫85年のオフ。それまで在籍していた読売から近鉄にトレードされるのだが、そもそもは近鉄・有田修三(宇部商高)と読売・定岡正二(鹿児島実高)と決定されていた。だが、定岡は「トレードされるなら引退する」と言い放ち退団。その後釜として据えられたのが淡口だった。その年の読売の納会。たしか熱海後楽園ホテルの宴会場で、浴衣姿の淡口がウルサ型のOBたちに挨拶して回る写真が新聞に掲載されていたのを、ボクは憶えている。「近鉄に来てくれてありがとう!」たかが一ファンに過ぎないのに、ボクはそう思って写真を眺めていた。これは時期は前後するけど、同じく読売から近鉄に移籍した大森剛(高松商高-慶應義塾大)、香田勲男(佐世保工高)、そして吉岡雄二(帝京高)にも同じことを思った。≪その2≫このブログで何度も書いた「伝説の10・19」。あまり語られることはないが、淡口は素晴らしいプレーを見せている。それはダブルヘッダー第2試合でのこと。近 鉄 000 001 210 0 =4 ロッテ 010 000 210 0 =4 4-4の同点で迎えた9回裏、ロッテの攻撃。二死満塁と一打サヨナラの場面を迎えたロッテ、打席に立った愛甲猛(横浜高)が放った打球は低い弾道でレフト手前に飛ぶヒット性の当たり。レフトを守っていたのは淡口。懸命に前進し、走りながら地面スレスレでライナーを捕球した。もし他の選手だったら、どうだったろうか・・・?この愛甲の打球、ヒットだったなら近鉄はサヨナラ負けを喫していた。そういった結末だったなら、10・19への世間の評価も別なものになっていたのかもしれない。淡口憲治、ボクには絶対忘れられない選手の一人なのだ。1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2007.11.26
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「江夏の21球」について続き。■1960年(昭和35年)の日本シリーズ第2戦、大毎監督だった西本幸雄さんが同点に追いつくために出したスクイズのサイン。だが失敗に終わり、それをきっかけに大毎は大洋に4連敗、日本一を逃すことになった。そしてこの第2戦終了後、すかさず大言壮語な語り口で「永田ラッパ」と呼ばれた永田雅一オーナーからは怒りの電話が。「なんでスクイズなんかやるのか?」と非難し、西本さんを「バカヤロー」と罵倒してガチャンと電話を切った。2人の間は険悪な事態になったことは言うまでもない。■このスクイズ失敗は、翌日の新聞各紙の格好の標的になった。「西本 スクイズ失敗 / 大毎 消極的な作戦」「ペース乱れた? 西本作戦 / とにかく打つこと / 併殺が恐くてスクイズ」などなど。 後者の記事は、評論家・佐々木信也さんの署名記事である。後年、『プロ野球ニュース』(フジテレビ系)で見せた温和そうな表情からは想像できない、痛烈なものだ。「併殺が恐くてスクイズ」という表現に、佐々木さんの西本さんに対する特別な感情をボクは感じた。■調べてみると、1959年(昭和34年)オフ、2人にある確執があったことがわかった。大毎の監督に就任したばかりの西本さん、球団からまず与えられたミッションは「少数精鋭主義」という名の「選手数削減」だった。そして当時、選手としてのピークは過ぎたものの大毎の中心選手として活躍していたのが佐々木さんだった。以下、『私の履歴書-プロ野球伝説の名将』(日経ビジネス人文庫)より引用。西本さん曰く、苦い思い出は、佐々木信也をクビにしたことだった。一人でも二人でも選手を減らしたい球団は、頭数の多い二塁手を一人切れと言ってきた。坂本文次郎、須藤豊、八田正に佐々木。さらに、小森光生、柳田利夫も二塁を守ることができる。佐々木の打撃は素晴らしかったが、二塁しかできないのが、「少数」を強行する上で問題だった。辞めてもらうには、後の仕事の問題もあった。野球を離れてもやっていけそうなのは佐々木で、他の連中はなんらかの形で野球にかかわらないと、食っていけないと思って佐々木を指名した。あれから30年たった今も、佐々木とはマスコミの世界で仕事をすることがある(※注、本文は1992年8月、日本経済新聞に掲載された)。あの時はお互い苦しんだが、今の佐々木を見ると、あそこで辞めて大成功だったのではないかと思う。 (以上、『私の履歴書』)西本さんの話は本当だろうか? 監督就任1年目、ぜひ実績を残したいときに選手一人ひとりの今後の生活を考える余裕があるものだろうか。もし本当なら素晴らしいことだし、懐の深さに敬服するしかないが、佐々木さん自身がどう感じていたかは疑問が残る。■wikipediaにはこう書いてあった。以下に引用。1959年オフ、大毎オリオンズの監督に西本幸雄の就任が決まる。その西本は身長の低い選手はいらないとの考えを打ち出し、身長170cmに満たない佐々木も解雇の対象となり、他球団からの誘いも有ったが現役引退を決意する。その後、プロ野球ニュースで「自分が引退するきっかけとなった西本と仕事をする事になるのだから、人生というものは不思議なものだ」と(佐々木は)語った。 このwikipediaに書かれた内容の方が、ボクは理解しやすいが、本当はどうなんだろう?1日1クリックお願いします
2011.06.11
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「アンパンマン」こと広島カープ・松山竜平(鹿屋中央高-九州国際大)、久し振りにテレビで偶然に、その姿を見た。左打席に入った松山、ランナーを三塁に置いて西武・大沼幸二投手(尽誠学園高)の変化球を、豪快なスイングでライトへ強い打球を放ち、三塁走者を本塁に迎え入れた(犠飛)。解説・ヒゲの木下富雄氏(春日部高-駒澤大-広島)はこう言った。「守備や走塁に課題はあるものの、性格の明るさ、そして、バッティングの上手さが特筆に値する」同じく解説の佐々岡真司氏(浜田商高-NTT中国-広島)も「静かな選手が広島に多い中で、松山の突き抜けた明るさは、過去の選手でいえば西田真二(現・四国IL・香川監督、PL学園高-法政大-広島)以来かもしれない」佐々岡さんのクチから西田の名前が出たが、たしかに明るさだけでなく、松山の豪快な打撃は同じ広島の先輩・西田譲りかもしれない。----------------------------------------------------西田真二氏。PL高時代には、甲子園で全国制覇した投手。法政大に進学してからはレフトに転向した。(一時期、先日このブログに紹介した武藤一邦氏と一緒に外野を守っていたことがある。その時、武藤氏の守備はライトだった)。法政大時代、その明るいキャラで西田は人気者だった。たまに西田に打球が飛ぶたび、応援スタンドから西田コールが起きる、「にしだ~!」と。すると必ずスタンドに手を振るのを忘れないのが西田。次第に西田への(私設)応援団が出来上がり、レフトスタンドがそのファンたちで埋まるようになったことがある。西田、wikipediaによるとこんな逸話がある。評論家・達川光男氏(広島商高-東洋大-広島)の言葉によれば、「前田智徳は努力で天才の域に達した男、努力すればするほど良くなります」「西田は生まれついての天才、(但し)努力したら見事につぶれます」 そういった性格が災いしてか、当時の古葉竹識監督との相性は良くなかったとされている。--------------------------------------------------------古葉竹識氏(済々黌高-専修大-日鉄二瀬)。いま、埼玉県内の駅では古葉さんの71歳の笑顔が印刷されたポスターをよく目にする。このたび埼玉・川越市にある東京国際大野球の監督に就任したことで、大学のPR用ポスターに登場し、宣伝に一役買っているようなのだ。来月から始まる東京新大学リーグ、東京国際大を中心に見てみたい。そういえば古葉氏、先ごろ死去した江藤慎一氏(熊本商高-日鉄二瀬)とは、社会人野球・日鉄二瀬時代はチームメイトだった。◇マラソン日記◇3月2日(休)20km2月16日からカウント開始して、累計106km1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2008.03.02
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昨日、早稲田大・大石達也(2年、福岡大大濠高)の奪三振率は、なんと52.9%! と書いた。すると、新所さんから「10月19日、対明治大2回戦、3回、打者数11、奪三振数8」とのコメントをいただいた。そして今日、大石の成績は、(10月20日)対明治大3回戦、1回、打者数4、奪三振数3だった。今季、大石の奪三振率を合計すると、打者32人に対し、奪三振数はなんと「20」。奪三振率は62.5%になる。おぉ 斎藤佑樹(2年、早稲田実)がいつも話題の中心になるが、大石だってすごい。大石を見るときは、ぜひ奪三振率(数)にご注目をさて遅くなりましたが今日の早稲田大vs明治大3回戦のこと。早稲田大がスコア3-0で勝利し、4つ目の勝ち点を挙げた。これで明治大の連覇の可能性は消滅し、最終週の早慶戦で早稲田大が1勝した時点で優勝が決まることになった。余談だけど、一昨日このブログに書いた早稲田大・泉尚徳(4年、国士舘高)が今日レフトを守り、大ファインプレーを見せたようだ。ブログで紹介した選手が活躍することは、なんだかとても嬉しいことだ・・・つい先日も似たようなことがあったし。----------------------------------------------------------次に東京新大学リーグ。昨日(19日)、創価大vs流通経済大2回戦が行われ、創価大が連勝し2季連続30回目の優勝を決めた。創価大 003 020 000 =5 流経大 000 020 010 =3優勝した創価大、そして2位になった流通経済大は、明治神宮大会関東地区予選に進出する。組み合わせはすでに決まっており、流通経済大は10月27日第一試合で筑波大(首都リーグ2位)と、創価大は神奈川大(神奈川リーグ2位)と千葉リーグ2位(未定)の勝者と28日第三試合で対戦する。ボクは創価大vs流通経済大のこの試合を見た。流通経済大は何度もチャンスをつかみながらも、あと一本が出ず惜しくも敗れてしまった。ボクが注目している創価大・脇山渉(1年、愛工大名電高)は1番・指名打者で出場していた。前日の1回戦では本塁打を放っていたらしい。残念ながら、ボクは球場に到着するのが遅れて4回からの観戦だったが、3打数0安打で出塁する姿を見ることはできなかった。6回のライトライナーはいい当たりだったけど。----------------------------------------------------------今日の東都大学リーグ2部。國學院大は専修大にスコア6-2で勝利し優勝。1部最下位チームと入れ替え戦を戦うことになる。國學院大、昨季までのエース・村松伸哉(2年、光星学院高)は今季、登板する機会がなかったようだ。故障でもしているのだろうか? 1日1クリックお願いします>>人気ブログランキング
2008.10.20
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どうやら今年のシーズン終了をもって、プロ野球界から「バファローズ」という名は消えるらしい。30年以上にわたり「近鉄バファローズ」のファンだった。勝手なことを言わせてもらえれば、ボクのこれまでの半生の大半はバファローズとともにあった。でも、何の感慨もない。感傷的になる気もサラサラない。すでに近鉄という球団が消滅し、他の球団が事情によりバファローズを仮称としてつけていただけなのだから、当然なことかもしれない。簡単に「ボクとバファローズ」を振り返る。■小学生低学年のころ■岩手生まれの岩手育ちのボクが突然、バファローズファンになった。理由は他愛もないこと(ここでは省略)。以降、ラジオで大阪の放送局が発信する「バファローズナイター」を、岩手で聞いていた。実況アナの声より「ザッー」というノイズの音のほうが大きかった。試合内容が断片的にしかわからなかった。でもラジオを聴き続けた。当時の近鉄にはすごい選手が結構いた。でも勝てなかった。次第に勝てないことで落ち着ける自分がいた。天邪鬼な性格はこの頃に芽生えたのかもしれない。永淵、土井(正博)、伊勢、安井、清、神部、佐々木(宏)などがいた。■中学生・高校生のころ■いきなり、阪急の監督だった西本幸雄氏が近鉄の監督に就任。弱かったバファローズが、阪急と優勝争いを何度か演じるようになる。「天王山。阪急-近鉄、西宮3連戦」なんてフレーズがよく新聞で飛び交うようになる。■浪人のころ■バファローズ、パを初制覇。マニエルおじさん、「弱冠二十歳」という称号を冠した山口哲治(智弁学園高)が活躍した。そして「江夏の21球」。スクイズを失敗した石渡にも腹が立ったが、その前に三振に倒れた佐々木恭介に怒りを覚えた。たしか、その年の首位打者。もっと何とかならなかったのかと。■大学生のころ■仲間と一緒に草野球チームを作った。名前は「金欠バッキャローズ」。ユニフォームの胸には「Buffaloes」と同じ字体で「Buccaloes」と入れた。チームはかなり弱かった。西本さんがシーズン終了とともに勇退すると聞き、「ラスマエ」のゲームを観るため、深夜急行に乗って、初めて大阪という土地(藤井寺)に行った。就職活動。近鉄のグループ会社の面接を受ける。「私は近鉄バファローズが好きです」というと、担当者は「私は嫌いです」と即座に切り返された。はぁ・・・撃沈!■1988年■伝説の「10.19」は、川崎球場3塁側のベンチ裏で、声を嗄らして2試合とも応援した。一年前まで、10年以上にわたり三塁コーチャーだった仰木彬氏が、この年いきなり監督になってスゴイことをやってしまい、ボクは一気に仰木さんのファンになった。■1991年■大阪支店に転勤になる。最初の営業先は「近鉄球団」。何を話したか、まるで憶えていない。名刺をもらえたことが、ただ嬉しかった。大阪支店は大阪ビジネスパーク(OBP)の中にあり、ボクの勤務先は15F。窓からは、森ノ宮にある日生球場の照明の灯りがはっきりと見えた。残業もそこそこに球場に足を運んだ。■2001年■北川の代打・逆転・サヨナラ・満塁・本塁打でリーグ優勝を決める。もしこのゲームで優勝が決まらない場合は、一日をおいて千葉マリンのロッテ戦で決定する可能性があった。ボクはそのチケット(ネット裏)をもっていたので、大阪で優勝が決まったことが嬉しくもあり、残念でもあった。■2004年■バファローズの身売りだ、合併だ、1リーグ制だ、そんな話題が席巻し、なにやら不穏な動きが出始める。どさくさにまぎれてホリエモンが登場。「救世主」として歓迎するムキもあったが、ボクは興味をもてなかった。決してホリエモンのその後を予見したとかじゃない。テレビのあるインタビューで「もし買収したら、誰を監督にしますか?」と聞かれ、「うーん、原さんかな」と応えたその一言で、このヒトは野球を知らないし、興味もないんだなと思った。ま、そんなこんなで近鉄は消滅した。そして同じとき、ボクは必死で「バファローズ」という名も記憶から消滅させようとしはじめた。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.02.20
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