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帰国後、苗さんから来た手紙は主に■先生に十分なお世話ができずにすみませんでした。■手紙が間違っていたらご訂正下さい。■御家族の健康と幸福を祈ります。この3点で、後は自分側は変わりなく過ごしている、と書いてありました。■先生に十分なお世話ができずにすみませんでした。そんな風に思わなくて、いいのに。私には十分すぎるほど親切にしてもらって。その後も、年賀状は苗さんから来ていて私が返信するという形。一度、私が返信しなかった(忘れた)後は途絶えましたが、また私から出して。そしたら今日は突然、びっくりしました。先生が覚えていてくれてとても嬉しいです。と書いてありました。そして、その後また年賀状のやり取りが始まって。特に書く事はないので、お互い当たり障りのない近況報告どまりでしたが。2002年に江蘇赴任して暫く経った時に苗さんの会社に電話しました。苗さんは不在、というので携帯電話の番号を教えてもらって、かけると。やっぱりビックリしていました^^;そして会社に手紙が来て、読むと先生、立派になられて嬉しいです。と書いてありました。全然、立派じゃないのに・・・って思いましたが、喜んでくれたのは嬉しかったです。外国人で、まるで赤の他人で。何のメリットもないのに。こうやって一度の縁を大事にして私の事を自分の身内みたいに思ってくれる人がいる。中国に。確かにキツイ国で、私も色々な人に会って嫌な思いもしていますがたった一人でも、苗さんみたいな人と出会えた事で全ての人がそうではない、と言いきれる。考えは違っても、気持ちは通じる人がいる。それは私の大きな支えになっているんです。だから心は閉じません。勿論ビジネスでは油断できませんが、基本はオープンハートです。苗さんにもらった大きな「気持ち」は苗さんに返すには大きすぎてどうしようもないので少しずつ他の人にでも返すように。アテンドで出会った中国のお客さんや空港で出会った通りすがりの中国人や日本で言葉が分からず困っている外国人や白い杖ついている人や誰にでも、困っていそうな人には声を掛けて何かできる事はないですか?私は苗さんと違って、出来る範囲の事しかしませんがもらった気持ちを少しずつ他の人に返す事で巡り巡って苗さんに届くのではないかな、等と思って。苗さんとは、今連絡が途切れていますが。また、突然電話しようかな、と思ったり。それとも私が仕事で頑張ったり結婚したり(←これが最も難しいけど)何か喜ばせるニュースが出来た時に連絡しようかな、と思ったり。いずれにせよ苗さんは喜んでくれるでしょうけど。取り敢えず、また会える日を楽しみに日々を過ごしています。以上。私的な昔話ですみませんでした。 ↑ よろしければ是非、一回押してやってください。。扉ページ←「ホーム」をクリック!で【今日の 小日記 (何それ、と言わないで^^;)】やってます。私の日常の小ネタをチョコチョコ載せてます。そちらも是非!
2008/07/31
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プチ同窓会を早引け(?)してから完全帰国するまでの苗さんとの交流は、断片的にしか覚えていないんですよね・・・多分、考えると申し訳ない気持ちで一杯になるので考える事すら避けていたんだと思います。うっすら覚えている事は・・・あの雨の日の後、いつもの週一の勉強会が迫っていて。苗さんは連絡して来るのか、来ないのか。呆れられて、もう交流も終わるだろう、と思っていました。でも勉強会の前の日に電話があって。苗さんは「先日はすみません。お体はもう大丈夫ですか?」と。私は「ええ、もう元気になりました。私こそ、すみませんでした。」それから・・・「本当は、あの後、娘がピアノを弾いてみんなで日本の歌を一緒に歌おうと思っていました。部屋の準備をしていたら先生が帰ったと聞いてビックリしました。でも先生は具合が悪いので、残念でしたが仕方ありません。」苗さんが明るく言って。ああ、あの時、暫く居間にいなかったのはそういう事だったのか。始めてわかって。私は一体、何て事をしたんだろう、と思って。。それから・・・苗さんは「明日は用事があるので行けません」と言って。私が「お忙しいんですね」と残念そうに言ったら「仕事が忙しいのですみません。また来週に。」と明るく言ったので、ホッとしました。* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *確か苗さんは、この後も何度か寮に勉強に来ました。私はもう苗さんと生半可(なまはんか)な気持ちでは交流すまい、と思い。その時々、出来る範囲で精一杯、苗さんの好意を受け入れるよう努力しました。勿論、やっぱりいつもチグハグでどう受け止めればいいか分からない時もありましたができるだけ。でも苗さんは二度と「家に来て下さい」とは言いませんでした。当然の事だけれど私が招いた結果だから、仕方ないと思いました。そして私は留学を修了して帰国する事になり。苗さんからは次の勉強相手を紹介してほしい、と頼まれたので仲の良かった友人を紹介しました。もし苗さんが「将来、娘を日本に留学させたい」と言ったら自分がなるか、駄目なら父に頼んで保証人になってもらおうと思っていました。お金やモノでは替えられない、「気持ち」を沢山くれた人ですから。こんなワガママな外国人の小娘に一生懸命親切にしてくれて、私には、そんな気持ちは到底返せません。だから、せめて私で何か役に立てる事を、と思っていました。でも苗さんは、勉強相手の紹介以外は一切要求しませんした。あ、私の日本の住所を教えてほしい、とは言いました。モチロン喜んで住所と電話番号を渡して。そして私は、完全帰国しました。つづく。この話は1996年の上海での体験談を書いています。 ↑ よろしければ是非、一回押してやってください。。帰国して2週間くらい経った頃か、苗さんから手紙が届きました。次回はそれを元に。扉ページ←「ホーム」をクリック!で【今日の 小日記 (何それ、と言わないで^^;)】やってます。私の日常の小ネタをチョコチョコ載せてます。そちらも是非!
2008/07/30
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お金は、シンプルです。苗さんが100元を差し出した時、私はそれを冷静に見ました。100元約1,100円。(当時)私の財布に、いつも10枚くらい入っている。アル○イトで、毎月数十枚もらう。100元「う~ん…少ないです(~~)」苗さんの表情と声が、脳裏をよぎりました。日本語教室で生徒達が自分達の給料の話をしていた時、苗さんの月給が1,000元と聞きました。他の生徒達は300元や500元。モチロンかつかつの給料。だけど彼らは生活している。月にそれだけで一体どうやって生活しているのだろうと不思議で仕方ないのだけれど。会社が寮や住宅をあてがったり食事を支給したり保障部分が日本とはかなり違うので、そのまま日本と比較なんてできない。それぞれの経済レベルに合う生活があって、それが中国の階層社会を成り立たせている。苗さんは国営印刷工場の工場長で、1,000元。「1,000元は多いですか?」と聞いた私に「う~ん…少ないです(~~)」と言った苗さん。いつもニコニコの苗さんが、この時だけ現実的な顔を見せたのでとても印象に残っていました。1,000元の中の100元。勿論ボーナスうんぬんはあるでしょうけど月給は1,000元です。・・・受け取れない。そう思ったので「いいです。大丈夫です。TAXI代は持っています^^;」と言いました。「いいえ、しぇんしぇえ、どうぞ!」苗さんは私の手の中に入れようとします。「いえいえ、ダメです」押し戻しました。「いいえ、しぇんしぇえ!」苗さんは、また私の手の中に。通行人の目を気にして100元を苗さんと押し付け合いながら、私は苗さんは、そのウチ、力を緩めるだろうそう思っていました。現実ですから。1,000元の月給の人に、100元は重い。だから、護衛団の時も苗さんはバス代を出そうとして結局引っ込めたじゃない。「いえいえ、ダメです」「いいえ、しぇんしぇえ!」何度目かのやり取りの後、しかし苗さんはグイッとものすごい力で私の手の中に、ねじ込んで来ました。男の人の力でした。この人、本気だビックリして、とっさに苗さんを突き飛ばしました。そして私は、きびすを返してこの人は・・・!大きい道路の方へ、走り出しました。「苗さん、私はバスで帰りますから!心配しないで!」振り返って、笑顔で手を振りました。苗さんが、しりもちをついているのが見えました。「今日は、有難う!さよなら!」バス停の方へ逃げるように走り、丁度バスが来たので急いで乗りました。私は呆然として無意識に、空いた席へ向かって歩いていました。あの人はどうしていつも、あんな・・・こんな大バカ娘に親切にして。・・・こんな自分の事しか考えていないヤツ放っておけばいいのに。一番後ろの席に座りました。湧いてくる涙に、構う気にもなれませんでした。情けなくて、消えてしまいたいくらいでした。つづく。この話は1996年の上海での体験談を書いています。 ↑ よろしければ是非、一回押してやってください。。扉ページ←「ホーム」をクリック!で【今日の 小日記 (何それ、と言わないで^^;)】やってます。私の日常の小ネタをチョコチョコ載せてます。そちらも是非!
2008/07/29
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階段を駆け下りたのは。誰も悪気がないのが分かっているのに急に出てきてしまった自分のワガママさと、中国の人と世間話も出来ない自分の未熟さが腹立たしくて。そして頭が痛くて早く帰りたくて。そして苗さんが追いかけてきそうな気がしたから。心配かけまいと我慢していたのに結果的に、一番心配させる形で出てきてしまった。団地の敷地内を走って抜けて、道路に出ました。小雨が、降り出していました。・・・雨降ってる。傘は持って来ていませんでした。団地の方を振り返りました。誰も来てないや・・・ちょっと寂しい気持ちで歩き出しました。苗さん主催のプチ同窓会だったのに幹事に恥をかかせてしまった。。怒ってるだろうな、苗さん。もう顔、合わせられないわ。・・・落ち込み。でも自己嫌悪が苦しくてもういいや、やっちゃったから。雨降ってるし、早くTAXI拾って帰ろ!苗さんが怒っても、仕方ないじゃん。私、体調悪かったんだから。・・・開き直り。それでもモヤモヤした気持ちは変わらず、やたらバッグを大きく振って、歩いていました。すると「・・・しぇんしぇえ~」・・・来た。顔、合わせたくない。。聞こえない振りで、足を早めました。すると、また「しぇんしぇえ~!!!」もう、聞こえない振りをするのは通用しない距離で苗さんの声が聞こえました。今、気付いたような顔で何気なく振り返る・・・白いTシャツと短パンの苗さんがサンダル履きで走って来るのが見えました。何と言うのか。心配と悲しいのが混じったような表情でした。「・・・ああ!苗さん(驚)」不自然に見えない程度に驚いて苗さんが、こちらへ走ってくるのを待ちました。* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 「しぇんしぇえ、頭が痛いですね。大丈夫ですか?」「大丈夫です。すみません心配かけて。苗さんも知っていますね、私はいつも頭が痛いです^^」「しぇんしぇえは一人で帰れますか?」「大丈夫です!本当に心配しないで下さい。今は少し頭が痛いだけです。今帰って眠れば元気になります^^」「・・・あ、雨が降りますね。こ、これを・・・!!」苗さんが両手で、赤い傘を差し出しました。「あ、すみません・・・」そう言って開いたら、頭くらいしか隠れません!?・・・子供用!?「苗さん、これは少し小さいですね(~~;」「すみましぇん!家に娘が小さい時のしか、ありませんでした」娘が小さい時って・・・そんなん無理に決まってるやろ( ̄Д ̄;) いくら私が小さくても。バカにしてんの、この人??また少しイラッとくる。でも、それを顔に出さないように、笑顔で言いました。「…うん!ご好意有難うございます。でも傘は悪いからいいです。雨は少しですし、私はTAXIで帰りますから、心配しないで下さい。今日は本当にすみませんでした。家に招待してもらったのに途中で帰ってしまって、本当にすみませんでした。」何度も会釈とお辞儀を繰り返しながら、苗さんに謝りました。苗さんも「すみません、すみません」と何度も謝りました。そして苗さんは一瞬、意を決したような表情をして。短パンのポケットから何かを取り出しました。青い・・・紙?「こ、これを・・・」差し出したのは、100元札でした。つづく。この話は1996年の上海での体験談を書いています。 ↑ よろしければ是非、一回押してやってください。。最初は10元と思いました。が、100元でした。苗さんの月給は、1,000元です。扉ページ←「ホーム」をクリック!で【今日の 小日記 (何それ、と言わないで^^;)】やってます。私の日常の小ネタをチョコチョコ載せてます。そちらも是非!
2008/07/27
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チャオミエン(炒麺)は、なかなか出てきませんでした。「遅いな(~~;」「何やってんだ(`o´;」他のメンバーが心配そうに、ウロウロしだした^^;「まあまあ」なんてなだめていた私も最後は・・・まだかいっ!(´Д`;)そして1時間以上かかった午後1時近くになってやっと「出来ました~!! ^▽^;;」みんな、さっきのイライラ顔が一遍に明るくなってドンブリに入った炒麺を食べ始めました。おお、これはっ!!皆が、目を見開きました。・・・マズイッ!!(愕然)もうホントに彼には悪いけどみんな同じ感想だったと思う。基本的な部分で駄目だった。麺に火が通っていない。・・・生。粉っぽい。料理人のタマゴは「美味しい?」と聞くので苗さんや皆は「…うん、いける^ー^;」とか言って食べてたけど。料理人のタマゴは、自分で食べて分かったよう。・・・失敗した(--||| かなり落ち込んでいました。それでもみんな、頑張ったのよ。全部平らげたもん(驚)食べ切れなかったのは私一人だけ。量が多いし(ドンブリ一杯の麺)美味しくないし頭痛も、ひどくなってきてるし・・・すると、そこを料理人のタマゴが!「・・・先生、美味しくないですか!!(心配)」「ううん、美味しい。とっても美味しい(汗)」「じゃあ、何故全部食べませんか!?」(←詰問)「あの…あまりお腹が空いていなくて。。 それと・・・」頭が痛くて・・・と言おうと思ったけど、止めました。みんなに気を遣わせる。「それと何ですか!?」 (←この子もしつこい)「いや、私は少しずつ食べますから。 まだ食べ終わっていません。片付けないでね^^;」やっと安心した料理人は、詰問を終了してくれました^^;変にプライド高いから、気ィ遣うねん(疲)* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *いつの間にか苗さんは居間にいなくて若いメンバー達で世間話をし始めました。上海語。・・・入れんっつーの(--;どうやら日常生活の話をしているらしいけど所々聞こえる標準語でも、具体的な部分は意味不明。彼らの日常は、日本人の私が話に加われるほど近い世界じゃないから。話にも入れずに、ずっと黙って聞いている振りをしていました。・・・全然、おもんない(悲)「・・・苗さん、どこ行ったの?」聞いてみました。「さあ、分かりません。」「そう・・・」若手はまたすぐに、上海語の世間話に戻りました。盛り上がっています。私は全然分からないけど・・・頭痛も段々ひどくなってイライラしてきました。・・・苗さん、何してるのよ!ゲストほっといて。大体、苗さんが勝手に人数集めるからこんな事になるんじゃない。。若手は苗さんほど気遣いできないっつーの。お昼ごはんも美味しくなかったし、頭は痛いし。やっぱり・・・・・・来るんじゃなかった。上海語の話が一区切りつくのをじっと待っていました。でも、なかなか・・・・・・もう、いいや!!私は立ち上がりました。振り向く若手達。「先生、どうしましたか?」「ごめんなさい。ちょっと頭が痛いです…^ー^; 帰って休みます。」「大丈夫ですか?」「うん、大丈夫。寝ればすぐ治ります。 苗さんに心配しないように言っておいて下さい。^ー^」玄関まで、2人ほどの若手が見送ってくれました。「先生、お大事に。」「謝謝。本当にごめんなさい。じゃ、また\(^^)」笑顔で手を振って、きびすを返すと言いようのない気持ちが、こみ上げてきました。仏頂面で足早に階段を駆け下りました。つづく。この話は1996年の上海での体験談を書いています。 ↑ よろしければ是非、一回押してやってください。。中国人同士の世間話に入れない・・・ま、よくある事です。しようがないですね。と言うか、ワガママです^▽^;; (←自覚あります)当時は会話もそんなに達者じゃなかったし、中国人との付き合い方もよく分かってなかったですしね。いい顔したくて我慢した挙句、急に怒るか泣くかしかできなかったな~(←子供です)これも私が乙女だったという事でしょうか・・・(遠い目)まあ頭痛もひどくなってましたから、あのまま我慢してたら余計迷惑かけたと思う。笑顔作れるウチに帰ろうと思いました。さて、話はこれで終わりではなく。と言うか、今からクライマックスです。苗さんが、慌てて追いかけてくるんです・・・扉ページ←「ホーム」をクリック!で【今日の 小日記 (何それ、と言わないで^^;)】やってます。私の日常の小ネタをチョコチョコ載せてます。そちらも是非!
2008/07/25
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苗(びょう)さんの御宅訪問は、知り合ってから約1年半後だったと思います。結構時間がかかっていますが、その理由には勉強・課外活動(所謂アル○イト)等、忙しかった事。また当時、日本人と上海人は経済や一般常識の違いが大きかったので先生と生徒以外の交流をためらっていた事もあったと思います。しかし日本語教室が修了して随分経つのに苗さんは相変わらず寮に勉強しにきていて(冬はイモ持参で)度々「家に来て下さい」と誘ってくれます。もう、これ以上断ったら申し訳ないな・・・私は苗さんのお宅へ遊びに行く事を約束しました。* * * * * * * * * * * * * * * *季節は初夏でした。苗さんの家は徐家匯の団地でした。今思えば、私が江蘇で住んでいた部屋のような所でした。苗さんが近くまで迎えに来てくれました。「もう皆、そろっていますよ」「みんな?(驚)」「はい。王さんと李さんと、唐さんと・・・」苗さんは元護衛団の名前を挙げました。「あ、そうなんですか・・・」また大袈裟になってる・・・(汗)有り難いけど、ちょっと一言言っておいてほしな。。私は、ただ苗さんの御宅訪問のつもりでしたがいつの間にかプチ同窓会に変わっていました。階段を上って入口のドアを開けると苗さんの奥さんがいました。・・・眼下に。玄関を入ってすぐの所で、奥さんが、しゃがんで洗濯物を手洗いかなにかしていたと思います。「先生、私の妻です^▽^」「あ!どうもニーハオ(汗)」(←お辞儀)奥さんは、座ったまま私を見上げ「ニーハオ」と遠慮したように微笑みまた洗濯物に目線を戻しました。・・・あれ?(汗)歓迎されてないみたい…?普通、旦那の先生(そんな大したもんでもないですが)ならちょっと立ち上がって挨拶するような気がしていたので…・・・もしかして!上海は「大女子主義(女性が強い)」だから実は苗さんも普段尻に敷かれていて…*上海の「大女子主義」に伴い上海人男性が優しい(ある意味軟弱?)というのは中国内でも有名で(↑地域によって気質・習慣・考えが違います。一般に北方男性は亭主関白、南方は男性が優しいイメージです。)上海では旦那が外で働き、且つ家事・子供の世話を分担するのは当然、中には男性が家事・子育て一切している家庭も存在しています。また、こんな小娘を「先生」なんてしかも日本人だから、嫌なのかな…後で、すごい揉めたらどうしよう…?奥さんの様子が完全な部外者のようだったので心配になりました。中に入りながら「奥さん怒ってないですか…?(汗)」苗さんに小声で聞くと「没問題!(大丈夫)」と即答でした。・・・が、やはり気にはなりました。簡素だけど小奇麗な洋風の居間には、知った顔がソファーに座っていました。私が「あ~!ニーハオ(嬉)」(←手を振って笑顔)と挨拶すると「あ~先生!お久し振りですね~!」ソファーから立ち上がって歓迎してくれました。ここでやっと少し安心しました。そして苗さんが引き続き、いくつか部屋を案内してくれてその一部屋に女の子が部屋で勉強していました。「あ!娘さんですか!」「そうです。**!(←娘さんの名前)ちょっと来なさい!」苗さんが娘さんを呼ぶと、娘さんはすぐにこちらへやってきました。ノースリーブの白いワンピースで髪を後ろに束ね、知的で清楚な印象でした。「アーイー(お姉さん)に御挨拶なさい!」お父さんらしい威厳ある態度で言うと娘さんは下を向きながら恥ずかしそうに「アーイー、ニンハオ。。(お姉さん、こんにちは)」でもキチンと挨拶をしてくれました。色が白くて、目が大きく顔立ちがいい。加えて背が私より高い・・・^^;「娘さん、賢そう~! とても綺麗だし背も高い!楽しみですね」お世辞ではなく口に出すと苗さんは「有難うございます。背はもう少し伸びるでしょうね。 成績はまあまあいいです。*重点学校に行っています。」*重点学校…とは学力レベルの高い学校の事で、進学校です。重点学校に入るのは、いい大学に入り、最後はいい職に就く重要なステップで、苗さんも頻繁に口にして一番の関心事のようでした。当時から子供への教育熱は、十分感じていました。* * * * * * * * * * * * * * * *時刻は11時半くらいでした。元護衛団の料理人のタマゴが「私が炒麺(焼きソバ)を作ります!」と宣言。他のメンバーが「陸さんはコックですから絶対美味しいです」と、口々に。あまりに皆が「大丈夫」と言うものだから陸さんは「そんな事言われると…プレッシャーが(汗)」心配そうに、台所へ消えて行きました。私は皆と陸さんを冷やかしていましたが、ふと、いつもの頭痛の兆しがあるのに気付きました。何気なくカバンを探りました。薬持って来るの、忘れた・・・(汗)でも、こんな皆、集まっている席で「しんどい」だの言えないよ。。・・・大丈夫!ひどくならない!自分に言い聞かせました。つづく。この話は1995-1996年の上海での体験談を書いています。 ↑ よろしければ是非、一回押してやってください。。さて炒麺の味は…?一方、私の持病、頭痛は段々ひどくなり・・・扉ページ←「ホーム」をクリック!で【今日の 小日記 (何それ、と言わないで^^;)】やってます。私の日常の小ネタをチョコチョコ載せてます。そちらも是非!
2008/07/23
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先週からトラブル続出で、昨日・今日で折角円満解決の方法をまとめたと思ったら。今週に入って、イッチョカミの上司がボツ案を拾ってきて強引に推し進めようとしている。(~~;このボツ案は前例がなく成功する可能性は五分五分。もしかしたら今の案より悪い結果になる可能性も有り。且つ明確なメリットも見えません。だから 却 下 し た っちゅーねん。それに実行するのは私だし失敗した場合の後始末も、私です。そんなん イ ヤ や っちゅーねん。上司は悪い人ではないけれど、思い込んだら人の意見を聞かない。なので正面からは避けて後ろ・横・斜めから、上司の独走(暴走)を止めようと画策しています。同時に他のトラブル処理も進めているしあれこれシミュレーションしまくって頭が忙しい。私の頭が笛吹きケトルなら「ふぃーふぃーぴゅいーぴゅいー」歌っています。沸騰前の状態です、多分。というのはもし沸騰していたら、このメッセージも書けないと思うので。そんな時に物書いてもダメですね。昨日、気分転換に書いた【17】心の恩人 も納得いきません。落ち着いてからもう一度書き直そうと思います。 ↑ よろしければ是非、一回押してやってください。。【17】は一旦、削除して落ち着いてから書き直します。扉ページ←「ホーム」をクリック!で【今日の 小日記 (何それ、と言わないで^^;)】やってます。私の日常の小ネタをチョコチョコ載せてます。そちらも是非!
2008/07/21
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苗(びょう)さんが寮に勉強しに来た頃の様子。もう嬉しそうに来てましたよ・・・「おおっ!大変女の子らしい、いい部屋です。」とか言いながら。入る時に私が「苗さん、そこで靴を脱いで下さいっ!」と止めて。「おおっ!ここで靴を脱ぎますね(驚)」あたふたと靴を脱ぐ。(中国の人は基本、靴を脱がない。最近は土禁の家も増えましたが)そして私がお茶を淹れて苗さんに出し、苗さんが「先生と勉強できて、とても嬉しいですね。有難うございます」嬉しそうに言って、とても礼儀正しかったです。勉強は大体、苗さんが教科書で分からない所を質問して私が回答する問答形式でした。そして私も中国に関する事を尋ねて苗さんが答えてくれる形。他には苗さんがガイドブック持って来て杭州やその他、紹介してくれたり。私は日本のファッション雑誌を見せて「今は日本では、こういうのが流行です」と紹介したり。苗さんは内容もさる事ながら、印刷工場勤務だったので「おおっ!(驚)やはり日本の印刷技術は素晴らしい!!」と紙質や色合いに感心していました。何冊かプレゼントしました。* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *体調が良くなかったので健康に関する話題も多く出ました。消化が悪い、疲れる・・・相談すると必ず「草薬(漢方)」が出てきました。苗さんの基本はやはり「中医(中国医学)」のようでした。面白かったのは、血圧の話題の時。ひどい頭痛があったので、相談したのです。私 「苗さん。私いつも頭が痛いです。血圧が低いのが 原因かもしれません。何か良い方法はありませんか?」苗 「血圧が低いですか(驚)私もそうでした!」私 「どのくらい?私は高いのが90で、低いのが50くらいです」苗 「私は30でした!」私 「30!!??(驚)それは・・・低い方ですよね??(汗)」苗 「いいえ、高い方です!!」私 「それは、低すぎますね・・・(・・;」苗 「そうです!フラフラして大変でした!!」危篤じゃないの・・・??ちょっと信じられなかったので、スルーしました(汗)私 「何か治す方法はありませんか?」苗 「あります!私は治りました!」私 「本当ですか!教えて下さい!!(嬉)」苗 「分かりました!」さすが中国人。きっと中国ならではの治療法が・・・私はとても期待しました。苗さんは、おもむろに胡坐(あぐら)をかいて目をつぶり。両手のひらを上に向けて、ゆっくり持ち上げ。。苗 「血圧上がれ~ ┐( ̄0 ̄)┌ 」そして手を下ろし、パチッと目を開けました。私 「・・・それで(・・;」苗 「これだけです(真面目)」私 「えええ~~~???(疑)」胡坐かいて、手を上に持ち上げただけやん・・・(大汗)それでも苗さんが大真面目で「本当です!本当です!」と言うので・・・一緒にやってみる事にしました。先ず、胡坐をかいて目をつぶり。手のひらを上に向けて私・苗 「血圧上がれ~ ┐( ̄0 ̄;┌ ┐( ̄0 ̄)┌」唱えながら、繰り返し手のひらを肩の高さ以上に持ち上げる。(気持ちを入れながら唱えるそうです)これを1日20分くらいやると、効果があるそう。気功の治療法だという事でした・・・私 「苗さん、いくらなんでもこれは・・・(疲)」私があまりにも信じなかったので、苗さんは翌週に本を持ってきました。確かに書いてありました(!)ので暫く一人で私 「血圧上がれ~ ┐( ̄0 ̄;┌ 」真面目に1日20分やってましたが、その内、何だかアホらしくなって止めてしまいました^^;* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *苗さんは中国医学一押しで、それは新鮮に感じました。他にも他の中国人からを含めて教わった生活常識の違い、は面白かったです。1) 傷のある時に醤油を使った料理を食べると、傷跡が残る。2) 生ものを食べると体毛が濃くなる。 (なので刺身好きな日本人は毛深いらしい)3) 衣類の色落ちを防ぐには洗濯水に「塩」を入れる。日本は「酢」ですね。 同じアルカリ性だから理屈的には合ってますよね?■ (1)(2)は、ちょっと迷信くさい気がしますが・・・4) 風邪引いた時に背中を「刮■(クアシャー)」する。 *■は、病だれの中に「沙」です。 「刮■(クアシャー)」とは中国医学に基づく民間療法で 牛の角や玉(ぎょく)、茶碗等道具を用いてガーガー関連部位を擦り、 毒素を抜いて血行を良くする方法とか。 家でやってるみたいでした。 話に聞くだけでも痛そうでした!(私は怖くてやった事ないです) 抜缶も同じ理屈ですね。5) 軽い頭痛の時は、手のひらのどこか(忘れた)をツボ押しする。 (これは確かに効果ありました)■ (4)(5)は中医の奥深さを感じました。こういう普段見えにくい違いを知るのは、とても楽しかったです。* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *焼き芋の話。私 「私、中国のサツマイモ大好きです!甘くて美味しいです」苗 「サツマイモ・・・?」私 「え~っと、よく道で売っています。大きな缶の中で焼いて」苗 「??」私 「えーと(辞書を引く)甘薯、白薯って書いてます」苗 「・・・あ~!それは「紅薯(ホンシュー)」と言います」私 「ホンシュー(紅薯)・・・へぇ~」苗 「先生はホンシューが好きですね!分かりました!(喜)」その次から苗さんは、必ず焼き芋を手土産に持って来るようになりました。内心・・・またイモかっ(汗)と思っていました^^;つづく。この話は1994-1996年の上海での体験談を書いています。 ↑ よろしければ是非、一回押してやってください。。苗さんの性格が、何となく伝わりましたでしょうか?医療はね、やはり独自のものを感じましたね。江蘇でも薬は「草薬(漢方)」が常識でした。西洋薬は体に良くないらしい。サツマイモを「紅薯」と教えてもらいましたけど台湾の人や他所の地方の人は「地瓜」と言っていたり、単語は地域で言い方が違う事が多々あります。次回は苗さんの家を訪問した時の話です。扉ページ←「ホーム」をクリック!で【今日の 小日記 (何それ、と言わないで^^;)】やってます。私の日常の小ネタをチョコチョコ載せてます。そちらも是非!
2008/07/19
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拝復 ここ数日とても暑いですが、いかがお過ごしですか。お久し振りですね。本当によくなつかしいてね。私たちも元気に暮らしております。 お手紙と写真がどちらも受け取りました。お手紙たいへんうれしく拝見いたしました。ありがとうございました。 昨日、一日中先生に電話をかがるのが、なかなかかけませんね。それに先生の寮の3楼改築修理ですので、いつも不在しています。しかし、おあいたくてなりませんね。私は先生の寮にべおうかがいたいんですが、よろしいですか。 今週木曜日にお暇ですか。もしよかったら、あしたの午前中、政通路280号の玄関で待って行っていいですか。 この手紙が始めてです。乱筆にて失礼いたしました。万事順調ですので、どうぞご安心下さい。ではまたお便りします。お元気でお過ごしください。 頓首再拝8月2日二伸:お電話をかけっていただけませんか。 苗**から* * * * * * * * * * * * * * * *手紙って取っておくものなのか、そうでないのか。読み返すと背景が蘇ってきてリアルです。苗さんからはよく手紙が来ましたが、当時の背景を思い出しますね。暑かった事とか、寮が工事で停電していた事とか・・・そうなんですよ、寮がね・・・停電だったんですよ。真夏に。死ぬかと思った、ボヤ出すし風邪引くし。寮には公衆電話しかありませんでした。電話かかってきたら、部屋の放送ブースに「アコ、電話!電話!」だけ連絡が来てそっから玄関の公衆電話まで猛ダッシュですよ。。連絡受けて、すぐドアのカギ閉めて、階段駆け下りて玄関に辿り着くまで3~5分。復旦の寮は部屋に内線もなかったし、古かったから余計不便でした。苗さんにはよく会社に電話したり(大体、家に電話ない)BP機(ポケベル)で連絡取っていました。私は持っていなかったですが、どうやって連絡していたかと言うと・・・ポケベル会社に電話してオペレーターに伝言していました。それで表示されたんでしょうかね。携帯電話がものすごい勢いで普及したのは納得です。普通、家に電話ありませんでしたから。取り付け代も高かったらしいし。だから会社に電話かけたり、会社宛に手紙出したりするのが普通でした。(家に手紙を出すと届かない可能性があるので、との事)ネットの普及も分かりますよ。とにかく通信事情が悪かったですから。苗さん達は、私が生活で困っていないかなど気遣ってくれてよく誘ってくれてはいたのですが、実は頻繁すぎて困っていました。生活のペースが乱される気がして、よく理由をつけて断っていました。私にとっては日常会話は大丈夫だし、寮に同胞が沢山いるしでそちらで日常生活は確立されていましたから困る事はなかった。私にとっては苗さん達との付き合いは、日常生活外にありました。なので断っても断っても誘ってくる苗さんに『ちょっと察してよ』と困惑していました。でも、後に思い返せば。日本式のコミュニケーションの取り方は中国人に通じない。現に江蘇でも表情に出すだけや、遠まわしにフニャフニャ言ってるだけじゃ通じなかったですね・・・言いにくくても明確に言葉に出さないと、真意は通じない。それで相手が悪く思えば仕方ないけど、結構みんなアッサリしているしね。日本式は相手の心を察しながらの「譲り合い」コミュニケーションだとすると中国式は自分の考えを言葉に出して、どう折り合いつけるかの「相談式」コミュニケーション。いいとか悪いとかではなく、違いなんですね・・・それと当時の中国人の状況考えると、苗さん達にとっては、外国人が親戚もなく一人で来ているのは大変な事だと思いやってくれていたのでしょうね。約束しても、途中でハプニングが起きて行けなかった事もあり。(スカートが自転車に巻き込まれて破れたのは最悪でした)家に電話がないから連絡取る方法がなくて、苗さん達は待ちぼうけでした。苗さん達は何度も寮に電話して、でも連絡取れず。すれ違いが多かったですね。申し訳ない事、沢山しました。それでも苗さんは遠のく事なく、連絡を取り続けてました。後に復旦から華東師範に転校した後は苗さんの家から近くなったので毎週一回寮に勉強しに来るようになりました。かなり強引でしたが・・・^^;(華東師範は外部中国人も入れました)苗さんとの交流は、面白かったです。本人は面白い事言ってる意識はなかったと思いますが中国人の習慣や常識に驚いたり素朴で一生懸命な所が楽しかったり。その辺の話は、次回へ。つづく。この話は1994-1996年の上海での体験談を書いています。 ↑ よろしければ是非、一回押してやってください。。面白かったのは「さつまいも」と「血圧」の話です。扉ページ←「ホーム」をクリック!で【今日の 小日記 (何それ、と言わないで^^;)】やってます。私の日常の小ネタをチョコチョコ載せてます。そちらも是非!
2008/07/18
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折角できた上海情報誌。しかし責任者が突然拘束され寮内は大騒ぎでした。リョージ館の対応は「物品差し押さえ等の実害が出たり危害を加えられたら動きます」との事。やきもきして帰りを待つ友人達。そして責任者は夜(だったと思う)寮に戻ってきました。・・・何があった!?同学達が聞くと「何を書いてある?」と違う人から何度も聞かれ、その度につたない中国語で回答。「何故こんな事をした?」とも聞かれたと聞いたような。とにかく同じ事を何度も聞かれる状態が何時間も続き(結局6時間拘束)でも、そんな威圧的な取調べではなくユルい雰囲気。最後の方は「食べ物は何が好きだ?」意味不明の質問も出て(笑)・・・関係あるのか?(~~;と思いつつ「○○が好きです・・・(~~)」真面目に答えたそうで・・・(爆笑しました^^;)結論としては許可なく印刷物出版してはいけない、という事で。印刷工場の中国人オヤジさんとこにも公安は行ったようで。留学生は、すっかり意気消沈してしまい上海情報誌は創刊号で廃刊しました。青い表紙の「すぽん!」という名前だったんですが一瞬で終わっちゃいましたね・・・* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * マスコミは党が管理するものです。かの国ではそれは常識です。表面上の自由を勘違いして、日本と同じ感覚で(でもスポンサーもつくのに無許可はどうか?)やっちゃった留学生は体制の壁を痛感したでしょう。今はもう外国人も山ほどいるし留学生も外に住んでもいいしビジネスも自由度増して体制の違いを感じられる事も殆どないでしょうけど。でも根っこは変わらないと思いますよ、それは体制の違いだから。ネット規制も、ハニートラップもオリンピックの過剰な警戒も、体制の違いを分かっていれば全て「さもありなん」でしょう。。* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 随分、話が逸れましたが。まあまあ、そんな一見自由な、でも実はそうでない事はチラチラと体験したり見聞きしたり。且つ次から次に新しいビルが建っていくように経済発展が目の前で展開されて、人民が豊かになろうとギラギラしている時代でした。そんな中の苗(びょう)さん達との交流、私は、なかなか入り込もうとは思えませんでした。寮住まいという事もあったし日本人社会は別個に存在していて、その付き合いもあったしアル○イトも掛け持ちしまくって忙しかったし・・・苗さんが、しょっちゅう誘ってくれたのによく理由をつけて断ってた気がする。。それでも苗さんは、いつも気にかけてくれてだから苗さんの事を思い出すと、何だか胸が痛くなるのです。苗さんの温かい気持ちとワガママで小心者だった自分に対する情けない思いとでも仕方なかった、と思う気持ちと色々です。つづく。この話は1994-1996年の上海での体験談を書いています。 ↑ よろしければ是非、一回押してやってください。。次回から苗さんの話に戻ります。細かい事は記憶が薄いので差しさわりない程度に苗さんからの手紙を元に・・・扉ページ←「ホーム」をクリック!で【今日の 小日記 (何それ、と言わないで^^;)】やってます。私の日常の小ネタをチョコチョコ載せてます。そちらも是非!
2008/07/17
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結構ユルイな、と思った事例。。当時、留学生は多く運動不足解消に、テニスやってました。寮の中にテニスコートあったし他にやる事もないしで。それで『私もちょっとやろうかな』と。高校の時はソフトテニスちょっとやっていたしで。結構テニスは盛り上がって、寮内でも頻繁に試合なんかしていたんですね。どうせやるなら、勝ちたいし。練習しようと。でもコートは一つしかなかったので壁打ちができる場所をテニス仲間と探していて。ある日、友人が「いい場所見つけた!」見に行くと・・・あ~!確かに丁度いい。ちょっと幅が狭いけど、高さは十分にあるし。周りも広々してるしね・・・でも・・・私 「ヤバくない?ここ(汗)」友人 「いけるっしょ。誰も使ってないし」私 「いや、そういう問題じゃなくて・・・(汗)」友人 「他に場所ないもん、次の試合までに練習しないと。 何か言われたらゴメンって止めりゃいいじゃん。 外人だし大丈夫だよ。いいとこ退学処分だよ。」私 「うん・・・(考)」まあ、彼女が北京からの転校生っていう事や淡々とした口調に妙な説得力があったので、そこで壁打ちする事にしました。この・・・・・・台座部分で。気をつけてやってましたけど時々、球が逸(そ)れてボディーに当たったらヤバイ!!!(汗)(←周りを見る)でも通り過ぎる中国人学生は無表情でチラと見たり何も言わずに通り過ぎるぐらいで。私達も調子に乗って、その内「反タイセイ!!」「ダトウ○○○!!」変な掛け声で打ったりしていたんですが、その内、中国人学生も真似して打つ人が現れたので(↑留学生の真似をする人)あんた達は、ダメでしょ(汗)こっちが怖くなって、止めました(汗)この頃、苗さんに「モウタ○トウ批判も大っぴらに言わなければ大丈夫」と聞いて。随分変わったのね・・・と認識。(前回の電話トウチョウ話から考えて)* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *もう一つは。これは留学生寮にて。ある日、日本で見た事あるモノを着ている人を見かけました。後姿にはの文字が。止めときな(汗)捕まっても知らないよ(汗)(←宗教活動はヤバイ)忠告はしました。彼は信者でしたが「寒いから着てるだけだよ」との回答。我々友人は、もういつ捕まるのかヒヤヒヤしていたのですが、結局、彼は何も言われず我々の取り越し苦労だったのか・・・と。*後に法○功が広まりましたが、数が多くなったので邪教になっちゃいました。数が少ない時は重視しませんが、勢力が大きくなり反タイセイの可能性が出てくると、一挙に押さえ込みます。それは昔も今も、変わりません。* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *表面上は自由に感じられるようとは言え、一番根っこの部分は違いますから、歴史認識があったりある程度滞在期間の長い留学生はその辺りは注意していました。でも、新しい留学生はどんどん増えていっていて。日進月歩で街並みも変化し経済発展も進んで、その辺を意識しない学生も増えてきました。ある日。新しい留学生達が地域情報誌を作る、という話を聞きました。小さい印刷会社に依頼して、日本人留学生による自主的な上海情報誌を作る、と。へぇ~・・・情報には飢えに飢えていたので感心する一方、老同(古い留学生)達は遠巻きに見ていました。なんか、違う気がしたのです。個人的に夜、お酒飲みに行って暴れたりこっそりバイトしたり、マオ像で壁打ちしたりするのとは違う性質の。かくして、創刊号は発行されました。字はタイプしてあり、挿絵も入れた立派なミニコミ誌でした。日系企業の事務所にも配っていて結構、好評でスポンサーも何軒か決まりました。そして第二号を発行しようという時。編集の留学生が、公安に拘束されました。つづく。この話は1994-1996年の上海での体験談を書いています。 ↑ よろしければ是非、一回押してやってください。。新同は大騒ぎ。老同の反応は「やっぱり・・・」でした。扉ページ←「ホーム」をクリック!で【今日の 小日記 (何それ、と言わないで^^;)】やってます。私の日常の小ネタをチョコチョコ載せてます。そちらも是非!
2008/07/16
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体制の違いを感じるような出来事は、よく耳にしていました。また昔話で恐縮ですけどね。これは80年代留学の大学の先輩方から聞いていた話ですけど・・・盗聴・郵便物検閲。先輩が、日本人の友人と電話で「モウタ○トウがさ~・・・」と話していたら、電話がブッツリ切れた。もう一度掛け直す。暫く会話が続き「で、モウタ○トウがね・・・」で、またブツッと切れる。もしや・・・(~~) と思い「ケザワ(毛沢)がさ~^▽^」・・・電話は切れない。どなたか単語程度の日本語が分かる方が、盗聴してたって事です。* * * * * * * * * * * * * * * * *留学生に来る郵便物の検閲は。ある留学生に届いた手紙を開封すると、 真 っ 黒 な紙が、一枚入っていた・・・(?)差出人が出した手紙の紙は「感熱紙(FAX用の)」謎解きは、スチームアイロン。全て開封して中身をチェックして分からないように元に戻してたって事らしい。(アイロンの熱で黒く変色したけれど、ただの黒い紙と思い そのまま届けた、という説でした)中国は、その方面での技術は世界一、というホントかウソか分からん話も聞きましたが・・・* * * * * * * * * * * * * * * * *92年には、私自身もイッチョやっちゃっいました^^;というか、これは体制とかいう以前の事ですが・・・^^;当時、大連に留学していたお友達。私は彼女によく手紙を書いていました。ネットなんてないから日本のニュースを定期的に連絡していたんですね~。それはANNと呼ばれ重宝されていました。ANN=アコ・ニュース・ネットワーク(笑)まあ何か、時事とか芸能ニュースとか流行とか私目線で手書き編集して送ってたって事です^^;(既に筆マメでしたね^^;)同時期に私は台湾のお友達にも手紙を書いており・・・私としては正式名称を書くのが礼儀だろうと台湾の友達には「中華民国」を、中国へは「中華人民共和国」から始まる住所を書いていましたが、ある日。 中 華 人 民 共 和 国って、長いな・・・(~~; メンドくさいと思いました。でも「中国」では重みが不足してる。。(~~)そして、ふと思いついた「中華民国」=「中華人民共和国」の略称!?そうだったのか!これ、いいじゃん!四文字だし!(←発想が変すぎ)同じで良かったんだ!(←ホント申し訳ございません)わ~発見~!!^▽^(←アホです、すみません)でも どうして他の人は気付かないんだろう・・・(~~)チラと頭をかすめ。何か、大きな間違いを犯している気はしていましたが(汗)しかし。思いついたら、やってみないと気が済まない^^;無知とは恐ろしいもの、中国宛に「中華民国 大連市・・・」と住所を書きトリャ!! (ノ`´)ノ~~~□と、発送しました。(「やっちゃえ!」みたいな感じ^^;)2週間後に来た友人からの返信にはアコちゃんが「中華民国」って書いてたから寮の管理人のオジサンが、すごい怒ってた。私がメチャクチャ怒られました!今度から止めてね(怒)・・・とても、お怒りでした(-。-;その時ああ、やっぱりダメなのね(汗)反省するも。でも、捨てずに届けてくれたんだからいいって事じゃん!!??心の中で開き直ったのですが。友達の字が大変怒っていたようなので二度としませんでした^^;* * * * * * * * * * * * * * * * *こんな話をイッパイ聞いたり体験してりしていたので自分が留学する時も、警戒していました。でも実際行ってみると、意外に緩い雰囲気でした。(!)え!?これいいの・・・?みたいな事は、結構ありました。つづく。 ↑ よろしければ是非、一回押してやってください。。「中華民国」は今でもダメです、念のため。…みんな知ってるっちゅうねん(~~;え~っと留学中の「ユルい」と思った変な実例は、次回へ。しかし20年くらいで表面上はホントに、ユルユルになっちゃいましたね。。扉ページ←「ホーム」をクリック!で【今日の 小日記 (何それ、と言わないで^^;)】やってます。私の日常の小ネタをチョコチョコ載せてます。そちらも是非!
2008/07/15
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日本語教室が修了してからも、苗さん達との付き合いは続きました。このまま続きを書いてしまいたい所ですが、当時の事を思い出すと他にも結構面白いエピソードが多かったので時代背景を感じて頂く為にも、少しご紹介したいと思います。* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *復旦の時に、F君という日本人留学生がいました。この子はとても素朴というか優しい子で、私の良い友人でした。私は疲れた時、よく彼の部屋に遊びに行って「F君、コーヒー飲みたい(疲)」と訴えると。苦味の強い雀巣(ネッスル)のインスタントコーヒーを(中国で売ってるのは中国仕様で味違います)嫌な顔一つせずすぐに淹れてくれるような。そんな優しい子でした。彼はのんびりした性格で、誰でも受け入れるオープンハートだったからか友達も個性的な人が多かったです。と同時に珍しい経験もしていて。私が上海留学に行ったのは94年の9月でしたがその年の7月に、日本の隣で大きな異変が起こりました。今話題の、将軍様。・・・のお父様がお亡くなりになったのです。それまでは復旦に北朝鮮の留学生がいたそうです。そうです。それまでは韓国人留学生と北朝鮮留学生が、中国で、同じ大学で留学生活を送っていたわけです。北朝鮮からは数十人と聞いた覚えがあります、全員国費留学生。韓国は自費留学生も多かったし100人以上はいました。F君の話では両者は普段、やはりグループに分かれていて話くらいはするけれど、一緒に何かする事はなかったそう。韓国の方は服装も華やかで弾けている人が多かったけど北朝鮮の人は素朴な服装や性格で、やはり雰囲気は大分違っていたようです。そしてF君の同屋(ルームメイト)は、その北朝鮮の人でした。名前を「Tさん」としましょうか。Tさんとの同居生活は、F君の大らかな性格もあり大した摩擦はなかったようです。中国製のペラペラ紙のノートに単語を一杯書いていてとても真面目に勉強していたのに感心したそうです。ただ、キムチはやはり常備していて、そのニオイは印象的だったようです^^;そして、94年7月に当時の将軍様がお亡くなりになり北朝鮮の留学生全員に帰国命令が出ました。Tさんは「もう戻ってこられないと思う」と厳しい顔をして、何故か大量の靴下を購入してカバンに詰め慌しく帰国したそうです。「なんで靴下なんかな~と思ったけど・・・」F君はのんびり言っていましたが、Tさんにとっては物資が乏しいのは分かっていたから、取り敢えず何か持って帰ろうとしたのでしょうかね…?そしてその後、公安だったか北朝鮮の役人だったか、両方だったかが(←ちょっと失念)F君の部屋に来たそうです。Tさんの所有物は残っていないか? と。目につく部屋のモノ一つ一つに「これは誰のだ?」と聞きF君は正直に「我的(僕のです)」と答えたそうですがTVを指して「これは誰のだ?」と言われた時に二人で割り勘で買ったので、その旨を伝えたら・・・没収されたそうです^^;抗議しようと思ったけど、ちょっと怖かったので止めたそうです^^;「あれ僕、半分出したのにな~(不満)」F君は、時々思い出したように愚痴をこぼしておりました^^;F君はTさんに一度、手紙を書いたそうですが返事はなかったそう。* * * * * * * * * * * * * * * *・・・・・・こんなエピソードも当時の上海ならでは、だったかもしれません。先ず中国という異国、そして上海という都会。同じ社会主義国だったから北朝鮮留学生がいたのだろうし。当時は単なるエピソードの一つでしたけど、この北朝鮮の「Tさん」と数ヶ月同居した日本人のF君はとても貴重な経験をしたと思いますよ、私は。とにかくそれ以外にも大量の多国籍の留学生が、一箇所に隔離され居住していたのですから様々なドラマも起こるワケです。隔離され・・・というのは聞こえが悪いですが一般中国人との交流は、自由なようでそうでない部分は時々感じる事がありましたから。中国人のマンションに遊びに行く時、敷地内で他の中国人がいる時は「日本語は話さないように」と注意を受けるとか、ね。そして部屋の中で、やっとOKが出る。個人的な交流をしている事が分かると外国のスパイみたいに思われるからなのか、当時外国人が居住できるマンションは限られていたので誤解を受けそうな事を避けたい、という事だったのか。理由は何だったか思い出せませんが・・・秘密めいた行動にドキドキして聞くのを忘れていたのかな~?ただ、「日本語を話さないで」と言った中国人朋友の真剣な顔にこちらも真剣にうなづくしかないような聞くのをはばかられるような雰囲気があったのは覚えています。。いずれにせよ当時の中国では、体制の違いを実感させられる事がちょくちょくありました。なので留学生を一箇所に固めるのも監視下に置く意味合いと理解していました。しかし今思えば。逆にそうでなければ、完全自己責任の留学生には当時の環境は、まだキツくて大変だったろうと思います。(それでも極一部、外に住んでいた人はいましたけどね)それに数百人の雑多な国籍の人達が一箇所に寝泊りして共に学び生活するなんて環境は、なかなかありませんから。あれはあれで良かったと思う部分も多くあります。つづく。*このお話しは、1994~1995年頃の上海での出来事をご紹介しています。 ↑ よろしければ是非、一回押してやってください。。「脱線」^^;悪い癖が出始めていますが、当時の環境を説明する為にもう少し留学時のエピソードをご紹介したいと思います。。のんびり見てやって下さい。その内、苗さんの話に戻りますので^^;扉ページ←「ホーム」をクリック!で【今日の 小日記 (何それ、と言わないで^^;)】やってます。私の日常の小ネタをチョコチョコ載せてます。そちらも是非!
2008/07/14
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今回は前回の補足を少し。「あなたは・・・どうして私にそんなに親切なんですか?」最初尋ねた時は、苗さんが言葉だけで何か言っても見透かしてやろうと、表情から目を離さなくて。お子さんの話が出た時も「だから?」なんて思ったし。でも両親の事が出た時にはビックリして。気持ちがグ~ッと、胸から上がってきて。それが涙に変わりそうで鼻でこらえたってとこでした。なので苗さんの顔から前方に視線を移したんですね。観察もできなくなって。「ご両親は、あなたの事がとても心配です」この時は父母の顔が浮かんで、涙がブワァ~っと溜まってきて。「だから私は、あなたのご両親の代わりに できる事をしたいと思いました」これでトドメでした。こらえていた涙と、それと鼻水も出始めて。泣いてるの気付かれたくなくてなかなか声が出せなくて、どうしようかと思いました^^;それまで、自分を守る事で精一杯で。周りの中国人に愛想良くしながらも冷めた目で見てました。どうせ私が日本人だからでしょ・・・って思って。ホントに多かったから。お金の話。今なら「どんな話?」って取り敢えず聞くかもしれないけどあの頃は状況も違ったし、人間も未熟だったし。でも苗さんの言葉を聞いて苗さんをよく知りもしないのに警戒ばかりしていた事を申し訳なく思って狭い考えの自分を恥じてそれから感激していましたね。初めて、個人として見てくれる人と会えた、と思って。いないと諦めていたのに、ここにいた。って感じで。前回では書かなかったけど、あの後「有難うございます」ってお辞儀して言いました。苗さんは、お兄さんのようなお父さんのような表情で見ていましたね。「しぇんしぇえ」の苗さんとは違う表情でした。* * * * * * * * * * * * * * * * * * *この事があって、私は苗さんや他の数人の生徒達には「やや」(←完全ではない)心を許すようになりました。表面上は、誰にでも愛想は良かったけど(だからよく、お金の話を持ちかけられたのかも)実は「騙されまい」とかなり警戒していましたから。でも彼らには少し、それを緩める事ができました。ところで。毎回の寮までの「送り」はどうなったかといいますと。丁度、私も日本語教室で教えたい、と言う留学生仲間がいまして。TAXI代を彼女と割り勘にする事で解決しました。「だから大丈夫です^^」と説明すると生徒達も安心して「護衛隊」は解散となりました。留学生仲間は時々、私の授業を見学していましたがその感想は・・・「異様な盛り上がり」「私のクラスはさ~みんな淡々としてるけどアコちゃんとこは、何か親衛隊みたいな人達が一番前を陣取ってるよね(~~)」不思議そうに言いました。親 衛 隊 ・・・っつーのは、かなり笑えました^^;つづく。 ↑ よろしければ是非、一回押してやってください。。TAXIの件も一件落着して私も一安心。そして苗さん達とは、もう少し踏み込んだ交流をしてみようと思いました。ところがそれは、そんなに簡単ではありませんでした・・・扉ページ←「ホーム」をクリック!で【今日の 小日記 (何それ、と言わないで^^;)】やってます。私の日常の小ネタをチョコチョコ載せてます。そちらも是非!
2008/07/12
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通り過ぎる車のライトと道路のランプや街灯が混ざり合い。夕方のような、セピア色のような、気だるい光景でした。「NI・・・・・・ 為什麼対我這麼熱情?」(あなたは・・・どうして私にそんなに親切なんですか?)私は、ジイッと苗(びょう)さんの顔を見つめ、それを受けた苗さんは少し微笑んで。かがめていた体を起こし前方に向き直り、少し遠くに目をやりました。「我・・・這麼想的。」(私は・・・こう考えているんですよ)いつも聞く「しぇんしぇえ」とは違い上海訛りの普通話(標準語)で苗さんはゆっくり話します。「NI是一個人来中国的ロ巴。(あなたは、一人で中国に来てるでしょう)」「対(はい)」「也・・没有親戚朋友。 (親戚や知り合いも、いない)」「・・・対(はい)」日本語の時と違い、自分の言葉で話す苗さん。私はジッと苗さんの顔を見上げたまま。「私には娘が一人います、15歳です。」「はい」「だから私は、 あなたのご両親の気持ちが、よく分かります。」急に鼻の奥が熱くなって。私は苗さんの顔から、前方の景色へと視線を移しました。「・・・はい」「ご両親は、あなたの事がとても心配です」「・・・はい」黄色い光景は、段々ぼやけてきました。「だから私は、あなたのご両親の代わりに できる事をしたいと思いました」「・・・・・・・」次の相槌は、なかなか打てませんでした。涙は静かに、頬を伝い始めていました。「・・・是嘛(そうですか)」やっとの事で言葉が出たら、声が震えてしまいました。・・・しまった苗さんが、フッと振り返ったので、私は「すみません…恥ずかしい」慌てて下を向き。カバンの中から、ハンカチを取り出して涙を拭き、鼻を押さえました。苗さんは、何も言わずに私を見ていました。その目はとても、素朴で優しかったです。つづく。*このお話しは、1995年上海での出来事です。 ←苗さんの優しさに。扉ページ←「ホーム」をクリック!で【今日の 小日記 (何それ、と言わないで^^;)】やってます。私の日常の小ネタをチョコチョコ載せてます。そちらも是非!
2008/07/11
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次の回の授業。最初は授業に集中していましたが終了時間が近づくにつれ、また気が重くなってきました。今日はもう、断ろう・・・授業が終わり、いつものように皆でバス停で解散。すると、私と、そしてやはり苗(びょう)さん達が残りました。「もう大丈夫です。一人で帰れますから^^;」彼らの好意に気遣いながら、笑顔で断ったのですが苗さん達も「大丈夫」と引きません。結局また、同じ状態になりました。ただ今回は、唐さんが「用事があります」と参加せず護衛団は4人になりました。少しホッとしました。このまま、段々減って行けばその内解散するだろう・・・それにしても1時間半の道中は笑顔で話をしていても、内心、申し訳ない気持ちで一杯で。とにかく早くこんな事を止めなければとそう思うばかりでした。* * * * * * * * * * * * * * * * * * *三回目。思った通り、次は3人になりました。どうやら苗さん以外は大分熱が冷めているようで疲れた表情が見られました。しかし苗さん一人、やる気満々です。満面の笑顔で「先生、今日も一緒に」と話しかけます。そして、厳しい表情で若者に耳打ち。途端に若者が笑顔になって「先生、カバンを持ちます」と駆け寄ってくる。苗さんの仕切りは明白でした。しかし苗さんの強引さに不満を持つ生徒もいました。時折、不服そうな顔で渋々うなづいていたりまたちょっとした言い争いになっている場面も何度か見ました。それは全て「しぇんしぇえ」に対する気遣いに端を発していました。・・・どうして?不安になってきました。ただ私が先生だから、というだけでこんなに親切にしてくれるのは、おかしいよ。苗さんに、警戒心が出てきました。普通、ここまでしないだろ・・・何かないと、ここまで出来ないだろ・・・別 有 用 心(下心がある)・・・苗さんもやっぱり何か、私に日本人としてのメリットを期待して?怖くなってきました。* * * * * * * * * * * * * * * * * * *外灘で、乗り換えです。夜の暗さに、気だるい黄色の電灯光が交差。そこに無表情の見知らぬ人民達と、私達4人はバスを待っていました。バスを待ちながら、私はモヤモヤした思いのまま。先ほど浮かんだ言葉と、今までの苗さんの言動の整合性を探していました。別 有 用 心(下心がある)疲れた様子を見せまいとしている苗さんの横顔をチラチラ見てやはり、そうなんだろうか・・・?思いながら。五角場行きのバスは、さっき行ったばかり。もう暫く、時間がある。。「苗さん・・・」「はいっ、何ですか、しぇんしぇえ」私の方に、急いで向き直る苗さん。「あの・・・(ためらう)」「はいっ?」私に合わせて、腰をかがめる苗さん。「NI・・・・・・ 為什麼対我這麼熱情?」(あなたは・・・どうして私にそんなに親切なんですか?)言ってみました。・・・いいから。一緒に商売しよう、とか。保証人になって、とか。さんざん言われてるから。慣れてるから。後で、やっぱり・・・とガッカリするよりは早いウチに聞いておいた方が私も気がラクだから。苗さんの顔をジィッと見上げました。表情の動きを見逃すまいと。そしてどんな答えが返ってきても大丈夫なように何の期待も、抱かないようにして。つづく。*このお話しは、1995年上海での出来事です。 ↑ 続きが気になる方は是非、一回押してやってください。。扉ページ←「ホーム」をクリック!で【今日の 小日記 (何それ、と言わないで^^;)】やってます。私の日常の小ネタをチョコチョコ載せてます。そちらも是非!
2008/07/10
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その日は丁度、雨でした。傘を差して皆でおしゃべりをしながらバス停に着くと、「じゃああなた達、しっかり先生のナイトを務めなさいよ!」女性陣が笑顔で言い渡し、その他の生徒と共にそれぞれの方向へ帰って行きました。残ったのは私と5人の護衛。彼らが妙な高揚感に包まれているのは、私にも感じられました。暫くしてバスがやってきて「さ、しぇんしぇえ(先生)!」苗さんが先にステップに駆け上がり、私にサッと手を差し出す。「・・・大丈夫ですよ^^;」私は自分で階段を上りましたが「しぇんしぇえ、どうか気をつけてぇ!(心配)」・・・^^;「はい、有難うございます^^;」バスは適当に人が入っていました。空席はバラバラに数席ありました。その内の1席を、苗さんが素早く確保し他の若い生徒達と「どうぞ先生!」「いえ、皆さん座って下さい(汗)」「いいえ、しぇんしぇえがぁ~~~!!(必死)」他の乗客が『何事か!?』と振り返って見たので、慌てて座りました。私 「皆さんのカバンを持ちますよ」生徒達 「いいえ、大丈夫です!」私 「他の空いている席へ皆さん座って下さい」生徒達 「いいえ、大丈夫です!」生徒達は重そうな斜め掛けのカバンを持ったまま私の席の周りに立っていました。私、めっちゃ年寄りみたいやわ(汗)・・・いや、子供かな?(汗)こんなに甘えさせてもらっていいのだろうかと落ち着かない気持ちでしたが、しかし彼らの気持ちを無下にしまいと、素直に従う事にしました。私のバスの切符代は、どうするつもりなのだろうと思っていましたが。最初、苗さんが払おうとしたので「いいえ大丈夫です」と私は財布を出しました。苗さんは何度か「いえいえ」と粘り、最後は少しためらった後、お金を引っ込めました。他の生徒達も、自分の分は自分で出しました。意地悪なようですが、私は彼らを冷静に観察もしていました。中国人の誠意とは、どれほどのものか。外国人として確認してみたい気持ちがありました。なのでバス代は自腹だった事に彼らも身銭を切るまでのつもりはないのね・・・心の中で思いました。しかし、そんな態度はオクビにも出さずバスの中で生徒達と世間話をしていると、ある事に気がつきました。「・・・あれ?(バス内を見回す)王さんと唐さんは?」「彼らは、外です」「・・・外?」「バスの後ろをついて来ています」生徒達はそう言って、バスの後ろの窓を指差しました。・・・後ろ??(~~)どういう事かと立ち上がって、バスの後ろの窓を見に行くと・・・まあ、何と!王さんと唐さんがエンジン付き自転車(バイクではない)でバスに着いてきているではありませんか。雨の降っている中、カッパを着て。ちょっと、これは・・・( ̄Д ̄;)護送車輌でもあるまいしいくら何でも、これはやり過ぎだと思いました。元々、私を送るのに5人もついてくる必要はありませんしナンセンスに感じていました。そんな事をせずとも約20名いる生徒達が小銭を出し合ってカンパした方が余程合理的な気がしていました。しかしながら生徒達の事情や気持ちを考えるとそんな事は口が裂けても言えず。私は、雨に打たれながら着いてくる王さん達を気の毒に思うばかりでした。一方、バス内の苗さん達を見るとまるで重大任務を遂行しているように誇らしい表情をしています。折角、一生懸命してくれているのに下手な事言うと、彼らのメンツを潰してしまうかも・・・なので私は、誤魔化すように微笑んで、再び座席に座りました。* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *そうして、その日は無事に私は寮に帰り着き生徒達と寮の門の所で手を振ってアッサリ別れました。中に入ってもらってお茶の一杯でも入れたかったのですがそれは出来ませんでした。留学生寮の部屋には、外部の中国人は入る事ができなかったからです。また、時間も夜の11時近くになっていました。引き留めて彼らの帰りを遅くする事もできませんでしたから。寮内の中庭を、一人で部屋へ向かって歩きながら胸が詰まるような気持ちでした。もう、こんな事してもらっちゃいけない。そう思いました。TAXIで帰るなんざ、ワケないのです。そう、25~30元(約300円)くらい私には何でもないのです。しかし「TAXI代が高い」と言ってしまった手前「次からTAXIに乗って帰りますから大丈夫です」とは言いにくい。。ますます気が重くなってきました。罪悪感すら湧いてきました。なので、そんな気持ちを振り払うようにまあ、どうせ・・・その内、飽きるでしょ!そう思う事にして、部屋へと走りました。つづく。*このお話しは、1995年上海での出来事です。 ↑ よろしければ是非、一回押してやってください。。何気なく言った私の話で、事が大きくなってしまって(><;バスの外に王さんと唐さんを見た時には、本当にビックリしました・・・次回も、この「送り」の話は続くのですが私が思うように「その内、飽きて」くれるのでしょうか?扉ページ←「ホーム」をクリック!で【今日の 小日記 (何それ、と言わないで^^;)】やってます。私の日常の小ネタをチョコチョコ載せてます。そちらも是非!
2008/07/08
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暫くして苗(びょう)さん達が戻ってきました。「どうでした?」と私。苗さんは首を振りながら「しぇんしぇえ(先生)、すみません。学校は賛成しません。しぇんしぇえは日本人だから、特別に他のしぇんしぇえの2倍の給料です。だから学校は、もうTAXIのお金は出せません、と言いました・・・」うなだれる苗さん達。「そうなんですか・・・」2時間半で25元なら、時給に直せば10元(110円)/時。もし普通の会社なら月に20日、8時間労働/日として 1,600元(17600円)。この時点で苗さんの月給(1,000元)より多いわ。それに教師の給料は、この国では安いから(文革の影響で)学校も外国人だから、と多めにくれているのは、分かるよ・・・* * * * * * * * * * * * * * * * * * *当時、復旦大学(一流総合大学)で留学生に教えていた老師の月給は350元(約3,850円)と聞いていました。当時でも生活するだけで精一杯の給与です。一生懸命教えてくれてる老師が、しかも復旦なんて中国でも屈指の名門校の老師がそんな待遇だったとは、老師が気の毒になるほどでした。故に、違反でありながら一部の先生はコッソリ留学生の家庭教師をしていていました。老師に家庭教師を頼む場合の相場は月に500元(約5,500円)。本業より儲かります。家庭教師をする老師は値段交渉も厳しいらしく、教育者なのに、まるで商売人のように感じましたがこの状況では仕方のない部分はあったと思います。学生にしても、留学生とは通常「相互学習(互いの言語を教えあう)」でしたが、一部の大学生は家庭教師をしていました。1回10元か20元が相場だったと記憶しています。とにかく庶民はみな、余裕のない生活から抜け出そうと何とか収入を増やす為に出来る事は違反でも何でも、やる。丁度、産業も盛んになっており物資も増えてきていましたから物質欲も刺激され、更に拍車がかかっていました。子供の将来、家族の幸せを考えて、なりふり構わず豊かな生活と幸福を手に入れる。それには、先ず「カネ」このような極端な風潮は向 銭 看(拝金主義)と呼ばれていました。それまでの食うか食われるか、支配か搾取の歴史からの脱却として社会主義国が誕生したのですが。経済発展の行き詰まりと政治混乱からまた市場経済を取り入れた急激な方向転換。元々コネと賄賂が横行していた人治政治に関連法規が整わないまま、そしてルールを遵守しない風潮の中競争主義を取り入れた事で、欲望むき出しの目的をカネとした「何でもあり社会」が出来上がっていました。我先にと勝ち急ぐ、ルールもへったくれもない人生ゲーム。いや、彼らにとっては現実そのもの。そして国家も、国民の飢えを満たし政情を落ち着かせる為、且つ諸外国と肩を並べようと経済発展を目指す。これこそが今の中国発展の原動力だったのですが私のような外国人の目には、それは非常に矛盾をはらんだ奇妙奇天烈な社会に映りました。* * * * * * * * * * * * * * * * * * *話は戻って。学校がTAXI代を出せないなら、仕方ない。気をつけて帰ればいいや。そう思っていると、また苗さん達が会議を!(~~;侃侃諤諤(かんかんがくがく)やっていますが?みんなで先生にTAXI代をカンパしようそんな議題になってる・・・(~~;(←聞き耳立ててる)でも、この提案は、賛成者が少なくポシャってました^^;そりゃね・・・みんな収入多くないもの。身銭切ってまで、できないよ・・・(うんうん)しかし、苗さんがまた新たな提案を!(~~;(←聞き耳立ててる)先生を寮まで、送って行こう!エ~~~ッ???(゜▽゜;)・・・メチャ遠いで!これは、若手から反対の意見が出たようでした。そりゃそうです。私を送って行くのに1時間半かかって、そこからまた自分の家に帰るのですから、何時間かかる事か・・・まあ、しかし。この提案もポシャるのだろうと、苗さんと若手のやり取りを、素知らぬ振りで聞いていました。すると苗さんは「先生が大変なのに、お前ら何言ってんだっ!!(▼皿▼)」一 喝 ヒョエ~!!(゜▽゜;) ←私若者達は、黙ってしまいました。「しぇんしぇえ!^▽^」(←ニコニコ笑顔)「あ、苗さん(汗)」(←今気付いたふり)「私達が、しぇんしぇえを寮まで送ります!」「え・・・(汗)でも、みんな困りますよね。遅くなるから^^;」「大丈夫です!みんな賛成です!^▽^」「え・・・(・v・; だって、さっき大きな声で^^;」「大丈夫です。心配しないで。みんな賛成です^▽^ な、みんな!」うつろな目で、うなづく若者達。・・・無理矢理やな(汗)結局。苗さんが「大丈夫、大丈夫」と言うので私も、送ってもらわざるを得ない状況になりました。私 「では今日、私は誰と帰りますか?」苗 「私と、彼らです」私 「5人も!?いや、それは~(汗)」苗 「大丈夫です、心配しないで」いくらなんでも、それはイカン。一人で帰れます、と何度も断ったのですが。結局、苗さんに押し切られてしまい護衛団(?)と共に、帰宅する事に・・・。えらい大ごとに、なってしまった・・・(><;授業時間が終わり。張り切る苗さんと、また盛り上がってきた生徒達、そして恐縮しまくりの私はバス停へと歩いて行きました・・・つづく。*このお話しは、1995年上海での出来事です。 ↑ よろしければ是非、一回押してやってください。。まさかこんな展開になるとは・・・(汗)そしてバスに乗ってからも、またビックリ仰天が・・・(汗)扉ページ←「ホーム」をクリック!で【今日の 小日記 (何それ、と言わないで^^;)】やってます。私の日常の小ネタをチョコチョコ載せてます。そちらも是非!
2008/07/06
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私に起こった、ちょっとした事件って言うのは・・・通勤途中での出来事でした。当時、留学生寮から教室までは、片道最低1時間半はかかっていました。1)政通路の寮から五角場のバス停まで徒歩2)五角場から外灘までバス3)外灘から華山路までバス4)華山路から教室まで徒歩外灘からのバスも静安寺で乗り換える事もあるしとにかく遠かったです。TAXIに乗れば30分~40分。断然早いのですが、料金がね。バスだと片道2~3元(約22~33円)で、TAXIでは25元~30元でしたから。報酬が一回、2時間半教えて25元(当時約280円)。片道でもTAXIに乗ると、そこでもう何もなし^^;他にもバイト掛け持ちしていたし、TAXI代も勿論出せましたが働くからには赤字は嫌だなと、できるだけバスにしていたんです。でも1時間半かかる、という事は午後9時に授業を終えて寮に帰り着くのは10時半過ぎです。五角場のバス停に着くのが午後10時過ぎ。そこから15~20分、テクテク寮まで歩いて帰る。夜道ですね。結構、暗いんですよね、街灯も少なくて。* * * * * * * * * * * * * *ある日、そうやって五角場から寮まで歩いていたら白いセダンがスーッと近づいてきて「**病院は、どっちですか?」(←中国語)運転席にいた男性に聞かれて。「あっちです(・・)σ 」指差して教えると「…一緒に乗って、案内してくれないか!?」・・・!!(~~;無言で走って逃げました^^;・・・と言う事を、何気なく教室で話したのです。私としては、まあ日本ならよくある事だし上海でも、そんな事あるのね~(´ー`)と軽い世間話のつもりだったのですが・・・生徒達の反応は、違いました。・・・ ( ̄Д ̄;) ( ̄Д ̄;) ( ̄Д ̄;) (←生徒達)「先生が、そんな危険な事に・・・!!(愕然)」・・・!!エ~~~ッ???(゜▽゜;) (←私)私も20歳は過ぎていましたから、身の守り方くらいは分かっているつもりで。生徒達も、そのつもりで聞いてくれるだろうと軽い気持ちで話をしたのに予想外の反応が出た事に焦りました。「あ、あの~でも大丈夫!^▽^;いざとなれば大声出して、カバンで殴って逃げるくらいは・・・」「いいえ、いけませぇんっ!!(真剣)」・・・苗さ~ん (´Д`;)ここからもう、授業どころじゃない。先生が危険に晒(さら)されている~~~!!!心配ムードが、ドワ~ッと生徒達を覆ってみんなで会議(?)を始めました。(私一人、カヤの外 (汗))「先生は、TAXIで帰った方がいいです!!(力説)」みんなからの提案。「いや、でも・・・ TAXIは高いですから ^^; 」「ああ~・・・(>。<;(>。<;(>。<;」 それは皆、大納得。暫く考えて・・・「しぇんしぇえ(先生)にTAXIのお金をあげるように学校と話し合いをします!」苗さんが勢いよく椅子から立ち上がり他の生徒3人と共に教室を出て、職員室へ行ってしまいました。うわ~~~、行っちゃったよ・・・( ̄△ ̄;)こうなったら・・・気の済むまで、やってもらおか(・・;教壇から教室を見ると興奮してザワついたままの生徒達と、もう飽きて、早く勉強しようよ~(疲)という表情をした生徒達が7:3の割合。ふむ・・・(考)最初は全員が、そして暫く経っても7割の生徒が日本なら別段珍しくない事に、まだザワついている・・・。自家用車は少ないから、そういうのあまりないのかな・・・?反応がスレてないというか・・・でも少し、野次馬根性も感じるような。。(汗)取り敢えず、成り行きを見守る事にしました。他人事みたいでした・・・(汗)つづく。*このお話しは、1995年上海での出来事です。 ↑ よろしければ是非、一回押してやってください。。当事者そっちのけで生徒達が盛り上がっていたので、私は却って冷静に観察モードでした(・・;さて学校は、私にTAXI代を支給してくれるのでしょうか・・・?・・・と言うか私は、そんなつもりは全くなかったのですが^^;扉ページ←「ホーム」をクリック!で【今日の 小日記 (何それ、と言わないで^^;)】やってます。私の日常の小ネタをチョコチョコ載せてます。そちらも是非!
2008/07/04
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前2回にご紹介したような背景があり空虚感を感じながらも日本語教室は、それなりに楽しかったです。元気な、と言うかパワフルな生徒さん達に何とか笑顔で答えていました^^;「先生!日本の家庭の様子を教えて下さい!」「先生!教科書を勉強しましょう!」「先生!日本の歌を歌って下さい!」あの・・・いっぺんに言われても、対応できません(汗)まあ~バラバラ。だからリクエストには順番に答えて。忙しかったです。収拾つかなくて私がてんてこ舞いになると、一番年長の苗(びょう)さんが「皆、黙って!先生の話を聞いて!(▼皿▼;」上海語(大体分かる)で一喝。生徒達、シ~ン。。「しぇんしぇえ(先生)!どうぞ、お話し下さい ^▽^」(↑時代劇口調で、ニコニコ笑顔)このギャップが・・・ものすごく 面白かったです!(笑)しかし私が話し始めると、また途中から質問が始まりその内、各自が質問し出して収拾つかなくなったら、また苗さんが「皆、黙って!先生の話を聞いて!(▼皿▼;」生徒達、シ~ン。。「しぇんせえ!どうぞ、お話し下さい ^▽^」(↑時代劇口調で、ニコニコ笑顔)・・・このギャップが!(^▽^; 苗さんが、とても気を遣ってくれていたのは感じました。表情のギャップが面白くて、笑いをこらえてましたけど^^;他の生徒さんは、そういう気遣いはなかったですが熱心さ故のマイペースだから、悪気は感じなかったです。若い男子学生は、日本の少年漫画のコピー版雑誌を持っていて見せてくれた事がありました。紙質は相当悪くて、いかにもコピー!でしたが、ちゃんと翻訳されていました。定期購読してるって言っていました。(スラムダンクがありました)1冊3~4元(33~44円)だったかと。もう既に、そこらの売店でコピーの日本漫画は一杯売ってました。ビデオからVCDに変わっていってた時期で、日本のトレンディドラマや、その主題歌が流行ってました。(東京ラブストーリーとか101回目のプロポーズとか)若者が日本を知るのも、そこら辺あたりからのようでした。酒井法子も流行っていました。上手に日本語を話す人は多かったけど日本に行った事があったり、留学経験者はゼロ。学生は1日16時間、勉強している、と言っていて。努力の度合いはハンパじゃなさそうでした。* * * * * * * * * * * * * * * * * * *印象深い出来事としては、2つありましたね。1つは、何かの例え話で私が「例えば私のお父さんが、亡くなった場合…」と言った時に、生徒全員がオ~~~!!(>0<;(>0<;(>0<;「不行、不行!(ダメ、ダメ)!」(・・; ←私「え・・・どうして?(汗)」「そんな事を言っちゃいけないですっっ!!」(←必死で止める)あまり良くない例え話にしても、そこまで…(汗)皆から言われたものだから私も何だか意地になって「ウソの話だから、いいのです!」と返しましたが例え話でも、身近な人の「死」を口にするのはタブーのようでした。亡くなってる方は仕方ありませんが、存命の方の事はダメ。私は、ブラックユーモアで色々言う方ですが、そういう軽いノリは絶対ないですね。(後に、江蘇で似たような事を冗談で言ったら、台湾人の洪経理に、ものすごい剣幕で怒られました(><;)もう一つは。トイレでの事。普通の中学校を借りているから、トイレもそこで。夜間の一本溝(みぞ)トイレ。しゃがむと、丁度いい高さの、仕切りはありましたけど。そこで用を足し終わって、一人で手を洗っていると背後でぎ~~・・・バターーーンッッ!!!戸が閉まった(!)うわぁぁぁ~~!!!!(怖)走って教室に戻りまして(汗)「今、今、トイレで。 ドアが勝手に閉まりました!怖い~(><;」訴えると。全員、大笑い。「先生、それは風が吹きました!^▽^」「先生、何もありません!^▽^」「幽霊は、いません!^▽^」「風じゃないよ!窓閉まってたのに!(汗)」真剣に訴えれば訴えるほどワハハハハ~~~!!!(大笑い)この反応…(汗)みんな本気で笑ってるぞ・・・(~~;そして苗さんはひたすら「しぇんしぇえ(先生)、大丈夫です!大丈夫です!」 (←必死)言い聞かせる。これが噂の・・・・唯物主義(!)(~~;こんな事がチラチラとありましたね。似たような姿形でも、頭の中はやっぱり違うのね、と感じました。こんな調子で。何だかんだ言っても、社会勉強になってた日本語教師。そんなある日。私に、ちょっとした事件(←大袈裟です)が起こります。つづく。*このお話しは、1995年の上海での出来事です。 ↑ よろしければ是非、一回押してやってください。。教室では、楽しそうにやってますね私、あれ?^^;「死」のタブーについては、特に私が父親を例えに出したから、もあったと思います。彼ら、親御さんを大切にしますから。トイレで戸が閉まった時は、実は「え~~!!」って皆が一緒に怖がるノリを期待していたのに、見事に裏切られました^^;大陸の「唯物主義」は勉強していたので、実例確認したってトコですか。でも、これは何を対象にするか、また人によって差はあると思います。神様にお参りに行ったり、占いも「インチキ」と言いながらも、嫌いじゃない人いますし。幽霊に関しては今は「オカルト映画」随分入っているから多少変化はあると思いますがまあ、でも基本は「信じない」のでしょうね。…ホントに大爆笑でしたよ^^;次回話の、私に起こったちょっとした事件の話は(←事件ってほどでもない)日本じゃよくある事が起こって全く大した事ないんですが、私が何の気なしに教室で話したら大ごとに発展してしまうのです・・・(汗)扉ページ←「ホーム」をクリック!で【今日の 小日記 (何それ、と言わないで^^;)】やってます。私の日常の小ネタをチョコチョコ載せてます。そちらも是非!
2008/07/02
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