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冒頭の写真は 藤森神社の南参道の入口東角に建つ町家
です。
道路に面し、1階には格子があり、背の低い厨子二階造りで、連子格子の堅子を塗り込めた虫籠窓が見えます。京町家の風格が漂い、神社への入口として雰囲気のいい景色です。
神社境内の南側にある東西の道路を東に進むと、藤森神社に隣接して、京都教育大学のキャンパスが北側にあり、その正門があります。ここがかつての陸軍跡地の転用というのは前回触れています。深草丘陵地にあるので緩やかな坂道を上ります。
今回ご紹介する直違橋通(旧伏見街道)の東側に点在する探訪地を含む 地図1(Mapion)はこちらをご参照ください。
位置関係がご理解いただけることでしょう。
京都教育大学の東側、大亀谷の地域にさしかかるところに 「西福寺」 があります。
如意山光巌院と号する浄土宗のお寺です。光厳天皇ゆかりの寺と伝わるそうです。
上掲写真は3月のお彼岸の頃、こちらの左の写真は5月の夕方に撮ったものです。
門扉には寺紋が取り付けられています。
3月には門が開いていましたので、山門近くの境内を少時拝見しました。
本堂前の庭部分に、道標が立てられています (左)
。
大亀谷には俗に「大亀谷街道」または「八科 (やしな)
峠道」が通じています。ひょとすると、その街道のどこか三叉路に立っていた道標なのかもしれません。
写真に写る道標の正面には、冒頭に「京」とあり、「右 大ふつちおいん ・・・」「左 ・・・竹田 ・・・」という文字位を私は判別できるくらいです。右に行けば方広寺の大仏殿、知恩院に、左に行けば深草を経由して竹田へ、という道標なのでしょう。右側面には「右 いがいせ ・・・」とあります。そして、その分岐点は、伊賀上野を経て伊勢に通じる道にもなる地点だということです。
道標の背後に「鬼瓦」が置かれています。墨染寺と同様に、ここでも庭のちょっとしたアクセントになっています。地上から鬼瓦の役目を果たすべく、外敵に睨みをきかせているのかもしれません。
山門を入った境内正面に 「本堂」
があり、幅広の石畳の参道でつながっています。
本尊は阿弥陀如来像です。
「寺は文禄年間(1592-96)、豊臣秀吉が伏見城築城にあたって現在の地にうつし、寺名を西福寺とあらためたといわれ、教誉上人を中興開山としている」 (資料1)
そうです。
向拝の蟇股の装飾はシンプルなものでしたが、木鼻は象が結構彫り深く造形されています。
屋根の大棟には、左に菊花紋、右に浄土宗の宗紋が輝いていました。菊花紋は光巌天皇ゆかりの寺ということと関わっているのかもしれません。
境内の東側には、 「光厳院」と記された扁額がかけられた宝形造りのお堂
があります。手許の本を参考にすると、ここに光巌天皇の画像と位牌が安置されているお堂のようです。 境内の西端には、鞍馬石の歌碑が建立されています。
深草の野辺の雲雀 (ひばり)
よ春たたばわが墳 (つか)
の上の雲に来てなけ
作者は田中常憲 (つねのり)
という近代の歌人です。明治6年鹿児島県生まれで、晩年は当寺のほとりに閑居し、1960年享年88歳で没した人。上京して落合直文に学び、若くして教育者として各地で献身されたそうです。旧制の桃山中学校校長も歴任されたようで、伏見と縁があるようです。晩年には歌誌新月を創刊されたといいます。 (銘文碑、資料1)
名前の刻された墓石や石仏なども歌碑の横に。
光巌天皇は南北朝争乱期の北朝方の天皇で辛酸をなめる人生を過ごされたようです。伏見の大亀谷敦賀町に閑居し、禅門に帰依されたとか。晩年は現在の北桑田郡京北町にある常照寺に移り、そこで崩御されたといいます。その境内に光巌天皇の陵があります。興味深いのは、現在の宮内庁の「天皇陵」のページを見ると、歴代天皇の系譜から外れています。日本史における南北朝時代の存在が生み出した結果の一つなのでしょう。つまり歴代天皇は南朝系統の系譜でつながり現在に至っているということです。 (資料1,2)
西福寺の後、御陵にむかったのですが、その前に一つ寄り道を。
西福寺を出て、そのまま坂道を東に行けばわずかの距離で、 JR奈良線「藤森」駅
です。
駅前にはこんな彫刻像があります。5月に立ち寄ったときは、この駅経由で帰りました。
藤森神社から直違橋通を南下すれば、最寄り駅が 京阪電車の墨染駅
です。
このあたりでJRは一部の区間が谷底のようなかなり道路より低いところを通過しています。西福寺の少し先で左折し、その低い所を走る線路に沿った道路を北に進み、線路の上に架かる橋を渡り北西方向に行きます。
途中で、道路沿いにもう一軒、この町家が目にとまりました。
西福寺からまずは、仁明天皇陵に立ち寄ってみることに。 地図2(Mapion)はこちらをご覧ください。
線路を東側に越えると、大亀谷の東寺町⇒大谷町⇒東久宝寺町と北に進み、府道35号線を横切り、深草東伊達町を通り名神高速道路の南側傍まで行き、右折し東に歩きます。
御陵への入口に向かう手前に、 「京都一周トレイル」の道標
があることに気づきました。左上の長方形のところが御陵です。御陵は南面していて、周囲は空堀をめぐらせてあります。入口は名神高速道路の傍から時計回りに半周ほど回り込んで行くことになりました。
仁明 (にんみょう)
天皇深草稜
仁明天皇は850年3月に崩御。深草山の西麓に埋葬されたそうですが、その後所在不詳となったのです。江戸時代末期、この場所と決定され修治された御陵だとか。
名神高速道路の下を通り抜けると、もう一つのトレイル道標がありました。この道標を利用して東進し、次の「東山 F26」に進みます。
ここから再び北に方向を転じます。
仁明天皇陵から「深草十二帝陵」までの地図3(Mapion)はこちらをご覧ください。
地図をご覧いただくとわかりますが、深草坊町の南東角付近にある嘉祥寺の西側からJR奈良線の線路との間に御陵が位置します。
その御陵の南側の道路を西に行けば、直違橋通(旧伏見街道)に突き当たります。
深草直違橋6丁目です。南東側に京都聖母学院のキャンパスが広がっています。
南北の直違橋通に東西の道路が合流する形です。T字路を横倒しにした感じです。
その北東角近くに、旧伏見街道探訪の折りにご紹介したこの 「深草十二帝陵」という道標
が立っています。
「深草十二帝陵」 道路に面した入口
正しくは 、「深草北陵 (ふかくさのきたのみささぎ)
」
と称されます。
陵内に 法華堂 が建てられていて、鎌倉時代から室町・桃山時代にわたる12人の天皇の遺骨と、栄仁 (よしひと) 親王の遺骨が安置されているそうです。
12人の天皇の名称を列挙しますと、
後深草・伏見・後伏見・後光巌・後円融・後小松
称光・後土御門・後柏原・後奈良・正親町・後陽成
となります。
当時の時代背景が皇室の衰微に反映し、それが御陵の在り方と関係しています。土葬から火葬への変化というのも勿論、墳墓の規模に影響しているでしょう。
さらにこの御陵もまたその維持管理において衰微・荒廃・再興が繰り返してきたようです。
「江戸時代には『仙骨堂』または『御骨堂』ともよばれ、わずかに御陵の形をとどめていたが、寛文2年(1662)僧空心契沖が名刹の湮滅を歎き、安楽行院を再興して御陵の管理にあたった」といいます。明治以降に安楽行院は東山の泉涌寺に移されて、宮内庁の管理となったのです。 (資料1)
江戸時代に出版された『山州名跡誌』には、寺が東向きで、四宗兼学で洛北の般舟院に属していたこと。西向きのお堂に本尊として不動と歓喜天が祀られていたと記されています。そして「当院荒れるに就き年尚し、今の如き、現住空心法師再興する所也。草創記詳しからず」 (書き下し文にしました)
と記します。法華堂については「今安楽行院にあり、法華堂は天子御骨を収められる所也」と記しています。 (資料3)
宮内庁の「天皇陵」のページを見ると、公式には「陵形:方形堂」とし、各天皇は最初の後深草天皇との合葬と記されています。 (資料2)
御陵参道から南を望み、東側を撮ったもの
御陵の北東方向の景色
この後、いくつかの寺を巡っていきます。
まずは、上記の嘉祥寺です。
つづく
参照資料
1) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p81-84,p93
2) 天皇陵
:「宮内庁」
3) 山州名跡志 白慧 著
:「近代デジタルライブラリー」
206-207/335コマ目に安楽行院・法華堂の項目記載があります。
落合直文
:「コトバンク」
田中常憲 著作リスト
:「CiNii」
光巌天皇
:ウィキペディア
光巌天皇
:「コトバンク」
光厳天皇
:「テキスト一覧(作者別)」
常照寺
:「コトバンク」
京都一周トレイル
[京都府山岳連盟]
東山コース 伏見・深草ルート(伏見桃山駅~伏見稲荷大社・奥社=9.5km)
安楽行院
:ウィキペディア
ネットに情報を掲載された皆様に感謝!
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
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