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宝塔寺を訪ねた折り、総門から仁王門に至る参道の間に塔頭があるのですが、まずは境内の中心部と七面山の七面大明神の探訪を優先させました。
仁王門まで戻って来て、ここから 総門までの緩やかな石段参道
を下るときに、両側に立ち並ぶ塔頭を門前から眺めました。冒頭の右写真は仁王門を通り抜けてから西方向に延びる参道を撮ったものです。
冒頭写真の参道北側には白い築地塀と石段が写っています。
そこが仁王門に一番近いところで「慈雲院」です。午後4時頃になっていたためか既に閉門されていました。
築地塀越しに建物の一部が見える程度です。
参道南側をながめると、フェンスで囲われた空地になっています。
フェンスの門扉傍に、石柱が立ち、 「了性院 本久院 深信院 廃寺跡」
と記されています。
廃寺跡の西隣にある「霊光寺」の山門です。彼岸の頃でしたので幕が掛けてありました。
門前から境内を眺めると参道の両側が生垣で、真っ直ぐ先にお寺の玄関が見えます。
境内の東側には石塔が置かれています。
門前には 「日審上人御廟」
の石標が立っていますので、この寺の境内に廟所があるようです。日審上人は立本寺21世だった人だとか。
また、「さらにその奥まった墓地の一隅には、将棋の駒の形をし、『桂馬』ときざんだ将棋の名人大橋宗桂の墓や『歩兵』としるした江戸末期の棋聖天野宗歩夫妻の墓がある」 (資料1)
そうです。
参道北側は「直勝寺」です。
この寺も、門前から拝見すると参道の両側が生垣になっています。
この直勝寺とその西隣にある大雲院との間にあるのが、宝塔寺探訪記第1回目にご紹介した日像上人の 「荼毘処」
です。
荼毘処の霊蹟地の奧に建立されている御題目の石塔婆です。
その傍にこの駒札が立っています。近くで撮った写真を補足しておきます。
「大雲寺」の山門
山門の門柱には、「親子相想 日像菩薩御尊像奉安」の木札 (右)
と「深草七面山御旅所」の木札 (左)
が掛けられています。
門前から境内を拝見すると、門に近い 西側に小祠
が祀られていて、基壇正面に 「七面大明神」
と刻されています。ここが 御旅所
なのでしょう。ここの参道も両側が生垣ですが、霊光寺・直勝寺と違い生垣の高さが倍ほどです。
大雲寺の前、参道の南側は「円妙院」です。
門前から眺めた境内には四重石塔が玄関口に見えます。
総門を通り過ぎた位置から仁王門への参道の景色です。
総門に一番近い塔頭が、北側に大雲寺、南側に円妙院
ということになります。
総門
に戻ってきました。
総門の本瓦葺き屋根の 鬼瓦
棟の鬼瓦(左)と隅棟の鬼瓦(右)
いくつか補足です。まずは補足の写真から。
総門前北側に「藤裏葉の苑」の石碑が置かれ、極楽寺が源氏物語ゆかりの寺だったというご紹介を最初にしたときは、全景写真を載せただけでした。
築地塀寄りにある男女像を撮った写真
そして、こちらが 極楽寺の伽藍石 です。丸い大石の上面が四角の台形状に加工されていて、柱がここの上にのせられる礎石だったことが想像できます。
宝塔寺の境内、多宝塔の南側は広い墓地域です。そこに、儒者山本亡羊・同三宅寄斎の墓や、俗に「夫婦塚」と称され、肺病治療の名医といわれた宗有・妙正の墓があるそうです。 (資料1)
『都名所図会』を読みますと、七面社参道に建てられた鳥居に掛けられた額は「瑞光寺」の項でご紹介した元政上人の筆によると記されています。 (資料2)
最後に、宝塔寺の寺自体と寺名の変遷についてです。
藤原時平が創建した極楽寺(真言律宗)が、延慶年間(1308-11)住職良桂の代に日蓮宗に改宗したことは既に触れました。その時、日像が顕正開山となり、良桂が二世となります。この改宗により極楽寺が法華道場として改められたということは、『都名所図会』に記されています。しかし、この時寺名が「宝塔寺」に改名されたのかどうか。調べた範囲では明記した資料がなく、不詳です。この寺が日像上人の布教の拠点となり、妙顕寺の創建(1321年)に繋がって行くわけです。
日像上人が示寂され、この寺に廟所が設けられたときに、寺は 「鶴林院常寂寺」
に改名されたといいます。廟所には、日像上人が記された題目の石塔婆が安置され、遺骨がその下に納められます。日蓮・日朗の遺骨も納められたことにより、「御塔 (みとう)
」と呼ばれたのです。
一方、この寺は応仁の乱、天文の乱によって堂宇が焼亡、荒廃し、寺運が衰微したといいます。
天正18年(1590)から45年間にわたり、 8世日銀上人が再興されるに至る
そうです。そして、妙顕寺の末寺となり、上記三代の遺骨を納めた塔があることから、 寺名を「常寂寺」から「宝塔寺」に改められた
といいます。 (資料1,2,3)
この探訪では諸寺が面するこのあたりの道をを 霞谷道
としてご紹介してきましたが、 旧奈良街道(大和路)
の一部です。
この探訪中に、途中で道路沿いにこんな掲示を見ました。
「月とうずらの里」
と称されているようです。ご紹介しておきます。
この日、時間的に宝塔寺が最後の探訪地となりました。
ご一読ありがとうございます。
参照資料
1) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂
2) 『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫
3) 宝塔寺
:「コトバンク」
補遺
七面天女
:ウィキペディア
七面祠(ほこら)
通称:松ケ崎七面祠 :「京都通百科事典」
伏見深草大雲寺(宝塔寺西之大坊)の紹介
浅野和夫氏
源氏物語 藤裏葉 現代語訳
:「源氏物語の世界」(渋谷栄一著)
原文はこちらからどうぞ。
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